イザヤ42:10-25 レジュメ

「主に向かって新しい歌を歌え」             N063

Ⅰ.すべての者は主を賛美せよ(10-12) 

10節に、「主に向かって新しい歌を歌え」とある。主がすばらしい救いの御業を成されたので、その主に向かって賛美をささげるようにというのだ。それは「海に下る者、そこを渡るすべての者、島々とそこに住む者」(10b)のすべてである。おもしろいのは11節に、「荒野とその町々、ケダル人の住む村々よ。声を上げよ。セラに住む者は喜び歌え。」とあることだ。ケダル人とはアラブ人のことである。創世記25:1を見ると、彼らはイシュマエルの子孫であることがわかる。そしてその子孫がケダル人であり、イスラム教を開いたムハンマドである。詩篇120:5-7を見ると、彼らはダビデの時代にもユダヤ人と敵対関係にあった。ユダヤ人とアラブ人の対立は今に始まったことではなく、その歴史のはじめからずっと続いていたことであるが、未来においてはそうではない。未来においてはケダル人も一緒になって主を賛美するようになる。コーランの神アラーではなく、聖書の神主イエスを信じるようになり、共に主を賛美するようになる。ここにキリストの福音のすばらしさがある。福音は敵対関係にあった二つのものを新しいひとりの人に造り上げ、共に主をほめたたえるようにするのである。

Ⅱ.敵を打ち砕かれた主を賛美せよ(13-17)

いったいなぜ主を賛美するのか。それは主が敵を打ち破られたからである。「主は勇士のようにいで立ち、戦士のように激しく奮い立ち、ときの声をあげて叫び、敵に向かって威力を現す。」(13)確かに主は心優しく、へりくだっておられる方であるが、敵に対しては勇士のようにいで立ち、激しく奮い立ち、ときの声をあげて、威力を現す。そればかりではない。主は目の見えないようなイスラエルを捨てるようなことをされず、確かに道へと導いてくださる。それはイスラエル知らない、未だ経験したことのない道かもしれないが、主は母親が幼い我が子の手をとって導くように、私たちの手を取って優しく導いてくださる。であれば、このような主をどうして賛美せずにいられようか。人が造った偶像により頼むことは愚かなことだ。そのような者は必ず恥を見る。あなたのために戦ってくださる主、あなたの人生を確かな義の道に導いて下さる主を、あなたは賛美せずにはいられなくなる。

Ⅲ.罪から立ち返って主を賛美せよ(18-25)

ではどのように主を賛美したらいいのだろうか。主はイスラエルが神に心を留めず、神の御声を聞いても聞き従おうとしないイスラエルの民を見て、驚いておられる。「耳の聞こえない者たちよ、聞け。目の見えない者たちよ、目をこらして見よ。わたしのしもべほどの盲目の者が、だれかほかにいようか。わたしの送る使者のような耳の聞こえない者が、ほかにいようか。わたしに買い取られた者のような盲目の者、主のしもべのような盲目の者が、だれかほかにいようか。」(18-19)彼らは神に買い取られた神のしもべでありながら、神に心を留めることがなかった。それゆえ神はかすめ奪う者(バビロン)に彼らを渡した。その中で彼らが悔い改めて、神に立ち返り、神に赦しを求めるためにである。イスラエルがバビロンに捕らえられるようになったのは、神がそのようにしたからである。時に、私たちが受ける苦しみというのは、私たちの罪の結果もたらされるものである。だからその時には罪を悔い改め、神に立ち返らなければならない。神がさばかれたことを認め、その神に立ち返るなら、そこに希望がある。あなたを愛してやまない主が、あなたに「立ち返れ」と叫んでいるのにそこまでする必要はないと、なおもその状態に留まっていることはないだろうか。神の招きに耳を傾け、心を傾けて、神に立ち返り、主に向かって新しい歌を、その栄誉を心からほめたたえようではないか。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたは主に向かって新しい歌を歌っていますか?いくら祈っても神は沈黙されていると感じたことはありますか?そんな時でも失望せずに待つべき理由は何ですか?

・神があなたを見て残念に思われ、嘆かれるような部分があるとすればそれは何ですか?

・神の警告のメッセージを聞かずに失敗したことがありますか?間違いを顧みる時間を定期的に持っていますか。

イザヤ42:1-9 レジュメ  

「主のしもべ、イエス・キリスト」            N062

Ⅰ.神のしもべ、イエス・キリスト(1) 

1節に、「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。」とある。「わたしのしもべ」とはイエス・キリストのことである。マタイ12:18-21に、このみことばが引用されていることからわかる。イエスは神が選ばれし神のしもべであり、神のみこころにかなった救い主である。神はイエスの上にご自身の霊を注ぎ、国々に公義(神の国とその義)をもたらす。イエスが神の子であるなら、どうして神の霊に満たされる必要があったのか?それは、イエスが人となられたからである。神が人となるためには、神としての特権を捨てなければならなかった。そうでなければ、人になることはできなかったのである。もしイエスが全知全能であったなら、もはや人間ではなかったであろう。しかし、イエスは人として生まれてくださったので、私たちと同じ弱さや同じ苦しみを担われた。イエスは私たちと同じように疲れ、空腹を感じ、のどの渇きを覚えられた。それは彼が人となられたからである。しかし、イエスには神の霊が注がれていたので、神にしかできないことができた。この霊によってイエスは、神の国とその義を国々にもたらすことができたのである。

それは私たちも同じである。今日イエスを信じるクリスチャンにも同じ力が与えられる。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)この聖霊があなたの上に臨まれるとき、あなたも力を受けて、地の果てまで、キリストの証人になることができる。この力がなければただの人にすぎない。何もすることはできない。聖霊が注がれてこそ、あなたも偉大な神の働きをすることができるのである。

Ⅱ.心優しく、へりくだった神のしもべ(2-4)

いったい彼はどのようなしもべか?ここに「彼は叫ばず、声を上げず、ちまたにその声を聞かせない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない。」(2-3)とある。イエスの宣教活動は全く地味なものであった。自分自身をひけらかしたり、人々を集めて大きな伝道集会をしたわけでもない。彼はただ12人の名もない弟子たちを選び、彼らと共に生活をしながら神の国を宣べ伝えた。そこには力ある人や、裕福な人はいなかった。みな無学な普通の人であった。そのような人たちを通して御国の福音を宣べ伝えたのだ。

彼はいたんだ葦を折ることも、くすぶる燈心を消すこともなかった。葦とは風が吹けばすぐに折れてしまうような弱い植物である。まして傷ついていたんだ葦なら全く使いものにもならない。しかし、主はそんないたんだ葦さえも折ることをせず、優しく守り、支えてくれる。また、今にも消えそうで煙を出しているようなランプの芯さえも除き去ることをせず、もう一度新しくしてくださる。まことに主は、まことをもって公義をもたらされるのである。

Ⅲ.国々の光とする(5-9)

神のしもべに与えられた使命は、国々の民が主と契約を結び、彼らが救われるために光となることである。彼は目が見えない者の目を開き、牢獄に閉じこめられている者を解放する。彼は肉体的、政治的に捕らわれている人たちを解放するだけでなく霊的に捕らわれている人たちを、その罪と無知の牢獄から解放してくださる。

この預言のとおり、この預言から700年後に、神のしもべイエス・キリストが現れ、罪と無知の中に盲目となっていた人々を、その罪から救ってくださった。キリストは十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられることによって、罪というやみの中に捕らわれていた人たちを解放してくださったのである。この方以外にはだれによっても救いはない。私たちが救われるべき名としては、私たち人間には与えられていない。だから、この方に信頼し、この方にあなたのすべてをゆだねよう。たとえあなたが将来のことがわからなくても、この方はあなたの未来のことも含めてすべてのことを知っておられる。この方にすべてをゆだねることが最も懸命なことである。そのとき、神はあなたの人生にも奇しいみ業を行ってくださる。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたは、自分の無力さを感じることはありませんか?あなたは聖霊の油注ぎを求めていますか?

・2,3節に見られる主のしもべの姿を見て、あなたはどのような人になりたいと思いましたか?

・あなたは将来のことで不安になっていませんか?将来のこともすべて知っておられる主に、あなたのすべてをゆだねましょう。

イザヤ41:14-20 レジュメ 

「恐れるな。虫けらのヤコブ」               N061

Ⅰ.恐れるな。虫けらのヤコブ(14) 

主はイスラエルを「虫けらのヤコブ」と呼んだ。ヤコブとは「かかとをつかむ者」、「押しのける者」という意味である。イスラエルはまさに人を押しのけるようなずる賢く、何の価値もない、踏みつけられて終わるような存在であった。そんな虫けらのヤコブに対して主は「恐れるな」と言われた。周辺諸国に比べたら本当に少数で、弱々しい存在であっても、恐れることはない。なぜなら、主が彼らを助けてくださるからだ。「あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者」である。主が彼らを贖ってくださったので、主が彼らを助け、守ってくださるからである。

Ⅱ.新しいもろ刃の打穀機とする(15-16)

そんな虫けらのヤコブを、主は鋭いもろ刃の打穀機とすると言われた。その刃ですべての山々を踏みつけて粉々に砕く。また、丘をもみがらのようにする。ものすごい変容ぶりである。たとえ虫けらのような者でも上からの新しい恵みと力に満たされるなら、もろ刃の打穀機のようになることができる。人生には何と山の多いことか。目の前に山が塞がって前進できないことがある。しかし神は虫けらのヤコブを新しいもろ刃の打穀機のように変え、もろもろの山を、粉々に踏み砕くようにしてくださるのである。

Ⅲ.荒野に水が流れる(17-20) 

それだけではない。ここには「悩んでいる者は貧しい者が水を求めても水はなく、その舌は渇きで干からびるが、わたし、主は、彼らに答え、イスラエルの神は、彼らを見捨てない。」(17)とある。外敵から救ってくださるだけでなく、飢え渇きによる死からも救ってくださるというのだ。バビロンの捕囚となっていたイスラエルはあわれな身分であった。水を探し求めても得られず、舌が干からびるほどの渇きに苦しめられていた。しかし神は彼らに答え、その渇きを潤してくださった。主が彼らとともにおられ、彼らに答え、その渇きを完全にいやしてくださったのである。主は決して彼らを見捨てることはなさらない。

また、「わたしは、裸の丘に川を開き、平地に泉をわかせる。荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源とする。わたしは荒野の中に杉や、アカシヤ、ミルトス、オリーブの木を植え、荒地にもみの木、すずかけ、檜も共に植える。」(18-19)とある。これはバビロン捕囚によって荒れ果てたイスラエルを回復してくださるという預言である。やがてもたらされる世の終わりの千年王国において、主は文字通りイスラエルを回復してくださる。しかし驚くべきことに現在のイスラエルとみると、この預言が少しずつ成就していることがわかる。今から二千年前にローマ帝国によって離散の民となったユダヤ人は、1800年代後半から祖国エルサレムに帰還するようになり、1948年にはイスラエル共和国として国を再興した。こんなことは人間的に考えられないことである。しかし、神はみことばの約束のとおりに神の民であるユダヤ人をエルサレムに戻し、国を立ててくださった。そればかりではない。400年間も続いたオスマントルコ帝国の支配の下、アラブ人たちによって木が伐採されたためその地はまさに裸同然となったが、その地に彼らは多くの木々を植林し、緑地化に成功した。彼らがこの100年間に植林した木は2億2千万本にも上る。砂漠のように荒涼とした地に水が流れ、今では農業が盛んな国になった。そして全世界にフルーツや花などを出荷するまでになったのである。まさにこのイザヤ書の預言が成就しつつあるのを見ることができる。

そればかりではない。この新しい創造はイスラエルの土地だけでなく、荒れ果てた私たちのたましいも潤してくださる。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38)あなたもイエスのもとに行くなら、完全ないやしを得ることができる。荒野のように渇いた人生が、いつも主の恵みの泉を掘り起こす豊かな人生となるように、この方のもとに行き、絶えず恵みの水を飲み続けていく者でありたい。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたの中に、自分は虫けらのように価値のない存在でも鋭い、新しいもろ刃の打穀機のように変えられます。あなたの前にはどんな山が塞がっていますか。

・あなたのたましいは渇いていませんか。もし渇いているならイエスのもとに行って飲みましょう。あなたは神の聖霊に満たされることを求めて祈っていますか。

イザヤ41:1-13 レジュメ 

「恐れるな、たじろぐな」                N060

Ⅰ.ひとりの者(1-7) 

主はここで、諸国の民に向かって語られる。「近寄って、今、語れ。われわれは、こぞって、さばきの座に近づこう。」(1)と。これは法廷のシーンである。偶像を拝む諸国の民に対して、どちらが本物の神なのか、どちらが信じるに値する神なのかを論じ合おうではないかというのだ。まずまことに神について語られる。「だれが、ひとりの者を東から起こし、彼の行く先々で勝利を収められるのか。」(2)これは後に起こるメデイャとペルシャの連合軍の王クロスのことである。神はクロス王を起こしバビロンによって捕らえられたイスラエルを解放し、祖国エルサレムに帰還させるというのだ。「だれが、これを成し遂げたのか。わたし、主こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。」(4)このようなことはだれにもできない。ただ全能の神だけがなし得ることができる。それはやがて来られるメシヤ、救い主の型でもあった。神はクロス王を立てバビロンに捕らえられていたイスラエルを解放したように、ご自身のひとり子を立て、罪の中にあえいでいた人類を解放してくださった。人間に守ってもらうしかない無力な偶像とは訳が違う。この方こそまことの神であって、私たちが信じるに値する方なのである。

Ⅱ.わたしはあなたを選んだ(8-9)

いったいなぜ神はイスラエルを守り、助けてくださるのか?それは神がイスラエルを選び、ご自分のしもべとしてくださったからだ。しもべというと自由がなく、こき使われるというイメージがあるが、実はしもべであるということは、主人に守ってもらえる立場にあることを意味している。イスラエルは神に選ばれた神のしもべである。ゆえに神は、どんなことがあっても彼らを守ってくださる。エペソ1:3-5には、私たちクリスチャンも神に選ばれた存在であることがわかる。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくだった。神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされた。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらがしめ定めておられた。私たちは神に選ばれた神のしもべなのである。時々私たちは神に捨てられたのではないかと感じる時があるが、実はそうではなく、そのように感じる時でも神は私たちの苦しみを担っておられ、私たちを一歩一歩導いておられるのである。神は私たちを選んでご自分のしもべとしてくださったので、どんなことがあっても私たちを捨てるようなことはなさらない。

Ⅲ.恐れるな、たじろぐな(10-13) 

だから、恐れてはならない。たじろいてはならない。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(10)神があなたとともにいてくださる。この神は人が造った、人によってかたどられた神ではない。この神は全宇宙を造られた創造主なる神である。この方があなたとともにいてあなたを守り、支えてくださるのなら、何も恐れることはない。また、神はあなたの神である。ただの神ではない。あなたと個人的に関わってくださる神なのである。そして神は義の右の手であなたを守ってくださる。「義の右の手」とは勝利の手である。神は必ずあなたを守り、あなたに勝利をもたらしてくださる。もしあなたに対していきり立つ者があれば、そのような者は必ず恥を見、はずかしめを受けるようになる。あなたと争うような者は、何も無い者のようになる。なぜなら、あなたの神である主が、その義の右の手で、あなたを守ってくださるからだ。だから、たとえ死の陰の谷を歩くことがあっても、わざわいを恐れることはない。職を失うことがあっても、苦難が訪れ苦しみのただ中に置かれるようなことがあっても、家族に背を向けられても、友人に裏切られるようなことがあっても、何も恐れることはない。神があなたとともにいてくださるからだ。主がともにおられるなら、明日はこわくない。明日のことで心配することは全くないのだ。必要なのはただこれを信じる信仰である。この確信があるとき、あなたも勇気をもって前進していくことができる。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたが今、恐れていることはどんなことですか?その原因はどこにあると思いますか?その恐れを克復するために必要なことはどんなことでしょうか?

イザヤ40:27-31 レジュメ

「鷲のように翼をかって」                N059

Ⅰ.イスラエルの不満(27) 

イザヤは、主は天地を創造された偉大な神であるということを語ったが、ユダの民は「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごされている。」(27)とつぶやいた。いったいなぜ彼らはこのように不平不満をもらしたのだろうか?それはバビロンに捕らわれていた中で一向に改善しない現実を見て、自分たちが神から見捨てられているのではないかという思い(拒絶感)があったからである。神は自分のことに何の関心も持っていなければ、何の思いも寄せていないと思ったのだ。それは彼らの不信仰から出たことであった。40:1には「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とある。主は彼らを「わたしの民」と呼んでくださった。であれば彼らから隠れたり、見過ごしにされたりすることは絶対にない。神が私たちの人生に絶望と思われるような状況を起こされるのは、そうした状況の中で自分たちの弱さを認め、神だけが助けであることを待ち望むようにするためである。イスラエルがバビロンの捕囚となったのも決して無意味なことではなかった。その背後にあってすべてを支配しておられる神が、彼らの益のために導いてくださったことだった。ゆえに私たちは自分の置かれた状況を見て嘆いたり、つぶやいたりしてはならない。創造主なる神を見上げ、神が最善に導いてくださると信じて、神を待ち望まなければならない。神の創造の御手が及ばないところはない。

Ⅱ.主は永遠の神(28-29)

イザヤは、そのような不平不満をもらすイスラエルに対して、神がどのような方であるかを思い起こさせている。彼らの問題は、神がどのような方であるかを忘れていたことである。神の偉大さを知れば、自ずと問題も解決する。「あなたがたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。」(28)まず第一に、主は永遠の神である。主は永遠の昔から、永遠の先まで存在しておられる。神にははじまりも終わりもない。神にとっては常に「今」なのである。神は永遠に存在しておられるのでいつも私たちのことを覚え、助けることができる。第二に、主は地の果てまで創造された方である。すべてのものはこの方によって造られた。造られたものでこの方によらずにできたものは一つもない。この方は地の果てまで創造された全能の神なのである。その全能の力をもって私たちを助けてくださる。私たちが抱えている問題がたとえ天地がひっくり返るような大きな問題のように見えても、この方にとっては何でもないことなのである。第三に、神は疲れたり、たゆんだりすることがない。神の御力は無限であって、疲れた者、精力のない者にその無限の力を注いでくださる。第四に、その英知は測り知れない。主は正しい知恵と理解力によって、物事を正しく見分けることができる。どんな難しい状況でも完璧に理解しておられ、私たちが置かれている状況も正しく把握しておられる。この神を見るなら、私たちの不平や不満はすぐにどこかに吹っ飛んでしまうだろう。大切なのは、神はどのようなお方なのかを知り、そこに信仰を寄せることである。

Ⅲ.主を待ち望め(30-31) 

だから、主を待ち望まなければならない。「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(30-31)主を待ち望むとは、力をくださる方に完全に頼ることである。その力の源こそ神である。力の源であられる主に自分を結びつけるとき、新しい力を受けて歩むことができる。イエスは言われた。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)もしイエスのもとに行くなら、イエスにつながるなら、あなたは安らぎを得ることができる。イエスがあなたに無限の力を注いでくださるので、どんなストレスがあっても疲れることなく、たゆむことなく、鷲のように翼をかって上ることができる。鷲は雀のように羽をバタバタさせたりはしない。上昇気流に乗って一気に空高く舞い上がると、あとは悠々と飛ぶことができる。上昇気流に乗れば、自分の力以上の所まで上ることができる。それが主を待ち望む者の姿である。主を待ち望む者はバタバタしたり、焦ったりせず、また慌てたりせず、主がどのような方なのかを覚え、その主の力に信頼して、主にすべてをゆだねる。聖霊の上昇気流に乗って、聖霊の風を受けて、高く上っていく。そのような人は走ってもたゆまず、歩いても疲れることがない。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたの中に、自分は神から見捨てられているという思いはありませんか。あなたは神をどのような方だと聞いていましたか?

・あなたは疲れていませんか。たゆんでいませんか。もし疲れているとしたら、その原因はどこにあると思いますか?主を待ち望むために、あなたに必要なことは何ですか?

イザヤ40:9-26 レジュメ  

「見よ、あなたがたの神を」               N058

Ⅰ.力ある神(10-11) 

40章からイスラエルに対する慰めのメッセージが語られている。いったい何が慰めなのか。神ご自身を見上げることである。神がどれほど力強く、あわれみ深い方なのかを知るなら、あなたは慰めを受ける。「見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。」(10)。そればかりではない。「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」(11)。主の御腕はすべてを統べ治める力強い御腕であると同時に、子羊を引き寄せ、そのふところに抱き寄せてくださる優しい御腕でもあるのだ。私たちの人生には失敗や失望があり、望みがなくなってしまう時があるが、そのような時でも「永遠の腕が下に」(申命記32:27)にあることはどんなに心強いことか。私たちの主はこのような方であることを覚えるとき、私たちは慰めを受ける。

Ⅱ.創造主なる神(12-17)

第二に、あなたの神は創造者なる神である。「だれが、手のひらで水を量り、手の幅で天を推し量り、地のちりを枡に盛り、山をてんびんで量り、丘をはかりで量ったのか。」(12)だれもこの地球にある水を量ることなどできない。ましてこの巨大な宇宙を量ることも、この地球にどれだけの土や砂があるのかを量ることなどできないのである。しかし神は、そうしたものを手のひらに乗せることができる。手の幅に収めることができる。なぜなら、この方は創造者なる神であるからだ。たとえあなたの抱えている問題が山のように大きくても、あるいは巨大な宇宙のように広がっているようでも、神の目から見たら本当にちっぽけなものにすぎない。そのすべての問題は神の御手の中にすっぽりと収まってしまう。神はそれほどパワフルな方である。それがあなたの神なのである。

Ⅲ.比類なき神(18-26) 

第三に、この方は比類なき神である。「あなたがたは、神をだれになぞらえ、神をどんな似姿に似せようとするのか。」(18)。愚かにも人間は、鋳物に金をかぶせ、銀の飾りを作って、いかにもそれが神々しい神であるかのようにする。樹齢何百年という太い杉の木にしめ縄をして、それが神だと本気で拝んだりしている。家内安全、無病息災、商売繁盛と書かれた紙の札が自分を守ってくれると思って大切に拝んでいるのだ。しかし、そんなものはただの紙きれであり、木であり、金属にすぎない。それはただ人間が作ったものにすぎないのだ。そんなものに天地を造られた真の神をなぞらえたり、比べたりすることはできない。この方は地の基を置かれ、天を薄絹のように引き延ばされた方だから。この方はだれとも比べることができない比類なきお方なのである。

それゆえにあなたは、「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見」(26)なければならない。あなたの人生にどれほど大きな危険や困難があっても、あなたを愛し、あなたを守っておられる方の御腕は限りなく太くて、大きい。この方は天地を造られた創造者なる神である。この神があなたとともにおられ、その義の右の手であなたを守ってくださる。それを知ることが真の慰めなのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!)

・目の前の問題のために右往左往していませんか。問題をどのように解決しようとしていましたか。

・偉大な神を見上げることを妨げているものは何ですか。

イザヤ40:1-8 レジュメ 

「慰めのメッセージ」                  N057

Ⅰ.慰めよ 慰めよ(1-2) 

イザヤ書はここから後半部分が始まる。前半はイスラエルに対する主のさばきが語られていたが、後半からは雰囲気がガラッと変わりイスラエルに対する慰めと希望が語られる。その慰めのメッセージとはどのようなものか?「その労苦は終わり、その咎は贖われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」(2)いうものである。「労苦」と訳された言葉は「戦い」とも訳される言葉である。戦いのような毎日だった生活が終わり、その咎が報われるときがやって来る。ここには「二倍のものを主から受ける」とある。これは「折り重ねる」という言葉から来ている。支払いが終わった借金の明細が半分に折られ顧客のドアにピンで留めることである。半分と半分がちょうど対応するように罪に対する償いが完全に支払われたことを意味している。これまであなたを責め立てていた債務証書は完全に無効にされた。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘付けにされたのである。キリストは十字架で死なれる時「テテレスタイ」と言われた。意味は「完了した」である。あなたの罪に対する負債は完済された。あなたはもう罪に悩む必要はない。ここにはその罪の赦しの豊かさが語られているのである。これはグッド・ニュースではないか。これが慰めのメッセージなのである。

Ⅱ.荒野で呼ばわる者の声(3-5)

罪赦された者は、主の道を整えなければならない。これは主が通られる道である。かつて王が旅する時にはその行く先々に先遣隊を遣わし、道を整えた。道幅が広げられ、すべての谷は埋められ、山や丘は削られて低くされ、平らにされた。あなたを罪から救ってくださった王の王、主の主であられるイエスが、エルサレムに来られる。あなたの道は整えられているだろうか。劣等感や自己憐憫、敗北感といった思いで谷底のように沈んではいないだろうか。あるいは、プライドや傲慢といった山や丘で高くなっていないだろうか。もしそうであるなら谷は埋められ、山は削られて平らにしなければならない。

ところで、この「荒野に呼ばわる者の声」は、新約聖書でも引用されている。それはバプテスマのヨハネのことだ。彼はイエスが生まれる半年前に現れ、悔い改めのバプテスマを説いた。その風貌とメッセージはまさに旧約聖書の預言者そのもので、人々は彼こそキリストではないかと思ったが、ヨハネは「私は、預言者イザヤが言ったように「主の道をまっすぐにせよ」と荒野で叫んでいる声です。」(ヨハネ1:23)と答えた。それがヨハネのミニストリーであった。そしてそれは私たちのミニストリーでもある。私たちはヨハネと同じように荒野で叫ぶ者の声でなければならない。声は自分を見せたり、何か派手なことをする必要はない。ただイエスのことを分かち合えばいいのだ。しかしイエスは、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」(マタイ11:11)と言われた。もしあなたが荒野の声になるなら、あなたも偉大な者になることができる。荒野の声となって再び来られるイエスのために心を整えるなら、あなたもイエスからすぐれた者と言っていただけるのである。

Ⅲ.神のことばは永遠に立つ(6-8) 

第三の慰めのメッセージは、「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。」(6)ということである。いったいなぜこれが慰めのメッセージなのか。なぜなら、この現実をしっかりと受け止め、それを額面通りに受け止めるなら、あなたはその先のものを求め、そこに希望を置いて生きるようになるからである。多くの人たちは草や花なのに、いつまでもゴージャスな花を咲かせようと躍起になっている。健康を保とうとあれやこれやと走り回り、疲れ果てている。もちろん、健康を管理することは大切なことである。美に関心を払わないで汚い格好で一日過ごせと言っているのではない。そういうことに気を配ることは大切なことであるが、そうしたことにあまりにも気がとらわれていると、祝福を失ってしまうことになる。「エントロピーの法則」という宇宙の法則がある。これは形あるものは崩れるというものであるが、世と世にあるものはすべて滅んでいく。だから、そのようなものにばかりとらわれていると、そのようなものに人生のすべてをかけているとしたら、虚しい結果に終わってしまうことになる。そうしたものによっては決して慰めを得ることはできないのだ。

しかし、ここに永遠に変わらないものがある。それは神と神のことばである。もしあなたが変わることがない神のことばに信頼して生きるなら、決して失望することはない。主イエスは言われた。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)あなたは絶対に見捨てられたり、見放されたりすることはない。主は約束をたがえることはないからだ。この神のことばに信頼して歩んで欲しい。そこに真の慰めがあるのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!)

・あなたはまだ自分の罪で悩んでいませんか。あなたの労苦は終わり、咎は償われたと信じていますか。

・あなたの心は再び来られる主イエスのために整えられていますか。あなたの心の道は谷にように低くなっていますか。それとも山や丘のように高くなっていますか。考えてみましょう。

・あなたは目に見えるものに躍起になってはいませんか。あなたの人生で大切にしているものは何ですか。

イザヤ39:1-8 レジュメ

「主のことばはありがたい」                        N056

Ⅰ.高慢になったヒゼキヤ(1-4) 

前半のクライマックスの部分である。ヒゼキヤが病気から回復すると、バビロンの王メロダク・バルアダンは使者を遣わし、手紙と贈り物をヒゼキヤに届けた。するとヒゼキヤはそれを喜び、宝庫、銀、金、香料、高価な油、またいっさいの武器庫に至まで、すべての物を彼らに見せた。ヒゼキヤが見せなかった物は一つもなかった。このことが原因で、やがて南ユダ王国はバビロンによって滅ぼされてしまうことになる。15年も寿命を延ばしてもらったヒゼキヤだったが、彼はその15年の間に、取り返してのつかない過ちを犯してしまった。いたいなぜ彼はこのような愚かなことをしてしまったのだろうか。それは、彼の心が高ぶったからである。彼は自分の富と力を誇りたかった。彼がほんとうに見せなければならなかったのは生きて働かれる主の御業だったのに、バビロンの王から贈られた贈り物を見て興奮し、自分の権力と、自分の栄華を誇示してしまったのである。

人は往々にしてこのような傾向がある。神の恵みに感謝するよりも、自分を誇示しがちなのである。病気がいやされたり、家庭が崩壊の危機から回復したりすると主の恵みに感謝するよりも、自分の手柄を誇ろうとする。ヒゼキヤはアッシリヤの王たちの脅迫によって信仰が弱くなるのではないかという危険があったが、本当の危険はそうした困難に勝利した後にもたらされる人からの称賛という甘い蜜であった。「ですから、立っていると思う物は、倒れないように気をつけなさい。」(Iコリント10:13)いつも慎み深く、謙遜でなければならない。

Ⅱ.すべてがバビロンへ(5-7)

このヒゼキヤの過ちよって、主はイザヤを通して語られた。「見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる。」(5)これは、この時から115年後のB.C.586年に起こるバビロン捕囚の預言である。バビロンの王ネブカデネザルによってエルサレムは陥落し、そこにあったすべてのものが略奪され、エルサレムの人たちはバビロンへと連行される。それはヒゼキヤが神ではなく自分の栄光を求めたからである。もし彼が神に信頼し、神に助けを求めたのであれば、エルサレムが滅ぼされることはなかった。しかし、彼は神ではなく自分のことしか考えなかったので、神はエルサレムにあったすべてのものをバビロンへ運び去ったのである。

Ⅲ.それでもあきらめないで(8) 

しかし、それですべてが終わりではない。ヒゼキヤはイザヤが語ったことばに対して、「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい。」と言った。彼はこの神のさばきを招くようになったのは自分のせいであることを認め、その高ぶりを捨ててへりくだった(Ⅱ歴代32:26)のである。それで主の怒りはヒゼキヤの時代には彼らの上に臨まなかった。ヒゼキヤはそうした失敗からも学び、それを悔い改めてへりくだった。それがこのヒゼキヤのことばに現れているのである。かつての彼はそうではなかった。彼が39歳の時死の宣告を受けた時は、「死にたくない。死にたくない」の一点張りだった。すべてがみこころのままにとは言えなかったのである。ところがこの時は、たとえそれが神のさばきの宣告であっても、「主のことばはありがたい。」と受け入れることができた。それは彼が失敗を通して学んだからである。すべてが神の恵みである・・・と。神のみこころがベストであり、それに従うことが最大の祝福なのだ・・・と。だから、このように言うことができたのである。

年を取ってからでも罪を犯すことがある。人生の晩年を迎えても過ちを犯し、神のさばきを招くことがある。けれども、大切なのはそこから学ぶことである。神は、私たちがもう一度信仰に立つことができるようにチャンスを与えてくださる。だからあきらめないで、主にすがっていただきたい。私たちは何歳になっても「工事中」である。しかし、主はそのような者を変えてくださり、やがて完全にし、堅くし、強くしてくださる。その神の約束に信頼し、何度でも立ち上がらせていただきたい。その結果が、「主のことばはありがたい。」なのである。生きることはキリスト。死ぬこともまた益なり。それは失敗から学んだ人の確信であり、ヒゼキヤの信仰だったのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!)

・大きな喜びの後に軽率な行動で苦しみを招いたことがありますか?

・ヒゼキヤは自分の失敗を通して、「すべてはき主の恵み」と受け止めることができるようになりました。あなたがなかなか受け入れられないで苦しんでいることは何ですか?あなたがすべてを神にゆだねるために必要なことは何ですか?

イザヤ38:9-22 レジュメ

「生と死を支えるもの」                         N055

Ⅰ.ヒゼキヤの嘆き(10-16) 

ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた時、涙を流して必死に祈った。その結果、主はヒゼキヤをあわれんでその病をいやしてくださった。その病気から回復したとき、彼はそのことを思い出して言った。「私は言った。私は生涯の半ばで、よみの門に入る。私は、私の残りの年を失ってしまった。」(10)まさに人生で一番脂がのった時に死の宣告を受けた彼は、自分のみじめさを嘆いたのである。いったいなぜ彼はこんなにも落ち込んだのか?それは、復活の希望がぼんやりしていたからである。確かに旧約の時代にも復活についての言及はあった(詩篇49:15,ダニエル12:2)が、あまりはっきりしていなかった。それがはっきりしたのはいつかというと、イエス・キリストが来られて十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられた時である。イエスが死ら復活したので、この方を信じる者はみな死んでも復活して永遠のいのちが与えられることがわかった(Ⅱコリント5:1)。このことを信じている私たちは、たとえ死に直面するようなことがあっても神に感謝することができる。たとえ心が騒ぐようなことがあっても揺るがされることなく、堅く信仰に立って、いつも主のみわざに励むことができる。結局のところ、私たちの生と死を支えるものは、この十字架と復活の信仰なのである。

 Ⅱ.ヒゼキヤの賛美(17-20)

このように十字架と復活の信仰を持っている者は、主への賛美と感謝に溢れている。「ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。」(17)と言うことができる。それが主の摂理と主権によって行われたことであり、それは神のすばらしさを学ぶレッスンだったと受け止めることができるのである。

9歳で集団赤痢にかかり、それが原因で脳性マヒになった水野源三さんは、生涯首から下が全く動かず、瞬きだけで自分の意志を伝えた。12歳の時に聖書に触れ、13歳で洗礼に導かれ、47歳で天国に召されるまで、瞬きだけで詩を書いた。その詩の中に「キリストを知るため」という詩がある。

「病に倒れたその時には 涙を流して悲しんだが  霊の病いやしたもうキリストを知るためだとわかり  喜びと感謝に変わりました

友にそむかれた時には  夜も眠れずに恨んだが  永遠に変わらない友なる  キリストを知るためだとわか

り喜びと感謝に変わりました  過ち犯したその時には  心を乱して悔やんだが すべてをば償いたもう

キリストを知るためだとわかり 喜びと感謝に変わりました」

すべてはキリストを知るためであったとわかるとき、私たちの心にも神への感謝と賛美が溢れる。あなたのためにひとり子イエス・キリストのいのちさえも惜しまずにささげてくださった神は、あなたのために働いてあなたを救ってくださる。その信仰があなたを支え、あなたを賛美と感謝の生涯へと導いてくれるのである。

Ⅲ.いやすのは神(21-22) 

主はヒゼキヤの信仰に答え、彼の病を癒してくださった。「イザヤは言った。ひとかたまりの干しいちじくを持って来させ、腫物の上に塗りつけなさい。そうすれば直ります。」(21)ヒゼキヤの病気をいやすために、主は干しいちじくを用いられた。主が全能者であられるならば、わざわざこのような方法を用いなくてもいやすことができはずなのに、主はあえていちじくを持って来させ、それを腫物の上に塗りつけるようにさせたのはどうしてか?それは、ヒゼキヤから信仰を引き出すためである。聖書を見ると、主はたびたびこのような方法を用いていやしておられる。どのような方法を用いるかは実にさまざまであるが、忘れてはならないことはどのような方法を用いるにせよ、いやされるのは神であるということだ。医学が人をいやすのではない。薬が人をいやすのでもない。いやされるのは主である。主はある時には医療を用いて、またある時はぶどう酒を用いていやされることがあるが、いやされるのは主ご自身なのであって、この方がいやしてくださると信じて祈ることが重要である。

まとめ(自分に適用してみましょう!)

・あなたは復活の希望を持っていますか?あなたはキリストの贖いによって救われていますか?

・あなたは今どんなことで苦しんでいますか?その苦しみをあなたはどのように受け止めていましたか?それがキリストを知るためであったと受け止め、感謝していますか?

・あなたは、主がどんな病も癒すことができると信じていますか?あなたはその主に何を求めますか?

イザヤ38:1-8 レジュメ

「祈りは壁を突き破る」                         N054

Ⅰ.あなたの家を整理せよ(1) 

エルサレムがアッシリヤに包囲されていたころ、ユダの王ヒゼキヤはもう一つ深刻な問題を抱えていた。病気で死にかけていたのである。そして、預言者イザヤを通して死の宣告を受けた。「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。」(1)ヒゼキヤにとってどんなにショックなことであったか。自分の肉体が試練を受けるということは、外側から来る試練よりも辛いものがある。しかし、神を信じる者にとって絶望はない。むしろそのような時こそ神の栄光が現される時でもある。本当の絶望とは試練に襲われることではなく祈れないこと。もし祈る信仰が残されているなら、そこにはまだ希望がある。

 Ⅱ.壁に向かって祈ったヒゼキヤ(2-3)

死の宣告を受けたヒゼキヤはどうしたであろうか?彼は顔を壁に向けて祈った。それは彼の置かれていた状況が八方塞がりのようだったからであり、神以外のものには目を向けないという信仰の決断からであった。彼は立ち上がり、神のもとに行き、神のあわれみを求めて泣きながら祈った。これこそ、困難に直面するときに私たちが取らなければならない態度である。私たちの人生にもヒゼキヤと同じような試練が襲ってくることがある。しかし、そのことで振り回されていたら、激しい絶望にうちひしがれ、立ち上がることができなくなってしまう。そういう時こそ神を見上げなければならない。顔を神に向け、神に信頼して、集中して祈らなければならない。ヒゼキヤは、「ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行ってきたことを。」(3)と祈った。自分がどんなに不完全な者で、すねに傷を持っているような者であっても、神はご自身が約束してくださったその契約のゆえにあわれんでくださる方であると信じて祈らなければならない。

日本人の宗教観にはどこか「こんなことをしたら罰があたる」とか、「あんなことをしたから呪われる」といったものがある。しかし、聖書の神はあわれみ深く、恵み深い方である。無限に私たちを愛し、私たちを絶対に退けることはなさらない。神は無限の恩寵者であって、だれが忘れても決して私たちを忘れることはしない方である。そう信じて祈らなければならない。

Ⅲ.わたしはあなたの祈りを聞いた(4-8) 

ヒゼキヤが涙をもって祈った結果、どうなったか?イザヤを通して神のことばが告げられた。「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう15年を加えよう。わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、この町を守る。これがあなたへのしるしです。・・・・見よ。わたしは、アハズの日時計におりた時計の影を、10度あとに戻す。」(5-8)神はヒゼキヤの祈りを聞かれ、その涙を見られ、彼の寿命を15年延ばすと言われた。そればかりではなく、彼が祈らなかったことまで、つまり、アッシリヤの手から彼とエルサレムを救い出すと語られた。そして、それが必ず成就するしるしまで与えてくださった。

何とすばらしいことか。神は涙をもって切に祈る祈りに必ず答えられる。このような祈りは神の心を動かす。そして、それまで八方塞がりだった壁に希望の扉を開くのである。だから、どんな試練が襲ってきてもあきらめたり、絶望してはいけない。そのようなときにあなたがすべきことは、ヒゼキヤのように祈ることである。神のあわれみにすがって祈ればいい。そうすれば主は答えてくださる。そのような祈りは絶望の壁を突き破るのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!)

・いまあなたが苦難の中にいるなら、あなたはどのように祈るべきでしょうか?

・あなたは神に対してどのようなイメージを持っていますか?神はあなたの父であると信じて、あわれんでくださると信じて、幼子のように、ありのままに、すべてをゆだねて祈りましょう。