ローマ人への手紙9章25~33節 「神のみこころは必ず実現する」

きょうは、「神のみこころは必ず実現する」というタイトルでお話したいと思います。私たちは物事を考えるとき、いつも自己中心的に考える傾向があります。その典型的なものは写真を観る時ではないでしょうか。一枚の写真に何人か写っていて、その写真が良い写真か悪い写真か判断するとき何によって判断するかというと、大抵の場合は自分がどのように写っているかで判断します。たとえ全体として良く写っていても、自分が良く写っていなければ、それはその人にとって良い写真にはならないのです。しかし、このような目で信仰を考えようとすると、ことごとく行きづまってしまい、こっちに行ってはぶつかり、あっちに行ってもぶつかり、結局いつまでたっても何も変わらないということになりかねません。大切なのは神様の目を通して物事を見ることです。

パウロは、同胞イスラエルの救いを考えると心に痛みがあり、悲しみがありました。彼らは神様によって選ばれた民であるにもかかわらず、イエス様を救い主として信じようとせず拒絶していたからです。いったい神のみことばが無効になってしまったのでしょうか。イスラエルは神の救いから漏れてしまったのでしょうか。そうではありません。事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。神様の一方的な恵みによってある人が救われるように定められているのです。今彼らがなかなか信じようとしないでいるのはそこに何らかの神様のご計画があるからあって、決して神様のみことばが無効になったわけではないのです。では、その神様のご計画とはどんなことなのでしょうか。パウロはイスラエルの救いについて祈っている中で、しだいに神様のみこころに目が開かれていくのです。それは、異邦人が救われて神の民として加えられ、残りの民であるイスラエルとともに新しいイスラエルが形成されるということでした。神様のみこころは、人間の思いをはるかに越えて、大きな歴史の中で実現していくのだということに気づいたのです。

きょうは、この神のみこころがどのように実現していくのかということについて、三つのことをお話したいと思います。まず第一のことは、異邦人に対する神のみこころです。第二のことは、イスラエルに対する神様のみこころです。彼らはなかなか信じないでいるようですが、神様はそのような中にも残りの民を用意しておられ、彼らを通してイスラエルを救おうと計画しておられるのです。ですから第三のことは、主に信頼しましょうということです。主に信頼する者は、失望させられることはありません。大切なのは、神の御国の視点で全体を見ていくことなのです。

Ⅰ.神の民でなかった者が神の民となる(25-26)

まず最初に、異邦人の救いに関する神のみこころから見ていきましょう。25節と26節をご覧ください。

「それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。『あなたがたは、わたしの民ではない』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。」

イスラエルの歴史は、神の選びの歴史です。神様は当然滅んでもおかしくないような彼らを豊かな寛容をもって忍耐してくださり、あわれみの器としてくださいました。しかし、それはユダヤ人だけではありません。異邦人も同じことです。人はみな生まれながらに罪を持っており、その罪のために滅ぼされてもおかしくない者なのに、あわれみ豊かな神様はユダヤ人の中からだけでなく異邦人の中からも、つまり世界の中からあわれみによって救い出してくださったのです。それはホセア書に次のように書かれてあるとおりです。

「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。『あなたがたは、わたしの民ではない』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。」

ホセアは、神様から自分を裏切る女性と結婚するように命じられました。そのとおりに結婚して子どもが与えられると、その女性は他の別の男の所に行き、その男と一緒に家を出て行きました。しかし、現実の生活はそんなに甘くはありません。ホセアを裏切って家を出て行ったその女性はやがて行きづまり、生活が苦しくなり、奴隷の状態に陥ってしまったのです。そのときホセアに再び神からみことばがありました。あの女の所に行くように。そして、夫に愛されていながら貫通している女を愛しなさい、と。そこで彼は銀15シェケルと大麦1ホメル半で彼女を買い戻し、奴隷の状態から救い出し、もう一度自分の所に連れて帰り、自由にしたのです。それはまさに神様とイスラエルの関係を表していました。神様によって選ばれ、神様の民として愛されていたイスラエルは、神に背き、アッシリヤやバビロン、エジプトの神々を拝むことによって罪を犯しました。霊的姦淫です。もう神の民とは呼ばれない、神に捨てられた民だったのです。しかし、あわれみ豊かな神様は一方的なあわれみによって買い戻してくださいました。神の民でなかった彼らが、もう一度神の民と呼ばれるようになったのです。パウロはこれをイスラエルではなく異邦人が救われるという意味にあてはめました。すなわち、神の民でなかった異邦人が神の民と呼ばれるようになるということです。

パウロはなぜこのホセア書の預言を引用したのでしょうか?それは、神様のみこころがこのような形で実現しているということを示すためでした。彼にとってイスラエルがキリストを受け入れないということは大きな痛み、悲しみでした。神によって選ばれたはずのユダヤ人がどうして信じようとしないのかなかなか理解できませんでした。そんな中で彼はその意味がわかったのです。それは、神のみこころは、単にイスラエルが救われるというだけでなく、その恵みが異邦人にも及ぶようになり、そうして全世界が救われるようになるということです。彼の理解をはるかに超えた形で実現していくということがわかったのです。

私たちは毎日の生活の中で、なぜこのようなことがあるのかとわからなくて悩み苦しむことがあります。しかし、神のみこころは私たちの思いをはるかに越え、大きな歴史の流れの中で実現していくのです。

地方ですばらしい教会形成をしておられる牧師さんがこんな経験をされました。会堂建設に取り組んでいた際に、思わぬ出来事に直面したのです。新会堂を思い描き、着々と準備を重ねてきた計画が、いざ決断の場面に至ったとき、僅差で否決されてしまったというのです。その時のショックたるやいかばかりであったかと想像します。ところが、です。結論から言えば、それがかえって良かったというのです。再び計画を練り直し、再提案して承認されてみると、以前は閉ざされていたかに見えた駐車場やその他の課題が、不思議なように良い方向に転じていたというのです。    私たちの人生は、初めて訪れる場所に列車で行く旅のようなものです。目の前に現れる光景はいつも真新しいものばかりです。しかし、一寸先も見えないのでこの先に何が現れるのかわからなくて不安になることがあります。しかし、神様の目線から眺め下ろせば、山あり谷あり、踏切あり、トンネルあり、すべてが見渡せます。大切なことは、そのすべての事が主の御手の中にあり、そこに主のまなざしが注がれているという事実です。人生の道のりは、往々にして私たちの想定外ですが、それらの想定外の出来事の背後に主がおられることを信じ、そうした主の目線で見ていくことです。

Ⅱ.残された者(27-29)

次に27~29節に注目してみましょう。次にパウロは、イスラエルの救いについて語ります。

「また、イスラエルについては、イザヤがこう叫んでいます。「たといイスラエルの子どもたちの数は、海べの砂のようであっても、救われるのは、残された者である。主は、みことばを完全に、しかも敏速に、地上に成し遂げられる。」また、イザヤがこう預言したとおりです。「もし万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったら、私たちはソドムのようになり、ゴモラと同じものとされたであろう。」

ここでパウロはイザヤ書から二つのみことばを引用しています。一つは、27節のみことばです。これはイザヤ書10章22~23節のみことばの引用ですが、このみことばが示していることは、たといイスラエルが海辺の砂のようにたくさんであっても、救われるのはほんの少数の残りの者であるということです。もう一つの29節のみことばは、これもイザヤ書1章9節のみことばからの引用です。ここにはアッシリヤによる国土の荒廃することの預言ですが、そのような中にあっても万軍の主が、私たちに子孫を残されるというのです。この二つの預言に共通している思想、テーマは何でしょうか?それは「残された者」です。つまり、イスラエルは捨てられてしまったかのようであってもそうではないということです。この「残りの民」によって、やがて救われるようにしてくださるというのです。それが神様のご計画だったのです。神様の選びと召命は変わることはないからです。このことを、神学者たちは何と言っているかというと、「残りの民の思想」と言っています。

これは11章でもっと具体的に語られていきますが、簡単に言うと、神様の約束は全体ではなく、少数の残りの民によって実現されるというものです。神様は少数の残りの民をとおしてみわざをなさり、彼らを通して救済史を押し進められるのです。聖書を見ると、この「残りの民の思想」は、神様のみわざが現される時にみられる原則であることがわかります。たとえば、イスラエルの民はカナンの地を偵察するのに、十二人の偵察隊を送りました。その内十人は悲観的な報告をして不信仰に陥りましたが、一方、ヨシュアとカレブの二人だけが「彼らは私たちのえじきです。戦って勝ち取りましょう!」と言いました。神様は残りの民であるヨシュアとカレブを通して働かれたのです。この「残りの民」を通して神様は約束を成就し、祝福を注いでくださるのです。それはイスラエルの救いも同じです。神様はイスラエルを捨てられたのでしょうか?そうではありません。神様はこの少数の「残りの民」を通してイスラエルを救おうと計画しておられたのです。

私たちはこのみことばから、一つの真理を見いだすことができます。それは、「残りの民」は必ずいるということです。世の終わりの日まで、主が来られる日まで信仰を堅く守り、神様の御前に従う約束の民は必ずいるのです。どんなに大きな迫害や、苦しい状況があったとしても、神様の恵みによって必ず「残りの民」は保たれているのです。ノアの時代はどうだったでしょうか。その時代の人々はその心に計ることがみな、いつも悪いことばかりで、腐敗していました。けれども神様はその中に、ご自身とともに歩む義人ノアを残しておられました。

中国が共産化したのは1949年のことです。それ以前の中国には西洋からのたくさんの宣教師たちがいて、福音を伝えていました。多くの中国人がイエス・キリストを信じましたが、共産党が政権を取ると、それまでは約六十万人くらいいたと言われていたクリスチャンが、1949年以降はそのほとんどが根こそぎ引き抜かれてしまいました。毛沢東の文化大革命時には農村をしらみつぶしに調べ、クリスチャンを無理矢理に監獄に入れました。文化大革命によって、中国の教会は地上から抹殺されてしまったと思われたほどです。  しかし今、中国には少なくても六千万人以上のクリスチャンがいると言われています。全世界で最もクリスチャンの人口が多いのはこの中国なのです。迫害を受けた六十万人のクリスチャンのうち、一部が死に、一部が投獄された後、神様は残りのごくわずかな者たちを残しておいてくださり、彼らを通してひそかに福音を宣べ伝えさせ、信じる民の数を増やし続けておられたのです。神様はこのような状況の中でも残りの民を用意してくださり、ご自分の驚くべきみわざを成し遂げておられたのです。

それは今の北朝鮮も同じです。北朝鮮では1907年にリバイバルが起こったという記録がありますが、そのときに救われた信仰の灯は消えてしまったのでしょうか?いいえ、そうではありません。ある中国の長老の話によると、この長老は北朝鮮に十回以上行ったことがある人ですが、その話によると、今もハンギョンドという地域に行くと家の教会が数千戸あり、涙を流して神様に礼拝をささげ、懸命に祈っていると言います。神様はこうした残りの民を通して、ご自分の救いのみわざを実現しようとしておられるのです。これが神様の計画です。

ですから私たちは決して数に慰めを求めるのではなく、「私たちの中に神様が認めてくれる信仰があるかどうか、私たちの中に神様が認めてくれるビジョンがあるかどうか」ということを絶えず確認していかなければならないのです。人数が問題なのではありません。どんなに少人数であっても、これを握りしめているなら、神様がその人を通して歴史を動かしてくださるはずです。

毎週の礼拝に集う人が少ないからといってがっかりすることはありません。祈祷会に集う人が三、四人だからといってあきらめてはならないのです。なぜなら、神様は残りの民を必ず残しておられ、この残りの民を通して働いてくださるからです。エリヤはバアルとアシェラの預言者それぞれ450人と戦う時、「私しか残りませんでした」と嘆きました。私たちもクリスチャンの少数の群れを見たら、「私しか残っていません」と嘆くかもしれませんが、実際は違うのです。神様は何と言われましたか?「バアルにひざをかがめない男子七千人が、わたしのために残してある」(I列王19:18)と言われました。神様は必ず残りの者を用意しておられるのです。どんなに困難で争いが絶えない教会であっても、最後まで信仰を守って祈る仲間がいるのです。多くの人が神様から離れても、最後までみことばを握って信仰を捨てない神様の民が残っているのです。私一人、皆さん一人だけではありません。神様が残りの民を保っておられるからです。そうやって神のみこころは必ず実現していくのです。私たちはそこに目を留めなければなりません。

Ⅲ.主に信頼して(30-33)

ではどうしたらいいのでしょうか。ですから第三のことは、主に信頼しましょうということです。30~33節をご覧ください。

「では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

ここでパウロは、異邦人が救いに導かれるようになった理由と、ユダヤ人が海辺の砂のように多くいても、救われるのは、残された少数の者たちであることの理由を述べています。それは、みことばの約束を信じてそのまま受け入れたのか、それとも、自らの力に頼って救いを得ようとしたかです。異邦人は信仰による義を得ました。神様が用意してくださった救いであるイエス・キリストを信じることによって義を得たのです。それに対して、ユダヤ人はどうかというと、そうではありませんでした。彼らはあくまでも自分の力に頼り、行いによって義を得ようとしたのです。彼らにとってイエス・キリストはつまずきの石、妨げの岩にすぎませんでした。なぜなら、木にかけられた者はのろわれた者であるという先入観があったからです。ですから、十字架につけられたキリストを信じることはできませんでした。しかし、救いは神が用意してくださったものを受け入れるかどうかにかかっているのです。なぜなら、人は罪によって霊的無能力者、道徳的破産者になっているのであって、自分の力では、神が求めておられる義という標準に到着することができなくなっているからです。ですから、私たちが救われるためには、私たちを救うために神が用意してくださった救いの方法を受け入れる以外に道はないのであっで、その救いを信仰によって受け入れることによってのみ、私たちは救われるからです。

イスラエルにはそれが理解できませんでした。ですから、彼らはイエス・キリストにつまずいたのです。それは神が置かれたつまずきの石でした。この石は、今日でも、私たちの前に置かれています。特に根強い努力・頑張り主義が息づいているこの日本の社会の中にあっては、努力する者にこそ勝利が、そして幸せがあると信じているのです。しかし、強くなろうとして逆に見えてくるのは自分の弱さでしかありません。自分は本当に弱い存在しかないということを、打ちのめされるような思いとなって見えてくるのです。そこがポイントです。そのとき、どうするかなのです。そのことに目を留め、現状を受け入れる時、十字架の救いが見えてきます。なぜなら、弱さを知る者が強くされるというのがキリスト教だからです。弱さは欠点でも恥でもありません。それは新しくされる転機であり、出発点なのです。ですから、罪の力の前に自分が無力であることを認め、神の力によって強くされることを求め、神が用意してくださった救いを受け入れること。それが信仰の道であり、祝福される人生なのです。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」とあるとおりです。

アメリカの有名なリバイバリストであるチャールズ・フィニーは、「聖書には32,500個の約束がある」と言いました。この約束は今の世と後に来る世、肉的なものと霊的なもの、そして、私たちの生活に必要なすべてのものに対する約束です。多くの人は失敗したり、自分の思いどおりに信仰生活をするという間違いを犯します。しかし、私たちが、主の約束をそのまま信じ、そのお方に頼るなら、決して恥を見ることはないのです。なぜなら、神様の思いと、私たちの思いは異なり、神様の道と私たちの道は異なるからです。天が地よりも高いように、神様の道は、私たちの思いよりも高いのです。神様のみこころは私たちの思いをはるかに越えて働き実現するのです。ですから、大切なのは、私たちの思いを実現していこうとすることではなく、完全なご計画をもって導いておられる神様に信頼し、すべてをおゆだねすることです。そうすれば、失望させられることはありません。たとえ今はそのように思えなくても、それが私たちにとって最善の選択なのです。

ローマ人への手紙9章6~24節 「神の選び」

きょうは、神の選びついて学びたいと思います。どんな人であっても、神の救いにあずかった人であるならば、自分の同胞が同じ救いにあずかることを願わずにはいられません。それはパウロにとっても同じことであり、彼は自分の同胞であるイスラエル人たちがこの救いにあずかっていない現実に心を痛めていました。しかも、イスラエル民族は神によって特別に選ばれた民でした。にもかかわらず彼らが救い主を退けているというのはどういうなのか。そのことでパウロは夜も眠れないほど悩むのです。そして、ここに一つの疑問が湧いてきました。それは、神がイスラエル民族を選んだという神のみことばは無効になってしまったのかということです。そんなことはありません。なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではないからです。イサクから出る者が、約束の子どもが子孫とみなされるからです。つまり神が彼らを選民として選ばれたのは彼らだけでなく、アブラハムの信仰に歩む人たち、つまり霊的イスラエルをご自身の民として選ぶためであったのです。すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもなのではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。

何と偉大な神の救いのご計画でしょうか。そのようにして神様は私たちをもご自身の民として選んでくださったのです。きょうはこの神の救いのご計画、神の選びについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、神の選びは、私たち人間の理解をはるかに超えたものであるということについてです。第二のことは、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるということです。第三のことは、そのようにして選ばれた私たちは、ただ神に感謝して、神のみこころのままに歩んでまいりましょう、ということです。

Ⅰ.人間の理解をはるかに超えた神の選び(6-13)

まず第一に、神の選びは私たちの理解をはるかに超えた選びであるということについて見ていきましょう。9~13節をご覧ください。

「約束のみことばはこうです。「私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます。」このことだけでなく、私たちの父イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える」と彼女に告げられたのです。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。」

パウロは、この事実、すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのですということを説明するために、旧約聖書の二つの事例を挙げています。一つはアブラハムの子イサクとイシュマエルで、もう一つはそのイサクの子でエサウとヤコブという双子の子どもたちの話です。

まずアブラハムの二人の子どもイサクとイシュマエルについて見ていきましょう。パウロは、「アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」と言っています。イサクとイシュマエルは、二人とも確かにアブラハムの子どもでしたが、イサクは妻サラの子であるのに対して、イシュマエルは奴隷ハガルの子どもでした。イシュマエルは普通の子どもでしたが、イサクの場合は違っていました。どのように違っていたのかというと、イサクの場合は、その両親であるアブラハムとサラが到底子どもを持てる年齢を超えていたにもかかわらず、神の約束によって与えられた子どもであるという点です。アブラハムが百歳、サラが九十歳になったとき神は、「私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を生みます。」と語られたのです。そして本当にそのようになりました。二人ともアブラハムの子どもであることには間違いありませんが、どちらが神の民として選ばれたかというと、イシュマエルではなくイサクでした。神はイサクを選ばれたのです。創世記21章に出てくるハガルがイシュマエルを連れて、少しばかりのパンと水を持って、荒野に追い出された時の光景には、本当に涙が流れます。もうどうにもならなくなって、ハガルがイシュマエルからちょっと離れて、鳴き声を上げている時に、私の心は本当に痛むのです。かわいそうです。なんでイシュマエルが、なんでハガルがと思います。そんなハガルとイシュマエルをも神様はあわれんでくださいましたが、でも神様はイサクをお選びになったのです。

もう一つの話は、神様がエサウではなくヤコブをお選びになられたという事実です。同じアブラハムの子どもでも、イシュマエルではなくイサクが選ばれたというのは何となくわかります。イサクはアブラハムの正妻の子どもであったのに対して、イシュマエルは奴隷の子どもでしたから。しかし、エサウとヤコブの場合は違います。二人とも同じ両親イサクとリベカの子どもで、しかもヤコブは弟でエサウはお兄さんです。にもかかわらず、神はエサウを退きヤコブを選ばれました。どうしてでしょうか?多くの人たちは彼らにはもともとそういう素地があったからだと考えます。つまり、エサウよりもヤコブの方が性格的にすぐれていたからだと考えるのです。たとえば、あのレンズの煮豆の事件がありました。エサウは長子の権利をあの一杯のレンズの煮豆と交換して渡してしまいました。神の祝福を軽んじる愚かさがあったと言うのです。しかし、そういう点で言うならば、ヤコブはもっとひどい人間だったのではないでしょうか?彼はその名前のごとく「おしのける者」でした。それは生まれた時から表れていました。お兄さんのかかとをつかんで生まれた来たというではありませんか。お兄さんが先に出ていこうとすると、「ちょっと待って。ボクが先だよ。」と兄さんのかかとをつかんで離さない。それでもタッチの差で兄さんの方が先に出ると、その長子の権利をどうやったら奪えるかと考えるのです。「そうだ、兄貴は食べ物に弱いから、狩りをしてお腹を空かせて帰ってきた時に美味しい煮豆を用意していたら、きっとその権利を渡すに違いない」と、長子の権利も、家督の権利も、全部奪い取って逃げて行きました。彼はまさに自分勝手な者の代表的な人物のような者です。エサウもひどい人間だったけど、ヤコブはもっとひどかった。しかし神様はそんなヤコブを選ばれたのです。なぜでしょうか?パウロはその驚くべき理由をこう語るのです。11,12節です。

「その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える」と彼女に告げられたのです。」

ここでのポイントは、それは彼らがまだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに定められていたということです。すなわち、神様がヤコブを選ばれたのはヤコブが人間的にすぐれたいたとか、何か良いことを行ったとかということからではなく、一方的で自由な神様の選びによるものであったということです。

人間の頭の中には因果律というものがあって、結果には必ずそれに至る原因があると考えます。たとえば、ある人が事業に成功すると、この人がどうして成功したのかを考え、彼が一生懸命に働いたので成功したとか、タイミングが良かったから成功したんだと考えるわけです。あるいは逆に失敗したりすると、「あの人は神様に対して罪を犯したから失敗したんだ」とか、「私たちの知らない大きな罪があったからあんなふうになったんだ」と考えるのです。多くの災難で苦しむヨブに、その友人たちが取った態度はまさにこうでした。しかし、聖書にはすべてがそういうわけではないと書かれています。特に、私たちの救いに関して言うならば、私たちの性格が良いからとか、私たちが洞察力のあるいい人間だからというような原因があるからではなく、それはただ神様の一方的な恵みでしかないというのです。

あるテレビ番組にミス・ユニバースに選ばれた女性とその家族が出ました。そのとき司会者がその女性にこう質問しました。「あなたがこんなに美しいのはお父さんに似たからでしょうか?」するとカメラがこの女性の脇に座っていた父親をアップでとらえたのです。しかし、横にいたお父さんはロバのような顔で、どう見ても父親に似たとは思えません。そこでさらにこう質問しました。「それではお母さんに似たのでしょうか?」するとカメラが、今度はお母さんの顔を映しましたが、お母さんの顔もイマイチぱっとしません。一体なぜこの女性がこんなにも美しいのかわからない司会者こう言いました。「たぶん、親戚に美しい方がおられるのでしょう」

これはどういうことでしょうか。これは、原因が見いだせないなら、とりあえず何か適当な理由でもくっつけておこうという態度です。これは私たちが救われた理由を扱うときにも現れます。私たちが救われたのはどうしてか?それは私がしっかりしていたらだとか、一生懸命に生きていたからだ。あるいは、私はもともと出来がいいから救われたんだ。さらには、我が家はなかなかの家系だからだ・・・というふうにです。しかし、聖書はそれが間違いだと言います。聖書は私たちが救われたのは私たちの内側に何か救われるための根拠があったからではなく、一方的な神様の選びによるというのです。まさにエサウとヤコブの例は、この事実を物語っています。人間的に見たらどうしてエサウが憎まれ、ヤコブが救われたのかわかりませんが、神様はずっと前からそのように選んでおられたからなのです。神様がこのようにくどくどと説明しているのは、そのことが私たちの行為以前にすでに決められていたことを示すためです。エペソ人への手紙の中でパウロが、

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」(エペソ1:3~5)

と言ってるのは、このことです。こういうのを神学的には何というかというと、「神様の選び」とか、「神様の絶対主権的な恩寵」と言います。予定論とか、選びの教理と言われるものです。私たちの行為とは関係なく、世の始めに神様が選んだ者をお救いになったという教理です。多くの人はこの選びの教理を語ると、「最初から救われる人と救われない人がいるなんて不公平ではないか」といぶかり、この選びの教理を受け入れられないばかりか、こうしたみことばにつまずいてしまうことも少なくありません。しかし、聖書が言っている救いとはこうなのです。それがどうしてなのかはわかりませんが、神様は救われる人たちを愛をもって予め選んでおられたのです。これが神様の選びなのです。

Ⅱ.一方的な神の恵み(14-18)    それではどういうことになるのでしょうか。先程も言ったように、神様は不公平な方だということになるのでしょうか?絶対にそんなことはありません。パウロは続く14節からのところで、先回りしてそのことについて弁明しています。14~15節までをご覧ください。

「それでは、どううことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」

ここに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」とあります。神様が自分のあわれむ者をあわれみ、いつくしむ者をいつくしんだからと言って、いったいだれが不公平だと言えるでしょうか。それは公平か不公平かということではなく、選ばれた者がいかに感謝するかどうかという問題なのです。たとえば、ある金持ちが孤児院を訪問したとしましょう。多くの子どもたちがひくめく中で、一人の子どもを選んで養子にすることにします。すると選ばれた子どもは金持ちの子どもになって、養父母の財産を相続する者になります。たった一日のうちに身分が完全にひっくり返るのです。これまでは孤児として貧しい中を生きていかなければならなかったのが、たった一日のうちに莫大な財産を相続する者に変えられるのです。何が彼の身分を一変させたのでしょうか?理由はたった一つです。それは養父母がそのように選択してくれたということです。自分の功績や善行によったのではなく、ただ養父母によって無条件で選ばれたということなのです。この場合、選ばれなかった子どもにとっては確かに不公平だなと感じることがあるかもしれませんが、これは公平か不公平かという問題ではなく、選んでくださった養父母の一方的な選びであって、選ばれた者は「ああ、本当にありがたいなぁ」と感謝する以外にないのです。

私たちの救いとはそういうものなのです。ローマ人への手紙3章23節によると、「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず・・」とあります。すべての人間は罪によって全く死ぬしかなかった存在なのです。にもかかわらず神様は、選んで救ってくださいました。ですから、神様に捨てられて救われない人間が、「なぜ自分を救ってくれないんですか」と抗議するような問題なのではなく、そこにあるのは全く救われない者が救いに選ばれた感激しかないのです。神様はなぜ私たちを救ってくださったのでしょうか?なぜ愛してくださったのでしょうか?わかりません。愛したいから愛したのであって、救いたいから救ってくださったのであって、私たちに愛されるための何か特別な理由があったからではないのです。それは全く神様のあわれみによるのです。

私は、男ばかり四人兄弟の末っ子として生まれました。ですから私には三人の兄がいるわけですが、残念ながら今のところまだだれも救われていません。私にとって信じるということはそんなに難しいことではありませんでした。小さい頃から一種のあこがれさえ抱いていました。ですから、18歳の時に教会に導かれ、イエス様を信じるようになったときも、これが普通だと思っていました。ところが兄は違います。「キリスト教はいいんだ」と口では言うものの、「じゃ、信じたら」というと、「いや、信じね」と言うのです。何で信じないの?と聞くと、必要ないからだと言います。そんなの信じなくても十分やって行けるし、そんなの信じるよりもパチンコやってた方がいいというのです。何よりも教会の存在が遠いように感じているのです。  では、なぜ自分は信じれたのでしょうか。同じ家で生まれ、同じ両親のもとで、同じように育ったのに、兄たちは信じないで、自分だけが信じている。私はずっと、その理由は自分だけがキリスト教の幼稚園に行ったからではないかと思っていました。小さい時に教会付属の幼稚園に行っていたので全然違和感がないのではないか・・・と。  確かに、そういうことも否めないかもしれませんが、しかし、それが本質的な理由ではないのです。本質的な理由は何か?それは神様が私を選んでくださったとしか言いようがありません。生まれる前から。そして、そこに教会があったことや、教会付属の幼稚園があったこと、あるいは、家内と出会うようにしてくださったことなども含めて、神様がそのように計画しておられたのです。それは決して偶然ではありません。

日本には、神様が信じられないという方がたくさんおられます。中には神様は信じているけどイエス様が信じられないという方もおられます。そして言うのです。「どうしたら信じられるのですか?」と。「信じたいのですが、信じられないのです。」と。それでも何とか信じようと「主よ。信じます。信じます。」と繰り返して称えても信じられず、ついには庭に植わった松の木に何度も頭を打ち付けながら、血を流して「信じます。信じます」と言っても信じられない人がいるのです。何が問題なのでしょうか。すんなり信じられる人とそうでない人がいるのは・・。答えは16節にあります。

「事は人間の努力や願いによるのではなく、あわれんでくださる神によるものだからです。」

事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。ですから、信じようとするのではなく、「神様、あわれんでください」とすべてを神様にゆだねて祈ればいいのです。そうすれば、神が働いて信じることができるようにしてくださいます。神が聖霊を通して、罪について、義について、さばきについて、その誤りを認めさせてくださるからです。

皆さん、どうしたらリバイバルが来るのでしょうか。人間の願いや努力によるのではありません。あわれんでくださる神によるのです。人々はそこに何か一定の法則があるのではないかと必死になって探し出し、一生懸命にそれをやってみたりしますが、いくらそのようにしたからといってそれでリバイバルがやって来るわけではないのです。たとえば、過去に起こったリバイバルの歴史を調べ、「リバイバルの前には多くの人々が徹夜で祈ったのだから、徹夜で祈らないとリバイバルはやってこない」と、そのようにしてみても、それでリバイバルがやって来るというものではないのです。なぜ?なぜなら、もしそれでリバイバルが来たとしたらそれは全部徹夜祈祷会のおかげとなってしまい、神様の栄光が奪われてしまうからです。リバイバルは神の領域であって、その時や場所、方法は、全く神の主権によるものなのです。そのために神様はいろいろな人を選んで立ててくださったりしながら、ご自分のみわざを起こしてくださるのであって、「こうすればなる」というものではないのです。私たちの人間の救いというのは、そういう面があるのです。ですから、だれかが信じて、だれかが信じないからといって、それで高慢になったり、あるいは落ち込んだりする必要はありません。事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるからです。

Ⅲ.みこころのままに(19-24)

ではどうしたらいいのでしょうか?そのように人間の願いや努力が虚しいものならば、すべては神の責任なのであって、私たちの責任は何もないということになるのではないでしょうか。一昨日はトラクト入りの聖書入門講座の案内が新聞折り込みしましたが、そうしたことも全く意味がないということになるのでしょうか。極端なカルヴァン主義に立っている人にとってはそうでしょう。こうした立場に立っている人は、神は定められた人を救いにそうでない人を滅びにと選んでおられるのだから、そんなことをしたって全く無駄ですよ、と考えます。もし救われないとしたらそれは神様がそのように定められたからであって、私たち人間の責任ではないと言うのです。しかし果たしてそうなのでしょうか。パウロはそうではないと言っています。20~21節をご覧ください。

「しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか」と言えるでしょうか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。」

パウロはここで、あなたがもしそのように神に言い逆らうようなことがあるとしたら、それはあなたが大切な一つのことを全く理解していないからだと言っています。それは何かというと、神様と人間の関係です。神様はこの天地万物を造られた創造者であって、絶対者なのです。その形造られた方に対して、造られた者である人間が、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか」と言えますか。言えません。神様には神様の造られた目的なり、意図があって、その完全なご計画の中で私たちは造られ、生かされているのであって、そのことをよく理解しなければなりません。私たちの信仰はここから始まるのです。

それは陶器を作る人のことを考えてみるとよくわかるでしょう。陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っているのです。そして本来ならばもう滅ぼされても仕方ないような怒りの器が、豊かな寛容をもって忍耐して保たれているとしたら、それこそ神のあわれみでしかないのです。神はこの「あわれみの器」として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださいました。

であれば、私たちは私たちを造られた方に対して、「どうしてあなたはこのように造られたのですか」と言い逆らうのではなく、その中に神様の深いご計画があると信じ、その神のあわれみに感謝して、私たちを選んでくださった神様の栄光を現していかなければならないのです。

この選びの信仰は大切です。主イエスは弟子たちにこう言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15:16)職場でも教会でも、順風満帆な時はいいでしょう。けれども、いつもそうであるかというと、そういうわけにはいきません。そのような時、この選びの信仰が生きてきます。「主が私をこの教会に、この職場に遣わしてくださったのだ」という土台に立っているといないのでは、踏ん張りが違うのです。だれもたまたま生まれ、間違ってそこに存在している人などいません。神様が尊い命を授け、意味あって、この時代、その場所に生きるように置いてくださったのです。自分の人生に間違いはないのですが、その人生の背後に、自分の理解をはるかに超えた祈りや力があると信じて生きる人は、様々な困難の中にあっても立ち上がる勇気と力が与えられ、力強く前進していくことができるのです。

皆さんも神様によって選ばれた人たちです。皆さんの人生も神様の大きな御手とまなざしの中にあります。ですから、主の御手に握りしめられ、その御手の中に安んじ、その御手の中によって守られながら、その与えられた人生を歩んでいきましょう。私たちを選んでくださった方は真実ですから、何がどう転んでも大丈夫。どこからでも、何度でも立ち直り、やり直すことができるからです。

ローマ人への手紙9章1~5節 「同胞の救いのために」

きょうは、「同胞の救いのために」というタイトルでお話したいと思います。パウロはこの9章に入ると、イスラエルの救いに関する神様のみこころについて語り始めます。この直前まで、キリストにある神の愛から、だれも私たちを引き離すことができないと語ってきた彼が、ここに来て急にイスラエルの救いについて語るのはいったいどうしてなのでしょうか。おそらく、このイスラエルの救いを通して全世界の救いについて語ろうとしていたからではないでしょうか。それにしても彼は、約束のメシヤがきたというのにどうしてイスラエルは信じようとしないか相当悩んでいたようです。それは2節の、「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず悼みがあります」という表現からもわかります。その彼がイスラエルの救いについて神から明確な啓示を受けました。それは、「彼に信頼する者は、決して失望させられることはない」ということです。イスラエルはやがてみな救われるのです。

きょうは、このイスラエルの救いを通して教えられる同胞の救いについて三つのポイントでお話したいと思います。まず第一のことは、パウロは同胞イスラエルが救われることを切に願っていたということです。第二のことは、なぜにパウロはイスラエルが救われることをそれほど願っていたのでしょうか?それは彼らが同胞であったというだけでなく、彼らは神に選ばれた民だからです。第三のことは、であれば私たちも同胞の救いのために切に祈りましょうということです。

Ⅰ.パウロの切なる願い(1-3)

まず第一に、パウロの切なる願いから見ていきたいと思います。1~3節までをご覧ください。

「私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」

8章のところで、クリスチャンの圧倒的な勝利について語ったパウロが、この9章に入ると急に、「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります」と語ります。パウロが抱いていた大きな悲しみや痛みとは何だったのでしょうか?それは、3節を見るとわかります。パウロは、「もしできるなら、私の同胞、肉による同国人のためなら、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」と言っています。パウロの痛み、悲しみは、同胞ユダヤ人がイエス・キリストを拒否し、イエス・キリストの福音を信じようとしないということでした。ですから彼は、その同胞ユダヤ人が救われることを切に願ったのです。

皆さん、世界中で一番福音を信じない、イエス・キリストを信じないでいる人々はどの民族かというと、実は、神が選ばれし民であるユダヤ人なのです。パウロも初めはイエス様を信じることができませんでした。パリサイ人の中のパリサイ人として律法を厳格に守っていた彼は、イエス・キリストが神の子、キリストであるということを信じることなどできませんでした。というのは、木にかけられる者は呪われた者であると律法に書かれてあったからです。ですから十字架にかけられて死んだ者が救い主であるはずがない。イエスは神を汚す者であり、とても赦すことなどできない者たちだと、逆にクリスチャンを捕らえては迫害していたのです。しかし、そのためにわざわざダマスコという所にまで行こうと向かっていた時に、何と復活の主イエスと出会ったのです。「サウロ。サウロ。どうして私を迫害するのか。とげのついた棒をけることは、あなたにとって痛いことだ・・・。」と。そのとき彼は、このイエスがキリスト、救い主であるということがはっきりとわかったのです。そして彼は新しいパウロになりました。それまではキリストを信じる人たちを迫害していましたが、今度はキリストを伝える者になりました。彼はどこに行っても、「イエス様こそ救い主だ。この方を信じる人はだれでも救われる」と語りました。それ以来、彼はユダヤ人たちから憎まれ、激しい迫害に会いましたが、それでもひとりでも多く人が救われるたちに、十字架につけられたキリストを宣べ伝えたのです。しかし、自分たちが神様に特別に選ばれた民であり、神の律法が与えられたと自負していた彼らは、その律法を形式的に守っていれば自動的に救われると信じて、パウロの語る福音を信じようとはしませんでした。そんな彼らが信じないことはパウロにとっては大きな悲しみであり、また痛みでした。彼らが救われるのであれば、この自分は神から引き離されて、のろわれた者になってもいいと思うほど、彼は同胞ユダヤ人が救われることを願っていたのです。

このパウロの痛み、悲しみを思うとき、私は、自分がどれほどこの日本人の救いのために祈っているだろうかと思わされます。日本人は、ユダヤ人ほどではありませんけれども、イエス様の恵みを聞いても、なかなか信じない民です。隣の韓国ではもう25%もクリスチャンになっているというのに、日本では1%もいません。ある人の調査では、おそらく17万人くらいだろうと言われています。17万人ですよ。日本の伝道は、押しても引いてもどうにもならないところがあるのです。そうした現状に直面すると、「ああ、いくらやってもだめだな」「もう仕方がない」というあきらめに似たような思いになってしまうこともあります。

神学校を卒業したある牧師が、故郷の新潟に帰って伝道しました。三日間の天幕伝道でした。一生懸命イエス様の恵みと救いについて語ったのにだれも信じないのに堪忍袋の緒が切れたその牧師は、最後の晩にテーブルをたたいて罵倒したそうです。「どうして皆さんは神様を信じないんですか。神様の愛を、神様の救いをどうして信じないんですか」と。そしてそれからいつの間にか、もう仕方がない、だめだと思うようになったというのです。

打てど響かない日本の伝道の現実に、もうだめだとあきらめてしまいそうになることもありますが、しかし、神はそんな頑ななイスラエルが皆、救われる時がやって来ると告げるのです。ウンとも、ツンとも言わないのではなく、今はその時の準備なのであって、寛容と忍耐をもって祈り続けていかなければならないのです。

残念ながら多くの人々が、「現代人は魂の救いに関心がない」と思っています。また、みんなお金を稼ぐことや有名大学に入ること、大きな家に住むことにしか関心がないと思っていますが、そうではありません。皆、魂の救いに対して飢え渇きを持っているのです。私は時々社会的に成功していると思われる人やお金持ちのような人とお話することがありますが、そういう人たちが福音に対して関心を示し、耳を傾けて聞いてくれます。政治や経済の話だけが、彼らの関心事ではありません。そんなことが希望の根源にならないことくらい、彼ら自身が十分知っているからです。彼らの希望は枯渇した心がどうしたら潤されるか、どうしたら救われるかということなのです。ですから私たちが大胆にイエス様のことを伝えるとき、彼らはそのみことばを聞いて救われるようになるのです。なぜなら、私たちの霊的な飢え渇きを満たすことができるのは、私たちの救い主イエス・キリストしかいないからです。

50代、60代の人ならサイモン&ガーファンクルという有名なポップグループをご存知でしょう。60年代から70年代にかけて一世を風靡しました。あるときサイモンがテレビ番組に出演しました。雑談した後、司会者がこうサイモンに尋ねました。「あなたの最近の主な関心事は何ですか?」そのときサイモンが何と答えたと思いますか。彼はこう言いました。「最近、私の心を占めているのは、死に対する恐れです。」これは、彼の正直な告白ではないでしょうか。彼には財産もあり、名誉もあり、実に生き生きしているようでしたが、彼の心の中には死に対する恐れ、神様に認めていただける人生ではないという恐れがあったのです。

それは私たちの国、この日本人も同じです。日本人はなかなか福音に対して心を開いていないかのように見えますが、実はそうした恐れや不安をみんな抱いているのです。たましいに対する強い飢え渇きを持っているのです。この日本人が救われることを願い切に祈ることを、神様は私たちに求めておられるのです。

Ⅱ.選びの民イスラエル(4-5)

ところで、パウロはなぜそれほどにイスラエルが救われることを願っていたのでしょうか?それは彼らがパウロと同じユダヤ人であるということもありましたが、それ以上に、彼らは神様に選ばれた民族であったからです。4~5節をご覧ください。

「彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。父祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。」

パウロは、イスラエルを裏切った裏切り者ではありませんでした。彼の中には、ユダヤ人が神様に特別に選ばれた特別な民であり、やがて必ず救われるという強い確信がありました。私たち異邦人はそうではありません。エペソ2章12節によると、私たちはキリストから遠く離れていて、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあっては望みもなく、神もない人たちでした。しかし、神様のあわれみによって、自分の罪を悔い改め、イエス様を信じる信仰によって、神の子としていただけたのです。それまでは遠く離れていた者だったのに、イエス様を信じたその途端に、「アバ、父」と呼ぶ神の御霊が与えられたのです。しかし、イスラエルはそうではありません。イスラエルは神様が特別に選んで子としてくださった嫡子です。養子縁組によって子となったわけではないのです。そういう特別な民でした。ここには、彼らがいかに特別な民であったのかが列挙されています。それは「栄光」であり、「契約」が与えられた民であり、「律法」も、礼拝も彼らのものです。

まずイスラエルには栄光がありました。彼らは幕屋に行って、神とお会いすることができました。そこにはいつも神の栄光の輝きである「シェキナー」がありました。彼らはかつてモーセがシナイ山で神と顔と顔とを合わせてお話したように、神の臨在の中で、神と交わることができたのです。それから彼らには、神との契約が与えられました。律法です。彼らにはそれを守ったら本当に幸福になるという約束与えられていたのです。世界広しと言えども、イスラエルのように神様からこのような契約が与えられた民は他にはいません。それは本当に特別なことでした。そして何よりも、救い主であられるキリストはこのイスラエルから出ると約束されていました。

「主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福されます。」(創世記12:1~3)

つまり、イスラエルは祝福の基として、神に特別に選ばれた民だったのです。であれば、今は多くのユダヤ人が救い主を受け入れることを拒否し、キリストの福音を拒否しても、やがてこぞって信じるようになるときが必ずやって来るのです。パウロはそうなると堅く信じていました。

それは、救われるようにと神様によって選ばれていた私たちクリスチャンにも言えることです。エペソ人への手紙1章4節を見ると、ここには、「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」とあります。神様は、この世界の置かれる前から私たちが救われるようにと選んでいてくださいました。私たちは神様にとって特別の選びの器なのです。ということは、その選びというのは、私たちの状態や、私たちの条件、私たちの願い、私たちの努力、私たちのいろいろなことと関係なく、それを超えたものであるということです。どんなことがあっても必ず救われるのです。ペテロは3回もイエス様を知らないと否みました。パウロはクリスチャンを捕まえては牢屋にぶち込むようなことをしました。にもかかわらず神様は彼らを許し、救ってくださいました。なぜ?彼らもまた神様の深いあわれみによって選ばれていたからです。神様によって選ばれた者であるなら、どんなことがあっても必ず救われるのです。「彼に信頼する者は、決して失望させられることはない。」(33節)のです。それがパウロの確信でした。

Ⅲ.同胞の救いのために(3)

ですから第三のことは、私たちは、私たちを選んでくださった神の恵みに感謝して、同胞が救われることを切に願いましょうということです。そのためにパウロは、「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」と言いました。

エゼキエル書22章30節に、「わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。」ということばがあります。「破れ口」とは、人々の罪によって引き裂かれた、神と人との間の絆の「破れ口」をさしています。当時、南王国ユダは、神のみこころに反して、ひどい罪に汚れていました。そんな彼らに対して神はその裁きが下る前に、もし彼らの間に、人々のために神にとりなす者がいたならば、神は裁きをお下しにならなかったかもしれないので、そうした「破れ口」に立って修理する人を捜し求められたというのです。しかし、神に向かってとりなしの祈りを捧げ、神と人との間の「破れ口」を修復する者は、結局ひとりも見つかりませんでした。それで神は、バビロン帝国による侵略を許し、エルサレムを滅ぼされたのです。神は、ご自身と人々との間の「破れ口」を修復する者を、人々の間に捜し求められるのです。

パウロはまさにこの「破れ口」に立った人です。彼は、「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもいい」と言いました。彼は、もしできることなら、ユダヤ人の救いのために自分が身代わりになりたい、とまで言ったのです。

モーセもまたこの「破れ口」に立った一人です。彼はイスラエルが荒野で金の子牛の像を拝み、神からのさばきを受けたとき、「もしも、かないませんなら、どうかあなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください」 (出エジプト32:33)と祈りました。すると神はこの祈りを聞かれ、イスラエルを赦してくださいました。

このように本当に命がけでとりなして祈る祈りを、神様は聞いてくださるのです。いったい私たちにこのような祈りがあるでしょうか?このような叫びがあるでしょうか?もしあるのなら、私たちは同胞が救われるために神様の御力が働かれる通路となることでしょう。そしてこのような祈りは、このような涙の祈りは決して無に帰することはありません。やがて必ず救われる魂が起こされてくるようになるのです。

サムエル・スティーブンソンという人が、多くの魂を救いに導いた人たちの記録を調べてみました。すると彼らには一つの共通点がありました。それは何かというと、多くのたましいを救いに導いた神の器たちは、魂のために何時間も祈る人たちであったのです。神様は彼らの涙をご覧になられました。そして彼らに聖霊を注いでくださり、救いの道具として用いてくださったのです。まことに多くの魂を生かす人は、魂のために涙を流して祈る人だったのです。

そして、何よりもイエス様は十字架で私たちのために涙の祈りをささげられました。イエス様は神に背いて生きている全世界のすべての人々のために、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)と祈られました。イエス様は神と人間の間の「破れ口」に立ってとりなしてくださったのです。

神様の尊い選びによって救いの恵みの中に入れられた私たちに今求められていることは、私たちもまたこの時代の破れ口にたって同胞の救いのために真剣に祈る人となることです。「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、呪われた者となることさえ願いたいのです」と祈ったパウロのように、同胞日本人の救いのために、涙して祈ることなのです。神様はその涙を決して無駄にはなさいません。そのとりなしに答えて、救いのみわざを成してくださいます。その時はまだ来てはいませんが、必ずやってきます。「彼に信頼する者は、決して失望させられることはない」からです。それに備えて、真剣にとりなす者でありたいと思います。それが恵みによって救いに選ばれた者に与えられている使命なのです。

ローマ人への手紙8章31~39節 「勝利の歌」

きょうは「勝利の歌」というタイトルでお話したいと思います。38節と39節のところでパウロは、「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。」と、高らかに勝利を宣言しています。

パウロは、これまで1~6章までのところでイエス・キリストを信じる信仰によって義と認められるということを語ってきましたが、7章に入ると、そのように義と認められた者の罪との戦いについて語ってきました。すなわち、自分の中には善をしたいという思いがあるのに、かえって、したくない悪を行ってしまうのは、自分のうちに住む罪のせいだ・・・と。しかし、クリスチャンには神の御霊が与えられているので、この御霊が罪と死の原理から私たちを解放してくださったのですから、私たちは罪に悩む必要はないのです。だれも、何も、このキリストにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。

きょうはこのクリスチャンの勝利について三つのポイントでお話したいと思います。まず第一のことは、神が私たちの味方であるなら、だれも私たちに敵対することはできないということについて。第二のことは、神が義としてくださったのなら、だれも私たちを訴えることはできません。ですから第三のことは、私たちは圧倒的な勝利者になることができるということです。

Ⅰ.神が私たちの味方であるなら(31)

まず第一に、31~32節をご覧ください。「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

パウロは、これまで語ってきたことを受けて、神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょうかと問いかけます。これは疑問文の形でしるされてありますが、実は断定へと至らせる強い疑問文です。つまり、だれも反対できないほどの強い断定です。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対することができるでしょうか?だれもできません。私たちの周りには、私たちに敵対するさまざまな勢力があります。35~36節のところでパウロは、このように言っています。

「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。」

当時はイエス様を信じると迫害を受けました。あるときは荒野に追いやられて飢え、あるときは共同墓地に隠れなければならないということもありました。それはまさに、ほふられる羊のようでした。ほふられる羊のようだと表現されているのは、その迫害がどれほどひどかったかを物語っているのです。イエス様を信じるときに、まさに火のような試みがあったのです。それは現代でも同じではないでしょうか。

現代では当時のような迫害はないかもしれませんが、別な形で襲ってくることがあります。たとえば、私たちが生きていくうえで日々直面するさまざまな苦しみや悩みです。私たちの人生には、「どうして自分だけがこんなに悩み、苦しまなければならないのか」といったジレンマがあります。淀川キリスト教病院の柏木哲夫という先生が、「心をいやす55のメッセージ」という本の中で、人生を白と黒の縞のマフラーにたとえて考えると、黒は人生の不幸、白は幸せを現しているけれど、ほとんどの人生が黒と白が交互に織り上げられていると言っておりますが、自分の人生に当てはめてみるかぎり、どうも黒の方が圧倒的に多い。15,16,17と、私の人生暗かった~、長い黒です。しかし、人生悪いことばかりじゃない、いいこともあると思っていたら、「夢は夜開く」で、いいこともあった。しかし、そんないいこともほんのつかの間で、また長く暗いトンネルが続く。どこまでそのトンネルが続くのか・・・。きっといつまでも続かないと思っていたら、ほんとうに明るい兆しが見えてくる。と思ったら、またトンネルの中に・・・。というふうに、白と黒のマフラーではない、ほとんど黒いマフラーじゃないかと思えるような、そんな葛藤です。  あるいは、私たちの中にはまだ罪の残痕があって、悪魔はそれを巧みに使い、強い力をもって攻撃してきたりすることもありますから、そうしたことでの戦いもあるでしょう。さまざまなものが、なおも私たちに敵対してくるのです。

しかし、そうした勢力がどんなに強くても、神が私たちの味方であるなら、だれも私たちに敵対することはできません。なぜなら、神はこの天地万物を造られた全能者であって、すべてを支配しておられる方だからです。まさに神は王の王、主の主であられるのです。この方に敵対できる者など何もないからです。イザヤ書40章28~31節、

「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」

主は永遠の神、地の果てまで創造された方です。その英知は計り知れないのです。この方が私たちの味方であるなら、私たちはいったい何を恐れる必要があるでしょうか。私に敵対するということは、この神に敵対することになるのです。この神様に敵対して勝てる人などだれもいません。ですからこの神がともにおられるなら、私たちは何も恐れる必要はないのです。

ダビデは、多くの敵に取り囲まれたとき、次のように告白しました。 「主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない」と。しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。」(詩篇3:3~6)

ダビデはそのような状況の中にあっても、なぜ恐れなかったのでしょうか?主がともにいてくださると確信していたからです。全世界を敵に回しても、神がともにいてくださるなら、それに屈しないで大胆に生きていくことができます。人目を気にすることも、人の脅しに悩むことも必要ありません。なぜなら、神様がともにいてくださり、神がささえてくださるからです。

では、神が私たちの味方であることをどうやって知ることができるのでしょうか。それは、神の愛によってです。32節をご覧ください。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

神は、私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡してくださいました。であるなら、どうして、御子といっしょに、すべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょうか?ありません。神は御子といっしょに、すべてのものを私たちに恵んでくださるのです。ですから大切なことは、神がこれほどまでに私たちを愛しておられるということを知ることです。

最近、下の娘がよく電話をしてくるようになりました。きょうは宇都宮で研修があったとか、仕事はきついけど楽しいとか、教会までは自転車で20分だったとか、米送ってちょうだいとか、事あるたびに連絡をくれるのです。今まではそうではありませんでした。こちらからどんなに連絡しても、なかなか連絡がつきませんでした。ついたかと思ったら、「うざい!」とか、「もういい!」とかで、煙たがれる存在だったのです。それが急に、家から離れて寂しいとかと言うようになったのです。いったい何があったのか?彼女の中にこの確信が湧いてきたのです。すなわち、親に愛されていることに少しずつ気が付いてきたのです。するとそれまで敵であったような相手が自分の味方であるどころか、どんなことがあっても守られるという強い確信に変わったのです。

神様は私たちのために、ご自分の御子をさえも惜しまずに死に渡してくださいました。それほどまでに愛してくださった。であるなら、神様は私たちの味方であるどころか、どんなことがあっても私たちをつかんで離すことのない愛の方であるという確信を持てるのではないでしょうか。どんなことがあっても、この神が私たちを守ってくださるのです。そう、この神の絶対的な愛こそ、私たちの勝利の礎なのです。

Ⅱ.神が義と認めてくださる(33-34)

第二のことは、たとえだれかが罪に定めるようなことがあったても、神が義と認めてくださるということです。33~34節をご覧ください。

「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしてくださるのです。」

これはものすごい宣言です。神様は私たちを、イエス・キリストの十字架の血潮で救ってくださいました。ですから、だれかが私たちを罪に定めようとしても、絶対にできません。それは神が義と認めてくださったことだからです。この「義と認められる」ということばは法律用語で、裁判の時に、無罪と宣言されることを意味します。人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっていますが(ヘブル9:27)、その最後の審判において、全く無罪と宣言されるというのです。私たちは神を信じるまでは「神なんていない」と豪語して、神を無視し、神を苦しめ、神を悲しませていました。親が子どもに無視されることほど辛いことがないように、神様を無視して、神を傷つけながら生きていました。そればかりではありません。信じてからもなお、人を受け入れられなかったり、人を憎んだり、ねたんだり、落ち込んだりして、まだまだ自分のために生きていました。自分を第一にしては、平気でうそをついたり、ケンカをしたりして、神のみこころにかなわず、神を悲しませて生きていたのです。それが私たちの現実ではないでしょうか。にもかかわらず神は、そういう私たちを義と認めてくださるというのです。

どうしてこういうことが成立するのでしょうか?イエス様が私たちの身代わりに十字架でかかって死なれ、私たちが受けるべき罪の刑罰を受けてくださったからです。イエス様が人間としてこの地上に来られたのはそのためでした。人間が神様に正しい者と認められるには、まず、神の基準を守らなければなりませんでした。その基準とは「律法」です。ところが人類は、それを守ることができませんでした。それでイエス様が代わりに罰を受けてくださり、そのイエス様が私たちの心に入り、私たちは「正しい者」と認められるようになった。これが神の救いです。

「キリストが律法を終わらせたので、信じる人はみな義と認められるのです。」(ローマ10:4)

ところが、人間はこの神の恵みを極端に嫌い、どうしても自分の力で救われようとする傾向があります。自分の努力、自分の修行、自分の信仰心、自分の忍耐など、そうやって自分の思いどおりになると、自分を誇るのです。実際には全く誇れるような人間など一人もいないのに・・・です。心が汚れ、足の先から頭の髪の毛の先まで罪のかたまりである私たちが、どうやって自分を誇れるというのでしょうか。そのような私たちを義と認めてくださるのは、天から下ってくださった神の恵みイエス・キリスト以外にはないのです。ただ頭を垂れて、悔い改め、イエス様を信じる以外に道はありません。この信仰のゆえに、神は値なしに義と認めてくださいました。

ですから、悪魔がどんな手を使って私たちクリスチャンを責め立てることがあったとしても、そんなことで動揺するには及びません。私たちは「神に選ばれた人」だからです。神に選ばれた人とは、特別に神のものとされた人のことです。もう神のものとされているわけですから、責め立てることなどできないのです。 悪魔が、「何だってお前は悪い人間なんだろう!そのように悪いことばかりするから、救われることはないはずだ。未信者ならともかく、クリスチャンのくせに・・。もしかして「でもクリ?」最低!お前のようなやつは救われない。もうダメだよ!」と言ったとしても、神に選ばれ、神が義と認めてくださったのですから、決して罪に定められることはない、と断言できるのです。その内容だけを見たら確かに正しいのです。私たちは本当に罪深い者であって、こんな私たちが救われるはずはありません。にもかかわらず、神は、このイエス・キリストによって信じる者を義と認めてくださいました。それゆえに聖書は、「今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(8:1)と断言するのです。

また、悪魔がどんなにクリスチャンを訴えたとしても、そんなことで少しも心配する必要はありません。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしてくださるからです。とりなしてくださるとは、弁護してくださるという意味です。つまり、私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださったイエス様が、私たちが支払わなければならない罪の代価を支払ってくださったと弁護してくださるということです。これほど確かな保証はありません。私たちの救いの根拠は、私たちの中にではなく、神様にあるのです。このことが分かっていれば、たとえ罪を犯すようなことがあったとしても、その罪にビクビクしている必要はないのです。私たちは自分の罪のために、本当に小さくなっていなければならない者ですが、神の右の座に着いておられるイエス様が、「父よ、この人の罪は赦されました。」と弁護してくださるので、大胆でいられるのです。裁判官であられる神様が、その弁護を絶対的に受け入れて、義と宣言してくださるからです。  ですから大切なことは、この神の義認の宣言を感謝して受け止め、いつも悔い改めて、この神とともに生きることです。そうすれば、私たちの救いの確信は確かなものとなり、私たちの信仰生活もいのちに満ち溢れたものとなるのです。

Ⅲ.圧倒的な勝利者となる(35-37)

ですから第三のことは、私たちはこのイエス・キリストにあって圧倒的な勝利者になることができるということです。35~37節をご覧ください。

「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」

この31節から39節まではわずか9節しかありませんが、実に勝利に満ち溢れた宣言です。できればこの箇所は全部暗記した方がいいです。もし全部暗記するのが難しければ、37節だけでも暗記したいものです。このみことばを握りしめて最後まで進む人には、天での報いが保証されています。実際、当時は激しい迫害の中で、信仰が萎んでしまうようなこともありましたが、主の御霊が彼らとともにおられたので、どんなことがあっても、「これらすべての中にあっても」、圧倒的な勝利者となったのです。たとえば、この当時は、キリストを信じる信仰のゆえに、羊の毛を着せられ、円形競技場でライオンの餌になることもありましたが、それでも彼らは、賛美しつつ死ぬことができました。

この日本でも、そうした迫害はたくさんありました。中でも有名なのは豊臣秀吉の時代に発令された「バテレン追放令」でしょう。彼は九州におけるキリシタンの勢力を恐れ、キリシタン弾圧を行いました。その一つが「26人聖人殉教」です。京都で捕縛された24人のキリシタンに加え、長崎に向かう途中で二人のキリシタンが加わって26人の人たちが、1597年2月に、長崎の西坂の丘で殉教したのです。  一行の中には若干12歳の少年ルドビコ茨木もいて、その残酷さを覚えて寺沢半三郎という人が幼い少年を助けようと思い信仰を捨てるよう迫りましたが、ルドビコ茨木はこの申し出を断固として断わりました。そして彼は、「わたしの十字架はどれ?」と尋ね背丈に合わせて準備されていた自分の十字架のもとに走り寄り、十字架の上では縛られた体と指先を動かし、「パライソ(天国)、イエス、マリア」と言って喜びを表したといいます。  また、13歳になった聖アントニオも、西坂の丘で涙を流し出迎えた両親に、微笑みながら「泣かないで、自分は天国に行くのだから」と慰めたといいます。そして隣にいた神父に「神父様、歌いましょう」と『感謝の賛歌』〕を歌う中で、槍で刺され殉教したのです。  また、聖パウロ三木は、死を目の前にして、周囲を取り囲む約4000人を超える群集の前で十字架に架けられたままこのような説教をしたと言われています。 「私は、太閤様をはじめ処刑に関わったすべての人を許します。私が切に願うのは彼とすべての日本人が一日も早くキリシタンになることです」と。

十字架を前にして、なぜ彼らはこんなにも大胆でいられたのでしょうか。キリストの愛が取り囲んでいたからです。神の聖霊が彼らとともにおられたので、それらすべての中にあっても、圧倒的な勝利者になることができたのです。

私たちの人生にもさまざまな試みが迫り、艱難や迫害が迫り、自分の力ではどうにも耐えられないと思うような状況に導かれることがありますが、しかし、聖霊がその苦難に対して圧倒的な勝利を治める力を与えてくださるのです。それゆえ私たちは、どんな試みや艱難、苦しみや迫害が襲ってきたとしても、そのようなものが神様の愛から私たちを引き離すことはできないと、勝利を宣言することができるのです。

今、皆さんが受けておられる患難や苦しみは何ですか?それがどのようなものであっても、それらのものがキリストの愛から引き離すことはできません。皆さんは、皆さんを愛してくださった方によって、それらすべての中にあっても、圧倒的な勝利者になるのです。皆さんの中に聖霊が内住しておられるからです。この聖霊が皆さんを助け、導いてくださいます。どの道に行っても、どんな失敗や困難に直面しても、すべてのことを働かせて益としてくださいます。信じましょう。この聖霊様が皆さんの中に内住しておられるとき、この勝利の確信が生まれ、どんな悪魔の悪巧みがあり、どんな試みや患難があったとしても、私たちの救いは決して揺らぐことはありません。最後まで守られるのです。神様が選ばれた民は、どんな危険な場所に置かれても、どんなことがあろうとも、決して揺らぐことはありません。神様が天の御国まで私たちを引いて行ってくださるからです。

ローマ人への手紙8章12~30節 「神の御霊に導かれる人」

きょうは「神の御霊に導かれる人」というタイトルでお話したいと思います。8章1節からのところでパウロは、キリスト・イエスにある者、つまりクリスチャンとはどういう人なのかについて語ってきました。つまり、キリストの御霊を持っている人です。9節、「しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。」とあります。

そこで、きょうのところには、その神の御霊に導かれる人にはどのようなことが起こるのかについてパウロは語っています。三つのことをお話しします。第一に、神の御霊に従って生きるなら生きるということです。第二のことは、もし神の御霊が住んでおられるなら、私たちは神の子どもにしていただけるということです。そして第三のことは、もし神の御霊が住んでおられるなら、この御霊が弱い私たちを助けてくださいます。

Ⅰ.生かしてくださる御霊(12-13)

第一に、もし神の御霊が私たちの内におられるなら、私たちは生きます。12~13節をご覧ください。

「ですから、兄弟たちよ、私たちには義務があります。肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」

パウロは、罪に対して全く無力である自分の姿を見て、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの、死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(7:24)と嘆かずにはいられませんでした。しかし、彼はそんな中にあって勝利の秘訣を見いだしたのです。それは、イエス・キリストでした。8:1~3です。

「8:1 こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。8:2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。8:3 肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。」

何と力強い言葉でしょうか。イエス・キリストにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、イエス・キリストにあるいのちの御霊の原理が、罪と死の原理から私たちを解放したからです。私たちは弱くても、キリストが御霊によって私たちの内に住んでおられるので、罪に勝利することができるのです。肉によっては無力になったため、律法にはできないことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で遣わし、私たちの罪のために十字架にお付けくださることによって、罪を処罰してくださったのです。それは肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、神が私たちに要求される律法の要求が全うされるためです。ですから、私たちはもう肉に従って生きるのではなく、御霊に従って生きているのです。肉によってからだの行いを殺そうとするのではなく、御霊によってからだの行いを殺さなければなりません。人間の力や頑張り努力によってではなく、神の恵みによってこそ肉に勝利することができるのです。

では、御霊によって肉の行いを殺すとはどういうことなのでしょうか。ガラテヤ人への手紙5章16節には、「 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」とあります。それは御霊によって歩むことです。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。」(同5:24)

アメリカのフロリダに、ある大きな長老教会がありますが、その教会の牧師はジェームズ・ケネディーという人ですが、彼はもともとダンススクールの講師でした。このスクールはかなり繁盛していたのですが、ある日突然誰も来なくなってしまいました。いったいどうしたことかと悩みながらその講師を辞めると、それまで行きたくなかった神学校に導かれたのです。しかし、そこでの訓練によってすっかり変えられた彼は、神様に尊く用いられる牧師になりました。そしてやがて「爆発する伝道」という世界的に用いられている伝道教材を作るようになったのです。いったいなぜダンススクールがつぶれてしまったのかはわかりません。ただ一つ言えることは、そのことによって神は彼を用いようとしておられたということです。ですから、それ以上進むことができないようにに、その道を閉ざされたのです。

使徒の働き16章を見ると、パウロの第二次伝道旅行の時に、彼らがアジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられるということがありました。それで彼らは仕方なくフルギヤ・ガラテの地方を通ってミシアの近くまで来た時、ビテニアに進もうとしたら、今度もイエスの御霊がそれを許しませんでした。いったいどういうことか。それで彼らはミシアを通ってトロアスまで下りますが、パウロはそこで一つの夢を見ます。それは、マケドニアに下って来て、私たちを助けてほしい」ということでした。そのとき、パウロは、それは神が自分たちに福音を宣べ伝えさせるためだと確信し、トロアスから船出してサモトラケに直行し、翌日ネアポリス、そしてピリピに到着しました。そうです、ここからヨーロッパ伝道がスタートするわけです。それは言い換えるなら、聖霊に導きによるものであったのです。それはパウロが自分の思いではなく、神の思い、聖霊の導きに従った結果、起こったのです。

今日から、大田原教会で英語礼拝がスタートしました。これは何年か前からあった計画でしたが、実際に始めてもうまくいかないのではないかということで、なかなかスタートできずにいました。しかし、ケビン兄を中心に祈り、5月か6月に1回だけやってみて、集まった人たちの意見を聞いてみましょうということでやってみると、30人位の方々が集いました。終わってから話を聞いてみると、ぜひ毎週やりたいということでした。それで私たちはどうするかを祈りました。奉仕者の問題、その後の日本語の礼拝への影響など、主の導きを求めて祈ったのです。一番大きな課題は、メッセンジャーを確保することでした。ケビン兄は月1一回できても、他の時をどうしたらよいか。それでアジア学院のティモシー宣教師に相談してみたら、とても感動してくれました。そしてぜひ協力させてほしいと申し出てくれたのです。そのようにして主は、英語礼拝をスタートさせてくださいました。これは主の導きによるのです。

パウロは言いました。「御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」これが御霊を持っている人に求められていることです。私たちがどう思うかということではなく、神の御霊がどのように導いておられるのかを知り、そこに歩むこと。そうすれば、決して肉の欲求を満足させることはないのです。

 Ⅱ.子としてくださる御霊(14-25)

第二に、神の御霊は私たちを神の子としてくださいます。14~16節をご覧ください。

「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。」

神の御霊に導かれる人の特徴は、「恐れがない」ということです。なぜなら、人を再び恐怖に陥れようとする奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたからです。私たちは神様を「アバ、父」と呼ぶことができるようになりました。これは「お父ちゃん」という親しみのこもった言葉です。「お父上様」とか「お父上様」といったかしこまった言い方ではありません。「お父さん」「お母さん」といった親しい関係の呼び名です。私の孫は私を「グランパー」と呼んでいますが、そんな感じです。全く遠慮がありません。もう少しくらい遠慮したらいいのかと思うこともありますが、全く遠慮がありません。私たちはイエス様を信じたことで、神の子とさせていただきました。私たちに恐れが生じるのは罪があるからです。その罪によって神様から捨てられたと感じるからなのですが、イエス様を信じて罪が赦され、聖霊が与えられたので恐れがないのです。御霊ご自身が、私たちが神様の子どもであることを証してくださるからです。テモテへの手紙第二1章7節には、「神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。」とあります。恐れる心は悪魔が与えるもので、信仰を離れ、神様に対する信頼が消えるようにともたらすものです。そのため恐れには刑罰が伴うのです。しかしクリスチャンは恐れではなく、愛と平和に満たされた心を持ちます。神様を信じる者には、天と地のすべての権威が与えられるからです。何とイエスの御名によって叫べば、悪しき勢力も滅ぼすことができるのです。イエスの御名にはそれだけの力があります。ペテロとヨハネは神殿の美しの門に座っている足なえに、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(使徒3:6)と命じるとそのようになりました。イエスの御名にはそれほどの力があるのです。であれば、何を恐れる必要があるでしょうか?

またクリスチャンには恐れだけでなく、愛があります。愛を受けた人々は自信があります。子どもたちを見ていてもわかりますが、自信に溢れている子どもと、そうでない子どもがいます。その違いはどこにあるかというと、家庭でどれだけ愛を受けたかどうかです。私たちがいろいろなことで心配したり、恐れたり、意気消沈してしまうのは、神様が私を愛しているという実感が持てないために起こるのです。「神様が私の味方であるなら、だれが私に敵対できるというのだ」という告白がクリスチャンの真骨頂です。神が私たちを愛しておられるという確信を持てるとき大胆になれるのです。全能の神様が私を愛してくださり、私を認めてくださっているのに、誰が私に敵対するのか?このように大胆に、いつも世に打ち勝つ者となれるのです。

そして、もし子どもであるなら、相続人でもあります。17,18節には、「子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。」とあります。

やがて私たちは神の子として、天の御国を相続します。その御国はもうこの世のものではありません。おそらくこの世において一番夢のような国はディズニーランドでしょう。私の知っている人にディズニーランドが大好きで、年に4,5回は行きます。毎日一生懸命に働いているのは、このディズニーランドに行くためだというのです。そんなに好きなのかと驚いてしまいます。しかし、ディズニーランドがどんなに魅力的な所でも、この天国と比べたら全くくらべものになりません。黙示録21章を見ると、この天国の輝きは高価な宝石に似ていて、透き通った碧玉のようであったとあります。(21:11)それは混じりけのないガラスに似た純金でできていて、土台石はすべてあらゆる宝石、また12あると言われる門はどれも真珠からできていました。(18-21)この御国を相続することができるとしたら、どんなにすばらしいことでしょうか。クリスチャンは神の子としていただいたので、この御国を相続するのです。であれば、今の時のいろいろな苦しみも、将来私たちに啓示されようとしているこの栄光に比べれば、全く取るに足りないものです。クリスチャンにもいろいろ苦難があるでしょう。しかし、私たちに与えられた御霊によって、神の子とさせていただいた今、私たちにはすばらしい栄光が約束されていることを思うとき、どんな大きな障害があっても、この御霊によって、圧倒的な勝利者になれるのです。

 Ⅲ.助けてくださる御霊(26-30)

第三に、御霊は弱い私たちを助けてくださいます。26~27節までをご覧ください。

「同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。」

人間を一言で評価するなら、「弱い」ということになるでしょう。本当に人間は弱いものです。それは神様が私たちを「土の器」と呼ばれたことからもわかります。土の器はとても壊れやすいものです。実は人間の肉体もこの土の器のように、わずかな過労にも倒れ、苦しい状況に置かれると病気になります。つい最近まで健康を誇っていた人が、急に病気で亡くなってしまうこともあります。いくら自分の健康を誇っていても、土の器のようにもろいのです。人間は肉体的にも、精神的にも、霊的にも、本当にすべての面で弱い存在なのです。しかしその弱い私たちも、内に聖霊の力が働くなら、決して弱くはありません。聖霊が弱い私たちを助けてくださるからです。

聖路加国際病の医師として105歳で召されるまで現役の医師としてご活躍された日野原重明先生は、ご自身の著書「いのちの器」という本の中で、「人間のからだは、病み、老い、やがては土に帰っていく「土の器」。しかしその器に健やかな心を盛ることができるなら、それは朽ちることのない「宝」となる」と言っています。その器に健やかな心を盛ることができるなら、それは朽ちることのない「宝」となるのです。その健やかな心こそ神の御霊なのです。

神の御霊、聖霊はどのように弱い私たちを助けてくださるのでしょうか?第一に、私たちがどのように祈ったらよいかわからない時に、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。クリスチャンの内に住まわれる聖霊様は、何よりもクリスチャンの祈りを助けてくださるというのです。皆さん、人間とって一番弱い部分は何でしょうか。それは祈りです。祈りは何よりも難しいことです。もし徹夜で奉仕してくださいと言われたら、やる人はしっかりやるでしょう。でも「徹夜で祈りなさい」と言われたら、なかなかできないものです。イエス様の弟子たちは、イエス様によくついて行きました。荒野に行こうと言われれば「はい」とついて共に行き、海に行こうと言われれば行き、あの町、この町に伝道に行こうと言えばついて行きました。しかし祈りだけはついて行けませんでした。「祈ろう」と言われるとすっかり眠りこけてしまいました。ゲッセマネの園でイエス様が「わたしのために祈っていなさい」と言われても、祈っていることができませんでした。祈りは労働中の労働であり、人の力ではできない霊的なことであり、闘いだからです。だから祈りに成功する人は力をまとい、残りのすべてのことにおいても勝利するのです。

そのような祈りを助けてくださるのが御霊です。御霊は、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださるのです。私たちを祈りの場に連れて行ってくださり、行き詰まった祈りの門を一度に開いてくださいます。なぜ御霊はこのようにして、私たちの祈りを助けてくれるのでしょうか。それは祈りを通して私たちを変え、神の恵みで満たしてくださるためです。本当に弱い私たちを、力強い神様の器に造り変えるためなのです。従って、私たちが神様のみことばに従って祈るとき、歴史の流れを変えるほどの働き人になるのです。聖霊が私たちを変え、あのエステルのように、「死ななければならない時には死にます」と言って、民族を救う働きをする器にしてくださるのです。

そればかりではありません。御霊は、何を祈ったらよいかも教えてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられるからです。なぜなら、御霊は神のみこころに従って、とりなしてくださるからです。そうでなかったら、私たちはでたらめなものばかり求めて祈ってしまうことになるでしょう。あのヤコブとヨハネの母親であつたサロメは、ある時イエス様のところにやって来て、「あのイエス様、私の二人の息子を、あなたの御国において一人は右大臣に、もう一人は左大臣にしてください。」とお願いしました。これは現代風に言えば、外務大臣と財務大臣にしてください、と頼んでいるようなものです。するとイエス様は何と言われたでしょうか?イエス様は一同を見渡されると、「あなたがたは自分が求めていることがどういうことなのかがさっぱりわかっていない」と言われました。御霊によって祈らないとこうなってしまうのです。みこころに従って正しく祈らなければなりません。子どもが包丁をくださいと言うとき、そのまま与えてやる人がどこにいるでしょうか?求めたとおりすべて与えられることが祝福ではないのです。私たちが求めるものは、自分の目に良さそうに見えても、いざ与えられると災いになってしまう場合があります。ですから、大切なのは、神のみこころに従って祈れるかどうかです。神のみこころに従って祈れることが祝福です。そのように導いてくださる方が御霊なのです。

私たちの内に住まわれる御霊は、私たちのすべての道を導いてくださいます。私たちの祈りを導かれ、最終的には神様の願われる道へと導いてくださるのです。クリスチャンとは、決して間違った祈りをしない、誤った道を行かない人のことではありません。クリスチャンにも間違いがあります。でも、このように神が弱い私たちの祈りを導いて正しい道へと導いてくださるという確信を持って、揺らぐことなく歩んで行く人のことなのです。ですから聖霊によって祈り、聖霊によって導かれる人は、次の告白をするのです。28節です。

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」

時々、イエス様を信じているクリスチャンの中にも、毎日「大変だ」と言いながら大げさに振る舞う人がいます。しかし実際によく話を聞いてみると、そんなに大したことではないのです。なぜ大変なのかというと、信仰がないからなのです。神がともにおられ、すべてを働かせて益としてくださるというのに、何が大変なのでしょうか。ですから見てください。たとえば、イエス様とともに舟に乗っていたペテロは、嵐が襲ってきたときどれほど恐れたでしょうか。「主よ、起きてください。私たちは皆死にそうです。」私たちもよく言うのではないでしょうか。「もう辛くてダメ。死にそう!」「もうダメダメ、死ぬ」何がだめなのか自分でさえもわかっていないのに「ダメ」「死ぬ」という言葉を連呼するのです。ペテロもそうでした。「主よ。ダメ。死にそう」しかしペンテコステの時に聖霊の力を体験した彼は、そのようには叫びませんでした。ヤコブが処刑されてわずか数日後、ペテロは投獄され、死刑に処せられる危機に瀕していました。それなのにペテロは獄中で大きないびきをかきながら眠っていたのです。どれほど深く眠っていたかというと、天使がやって来て彼を起こすとき、言葉では起きないほどでした。わき腹をたたいてやっと起こすほどだったのです。これがクリスチャンの余裕です。どんな困難や試練が襲って来ても、すべてを働かせて益としてくださる神様が私を守り導いてくれているのだから、私は何の心配もいらない。それは神様が私を祝福してくださるための計画の一部であって、それらすべてが神様の愛だと確信できるのです。それは主によって召された者の人生は、すべてを働かせて益としてくださる主のみわざの中にあることを信じているからです。

あの3.11の震災の時、朝日新聞の第一面に、気仙沼第一聖書バプテスト教会の記事が掲載されました。被災して何も無くなってしまった教会の跡地に、流木でできた7メートルくらいの十字架が、7~8人の人たちの手によってロープで引っ張られて立て上げる写真でした。タイトルは「祈りよ 再び」というものです。地震と津波によって2年前に建てたばかりの教会堂が流され、どんなに失意の中におられたことかと思います。その後もずっと避難所での生活を余儀なくされて、どんなに苦しみの中に置かれていたことかと思うのです。神様が生きておられるならいったいどうしてこのようなことをされるのですかと疑いが出ても少しおかしくない状況だったでしょう。そこに十字架が立ったのです。気仙沼の心の慰め、癒しになればと、十字架が立てられました。それはどんな言葉やどんな支援よりも何よりも大きな慰め、癒しです。それが新聞の第一面に掲載されて全国に配信されたのです。

そして、あれから5~6年が経ち、高台の広い大地に立派な教会ができました。全世界の方方に祈られて、以前よりも何倍も立派な教会ができたのです。こんなことだれが考えられたでしょう。でも、これが神様のなさることなのです。人の目には不幸に見えるような出来事も、神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。どんなことがあっても神様は私たちを愛しておられ、すべてを働かせて益としてくださるのです。ですから、一つの現象だけにとらわれて、「ああ、何かの間違いだ」「神様は私を見捨てられたんだ」と嘆いてはいけないのです。クリスチャンとは、すべてのことを働かせて益としてくださる神様のみこころを信じて生きる者なのです。試みや病気、障害が臨むとき、短いスパンで見たらそれは単なる不幸な出来事かもしれませんが、救い主なる神様の視点で観たら、それは必要な導き以外の何ものもありません。

アメリカにイエス様を心から信じている材木屋さんがいました。彼は40歳を過ぎたある日、突然、青天の霹靂のような知らせを受けました。不況の中、解雇通知が届いたのです。彼はほんとうにショックでした。これまで主とともに歩み、祈りつつ生きてきたのに、どうして神様はこのような試練を与えられるのかわかりませんでした。しかし、「主よ、どうしてですか」と祈っていると、彼の心の中に御声が聞こえてきました。「小さなホテルを始めてみたらどうか。多くの人々が不純な動機からホテルを開業するのに対して、あなたは純粋な動機で、多くの人々が泊まれるような健全なホテルを始めなさい。」と。そして彼がそのとおりにしたところ、神様は多くの恵みを注いでくださり、やがて世界にチェーン網を持つ巨大なホテルに成長させてくださいました。それがホリデ-・インです。神様は彼にもっと大きな計画を持っておられたので、彼が失業することを許され、それを通して新たな道へと導かれたのでした。彼はただ内に住んでおられる聖霊に従うことによって、御霊による神の国の祝福を受けたのです。

どうかこの御霊によって生かされ、強められ、助けられ、神様の深い愛を知ることができますように。この御霊によって、この世での歩みを勝利することができますように。心から祈ってやみません。

ローマ人への手紙8章1~11節 「キリスト・イエスにある者」

きょうは「キリスト・イエスにある者」というタイトルで三つのことをお話したいと思います。第一のことは、キリスト・イエスにある者は決して罪に定められることはないということです。第二のことは、キリスト・イエスにある者とはキリストの御霊を持っている人のことです。第三のことは、このキリスト・イエスにあって歩んでまいりましょうということです。

Ⅰ.救いの確かさ(1-4)

まず第一に1~4節をご覧ください。

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」

パウロは、これまで語ってきたことを受けて、「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」と宣言しています。クリスチャンでも罪に悩むことがあります。自分の中には善をしたいという思いがあるのに、かえって、したくない悪を行ってしまうという闘いがあるのです。言わなければ良いことを言ってしまったり、言わなければならないことを言えなかったりと、自分の弱さ、足りなさに思い悩み、落ち込むことがあるのです。それはほんとうにみじめな姿です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。それはただイエス・キリストだけです。神はご自分の御子を、私たちの罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、その肉体によって私たちの罪を処罰してくださいました。「こういうわけでです」こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してないのです。

何と力強い宣言でしょうか。たとえ罪に思い悩むようなことがあっても、たとえイエス様から離れてしまうようなことがあったとしても、イエス様が見捨てたり、見放したりすることは決してない。イエス・キリストにあるならば、決して罪に定められることはないというのです。なぜなら、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。この「解放した」ということばは、過去において一回限りの出来事を現す時に用いられる用法です。つまり、私たちが二度と罪に定められることがないのは、イエス様が十字架にかかって死んでくださり、その罪から解放してくださったからなのです。それまではというと、私たちは裁かれなければならない存在でした。神様から与えられた律法に対してそれを行おうとしても、自分の中にある罪がそれを利用して、かえって多くのむさぼりを引き起こしてしまう。それが人間の現実なのです。律法を行おうと思えば思うほど、それができない弱さに気づかされ、かえって死に導かれてしまう。いったいどうしたらいいのでしょうか。イエス・キリストです。イエス・キリストが解放してくださいました。肉によっては無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。キリストを十字架につけることによって・・・。私たちは、ただ神様の御前に頭を垂れ、悔い改めて、この救いを受けるだけでいいのです。そうすれば、この神のいのちの御霊が働いて、罪と死の原理から、私たちを全く解放してくださるのです。これが福音です。

それはちょうど法定に引き出される囚人のようです。私たちは自分の罪のためにいつもビクビクしていなければならないような者です。法定で審判を受けるときどんな判決を言い渡されることか。罪から来る報酬は死ですから、私たちに言い渡される審判は死刑なのです。ところが神は、その最期の審判において判決を下すとき、何と無罪と宣言してくださるというのです。アメージングです。おっどろきです。自分が今までしてきたことを思えば、当然、さばかれても仕方ない者なのに、何と無罪と宣言してくださるというのですから。全く自分の耳を疑いたくなるような事態が起こるというのです。なぜ?キリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

肉によって無力になったため、律法にはできないことを、神はしてくださいました。これは神様の一方的なみわざなのであって、私たちの力によるのではありません。私たちには神様の律法を行う力など全くないのです。ただ神の御霊が私たちの内側で働いてくださるとき、私たちにできないことでもできるようにしてくださるのです。たとえば、私たちは自分の力では大空高く飛ぶことができませが、飛べる方法が一つだけあります。大空高く飛ぶことができる鳥にぶら下がっていればいいのです。そうすればその鳥と一緒に飛ぶことが出来る。それと同じように、私たちの力ではどうあがいても神が求める律法の要求を満たすことはできませんでしたが、神の御霊である聖霊様にくっついていればできるのです。聖霊様が私たちの中でみわざをなさると、すべてのことを簡単に行うことができるのです。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

私たちの力では世界宣教を担う事はできませんが、聖霊様が働かれ、力を与えられますと、私たちは力強い証人になることができます。たとえ雄弁な舌をもっていても、人を変えることはできませんが、けれども聖霊が働かれると、一度のメッセージで三千人、五千人が悔い改めるようになるのです。今、日本には神様が働いておられないように感じますが、聖霊様が働かれるとこの国は一瞬にして主のものになるのです。

クリスチャンの人生とは、この聖霊を受け、聖霊に頼る人生です。「聖霊が私たちに力をくださるなら、その方にあってできないことはありません」と告白して生きるのがクリスチャンの人生なのです。ですから私たちは、「権力によらず、能力によらず、私の霊によって」(ゼカリヤ4:6)という主のみことばに励まされながら、進んでいくのです。歯を食いしばって頑張っても無駄です。主が聖霊を注いでくださってはじめて、すべてのことは成し遂げられるからです。

肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してないのです。たとえ私たちが罪を犯すようなことがあっても、神から離れるようなことがあったとしても、それでクリスチャンでなくなったりするようなことは決してありません。それは一方的な神の恵みなのです。神の救いは、私たちの状況によって消えてしまったり溶けて無くなったりしまうようなもろいものでありません。いつまでも変わることがない神の約束のことばに基づいたものなのです。ですから救いの確信というのは、自分の感情や気分、だれかの言ったことば、置かれた状況によって左右されるものではなく、この神様の約束のことばに根ざしているのです。そうでなかったら、私たちの信仰はジェットコースターのようにいつも上がったり下がったりして不安定なものになってしまうでしょう。しかし、この神の約束に信頼するなら、どんなことがあっても揺すぶられることがなく、確かな信仰を持ち続けることができるのです。

Ⅱ.キリスト・イエスにある者(9-11)

第二のことは、ではキリスト・イエスにある者とはどういう人のことを言うのでしょうか?9~11節をご覧ください。

「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」

一般的にクリスチャンというのは、洗礼を受けて教会に加わり、教会のために一生懸命に活動している人というイメージがありますが、必ずしもそうではありません。ここには、「神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。」とか、「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」とあります。「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。」「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」すなわち、クリスチャンというのは、キリストの御霊を持っているかどうかなのです。Iコリント12章13節を開いてみましょう。

「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」

これは聖霊のバプテスマについて記されているところです。聖霊のバプテスマついては新約聖書の中に何か所か出てきますが、その内容について語られているのはこの箇所だけです。すなわち、聖霊のバプテスマとは頭であられるキリストのからだに結び合わされ、そのからだである教会の一員になることであって、それ以外の何ものでもありません。よく第二の恵みとしての聖霊のバプテスマという意味で使われる方がおられますが、それは聖霊に満たされることであって、聖霊のバプテスマではありません。聖霊のバプテスマとは聖霊によってキリストと一つになることです。イエス様が十字架にかかって死なれたように自分に死に、イエス様がその死からよみがえられたようにキリストのいのちにあって生きる人、それがクリスチャンです。イエス様はそのことをぶどうの木のたとえで、次のように教えられました。ヨハネの福音書15章5節です。

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」

皆さんはNHKの大河ドラマ「江~戦国たちの姫たち~」を観てますか。別に観なくてもいいのですが、前回の放映の中に戦国時代に生きた細川ガラシャというキリシタンの女性が出ていました。彼女は織田信長に謀反を起こし、本能寺の変で主君信長を倒した明智光秀の娘ですが、後に山崎の戦いで豊臣秀吉が明智光秀に勝利すると、秀吉は当時細川忠興の妻となっていたこのガラシヤ夫人こと「たま」を離縁させ、京都の山里に幽閉さるのです。その間約二年の間、彼女は二人の子供を連れて過酷な状況を生き抜くのですが、そんな彼女を支えたのがキリシタン信仰でした。彼女に仕えていた侍女に清原マリアというキリシタンがいて、彼女をとおしてイエス・キリストを信じる信仰に導かれるのです。やがて秀吉の配慮によって忠興との復縁が許され大阪の屋敷に戻されるも、秀吉のキリシタン禁令が発布される中、彼女は必死で信仰に生きました。  やがて秀吉の死後、石田三成と徳川家康が天下分け目の関ヶ原の戦いを交えると、家康側についた細川家から人質に取ろうと石田三成が屋敷にやって来ると、たまは断固としてそれを拒み、家老に胸を突かせて死にました。自害することは神のおぼしめしではないという教えを知っていたからです。そのときにたまが最期に詠んだ詩というのがこれです。

「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」

これは人生にはすべて神の時があって、その神のみこころのままに生きることが幸いな人生であることを歌った歌です。なぜに彼女はこのように歌うことができたのでしょうか。その信仰に生きていたからです。生きることはキリスト、死ぬこともまた益です、とパウロが告白したように、彼女はキリストともに死に、キリストとともに生きる、その信仰に生きていたのです。クリスチャンというのは形ではありません。神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるかどうか、キリストの御霊を持っておられるかどうかなのです。もしイエスを死者の中からよみがえらせてくださった方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、その御霊によって、私たちの死ぬべきからだも生かしていただける。あの罪と死の原理から、解放していただけるのです。ですから私たちにとって最も重要なことは、神の御霊によって、キリスト・イエスに結び合わされているかどうか、キリスト・イエスのうちにあるかどうかということなのです。もしキリスト・イエスにあるならば、もう罪に悩む必要はありません。キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。決して罪に定められることはありません。

Ⅲ.御霊に従って歩もう(5-8)

ですから第三のことは、御霊に従って歩みましょうということです。5~7節をご覧ください。

「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。」

ここには「肉に従う者」とか「御霊に従う者」という二種類の人について記されてありますが、これはそれぞれどういう人のことでしょうか?ここで使われている「肉」という言葉は「サルクス」というギリシャ語で、生まれながらの人間を指す場合に用いられる言葉です。たとえば、ヨハネの福音書3章6節には、

「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」

とありますが、この「肉」こそ「サルクス」です。つまり、肉体的誕生しかしていない人のこと、生まれながらの人のことです。それに対して御霊の人とは、御霊による超自然的な霊的誕生をした人で、本当の意味で生まれ変わった人のことです。それはただ単に宗教に関心があるとか、宗教的な活動にかかわっている、参加している人のことではありません。あるいは、神学に興味があってそうした本を熱心に研究している人のことでもありません。別にクリスチャンでなくても神学に興味をもったり、宗教的な活動に参加することができるからです。あるいはまた、宗教的な現象、たとえば奇跡とか、病気の癒しとかといった神秘的な体験を求めることでもないのです。御霊に従う人というのは、そうした外見的なこととは全く関係なく、御霊によって新しく生まれ変わり、御霊の原理、御霊の生活方針によって生きようとしているかどうかということです。ここで注意していただきたいことは、たとえその人が信仰的に誤った理解を持っていたり、間違ったことをするようなことがあったとしても、その人が救われていないと判断することはできないということです。よく私たちは信仰的でない人をみると、「あの人、あれでもクリスチャン?」言ってしまうことがありますが、その方がクリスチャンであるかどうかを私たちが軽率に判断してはいけないのです。それは神様の領域であって、神様がお決めになることです。ただ神の約束のことばによるならば、もしキリストの御霊を持っていないならば、その人はキリストのものではありませんが、もしキリストの御霊を持っているならば、その人はキリストのものであるということです。たとえ今はそうでなくても、キリストの御霊を持っていれば、その人はやがて立派なクリスチャンになることでしょう。それはここに、「肉にある者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます」とあるからです。なのに表面的な言動を見て、あの人は救われているとか、いないと判断するとしたら、それこそみことばを逸脱したことばであって、厳に戒められなければならないことなのです。

ところで、このような人間観は一般的に考えられているものとは違います。一般的には肉に従っているかとか御霊に従っているかといったことを全然問題にしません。一般的には、人は修行を積むことによって自分自身を向上させていき、やがて天国に入ることができる人格者になっていくと考えられています。自分の努力や力によって自分の品性や意志を聖め、また高めようとするわけです。しかし聖書が教えていることは、肉に従うのか御霊に従うのかどっちなのかということであって、これが基本だと説きます。そうでないと、それがただの小手先の改革になってしまうからです。ただ小手先に、表面的に改革をしてみたところで、死からいのちに移すことはできません。人間がいくら自分の意志や思いを訓練し、修行を積み重ねても、肉に縛られているかぎり、それは悪魔の手中に陥っているのであって、その行き着くところは死でしかないからです。その死の支配から解放されいのちと平安を持つためには、御霊によらなければなりません。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安だからです。肉にある者は神を喜ばせることはできません。御霊に従うこと、御霊の思いに満たされること、それがいのちと平安です。

であるとすれば、私たちの信仰生活において最も重要なことは何かをするということではなくて、祈りとみことばを通して神と交わり、神の御霊に従って生きることです。祈りとみことばによって神のいのちに生きるなら、神がしてくださるでしょう。神が私たちの人格を変えて、神に似た者のようにしてくださいます。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実を実らせてくださいます。クリスチャンの生涯はこうした実を追い求めていく人生ではありません。こうした恵みが追ってくる人生なのです。なぜ?神と交わり、御霊のいのちが働いてくださるからです。同じようなことをしているようでも、その出所が全く違います。パウロは、エペソ人への手紙1章19節で、

「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」

と祈っていますが、信じる者に、信じてみことばに従い、聖い神の御前に進み出る者に、この神の全能の力が働き、日々、満ち満ちたみわざを現してくださるのです。これこそ神を信じ、御霊に従って生きる者に注がれる神の祝福なのです。どうかこの神の恵みにとどまり、御霊に従う者となり、御霊に属することをひたすら求めてまいりましょう。ちょっとしたことでは決して動じないみことばの約束に基づいて、この確かな救いを握りしめてまいりましょう。

 

ローマ人への手紙7章14~25節 「勝利ある人生をめざして」

きょうは「勝利ある人生をめざして」というタイトルでお話したいと思います。24節のところでパウロは、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるでしょうか。」と言っています。彼は、7章1節からのところで語ってきた律法との関係の中で、ほんとうに自分はみじめな人間ですと告白したのです。問題は、彼がこのように語ったのはいつであったかということです。この解釈については大きく分けて三つの解釈があります。第一は、これは彼がまだ生まれ変わっていない時の、未信者の状態の時について言及しているというものです。第二は、これは彼が新しく生まれ変わってからの状態、つまりクリスチャンになってからの姿について言及しているというものです。そして第三の解釈は、これは彼が生まれ変わったばかりの状態ではあるけれども、まだ第二の恵みを受けていない時の姿であるということです。

興味深いことに、キリスト教の歴史を見てみますと、最初の3世紀の間は、第一の解釈がとられていました。つまり、これは彼がまだ生まれ変わっていない時の状態についてしるされてあるという立場です。有名な神学者で紀元400年ころに活躍したアウグスチヌスも、最初のころは、この解釈にしたがっていました。しかし、彼はのちにその考えを改めて、第二の解釈でなければならないと主張するようになりました。その後、宗教改革やピューリタンの指導者たちは、この第二の解釈を採用し、これが生まれ変わった人の状態についてしるしていると解釈するようになったのです。ところが、ある人は生まれ変わったクリスチャンがこんなみじめな状態にあるはずがないと、第三の考えを主張する人も現れるようになったのです。

いったいどれが正しいのでしょうか。きょうはこの聖書の箇所を正しく解釈しながら、私たち人間とはどのような者なのかについてよく理解しながら、クリスチャンとして真に勝利ある人生を歩んでいきたいと思うのです。きょうは、このことについて三つのことをお話します。第一のことは、パウロの葛藤についてです。第二に、そのパウロの葛藤の原因であった二つの原理を見ていきましょう。第三のことは、そうしたみじめな人間を救う力、イエス・キリストについてです。

Ⅰ.パウロの葛藤(14-20)

まず第一に、パウロの葛藤を見てみましょう。14~20節までをご覧ください。まず14~15節です。

「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。」

パウロは7節のところで、「律法は罪なのか」という問題提起をしてから、「絶対にそんなことはありません」と言って、律法の与えられた目的について語ってきました。それは律法によって、自分たちが罪深い者であることに気づくためでした。ではどうして、こんなに良いものが、私たちに死をもたらすのでしょうか。それは律法が問題なのではありません。問題なのは罪です。罪がこの律法を利用して、私たちがもっと罪深い者であるようにとし向けたのです。その説明がこの14節にしるされていることです。このところをよく見ると、パウロは「私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です」と現在形で書かれてあります。これまではそうではありませんでした。これまでは過去形で書かれてありました。たとえば、9節には、「私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。」とあります。戒めが来るまでは律法は関係ありませんでしたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死んだのです。にもかわわらずここでは、「私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です」と現在形で書かれてあるのです。どういうことかと言いますと、14節のところに書かれてあることは救われる前の状態のことではなく、救われてからのことであるということです。このようなみじめな人間の姿というのは、救われる前ではなく救われた後のことなのです。救われて罪深い自分の姿に直面したパウロは、「ああ、私はほんとうにみじめな人間です」と告白せざるを得なかったのです。アウグスチヌスが、これがパウロが救われる以前の状態のことを言っているのではなく、救われた後の、クリスチャンになってからの赤裸々な告白であるという解釈に変わったのは、それゆえです。

皆さん、救われて信仰に生きたパウロでさえ、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから私を救い出してくれるのでしょうか」と告白せざるを得ないほどの葛藤に置かれていたのです。皆さん、信仰のしっかりした人は決して状況に揺さぶられないのでしょうか。そんなことはありません。どんなに信仰があつい人であっても、倒れてしまうときもあるのです。あのエリヤもそうでした。列王記第一18章を見ると、神様の預言者エリヤが、カルメル山でバアルとアシェラの預言者850人と戦って勝利した話が出てきます。このときのエリヤの姿はあたかもほえたける獅子のようで、勢いのある預言者でした。しかしその次の瞬間、アハブの妻イゼベルが登場し、エリヤを殺してやると宣言すると、彼は恐れて逃げ、エニシダの木の陰に座り、「主よ。もう十分です。私の命を取ってください。」と泣きつくのです。ちょっと前まではあんなに威勢の良かったエリヤが、「主よ、もう十分だから命を取ってください」と嘆く。いったいどちらが本当のエリヤの姿なのでしょうか。「主よ、もう十分です。どうか命を取ってください」と言った、あの姿こそ、本当の彼の姿なのではないでしょうか。人間は虚栄をはって、いかにも強そうに見せても、しょせん人間なのです。みんな弱い器にすぎません。

宗教改革者のマルチン・ルターは強靱な人物でした。当時のカトリックの勢力との戦いを一身に担った男です。しかしある日、急に無力感に襲われました。それを見ていた彼の妻が、喪服を着てルターの前に現れたのです。びっくりしたルターが、「いったいどうしたのか?身内の者でも死んだのか?」と尋ねると、妻が答えて言いました。「だって、神様はすべてのことを統べ治めておられる方なのに、あなたがシュンと落ち込んでいるから、神様はお亡くなりになられたかと思ったのです。」そのことばに奮起したルターは再び力を得て、改革の旗印をいよいよ高く掲げていったのです。

どんな信仰の勇士でも、動揺し、落胆することがあるのです。「ただ信仰によって」とあれほど叫んでいたルターでさえも、落胆しました。これが人間の姿なのです。クリスチャンになったからといって、もう信じて何年にもなるから落ち込まないということはありません。どんなに強い勇士のような人でも、あるときは落胆して苦しむ、弱い人間の姿をさらすこともあるのです。

使徒パウロも同じです。15節を見ると、「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。」と告白しています。Ⅱコリント1章8節を見ると、彼は非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受けていたと告白しています。それがどのようなプレッシャーだったのかはわかりません。しかし、それは耐えられないほどのプレッシャーでした。キリストの福音を伝えたあのパウロでさえ、そうした弱さがあったのです。自分の願うことではなく、かえって憎むことを、罪を犯してしまうということが、どうしてもありました。18,19節でも同じようなことを言っています。パウロの葛藤は、自分の中には善をしたいという願いがあるにもかかわらず、悪を行ってしまうという矛盾した自分というか、弱い自分があったのです。

これがパウロの率直な告白でした。この告白は何を意味しているのかというと、使徒パウロほどになれば、悩みや問題、葛藤といったことは一切なく、日々確信に満ちて、口さえ開けば「ハレルヤ!」とほとばしり、どんな試みや患難がやって来ても揺らぐことなどないかというとそうではなく、その内側にはいつも神様のみこころに従えないという悩みがあり、その内面は葛藤で満ちていたということです。であれば、普通の聖徒である私たちにはなおさら、そうした葛藤はつきものなのではないでしょうか。

ある病気との闘いの中にある方とお話したことがあります。この方はその病気と闘っていたとき、自分はクリスチャンなのにどうしてすぐに心を騒がせる弱い人間なんだろうと思ったそうです。しかし、私と話しているうちに、私が「自分にもそうして落ち込むことがありましたよ。あのとき、神様は自分を見捨てられたのではないかと思ったくらい、「神様どうしてですか」と嘆いて落ち込んだんです」と言ったら、その方がこう言われました。「先生。励まされました。先生でも落ち込まれることがあるんですね。それを聞いて励まされました」と。その方はどうも私という人間は落ち込むことを知らない人間なんじゃないかと思っていたらしいのです。とんでもない。そんなに強い人間などどこにもいません。みんなそうやって悩み、苦しみ、もがきながら、闘っているのです。それが人間の、クリスチャンの姿なのです。

Ⅱ.葛藤の原因(21-23)

では、いったいどうしてクリスチャンには、こんなに闘いがあるのでしょうか。次にその原因について考えて行きたいと思いますが、それはクリスチャンには二つの原理があるからです。21~23節をご覧ください。

「そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。」

この二つの律法とは内なる人である心の律法に対して、外なる人である肉の律法のことです。8章2節のことばで表現するなら、いのちの御霊の原理に対する罪と死の原理です。この罪と死の原理がいのちの御霊の原理に闘いを挑むので、こうした葛藤が生じるのです。ですから、イエス様を信じていない人々が、こうした葛藤や悩みを抱えることはありません。イエス様を信じていない人は、罪と死の原理という一つの原理に完全に支配されているからです。外なる人も内なる人も同じ律法に支配されているので、両者の間に葛藤が生じることがないのです。イエス様を信じていない人が「祈らなかった」と言って悩んだりすることはありません。けれども、いったんイエス様を信じ、心に迎え入れた人たちはそうではありません。イエス様を信じた人たちにはいのちの御霊が与えられているので、信仰が大きいとか小さいとかにかかわらず、このいのちの御霊の原理に罪と死の原理が闘いを挑むので、葛藤が生じるのです。しかし、心配には及びません。こうした葛藤があるということ自体、そこにいのちがあることを意味しているからです。いのちが植え付けているので、少しでも神の律法に背いたりすると、不安になったり、恐れが生じたりするのです。もしいのちがなかったら、いのちの原理が全く働いていないなら、不安などは生じません。私たちが不安になるのは、私たちの内にいのちの種が蒔かれたからなのです。ですから、罪の勢力といのちの勢力の闘いが、ここから始まるわけです。そしてこの闘いは、いのちの勢力が圧倒的な勝利を治めるまで続けられます。パウロは、Ⅱテモテ3章12節で、

「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」

と言っています。確かに、キリスト・イエスにあって生きようと思うなら、そう決心したその瞬間から、この罪と死の勢力との闘いが始まるわけです。信じているような信じていないような、ふらふらした状態で生きていたときには何の闘いもなかった人が、主のみこころに従って歩んでいこうと決心した瞬間に、その人の中に大きな変化が起こるのです。その結果、いったい何のために信じたのかさえも見失ってしまうほどの混乱が生じるのです。これまで何でもないと思っていたことができなくなったり、あたりまえだと思っていた常識がそうでなくなったりして戸惑ったりするのです。それはその人の中にいのちが芽生えたからなのです。いのちの御霊の原理が、罪と死の原理と闘っているからなのです。

使徒の働きの17章を見ると、パウロがテサロニケという町で伝道していると、その町の人たちがクリスチャンの人たちを「世界中を騒がせて来た者たち」と呼びました。いったいクリスチャンが何をしたというのでしょうか。何もしていません。ただ全世界の唯一の救い主であるイエス・キリストを信じ、この方の御名を宣べ伝えていただけです。しかし、テサロニケの人たちの目には、このクリスチャンたちの存在が、世界をひっくり返す人たちのように映ったのです。イエス様を本当にまっすぐに信じる人たちの所には、こうした革命的な変化が自ずと現れるのです。

イエス様は、マタイの福音書10章34~36節のところで、このようなことを言われました。「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。」  どういう意味でしょうか。私たちが本気でみことばに従おうとすると、家庭内の平和は崩れるということです。一方にはこの世の原理で生きようとする人がいて、もう一方ではみことばに従って生きようとする人たちがいて、ぶつかり合うからです。いのちのみわざがなされるところには、いつも罪と死の勢力があがいて暴れるからです。ですから見てください。イエス様が現れた所には、悪魔につかれた人たちが声を出して発狂しながら出て行きました。いのちそのものであられるイエス様が来られると、死の勢力はもはや隠れていることはできなかったのです。教会に葛藤が生じるのも同じです。このいのちの御霊の原理に罪と死の原理が闘いを挑むので、平和が崩れてしまうのです。ですから教会は、いつもいのちの御霊の原理に支配されるように、いつも神様の視点で物事をとらえ、神様のみこころにかなった歩みができるように祈らなければなりません。

Ⅲ.主イエス・キリストにあって(24-25)

ではどうしたらいいのでしょうか。どうしたらこの罪と死の原理に勝利することかできるのでしょうか。それはただ主イエス・キリストにあってであるということです。24~25節をご覧ください。

「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」

いったいどういうことでしょうか?パウロたる人間が、「私、ほんとうにみじめな人間です。」と嘆くゆえんは何なのでしょうか。それは彼の中には、この罪と死の原理に打ち勝つ力がないということです。彼には善を行いという思いがあっても、その善を行う力がないというのです。そして、からだの中にある罪の律法のとりこにされているというのです。みことばに従いたくても従えないというのです。これがパウロが直面した挫折感でした。そしてこれはパウロばかりではなく、すべてのクリスチャンに言えることなのです。私たちはこの罪に打ち勝つ力などないのです。ほんとうにみじめな人間でしかない。いったいどうしたらこの罪と死の原理から解放され、いのちの御霊の原理が働くのでしょうか。

パウロは、その答えがわかりました。それは全く私の中にあるものではなく、神の恵みによるものでした。25節で彼はこう言っています。「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」彼は、それはただ神様の恵みでしかないということがわかったのです。自分がいかに罪深い者であり、自分の中にはこの罪に打ち勝つ力など全くないのにもかかわらず、神がイエス・キリストによってその罪の贖いをしてくださいました。私たちはただ神様の御前に頭を垂れ、悔い改めて、神に立ち返り、神の恵みによりすがるだけでいい。そうすれば、イエス・キリストにある神の義と力が、この罪と死に完全に勝利することができる。パウロはその原理がわかったのです。この嘆息こそ祝福です。これこそ、神の恵みに深く入れられた者の告白です。信仰のない人に、このような嘆息はありません。信仰のない人には、自分の弱さ、醜さが見えないからです。人はまことの神様の恵みの光、力の光に照らされて、初めて自分がどれほど罪深い存在なのかがわかるのです。主にあって自分の弱さと足りなさを知った人だけが、この告白をすることができる。ですから、パウロの手紙などを見てみると、彼がキリストにあって歩めば歩むほど、低くされていることがわかります。比較的初期の頃に書かれたコリント人への手紙では、彼は自分のことを「使徒の中では最も小さい者」(Ⅰコリント15:9)と言っていたのに、中期に書かれたエペソ人への手紙では、「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私」(エペソ3:8)と読んでいるのです。そして、末期に書かれたテモテ第一の手紙では、「私はその罪人のかしらです」(Ⅰテモテ1:15)と言っています。完全に最低のところまで低く見ています。これが彼の福音理解でした。まさに「実るほど 頭を垂れる稲穂かな」です。それは霊的な世界でも同じ事なのです。

ある人々は自分はしっかりした器だと思っています。特に悪いことはやっていないし、主の日の礼拝もちゃんと守っている。自分は立派な信仰者だと錯覚しているので、変わっていない自分の姿を見ても、「私は何てあわれな者だ」と胸を打って、悲しむことがないのです。これは災いです。「ああ、ほんとうに私はみじめな人間だ。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と叫び、悔い改めなければなりません。この「死のからだ」ですが、これは当時の処刑の方法に「死体の抱き合わせ」というのがあって、生きている死刑囚と死体とを一緒に縛りつけるというものでしたが、その体のことです。死体が腐るときに発生する病原菌が、生きている死刑囚の体に移り、死に至るのです。普通は死ぬにの1~2ヶ月かかったと言われています。その体のことです。私たちの体はまさに死のからだなのです。いったいだれがこの死のからだから、私を解放してくれるのでしょうか。

ただイエス様だけです。この24節と25節の間には、がらっと雰囲気が変わっています。まるで今泣いたカラスがもう笑ったかのようです。大きなギャップがあります。なぜでしょうか。それは、私たちはそうした嘆き、絶望に長くとどまっていてはいけないからです。自分のみじめな状態を見るとき、私たちは、「ああ、私はほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから私を救い出してくれるのでしょうか。」と叫ばずにはいられないでしょう。がしかし、いつまでもそこにしがみついていてはいけません。私たちはそうした絶望の淵から飛び上がらなければならないのです。どうやって?イエス・キリストによってです。「イエス・キリストのゆえに」これがキーワードです。自分の力によってではなく、イエス様を仰ぎ見たら、力が湧いた、希望に溢れたというのです。私たちに救いを与えてくださるイエス様は、死に定められた状態にずっととどまり続けた存在ではありませんでした。三日目によみがえられたのです。死の力を完全に打ち破って、復活されました。ここに希望があります。イエス様は天と地のすべての権威を持っておられ、悪魔の力を完全に打ち破ることができるお方なのです。自分の内には全く希望がなくても、このイエス様によって勝利することができる。これがパウロの勝利の力でした。

ですから私たちは、いつまでも失望や落胆の中にとどまっていてはいけないのです。クリスチャンでも落ち込むことがあります。どんなに偉大なクリスチャンでもみな失望、落胆を経験したのです。ただ違うのは、その中で何を見つめたのかです。「主イエス・キリストのゆえに」ここに私たちの希望があるのです。私たちは罪と死の原理に悩み、負けそうになっては落ち込んだりする弱い者ですが、主イエス様はこうした支配を完全に打ち破る力を持っておられる方であることを覚え、ただこの方の恵みによりすがり、信仰によって、勝利ある人生を歩む者でありたいと思うのです。これが私たちの進む道なのです。

ローマ人への手紙7章7~12節 「律法は罪ですか」

きょうは、「律法は罪ですか」というタイトルでお話したいと思います。パウロは、この律法について7章1~6節までのところで論じてきました。それによるとクリスチャンというのはこの律法から解放され、キリストの花嫁として、キリストの愛と恵みのご支配に生きる者とされたということでした。このように言うと、いかにも律法が悪いものであるかのように聞こえるので、パウロは「律法は罪なのでしょうか」と問いかけることによって、律法と罪との関係について説明を加えようとしたのです。それがこの箇所です。

律法とは神の戒めのことです。それは、狭い意味で言うなら出エジプト記20章に記されているモーセの十戒のことであり、広い意味で言うなら旧約聖書全体を指します。つまり「このようにしてはいけない」とか、「こうしなさい」という神のおきてのことです。この律法をどのように見るかということは、私たちクリスチャンにとって、極めて重要なことです。というのは、これを正しく理解していませんと福音がボケてしまうからです。そして、極端な律法主義に陥ってしまったり、逆に律法など必要ないという律法不要論を称えたりして、いつしか聖書の教えている福音からズレてしまうことにもなりかねません。

きょうはこの律法について三つのことをお話したいと思います。まず第一のことは、律法が与えられたのは罪を知るためであったということです。第二のことは、この律法によって私たちの内にある罪が働き、あらゆるむさぼりを引き起こすということ。そして第三のことは、その結果私たちをいのちに導くはずの律法が、かえって死に導くものとなってしまったということです。

Ⅰ.律法によって罪を知る(7)

まず第一に、律法が与えられのは罪を知るためであったということについて見ていきましょう。7節をご覧ください。

「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。」

パウロは、1節から語ってきたことを受けて、「それではどういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか」と問いかけます。それに対してパウロは、絶対にそんなことはないと断言します。12節にあるように、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。ではなぜ神様は律法を与えられたのでしょうか。それは罪を知るためです。律法によらないでは、罪を知ることができないからです。律法が「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知りませんでした。むさぼりとは、「欲深く物をほしがること。欲ばること。」(国語辞書)です。聖書の脚注には、「悪い欲望」とありますが、これは神様が禁じておられることを、あえてしようという願望のことです。パウロがなぜこの戒めを取り上げたのかというと、十戒の中でもこの戒めが、他の戒めと違う点があったからです。他の九つの戒めはすべて体の外に現れる罪であるのに対して、このむさぼりだけは心の中で犯す罪であったという点です。たとえば、「あなたは偶像を造ってはならない」とか、「それを拝んではない」「殺してはならない」「姦淫してはならない」といった戒めはすべて外側に現れる罪ですが、「むさぼってはならない」というのは、そういう形では現れてきません。それは心の中の隠れた罪なのです。

パウロは、イエス様を信じるまでは律法に厳格なパリサイ人として、そのおきてに忠実に従っていると思っていました。しかし、この「むさぼってはならない」という戒めを受けたとき、これまで抱いてきた罪に対する理解が打ち砕かれ、自分が罪人であることに気づかされたのです。まさか心に思うことまで見透かされ、そこまで光を当てられるとするならば、自分は正しい者だと主張できる人などだれもいないでしょう。だれもが神の戒めを受けるまでは、罪とは法を破ることであって、法律さえ守っていれば、自分はまともな人間だと思っているのです。私もかつてはそうでした。社会のルールを守って、温かい心、優しい心、思いやりの心があれば、なかなかいい人間じゃないかと思っていたのです。最近の宣伝で、「人の思いは見えないけれど、思いやりは見える」ということばがあります。電車に乗っていた時にお年寄りがやって来て、その方に席をお譲りする。立派なことです。そうした思いやりが見えるとき、自分って何ていい人間なんだろうと思うのです。しかし、その見えない思いが問題です。その思いを、たとえばプロジェクターなどで写してみようものなら、恥ずかしくて顔を覆いたくなるのではないでしょうか。そうした私たちの思いを写しだし、私たちがどんなに罪深い者なのかを知らせてくれるのがこの律法なのです。

実は、律法が与えられた目的は、そこにあったのです。イエス様はマタイの福音書5章21~28節のところで、このことを教えられました。普通ユダヤ人は、「殺してはならない」という戒めを、手を下して人を殺すことだと考えていましたが、イエス様はそれだけが殺人なのではなく、自分の兄弟に対して腹を立てたり、「ばか者」というようなことがあったとしたら、それもまた殺人を犯したことと同じなのだ言われました。また、姦淫についても、実際に行為としての姦淫だけに限ったことではなく、心の中で情欲を抱いて女を見る者は、すでに姦淫を犯したのです、と言われました。つまり、律法というのは本来心の問題を取り扱っていたのであって、そういう面から見たら、だれも罪を犯していないなどと言える者はいないのです。すべての人が迷い出て、みな無益な者となってしまった。そのことを知らせるために律法が与えられたのです。

それは、救いというのはこうした罪の自覚から始まるからです。人が罪についての正しい自覚を持つことなしに、救いに入れられることはありません。その罪をいかんなく示し、そのままでいることができないように、時には不安を与えることはあっても、救われたいという思いを起こさせるものが律法なのです。

Ⅱ.律法を利用する罪(8)

では何が問題なのでしょうか。問題は律法ではなく、私たちの中にある罪です。8節をご覧ください。

「しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。」

「機会をとらえ」というのは、攻撃の拠点として利用することです。律法そのものはすばらしいものであり、正しく、良いものですが、罪が、私たちの内にある罪がこの律法を利用して、攻撃してくるのです。それはちょうど「てこ」のようなものです。てこというのは、重くてなかなか動きそうもない大きな石などを動かす時に使われるものですが、支点と呼ばれるものを利用して、長い棒を使って動かすと、重くてなかなか動かない石でも容易く動かすことかできます。たとえば、罪は「むさぼるな」という律法をてこにして、私たちのうちにあらゆるむさぼりを引き起こすのです。人は禁止されると、逆に行いたくなるものです。禁じられると、逆に欲望が燃え上がり、罪は生き生きと生き始め、誰もそれを押さえることができなくなって、悩み苦しむのです。

たとえば、自動車を運転していて制限速度の表示を見ると、もっとスピードを出したくなるのは私だけでしょうか。制限速度が40キロとか50キロとか出ていると、もっとスピードを出したくなって、ほとんど人が50キロとか60キロで走ってしまうのではないでしょうか。10キロくらいだったら捕まらないだろう・・・と。ちょうどそれと同じように、律法がそこにあると、それを破りたいという思いが私たちの内側に起こってくるのです。それは私たちの中にある罪がその律法をてこにして働きかけ、ありとあらゆるむさぼりを生み出すからです。

ですから、今日の世の中を見てください。その頽廃(たいはい:風俗・気風がくずれ不健全になること。くずれ 衰えること。こわれ荒れること。)ぶりは恐ろしいほどです。まさにソドムとゴモラのように、不品行、汚れ、情欲に満ち溢れています。道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行いをむさぼるようになったのです。(エペソ4:19)それは、生まれながらにして私たちの中にある罪が、戒めを利用して、私たちの中にありとあらゆるむさぼりを生み出したからなのです。いくら道徳的なことを教えたとしても、それでその人が自分の力でそれを守れるかというとそうではなく、かえってありとあらゆるむさぼりを生み出すようになります。罪はそれほどまでに力があるのです。そういう意味では、そうした道徳的な教えや戒め、律法は全く無力でしかありません。

ですから、神様は罪人である私たちが救われるためには、そうした律法を守ることを要求しないのです。そんなことはできないことだからです。ではどうしたらいいのでしょうか。神の救いを信じることです。神様は、その大きなあわれみによって、このように自分では律法を守ることができない無力な人間を救うために、ご自身のひとり子イエス・キリストをこの世にお与えになりました。イエス様を十字架に付けてくださり、私たちの罪の身代わりとなってその贖いを成し遂げてくださることによって、私たちを罪から救う道を用意してくださったのです。私たちはただ自分の罪を認め、悔い改めて、イエス・キリストを罪からの救い主と信じればいいのです。そうすれば、神の完全な義が私たちに臨み、私たちはすべての罪が赦され、その支配から解放されるのです。5章20~21節に「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」というみことばがありますが、私たちがキリストの十字架のもとに行った時、はじめてその真意がわかるようになるのです。

Ⅲ.死に導く律法(9-11)

このように、私たちの内にある罪が律法を利用して、ありとあらゆるむさぼりを引き起こすようになったのだとしたら、私たちはいったいどうなってしまうのでしょうか。死に導かれます。9~11節をご覧ください。

「私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。それは、戒めによって機会を捕らえた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。」

律法自体は聖なるものであり、正しく、良いものですが、その律法が与えられたことによって、罪がそれを利用し、さまざまなむさぼりを引き起こした結果、人は死んでしまいました。いのちに導くはずの神の戒めが、かえって死に導くものであることを、パウロは知ったのです。パウロは神の律法を行うことにおいてはきわめて熱心な者であって、その律法による義については、非難されるところのない者でした。しかし、それは律法が本当に言わんとしていたことを正しく理解していなかったからであり、それが本当の意味でわかったとき、自分がどれほど罪深い者であるかに気がついたのです。それはまさに目から鱗でした。

今日、どれだけ多くの人々が回心以前のパウロのようでしょうか。いかにも自分が正しい者であるかのように思い込み、自分の義を誇り、他の人を非難してしまうのです。一般的に道徳的であると思われている人ほどそうです。それはまさに、祈るために宮に上ったあのパリサイ人のようではないでしょうか。彼は立って、心の中でこう祈りました。

「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫をする者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」(ルカ18:11~12)

これは罪がわからない人の姿なのです。本当の意味で自分がどんなに罪深い者であるかがわかるなら、他の人のことをあれこれと言うようなことなどできないからです。本当に罪がわかる人というのは、一方の取税人のようです。彼は目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいでこう祈りました。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』(同18:13)と。

いったいこの二人のうちでどちらが義と認められたでしょうかす。パリサイ人ではありません。取税人の方でした。「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(同18:14)    私たちに律法が与えられたのは、私たちがどんなに弱く、罪深い者であるかに気づかせるためです。神様のさばきの前には全く滅ぶべき者にすぎないということを知らせるためだったのです。それが「死んだ」という意味です。この死んだ人だけが、キリストの福音によって生きることができます。自分の力で何かができると考えているうちはキリストの恵みがわかりません。私たちにあるのは罪だけです。もう死んでいるのです。そのことがわかる人だけが、キリストの救いに入れられ、神のいのち、永遠のいのちが与えられ、本当に生き生きとした人生に入れられるのです。それが福音なのです。

今、日本に必要なのはこの福音ではないでしょうか。それは砂地に建てられた見せかけだけの立派な家のようではありません。堅固な岩の上に建てられた家のようです。雨が降って、風が吹き付けられても、その家は倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。確かな土台の上に建てられた家です。神様は、そのように真の生き生きしたいのちを、人生を、私たちにも与えたいのです。

先週はイースターでしたが、その前日の土曜日に、私はルカの福音書23章39~43節のみことばを読みました。それはちょうどイエス様と一緒に二人の強盗が十字架につけたられた話でした。十字架にかかった二人の罪人は、最後の瞬間に全く違う選択をしました。一人はイエス様に向かって悪口を言ってのろい、非難しました。しかし、もう一人の強盗は、イエスを神の子であると信じました。自分は当然死ぬべき罪人であるが、イエス様は罪のない方でありながらも、不当な処罰を受けて死んで行かれることを知っていました。そのような中で彼は、そんな自分のような罪人でも救われますかと尋ねたのです。イエス様は何と言われたでしょうか。

「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)

と言われました。彼は最後の瞬間に永遠のいのちを得て、パラダイスに入れられたのです。大切なことは、悔い改めて、イエス・キリストを信じることです。ジョン・ピルドは、その著「恵みの上に恵み(下)」の中で次のように言っています。 「悔い改めなしには、救いもありません。神の御前で悔い改めるとき、赦されない罪人はいません。悔い改めは、罪の赦しを受ける唯一の道です。イエスが悔い改める強盗に救いの道を開いてくださったことは、どんな罪人でも悔い改めれば救われることを私たちに示すためでした。まことの悔い改めは、神を喜ばせ、救いの祝福を受ける、最も価値ある行いであることを覚えてください。」

律法を守ろうとすることは大切なことです。しかし、律法を守ることによっては救われないのです。律法を守ろうとすればするほど罪の意識が生じるからです。そこにあるのは「死」です。「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」(ローマ3:21~23)

イエス・キリストの十字架によらなければ、この罪の力を打ち砕くことはできません。どんなに強い意志、どんなに高尚な道徳、鋼鉄のような律法をもってしても防げなかった罪の力が、イエス様が十字架に釘付けられたことによって砕かれたのです。イエス・キリストの十字架だけが、罪と死の権勢から私たちを救ってくれる唯一の道なのです。このイエスを信じる信仰による義。それが私たちに与えられた新しい希望なのです。

地上においた船をどれだけ動かそうとしても、屈強な男たちが何十人いても、一隻の船さえ動かすのは容易なことではありません。しかし潮が満ちて船が浮くと、幼い子供がちょっと押しただけでも船は動くようになります。これが神様のみわざです。自分の力で律法を行おうとするのではなく、律法を完全に行われ、私たちの罪を贖ってくださったイエス・キリストを信じ、この方にすべての重荷をゆだねるとき、取るに足りない私たちの力でも、悠々と船を動かすことができる、驚くべき不思議な人生が展開していくのです。

ローマ人への手紙7章1~6節 「キリストの花嫁として」

きょうは、「キリストの花嫁として」というタイトルでお話したいと思います。パウロは6章の中で、クリスチャンとはどのような存在なのかについて語りました。それは、キリストに結びついた者であるということでした。パウロは、そのことをわかりやすく教えるために、主人と奴隷のたとえを使って説明してきました。つまり、クリスチャンというのは罪の奴隷から解放されて、神の奴隷となったということです。きょうのところでは、それを結婚のたとえを使ってさらに説明を加えようとしています。つまり、クリスチャンとはキリストと結ばれ、キリストと結婚した、キリストの花嫁であるということです。それまでは律法という夫に結ばれていたので律法に縛られていましたが、その古い夫である律法が死んでしまったので、新しい夫であるキリストと結ばれ、この方のために生きるようにされたというのです。

きょうは、このキリストとの結婚についてついて三つのことをお話したいと思います。まず第一に、古い夫について見ていきましょう。古い夫とは律法のことです。私たちは、この古い夫である律法と結婚していた時にはその支配の下にありましたが、その夫が死んでしまった以上、もはやその支配から解放されました。第二のことは、新しい夫についてです。その新しい夫はだれのことでしょうか。そうです、キリストのことです。クリスチャンは古い夫である律法と死別した後に、キリストと結ばれて、キリストの花嫁となりました。ですから第三のことは、キリストの花嫁として生きるということです。

Ⅰ.古い夫、律法(1-3)

まず古い夫について見ていきましょう。1~3節までをご覧ください。 「それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか―私は律法を知っている人々に言っているのです。―夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。」

このローマ人への手紙7章は、実際には6章14節の説明です。パウロは、6章14節で「というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」と宣言しましたが、この短い聖句を説明するために、主人と奴隷の関係を例にして説明した後に、今度は婚姻関係を例に取り上げて説明を加えようとしているのです。そしてそのポイントは何かというと、法律における婚姻関係というのはその人が生きている間だけの期間であって、その人が死んでしまえば、その法律から解放される、すなわち、その後であれば、だれと結婚しても自由であるということです。

では、これまで私たちが結婚していた相手とは、どのような人だったのでしょうか。ここには、それは律法であったとしるされてあります。法の下のあったということはどういうことかと言いますと、犯罪者であったということです。なぜなら、法というのは犯罪した人にだけ適用され、意味を持つからです。私たちは、律法の前ではそのような者なのです。たとえば、十戒を見ると、その最初の戒めに、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」(出エジプト20:3)とあります。これはどういう意味でしょうか。もちろん、造り主なる神様以外に神があってはならないということですが、コロサイ3章5節を見ると、この中でパウロは、「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」と言っています。むさぼることが偶像礼拝だとしたら、この戒めを守っていると言える人がいったいいるでしょうか。だれもいません。私たちはあれも欲しい、これも欲しいとむさぼる者だからです。「殺してはならない」という戒めもあります。しかし、イエス様は兄弟に向かって腹を立てる者、「能なし」と言うような者、「ばか者」と言うような者はすでに心の中で人を殺したと言っています。そうであれば、私たちの中で人を殺したことのない人などいるでしょうか?「姦淫してはならない」という戒めを私たちは聞いています。しかし、イエス様は、女性を見て情欲を抱く者はすでに姦淫を犯していると言われました。それならば、姦淫などしたことないなどと、胸を張って言える人などだれもいないのです。私たちはみな、これらの律法の前には、罪ある者でしかないのです。ですからパウロは、このローマ書3章10~11節のところで、「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」と言っているのです。私たちはみな、この律法の前には罪人であり、その束縛の下に暮らしているのです。

パウロはこのことを、夫と妻の関係をとおして説明しています。1節、「それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか。」2節、「夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に縛られています。」私たちは以前、この妻のように、律法という夫に縛られていました。この夫といっしょにいれば罪に定められてばかりいるので、そこから解放されたいと別れようとしても別れることができませんでした。このパウロの時代は、女性の側から離婚を要求することは考えられませんでした。結局、この奥さんは夫の束縛から脱出できないのです。

しかし聖書は、こうした夫の束縛から抜け出す方法が一つだけあるというのです。何でしょうか。それは死ぬことです。結婚している女性でも、夫が死んだ場合には、その結婚関係は解消され、夫から解放され自由になり、別の男性と結婚しても差し支えなくなるのです。死ねば、すべての関係は終わるのです。ではどうしたら律法は死ぬのでしょうか。「早く死んでください」とお願いしても、律法は死にません。なぜなら、「天地が滅び失せない限り、律法の中の一点一画も決してすたれることはありません」(マタイ5:18)とあるからです。律法は神様の原則ですから、なくなることも、変わることもありません。結婚の場合は夫が死ぬことによってその関係が解消されますが、律法の場合はそういうわけにはいかないのです。ではどうしたらいいのでしょうか。自分が死ぬばいいのです。夫が律法であり、妻が自分であるなら、この両者の関係を断つには、自分自身が死ぬしかないのです。ですから聖書はこう言うのです。6章4節、「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです」皆さん、福音の確信は、私たちが死ぬところから始まるのです。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

私たちがキリストにあって新しいいのちを得、律法のすべてのくびきから解放されるためには、死ななければなりません。死ねば自由になるというのが福音です。十字架なしには決して解放の喜びを体験することはできません。私たちの人生のすべてにおいて、一度死にさえすれば、そのときからすべての束縛から解放されるのです。私たちが死んだと宣言するなら、そのとき私たちは生きるのですが、逆に、私たちは生きると思うと、死ぬのです。

どういうことかというと、こういうことです。かつてビリー・グラハムという有名な伝道者が、こんな話をされました。カエルたちの会議です。カエルたちが集まって会議をしていました。そのとき一羽の鶴が彼らのそばから飛び立ちました。それを見ていたカエルたちは、いったいどうしたらあんなふうに飛べるのかと、鶴に訪ねて聞きました。そして名案を思いつきました。それは、長めの棒切れの両端を互いにくわえていれば飛べるのではないか、ということでした。鶴も、「それはいい考えだ」と賛成して、やってみることにしました。カエルが棒切れの片方を、鶴がもう片方を口にくわえ、格好よく飛び立ちました。カエルはもう夢か幻かわからないほどの興奮と喜びに包まれました。下にいた仲間のカエルたちはそれを見て、「おお、すばらしい!カエルでもあんなふうに飛べるのか!」と驚きました。そこで飛んでいるカエルに叫びました。「お~い、誰がそんなすごい考えを思いついたんだ?」すると飛んでいたカエルは、得意げに答えました。「おれだよ!」そう言った瞬間に、そのカエルは下に落ちて死んでしまいました。    私たちも同じです。「俺がやった。私の力、私の才能だ」と自慢した瞬間に、私たちは死にますが、私は死んだ。キリストともに十字架にかかって葬られたと言うなら、そのとき生き返るのです。死んだ者にはことばはなく、自分の栄光もありません。死んだ者は自我を失い、ただ忠誠を尽くす心だけが残っているからです。この点において、私たちは注意深く今回の大地震のことを思い巡らさなければなりません。今回の大地震はいったいどういうことだったのでしょうか。それはまさに、私たちは死んだということだったのではないでしょうか。この自然の猛威の前には、私たちは何のなす術もない無力な者であるということを悟り、この天地の造り主であられるまことの神様におすがりしなければならないということなのに、そのことに気づかず、まだ「私がやる」「日本には力がある」などと言っているとしたら、本当の意味でこの地震の教訓を生かすことができないのではないかと思うのです。原子力事故による災害はその最たるものでしょう。どんな災害が襲ってきても日本の原子力発電所の電源は絶対に大丈夫だと豪語していたのに、それがたった一瞬の大津波によって、すべてが動かなくなってしまいました。今こそ私たちは死ぬべきです。私たちは、どんなに小さなことでも成し遂げると高慢になるものですが、そうではなく、それはただ神の恵みですと、神に栄光を期する者でなければならないのです。

私の尊敬しているニュース解説者の方が、ある日テレビの番組で、「私たちの知らなかったアメリカ」を解説していました。アメリカという国は、キリスト教が基盤になっている・・・と。そのキリスト教が信じている聖書には、神様がすべてのものを造ったと書いてあるのですが、私たちの常識ではなかなか考えられないことです。と言っていました。どこまでも科学こそが真実であるかのような解説をしておられましたが、人間の知識にどれだけ優れたところがあるというのでしょうか。パウロは、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(Iコリント1:25)と言っていますが、本当に私たちの賢さというものは、神の愚かさにも届かないのです。私たち人間にとって必要なのは、自分に死ぬことです。この天地を造られた神様の前にへりくだって歩むことなのです。

また逆に、自分はだめだという意識も持たないことです。私たちは少しでもうまくいかないと落ち込みます。自分は無能だとという意識にとらわれているからです。しかし、そのような意識を持ってしまうのは自分がやったと考えているからであって、死んでいるなら、そのような感覚さえ起こらないのです。そうでしょ。ですから、高慢も罪ですが、挫折も罪です。自我が死んでいる人は高慢にもならず、挫折もしません。神のしもべには、本来、誇りもなければ、落胆もないのです。あるのは何でしょうか。あるのは忠誠を尽くすことのみです。成すべき事を淡々と、忠実に成し遂げていくことだけです。人生のすべてを神様にゆだね、主のみこころだけを淡々と行っていくこと。これこそ神のしもべの人生であり、十字架に釘付けされた者の人生なのです。

Ⅱ.新しい夫、キリスト(4)

次に、新しい夫について見ていきましょう。4節をご覧ください。

「私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。」

ここでパウロは、「あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいる」と言っています。私たちは、もうキリストの死によって、死んだのです。ゆえに、律法との夫婦関係も根本的に解消されました。そして、他の人と結ばれたのです。他の人とは誰でしょうか。イエス様です。イエス様と結ばれて、神のために実を結ぶようになったのです。イエス様が夫で、私たちはその妻であり、その花嫁です。ということはどういうことかというと、律法はもはや私たちを支配しないということです。新しい夫であるイエス様だけが、私たちを支配なさるのです。もちろんそれは、実際の旦那さんをないがしろにしてもいいということではありません。イエス様に支配されるなら、実際の夫にも、もっと仕えていきたいと思うようになるはずだからです。ここで言わんとしていることは、結婚関係において夫や自分が死ねばその婚姻関係が解消されるように、私たちは律法との婚姻関係が解消し、その支配から解放され、新しい夫のもとで、その支配の中で生かされるようになったということです。

では、それはどのような支配なのでしょうか。一言で言うなら、それは愛です。パウロは、私たちクリスチャンとキリストとの関係を次のように言っています。

「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」(エペソ5:25)

ここでパウロは、夫に関する勧めの中で、「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」と言いました。キリストはご自分のいのちをささげられるほど、私たちを愛してくださいました。私たちが母親に特別な愛を感じるのは、母親にはこのような愛があるからではないでしょうか。母親は、我が子にだまされても、裏切られても、何があっても、すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを堪え忍びます。懐が広いというか、深いのです。私も中学生の頃には反抗期があって、母親によく反抗したものです。母親にはお金がないということがわかっていても、それをむしり取るかのようにしてもらい、自分の欲望のために使っていても平気でした。母親はこんな私をどんなに憎らしかったことか、どんなに悔しかったことかと思うんです。親の心、子知らずということわざがありますが、子は親になるまでその痛み、苦しみというものを、なかなか理解できないものなのです。しかし、自分が親になってみて、初めて、「ああ、あのとき母親がどんな気持ちだったのか」ということが痛いほどわかるような気がします。それでも母親は赦してくれました。たぶん・・。それでも母親はだまされてくれました。なぜ?愛していたからです。母親には、そのような愛があるのです。イエス様も同じです。イエス様はそのようないのちがけの愛で、私たちを愛してくださるのです。

クリスチャンの人生とは、このような人生なのです。私たちが罪を犯し、あるいは倒れたとしても、恵み深い私たちの夫であられるイエス様は私たちを赦し、抱きしめてくださいます。それだけでなく、新しい道を示し、そちらの道に導いてくださいます。掃除をやっていないからと言って、鬼のように鉄の棒を持って仁王立ちしているような方ではないのです。私たちの夫は、そんな暴君ではありません。すべてを愛と恵みで満たしてくださる方なのです。それゆえ、古い夫である律法と決別し、新しい夫と結ばれた私たちは、異邦人のように、何を食べるか、何を飲むか、何を着るかなどと言って、心配する必要はないのです。そういうものはみな、異邦人が切に求めているものです。しかし、私たちの天の父は、恵み深い主イエスは、それがみな私たちに必要であることを知っておられ、それに加えて、すべてのものを与えてくださるのです。

Ⅲ.恵みに生きる(5-6)

ですから第三のことは、この恵みに生きましょうということです。5~6節をご覧ください。

「私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」

ここに、「しかし、今は」とあります。クリスチャンは、古い生活と決別し、全く新しい生活に入れられました。それはキリストと結ばれた、キリストの花嫁としての、キリストの愛と恵みに満ち溢れた生活です。それは古い文字に捕らわれた、通り一遍の、外見的な生き方ではなく、御霊によって導かれる、バランスのとれた、愛と恵みに満ち溢れた生活です。そのような生活へと導かれたのであれば、私たちはその行く先々で、律法ではなく、恵みが感じられるような人生を歩んでいかなければなりません。恵みが支配するところには豊かな祝福が溢れ、いのちのみわざが起こり、多くの人々が押し寄せて来るようになります。教会は、律法と正義をもって構えていてはいけませんが、互いが「こうすべきだ」「ああすべきだ」と主張して言い争ったりするのではなく、「本当に罪深く、足りない者なのに、ただ神様のあわれみによって救われたて感謝!」と、「こんな者が主の教会に連ならされていただいて、感謝です」と、へりくだった思いが必要です。

家庭でも、互いにさばき合ったりするのではなく、神のみことばが恵みの中で生かされるように求めるべきです。みことばが律法として機能してしまい「こうすべきだ」「ああすべきだ」と互いに主張すると、恵みは消え失せてしまいます。律法が支配すると家庭には平和がやってきません。恵みが支配することによって、家庭にも祝福が溢れるようになるのです。「聖書には妻を愛せと書かれているのに、いつも愛の足りない自分を赦してくれ」言う夫に、「そうよ」なんて言わないで、「いいえ、あなた。従いなさいとあるのに、従っていない私が悪いのよ」という家庭では、みことばが恵みとして機能するのです。「はい」と言うと「はい」、「いいえ」というと、「いいえ」、「ごめんね」というと、「ごめんね」と返ってきます。神様のみことばは律法として用いることも、恵みとして用いることもできるのですが、恵みとして用いましょう、というのです。神様のみことばを自分に適用すると恵みになりますが、他の人に適用すると、人を責め立てる律法になってしまうのです。    子育てにおいても、律法が支配する家庭では、こどもが曲がったひねくれた道に進んでしまうケース多くなりますが、恵みが支配する家庭では、こどもたちは健全に育っていきます。家の決まりが多すぎて、「これを破ったらむち打ち10回、二度断食」という具合にやると、父親は裁判官みたいな、母親がこん棒を持ったイメージしか残らず、かえってこどもは家に帰らたがらないで、夜の街を歩き回るようになるのです。「自分は一度も人様に迷惑をかけたこともなく、かけられたこともない」というのは、クリスチャンにとっては誇りにはなりません。貧しい人を助けて、少々踏み倒されるくらいがちょうどいいのです。刀のように鋭い人は、隣人に恵みを施す機会をそれだけ逃しているかもしれないのです。

昔イスラエルでは、稲の収穫をするときには、稲をすっかり刈り取ることはしませんでした。畝(うね)一つ残しておくようにしたのです。そして穀物を刈り取りながら、わざと少し落としておいたのです。なぜなら、貧しい人たちがそれを集めることができるようにするためです。そういう配慮からでした。それから、動物たちが食べるためでした。

これが恵みの生活です。それは決して、生真面目なばかりの生活ではありません。時にははしゃいでみるのもいいでしょう。普段からたくさん与え、日々余裕をもって多くの人を広い心で包み込み、恵みを注ぎ続ける。そんなライフスタイルです。神様は、そのような人をますます祝福し、多くの恵みを注いでくださるのです。キリストの花嫁として私たちがこの世で味わう祝福は、そうした神の恵みの現れなのです。

ローマ人への手紙6章15~23節 「神の奴隷として生きる」

きょうは、「神の奴隷として生きる」というタイトルでお話したいと思います。23節のところに、「しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり」とあります。もとは罪の奴隷でしたが、今は神の奴隷となったのですから、神の奴隷として生きなさいというのです。現代人は、「奴隷」ということばに違和感を感じます。奴隷というのは、何の自由もない、束縛された状態にある人のことを指しているのではないかと考えているからです。

しかし、聖書をみるとパウロは、自分が神の奴隷とされたこと、神の奴隷として生きるということに、言うことのできない喜びと、感謝と、誇りを持っていたことがわかります。パウロは他の人に比べて一番多くの書簡を聖書の中に残した人ですが、そのパウロは、自分が使徒であることを主張しなければならない時には、明確に、「キリスト・イエスの使徒パウロ」という言い方をしておりますが、そうでない時に彼が自分のことを表す際に用いた表現は、「キリストの奴隷」でした。自分はキリストの奴隷である・・・と。彼は、自分が使徒であることを主張しなくてもよい時には、いつもこの「キリストの奴隷パウロ」と書いたのです。

それはパウロばかりではありません。ペテロもヤコブもそうでした。たとえば、ペテロはイエス・キリストによって罪から解放され、自由にされた者として、「あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。」(Iペテロ2:16)と言っています。ペテロはいつでも弟子たちの中で自分がナンバーワンでないと気が済まない性格の人間でした。おれがおれがと出しゃばりました。そのようなペテロが、イエス様の奴隷であることを喜びとし、光栄とし、感謝し、誇りとしていたのです。

パウロも同じでした。彼はもとは罪の奴隷でしたが、今は義の奴隷とされたことを感謝していると言いました。それはパウロばかりでなく、同じように罪の奴隷から解放された私たち一人ひとりのクリスチャンにも言えることです。

きょうは、この「神の奴隷として生きる」ということについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、私たちは罪から解放されて、義の奴隷となったということについてです。第二のことは、そのように義の奴隷となったのであれば、義の奴隷として、清潔に進みなさいということです。そして第三のことは、その行き着くところです。罪の行き着くところは死です。しかし、神の奴隷として、清潔の行き着くところは永遠のいのちです。

Ⅰ.罪の奴隷から義の奴隷へ(15-18)

まず第一に、クリスチャンは罪の奴隷から解放されて、義の奴隷となったということを見ていきたいと思います。15~18節までのところですが、まず15節をご覧ください。

「それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。」

パウロは、6章1節からのところで、罪が増し加わるところに恵みがまし加わるのならば、罪の中にとどまっているべきかということに対して、絶対にそんなことはないと語ってきました。罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおもその中に生きていられるだろうか。いられません。キリストにつぎ合わされて一つとされた私たちは、もはや罪の下にではなく、恵みの下にあるからです。では恵みのもとにあるなら罪を犯そうとなるのでしょうか。なりません。なぜでしょうか。パウロはその理由を15~18節までのところで述べているのですが、それは、クリスチャンというのは罪から解放されて、義の奴隷となったからです。

「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」

ここには、クリスチャンとはどういう人なのかが示されています。そして、クリスチャンというのは罪から解放されて、神の奴隷となった者であるということです。クリスチャンは、もともと罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準、これは「福音」のことでありますが、この福音によって、罪から解放され、義の奴隷となったのです。義の奴隷とは何でしょうか。22節を見ると、ここには「しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり」とありますから、これは神の奴隷のことであることがわかります。生まれながらの人間はだれもみな、罪の奴隷です。生まれながら神の奴隷であるという人はいません。またこのどちらでもない中立の立場という人もいません。みんな罪人であり、罪の奴隷なのです。そのように、罪の奴隷であった者たちが、神の御子イエス・キリストの十字架の贖いによって、神のものとされたのです。そのことについて、エペソ2章1節からのところで、次のように語られています。

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです―」(エペソ2:1~5)

また、Ⅰコリント6章20節には、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」ともあります。私たちは、イエス様の十字架という代価によって、買い取られたのです。イエス・キリストを信じる人は、皆、神様のもの、神様の所有となったのです。

現代人は、この「奴隷」ということばに引っかかります。奴隷というのは、自分の意志に反して、嫌でも何でもこき使われる。お金で売買されるというイメージがあるからです。罪から解放されて、神の奴隷になったということは、神に束縛される不自由な状態に置かれるのではないかと考えてしまうのです。この当時、ローマ帝国には600万人の奴隷がいたそうです。その中には主人に愛され、豊かな生活をしている奴隷もあったでしょうが、大部分の人は牛馬のようにこき使われ、牛馬のようにお金で取引されました。ことに船底で年がら年中オールで船を進めるために漕いでいたガロースレイプと言われる人たちは大変でした。疲れて少しでも休むと、金属の長いむちを持った人にビシッと打ちたたかれ、休む暇もなく、交代するまで漕いで、いつも船底の暗い所に生きていなければなりませんでした。

しかし、パウロが言っている神の奴隷というのは、決してそのような奴隷のことではありません。本当の意味での自由の中を生きる人のことでした。というのは、本当の自由というのは神にあるからです。昔、栄華を極めたソロモンは、「空の空。すべては空」(伝道者の書1:2)だと言いました。「日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」(同1:3)と言ったのです。神を抜きにしたものは、たとい学問でも、快楽でも、事業も、芸術も、すべてむなしいのです。それらのものは、それなりに一時的な喜びや満足感や幸福感を与えてくれるかもしれませんが、それははかない罪の楽しみにすぎません。ですから、現代には、心に休らぎがないのです。今よりももっと良い暮らしを求めてせかせかと働き、その忙しさの中に、せめてもの楽しみをお酒や映画やテレビに求めても、それによって本当の安息は得られません。人によって流行を追い求め、現代を生きていると思い込んで満足しようとしますが、そのようなことで、私たちの心は満たされることはできないのです。神から離れ、キリストから離れた生活には、決して本当の自由と平安、喜びと満足はありません。イエス様は、「人の子は安息日の主です」(マルコ2:28)と言われましたが、イエス・キリストこそ真の安息であって、イエス・キリストにあってこそ真の自由を得られるのです。

それは罪が赦されて、罪から解放された自由です。もはや罪は私たちに何の所有権を持っていません。だれが私を訴えるのですか。だれが私を罪に定めるのですか。だれもいません。神のひとり子イエス・キリストが、私たちのために死んでくださり、そして今、よみがえって神の右の座に座して、私たちのためにとりなしていてくださいます。私たちはこのキリストにあって、罪のペナルティー、罪のさばきから全く解放されたのです。イエス様の十字架の贖いによって、ちょうど大海の底に沈め込まれたように、風によって雲や霧が吹き飛ばされたように、私たちの罪が全く取り去られ、もはや再びそれを覚えないと言うのです。天国に行ったとき、「あなたは、こういう罪を犯したなあ、ああいう事もやった。なんてひどい人生だった」とみんなから責められ、小さくなっていなければならなくても、神の右の座におられる方が、「父よ。この人を赦してください。この人の罪は、十字架で全く清められています」と、とりなしてくださるのです。私たちの人生に深く深く刻み込まれた罪が、イエス様の血潮によって洗い清められ、あたかも罪を犯さなかった者のようにしてくださるのです。それが義認ということです。私たちの人生で何が苦しいかって、罪を責められることほどつらいことはありません。多くの人が、この罪の呵責(Guilty consciousness)に苦しんでいるのです。しかし、イエス様はこの罪のさばきから、罪の傷跡から、罪の呵責から解放してくだいました。そればかりではありません。罪の力からも解放しくださいました。

ある人たちは、自分たちはそんな罪からの救いなど必要ないと言います。そんなものがなくても、十分りっぱな人格者として生きていくことができると言うのです。しかし、果たしてうでしょうか。自分は自由であり、主体性をもって毎日生きているし、人格者だと思っている人でも、いざという時にはそうではないのです。いざという時には、人は必ず利己的な考え方をし、利己的な行動をとるものです。それがこの罪の世の現実なのです。つまり、私たちは、何が正しいか、何が間違っているのかという判断を、自分の都合によってしているということです。ですから、どんなに自分でりっぱな人格者として生きていこうと思っていても、そこには限界がありますし、全く無力にすぎないのです。まして単なる考え方が変わるだけでなく、感情や道徳も含めて全人格的に変わることなどできるわけがないのです。人間は罪のゆえに全く無力にすぎません。しかし、福音には力があります。「福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力」(ローマ1:16)だからです。

このように、神の奴隷となったということは、罪の支配、罪の奴隷から解放され、真の自由と平安、喜びと満足を与えてくださる神の力、神の支配に生きるようにされたということです。いつでもどんな時でも神様の前に出て、自由にお祈りすることができますし、祈ったことは聞いていただける。慰めが必要な時には慰めが、励ましが必要な時には励ましが、赦しやきよめが必要な時には赦しやきよめが、導きが必要な時には導きが、忍耐が必要な時には忍耐が、愛が必要な時には愛が、知恵が必要な時には知恵が、全部私たちのものとして与えられるのです。それはむしろ、すばらしい特権なのです。

出エジプト記21章5~6節には、「しかし、もし、その奴隷が、『私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません』と、はっきり言うなら、その主人は、彼を神のもとに連れて行き、戸または戸口の柱のところに連れて行き、彼の耳をきりで刺し通さなければならない。彼はいつまでも主人に仕えることができる。」とあります。昔、イスラエルでは奴隷とされても6年後には解放されるという習わしがありましたが、中には奴隷がご主人様の愛を感じ、「自由になりたくない。あなたのそばにいて、一生涯、いつまでもあなた様に仕えたい。」と言うと、その人はずっと奴隷としていることができました。そのときには家の戸口の柱の所に連れて行かれ、その柱の前に立って、きりで耳に穴を開けられたといいます。それが自ら進んで奴隷となったしるしだったのです。そうまでしても奴隷でいたかった。まさに、神の奴隷であるということは、そうしたいと望むほどのすばらしい立場に変えられることなのです。

パウロは、ガラテヤ人への手紙の中で、「私は、この身に、イエスの焼き印を帯びている」(6:17)と言いました。その焼き印とは、所有者の印です。牧場などに行ってみると、よく牛や馬の体に、所有者の焼き印が押されているのを見ることがありますが、パウロは、自分の身にはイエスの焼き印を帯びていて、自分はイエス様のもの、イエス様の所有であると告白したのでした。頭のてっぺんから足のつま先に至るまで、すべてあなたのものです、あなたの所有です、と告白したのです。私たちも同じです。私たちは罪から解放されて、神の奴隷となりました。私たちはイエス様の十字架の贖いによって、神に買い取られ、神の奴隷、義の奴隷とされたのです。

Ⅱ.神の奴隷として生きる(19)

第二のことは、そのように神によって買い取られ、神の奴隷とされたのであれば、その神の奴隷として生きましょうということです。19節をご覧ください。

「あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。」

このところでパウロは、そのように罪の奴隷から解放されて義の奴隷、神の奴隷となったのであれば、その手足を神の奴隷としてささげて、清潔に歩みなさいと勧めています。

ところで、パウロはこのところで、「あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています」と述べていますが、この「人間的な弱さ」とはいったいどういう意味でしょうか。もちろん、生まれながらの人間は、霊的には盲目ですから、そういう意味での弱さを持っていますが、ここでの「肉の弱さというのはそういうことではありません。ここでパウロが言っているところの「肉の弱さ」というのは、キリストを信じてすでに救われていながらも、霊的な理解力において持っている弱さのことです。ヘブル人への手紙5章12節には、

「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。」

とありますが、そういう意味での弱さです。つまり、クリスチャンではあっても、まだ十分に霊的に成長していないため、霊的理解力に欠けている人々ということです。ですから、パウロはクリスチャンとは罪から解放されて義の奴隷となったということを理解できるように、こういう言い方をしているのです。こういう言い方とは何でしょうか。奴隷の例です。先程も申し上げましたように、人はだれも奴隷などにはなりたくありません。けれども、その奴隷の意味は違っても、私たちが罪から解放されて義とされたということは、全く神の奴隷とされたということと同じことなのです。であれば私たちはどうしたらいいのでしょうか。義の奴隷として、神の奴隷として、清潔に進まなければならないのです。「その手足を」というのは、心も身体もすべてをという意味です。私たちは、私たちを愛して、御子イエス・キリストを十字架の死にまでも渡され私たちを買い取ってくださった神に、すべてをささげなければなりません。「清潔に進む」とは、そういうことです。ここで誤解しないでいただきたいことは、これは完全に聖くなることではありません。そんなことは罪深い人間にできることではありません。ですから、たとえ罪を犯して悲しむことがあったとしても、そのことで悩む必要はないのです。大切なのは悔い改めることです。そうすれば、神は真実で正しい方ですから、すべての悪から私たちを聖めでくださいます。ここで言われている清潔に歩むとは、聖くなっていく歩みをしていくということであって、全く罪を犯さない完全な人になることとは違うのです。福音が本当にわかっている人は、罪の中にとどまりたいとは考えません。何度も何度も罪を犯すような者でも、それでも、神に喜ばれるような聖い歩みをしたいと願い、そのように進んでいくものです。

今は天に召されましたが、日本を代表する伝道者の一人に、本田弘慈という先生がおられましたが、この本田弘慈先生のモットーは、「いつでもとこでも何でもはい」でした。神様が「本田」と召されたら、いつでも、どこにいても、何でも「はい」と言って従う。それが本田先生のモットーだったというのです。

旧約聖書に出てくるダビデには、立派な兵隊がいましたが、中でもすぐれた三人の勇士は、「ダビデ三勇士」と呼ばれていました。彼らは、ダビデが「ああ、あのベツレヘムの水が飲みたいなぁ」というと、そのダビデ王のために、「いつでもどこでも何でもはい」でした。そこにどんなに強力な敵兵がいても、その敵兵の陣営をくぐり抜けて、敵の陣営の向こう側にあったベツレヘムの井戸から、いのちがけで、たた一杯の水を持ってきたのです。ダビデもダビデで、そうやって彼らが持ってきた水を、「彼らがいのちをかけて持ってきたこの水を、私がどうして飲めるだろうか」と言って、その水を神にささげるように地に注いだというのです。神の奴隷として生きるということは、こういうことなのではないでしょうか。ダビデの三勇士は、むだなようなことでもいのちをかけました。一杯の水を持ってきたのにその水を飲んでもらえないで地にかけられたときには、「ああ、むだだった」と思ったことでしょう。しかし、むだだと思えるようなことにまでいのちをかけて、ダビデを喜ばせようとしたあの三勇士のように、私たちがイエス様の血潮がこの地に注がれるために駆け出して行くことを、神はどんなに感動の心をもってご覧になっているかと思うのです。

戦前、日本にやって来た宣教団体の一つに、「セントラル・ジャパン・パイオニア・ミッション」(中央日本開拓伝道団)という団体がありますが、その団体が1925年に群馬、埼玉、栃木で伝道を開始したときのモットーは、「キリストの愛我に迫れり」でした。それはコリント人への手紙第二5章14~15節のみことばからとったものです。

「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」

キリストの愛が私を取り囲んでいる。キリストがすべての人のために死なれたのは、それは生きている人たちが、もはや自分のためではなく、自分のために死んでよみがえってくださった方のために生きるためなのです。このキリストの愛が分かるとき、私たちはもうすべてをささげて、この方のために生きたいと思うようになるのは、当然のことなのではないでしょうか。

戦前、信仰を持たれたあるクリスチャンがおられました。その人は、信仰のゆえに家を追い出されて苦労しましたが、やがてクリスチャンの旦那さんと結婚しました。しかし結婚して二年半で戦死されて、残された二人の子供さんを骨をきしませて育てました。職業婦人として苦労なさいましたが、彼女は壮絶なほどに厳しい人でもありました。彼女はキリストのために身をささげ、キリストの愛に生きました。彼女が亡くなってしばらくして、あちらこちらで、「私は、Bさんによってイエス様に導かれました。」という人がたくさん出てきたのです。そのBさんの墓石にしるされた詩がありまして、次のようなものです。

「ひとりの愁い(うれ)をいやし得ば、ひとりの涙を拭きいえば、弱りし一羽の小鳥をば、助けてその巣に帰しえば、わが生涯はむだにならず。」

なんという思いでしょう。ひとりの愁いとか、ひとりの涙、弱りし一羽の小鳥とかというのは、まさに罪に滅び行く魂のことですが、そのような弱りし一羽の小鳥をば、助けてその巣に帰しえば、わが生涯はむだにならずとは、まさに神に、キリストに、すべてをささけ尽くした人の言葉ではないかと思うのです。イエス様は、ひとりを追い求め、そのひとりのたましいが放っておかれ、弱り果てて倒れていくことがやりきれないのです。ひとりのその人のために祈り、愛の労苦をする人を、イエス様はどんなにか求めておられるのではないでしょうか。

Ⅲ.死か永遠のいのちか(20~23)

第三のことは、その結果です。その行き着くところはどこかということであります。20~23節をご覧ください。

「罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」

ここには、信仰を持っていない人々と、信仰を持って神の奴隷として生きる人の、二種類の人の姿、その運命について記されてあります。一般にこの世の人々は、その運命がどれほど重大な違いがあるかを知っていませんが、それは国籍の違いや男女の違い、あるいはこの社会的なさまざまな違いといったもの以上に重大な違いです。なぜなら、これによって永遠が決まるからです。罪の中にある人たち、罪の中に死んでいる人たちの行き着くところはどこでしょうか?その行き着くところは永遠の死です。この死とは単なる肉体の死のことではなく、霊的死のことです。黙示録では「第二の死」(20:14)と呼ばれているもので、祝福の源であられる神様から、永遠に引き離されてしまうことです。  それに対して、神の奴隷の最後は何かというと、「永遠のいのち」です。永遠に神様の祝福のうちに、あり続けることです。私たちのいのちは、決してこの地上だけのものではありません。この肉体は滅んでも、たましいは永遠に続くのです。その第二の人生をいったいどこで送られるでしょうか。神とともに、神の祝福のうちにですか。それとも、神から引き離された、のろいのうちにでしょうか。

「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」

この世のどこを探しても、永遠のいのちはありません。永遠のいのちは、ただイエス・キリストにあるのです。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は、人には与えられていないからです。大震災の後で原発の問題もなかなか解決に向かっていかない今、この国の多くの人々が不安と混乱の中にありますが、まことのいのちと希望は、このイエス・キリストにあるのです。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)このキリストの御名が、この国の至るところに宣べ伝えられるように、私たちはイエス様の心を心とし、イエス様の思いを思いして、「イエス様、あなたのことならどんなむだになるようなことでも喜んでさせていただきます」という覚悟で、全生涯を主におささげしていたきたいと思うのです。それが、私たちを愛し、私たちのために死んでよみがえってくださった方に応える生き方なのではないでょうか。神の奴隷としての生涯は、まことに実りの多い、喜びと力と報いのある、天国に行ったら、本当にすばらしい栄冠を神様からいただけるような生涯なのです。