きょうは、「神のみこころは必ず実現する」というタイトルでお話したいと思います。私たちは物事を考えるとき、いつも自己中心的に考える傾向があります。その典型的なものは写真を観る時ではないでしょうか。一枚の写真に何人か写っていて、その写真が良い写真か悪い写真か判断するとき何によって判断するかというと、大抵の場合は自分がどのように写っているかで判断します。たとえ全体として良く写っていても、自分が良く写っていなければ、それはその人にとって良い写真にはならないのです。しかし、このような目で信仰を考えようとすると、ことごとく行きづまってしまい、こっちに行ってはぶつかり、あっちに行ってもぶつかり、結局いつまでたっても何も変わらないということになりかねません。大切なのは神様の目を通して物事を見ることです。
パウロは、同胞イスラエルの救いを考えると心に痛みがあり、悲しみがありました。彼らは神様によって選ばれた民であるにもかかわらず、イエス様を救い主として信じようとせず拒絶していたからです。いったい神のみことばが無効になってしまったのでしょうか。イスラエルは神の救いから漏れてしまったのでしょうか。そうではありません。事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。神様の一方的な恵みによってある人が救われるように定められているのです。今彼らがなかなか信じようとしないでいるのはそこに何らかの神様のご計画があるからあって、決して神様のみことばが無効になったわけではないのです。では、その神様のご計画とはどんなことなのでしょうか。パウロはイスラエルの救いについて祈っている中で、しだいに神様のみこころに目が開かれていくのです。それは、異邦人が救われて神の民として加えられ、残りの民であるイスラエルとともに新しいイスラエルが形成されるということでした。神様のみこころは、人間の思いをはるかに越えて、大きな歴史の中で実現していくのだということに気づいたのです。
きょうは、この神のみこころがどのように実現していくのかということについて、三つのことをお話したいと思います。まず第一のことは、異邦人に対する神のみこころです。第二のことは、イスラエルに対する神様のみこころです。彼らはなかなか信じないでいるようですが、神様はそのような中にも残りの民を用意しておられ、彼らを通してイスラエルを救おうと計画しておられるのです。ですから第三のことは、主に信頼しましょうということです。主に信頼する者は、失望させられることはありません。大切なのは、神の御国の視点で全体を見ていくことなのです。
Ⅰ.神の民でなかった者が神の民となる(25-26)
まず最初に、異邦人の救いに関する神のみこころから見ていきましょう。25節と26節をご覧ください。
「それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。『あなたがたは、わたしの民ではない』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。」
イスラエルの歴史は、神の選びの歴史です。神様は当然滅んでもおかしくないような彼らを豊かな寛容をもって忍耐してくださり、あわれみの器としてくださいました。しかし、それはユダヤ人だけではありません。異邦人も同じことです。人はみな生まれながらに罪を持っており、その罪のために滅ぼされてもおかしくない者なのに、あわれみ豊かな神様はユダヤ人の中からだけでなく異邦人の中からも、つまり世界の中からあわれみによって救い出してくださったのです。それはホセア書に次のように書かれてあるとおりです。
「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。『あなたがたは、わたしの民ではない』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。」
ホセアは、神様から自分を裏切る女性と結婚するように命じられました。そのとおりに結婚して子どもが与えられると、その女性は他の別の男の所に行き、その男と一緒に家を出て行きました。しかし、現実の生活はそんなに甘くはありません。ホセアを裏切って家を出て行ったその女性はやがて行きづまり、生活が苦しくなり、奴隷の状態に陥ってしまったのです。そのときホセアに再び神からみことばがありました。あの女の所に行くように。そして、夫に愛されていながら貫通している女を愛しなさい、と。そこで彼は銀15シェケルと大麦1ホメル半で彼女を買い戻し、奴隷の状態から救い出し、もう一度自分の所に連れて帰り、自由にしたのです。それはまさに神様とイスラエルの関係を表していました。神様によって選ばれ、神様の民として愛されていたイスラエルは、神に背き、アッシリヤやバビロン、エジプトの神々を拝むことによって罪を犯しました。霊的姦淫です。もう神の民とは呼ばれない、神に捨てられた民だったのです。しかし、あわれみ豊かな神様は一方的なあわれみによって買い戻してくださいました。神の民でなかった彼らが、もう一度神の民と呼ばれるようになったのです。パウロはこれをイスラエルではなく異邦人が救われるという意味にあてはめました。すなわち、神の民でなかった異邦人が神の民と呼ばれるようになるということです。
パウロはなぜこのホセア書の預言を引用したのでしょうか?それは、神様のみこころがこのような形で実現しているということを示すためでした。彼にとってイスラエルがキリストを受け入れないということは大きな痛み、悲しみでした。神によって選ばれたはずのユダヤ人がどうして信じようとしないのかなかなか理解できませんでした。そんな中で彼はその意味がわかったのです。それは、神のみこころは、単にイスラエルが救われるというだけでなく、その恵みが異邦人にも及ぶようになり、そうして全世界が救われるようになるということです。彼の理解をはるかに超えた形で実現していくということがわかったのです。
私たちは毎日の生活の中で、なぜこのようなことがあるのかとわからなくて悩み苦しむことがあります。しかし、神のみこころは私たちの思いをはるかに越え、大きな歴史の流れの中で実現していくのです。
地方ですばらしい教会形成をしておられる牧師さんがこんな経験をされました。会堂建設に取り組んでいた際に、思わぬ出来事に直面したのです。新会堂を思い描き、着々と準備を重ねてきた計画が、いざ決断の場面に至ったとき、僅差で否決されてしまったというのです。その時のショックたるやいかばかりであったかと想像します。ところが、です。結論から言えば、それがかえって良かったというのです。再び計画を練り直し、再提案して承認されてみると、以前は閉ざされていたかに見えた駐車場やその他の課題が、不思議なように良い方向に転じていたというのです。 私たちの人生は、初めて訪れる場所に列車で行く旅のようなものです。目の前に現れる光景はいつも真新しいものばかりです。しかし、一寸先も見えないのでこの先に何が現れるのかわからなくて不安になることがあります。しかし、神様の目線から眺め下ろせば、山あり谷あり、踏切あり、トンネルあり、すべてが見渡せます。大切なことは、そのすべての事が主の御手の中にあり、そこに主のまなざしが注がれているという事実です。人生の道のりは、往々にして私たちの想定外ですが、それらの想定外の出来事の背後に主がおられることを信じ、そうした主の目線で見ていくことです。
Ⅱ.残された者(27-29)
次に27~29節に注目してみましょう。次にパウロは、イスラエルの救いについて語ります。
「また、イスラエルについては、イザヤがこう叫んでいます。「たといイスラエルの子どもたちの数は、海べの砂のようであっても、救われるのは、残された者である。主は、みことばを完全に、しかも敏速に、地上に成し遂げられる。」また、イザヤがこう預言したとおりです。「もし万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったら、私たちはソドムのようになり、ゴモラと同じものとされたであろう。」
ここでパウロはイザヤ書から二つのみことばを引用しています。一つは、27節のみことばです。これはイザヤ書10章22~23節のみことばの引用ですが、このみことばが示していることは、たといイスラエルが海辺の砂のようにたくさんであっても、救われるのはほんの少数の残りの者であるということです。もう一つの29節のみことばは、これもイザヤ書1章9節のみことばからの引用です。ここにはアッシリヤによる国土の荒廃することの預言ですが、そのような中にあっても万軍の主が、私たちに子孫を残されるというのです。この二つの預言に共通している思想、テーマは何でしょうか?それは「残された者」です。つまり、イスラエルは捨てられてしまったかのようであってもそうではないということです。この「残りの民」によって、やがて救われるようにしてくださるというのです。それが神様のご計画だったのです。神様の選びと召命は変わることはないからです。このことを、神学者たちは何と言っているかというと、「残りの民の思想」と言っています。
これは11章でもっと具体的に語られていきますが、簡単に言うと、神様の約束は全体ではなく、少数の残りの民によって実現されるというものです。神様は少数の残りの民をとおしてみわざをなさり、彼らを通して救済史を押し進められるのです。聖書を見ると、この「残りの民の思想」は、神様のみわざが現される時にみられる原則であることがわかります。たとえば、イスラエルの民はカナンの地を偵察するのに、十二人の偵察隊を送りました。その内十人は悲観的な報告をして不信仰に陥りましたが、一方、ヨシュアとカレブの二人だけが「彼らは私たちのえじきです。戦って勝ち取りましょう!」と言いました。神様は残りの民であるヨシュアとカレブを通して働かれたのです。この「残りの民」を通して神様は約束を成就し、祝福を注いでくださるのです。それはイスラエルの救いも同じです。神様はイスラエルを捨てられたのでしょうか?そうではありません。神様はこの少数の「残りの民」を通してイスラエルを救おうと計画しておられたのです。
私たちはこのみことばから、一つの真理を見いだすことができます。それは、「残りの民」は必ずいるということです。世の終わりの日まで、主が来られる日まで信仰を堅く守り、神様の御前に従う約束の民は必ずいるのです。どんなに大きな迫害や、苦しい状況があったとしても、神様の恵みによって必ず「残りの民」は保たれているのです。ノアの時代はどうだったでしょうか。その時代の人々はその心に計ることがみな、いつも悪いことばかりで、腐敗していました。けれども神様はその中に、ご自身とともに歩む義人ノアを残しておられました。
中国が共産化したのは1949年のことです。それ以前の中国には西洋からのたくさんの宣教師たちがいて、福音を伝えていました。多くの中国人がイエス・キリストを信じましたが、共産党が政権を取ると、それまでは約六十万人くらいいたと言われていたクリスチャンが、1949年以降はそのほとんどが根こそぎ引き抜かれてしまいました。毛沢東の文化大革命時には農村をしらみつぶしに調べ、クリスチャンを無理矢理に監獄に入れました。文化大革命によって、中国の教会は地上から抹殺されてしまったと思われたほどです。 しかし今、中国には少なくても六千万人以上のクリスチャンがいると言われています。全世界で最もクリスチャンの人口が多いのはこの中国なのです。迫害を受けた六十万人のクリスチャンのうち、一部が死に、一部が投獄された後、神様は残りのごくわずかな者たちを残しておいてくださり、彼らを通してひそかに福音を宣べ伝えさせ、信じる民の数を増やし続けておられたのです。神様はこのような状況の中でも残りの民を用意してくださり、ご自分の驚くべきみわざを成し遂げておられたのです。
それは今の北朝鮮も同じです。北朝鮮では1907年にリバイバルが起こったという記録がありますが、そのときに救われた信仰の灯は消えてしまったのでしょうか?いいえ、そうではありません。ある中国の長老の話によると、この長老は北朝鮮に十回以上行ったことがある人ですが、その話によると、今もハンギョンドという地域に行くと家の教会が数千戸あり、涙を流して神様に礼拝をささげ、懸命に祈っていると言います。神様はこうした残りの民を通して、ご自分の救いのみわざを実現しようとしておられるのです。これが神様の計画です。
ですから私たちは決して数に慰めを求めるのではなく、「私たちの中に神様が認めてくれる信仰があるかどうか、私たちの中に神様が認めてくれるビジョンがあるかどうか」ということを絶えず確認していかなければならないのです。人数が問題なのではありません。どんなに少人数であっても、これを握りしめているなら、神様がその人を通して歴史を動かしてくださるはずです。
毎週の礼拝に集う人が少ないからといってがっかりすることはありません。祈祷会に集う人が三、四人だからといってあきらめてはならないのです。なぜなら、神様は残りの民を必ず残しておられ、この残りの民を通して働いてくださるからです。エリヤはバアルとアシェラの預言者それぞれ450人と戦う時、「私しか残りませんでした」と嘆きました。私たちもクリスチャンの少数の群れを見たら、「私しか残っていません」と嘆くかもしれませんが、実際は違うのです。神様は何と言われましたか?「バアルにひざをかがめない男子七千人が、わたしのために残してある」(I列王19:18)と言われました。神様は必ず残りの者を用意しておられるのです。どんなに困難で争いが絶えない教会であっても、最後まで信仰を守って祈る仲間がいるのです。多くの人が神様から離れても、最後までみことばを握って信仰を捨てない神様の民が残っているのです。私一人、皆さん一人だけではありません。神様が残りの民を保っておられるからです。そうやって神のみこころは必ず実現していくのです。私たちはそこに目を留めなければなりません。
Ⅲ.主に信頼して(30-33)
ではどうしたらいいのでしょうか。ですから第三のことは、主に信頼しましょうということです。30~33節をご覧ください。
「では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
ここでパウロは、異邦人が救いに導かれるようになった理由と、ユダヤ人が海辺の砂のように多くいても、救われるのは、残された少数の者たちであることの理由を述べています。それは、みことばの約束を信じてそのまま受け入れたのか、それとも、自らの力に頼って救いを得ようとしたかです。異邦人は信仰による義を得ました。神様が用意してくださった救いであるイエス・キリストを信じることによって義を得たのです。それに対して、ユダヤ人はどうかというと、そうではありませんでした。彼らはあくまでも自分の力に頼り、行いによって義を得ようとしたのです。彼らにとってイエス・キリストはつまずきの石、妨げの岩にすぎませんでした。なぜなら、木にかけられた者はのろわれた者であるという先入観があったからです。ですから、十字架につけられたキリストを信じることはできませんでした。しかし、救いは神が用意してくださったものを受け入れるかどうかにかかっているのです。なぜなら、人は罪によって霊的無能力者、道徳的破産者になっているのであって、自分の力では、神が求めておられる義という標準に到着することができなくなっているからです。ですから、私たちが救われるためには、私たちを救うために神が用意してくださった救いの方法を受け入れる以外に道はないのであっで、その救いを信仰によって受け入れることによってのみ、私たちは救われるからです。
イスラエルにはそれが理解できませんでした。ですから、彼らはイエス・キリストにつまずいたのです。それは神が置かれたつまずきの石でした。この石は、今日でも、私たちの前に置かれています。特に根強い努力・頑張り主義が息づいているこの日本の社会の中にあっては、努力する者にこそ勝利が、そして幸せがあると信じているのです。しかし、強くなろうとして逆に見えてくるのは自分の弱さでしかありません。自分は本当に弱い存在しかないということを、打ちのめされるような思いとなって見えてくるのです。そこがポイントです。そのとき、どうするかなのです。そのことに目を留め、現状を受け入れる時、十字架の救いが見えてきます。なぜなら、弱さを知る者が強くされるというのがキリスト教だからです。弱さは欠点でも恥でもありません。それは新しくされる転機であり、出発点なのです。ですから、罪の力の前に自分が無力であることを認め、神の力によって強くされることを求め、神が用意してくださった救いを受け入れること。それが信仰の道であり、祝福される人生なのです。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」とあるとおりです。
アメリカの有名なリバイバリストであるチャールズ・フィニーは、「聖書には32,500個の約束がある」と言いました。この約束は今の世と後に来る世、肉的なものと霊的なもの、そして、私たちの生活に必要なすべてのものに対する約束です。多くの人は失敗したり、自分の思いどおりに信仰生活をするという間違いを犯します。しかし、私たちが、主の約束をそのまま信じ、そのお方に頼るなら、決して恥を見ることはないのです。なぜなら、神様の思いと、私たちの思いは異なり、神様の道と私たちの道は異なるからです。天が地よりも高いように、神様の道は、私たちの思いよりも高いのです。神様のみこころは私たちの思いをはるかに越えて働き実現するのです。ですから、大切なのは、私たちの思いを実現していこうとすることではなく、完全なご計画をもって導いておられる神様に信頼し、すべてをおゆだねすることです。そうすれば、失望させられることはありません。たとえ今はそのように思えなくても、それが私たちにとって最善の選択なのです。