民数記26章

きょうは、民数記26章から学びます。

Ⅰ.人口調査をせよ(1-4a,52-56)

まず1節かと2節をご覧ください。1節、2節にはこうあります。「1この神罰の後、主はモーセと祭司アロンの子エルアザルに告げて仰せられた。2 「イスラエル人の全会衆につき、父祖の家ごとに二十歳以上で、イスラエルにあって軍務につくことのできる者すべての人口調査をせよ。」26:3 そこでモーセと祭司エルアザルは、エリコをのぞむヨルダンのほとりのモアブの草原で彼らに告げて言った。26:4a 「主がモーセに命じられたように、二十歳以上の者を数えなさい。」

「この神罰」とは、バラムの企みによって、イスラエルにモアブの女たちを忍び込ませ、彼らが彼女らと不品行を行い、偶像礼拝を行ったことで、二万四千人が死んだという出来事です。その神罰の後に、主はモーセと祭司エルアザルに、イスラエルの全会衆の中から、父祖の家ごとに二十歳以上で、イスラエルにあって軍務につくことのできる者すべての人口調査をするようにと命じられました。いったいなぜここで人口を調査しなければならなかったのでしょうか?

人口調査については1章ですでに行われていました。それはエジプトを出て二年目の第二の月のことでしたが、イスラエルがシナイの荒野に宿営していたとき、やはり氏族ごとに二十歳以上の男子で、軍務につくことができる人数が数えられました。それは何のためであったかというと戦うためです。戦うためには軍隊を整えなければなりません。それで主はイスラエルの軍隊を組織させ、その戦いに備えました。部族ごとにリーダーが立てられ、それぞれの人数が数えられたのです。

しかし、ここで人口調査が行われたのは戦うためではありません。あれから38年が経ち、イスラエルは今ヨルダン川の東側までやって来ました。彼らはもうすぐ約束の地に入るのです。いわば荒野での戦いは終わりました。それなのにいったいなぜ人口を調査する必要があったのでしょうか。

それは約束の地に果てる備えるためです。52~56節までをご覧ください。ここで主は、これから入る約束の地において、その血をそれぞれの部族の数にしたがって相続するようにと命じています。大きい部族には大きい相続地を、小さい部族にはその相続地を少なくしなければなりませんでした。彼らはその人数によって相続地を割り当てたのです。

このように主は、荒野で戦いに備える前に人口を調査し、今度は約束の地で相続地を割り当てるのに人口調査をしました。それは決して自らの数を誇るためではなく、これから先の行動に備えるためでした。彼らが約束の地に入るには、まだ原住民との戦いがありました。その後で相続地の割り当てが行われます。しかし、主はそれに先立ち、すでにこの時点で相続地の分割を考えておられました。それはまさに先取りの信仰ともいえるものです。主の約束に従い、それを信じて、いまそれを行っていくのです。そうなると信じて、たとえ今はそうでなくとも、そのように行動していかなければならないのです。

先日、今月の支払いのことで会計担当の方から連絡をいただきました。献金が足りないので支払に支障をきたしているとのことでした。いったいこれはどういうことかと思って祈っていたら、主はこのみことばを私に与えてくださいました。Ⅱ列王記3章16~18です。特に、16節の「みぞを掘れ。みぞを掘れ。」という言葉です。水がなくて困っているというのに、主は「みぞを掘れ」と仰せになられる。いったいこれはどういうことなのかと祈っていると、たとえ今はそうでなくても、主は必ず満たしてくれるので、それを信じてみぞを掘るようにということであることがわかりました。実際にはそれは祈れということでしょう。神が満たしてくださると信じて、神が与えてくださると信じて祈りなさいということです。18節には、「これは主の目には小さなことだ。主はモアブをあなたがたの手に渡される。」とあります。これは主の目には小さいことなのです。そのことで思い悩む必要はありません。そう思ったら、目の前の霧がパッと晴れたようになりました。

私たちの信仰の歩みには自分の思うようにいかないことがたくさんありますが、そのような中でも主の約束を信じ、必ずそのようになると信じて祈り備えていかなければなりません。

Ⅱ.イスラエルの人口(4b-51,57-62)

さて、そのイスラエルの人口ですが、38年前と比較してどうなったかを見てみたいと思います。5節から51節までにそれぞれの部族の人口が記録してあります。

部  族 シナイの荒野 モアブの草原 増  減 割  合
ルベン族 46,500 43,730 -2,770 -6%
シメオン族 59,300 22,200 -37,100 -63%
ガド族 45,650 40,500 -5,150 -11%
ユダ族 74,600 76,500 +1,900 +3%
イッサカル族 54,400 64,300 +9,900 +18%
ゼブルン族 57,400 60,500 +3,100 +5%
マナセ族 32,200 52,700 +20,500 +64%
エフライム族 40,500 32,500 -8,000 -20%
ベンジャミン族 35,400 45,600 +10,200 +29%
ダン族 62,700 64,400 +1,700 +3%
アシェル族 41,500 53,400 +11,900 +29%
ナフタリ族 53,400 45,400 -8,000 -15%
レビ族 数に含まれず 数に含まれず
合  計 603,550 601,730 -1,820 -0.3%

 

 

 

 

 

 

 

 

コラの反乱に加担した者は、このルベン族のダタンとアビラムでした。ダタンとアビラムは会衆に選ばれた者でしたが、コラ(レビ族ケハテの子)の仲間に入り、モーセとアロンに逆らいました。その結果、彼らはコラとともに滅びましたが、コラの子らは死にませんでした。コラの子たちは、後世に礼拝の賛美奉仕者となっていきます。

ところで、38年前にシナイの荒野で数えられた時と比較すると、興味深いです。その時の合計がほとんど同じなのです。以前は603,550人でしたが、今回は601,730人です。ここからも、荒野の生活がかなり過酷であったことがわかります。イスラエルは神の祝福によってたちまち増え続けてきましたが、この荒野の40年は全然増えませんでした。かろうじてほぼ同じ人口は保つことができました。

次にレビ族の人数が記されてあります。レビ族にはゲルション、ケハテ、メラリという三つの氏族がありました。ここで特筆すべきことは、ケハテから生まれたアムラムとその妻ヨケベテとの間にアロンとモーセとその姉妹のミリヤムが生まれたということです。そして、このアロンにはナダブとアビフ、エルアザルとイタマルという四人の息子がいましたが、ナダブとアブフは主の前に異なった火をささげたので死に(レビ16:1:大祭司しか入ることができなかった至聖所に入っていけにえをささげた)、その弟エルアザルが大祭司となりました。

それから、このレビ族の記録でもう一つ重要なことは、彼らの場合は二十歳以上の男子ではなく一か月以上のすべての男子が登録されたということです。そして、彼らは、ほかのイスラエル人の中に登録されませんでした。なぜなら、彼らはイスラエル人の間で相続地を持たなかったからです。

Ⅲ.シナイの荒野で登録された者はひとりもいなかった(63-65)

そして63節から終わりまでがまとめです。「63 これがモーセと祭司エルアザルが、エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原で、イスラエル人を登録したときにモーセと祭司エルアザルによって登録された者である。64 しかし、このうちには、モーセと祭司アロンがシナイの荒野でイスラエル人を登録したときに登録された者は、ひとりもいなかった。65 それは主がかつて彼らについて、「彼らは必ず荒野で死ぬ。」と言われていたからである。彼らのうち、ただエフネの子カレブとヌンの子ヨシュアのほかには、だれも残っていなかった。」

これがこの章のまとめであり、民数記全体の要約でもあります。イスラエルの民は約束の地に入るためにエジプトから出てきたのに、その地に入ることができたのはヨシュアとカレブ以外は誰のいなかったという事実です。彼らは、約束のものを受けていたのに、その約束にあずかれなかったのです。なぜでしょうか?「彼らは必ず荒野で死ぬ」(14章)と言われたからです。神は彼らを約束の地に導くと行ったのに、彼らはそれを信じないで十度も主を試みたので、主はそのように言われたのです。

これは本当に厳粛な話です。私たちがどんなに信仰の恵みに預かっても、不信仰になって主を何度も試みるようなことがあれば、約束の地に入ることはできないのです。パウロはこのことを第一コリン10章でこう言っています。

「そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。あなたがたは、彼らの中のある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には、「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った。」と書いてあります。また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(Ⅰコリント10:1-13節)

パウロはここで、彼らの父祖たち、すなわち、イスラエルの民が御霊によって神の約束のものを手に入れたのに、最終地まで到達することなく、荒野で滅ぼされてしまったのは、私たちへの戒めのためであると言って、7節からその要因を列挙しています。それは金の子牛を造ってそれを拝んだことや、バラムのたくらみによってモアブの女たちと姦淫を行い、その結果、モアブの神々を拝んでしまい、一日に二万三千人が死んだという出来事、さらには、ある人たちがつぶやいたのにならって、つぶやいたりしたことです。これはコラたちの事件のことでしょう。私たちはこれらの出来事一つ一つを見てきました。それらのことによって、イスラエルの民はせっかく神から約束のものを手に入れていたのに、それを受けることができなかったのです。そしてそれは私たちへの教訓のためでした。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気を付けなければなりません。

私たちは今世の終わりに生きています。世の終わりになると困難な時代がやって来るということをイエス様も、またパウロも語っています。いつ倒れてもおかしくない状況に置かれているのです。自分は大丈夫だと思っていても、そうした傲慢な思いが神様のみこころにかなわない場合があります。それなのにいつまでもかたくなになっていると、この時のイスラエルのように約束の地に入ることかで゛きなくなってしまいます。倒れてしまう可能性が十分にあるのです。けれども神は倒れないようにするための約束も与えておられます。それが13節です。

「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」

神が与えておられる試練は必ず耐えることができるものです。耐えられないような試練は与えません。耐えることができるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。この約束を信じて、いつまでも神様の道に歩まなければなりません。もしその道から外れてしまうことがあったら、すぐに悔い改めて、もう一度立ち返る必要があります。そうすれば、主はあなたを赦し、あなたを受け入れてくださいます。いつまでもかたくなになって悔い改めないなら、かつてイスラエルが荒野で滅びたように、約束のものを手に入れることはできません。それがヘブル人への手紙3章13節から19節までのところに進められていることです。
「「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。」

私たちは、この世の歩みの中でいろいろな試練を受けますが、しかし、「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしたいと思います。そして信じた時に与えられた最初の確信を最後まで保ちたいと思います。聞いていてもその御言葉が信仰によって結び付けられることなく滅んでしまうことがないように、いつも柔らかな心をもってみことばに聞き従う者でありたいと思います。

民数記23章

きょうは民数記23章から学びます。まず1節から12節までをご覧ください。

Ⅰ.イスラエルを祝福したバラム(1-12)

「1 バラムはバラクに言った。「私のためにここに七つの祭壇を築き、七頭の雄牛と七頭の雄羊をここに用意してください。2 バラクはバラムの言ったとおりにした。そしてバラクとバラムとは、それぞれの祭壇の上で雄牛一頭と雄羊一頭とをささげた。3 バラムはバラクに言った。「あなたは、あなたの全焼のいけにえのそばに立っていなさい。私は行って来ます。たぶん、主は私に現れて会ってくださるでしょう。そうしたら、私にお示しになることはどんなことでも、あなたに知らせましょう。」そして彼は裸の丘に行った。4 神がバラムに会われたので、バラムは神に言った。「私は七つの祭壇を造り、それぞれの祭壇の上で雄牛一頭と雄羊一頭とをささげました。」5 主はバラムの口にことばを置き、そして言われた。「バラクのところに帰れ。あなたはこう言わなければならない。」6 それで、彼はバラクのところに帰った。すると、モアブのすべてのつかさたちといっしょに、彼は自分の全焼のいけにえのそばに立っていた。7 バラムは彼のことわざを唱えて言った。「バラクは、アラムから、モアブの王は、東の山々から、私を連れて来た。『来て、私のためにヤコブをのろえ。来て、イスラエルに滅びを宣言せよ。』8 神がのろわない者を、私がどうしてのろえようか。主が滅びを宣言されない者に、私がどうして滅びを宣言できようか。9 岩山の頂から私はこれを見、丘の上から私はこれを見つめる。見よ。この民はひとり離れて住み、おのれを諸国の民の一つと認めない。10 だれがヤコブのちりを数え、イスラエルのちりの群れを数ええようか。私は正しい人が死ぬように死に、私の終わりが彼らと同じであるように。」11 バラクはバラムに言った。「あなたは私になんということをしたのですか。私の敵をのろってもらうためにあなたを連れて来たのに、今、あなたはただ祝福しただけです。」12 バラムは答えて言った。「主が私の口に置かれること、それを私は忠実に語らなければなりません。」

バラムがバラクのところにやって来ると、バラクは彼を連れ出し、バモテ・バアルに上らせました。(22:41)そこからイスラエルの民の一部を見ることができたからです。

バモテ・バアルに上ると、バラムはバラクに、「私のためにここに七つの祭壇を築き、七頭の雄牛と七頭の雄羊を用意してください。」と頼みました。なぜでしょうか。神に全焼のいにえをささげるためです。七は完全を表す聖なる数字です。また、雄牛と雄羊は、イスラエルのささげものの中でも最も高価なものでした。それを神にささげようとしたのです。それは、バラムが神託を受けるにあたり、必要なささげものをささげようと思ったのです。彼らは最善を尽くし、神の好意を得ようとしたのでしょう。かつてはあくまでも自分の思いを通そうとして神の御怒りを受けたバラムでしたが、ろばが人間のことばをしゃべるという出来事を通して、彼の心は砕かれていました。神の前にへりくだり、神がお語りくださることを期待する彼の姿が現れています。それは、3節の彼のことばを見てもわかります。彼はバラクに、「あなたは、あなたの全焼のいけにえのそばに立っていなさい。私は行って来ます。たぶん、主は私に現れて会ってくださるでしょう。そうしたら、私にお示しになることはどんなことでも、あなたに知らせましょう。」と言いました。彼は、主がお語りくださることは、何でも知らせますと言っています。そして、彼は「裸の丘」に行きました。「裸の丘」とは、見晴らしの良い、高くそびえた山で、草木の生えていない頂上という意味で、当時の占い師は、こうした場所を好んで用いたようです。そこで神はバラムに会われ、彼の口にことばを置いて、言われました。「バラクのところへ帰れ。あなたはこう言わなければならない。」と。いったい神はバラムにどんなことを告げられたのでしょうか。

7節から10節にその内容が書かれてあります。バラムはそれをことわざにして唱えて言いました。「ことわざ」と訳されていることばは、ヘブル語でマーシャールという語で、「箴言」(1列王4:32)と同じ語です。それは、詩の形で宣言や格言を述べることです。新共同訳聖書では「託宣」と訳しています。必ずしも言いならされた格言を意味するわけではなく、むしろここでは、神に授けられたことばを意味していると言えます。

その神から授けられたことばはどのような内容であったかというと、主がイスラエルをのろっておられないのだから、主がのろわない者を、のろえと言われてものろえないということ、またこの民は滅びるどころか、神が他の諸国の民から選ばれた特別な民であり、神に祝福されて大いに増え広がった民であると言い、私も彼らの一人に加えられたいものだ・・と願ったのです。(「正しい人が死ぬように死に、私の終わりが彼らと同じであるように。」)(10)
このことからわかることは、私たちは人間の思いとは別に、神のみこころはすでに定まっているということです。神はイスラエルを特別な民とし、これを祝福されました。彼らは、アブラハムが約束された通りの民となったのです。そのイスラエルを呪おうとしても呪うことはできません。神が祝福しておられるからです。

それは、神を信じる私たちも同じです。私たちは神の子イエス・キリストを救い主として信じたことで神の子とされました。神の特別の祝福の中に入れられたのです。だから、だれかが私たちを呪おうとしても決して呪うことなどできないし、逆に、神が約束してくださったとおり神の祝福によって大いに増え広がるのです。

バラクからヤコブをのろい、イスラエルに滅びを宣言するようにと言われたバラムでしたが、彼は、逆に、イスラエルを祝福することばを言いました。イスラエルが滅びるどころか、イスラエルは他の諸国の民から選び別たれた、特別な民であると宣言したのです。その宣言は、神の民である私たちにも向けられているのです。

Ⅱ.バラムの第二の託宣(13-24)

それでバラクはどうしたでしょうか。次に13節から26節までをご覧ください。

「13 バラクは彼に言った。「では、私といっしょにほかの所へ行ってください。そこから彼らを見ることができるが、ただその一部だけが見え、全体を見ることはできない所です。そこから私のために彼らをのろってください。」14 バラクはバラムを、ゼデ・ツォフィムのピスガの頂に連れて行き、そこで七つの祭壇を築き、それぞれの祭壇の上で雄牛と雄羊とを一頭ずつささげた。15 バラムはバラクに言った。「あなたはここであなたの全焼のいけにえのそばに立っていなさい。私はあちらで主にお会いします。」16 はバラムに会われ、その口にことばを置き、そして言われた。「バラクのところに帰れ。あなたはこう告げなければならない。」17 それで、彼はバラクのところに行った。すると、モアブのつかさたちといっしょに、彼は全焼のいけにえのそばに立っていた。バラクは言った。「は何とお告げになりましたか。」18 バラムは彼のことわざを唱えて言った。「立て、バラクよ。そして聞け。ツィポルの子よ。私に耳を傾けよ。19 神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。20 見よ。祝福せよ、との命を私は受けた。神は祝福される。私はそれをくつがえすことはできない。21 ヤコブの中に不法を見いださず、イスラエルの中にわざわいを見ない。彼らの神、は彼らとともにおり、王をたたえる声が彼らの中にある。22 彼らをエジプトから連れ出した神は、彼らにとっては野牛の角のようだ。23 まことに、ヤコブのうちにまじないはなく、イスラエルのうちに占いはない。神のなされることは、時に応じてヤコブに告げられ、イスラエルに告げられる。24 見よ。この民は雌獅子のように起き、雄獅子のように立ち上がり、獲物を食らい、殺したものの血を飲むまでは休まない。」

バラクは「場所がいけなかった」と思ったのか、場所を変えて再びイスラエルを呪わせようとしました。そして今度は「ピスガの頂」に連れて行きました。ここは後にモーセが死ぬところです。そこからはヨルダンの低地を十分に眺めることができました。イスラエルの宿営が全体ではなかったでしょうが、かなり見えたところだったのでしょう。そこに連れて行けば、きっと呪うにちがいないと思ったのです。

それでバラムは再び七つの祭壇を築き、雄牛と雄羊のいけにえを用意するという念入りな儀式を繰り返し、神に会いに行きました。すると主はバラムに現れ、彼の口にことばを置いて、言われました。しかし、今度はイスラエルに関することではなく、バラクの神に対する考え方の間違いを正すものでした。その内容は19節から24節に書かれてあります。それはまず、神は人間ではなく、偽りを言うことがないお方であるということ。そして、人の子ではないので、悔いることがないということ。そして、神は約束されたことを成し遂げられるということでした。そして、神はイスラエルを祝福せよと言われるので、私はそれをくつがえすことはできない、ということでした。ここでバラムは、神の義と真実を明確に語っています。つまり神の義と真実を取り消すことは誰もできないということです。神は、何物にも依存することなく、ご自身のみこころを最後まで成し遂げられるお方です。神が祝福されたのであれば、だれもそれをくつがえすことはできないということです。

そこに私たちが神を信頼する理由もあります。またそこにイスラエルが神に守られて、神の御心を成し遂げてきた理由もあるのです。バラムはイスラエルが敵を完全に打ち破る力を持っていることを告げています。それは彼らの中に主がともにおられるからです。だから彼らは野牛の角のように強いのです。野牛の角というのは強いということを表しています。また、イスラエルにはまじないはなく、占いもありません。なぜなら、神が彼らに直接語ってくださるからです。彼らは雌獅子のように起き、雄獅子のように立ち上がって、獲物を食らうのです。

これは、私たちに対する約束のことばでもあります。神が私たちに祝福を命じておられるのだから、私たちはいかなることがあろうとも、敵に完全に勝利することができるのです。神が私たちとともにおられるからです。だから、私たちは、人がなんだかんだ言うことであたふたする必要は全くないのです。いつでも、肝が据わった状態でいることができるのです。神が私たちとともにいて、約束されたことを成し遂げてくださるからです。この神が野牛の角をもって勝利を与えてくださるからです。私たちが成すべきことは、私たちをキリストにあって祝福すると約束された神に信頼し、日々、忠実に神のみことばに従って生きることだけです。そうすれば、主が私たちを成功させてくださるのです。

Ⅲ.三度目の託宣(25-30)

それでバラクはどうしたでしょうか。25節から30節までをご覧ください。

「25 バラクはバラムに言った。「彼らをのろうことも、祝福することもしないでください。」26 バラムはバラクに答えて言った。「私はが告げられたことをみな、しなければならない、とあなたに言ったではありませんか。」27 バラクはバラムに言った。「さあ、私はあなたをもう一つ別の所へ連れて行きます。もしかしたら、それが神の御目にかなって、あなたは私のために、そこから彼をのろうことができるかもしれません。」28 バラクはバラムを荒地を見おろすペオルの頂上に連れて行った。29 バラムはバラクに言った。「私のためにここに七つの祭壇を築き、七頭の雄牛と七頭の雄羊をここに用意してください。」30 バラクはバラムが言ったとおりにして、祭壇ごとに雄牛と雄羊とを一頭ずつささげた。」

バラクは、バラムに、「頼みますから、彼らを呪うことも、祝福することもしないでください。」と言いました。するとバラムはバラクに答えて言いました。「私はが告げられたことをみな、しなければならない、とあなたに言ったではありませんか。」

するとバラクは、今度は彼をもう一つの別のところへ連れて行きました。そこはイスラエル全体を見下ろすことができるペオルの頂上でした。もしかしたら、それが神の御目にかなって、彼らをのろうかもしれないと思ったからです。バラクはそこに、バラムが言ったとおり、祭壇を築き、七頭の雄牛と七頭の雄羊を用意し、雄牛と雄羊を一頭ずつささげました。

しかし、どんなに場所を変えても、神からの託宣は変わりません。神がイスラエルを祝福しておられるので、彼らを呪うことはできないのです。バラムは度重なるバラクからの圧力にも屈せずただ神が告げられたことだけを、正確にバラクに伝えました。バラクはモアブの王でしたが、たとえ相手がどんなにえらい王であっても、彼はこびる事も全くありませんでした。その結果、王がだんだん気弱になっていく様子が分かります。これは神の民として生きる私たちの姿でもあります。ローマ人への手紙12章2節には、「この世と調子を合わせてはいけません。いやむしろ何が良いことで完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」とありますが、私たちはこの社会に属しながら歩んでいても、この社会の一員としての責任を果たしつつも、やはりクリスチャンとしてのアイデンティティーを損なうようなことがないように、ただ神が告げよと言われることだけを告げる、神の言葉に忠実なクリスチャンでありたいと思います。

民数記22章

きょうは民数記22章から学んでいきたいと思います。ここにはあの有名なバラクとバラムの話が出てきます。まず1節から6節までをご覧ください。

Ⅰ.恐れが引き起こす弊害(1-6)

「1 イスラエル人はさらに進んで、ヨルダンのエリコをのぞむ対岸のモアブの草原に宿営した。2 さてツィポルの子バラクは、イスラエルがエモリ人に行ったすべてのことを見た。3 モアブはイスラエルの民が多数であったので非常に恐れた。それでモアブはイスラエル人に恐怖をいだいた。4 そこでモアブはミデヤンの長老たちに言った。「今、この集団は、牛が野の青草をなめ尽くすように、私たちの回りのすべてのものをなめ尽くそうとしている。」ツィポルの子バラクは当時、モアブの王であった。5 そこで彼は、同族の国にあるユーフラテス河畔のペトルにいるベオルの子バラムを招こうとして使者たちを遣わして、言わせた。「今ここに、一つの民がエジプトから出て来ている。今や、彼らは地の面をおおって、私のすぐそばにとどまっている。6 どうかいま来て、私のためにこの民をのろってもらいたい。この民は私より強い。そうしてくれれば、たぶん私は彼らを打って、この地から追い出すことができよう。私は、あなたが祝福する者は祝福され、あなたがのろう者はのろわれることを知っている。」

ホルマでカナン人アラデの王に勝利したイスラエルは、そのまま約束の地にカナンに入るのかと思ったらそうではなく、ホル山からエドムの地を迂回して、葦の海の道に立ちました(21:4)。そこは厳しい荒野で、パンもなく、水もない状況で、その苦しみに耐えかねた民は神とモーセに逆らった結果、燃える蛇にかまれて多くの民が死に絶えるという悲惨な出来事がありました。けれども、神が示された救いの道、青銅の蛇を旗さおにかけ、それを仰ぎ見た者たちは救われ、破竹の勢いで前進していきました。そしてエモリ人の王シホンに勝利し、バシャンの王オグも打ち破ると、さらに進んで、ヨルダンのエリコをのぞむ対岸のモアブの草原にまで来ることができました。この「エリコ」はヨルダン川の西岸にある町で、死海の北端から少し北にある町です。ヨシュア記において、ヨシュア率いるイスラエルが初めに占領する町です。

そのモアブの地までやって来たとき、ツィポルの子バラク、これはこのモアブの王ですが、イスラエルがエモリ人に行ったことを見て、彼らが多数であるのを恐れ、ユーフラテス河畔のペトルにいたベオルの子バラクを招こうと、彼に使者たちを送りました。イスラエルをのろってもらうためです。彼が祝福する者は祝福され、彼がのろう者はのろわれるということを知っていたからです。

しかし、モアブの王バラクは、恐れる必要などなかったのです。なぜなら、申命記を見ると、イスラエルはエドム人やアモン人と同じようにモアブ人とも戦ってはならないと命じられていたからです。なぜなら、エドムはイスラエルの先祖ヤコブの兄弟エサウの子孫であり、アモン人とモアブ人はアブラハムの甥ロトの二人の娘の子孫だったからです。アブラハムのゆえにロトはソドムとゴモラから救い出されました。そのロトのふたりの娘の子供たちがアモン人とモアブです。ですから、彼らもまたこのアブラハムの約束のゆえに、神の祝福の中にいたのです。実際、モアブ人はイスラエルの歴史に関わり、イスラエルを堕落させたり、堕落したイスラエルをヤハウェが罰するときに用いられたりしますが、モアブ人の女の一人を、キリストであるイエスの先祖とするのです。だから、モアブ人は恐れる必要はなかったのです。それなのに彼らが恐れてしまったのは、神の約束ではなく、自分を守ろうとしたからです。自分で自分を守ろうとすると、私たちは恐れを抱きます。そして、恐れを抱くと反対に攻撃的になってしまいます。ですから、主が守っておられることを覚え、主にすべてをおゆだねすることが必要なのです。

ところで、バラクがイスラエルをのろうために使いを送ったバラムとはどのような人物だったのでしょうか。ここには、「ユーフラテス河畔のペトル」とありますが、申命記23章4節を見ると、そこには、「アラム・ナハライムのペトル」とあります。これはかつてヤコブのおじのラバンが住んでいたところです。創世記11章にあるテラの歴史の中に、テラは、その息子アブラハムと、ハランの子で自分の孫のロトと、アブラハムの妻である嫁のサライとを伴い、カルデヤのウルからハランまで来て、そこに住み着いたとありますが(創世記11:31)、そのハランのあたりにあれります。そこにはアブラハムの親戚が住んでいました。ですから後にアブラハムの子イサクが結婚する際に、そこに住んでいたアブラハムの兄弟であったナホルの家族から嫁をめとるようにと、その娘リべカと結婚するのです。そして、やがてヤコブがエサウから逃れて行ったのは、このリベカの兄弟、すなわちおじのラバンのところでした。

このハランのもう一つの特徴は、占いといった偶像崇拝がはびこっていたということです。ですから創世記31章で、ヤコブがラバンのもとを出てきたとき、ラケルはテラフィムを盗み出したのです。それは占いで使っていた偶像です。すなわち、そこは、ヤハウェなるイスラエルの神を知りつつも、他の偶像も拝んでいた地でありました。ですから、バラムもおそらくそのような人であったと考えられます。ヤハウェなる神は知っていましたが、他の神々とも交流する占い師だったのです。

しかし、そこはこのモアブの地から650キロも離れていることから、バラムがやってくるにはかなり距離があるため、それはエモリ人の境を流れていたアルノン川付近のことを指しているのではないかという考えもあります。はっきりしたことは言えませんが、そこがアラム・ナハライムのペトルであるとしたら、やはりバラムはハランの地域に住んでいた者とかんがえることができます。

Ⅱ.不義の報酬を愛したベオルの子バラム(7-20)

さて、バラクの使いたちが行ったとき、バラムはどのように応じたでしょうか。7節から20節までを見ていきましょう。

「7 占いに通じているモアブの長老たちとミデヤンの長老たちとは、バラムのところに行き、彼にバラクのことづけを告げた。8 するとバラムは彼らに言った。「今夜はここに泊まりなさい。が私に告げられるとおりのことをあなたがたに答えましょう。」そこでモアブのつかさたちはバラムのもとにとどまった。9 神はバラムのところに来て言われた。「あなたといっしょにいるこの者たちは何者か。」10 バラムは神に申し上げた。「モアブの王ツィポルの子バラクが、私のところに使いをよこしました。11 『今ここに、エジプトから出て来た民がいて、地の面をおおっている。いま来て、私のためにこの民をのろってくれ。そうしたら、たぶん私は彼らと戦って、追い出すことができよう。』」12 神はバラムに言われた。「あなたは彼らといっしょに行ってはならない。またその民をのろってもいけない。その民は祝福されているからだ。」13 朝になると、バラムは起きてバラクのつかさたちに言った。「あなたがたの国に帰りなさい。は私をあなたがたといっしょに行かせようとはなさらないから。」14 モアブのつかさたちは立ってバラクのところに帰り、そして言った。「バラムは私たちといっしょに来ようとはしませんでした。」15 バラクはもう一度、前の者より大ぜいの、しかも位の高いつかさたちを遣わした。16 彼らはバラムのところに来て彼に言った。「ツィポルの子バラクはこう申しました。『どうか私のところに来るのを拒まないでください。17 私はあなたを手厚くもてなします。また、あなたが私に言いつけられることは何でもします。どうぞ来て、私のためにこの民をのろってください。』」18 しかしバラムはバラクの家臣たちに答えて言った。「たといバラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても、私は私の神、のことばにそむいて、事の大小にかかわらず、何もすることはできません。19 それであなたがたもまた、今晩ここにとどまりなさい。が私に何かほかのことをお告げになるかどうか確かめましょう。」20 その夜、神はバラムのところに来て、彼に言われた。「この者たちがあなたを招きに来たのなら、立って彼らとともに行け。だが、あなたはただ、わたしがあなたに告げることだけを行え。」」

7節には、モアブの長老たちだけでなくミデヤンの長老たちもバラムのところに行ったとあります。ここに急にミデヤン人が登場してきます。ミデヤンというのはエドムのずっと南方にあるアラビヤ半島の地域の民族です。モーセがエジプトの王パロから逃れたのがこのミデヤンの地でした。そしてその長老の娘チッポラと結婚して子供ももうけました。そのミデヤンの長老も一緒に出掛けて行ったというのは、そうしたイスラエルの快進撃にミデヤン人も恐れをなしたということです。彼らはアラビヤ半島から今のヨルダンにかける南北の広範囲に住んでいたようですが、後に、ヨルダン川の西側のイスラエルの相続地にも入ってきて、ギデオンが生きていた時代にはイスラエルを苦しめたりしていましたことからもわかります。

8節でバラムは、「主が私に告げられたとおりのことをあなたがたに応えましょう。」と言っていますが、この主とは神の個人名である「ヤハウェ」です。新改訳聖書の太字の「」はそれを表しています。つまり、バラムはイスラエルの神と交流していたのです。また9節の神もイスラエルの神を意味するヘブル語の「エロヒーム」ですから、彼はイスラエルの神と交流を持っていたことがわかります。その神が、「彼らといっしょに行ってはならない。またその民をのろってもいけない。その民は祝福されているのだから。」(12)と言われたので、バラムと彼らと一緒に行くことはしませんでした。

ところが、バラクの使いたちがそのことを帰ってバラクに告げると、バラクは前よりももっと大ぜいの、しかも位の高いつかさたちを遣わしました。もっと大勢の、もっと位の高いつかさたちを遣わしたということは、それだけたくさんの金銀も積まれたということです。ですからバラムは「たといバラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても・・・」と言っているのです。たとえそれだけの金銀を積まれても、自分は神のことばにそむいて、何もすることはできません、ときっぱりと断りました。

ここだけを見ると、彼は立派です。しかし、19節を見ると、「それであなたがたもまた、今晩ここにとどまりなさい。主が私に何かほかのことをお告げになるかどうか確かめましょう。」と言っているのです。なぜ彼はこんなことを言ったのでしょうか。主のことばにそむいて、何もすることはしないと言うのならその時点できっぱりと断ればいいのに、今晩ここにとどまりなさい、と言っているのです。なぜでしょうか。未練があったからです。表面的には「どんなに金銀を積まれても・・・」みたいなことを言っていますが、まだどこか期待していたところがあったのです。ですから彼は19節で、「もしかすると、主が別のことを語られるかもしれませんから・・・。」と告げているのです。これはどちらかというと、それを期待しているかのようなニュアンスです。

なぜこのように言えるかというと、新約聖書にこの時のバラムの気持ちが語られているからです。Ⅱペテロ2章15節と16節にはこうあります。「15 彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。16 しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の狂った振る舞いをはばんだのです。」

「彼ら」とは、イスラエルの中から出たにせ預言者のことですが、彼らは正しい道を捨てて貪欲に走りました。そして、その一つの実例としてこのバラムのことが取り上げられているのです。バラムは口では実にすばらしいことを言っているようですが、その心はこのことに対する報酬をむさぼっていたのです。これが不義の報酬です。だからバラムは自分の罪をとがめられ、ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の狂った振る舞いをはばんだのです。

だったら、20節で神はなぜ「彼らとともに行きなさい」と言われたのでしょうか。行ってほしくなければ「行け」と言わなかったのではないでしょうか。違います。神は、あくまでも行ってほしくなかったのですが、神がそのように言ってもバラムは受け入れようとしなかったので、仕方なくそう言われたのです。つまり、これはバラムを突き放している言葉なのです。

このようなことは、私たちにもよく見られるのではないでしょうか。表面的には神に従っているようでも、あくまでも自分の思いを通したいということがあります。神様はみこころをはっきり示しているのにそれに従うよりも、どこまでも自分の思いを通したいのです。そのような時神は私たちをそのように突き放してしまわれます。突き放す中で、ご自分のみこころを示されるのです。それがその後に出てくるろばが人間のことばを話すという出来事なのです。

Ⅲ.ろばのことばを通して語られる主(21-30)

さて、次に21節から30節までをご覧ください。22節には、彼が出かけて行くと、主の怒りが燃え上がったとあります。なぜでしょうか。彼が出かけて行くことは主のみこころではなかったからです。主の使いが彼に敵対して道をふさいだので、ろばは道からそれて畑の中に行きました。その主の使いが抜き身の剣を手にもって道をふさいでいたからです。するとバラムはろばを打って道にもどそうとしました。彼はそれが神からの警告であることも知らずに、自分の意志を貫こうとしたのです。しかし、主の使いは、両側に石垣のあるぶどう畑の間の狭い道に立っていたので、石垣に身を押し付け、バラムの足を押し付けたので、バラムはまた、ろばを打ちました。すると、主の使いは、さらに進んで、右にも左にもよける余地のない狭い所に立ったので、ろばは、主の使いを見て、バラムを背にしてしてうずくまってしまったのです。そこでバラムは怒って、杖でろばを打ちました。するとどうでしょう。主はろばの口を開かれたので、ろばがしゃべったのです。

「私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは。」

バラムはびっくりしたと思います。ろばが人間のことばをしゃべったのですから。しかし、彼はろばにいいました。

「おまえが私をばかにしたからだ。もしつるぎを持っていたら殺すところだった。」と。

するとろばはまたバラムに言いました。

「わたしはあなたがきょうのこの日まで、ずっと乗ってこられたあなたのろばではありませんか。私がかつてあなたにこんなことをしたことがあったでしょうか。」

いったいろばが人のことばを話すということがあるのでしょうか。普通はありません。聖書の中で動物が人間のことばを話したというのは、ここと創世記の蛇だけです。しかし、神にはどんなことでもできるのです。これは事実、その通り起こったことです。ペテロは第二の手紙で、「しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをはばんだのです。」(2:16)」と説明しています。もちろん、ろばは当然、普通の状態であれば人の言葉を話せませんが、全能者であられる神は、このようにして、バラムの罪を示したのです。神はこのような特殊で、異様な光景を通して、バラムが自分のしていることがどういうことなのかを悟らせようとしたのです。

Ⅳ.神のみこころを悟ったバラム(31-41)

31節からのところをご覧ください。主はバラムがロバに対して語った言葉、「もし私の手に剣があれば、今、おまえを殺してしまうところだ。」と使って、反対に主がバラムを殺すつもりだったことを明かにされました。主は三度、ろばを通して警告を発せましたが、それでも止めることはなかったので、ろばの口を通して語られたのに、それでも彼は聞こうとしなかったのです。

しかし、主がバラムの目のおおいを除かれたので、彼はそれを悟ことができました。34節を見ると、バラムはこう言っています。「私は罪を犯しました。」と悔い改めています。そして、今、もし神のお気に召さないことであれば、引き返します」彼ははっきりと神のみこころを悟ったので、もう金銀には未練がありませんでした。神が行けと言えば行くし、行くなと言えば行かないということができました。彼はろばが人間のことばを語るという神のみわざを通して砕かれ、悔い改めることができたのです。

ですから、彼がバラクのところに行ったとき、バラクが「なぜ、すぐに来てくた゜さらなかったのですか。」といったとき、「神が私の口に置かれることばを語らなければなりません。」と答えたのです。不義の報酬を愛したバラムですが、ろばが人間のことばを話すことによって砕かれ、教えられ、神の道に立つことができたのでしょう。

私たちも不義を愛するバラムのような者ですが、そんな私たちを何とか正そうとして、神はあの手この手を使ってみこころを示しておられます。時にはバラムしたように、ろばのことばをとおして語らせることもあります。ですから、私たちはいつも柔和な心で神のみことばを聞き、神のみこころに従う者でありたいと思います。

民数記21章

Ⅰ.カナン人アラデの王との戦い(1-3)

きょうは民数記21章から学びます。まず1-3節をご覧ください。

「1 ネゲブに住んでいたカナン人アラデの王は、イスラエルがアタリムの道を進んで来ると聞いて、イスラエルと戦い、その何人かを捕虜として捕らえて行った。2 そこでイスラエルはに誓願をして言った。「もし、確かにあなたが私の手に、この民を渡してくださるなら、私は彼らの町々を聖絶いたします。」3 はイスラエルの願いを聞き入れ、カナン人を渡されたので、彼らはカナン人と彼らの町々を聖絶した。そしてその所の名をホルマと呼んだ。」

イスラエルの民は、カデシュ・バルネアから出発し、少し北上しました。ホル山でアロンが死に、そこで彼を葬りましたが、そこは神がアブラハムに約束された、カナン人の土地に近いところでした。ネゲブとはカナン人の地の南方の地域のことです。その最大の都市はベエル・シェバという町ですが、そこから東に約35㎞のところにアラデという町がありました。そのアラデの王は、イスラエルがアタリムの道を進んで来ると聞いて、イスラエルと戦い、何人かを捕虜として捕らえて行きました。そこで主に祈りました。彼らに勝利しその民を渡してくださいと懇願したのです。すると、主はそのイスラエルの願いを聞き入れ、彼らを渡されたので、彼らに勝利することができたました。

かつて、イスラエルの民がカデシュ・バルネアからカナンの地を偵察させた時、彼らは不信仰になって約束の地に入ろうとしなかったので、主は40年間イスラエルを荒野でさまよわせると言われましたが、その時彼らは手のひらを返したかのように、今度は、「とにかく主が言われた所へ上って行ってみよう」(14:40)と言ったのですが、その時の主の答えは「上っていってはならない。」ということでした。なぜなら、主は彼らのうちにおられないからです。もし上って行くようなことがあったら、あなたがたが敵に打ち負かされるであろう、と警告したのです。それでも彼らは言うことを聞かず、上っていきましたが、案の定、山地に住んでいたカナン人が彼らを打ち、このホルマまで追い散らしたのです。もう39年も前の話です。しかし、今度は違います。今度は彼らの願いを聞き入れて、彼らの町々を聖絶することができました。一方では彼らの願いは聞かれず、他方では祈りが聞かれています。いったいこれはどういうことなのでしょうか。

それは、神がともにおられるかどうかということです。彼らは自分たちの思いで、「とにかく上って行ってみよう」と行った時には、主が彼らとともにはおられませんでした。なぜなら、主のみこころは「上って行ってはならない」ということだったからです。しかし、あれから40年、肉の欲望にかられ、不信仰に陥り、さらに反逆までしたイスラエルの民はみな死に絶えてしまいました。そこには新しい民の姿がありました。そんな新しいイスラエルが主に誓願を立てているのです。主に向かって祈りました。そこに主がともにおられました。ですから、主は彼らに勝利を与えてくださったのです。かつてだめだったから今度もだめだということはありません。かつてだめだった原因は何だったのかを見極め、それを悔い改めて、主に立ち返るなら、主は勝利を与えてくださるのです。

Ⅱ.燃える蛇と青銅の蛇(4-9)

次に4節から9節までをご覧ください。

「4 彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中でがまんできなくなり、5 民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」6 そこでは民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。7 民はモーセのところに来て言った。「私たちはとあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、に祈ってください。」モーセは民のために祈った。8 すると、はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。」

イスラエルの民はホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立ったとき、途中で我慢できなくなり、神とモーセに逆らって言いました。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」(5)またここにイスラエルの民の不満が噴出しました。彼らはちょっとでも嫌なことがあると全く我慢することができず、すぐにこうして不満を噴出させたのです。何が問題だったのでしょうか。「葦の海の道」とは、紅海への道のことです。せっかくもう少しでカナン人の地に入ることができるというところまで来ていたのに、また葦の海の道まで戻り、迂回しなければならなかったのです。彼らは葦の海の道を、砂漠を南下して行かなければならなかったのです。その砂漠の旅に耐えるということは困難なことでした。それで彼らは不満を漏らしたのです。

それで主はどうされたでしょうか。そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人が死にました。この「燃える蛇」とは、どのような蛇だったのかはわかりません。おそらく、かまれると焼けつくような痛みと激しい毒のゆえにこのように呼ばれていたのではないかと思われます。この蛇は複数形で書かれているので、何匹もうじゃうじやしていたのだと思います。それが民にかみついたので、多くの人々が死んだのです。

それでイスラエルの民は、それが神の罰であるのを見て、自分たちの非を認め、モーセに助けを求めました。そして、モーセが民のために祈ると、主はモーセに興味深いことを仰せられました。それは、青銅の燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ、ということでした。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる、というのです。モーセは命じられた通りにしました。すると、もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きたのです。いったいこれはどういうことでしょうか。これは、信仰の従順による癒しと救いです。これは青銅の蛇自体に救い力があったということではなく、神の約束を信じてこれを仰ぎ見た者だけが、死の毒を免れて救われることができるということです。

この出来事について、イエス様はニコデモに対して語られました。ヨハネの福音書3章14-15節です。彼はイスラエルの指導者です。ユダヤ人の教師です。ですからこの話を十分に知っていました。そしてこう言われたのです。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ3:14-15)

人の子が上げられる、というのは、十字架につけられることを表しています。ヨハネ12章32-33節に、イエス様が言われたことをヨハネが説明しています。「『わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。』イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。」イエス様は、モーセが荒野で上げた青銅の蛇のように、十字架に上げられることを示していたのです。

まず蛇が彼らに死をもたらしたことに注目しましょう。エバを惑わしたのも蛇でした。また、黙示録12章9節によると、蛇は悪魔であったことが分かります。そして主は、蛇に対してその子孫のかしらが、女の子孫によって打ち砕かれると約束されました(3:15)。蛇の子孫は女の子孫のかかとをかみつくが、女の子孫は蛇の頭を打ち砕きます。それが十字架と復活によってキリストが行なわれたことです。「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(ヘブル2:14-15)

つまり、蛇が死をもたらしたのは、罪が死をもたらしたと言い換えることができるのです。そして青銅で蛇を作りなさいというのは、その罪に対する神のさばきを表していました。覚えていますか、祭壇が青銅で作られていたのを・・。そこで罪のためのいけにえが焼かれました。それは、罪に対する神の裁きを表していました。つまり、罪が裁かれたことを表していたのです。しかもそれが、旗ざおという木の上で裁かれたのです。キリストは十字架にかけられ、青銅の蛇となって、全人類の罪のさばきをその身に負われたのです。そのキリストを仰ぎ見る者が救われるのです。それが信じることであり、ニコデモにイエス様が語られた「御霊によって新しく生まれなければならない」ということだったのです。

Ⅲ.ホル山からピスガまで(10-20)

次に10節から20節までをご覧ください。

「10 イスラエル人は旅立って、オボテで宿営した。11 彼らはオボテから旅立って、日の上る方、モアブに面した荒野にあるイエ・ハアバリムに宿営した。12 そこから旅立って、ゼレデの谷に宿営し、13 さらにそこから旅立って、エモリ人の国境から広がっている荒野にあるアルノン川の向こう側に宿営した。アルノン川がモアブとエモリ人との間の、モアブの国境であるためである。14 それで、「の戦いの書」にこう言われている。「スパのワヘブとアルノンの谷川とともに、15 谷川の支流は、アルの定住地に達し、モアブの領土をささえている。」16 彼らはそこからベエルに向かった。それはがモーセに、「民を集めよ。わたしが彼らに水を与える」と言われた井戸である。17 そのとき、イスラエルはこの歌を歌った。「わきいでよ。井戸。―このために歌え―18 笏をもって、杖をもって、つかさたちがうがち、民の尊き者たちが掘ったその井戸に。」彼らは荒野からマタナに進み、19 マタナからナハリエルに、ナハリエルからバモテに、20 バモテからモアブの野にある谷に行き、荒地を見おろすピスガの頂に着いた。」

10節には、「イスラエルは旅立って」とありますが、どこから旅立ったのでしょうか。ここはには書いてないのでわかりませんが、おそらく、エドムを迂回して南下し、次いでモアブの草原に向かって北上して行った途中の地点であったので、その地点か、あるいはその周辺のどこか宿営していた所から旅立ったのでしょう。そして、オボテまでやって来ました。このオボテは地中海の南方、エドムとの境界にある町です。そこからさらにイエ・ハアバリム、ゼレデの谷に宿営し、エモリ人の国境から広がっている荒野にあるアルノン川の向こう側に宿営しました。それはアルノン川がモアブ人とエモリ人との間の、モアブの国境であったからです。すなわち、彼らはアルノン川の北のエモリ人の地に宿営したのです。

それから彼らはベエルに向かいました(16)。「ベエル」がどこにあるのかはわかりませんが、主がモーセに「民を集めよ。わたしが彼らに水を与える」と言われたので、その井戸を求めていたからでしょう。その井戸についての歌が17節と18節にあります。乾燥地帯の砂漠にあってこうした井戸に巡り合わせられたことは、彼らにとってどれほど大きないやしと励ましとなったことでしょう。彼らはそこで主に感謝の歌をささげました。すばらしいですね。不平を鳴らすのではなく、感謝の歌を歌うのです。私たちも聖霊によって生きるなら、感謝の歌をささげるようになります。そして彼らはピスガの頂にまでやってきました。後にモーセがそこに立って、約束の地を見下ろし、死にます。

Ⅳ.勝利ある人生(21-35)

次に21節から35節までをご覧ください。

「21 イスラエルはエモリ人の王シホンに使者たちを送って言った。22 「あなたの国を通らせてください。私たちは畑にもぶどう畑にも曲がって入ることをせず、井戸の水も飲みません。あなたの領土を通過するまで、私たちは王の道を通ります。」23 しかし、シホンはイスラエルが自分の領土を通ることを許さなかった。シホンはその民をみな集めて、イスラエルを迎え撃つために荒野に出て来た。そしてヤハツに来て、イスラエルと戦った。24 イスラエルは剣の刃で彼を打ち、その地をアルノンからヤボクまで、アモン人の国境まで占領した。アモン人の国境は堅固だったからである。25 イスラエルはこれらの町々をすべて取った。そしてイスラエルはエモリ人のすべての町々、ヘシュボンとそれに属するすべての村落に住みついた。26 ヘシュボンはエモリ人の王、シホンの町であった。彼はモアブの以前の王と戦って、その手からその全土をアルノンまで取っていた。27 それで、ことわざを唱える者たちが歌っている。「来たれ、ヘシュボンに。シホンの町は建てられ、堅くされている。28 ヘシュボンから火が出、シホンの町から炎が出て、モアブのアルを焼き尽くしたからだ。29 モアブよ。おまえはわざわいだ。ケモシュの民よ。おまえは滅びうせる。その息子たちは逃亡者、娘たちは捕らわれの身である。エモリ人の王シホンによって。30 しかしわれわれは彼らを投げ倒した。ヘシュボンからディボンに至るまで滅びうせた。われわれはノファフまでも荒らし、それはメデバにまで及んだ。」31 こうしてイスラエルはエモリ人の地に住んだ。32 そのとき、モーセはまた人をやって、ヤゼルを探らせ、ついにそれに属する村落を攻め取り、そこにいたエモリ人を追い出した。33 さらに彼らは進んでバシャンへの道を上って行ったが、バシャンの王オグはそのすべての民とともに出て来た。彼らを迎え撃ち、エデレイで戦うためであった。34 しかし、はモーセに言われた。「彼を恐れてはならない。わたしは彼とそのすべての民とその地とをあなたの手のうちに与えた。あなたがヘシュボンに住んでいたエモリ人の王シホンに対して行ったように、彼に対しても行え。」35 そこで彼らは彼とその子らとそのすべての民とを打ち殺し、ひとりの生存者も残さなかった。こうして彼らはその地を占領した。」

ピスガの頂まで来たとき、イスラエルはエモリ人の王シホンに使者たちを送りました。そこにエモリ人が住んでいたからです。それでモーセたちはエドム人に対するのと同じように、ただ通過させてほしいと頼んだのです。ところがシホンは、イスラエルが自分たちの領土を通ることを許しませんでした。それどころか、イスラエルと戦うために出てきたのです。いったい彼らはなぜモーセの依頼を冷たく断ったのでしょうか。彼らはイスラエルに敵対していたからです。後に北イスラエルを滅ぼしたアッシリア帝国の人々は、ハムの子カナンの子孫であるエモリ人でした(創世記10:16)。彼らはアッシリア一帯を征服し、そこの支配者となったのです。このようにエモリ人は常にイスラエルに敵対する民でした。それでイスラエルが通ることを許さなかったのです。それどころか彼らが攻撃してきたので仕方なくイスラエルは応戦し、その結果、彼らを打ち破り、アルノンからヤボクまでを占領したのです。

こうやって見ると、神の民にはいつでも戦いがあることがわかります。こちらが平和的な解決を望んでいても、必ずしも相手もそうだとは限りません。このように戦いを挑んでくることがあるのです。それはこの世が悪魔に支配されているからであり、神の進展を好まないからです。ですから、ありとあらゆる形で妨害し、それを拒もうとするわけです。しかし、主はわたしたちとともにいて戦ってくださいます。そしてそのことによってかえってご自分のみわざを進められるのです。主は、悪魔が行なう仕業をも飲み込み、ご自分の勝利に変えてくださるのです。

その大勝利の歌が27-30節までにあります。「へシュボン」はエモリ人の王、シホンの町でした。彼らは以前、モアブの王と戦って、その全土を取っていました。けれども今、そのヘシュボンはイスラエルによって投げ倒されたのです。主は勝利を治めてくださいました。この歌はそっくりそのままイスラエルの勝利の歌となったのです。

さらに彼らはバシャンへの道を上って行きました。つまり、そのまま北上していったということです。それでバシャンの王オグはそのすべての民とともに出てきました。それはイスラエルを迎え撃ち、エデレイで戦うためです。しかし、主はモーセに言われました。「恐れてはならない。彼とそのすべての民とその地をあなたがたに与える」と。あのエモリ人の王シホンに対してしたように、彼らに対してもする・・と。そこでイスラエルは彼らとその子らとすべての民とを打ち殺し、その地を占領しました。

このようにして、主はすでに約束の地に入る前に、約束の地における主の勝利を見せてくださいました。彼らは不平によって燃える蛇を送られ、死に絶えるという神のさばきを受けましたが、悔い改め、神が言われたとおりにすることによって、つまり、旗さおに掲げられた青銅の蛇を仰ぎ見ることによって救われると、たとえ行く手にどんなに強力な敵がいようとも、破竹の勢いで前進していくことができたのです。そこに主がともにおられたからです。

それは私たちも同じです。私たちも自分の罪を悔い改め、神が仰せられた救いを受け入れる時、その罪が赦され、永遠のいのちが与えられるだけでなく、たとえ目の前にどんな敵がいても勝利することができるのです。神がともにおられるからです。まだ約束の地には入っていなくても、それは確実にもたらされます。私たちの信仰の歩みはまさにイスラエルの荒野の旅と同じですが、大切なのはそれをどのように進んでいくかということではなく、だれとともに行くのかということです。神がともにおられるなら、何も怖くありません。必ず勝利することができます。イエス・キリストによって与えられた神の恵みを受け入れ、信仰をもってこの旅路を進んでいきたいと思います。

民数記20章

きょうは民数記20章から学びます。

Ⅰ.イスラエル人のつぶやき(1-6)

まず1-6節までをご覧ください。

「1 イスラエル人の全会衆は、第一の月にツィンの荒野に着いた。そこで民はカデシュにとどまった。ミリヤムはそこで死んで葬られた。2 ところが会衆のためには水がなかったので、彼らは集まってモーセとアロンとに逆らった。3 民はモーセと争って言った。「ああ、私たちの兄弟たちがの前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。4 なぜ、あなたがたはの集会をこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか。5 なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪い所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような所ではない。そのうえ、飲み水さえない。」6 モーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入口に行ってひれ伏した。するとの栄光が彼らに現れた。

イスラエルの全会衆は、第一の月にツィンの荒野に着きました。ツィンの荒野とは、あの12人のスパイたちをカナン偵察のために遣わした地のことです。そこに戻ってきたわけです。ですから、1節の「第一の月」というのは、あの時以来のことになります。実は、あれから38年後のことなのです。なぜなら33章38節を見ると、そこにエジプトを出てから第四十年目とあるからです。その時アロンが死にました。ここにもアロンの死のことがあります。ですから、これはエジプトを出てから40年目の第1の月のことなのです。以前、カデシュ・バルネアで彼らが約束の地に入れなかった時、すでにエジプトから出て1年以上が経っていました。ですから、彼らが荒野で放浪したのは実際には38年になります。そして彼らはこの「ツィンの荒野」に戻ってきたのです。

そこで、モーセの姉「ミリヤム」が死にました。彼女はすでに133歳になっていたことと思われます。というのは、モーセが生まれたときに彼女は13歳でしたので、モーセは120歳で死にましたから、彼女はこの時133歳であったろうと考えられます。その他の人々はほとんどが新しい世代の人たちです。古い世代の人たちはみな死に絶えてしまいました。

そこで一つの事件が起こりました。それは、イスラエルがモーセとアロンに逆らったのです。いったい彼らはなぜ逆らったのでしょうか?そこに水がなかったからです。水がなかったので、穀物やくだものが育たないというだけでなく、彼らの家畜にも飲ませる水がありませんでした。それで彼らはモーセとアロンにつぶやいたのです。ここで興味深いことは、彼らのつぶやきは、かつてカデシュ・バルネアからスパイを遣わした際、その偵察から帰ってきた10人の悪い報告を聞いたイスラエル人の親の世代と同じあることです(14:1~)。また、コラの事件があったとき、あのダタンとアビラムが言ったこととも同じです(16:12~)。人間の心というのは、いつの時代も同じであることを思います。そこに水がなかったので、彼らはそれを契機にこのような不平を鳴らしたのです。おそらく、ミリヤムが死んだという悲しみがあったでしょうし、かつてここから偵察を遣わしたという記憶もよみがえったのではないかと思います。私たちは平素では希望を持っていても、いざ状況が悪くなるとすぐに不満を漏らしやすいものなのです。それでモーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入口に行ってひれ伏した。するとの栄光が彼らに現れたのです。モーセとアロンはいつもと同じように、主の前にひれ伏しました。

Ⅱ.メリバの水(7-20)

「7 はモーセに告げて仰せられた。8 「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」9 そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、の前から杖を取った。10 そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」11 モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。12 しかし、はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」13 これがメリバの水、イスラエル人がと争ったことによるもので、主がこれによってご自身を、聖なる者として示されたのである。」

すると主は何と仰せになられたでしょうか?杖を取って、彼らの目の前で岩に命じるようにと言われました。そうすれば、岩は水を出す、と言われたのです。そり水を会衆とその家畜とに飲ませるようにと言われたのです。そこでモーセは、主が命じられたとおりに、主の前から杖を取って、岩の前に召集したイスラエル人に、「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」と言い、杖で岩を二度打ちました。すると、岩からたくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲みました。

しかし、そのとき主はモーセとアロンにこう言われました。12節です。 「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」

いったいどういうことでしょうか?彼らは神に命じられたとおりにしたかのようでしたが、実はそうではありませんでした。モーセは岩に命じればよかったのに、岩を打ってしまいました。しかも、二度も、です。いったいなぜモーセは岩を二度打ってしまったのでしょうか。それはモーセに怒りがあったからです。モーセはその怒りを抑えることができませんでした。それでついつい岩を打ってしまったのです。それでも主は民をあわれみ、水をわき出るようにされましたが、それは主のみこころを損なわせたので、モーセとアロンはこの集会を約束の地に導き入れることはできないと言われたのです。このことが原因で彼らは約束の地に入ることができなかったのです。この出来事はそれだけ重要な出来事でした。

いったいこのことは私たちにどんなことを教えているのでしょうか。どういうことでしょうか?Ⅰコリント10章4節には、この岩がキリストを表していると語られています。「(私たちの先祖は)みな、同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。」この岩とはキリストのことでした。その岩から水を飲むとは、キリストにあるいのちを受けることを指しています。そのためには、その岩に向かってただ命じればよかったのです。すなわち、神の命令に従えばよかったのです。それなのにモーセは岩を打ってしまいました。モーセとアロンは、主が仰せになられたことに従わなかったのです。つまり、主のことばを信じなかったことです。モーセは自分の思い、自分の感情、自分の方法に従いました。それは信仰ではありません。信仰とは、神のことばに従うことです。そうでなければ救われることはありません。私たちが救われるのはただ神のみことばを信じて受け入れること、すなわち、御霊の岩であるイエスを信じる以外にはないのです。彼らは神と争い、神の方法ではなく自分の方法によって水を得ようとしたのです。それでこの水はメリバの水と呼ばれました。意味は争うです。彼らは神に従ったのではなく、神と争ったのです。

私たちはここから、神に従うことの大切さを学びます。そして、そのためには自分の感情をコントロールすることの必要性を感じます。自分の感情に流されて神に従うことができないということがよくあります。たとえ自分の感情がどうであれ、御霊によって歩み、御霊に導かれて歩まなければなりません。そうすれば、肉に支配されることはないからです。

Ⅲ.エドムの反抗(14-21)

「14 さて、モーセはカデシュからエドムの王のもとに使者たちを送った。「あなたの兄弟、イスラエルはこう申します。あなたは私たちに降りかかったすべての困難をご存じです。15 私たちの先祖たちはエジプトに下り、私たちはエジプトに長年住んでいました。しかしエジプトは私たちや先祖たちを、虐待しました。16 そこで、私たちがに叫ぶと、主は私たちの声を聞いて、ひとりの御使いを遣わし、私たちをエジプトから連れ出されました。今、私たちはあなたの領土の境にある町、カデシュにおります。17 どうか、あなたの国を通らせてください。私たちは、畑もぶどう畑も通りません。井戸の水も飲みません。私たちは王の道を行き、あなたの領土を通過するまでは右にも左にも曲がりません。」18 しかし、エドムはモーセに言った。「私のところを通ってはならない。さもないと、私は剣をもっておまえを迎え撃とう。」19 イスラエル人は彼に言った。「私たちは公道を上って行きます。私たちと私たちの家畜があなたの水を飲むことがあれば、その代価を払います。ただ、歩いて通り過ぎるだけです。」20 しかし、エドムは、「通ってはならない」と言って、強力な大軍勢を率いて彼らを迎え撃つために出て来た。21 こうして、エドムはイスラエルにその領土を通らせようとしなかったので、イスラエルは彼の所から方向を変えて去った。」

カデシュから直接、約束の地に入ることが御心ではないことを知っていたモーセは、ヨルダン川の東から、ヨルダン川を渡って入ることを考えていました。ゆえに死海を迂回して、死海の北にあるヨルダン川に行こうとしました。しかし、そこにはエドムの地が広がっていました。それでモーセはカデシュからエドムの王のもとに使者たちを送り、彼らの地を通らせてほしいと願いましたが、彼らの答えは「ノー」でした。「通ってはならない」と、頑なに拒んだのです。なぜでしょうか?

エドムとはもともと、ヤコブの兄エサウの子孫で、イスラエルの兄弟です。それゆえ、主はモーセに対してエドム人と争ってはいけないという命令を出していました。それは、「彼は同族であるから」です。ヤコブの兄であったので、戦ってはいけない、と言われたのです。それでモーセは平和的な解決を求めてエドムの王に通行許可を願いましたが、彼らはそれを受け入れませんでした。それどころか、戦争も辞さない姿勢で向かってきたのです。

それは、彼らがイスラエルの神に畏れを抱きながらも、最終的には自分たちの思いを優先していたからです。あのエサウが一杯のレンズ豆と引き換えに長子の権利をヤコブに譲ったように、霊的なことに目が開かれることなく、いつも肉的に考えていたからなのです。それはこの時からずっと続きました。彼らはイスラエルに決して服することをせず、何かがあれば、イスラエルに敵対しました。イスラエルが苦しめられていても何のお構いなしで、彼らを助けようとせず、自分たち中心に行動したのです。その結果、このエドムには永遠の廃墟という預言が与えられました。いつまでも悔い改めず、神に敵対する者がどうなってしまうのかを、この箇所はよく教えていると思います。

Ⅳ.アロンの死(22-29)

「22 こうしてイスラエル人の全会衆は、カデシュから旅立ってホル山に着いた。23 は、エドムの国の領土にあるホル山で、モーセとアロンに告げて仰せられた。24 「アロンは民に加えられる。しかし彼は、わたしがイスラエル人に与えた地に入ることはできない。それはメリバの水のことで、あなたがたがわたしの命令に逆らったからである。25 あなたはアロンと、その子エルアザルを連れてホル山に登れ。26 アロンにその衣服を脱がせ、これをその子エルアザルに着せよ。アロンは先祖の民に加えられ、そこで死ぬ。」27 モーセは、が命じられたとおりに行った。全会衆の見ている前で、彼らはホル山に登って行った。28 モーセはアロンにその衣服を脱がせ、それをその子エルアザルに着せた。そしてアロンはその山の頂で死んだ。モーセとエルアザルが山から降りて来たとき、29 全会衆はアロンが息絶えたのを知った。そのためイスラエルの全家は三十日の間、アロンのために泣き悲しんだ。」

こうしてイスラエル人の全会衆は、カデシュから旅立ってホル山に着きました。ホル山はエドム領にあるとありますが、明らかに直線の道を通らずに、エドムの領土を廻っていく形で道を進んでいます。そのホル山で、主はモーセとアロンに仰せられました。そこでアロンは死ぬと。それで、そこでアロンの子エルアザルに大祭司の装束を着せて、それで引き継ぎが行なわれ、彼はそこで死にました。その理由は、先ほどのメリバの水のことで、主の命令に逆らったからです。

アロンはこうして、ホル山において息を引き取りました。厳しい現実です。しかし、このことをとおして、主はいかに、キリストのわざを示しておられるかがわかります。すなわち、主のわざこそ完全であって、それが私たちを完全に救うことができるということです。それ以外に救いはありません。もし、それを妨げるものがあれば、こうした厳しいさばきを受けることになるのです。たとえば、自分の行為によって生きていこうとすることです。それは私たちを救うことはできません。ただ神が要求されることは、私たちが神の贖いを受け入れること以外にはないのです。

民数記19章

きょうは民数記19章から学びます。ここでのテーマは「完全に赤い雌牛」です。まず19章全体を読んでみましょう。ここで主はモーセとアロンに、完全な赤い雌牛によって灰を作るように命じています。何のためでしょうか?その灰によってきよめの水をつくり、それを死体に触れて汚れた人たちに振りかけるためです。そうすれば死体にふれて汚れた者がきよめられるというのです。

まず、この箇所の背景ですが、この時イスラエルの民は、四十年間荒野をさまよっていました。そのときコラたちがモーセとアロンに反逆し、生きたままよみに投げ入れられるという神のさばきを受けると、それに同情したイスラエルの民もモーセに反抗して罪を犯したためそれに対する神罰が下り、彼らの中からもたくさんの死者が出たのです。コラの事件の他に何と14,700人が死にました。けれども、レビ記にあるように死者に触れる者は汚れました。そこで主は、死体に触れた者が清められるために特別な方法を示されたのです。それがこの「完全に赤い雌牛」であり、この雌牛の灰によって作られた水を注ぎかけるという儀式だったのです。

いったいこれはどんなことを教えていたのでしょうか?これまでも人の死体に触れた場合の戒めは幾度か取り上げられていました(レビ記21:1-4、11、民数記6:6-12、9:6-12)。しかし、それを取り除く具体的な方法は示されていませんでした。16章のコラの反逆の結果、多くの人が一度に死んだことで人の死の汚れをどのように取り除くべきかは、最も深刻な問題となったのです。誰でも死体や人間の骨や墓に触れるなら、あるいは、死人の天幕に入るならば汚れ(14-16)、その汚れは伝染しました(22)。宿営の中で誰かが死ぬと、宿営の中のすべての人が汚れ、何らかの対応をしないと、主の幕屋を汚す恐れがあったのです。

いったいどうすればいいのでしょうか?赤い雌牛をほふり、その灰によってきよめの水を作り、それを汚れた人に注ぎかけるのです。そうすれば、死体によって汚れた人のすべてがいやされるのです。

その水の作り方ですが、まずくびきの置かれたことのない赤い雌牛が犠牲にされ、灰が用いられました。「傷がなく」というのは、全く欠陥がない(罪がない)ということです。そして、「くびきの置かれたことのない」というのは、罪のくびき(罪の奴隷)が置かれたことがないという意味です。「赤い雌牛」の「赤」は血といのちを表していました。「雌牛」は新しいいのちを産み出す象徴なのです。つまりこれは、やがて来られるイエス・キリストのことを指し示していたのです。祭司エルアザルは指でその血を取り、会見の天幕に向かって七たび振りかけました。「七度」は完全数です。

そしてその雌牛は彼の目の前で焼かれました。また、その皮、肉、血をその汚物とともに焼かなければなりませんでした。宿営の外で・・。そして6節にあるように、祭司は杉の木と、ヒソプと、緋色の糸を取り、それを雌牛の焼けている中に投げ入れました。

この杉の木とヒソプ、緋色の糸がそれぞれ何を象徴しているのかはっきりわかりません。ある注解者は、杉の木は十字架の象徴、ヒソプは罪のきよめの象徴、そして緋色の糸はキリストの血を表していると考えていますが、果たしてそうでしょうか。確かに、ヒソプはイスラエル人がエジプトで,過ぎ越しのいけにえの血を自分たちの家の2本の戸柱と戸口の上部に塗った時に用いられました。(出12:21-22)また,以前にらい病にかかっていた人や家を清める儀式や(レビ14:2-7,48-53),「清めの水」に使われる灰を準備する際に使われ,その水を特定の物や人にそそぎかけるときにも用いられました。(民19:6,9,18)ですから、ダビデが,ヒソプをもって罪から浄めてください、と祈ったのです。(詩篇51:7)。また、緋色についても、それはキリストの血を表すものとして出エジプト記の中の幕屋の垂れ幕や大祭司の服に刺繍されていました。

けれども、ここにはそれを火の中に投げ入れたのです。それをもって血を塗るとか、何かをするというのではなく、それを雌牛と一緒に焼いたのです。ですから、それは十字架やきよめ、血の象徴としてではなく全く逆の意味として使われているのです。そしてよく調べてみると、杉の木は力の象徴、富、権力、栄光の象徴として用いられていることがわかります。そしてⅠ列王記第4章33節には、ソロモンが草木のことを論じた際に、「杉の木からヒソプにまで及んだ」と言っています。ヒソプというのはとても低い草なのだそうですが、杉木のように高くて大きな木からヒソプのように低くて小さな草に至るまでという意味です。それは植物全体を意味しています。すべての草木を表徴してそういったのです。言い換えると、それらは全世界を予表しているということになります。緋色の糸は何を表していたのでしょうか? この言葉は、イザヤ書第1章18節において「緋」とも翻訳されており、それはこう言っています、「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」。このことから、緋色の糸はわたしたちの罪を表徴します。すなわちこの三つは、大きな罪から小さな罪まで、全ての罪を象徴していたのです。それを火の中に投げ入れ成した。ですから、杉の木、ヒソプ、緋色の糸が一緒に焼かれることは、赤い雌牛を神にささげた時、全世界の罪が赤い雌牛と一緒にされて、それらがすべて共に焼かれたことを意味しているのです。

その灰を集め、湧き水と混ぜ合わされて「きよい水」を作ります。その水がすべての汚れをきよめるのです。その水を死体にふれて汚れた人にきよめられると、だれでもきよめられました。ここには三日目と七日目とあります。三日目は復活を、七日目は完全を表していたと思われます。

いったいこれは何を表していたのでしょうか。ヘブル人への手紙9章13-14節にはこうあります。「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」

そうです、これはキリストの十字架の血によるきよめを表していたのです。この灰を死体にふれた人々に注ぎかけるということは、十字架につけらえたキリストの血を、罪の中に死んでいる人々に注ぎかけることを象徴していました。そうすれば汚れはなくなり、罪はみなきよめられ、完全なきよめが果たされるのです。それだけ、キリストの血には力があるのです。しかも、この赤い雌牛の犠牲は、これ以前にもこれ以降にも一度限りです。完全な一度限りのいけにえです。イエスのいけにえも、全人類のための完全な一度限りの犠牲であり、いけにです。イエスの死によって、私たちは、神の怒りから解放され、罪の赦しを得、罪の支配からも解放されたのです。実に、このように雌牛が人の罪を赦し、きよいものとするならば、尊いイエスの犠牲はいかばかりであろうか、というのです。

ここには、キリストの血がどれほど力があるのかを、三つの点で語られています。第一に、良心をきよめる力です。「どんなにか私たちの良心をきよめて」とあります。

人間の良心は、罪によって汚されており、汚れた良心は、人にとって負い目となります。パウロは自らの中にある罪を認めてこう言いました。「私には自分のしていることがわかりません。私には自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分の憎むことをしているからです。」(ローマ7:15)とあるように、人は無意識的にそうした良心の咎めを持っています。どんなに、言い訳、弁解、仕事、趣味、宗教、善行等で繕おうと務めてもその「良心の呵責」があれば真の自由を得ることはできません。しかしキリストの血はそのような「良心の呵責」から完全に解放してくれるのです。

第二に、生き方を変える力があります。ここには、「死んだ行いから離れさせ」とあります。キリストの血潮は、人を縛っている罪のくびきから解放することができます。ザアカイはその一人です。彼はキリストと出会ったその日から新しい人に変えられました。人の心に罪が支配している間は、人は「死んだ行いの奴隷です。人は「新しく生まれなければ、神の国を見ることができません。キリストの血潮と御霊による新生は人を全く新しい人に造り変えます。使徒ペテロもこう語っています。「あんたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、・・傷もなく、汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(Ⅰペテロ1:19)

第三に、キリストの血は人を生かす力です。ここにはまた、「生ける神に仕える者とする」とあります。

キリストの血は神から離れた人を神に連れ戻すだけでなく、新しい歩みをさせる力を与えます。「古い生き方」から解放され罪を離れるならば、「神に仕える」という新しい目標、真の生きがいをもつようになります。「死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」(ローマ6:13)とパウロは勧めました。主の死にあずかるならば、主のよみがえりの力にもあずかることができ、そのような人は神の前に立つことができ(ささげて)、神のために実を結ぶ生涯へと導かれるのです(ローマ6:5, 22)

このようにキリストの血の力を知ることは、私たちをして、責められることなく、臆することなく、大胆に、神の前に立つことができ、破格の恵みによって歩くことのできる力を与えられるのです。

民数記18章

民数記18章から学びます。前回までのところにはコラの反乱とその結果、そして、アロンの杖について学びました。コラはレビ人であり、かつケハテの氏族に属していましたが、彼はアロンの祭司職を欲しがって、モーセとアロンに反抗しました。「あなたがたは分を越えている」と。そんなコラにして、主は彼と彼の家族を生きたまま陰府に投げ込むというさはぎを行いました。それを見たイスラエル人は、モーセとアロンがコラを殺したとつぶやき、それゆえ、主はイスラエルの民に罰を下され、何とイスラエルの民の中から14,700もの人たちが死に絶えました。しかし、アロンが香を盛った火皿をもって宿営の中に入り、ちょうど死んでいる者と生きている者の間に立ったとき、その神罰が止みました。イスラエルはアロンのとりなしによって救われたのです。

その後、主はアロンの杖にアーモンドの花と実を結ばせて、イスラエルの民がアロンこそ選ばれた祭司であることをお示しになりました。しかし、イスラエルの民は、ここにあらわされた神さまのあわれみを理解せず、「私たちも滅びる!私たちも滅びる。」と言って、パニック状態になっていました。それは、彼らが神の恵みとあわれみを理解していなかったからです。彼らは祭司の務めによって初めて、そうした神の怒りから救われるということです。主はさばきを行なわれる方です。しかし、主は、祭司という仲介者をとおして、ご自分の怒りをなだめ、彼らに罪の赦しと和解を与えようとされるのです。そこで主はこの18章において、さらに祭司の務めについてお語りになられました。

Ⅰ.祭司の務め(1-7)

まず1節から7節までをご覧ください。

「1 そこで、はアロンに言われた。「あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちと、あなたの父の家の者たちは、聖所にかかわる咎を負わなければならない。そしてあなたと、あなたとともにいるあなたの子たちが、あなたの祭司職にかかわる咎を負わなければならない。2 しかし、あなたの父祖の部族であるレビ族のあなたの身内の者たちも、あなたに近づけよ。彼らがあなたに配属され、あかしの天幕の前で、あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちに仕えるためである。3 彼らはあなたのための任務と、天幕全体の任務を果たすのである。しかし彼らは、聖所の器具と祭壇とに、近づいてはならない。彼らも、あなたがたも、死ぬことのないためである。4 彼らがあなたに配属され、天幕の奉仕のすべてにかかわる会見の天幕の任務を果たす。ほかの者があなたがたに近づいてはならない。5 あなたがたが聖所の任務と祭壇の任務を果たすなら、イスラエル人に再び激しい怒りが下ることはない。6 今ここに、わたしは、あなたがたの同族レビ人をイスラエルの中から取り、会見の天幕の奉仕をするために、彼らをにささげられたあなたがたへの贈り物とする。7 あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちは、祭壇に関するすべてのことや、垂れ幕の内側のことについてのあなたがたの祭司職を守り、奉仕しなければならない。わたしはあなたがたの祭司職の賜物の奉仕として与える。ほかの者で近づく者は死ななければならない。」

主はアロンに、彼と彼の子たち、すなわちアロンの家族が、聖所にかかわる咎を負わなければなせない、と言われました。彼の家族こそが祭司職を担わなければならないと確認されたのです。少し前に、コラの家族やそれにくみ与する者たちを死をもってさばかれたことによって、イスラエル全体に混乱が起こりましたが、ここでもう一度、だれが祭司の務めを果たすのかを示されたのです。

2節には、アロンの家族以外の、レビ人たちの位置についても、確認されています。レビ人は、聖所でアロンの祭司の務めを助ける奉仕を行なうことはできましたが、祭壇で献げ物をささげることはできませんでした。(1:47-53,3:5-10)それがレビ人に与えられた役割なのです。その任務に忠実であることを神は求めておられるのです。コラの罪は、この役割を忘れ、アロンの祭司職まで求めたことだったのです。

3節から5節までのところには、神がそのようにされる(祭司の務めと、レビ人の奉仕について確認している)理由を語られます。それは、イスラエル人が死ぬことがないためです。コラたちが受けたような激しい御怒りを二度と受けることがないようにという配慮からなのです。

6節と7節を見ると、このアロンの祭司職は、彼とその家族が自分たちで手に入れたのではなく、神の恵みの賜物として与えられたことが教えられています。それは彼らを助けるレビ人も同じです。レビ人もアロンたちが会見の天幕の奉仕をするために、主にささげられたかれらへの贈り物として、神から与えられたものなのです。私たちが自分たちの奉仕について考えるとき、このことはとても重要なことです。これはすべて神からの贈り物、賜物なのです。それは私たちの救いがもともと神からの賜物であることと同じです。神の一方的な恵みによって救いを与えてくださった主は、その後の奉仕においても恵みの賜物を与えてくだり、私たちがしなければならない務めを与えてくださったのです。その分を越えてはいけません。それぞれが神から与えられた信仰の量に応じて、慎み深く、仕えなければならないのです。

Ⅱ.永遠の分け前(8-24)

次に8節から24節までをご覧ください。

「8 はそれから、アロンに仰せられた。「今、わたしは、わたしへの奉納物に関わる任務をあなたに与える。わたしはイスラエル人のすべての聖なるささげ物についてこれをあなたに、またあなたの子たちとに、受ける分として与え、永遠の分け前とする。9 最も聖なるもの、火によるささげ物のうちで、あなたの分となるものは次のとおりである。最も聖なるものとして、わたしに納めるすべてのささげ物、すなわち穀物のささげ物、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえ、これらの全部は、あなたとあなたの子たちの分となる。10 あなたはそれを最も聖なるものとして食べなければならない。ただ男子だけが、それを食べることができる。それはあなたにとって聖なるものである。
11 また次の物もあなたの分となる。イスラエル人の贈り物である奉納物、彼らのすべての奉献物、これをわたしはあなたとあなたの息子たち、それにあなたとともにいる娘たちに与えて、永遠の分け前としする。あなたの家にいるきよい者はみな、それを食べることができる。12 最良の新しい油、最良の新しいぶどう酒と穀物、これらの人々がに供える初物全部をあなたに与える。13 彼らの国のすべてのものの初なりで、彼らがに携えて来る物は、あなたのものになる。あなたの家にいるきよい者はだれでも、それを食べることができる。14 イスラエルのうちで、聖絶のものはみな、あなたのものになる。15 人でも、獣でも、すべての肉なるものの最初に生まれたものでにささげるものはみな、あなたのものとなる。ただし、人の初子は、必ず贖われなければならない。また、汚れた獣の初子も贖われなければならない。16 その贖いの代金として、生後一か月以上は聖所のシェケルの評価によって銀五シェケルで贖わなければならない。一シェケルは二十ゲラである。
17 ただし、牛の初子、または羊の初子、あるいはやぎの初子は贖ってはならない。これらは聖なるものであるからである。あなたはそれらの血を祭壇に振りかけ、その脂肪を火によるささげ物、へのなだめのかおりとして、焼いて煙にしなければならない。18 その肉はあなたのものとなる。それは奉献物の胸や右のもものようにあなたのものとなる。19 イスラエル人がに供える聖なる奉献物をみな、わたしは、あなたとあなたの息子たちと、あなたとともにいるあなたの娘たちに与えて、永遠の分け前とする。それはの前にあって、あなたとあなたの子孫に対する永遠の塩の契約となる。」20 はまたアロンに仰せられた。「あなたは彼らの国で相続地を持ってはならない。彼らのうちで何の割り当て地をも所有してはならない。イスラエル人の中にあって、わたしがあなたの割り当て地であり、あなたの相続地である。21 さらに、わたしは今、レビ族には、彼らが会見の天幕の奉仕をするその奉仕に報いて、イスラエルのついの十分の一をみな、相続財産として与える。22 これからはもう、イスラエル人は、会見の天幕に近づいてはならない。彼らが罪を得て死ぬことがないためである。23 レビ人だけが会見の天幕の奉仕をすることができる。ほかの者は咎を負う。これは代々にわたる永遠のおきてである。彼らはイスラエル人の中にあって相続地を持ってはならない。24 それは、イスラエル人が、奉納物としてに供える十分の一を、わたしは彼らの相続財産としてレビ人に与えるからである。それゆえわたしは彼らがイスラエル人の中で相続地を持ってはならないと、彼らに言ったのである。」

8節には、「はそれから、アロンに仰せられた。「今、わたしは、わたしへの奉納物に関わる任務をあなたに与える。わたしはイスラエル人のすべての聖なるささげ物についてこれをあなたに、またあなたの子たちとに、受ける分として与え、永遠の分け前とする。」とあります。どういうことでしょうか?これは、アロンの家族たちが、祭司としてイスラエルが神に対してささげたささげものの一部を、受け取ることができたということです。イスラエルは、神に動物のいけにえや穀物のささげものなどをささげましたが、それを受け取ることができたのです。そして、それは祭司としての彼らの任務なのです。ここに「聖なるささげ物」とありますが、これは主ご自身のものを自分たちが受け取ることによって、主と自分たちが交わることを意味しています。祭司たちは、主のものを共有することによって主と交わる、あるいは礼拝したのです。それは、私たちの主の聖餐と同じです。私たちはイエス・キリストの血と肉を食することによって主と交わりを持つのです。キリストにあって一つになることができるからです。それは、アロンとその家族に対する「永遠の分け前」なのです。

9節には、最も聖なるものとして、穀物のささげもの、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえがあげられています。なぜこれらが最も聖なるものなのでしょうか?それは、罪のいけにえによって、神と人との間の仕切りとなっている罪が取り除かれるからです。その肉を食べるということは、主ご自身が人の代わりに罪のさばきをお受けになったことを意味しているからです。

しかし、ヘブル書を見ると、「雄牛ややぎの血は、罪を除くことができません。(ヘブル10:4)」とあります。そうした動物のいけにえは、罪を取り除くことはできないのです。では何が私たちの罪を取り除くことができるのでしょうか。ヘブル書のその後のところには、それがイエス・キリストであることが書かれてあります。「キリストは、つみのために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、」(ヘブル10:12)とあります。神と人とが一つとなることができるのは、神のひとり子キリスト以外にはありません。イエス様が、罪のためのいけにえとなってくださったことによって、私たちの罪のすべてを負ってくださいました。それ故に、このイエスを信じることによって、私たちは完全な罪の赦しを得ることができるのです。イエスは、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。(ヨハネ6:54)」と言われました。祭司が罪のためのいけにえの肉を食べるとき、それは新約聖書の言う祭司である私たちがキリストを食することに他なりません。

11節には、その他の奉納物や奉献物は、彼らの息子たち、また娘たちにも与えられるとあります。罪のいけにえは聖所で奉仕を行なう男子だけが食べることができましたが、その他の奉納物や奉献物は、息子たちや娘たちも食べることができました。しかしここには、それも「永遠の分け前」であると言われています。これは、時を経ると効力がなくなってしまうような一時的なものではなく、永遠に続くものである、ということです。言い換えれば、完全な分け前であり、欠けたものがないもの、ということです。またそれは、繰り返す必要のない、ただ一度の出来事、と言うことが言えるでしょう。それは、神の贖いのわざも同じです。キリストが十字架の上で血を流され、死なれたことによって、贖いは完成しました。神にとって必要な贖いは、もうこれ以上何一つありません。したがって、キリストの成し遂げられた贖いは永遠に続くものであり、再び繰り返される必要はないものなのです。

このことについてヘブル人への手紙9章11節にはこうあります。「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」

これが、私たちクリスチャンの贖いです。私たちは、キリストのただ一度の贖いによって、永遠の救いを受けました。私たちの過去、現在、未来のすべての罪が、二千年前のキリストの十字架の贖いによってすべて取り除かれているのです。あたかも罪が赦されていないかのように、その赦しを請うために祈ったり、聖書を読んだり、奉仕をしているということはないでしょうか?あるいは、自分をもっと聖めたいと思って、これらの宗教的活動をしていることはないでしょうか。心の中で、「まだ自分は聖められていない。もっと神さまに従って、神さまに近づかなければいけない。」と思っていないでしょうか?しかし、キリストの贖いは、そのような不完全なものではないのです!使徒パウロは言いました。「あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。(Ⅰコリント6:11)」私たちはすでに、洗われて、聖められて、義と認められたのです。キリストが二千年前に死なれたときに、これらはみな完成しました。ですから、祭司たちが、神からいただく分け前は「永遠」のものであったのです。

12節と13節には、「最良の新しい油、最良の新しいぶどう酒と穀物、これらの人々が主に供える初物全部をあなたに与える。彼らの国のすべてのものの初なりで、彼らが主に携えて来る物は、あなたのものになる。あなたの家にいるきよい者はだれでも、それを食べることができる。」とあります。

イスラエル人は、罪や罪過のためにいけにえだけではなく収穫物の初物を幕屋に携えてきました。最良の新しい油、最良のぶどう酒や穀物を自分たちの分け前とすることができたのです。これらも、罪のためのいけにえと同じように、キリストご自身を表していました。キリストが信者たちの初物となってくださっています。キリストが死者の中からよみがえられたように、キリストを信じる者は死んでも生きるのです。キリストが死なれて葬られたように、キリストにつく者は古い人に対して死に、キリストが神からすべてのものを相続しておられるように、キリストのうちにある者も、神からの相続を受けるのです。ですから他の個所では、キリストはすべての兄弟の長子となられた、と書いてあります。祭司としての私たちは、初物であられるキリストを心に受け入れているのです。

14節には、イスラエルのうちで、聖絶のものがみな、祭司たちのものとなる、とあります。 聖絶のものはすべて神のものであり、すべて神の宝物倉に入れておかなければならないものですが、それが祭司たちは自分たちのものとなるというのです。

15節には、「人でも、獣でも、すべての肉なるものの最初に生まれるもので主にささげられるものはみな、あなたのものとなる。ただし、人の初子は、必ず贖わなければならない。また、汚れた獣の初子も贖わなければならない。その贖いの代金として、生後一か月以上は聖所のシェケルの評価によって銀五シェケルで贖わなければならない。一シェケルは二十ゲラである。」とあります。

植物の初物が祭司のものになったように、動物や人間の初子も祭司のものとなります。ただし、イスラエルに初めに生まれてきた男の子が、祭司のものになるのではありません。初子はすべて主のものですが、イスラエル人はお金を払って買い取るからです。それは生後一ヶ月以上であれば聖所のシェケルで銀五シェケルと定められていました。ただし、牛の初子、または羊の初子、あるいはやぎの初子は贖うことができませんでした(17)。なぜなら、それらは火によるささげものとして、主にささげられなければならなかったからです。そして、肉はみな祭司たちのものとなりました(18)。

19節には再び「永遠の分け前」が出てきます。ここには、この分け前についてのまとめが記されてあります。これは永遠の分け前であり、永遠の塩の契約なのです。「永遠の塩の契約」とは、解消されることのない契約である、という意味です。これは、物理的に祭司職が続くということではなく、先ほど申し上げたように、キリストの永遠の祭司職を指し示しています。

20節から24節までには、相続地に関する教えが記されてあります。祭司たちは、約束の地において自分たちが所有となる土地が与えられませんでした。それは、彼らにとって主を礼拝することがすべてであり、主を礼拝するという霊的富をすでに得ていたからです。主は、「わたしがあなたの割り当ての地であり、あなたの相続地である」と言われました。私たちも、新約時代の祭司としてこのように告白しなければなりません。私たちはただ、イエス様だけを相続地としているでしょうか。イエス様だけのことばに拠り頼んでいるでしょうか。この地では、楽しいこと、喜ばしいこと、多くの友だち、家族、いろいろな祝福があります。しかし、「わたしの相続地はイエス様です。それで十分です。」という告白しているでしょうか。アロンに対して、主は、「相続地を持ってはならない。わたしがあなたの相続地である。」と言われました。

それはレビ人も同じです。主はレビ人にも相続地を与えられていません。その代わり、イスラエル人が携えてくる十分の一をみな、レビ人が受け取ることができました。それは、レビ人が幕屋の奉仕をすることができるようになるためであり、それによって、イスラエル人が幕屋の中に入ったりしなくても良いようにしてくださったのです。レビ人はそれによって生活が支えられ、フルタイムで主に仕えることができたのです。

Ⅲ.祭司の報酬(25-32)

最後に25節から32節までを見て終わりたいと思います。

「25 はモーセに告げて仰せられた。26 「あなたはレビ人に告げて言わなければならない。わたしがあなたがたに相続財産として与えた十分の一を、イスラエル人から受け取るとき、あなたがたはその十分の一の十分の一を、への奉納物として供えなさい。27 これは、打ち場からの穀物や、酒ぶねからの豊かなぶどう酒と同じように、あなたがたの奉納物とみなされる。28 それで、あなたがたもまた、イスラエル人から受け取るすべての十分の一から、への奉納物を供えなさい。その中からへの奉納物を祭司アロンに与えなさい。29 あなたがたへのすべての贈り物のうち、それぞれ最上の部分で聖別される分のうちからへのすべての奉納物を供えなさい。30 またあなたは彼らに言え。あなたがたが、その最上の部分をその中から供えるとき、それはレビ人にとって打ち場からの収穫、酒ぶねからの収穫と同じようにみなされる。
31 あなたがたもあなたがたの家族も、どこででもそれを食べてよい。これは会見の天幕でのあなたがたの奉仕に対する報酬だからである。32 あなたがたが、その最上の部分を供えるなら、そのことで罪を負うことはない。イスラエル人の聖なるささげ物を、あなたがたは汚してはならない。それは、あなたがたが死なないためである。」

レビ人は受け取った十分の一のすべてを自分たちのものとすることはできませんでした。その中から十分の一を取り、それを主への奉納物としてささげたのです。すなわち、アロンの家族に与えたのです。それは祭司の家族が生活に困ることなく、祭壇と聖所における奉仕に専念することができるようにするためでした。こうして、アロンの家族は、レビ人を含むイスラエル人すべてを代表して、主に奉仕をし、礼拝をささげました。物質的な必要が支えられることによって、神と人との仲介の役を果たし、イスラエル人が幕屋に近づいて殺されなくてもすむようにしたのです。

これが神の計画でした。神はイスラエルが聖所の器具と祭壇に近づいて死ぬことがないようにするために、このように配慮してくださいました。それは今日で言うなら、神は教会に牧師、長老、監督といったは働き人を与え、彼らによってこの働きを担うことができるようにしておられるのと同じです。彼らが死ぬことがないように、神は牧師、長老、監督といった霊的指導者を教会に与えてくださいました。そうした働き人がその働きに専念できるように、教会は彼らの必要を与え養わなければならないのです。「穀物をみなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」し、「働き人が報酬をうけることは当然である」のです。

民数記17章

前回は、モーセとアロンに立ち向かったコラたちに対する神のさばきと、そのことを受け入れられず、同じようにモーセに反抗したイスラエルの会衆に臨んだ神罰について学びました。きょうのところには、さらに、神が選ばれた祭司はだれであるかということを、神は別のしるしをもって現されます。まず1節から7節までをご覧ください。

1.族長たちの杖(1-7)

「1 はモーセに告げて仰せられた。2 「イスラエル人に告げて、彼らから、杖を、父の家ごとに一本ずつ、彼らの父祖の家のすべての族長から十二本の杖を、取れ。その杖にはおのおのの名を書きしるさなければならない。3 レビの杖にはアロンの名を書かなければならない。彼らの父祖の家のかしらにそれぞれ一本の杖とするから。4 あなたはそれらを、会見の天幕の中わたしがそこであなたがたに会うあかしの箱の前に置け。5 わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。こうしてイスラエル人があなたがたに向かってつぶやく不平をわたし自身が静めよう。」6 モーセがイスラエル人にこのように告げたので、彼らの族長たちはみな、父祖の家ごとに、族長ひとりに一本ずつの杖、十二本を彼に渡した。アロンの杖も彼らの杖の中にあった。7 モーセはそれらの杖を、あかしの天幕の中のの前に置いた。」(1-7)

主はモーセに、イスラエル人に告げて、彼らから、杖を、父の家ごとに一本ずつ取り、その杖におのおの名を書いて持ってこらせ、それをあかしの箱の前に置くようにと言われました。何のためでしょうか。神が祭司としてお立てになられた者がだれであるのかをはっきりと示すためです。

「杖」は、かつてモーセまたアロンが、エジプトから出て行く時にエジプトに神が災いを下すときに用いられたものです。それは羊飼いの杖ではありますが、主はそれを用いてご自分の力ある働きを行なわれました。その杖にそれぞれの名前を書き、至聖所にある契約の箱の前に置きます。神はその中から、ご自分が選ばれた者の杖に、芽を出させるというのです。死んだはずの杖から芽を出させることによって、その者こそ、神がご自分の祭司であるということをはっきりと表そうとされたのです。そして、イスラエルがモーセに向かってつぶやくのを主ご自身が静めようとされたのです。それで、彼らの族長たちはみな、父祖の家ごとに、族長ひとりに一本ずつの杖、十二本を彼に渡したので、モーセはそれらを、至聖所にある契約の箱の前に置きました。

2.アロンの杖(8-13)

その結果、どうなったでしょうか。次に8節から11節までをご覧ください。

「8 その翌日、モーセはあかしの天幕に入って行った。すると見よ、レビの家のためのアロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいた。9 モーセがその杖をみな、の前から、すべてのイスラエル人のところに持って来たので、彼らは見分けて、おのおの自分の杖を取った。10 はモーセに言われた。「アロンの杖をあかしの箱の前に戻して、逆らう者どもへの戒めのため、しるしとせよ。彼らのわたしに対する不平を全くなくして、彼らが死ぬことのないように。」11 モーセはそうした。が命じられたとおりにした。」(8-11)

その翌日、モーセがあかしの天幕(至聖所)に入って行くと、レビの家のためのアロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいました。そして、モーセはそれをイスラエル人の前に示しました。これではっきりと、神の箱にまで近づくことのできる選ばれた者がアロンであることを示されたのです。ヘブル語で「アーモンド」は、「目覚める」とか「見張る」という意味の動詞と語源が同じ言葉です。主がこれを見張っている、はっきりと見つめていることも表しているのです。

死んだ木からいのちを芽生えさせる働きは、神にしかできないことです。これは、その神によって選ばれた者だけができる御業であって、人がどんなに望んでも、それなりのふりをしても、できることではないのです。形ではそのようにふるまっても、そこにいのちの実を実らせることはできません。人を永遠のいのちに導くのは主であって、主によって立てられ、主によって賜物が与えられた者によってのみなのです。

神は、死んだ杖から実を結ばせることのできるお方です。死者の中から人を復活させることができるのです。神はそれをイエス・キリストによって示してくださいました。十字架で死なれたキリストを三日目によみがえらせました。私たちにはこの復活のいのちが与えられており、祭司の務めはこのいのちの恵みを分け与えることなのです。

それで主は、アロンが祭司であることを示すために、この杖をあかしの箱の中に入れるようにされました。神に反逆した者たちへの警告のしるしとして保管しておくためです。このしるしを見て、イスラエルが神に対して不平を漏らすことをなくして、彼らが死ぬことがないためです。  それに対してイスラエルはどのように応答したでしょうか。

3.神の恵みにお頼りして(12-13)

「12 しかし、イスラエル人はモーセに言った。「ああ、私たちは死んでしまう。私たちは滅びる。みな滅びる。13 の幕屋にあえて近づく者はだれでも死ななければならないとは、ああ、私たちはみな、死に絶えなければならないのか。」(12-13)

彼らはまだ、自分たちが主の幕屋に近づくことに対する恐れを抱いています。なぜでしょうか。神の恵み、神の慈しみを理解していないからです。神が祭司を通してどのような恵みをあえてくださるのかを理解していないのです。そして、ただ神の裁きの恐ろしさだけを見て恐れているのです。彼らにとって必要なことは、神がどれほど慈しみ深い方であるのかを知り、悔い改めて、神の贖いの御業を受け入れること、つまり、信仰を持つことなのです。自分の正しさや自分の行いによって義と認められようとする人、いつもこのように神のさばきに怯えますが、逆に、神の恵みに信頼する人は、恐れから解放されるのです。Ⅰヨハネ4章15~18節にはこうあります。

「15 だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。16 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。17 このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」

全き愛は恐れを締め出します。私たちがイエスを神の御子と告白するなら、神は私たちのうちにおられ、その神の愛によって、恐れは締め出されるのです。そのように導いてくださったのが、私たちの大祭司であられるイエス・キリストです。そして、ここでもそのために立てられていたのが大祭司アロンでした。神はイスラエルが死なくてもよいように、アロンの家とレビ人を幕屋の奉仕に立ててくださったのです。それなのに彼らはそのことに気づきませんでした。まだ自分たちの行いによって救われようとしていたのです。それで彼らは怯えていたのです。この後18章には、このアロンの家の祭司職と、レビ人の幕屋の奉仕についての定めが語られます。それは、彼らがしっかりとその務めを果たすことによって、イスラエル人が死ななくてもよいように守ってくださるためです。そして19章には、完全な赤い雌牛を罪のためのいけにえとして用意して、死体をさわった者たちのきよめが完全に行なわれます。会衆にはすでに、14,700人の死者が出ているので、その死体によって汚されている者たちが大勢いたからです。ちなみに、この完全な赤い雌牛は、宿営の外で焼かれて、その火の中に、杉の木と、ヒソプと、緋色の糸を投げ入れます。これらはみな、それぞれ、私たちの主イエス・キリストの十字架の木と、罪のきよめと、血を表しています。このようにして、主は、イスラエルの民のために、徹底的にご自分の恵みとあわれみのわざを、行なわれているのです。

このように、神は私たちのために祭司の務めをしておられます。私たちはそれを受けなければならないのです。祭司の務めとは、神のあわれみと恵みを分かち合うことです。キリストが来られた今、それはすべての信者に与えられ、それぞれ信仰の量りにしたがって、賜物が与えられています。互いに仕え合うことによって、私たちは主から恵みとあわれみを受け続けることができるのです。それぞれが、どのような働きに召されているのか、どのような賜物が与えられているのかを知るのは、私たち一人一人の責任です。そして、何よりも、私たちには今、神の右の座におられる大祭司なるイエス様がいます。この方が、アロンのように、私たちと神との仲介となってくださり、神の右の座において執り成しをされておられます。このことに対し、私たちは、約束の地にはいって穀物やぶどう酒をささげるイスラエルの民のように、感謝と賛美のいけにえをおささげするのです。

民数記16章

きょうは民数記16章から学びます。私たちは前回、イスラエルがカデシュ・ベルネアまで来たとき、「上って行って、そこを占領せよ」との主の御言葉に背き、上って行かなかった姿を見ました。不信仰のゆえに、恐れてしまったからです。その結果、二十歳以上の者はみな荒野の中で死ぬことになってしまいました。そして、イスラエルが40年にわたる荒野での生活を始めようとしていたとき、もう一つの大きな事件が起こりました。

1.  コラの子たちの反抗(1-3)

「1 レビの子ケハテの子であるイツハルの子コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、2 会衆の上に立つ人たちで、会合で選び出された名のある者たち二百五十人のイスラエル人とともに、モーセに立ち向かった。3 彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らい、彼らに言った。「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。」

まず1節から3節までをご覧ください。ここには、レビの子ケハテの子であるイツハルの子コラが、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、会衆の上に立つ人たちで、会合で選び出された名のある者たち二百五十人のイスラエル人とともに、モーセに立ち向かいました。彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らい、「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。」と言ったのです。

いったいなぜ彼らはそのように言ったのでしょうか。レビの氏族には三つの氏族がいました。ゲルション族、ケハテ族、メラリ族です。ここで問題になっているのはケハテの子、イツハルの子のコラという人物です。彼はルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、会衆の上に立つ者250人とともに、モーセに立ち向かったのです。

ケハテ族は、他の二つの氏族に比べ、もっと聖なる奉仕に携わっていました。ゲルション族は幕を運搬する奉仕が与えられ、メラリ族は板とか、土台、柱、横棒などを運搬しました。それに対してケハテ族は、契約の箱を始め、供えのパンの机、香壇、青銅の祭壇などを、幕屋の聖具を運ぶ最も聖なる奉仕に召されていました。ですから、ケハテ族は、レビ族の三つの氏族の中でも最も主のご栄光に近いところで奉仕する特権が与えられていたのです。それなのに、彼らは主の幕屋で奉仕することが許されていませんでした。幕屋で奉仕するのは祭司だけであって、祭司だけが聖所の中に入り、燭台のともしびを整え、供えのパンを取替え、また青銅の祭壇では数々の火による捧げ物をささげることができたのです。それゆえ彼らは祭司たちをねたみました。なぜアロンの家系だけがそのような特権が与えられているのか、なぜ自分たちにはそれができないのか・・・。それを間近で見ていたコラは、自分にもこの務めを行う権利があるものと思ったのです。

しかも、その理由がもっともらしいのです。彼らは、「全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか」と言っています。あなただけが特別なのではない、主にとってはここにいるみんなが同じように大切なのであって、あなたたちが、主の集会の上に立っているのはおかしいというのです。皆さん、どうでしょうか。もっともらしい意見ではないでしょうか。私たちの教会はバプテストの教理に立っていますが、その一つの特徴は会衆性にあります。会衆性とは、教会政治が牧師や長老によって決められるのではなく会衆みんなの総意によって決められるべきであるというものです。牧師も会衆と同じ立場であって、特別に権力があるのではないという考えです。ここでコラたちが言っていることはそういうことです。彼らは自分たちが支配したいというねたみによって突き動かされていたのに、そのようなことを理由にあたかもそれが正当であるかのように言いました。

ルベン族のダタンとアビラム、そしてオンが共謀したのも、さらには二百五十人の有力者たちが共に立ち上がったのも、本質的には同じ理由からでしょう。ルベン族はヤコブの長男だったので、自らが第一の者であるという自負があったものと考えられます。また、二百五十人の有力者たちも、彼らが人々に認められているという自負があったので、モーセとアロンに立ち向かったのでしょう。

また、そこには、イスラエルが荒野を四十年間放浪しなければならなくなったということも、その大きな要因の一つであったと思います。人は物事が順調に進んでいる時はこうした肉の思いが抑えられがちですがいざ苦難や困難に直面すると、不満や反抗という形ですぐに表に現れてくるのです。彼らにとって必要だったのはそのような状況にあっても不平や不満をぶちまけることではなく、力強い主の御手にへりくだることでした。Ⅰペテロ5:6には、こうあります。「あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるのです。」

2.慎み深い考え方をしなさい(4-11)

それに対してモーセはどうしたでしょうか。4節から7節までをご覧ください。

「4 モーセはこれを聞いてひれ伏した。5 それから、コラとそのすべての仲間とに告げて言った。「あしたの朝、は、だれがご自分のものか、だれが聖なるものかをお示しになり、その者をご自分に近づけられる。主は、ご自分が選ぶ者をご自分に近づけられるのだ。6 こうしなさい。コラとその仲間のすべてよ。あなたがたは火皿を取り、7 あす、の前でその中に火を入れ、その上に香を盛りなさい。がお選びになるその人が聖なるものである。レビの子たちよ。あなたがたが分を越えているのだ。」

モーセはこれを聞いて、主の前にひれ伏しました。彼は、このようなことも主の許しの中に起こっていることを認め、主がこの問題を解決してくださるように祈り求めたのです。そして、コラとそのすべての仲間とに、主は、だれを選ばれ、ご自分に近づけられるのかを知るために、火皿を取って、その中に火を入れ、その上に香を盛るようにと言いました。

火皿とは、神の前で香をたく際に、燃える炭火を入れる特別な道具です。祭司だけが祭壇で香をたくことができました。祭司でない者が香をたいたり、祭司が規定に反して香をたいたりすると、だれであれ死罪とされました。ですから、もし生き残ることができれば神に選ばれた物であるということです(レビ10:1-2)。

モーセはさらにコラに言いました。8節から11節までをご覧ください。

「8レビの子たちよ。よく聞きなさい。16:9 イスラエルの神が、あなたがたを、イスラエルの会衆から分けて、主の幕屋の奉仕をするために、また会衆の前に立って彼らに仕えるために、みもとに近づけてくださったのだ。あなたがたには、これに不足があるのか。16:10 こうしてあなたとあなたの同族であるレビ族全部を、あなたといっしょに近づけてくださったのだ。それなのに、あなたがたは祭司の職まで要求するのか。16:11 それだから、あなたとあなたの仲間のすべては、一つになって主に逆らっているのだ。アロンが何だからといって、彼に対して不平を言うのか。」

これはどういうことかというと、コラは、レビ族として荒野の旅をするときに、幕屋を取り外して、運搬し、また次の宿営地において再び組み立てるという奉仕を行なっていました。そして、幕屋の外庭においても、祭司たちを補佐する役割を担っていました。特にケハテ族は、聖所の中の用具を運搬するということで、他のレビ族の氏族よりも、さらに主に近いというか、栄誉ある働きに召されていたのです。それなのに、コラはそれで満足することができず、祭司職、つまり、聖所の中における奉仕までを要求したのです。それは分を越えていることでした。モーセが分を越えていたのではなく、コラたちが分を越えていたのです。

ローマ12章3節には、「だれでも、思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」とあります。神はご自身のみからだてある教会を建て上げるために、それぞれに賜物を与えてくださいました。それは一方的な神の恵みによるのであって、神がそのようにお選びになられたのです。モーセがイスラエルの上に立って指導したかったのではなく、神が彼をその働きに召し、賜物を与えてくださったのです。そのモーセに反抗するということは、それは神に対する反抗でもあるのです。ですから、ここでコラたちがモーセに、「あなたがたは分を越えている」と言ったのは、このことを全く理解していないからであり、神が定めた秩序を無視したことだったのです。神が定めた秩序とは人間主体の民主主義ではなく、神が恵みによって与えられた賜物にしたがって、慎み深い考え方をすることなのです。

3.神のさばき(12-19)

「12 モーセは使いをやって、エリアブの子のダタンとアビラムとを呼び寄せようとしたが、彼らは言った。「私たちは行かない。13 あなたが私たちを乳と蜜の流れる地から上らせて、荒野で私たちを死なせようとし、そのうえ、あなたは私たちを支配しようとして君臨している。それでも不足があるのか。14 しかも、あなたは、乳と蜜の流れる地に私たちを連れても行かず、畑とぶどう畑を受け継ぐべき財産として私たちに与えてもいない。あなたは、この人たちの目をくらまそうとするのか。私たちは行かない。」15 モーセは激しく怒った。そしてに申し上げた。「どうか、彼らのささげ物を顧みないでください。私は彼らから、ろば一頭も取ったことはなく、彼らのうちのだれをも傷つけたこともありません。」16 それから、モーセはコラに言った。「あなたとあなたの仲間のすべて、あなたと彼らとそれにアロンとは、あす、の前に出なさい。17 あなたがたは、おのおの自分の火皿を取り、その上に香を盛り、おのおのの前にそれを持って来なさい。すなわち二百五十の火皿、それにまたあなたも、アロンも、おのおの火皿を持って来なさい。18 彼らはおのおの、その火皿を取り、それに火を入れて、その上に香を盛った。そしてモーセとアロンはいっしょに会見の天幕の入口に立った。19 コラは全会衆を会見の天幕の入口に集めて、ふたりに逆らわせようとした。そのとき、の栄光が全会衆に現れた。」

モーセは使いをやって、ダタンとアビラムを呼び寄せようとしましたが、彼らの答えはノーでした。その理由は何でしょうか。モーセが自分たちを乳と蜜の流れる地から上らせて、この荒野で死なせようとしたということです。あれっ、乳と蜜の流れる地とは神が約束されたカナンの地のことなのに、彼らはここでかつて自分たちが住んでいたエジプトのことを、そのように言っているのです。また、「それでも不足があるのか」という言葉も、先ほどモーセが、コラに対して言った言葉をもじっています。さらに、約束のカナン人の地にあなたがたが連れて行かなかった、とモーセたちの失敗をあげつらっています。

それでモーセは激しく怒り、彼らのささげものを顧みないようにと、主に申し上げました。そして、コラに言いました。コラとその仲間たち、そしてアロンとは、明日、主の前に出るように・・・と。するとコラたちは、おのおの火皿を取り、それに火に入れて、その上に香を盛りました。そしてイスラエルの全会衆を会見の天幕の入り口に集めて、ふたりに逆らわせようとしたのです。

それに対して、主はどのようにされたでしょうか。20節から24節までをご覧ください。

「20 はモーセとアロンに告げて仰せられた。21 「あなたがたはこの会衆から離れよ。わたしはこの者どもをたちどころに絶滅してしまうから。」22 ふたりひれ伏して言った。「神。すべての肉なるもののいのちの神よ。ひとりの者が罪を犯せば、全会衆をお怒りになるのですか。」23 はモーセに告げて仰せられた。24 「この会衆に告げて、コラとダタンとアビラムの住まいの付近から離れ去るように言え。」

主はモーセに、この民から離れるようにと言われました。彼らをたちどころに滅ぼされるからです。モーセが怒っている以上に、主がお怒りになっておられました。そして、主はそのような反逆の民を滅ぼそうとされたのです。

するとモーセとアロンはひれ伏して言いました。「神。すべての肉なるもののいのちの神よ。ひとりの者が罪を犯せば、全会衆をお怒りになるのですか。」

何と、彼らは、イスラエルのためにとりなして祈りました。ここまで反抗する民のためにとりなすこと人間的にはなかなかできないことですが、モーセは地上のだれにもまさって謙遜な人でした。そのような中にあっても冷静に、あわれみの心をもって主にとりなしたのです。

すると主は、「この会衆に告げて、コラとダタンとアビラムの住まいの付近から離れ去るように言え。」と言って、会衆を滅ぼさないようにされたのです。しかし、そのようにモーセに反抗し会衆を扇動したダタンとアビラムに対しては、きびしいことばを語りました。25節から35節です。

「25 モーセは立ち上がり、イスラエルの長老たちを従えて、ダタンとアビラムのところへ行き、26 そして会衆に告げて言った。「さあ、この悪者どもの天幕から離れ、彼らのものには何にもさわるな。彼らのすべての罪のために、あなたがたが滅ぼし尽くされるといけないから。」27 それでみなは、コラとダタンとアビラムの住まいの付近から離れ去った。ダタンとアビラムは、その妻子、幼子たちといっしょに出て来て、自分たちの天幕の入口に立った。」モーセは言った。「私を遣わして、これらのしわざをさせたのはであって、私自身の考えからではないことが、次のことによってあなたがたにわかるであろう。29 もしこの者たちが、すべての人が死ぬように死に、すべての人の会う運命に彼らも会えば、私を遣わされたのはではない。30 しかし、もしがこれまでにないことを行われて、地がその口を開き、彼らと彼らに属する者たちとを、ことごとくのみこみ、彼らが生きながらよみに下るなら、あなたがたは、これらの者たちがを侮ったことを知らなければならない。」31 モーセがこれらのことばをみな言い終わるや、彼らの下の地面が割れた。32 地はその口をあけて、彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての持ち物とをのみこんだ。33 彼らとすべて彼に属する者は、生きながら、よみに下り、地は彼らを包んでしまい、彼らは集会の中から滅び去った。34 このとき、彼らの回りにいたイスラエル人はみな、彼らの叫び声を聞いて逃げた。「地が私たちをも、のみこんでしまうかもしれない」と思ったからである。35 また、のところから火が出て、香をささげていた二百五十人を焼き尽くした。」

モーセは、イスラエルの長老たちを従えて、ダタンとアビラムのところへ行き、まず会衆に、彼らから離れるように告げると、これが自分の考えによるのではなく、主が遣わして、これらのことをさせたのであることを示すために、地がその口を開いて、彼らと彼らに属する者たちとを、ことごとく呑み込み、生きながらよみに下るようにさせると言いました。そして、モーセがこれらのことばを語り終えるや、彼らの下の地面が割れて、彼らとその家族、またコラに族するすべての者が、呑み込まれたのです。彼らは、生きながら、よみにくだったのです。よみとは死者の住む世界です。死んだ人が行くところなのです。ところが、そのよみに生きながら、下って行ったのです。これはおそろしいことです。

このとき、彼らの回りにいたイスラエル人はみな、彼らの叫び声を聞いて逃げました。「地が私たちをも、のみこんでしまうかもしれない。」と思ったからです。しかし、神はあわれみ深い方です。モーセとアロンのとりなしによって、彼らが滅びないで済むようにしてくださったのです。 また、先ほどコラと共に来てモーセとアロンに立ち向かった二百五十人は、その持っていた火皿の火が彼らを焼き尽くしました。このように神によって遣わされたモーセに反逆した彼らは、おそろしい神のさばきを受けたのです。

4.祭壇のための被金(36-40)

すると主は、モーセにつげて次のように言われました。36節から40節までをご覧ください。

「36 はモーセに告げて仰せられた。37 「あなたは、祭司アロンの子エルアザルに命じて、炎の中から火皿を取り出させよ。火を遠くにまき散らさせよ。それらは聖なるものとなっているから。38 罪を犯していのちを失ったこれらの者たちの火皿を取り、それらを打ちたたいて延べ板とし、祭壇のための被金とせよ。それらは、彼らがの前にささげたので、聖なるものとなっているからである。こうして、これらをイスラエル人に対するしるしとさせよ。」39 そこで祭司エルアザルは、焼き殺される者たちがささげた青銅の火皿を取って、それを打ち延ばし、祭壇のための被金とし、40 イスラエル人のための記念とした。これは、アロンの子孫でないほかの者が、の前に近づいて煙を立ち上らせることがないため、その者が、コラやその仲間のようなめに会わないためである。―がモーセを通してエルアザルに言われたとおりである。」

新共同訳聖書では、ここから17章になっています。新共同訳聖書が、なぜここから17章にしたのかはわかりません。もともと章節は人間が便宜的に作ったものでそこに霊感が働いたわけではないので重要なことではありませんが、ここから17章にしたのには何か意図があったのではないかと思います。17章には「アロンの杖」についての言及があるので、祭壇の被いについて記されてあるここから17章にしたものと思われます。しかし、49節にはイスラエルに下った神罰に対する言及があるので、これはコラやダタンとアビラム、また、二百五十人のリーダーたちに対するさばきの続きと見た方がよいかと思います。

そしてこのところで主は、罪を犯していのちを失った者たちの火皿を取り、それを打ちたたいて、祭壇のための被金(きせがね)、これは被いのことですが、それを作るようにと言われました。何のためでしょうか。それは「しるし」のため、「記念」のためです。アロンの子孫でないほかの者たちが、主の前に近づいて煙を上らせるようなことがないために、そのようなことをして主の怒りをかい、滅びることがないようにするためです。私たちにもこのようなしるしが必要ですね。繰り返し、繰り返し主に反抗しては罪を犯す者だからです。「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」(1コリント10:11-12)とありますが、このようなことを教訓として、倒れることがないように気を付けたいと思います。

ところで、ここには焼き尽くすささげものの祭壇がどうして青銅で覆われるようになったのかが記されてあるのです(出エジプト27:1-2,38:1-2)。それは、このコラの罪のためです。それを見て、自分たちへの戒めとするためだったのです。それはまさに私たちの罪のために焼き尽くすささげものとなられた十字架のキリストを指し示すものだったのです。キリストの十字架を見る時、私たちの罪がいかに大きいものであるかを知ります。その罪のためにキリストが十字架で死んでくださったことによって、私たちのすべての罪が赦されたのです。これはそのためのしるしなのです。私たちはこのしるしを見て、キリストの贖いの恵みに感謝しつつ、神に喜ばれる歩みをしていきたいと願わされます。

5.さらなる神罰(41-50)

最後に41節から50節までのところを見て終わりたいと思います。

「41 その翌日、イスラエル人の全会衆は、モーセとアロンに向かってつぶやいて言った。「あなたがたはの民を殺した。」42 会衆が集まってモーセとアロンに逆らったとき、ふたりが会見の天幕のほうを振り向くと、見よ、雲がそれをおおい、の栄光が現れた。43 モーセとアロンが会見の天幕の前に行くと、44 はモーセに告げて仰せられた。45 「あなたがたはこの会衆から立ち去れ。わたしがこの者どもをたちどころに絶ち滅ぼすことができるように。」ふたりはひれ伏した。46 モーセはアロンに言った。「火皿を取り、祭壇から火を取ってそれに入れ、その上に香を盛りなさい。そして急いで会衆のところへ持って行き、彼らの贖いをしなさい。の前から激しい怒りが出て来て、神罰がもう始まったから。」47 アロンは、モーセが命じたように、火皿を取って集会の真ん中に走って行ったが、見よ、神罰はすでに民のうちに始まっていた。そこで彼は香をたいて、民の贖いをした。48 彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、神罰はやんだ。49 コラの事件で死んだ者とは別に、この神罰で死んだ者は、一万四千七百人になった。50 こうして、アロンは会見の天幕の入口のモーセのところへ帰った。神罰はやんだ。」

これほど恐ろしい神のさばきを目の当たりにし、そのさばきを免れたイスラエルの民はさぞ感謝したかと思いきや、全く違っていました。その翌日、イスラエルの全会衆は、モーセとアロンに向かってつぶやいたのです。「あなたがたは主の民を殺した。」と。言い換えると、「愛がない」ということでしょうか。彼らはコラたちに同情していたのです。主の指導者たちにつぶやくことは主につぶやくことであり、そのことに対するさはぎがどれほど恐ろしいものであるかを目の当たりにしたのに、彼らはそこから学ぶことをせず、同じような過ちを犯しました。

それで、モーセとアロンが天幕の方を振り向くと、雲がそれをおおい、主の栄光が現れました。そして、モーセとアロンに、彼らから離れるようにと言われたのです。主が彼らをたちどころに滅ぼされるからです。するとモーセはひれ伏しました。そして、アロンに、彼らの罪の贖いをするようにと命じます。けれども、すでに神罰は始まっていました。コラの事件で死んだ者とは別に、この神罰でイスラエルの一万四千七百人が死んだのです。しかし、アロンが死んだ者と生きている者たちとの間に立ったとき、神罰はやみました。これは、神と人間の間に立たれたイエス・キリストを表しています。罪のゆえに神に滅ぼされてもいたしかたない私たちのために、神は御子イエス・キリストをお遣わしくださり、私たちと神との間に立って罪の贖いをしてくださったので、神の怒り、神罰はやんだのです。

彼らはいつまでも自分の感情に流されていました。何が神のみこころなのかを知り、それに従うということよりも、たとえそれが罪であっても、自分の思いや感情に従って歩もうとしたのです。これはクリスチャンにとって陥りやすい過ちでもあります。神のみこころがどうであるかよりも、あくまでも自分の考えや思いを優先するのです。自分が滅ぼされるまで、自分の肉に従って生きようとするのです。その結果は、このように滅びる以外はありません。私たちは自分の感情がどうであれ、神のみこころが何であるかを知り、それに従うことが求められます。それが信仰の歩みなのです。

民数記15章

きょうは民数記15章から学びたいと思います。まず1節から16節までをお読みします。

1.  穀物のささげ物と注ぎのささげ物(1-16)

「1 はモーセに告げて仰せられた。2 「イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたに与えて住ませる地にあなたがたが入り、3 特別な誓願を果たすために、または進んでささげるささげ物として、あるいは例祭のときに、へのなだめのかおりをささげるために、牛か羊の群れから全焼のいけにえでも、ほかのいけにえでも、火によるささげ物をにささげるときは、4 そのささげ物をささげる者は、穀物のささげ物として、油四分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の一エパをにささげなければならない。5 また全焼のいけにえ、またはほかのいけにえに添えて、子羊一頭のための注ぎのささげ物としては四分の一ヒンのぶどう酒をささげなければならない。6 雄羊の場合には、穀物のささげ物として、油三分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の二エパをささげ、7 さらに、注ぎのささげ物としてぶどう酒三分の一ヒンをへのなだめのかおりとして、ささげなければならない。8 また、あなたがた特別な誓願を果たすため、あるいは、和解のいけにえとして、若い牛を全焼のいけにえ、または、ほかのいけにえとしてにささげるときは、9 その若い牛に添えて、油二分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の三エパの穀物のささげ物をささげ、10 また注ぎのささげ物としてぶどう酒二分の一ヒンをささげなければならない。これはへのなだめのかおりの、火によるささげ物である。11 牛一頭、あるいは雄羊一頭、あるいはどんな羊、やぎについても、このようにしなければならない。12 あなたがたがささげる数に応じ、その数にしたがって一頭ごとにこのようにしなければならない。13 すべてこの国に生まれた者が、へのなだめのかおりの、火によるささげ物をささげるには、このようにこれらのことを行わなければならない。14 また、あなたがたのところにいる在留異国人、あるいはあなたがたのうちに代々住んでいる者が、へのなだめのかおりの、火によるささげ物をささげる場合には、あなたがたがするようにその者もしなければならない。15 一つの集会として、定めはあなたがたにも、在留異国人にも、同一であり、代々にわたる永遠の定めである。の前には、あなたがたも在留異国人も同じである。16 あなたがたにも、あなたがたのところにいる在留異国人にも、同一のおしえ、同一のさばきでなければならない。」

13章と14章には、イスラエルの民がカデシュ・バルネアまで来ていたこときに、不信仰になって、神の約束のことばに背いたため、荒野を40年間さまようことになってしまったということが記されてありました。そして、この15章に入ると、様々なささげ物の規定が記されています。イスラエルの不信仰とこのささげ物の規定がいったいどんな関係があるのでしょうか。1節には、「わたしがあなたがたに与えて住まわせる地にあなたがたが入り、」とあります。これは、悲しい痛ましい荒野での長い刑罰の時を終え、赦されてカナンの地に入ることのできる新しい世代の者たちを対象に語られていることがわかります。彼らがカナンの地に入ってから守るように命じられているのは、いけにえをささげるにあたっての新しい規定ではなく、すでに命じられている規定に対する補足的なもので、これによって以前の規定は完全になるのです。つまり、この穀物のささげものは、彼らが約束の地に入ってから得られる収穫のことで、それはいのちの象徴であったのです。確かに彼らは不信仰によって40年もの間荒野でさまよわなければなりませんでしたが、やがて新しい世代がその地に入るとき、そこで豊かないのちを受け継ぐようになるという希望が語られたのです。

このように主はイスラエルの失敗のその後で、イスラエルの失敗にもかかわらず、彼らに希望のメッセージを語ることをお忘れになりませんでした。たとえ彼らが不信仰に陥って失敗しても、神様はご自身の約束を忠実に果たされる方であり、失望のどん底にあっても、その変わらない希望を垣間見させてくださるのです。荒野で死なせることを告げられた後で、約束の地における収穫物のささげものについて語られた主は、そのような配慮をもっておられる方なのです。

3節からの規定をようやくすれば、特別な誓願を果たすために、または進んでささげるささげものとして、あるいは例祭の時のささげものであれ、人が羊が牛の群れから、主へのなだめのかおりとして、いけにえを「火によるささげ物」としてささげる時には、それらと共に、穀物と注ぎのささげ物をささげなければならないということです。

いけにえ 穀物のささげ物 注ぎのささげ物  
小羊1頭ごとに 油1/4ヒンを混ぜた小麦粉1/10エパ ぶどう酒1/4ヒン  
雄羊1頭ごとに 油1/3ヒンを混ぜた小麦粉2/10エパ ぶどう酒1/3ヒン  
若い牛1頭ごとに 油1/2ヒンを混ぜた小麦粉3/10エパ ぶどう酒1/2ヒン  

1ヒンは3.8リットル、1エパは2.3リットル。ささげ物の種類によらず、いけにえの動物の種類により、1頭ごとに以上の規定によってささげられた。

14節からのところには、それはイスラエル人に対してだけでなく在留異国人も、あるいは、彼らのうちに代々住んでいる者たちも同じようにしなければならないということが規定されています。それはイスラエルの民と同一の定めになっているのです。どういうことでしょうか?それは創世記12章3節で神がアブラハムに語られた約束の成就と考えることができます。神はアブラハムに、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」と仰せになられましたが、イスラエルに与えられる祝福を異邦人にも押し流そうとされたのです。もちろん、その約束はイエス・キリストによって実現するものです。イエス・キリストによって文字通り隔ての壁が取り除かれ、キリストにあってユダヤ人も異邦人も一つとされ、同じ祝福にあずかるようにされるのですが、その中にあって、こうしてすでに神のイスラエルに対する祝福が、異邦人にももたらされていることを見ることができるのです。

2.  初物の麦粉で作った輪型のパンのささげ物(17-21)

次に17節から21節までを見てください。ここには、「主はまたモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたを導いて行く地にあなたがたがはいり、その地のパンを食べるとき、あなたがたは主に奉納物を供えなければならない。初物の麦粉で作った輪型のパンを奉納物として供え、打ち場からの奉納物として供えなければならない。初物の麦粉のうちから、あなたがたは代々にわたり、主に奉納物を供えなければならない。」とあります。

ここでも、彼らが約束の地に入り、その地のパンを食べる時どうしなければならないかということが教えています。約束の土地で得た収穫物は動物のいけにえとして添えるだけではなく、その初物を供えなければなりませんでした。初物の麦粉で作った輪型のパンを奉納物として供えなければならなかったのです。

ヨシュア記5章10~12節を見ると、イスラエルはヨルダン川を渡ってギルガルに宿営したとき、彼らはすべて割礼を受け、その月の十四日の夕方、エリコの草原で過ぎ越しのいけにえをささげ、その翌日、その地の産物と炒り麦を食べたて言われていますが、おそらくこの時に、初物の麦粉で作られた物が、主にささげられたのであろうと思われます。その翌日からマナが降るのが止みました。しかも、このように初物の麦粉のうちからささげられるのは、約束の地に入った時だけでなく、代々にわたってのことです(15:21)。それは、あなたの家に祝福が宿るためであります。

主はいつも「初めのもの」を私たちに求められます。初めに生まれてきた男子、つまり初子は主のものであります。残りものではなく、自分にとって最も大切なものをささげるのです。そのことによって、私たちのすべては主のものであり、主の恵みによって生かされていることを信仰によって認めたのです。ですから、初物をささげるということは、とても重要なことだったのです。私たちも約束の地に入ったならば、すなわち、霊的な恵みと祝福を経験したならば、初物を主にささげなければなりません。それは、私たちの家に祝福が宿る霊的な原則なのです。

3.あやまって罪を犯した場合(22-36)

次に22節から36節までを見ていきましょう。

「22 あなたがたが、もしあやまって罪を犯し、がモーセに告げられたこれらの命令のどれでも
23 が命じられた日以来、代々にわたってがモーセを通してあなたがたに命じられたことの一つでも行われないときは、24 もし会衆が気づかず、あやまってしたのなら、全会衆は、へのなだめのかおりのための全焼のいけにえとして、若い雄牛一頭、また、定めにかなう穀物のささげ物と注ぎのささげ物、さらに雄やぎ一頭を罪のためのいけにえとして、ささげなければならない。25 祭司がイスラエル人の全会衆の贖いをするなら、彼らは赦される。それが過失であって、彼らは自分たちの過失のために、ささげ物、への火によるささげ物、罪のためのいけにえをの前に持って来たからである。26 イスラエル人の全会衆も、あなたがたのうちの在留異国人も赦される。それは民全体の過失だからである。27 もし個人があやまって罪を犯したなら、一歳の雌やぎ一頭を罪のためのいけにえとしてささげなければならない。28 祭司はあやまって罪を犯した者のために、の前で贖いをしなければならない。彼はあやまって罪を犯したのであるから、彼の贖いをすれば、その者は赦される。29 イスラエル人のうちの、この国に生まれた者にも、あなたがたのうちにいる在留異国人にもあやまって罪を犯す者には、あなたがたと同一のおしえがなければならない。30 国に生まれた者でも、在留異国人でも、故意に罪を犯す者は、を冒涜する者であって、その者は民の間から断たれなければならない。31 のことばを侮り、その命令を破ったなら、必ず断ち切られ、その咎を負う。」32 イスラエル人が荒野にいたとき、安息日に、たきぎを集めている男を見つけた。33 たきぎを集めているのを見つけた者たちは、その者をモーセとアロンおよび全会衆のところに連れて来た。34 しかし彼をどうすべきか、はっきりと示されていなかったので、その者を監禁しておいた。35 すると、はモーセに言われた。「この者は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で打ち殺さなければならない。」36 そこで、がモーセに命じられたように、全会衆はその者を宿営の外に連れ出し、彼を石で打ち殺した。」

ここには、もし彼らがあやまって罪を犯した場合、どうしたらいいかが教えられています。これは、レビ記14:13-21に取り扱われていることですが、違うのは、レビ記の方では、「主がするなと命じられたことの一つでも行って」罪を犯した時のことであるが、ここでは逆に、「代々に渡って主がモーセを通してあなたがたに命じられたことの一つでも行わないときは」(23)とあるように、不履行の罪になっていることです。その場合、前者の場合は、若い雄牛を1頭罪のためのいけにえとしてささげましたが、後者の場合は、若い雄牛1頭を全焼のいけにえとして、また定めにかなう穀物のささげ物と注ぎのささげ物、そしてさらに雄山羊1頭を罪のためのいけにえとしてささげなければなりませんでした。

このように祭司がイスラエル人の全会衆のための贖いをする時には、過失の場合のいけにえに従っていけにえをささげたので、イスラエルの全会衆も、在留異国人も赦されました。

ここでは「過失のため」とか、「過失だから」と、過失であることが強調されています。過失とは何でしょうか。過失とは、不注意によって、うっかりと、あやまって犯した罪のことです。それに対することはわざとです。ここではあやまってしたのだから、このようにして全焼のいけにえをささげるなら赦されたのです。

また、個人があやまって罪を犯した場合も、一歳の雌やぎ一頭を罪のためのいけにえとしてささげ、祭司が贖いをすれば、その者は赦されました。ところで、会衆全体が罪を犯した場合は、若い雄牛をささげなければなりませんでしたが、個人の場合は雌やぎとなっています。それは、会衆全体の場合の方が、責任が重かったからでしょう。

しかし、故意に罪を犯す者は、主を冒涜する者であって、その者は民の間から断たれなければなりませんでした。「故意に」と訳されていることばは「高く上げた手」という意味で、「主に向って手を振り上げて」とか、「公然と主に逆らって」という意味で用いられています。それは、主を冒涜する者であり、主のことばをあなどり、その命令をわざと破ることです。そのような者は民の間から断ち切られなければなりません。

これは、私たちクリスチャンにとっても非常に厳粛な意味を持っています。クリスチャンはキリストの死によって贖われているとはいえ、故意にみことばに背くことがあるとすれば、それがどんなに大きな罪であるかを、よく考えなければなりません。主イエスは、「人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」(マルコ3:28-29)と言われましたが、それは聖霊をけがすことなのです。

ヘブル書10章26節には、「ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。」とあるとおりです。そのような人は、主の前に罪のためのいけにえを持ってくることさえも拒みます。つまり、イスラエル人の場合は、雄牛や雌やぎをたずさえてくることを拒むことですが、クリスチャンの場合は、キリストの十字架のところに行かないことです。罪の赦しを請わなければいけない、と考えることもなく、十字架による救いの道が示されているのに、それを拒むのであれば、神のさばきがその人のうちにとどまるのは当然のことなのです。それが故意に罪を犯す、という意味です。

その具体的な例が出てきます。32節から36節のところです。イスラエル人が荒野にいたとき、安息日に、たきぎを集めている男がいました。たきぎを集めているのを見つけた者たちは、その者をモーセとアロンおよび全会衆のところに連れて来ました。しかし彼をどうすべきか、はっきりと示されていなかったので、その者を監禁しておきましたが、すると、主はモーセに、その者は必ず殺されなければならない、と言われたので、全会衆は宿営の外で、彼を石で打ち殺したのです。

薪を集めることはささいなことであり、それ自体は決して悪いことではありませんが、それが、神が定めた安息日に行ったということが問題になっているのです。彼はそれを知らずにではなく、意図的に、故意に、知りながら行いました。そのように故意に罪を犯す者は当然いけにえを携えてくることなど考えておらず、罪の赦しを請おうともしません。そこには神の赦しは残されていないのです。私たちには悔い改めることが求められるのです。

4.着物のすそのふさ(37-41)

最後に37節から41節までを見て終わりたいと思います。

「37 はモーセに告げて仰せられた。38 「イスラエル人に告げて、彼らが代々にわたり、着物のすその四隅にふさを作り、その隅のふさに青いひもをつけるように言え。39 そのふさはあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、のすべての命令を思い起こし、それを行うため、みだらなことをしてきた自分の心と目に従って歩まないようにするため、40 こうしてあなたがたが、わたしのすべての命令を思い起こして、これを行い、あなたがたの神の聖なるものとなるためである。41 わたしはあなたがたの神、であって、わたしがあなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から連れ出したのである。わたしはあなたがたの神、である。」」

ここで主はイスラエル人に、着物のすその四隅にふさを作り、その隅のふさに青いひもをつけるように言いました。いったい何のためでしょうか。それは彼らがそれを見て、主のすべての命令を思い起こし、それを行うためであり、みだらなことをしてきた自分の心と目に従って歩まないようにするためです。こうして彼らが、神のすべての命令を思い起こして、これを行い、神の聖なる者となるためです。

マタイ23:5を見ると、パリサイ人がこの着物のふさを長くして、他人の目を非行としたことが記されてあるが、彼らはこのふさの長さによって、自分たちがいかに律法をよく守っているのかを誇示しようとしたかったのです。

しかし、それは自分たちのわざを誇るためではありません。むしろ逆で、日常生活において、彼らがいつもそれを見て、積極的にも、消極的にも、自らを戒め、励まして、主の命令を守り行うためでした。それがないのにただ形だけ長くしても意味がありません。それは、彼らが神の命令を思い起こして、これを行い、彼らが神の聖なるものとなるためだったのです。つまり、神との交わりの中で、心から神を喜ぶ者となるためです。それこそが、神がイスラエルをエジプトから救い出された目的なのです。私たちもいつも主の愛の中にとどまり、罪から救い出してくださった方のみこころに歩み、心から神を喜びながら歩む物とさせていただきたいと願います。