Ⅰサムエル記5章

サムエル記第一5章から学びます。

 

Ⅰ.アシュドデに運ばれた神の箱(1-8)

 

まず、1~5節までをご覧ください。

「ペリシテ人は神の箱を奪って、エベン・エゼルからアシュドデまで運んで来た。それからペリシテ人は神の箱を取り、ダゴンの神殿に運んで来て、ダゴンの傍らに置いた。アシュドデの人たちが、翌日、朝早く起きて見ると、なんと、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。そこで彼らはダゴンを取り、元の場所に戻した。次の日、朝早く彼らが起きて見ると、やはり、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。ダゴンの頭と両手は切り離されて敷居のところにあり、胴体だけがそこに残っていた。それで今日に至るまで、ダゴンの祭司たちやダゴンの神殿に入る者はみな、アシュドデにあるダゴンの敷居を踏まない。」

 

イスラエルがペリシテ人との戦いのときに、自分たちの形勢が不利になったとき、契約の箱を自分たちの陣営に運び入れました。彼らは神の箱が来たことで大歓声を挙げ、それは地がどよめくほどでしたが無惨にも戦いに敗れ、神の箱はペリシテ人に奪われてしました。ペリシテ人は神の箱を奪うと、エベン・エゼルからアシュドデに移しました。エベン・エゼルはイスラエルがいた陣営です。そこからアシュドデに移したのです。アシュドデは、ペリシテ人の五大都市のうちの一つです。「力強い」という意味があります。

 

それからペリシテ人は神の箱を取り、ダゴンの神殿に運び、ダゴンの傍らに置きました。ダゴンとはペリシテ人が拝んでいた神です。アシュドデという所にこのダゴンの神殿がありました。ダゴンというのは「魚」という意味で、上半身は人の姿をしており下半身は魚で半魚のような格好をしていました。ペリシテ人たちはもともと地中海の暮れた島から来た民ですから、海と関わりのある神ということでこのような偶像を神としていたのです。

 

しかし、「ダゴン」にはもう一つ「穀物」という意味もありました。それは穀物をもたらす神、すなわち、豊穣の神ということにもなります。魚と穀物では全く相いれないものであるように感じますが、もともと彼らは海から来た民族でしたし、カナンの地に定着したこともあるので、その両面を備えてくれるものとして称えていたのでしょう。すなわち、自分たちの願望をかなえてくれる神、それがダゴンでした。

 

3節をご覧ください。「アシュドデの人たちが、翌日、朝早く起きて見ると、なんと、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。そこで彼らはダゴンを取り、元の場所に戻した。」

驚くべきことが起こりました。ダゴンは主の箱の前にうつぶせになって倒れていたのです。これはまさにひれ伏している格好です。ダゴンというペリシテ人の神が、イスラエルの神の前でひれ伏していたのです。それで彼らはダゴンを取り、元の場所に戻しました。ダゴンは自分で起き上がれないのでペリシテ人たちの助けがなければ動けなかったのです。起こして欲しいのはこちら側なのにこちら側で起こしてあげなければならないというのは滑稽です。彼らは、倒れてしまったら自分で起き上がれない神を信じていたのです。人間に起こしてもらわなければ起き上がれないような情けない、ふがいない神を信じていました。それが偶像礼拝の実態です。偶像は全く無力です。人間が助けてあげないと何もできません。それは本物の神ではありません。全く頼りになりません。にもかかわらず人々は、それでも偶像を慕います。それでも偶像礼拝を止めようとしないのは不思議ですね。

 

4節をご覧ください。次の日、朝早く起きて見ると、やはりダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていました。しかも今度は頭と両手が切り離されて敷居のところにあり、胴体だけがそこに残されていました。胴体だけがそこに残っていたというのは、魚が半身になって残されていた状態です。想像してみてください。彼らが信じていた偶像がいかに空しいものであるかがわかります。

 

詩篇115:4-8には次のようにあります。「彼らの偶像は銀や金。人の手のわざにすぎない。口があっても語れず目があっても見えない。耳があっても聞こえず鼻があっても嗅げない。手があってもさわれず足があっても歩けない。喉があっても声をたてることができない。これを造る者も信頼する者もみなこれと同じ。」

これが偶像の実態です。こんなものに信頼してどうなるのでしょう。どうにもなりません。ただ空しいだけです。ダゴンはまさに人間が作った偶像にすぎません。倒れても自分の力では起き上ができません。首も両腕も切り取られても元に戻すことはできません。彼らはこうした神を本気になって信じていたのです。いったいどうして彼らはこのような偶像を神として信じていたのでしょうか。二つの理由があります。

 

一つは、それでも彼らには神への恐れがあったからです。5節には、「それで今日に至るまで、ダゴンの祭司たちやダゴンの神殿に入る者はみな、アシュドデにあるダゴンの敷居を踏まない。」とあります。ダゴンの頭と両手が切り離されて敷居のところにあったのでそこを神聖な場所とし、敷居をまたがないようにしたのです。私たちも「敷居をまたがない」ということを聞くことがあります。それは、敷居が昔から人の頭を表しているからです。その敷居を踏むということはその家の主人の頭を踏みつけるということ、すなわち、主人の顔に泥を塗るということなので、敷居は踏まないのです。しかし、ここでは少し意味が違います。そこに頭と両手が転がっていたので、そこを神聖な場所としたので踏まないようにしたのです。いわゆる神への恐れがあったからです。普通ならこんな無力な神を信じるなんて全くナンセンスなことですが、それでも彼らは神の祟りを恐れて、逆にそこを神聖な所としました。

 

もう一つとして考えられるのは、このダゴンが豊穣をもたらす神であったということです。すなわち、自分たちの願望を叶えてくれる存在であったということです。それゆえ人々は、どんなことがあっても残しておきたかったのです。すなわち、自分たちに都合の良いものから離れることができないのです。これが人間の性です。そのような意味では、私たちも同じではないでしょうか。コロサイ3:5には、「ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。」とあります。何が偶像礼拝ですか?こうした貪欲が偶像礼拝です。むさぼりが偶像礼拝なのです。であれば、私たちにもこうしたむさぼりがあります。あれが欲しい、これが欲しいと、神よりもそれを一番大事にしたいのです。そこから離れることができなくて苦しむのです。その首が取れ、腕が取れても、そこからなかなか離れられないのはそのためです。そこから離れると都合が悪いのです。自分にご利益をもたらしてくれるものを神としたいと思うのは昔も今も変わりません。

 

でも、こした偶像には力がありません。倒れてもだれも起こしてくれません。自身があったらだれかに助け手もらわなければなりません。情けないです。そんな偶像を神とすることがないようにしましょう。もし私たちの中に貪欲があるなら、それを取り除きましょう。

 

6節に戻ってください。主の箱がアシュドデにある間、アシュドデの人たちは大きな災難に見舞われます。6節から8節までをご覧ください。

「主の手はアシュドデの人たちの上に重くのしかかり、アシュドデとその地域の人たちを腫物で打って脅かした。アシュドデの人たちは、この有様を見て言った。「イスラエルの神の箱は、われわれのもとにとどまってはならない。その手は、われわれとわれわれの神ダゴンの上に厳しいものであるから。」それで彼らは人を遣わして、ペリシテ人の領主を全員そこに集め、「イスラエルの神の箱をどうしたらよいでしょうか」と言った。領主たちは「イスラエルの神の箱は、ガテに移るようにせよ」と言った。そこで彼らはイスラエルの神の箱を移した。」

 

主の手はアシュドデの人たちの上に重くのしかかりとは、それが神のさばきであったことを表しています。本当の神ではないものを神とする者には、神のさばきがくだります。それはどんな災いだったでしょうか。アシュドデとその地域の人たちを腫物で打って脅かしたのです。この腫物がどのような病気であったのかはわかりません。へブル語では「オーフェル」という語で、「盛り上がっているもの」を意味しています。人間の体にできる盛り上がるものといったら腫物なので、腫物と訳されているのです。英語のキングジェームズ訳ではこれを「hemorrhoid」と訳しています。「hemorrhoid」とは「痔」のことです。なぜ「盛り上がるもの」が「痔」となるのかわかりません。まあ「痔」にもいろいろあって盛り上がるものもあります。でも実際にこれが何であるかはわかりません。何が盛り上がったのか、皮膚が盛り上がったのか、お尻の穴が盛り上がったのかわかりませんが、いずれにせよ、それは神のさばきでした。それでも彼らは真の神に立ち帰ろうとはしませんでした。偶像の神になど何の力もないということがわかっていても、そこから離れられなかったのです。

 

そこでアシュドデの人々はどうしたでしょうか。アシュドデの人々はこの有様を見て、こう言いました。「イスラエルの神の箱は、われわれのもとにとどまってはならない。その手は、われわれとわれわれの神ダゴンの上に厳しいものであるから。」

彼らは神の箱を別の町に移そうと計画しました。それで彼らは人を遣わして、ペリシテ人の領主を全員そこに集め、イスラエルの神の箱をどうしたらよいか話し合った結果ガテに移すように決め、そのようにしました。ガテもペリシテ人の五大都市の町ですが、その中でも最大の都市です。そこに移せば大丈夫だろうと思ったのです。

 

Ⅱ.ガテに運ばれた神の箱(9)

 

それで神の箱がガテに移されるとどうなったでしょうか。9節をご覧ください。

「それがガテに移された後、主の手はこの町に下り、非常に大きな恐慌を引き起こし、この町の人々を上の者も下の者もみな打ったので、彼らに腫物ができた。」

 

神の箱がガテに移されると、主の手はこの町に下り、非常に大きな恐慌を引き起こし、この町の人々を上の者も下の者もみな打ったので、彼らも腫物ができました。ガテの領主には、ペリシテ人最大の都市としての自負心があったのでしょう。あるいは、アシュドデの人々のふがいなさを見下して、主の箱など怖くないという傲慢な思いがあったのかもしれません。けれども、ふたを開けてみるとアシュドデに起こったのと同じことが起こりました。この町に恐慌が引き起こされ、彼らはみな腫物で打たれました。それで彼らはどうしたかというと、今度はそれをエクロンに送りました。

 

Ⅲ.エクロンにやって来た神の箱(10-12)

 

10-12節をご覧ください。

「ガテの人たちは神の箱をエクロンに送った。神の箱がエクロンにやって来たとき、エクロンの人たちは大声で叫んで言った。「私と私の民を殺すために、イスラエルの神の箱をこっちに回して来たのだ。」それで彼らは人を遣わして、ペリシテ人の領主を全員集め、「イスラエルの神の箱を送って、元の場所に戻っていただきましょう。私と私の民を殺すことがないように」と言った。町中に死の恐慌があったのである。神の手は、そこに非常に重くのしかかっていた。死ななかった者は腫物で打たれ、助けを求める町の叫び声は天にまで上った。」

 

ガテの人たちが神の箱をエクロンに送ったとき、エクロンの人たちは大声で叫んで言いました。「私と私の民を殺すために、イスラエルの神の箱をこっちに回して来たのだ。」今度はペリシテの領主たちの会合によって決まったのではなく、ガテの住民たちの一方的な決定によって送り込まれたようです。エクロンもまたペリシテ人の姉妹都市で、五大都市の一つです。エクロンの町でも死の恐慌がありました。死ななかった者も腫物で打たれ、助けを求める町の叫び声は、天にまで上りました。それでエクロンの人たちは人を遣わして、ペリシテの領主たちを集め、イスラエルの神の箱を、元の場所に戻すようにと言いました。

 

これが偶像を拝み、偶像に仕える者たちの結果です。偶像は何も彼らを助けることができませんでした。そこにあったのは神のさばぎでした。神の箱が運び入れられたどの町でも主の手が重くのしかかり、その地域の人たちを腫物で打ちました。そこには死の恐怖が迫りました。こんなにひどい目に合うのならまことの神を信じたらいいのに、それもしませんでした。むしろ、本物の神に背を向け、自分たちから遠ざけようとしました。ダゴンの神がただの偶像であることがわかっていても、真の神に背を向け、それを遠ざけてしまったのです。なぜでしょうか。なぜなら、神よりも自分を愛していたからです。それが罪の本質です。罪とは神中心ではなく、自分中心であることです。だから自分の欲望を満足させようとしてこうした偶像を作るのです。ダゴンの神がただ偶像であるということがわかっていても、そこからなかなか抜けきれないのはそのためです。人はみな自分を愛しているからです。

 

それは何もダゴンの神を信じていた人たちだけのことではありません。私たちにも言えることではないでしょうか。私たちも真の神を信じているはずなのに自分に都合が悪いと神に背を向け、神を遠ざけようとすることがあります。わかっているのに教会に行かなかったり、わかっているのに聖書を読もうとしません。わかっているのに神の家族の交わりよりも自分の好むことを優先することがあります。わかっているのに快楽を求めてしまいます。私たちも残念ながら同じような過ちを犯してしまう弱さを持っているのです。わかっているのにやめられない、わかっているのに認めたくない、そしてわざわざ本物の神に背を向け、神を遠ざけようとしているのです。悔い改めることをしません。この神の前にへりくだることをしません。そして自我を通そうとします。それは悲劇だということはこの箇所からもわかることです。でも神に立ち帰ろうとしないのです。

 

いったいどうしたらいいのでしょうか。神の箱をあなたの心に運び入れることです。神の箱がダゴンの神殿に運び入れられた時どうなったでしょうか。ダゴンはだんごのように倒れてしまいました。同じように、あなたの心に神の箱を運び入れるなら、あなたのダゴンも倒れます。たとえば、ギャンブルがやめられない、お酒がやめられないという方がおられますか。それはあなたのダゴンです。でもそんなダゴンも神の箱が運び入れられたら、倒れてしまいます。この神には力があるのです。この神の箱をあなたの心に運び入れられるなら、そのとたんにダゴンは倒れて主の前にひれ伏すようになります。あなたはなかなか離れられないで苦しんでいたさまざまなむさぼりから解放されるのです。神の聖霊にあなたの心を支配していただきましょう。そうすれば、あなたもダゴンから解放され、神の絶対的な力に満たされるようになるのです。そして、真の神だけを拝み、真の神に仕えましょう。

 

ヨハネの福音書10章31~42節 「わたしのわざを信じなさい」 

きょうは「わたしのわざを信じなさい」というタイトルでお話ししたいと思います。エルサレムで宮きよめの祭りがあった時、イエスは宮の中で、ソロモンの回廊を歩いていると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言いました。「あなたがキリストなら、はっきりと言ってください。」(24)はっきりと言ってくださいと言っても、もう何回もはっきりと言ってきました。それなのに、彼らが信じなかったのは、彼らがイエスの羊の群れに属していないからです。イエスの羊の群れに属しているなら、イエスの声を聞き分けイエスについて行きますが、そうでないと言うことは、彼らがイエスの羊の群れに属していないという証拠です。

 

不思議なことですが、世の中にはイエスの声を聞くとすべての羊がそれについて行くかというとそうではなく、ついて行く羊とそうではない二種類の羊がいます。彼らはどうしてイエスを信じなかったのでしょうか、あるいは、信じたのでしょうか。きょうは、そのことについて共に学びたいと思います。そして、信じない者ではなく、信じる者になりましょう。

 

Ⅰ.イエスを石打ちにしようとした人たち(31-36)

 

まず、31~36節をご覧ください。ここにはイエスを信じなかったというよりも、イエスを石打にして殺そうとした人たちの姿が描かれています。

「ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、再び石を取り上げた。イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」ユダヤ人たちはイエスに答えた。「あなたを石打ちにするのは良いわざのためではなく、冒?のためだ。あなたは人間でありながら、自分を神としているからだ。」イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った。「おまえたちは神々だ」』と書かれていないでしょうか。神のことばを受けた人々を神々と呼んだのなら、聖書が廃棄されることはあり得ないのだから、『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が聖なる者とし、世に遣わした者について、『神を冒涜している』と言うのですか。」

 

先ほども申し上げたように、22節からは場面が、宮きよめの祭りでイエスが宮にいた時のことです。イエスはご自分について来る者に永遠のいのちを与えると約束されました。そればかりか、彼らは永遠に、決して滅びるとこがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしませんと言われました。どうしてそのように言うことができるのでしょうか。それは、イエスが彼らの手をしっかりと掴んでいてくださるからです。31節には「わたしと父とは一つです」とありますが、イエスは全能の神です。その方が掴んでいてくださるなら、どんなことがあっても決して離れることはありません。

 

そのように言うと、ユダヤ人たちが、イエスを石打ちにしようとしました。どうしてかというと、イエスが神を冒涜したと思ったからです。イエスが「わたしと父とは一つです」と宣言しました。人間でありながら、自分を神と等しい者とするとは何事かと烈火のごとく怒り、イエスを殺そうとしたのです。

 

イスラエルにはモーセによって与えられた十戒がありました。その戒めの第一戒にはこうあります。「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」(出エジプト20:3)

人間を神とする、自らを神とすることは神を冒涜することであり、この戒めに背くことになります。ですから、彼らはイエスがこの戒めを破り自分を神としたことで、神を冒涜したと考えたのです。もしイエスがただの人間であったのなら、彼らの主張も正しかったでしょう。でもイエスはただの人間ではありませんでした。イエスはもともと神であられる方なのに、人間の姿を取ってこの世に来てくださったのです。ですから、イエスが言っていることは正しいのです。そのイエスのことばを受け入れることができず、そのお方をさばき、石を投げつけるとしたら、その人の方がはるかに神を冒涜していると言えます。

 

イエスはそのことを証明するために、ここで二つの理由を挙げておられます。その一つが34~36節にあります。ここには、「イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った。「おまえたちは神々だ」』と書かれていないでしょうか。神のことばを受けた人々を神々と呼んだのなら、聖書が廃棄されることはあり得ないのだから、『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が聖なる者とし、世に遣わした者について、『神を冒している』と言うのですか。」」とあります。どういうことでしょうか?

 

主イエスがここで引用した言葉は、詩篇82篇6節の御言葉です。詩篇82篇6節にはこうあります。「わたしは言った。「おまえたちは神々だ。みないと高き者の子らだ。」(詩篇82:6)

この「おまえたち」とは、この世の裁判官や権力者たちのことのことです。ここで彼らは「神々だ」と呼ばれているのです。どうしてそのように呼ばれていたのかというと、人を裁く役目を担っていたからです。ある面でそれは神と同じ働きをしていたわけです。それで彼らは「神々だ」と呼ばれていたわけですが、であれば、神から遣わされ、人々を正しく裁く権威を持っておられる方を神と呼んだからと言ってどうしてそれが神を冒涜したと言えるのかというのです。

 

実は、旧約聖書においては、神から遣わされた器は神の代理人としての権威と使命をもって働くので、その人々を神々と呼ばれています。たとえば、出エジプト記4:16には、「彼があなたにとって口となり、あなたは彼にとって神の代わりとなる」とあります。「彼」とはモーセの兄アロンのことですが、神は口下手なモーセに代わってアロンをモーセの口としました。そして、モーセは「彼」すなわちアロンにとって神の代わりとなるのです。モーセが神の代わりとなるといったら大変なことになります。それこそモーセを神の地位まで高めたということで神を冒涜したと言われても不思議ではないでしょう。でも、ここではそういう反発はありません。また同じ出エジプト記7:1には、神はモーセに、「見よ、わたしはあなたをファラオにとって神とする。あなたの兄アロンがあなたの預言者となる。」と言われました。ここでも、モーセがエジプトの王ファラオにとって神とすると言われています。つまり、神から遣わされた器は神の代理人としての権威と使命をもって働くので、「神々」と呼ばれていたのですが、であれば、父から遣わされた神の御子自身を神と呼ぶのは当然であって、決して神を冒涜していることには当たらないでしょ、というのです。

 

誤解しないでください。ここでイエスが言っておられることは、本当はご自身は神ではないけれども神から遣わされている人々を「神々」と呼んだのだから、自分もそのように呼ばれても構わないのではないかということではなく、イエスは本当に神であって、父なる神と一つであられる方ですが、彼らがなかなか信じようとしなかったので、彼らが信じていた旧約聖書を引用して、神と呼ばれていたのは自分だけではないということを取り上げることで、ご自身が「わたしは神である」と言ったことが決して神への冒涜ではないということを示そうとされたのです。そうです、イエスはまことの神であり、父なる神と等しい方なのです。あなたはイエスをどのような方であると受け止めていますか。イエスを神の子、キリストとして信じましょう。

 

Ⅱ.わたしのわざを信じなさい(37-39)

 

第二のことは、イエスが行われたわざです。もしイエスが神のわざを行っているとしたら、それこそイエスが神ご自身であられ、父なる神と一つであるということの証拠となります。37~39節をご覧ください。ここには、「もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じてはなりません。しかし、行っているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。」そこで、彼らは再びイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手から逃れられた。」とあります。

 

イエスは、たとえわたしを信じられなくても、わたしのわざを信じなさい、と言われました。イエスの言葉を信じることができなくても、そのわざを見れば信じることができます。イエスはまさに、神の子としてふさわしいわざを行われました。ガリラヤのカナでは、結婚式に水をぶどう酒に変えて、式が損なわれることがないようにされました。カペナウムでは、病気で死にかかっていた王室の役人の息子を癒されました。エルサレムでは、38年間も病気で伏せっていた男を癒されました。また、ガリラヤ湖畔では、イエスの説教を聞いていた5000人の人たちの空腹を、5つのパンと2匹の魚をもって養われました。そして9章では、生まれつき目の見えない人の目を見えるようにされました。

 

これを書いたヨハネは、この福音書の最後でこのように述べています。「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。」(21:25)

イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあります。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められません。イエスはそれほど多くのわざを行われたのです。それは、イエスが行われたわざを見ることによって、イエスが神の子、メシアであることを、あなたがたが信じるためであり、イエスの名によっていのちを得るためです。イエスの言葉を信じることができなくても、そのわざを見れば、この方が神のもとから来られた方であることを自ずと知ることができるのです。私たちも人が言っていることについて、本当にそのとおりであるかどうかを確かめるためには、その人が行なっていることを見るのではないでしょうか。それと同じように、イエスは、ご自分が神の子であると言っていることにふさわしいわざを行なわれたのです。

 

私たちはどうでしょうか。私たちのうちにイエスのわざが行なわれているでしょうか。目が開けられた人は、単にイエスの言葉を聞いてイエスを信じたのではありません。イエスのわざが自分のうちに行なわれたことを体験して、イエスを信じたのです。彼はこう言っています。「あの方が罪人であるどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」(9:25)

 

つまり、イエスの言葉には実質が伴っていたということです。聖書は、イエスを信じると言うことは、そこに実質が伴うことであると教えています。たとえば、Ⅰヨハネ2:29には、「あなたがたは、神が正しい方であると知っているなら、義を行う者もみな神から生まれたことが分かるはずです。」とあります。神が正しい方であると信じているなら、その神から生まれた者もみな正しいこと、義を行うはずなのです。また、3:6には、「キリストにとどまる者はだれも、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見たこともなく、知ってもいません。」とあります。ここも同じです。さらに4:7には、「愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。」とあります。神を愛する者はみな、兄弟をも愛します。なぜなら、愛は神から出ているからです。つまり、その行いを見れば、何を信じているのかがわかるわけです。イエスを本当に神の子として信じているなら、神の子としてのわざが私たちのうちに起こってくるのです。ですから、もし私たちの言葉を信じることができなくても、私たちのわざ、行いを見れば、イエス様が本当に救い主であることがわかるはずなのです。

 

中国人の任さんと聖書を学んでいますが、先週、信仰告白に導かれました。本当はもう少し学んでから「どうですか、イエスさまを信じますか」と尋ねるのですが、「もう信じている」と言うので、まだ3回目ですが、信仰の告白に導いた方がいいと思いました。なぜなら、ローマ10:9-10に、「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」とあるからです。それで、このみことばを示しながら、「任さん、任さんは心の中でイエスさまを信じています。だから今、それを告白しましょう。なぜならここに、人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるからです。」書いてあるからです。今、私の後に続いて祈ってください。これは、新生の祈りと言って、信仰告白の祈りです。任さんが声を出してこの祈りをすることによって、任さんは新しく生まれます。今までのすべての罪が赦されて、神の子どもとなります。いいですか、それじゃ祈りましょう」と言って、一緒に祈りました。祈り終わった後でキョトンとしているので、「任さん、任さんはクリスチャンになりました。すべての罪が赦されて神のこどもになりました。いつ死んでも天国です。今も神がともにいてくださいます。良かったですね。」と言うと、「ん、良かった。罪全部赦されたね。良かった。今まで悪いことたくさんしてきた。ただ警察に捕まらなかっただけよ。でもその罪全部赦さんだね。感謝します。」と言いました。おもしろいです。中国人がみんなそうだとは思いませんが、自分でも、中国人は強いから・・と言われるのです。はっきりしています。悪いこともたくさんする。でも、本当に素直なんです。いろいろな人と接する機会がありますが、実におもしろいというか、とても爽やかです。

 

そもそも任さんが聖書を学びたいと思うようになったのは、中国に住む娘さんから、「お母さんもイエスさまを信じてください」と言われたからです。普通なら、娘にそう言われても「はい、そうします」という親は多くないと思います。「キリスト教なんて信じたって何も得しない。私は自分の思うように生きていきたい」と言うでしょう。でも、任さんは違いました。娘さんがそう言うので、自分もイエスさまを信じたいと思いました。娘さんを非常に尊敬しているんです。娘は普通の人じゃない、本当にすばらしいのです。何がそんなにすばらしいのかとお聞きすると、こう言いました。

娘さんは、大学生の頃にクリスチャンになりました。それから結婚しましたが、旦那はクリスチャンじゃなかったので、娘さんをひどく迫害しました。娘さんが熱心に祈っていると「気ちがい!気ちがい!」と言い、娘さんが教会に行くと言うと、娘さんを叩いたり、髪の毛をむしり取りました。「教会になんて言っているヤツは愚かなヤツばかりだ」と言うと、娘さんは「確かに、愚かかもしれません。でも実際に来てみてください。本当に謙遜で、立派な人たちばかりです。」と言いました。

ある日この旦那が教会にやって来ました。すると、最初のうちは聖書のことはわかりませんでしたが、そこにいる人たちが皆、優しいのです。今まで抱いていたイメージと全く違いました。しかも、社会的に地位のある人や人格的に優れた人たちがたくさんいました。それで続いて教会に来るようなると、旦那もイエス様を信じたのです。ただ信じたのではありません。熱心にイエスさまに仕えるようになり、今では伝道者になって世界中を飛び回り、貧しい人たちや困っている人たちを助けるような人になったというのです。すごいじゃないですか。何が奇跡かって、人が変えられることほど大きな奇跡はありません。イエス様は、私たちを変えてくださいます。そのみわざがどれほど大きいものであるかがわかります。

 

しかし、それだけだったら任さんもそこまで聖書を学びたいと思わなかったでしょう。しかし、この娘さんはイエスさまの教えに徹底して歩んでいるんですね。こんなことがありました。実は任さんにはもう一人の息子がおられるのですが、この息子さんから、こんなことを言われたそうです。「お母さん、お母さんはマンションを2つ持っているよね。それはお母さんが死んだら遺産として自分たちに相続されるんだから、だったら死ぬ前にその1つを自分の名義にしてください。嫁がそう言うようにとうるさいんだよ。」

それで、任さんは娘さんに相談しました。「弟がそのように言っているんだけど、どうしたらいい。」すると娘さんがこのように答えました。

「お母さん、私はマンションなんていりません。私には天国があるのでそれで十分です。天国は朽ちることも、消えて行くこともありません。この世のものはすべて一時的なもので、すぐに消えて行きます。天国に持って行くこともできません。でも、天国は永遠です。永遠にイエスさまと一緒に過ごせるんです。それがあれば十分です。何もいりません。お母さんのマンションは二つとも弟にあげてください。私は何もいりませんからでも、お母さん、お母さんには感謝しています。私を生んでくれたこと、そして、ここまで大切に育ててくれたこと、本当に感謝しています。こうして健康でいられるのも、お母さんのお陰です。ありがとう!お母さん。」

 

こんなことばを聞いて感動しない親はいないでしょう。任さんも娘の言葉を聞いたときびっくりしました。普通ならマンションちょうだい、お金もちょうだい、自分にはもらう権利があると主張するところでしょうが、娘さんは全然違いました。それで、「これは本物だ」と思いました。自分は悪いことばっかりやってきましたが、イエスさまを信じて天国に行きたいと思ったのです。

 

キリスト教が本物であるかどうかは、聖書の教えを聞いただけではわからないことがあります。でもそこに実質が伴っているならそれが本物であることを知り、信じることができます。「もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じてはなりません。しかし、行っているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。」

 

イエスさまのわざとは、何も病気が癒されたとか、悪霊が追い出されたとか、不思議なわざが起こったりすることだけではありません。イエスさまの最大のみわざは、私たちがイエスを信じることです。イエスさまを信じて永遠のいのちを受け、そのいのちが溢れることです。それより大きな奇跡はありません。あなたがイエスさまを信じて救われたこと、救われて大きく変えられたこと、それよりも大きなみわざはないのです。聖書にあるイエスのわざを見たり、初代教会のクリスチャンたちの生活や行いを見ても、一つだけ言える確かなことは、イエスは神の子であり、信じる者はその名によっていのちを持つということなのです。

 

Ⅲ.イエスを信じた人々(40-42)

 

第三のことは、その結果です。40~42節をご覧ください。

「そして、イエスは再びヨルダンの川向こう、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた場所に行き、そこに滞在された。多くの人々がイエスのところに来た。彼らは「ヨハネは何もしるしを行わなかったが、この方についてヨハネが話したことはすべて真実であった」と言った。そして、その地で多くの人々がイエスを信じた。」

 

イエスの愛に満ちたメッセージにも関わらず、パリサイ人たちのかたくなな心が砕かれることはありませんでした。彼らはイエスを捕らえようとしましたが、イエスは彼らの手から逃れられました。それはまだイエスの時が来ていなかったからです。

 

そして、ヨルダン川の向こうに行かれ、そこに滞在されました。そこはバプテスマのヨハネが初めにバプテスマを授けていた場所です。すると、多くの人々がイエスのところに来てイエスを信じました。なぜこの人々はイエスを信じることができたのでしょうか。ここに「彼らは「ヨハネは何もしるしを行なわなかったが、この方についてヨハネが話したことはすべて真実であった」と言った。」(41)とあります。「この方についてヨハネが話したこと」とは何でしょうか。私たちはすでに1章のところで、ヨハネの証を見てきました。1:26,27には、「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」とあります。バプテスマのヨハネは人々からキリストではないか、光ではないかと思われていましたが、自分はそのような者ではなく、その方の履き物のひもを解く値打ちもないと言いました。そしてその翌日、イエスが自分の方に来られるのを見ると、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(1:29)と言いました。つまり、イエスが彼らのところに来たとき、彼らはかつてバプテスマのヨハネが語った言葉を思い出し、それがこの方のことであったことに気付きイエスを信じたのです。

 

いったい死ぬために生まれてきた人がいるでしょうか。いません。もちろん、どんな人でも最後には死にます。しかし、死ぬことを目的として生まれ、死ぬことを目的として生きているわけではありません。しかし、イエス・キリストは死ぬために生まれ、死ぬために生きられました。バプテスマのヨハネが言ったように、この方は世の罪を取り除く神の子羊として来られたのです。人間は、生まれながら罪人です。その罪を取り除いたり、赦したりできるのは、神以外にはおられません。イエスはその神の子羊として来られました。彼らはそのことがわかったのです。それで、その地で多くの人々がイエスを信じることができたのです。

 

私はここに深い慰めを感じます。すなわち、彼らが信じることができたのは、そこに彼らが信じることができるようにバプテスマのヨハネという人物の道備えがあり、主がその証を用いて信じることができるように助けてくださったからなのです。もし私がその場にいたら、どうだったであろうかと想像します。ガリラヤのナザレ出身の大工の息子が自分は神の子であると主張しているのです。果たして、そのような人物をどこまで素直に信じることができたでしょう。もしかしたら、受け入れられなかったかもしれません。そもそもそんなことどうでも良いと思ったかもしれない。それでも彼らは信じることができました。それは一方的な神の恵みによるのです。

 

それはあの使徒パウロも同じでした。「パウロ 愛と赦しの物語」という映画を観ました。パウロも、最初はイエスを救い主として信じることはできませんでした。むしろイエスを信じる者たちを激しく迫害していました。そのようなパウロが180度変わったのは、復活されたキリストが彼に近寄ってくださったからです。彼がクリスチャンを迫害しようとダマスコに向かっていた時、復活の主イエスが彼に現れて言いました。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」(使徒9:4)

「あなたはどなたですか」と言うと、答えがありました。

「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(9:5)

どういうことか、パウロはわけもわからず、ただイエスが言われたように、ダマスコに行ってみると、そこにアナニアという兄弟がいて、彼を通して目が見えるようになりました。それは肉眼だけでなく、彼の心の目も開かれました。それは、一方的な神の恵みのみわざであることがわかったのです。

 

イエスさまはご自分が良い羊飼いであると言われました。良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てます。羊が守られるのは、羊飼いに従うことにもよりますが、それ以上に、そこに羊飼いたちのいのちをかけた愛があるからです。同じように、私たちはイエスさまを信じていますが、それは私たちの努力によるものというよりも、神の力、神の恵みわざによるのです。主がそのことに気付かせてくださいます。これまでの様々な人たちとの出会いや、ある時に聞いた救いの証し、聖書のメッセージ、これまで経験した一つ一つのことが、ヨルダンの川向うの人たちが、「ヨハネが話したことはすべて真実であった」と気付いてイエスを信じたように、必ずや、そのような時が来て、イエスを信じることができるように導いてくださるのです。そのことが見えるとき、私たちはそこに深い慰めと平安が与えられます。私たちは神の恵みによってこそ信じることができ、今あることを覚え、神に感謝したいと思います。そして、ますます信仰に堅く立って、動かされることがないように、いつも主のわざに励みたいと思います。

出エジプト記15章

出エジプト記15章から学びます。

Ⅰ.モーセの歌(1-18)

まず1~18節までをご覧ください。1~3節をお読みします。

「 そのとき、モーセとイスラエルの子らは、主に向かってこの歌を歌った。彼らはこう言った。「主に向かって私は歌おう。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。主は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた。この方こそ、私の神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。主はいくさびと。その御名は主。主はファラオの戦車とその軍勢を海の中に投げ込まれた。選り抜きの補佐官たちは葦の海に沈んだ。深淵が彼らをおおい、彼らは石のように深みに下った。」

「そのとき」とは、主がイスラエルをエジプト人の手から救われたときです。主は圧倒的な御業で、

イスラエルをエジプト人の手から救われました。イスラエルは、主がエジプトに行われた、この大いなる御力を見て、主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じました。そのときです。

 

モーセとイスラエルの子らは、主に向かって歌いました。まずモーセは、「主に向かって歌おう」と、民に呼びかけています。それは、「主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた」からです。まことに、「主は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた。この方こそ、私の神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。主はいくさびと。その御名は主。主はファラオの戦車とその軍勢を海の中に投げ込まれた。選り抜きの補佐官たちは葦の海に沈んだ。深淵が彼らをおおい、彼らは石のように深みに下った。」と。

モーセはここで、神がどのような方なのかを歌いました。主は私の力、ほめ歌、私の救い、わが神、私の父の神、いくさびと、その名は「主」です。「主」とは、「わたしは、あるというものである」という意味でしたね。他の何ものにも依存しなくても存在することができる方、自存の神です。ここで重要なのは、この主は私の力、ほめ歌、私の救い、わが神、私の父の神であると言っていることです。つまり彼らは、神を体験したのです。その結果、父祖の神として認識していた方を、「わが神」として認識するようになりました。

 

この「神を知る」ということが重要です。単に、神がどのような方であるのかを頭で知るということ以上に、この方を自分の救い主として体験することです。パウロは、エペソ1:17~19で、こう祈っています。「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」

あなたは、神を知っているでしょうか。私たち神を信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができるように祈りましょう。

 

次に4-10節までをご覧ください。

「主はファラオの戦車とその軍勢を海の中に投げ込まれた。選り抜きの補佐官たちは葦

の海に沈んだ。深淵が彼らをおおい、彼らは石のように深みに下った。主よ、あなたの右の手は力に輝き、主よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く。あなたは大いなるご威光によって、向かい立つ者たちを打ち破られる。あなたが燃える怒りを発せられると、それが彼らを刈り株のように焼き尽くす。あなたの鼻の息で水は積み上げられ、流れは堰のようにまっすぐに立ち、大水は海の真ん中で固まった。敵は言った。『追いかけ、追いつき、略奪したものを分けよう。わが欲望を彼らによって満たそう。剣を抜いて、この手で彼らを滅ぼそう。』あなたが風を吹かせられると、海は彼らをおおい、彼らは鉛のように、大いなる水の中に沈んだ。」

主はファラオの戦車とその軍勢を海の中に投げ込まれました。彼らが葦の海に沈んだのはどう

してでしょうか。それは、主が右の手で敵を打ち砕かれたからです。8節には、「あなたの鼻の息で水は積み上げられ、流れは堰のようにまっすぐに立ち、大水は海の真ん中で固まった。」とあります。「鼻の息」とは、強い東風のことです。東風は自然現象ですが、それによって、「水は積み上げられ、流れは堰のようにまっすぐに立ち、大水は海の真ん中で固まった」というのは、超自然現象です。主がその風を吹かせると、海は彼らをおおい、彼らは鉛のように、大いなる水の中に沈みました。

 

次に11-18節をご覧ください。

「主よ、神々のうちに、だれかあなたのような方がいるでしょうか。だれがあなたのように、聖であって輝き、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行う方がいるでしょうか。あなたが右の手を伸ばされると、地は彼らを呑み込んだ。あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、あなたの聖なる住まいに伴われた。もろもろの民は聞いて震え、ペリシテの住民も、もだえ苦しんだ。そのとき、エドムの首長らは、おじ惑い、モアブの有力者たちを震えが襲い、カナンの住民の心はみな溶け去った。恐怖と戦慄が彼らに臨み、あなたの偉大な御腕により、彼らは石のように黙った。主よ、あなたの民が通り過ぎるまで。あなたが買い取られた民が通り過ぎるまで。あなたは彼らを導き、あなたのゆずりの山に植えられる。主よ、御住まいのために、あなたがお造りになった場所に。主よ、あなたの御手が堅く建てた聖所に。主はとこしえまでも統べ治められる。」」  主なる神と他の神々とを比較して、主なる神がはるかに優っていることを歌っています。海が分けられて、その乾いた地を何百万人もの人が通り過ぎたなどというのは、どんな科学技術をもってしてもできません。そうです、主は全能者なのです。であれば、私たちはいったい何を怖がる必要があるでしょうか。神が、このように偉大な方であることを知るならば、何も怖がることなどありません。

 

そして、神はただ力ある方であるというだけでなく、13節には、この方は恵みをもって導き、御力をもって、あなたの聖なる住まいに伴われました。この「恵み」という語は、ヘブル語では「ヘセッド」という語ですが、これは非常に重要な概念を含んでいる語です。これはただ「恵み」というだけでなく、神の契約に基づく「恵み」のことです。神は、アブラハム契約をいつまでも覚えておられ、その約束を忠実に守ってくださるお方であるということです。モーセはここで、この「ヘセッド」を思い起こし、将来において大きな希望を見いだしているのです。そして、17節にあるように、主は彼らを導き、彼らをゆずりの山に植えられます。「ゆずりの山」とは「相続の山」のことで、約束の地のことを指しています。つまり、主は彼らを約束の地に導かれるということです。そして、そこで主は、とこしえまでも統べ治められるのです。

 

これはすべて主の恵みによるのです。そして、この恵みは、私たちにも注がれています。ローマ10:12には、「ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。」とあるからです。この主を呼び求めましょう。そして、この主に感謝しましょう。主はまことにいつくしみ深く、その恵みはとこしえまでです(詩篇107:1)。

 

Ⅱ.ミリアムの歌(19-21)

 

次に、19-21節までをご覧ください。ここにはモーセの姉ミリアムの歌が記されてあります。  「ファラオの馬が戦車や騎兵とともに海の中に入ったとき、主は海の水を彼らの上に戻された。しかし、イスラエルの子らは海の真ん中で乾いた地面を歩いて行った。そのとき、アロンの姉、女預言者ミリアムがタンバリンを手に取ると、女たちもみなタンバリンを持ち、踊りながら彼女について出て来た。ミリアムは人々に応えて歌った。「主に向かって歌え。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。」

出エジプトにおいて重要な役割を果たしたのはモーセとアロンですが、ミカ6:4を見ると、彼らだ

けでなく、彼らの姉ミリアムもまた指導的な役割を果たしていたことがわかります。彼女もまた、主がファラオの馬や戦車、騎兵を海の中に沈めたとき、そして、イスラエルが海の真ん中で乾いた地面を歩いて行ったとき、この歌を歌いました。彼女はただ歌ったのではなく、踊りながら賛美しました。ここには、アロンの姉、女預言者ミリアムがタンバリンを手に取ると、女たちもみなタンバリンを持ち、踊りながら彼女について出て来た、とあります。ミリアムは、このとき90歳を越えたおばあさんになっていましたが、イスラエルの女たち全員を導いて、タンバリンを使って主をほめたたえたのです。

21節のことばは、1節と同じ内容です。おそらくコーラスになっていたのでしょう。古代世界では、儀式的な踊りや歌は、男女別々に行いました。モーセは男たちの賛美の先頭に立ち、ミリアムは女たちの賛美の先頭に立ったのです。

 

ここでミリアムは、「アロンの姉、女預言者ミリアム」とあります。なぜ「モーセの姉」ではなく、「アロンの姉」と書かれているのでしょうか。恐らく、モーセは幼い頃から家を出てエジプトの王宮にいたために、ミリアムはアロンの姉としてイスラエルの民の間に知られていたのでしょう。「女預言者」という言葉は、ここで初めて出てきます。彼女は、そのような指導的な役割が与えられていたということです。。

 

いずれにせよ、モーセも、アロンも、ミリアムも、イスラエルの民を指導する立場にありましたが、彼らは主をほめたたえ、主を心から賛美しました。指導者にとって、特に、主をほめたたえることが重要です。主が自分の人生においてなしてくださった恵みのみわざを思い起こし、また、今、様々な困難な中にあっても、主が勝利を与えてくださることを信じて、主をほめたたえましょう。

 

Ⅲ.マラでの体験とエリムでの体験(22-27)

 

さて、このようにイスラエルの民は主の大いなる恵みによって葦の海から旅たちました。しかし、それはバラ色の世界ではなく、すぐに困難が彼らを襲いました。22-27をご覧ください。

「モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。しかし、彼らには水が見つからなかった。彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲めなかった。それで、そこはマラという名で呼ばれた。民はモーセに向かって「われわれは何を飲んだらよいのか」と不平を言った。モーセが主に叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。彼がそれを水の中に投げ込むと、水は甘くなった。主はそこで彼に掟と定めを授け、そこで彼を試み、そして言われた。「もし、あなたの神、主の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたを癒やす者だからである。」

 

イスラエルの民は、主の奇跡的なご介入によって、紅海を渡ることができました。そして、そのように勝利を与えてくださった主に賛美の歌を歌いました。さあ、いよいよ荒野の旅が始まります。彼らはシュルの荒野に出て行き、そこに3日間、彷徨いました。しかし、その後彼らはすぐにつぶやくことになります。彼らには水が見つかりませんでした。3日間水を飲めないのは辛いということを越えて、命の危険が伴います。3日間という言葉は、生死にかかわる時によく使われる言葉でもあります。その3日間歩いても、水が見つからなかったのです。そして、「マラ」に来た時に水がありましたが、そこの水は苦くて飲めませんでした。その時、イスラエルの民はどうしたでしょうか。24節には、「民はモーセに向かって「われわれは何を飲んだらよいのか」と不平を言った。」とあります。3日前に喜び踊った民が、モーセに対してつぶやいたのです。彼らは、紅海の奇跡から教訓を学んだはずなのに、全然身についていませんでした。しかし、それはイスラエルの民だけではありません。それは私たちも同じです。調子がいい時は喜べますが、そうでないとすぐに不平をもらしてしまいます。それが習慣化しています。すぐに不平が出るのです。このような習慣的なつぶやきは、祝福を失い、神のさばきを招くことになります。私たちは、このイスラエルの民の失敗から教訓を学ぶ必要があります。

 

さて、その民のつぶやきに対して、モーセはどうしたでしょうか。モーセは、すぐに主に祈りました。すると主は一本の木を示されたので、モーセがそれを水の中に投げ込むと、水は甘くなりました。その木に癒しの力があったというよりも、モーセの信仰が、超自然的な神の力を引き出したということです。このようなことが、これ以降のイスラエルの荒野の旅において何回も繰り返されることになります。それは、彼らがそのことによって、主が自分たちの必要を満たしてくださる方であるという教訓を学ぶためでした。しかし、のど元過ぎれば熱さ忘れるで、自分たちの必要が満たされるとすぐにその教訓を忘れてしまうということの繰り返しでした。

 

しかし、それはイスラエルの民だけのことではありません。私たちも同じです。私たちも人生の荒野においてイスラエルの民のように苦しくなるとすぐにつぶやいてしまいます。その中で主が私たちの必要を満たしてくださるのに、すぐにその恵みを忘れ、つぶやきを繰り返してしまうのです。私たちは、この人生の荒野の中で、信仰の教訓を学びましょう。26節、「もし、あなたの神、主の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたを癒やす者だからである。」

どんなに苦しくても、主の御声に聞き従いましょう。そのとき、主はエジプトで下したような病気は何一つ下しません。主は、私たちの癒し主であると信じて、この方に信頼し、その声に聞き従いたいと思います。

 

「こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめ椰子の木があった。そこで、彼らはその水のほとりで宿営した。」(27)    こうして彼らはエリムに着きました。「エリム」とは、「なつめやし」という意味です。なつめやしのあるところに、水の泉があります。そこは砂漠のオアシス、完璧なやすらぎの場所です。そこには12の泉と70本のなつめやしの木がありました。12も70も完全数です。イスラエルは、その水のほとりに宿営することができたのです。これまでの荒野の旅の後に行き継いだオアシスですから、どれほど癒されたことかわかりません。苦しみのあとの潤いです。困難の後の祝福です。彼らはマラで苦い思いをしましたが、エリムまで来て恵みがありました。これが神のくださる恵みであり、私たちの信仰の歩みです。マラがありますが、その後でエリムがあります。ですから、マラでとどまるのではなく、エリムに向かって進んでいかなければなりません。そのとき、私たちも完全な癒しを体験することができるのです。

Ⅰサムエル記4章

サムエル記第一4章から学びます。

 

Ⅰ.ホフニとピネハスの死(1-11)

 

まず、1~11節までをご覧ください。

「サムエルのことばが全イスラエルに行き渡ったころ、イスラエルはペリシテ人に対する戦いのために出て行き、エベン・エゼルのあたりに陣を敷いた。一方、ペリシテ人はアフェクに陣を敷いた。 ペリシテ人はイスラエルを迎え撃つ陣備えをした。戦いが広がると、イスラエルはペリシテ人に打ち負かされ、約四千人が野の戦場で打ち殺された。兵が陣営に戻って来たとき、イスラエルの長老たちは言った。「どうして主は、今日、ペリシテ人の前でわれわれを打たれたのだろう。シロから主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう。そうすれば、その箱がわれわれの間に来て、われわれを敵の手から救うだろう。」兵たちはシロに人を送り、そこから、ケルビムに座しておられる万軍の主の契約の箱を担いで来させた。そこに、神の契約の箱とともに、エリの二人の息子、ホフニとピネハスがいた。主の契約の箱が陣営に来たとき、全イスラエルは大歓声をあげた。それで地はどよめいた。ペリシテ人はその歓声を聞いて、「ヘブル人の陣営の、あの大歓声は何だろう」と言った。そして主の箱が陣営に来たと知ったとき、ペリシテ人は恐れて、「神が陣営に来た」と言った。そして言った。「ああ、困ったことだ。今までに、こんなことはなかった。ああ、困ったことだ。だれがこの力ある神々の手から、われわれを救い出してくれるだろうか。これは、荒野で、ありとあらゆる災害をもってエジプトを打った神々だ。さあ、ペリシテ人よ。奮い立て。男らしくふるまえ。そうでないと、ヘブル人がおまえたちに仕えたように、おまえたちがヘブル人に仕えるようになる。男らしくふるまって戦え。」

こうしてペリシテ人は戦った。イスラエルは打ち負かされ、それぞれ自分たちの天幕に逃げ、非常に大きな打撃となった。イスラエルの歩兵三万人が倒れた。神の箱は奪われ、エリの二人の息子、ホフニとピネハスは死んだ。」

 

サムエルが主の預言者として全イスラエルに知れ渡っていたころ、イスラエルにとっての最大の敵はペリシテ人でした。ペリシテ人は、地中海沿岸地域に住む海洋民族であり、ヨーロッパや北アフリカの地中海沿岸地域にもいた民族です。彼らは当時、イスラエルが持っていなかった、鉄で出来た武器を持っており、非常に強い民でした。イスラエルは、このペリシテとの戦いに出て行きます。彼らはエベン・エゼルあたりに陣を敷き、ペリシテ人は、シロの西方30㎞あたりにあったアフェクに陣を敷きました。戦いが広がると、イスラエル人はペリシテ人に打ち負かされ、約4,000人が戦場で打ち殺されました。

 

兵が陣営に戻って来たとき、イスラエルの長老たちは、どうしてペリシテに打たれたのかを考え、その原因が主の契約の箱が無かったからではないかと結論付けました。それで彼らは、シロから主の契約の箱を自分たちの陣営に持って来ることにしました。そうすれば、その箱が、自分たちを敵の手から救ってくれると思ったのです。ここには大きな誤解がありました。主の契約の箱を持ってくれば、自動的に勝利がもたらされるということはないからです。主はそのような箱に縛られるお方ではありません。主はどこにでもいることができる方であって、そのようなものにとらわれるお方ではありません。それなのに彼らは、その箱さえ運び込めば主が助けてくれると勘違いしました。もともと契約の箱は、神の臨在を象徴するものです。イスラエルの民が神に忠実であったら、契約の箱があるなしにかかわらず、主は彼らを勝利に導いてくださったはずです。それなのに、それがなかったら、たとえ契約の箱を運び込んだからと言って勝利が与えられるはずかありません。それは彼らの大きな誤解でした。

 

4節をご覧ください。イスラエルの兵たちはシロに人を送り、そこからケルビムに座しておられる万軍の主の箱を担いで来させます。そこには、エリの二人の息子、ホフニとピネハスがいました。主の契約の箱がイスラエルの陣営に運ばれて来ると、全イスラエルは大歓声をあげました。それは地がどよめくほどのものでした。これは、実にむなしいことです。大歓声をあげ、どんなに地がどよめいても、そこに神の息吹はなければむなしいのです。熱心さや勢いはあっても、主の御霊がおられなければ何の意味もないからです。宗教的に熱心であることは良いことですが、それが必ずしも主の臨在を保証するものではありません。

 

ペリシテ人はその歓声を聞いて動揺しました。そして、神の箱が陣営に来たことを知ると、ペリシテ人たちは恐れて、「神が陣営に来た」と言いました。ペリシテ人たちはなぜそれほど恐れたのでしょうか。それは、かつてイスラエルの神がありとあらゆる災害をもってエジプトを打ったことをうわさで聞いて知っていたからです。これはすごいですね。なぜなら、その出来事は300年以上も前の出来事だからです。彼らはそれを記憶していたのです。彼らは、イスラエルの神が力ある神であることを知っていて、恐れたのです。それでペリシテ人のリーダーたちはどうしたかというと、「男らしくふるまえ」と叱咤激励しました。

 

その結果どうなったでしょうか。こうしてペリシテ人が戦うと、イスラエルは打ち負かされ、それぞれ自分たちの天幕へ帰って行きました。その日倒れたイスラエルの兵は30,000人で、それはイスラエルにとって大きな打撃となりました。そればかりでなく、神の箱も奪われ、エリの二人の息子、ホフニとピネハスも死にました。これは2:23で預言されたとおりのことです。それがここで成就したのです。主が語られたことばは一つも地に落ちることがありません。すべてが成就します。

 

しかし、神の箱が奪われたからと言って、イスラエルの神が捕虜になったわけではありません。主はすべての神々にまさって大いなる方であり、大いに賛美されるべきお方です。この方は、人間によって支配されるようなことは全くありません。ペリシテ人がイスラエル人よりも優位に立つのはサウル王の時代までで、その後ダビデの時代には完全に制圧されることになります。神の箱が奪われたからといって神が死んでしまったわけではありません。やがて時が来れば、それが明らかになるでしょう。私たちはそのことを覚えて、たとえ今、神が見えなくなっているような時でも、この神の臨在と力を覚えて、ひれ伏し、伏し拝む者でありたいと思います。

 

Ⅱ.エリの死(12-18)

 

次に12節から18節までをご覧ください。

「一人のベニヤミン人が戦場から走って来て、その日シロに着いた。衣は裂け、頭には土をかぶっていた。彼が着いたとき、エリはちょうど、道のそばの椅子に座って見張っていた。神の箱のことを気遣っていたからであった。この男が町に入って来て報告すると、町中こぞって泣き叫んだ。 エリがこの泣き叫ぶ声を聞いて、「この騒々しい声は何だ」と言うと、男は大急ぎでやって来てエリに知らせた。エリは九十八歳で、その目はこわばり、何も見えなくなっていた。男はエリに言った。「私は戦場から来た者です。私は、今日、戦場から逃げて来ました。」するとエリは「わが子よ、状況はどうなっているのか」と言った。知らせを持って来た者は答えて言った。「イスラエルはペリシテ人の前から逃げ、兵のうちに打ち殺された者が多く出ました。それに、あなたの二人のご子息、ホフニとピネハスも死に、神の箱は奪われました。」彼が神の箱のことを告げたとき、エリはその椅子から門のそばにあおむけに倒れ、首を折って死んだ。年寄りで、からだが重かったからである。エリは四十年間、イスラエルをさばいた。」

 

ひとりのベニヤミン人が戦場から走って来てシロに着きます。戦場となっていたアフェクからシロまでは30㎞の上り坂です。その距離を一気に走って来たわけですから、それがいかに緊急のものであったかがわかります。その使者は、衣が裂け、頭には土をかぶっていました。これは、ユダヤ人たちが嘆き悲しんでいたことを表しています。

 

彼がシロに着いたとき、エリはちょうど、道のそばにいすに座って見張っていました。つまり、戦況の報告が届くのを待っていたのです。神の箱のことを気遣っていたからです。そして、この男が町に入って報告すると、町中こぞって泣き叫びました。イスラエル軍はペリシテ軍の前から逃げ、多くの戦死者が出たからです。そればかりではなく、エリのふたりの息子も死に、神の箱も奪われてしまいました。

 

それを聞いた時、エリはその椅子からあお向けになって倒れ、首を折って死んでしまいました。年寄りで、からだが重かったからです。しかし、何といっても、神の箱が奪われてしまったのがその大きな理由です。エリは、イスラエルが敗北することと、ふたりの息子が死ぬことはある程度予期していましたが、まさか神の箱が奪われるとは思っていませんでした。彼はそのことのショックで椅子から倒れ落ち、死んでしまったのです。98歳でした。

 

彼は40年にわたってイスラエルをさばきましたが、その最後はあまりにも悲惨なものでした。それは彼が息子たちへの訓戒を怠ったための悲劇でした。しかし、こうした悲劇的な死の中にも希望があります。サムエルという後継者を育てたことです。また、彼は二人の息子たちよりも、神の箱が奪われたことに深い関心を持っていました。つまり、確かに彼は死にましたが、彼は霊的な人物であり、霊的救いに与っていた人であったということです。エリの死は確かに悲惨で突然のものでしたが、それでも、霊的救いに与っているなら、永遠のいのちの希望があるのです。

 

私たちもいつ来るかわからない死に備えて、自らの救いを確認しておく必要があります。教会では今、墓地の取得に向けて動いていますが、自分の死のことについてはなかなかピンと来ないかもしれません。でも、それは確実にやって来ます。しかもある日突然やって来るのです。それがいつのことであっても、救い主イエス・キリストを信じることによって永遠のいのちが与えられたという確信を持って、主に最後まで従う者でありたいと願わされます。

 

Ⅲ.「イ・カボテ」栄光はイスラエルから去った(19-22)

 

最後に19節から22節まで見て終わりたいと思います。

「彼の嫁、ピネハスの妻は身ごもっていて出産間近であったが、神の箱が奪われて、しゅうとと夫が死んだという知らせを聞いたとき、陣痛が起こり、身をかがめて子を産んだ。彼女は死にかけていて、彼女の世話をしていた女たちが「恐れることはありません。男の子が生まれましたから」と言ったが、彼女は答えもせず、気にも留めなかった。彼女は、「栄光がイスラエルから去った」と言って、その子をイ・カボデと名づけた。これは、神の箱が奪われたこと、また、しゅうとと夫のことを指したのであった。彼女は言った。「栄光はイスラエルから去った。神の箱が奪われたから。」」

 

神の箱が奪われたという知らせを受けてエリはショックを受け、倒れて死んでしまいましたが、その悲劇は、臨月を迎えていたピネハスの妻にまで及びました。ピネハスの妻は身ごもっていて出産間近でしたが、神の箱が奪われ、しゅうとと夫が死んだと聞いたとき、陣痛が起こり身をかがめて子どもを産みました。出産後彼女は死にかけていて、彼女の世話をしていた女たちが「恐れることはありません。男の子が生まれましたよ」と励ましましたが、それは彼女にとって何の慰めにもなりませんでした。彼女は何も答えず、気にも留めず、「栄光がイスラエルから去った」と言って、その子を「イ・カボテ」と名付けました。それは栄光がないという意味です。それは神の箱がイスラエルから奪われたからです。

 

エリの死同様に、ピネハスの死も悲惨なものでした。しかし、このような中にも希望が見られます。それは、彼女も自分の夫やしゅうとの死よりも、神の箱が奪われたことに衝撃を受けていたことです。つまり、彼女は夫のピネハスよりも霊的な人物であったのです。エリ同様、彼女もまた霊的救いを体験していました。彼女は、「栄光はイスラエルから去った」と二度叫んでいますが、それはある意味で正しいことですが、ある意味では間違っています。なぜなら、確かに神の箱はペリシテ人によって奪われましたが、それがペリシテの領土にとどまるのは一時的なことだからです。神ご自身が働きを始め、ペリシテ人をさばかれるとき、それはイスラエルの地に戻るようにされるのです。

 

自分の思いや感情の中に、主の大きさを制限することがないようにしましょう。また、一時的にそうなったからと言って、それですべてが終わってしまったわけではありません。神は私たちの知性や感情の中に閉じ込めておけるような方ではありません。今、栄光の御座に座しておられる主は、この天地の造り主であられ、すべてを支配しておられる方であることを認め、やがて必ずみわざをなしてくださると信じて、すべてをおゆだねしようではありませんか。

ヨハネの福音書10章22~30節 「わたしの羊たち」

きょう私たちに与えられているみことばは、ヨハネ10:22~30です。きょうは、この箇所から「わたしの羊たち」というタイトルでお話します。「わたしの」とは、イエスさまのことです。イエスさまはご自分に従う者を「わたしの羊たち」と呼んでくださいます。イエスさまの羊たちとはどのような羊でしょうか。きょうはこのことについて三つのことをお話ししたいと思います。第一のことは、キリストの羊たちはキリストについて行くということです。そして第二のことは、そのようにキリストについて行く者に、キリストは永遠のいのちを与えてくださいます。そして、第三のことは、そのように永遠のいのちが与えられた者は、どんなことがあっても決して滅びることはないということです。

 

Ⅰ.キリストの羊はキリストについて行く(22-27)

 

まず、22~26節をご覧ください

「そのころ、エルサレムで宮きよめの祭りがあった。時は冬であった。イエスは宮の中で、ソロモンの回廊を歩いておられた。ユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。あなたがキリストなら、はっきりと言ってください。」イエスは彼らに答えられた。「わたしは話したのに、あなたがたは信じません。わたしが父の名によって行うわざが、わたしについて証ししているのに、あなたがたは信じません。あなたがたがわたしの羊の群れに属していないからです。わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。」

 

ここから場面が変わります。これまでは生まれながら目が見えなかった人が、イエスさまによっていやされたことから、ユダヤ人の指導者たち、パリサイ人たちとの間に起こった論争が描かれていましたが、ここからはエルサレムで宮きよめがあった時の出来事に変わります。「宮きよめの祭り」とは、ここにしか言及されていない祭りです。これは紀元前164年のことですが、当時ユダヤはシリアという国に支配されていましたが、そのシリアの王でアンティオコス・エピファネスという人が自分こそ神であると宣言しエルサレムの神殿の祭壇にギリシャの偶像を立て、律法で禁じられていた豚をささげて神殿を汚した時、ハスモン家の祭司でユダ・マカバイという人が立ちあがり、彼が中心となってユダヤ民族の独立のために戦い、エルサレム神殿を奪回し、祭壇から一切の憎むべき偶像を取り除くことに成功したことを記念して行われるようになった祭りです。今の暦で毎年12月に一週間、宮きよめの祭りとして祝われるようになりました。「時は冬であった」とあるのはそのためです。旧約聖書にこの祭りについての言及がないのは、これが旧約聖書の最後の書であるマラキ書が書かれたてから、新約時代が始まるまでの400年の間、これを沈黙の時代とか、中間時代と呼ばれていますが、その期間に起こった出来事だからです。

 

この宮きよめの祭り時に、イエス様が宮の中で、ソロモンの回廊を歩いておられると、ユダヤ人の指導者たちがイエス様を取り囲んでこう言いました。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。あなたがキリストなら、はっきりと言ってください。」

これは、19節から21節までのところをご覧なっていただくと分かりますが、当時ユダヤ人たちの間に分裂があったからです。ある人たちは、イエスは悪霊につかれて頭がおかしくなっていると言い、他の人たちは、イエスのことばを聞く限り悪霊につかれているとは考えられないと言いました。そんなスッキリしない中で、ユダヤ人たちはイライラしていたのでしょう。彼らはそうしたいらついた気持ちをイエスにぶつけたのです。

 

それに対して、イエス様は何と言われたでしょうか。25~27節です。「わたしは話したのに、あなたがたは信じません。わたしが父の名によって行うわざが、わたしについて証ししているのに、あなたがたは信じません。あなたがたがわたしの羊の群れに属していないからです。わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。」(25~27)

 

イエス様はすでにご自分がメシアであることを何度も語ってきましたが、彼らは信じませんでした。「わたしの羊の群れに属していないからです。」イエス様の羊であればイエス様の声を聞き分け、イエス様について行きますが、そうでないということは、イエス様の羊ではないということです。誤解しないでください。これは彼らがイエスの群れに属していないので信じないというのではなく、彼らが信じないということがイエスの群れ属していない証拠であるということです。だから今イエス様を信じていないのは自分がイエス様の羊ではないからだと諦めないでください。イエス様の声を聞いて彼に従うなら、あなたもイエスの群れに属することができるのです。それにしても、彼らはなぜキリストを信じることができなかったのでしょうか。

 

そこには、この宮きよめが関係しているのではないかと思われます。すなわち、この宮きよめは、あの荒らす忌むべき者アンティオコス・エピファネスからユダ・マカバイという人が中心となって、宮をきよめたことを記念する祭りですが、彼らが期待していたメシアとは、そのように政治的、軍事的に自分たちを救ってくれる人だと思っていたからです。しかし、イエス様が語られるメシアとは羊のためにご自分のいのちを捨てる人のことでした。いわゆる霊的メシアです。その受け止め方にギャップがありました。それゆえに彼らはイエス様をメシアとして信じることができなかったのです。

 

このようなことが私たちにもあるのではないでしょうか。聖書のことばが自分の思いや考えとちょっとでも違うと納得するまでは信じないということがあります。あるいは信じていても、自分に都合が良いことは受け入れられても、そうでないことは割り引いてしまうということがあります。でも、「わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。」「彼らはわたしについて来ます。」とあるように、キリストの羊は、キリストの声を聞き分け、キリストについて行きます。それ以外のものにはついて行きません。羊飼いの声を知っているからです。

 

今聖書をマナでおられる任さんは、中国にいる娘さんから「お母さんもイエス様を信じてください。教会に行ってください。」と言われ、自分もイエス様を信じたいと思いましたが、どこに行ったら良いのかわかりませんでした。そんな時エホバの証人の方がご自宅を訪ねてこられました。そして、「自分たちが信じているのはイエス様よりも偉い方で、イエス様のお父さんですよ」と言われたとき、「あれっ、ちょっとおかしいなぁ。」と思いました。「イエス様は神様じゃないの?イエス様よりも偉い人なんているの?ちょっとおかしい」そうこうしているうちに、この方のご主人が創価学会の方にわずかばかり寄付をしたことで、「じゃ、創価学会の会館に来てください」と言われたので行ってみると、「おめでとうございます、あなたは今日から創価学会の会員です」と1枚の紙を手渡されました。会員証ですね。いや、自分はただ寄付をしただけで、別に会員になるつもりはありませんと言うと、何度もやって来ては「会員になりました、会員になりました」と言うのです。そのしつこさは異常で、これは絶対に違うなと思いました。そんな時教会の前を通ったら看板に十字架があるのを見つけました。小さな十字架でした。キリスト教会は控えめですね。もっと大きな十字架を掲げればいいのに、小さな十字架でした。でも、ここはキリスト教の教会ではないかと思って思いきって訪ねて来られたのです。そして、娘さんが通っておられる中国の教会の動画を見せてくれました。それが「歌いつつあゆまん」だったのです。私がこの賛美を知っているとそれに合わせて歌ったら、「これホンモノね」と聖書を学ぶようになりました。

 

キリストの羊はキリストの声を知っています。それでキリストについて行くのです。そうでない羊はその違いが分かりません。あなたはどうでしょうか。あなたはキリストの声を知っていますか。キリストの心を知っていますか。どうぞイエス・キリストを信じてください。キリストは良い牧者です。あなたのためにいのちを捨ててくださいました。それほどまでに、あなたを愛しておられます。ですから、その声を聞き分け、この方を救い主と信じ、この方に従ってついて行ってください。そのような人こそキリストの羊なのです。

 

Ⅱ.キリストは彼らに永遠のいのちを与えます(28a)

 

第二のことは、そのようにイエス様について行く者に、イエス様は永遠のいのちを与えてくださるということです。28節の前半をご覧ください。ここには、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます」とあります。これは、羊飼いであられるイエス様に従う者の特権です。それは何でしょうか。それは永遠のいのちです。イエス様はご自分について来る者に永遠のいのちを与えられます。それは罪の赦しと、来るべき世における栄光のいのちです。

 

18世紀のイギリスにおける伝道者で、メソジスト運動と呼ばれる信仰覚醒運動を指導したジャン・ウエスレーは、臨終を前にして最後の言葉を伝えるために家族を集めました。彼は最後の60秒間、起き上がってこう言いました。

「一番良いことは、神様が私たちとともにおられることです。」

そして再び横になり、両手を高く上げて、最後の力を振り絞ってもう一度言いました。

「一番良いことは、神様が私たちとともにおられることです。」

そう言って彼は、息を引き取りました。

 

一番良いことは、神が私たちとともにおられることです。神がともにおられることと神がそばにおられることでは次元が違います。神は聖なる方ですから、罪ある者と共にいることはできません。神がともにいてくださるには、その罪が赦され神の子どもにされなければなりません。神はそのためにひとり子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。それは、この方を信じる者がひとりも滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。これが、私たちの罪が赦されるための神の永遠のご計画だったのです。それが時至って、今から二千年前に、キリストは旧約聖書にある預言のとおりに来られ、十字架と復活を通して救いの御業を成し遂げてくださいました。ですから、この方を信じる者はみな永遠のいのちを受けるのです。永遠に神が共にいてくださいます。ここでイエス様は、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。」と言っておられます。これは現在形で書かれています。それはやがて私たちの肉体が滅んだ後に受ける栄光のいのちだけでなく、イエス様を信じるすべての人がその瞬間から持つことができる神との交わりであり、神がともにおられることです。ウエスレーは、この永遠のいのち、神様が私たちとともにおられることが一番良いことです、と言ったのです。あなたは、この永遠のいのちを受けておられるでしょうか。

 

昨日、スーパーキッズが行われ、2階でお母さんたちの聖書の学びを持ちました。少し遅れて参加した一人の方が、2年前から仕事をしているのだが、最近なんだか空しく感じることがあるというのです。何のために働いているのかがわからない。別に働かなければならないというわけではないが、今のうちに働いていないと後で年をとってから働けなくなるのではないかと思って、ちょっとしたこずかい稼ぎのために働いているんだけど、これでいいのかなぁと思うようになったのです。いったい何のために生きているのかがわからない。「何のために生きているんですか。生きる目的はありますか」と聞かれるのです。「あります。イエス・キリストです」というとポーとしたお顔で聞いておられるので、話を続けたのです。私たちは肉体だけのいのちではなく、精神的、霊的な存在です。だから、霊が満たされなければどんなに肉体的に、物質的に満たされても幸せになれないんです。逆に、霊が満たされていれば、肉体的に辛いことがあっても、物質的に足りないことがあっても、乗り越えることができます。イエス・キリストを信じて永遠のいのちを受けることが、私たちの生きる目的なのです。神がともにおられること、それが私たちにとって一番良いことなのです。

 

Ⅲ.キリストの羊は永遠に滅びることがない(28b-30)

 

第三のことは、彼らは永遠に滅びることがないということです。28節から30節までをご覧ください。

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。」

 

これはものすごい約束です。イエス様は、ご自身を信じ、ご自身に従う者に永遠のいのちが与えると約束されましたが、そればかりではなく、だれも彼らをご自身の手から奪い去ることはできないと言われました。これはどういうことでしょうか?これは、どんなことがあっても救いから落ちることはないということです。たとえあなたが罪を犯すことがあっても、あなたがキリストの羊の群れに属しているなら、その救いから漏れることは絶対にないということです。問題は、この羊の群れに属しているかどうかです。イエス様を信じて永遠のいのちを受けているかどうかです。いったいどうやってそれを知ることができるのでしょうか。イエス様を信じて、バプテスマをうけたのであれば、永遠のいのちが与えられているのではないでしょうか。

 

でも、この箇所にはそのようには記されてありません。ここには、「わたしの羊たちはわたしの声を聞き分ける」とあります。また「わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。」とあります。これがキリストの羊の群れに属している羊たちです。すなわち、キリストの羊たちは、キリストの声を聞いて、キリストに従うということです。これは、全く罪を犯さないということではありません。羊は愚かで、弱く、無力です。すぐに道に迷ってしまう動物です。イエス様について行ってるようでも、すぐに道を踏み外してしまいます。おっちょこちょいなんですね。落ち着きがありません。でもそういうことは全く関係ないのです。大切なのは、キリストの声を聞いて、キリストについて行くかどうかです。自分が道に反れてしまったと思ったなら、キリストの声を聞いて悔い改めればいいのです。それを聞かないで、自分は立派な者だと思っているとしたら、それこそキリストの声に従ってしない証拠と言えます。ですから、表面的には見分けがつきません。ただ一つ言えることは、キリストの羊はキリストの声を聞き分けて、キリストについて行くということです。もしそうであるなら、あなたはキリストの羊です。その人は永遠のいのちを受けるだけでなく、だれもキリストの手から奪い去られることはありません。

 

パウロは、この真理を次のように述べています。「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:35~39)

だれも、また何も、どんなものも、キリストにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。なぜなら、キリストは父なる神と一つになって、私たちの手をしっかりと握り締めていてくださるからです。救いについてこれほど確かな保証はありません。

 

私たちはしばしば信仰というものを私たちが神の御手をつかんでいることだと考えていますが、それは大きな間違いです。もしも信仰というものがそのようなものであれば、疲れたり、躓いたりしたら、手を離してしまう危険があります。よく「私は意志が弱いので、信じても長続きしないのではないかと思います」と言われる人がいますが、そのような人は、信仰というものを自分の意思で続けていくものだと思っているのです。でも、信仰とはそのようなものではありません。信仰は私たちが神様の御手をつかんでいるのではなく、神様が私たちの手をつかんでいてくださることです。

たとえば、小さな子供が親の手をつかんで歩いているのを想像してみてください。もしもその時子供が何かに躓いたら、子供は手を離して転んでしまうでしょう。しかし、もしも親が子供の手をつかんでいたら、たとい子供が躓いても親がしっかりと子供の手をつかんでいるので転ぶことはありません。それと同じで、私たちの救いというのは、私たちが神の御手をつかんでいるのではなく、神が私たちの手をつかんでいてくださることなのです。そうであれば、たとい私たちが何かにつまずくことがあっても、決して倒れてしまうことはありません。

 

私たちの周りには、キリストの羊を、キリストから奪い去り、罪の中に引き戻そうとするものがたくさんあります。絶えず何かが私たちを「奪おう」とし「引き抜こう」としています。でも、もしあなたがキリストの羊であるなら、あなたはキリストの手の中で守られており、決して滅びることはありません。なぜなら、キリストがあなたの手をつかんで離さないでいてくださるからです。

 

最後に30節を見ておわりたいと思います。ここには、その手がどれほど確かなものであるかが記されてあります。それは「わたしと父とは一つです」という言葉です。これは、イエス様と永遠の父とは全く一つであるということです。その本質と力において、また意志において全く一つなのです。つまり、イエス様は父なる神と同等の力を持った神であるという意味です。この箇所を見ても、イエス様よりもお父さんの方が偉いというエホバの証人の主張が間違っていることがわかります。イエス様と父なる神は全く一つであって、その神があなたの手をつかんでいてくださるのです。であれば、だれがあなたを奪い去ることができるでしょうか。あなたはキリストの手の中で完全に守られており、神が約束してくださった永遠のいのちを受け、永遠に神がともにいてくださることを体験することができるのです。

 

ですから、あなたにとって最も大切なことは、あなたはキリストの羊の群れに属しているかどうかということです。キリストの羊は、キリストの声を聞いて、その声に従います。あなたもキリストの声を聞いて、キリストを信じ、キリストの羊の囲いに属してください。そうすれば、何も、だれも、どんなことも、あなたをキリストから奪い去ることはできないのです。この不透明な時代、何があるかわかりません。一寸先は闇です。しかし、目の前がどんなに暗くても、キリストがあなたの手を握っていてくださいます。つかんで離さないようにしています。これほど確かな平安はありません。今週も何が起こるかわかりませんが、何が起こっても、キリストの声を聞いて、その声に従いましょう。あなたはイエス・キリストの囲いに属している羊なのですから。

出エジプト記14章

出エジプト記14章から学びます。

 

  1. パロの追跡(1-9)

 

まず1節から9節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。

「主はモーセに告げられた。「イスラエルの子らに言え。引き返して、ミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンの手前で宿営せよ。あなたがたは、それに向かって海辺に宿営しなければならない。」

 

いよいよ出エジプトのクライマックスを迎えます。主の力強い御手によってイスラエルの民はエジプトを出て、約束の地に向かって行きます。イスラエルの民は、スコテを旅立って、エタムに宿営しました(13:20)。エタムは荒野の端にあります。つまり、その先は荒野(シナイ半島)であるということです。そこから荒野の旅が始まります。その荒野は、「シュルの荒野」と呼ばれていますが、「エタム」はそのシュルの荒野の一部です。その「エタム」に宿営していた時、主がモーセに告げられました。「イスラエルの子らに言え。引き返して、ミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンの手前で宿営せよ。あなたがたは、それに向かって海辺に宿営しなければならない。」と。

何ということでしょう。折角、エジプトから出て来て、「さあ、これからだ」と言う時に、「引き返して」というのですから。そして、ミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンに宿営せよと命じられたのです。いったいなぜ主はそのように命じられたのでしょうか。3節、4節をご覧ください。それは、エジプトの王ファラオをおびき出すためでした。

「ファラオはイスラエルの子らについて、『彼らはあの地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった』と言う。わたしはファラオの心を頑なにするので、ファラオは彼らの後を追う。しかし、わたしはファラオとその全軍勢によって栄光を現す。こうしてエジプトは、わたしが主であることを知る。」イスラエルの子らはそのとおりにした。」

そこは、海と山に囲まれたような所でした。つまり、迷路のように間違ったところに入ってしまったか

のように思えるような場所だったのです。ですから、ファラオは、イスラエル人が道に迷ったと思い、あとを追って来るでしょう。その結果、神の民を苦しめたエジプトに最終的なさばきが下されることになるのです。このエジプト軍のさばきこそ、出エジプトの一連の出来事のクライマックスです。この出来事を通して、神はご自身の性質と力を示され、ご自身の栄光を現されるのです。その結果、エジプトは、主こそ神であるということを知るようになります。また、イスラエルの民も、主が自分たちのために戦われるということを知るようになるのです。イスラエルの民は、主が仰せられるとおりに、引き返しました。皆さんはどうでしょうか。それが自分の思いと違っても、主の言葉に従うでしょうか。

 

5節から9節までをご覧ください。

「民が去ったことがエジプトの王に告げられると、ファラオとその家臣たちは民に対する考えを変えて言った。「われわれは、いったい何ということをしたのか。イスラエルをわれわれのための労役から解放してしまったとは。」そこでファラオは戦車を整え、自分でその軍勢を率い、選り抜きの戦車六百、そしてエジプトの全戦車を、それぞれに補佐官をつけて率いて行った。主がエジプトの王ファラオの心を頑なにされたので、ファラオはイスラエルの子らを追跡した。一方、イスラエルの子らは臆することなく出て行った。エジプト人は彼らを追った。ファラオの戦車の馬も、騎兵も軍勢もことごとく、バアル・ツェフォンの前にあるピ・ハヒロテで、海辺に宿営している彼らに追いついた。」

 

イスラエルの民が去ったことがエジプトの王に告げられると、ファラオとその家臣たちはイスラエルの民に対する考え方を変えてこう言いました。

「われわれは、いったい何ということをしたのか。イスラエルをわれわれのための労役から解放してしまったとは。」

そこで、ファラオは、戦車を整え、自分でその軍勢を率いてイスラエルの民を追跡しました。そして、ファラオの戦車の馬も、騎兵も、軍勢も、ことごとく、バアル・ツァフォンの前にあるピ・ハヒロテで、海辺に宿営していたイスラエルの民に追いつきました。これはイスラエルにとっては予想外の展開でした。海辺に宿営していたので、逃げ場がなかったのです。また、主の導きによってその地に宿営するようになったのに、窮地に追い込まれてしまったのです。

 

物事がうまく行っている時はだれでも喜べますが、問題は、そうでない時はどうかということです。なかなか受け入れられないのが現実です。しかし、試練の中に置かれた時は神のお許しなしには何一つ起こらないことを思い起こし、忍耐することを学びましょう。時が来れば、神のみわざが現されるようになるからです。

 

  1. 絶体絶命のピンチの中で(10-18)

 

そのような状況の中で、イスラエルの民はどのような態度を取ったでしょうか。10-12節をご覧ください。

「ファラオは間近に迫っていた。イスラエルの子らは目を上げた。すると、なんと、エジプト人が彼らのうしろに迫っているではないか。イスラエルの子らは大いに恐れて、主に向かって叫んだ。そしてモーセに言った。「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」

 

ファラオは間近に迫っているのを見たイスラエルの民は、大いに恐れて主に向かって叫びました。

この叫びは主に助けを求めての叫びではなく、主につぶやくための叫びでした。いわゆる不信仰の叫びです。叫びには二種類の叫びがあります。一つは信仰の叫びであり、もう一つは不信仰の叫びです。彼らの叫びは信仰によるものではなく不信仰によるものでした。それはその後のところで、彼らがモーセに対して非難していることからもわかります。「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」(12)

 

彼らは、どのようにモーセを非難しましたか。イスラエル人は多いためエジプトではどれだけ墓があっても足りないので荒野に連れてきたのか、ということでした。これは皮肉です。荒野で死ねば、埋葬の心配はいりません。要するに、信仰の冒険よりも奴隷としての安全が欲しかったのです。いわば奴隷根性ですね。奴隷根性が彼らの心を支配していました。今まで奴隷として酷使されてきたので、自分たちが解放されることよりも、むしろ奴隷として生きることのほうが楽だという思いです。

 

これは、罪の奴隷から解放された私たちも抱きがちな思いです。物事が順調に進んでいる時は良いのですが、ちょっとでも困難に直面すると、こんなことならいっその事、信じなければ良かった・・・というようなことを口走ってしまうことがあります。信仰によって前進しないと、こうした罪の奴隷になってしまいます。

 

確かに、彼らのこれからの荒野での生活は過酷です。灼熱と、喉の渇きがあります。けれども、彼

らには主がともにおられ必要を備えてくださり、敵から守ってくださいます。自分たちが主によって生き

ていることを、荒野の旅を通して知ることができるのです。イエス・キリストを信じた人は、同じように荒

野の旅をするようになります。けれどもそれは、主だけがすべての源であり、主との関係があらゆる祝

福にまさることを知るためなのだということを覚えていなければなりません。

 

13節、14節をご覧ください。

「モーセは民に言った。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」

 

動揺するイスラエルの民に向かって、モーセは何と言ったでしょうか?モーセはまず、「恐れてはならない」と言いました。つまり、ファラオとその軍勢を恐れてはならないということで、恐れるべき方を畏れよ、ということです。恐れは信仰と相容れない感情です。信仰の反対が恐れです。イエス様は、何度も「恐れてはならない」と言われました。

 

次に、しなければならないことは、しっかりと立つことです。つまり、逃げ出そうとするなということです。「しっかり立って」とあります。私たちはこうした状況に直面すると、すぐにそこから逃げだそうとします。しかし、主が私たちに命じておられることは逃げることではなく、しっかりと立つことです。ペテロは、「堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」(1ペテロ5:9)。と言いました。

 

そして次に、「今日あなたがたのために行われる主の救いを見な」ければなりません。つまり、主からの解決を待ち望まなければならないということです。それは「今日」もたらされます。明日ではなく「今日」です。それはすみやかにもたらされるのです。主の救いは近いのです。

 

その結果はどうなりますか?「あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。」つまり、今見ているエジプト人はいなくなるという意味です。モーセは、それがどのようにしてもたらさるのかわからなかったでしょう。しかし、彼は自分たちの目の前からエジプト人が消え去るということを確信していたのです。

 

主があなたがたのために戦われます。戦うのは自分ではありません。主があなたがたのために戦ってくださいます。主は、海と風を軍勢して戦ってくださいます。ですから、自分たちに戦闘の経験がなくても心配する必要はありません。

 

ですから、私たちに必要なことは何でしょうか。私たちに必要なことは、「ただ黙っていなさい」ということです。つまり、何かに脅えて叫んだり、自分の感情で動いたりするのではなく、主がなされることを待ち望まなければなりません。霊的な戦いにおいて自分で何とか解決しようとすると、必ずサタンの餌食になります。たとえば、根も歯もない自分についてのうわさが教会の中に蔓延していると、だれがそんなうわさを流したのかと捜し回りたくなるでしょうが、それこそが敵の策略なのです。そうなると大変なことになります。「主よ。すべてをあなたにゆだねます。あなたが戦ってください。」と祈るなら、勝利がもたらされるのです。

 

15節から18節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「なぜ、あなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの子らに、前進するように言え。あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に伸ばし、海を分けなさい。そうすれば、イスラエルの子らは海の真ん中の乾いた地面を行くことができる。見よ、このわたしがエジプト人の心を頑なにする。彼らは後から入って来る。わたしはファラオとその全軍勢、戦車と騎兵によって、わたしの栄光を現す。ファラオとその戦車とその騎兵によって、わたしが栄光を現すとき、エジプトは、わたしが主であることを知る。」」  モーセは、主に叫んでいました。それはイスラエルの民のように不信仰の叫びではなく、信仰の叫びでした。モーセは叫ぶようにして祈っていたのです。そんなモーセに対する主の言葉は、「イスラエルの子らに、前進するように言え」ということでした。前進すると言っても、それは大変なことです。背後から敵が迫っていたのですから。前進するためには海に向かって進まなければなりません。イスラエルの民は、海がまだ分かれていない状態で前進しなければなりませんでした。それが信仰です。海が分かれてから前進するのは信仰とは言いません。それは確認と言います。でも、海がまだ分かれていないのに前進するなら、それは信仰です。信仰とは、望んでいることがらを保証し、目に見えないことを確信させるものだからです。彼らに求められていたのは、主の言葉を信じて前進することでした。

 

いったいどうやって前進して行ったらいいのでしょうか。主はモーセに、「あなたの手を挙げ、あなたの手を海の上に伸ばし、海を分けなさい」と言われました。そうすれば、イスラエルの子らは海の中の乾いた地面を行くことができます。いったいどうしてそのようなことが起こるのでしょうか?ここに「エジプトは、わたしが主であることを知る。」とあります。主とは、「わたしは、あるというものである」です。他の何ものにも依存することなく存在することができるという意味です。すなわち、全能者であられます。この天と地と海と、その中のすべてのものを造られた主は、海を分けることなど簡単におできになるのです。問題は、この主のことばに対して、どのように応答するかです。もし信じて従うなら、主の栄光を見るでしょう。エジプトは主こそ神であるということを知るようになるのです。

 

私たちが信じている神がいかに偉大なお方であるかを思い巡らしましょう。そして、この神にすべてをゆだね、そのおことばに信仰をもって応答したいと思うのです。

 

Ⅲ.紅海を渡る(19-31)  最後に、19節から31節までをみて終わりたいと思います。

「イスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移動して彼らのうしろを進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移動して彼らのうしろに立ち、エジプトの陣営とイスラエルの陣営の間に入った。それは真っ暗な雲であった。それは夜を迷い込ませ、一晩中、一方の陣営がもう一方に近づくことはなかった。モーセが手を海に向けて伸ばすと、主は一晩中、強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地とされた。水は分かれた。イスラエルの子らは、海の真ん中の乾いた地面を進んで行った。水は彼らのために右も左も壁になった。「主はモーセに言われた。「あなたの手を海に向けて伸ばし、エジプト人と、その戦車、その騎兵の上に水が戻るようにせよ。」モーセが手を海に向けて伸ばすと、夜明けに海が元の状態に戻った。エジプト人は迫り来る水から逃れようとしたが、主はエジプト人を海のただ中に投げ込まれた。水は元に戻り、後を追って海に入ったファラオの全軍勢の戦車と騎兵をおおった。残った者は一人もいなかった。イスラエルの子らは海の真ん中の乾いた地面を歩いて行った。水は彼らのために右も左も壁になっていた。こうして主は、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルは、エジプト人が海辺で死んでいるのを見た。イスラエルは、主がエジプトに行われた、この大いなる御力を見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。」

 

イスラエルを導いていたのは、雲の柱だけでなく神の使いもそうでした。この「神の使い」は、雲の柱の中にいる受肉前のキリストのことです。イスラエルの陣営の前を進んでいた雲の柱は、民のうしろに移動し、エジプトの陣営とイスラエルの陣営の間に立つ分離壁となりました。それは真っ暗な雲でした。エジプトの陣営は、この真っ暗な雲の中に迷い込ませられたので、イスラエルの陣営に近づくことができませんでした。

 

次に、モーセが手を海の上に伸ばすと、強い東風が吹いて来て、紅海の水が右と左に分かれて、そこに乾いた地ができました。それでイスラエルの民は、その海の真中の乾いたところを進んで行きました。世界中のだれが、このような奇蹟を体験したことがあるでしょうか。ないでしょう。考えられません。一時的に、浅い海が強風になって陸となることはありえても、深い海が壁となる奇蹟は、地球の歴史の中でこれ一回限りです。神は、ご自分がどのような方であるかを、イスラエル人と全世界の民に知らせるために、この奇蹟を行なわれました。神は全能者であられるのです。  それから主は、モーセに「あなたの手を海に向けて伸ばし、エジプト人と、その戦車と、その騎兵の上に水が戻るようにせよ。」(26)と言われました。モーセがそのようにすると、朝明けに海が元の通りに戻りました。水が元に戻り、後を追って海に入ったファラオの全軍勢の戦車と騎兵をおおったので、彼らはみな海に沈んでしまいました。残った者は一人もいませんでした。こうして主は、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われたのです。イスラエルは、エジプト人が海辺で死んでいるのを見ました。彼らは今こそ真の意味で、エジプトの奴隷の状態から救い出されたことを確信しました。自分たちを支配していた者は海辺に死にました。古い時代の象徴であったエジプトは、すでに海のかなたに葬られたのです。そして、目の前には自分たちが進んで行く新しい世界が広がっていました。それはまさに罪の奴隷であった古い人に死に、新しいいのちに生まれ変わったことを象徴しています。私たちは、キリスト・イエスにつくバプテスマによって、罪の奴隷から解放されたのです。

彼らは見ました。エジプト人が確かにひとりも残らず死んだのを。もう自分たちを襲ってくるものは何

一つありません。完全な勝利です。私たちも古い自分はもう死んでしまったということを、信仰をもって見なければいけません。罪に支配された古い人は、もう死んだのです。それがあなたを支配することは決してありません。私たちは今、それを信仰にもって受け止めなければならないのです。もう罪は葬り去られたのです。罪はもはや私たちを支配することはありません。詩篇103:12に、「東が西から遠く離れているように主は私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。」とあります。また、ミカ7:19には、「もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ込んでください。」とあります。

 

31節をご覧ください。

「イスラエルは、主がエジプトに行われた、この大いなる御力を見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。」

イスラエルの民は、主がエジプトに行われた、この大いなる御力を見て、主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じました。それまでは信じていなかったのでしょうか。それまでも信じていましたが、半信半疑でした。しかし、今、この大いなる御力を見て確信したのです。これは、私たちにとっても言えることです。イスラエルが、主の大きな御力を見て信じたように、私たちはキリストの十字架と復活を信じて信じました。このことがはっきりしていることが大切です。自分がキリストとともに十字架で死に、キリストにあってよみがえったという事実にしっかりと立っているなら、たとえ自分が罪から解放されていないように感じることがあっても、実際には、キリストとともによみがえったという事実を見て、いのちに歩み続けることができるからです。この確信に基づいて生きるとき、神は確かに約束の御霊を注いでくださり、私たちに豊かないのちを与えてくださるのです。

ヨハネの福音書10章~18節 「わたしは良い牧者です」

きょうは、「わたしは良い牧者です」というタイトルでお話しします。すでにお話ししてきたように、ヨハネの福音書には、「わたしは・・・です」という表現が七回出てきます。まず、6章35、41節でしたね、「わたしはいのちのパンです」とありました。それから、8章12節には、「わたしは世の光です」とありました。そして前回見た10章7,9節には、「わたしは門です」とありました。きょうの箇所に出てくる「わたしは良い牧者です」とは、四回目となります。

 

イエス様はここで、ご自分を良い羊飼いにたとえでいらっしゃいます。私たちの周りには羊がいないので、羊飼いとはどのようなものなのかについてあまりよくわかりませんが、当時のパレスチナではよく羊が飼われていたので、イエス様がこのたとえを話された時、これを聞いていた人々はピンときたのではないかと思います。いったい良い羊飼いとはどのようなものなのでしょうか。イエス様はここで良い牧者について三つの特徴を取り上げておられます。

 

Ⅰ.良い牧者は羊のためにいのちを捨てる(11-13)

 

第一に、良い牧者は羊のためにいのちを捨てるということです。11~13節をご覧ください

「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。」

 

この箇所の直前に「わたしは羊たちの門です」とたとえで話されたイエス様は、今度はご自身が羊たちの牧者であると言われました。ただの牧者ではありません。良い牧者です。良い牧者とはどのような者でしょうか。良い牧者は、羊たちのためにいのちを捨てます。牧者ではない雇い人はどうかというと、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりするのです。しかし、良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。

 

旧約聖書に登場するダビデは、元々羊飼いでした。その羊飼いであった時に、実際に熊や獅子と戦って羊を守りました。羊飼いは、羊が奪われたとき、ただ羊を食われましたと言うだけではだめでした。その際に実際に野獣と戦った証拠として、その足取り返してきたとか、耳を取り返してきたというのを見せなければなりませんでした。確かにこの人は戦ったけれども仕方なく食われてしまったとか、そこまでいかないと、羊飼いとしての使命を果たしたことにならなかったのです。それで、結構多くの羊飼いが命を落とすことがあったのです。実際にそういうことを見たという方もいます。その様な経験を通してダビデはこう言いました。

「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。」(詩篇23:1-4)

主はこのような羊飼いでした。ダビデは実際に羊飼いだったのでそのことをよく知っていました。それにしても、良い羊飼いはどうして羊のためにいのちを捨てるのでしょうか。それは雇い人ではないからです。雇い人ではないので自分の利益や報酬のために生きているのではなく、羊のために仕えていたからです。それで狼などがやって来ると、羊たちを危険から守るためにいのちがけで戦ったのです。また、羊を養うために牧草地へ導いて行ったり、いこいの水のほとりに連れて行きました。その時にも危険が伴いますが、いのちがけで羊を守ったのです。

 

しかし、雇い人はそうではありません。雇い人はそこまでしません。羊よりも自分の方が大切なので、そうした危険に直面するとすぐに逃げ出してしまうのです。そこまでして守りたいとは思いません。彼らはただ雇われているだけなので、羊たちのことなど全然心にかけていないのです。このような牧者に養われている羊たちは可哀想そうですね。何かあったらすぐにどこかにいなくなってしまうのですから。いたとしても羊たちのことなど心にかけていません。そこまでして犠牲を払いたいとは思わないのです。本当に羊のことを心にかけていれば、羊が何百匹いても、その1匹1匹を心にかけるはずです。それが出来るのが良い羊飼いです。

 

エゼキエル書34章に次のようにあります。

「次のような主のことばが私にあった。「人の子よ、イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、牧者である彼らに言え。『神である主はこう言われる。わざわいだ。自分を養っているイスラエルの牧者たち。牧者が養わなければならないのは羊ではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊を屠るが、羊は養わない。弱った羊を強めず、病気のものを癒やさず、傷ついたものを介抱せず、追いやられたものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくで、しかも過酷な仕方で彼らを支配した。彼らは牧者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となった。こうして彼らは散らされた。わたしの羊はすべての山々、すべての高い丘をさまよった。わたしの羊は地の全面に散らされ、尋ね求める者もなく、捜す者もない。それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。わたしは生きている──神である主のことば──。わたしの羊はかすめ奪われ、牧者がいないために、あらゆる野の獣の餌食となってきた。それなのに、わたしの牧者たちはわたしの羊を捜し求めず、かえって自分自身を養って、わたしの羊を養ってこなかった。それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。神である主はこう言う。わたしは牧者たちを敵とし、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。もはや牧者たちが自分自身を養うことはなくなる。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らの餌食にさせない。』」まことに、神である主はこう言われる。「見よ。わたしは自分でわたしの羊の群れを捜し求め、これを捜し出す。」(エゼキエル34:1-11)

 

これはエゼキエルを通して語られた主のことばです。イスラエルの牧者たちは何のために牧会しているのか、羊を養うためなのか、それとも自分を養うためなのか?羊たちのことを顧みず、自分を養っている牧者たちに対して、羊を飼うのをやめさせると言われたのです。これは言い換えると、羊飼いになろうとしているのか、雇い人になろうとしているのかということです。非常にきつい言葉です。あなたは羊飼いになろうしているでしょうか、それとも、ただの雇い人でしょうか?

 

私は牧師として、いつもこのことを問われることがあります。一生懸命に養っているようでも、それがただの見せ掛けのような時があるからです。自分の本質を見ると、自分もこのイスラエルの牧者とちっとも変わらない者ではないかと思わされます。真の意味でこのような牧者であり得るのはイエス様だけです。なぜなら、イエス様は羊のためにいのちを捨てられるからです。そうです、これはイエス様の十字架の死の預言だったのです。イエス様は、私たちのために自分のいのちを捨ててくださいました。それほどまでに愛してくださったのです。自分のためにいのちを捨てる方がいることを知るなら、私たちの生き方も少しずつ変えられていくのではないでしょうか。

 

先日、知り合いの牧師が、その話の中で教会に集っている一人の姉妹のことをお話ししてくれました。その姉妹は、自分を受け入れてくれる人には心を開きますがそうでない人には貝のように心を閉ざされるので、自分には心を開いていろいろ打ち明けてくれるのでいいのですが、他の方々には全く心を開かないので困っているとのことでした。それで他の姉妹たちと不協和音が生じ、姉妹たちの中にはそれが原因で教会から出て行こうとする人までいるとのことでした。姉妹たちからすれば、牧師がその姉妹のことで振り回されてしまい、教会全体を見られなくなっているという不満がうっ積していました。とは言っても、他の人が関わってくれるのではあればいいですが、そういう人がだれもいないという状況で、もし自分がやらなければいったいこの姉妹はどうなってしまうのかと思うと放っておくこともできず、結局、牧師自身が追い詰められていたのでした。

その話を聞いていてすごいなぁと思ったのは、この牧師はたとえ自分がどんなに辛くても、その人を決して置き去りにしたり投げ出したりしないで、いつも心にかけ、一つ一つ丁寧に対処しようとしていたことです。また、確かにそのことで教会の中に不協和音が生じても、むしろ、そのことを通してキリストの愛を学ぼうとしていたことでした。ある姉妹がそのことで我慢できなくなり、「わかりました。それじゃ、私はもう教会から出て行きますから」と言ってドアを開けた時、「ちょっと待ってください。このような時こそイエス様の愛を学ぶ時ではないですか。イエス様が互いに愛し合いなさいと言われたように、私たちも互いに愛し合いましょう。」と言うと、その姉妹は、「わかりました」と言ってそのことばを受け止められました。牧師も牧師ですが、姉妹も姉妹ですね。自分の感情に従うのではなくイエス様のみことばに従って行こうという姿勢がすばらしいと思ったのです。

 

そうです、大切なのは、イエス様ならどうされるのかということです。イエス様は私たちのためにいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。私たちの愛は、このイエス様のいのちがけの愛から生まれているのです。イエス様は良い牧者です。であれば、私たちはどうあるべきなのでしょうか。

 

Ⅱ.良い牧者は羊のことを知っている(14-15)

 

第二に、良い牧者は羊のことを知っているということです。14節と15節をご覧ください。

「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。」

 

イエス様は、私たち一人一人を心にかけてくださっているだけでなく、私たち一人一人のことをよく知っておられます。私たちの名前はもちろんのこと、私たちの生い立ちも、私たちの性格も、私たちの個性も、私たちが置かれている環境も、私たちの長所も弱さもすべて知っておられます。すべてを知った上で、愛してくださっているのです。愛している方にすべて知られているなら安心ですね。でも、知らないこともあるでしょう。おそらく、人間の社会において一番よく知っているのは夫婦ではないかと思いますが、夫婦はお互いのことを一番よく知っているようで、意外に知りません。「もう何年も一緒にいるのに、うちの旦那は私のことをちっともわからないの・・・」とか、「お父さんは、何年も一緒にいるのにお母さんの好きな料理もわかんないんだから」と言うのを聞くことがあります。分かっているようでわかっていません。

 

しかし、イエス様は私たちのことを完全に知っておられます。どのくらい知っておられるのかというと、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じようにです。父である神は御子であられるイエス様をどれほど知っておられるでしょうか。また、御子なるイエス様は、父なる神をどれほど知っておられるでしょう。父なる神も子なる神も完全であられますから、完全に知っておられるわけです。しかもただ単に知的に知っているということ以上に、そこには親密な交わりがあります。深い関心と愛情をもっておられるということです。イザヤ書の中にこのようなみことばがあります。

「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。」(イザヤ49:15)

人があなたのことを忘れても、母親が乳飲み子を忘れても、わたしはあなたを忘れません。あなたに深い愛情を持っておられるのです。これはまさに目からうろこではないでしょうか。

 

しかし、ここには単に牧者であられるイエス様が、羊である私たちのことを知っているというだけでなく、羊である私たちも、牧者であられるイエス様のことを知っているとあります。皆さんは、自分の牧者であるイエス様のことを、どれだけ知っているでしょうか。3、4節には、牧者が自分の羊たちを連れ出し、その先頭に立って行くと、羊たちはそれについて行くとあります。彼の声を知っているからです。今、世の中にはいろいろな声があふれています。けれども私たちは、イエス様の声を聞き分けなければなりません。どうしたらイエス様の声を聞き分けることができるでしょうか。それはいつも本物にふれていることです。何が本物ですか。

 

先月から、中国人の任さんと聖書を学んでいます。中国の娘さんから教会に行ってほしい、イエス様を信じてほしいと言われ、教会を探しているんだけれども、教会にもいろいろあるでしょう、危ない。だから、間違いのない教会を探しているんですと、ある日、教会を訪ねて来られました。すると、この教会は本物かと聞くのです。本物かって、自分たちは本物だと思って聖書を学んでいますが、どの団体も自分たちが本物だと信じているわけですから、何を根拠に自分たちが本物であるかを説明するのは難しいです。

すると、娘さんは中国の教会で、聖歌隊で歌っているのですが、そのユーチューブの動画を見せてくれました。それは「歌いつつあゆまん」という賛美でした。私がそれに合わせて歌ったら、「それ、ホンモノね」と言って、一緒に学ぶことになりました。別に「歌いつつ歩まん」を賛美しているから本物だというわけではないでしょうが、少なくても、イエス様を救い主として信じている教会というのは間違いないということで、信じていただけたのでしょう。でも、本当は聖書を見なければなりません。聖書にあるイエス様とはどのような方なのかを知り、イエス様を信じ、イエス様と共に歩み、イエス様に信頼して生きていくことが大切なのです。そのようにして、私たちがイエス様を深く知る時に、イエス様の心が見えてきます。皆さんもそうではないですか。人と親しく交わっていく時に、その人の気持ちや思いが言わなくても分かってきます。そのような関係が出来てくるのです。私たちはそこまでイエス様のことを深く知っていきたいと思うのです。

 

韓国のアン・リスクさんという人が書いた「たとえそうでなくても」という本があります。著者のアン・リスクさんは日本が韓国で神社参拝を強制した時に、それを拒否し信仰を貫いたために、日本の牢獄に入れられました。その牢獄の中に日本語を話せない満州人の女性がいました。ご主人殺しで捕まったようですが、後ろ手に縛られて食べるのも犬食い。下の物も垂れ流しです。アン・リスクさん自身も本当に辛い苦しいところを通っているのは事実です。しかし彼女の部屋は天国の出張所とも言われていました。というのは彼女の部屋に来る人が皆変わってしまうからです。アン・リスクさんの影響で、怖い顔が穏やかな表情に変わっていくのです。

そんな中でアン・リスクさんはイエス様がここに来られたらだれの所にいくであろうと考えました。当然自分は一番神様を愛しているし、神様に従っているから自分の所に来るかなと思いましたが、直ぐにそうじゃないと気づかされました。それじゃどうされるかと言えばと、あの満州の女性の所に行くのではないかと気づかされたのです。この人こそが一番可哀想な人。イエス様は必ずその人の所に行くと思った時に、自分が今成すべきことは、この人に愛を与えることだと気づかされました。看守達もアン・リスクさんの人格に感動していましたから、かなり彼女の言うことを聞いてくれるようになっていました。それで彼女は看取にあの人を自分の部屋に連れて来て下さいと頼みました。それで連れて来てもらいましたが、その途端から目が痛くて仕方がないのです。アンモニア臭がすごかったからです。彼女はその時から満州語で「私はあなたを愛しています。」と言い続けました。それも本音を言うとそんなには愛していなかったのだけれども、内に来てくれている聖霊様は愛してくれているはずだからと、そのことを言っていたのですが、その内に「あなたを愛しています。」と言う度毎にアン・リスクさんの目から涙が落ちます。そして彼女のことを本当に想い始めて遂にはその人のために、1日1食しか出てこない食事を断食してその人に与えました。3日、4日経っても「ありがとう」も何もない。当たり前のように食べている。しかし5日目、6日目になってきて始めて何故この人が自分にこんなことをするのだろうかと、変わり始めて彼女もまた捉えられていきました。

本当にイエス様の心を知るからこそ、アン・リスクさんはそのように出来たのです。私たちも本当にイエス様の心を知っていくなら、喜んで犠牲を払ったり、人に仕えたりしていくことが出来るのではないでしょうか。これが信仰生活の鍵です。どれほどイエス様を知っておられるかということです。あなたはどうでしょう。どれほど知っておられるでしょうか。私たちもそのように主を知っていく者となっていきたいと思うのです。

 

Ⅲ.良い牧者は一つの群れ、一人の牧者となる(16-18)

 

第三のことは、良い牧者は、一つの群れ、一人の牧者となるということです。16節から18節までをご覧ください。

「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」」

 

「この囲いに属さないほかの羊たち」とは、神の選民であるユダヤ人とは区別された異邦人クリスチャンのことです。イエス様は、それらも導かなければなりません、と言われました。それらも導いて、一つの群れ、一人の牧者となるのです。どういうことでしょうか。イエス様はユダヤ人だけでなく、異邦人をも救いに導き、一つの群れ、一つの牧者となられるというのです。それが、イエス・キリストを頭とするキリストのからだ、教会のことです。どのようにして一つの群れとするのでしょうか。それはイエス様が十字架にかかって死なれることによってです。イエス様はただ単に選民であるユダヤ人を救うためにこの世に来られたのではなく、「この囲いに属さないほかの人たち」、すなわち、異邦人をも救うために来られたのです。そして、それらの人々を一つの群れにするためでした。教会とはまさに、イスラエル人の信者と異邦人の信者が、キリストをかしらとする「新しい一人の人」とされたものなのです。

 

このことについてパウロは、エペソ2章14~16節で次のように言っています。「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、

ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。」(エペソ2:14-16)

 

イエス様がここで「一つの群れ、一人の牧者となる」と言われたのは、このことだったのです。ユダヤ人信者と異邦人の信者によって造り上げられる新しい一人の人です。それがキリストの教会です。それは、キリストの十字架によって成し遂げられました。十字架こそ敵意を打ち砕き、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄し、二つのものを一つにすることを実現してくださるものでした。この十字架によって、私たちは一つになることができるのです。そして一つになることが主のみこころだということがわかると、私たちもまた様々な偏見や憎しみを捨てて、お互いに愛し合い、一つとなるために務め励むことができるのではないでしょうか。

 

教会では先月からイングリッシュ、ワーシップが行われていますが、これはすばらしいことだと思います。なぜなら、様々な国の人たちが一つの所に集まり、言葉の違い、文化の違い、習慣の違いを乗り越えて、イエス・キリストにあって一つになろうとすることだからです。そのために、イエス様が十字架で死んでくださいました。キリストの十字架によってすべての敵意が廃棄されました。キリストの十字架によって私たちは一つとされ、互いに愛し合い、互いに仕え合うことができるようになったのです。ハレルヤ!これがイエス様のみこころです。今、韓国との関係が最悪だと言われています。中国との関係も微妙です。アメリカとの関係も貿易の問題があります。でも、私たちはキリストにあって一つになることができるのです。すばらしいですね。ここに本当の平和があります。本当の平和は政治的にはもたらされるものではありません。経済によっても無理です。ただイエス・キリストによってのみもたらされます。イエス様が十字架にかかって流されたその血によって、すべての敵意が取り除かれたので、私たちは一つになることができるのです。これが本当の平和です。イエス様はそのために来てくださいました。それは、決して教理を無視し、ただ一つになれば良いということではありません。イエス・キリストの十字架の贖いを信じ、聖書に啓示されてあるキリストのみこころに従って一つになるということです。聖書の御言葉に堅く立ち、御霊による一致を求めることです。そうした御言葉に立っている人たちと一致協力し、世界宣教に励まなければなりません。

 

あなたは、イエス・キリストの十字架によって神と和解しましたか。そして、兄弟姉妹との間に、またあらゆる人との間に平和がもたらされたでしょうか。どうかイエス様を信じてください。イエス様は良い牧者です。良い牧者は私たち羊のためにいのちを捨ててくださいました。また、良い牧者は、羊である私たちのことをよく知っておられます。そして、良い牧者は、さまざまな破れ口に立って、その関係を修復してくださいます。良い牧者であられるイエス様は、いつもあなたを緑の牧場へと導き、いこいの水のほとりに伴ってくださいます。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、わざわいを恐れることはありません。主がともにおられますから。」この方によって導かれる人生はどんなに幸いでしょう。この方を信じ、この方にすべてをゆだね、この方に全く信頼しましょう。イエス様は必ずあなたを救ってくださいますから。なぜなら、イエス様は良い牧者であられるからです。

Ⅰサムエル記3章

サムエル記第一3章から学びます。

 

Ⅰ.イスラエルの霊的状態(1-3)

 

まず、1~3節までをご覧ください。

「さて、少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。その日、エリは自分のところで寝ていた。彼の目はかすんできて、見えなくなっていた。神のともしびが消される前であり、サムエルは、神の箱が置かれている主の神殿で寝ていた。」

 

少年サムエルはエリのもとで主に仕えていました。これはエリの二人の息子との対比として描かれています。2章で見たように、エリの二人の息子ホフニとピネハスはよこしまな者たちで、主を知りませんでした。そのために彼らは、人々が主に和解のいけにえをささげるためにやって来ると、まだ煮ていない肉を奪ったり、会見の天幕の入口で仕えていた女たちと寝るというようなことをしていたのです。そんな彼らに神のさばきが語られました。神の人がエリのところに来て、彼の家の者たちが祭司職から除かれ、長生きすることができなくなると預言しました。そのしるしは何か、それは、彼の息子ホフニとピネハスが死ぬということです。この後、それが実際に成就します。

 

一方、サムエルはというと、まだ幼い少年でしたが、主の前に仕えていました。その特徴は何でしょうか。3節にあるように、神の箱が置かれている主の神殿で寝ていたということです。3:18には、彼は亜麻布のエポデを身にまとっていたとあります。彼は自分が祭司であるという自覚をしっかりと持っていたのです。そのような主のしもべサムエルに、主はご自身の言葉を語り、イスラエルの民の間に眠っていた霊的眼を開かせようとします。

 

「そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。」これが当時のイスラエルの霊的状態でした。主が語られるということがほとんどありませんでした。なぜでしょうか。この時代は、モーセとヨシュアの時代が終わり、イスラエルがカナンの地に入ってからしばらく経っていました。人々はそれぞれ自分の目に良いと思われることを行い、主を求めることがありませんでした。それが士師記の時代です。その結果、敵に侵略されては主を求め、そのたびに主はさばきつかさ(士師)たちを遣わすのですが、それで少しでも状態が良くなるとまた自分の目に正しいことを行うということを繰り返していたのです。ですから、主のことばはまれにしかなく、幻も示されていませんでした。

 

エリを見てください。大祭司エリの目もかすんできて、見えなくなっていました。これは彼の肉眼が見えなくなっていたというだけでなく、霊的な眼がかすんでいたことも表しています。彼は霊的洞察力をなくし、自分の息子たちの暴走も止めることができなくなっていました。イスラエルの霊的状態は、「神のともしびが消される前」、つまり、風前のともしびのような状態でした。「神のともしびが消される前」とは、神の宮にあった燭台の火がかろうじて燃え続けていたことを表しています。イスラエルには、それでもまだ真の信仰者が残されていました。その一人がサムエルです。サムエルは、神の箱が置かれている主の神殿で寝ていました。これはサムエルが主のしもべとして主に仕えていたこと、そして、彼が預言者の時代を招き入れ、イスラエルに霊的なともしびを燃え立たせる器であるということを表しています。

 

これは現代の日本の霊的状態にも言えることです。それがどんなに暗くあろうとも、絶望する必要はありません。神はサムエルのような信仰者を起こし、神のみことばを通して、霊的ともしびが燃え立たせる日が必ずやってくるからです。私たちの使命は、それがどんなに小さなともしびであろうとも、その日が来るまで、それを灯し続けることなのです。

 

Ⅱ.主に召されたサムエル(4-14)

 

次に4節から7節までをご覧ください。

「主はサムエルを呼ばれた。彼は、「はい、ここにおります」と言って、エリのところに走って行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは「呼んでいない。帰って、寝なさい」と言った。それでサムエルは戻って寝た。主はもう一度、サムエルを呼ばれた。サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは「呼んでいない。わが子よ。帰って、寝なさい」と言った。サムエルは、まだ主を知らなかった。まだ主のことばは彼に示されていなかった。」

 

サムエルは、まだ主を知らなかったので、主のことばを聞き分けることができませんでした。彼は、主の宮で祭司エリの内弟子として仕えていました。その彼に、主からの呼びかけがありましたが主の声なのか、人間の声なのか聞き分けることができなかったのです。サムエルはエリのために忠実に働き、主の幕屋に仕えていましたが、それが同時に、彼が主のことを知っていたということではなかったのです。主と個人的な関係は、主の呼びかけを自分が聞き取ることから始まります。ただ神について聞くというだけでなく、神からの語りかけを自分に対する語りかけとして受け止め、それに応答することによって、そこに神との生きた、人格的で、個人的な関係を持つことができます。それが主を知るということです。それがなければ、子どもであっても、大人であっても、どんなに教会生活を送っていたとしても、主を知ることはできません。ですから、サムエルはまだ主を知らなかったのですが、その素地が整っていました。それは祭司エリの言うことにきちんと従っていたことです。神によって立てられた権威に従うことによって、幼子は神を知ることができるようになります。特に子にとっては、両親の言うことに聞き従うことが、とても重要です。

 

8節から14節までをご覧ください。

「主は三度目にサムエルを呼ばれた。彼は起きて、エリのところに行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは、主が少年を呼んでおられるということを悟った。それで、エリはサムエルに言った。「行って、寝なさい。主がおまえを呼ばれたら、『主よ、お話しください。しもべは聞いております』と言いなさい。」サムエルは行って、自分のところで寝た。主が来て、そばに立ち、これまでと同じように、「サムエル、サムエル」と呼ばれた。サムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と言った。主はサムエルに言われた。「見よ、わたしはイスラエルに一つのことをしようとしている。だれでもそれを聞く者は、両耳が鳴る。その日わたしは、エリの家についてわたしが語ったことすべてを、初めから終わりまでエリに実行する。 わたしは、彼の家を永遠にさばくと彼に告げる。それは息子たちが自らにのろいを招くようなことをしているのを知りながら、思いとどまらせなかった咎のためだ。だから、わたしはエリの家について誓う。エリの家の咎は、いけにえによっても、穀物のささげ物によっても、永遠に赦されることはない。」」

 

主が三度サムエルを呼ばれると、彼は前と同じようにエリのところへ行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言うと、エリは、これはどうもおかしいぞ、これは、主が彼を呼んでおられるに違いないと思いました。それでエリはサムエルに言いました。「行って寝なさい。そして、今度主がおまえを呼ばれたら、「主よ、お話しください。しもべは聞いております」と言うように、と言いました。

 

すると、主が再び彼のもとに来られ、これまでと同じように、「サムエル、サムエル」と呼ばれたので、サムエルは、「主よ、お話しください。しもべは聞いております」と言いました。これは、「あなたが言われることは、何でも聞きます」という姿勢に他なりません。つまり、自分が聞きたいことと、聞きたくないことを選り分けるというのではなく、主が言われることならば何でも聞いて従います、ということです。これが、サムエルが召された時の応答でした。これは小さな応答でしたが、サムエルという信仰の偉人も、この小さな応答から主のしもべとしての生涯を歩み始めたのです。あなたはどうですか。主があなたの名を呼ばれるとき、どのように応答されるでしょうか。サムエルのように、「主よ、お話しください。しもべは聞いております」という応答して、小さな一歩を歩み始めようではありませんか。

 

すると主はご自身のみこころをサムエルに伝えました。それは11節から14節にあるように、息子たちの罪と、親としてそれを放置した罪のために、エリの家は必ず裁かれ、その咎を償うことはできない、ということでした。11節の、「だれでもそれを聞く者は、両耳が鳴る」というのは、これがあまりにも衝撃的で、耳にこだまして残る、という意味です。それが非常に厳しい内容であったことを示しています。主はあわれみ深く、忍耐深い方ですが、その忍耐を軽んじてはなりません。時が来れば確実に裁かれることになります。ですから、その前に悔い改めて、神に立ち帰らなければなりません。

 

Ⅲ.預言者サムエル(15-21)

 

最後に15節から21節まで見て終わりたいと思います。

「サムエルは朝まで寝て、それから主の家の扉を開けた。サムエルは、この黙示のことをエリに知らせるのを恐れた。エリはサムエルを呼んで言った。「わが子サムエルよ。」サムエルは「はい、ここにおります」と言った。エリは言った。「主がおまえに語られたことばは、何だったのか。私に隠さないでくれ。もし、主がおまえに語られたことばの一つでも私に隠すなら、神がおまえを幾重にも罰せられるように。」サムエルは、すべてのことをエリに知らせて、何も隠さなかった。エリは言った。「その方は主だ。主が御目にかなうことをなさるように。」サムエルは成長した。主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とすことはなかった。全イスラエルは、ダンからベエル・シェバに至るまで、サムエルが主の預言者として堅く立てられたことを知った。主は再びシロで現れた。主はシロで主のことばによって、サムエルにご自分を現されたのである。」

 

翌朝、少年サムエルは何もなかったような顔をして、いつものように主の宮の扉を開けていました。彼は、主から受けた預言のことばをエリに知らせるのを恐れていたのです。しかし、エリは何としてもそのことばを聞きたいと思ってこう言いました。「主がおまえに語られたことばは、何だったのか。私に隠さないでくれ。もし、主がおまえに語られたことばの一つでも私に隠すなら、神がおまえを幾重にも罰せられるように。」(17)すごいですね、彼は神罰にかけてすべてを話すようにと迫ったのです。それでサムエルは、主から聞いたことを何も隠さずにすべて、エリに伝えました。

 

するとエリはどのように反応したでしょうか。エリはこう言いました。「その方は主だ。主が御目にかなうことをなさるように。」彼は、それを信仰によって受け止めました。彼はまず、「その方は主だ」と、主の権威を認めています。そして「主が御目にかなうことをなさるように。」と、その知らせをそのまま受け入れ、すべてを主の御手にゆだねたのです。

 

一方、サムエルは成長しました。主が彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とすことはありませんでした。これは、サムエルが主にあって、肉体的にも霊的にも成長したということです。主がともにおられること、これが信仰者にとって最も重要なポイントです。そして、彼が語ることばは一つも地に落ちることがなかったというのは、彼の預言がすべて成就したということです。これは彼が真の預言者であったということのしるしです。申命記18:22には、真の預言者のしるしは、その語った預言が成就したということでした。主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは偽預言者です。

 

やがて全イスラエルが、彼が主の預言者として立てられたということを知るようになります。ダンからベエル・シェバに至るまでとは、イスラエルの北の端から南の端まで、すなわちイスラエル全体がという意味です。

 

主は再びシロでサムエルに現れました。主はシロでご自身のことばによってサムエルに現れたのです。そのころは、主のことばはまれにしかなく、幻も示されていませんでしたが、ここに、その回復が見られます。主はサムエルというひとりの預言者を立て、彼を通してご自身のことばを語り、ご自身を現してくださったのです。本格的な預言者の時代の到来です。サムエルは幼い頃から主の声を聞くことを学んでいましたが、主の声は聞けば聞くほどより鮮明に聞こえてきます。ですから、幼子たちの霊的訓練を怠ってはなりません。それは大人であっても同様です。大人であっても、救いに導かれた霊的幼子たちに対して、みことばによる訓練を怠ってはなりません。そして、主の声を聞く訓練というものを自らに課すことによって、霊的成熟を求めていく者でありたいと思います。

ヨハネの福音書10章1~10節 「わたしは門です」

きょうから10章に入ります。きょうは「わたしは門です」というタイトルでお話ししたいと思います。イエス様は、ご自身のことを「わたしは門です」と言われました。これはどういうことでしょうか。きょうはこのことについて三つのことをお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.わたしは門です(1-2)

 

まず1節と2節をご覧ください。イエス様がその門です。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。」

 

きょうの箇所は9章からの続きです。9章には、生まれながら目の見えなかった人が、イエス様によって見えるようになったことが記されてあります。しかし、それが安息日であったことからパリサイ人と論争になりました。41節には、「イエスは彼らに言われた。『もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、「私たちは目が見える。」と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」』とあります。パリサイ人たちは、イエス様のことばを正しく受けとめることが出来ませんでした。きょうの箇所は、そのパリサイ人たちの教えや考え方に注意するために、イエス様が語られたことです。

 

イエス様はここで、「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。」と言われました。

イエス様が「まことに、まことに」と言われる時は、重要な真理を語られる時です。「羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者」とは、先ほども申し上げたように、これは9章の続きですから、パリサイ人たちのことを指していることは明らかです。

 

パレスチナでは、羊たちの囲いがありました。それは石などを積み上げた高い塀で囲まれており、夜になると羊飼いは羊たちをその囲いの中に入れました。野獣などから守るためです。その囲いには門があって、そこでは門番が門の戸の開け閉めをしました。しかし、彼らはこの門から入らないでほかのところを乗り越えて入り込み、羊たちを奪っていく者たちがいました。具体的にそれがどういうことかというと、7節に「わたしは羊たちの門です」とあるように、また、9節にも「わたしは門です」とあるように、イエス様を通らないでこの囲いの中に入ろうとする者たちのことです。これは、9章でイエス様に食ってかかったパリサイ人たちのことを指しています。彼らはイエス様を受け入れることができませんでした。安息日に盲人の目を癒すような者が、どうして神から遣わされた者だと言えるのか、そんなはずがないと言って、目が開かれた人を会堂から追い出してしまいました。彼らは門から入って来たのではなく、ほかのところを乗り越えて入って来たのです。彼らはイエス様を信じることができませんでした。イエス様こそ、旧約聖書の預言の通りに来られた方であり、恵みとまことによって羊たちを導かれる方なのに、そのイエス様を受け入れることができなかったのです。彼らはモーセの律法ではなく、先祖たちの言い伝えがまとめられた別の律法(ミシュナー)を振りかざしては、神の民である羊たちの囲いの中に入り込んでいました。それは門ではないほかのところから乗り越える行為でした。イエス様はそんな彼らのことを、「盗人であり強盗です」と言われたのです。

 

ちょうどこのメッセージを書いている時、同盟からメールが届き、クオンパという韓国系の異端が日本で活動しているので、警戒してくださいという連絡がありました。「クオンパ」という団体がどういう団体なのか詳しくはわかりませんが、「クオンパ」というのは日本語で「救援」という意味だそうですが、この救援(クオンパ)派のパク・オクス(朴玉洙)という人が主導している団体で、クリスチャン・リーダーズ・フォーラムという集会の案内(国立オリンピックセンターでの開催)を各教会に送っているとのことでした。韓国の主要教団ではすでに異端であると決議された団体です。日本ではグッドニュース宣教会・東京恩恵教会という団体になりましているそうですが、ちょっと聞いただけではキリスト教会と同じ団体のように思ってしまいます。しかし、これらは羊のなりをした狼であって、巧妙な手口で羊たちの囲いの中に入り、羊たちを奪っていくのです。その最大の特徴は何かというと、羊たちの囲いに、門から入らないで、ほかのところを乗り越えて来ることです。キリストという門から入らないのです。

 

イエス様は、世の終わりには、「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、「私こそキリストだ」と言って、多くの人を惑わします。」(マタイ24:5)と言われましたが、まさに世の終わりが近づいているということの兆候なのでしょう。その特徴は何かというと、「私こそキリストだ」と言って、多くの人を惑わすことです。彼らはそのように言うものの羊の囲いの門から入るのではなく、ほかのところから乗り越えて入ってきます。しかし、門から入るのが羊たちの牧者です。私たちはそうした者に惑わされることがないように、その人がどこから入って来たのかをよく見極めなければなりません。

 

Ⅱ.羊たちはその声を聞き分ける(3-5)

 

では、どのようにしてそれを見分けることができるのでしょうか。それは「声」です。3節から5節までをご覧ください。

「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」

 

ここには、羊たちがどのようにして自分たちの牧者を見極めることができるのかが教えられています。それはその声です。門番が牧舎のために門を開くと、羊たちはその声を聞き分けます。羊たちはその声を知っているので、牧者のあとについて行きますが、ほかの人にはついて行きません。かえって逃げ出してしまいます。なぜなら、ほかの人たちの声は知らないからです。つまり、その声によって聞き分けるのです。

 

私は羊を飼ったことがありませんが、犬を飼ったことがあります。犬を飼っていたとき本当に不思議だなぁと思ったのは、犬は飼い主に忠実であることと、飼い主の声をよく知っていることです。真っ暗な闇の中でだれかが家の玄関に近づこうものなら「ワン、ワン」と激しく鳴きますが、私が近づくとすぐに泣き止みます。そして、私の姿を見ただけで尻尾を振って喜ぶのです。

ある時、声だけで私のことがわかるかどうか実験したことがあります。近くで物音を立てますが、姿を見せないで声だけ出すのです。やっぱりわかるのです。私の声がいい声だからではありません。かすれたような声でも私の声をすぐに聞き分けることができました。羊も同じです。たとえ姿が見えなくても、声を聞けばわかります。彼らは聞き分けることができるのです。

 

これは神の民であるクリスチャンにも言えることです。世の人々には不思議に思われるかもしれませんが、クリスチャンは霊的な直観力を持っているのです。それによって真の教えか偽りの教えかを識別することができます。彼らは健全でない教えを聞くと「これは間違っている」という内なる声を聞き、真理が語られる時には「これは正しい」という声を聞くのです。この世の人たちは、それぞれの牧師の説教にどのような違いがあるのかなんてさっぱりわかりませんが、クリスチャンにはその違いがわかるのです。何が違うのか、どのように違うのかを説明することができなくても、「あっ、ちょっと違う」と感じるのです。なぜそのように感じるのでしょうか。それは、クリスチャンには聖霊なる神が住んでおられるからです。

 

Ⅰヨハネ2章20節を開いてください。ここには、「あなたがたには聖なる方からのそそぎの油があるので、だれでも知識を持っています。」とあります。「聖なる方からの注ぎの油」とは、聖霊のことです。クリスチャンにはこの聖霊の内住があるので、だれでも判別することができます。どんなに愚かな羊のようであっても、クリスチャンであるならこの聖なる油が注がれているのでわかるのです。ですから、偽りの牧者の影響から守られるように祈らなければなりません。苦みと甘みの区別ができなくなっているとしたら、それは健康を損なっていることの一つの兆候だと言えます。それと同様に、それが律法なのか、それとも福音なのか、それが真理なのか、それとも偽りなのか、それがキリストの教えなのか、それとも人の教えなのかを識別できないとしたら、それは霊的な健康を損なっているしるしであって、救いについて真剣に吟味する必要があります。もし救われているなら、その人には聖なる方からのそそぎの油があるので、それを聞き分けることができるはずだからです。

 

ところで、3節には、牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出すとあります。羊にはそれぞれ名前があるんです。太郎とか、花子とか、一郎とか、洋子とか・・。そして、羊飼いはその一匹、一匹の羊の名前を覚えているのです。忘れてしまったとか、思い出せないということはありません。一匹、一匹の名前を覚えていて、その名前を呼んで外に連れ出すのです。名前を呼ぶというのは、単に名前を呼ぶということだけでなく、その羊のことをよく知っているということでもあります。そうでしょ、「ええと、あなたの名前は何でしたっけ。思い出せない」というのは、その人のことをあまりよく知らないということです。だれも自分の夫の名前、妻の名前を忘れません。奥さんに向かって、「あなたの名前は何でしたっけ」というなら、特別な事情がない限り、そこには何の関係もないことがわかります。ということは、名前を呼ぶというのは、その人の性格や、長所や短所、喜びや悲しみといったことも含めて、よく知っているということなのです。

 

イザヤ書43:1には、「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」とあります。主はあなたの名前を呼ばれるのです。

私が数えたわけではありませんが、名、名前という単語は新約聖書に151回、旧約聖書には428回も出てくるそうです。聖書の世界において名前がとても重要なものであることがわかります。それは、名前というのは、その人の存在、個性、人格などと結び付いているからです。適当にほかの名に変えることはできません。

 

ですから、牧者がそれぞれの羊たちの名前を呼ばれるというのは、かけがえのない存在として呼びかけられるということなのです。名を呼んで、誰でもよいから返事をしろというのではなく、ほかの誰でもない、あなたを呼んでいるということなのです。イエス様はその羊の性質、長所、弱点といったすべてをご存知であられます。人には言えないようなことでも、イエス様はすべてをご存知なのです。その上で、決して私たちを見捨てることなく、祝福の野に連れ出されます。イエス様はあなたの名も呼んでおられます。ですから、その方の声を聞きイエス様ついて行ってほしいと思います。

 

ザアカイは、自分の名を呼ばれてイエス様について行きました。彼は当時の社会で嫌われていました。というのは、神の民であるユダヤ人から税金を取り立てて異邦人であるローマに納める取税人であったからです。そんなザアカイのいるエリコの町にある日イエス様がやって来られるというので彼は見に行きますが、群衆が彼をさえぎったためイエスの姿を見ることができませんでした。そこで彼はいちじく桑の木によじ登ります。すると、そこを通りかかったイエス様は、上を見上げて言われました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」(ルカ19:5)

いったいどうしてイエス様はザアカイの名前を知っていたのかわかりません。もしかしたら、ザアカイのことを誰かから聞いていたのかもしれません。でもこのことはザアカイにとって予想外の大きな出来事でした。彼はイエス様を自分の家に招くと、悔い改め、自分の財産の半分を貧しい人に施し、だれかからおどし取った物があれば、四倍にして返すと言いました。するとイエス様はこう言われました。

「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を探して救うために来たのです。」(ルカ19:9-10)

イエス様はザアカイだけではありません。あなたも探しておられます。あなたを探して救おうとしておられます。イエス様はあなたの名も呼んでおられるのです。

あなたはこの方の声を知っていますか。あなたの名前を呼んでくださる主イエス様の声を聞いて、この方について行ってください。

 

Ⅲ.わたしを通って入るなら救われます(6-10)

 

第三のことは、その結果です。この門から入るならいのちを得、それを豊かに持ちます。6節から10節までをご覧ください。

「イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」

 

イエス様はご自分が羊たちの牧者であり、自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出すと言われましたが、パリサイ人たちは、イエス様が何のことを言っているのかさっぱり分からなかったので、イエス様は再び彼らに言われました。それは、イエス様が羊の門であり、だれでも、イエス様を通って入るなら、救われるということです。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。けれども、盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。イエス様が来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。つまり、イエス・キリストが救いに至る門であるということです。それ以外に道はありません。

 

イエス様はそのことを山上の説教でこう言われました。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)

またこの福音書の少し後でも、このように教えておられます。「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

つまり、イエス・キリスト以外に救われる道はないということです。特にここでは「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます」と、それ以外の所からは救いに入ることのできないことを明言されました。

 

このようなことを聞くと、排他性を嫌う日本人は、そんなことはないと、宗教についても、一休さんが作ったとされる次の歌を引き合いに、協調性、受容することの大切さを主張します。

「分け登る 麓の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな」

これは、真理は一つであっても、そこに至る道はいろいろあってよい。どの道から入ったとしても、それはその人の自由であって、要は究極の真理に到達することである、という意味です。

 

以前、福島にいた時、立正佼成会という仏教系の新興宗教の団体から招かれてお話ししたことがありました。その団体では、毎月1の付く日は他宗教から学ぼうということで、キリスト教からも学びたいのでぜひ来てお話ししていただけないかとお招きを受けたのです。畳敷きの広いスペースに300人くらいの方々が座っていました。みんな優しそうなお顔で、にニコニコして聞いてくださいました。当時私も33歳と若かったので、「自分の息子みたいな年の牧師さんが来てくれた」と喜んでいるようでした。私は何をお話ししようか悩みましたが、折角キリスト教の話を聞きたいというのだから、キリスト以外に救いはないという話をしたのです。そして、お話しの終わりに聖霊によって「祈りなさい」と促されたので、祈ることにしました。「皆さん、どうでしたか。キリスト教のことが少しでもわかってもらえたらうれしいですが、皆さんの祝福をお祈りさせていただいてもよろしいでしょうか」と言うと、皆さん「うん、うん」と首を縦に振るのです。「じゃ祈ります」と祈りました。そして、お祈りの中で、「どうでしょうか、皆さんの中できょうのお話しを聞いて、イエス様もいいな、イエス様を信じたいという方がおられますか、おられるなら、手をあげて教えてもらえますか」と言うと、3人くらいの方が手を上げたのです。それじゃ、その方のためにお祈りします」と祈ったとたん、そこの堂会長と言われる方がすかさず私のところに来て、皆さんにこう言われたのです。

「皆さん、とってもいい話でしたね。それぞれがそれぞれの宗教に従って歩むとは大事なことですよ。でもね、結局、みんな同じところに行くんですよ。ほら、こういう歌があるでしょ」と、この歌を歌われたのです。

その後で別室に招かれまして、この堂会長さんと昼食をいただきましたが、まさに日本の社会、精神風土は、排他性というものを極端に避ける文化なんだなぁということを痛感させられました。

 

しかし、ここでイエス様が言っておられることはそういうことではありません。イエス様は「わたしは羊の門です」とはっきり宣言されました。これはヨハネの福音書の中に7回出てくる「わたしは・・です」(エゴー・エイミー)というイエスの神性宣言の一つです。何が羊の門ですか?わたし様が羊の門です。それ以外に門はありません。イエス様が羊の門であって、イエス様を通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけることができます。これはどういうことかというと、この門から入るならたましいの救いが与えられるというだけでなく、そのたましいが満たされることを経験するということです。これが、イエス様がこの世に来られた目的です。つまり、イエス様が来られたのは、羊たちがいのちを得て、それを豊かに持つためです。ですから、私たちがこの門から入るなら、私たちはキリストの救いの中に入れていただくことができるだけでなく、真の意味で生き生きとした人生を送ることができるのです。すでにいのちを持っている人には、さらに豊かにいのちを与えていただけるのです。これは、キリスト抜きでは絶対に考えられないことです。

 

イエス様は私たちの人生に最高の生き方を与えてくださいます。それが、聖書が教えている救いであり、豊かないのちを持つことです。そのためには、キリストという門から入らなければなりません。門はいくつかあるかもしれません。また道もたくさんあるように見えるでしょう。しかし天国への門は一つしかありません。それは私たちのために天から下って来られ、いのちを捨ててくださったイエス・キリストだけです。この門を間違えてはなりません。

 

キリストという門を通ることなしに、本当のいのちはありません。キリストこそ、私たちが通らなければならない門です。あなたはこの門を通りましたか。まだ外側からただ眺めているだけということはないでしょうか。あるいは、キリスト以外のものに心が向いているということはないでしょうか。「豊かないのち」とは、単に物質的な豊かさを指しているのではなく、霊的な喜びも含めた全人的な祝福のことです。その祝福を実感しているでしょうか。もしそうでないとしたら、もしかしたら、この世のほかのものに魅力を感じているということがあるのかもしれません。キリストが門です。キリスト以外の門を通って出入りしてはいないかを点検し、キリストのことばがいつも私たちの心を支配するようにしましょう。そして、イエス様がくださる豊かないのちを体験させていただきたいと思います。

出エジプト記13章

きょうは、出エジプト記13章から学びます。

 

Ⅰ.わたしのために聖別せよ(1-10)

 

まず1節から10節までを見ていきましょう。イスラエルをエジプトの地から導き出された時、主は

モーセにこのように告げられました。2節、「イスラエルの子らの間で最初に胎を開く長子はみな、

人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それは、わたしのものである。」(2)つまり、初子と

いう初子は、人であれ家畜であれ、主に聖別するようにということです。聖別するとは、主のため

にささげるという意味です。それは世俗的な目的のためではなく、ただ神のためだけに用いられま

す。なぜなら、それは神のものだからです。出エジプトの夜、神がイスラエルの初子を死から救い

出されました。彼らは、鴨居と二本の門柱に塗られた子羊の血によって贖い出されたのです。です

から、それは神のものであって、神のために聖別されなければならないのです。

 

それは、私たちも同じです。パウロは、コリント第一6:19-20で、こう言っています。「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」私たちは、小羊の血によって買い取られました。それゆえに、私たちは神のものであり、神のために自分をささげなければならないのです。

 

3節から10節までをご覧ください。「モーセは民に言った。「奴隷の家、エジプトから出て来た、この日を覚えていなさい。力強い御手で、主があなたがたをそこから導き出されたからである。種入りのパンを食べてはならない。アビブの月のこの日、あなたがたは出発する。主は、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ヒビ人、エブス人の地、主があなたに与えると父祖たちに誓った地、乳と蜜の流れる地にあなたを連れて行かれる。そのときあなたは、この月に、この儀式を執り行いなさい。

13:6 七日間、あなたは種なしパンを食べる。七日目は主への祭りである。七日間、種なしパンを食べなさい。あなたのところに、種入りのパンがあってはならない。あなたの土地のどこにおいても、あなたのところにパン種があってはならない。その日、あなたは自分の息子に告げなさい。『このことは、私がエジプトから出て来たときに、主が私にしてくださったことによるのだ。』これをあなたの手の上のしるしとし、あなたの額の上の記念として、主のおしえがあなたの口にあるようにしなさい。力強い御手で、主があなたをエジプトから導き出されたからである。あなたは、この掟を毎年その定められた時に守らなければならない。」

 

モーセは、イスラエルが約束の地に入った後で守らなければならないことを命じています。それは、過越しの祭りと種なしパンの祭りです。「この日」とは、イスラエルがエジプトを出た日のことです。この日、主が力強い御手で、彼らをエジプトから導き出されました。このことを覚えるために、過越しの祭りと種なしパンの祭りを行わなければならないのです。七日間種なしパンを食べなければなりません。この祭りの期間中は、パン種があってはなりませんでした。そして、この祭りの意味を、子供たちに教えなければなりませんでした。さらに、これを手の上のしるし、額の上のしるしとしなければなりません。それは、主の教えが彼らの口にあるためであり、主が力強い御手で、彼らをエジプトから導き出されたからです。ユダヤ人はこれを文字通り解釈し、皮ひもに小箱がついたものを腕と頭に巻きつけました。腕につけるものは「テフィリーン・シェル・ヤード」と言い、箱の中には羊皮紙の巻物が一つ入っていました。もう一つのものは「テフィリーン・シェル・ローシュ」は額につけました。その箱の中は四つに仕切られ、仕切られたそれぞれの中には四つの聖書のことばが記された羊皮紙が入っていました。ちなみに、その箇所は出エジプト記13:1-10,11-16,申命記6:4-9,11:13-21です。ユダヤ人たちは、週日の朝の祈祷の時にこれをつけて祈りました。安息日や祭礼にはつけませんでした。それは安息日や祭礼そのものが、彼らにとって神とイスラエルの契約の「しるし」だったからです。

しかし、このようなことは現代の教会で行っている洗足式と同様に形骸化しやすいものです。事実、イエス様の時代、彼らはそれを人々に見せびらかすために行っていたので、イエス様はそれを見て、「経札の幅を広くしたりする」と指摘されました(マタイ23:5)。大切なことはその精神であって、このような形式にとらわれる必要はありません。最初は良いものでも、いつしか見せかけのものになってしまうことがあります。私たちは、神がこの私のために何をしてくださったのか、こんなにも大きな救いを与えてくださったことを絶えず心に留めることが大切なのです。

 

Ⅱ.初子の聖別(11-16)

 

次に11節から13節までをご覧ください。 「主が、あなたとあなたの父祖たちに誓われたとおりに、あなたをカナン人の地に導き、そこをあ

なたに与えられるとき、最初に胎を開くものはみな、主のものとして献げなければならない。家畜から生まれ、あなたのものとなるすべての初子のうち、雄は主のものである。ただし、ろばの初子はみな、羊で贖わなければならない。もし贖わないなら、首を折らなければならない。また、あなたの子どもたちのうち、男子の初子はみな、贖わなければならない。」

 

イスラエル人が約束の地、カナン人の地に導かれた時、最初に胎を開くものはみな、それが人

であれ、あるいは家畜であれ、主のものとして献げなければなりません。なぜなら、それは主のも

のだからです。主のものとしてささげるというのは、それをほふるということです。家畜の場合はそ

れができますが、ある特定の動物や人の場合はそれができません。そのような時はどうすれば良

いのでしょうか。

ここにはそのことが教えられています。13節を見ると、まずろばの初子はみな、羊で贖わければ

なりませんでした。なぜなら、ろばは汚れた動物とされていたからです。汚れた動物の初子はほふ

ることができません。それは羊で贖われなければなければならなかったのです。もし贖わない場合

は、その首を折らなければなりませんでした。ここにはろばのことしか書かれていませんが、それ

はろばが汚れた動物の代表として書かれているからです。おそらく、頭数が最も多かったのでしょ

う。その他に、馬、らくだなどもいました。

人の場合は、男子の初子はみな、贖われなければなりませんでした。贖いの代価は、民数記

18:6によると、5シェケルでした。1シェケルは3日分の賃金に相当すると言われていますから、5

シェケルは15日分の賃金に相当することになります。仮に1日5千円だとすると、現代の値で7

万5千円くらいになるかと思います。それを代価としてささげなければならなかったのです。

 

いったいなぜこのようなことをしなければならないのでしょうか。その目的が14節から16節まで

にあります。すなわち、「後になって、あなたの息子があなたに『これは、どういうことですか』と尋

ねるときは、こう言いなさい。『主が力強い御手によって、私たちを奴隷の家、エジプトから導き出

された。ファラオが頑なになって、私たちを解放しなかったとき、主はエジプトの地の長子をみな、

人の長子から家畜の初子に至るまで殺された。それゆえ私は、最初に胎を開く雄をみな、いけに

えとして主に献げ、私の子どもたちの長子をみな贖うのだ。』このことは手の上のしるしとなり、あ

なたの額の上の記章となる。それは主が力強い御手によって、私たちをエジプトから導き出された

からである。」

つまり、子孫に出エジプトの出来事を伝えるためでした。その内容は、出エジプトの際に、主は

エジプトの初子という初子を人から家畜に至るまで打たれたということ、それゆえに、イスラエル人はみな初子を贖うのだということです。このことは、手の上のしるし、額の上の記章となります。

 

このことからわかることは、新約の時代に生きる私たちクリスチャンも、主の圧倒的な力によっ

て罪の中から贖い出された者であるということ、そして、そのために神の子羊であられるイエス・キリストの血が流されたということです。それゆえに、私たちは主のものであり、自分のからだをもって主の栄光を現さなければなりません(Ⅰコリント6:20)。自分のからだはすでに買い取られたと認めるなら、私たちの生き方はどのように変わるでしょうか。それを、次の世代にも伝えていかなければなりません。

 

Ⅲ.荒野の道に(17-22)

 

最後に17節から22節までをご覧ください。17節と18節には、「さて、ファラオがこの民を去らせたとき、神は彼らを、近道であっても、ペリシテ人の地への道には導かれなかった。神はこう考えられた。「民が戦いを見て心変わりし、エジプトに引き返すといけない。」それで神はこの民を、葦の海に向かう荒野の道に回らせた。イスラエルの子らは隊列を組んでエジプトの地から上った。」とあります。

 

こうして、主は彼らをファラオのちころから去らせ、約束の地へと導かれるとき、彼らを近道であっても、ペリシテ人の地には導かれませんでした。なぜでしょうか?なぜなら、民が戦いを見て心変わりし、エジプトに引き返すといけないと考えられたからです。カナンの地に至る最短のコースは、ペリシテ人の地を北上することでした。そこを通れば、10日もあればカナンの地に到着することができます。しかし、その途中にはペリシテ人の都市国家が点在していました。エジプトから出たばかりのイスラエルにとって強大なペリシテ人に立ち向かうことは「死」を意味していました。それで主はどうされたかというと、最短コースではなく、より安全な道に導かれたのです。それは葦の海に向かう荒野の道を回るルートでした。それはただ単に強大なペリシテ人との戦いを避けるためだけではなく、その荒野の中で主が先頭に立って戦ってくださること、主が彼らを導いてくださるということを、彼らが学ぶためでもありました。

 

19節から22節を見てください。

「モーセはヨセフの遺骸を携えていた。それはヨセフが、「神は必ずあなたがたを顧みてくださる。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上らなければならない」と言って、イスラエルの子らに堅く誓わせていたからである。彼らはスコテを旅立ち、荒野の端にあるエタムで宿営した。主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。」

 

モーセは、ヨセフの遺骸を携えていました。これは、創世記50:24~25にあるヨセフとの約束を実行するためでした。ヨセフはエジプトで死にましたが、ミイラになった自分の遺骸がエジプトに残っているのをよしとしませんでした。彼は、「神は必ずあなたがたを顧みてくださる。」と確信したのです。それが今、現実のものとなりました。

 

彼らはスコテを旅立ち、荒野の端にあるエタムで宿営しました。昼は、雲の柱が、夜は、火の柱が、彼らの荒野の生活を導きました。これは、主の臨在、つまり、主が彼らとともにおられることを示しています。雲の柱は、彼らが進むべき道の案内役となり、砂漠の中で彼らを灼熱の太陽から守りました。また、夜は民を照らす火の柱となりました。ですから、昼も夜も主が彼らとともにおられたので、彼らが荒野の中にいても迷うことなく、進んでいくことができたのです。

 

クリスチャンの生活は、この荒野の生活から始まります。罪の世界から救い出され、自分のすべてを神にささげる決断をしたわけですが、神が約束されたものを手に入れるまで、荒野の中を進んでいかなければなりません。けれども、主が昼は雲の柱で、また夜は火の柱によってイスラエルを導かれたように、私たちを聖霊によって導いてくださり、また主ご自身のみことばによって導いてくだるので、私たちは何も恐れる必要がありません。22節には、「昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。」とあります。主は、いつも私たちの前から離れることはないのです。イエス様は、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と約束してくださいました。私たちの人生にも、荒野を通る時があります。しかし、そこにも主がともにおられ、私たちを守り、導いてくださると信じて、主により頼みながら、この信仰の旅路を進んでいく者でありたいと思うのです。