ヨハネの福音書6章41~59節「まことの食べ物、まことの飲み物」

きょうは、ヨハネの福音書6章41~59節までの箇所から「まことの食べ物、まことの飲み物」というタイトルでお話しします。

ヨハネは6章前半のところで、イエス様が5つのパンと2匹の魚をもって男だけで五千人の人々の空腹を満たされた奇跡を記しました。その後、長いスペースを割いて群衆や弟子たちに対してイエス様が語られた言葉を記録しています。前回は40節までのところでしたが、そこにはガリラヤ湖のほとりで群衆に対して語られた教えが記録されてありました。そして、きょうのところは、会堂でユダヤ人たちに対して語られた説教です。59節に「これが、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。」とあります。この中でイエス様は、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。」(53)と言われました。これはいったいどういう意味でしょうか。きょうは、このことについて三つのことをお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.引き寄せてくださる神の恵み(41-46)

 

まず41節から46節までをご覧ください。

「ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンです」と言われたので、イエスについて小声で文句を言い始めた。彼らは言った。「あれは、ヨセフの子イエスではないか。私たちは父親と母親を知っている。どうして今、『わたしは天から下って来た』と言ったりするのか。」イエスは彼らに答えられた。「自分たちの間で小声で文句を言うのはやめなさい。わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。預言者たちの書に、『彼らはみな、神によって教えられる』と書かれています。父から聞いて学んだ者はみな、わたしのもとに来ます。父を見た者はだれもいません。ただ神から出た者だけが、父を見たのです。」

 

ユダヤ人たちは、イエス様が「わたしは天から下って来たパンです」と言われたのを聞くと、イエス様について小声で文句を言い始めました。なぜ彼らは文句を言ったのでしょうか。42節には、「あれは、ヨセフの子イエスではないか。私たちは父親と母親を知っている。どうして今、『わたしは天から下って来た』と言ったりするのか。」とあります。つまり、彼らがつぶやいたのは、イエス様をヨセフとマリヤの息子だと考えていたからです。彼らが知っていたのは、イエス様の家柄や職業、あるいは社会的地位といった外見的なものでした。彼らはそうした偏見にとらわれていて、その本質を見ることができなかったのです。そして、神の御子に対して文句を言っていたのです。

 

主はそんな彼らにこう言われました。43節です。「自分たちの間で、小声で文句を言うのはやめなさい。」「文句」や「つぶやき」は、神に喜ばれるものではありません。このような「つぶやき」こそ、大きな罪を育てる種のようなものです。神への反抗は、こうしたつぶやきから始まるのです。つぶやきの種を植え付けておくと、どんな人でも神から離れていってしまうことになります。皆さんはどうでしょうか。文句やつぶやきといった種は蒔かれていないでしょうか。もし蒔かれているなら、聖霊によって取り除いていただくように求めなければなりません。

 

それに続いて主は、さらにこう言われました。44節、「わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。」どういうことでしょうか。この前の節とのつながりがよくわかりません。主はユダヤ人たちに対して、「自分たちの間で、小声で文句を言うのはやめなさい」と言われました。その後で、「わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。」と言われたのです。文と文が繫がっていないように感じます。

 

J・C・ライルという註解者が、ヨハネの福音書の注解書を書いていますが、彼はその中でこの節を補うことばとして次のように説明しています。

「あなたがたがお互いの間でつぶやいているのは、わたしが天から下って来たと言ったからです。あなたがたはわたしの外見上の生まれが低いものであることを、わたしを信じないことの理由としています。けれども、問題はわたしの言ったことにあるのではなく、あなたがたに恵みが欠けていて、あなたがたが不信仰であることにあるのです。それよりも深くて、重大な真理がありますが、あなたがたはそれについて全くわかっていないようです。それは、人がわたしを信じるようになるためには、神の恵みが必要である、ということです。あなたがたが自分自身の堕落を認めて、あなたがたの魂をわたしへ引き寄せてくださる恵みを求めるようにならない限り、決して信じることはありません。誰でも、わたしを信じるようになるためには、議論や推論以上のものが必要であるということを、わたしは知っているのです。あなたがたの不信仰やつぶやきに驚いたり、失望したりはしません。あなたがた、あるいは他の誰かが、わたしの父に引き寄せられることがなくても信じることがあるとは、思ってもいません。」

このように補うことばがあるとわかりやすいですね。おそらく、そうだと思います。すなわち、主を信じるということは、彼らが思っているほど簡単なことではないということです。そのためには神の恵みが必要なのです。自分自身の罪を認め、主の御前にへりくだり、罪の赦しを求めなければ赦されることはありません。彼らが文句を言っていたのはそれがなかったからです。イエス様は何とかそのことを悟ってほしいと、もう遅すぎるということがないように、このように彼らに語られたのです。

 

この「引き寄せる」と訳されている言葉ですが、これは「何か重い物を引きずるようにして引っ張ってくる」という意味があります。なかなか信じようとしない人たちを、神様が引きずるようにして引き寄せてくださるというのです。道徳的な忠告や説得だけでは、主のもとに来ることはできません。神様が働いてくださらなければ、神様が働いてその人の心が動かされ、神様の許に来ようという思いが与えられなければ、神の許に来ることはできないのです。

 

パウロは、コリント人への手紙第一12章3節で、「ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。」と言っています。「イエスは主です」と言うこと、それは要するにイエス・キリストを信じる信仰を公に言い表すことです。そのようにして、私たちはバプテスマ(洗礼)を受け、クリスチャンとなり、教会のメンバーとなります。つまりパウロはここで、私たちがクリスチャンになるのは聖霊の働きによるものであり、聖霊の賜物だと言っているのです。このことは、聖書の教える信仰とはどのようなものかを知るうえでとても大事なことです。信仰は、私たちが自分で獲得するものではないのです。勉強して、あるいは何らかの修行を積んである境地を得ることではないのです。信仰は、与えられるものです。それを与えてくれるのが聖霊なのです。クリスチャンとなるために私たちにできることは、この聖霊の働きを祈り求めることです。神様、私はあなたを信じる者になりたいのです。だから、「聖霊の働きを与えて下さい、聖霊によらなければ誰も語ることができない、「イエスは主です」という告白を私にも与えて下さい」と神様に祈るのです。そのような祈りに、神様は必ず応えて下さいます。聖霊を働かせて、聖霊の賜物である信仰を与えて下さるのです。ですから、バプテスマ(洗礼)を受けたクリスチャンは一人残らず、聖霊の賜物、霊的な賜物をいただいていると言えるのです。

 

けれども、このように「引き寄せられないかぎり」と言うとき、それは囚人を牢獄に引いて行ったり、牛を屠殺場に引いて行くように、力づくで引っ張って行くことではありません。つまり、その人の意志に反して引き寄せるということではないのです。神様は、無理矢理信じさせるようなことはなさいません。そうではなく、反抗し続けていた私たちの心に働いてくださり、その心を変え、心から喜んで信じることができるようにしてくださるのです。これは恵みではないでしょうか。そして、主はあなたをそのようにして引き寄せてくださいました。

 

ですから、主は預言者たちの書にある、「彼らはみな、神によって教えられる」という御言葉を引用してこう言われたのです。「父から聞いて学んだ者はみな、わたしのもとに来ます。」

だれがイエス様のもとに来るのでしょうか。父から聞いて学んだ者です。そういう人はみな、イエスのもとに来ます。これは、一人一人が神様から直接教えられなければならないということです。どんなに説得してもイエス様のもとに来ることはできません。その人がイエス様のもとに来るためには、神様から直接聞かなければならないのです。これが、この世の人々がキリストを信じることができない大きな理由の一つです。神様から聞かないで人の意見ばかりを気にしています。人が書いたもの、人の意見をいくら聞いても、そこには何の解決もありません。それらがキリストの許へ導くことはできないからです。

 

よくテレビで、池上彰さんがニュースを分かりやすく解説している番組があります。ある時、アメリカのケンタッキー州にあるノアの方舟の実物大テーマパーク「アーク・エンカウンター(Ark Encounter)」について解説していました。「キリスト教の人たちは、特に福音派と言われる人たちは、聖書に書いてあることは本当にあったことだと本気で信じているようです。」。すると、パックンが、「そうなんですよね。福音派の人たちはそう信じています。自分もそうでしたが、でも科学的ではないので止めました。」

それが科学的であるか、そうでないかとか、この世の有名な人が何と言っているかではなく、聖書は何と言っているかが重要です。神から聞き、神から学ぶ人は、主のもとに来ることができます。そこに神が働いてくださり、引き寄せてくださるからです。

 

皆さんは、何に聞いていますか。神様から聞いて学んでいるでしょうか。それは聖書を学び、神の御声を聞くということです。そうすれば、あなたも神様のもとに来ることができます。神が引き寄せてくださいますから。そんな神様の特別な恵みを無駄にすることがありませんように。あなたも神の御声を聞き、神のもとに来てください。

 

Ⅱ.わたしはいのちのパンです(47-51)

 

次に、47節から51節までをご覧ください。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。わたしはいのちのパンです。あなたがたの先祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがありません。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」」

 

ここで主は、40節までのところで語って来た「いのちのパン」について再び語られます。しかし、ここではこれまで語ってきたよりももっとはっきりと、またわかりやすく語っておられます。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。」

自分の罪を赦していただき、自分の魂を救っていただきたいと願う人は、キリストのもとに来なければなりません。私たちが罪から救われる唯一の条件は、ただ信じるということです。自分が罪人であると信じ、その罪を贖ってくださるためにキリストが身代わりになって十字架で死んでくださったこと、その神の救いの御業を信じて、神の聖霊が私の魂に入ってくださるとように願うだけでいいのです。そうすれば、永遠のいのちを持ちます。信じる者は永遠のいのちを持っています。

新聖歌182番に「ただ信ぜよ」という賛美があります。

「十字架にかかりたる 救い主を見よや こは汝が犯したる 罪のため

ただ信ぜよ ただ信ぜよ 信ずる者は誰も 皆救われん」

すばらしい賛美ですね。何がすばらしいかって、とても単純な点です。ただ信じるだけです。あれをしなければならないとか、これをしなければならないといったことは一切ありません。ただ信じるだけです。私たちが罪から救われるためには、私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださった主イエスを信じるだけです。信じる者は、永遠のいのちを持つのです。

 

ここで注目していただきたいことは、「信じる者は永遠のいのちを持っています」という言葉です。これは現在形で書かれてあります。いつ持つんですか?今でしょ、というわけです。いつか持つでしょうとか、終わりの日に持つでしょうということではなく、信じたその瞬間に持つのです。永遠のいのちは、今この時、この世界で、持っているのです。

 

多くの人々は、このことを誤解しています。罪が赦され、永遠のいのちが与えられるのは、死んでからのことだと考えているのです。確かに死んだら天国に行きますが、それはこの地上に生きている時から始まります。この地上に生きている時にイエス様を信じたその瞬間から、永遠のいのちが始まるのです。なぜなら、永遠のいのちとは神様との関係だからです。神様が共にいるという体験です。人類最初の人間アダムとエバは、神の命令に背き罪を犯したことで、神との関係が断絶してしまいました。その結果、人類は神様がいない孤独な一生を自分の力で生きなければならなくなりました。その行く着くところは死です。何の希望も、喜びも、目的もない、一生を生きなければならなかったのです。しかし、あわれみ豊かな神は、その大きなあわれみのゆえに、罪過と罪との中に死んでいた私たちを生かしてくださいました。それがイエス・キリストです。私たちがキリストを信じることによって、その関係が回復するようにしてくださったのです。つまり、死んでいた状態が生き返った状態に変えられるのです。それが永遠のいのちです。信じたその瞬間にこのいのちを持つことができるのです。そして、その関係は永遠に終わることがありません。たとえ肉体が滅んでも、この神との関係はずっと続きます。もう罪に定められることはありません。あなたがどんなに自覚していなくても、あなたの名前はいのちの書という書物に書き記されているのです。神との平和を持っています。死も、いのちも、御使いも、その他どんな被造物も、キリストにある神の愛からあなたを引き離すことはできません。

 

主はこう言われました。「わたしはいのちのパンです。」イエス様がそのいのちのパンです。イエス様はこのように宣言されました。それはユダヤ人の先祖たちが昔、荒野で食べたものとは違います。彼らは荒野で40年間マナというコエンドロのようなパンを食べました。その結果、荒野でも生きることができましたが、結局は死んでしまいました。しかし、このパンを食べる者は決して死ぬことがありません。このパンは天から下って来た生けるパンだからです。このパンを食べるなら、永遠に生きるのです。このパンを食べるとは、イエス様を信じるということです。イエス様を信じる者は、永遠に生きるのです。

 

そして、キリストが与えるパンは、世のいのちのための、キリストの肉です。どういうことでしょうか。これは十字架の死を預言した比喩的なことばです。これを理解できない人には、「えっ」と思うような言葉のように聞こえるかもしれません。しかし、これを理解できる人にとっては大きな恵みです。というのは、イエス様は私たちの罪のためにご自分の肉を割かれ、血を流してくださったからです。ここに愛があります。

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:9-10)

 

あなたはこの愛を受け取りましたか。これが、神が私たちのためにしてくださった救いの御業です。神は、そのひとり子を世に遣わし、その方によっていのちを得させてくださいました。神は、私たちの罪のために、宥めのためのささげ物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです。本来であれば、罪のために、私たちが受けなければならない神の怒りを、神の御子が代わりに受けてくださったのです。ここに愛があるのです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

神は、そのひとり子をお与えになるほどに、あなたを愛してくださいました。あなたの罪の身代わりとなって十字架にかかり、肉を割かれ、血を流してくださいました。それはあなたが滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。このパンを食べるなら、あなたも永遠に生きるのです。

 

Ⅲ.人の子の肉を食べ、その血を飲みなさい(52-59)

 

ですから、第三のことは、このパンを食べ、血を飲もうということです。52~59節までをご覧ください。52節をお読みします。

「それで、ユダヤ人たちは、「この人は、どうやって自分の肉を、私たちに与えて食べさせることができるのか」と互いに激しい議論を始めた。」

 

イエス様が「わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」と言うと、それを聞いていたユダヤ人たちは、「この人は、どうやって自分の肉を、私たちに与えて食べさせることができるのか」と言って、互いに激しい議論を始めました。どういうことなのかわからなかったのです。議論が噛み合いませんでした。彼らは、イエスという人の肉を食べ、血を飲むことだと思ったからです。しかし、旧約聖書の律法には、人の血はおろか、動物の血であっても、血を飲むことは堅く禁じられていました。ですから、それを聞いたユダヤ人たちはびっくりしたのです。それで53節から56節までのところで、イエス様はそのことをもう少し詳しく説明されます。

「イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。これは天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」これが、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。」

 

イエス様がここで、「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません」と言われたのは、明らかに十字架で私たちの罪の贖いとして死なれたキリストを信じなければいのちはないということです。この「食べる」という言葉ですが、これは原語のギリシャ語では「ファゲーテ」(φαγητε)と言う言葉で、1回限りの出来事を表す時制(不定過去形)が使われています。私たちが、私たちのうちにいのちを持つためには、私たちの罪を贖うために十字架で死んでくださったイエス・キリストを信じなければなりません。信じなければいのちはありません。これがいのちの源であり、救いのベースです。どれだけ教会に来ているかとか、洗礼を受けたかどうかということは全く関係ありません。十字架で死んでくださったキリストを信じて、新しく生まれ変えられたかということです。これがすべてです。もし新しく生まれ変わったという経験のない人がいれば、キリストの肉を食べ、その血を飲んでください。キリストの十字架の死は私のためであったと信じ、この神の聖霊が私の内に入ってくださるように祈っていただきたいと思います。

 

しかし、54、56、57、58節にある「食べる」という言葉は、53節の言葉とは違う言葉が使われています。それは「トゥローゴーン」(τλωγων)というギリシャ語です。これは53節の「ファゲーテ」とは違い、食欲旺盛な動物が餌をバリバリ食べる時に使われる言葉です。つまり、キリストの十字架の贖いを信じて新しく生まれ変わった者が、日々の生活において、キリストの血と肉をバリバリ食べるということです。それは具体的に次の二つのことを意味していると思われます。一つは、キリストの御言葉を積極的に食べることです。そしてもう一つは、主の晩餐に与ることです。聖餐式ですね。聖餐式とは何でしょうか。それは、主の肉を食べ、血を飲むこと、つまり、キリストと一つになることです。マタイの福音書26章26~28節にはこうあります。

「また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」

これは多くの人のために、罪の赦しのために流されるキリストの血と、割かれたキリストの肉を象徴しています。これを受けなければなりません。ただ聖餐式という儀式を受ければいいというのではなく、それが意味しているもの、つまり、キリストと一つになることを求めなければならないということです。キリストとともに死に、キリストともに生きるということです。今、私が生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった主を信じる信仰によるのです。そのように生きることです。私はキリストと共に死んだのに、まだ私が・・というのではキリストと一つになっていません。私ではなくキリストが、これがキリストと一つになることです。これが聖餐式の意味です。

 

キリストの肉を食べ、キリストの血を飲むことで、キリストの肉と血が、私たちの一部となるというのはとても神秘的なことです。しかし、その仕組みを知らなくても、私たちはパンを食べことで力を得ることを知っています。同じように、とても神秘的で、頭では理解できませんが、キリストの肉を食べ、血を飲むことによって、キリストのいのちを得ることができるのです。大切なのは理解できるかどうかではなく、理解できなくても、信仰によってキリストのいのちを受け取ることです。

 

熊本の第五高等学校の佐藤定吉工学博士は、クリスチャンだったので、ある時学生たちに信仰の話をしました。すると学生の一人が先生にこう質問しました。

「先生、人生に信仰が必要だということは分かりました。でも、私は理系の学生です。天地万物の創造者だという神様を私に見せてください。実験しないことには、信じてはいかんぞと先生に教えられてきたんですから。」

すると先生は、「よしわかった。じゃ見せてやるが、その前に私も見たいものがある。「君」を見せてくれないか。」

「どういうことですか。先生、ぼくをみせろというのですか。これがぼくですが・・」と学生は人差し指で鼻を指しました。

「それは君の鼻じゃないか。そうじゃなくて、「君」というものを見たいんだ。」

そこで学生は、今度は自分の胸をたたいて、「これです」と言いました。

「それは君の胸じゃないか。私は君というものを見たいんだ。」

するとその学生はこう言いました。

「先生、あるんですけど、見せられないのです。」

すると博士は、うなずいて言いました。

「そうだ、それを霊と言う。霊は、人間の肉眼や肉体では見ることができないが、実在している。神様も同じだよ。神様は霊なんだよ。」

同じですね。イエスの肉を食べ、血を飲む者、すなわち、イエスを信じるなら、それが私たちの血となり、肉となる。それによっていのちを持ちます。イエスの肉を食べ、血を飲まなければ、いのちはありません。

 

あなたはどうですか。キリストのいのちを持っていますか。また、そのいのちに溢れているでしょうか。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きているのです」と言えるそのようないのちに溢れたクリスチャンとなるためには、まずキリストの肉を食べ、キリストの血を飲まなければなりません。そして、日ごとにキリストの肉を食べ、血を飲み続けなければならないのです。イエス・キリストの肉はまことの食べ物、まことの血の飲み物だからです。

ヨハネの福音書6章22~40節「天から下って来たパン」

ヨハネの福音書から学んでおります。きょうは6章22節から40節までの箇所から、「天から下って来たパン」というタイトルでお話しします。

 

Ⅰ.いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい(22-27)

 

まず22節から27節までをご覧ください。

「その翌日、湖の向こう岸にとどまっていた群衆は、前にはそこに小舟が一艘しかなく、その舟にイエスは弟子たちと一緒には乗らずに、弟子たちが自分たちだけで立ち去ったことに気づいた。 すると、主が感謝をささげて人々がパンを食べた場所の近くに、ティベリアから小舟が数艘やって来た。群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないことを知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り込んで、イエスを捜しにカペナウムに向かった。そして、湖の反対側でイエスを見つけると、彼らはイエスに言った。「先生、いつここにおいでになったのですか。」イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」

 

22節の「その翌日」とは、イエス様が5つのパンと2匹の魚で男だけで五千人の人々の空腹を満たされた奇跡を行った翌日のことです。群衆は、イエス様の動きを観察していました。不思議なのは、弟子たちだけが舟に乗り込んで向こう岸に向かったはずなのに、そこにイエス様の姿がなかったことです。するとそこに、ティベリアから数隻の小舟がやって来たので、これ幸いとばかり、人々はその舟に乗り込み、イエスを探しにカペナウムに向かいました。

そして、湖の反対側でイエス様を見つけると、彼らはイエス様に言いました。「先生。いつここにおいでになったのですか。」

すると、イエス様は彼らに答えられました。26節、「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」

どういうことでしょうか。イエス様が「まことに、まことにあなたがたに告げます。」と言われる時は、極めて重要なことを語られる時です。イエス様は、人々の質問に対して「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」と言いました。 彼らはガリラヤ湖を渡ってわざわざイエス様を捜しに来たのは、イエス様がなさった奇跡を見て、イエス様を信じたので来たのではなく、パンを食べて満腹したからです。イエス様がなされた奇跡を見て信じることは本物の信仰とは言えませんが、それでも信仰の入口に導かれたという意味では評価できます。しかし、これらの群衆はまだそこまでにも達していませんでした。彼らがイエス様を捜していたのはイエス様がなさった奇跡を見て信じたからではなく、ただパンを食べて満足したからだったのです。つまり、彼らは救いを求めてイエスのもとに行ったのではなく、ただ自分の欲求が満たされるために行ったのです。何のためにイエスの許に行くのかとはとても重要なことです。私たちは何のために教会に来ているのでしょうか。何のために礼拝しているのでしょう。パンを食べて満足したからですか。ただ自分の心が満たされるためでしょうか。そのことを吟味しなければなりません。そして、永遠のいのちを求めてキリストの許に行く者でありたいと思います。

 

それに対してイエス様は何と言われましたか。27節です。とても有名なみことばですので、ご一緒に読んでみたいと思います。「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」

「なくなってしまう食べ物」とは、この地上の食べ物のことです。イエス様は、そうしたなくなってしまう食べ物ではなく、「いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」と言われました。「いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物」とは何でしょうか。それは永遠のいのちです。この永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい、というのです。

 

皆さん、私たちは何のために働いているのでしょうか。私たちが勉強するのも、良い仕事に就くのも、またそこで一生懸命に働くのも、結局のところ、少しでも良い生活をするためというのがほとんどではないでしょうか。しかしイエス様を信じたことで永遠のいのちが与えられました。その永遠のいのちが養われ、成長するために、働かなければなりません。一生懸命に働くこと自体は大切なことです。私たちは働くために造られました。働くことによって、むしろ、生きがいを感じることさえできます。しかし、問題は何のために働くのかということです。私たちがどんなに一生懸命に働いても、また、そのことによって良い生活を送ることができたとしても、それらのものはやがて過ぎ去ってしまいます。そうした過ぎ行くものがあたかも究極的な事柄であるかのように思っているとしたら、それこそが問題なのです。確かに生きていくためには働かなければなりませんが、それが唯一の目的ではありません。私たちが働くのはただこの世で生きていくためではなく、霊的いのち、永遠のいのちに至るためなのです。イエス様を信じることで与えられた永遠のいのちを持ち、そのいのちを保ち、養うために働きなさいということだったのです。それは、この「働きなさい」という言葉からもわかります。この「働きなさい」という言葉は、「あることのために働く」とか、「努力する」という意味があります。つまり、永遠のいのちのために働きなさい、努力しなさい、ということです。私たちはこの世の朽ちて行くことのためには多くの時間とエネルギーを費やしても、霊的いのちのためにはそれほどでもないのではないでしょうか。その時間がほとんど残っていません。

 

先週、国連の関連団体が、「世界幸福度ランキング2019」を発表しましたが、それによると日本は昨年から4つ順位を下げて58位でした(156か国中)。これは意外でしたね。日本人の多くは、自分は幸せだと感じている人が多いのに、こんなに順位が低いとは思いませんでした。GDP、平均余命、寛大さ、社会的支援、自由度、腐敗度といった要素を元に幸福度を計るものです。確かに日本は平均寿命が長く、1人あたりのGDPも24位、政治やビジネスの腐敗のなさも39位と高いのですが、社会的支援が50位、社会の自由度が64位、他者への寛大さが92位と低迷しているのです。これはどんなことを表しているのかというと、仕事と経済が中心になっている国であるということです。心に余裕がありません。ほんとうに忙しく走り回っています。霊的いのちのために求める時間がないのです。

 

でも2,000年前に、ガリラヤ湖畔で語られたイエス様の言葉を見てください。2,000年の歳月を越えて、今もなお私たちの心に響いてきます。先週、大リーグマリナーズのイチロー選手が引退し、その会見で語った言葉には深いものがありました。これまで自分が打ち立てて来た記録をどう思いますか?記録自体は、それほど特別だとは思いません。それよりも、その時にファンの方であったり、球場に来られた方が喜んでくれることが特別だと思いますとか、4,000本という数字があるとしたら、その陰には8,000回の失敗があったということで、自分誇れるとしたらそれを乗り越えることができたというです、など、それを通った人ではないとわからない重みがありました。しかし、イエス様の言葉は、その比ではありません。時代と民族を越えて、すべての時代の、すべての人の心に響く言葉です。私たちが求めなければならないのは、この主イエスの言葉です。

霊的いのちは、放っておいて養われることはありません。毎朝晩聖書を読み、祈るには、大きな犠牲と戦いがあります。学校や職場に遅刻しないように努力するのに、永遠のいのちのためにはほとんど努力しないとしたら、どうやってこのいのちを養っていくことができるでしょうか。

 

先日、天に召されたY姉妹は、60歳で信仰に導かれ、85歳で天国に召されるまで、ひたすら聖書に向かいました。「聖書を読むだけではね」と先輩のクリスチャンから言われましたが、確かに聖書を読むだけでは変わらないかもしれません。しかし、聖書を通読することで聖書全体の流れを掴むことができただけでなく、もっと知りたいという意欲もでてきて、読み続けることができました。このいつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働いたのです。

 

それは、主が与えてくださる食べ物です。与えられた永遠のいのちが養われ、生ける神といつも生き生きとした関係を保つためには、その栄養分が必要です。「それは、人の子が与える食べ物です。」。ですから、私たちはいつもイエス様にとどまり、イエス様からその栄養分を求めていかなければなりません。なくなる食べ物ではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きましょう。

 

Ⅱ.天からのまことのパン(28-33)

 

次に、28節から33節までをご覧ください。

「すると、彼らはイエスに言った。「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」イエスは答えられた。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」それで、彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じられるように、どんなしるしを行われるのですか。何をしてくださいますか。私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです。」それで、イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」」

 

イエス様が、「なくなる食物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。」と言われると、それを聞いていた人々は、「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」とイエスに聞きました。イエス様が言われた「永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」と言うことばを、何かをすることによって得られるものと思ったのです。これが一般の人が考えることです。何か善いことをすれば天国に行けると思っているのです。しかし、どんなに善いことをしても、決して天国に行くことはできません。善いことをすることは悪いことではありません。むしろすばらしいことです。しかし、どんなに善いことをしても、それで神に受け入れられるとはないのです。なぜなら、自分でも気付かないうちにそこに不純な動機が入り込んだりして、善行が善行でなくなってしまうからです。私たちの本性は罪のために腐っているので、こうした善行が神に受け入れられることはないのです。では、どうしたらいいのでしょうか。

 

29節にこうあります。「イエス様はこう言われました。『神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。』」ここで人々が、「神のわざ」と言っているのは、旧約聖書にある律法のことです。それに対してイエス様は、神のわざとは律法を守ることではなく、神が遣わされた者を信じることであると言われました。これは信仰による救いを教えています。私たちが救われる道は、私たちが何か善いことをすることによってではなく、神が遣わされた御子イエスを救い主として信じる以外にはありません。もっと言うなら、私たちが救われるためには、私たちの罪のために十字架で死なれ、三日目によみがえられ、救いの御業を成し遂げてくださったイエス・キリストを信じるだけでいいのです。それを信じることこそ、神のわざなのです。ここでヨハネが言っていることは、神から遣わされた御子イエス・キリストを、生涯信じ続けるということです。それが神のわざです。考えてみると、そのように生涯を通してキリストを信じ続けるということは、自分の意思や力によってできることではありません。善い行いであれば、時間なり、体力なり、資金があればできるかもしれませんが、生涯にわたってイエス様を信じ続けることは、自分の力でできません。私たちは弱い者ですから、たとえば、大きな試練に直面したりすると、「イエス様を信じているのになんでこうなるの」と、信仰から離れてしまうことさえあります。そのような中でも信じ続けることができるとしたら、それは神の恵み以外の何ものでもありません。ですから、これこそ神のわざであり、神が喜んでくださるわざなのです。

 

すると彼らは、自分たちがイエスを信じるために、何をしてくれますかと言いました。どんなしるしを与えてくれるのかというのです。というのは、31節にあるように、彼らの先祖は、荒野でマナを食べたという経験をしたからです。「神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた」と書いてあるとおりです。」これは、出エジプト記にあることです。モーセの時代、彼らの先祖は荒野でマナを食べました。それは天からのパンとして、神が先祖たちに与えてくださったものです。それは彼らにとってのしるしでした。であれば、イエスは自分たちにどのようなしるしを見せてくれるのか、というのです。どのようなしるしを見せてくれるのかと言っても、彼らはたった今、五千人の給食の奇跡を見たばかりじゃないですか。それなのに、どんなしるしを見せてくれるのですかと言うのは変な話です。しるしとは、証拠としての奇跡です。それが本当に神からのものであるということを示す証拠ですね。それを求めたのです。

 

これは、いつの時代も同じです。人々はしるしを見ないと信じられません。だから、多くの人々は新興宗教に走って行くのです。しかしこの人々は、モーセが与えたパン以上のもっと大きなしるしを見たではありませんか。それは天からのまことのパンでした。それはモーセの時代に荒野で食べたマナではありません。天から下って来て、世にいのちを与えるものです。32節と33節にこうあります。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」

ここでイエス様は、モーセの時代のマナと、今、父なる神によって与えられようとしているパン、すなわち、天からのまことのパンを対比しているのです。モーセの時代のマナは、確かに肉体の食べ物にはなりましたが、いのちを与えることはできませんでした。しかし、父なる神が与えてくださるパンは、天からのまことのパンであり、人々にいのちを与えてものです。これこそ最高のしるしではないでしょうか。なぜなら、このパンは信じる者のうちに働いて、驚くべき神の御業をなされるからです。このパンが私たちに与えられると御霊によっていのちが与えられ、全く新しい者に造り変えられます。

 

あのニコデモのことを思い出してください。ニコデモはそれまでユダヤ人を恐れ、ほっかぶりをして、ある夜、イエスの許にやって来ました。しかし、御霊によって新しく生まれると、全く別人のようになりました。彼はイエス様が十字架に付けられて息を引き取ったとき、それは午後3時頃のことでしたが、公然と十字架のイエスのもとに歩み寄りました。そして、遺体を引き取ると、没薬と香料を混ぜ合わせたものを30㎏ほどイエスに塗って、まだだれも葬られたことのない墓に葬りました。あれほどユダヤ人を恐れていた人が全く恐れずにイエスの許に歩み寄ることができたのです。それは、イエス様を信じて新しい人に造り変えられたからです。

 

サマリヤの女はどうですか。サマリヤの女は、5回も結婚し、今一緒にいるのも本当の夫ではありませんでした。彼女は男性こそ自分の心を満たしてくれると思っていましたが、どの男もみな同じ。だれも彼女の心を満たすことはできませんでした。そんな時、スカルという町の井戸に水を汲みに来たとき、イエス様と出会いました。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して変わることがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(4:14)

彼女はイエスに言いました。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」(4:15)

するとイエス様は彼女に言いました。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」(4:16)彼女は、自分のことを言い当てることができたこの方こそキリストであると信じました。すると彼女は、水を汲みに来たのに水がめをそこに置いて街に行き、「みなさ~ん、来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」と言いました。もはや、人と会いたくないとは思いませんでした。自分の心を神のいのちの水で満たしてくれたイエス様を、多くの人に伝えたいと思うようになったのです。

 

先日、仙台で行われたT&Mセミナーに参加しました。その中に15秒で証しするという時間がありました。自分が救われた喜びを15秒で証しするのです。イエス様を信じる前の私はこうでした。でもイエス様を信じてこうなりました。あなたもこうなりたいと思いませんか。15秒です。30秒は長いです。3分だったらだれも聞きません。最初に人と会って証しする時はインパクトが必要です。インパクトのある証しはコンパクトでなければなりません。だから15秒でまとめなければなりません。

私のロールプレイの相手は、かつて大学の教授をしていて、その後牧師になられたM先生でした。この先生はかつて教授だけあって話が長いのです。しかし、先生の証しはインパクトがありました。15秒でした。「私は、29歳まで荒野のような人生でした。ボロボロでした。しかし、イエス様を信じた時人生が全く変わりました。荒野に泉が湧いたのです。あなたもそうなりたいと思いませんか。」この経験が先生の信仰生活を支えているのです。それはまさに御霊なる神の働きです。これこそ、大きなしるしではないでしょうか。神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。

 

Ⅲ.わたしがいのちのパンです(34-40)

 

では、そのパンとは何でしょうか。それはイエス・キリストです。34節から40節までをご覧ください。34節と35節をご覧ください。

「そこで、彼らはイエスに言った。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」

 

イエス様が、「わたしの父は、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです」と言うと、それを聞いた人々は、「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」と言いました。この段階でも、彼らはイエス様が与えるパンは信仰によって与えられる霊的なパンであることを理解していませんでした。

それに対して、主はこのように言われました。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」

ヨハネの福音書の中には、「わたしは・・・です」という言い方が7回出てきます。その一つが、この「わたしはいのちのパンです。」です。そのほかに、

「わたしは世の光です。」(8:12)

「わたしは羊たちの門です。」(10:7)

「わたしは良い牧者です。」(10:11)

「わたしはよみがえりです。いのちです。」(11:25)

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(14:6)

「わたしはまことのぶどうの木です。」(15:1)

とあります。これは、6章20節で、主が「わたしだ」と言われたところを学んだ時にも申し上げましたが、イエス様が存在の根源であられるということです。つまり、イエス様は神ご自身であられることです。ヨハネはこのように表現することで、主がどのような方であるかを表そうとしたのです。そして、ここで主は、「わたしはいのちのパンです。」と言われました。「わたしはいのちのパンを与える」と言われたのではなく、いのちのパンそのものであると言われたのです。これはとても重要なことです。イエス様がいのちに至る食べ物を与えてくだいますが、そのいのちに至る食べ物とは、イエス・キリストが持っておられるものであるというのではなく、イエス・キリストそのものがそれであるということです。ですから、その後のことばにあるように、「わたしのもとに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんな時でも、決して渇くことが」ないのです。キリストのもとに行くなら決して飢えることはありません。渇くことがないのです。なぜなら、キリストこそいのちのパンであられるからです。キリストこそ、私たちにいのちを与え、本当の生きがいを与え、私たちの人生を生き生きとしたものにしてくださるのです。あのM牧師の証しにあるよう・・・に。

 

ところが、ユダヤ人たちは、その主の許に行こうとしませんでした。彼らはキリストを見たのに信じなかったのです。見ているのに信じなかったのです。これは、今日キリスト教のいろいろなものに触れながらも、信じようとしない人たちと同じです。見てはいますが信じません。ある人はクリスチャンホームに生まれ育ち、それを見ていても信じようとしません。またある人は、ミッション・スクールに行ったり、キリスト教の集会に行ったり、クリスチャンの友達から聖書の話を聞いたり、いろいろな本に触れたりと、何らかの形でキリスト教に触れていても、信じようとしません。これらの人たちは、自分の霊の飢え渇きすら感じていないのかもしれません。肉体的には十分に栄養を補給して肥えていても、霊的には貧弱で、今にも倒れそうになっていることに気付いていないのです。

 

しかし、「父がわたしに与えてくださっている者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来るものを、わたしは決して人に追い出したりはしません。」これは驚くべき宣言です。父なる神が御子に与えてくれるものでなければ、御子のもとに来ることはありません。つまり、信仰を持つことさえできないというのです。私たちがキリストを信じることができるようになったのは、神が私たちを救いに選んでいてくださり、キリストを信じるように働いていてくださったからなのです。

 

自分のことを考えてみてもそう思います。小さい時にキリスト教の保育園に預けられ、青年時代に妻と出会いました。自分は何のために生きているのかわからなかった時、教会に行ってイエス様を信じることができました。なんでそうなるの?わかりません。どんなに脚本を書こうとしてもそうはならなかったでしょう。しかし、神は私が生まれる前から、いや、この世界の基が置かれる前から、そのように選んでいてくださいました。聖書にそう書いてあります。私たちが救われたのは、一方的な神の恵みによるのです。だから、この救いは確かなのです。私が好きで信じたものであるなら、嫌いなったら離れてしまうということもあるでしょう。しかし、神がそのように選んでくださったので離れてしまうということはありません。神が掴んで離さないからです。「わたしのもとに来るものを、わたしは決して捨てません。」(現代訳)とあるとおりです。

 

それは39節と40節でも言われていることです。「わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」」これは何のことかというと、復活のいのちのことです。イエス様は27節で「永遠のいのち」について語られました。また、33節では「天からのパン」について語られました。ここでは、最後の時に天の御国に入れてくださる復活のいのちについて語っています。つまり、神が御子をこの世に遣わされたのは、私たちが御子にあって永遠のいのちを持ち、そのいのちに与ったすべての人を一人も失うことがないようにし、最後の時に天国に入れてくださるためだったのです。

 

私たちの人生は、肉体の死で終わるものではありません。その先には「復活のいのち」が用意されています。そのいのちに与ることができるように、イエス様は確実に導いてくださいます。それが神のみこころなのです。この世にあっては、悪魔の執拗な攻撃に、時に失敗したり、意気消沈したり、不安になったり、動揺したりすることがありますが、しかし、このキリストの御手から落ちることは決してありません。終わりの日に必ずよみがえらせていただけるのです。

 

それなのに、どうして私たちは、自分のような者はダメだと言って、落ち込んでいるのでしょうか。それはまさに悪魔の思うつぼです。たとえ神様でも自分のような者は救うことはできないだろうと思わせるからです。でも、キリストはあなたを救うことができないのでしょうか。たとえあなたが自分はダメな人間だと思っていても、キリストはあなたを救うことがおできになります。なぜなら、キリストはいのちのパンであられ、すべての存在の根源であられる神だからです。キリストの使命は、父なる神のみこころを行うことであり、父なる神のみこころは、御子に与えてくださった人を、ひとりも失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。神の御子であられるイエスは、その御心を確実に実行されます。ですから、私たちはこの方に信頼しなければなりません。キリストに信頼する者をキリストは決して捨てることはありません。みんな御国に入れてくださいます。この方にゆるぎない信頼を置く人は幸いです。私たちも自分を見て落ち込むのではなく、主イエスの約束に信頼し、そこから慰めと励ましをいただき、与えられた信仰の生涯を全うさせていただきましょう。

士師記19章

士師記19章からを学びます。まず1節から14章までをご覧ください。

Ⅰ.側女(そばめ)の取り戻し(1-15)

「イスラエルに王がいなかった時代のこと、一人のレビ人が、エフライムの山地の奥に寄留していた。この人は、側女として、ユダのベツレヘムから一人の女を迎えた。ところが、その側女は彼を裏切って、彼のところを去り、ユダのベツレヘムにある自分の父の家に行って、そこに四か月間いた。夫は、若い者と一くびきのろばを連れて、彼女の後を追って出かけた。彼女の心に訴えて連れ戻すためであった。彼女が夫を自分の父の家に入れたとき、娘の父は彼を見て、喜んで迎えた。 娘の父であるしゅうとが引き止めたので、彼はしゅうとのもとに三日間とどまった。こうして、彼らは食べて飲んで夜を過ごした。四日目になって、彼が朝早く、立ち上がって出発しようとすると、娘の父は婿に言った。「パンを一切れ食べて元気をつけ、その後で出発しなさい。」そこで、二人は座って、ともに食べて飲んだ。娘の父はその人に言った。「ぜひ、もう一晩泊まることにして、楽しみなさい。」その人が立ち上がって出発しようとすると、しゅうとが彼にしきりに勧めたので、彼はまたそこに泊まって一夜を明かした。五日目の朝早く、彼が出発しようとすると、娘の父は言った。「ぜひ、元気をつけて、日が傾くまでゆっくりしていきなさい。」そこで、二人は食事をした。その人が、自分の側女と若い者を連れて出発しようとすると、娘の父であるしゅうとは彼に言った。「ご覧なさい。もう日が暮れかかっています。どうか、もう一晩お泊まりなさい。もう日も傾いています。ここに泊まって楽しみ、明日の朝早く旅立って、あなたの天幕に帰ればよいでしょう。」その人は泊まりたくなかったので、立ち上がって出発し、エブスすなわちエルサレムの向かい側までやって来た。鞍をつけた一くびきのろばと、側女が一緒であった。彼らがエブスの近くに来たとき、日はすっかり傾いていた。そこで、若い者は主人に言った。「道を外れてあのエブス人の町に向かい、そこで一夜を明かすことにしたらいかがでしょう。」彼の主人は言った。「私たちは、イスラエル人ではない異国人の町には立ち寄らない。さあ、ギブアまで進もう。」彼はまた若い者に言った。「さあ、ギブアかラマのどちらかの地に着いて、そこで一夜を明かそう。」彼らは進んで行ったが、ベニヤミンに属するギブアの近くまで来たとき、日が沈んだ。彼らはギブアに行って泊まろうとして、そこに立ち寄り、町に入って広場に座った。彼らを迎えて家に泊めてくれる者は、だれもいなかった。」

1節に再び、「イスラエルに王がいなかった時代のこと」とあります。私たちは、既に17章と18章においてミカの家とダン族に起こった出来事を通して、当時のイスラエルがどれほど混乱していたかを学びました。イスラエルは、神の目にかなったことではなく自分の目に正しいと思うことを行った結果、そこには不法がはびこりました。ここには、イスラエルに王がいなかった時代、イスラエルがどれほど混戦していたのかを、もう一つの不道徳な事件を取り上げて紹介しています。

この時代がいつの時代なのかははっきりわかりませんが、20章28節には、「また当時、アロンの子エルアザルの子ピネハスが、御前に仕えていた」とありますから、時代的にはヨシュアの死後間もなくのこと、つまり士師記の時代の初期に起こった出来事です。前にも述べたように、17章からは士師記の付録部分で、時間的な順序にはなっておりません。士師記の時代がどういう時代だったのかを示すために、その特徴的な出来事をピックアップして記録しているのです。

一人のレビ人が、エフライムの山地に寄留していました。彼は定められた場所に住まないで、放浪者、寄留者となっていたということです。彼は側目として、ユダのベツレヘムから一人の女を迎えましたが、その側女は彼を裏切って、彼のところを去り、ユダのベツレヘムにある自分の父の家に帰ってしましいました。新改訳第三版では、「彼をきらって」とあります。彼はきらわれたのです。なぜ嫌われていたのかはわかりません。彼の性格に問題があったのか、あるいは、彼が正妻を大切にし、彼女を卑しめるような態度をしたのか、はっきりわかりません。ただわかることは、こうした側女の存在は、いろいろな問題を引き起こすということです。ただここには、「側女は彼を裏切って」とありますので、単に男女関係のもつれというよりは、一方的にこのそばめに問題があったのかもしれません。いずれにせよ、彼女は彼をきらって実家に帰ってしまいました。そして、そこに四カ月間いました。

そこで、夫のレビ人は、若い者と一くびきのろばを連れて、彼女の後を追って出かけて行きました。彼女の心に訴えて連れ戻すためです。ここに、夫の並々ならぬ執念がうかがえます。和解は思ったよりもスムーズに進み、娘の父親は、彼を見ると喜んで迎え入れました。そして、何日もの間祝宴が開いたのです。娘の父であるしゅうとが引き止めるので、彼はそこに三日間もとどまることになりました。中東では客をもてなすという習慣があったので、しかもそれが自分の娘の夫でしたから、いつまでもいっしょにいたいと思ったのでしょう。四日目も行こうとしましたが、「ぜひ、もう一晩泊まることにして、楽しみなさい。」と、しきりに勧められたので、仕方なくそこに泊まって一夜を明かした。

そして、五日目の朝に彼が出発しようとすると、例のごとく娘の父親が、「ぜひ、元気をつけて、日が傾くまでゆっくりしていきなさい。」と言うので、二人は食事するのですが、そうこうしているうちに夕方になってしまいました。そこでしゅうとは、「ご覧なさい。もう日が暮れかかっています。どうか、もう一晩お泊まりなさい。もう日も傾いています。ここに泊まって楽しみ、明日の朝早く旅立って、あなたの天幕に帰ればよいでしょう。」(9)と言うのですが、さすがにこれ以上は泊まりたくないと、立ち上がって、出発しました。もう既に夕方になっていましたが・・・。

彼はベツレヘムからエフライムへと向かう途中、エブスすなわちエルサレムの向かい側までやって来ましたが、異国人の町には泊まりたくなかったので、ギブアかラマのどちらかまで進み、そこで一夜を明かそうと考えました。ベツレヘムからエルサレムまでは7㎞です。2時間ほどの道のりですから、体力的にもきつくなってくる頃でしたし、日もすっかり傾いていましたから、できればそこに泊まればと思いましたが異国人の町には泊まりたくなかったので、ギブアまで進んで行くことにしました。エルサレムが異国人の町であるというのは不思議な感じがするかもしれませんが、ベニヤミン族が彼らを追い出せなかったので、当時そこにはエブス人が住んでいたのです(士師1:21)。そこで彼はさらに6キロほど北に行ったギブアに泊まることにしました。

ところが、彼らがギブアに泊まろうとして、そこに立ち寄り、広場に座っていても、彼らを迎えて家に泊めてくれる人はいませんでした。これは当時の習慣からすると異常なことでした。とういうのは、旅人をもてなすことは当時の人たちにとってはとても大切なことであったからです。どうして彼らは受け入れなかったのでしょうか。1節に、「イスラエルに王がいなかった時代」とあります。人々は、それぞれめいめいが自分の目に正しいと思うことを行っていたからです。神のことばが何と言っているかということよりも、自分がどう考えるかを優先していました。その結果、旅人をもてなすという大切なことがおろそかにされていたのです。

Ⅱ.ギブアの人たちの邪悪な行い(16-26)

それは旅人をもてなすということだけではありません。人々が神のみこころではなく、自分の目に正しいと思うことを行った結果、もっとひどいことが起こりました。それが次の16節から21節までにあります。

「そこへ、夕暮れになって畑仕事から帰る一人の老人がやって来た。この人はエフライムの山地の人で、ギブアに寄留していた。この土地の人々はベニヤミン族であった。目を上げて、町の広場にいる旅人を見たとき、この老人は「どちらへ行かれますか。どこから来られたのですか」と尋ねた。 その人は彼に言った。「私たちはユダのベツレヘムから、エフライムの山地の奥まで旅を続けていのです。私はその奥地の者で、ユダのベツレヘムまで行って来ました。今、主の家へ帰る途中ですが、だれも私を家に迎えてくれる人がいません。ろばのためには、藁も飼葉もあり、また、私とこの女、しもべどもと一緒にいる若い者のためには、パンも酒もあります。足りない物は何もありません。」老人は言った。「安心なさい。足りない物はすべて私に任せなさい。ただ、広場で夜を過ごしてはいけません。」こうして老人は彼を自分の家に連れて行き、ろばに飼葉をやった。彼らは足を洗って、食べて飲んだ。

彼らが楽しんでいると、なんと、町の男たちで、よこしまな者たちが、その家を取り囲んで戸をたたき続け、家の主人である老人に言った。「おまえの家に来たあの男を引き出せ。あの男を知りたい。」そこで、家の主人であるその人は、彼らのところに出て行って言った。「それはいけない、兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでくれ。あの人が私の家に入った後で、そんな恥ずべきことはしないでくれ。ここに処女の私の娘と、あの人の側女がいる。今、二人を連れ出すから、彼らを辱めて、あなたがたの好きなようにしなさい。しかしあの人には、そのような恥ずべきことをしないでくれ。」しかし、男たちは彼に聞こうとしなかった。そこで、その旅人は自分の側女をつかんで、外にいる彼らのところへ出した。彼らは彼女を犯して、夜通し朝まで暴行を加え、夜が明けるころに彼女を放した。夜明け前に、その女は自分の主人がいるその人の家の戸口に来て、明るくなるまで倒れていた。」

そこへ、夕暮れになって畑仕事から帰る一人の老人がやって来ました。この人はエフライムの山地の人で、ギブアに寄留していましたが、この土地の人々はベニヤミン族でした。つまり、彼はこのギブアに一時的に寄留していたのです。この老人は、町の広場にいた旅人を見つけると声をかけ、彼らの事情を聞くと、「安心しなさい。」と言って、自分の家に連れて行き彼らをもてなします。広場で夜を過ごしてはほしくなかったからです。そこには、よこしまな者たちがいたからです。

案の定、彼らがこの老人の家で楽しんでいると、その町の男たちで、よこしまな者たちがやって来て、その家を取り囲み、戸をたたきつけてこう言いました。

「おまえの家に来たあの男を引き出せ。あの男を知りたい。」

「知りたい」というのは、性的な関係を持つことを意味します。つまり、この町のよこしまな者たちは、老人の家の客となったレビ人との性的な関係を求め迫ったということです。彼らは男色の罪に陥っていました。これは、創世記19章に出てくるあのソドムの事件によく似ています。ソドムで行われていたことが、当時の神の民イスラエルの中でも行われていたのです。

そこで、この老人はどうしたでしょうか。23節をご覧ください。その家の主人であるその人は、彼らのところに出て行き、「それはいけない、兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでくれ。あの人が私の家に入った後で、そんな恥ずべきことはしないでくれ。」と言いました。そして、客を出す代わりに自分の処女の娘と、その客であるレビ人の側目を差し出すから、あの客には、そのようなことはしないでほしいと懇願しました。どうしてそんなことを言ったのでしょうか?それは、自分の家の客となった者はどんな犠牲を払ってでも守るという当時の習慣があったからです。けれども、この老人がしたことは、聖書が認めていた限界をはるかに超えることでした。

しかし、男たちは彼に聞こうとしませんでした。そこでレビ人は、まるで子犬でも掴むように自分の側女をつかんで外にいる彼らのところに差し出しました。人間の尊厳など全くありません。すると、彼らはその側女を犯して、朝まで夜通し暴行を加えました。「暴行を加える」とは、「ひどい目に会わせる」とか、「なぶり者にする」という意味です。旧約聖書にはこの箇所以外に6回用いられていますが、性的行為と関係して用いられているのはここだけです。この女にとってはまさに生き地獄でした。このようなことが、神の民イスラエル(ベニヤミン)で行われていたのです。

Ⅲ.これまで見たこともない悪事(27-30)

27節から30節までをご覧ください。

「彼女の主人は、朝起きて家の戸を開け、出発しようとして外に出た。見ると、そこに自分の側女である女が、手を敷居にかけて家の入り口で倒れていた。彼は女に「立ちなさい。さあ行こう」と言ったが、何の返事もなかった。そこで、その人は彼女をろばに乗せ、立って自分のところへ向かって行った。彼は自分の家に着くと、刀を取り、自分の側女をつかんで、その肢体を十二の部分に切り分け、イスラエルの全土に送った。それを見た者はみな、「イスラエルの子らがエジプトの地から上って来た日から今日まで、このようなことは起こったこともなければ、見たこともない。このことをよく考え、相談し、意見を述べよ」と言った。」

暴行の嵐の夜が過ぎ、朝になるのを待って、レビ人が恐る恐る戸を開けて見ると、そこに側女か死んでいました。彼は、彼女が死んだとは思っていなかったのか、「立ちなさい。さあ行こう」と言いましたが、何の返事もなかったので、彼女をろばに乗せ、自分のところへ帰って行きました。

彼は自分の家に着くと、刀を取り、自分の側女の死体を12の部分に切り分け、イスラエルの各部族へ送りました。死体を12に切り分けたということは、その一部がベニヤミン族にも送られたということです。このレビ人は、ベニヤミン族にも怒りを共有してほしいと思ったのでしょう。

このレビ人の行為は、全イスラエルに大きな反響を巻き起こしました。それを見た者はみな、「イスラエルの子らがエジプトの地から上って来た日から今日まで、このようなことは起こったこともなければ、見たこともない。このことをよく考え、相談し、意見を述べよ」(30)と言いました。これは、イスラエルがエジプトの地から上って来た日から今日まで、見たことがないような邪悪な事件でした。想像するだけでもゾッとします。それほど凄惨な事件でした。このようなことが神の民イスラエルの中で起こっていたのです。

けれども、それはイスラエルだけではなく、私たちにも起こり得ることです。王がいない時代とは、神の教えを忘れた時代のことです。神の教えではなく、自分の思いで生きている時代のことです。現代はまさにそのような時代ではないでしょうか。そのような時代の中でクリスチャンも翻弄され、神から離れてしまうことさえあります。神の教えよりも自分の思いが優先されると、神から離れてしまうだけでなく、堕落の一途をたどることになるのです。このベニヤミン族のような邪悪な行いに発展しないとも限りません。

ですから、私たちはイエス・キリストの十字架の贖いを信じて新しく生まれた者として、いつも神の教えにとどまっていなければなりません。問題は、あなたが何を信じているかということです。イエス様を信じていると言っても、単にイエス様は奇跡を行う偉大な方であるとか、その教えがすばらしいとか、人格的な模範であると信じるのではなく、そのイエスが私のために十字架にかかって死なれ、私たちの罪を贖ってくださったと信じなければなりません。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。神が私たちの内に住んでくださいます。そうすれば、自ずと変えられていくはずです。神の御心に喜んで従いたいと思うようになります。これが信仰のすべてです。これがなかったら、どんなに洗礼を受けていても、どれだけ長い間教会に来ているとは言っても、いつ主から離れて行くようなことになってもおかしくありません。このベニヤミン族のように主の御心とは全くかけ離れた状態になることも起こり得るのです。ですから、私たちはまずイエスとの関係を再確認しなければなりません。そして、主の御心からズレることがないように、絶えず主と一つになることを求めていかなければならないのです。

イエス様は言われました。「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」キリストにとどまり、キリストのいのちをいただいて、いつもキリストに従って歩ませていただきましょう。

出エジプト記4章

きょうは、出エジプト記4章から学びます。まず1~17節までをご覧ください。9節までをお読みします。

 

Ⅰ.今、行け(1-17)

 

「モーセは答えた。「ですが、彼らは私の言うことを信じず、私の声に耳を傾けないでしょう。むしろ、『主はあなたに現れなかった』と言うでしょう。」主は彼に言われた。「あなたが手に持っているものは何か。」彼は答えた。「杖です。」すると言われた。「それを地に投げよ。」彼はそれを地に投げた。すると、それは蛇になった。モーセはそれから身を引いた。主はモーセに言われた。「手を伸ばして、その尾をつかめ。」 彼が手を伸ばしてそれを握ると、それは手の中で杖になった。 「これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを、彼らが信じるためである。」主はまた、彼に言われた。「手を懐に入れよ。」彼は手を懐に入れた。そして出した。なんと、彼の手はツァラアトに冒され、雪のようになっていた。また主は言われた。「あなたの手をもう一度懐に入れよ。」そこで彼はもう一度、手を懐に入れた。そして懐から出した。なんと、それは再び自分の肉のようになっていた。 「たとえ彼らがあなたを信じず、また初めのしるしの声に聞き従わなくても、後のしるしの声は信じるであろう。もしも彼らがこの二つのしるしを両方とも信じず、あなたの声に聞き従わないなら、ナイル川の水を汲んで、乾いた地面に注ぎなさい。あなたがナイル川から汲んだその水は、乾いた地面の上で血となる。」

 

神は、エジプトにいるイスラエルの民を救うためにモーセを遣わそうと召されました。しかし、モーセはいろいろと言い訳をしてそれを断ろうとします。その一つは、「私は、いったい何者なのでしょう。」(3:11)ということでした。自分にはそんな資格はないということでした。エジプトの王子の立場だったらいざ知らず、一介の羊飼いにすぎない自分にはそんな資格などないというものでした。

二つ目の言い訳は、3章13節にありますが、仮にエジプトにいるイスラエルの民のところへ行っても、彼らは自分を認めてくれないだろうというものでした。

「あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた」と言えば、彼らは、「その名は何か」と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょう。」(3:13)

つまり、自分には信頼がないということです。しかし、主は、その時は「わたしはある」という者が私をあなたがたのところへ遣わされたと言え、と言われましたが、モーセはその重い腰を上げることができませんでした。

そして、ここに来て彼は、三つ目の言い訳をしています。それは、自分には力がないということです。1節には、「モーセは答えた。「ですが、彼らは私の言うことを信じず、私の声に耳を傾けないでしょう。むしろ、『主はあなたに現れなかった』と言うでしょう。」とあります。なぜモーセはここまで否定的になっているのでしょうか。それは40年前の失敗の記憶から解放されていなかったからです。過去の失敗の記憶に支配されていると、なかなか新しいことに取り組むことができなくなります。モーセが経験していた束縛は、神のことばを否定してしまうほど強いものでした。神は、「彼らはあなたの声に聞き従う。」(3:18)と約束されましたが、その約束さえ信じられないほどだったのです。

 

そのような疑い深いモーセに、神は三つのしるしを与えます。一つは、杖が蛇になるというものでした。主は、「あなたの手に持っているものは何か」と言われました。モーセが「杖です。」と答えると、「それを地に投げよ。」と命じられました。すると、それが蛇になりました。それでモーセは、それから身を引きました。身をひいたというのは、それが本当に蛇になったということです。すると主はモーセに、「手を伸ばして、その尾をつかめ。」と言われた。それで彼が手を伸ばしてそれを握ると、それは彼の手の中で杖になりました。このことは何を表しているのかというと、主はご自分の意のままに何でもできる方であるということです。特に、この蛇はコブラのことですが、これはエジプトの王パロの権威を象徴していました。すなわち、主はパロの権威よりもはるかに偉大であるということを示していたのです。

 

次に、主はモーセに、「手を懐に入れよ。」と言われました。それで彼が手を懐に入れると、なんと、彼の手はツァラアトに冒され、雪のようになってしました。そして再び主が「あなたの手をもう一度懐に入れよ。」と言われたのでそのようにすると、彼の手は元どおりになりました。当時、「ツァラート」は不治の病とされていました。その病をいやすことができる神は、偉大な方です。たとえ彼らが最初のしるしを信じることができなくても、このしるしは信じるでしょう。

 

しかし、彼らがたとえこの二つのしるしの両方とも信じず、モーセの声に聞き従わないなら、もう一つのしるしを行うようにと言われました。それは、「ナイル川の水を汲んで、乾いた地面に注ぎなさい。」(9)というものです。その水は、乾いた地面で血となるというのです。エジプト人にとって、ナイルはいのちの守り神です。そのナイル川の水を血に変えるというのは、モーセの神がエジプトの神よりも偉大であるということを示していました。

 

これだけのしるしが与えられたのであれば、モーセにとってもどれほど心強かったことかと思います。しかし、それでも彼はまだ言い訳を続けます。それは口が重いということでした。10~17節をご覧ください。

「モーセは主に言った。「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」主は彼に言われた。「人に口をつけたのはだれか。だれが口をきけなくし、耳をふさぎ、目を開け、また閉ざすのか。それは、わたし、主ではないか。今、行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教える。」 すると彼は言った。「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください。」すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう言われた。「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。わたしは彼が雄弁であることをよく知っている。見よ、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぶだろう。彼に語り、彼の口にことばを置け。わたしはあなたの口とともにあり、また彼の口とともにあって、あなたがたがなすべきことを教える。彼があなたに代わって民に語る。彼があなたにとって口となり、あなたは彼にとって神の代わりとなる。また、あなたはこの杖を手に取り、これでしるしを行わなければならない。」」

 

「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」これはどういうことでしょうか。これはモーセの最後の言い訳です。でも、こんなのは言い訳になりません。なぜなら、人に口をつけたのは主であられるからです。主が人に口をつけたのであれば、主はその口を用いてくださいます。主がモーセの口とともにあっ、語るべきことを教えると言いましたが、それでも彼の答えはノーでした。「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください。」と言いました。彼はどこまでも否定的でした。こういう人と話していると本当に疲れます。だれにでも、ある程度の恐れや不安はあります。でも何を言っても従おうとしないというのは、最初からやる気がなかったのです。

 

すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がりました。そして、彼の兄アロンを用いると言われました。すなわち、主がモーセに語ったことをアロンに伝え、その語られたことばをモーセに代わってアロンが民に語るというのです。「わたしは彼が雄弁であることをよく知っている」。新改訳第三版では「わたしは彼がよく話すことを知っている」と訳されています。モーセの兄アロンはよく話人でした。口から先に生まれて来たような人でした。彼が口を開くと説得力があるのです。でも神が選ばれたのは弟のモーセでした。ですから神はモーセを通して語られますが、それを民に伝えるのはアロンです。モーセは神のことばをアロンに伝え、アロンはモーセに代わって民に語るのです。アロンがモーセにとって口となり、モーセは彼にとって神の代わりとなるというのです。

 

それでモーセは、ようやく重い腰をあげ神に与えられた使命のために立ちあがります。しかし、その後の出エジプト記の展開をみると、モーセが「私は口が重く、下が重いのです」というのは最初だけで、後になると、彼が直接イスラエルの民に語っているのがわかります。しかも大胆に・・。彼は口べたどころか、饒舌なのです。彼が「私は口べたです」と言ったのは、単に彼がエジプトに行きたくなかったからなのか、自分の弱点を誇張していたのかわかりませんが、そのようなことが私たちもあるのではないでしょうか。私たちも自分に与えられている賜物を過小評価するあまり、いろいろな理由をつけて主に従おうとしないということがあります。できない理由を考えるのではなく、できる理由を考え、いろいろと経験をする中で、どのように主に用いていただけるのかを祈り求めていきたいものです。

 

Ⅱ.エジプトの地へ(18-22)

 

いろいろと言い訳をし、神の召しを断ろうとしたモーセでしたが、ついに神の御声に促されエジプトに向かう決心をします。18節から20節までをご覧ください。

「そこでモーセは行って、しゅうとイテロのもとに帰り、彼に言った。「どうか私をエジプトにいる同胞のもとに帰らせ、彼らがまだ生きながらえているかどうか、見させてください。」イテロはモーセに言った。「安心して行きなさい。」主はミディアンでモーセに言われた。「さあ、エジプトに帰れ。あなたのいのちを取ろうとしていた者は、みな死んだ。」そこでモーセは妻や息子たちを連れ、彼らをろばに乗せて、エジプトの地へ帰って行った。モーセは神の杖を手に取った。」

 

そこでモーセはしゅうとイテロのもとに行き、「どうか私をエジプトにいる同胞のもとに帰らせ、彼らがまだ生きながらえているかどうか、見させてください。」と言いました。ここでモーセは、主の計画の全貌を語っていません。主がエジプトにいる同胞を救うために自分を召されたということにも触れていません。どうしてでしょうか。おそらく、そのことを説明してもイテロには理解ができなかったからでしょう。主が燃える柴の中に現れたとか、杖を投げたら蛇になったとか、手を懐に入れたらツァラートになったと言って説明しても、なかなか分かってもらえるものではありません。そこで彼はエジプトにいる同胞がまだ生きているかどうか、見させてください、と言ったのです。イテロはそれを承諾しました。そして、「安心して行きなさい」と言って、モーセを送り出しました。

 

すると主は、モーセがまだミディアンにいる時に彼に仰せられました。「さあ、エジプトに帰れ。あなたのいのちを取ろうとしていた者は、みな死んだ。」これは、今がその時だということです。なぜモーセのいのちを取ろうとしていた者たちがみな死んだ時が「その時」なのでしょうか。それは、モーセの心から恐れが取り除かれる時だからです。主はそのようにして彼を励ましてくださったのです。そこでモーセは妻や息子たちを連れ、彼らをろばに乗せて、エジプトの地へ帰って行きました。手には神の杖を持っていました。この杖は、かつては単なる羊飼いの杖でしたが、今は神の杖となりました。モーセは、この杖で数々のしるしを行うことになります。

 

あなたは神の杖を持っていますか。私たちにとっての神の杖は神のことばである聖書であり、キリストの福音です。信仰を持った瞬間から、聖書は単なる本から「神の本」になるのです。私たちは何も持っていないようでも、すべてを持っています。自分の手にあるものは何かを再確認しなければなりません。

 

21節から23節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「あなたがエジプトに帰ったら、わたしがあなたの手に授けたすべての不思議を心に留め、それをファラオの前で行え。しかし、わたしが彼の心を頑なにするので、彼は民を去らせない。そのとき、あなたはファラオに言わなければならない。主はこう言われる。『イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もし去らせるのを拒むなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの長子を殺す。』」」

 

モーセがエジプトに帰ることを決心すると、主はモーセに言われました。「あなたがエジプトに帰ったら、わたしがあなたの手に授けたすべての不思議を心に留め、それをファラオの前で行え。」これは、これから先にエジプトで起こる事柄です。神に従うと決断してその一歩を踏み出すと、その次が見えてきます。いったいその先に何があるのでしょうか。

まず、モーセは神から与えられた不思議をエジプトの王ファラオの前で行わなければなりません。しかし、主は彼の心を頑なにするので、彼は民を去らせません。その時モーセはファラオにこう言わなければなりません。

「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もし去らせるのを拒むなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの長子を殺す。」

主はここで、イスラエルを「わたしの子、わたしの長子である」と言われました。イスラエルは神の子であり、神の長子です。これは神とイスラエルの特別な関係を表しています。その関係とは、アブラハム契約に基づく親子関係です。神はアブラハム、イサク、ヤコブと結んだ契約のゆえに、その子孫であるイスラエルの民を特別に扱われるのです。神はイスラエルを通して全人類を救うというご計画を持っておられました。神の長子、神の初子を苦しめる者は、自らの初子が苦しめることになります。イスラエルを苦しめたエジプトは、やがてその初子という初子は人から家畜に至るまで、すべて殺されることになります。

 

そして、それは神の民であるイスラエルだけではなく、私たちクリスチャンにも言えることです。神は私たちクリスチャンを「神の子」としてくださいました。ヨハネ1章12節には、「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」とあります。だれでもキリストを信じ、キリストを受け入れる者は神の子どもです。神との特別な関係に入れていただけるのです。ファラオは心を頑なにするのでなかなかイスラエルの民を行かせようとしませんが、しかし、それはファラオをさらに苦しめるための神のご計画でもありました。同じように、敵である悪魔は、私たちを罪の束縛からなかなか行かせようとしませんが、それは悪魔がさらに苦しむためであって、私たちを苦しめるためではありません。私たちは神の子として神に特別に愛されている者であることをしっかりと覚え、神の時を忍耐して待ち望みましょう。

 

Ⅲ.血の花婿(24-31)

 

最後に24節から31節までを見て終わりたいと思います。24節から26節をご覧ください。

「さて、途中、一夜を明かす場所でのことだった。主はモーセに会い、彼を殺そうとされた。そのとき、ツィポラは火打石を取って、自分の息子の包皮を切り取り、モーセの両足に付けて言った。「まことに、あなたは私には血の花婿です。」すると、主はモーセを放された。彼女はそのとき、割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。」

 

ここに不思議な出来事が記されてあります。モーセがエジプトに向かう途中、ある場所で一夜を明かすことになりましたが、その時主がモーセ会い、彼を殺そうとしたのです。どういうことでしょうか。モーセが致命的な病にかかり、死にそうになるのです。しかも、それは主から出たことでした。それを見た妻のツィポラは火打石を取って、自分の息子の包皮を切り取り、モーセの両足に付けて、「まことに、あなたは私には血の花嫁です。」と言うと、主はモーセを解放されました。いったいなぜ神はモーセを殺そうとしたのでしょうか。また、そのことと割礼を施していないことに、どういう関係があったのでしょうか。

 

この出来事が意味していることは明白です。それは、神は割礼を重んじておられるということです。「割礼」とは、神の民のしるしです。神がアブラハムと契約を結ばれた時、イスラエルのすべての男子は、生まれて8日目に割礼を受けなければなりませんでした。(創世記17:12)しかしモーセは、2番目の息子に割礼を施していませんでした。なぜなのか、その理由はわかりません。もしかすると、妻のツィポラが嫌ったのかもしれません。この時ツィポラが「まことに、あなたは私には血の花婿です。」と言ったのは、そういう背景があったからと思われます。ですから、もしモーセがアブラハム契約に違反したままでエジプトに下るなら、彼には出エジプトとしてのリーダーとしての資格がないということになります。それで、ツィポラがすかさず息子の包皮を切り取って、モーセの両足につけたのです。するとモーセはその瀕死の状態から解放されました。この後、妻のツィポラと2人の息子はミディアンに送り返されたようです。次にツィポラが登場には18章2節になってからです。割礼を嫌ったツィポラは、神がエジプトで行われる大いなる奇跡の目撃者になれなかったのです。

 

このことからわかることは、人は、神が用意された方法によらなければ救われないということです。それがどんなに自分にとって受け入れられないような事柄であっても、また、自分がどのように思おうと、神が命じられたことを行わなければなりません。そうでないと、神の救いに与れないばかりか、神の祝福に与ることもできないのです。その神の用意された方法とは、イエス・キリストの十字架でした。イエス・キリストは、アブラハム契約の成就としてこの世に来られ、十字架で自らのいのちをささげることによって救いの道を開いてくださいました。十字架以外に人が救われる道はないのです。このイエスを信じることはが、神と新しい契約を結ぶことです。その時、私たちの心に聖霊による割礼が施されます。新約の時代には肉の割礼が重要なのではなく、この心の割礼が重要です。心に割礼を受けているかどうかが問われているのです。

 

パウロはこの真理をガラテヤ6章14~16節でこのように言っています。「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」

あなたはどのような基準にしたがって進んでいますか。この基準にしたがって進む人々こそ神のイスラエルです。そのような人々の上にこそ、平安とあわれみがあるのです。

 

最後に27節から31節を見て終わります。

「さて、主はアロンに言われた。「荒野に行って、モーセに会え。」彼は行って、神の山でモーセに会い、口づけした。モーセは、自分を遣わすときに主が語られたことばのすべてと、彼に命じられたしるしのすべてを、アロンに告げた。それからモーセとアロンは行って、イスラエルの子らの長老たちをみな集めた。アロンは、主がモーセに語られたことばをみな語り、民の目の前でしるしを行った。民は信じた。彼らは、主がイスラエルの子らを顧み、その苦しみをご覧になったことを聞き、ひざまずいて礼拝した。」

 

一方、主はアロンに現われて言われました。「荒野に行って、モーセに会え。」すると彼は行って、神の山ホレブでモーセに会いました。実に40年ぶりの再会です。モーセはこれまでの経緯をすべてアロンに告げまた。そして、二人が行ってイスラエルの長老たちをみな集めると、主がモーセに語られたことばをみなアロンが民に語り、民の前でしるしを行いました。すると、民は主が言われたとおり信じました。イスラエルの民はモーセが主から遣わされた人として認めたのです。主がイスラエルの子らを顧み、その苦しみをご覧になったことを聞き、ひざまずいて主を礼拝しました。主は決して彼らをお見捨てになりませんでした。400年という長い間苦しんできましたが、主が顧みてくださる時が来たのです。主は、あなたのことも忘れてはおられません。必ず顧みてくださいます。そして、その解決のために手を差し伸べてくださいます。それを待ち望みましょう。

ヨハネの福音書6章16~21節「わたしだ。恐れることはない」

ヨハネの福音書6章から学んでおります。きょうは、16節から21節までの箇所から、「わたしだ。恐れることはない」というタイトルでお話ししたいと思います。私たちは、日々いろいろなことで恐れながら生きています。先週の水曜日の朝、私が仙台に向かっていた新幹線の中でM姉からお電話がありました。ご主人が脳梗塞のため今救急車で病院に運ばれて行きました。祈ってください、というものでした。その声には、どうしたら良いのかわからないというM妹の不安が見えました。ご自分も車椅子での生活のため、ご主人のために何もして差し上げられないという状況の中で、どれほど不安だったかと思うのです。私は仙台にいる間ずっとご主人と奥様のために祈っておりましたが、帰宅した翌日に病院のご主人の許を伺った時ご主人の左手、左足は動き、言葉も以前のように話すことができたので、主が支えてくださったと信じて感謝しました。ご主人とお話しして帰る際、私が、「いや、言葉をしゃべることができて良かったですよ。感謝です。」と言ったら、「口は災いのもとだがんね。」と冗談まで言うのです。「だから配慮が必要なんだね」と。

 

このようなことは突然起こります。そのような時、私たちは本当に無力な存在であることを思い知らされます。いったいどのようにしてそのような不安や恐れに打ち勝つことができるのでしょうか。きょうは、このことについてみことばから学びたいと思います。

 

Ⅰ.湖の上を歩かれたイエス(16-19)

 

まず16節から19節までをご覧ください。

「夕方になって、弟子たちは湖畔に下りて行った。そして、舟に乗り込み、カペナウムの方へと湖を渡って行った。すでにあたりは暗く、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。強風が吹いて湖は荒れ始めた。そして、二十五ないし三十スタディオンほど漕ぎ出したころ、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て恐れた。」

 

「夕方になって」とは、その日の夕方になってということです。その日何があったのでしょうか。その日、イエス様は5つのパンと2匹の魚をもって、男だけで五千人の人々の空腹を満たされました。その日の夕方のことです。イエス様が五千人の給食の奇跡を行われたのも夕食の出来事でしたから、時刻は6時か、7時頃になっていたのではないかと思います。

 

夕方になって、弟子たちは湖畔に下りて行きました。そして、舟に乗り込むと、カペナウムの方へと渡って行ったのです。マタイの福音書とマルコの福音書の並行箇所には、主は弟子たちを、「強いて」舟に乗り込ませた、とあります。強制的にそのようにしたのです。なぜでしょうか?それは弟子たちがまだ霊的には無知だったので、彼らの信仰を試そうとされたからです。あの5つのパンと2匹の魚の話もそうでしたね。6節には、イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであった、とあります。イエス様ご自身は、何をしようとしているのかを、ちゃんと知っておられましたが、弟子たちの霊的な目はまだ開かれていなかったので、これから起こる出来事を通して彼らに霊的真理を教えようとされたのです。それはどのようなものだったのでしょうか。

 

弟子たちが舟に乗り、カペナウムの方へと湖を渡って行くと、すでにあたりは暗くなっていました。弟子たちの心中いかばかりであったでしょうか。暗闇の中で湖の上を漂っていたのです。イエス様もいませんでした。どんなに不安であったかと思います。しかし、それに追い打ちをかけるかのように、不安はピークに達します。強風が吹いて湖は荒れ始めたのです。ガリラヤ湖は内陸にある湖ですが、このように湖が突然荒れるということがありました。というのは、ガリラヤ湖は海面の高さよりも200メートルも低い所にあって、しかも周囲が山で囲まれてすり鉢のようになっているため、時々こうした突風が吹いて来ることがあるのです。そうなると、プロの漁師でさえお手上げでした。弟子たちの中にはかつてこのガリラヤ湖で漁師をしていた人が4人もいましたが、それでもどうすることもできませんでした。19節を見ると、「25ないし30スタディオンほど漕ぎ出したころ」とありますが、これは距離にして約4~5キロメートルほどです。マルコの福音書には、「夜明けが近づいたころ」(6:48)とあります。これは今の時間でいうと午前3時~6時の間のことですから、彼らは既に9時間近くも湖の上で葛藤していたことになります。弟子たちは、自分たちがどれほど無力であるのかを痛感させられたことでしょう。

 

これはちょうど孤独な人生の戦いをしている私たちのようです。どんなに漕いでも前に進まず、先が見えないということがあります。自分一人で戦っているのではないかと思えるような孤独にさいなまれることがあるのです。そんな時自分の弱さというものを痛感させられます。どんなに強がってみたところで、所詮、人間は弱いのです。どうしたら良いかわからなくて悩む時があるのです。

 

その時です。イエス様が湖の上を歩いて舟に近づいて来られました。ところが、それを見た弟子たちは、恐れました。なぜ恐れたのでしょうか。幽霊だと思ったからです。マルコ6章49節にそのように記されてあります。彼らは、幽霊だと思って、叫び声を上げました。それもそのはずです。マルコの福音書には、イエス様は湖の上を歩いて彼らのところへ行かれましたが、そばを通り過ぎるおつもりであった、とあるからです。フェイントです。皆さん、想像してみてください。そんな真夜中に、白い服を来た人が湖の上を歩いて来たかと思ったら、スッーと通り過ぎようとしたんですよ。イエス様もイエス様ですよね。弟子たちの乗った舟にバァッと近づいて来て、「大丈夫か・・」と呼びかけてくれたのなら、「主よ。あなただったんですね。大丈夫です。ちょっとはビビったけど・・。」とか言えたと思いますが、スーでしょ。弟子たちが幽霊だと思って、叫び声を上げるのも無理もありません。しかし何と言ってもこの時彼らが恐れたのは、イエス様が水の上を歩いて来られたからです。人間が水の上を歩くなんて考えられません。それは自然の法則を超えています。人はみな何か超自然的でこの世のものではないようなものに突然出くわしたら、誰でも恐怖を感じるものです。特にそれが夜であれば、なおさらのことです。ですから、決してこの時の弟子たちを責めることはできません。

 

しかし、彼らが理解していなかったことが一つだけありました。それは、イエス様は単なる人間ではなかったということです。イエス様は人間以上の方でした。確かに普通の人間なら水の上を歩くことはできないでしょう。しかし、イエス様はただの人間ではありませんでした。人間の姿をとってこの世に来られた神でした。ですから、この方にとってできないことは一つもないのです。最初に水を創造された方にとってその上を歩くことは、それを創造なさるのと同じくらい簡単なことだったのです。むしろ、それができないという方がおかしいのです。

 

ある人たちは、いや、イエス様は実際には水の上を歩いたのではないと言います。ただ弟子たちが勘違いしただけだと言うのです。イエスは、舟に近い岸を歩いていただけだったのに弟子たちの恐怖心から来た迷信によって、そのように思い込んでしまったというのです。でも、そうではありません。イエス様は本当に水の上を歩かれました。それは、マタイの福音書にあるもう一つの事実を見るとわかります。マタイの福音書には、この時幽霊だと思った弟子たちに、主が「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われると、ペテロが、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください。」(14:28)と言ったことが記されてあります。それで、イエス様が「来なさい」と言うと、ペテロは舟から出て、湖の上を歩いてイエスの方に行きましたが、強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫びました。(マタイ14:30)つまり、もしこれが本当に水の上でなかったら、ペテロが沈みかけるということはなかったということです。これは本当に水の上での出来事だったのです。また、もしイエス様が岸から4~5キロメートルも離れたところにいたのであれば、どうやって岸辺を歩いていたイエス様の姿を見ることができたでしょうか。できません。どんなに弟子たちが若かったとしても、4~5キロメートル先までは見えなかったでしょう。視力が8.0、10.0と言われているアフリカのマサイ族でさえ、そんなに遠くまでは見えません。ですから、イエス様が水の上を歩かれたというのは、本当に起こった出来事であり、主の力ある御業だったのです。

 

けれども、弟子たちは、それを見た時幽霊だと思いました。まさか人が水の上を歩くことができるとは思わなかったからです。彼らは、不安と恐れの中で信仰を働かせることができませんでした。彼らはほんの数時間前に驚くべき奇跡を体験していたにもかかわらずです。彼らは、5つのパンと2匹の魚で、男だけで五千人の人たちの空腹が満たされるという主の驚くべき奇跡を体験しました。しかもそれを主のみそば近くではっきりと見ました。その手で配りました。そして、残ったものを数えると12のかご一杯であったことも頭の中に焼き付けていました。それなのに、あたかも主のことを知らず、体験もしていない者と同じような反応をしたのです。せっかく間近で体験させていただいた奇跡が、彼らの信仰の中にちっとも生きていなかったのです。信仰はただ単に頭の中に記憶することでなく、キリストの言葉を実際の生活に適用することが大切なのです。

 

あなたはどうでしょうか。不安や恐れにさいなまれるような状況に置かれた時、どのように対応するでしょうか。目の前の状況に目が行ってしまい、イエス様から目を離してしまうということはないでしょうか。恐れに支配されているということはありませんか。しかし、大切なのは、イエス様を見ることです。そして、そこにすべてを支配しておられる主がおられることを認め、「主よ、助けてください。」と叫ぶことなのです。そうすれば、主が助けてくださいます。

 

Ⅱ.わたしだ。恐れることはない(20)

 

主はどのように助けてくださるのでしょうか。次に、そんな弟子たちに対するイエス様の対応を見たいと思います。20節をご覧ください。ご一緒に読んでみましょう。

「しかし、イエスは彼らに言われた。『わたしだ。恐れることはない。』」

イエス様は、幽霊だと思って恐れていた弟子たちに、「わたしだ。恐れることはない。」と言われました。イエス様は、弟子たちが恐れているのをご覧になると、まず彼らの心を静めようとされました。どのようにして静めようとされたのでしょうか。主は弟子たちに対して、「わたしだ。恐れることはない。」と言われ、彼らが見ているものは霊や幽霊ではなく、あるいは、敵や恐怖の対象でもなく、彼ら自身が愛してやまないイエス様ご自身であることを示されたのです。弟子たちは、すぐにそれがイエス様であることがわかりました。なぜなら、彼らはいつもイエス様の声を聞いていたからです。声って不思議ですね。見なくてもわかります。最近は「オレオレ詐欺」が流行っているようですが、自分の息子の声でも間違えることがあるんですね。もう息子だと思い込んで聞いていますから、そのように聞こえるのでしょう。それは注意しなければなりません。しかし、イエス様の声は間違えません。どんな声だったかわかりませんが、その声は、彼らの心を静めるのに十分でした。

 

皆さん、私たちも人の声を聞くと恐れてしまいます。あの人はこう言った、この人はこう言ったと、人の声に振り回されると恐れと不安に陥ってしまうのです。でも主の声を聞くなら、私たちを恐れさせる一切のものは消え去るでしょう。イエス様はこのように言われました。

「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。」(マタイ10:28-31)

主は、あなたは髪の毛の数さえすべて知っておられます。あなたの髪は何本ありますか?わからないでしょう。あなたでもわからないことでも、イエス様はすべて知っておられます。この主の言葉を常に聞き、すべてのことにおいて主を認めるなら、私たちを恐れさせるものは何もないのです。最も厚い雲と暗闇を貫いて、また、最もうるさい風や嵐を越えて、「わたしだ。恐れることはない。」という主の御声を聞くことができる人は何と幸いでしょうか。

 

ところで、この「わたしだ」という言葉ですが、これは原文のギリシャ語では「エゴー・エイミー」という言葉が使われています。これは、ユダヤ人によく知られていた神の御名です。昔、神がイスラエルをエジプトから救う時、そのためにモーセを遣わされましたが、モーセは一介の羊飼いにすぎない自分に何ができようかと断りました。その理由の一つは、自分がエジプトにいるイスラエル人たちのところへ行き、「あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた」と言っても、彼らは「その名は何か」と聞くでしょう。その時何と答えたら良いのか、というものでした。その時、神はモーセにこう仰せられました。

「わたしは『わたしはある』という者である。・・あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」(出エジプト記3:14)

これが永遠にわたる神の名です。それにしても不思議な名前です。どうして不思議に感じるのかというと、これは英語では、「I AM WHO I AM.」となっています。普通、I amの後には何らかの単語が来ますよ。たとえば、I am a student.(私は生徒です)とか、I am a doctor.(私は医師です)というように。 それなのに、ただ I am だけです。日本語に訳せば、「私は~である」です。この「~」がないのです。これはどういうことかというと、神様はほかの何にも依存しない方であるという意味です。自分自身で存在することができる方であられるということです。すべての存在の根源であられます。私たち人間はそうではありません。私たちは何かに依存しなければ生きていくことはできません。たとえば、私たちが生きていくためには水や空気がなければ生きることはできません。また、食べ物も必要です。小さな時は両親の手によって助けられ、自立してからもいつも周りの人に助けられながら生きてきました。年を取ると家族のお世話にならければなりません。人はみなだれかに助けられ、だれかに依存しながらでなければ生きていくことができないのです。けれども神はそうではありません。神は「わたしはある」という方です。ほかの何にも依存しない方、すべての存在の根源であられる方なのです。

 

そして、このヘブル語をギリシャ語に訳した時、そこで使われた言葉が「エゴー・エイミー」なのです。イエス様がここで言われた「わたしだ。恐れることはない」の「わたしだ」です。「It is I」です。イエス様こそ、すべての存在の根源であられる方であるということです。イエス様はこのことをご自分ではっきりと宣言されました。このヨハネの福音書8章58節です。

「イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から「わたしはある」なのです。』」

イエス様は、「わたしはある」という方なのです。すべての存在の根源であられます。すべて存在の根源であり、すべてを創造された方が、私たちとともにおられるのです。であれば、私たちは何を恐れる必要があるでしょうか。何も恐れる必要はありません。この方がともにおられますから、何も恐れることはないのです。私たちにとって必要なのは、目の前の問題を見て恐れることではなく、「わたしだ」と言われる主の御声を聞いて、この方を舟の中に迎え入れることです。

 

先日、天国に召されたY姉妹の愛唱聖句は、イザヤ書41章9~10節でした。

「わたしはあなたを地の果てから連れ出し、地の隅々から呼び出して言った。『あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、退けなかった』と。恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」

何と力強いみことばでしょうか。葬式でもお話ししましたが、Y姉は、本当に平安のうちに天国に召されました。死を前にして恐れない人がいるでしょうか。どんなに強がって見ても、やはり死ぬことには恐れがあります。ご病気になられてからY姉を訪ねてご自宅を伺ったとき、Y姉はこう言われました。「先生、やはり死ぬことは怖いです。でも、信仰ってすばらしいですね。平安が与えられるんですから。イエス様のもとに行くということがわかっているから、平安があるんです。ただできるだけ苦しまないで行きたいですね。」その言葉通り、最後はあまり強い薬を服用することなく、静かに、眠るようにして、平安のうちに、イエス様の許へ旅立って行かれました。

 

皆さん、信仰ってすばらしいですね。このイエス様の御声をいつも聞いて歩めるのですから。聖書には「恐れるな」という言葉が365回書かれていると言われています。すなわち、一日に一回「恐れるな」と言っていることになります。しかし、もっと大切なことは、その前のイザヤ書41章9節の御言葉です。

「わたしはあなたを地の果てから連れ出し、地の隅々から呼び出して言った。『あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、退けなかった』と。

ここには、なぜ恐れないのか、その理由が書かれてあります。それは、イエス様が私を地の果てから連れ出し、地の隅々から呼び出し、「あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、退けなかった。」と言われたからです。つまり、イエス様が私たちを罪から贖い、ご自身の民としてくださったからです。本当に罪に汚れた小さな者を、神は選んで、退けませんでした。愛してくださったのです。だから、恐れないのです。神が私ともにいますから。たじろぎません。神は私の神だから。神は私を強くし、私を助け、その義の右の手で、私を守ってくださるからです。

 

詩篇56篇11節には、「神に信頼し私は何も恐れません。人が私に何をなし得るでしょう。」とあります。この詩篇の作者は、神様の力を知って、理解していたので、何が起こったとしても神様に信頼すると告白することができたのです。恐れに打ち勝つための鍵は、神様であられるイエス様に完全に信頼する事にあります。つまり、イエス様に信頼する事は恐れに支配される事を拒否する事であるとも言えるのです。神様に信頼するとは、つらくて、つらくてたまらない時にも神様を見上げ、神様が事を解決してくださると信じる事です。このような信頼は神様を知り、神様があなたを罪から贖ってくださった救い主であると信じる事から始まります。聖書に書かれている数々の艱難の中でも特筆されるほどに人生のどん底にいたヨブは、神が私を殺しても、私は神を待ち望む(ヨブ13章15節)と言いました。
神様に信頼する事を学んだなら、私たちを襲ってくる数々の事柄におびえる事はなくなるでしょう。詩篇5篇11節には、「どうかあなたに身を避ける者がみな喜びとこしえまでも喜び歌いますように。あなたが彼らをかばってくださり御名を愛する者たちがあなたを誇りますように。」とあります。私たちも主に身を避けるなら、どんなに恐れにさいなまれることがあっても、とこしえまでも喜び歌うようになれるのです。それは、主に身を避けることを知っている者にだけ与えられた、豊かな主の恵みなのです。

 

Ⅲ.すると、舟はすぐに目的地に着いた(21)

 

では、その結果、弟子たちはどうなったでしょうか。21節をご覧ください。

「それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。すると、舟はすぐに目的地に着いた。」

 

イエス様の御声を聞いた弟子たちは、喜んでイエスを舟の中に迎え入れました。すると、舟はほどなく目的地に着きました。イエス様抜きではどんなに努力しても徒労に終わってしまう者でも、イエス様を主として心の中に迎え入れる時、私たちはすぐに目的地に到達することができるということです。多くの人々は、イエス様なしでも十分やっていけると思っています。すべてが順調にいっている時は、それでもいいでしょう。しかし、いつもそうであるとは限りません。夫婦関係や親子関係、あるいは他の人との人間関係において、あるいは、職場や学校や家庭の台所で直面する様々な場面において、私たちは常に嵐に遭遇します。そのような時、人間の力というものがいかに弱く、もろいものであるかということを、私たちはこれまでの人生において幾度となく経験してきました。しかし、この方を心の舟に迎え入れ、この方とともに人生の舟を進めていくなら、必ず目的地に到着することができるのです。

 

イエス様は、水や風、嵐や暴風の主であり、最も深い暗闇に包まれた時に、湖の上を歩いて私たちのもとに来てくださる方です。私たちの人生にはガリラヤ湖の波よりも、はるかに大きな問題があります。最もきよいクリスチャンの信仰を試す、暗闇の日々があります。しかし、すべての存在の根源であられるイエス様が私たちを贖ってくださり、私の神となってくださったのなら、決して絶望してはなりません。この方を私たちの人生の主として迎え、この方に信頼して歩むなら、たとい小舟のような小さな者であっても、また、どんなに大きな人生の嵐に遭遇することがあったとしても、なんなくそれを乗り越えて、目的地に到達することができるからです。主は思いもよらない時に、また私たちが予期していなかった方法で、私たちを助けるために来てくださいます。そしてキリストが来られたなら、そこからすべてが始まるのです。あなたも喜んでイエス様を舟に迎えてください。そして、この人生の航路をイエス様とともに進んで行こうではありませんか。

ヨハネの福音書6章1~15節「5つのパンと2匹の魚」

ヨハネの福音書6章に入ります。きょうは、「5つのパンと2匹の魚」というタイトルでお話しします。イエス様が、五つのパンと二匹の魚をもって男の人だけで五千人の人々の空腹を満たされたという奇跡です。この奇跡は、四つの福音書すべてに記録されています。キリストの十字架の死と復活の出来事以外に、四つの福音書すべてに記録されているのはこの奇跡だけです。ですから、これはそれだけ重要な奇跡であったと言えます。これは、ヨハネが記す七つのしるしの第四番目のしるしです。最初のしるしは、ガリラヤのカナで水をぶどう酒に変えるという奇跡でした。二番目は、王室の役人の息子の病気を癒すという奇跡でした。そして三番目しるしは、38年も病気で横になっていた人を癒されるという奇跡でした。そして、これが四番目の奇跡です。

 

Ⅰ.信仰のテスト(1-6)

 

まず1節から6節までをご覧ください。

「その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、ティベリアの湖の向こう岸に行かれた。大勢の群衆がイエスについて行った。イエスが病人たちになさっていたしるしを見たからであった。イエスは山に登り、弟子たちとともにそこに座られた。ユダヤ人の祭りである過越が近づいていた。イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。」

 

「その後」とは、5章の出来事の後でということです。先ほども申し上げましたが、5章には過越しの祭りでエルサレムに行かれたイエスが、ベテスダと呼ばれる池で38年も病気だった人をいやされたことが記されてあります。そして、そのことがきっかけとなって、イエスはご自分がメシヤであるということを証明なさいました。「その後」です。その後、イエスはガリラヤ湖、すなわち、ティベリアの湖の向こう岸に行かれました。舞台がエルサレムからガリラヤへと移っています。しかも、4節を見ると、「ユダヤ人の祭りである過越しの祭りが近づいていた」とありますから、5章の出来事から1年近くが経っていたということになります。ヨハネは、この1年間に起こったほとんどすべての出来事を省略し、このガリラヤ湖、すなわちティベリア湖の向こう岸で起こった出来事を記しているのです。

 

ここに、「ガリラヤ湖、すなわち、ティベリア湖」とあるのは、ヨハネがこれを書いた当時、ガリラヤ湖という名称よりもティベリア湖という名称の方が人々によく知られていたからです。これが当時ガリラヤに住んでいた人たちにとってなじみのある呼び名だったのです。

 

イエス様は、なぜティベリアの湖の向こう岸へ行かれたのでしょうか。マルコ6章31節を見ると、イエスが弟子たちに、「あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい」とあります。出入りする人が多くて、食事をする暇さえなかったのです。それで弟子たちは舟で向こう岸に行ったのです。ところが、行ってみると、そこには大勢の群衆がイエスについて来ました。群衆は、湖の周りを回って、徒歩で駆け付けていたのでしょう。なぜそんなにも多くの人々がイエスについて来たのでしょうか。それは2節にあるように、「イエスが病人たちになさっていたしるしを見た」からです。何か特別な理由があったからではありません。イエス様のご人格やその教えに驚嘆したからでもないのです。しるしを見て驚いたからです。しるしとは、証拠としての奇跡のことです。イエス様は、ご自身がメシヤであることを示すために多くの奇跡を行いました。それで大勢の群衆がイエスについて来たのです。

これが、この世のほとんどの人が集まって来る理由です。一般に人は無力ですから、自分の人生に何か悩みや問題があるとどうしたらよいか分からなくなり、自分の力を越えた力にひきつけられていくのです。10節には、それは男だけで五千人であったとありますから、女の人や子供たちを合わせるとゆうに一万人は超えていたでしょう。それだけ大勢の人がついて行きました。

 

イエス様は、その大勢の群衆がご自分の方に来るのを見ると、ピリポにこう言われました。5節です。「どこからかパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」なぜこのように言われたのでしょうか。6節にその理由があります。「イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。」

イエス様がこのように言われたのは、ピリポを試すためでした。それはピリポがほかの弟子たちと違って、根性が曲がっているから直して上げようと思ったからではありません。このように言うことでピリポの霊的感覚を呼び覚まし、彼の信仰を訓練しようとされたのです。イエス様は、これから何をなさろうとしていたかを知っておられました。それなのに、あえてピリポにこのように言われたのは、彼を試すためだったのです。イエス様は霊的、精神的必要だけでなく、それに伴う実際的生活のすべての必要を満たされると方であるという信仰を持ってほしかったのです。

 

私たちもどこか、霊的、精神的な必要は信仰で、でも実際の生活は自分で何とかしなければならないと思っているところがあるのではないでしょうか。そのため、実際の生活で問題が起こると、それを信仰と切り離して考えようとするのです。そしてにっちもさっちも行かなくなると絶望して、落ち込んでしまうのです。そうではなく、主は私たちの魂の必要だけでなく、肉体の必要も、またそれに伴う実際的な必要もすべて満たしてくださる方であると信じて、天を仰ぎ、主が成してくださるみわざに期待しなければならないのです。

 

Ⅱ.ピリポとアンデレの対応(7-8)

 

それに対して、弟子たちはどのように答えたでしょうか。まずピリポです。7節をご覧ください。

「ピリポはイエスに答えた。『一人ひとりが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。』」

1デナリは、1日分の労働者の賃金に相当します。ですから、200デナリとは、労働者の賃金200日分に相当する金額です。仮に1日1万円の賃金だとすると200万円となります。ピリポは、めいめいが少しずつ取るにしても、200万円分のパンがあっても足りません、と答えました。ピリポはとても理性的、現実的な人でした。男だけで5千人、女の人や子供を合わせるとゆうに1万人は超えるので、このような数字を提示したのでしょう。彼の頭には計算機があって、ピッ、ポッ、パッとはじき出し、「だから無理です、不可能です。」と結論づけたのです。

 

常識的にはそうだったかもしれません。しかし、それが彼の欠点でもありました。彼は、現実的にしか物事を見ることができませんでした。しかし、イエス様が求めた答えはそのように人間の頭で計算して「だからだめだ」と結論付けるのではなく、そうした考えを超えて、神を求める者に、神はすべての必要を満たしてくださるという信仰を持つことでした。もしそこに信仰の目があれば可能な面を見ることができたはずです。主がおられるなら、主が何らかの解決を与えてくださると信じて祈り求めたことでしょう。でも彼は現実的にしか考えることができませんでした。それで「二百デナリのパンでは足りません」と答えたのです。私たちも、ピリポのように、自分の頭で考えて、「だからだめだ」と結論付けることがあるのではないでしょうか。

 

次に、シモン・ペテロの兄弟アンデレです。アンデレはイエス様にこう言いました。9節です。

「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」

アンデレの対応はピリポとは少し違いました。彼は、大麦のパン5つと、魚2匹を持っている少年をイエス様のもとに連れて来ました。もしかすると何とかなるかもしれないと思ったのかもしれません。しかし、結局のところ彼も、「でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」と結論付けています。彼も信仰を働かせることができませんでした。これっぽっちでは何の役にも立たないと勝手に決め込んで、あきらめていたのです。私たちもアンデレのような態度をすることがあります。「たったこれだけでいったい何になるというのか、無理だ、だめだ、できない」と、最後は否定的な言葉を口にしてしまうのです。

 

Ⅲ.余りは12かご(10-15)

 

それのような弟子たちに対して、イエス様はどのようにされたでしょうか。10節から15節までをご覧ください。

10節には、「イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であった。」とあります。

イエス様はまず人々を座らせました。どうして座らせたのでしょうか。落ち着かせるためです。ルカの福音書には、50人ずつ組みにして座らせたとあります(9:15)。大勢の人々が集まる時はとても大切な配慮です。このようにすることで混乱を防ぎ、秩序を維持することができるからです。

そうして、イエス様はパンを取ると、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられました。(11)。 魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられました。イエス様は、父なる神への感謝を忘れませんでした。そして、弟子たちを用いて配られたのです。

 

するとどうなったでしょうか。12節と13節をご覧ください。

「彼らが十分食べたとき、イエスは弟子たちに言われた。「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」そこで彼らが集めると、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった。」

「彼らが十分食べたとき」というのは、彼らが満腹したという意味です。これはこの奇跡が現実のものであったことをよく示しています。実際には食べてもいないのに食べたかのように思い込んだというのではなく、実際に食べて満腹したのです。どういうことでしょうか。この出来事を合理的に説明しようとする人たちは、実は大人たちも自分の弁当を持っていたのに、出さないでいたところ、子どもが自分の弁当を出したので、恥ずかしく思い、自分の弁当を出したので、みんな満腹したのだ、と考えます。しかし、これはそういうことではありません。これは奇跡なのです。本当にあったことなのです。その証拠に、余ったパン切れを集めると12のかごがいっぱいになりました。5つのパンと2匹の魚だけでは、一つのかごもいっぱいにはならないでしょう。それなのに、食事の後に余ったパン切れが12のかごいっぱいになるほどであったというのは、明らかに、それが配られている間に奇跡的にパンが増えたことを物語っています。この余ったパン切れだけでも、食事をする前にあった5つのパンの、おそらく50倍もの量であったでしょう。マルコは、パン切れだけでなく、かごに入れられた魚の残りもあったと述べています。したがって、パンとともに魚も奇跡的に増し加えられたのです。

 

いったいこれはどういうことでしょうか。14節をご覧ください。ここに、その結論がこう記されてあります。

「人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。」

「人々」とは、この奇跡を目の当たりにした人々のことです。その人々は、イエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言いました。「世に来られるはずの預言者」とは、申命記18章15節に約束されている、「モーセのような預言者」のことです。それは、来るべきメシヤ、救い主のことを指し示していました。

 

つまりこの奇跡は、イエスこそ旧約聖書が預言していたメシヤであるということを示す証拠だったのです。特にこの奇跡においては、イエス様が単に壊れたものを治したり、崩れたものを建て直したり、病んでいる人をいやしたり、弱い者を強めたりすることができるということだけでなく、それまで何も無かったところから新しい何かを造り出すことができる創造者であられるということが強調されています。主は、私たちの必要を十分に満たすことができる方なのです。余ったパン切れが12かごであったというのは、「12」という数字が「7」という数字と同じように完全数であることから、これが十分であるということ、完全であるということを表しています。皆さん、信じますか。主はあなたの必要を十分に満たすことができる方なのです。

 

先日の教会総会でビジョン2025について話し合いました。それは2025年までに新しい教会を生み出すというものです。現状を見るなら無理だと感じた方もおられたでしょう。私の中にも、「大丈夫だろうか、どうやってそれができるんだろう」という思いがあります。しかし、大切なのは私たちがどのような者であるかとか、どのような状況にあるのかということではなく、何を第一にしているかということです。神の国とその義とを第一にするなら、神はそれに加えてすべてのものを与えてくださいます。イエス様はこのように言われました

「ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(マタイ6:25-34)

罪深いこの世界においては、目に見えるものがすべてです。食べ物、飲み物、着物、お金、そうしたものに縛られながら生きています。しかし、これらのものが私たちの罪を赦し、心を満たし、良心をきよめ、平安を与えることはできるでしょうか。できません。私たちの心も体も満たすことができるのは十字架につけられたイエス・キリストと、その死によって成し遂げられた贖いを信じる信仰だけです。神の国とその義とを第一に求めるなら、それに加えて、すべてのものは与えられるのです。

 

よく信仰は日常生活が心配のない、安定した人々がする趣味か娯楽のようなものだと考えている方おられますが、決してそうではありません。むしろ、そうした心配が尽きないこの世の現実の中にあって、神の国と神の義を第一に求めていくことで、神がこれらのすべてを与えてくださるという生ける神を体験することなのです。

 

パウロは、こう言っています。「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」(Ⅰコリント1:18)十字架のことば、キリストの福音は、すべての人の、すべての必要を満たすのに十分なのです。

 

であれば、私たちは、私たちにあるものを主に差し出そうではありませんか。それがたとい5つのパンと2匹の魚のようなわずかな者であっても、それを主が握られるとき、主はそれを何倍にも祝福してくださいます。このわずかな食べ物をイエス様のもとに持って来たのはアンデレでしたが、それは一人の子供のひとり分の弁当にすぎない本当に小さなものでした。しかし、それが主の御手に握られると、男だけで五千人の空腹を満たすことができました。私たちも何の力のない、本当に取るに足りない小さなものですが、それがイエス様の手に握られるなら、子供ひとり分の弁当のような存在でも、主は大きく用いてくださいます。大切なのは、私たちがどのような者であるかということではなく、誰に握られているかということです。

昔、モーセがエジプトに捕らえられていたイスラエルを救い出すために召されたとき、彼は「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」(出エジプト記3:11)

「彼らは自分の言うことを信じず、自分の声に耳を傾けないでしょう。むしろ、「主はあなたに現われなかった。」と言うでしょう。」(出エジプト記4:1)その時、自分はどうしたらいいんですか?

すると主は言われました。「あなたの手にあるものは何か」(出エジプト記4:2)

「杖です。」

主は、「それを地に投げよ。」と言われました。するとそれは蛇になりました。自分は何も持っていないと思っていたモーセでしたが、彼には神の杖があったのです。

私たちも自分には何もないと思っています。こんなわずかなものが何になるだろうと思っているかもしれません。でも、それがどんなにわずかなものでも、信仰をもって主に差し出すなら、主はそれを用いて大いなる御業を成してくださるのです。

私たちの手にあるものは何でしょうか。信仰によってそれを主に差し出しましょう。主は満たしてくださると信じて、主の御業を待ち望みましょう。イエス様が第四のしるしとしてこの奇跡を行ったのは、あなたがこの信仰に生きるためだったのです。

 

ヨハネの福音書5章30~47節「キリストを証しするもの」

ヨハネの福音書5章から学んでおります。イエス様はベテスダの池で38年間も病気で横になっていた人をいやされると、「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」と言われました。するとユダヤ人たちは、ますますイエス様を殺そうとしました。それはイエス様がご自分を神と等しくされたからです。

 

そこでイエス様は、確かにご自身が神の子であると証言されました。しかし、モーセの律法によると、あることを証明するためには二人または三人の証言が必要とされていたので(申命記17:6)、イエス様は、きょうの箇所で四つの証言を取り上げ、ご自身が神の子メシヤであることを証明されるのです。

 

Ⅰ.四つの証言(30-39)

 

まず、30節から35節までをご覧ください。

「わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。もしわたし自身について証しをするのがわたしだけなら、わたしの証言は真実ではありません。わたしについては、ほかにも証しをする方がおられます。そして、その方がわたしについて証しする証言が真実であることを、わたしは知っています。あなたがたはヨハネのところに人を遣わしました。そして彼は真理について証ししました。わたしは人からの証しを受けませんが、あなたがたが救われるために、これらのことを言うのです。ヨハネは燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で大いに喜ぼうとしました。」

 

まず、イエス様はバプテスマのヨハネの証言を取り上げます。彼の証しについては、既に1章19節からのところで見てきました。彼は、当時、キリストではないかと人々から思われていたほど偉大な人物でした。しかし、その彼が、「私はキリストではありません」(1:20)とはっきりと否定し、「私その私の方は私の後から来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」と証ししました(1:27)。イエス様はここで再びそのヨハネの証しを取り上げているのです

33節には、「あなたがたはヨハネのところに人を遣わしました。そして彼は真理について証ししました。」とあります。また35節には、「ヨハネは燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で大いに喜ぼうとしました」とあります。ここでヨハネのことが過去形で書かれてあるのは、おそらくイエス様がこのことを語られた時、すでに彼はヘロデ王に殺されていたからではないかと考えられます。しかしこの殉教者ヨハネの忠実な証しを、イエス様は決してお忘れにはなりませんでした。その証しを高く評価されたのです。私たちはこのことに心を留めたいと思います。私たちも、この世では何の評価も受けることのない小さな者に過ぎませんが、主はこのような者の証しを高く評価して用いてくださいます。いったいそれはどうしてでしょうか。

 

その理由が34節にあります。「わたしは人からの証しを受けませんが、あなたがたが救われるために、これらのことを言うのです。」新改訳第三版には、34節の冒頭に「といっても」という言葉があります。「といっても、わたしは人の証言を受けるのではありません。」確かにヨハネの証しは高く評価されるものですが、だからといって、イエスが神であるということを立証するために人からの証を必要としているわけではないということです。イエス様がここでヨハネの証言を取り上げ、これらのことを言ったのは、「あなたがたが救われるため」、すなわち、ユダヤ人たちが救われるためでした。彼らが救われるためにヨハネの証言が必要だったのです。彼らがバプテスマのヨハネが証ししていたことを思い出し、「ああ、そう言えば、あのバプテスマのヨハネも言っていた」と思い出し、救われるためです。つまり、私たちの証しは本当に小さなものですが、主はこのような小さな者の証しさえ人々の救いのために用いてくださるということです。

 

一昨日、さくらチャーチのY姉が天に召されました。昨年6月に末期の膵臓癌であることが判明してから8か月、神様に守られて実に安らかな日々を過ごされまた。ご主人の死をきっかけに教会に導かれキリストの信仰に導かれたのは60歳の時でした。数々の試練がありましたが、それでも毎朝早く起きて聖書に向かい、聖書通読に励みました。そのためか礼拝の中で祈っていただくと語られた聖書のことばを的確にとらえることができただけでなく、それをご自分の生活に適用することができました。先輩のクリスチャンからは「聖書を読むだけではね・・・」と言われましたが、確かに聖書を読むだけでは変わらないかもしれません。しかし、聖書全体の流れを掴むことができ、聖書が語っているイエス・キリストの恵みに生きることができました。回りの方が「悩んでいると「大丈夫だから、イエス様にゆだねればイエス様が解決してくれるから」と言って励まし、そのことばをご自分でも生きられました。そのため、病の中にあっても実に平安でした。それは死をも乗り越えていました。Y姉が書かれた証の最後には、このヨブ記のみことばが記されてありました。

「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:21)

T姉の信仰は目立たない小さな証であるかのようでしたが、その証に多くの人々が励まされ、中には信仰に導かれた方もおられます。私たちもそのような者でありたいと思います。私たちも本当に小さな者にすぎませんが、主はこのような忠実な証を用いてくださるのです。

 

次にイエス様が取り上げておられる証言は、ご自身が行っているわざそのものです。36節をご覧ください。

「しかし、わたしにはヨハネの証しよりもすぐれた証しがあります。わたしが成し遂げるようにと父が与えてくださったわざが、すなわち、わたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わされたことを証ししているのです。」

この「わざ」とは、具体的には奇跡のことです。これまでにイエス様は、水をぶどう酒に変えたり、王室の役人の息子をいやしたり、ベテスダの池で、38年間も病気で横になっていた人をいやされました。6章に入ると、 5つのパンと2匹の魚で男だけで五千人の人たちの空腹を満たされる奇跡を行われます。また、10章には死んだラザロを生き返らせる奇跡も行われます。いったいこれらの奇跡は何のために行われたのかというと、イエスが神の子、メシヤであることを証明するためでした。

 

当時のユダヤ人たちは、そのようなイエス様が行われたわざを否定することはしませんでしたが、それを見た人たちがイエス様を信じないようにその意味を変えました。つまり、イエスが行われた業は悪霊によって行われたと言って、ごまかそうとしたのです。

今日でも聖書の中に出てくる奇跡を受け入れることができない人がたくさんいます。そんなことは自然の法則では考えられないし、そんなものを受け入れたら自然法則そのものが破壊されてしまうと言うのです。しかし、奇跡を認めることは決して自然法則を無視することとではありません。なぜなら、奇跡というのは自然に反するものではなく、自然を超えていることだからです。神様は元々この天地万物を創造されましたが、それをどのように保っておられたのかというと自然の法則によってです。ですから、自然の法則そのものは与えられたものなのです。しかし、神は万物の主として、時として危機的な状況に思われる時や、特別にご自身のご介入が必要だと思わた時には、超自然的な御業行われたのです。ですから、奇跡は自然に反しているのではなく、自然を超えているのです。

 

ですから、それはむやみやたらと起こることではありません。確かにどの時代でも神の奇跡的なみわざが見られますが、聖書を見ると、奇跡が集中的に起こった時代が4回あったことがわかります。一つは、出エジプトの時です。それは紀元前1,400年頃のことですが、モーセを通してイスラエルがエジプトから救い出される時、神は様々な奇跡を通して圧倒的な力を見せられました。モーセが手を上げて祈ると紅海が二つに分かれ、目の前に乾いた所が現れてそこを通って救われました。彼らが荒野に導かれると食べ物や飲み物がなくて苦しん見ましたが、神は天からマナを降らせて養ってくださいました。パンだけでは足りない、肉も食べたいと言うと、今度はうずらも降らせました。水が無くて苦しい時は、岩から水がほとばしり出るようにされました。どうしてこのような奇跡が起こったのでしょうか。これはイスラエルの歴史において極めて重要な時だったからです。神のご計画はイスラエルを救い出し、約束の地へ導くことだったのです。それはやがて来られるキリストが、私たちを罪から救ってくたさることを示していたからです。

 

次にエリヤとエリシャどの預言者の時代です。紀元前900年頃です。その時代の特筆すべき出来事は、エリヤがバアルの預言者450人と戦ったことです。本当の神は火をもって答えてくださる神です。主こそ神であるということを示すために、主は火をもって答えてくださり、祭壇の上に用意した雄羊も、その上に注がれた水もすべてなめ尽くすように焼いてしまいました。これは当時のイスラエルが、バアル礼拝による本当の神礼拝の危機に直面していたからです。それで神は奇跡をもってご介入くださったのです。

 

第三は、イスラエルの民がバビロンに捕らえられていた時代です。紀元前580年頃のことです。ネブカデネザルの金の像を拝まなかったダニエルの三人の友だちシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは燃える炉の中に投げ込まれました。しかし、神は彼らをその炉の中から助け出してくださいました。それでネブカデネザル王は、ダニエルの神こそまことの神であることを知りました。この時代は生きておられるまことの神への信仰が、異教の地で危機に直面していたので、神は奇跡的なみわざをもってご介入くださったのです。

 

そして第四は、イエス様が生きておられた時代です。それは神が人となって来られた時です。神が人となって来られたことを証明するために、キリストは神としてのみわざを成されました。それが証拠としての奇跡です。

 

このように見てくると、奇跡がこうした四つの時代に集中したのは、神の奇跡的なご介入を必要としていたからであったことがわかります。それは、今日は奇跡が起こらないということではありません。いつの時代においても、神のご介入が必要な時には起こります。しかし、この奇跡の目的がイエスは神の子キリストであることを証明するためであったということを思うとき、むしろ聖書に記されてあるキリストのみわざを受け入れて信じることが重要であると言えます。

 

三つ目の証は何でしょうか。37節をご覧ください。ここには、「また、わたしを遣わされた父ご自身が、わたしについて証しをしてくださいました。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたことも、御姿を見たこともありません。」とあります。

三つ目の証しは、父なる神の証しです。父なる神ご自身が、キリストについて証しをしてくださいました。イエスがヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマを受けると、天から声がありました。「そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:17)これが、父なる神の証言です。

 

キリストを証しする第四のものは、聖書そのものです。聖書そのものがイエスについて証言しています。39節をご覧ください。ここに、「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。」とあります。ここでいう聖書とは、旧約聖書のことです。ユダヤ人たちは聖書の中に永遠のいのちがあると思って調べていましたが、その聖書は、実はイエス様のことを証ししていました。それなのに彼らは、その中心であるイエスに出会っていなかったというのは、なんという悲劇でしょうか。

 

私たちも、聖書を読むときに注意しなければなりません。もし聖書がただの人生訓として読んだ理、自分の教養を増やすためのものとして読むとしたら、聖書の本質をとらえることができなくなってしまいます。でも、イエス様は、「その聖書は、わたしについて証ししているのです」と言われました。聖書は、イエスについて証言しているのです。イエスこそ、私たちに罪の赦しと永遠のいのちを与えてくださる救い主である・・と。これは、決して動かしてはいけない聖書の軸です。このイエスの救いのみわざを通して読むときに、本当の意味で聖書を理解することができるようになるのです。

 

Ⅱ.キリストの証を受け入れない理由(40-44)

 

では、なぜ彼ら(ユダヤ人)はキリストの証しを受け入れることができなかったのでしょうか。40節から44節までをご覧ください。ここには、彼らがキリストの証しを受け入れることができなかった3つの理由が挙げられています。

 

第一に、彼らはキリストのもとに来ようとしませんでした。40節にこうあります。「それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」

彼らは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って聖書を調べていましたが、肝心のキリストのところに来ようとしませんでした。ここに、多くの人々がキリストを信じようとしない理由があります。それはキリストのもとに行こうとする意志がないということです。キリストのもとに行こうという気持ちもなければ、行きたいとも思っていません。本当に救われたいという思いがあるならば、その人は自ずとキリストのみもとに来るはずです。つまり、人が救われない本当の原因は、聖書が難しいからでも、毎日忙しくて時間がないからでもありません。また、聖書がある特定の一部の人たちだけのものだからでもありません。神から無条件に差し出されている救いの招きに対して、それを受け入れる意思がないからなのです。

 

先日、ある未信者のご婦人から電話の相談がありました。数年前に自分のへそくりで株を初めかなり儲けましたが、昨年大きな損失を出してしまい、寝ても覚めても株のことで頭が一杯になっているがどうしたら良いかということでした。当然、家族のことを顧みる余裕もありません。夫とはほとんど会話もなく、近くに住んでいる孫が来ても株のことが気になって、正直来てほしくないという気持ちになるのです。

「株をやることが問題ではありませんが、株に縛られているのが問題ですよ。もっと大切なものを求めた方がいいんじゃないです。」と言うと、「もっと大切なものって何ですか」と言われたので、「私は牧師なのではっきり言いますが、それはイエス・キリストです。永遠のいのちです。このまま株をやり続けたら破滅に至ります。でもイエス・キリストを信じるならいのちに至ります。」と言うと、「それってキリスト教になるということですか」と言われるので、どうしようかな、いろいろ説明しても混乱すると思ったので、「はい、そういうことです。しかし、キリスト教になるとかならないということではなく、それを求めることが必要です。どうぞ近くの教会に行ってみてください。」と勧めました。すると意外にも、「はい、わかりました。」と言って教会に行かれたのです。歩いても生けるところに福音的な教会があって、その教会では水曜日に水曜礼拝が行われていたので、それに行きました。

翌日、メールが来まして、こう書かれてありました。

「お金より大事なものって、結局何なのでしょうか・・・?大きなお金を失ってまで気づく大事な事はあるのでしょうか。今朝目をつけていて、でも買わなかった株が、今日一日で10万円以上上がっていて、買っておけばよかったと、まだ思ってしまい、、、。昨年の失敗をいい教訓に、これから慎重に銘柄を選んだり頑張れば少し取り戻すことはできるのではないかと、少し思いますが、時間はとられます。今、損をしたままやめてしまっても、このあとの人生、そういうものが見つかると思っていいのでしょうか?もし、分かりやすい言葉で、それが何か教えていただけるのであれば、教えていただきたいと思いまして、大変厚かましいのですが、メールをさせていただきました。」

そこで私は、星野富弘さんが書いた詩で「いのちよりも大切なもの」を紹介し、それがイエス・キリストであることと、それはお金を失ったとしても真に満足と平安を与えてくれるものです」と伝えると、「よく分かりました。頑張って、教会に通ってみたいと思います。星野さんがイエス・キリストに出会われていたことも知りませんでした。詩集も読んでみます。本当にありがとうございました。また、何かありましたら、よろしくお願いいたします。ありがとうございました。」と書いてありました。

私はそのメールを見てとてもうれしかったです。何のために生きているのかがわからなかった方が、イエス様を求めて教会に行くようになったのです。これってすごいことだと思うのです。どうして彼女は教会に行こうと思ったのでしょうか。それは彼女が求めていたからです。このままではいけない、何とかしなければならない、どうしたらいいのか、そこでイエス様のことを聞き、行きたいと思うようになったのです。私の知っている限り、その後日曜日に続いて行っておられます。どんなにお話ししても、その人の中に行きたいという思いがなければ行くことはできません。難しいからではありません。理解できないからでもないのです。行こうという意志があるかどうかです。もし行こうという意志があれば、もっと知りたいという思いがあれば、必ずわかるようになります。

 

ちなみに、彼女に送った星野富弘さんの「いのちよりも大切なもの」という詩は、このような詩です。

「いのちが一番大切だと思っていたころ生きるのが苦しかった。 いのちより大切なものがあると知った日生きているのが嬉しかった」

この「いのち」とは肉体のいのちのことです。また、お金や名誉や財産といったこの世のものを指しています。それが一番大切だと思っていたころは生きるのが苦しかった。でもいのちよりも大切なもの、これはイエス・キリストのことです。永遠のいのちのことです。それがあると知った日生きるのが嬉しくなりました。

あなたもこのいのちよりも大切なものを求めてみませんか。そうすれば、生きるのが嬉しくなりますから。

 

第二の理由は、神からの栄誉を求めないで、人からの栄誉を求めていることです。41節をご覧ください。ここには「わたしは人からの栄誉は受け入れません。」とあります。だれからの栄誉を受け入れるのですか。44節です。「唯一の神からの栄誉」です。イエス様は、人からの栄誉ではなく、神からの栄誉を求めました。しかし、ユダヤ人はというと、反対に神からの栄誉を求めないで、人からの栄誉を求めていました。そういう人が、どうして信じることができるでしょうか。確かに神の栄誉よりも人の栄誉を求めている間は、本当の信仰を持つことはできないでしょう。そうした名声や評判が障害になって、イエス様のもとに来るのを妨げてしまうからです。

 

第三の理由は、42節と43節にあります。「しかし、わたしは知っています。あなたがたのうちに神への愛がないことを。わたしは、わたしの父の名によって来たのに、あなたがたはわたしを受け入れません。もしほかの人がその人自身の名で来れば、あなたがたはその人を受け入れます。」

つまり、神への愛がないということです。彼らの関心は自分のことだけでした。ですから、キリストがほかの人の名で来たのであれば、受け入れたでしょう。たとえば、家内安全、商売繁盛の神だったら喜んで受け入れたでしょう。家内安全、商売繁盛を願うことが問題なのではありません。しかし、そのようなことを願うだけで真の神を求めていないとしたら問題です。それは神ではなく自分を愛しているだけです。彼らの関心はこの地上のことだけです。

 

パウロは、ピリピ2章21節でこう言っています。「みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません。」こうした傾向は世の終わりが近づけば近づくほど顕著になっていくでしょう。なぜなら、世の終わりの最大のしるしは、「多くの人の愛が冷える」ことだからです。イエス様はマタイの福音書24章で、世の終わりが近くなると偽預言者が現れて、多くの人を惑わし、不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えて行くと言われました。だれもイエス・キリストのことを求めないで、自分が良ければいいという時代に入って行きます。いや、もうそのような時代に入っています。このような心で、どうして信じることができるでしょうか。

 

皆さんはどうですか?聖書からイエス・キリストについて学んでも、なかなか信じることができないという方がおられるでしょう。それは聖書が難しいからでも、神様のことがわからないからでもありません。それはあなたの心に問題があるからです。つまり、キリストのもとに行こうという気持ちがないこと、また、神からの栄誉ではなく人からの栄誉を求めていること、そして、神を愛しているのではなく自分を愛していることです。そのような状態でどうして信じることができるでしょうか。信仰とは、聖書が教えているキリストを虚心坦懐に受け入れ、この方に対して純粋な思いを持つことから始まります。自我が砕かれ、イエス様を救い主として受け入れることができるように求めましょう。

 

Ⅲ.聖書を信じる(45-47)

 

ですから結論は何かというと、聖書を信じましょう、ということです。45節から47節までをご覧ください。

「わたしが、父の前にあなたがたを訴えると思ってはなりません。あなたがたを訴えるのは、あなたがたが望みを置いているモーセです。もしも、あなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことなのですから。しかし、モーセが書いたものをあなたがたが信じていないのなら、どうしてわたしのことばを信じるでしょうか。」

 

ここに「モーセ」が出てきます。「モーセ」とは何でしょうか。モーセとはモーセが書いた書、つまりモーセ五書のことです。広い意味では旧約聖書全体のことを指しています。当時のユダヤ人はモーセの書を信じていました。であれば、キリストをも信じたはずです。なぜなら、モーセが書いたのはキリストのことであったからです。聖書を学べば学ぶほど、聖書を知れば知るほど、キリストのもとに来るようになるはずなのです。それなのに、そうでないとしたら、どこかおかしいのです。つまり、彼らは本当の意味で聖書を知らなかったということです。聖書読みの聖書知らずということが起こっていました。どうしてでしょうか。悪魔によって覆いが掛けられているからです。このことについてパウロはこう言っています。

「しかし、イスラエルの子らの理解は鈍くなりました。今日に至るまで、古い契約が朗読されるときには、同じ覆いが掛けられたままで、取りのけられていません。それはキリストによって取り除かれるものだからです。確かに今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:14~18)

どんなにモーセの書が読まれても、そこにキリストを見ない限り、その覆いが取り除かれることはありません。しかし、人が主に向くなら、その覆いは取り除かれます。今日、聖書に対する破壊的な批評や攻撃がなされるのは、この覆いが取り除かれないようにする、まぎれもない悪魔の攻撃があるからです。聖書の権威を否定し、聖書を人間の著作と少しも変わるところのないものとする考えが、幅を利かせているのです。それは、人々からこの覆いが取り除かれないようにしている悪魔の巧妙な策略です。ですから、私たちは聖書は神のことばであると信じ、もう一度聖書に立ち返り、キリストのみもとに来なければなりません。そうすれば、私たちの心から覆いが取り除かれ、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていきます。キリストに対する純粋な思いがあれば、キリストについての証を受け入れ、必ずや純粋な信仰を持つことができるようになるのです。

 

あなたもキリストを証しするこれらの証を受け入れてください。受け入れてキリストのもとに来てください。そして、永遠のいのちを受けてください。もう既にキリストを信じている人でもキリストから離れていることがあります。そういう人がいたら、キリストについてのこれらの証を受け入れ、ここにいのちがあるという確信を持ち、キリストに深く信頼して歩みましょう。

士師記18章

士師記18章からを学びます。1節から10章までをご覧ください。まず6節までをお読みします。

 

Ⅰ.ダン部族の偵察隊(1-10)

 

「そのころ、イスラエルには王がいなかった。ダン部族は、自分たちが住む相続地を求めていた。イスラエルの諸部族の中にあって、その時まで彼らには相続地が割り当てられていなかったからであった。そこでダン族は、彼らの諸氏族全体の中から五人の者を、ツォルアとエシュタオルから勇士たちを派遣し、土地を偵察して調べることにした。彼らは五人に言った。「行って、あの地を調べなさい。」五人はエフライムの山地にあるミカの家まで行って、そこで一夜を明かした。ミカの家のそばに来たとき、彼らはあのレビ人の若者の声に気づいた。そこで、彼らはそこに立ち寄り、彼に言った。「だれがあなたをここに連れて来たのですか。ここで何をしているのですか。ここに何の用事があるのですか。」彼は、ミカがこれこれのことをして雇ってくれたので、ミカの祭司になったのだ、と言った。彼らは言った。「どうか神に伺ってください。私たちのしているこの旅が、成功するかどうかを知りたいのです。」その祭司は彼らに言った。「安心して行きなさい。あなたがたのしている旅は、主がお認めになっています。」

 

1節に再び、「そのころ、イスラエルには王がいなかった。」とあります。17章において、王がいな

かった時代、イスラエルがどのような状態であったかを見ました。それは「混乱」でした。何をしているのかわからないと状態でした。彼らはそれぞれが自分の目に正しいと見えることを行っていました。自分では正しいと思うことであっても、実際には神のみこころから外れたことを平気で行っていたのです。前回はそれをミカという人物から見ましたが、今回はダン族の堕落から見えます。

 

1節には、「ダン部族は、自分たちが住む相続地を求めていた。イスラエルの諸部族の中にあって、その時まで彼らには相続地が割り当てられていなかったからであった。」とあります。ヨシュア記を見ると、ダン部族にはすでに相続地が割り当てられていたことがわかります。(ヨシュア19:40-48)それなのにここに、ダン部族には相続地が割り当てられていなかったとはどういうことなのでしょうか。それは、彼らに与えられた相続地はペリシテ人が住む地中海沿岸の地域だったので、その地を征服することができないでいたということです。相続地はあくまでも神からの約束であって、実際には自分たちでその地を征服しなければなりませんでした。しかし、彼らにはそれができないでいました。それで彼らは別の場所に相続地を得るために、5人の偵察隊を派遣して候補地を探らせたのです。すると彼らは、エフライムの山地にあるミカの家まで行って、そこに泊まりました。

 

彼らがミカの家のそばに来たとき、あのレビ人の若者の声に気づきました。以前どこかで会い面識があったのでしょうか、すぐにあのレビ人の声だと気付きました。彼らは、この若者がミカの家の祭司になっていることを知ると、自分たちの旅が成功するかどうか、神に伺ってほしいと頼みます。神の幕屋が設置されたシロが近くにあったにもかかわらず、彼らは大祭司を通してお伺いを立てることを無視し、このレビ人に尋ねたのです。

 

するとミカの祭司は彼らに言いました。「安心して行きなさい。あなたがたのしている旅は、主がお認めになっています。」これも、いい加減な答えでした。なぜなら、主は彼らがしているこの旅を認めていなかったからです。主が願っておられたのはその地の住人を追い払うことであり、他に土地を求めることではありませんでした。彼はアロンの直系ではありませんでしたから、元々祭司の資格がなかったというのが問題ですが、祭司であったとしても、その務めは人々のしていることを神の名によって認めることではありません。ここにも一つの混乱が見られます。神の名によって人々の願望を宗教的に認めようとする肉の性質が現れています。

 

次に7節から10節までをご覧ください。

「五人の者たちは進んで行ってライシュに着き、そこの住民が安らかに住んでいて、シドン人の慣わしにしたがい、平穏で安心しきっているのを見た。この地には足りないものは何もなく、彼らを抑えつける者もいなかった。彼らはシドン人から遠く離れていて、そのうえ、だれとも交渉がなかった。五人の者たちが、ツォルアとエシュタオルの身内の者たちのところに帰って来ると、身内の者たちは彼らに、どうだったか、と尋ねた。彼らは言った。「さあ、彼らに向かって攻め上ろう。私たちはその土地を見たが、実にすばらしい。あなたがたはためらっているが、ぐずぐずせずに進んで行って、あの地を占領しよう。あなたがたが行くときは、安心しきった民のところに行けるのだ。しかもその地は広々としている。神はそれをあなたがたの手に渡してくださった。その場所には、地にあるもので欠けているものは何もない。」」

 

その5人の者たちは北に進んで行きライシュに着きました。ライシュはヘルモン山の南側の麓付近にあります。そこの住民は安らかに住んでいて、どことも軍事同盟を結んでいる様子もなく、戦う用意もなかったので、征服するには最適であるように見えました。そこで彼らは、ツォルアとエシュタオルの身内の者たちのところに帰って来ると、「あの地を占領しよう」と報告しました。それは彼らが安心しきっているというだけの理由ではありませんでした。その地は実にすばらしく、広々としており、何と言っても、神がそれをあなたがたの手に渡してくださったというのがその理由でした。

 

しかし、ここにも誤解がありました。神がその地を与えてくださったというのは勝手な思い込みにすぎず、神から出た信仰の戦いはヨシュアによって割り当てられた地を占領することだったからです。ですから、このダン部族の戦いは、彼らの不信仰によってもたらされた勝手な戦いにすぎませんでした。状況が良いからといってそれが必ずしも神の御心であるとは限りません。信仰の土台がしっかりしていなければ、結局のところ、それは信仰の誤解で終わってしまうことになるのです。

 

Ⅱ.混乱(11-20)

 

次に11節から20節までをご覧ください。

「そこで、ダンの氏族の者六百人は、武具を着けてツォルアとエシュタオルを出発し、上って行って、ユダのキルヤテ・エアリムに宿営した。それゆえ、その場所は今日に至るまで、マハネ・ダンと呼ばれている。それはキルヤテ・エアリムの西部にある。彼らはそこからさらにエフライムの山地へと進み、ミカの家に着いた。ライシュの地を偵察に行っていた五人は、身内の者たちに告げた。「これらの建物の中にエポデやテラフィム、彫像や鋳像があるのを知っているか。今、あなたたちは何をすべきか分かっているはずだ。」そこで、彼らはそこに行き、あのレビ人の若者の家、ミカの家に来て、彼の安否を尋ねた。武具を着けた六百人のダンの人々は、門の入り口に立っていた。 あの地を偵察に行った五人の者たちは上って行き、そこに入り、彫像とエポデとテラフィムと鋳像を取った。祭司は、武具を着けた六百人の者と、門の入り口に立っていた。これら五人がミカの家に入り、彫像とエポデとテラフィムと鋳像を取ったとき、祭司は彼らに言った。「何をしているのですか。」彼らは祭司に言った。「黙っていなさい。手を口に当てて、私たちと一緒に来て、私たちのために父となり、また祭司となりなさい。あなたは一人の人の、家の祭司となるのと、イスラエルで部族また氏族の祭司となるのと、どちらがよいのか。」祭司の心は躍った。彼はエポデとテラフィムと彫像を取り、この人々の中に入って行った。彼らは向きを変え、子ども、家畜、家財を先頭にして進んで行った。」

 

そこで、ダン族の者600人は、武具を着けてツォルアとエシュタオルを出発し、上って行って、ユダのキルヤテ・エアリムに宿営しました。彼らは、部族の先鋒として群れの先頭に立っていたのでしょう。そして、そこからさらにエフライムの山地にあるミカの家に到着しました。そして、先にライシュを偵察に行った5人の者が、ミカの家にエポデやテラフィム、彫像や鋳造があることを告げると、全員でそこに上って行き、それらを略奪しました。これらの物は、元々ミカが母親から盗んだ銀によって作られたものですが、今度はそれが他の人の手によって盗まれてしまったのです。何とも皮肉な結果です。それにしてもダン族もイスラエル部族の一つです。その部族がこんな偶像を略奪していったい何になるというのでしょうか。彼らは、ミカの家にあった偶像に心を魅かれていたのです。これが自分たちのお守りになると思っていました。まことの神を信じている者にとっては考えられないことですが、こういうことが起こるのです。

 

そればかりではありません。彼らは祭司をもミカから奪いました。祭司も祭司です。「あなたは一人の人の、家の祭司となるのと、イスラエルで部族また氏族の祭司となるのと、どちらがよいのか」と尋ねられると、「祭司の心は踊った」とあります。ミカの家にいるときはお金に引き寄せられましたが、今度は栄誉に引き寄せられました。部族や氏族の祭司になることができる、という言葉に魅かれたのです。それでこの祭司は、主人を裏切り、エポデとテラフィムと彫像を盗み、彼らの中に入って行きました。

 

何が起こっているのかさっぱり理解できません。すべてが混乱しています。人の手で作った偶像が、自分たちを守ってくれるはずがありません。それなのに、ダン族の者たちはこれらの偶像に心がひかれていましたし、祭司も祭司で、地位や名誉に心がひかれ、主人ミカを裏切ったばかりか、そこにあった偶像を盗みました。この祭司は、所詮雇われた祭司にすぎません。彼は裏切り者で、盗人でした。すべてが混乱しています。異常事態です。いったい何が問題だったのでしょうか。それは、「イスラエルには王がいなかった」ことです。それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていたことです。彼らはイスラエルの神を捨てていたのではありません。自分たちでは信じていたつもりでした。しかし、神の御言葉に聞かなかった結果、カナンの神々を礼拝するという混合宗教に陥っていたのです。しかし、これは何もイスラエルの民だけのことではありません。私たちにも言えることです。私たちも神の御言葉に聞き従うのではなければ、自分の目に良いと見えることを行うようになり、同じような過ちに陥ってしまうことになります。

 

Ⅲ.ダン族がもたらした不幸(21-31)

 

最後に、21節から31節までを見て終わりたいと思います。まず21節から26節までをご覧ください。

「彼らは向きを変え、子ども、家畜、家財を先頭にして進んで行った。彼らがミカの家からかなり離れたころ、ミカは近所の家の者たちを集めて、ダン族に追いついた。彼らがダン族に呼びかけると、ダンの人々は振り向いて、ミカに言った。「あなたはどうしたのだ。人を集めたりして。」ミカは言った。「あなたがたは、私が造った神々と、それに祭司を奪って行きました。私のところには何が残っているでしょうか。私に向かって『どうしたのだ』と言うとは、いったい何事です。」ダン族はミカに言った。「あなたの声が私たちの中で聞こえないようにしなさい。そうしないと、気の荒い連中があなたがたに討ちかかり、あなたは、自分のいのちも、家族のいのちも失うだろう。」こうして、ダン族は去って行った。ミカは、彼らが自分よりも強いのを見てとり、向きを変えて自分の家に帰った。」

 

「彼ら」とはダン族のことです。彼らは向きを変え、子ども、家畜、家財を先頭にして進んで行きました。するとミカは、近所の家の者たちを集めて、ダン族のあとを追います。彼らはダン族に呼びかけますが、多勢に無勢です。逆に脅しをかけられ、そのまま引き下がるしかありませんでした。これはミカの罪に対する神のさばきです。ミカが所有していた偶像は、そもそも彼が母親から盗んだ銀によって造られた物でした。その偶像が、今度は他人に盗まれてしまったのです。人は種を蒔けば、その刈り取りをするようになります。神を恐れない人の人生は、結局のとこ、このような結果を招くことになるのです。

 

彼は、この事件からどんなことを学んだでしょうか。もし彼がこれをきっかけに真の神に立ち帰ったなら、この出来事は彼にとっては幸いであったと言えるでしょうが、もし何も学ぶことがなかったとしたら、それこそ悲劇です。誰でも失敗は付きものです。大切なのは、そこから何を学ぶかということです。その失敗から学び、真の神に立ち帰りましょう。

 

最後に、27節から31節までをご覧ください。

「彼らは、ミカが造った物とミカの祭司とを奪い、ライシュに行って、平穏で安心しきっている民を襲い、剣の刃で彼らを討って、火でその町を焼いた。だれも救い出す者はいなかった。その町はシドンから遠く離れていて、そのうえ、だれとも交渉がなかったからである。その町はベテ・レホブの近くの平地にあった。彼らは町を建てて、そこに住んだ。彼らは、イスラエルに生まれた自分たちの先祖ダンの名にちなんで、その町にダンという名をつけた。しかし、その町の名は、もともとライシュであった。さて、ダン族は自分たちのために彫像を立てた。モーセの子ゲルショムの子ヨナタンとその子孫が、その地の捕囚のときまで、ダン部族の祭司であった。こうして、神の宮がシロにあった間中、彼らはミカの造った彫像を自分たちのために立てていた。」

 

彼らは、ミカが造った物とミカの祭司とを奪うと、ライシュに行って、その民を襲い、剣の刃で彼らを討って、火でその町を焼きました。その町はシドンから遠く離れていたため、誰も助けてくれなかったので、簡単に征服することができました。それで彼らは町を建て、そこに住みました。彼らは、その町の名を自分たちの先祖ダンの名にちなんで「ダン」という名をつけました。これがイスラエル12部族の北限の所有地となります。この時以来、全イスラエルを指すときに「ダンからベエル・シェバまで」という表現が使われるようになりました。

 

彼らはそこに自分たちのために彫像を立てました。恐らく神の宮も建て、そこに彫像を安置したことでしょう。31節には、「こうして、神の宮がシロにあった間中、彼らはミカの造った彫像を自分たちのために立てていた。」とあります。神の宮はシロに設置されるはずでしたが、この時以来、このダンにも設置されました。そして、後にイスラエルが南北に分裂すると、北王国イスラエルの王ヤロブアムは、このダンとベテルに金の子牛を置くようになります。ヤロブアムは、ダン部族が彫像を立てた場所に金の子牛を置いたのです。それは、北王国がB.C.722年にアッシリア帝国によって滅ぼされるまで続きます。彼らは、ミカの家にあった偶像を手に入れたことは神の祝福だと思っていましたが実はそうではなく、逆にそれが彼らを束縛するもとになりました。このようなことが私たちにも起こります。祝福だと思っていたことが、災いの原因になることがあります。そういうことがないように、常に御言葉に聞き従い、神のみこころを求めて歩みましょう。

ヨハネの福音書5章19~29節「神と等しい方」

ヨハネの福音書5章から学んでおります。きょうは、イエスは神と等しい方であるということをお話しします。前回のところには、ベテスダと呼ばれる池の回りで38年も病気で横になっていた人を、イエスがいやされたことを学びました。しかし、その日が安息日であったことから、ユダヤ人たちは、「床を取り上げて歩け」と言ったのは誰かを問題にしました。そして、それがイエスであるとわかると、彼らはイエスを迫害し始めるようになりました。

すると、イエスは彼らに言われました。17節です。「私の父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」(4:17) 彼らはこの言葉を聞くとますます怒り、イエスを殺そうとするようになりました。なぜなら、イエスが安息日を破っただけでなく、ご自分を神と等しくされたからです。

このことは、とても重要なことです。つまり、イエスはどのような方であるかということです。そして、ここにははっきりと、イエスは神と等しい方であるということが記されてあります。きょうはその理由を、イエス様ご自身の言葉から三つのポイントでお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.父なる神がなさることを同様に行われた方(19-23)

 

まず、19節から23節までをご覧ください。

「イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。 父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。」

 

なぜイエスは神と等しい方であると言えるのでしょうか。その第一の理由は、イエスは父なる神がなさることと同様のことを行われる方であられるからです。19節、ここでイエス様は、「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。」と言っておられます。これはどういうことかというと、ご自分が神と等しい者であるということです。

 

ここで注目したいことは、イエス様がご自分のことを「子」であると言っておられることです。「子」であれば当然「父」がいるわけで、その「父」とはだれかというと「神」です。イエス様はご自分と神との関係を、父と子との関係で語られたのです。これは極めて重要なことです。なぜなら、イエスが父なる神と親密な関係であることを示しているからです。ただ親密であるというだけではありません。イエスは子なる神として、父なる神がなさる通りのことを行われるということです。それは、ちょうど子どもが親のまねをするようなものです。子どもが親のまねをして親が行うことを何でもしようとするように、子なる神も父なる神がなされるのを見て、それと同じ様になさるのです。いや、それ以外のことは、何もなさいません。すべて父がなさることを、同様に行うのです。ただ人間の子どもと違う点は、人間の子どもであれば親のまねをしようとしてもできないこともありますが、子なる神は、父なる神がなさることと、同様に行うことができるという点です。

 

なぜイエスは、父なる神が行われることだけを行われるのでしょうか。その理由が20節にあります。「それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。」どういうことでしょうか?この「父が子を愛し」の「愛」ですが、これは神の愛ですから当然「アガペー」の愛が使われているかと思いきや、そうではなく、「フィレオー」という言葉が使われています。これは、これは心情的な愛を表しています。「好き」とか、「いとしい」、「かわいい」などの気持ちが伴う愛です。自分にとって大切なものを愛し、いとおしむ愛のことです。これは、親子の間や、夫婦の愛、兄弟愛、師弟愛、恋愛、友情などに見られるような心情的な愛です。しかし、神の愛は好き嫌いの感情をも超えた愛です。相手が好きであろうと、嫌いであろうと、その人を愛します。その人に対して最善となるものは何であるかを考え、相手が誰であろうと善を行なうのです。この愛は、敵をも愛する愛です。これが「アガペー」の愛です。この愛が使われるのが自然だと思うのですが、そうではなく「フィレオー」の愛が使われているのです。いったいどうしなのか?

 

それは、親子の間に親密な関係が成り立つためには、この愛が必要であるということです。相手を愛おしむような温かさがなければ互いに親密になることはできません。それは親子の関係だけでなく、すべての関係において言えることです。「ラポール」という言葉があります。「心が通い合っている」「どんなことでも打明けられる」「言ったことが十分に理解される」と感じられる関係のことです。そこに信頼関係が築かれて行く。このような関係が必要であるということです。父なる神と子なる神との間にはこうした関係がありました。ですから、ご自分がすることをすべて、子にお示しになることができたのです。

 

そればかりではありません。ここには、「これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。」とあります。「これよりも大きなわざ」とは何でしょうか。それは21節にある内容です。すなわち、「父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。」ということです。これはどういうことかというと、22節にあるように、すべての人をさばく権威をキリストにゆだねられたということです。いのちを与えることとさばくことは、何よりも神のみわざです。旧約聖書には、神が最終的な裁き主であるとされています。そのさばきが、ここではキリストにゆだねられているのです。つまり、キリストこそ裁き主であり、神ご自身であられるということです。

 

これは驚くべきことではないでしょうか。イエス様はこの世界の創造主であられるというだけでなく、私たちのいのちを支配しておられる方であり、私たちを正しくさばかれる方です。いのちを与えたい者には与え、そうでない者には取られる権威を持っておられる。それは単にこの肉体のいのちだけでなく、霊のいのち、永遠のいのちにおいても言えることです。

 

このことからどんなことが言えるでしょうか。23節をご覧ください。ここには、「それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。」とあります。イエス様こそ神として敬われるべき方であるということです。ただ偉大な人間として敬われるというだけでなく、神として認められ、敬われるべきお方なのです。

 

この点で、ユダヤ人たちは大きな過ちを犯していました。彼らは、イエス様がご自分を神と等しくされたと殺そうとしましたが、それこそ大きな過ちでした。イエス様は神と等しい方であり、神として敬われるべき方です。それを人間のレベルまで引き下げることがあるとしたら、それこそ神を冒涜することになからです。

 

あなたはどうでしょうか。このユダヤ人たちのように、イエス様を偉大な人物の一人ぐらいにしか考えていないということはないでしょうか。神を恐れかしこむのと同じ心で、イエス様を恐れかしこんでいるでしょうか。イエス様がこのようにはっきりとご自分を父なる神と等しい方であることを語られたのは、私たちが驚くためであり、また、すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためです。このことばを受け入れ、イエス様を神として受け入れ、敬う者となりましょう。

 

Ⅱ.永遠のいのちを与えることができる方(24)

 

イエスはどうして神と等しい方であると言えるのでしょうか。その第二の理由は、イエス様は、永遠のいのちを与えることができる方であられるからです。24節をご覧ください。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」

ここにも、「まことに、まことに」とあります。これは「本当にその通りです」という意味です。これが

真実であるということを強調しているのです。では、何が真実なのでしょうか。キリストのことばを聞いて、キリストを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持つということです。これはすばらしい約束です。皆さんで声に出してもう一度読んでみましょう。

 

まことに、イエス様は永遠のいのちを与えることができる方なのです。この世界を造られ、この世界を支配しておられる方は、同時にこの世界をさばく権威を持っておられます。この方を、この世に救い主としてお遣わしになられた方を信じる人は、だれでも永遠のいのちが与えられ、さばきに会うことがなく、死からいのちに移されるのです。ここでは、「死からいのちに移っています」と現在形で書かれています。今、現に移っているのです。いつか移ります、きっとそうです、たぶんそうです、ではなく、移っているのです。「死からいのちに移っているのです」

 

この「死」とは、霊的死のことを指しています。霊的に死んでいるとはどういうことでしょうか。パウロは、このことをエペソ2章1~3節で、次のように言っています。

「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」

ここでパウロは、あなたがたは自分の背きと罪との中に死んでいた者であった、と言っています。罪とは何でしょうか。罪とは、原語のギリシャ語で「ハマルティア」と言いますが、「的はずれ」を意味しています。的を外している状態のことです。人は本来、神によって造られ、神の栄光と神の喜びのために造られたわけですから、この神を信じて生きるはずなのに、その的から外れてしまいました。それが罪です。罪とは何か悪いことをすることではなく、それも罪ですが、神から離れている状態のことを指しています。その結果、人は悪いことをするのです。つまり、罪とは神を信じないことです。その結果、人はどのようになってしまったのでしょうか。

 

パウロはここで、「あなたがたは自分の背きと罪との中に死んでいた」と言っています。そして、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。その特徴は何かというと、自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らであったということです。どういうことかというと、自分でやっていることがわからないということです。自分がしたい善を行わないで、したくない悪を行ってしまうからです。

 

実は、これが私たちにとって一番大きな悩みです。善いことをしたいと思っているのに、したくない悪を行ってしまいます。その弱さのために悩むのです。中には、そんなことを悩んでも悩むだけ無駄なんだから悩むのをやめよう、と思っている人もいるでしょう。しかし、いくら打ち消そうとしてみたところで、私たちの良心の呵責を完全に否定することはできません。

 

しかし、ここに希望があります。イエス様はこう言われました。「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っているのです。」この方を遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ちます。そして、さばきに会うことがなく、その瞬間から、死からいのちに移されるのです。なぜなら、キリストは私たちを罪から完全に救うことができるからです。そうです、キリストは救い主であられるのです。

 

この「救い主」というのは、へブル語で「メシヤ」と言いますが、これは神ご自身を表すことばでした。ですから、あのサマリヤの女が、「私は、キリストと呼ばれるメシヤが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」(4:25)と言った時、イエス様が「あなたと話しているこのわたしがそれです。」(4:26)と言われた言葉は、ものすごいことなのです。なぜなら、それはイエス様がご自分を神であると宣言されたということだからです。これまでに歴史上には多くの偉人と言われる人が現れては消えて行きましたが、「わたしがそれです」と言うことができた人は一人もいませんでした。もしそのように言う人がいたとしたら、その人は全くのペテン師か、頭がおかしい人だと言えるでしょう。そのように言うことができる人などいないからです。しかし、イエス様はそのように言うことができました。なぜなら、イエス様は本当に救い主、メシヤであられたからです。

 

あなたは、この方をメシヤ、救い主として信じ、受け入れておられるでしょうか。この方を通してこの方を遣わされた方を信じておられるでしょうか。この方のことばを聞いて、この方を遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移るのです。

 

Ⅲ.死人をよみがえらせることができる方(25-29)

 

なぜイエスは神と等しい方だと言えるのでしょうか。その第三の理由は、イエス様は死者をよみがえらせることができる方だからです。25節から29節までをご覧ください。25節と26節をお読みします。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。」

 

ここにも、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。」という言葉があります。「本当にその通りです」、「これは真実です」。何が真実なのでしょうか。それは、「死人が神の子の声を聞く時が来る」ということです。この「死人」とは、「霊的に死んだ人たち」のことです。具体的には「罪人」のことを指しています。霊的に死んでいる人たちがキリストのことばを聞く時が来ます。それを聞く者は生きるのです。霊的に死んだ状態からただちに救い出され、永遠のいのちが与えられるのです。そして、真に生きる者とされます。それはいつですか?今でしょ。今がその時です。なぜなら、その神の子であられるキリストが来られたからです。

 

私たちに必要なのは、この神の子の声を聞くことです。私たちは日々、いろいろなことで悩み、苦しみ、まさに死んだ人のようになっていますが、この神の御声を聞く時、たましいが生き返り、力強く歩み始めることができるようになります。

 

詩篇19篇7~8節には、「主のおしえは完全で たましいを生き返らせ 主の証しは確かで 浅はかな者を賢くする。主の戒めは真っ直ぐで 人の心を喜ばせ 主の仰せは清らかで 人の目を明るくする。」とあります。

主のみことばは 私たちを生かし、私たちを導き 私たちを照らします。主のみことばは力があります。私たちを励まし、私たちを満たすのです。それは、私たちが日々聖書のみことばを読む時、また礼拝や祈祷会での聖書のメッセージを聞く時、キリストが聖霊を通して神の声を私たちの心に語ってくださるからです。その神の子の声を信仰を持って聞く者は生きるのです。

 

それは、26節にあるように、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、いのちを持つようにしてくださったからです。私たちには自分のうちにはいのちがありません。いのちを持っていないのです。ではどこにいのちがあるのですか?ここにあります。神の御子のうちにあるのです。ですから、この御子から離れては、私たちにいのちはありません。それはちょうどぶどうの木のたとえにあるとおりです。

「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15:5)

イエス様は根を張った一本の木のように、いのちを持っておられます。私たちはその枝にすぎません。ですから、キリストに結びついていない限り、いのちを持つことはできないのです。イエス様の御声を聞き、イエス様を信じるなら、イエス様に結びつけられ、いのちを持つことができるのです。

 

27~30節をご覧ください。ここには、「また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」とあります。

 

この「さばき」とは最後のさばきのことです。そのさばきを行う権威を子に与えてくださいました。イエス様はさばき主であられます。どのようにさばかれるのでしょうか。28節、「このことに驚いてはいけません。墓の中にいる者がみな、キリストの声を聞く時が来るのです。」

これは、キリストの再臨のことです。キリストが再臨される時、墓の中にいる者がみな、子の声、キリストの声を聞きます。「そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出てきます。」これはどういうことかというと、そのとき、二種類の「よみがえり」が起こるということです。第一のよみがえりは、善を行った者のよみがえりです。善を行った者とは何か一生懸命にボランティアをしたとか、慈善事業をした人のことでなく、神の御子を信じた人のことです。その人はよみがえって永遠のいのちを受けるために出てきます。この「よみがえって」とは御霊のからだによみがえってという意味です。

 

人は死んだら終わりなのではありません。人は死ぬと、肉体から霊が離れ、肉体は地の塵に帰りますが、霊はそのまま存在し続けます。そして、キリストを信じた者の霊は、パラダイスに行き、そこでキリストと共にいて、体が復活するのを待つのです。そしてキリストが再臨する時、霊のからだが与えられ、霊のからだに復活し、永遠に天国で神の祝福のうちに生きるようになるのです。これが私たちの希望です。何が私たちの希望かって、これです。

「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」(Ⅰコリント15:58)

このように、私たちは死んで終わりではありません。死んでも生きるのです。

 

しかしここに、もう一つのよみがえりがあることが書かれてあります。それは、悪を行った者のよみがえりです。悪を行った者というのも何か悪いことをした人ということではなく、神の御子を信じなかった人ということです。その人たちはどのようになるのかというと、驚くなかれ、何とそのような人たちもよみがえるのです。しかし、何のためによみがえるのかが問題です。ここには、「悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出てきます。」とあります。このさばきとはどのようなものなのでしょうか。

 

ルカの福音書16章に「ラザロと金持ち」の話がありますが、それを見ると、キリストを信じなかった金持ちは、「炎の中で苦しくてたまりません。」と言っています。そこは「ハデス」と呼ばれているところです。彼はそこに落とされました。でもそこは地獄ではありません。地獄に行くまでにさばきを待っているところです。それはちょうど刑務所に入るために待っている留置場のようなところです。どちらも過酷な状態を強いられますが、最後のさばきは、ハデスの比どころではありません。それは永遠に燃え続ける火の池なのですから。それが地獄と呼ばれているところです。キリストが再臨されるとき、キリストを信じなかった人はハデスに行き、そこで最後のさばきを待つようになるのです。そしてキリストが再臨する時、その人たちもよみがえりますが、最終的に火の池に投げ入れられ、そこで永遠の祝福の基である神から完全に切り離されて、永遠に苦しみを味わい続けなければならないのです。これが第二の死と呼ばれているものです。

 

あなたはどちらのよみがえりのために生きていますか。「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」これは、今すぐに体験できる約束です。あなたがイエス様を信じた瞬間に、あなたもこの永遠のいのちを体験するのです。あなたは死んだ人のような毎日を過ごしていませんか。神の子の声を聞く者は生きます。そして、その行きつくところは永遠のいのちです。あなたも、イエス様の声を聞き、生きる力をいただいてください。イエス様は、あなたにいのちを与えることができる救い主であられるからです。

士師記17章

士師記17章からを学びます。この17章から21章までの箇所は、この士師記のあとがきです。私たちはこれまで士師の時代にどんなことが行われてきたかを学んできましたが、その間に起こった典型的な出来事を取り上げてまとめられています。その特徴は何かというと、6節にあるように、「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」ということです。その時代がどのような時代であったのかを見ていきたいと思います。

 

Ⅰ.自分の息子の一人を祭司にしたミカ(1-6)

 

「エフライムの山地の出で、その名をミカという人がいた。彼は母に言った。「銀千百枚が盗まれたとき、あなたはのろいの誓いをされ、私の耳にもそのことを言われました。実は、その銀は私が持っています。私がそれを盗んだのです。」すると母は言った。「主が私の息子を祝福されますように。」彼が母にその銀千百枚を返したとき、母は言った。「私は自分の手でその銀を聖別して、主に献げていました。自分の子のために、それで彫像と鋳像を造ろうとしていたのです。今は、それをあなたに返します。」彼が母にその銀を戻したので、母は銀二百枚を取って銀細工人に与えた。銀細工人はそれで彫像と鋳像を造った。こうして、それはミカの家にあった。このミカという人には神の宮があった。彼はエポデとテラフィムを作り、その息子の一人を任命して、自分の祭司としていた。そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」

 

まず、1節から6節までをご覧ください。エフライムの山地の出身で、ミカという名の人がいまし

た。ミカというのは、「誰が主のようであろうか」という意味ですが、彼はその名とは裏腹に主に反した行動を取ります。彼は母から銀1,100枚を盗みました。しかし、その母ののろいの言葉を聞いて恐ろしくなったのか、「実は、その銀は私が持っています」と告白し、それを母に返しました。こうしたのろいの誓いは、呪われた人の上に留まるとされていたからです。

 

すると彼の母が、このように言いました。「主が私の息子を祝福されますように。」どういうことで

すか。自分の銀を盗んだ息子を祝福してくれるようにと祈るとは・・。ここに一つの混乱が見られます。自分の息子がお金を盗んだのであれば、たとえ息子がそれを告白したとしても、「なんでこんなことをしたのか。このようなことはしてはならない」と叱るが親でしょう。それなのに彼女は、「主が私の息子を祝福してください」と言ったのです。普通ではありません。

 

そればかりではありません。息子が母親にその銀1,100枚を返すと、母はその銀を主に献げ、その中から銀200枚を取り、自分の息子のために彫像と鋳像を作るのです。「彫像」とは、へブル語で「ペセル」という言葉から派生した言葉ですが、それは「彫る」とか「刻む」という意味です。おそらく、木や石や青銅などを彫って作った偶像のことでしょう。「鋳像」とは、へブル語で「マッセーカー」という言葉から派生した言葉で、「地金を注ぐ」という意味があります。つまり、鉄や青銅、錫(すず)、鉛、アルミニウムなどの金属を溶かし、鋳型に流し込んで作られた偶像のことです。出エジプト記34章17節には、「あなたは、自分のために鋳物の神々を造ってはならない。」と、禁じられています。それは明らかに十戒で禁じられていた「偶像を作ってはならない」に違反することでした。

 

さら5節には、「このミカという人には神の宮があった。」とあります。これも律法に違反しています。というのは、神の宮は、主が命じられた場所に置かなければならなかったからです。この当時は、それはシロという場所にありました。

 

それだけではありません。彼はまた、エポデとテラフィムを作り、その息子の一人を祭司に任命していました。エポデとは祭司用の服のことです。またテラフィムとは家の守護神のことです。これも律法に違反しています。祭司は、アロンの家系から選ばれなければならず、だれもが勝手になれるというものではありませんでした。

 

これらのことからどういうことが言えるでしょうか。6節です。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」確かに彼らは自分の目で良いと思えることを行っていましたが、それが必ずしも正しいことであるとは限りませんでした。それが神のみこころに反していることもありました。というか、かなり外れていたことがわかります。彼らは決してイスラエルの神、主を捨てたわけではありませんでした。しかし、彼らの信仰はいつしかカナンの習慣に迎合し、神の民としてのあり方から大きくズレてしまっていたのです。その原因はどこにあったのでしょうか。

 

ここには、「そのころ、イスラエルには王がなく」とあります。民を導く指導者がいなかったからです。それで彼らは、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていたのです。神の指導者がいない民は、実に悲惨であることがわかります。常に聖書から神のみこころを語り、民を導く羊飼いがいないということは混乱を招くことになります。日本にも無牧の教会がたくさんありますが、無牧であるというだけでなく、たとえ牧師がいたとしても、その牧師が正しく神のみことばを語り、群れを導くことができるように祈らなければなりません。

 

Ⅱ.祭司を雇ったミカ(7-13)

 

次に7節から13節までをご覧ください。

「ユダのベツレヘム出身で、ユダの氏族に属する一人の若者がいた。彼はレビ人で、そこに寄留していた。その人はユダの町ベツレヘムを出て、寄留する所を求めて旅を続け、エフライムの山地にあるミカの家まで来たのだった。ミカは彼に言った。「あなたはどこから来たのですか。」彼は答えた。「私はユダのベツレヘムから来たレビ人です。私は寄留する所を求めて、旅をしているのです。」そこでミカは言った。「私と一緒に住んで、私のために父となり、また祭司となってください。あなたに毎年、銀十枚と、衣服一そろいと、食糧を差し上げます。」するとこのレビ人は同意した。 このレビ人は心を決めてミカと一緒に住むことにした。この若者はミカの息子の一人のようになった。ミカがこのレビ人を任命したので、この若者は彼の祭司となり、ミカの家にいた。そこで、ミカは言った。「今、私は、主が私を幸せにしてくださることを知った。レビ人が私の祭司になったのだから。」」

 

7節は、少しわかりずらいかと思います。ここに「ユダのベツレヘム出身で、ユダの氏族に属する一人の若者」とありますが、彼はユダ族の人ではありません。というのは、その後に、「彼はレビ人で、そこに寄留していた」とあるからです。レビ人は、イスラエルに相続地を持っていませんでした。神ご自身が彼らの相続地であったからです。彼らに与えられていたのは住む町と放牧地だけでした。ですから、この「ユダのベツレヘム出身で、ユダの氏族に属する」というのは、ユダのベツレヘムに居住していたレビ族出身の人という意味です。彼は滞在する所を求めて、ユダの町であるベツレヘムを出て、旅を続けていました。そして、エフライムの山地にあるミカの家までやって来たのです。

 

するとミカは、彼がベツレヘムから来たレビ人であることを知ると、「私と一緒に住んで、私のために父となり、また祭司となってください。」と懇願しました。この「父」というのは、その家の主人ということではなく、霊的導き手という意味です。そして、その対価として提示したのは、毎年、銀10枚と、衣服一そろいと、それに食料を差し上げるということでした。つまり、生活費が支給されるということです。

 

すると、このレビ人はミカの申し出に同意し、彼の家で一緒に住むようになりました。そして、ミカの息子の一人のようになりました。するとミカは何と言っていますか。13節です。彼はこう言いました。「今、私は、主が私を幸せにしてくださることを知った。レビ人が私の祭司になったのだから。」これはどういうことでしょうか?

 

これまでは、ミカの息子の一人が祭司を務めていましたが、今や本物の祭司がミカの個人的な祭司になったということです。それで喜んでいるのです。しかも、それは主からの祝福であると勝手に思い込みました。しかし、これは大きな誤解でした。レビ人だからというだけで、祭司になれるわけではないからです。祭司になることができるのは、レビ族の中でもアロンの家系から出る者だけでした。

 

レビ族とは、ヤコブの第三番目に生まれた息子レビから始まっている一族です。レビ族は神にとって特別な存在でした。つまり、彼らは神のために聖別された部族であったのです。そのため、神はレビ族の各氏族(ゲルション族、ケハテ族、メラリ族)に聖所の務めを果たすという重要な務めを与えられました。そして、それぞれの氏族に専門の任務を与えたのです。すなわち、ゲルション族には、聖所の幕に関する部分(天幕のおおい、会見と入口の垂れ幕、幕と幕をつなぐひもなど)の管理と運搬、ケハテ族には、聖所にある器具の一切(契約の箱、机、燭台、祭壇、それらに関する用具など)の管理と運搬、メラリ族には、聖所を支える部分(板、横木、柱、台座、釘など)です。各氏族に与えられた任務はそれぞれ独立したものであり、他の部族の任務を兼用したり、替ったりすることは許されませんでした。それぞれが専門職として割り当てられたのです。

 

祭司とレビ人はもともと同じ族長レビから派生していますが、祭司とその職は、レビの二番目の息子であるケハテから生まれた最初の子であるアロンの家系から出た者たちで、いわば、特別職でした。祭司たちはすべてアロンの家系で世襲制でした。祭司たちは会見の天幕における礼拝を実際に取り仕切っていく者たちでした。

 

この祭司と聖所に仕えるレビ人との関係は、レビ人が祭司に仕える立場でした。つまりレビ人は祭司の指導の管理下にあったのです。礼拝を取り仕切る祭司のもとで仕える存在、それがレビ人たちでした。民数記3章5~7節で神はモーセに次のように告げています。

「主はモーセに告げられた。「レビ部族を進み出させ、彼らを祭司アロンに付き添わせて、仕えさせよ。彼らは会見の天幕の前で、アロンに関わる任務と全会衆に関わる任務に当たり、幕屋の奉仕をしなければならない。」

 

レビ人は神に仕え、祭司に仕え、そしてイスラエルの人々に仕える者たち(奉仕者)だったのです。また、彼らが祭司職にかかわることは一切許されませんでした。3章10節には「あなたは、アロンとその子らを任命して、その祭司の職を守らせなければならない。資格なしにこれに近づく者は殺されなければならない。」とあります。それほどに祭司職は特別な職であったのです。

 

それなのにミカは、自分勝手に神の宮を設置し、そこに偶像を安置して、さらに資格のないレビ人を祭司に任命しました。こうしたことは、主の目には忌むべきことでしたが、ミカはそれを主からの祝福だと勘違いしたのです。

 

いったいどうしてこのようなことが起こったのでしょうか。続く18章1節をご覧ください。ここにも

出てきます。「そのころ、イスラエルには王がいなかった。」それで、彼らは自分の目で良いと見えることを行っていたからです。このことは6節でも言われていたことです。このことが何度も繰り返して記されています。この士師記の著者は、このミカの行為が、士師時代の無法状態を表す良い例としてあげているのです。イスラエル人の信仰は、祭司制度の混乱にまで及んでいたのです。

 

しかし、これは何も当時のイスラエル人だけの問題ではありません。現代の私たちクリスチャンにも問われていることです。自分の目に良いと見えることを行っている人は、すなわち、勝手な信仰生活をしている人は、偶然にも良いことがあると、それを神からの祝福を受けている証拠だと受け止めて喜びますが、それはただの勘違いであり、聖書信仰とは相入れないものなのです。そのような信仰は、遅かれ早かれ、神のさばきをその身に招くようになり、結局、信仰からも離れてしまうことになります。こんなはずではなかったのに・・・と。

次の18章を見るとわかりますが、やがてミカもそのさばきを受けることになります。自分が雇った祭司に裏切られ、彼が所有していた偶像が奪われてしまうことになるのです。彼が母親から盗んだ銀によって作られた偶像が、今度は他の人の手によって盗まれるというのは、何とも皮肉な話です。私たちはそういうことがないように、自分の目に良いと見えることではなく、神の目に良いと見えることを求めましょう。主のみこころは何か、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えましょう。そのためにはよく聖書のことばを学び、主のみこころを求めましょう。自分の中にミカのように都合の良い信仰はないかどうか、吟味しましょう。