民数記26章

きょうは、民数記26章から学びます。

Ⅰ.人口調査をせよ(1-4a,52-56)

まず1節かと2節をご覧ください。1節、2節にはこうあります。「1この神罰の後、主はモーセと祭司アロンの子エルアザルに告げて仰せられた。2 「イスラエル人の全会衆につき、父祖の家ごとに二十歳以上で、イスラエルにあって軍務につくことのできる者すべての人口調査をせよ。」26:3 そこでモーセと祭司エルアザルは、エリコをのぞむヨルダンのほとりのモアブの草原で彼らに告げて言った。26:4a 「主がモーセに命じられたように、二十歳以上の者を数えなさい。」

「この神罰」とは、バラムの企みによって、イスラエルにモアブの女たちを忍び込ませ、彼らが彼女らと不品行を行い、偶像礼拝を行ったことで、二万四千人が死んだという出来事です。その神罰の後に、主はモーセと祭司エルアザルに、イスラエルの全会衆の中から、父祖の家ごとに二十歳以上で、イスラエルにあって軍務につくことのできる者すべての人口調査をするようにと命じられました。いったいなぜここで人口を調査しなければならなかったのでしょうか?

人口調査については1章ですでに行われていました。それはエジプトを出て二年目の第二の月のことでしたが、イスラエルがシナイの荒野に宿営していたとき、やはり氏族ごとに二十歳以上の男子で、軍務につくことができる人数が数えられました。それは何のためであったかというと戦うためです。戦うためには軍隊を整えなければなりません。それで主はイスラエルの軍隊を組織させ、その戦いに備えました。部族ごとにリーダーが立てられ、それぞれの人数が数えられたのです。

しかし、ここで人口調査が行われたのは戦うためではありません。あれから38年が経ち、イスラエルは今ヨルダン川の東側までやって来ました。彼らはもうすぐ約束の地に入るのです。いわば荒野での戦いは終わりました。それなのにいったいなぜ人口を調査する必要があったのでしょうか。

それは約束の地に果てる備えるためです。52~56節までをご覧ください。ここで主は、これから入る約束の地において、その血をそれぞれの部族の数にしたがって相続するようにと命じています。大きい部族には大きい相続地を、小さい部族にはその相続地を少なくしなければなりませんでした。彼らはその人数によって相続地を割り当てたのです。

このように主は、荒野で戦いに備える前に人口を調査し、今度は約束の地で相続地を割り当てるのに人口調査をしました。それは決して自らの数を誇るためではなく、これから先の行動に備えるためでした。彼らが約束の地に入るには、まだ原住民との戦いがありました。その後で相続地の割り当てが行われます。しかし、主はそれに先立ち、すでにこの時点で相続地の分割を考えておられました。それはまさに先取りの信仰ともいえるものです。主の約束に従い、それを信じて、いまそれを行っていくのです。そうなると信じて、たとえ今はそうでなくとも、そのように行動していかなければならないのです。

先日、今月の支払いのことで会計担当の方から連絡をいただきました。献金が足りないので支払に支障をきたしているとのことでした。いったいこれはどういうことかと思って祈っていたら、主はこのみことばを私に与えてくださいました。Ⅱ列王記3章16~18です。特に、16節の「みぞを掘れ。みぞを掘れ。」という言葉です。水がなくて困っているというのに、主は「みぞを掘れ」と仰せになられる。いったいこれはどういうことなのかと祈っていると、たとえ今はそうでなくても、主は必ず満たしてくれるので、それを信じてみぞを掘るようにということであることがわかりました。実際にはそれは祈れということでしょう。神が満たしてくださると信じて、神が与えてくださると信じて祈りなさいということです。18節には、「これは主の目には小さなことだ。主はモアブをあなたがたの手に渡される。」とあります。これは主の目には小さいことなのです。そのことで思い悩む必要はありません。そう思ったら、目の前の霧がパッと晴れたようになりました。

私たちの信仰の歩みには自分の思うようにいかないことがたくさんありますが、そのような中でも主の約束を信じ、必ずそのようになると信じて祈り備えていかなければなりません。

Ⅱ.イスラエルの人口(4b-51,57-62)

さて、そのイスラエルの人口ですが、38年前と比較してどうなったかを見てみたいと思います。5節から51節までにそれぞれの部族の人口が記録してあります。

部  族 シナイの荒野 モアブの草原 増  減 割  合
ルベン族 46,500 43,730 -2,770 -6%
シメオン族 59,300 22,200 -37,100 -63%
ガド族 45,650 40,500 -5,150 -11%
ユダ族 74,600 76,500 +1,900 +3%
イッサカル族 54,400 64,300 +9,900 +18%
ゼブルン族 57,400 60,500 +3,100 +5%
マナセ族 32,200 52,700 +20,500 +64%
エフライム族 40,500 32,500 -8,000 -20%
ベンジャミン族 35,400 45,600 +10,200 +29%
ダン族 62,700 64,400 +1,700 +3%
アシェル族 41,500 53,400 +11,900 +29%
ナフタリ族 53,400 45,400 -8,000 -15%
レビ族 数に含まれず 数に含まれず
合  計 603,550 601,730 -1,820 -0.3%

 

 

 

 

 

 

 

 

コラの反乱に加担した者は、このルベン族のダタンとアビラムでした。ダタンとアビラムは会衆に選ばれた者でしたが、コラ(レビ族ケハテの子)の仲間に入り、モーセとアロンに逆らいました。その結果、彼らはコラとともに滅びましたが、コラの子らは死にませんでした。コラの子たちは、後世に礼拝の賛美奉仕者となっていきます。

ところで、38年前にシナイの荒野で数えられた時と比較すると、興味深いです。その時の合計がほとんど同じなのです。以前は603,550人でしたが、今回は601,730人です。ここからも、荒野の生活がかなり過酷であったことがわかります。イスラエルは神の祝福によってたちまち増え続けてきましたが、この荒野の40年は全然増えませんでした。かろうじてほぼ同じ人口は保つことができました。

次にレビ族の人数が記されてあります。レビ族にはゲルション、ケハテ、メラリという三つの氏族がありました。ここで特筆すべきことは、ケハテから生まれたアムラムとその妻ヨケベテとの間にアロンとモーセとその姉妹のミリヤムが生まれたということです。そして、このアロンにはナダブとアビフ、エルアザルとイタマルという四人の息子がいましたが、ナダブとアブフは主の前に異なった火をささげたので死に(レビ16:1:大祭司しか入ることができなかった至聖所に入っていけにえをささげた)、その弟エルアザルが大祭司となりました。

それから、このレビ族の記録でもう一つ重要なことは、彼らの場合は二十歳以上の男子ではなく一か月以上のすべての男子が登録されたということです。そして、彼らは、ほかのイスラエル人の中に登録されませんでした。なぜなら、彼らはイスラエル人の間で相続地を持たなかったからです。

Ⅲ.シナイの荒野で登録された者はひとりもいなかった(63-65)

そして63節から終わりまでがまとめです。「63 これがモーセと祭司エルアザルが、エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原で、イスラエル人を登録したときにモーセと祭司エルアザルによって登録された者である。64 しかし、このうちには、モーセと祭司アロンがシナイの荒野でイスラエル人を登録したときに登録された者は、ひとりもいなかった。65 それは主がかつて彼らについて、「彼らは必ず荒野で死ぬ。」と言われていたからである。彼らのうち、ただエフネの子カレブとヌンの子ヨシュアのほかには、だれも残っていなかった。」

これがこの章のまとめであり、民数記全体の要約でもあります。イスラエルの民は約束の地に入るためにエジプトから出てきたのに、その地に入ることができたのはヨシュアとカレブ以外は誰のいなかったという事実です。彼らは、約束のものを受けていたのに、その約束にあずかれなかったのです。なぜでしょうか?「彼らは必ず荒野で死ぬ」(14章)と言われたからです。神は彼らを約束の地に導くと行ったのに、彼らはそれを信じないで十度も主を試みたので、主はそのように言われたのです。

これは本当に厳粛な話です。私たちがどんなに信仰の恵みに預かっても、不信仰になって主を何度も試みるようなことがあれば、約束の地に入ることはできないのです。パウロはこのことを第一コリン10章でこう言っています。

「そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。あなたがたは、彼らの中のある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には、「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った。」と書いてあります。また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(Ⅰコリント10:1-13節)

パウロはここで、彼らの父祖たち、すなわち、イスラエルの民が御霊によって神の約束のものを手に入れたのに、最終地まで到達することなく、荒野で滅ぼされてしまったのは、私たちへの戒めのためであると言って、7節からその要因を列挙しています。それは金の子牛を造ってそれを拝んだことや、バラムのたくらみによってモアブの女たちと姦淫を行い、その結果、モアブの神々を拝んでしまい、一日に二万三千人が死んだという出来事、さらには、ある人たちがつぶやいたのにならって、つぶやいたりしたことです。これはコラたちの事件のことでしょう。私たちはこれらの出来事一つ一つを見てきました。それらのことによって、イスラエルの民はせっかく神から約束のものを手に入れていたのに、それを受けることができなかったのです。そしてそれは私たちへの教訓のためでした。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気を付けなければなりません。

私たちは今世の終わりに生きています。世の終わりになると困難な時代がやって来るということをイエス様も、またパウロも語っています。いつ倒れてもおかしくない状況に置かれているのです。自分は大丈夫だと思っていても、そうした傲慢な思いが神様のみこころにかなわない場合があります。それなのにいつまでもかたくなになっていると、この時のイスラエルのように約束の地に入ることかで゛きなくなってしまいます。倒れてしまう可能性が十分にあるのです。けれども神は倒れないようにするための約束も与えておられます。それが13節です。

「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」

神が与えておられる試練は必ず耐えることができるものです。耐えられないような試練は与えません。耐えることができるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。この約束を信じて、いつまでも神様の道に歩まなければなりません。もしその道から外れてしまうことがあったら、すぐに悔い改めて、もう一度立ち返る必要があります。そうすれば、主はあなたを赦し、あなたを受け入れてくださいます。いつまでもかたくなになって悔い改めないなら、かつてイスラエルが荒野で滅びたように、約束のものを手に入れることはできません。それがヘブル人への手紙3章13節から19節までのところに進められていることです。
「「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。」

私たちは、この世の歩みの中でいろいろな試練を受けますが、しかし、「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしたいと思います。そして信じた時に与えられた最初の確信を最後まで保ちたいと思います。聞いていてもその御言葉が信仰によって結び付けられることなく滅んでしまうことがないように、いつも柔らかな心をもってみことばに聞き従う者でありたいと思います。

Ⅱテモテ3章10~17節 「聖書は神のことば」

きょうは、Ⅱテモテ3章後半の箇所から、「聖書は神のことば」というタイトルでお話したいと思います。パウロは3章前半のところで、終わりの日には困難な時代がやってくることをよく承知しておきなさい、と勧めました。なぜなら、そのことを事前に知っているならたとえ困難な事態に直面しても落ち着いてそれに対処することができるからです。

そしてきょうの箇所には、そうした困難な時代の中でクリスチャンはどあるべきなのかについて教えています。困難な時代がやってくることを避けることはできませんが、しかし、そのような困難な状況の中にも堅く信仰に立つことができます。いったいどうしたらいいのでしょうか。きょうは、このことについて三つのことをお話したいと思います。

Ⅰ.良い模範を見ならう(10-12)

まず10節から12節までをご覧ください。

「しかし、あなたは、私の教え、行動、計画、信仰、寛容、愛、忍耐に、またアンテオケ、イコニオム、ルステラで私にふりかかった迫害や苦難にも、よくついて来てくれました。またアンテオケ、イコニオム、ルステラで私にふりかかった迫害や苦難にも、よくついてきてくれました。何というひどい迫害にも私は耐えて来たことでしょう。しかし、主はいっさいのことから私を救い出してくださいました。確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」

終わりの日の困難な時代に私たちが信仰に堅く立つために必要な第一のことは、良い模範を見ならうということです。ここでパウロはテモテに対して、神のしもべとして歩んできた自分に、「よくついて来てくれました」と感謝しています。エペソの教会はパウロによって始められた教会です。最初のうちはキリストの愛に溢れ、宣教の情熱に燃えるすばらしい教会でしたが、パウロがエペソを去った後でだんだん雲行きが怪しくなってきました。狂暴な狼が入り込み、群れを荒らすようになったからです。聖書の教えとは違うことを主張したり、ああでもない、こうでもないと、自分を主張する人たちが出てきたのです。それは教会の中に癌のように広がり、ある人たちの信仰をくつがえしてしまうほどでしたが、しかし、テモテは、彼らとは違っていました。彼は、パウロの教え、行動、計画、信仰、寛容、愛、忍耐に、そればかりか、アンテオケ、イコニオム、ルステラでパウロにふりかかった迫害や苦難にも、よくついて行きました。彼は最後までパウロの教えから離れることはありませんでした。その模範に見習ったのです。

皆さん、終わりの日にはこうした困難な時代がやってきますが、そうした中にあっても私たちは信仰に堅く立ち続けることができます。それは、信仰の良い模範を見習うことによってです。クリスチャンの歩む道は必ずしも孤独なものではありません。そこには信仰の先達者たちの良い模範が数多く残されているのです。たとえば、ヘブル12章1節にはこうあります。

「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」

いったいどうしたら目の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けることができるのでしょうか。それは多くの証人たちが、雲のように私たちを取り囲んでいるからです。私たちだけでなく、私たちの先に生きた多くのクリスチャンたちも同じような経験をしながらも、忍耐をもって最後まで走り続けました。そのことを思うと励ましが与えられます。確かにテモテには困難がありましたが、しかしそうした中にあっても同じような困難を通ったパウロのそばにいて、パウロがどのように主に信頼しているのかを間近に見ながらその姿から学ぶことができたことは大きな恵みでした。

いったいテモテはパウロの何を見習ったのでしょうか。まずテモテが見習ったのはパウロの教えでした。パウロの教えは人から聞いたものではなく、主イエスから直接聞いたものでした。それはガラテヤ書1章11~20節のところで言われているとおりです。彼はクリスチャンを迫害するためにダマスコという町に向かっていた時、突然、天からまばゆいばかりの光を見ました。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」それで彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、街に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」それで彼は目が見えませんでしたが、人々に手を引いてもらってダマスコに行き、そこで三日の間、目が見えず、また飲み食いもせず、神のみこころを待ち望みました。そこへアナニヤという弟子が現れて、彼がしなければならないことを告げるのです。それでパウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになり、ただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めました。ですから、パウロの教えはだれか他の人から聞いたことではなく、主ご自身から聞いた主の教えでした。テモテはその教えにとどまったのです。

いったいなぜ人は聖書が教えている主イエスの教えから外れてしまうのでしょうか。それは主イエスから聞いたことではなく、人から聞いたことや、だれか別の人が言ったことを鵜呑みにするからです。そうではなく、神のことばである聖書は何と言っているのかを聞かなければなりません。聖書は何と言っているのか、また、それはどういう意味なのか、そして、それは私の生活にとってどういうことなのか祈りながら適用しなければなりません。そうでなかったらいつまでも人の話に振り回されてしまい、それと違った考えや教えが入ってきてもどこが違うのかを判別することができず、惑わされてしまうことになります。

またテモテはパウロの教えばかりでなく、パウロの行動も見習いました。パウロの行動は、その教えと一致していました。彼は自分が語っているメッセージをその生涯で実証していたからです。主のために犠牲を惜しまずに伝道し、自らが華美で贅沢な暮らしを求めるようなことはしませんでした。自分が人から受ける以上のものを人に与えました。また、真理のためなら、自らのいのちを落とすことも厭いませんでした。彼は神と人に仕える僕だったのです。

またパウロの計画は、これは目的と言い換えたほうが良いかと思いますが、それはただ神の栄光を現すことでした。パウロはこう証しています。「神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」(使徒20:24)パウロはこの地に福音が満たされ、救われる人たちが起こされることによって、神の栄光が現されることをひたすら願いました。彼の関心は自分が人から注目を浴びることではなく、自分の名声を得ることでもなく、ただ神の栄光が現されることでした。テモテはずっとパウロのそばにいてその姿を見ていました。パウロは自分に頼らないで、主に信頼していたのです。

そればかりでなく、パウロが反対する人たちがたくさんいる中でも、寛容な心をもって教えているのを見ていました。また迫害する人たちに対しても、神の愛をもって赦す姿、どんな困難な状況にあっても、じっと忍耐する姿をそばで見ていたのです。

パウロは11節でそのことを言っています。彼が福音のゆえに受けた迫害や苦難は、私たちの想像以上のものでした。ピシデヤのアンテオケではユダヤ人たちの激しいねたみによってその地方から追い出され、イコニオム、ルステラでも同様の迫害がありましたが、ルステラでは石打にされ、死んだと思われて捨てられたほどです。確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。しかし、テモテが見たのはそれだけではありませんした。そうした激しい迫害や苦難にあっても、主はいっさいのことから救い出してくださったということも目の当たりにしていました。

ここでパウロは、主が迫害や苦難から救い出してくださったということを思い出しています。このように自分の過去を振り返る時、神がどのようなことをしてくださったのかを思い出すなら、今置かれている状況がどんなに苦しくても希望を持つことができます。この時パウロはローマの地下牢にいてこれを書いていましたが、この時には打ち首になることが決まっていました。そこにはもう何の希望もないかのようでしたが、そのような中にあっても彼は決してあきらめませんでした。主が必ず救ってくださるという希望を持っていたのです。どういうふうに救い出してくださるのかはわかりません。もしかしたらそれが延期になって事態が一変し、そこから奇跡的に逃れられるようになるのか、あるいは、かつてピリピの獄舎で経験したように、大地震が起こって救い出されるのか、どのようにして救い出されるのかはわかりませんが、神が必ず救い出してくださるという確信がありました。たとえそうでなくても、主は彼に最善のことをしてくださると信じていました。たとえ処刑されて命を失うようなことがあっても、それは主イエスのそばに行くということを意味しているので、それもまた喜ぶことができました。彼は迫害の中にあっても、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝することができたのです。

テモテはいつもパウロのそばにいて、そうしたパウロの姿をつぶさに見ながら、そこから学んでいました。彼にはそうした信仰の模範がありました。ですから、実際の困難な状況にあったとき、そのことを思い出して励まされ、忍耐することができたのです。

私たちも、時に困難に直面することがありますが、そのような時にはぜひこうした信仰の先達者たちの姿を思い出したいものです。そして、そこから励ましを受け、そうした困難の中にあっても目標に向かって前進していきたいと思うのです。

Ⅱ.神のことばにとどまる(13-15a)

困難な時代にあっても、私たちが信仰に堅く立つために必要な第二のことは、神のことばである聖書にとどまることです。13~15節前半までをご覧ください。ここには、「しかし、悪人や詐欺師たちは、だましたりだまされたりしながら、ますます悪に落ちて行くのです。けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。」とあります。

終わりの日が近くなると、こうした「悪人」とか「詐欺師たち」と呼ばれる人たちが増えてきます。「悪人」とか「詐欺師たち」とは名ばかりのクリスチャンたちのことで、言っていることとやっていることが一致しない人たちのことです。口ではイエス様信じます!と言いながら、その主のことばに従って歩もうとしないのです。そういう人は信じているとは言っても行いによってそれを否定するので、信じていることにはならないのです。

主イエスはマタイの福音書の中で、「わたしに向かって「主よ、主よ」と言う人者がみな天の御国に入るのではなく、無店におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイ7:21)と言われました。終わりの日にはこういう人たちが多くなっていくのです。そして、こういう人たちはだましだまされながら、ますます悪に落ちて行くのです。

では、どうしたらいいのでしょうか。そのような現実の中でいったいどうやって信仰に堅く立ち続けることができるのでしょうか。聖書はこう言っています。14節です。「けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。」

いったいなぜこうした悪人や詐欺師たちにだまされるのでしょうか?それは、聖書を学ぼうとしないからです。聖書が何と言っているかということよりも、自分の考えや思いによって行動しようとするからです。ですから、そうした偽りの教えがやってきてもそれを正しく判別することができないので、その結果、振り回されてしまうのです。

けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。勿論、この学んでというのは「聖書」のことです。「聖書」を学んで確信したところにとどまっていなければなりません。なぜなら、その聖書をだれから学んだのかをよく知っているからです。

テモテはだれから聖書を学んだのでしょうか。テモテの父親はギリシャ人で、母親はユダヤ人でした。でもテモテを信仰に育てたのは母親でした。なぜなら、ユダヤ人の誇りは、子供たちを幼い時から律法に基づいて教育し、訓練することだったからです。ユダヤ人は、律法が子供たちの魂にも精神にも深く印象づけられているので、自分の名前を忘れることはあっても律法は忘れないと言っています。そのようにテモテは幼い頃から母親から聖書を学んでいました。

テモテはそれを知らない人から聞いたのではありません。まして偽りの教師たちから聞いたのでもないのです。彼はそれを信頼できる人から学びました。ですから、それは信頼できる教えなのです。そしてそうした信頼できる教えは、必ず健全な信仰を生み出します。そしてそこにとどまっているなら、たとえ偽りの教えが入ってきても惑わされることはないのです。

Ⅲ.聖書の価値(15b-17)

では、テモテが幼いころから親しんできた聖書とはどのようなものなのでしょうか。15節の後半から17節までをご覧ください。「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」

ここでパウロは、聖書について四つの大切なことを語っています。第一に、聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるということです。これが、聖書が書かれた一番大きな目的です。聖書は単なる文学書や歴史書ではありません。聖書は、イエス・キリストによる救いを受けさせるために書かれたものなのです。

ヨハネの福音書20章31節には、「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」とあります。聖書が書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、そして、信じて、イエスの御名によっていのちを得るためなのです。ですから、どんなに聖書を読みその内容を知っていても、それによってイエスを信じなければ何の意味もありません。それは聖書読みの聖書知らずということになります。しかし、聖書は私たちがそれを読んで、イエスが神の子キリストであることを信じるために書かれたのです。この目的を理解してあなたが聖書を読むなら、あなたもキリスト・イエスを信じる信仰へと導かれ、永遠のいのちを得ることができるのです。

A.M.チャーギンは、「世界伝道における聖書」という本の中で、あるイギリスの小児科病院の看護婦長の話をしています。彼女の告白した話では、彼女は人生がくだらぬ、無意味なものだと思っていました。そして、彼女は人生の意味を見出すために、次から次に本を読みました。しかし、何の満足も得られなかったので、次に彼女は哲学書を苦労して読み始めました。しかし聖書を開こうとはしませんでした。彼女の友人が、ことこまかに、聖書がいかに偽りであって、真実性のないものであるのかを語っていたので、そう信じ込まされていたからです。しかし、ある日病室に訪問者がやって来て福音書の一冊を贈り物として残して行きました。その婦長はヨハネの福音書を読むようにと勧められていたので読んでみると、そこにはこう書かれてありました。「そこでピラトはイエスに行った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」(ヨハネの福音書18章37節)そして彼女は救い主を発見したのです。

この婦人は、聖書を読むまで真理がわかりませんでした。けれども、直ぐな心で聖書を読むなら、そこに驚くべきことが起こります。他のどんな本にもない救いの知恵がその中にあるからです。

第二のことは、聖書はすべて神の霊感によるものであるということです。ここには、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、」とあります。どういう意味でしょうか?それは、聖書は神の霊の息吹によって書かれたということです。聖書は40人の著者たちによって、約1600年の歳月をかけて書かれましたが、その内容をみると統一性があり、全体が見事に調和していることがわかります。バラバラではないのです。もしここにいる人たちがイエス・キリストというテーマで書いたとしたら、その内容はバラバラなものになってしまうでしょう。全く違う人たちが違った視点で書くからです。けれども、聖書は40人の著者たちによって書かれましたが、真の著者は神ご自身であって、神がそれぞれに聖霊によって語りかけ、聖霊は神の人を用いて神のみことばを書かせたので、そこには統一性や一貫性があるのです。それはちょうど法隆寺が聖徳太子によって立てられたのと同じです。実際には聖徳太子が建てたのではなく、宮大工職人によって建てられたものですが、それは聖徳太子の命によって建てられました。ですから、法隆寺は聖徳太子によって建てられたのです。同じように聖書も実際には40人もの人間によって書かれましたが、それを意図して書かせたのは神ご自身なのです。聖書が神のことばであるゆえんはここにあります。

いったい神はどのようにして彼らに書かせたのでしょうか。それは彼らが単なるインスピレーションやひらめきによって書いたというのではありません。またその人たちが意識を失って、手が勝手に動き出して書いたというのでもないのです。神が語られたことを、聖霊に動かされて人たちが書いたのです。そのことをⅡペテロ1章21節では、こう言っています。

「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人とたちが、神からのことばを語ったのだからです。」

「預言」とは「聖書」のことです。聖書は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、神の聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのです。それゆえに聖書は神のことばであると言えるのです。しかも部分的にではありません。すべてです。聖書はすへて神の霊感による、神のことばなのです。

そして第三に、聖書は教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。聖書は、何が真理であり、何が悪であるかをしっかり教えてくれます。また、私たちの生活をまっすぐにし、正しいことを行う力を与えてくれるのです。

リック・ウォーレンの書いた「人生を変える力」という本の中に、南太平洋に浮かぶある島の人食い人種の話があります。その人はキリストを信じて聖書を読むようになりました。ある日、その人が大きなつぼのそばに座って聖書を読んでいると、ヘルメットをかぶった一人の文化人類学者が近寄って来て、「何をしているんだい」と尋ねました。その原住民が「聖書を読んでいるのです」と答えると、その文化人類学者は笑って言いました。「現代の文明人がその本を拒絶してきたことを知らないのかい?ウソのかたまり以外の何ものでもないさ。そんなものを読んで、自分の時間を無駄にしないほうがいい」すると、この人食い人種は、その文化人類学者の頭のてっぺんからつま先までゆっくり眺めた後で、こう言いました。「先生、もしこの本がなかったら、あなたは今頃このつぼの中ですよ。」神のみことばによって、その人食い人種の人生は見事に変えられたのです。このように聖書は、人を変える力があるのです。

もし本気で自分の人生を変えたいと願うなら、聖書に向かわなければなりません。聖書を読んで、そこから学び、ただ学ぶだけでなく暗記したり黙想して、それを自分の生活に適用しなければなりません。そうでなければ、信仰の成長を期待することはできないのです。

それは子供の成長と同じです。小さな子供はわがままで自己主張が強くて大変ですが、そういう子供を立派な大人に成長させたいと願うとき、いったい親はどうするでしょうか。まず何が正しくて、何が正しくないかを教えます。そして、それと違ったことをしたら「それは違う」と教えます。何度言っても聞かない時にはムチを使うかもしれませんね。そしてそれができるようにトレーニングします。同じように、神は私たちを子として扱っておられるので、私たちに教え、戒め、矯正し、義の訓練をされるのです。その道具が聖書なのです。生まれながらの人間は、自分のやり方を通そうとします。真理に従いたくないのです。自分の思うようにしたいのです。それを聖書では肉と言っています。肉は神のみこころに反します。しかし、聖書のことばに従うと成長し、霊的に成熟していくのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益なのです。

第四に、聖書は神の人が、すべての良い働きのためにふさわしく十分に整えます。Ⅰテモテ6章11節で、パウロはテモテを「神の人」と呼びましたが、ここではテモテに限らず、神のみことばを学び、それに従い、それによって支配された人たちを「神の人」と呼んでいます。そして神のことばは、そのような人たちがすべての良い働きのためにふさわしく十分に整えてくれるのです。聖書を学ぶ目的は、ただ聖書の教えを理解し、信仰を守るといった消極的なものだけでなく、みことばによって神の人が神のわざを行っていくという積極的な面で整えられるためでもあるのです。

有名なイギリスの説教者C・H・スポルジョンは、あるとき古くてボロボロになった聖書を手に入れました。普通に扱うと壊れてしまうので、彼は机の上にその聖書を置いて、慎重に1枚1枚開いて読まなければなりませんでした。毎日読んでいるうちに、ふと聖書の中に小さい穴があいているのに気が付きました。その穴は表紙から裏表紙までを貫いていました。それはシミという小さな虫の食った穴でした。シミという虫は銀色のむかでみたいなやつです。以来彼は、「神よ、どうぞ私をこのシミのようにしてください」と祈ったそうです。そして彼は、シミのように聖書の初めから終わりまで何度も何度も繰り返して読んだと言われています。そこに彼の奉仕の原動力の秘密を見るような気がします。

私たちも祈りましょう。「主よ、どうぞ私をシミのようにしてください。」と。聖書の最初から最後まで何度も読んで神の人に創り変えられ、良い働きのために備えられるようにと祈ろうではありませんか。

終わりの日が近くなると、偽りの教えがはびこり、困難な時代がやって来ますが、しかし、動じることはありません。永遠に変わることのない神のことばを握りしめ、そこに根を下ろすなら、どんな困難な中にも堅く立ち続けることができるのです。

Ⅱテモテ3章1~9節 「終わりの日には」

きょうは、「終わりの日には」というタイトルでお話をしたいと思います。パウロは、エペソの教会で牧会していたテモテを励ますために、困難に耐えるためにどうしたらよいかを語ってきました。そしてそのためにはまず、神が私たちに与えてくださったものがどのようなものかを思い出さなければなりません。神が与えってくださったものは、おくびょうの霊ではなく力と愛と慎みとの霊です。(1:7)このことを思い起こすなら力が与えられ奮い立つことができます。それから、イエス・キリストの恵みによって強くならなければなりません。それは兵士のようであり、またアスリートのようです。そして労苦して働く農夫のようです。確かに目の前には戦いがあり、労苦がありますが、その先にもたらされるのは勝利であり、栄光であり、収穫の分け前です。このことを知っていれば、困難の中にあっても強くなれるのです。

それからパウロは、ダビデの子孫であり、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい(2:7)と勧めました。私たちは決して孤独の戦いをしているわけではありません。そこにはいつもイエス様がおられ、イエス様の助けがあることを忘れてはなりません。

これらのことを人々に思い出さなければなりません。そして、聞いている人々を滅ぼすような無意味な話を避けなければなりません。そのような話は聞いている人々を滅ぼし、人々の信仰をくつがえしてしまいます。むしろ、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなければなりません。

そして今日の箇所では、特に終わりの日にはそうした俗悪な無駄話というか、信仰からそれていくような時代になることを警告しています。なぜなら、終わりの日にはどのようなことが起こるのかを前もって知っていると、それに備えることができるからです。

Ⅰ.困難な時代がやって来る(1)

まず1節をご覧ください。

「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。」

ここには、終わりの日には困難な時代がやって来る、とあります。いったい終わりの日とはいつのことなのでしょうか?ヘブル人への手紙1章1,2節にはこうあります。

「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。」ここには、神の御子イエス・キリストがこの世に来られ、神のことばを語られた時を、終わり日と言っています。

また、ペテロはペンテコステの時に聖霊が下られたのを見て、驚き、あやしんでいた群集に、預言者ヨエルのことばを引用してこう言いました。使徒の働き2章16~21節です。「これは、預言者ヨエルによって語られた事です。『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』」

ですから、ヨエルが終わりの日に起こることとして預言したことは、ペンテコステにおいて成就したことがわかります。いや、もっと正確に言うなら、このペンテコステの時に成就しましたが、やがてもっと完全な形で成就するということです。ですから、終わりの日とはイエス様が最初にこの地上に来られた時に始まり、再び来られる時までのことを指しているということです。キリストが最初に来られた時は救い主として来られましたが、二度目に来られる時にはさばき主として来られます。そのときが終わりの時です。その時にはどんなに「時間よ、止まれ」と叫んでも、止まることはありません。終わりの時が来て、すべての人がさばかれるのです。

ですから、今は恵みの時、今は救いの日なのです。イエス様が最初に来て救いの御業を成し遂げられて天に昇られ、さばき主として再び来られるのを待っている時なのです。だれでもイエス・キリストを信じるなら救われます。救われて天の御国に入ることができるのです。過去においてどんなに大きな罪を犯した人でも、また、生まれた環境がどうであれ、もう自分なんか生きる価値もないと思えるような人でも、だれでも救われます。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

イエス・キリストを信じるなら、あなたも罪から救われて、新しい人生を始めることができるのです。今は恵みの時、今は救いの日です。ですから、この恵みの時にイエス・キリストを信じて救われてほしいと思います。やがて信じたくても信じることができない時がやってくるのですから。そして終わりの時がやって来ます。キリストが再びこの地上に来られるとき、彼を信じるすべての人は救われて永遠のいのちを頂き、そうでない人はさばかれます。永遠の滅びへと突き落とされるのです。そういうことがないように、あなたもイエスを信じて救われてください。今は、この終わりの日に限りなく近づいている時なのです。聖書の預言がことごとく成就し、主イエスがいつ来られてもおかしくないような、そういう時に生かされているのです。その恵みの時に、神の救いを受け入れていただきたいのです。

では、その終わりの日には、どんなことが起こるのでしょうか。ここには「困難な時代がやって来る」とあります。悲観的に聞こえるかもしれませんが、これが聖書の言っていることです。なぜ終わりが近づくと困難な時代になっていくのでしょうか。なぜなら、神はその後で新しい天と新しい地を創造されるからです。出産の前には産みの苦しみがあるように、新しい天と新しい地が創造される前にも苦しみがあります。それは産みの苦しみなのです。

この「困難」と訳された言葉は、マタイの福音書8章28節にある「狂暴」という言葉と同じ言葉です。イエスがガリラヤ湖の向こう岸のガダラ人の地に行くと、そこに悪霊につかれた人がふたり墓から出て来ました。彼らは墓場に住みついていました。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどでした。その「狂暴」と同じ言葉が使われているのです。ですから、世の終わりの時は、悪魔や悪霊が猛威を奮うときなのです。テモテへの手紙第一にもありましたね。後の時代には、ある人たちが惑わす霊と悪霊の教えとに心が奪われる・・と(4:1)。この時代は単に、悪いことが起こるというだけでなく、悪霊がはびこるのです。世界で起こっている事柄が、まさに悪魔的な様相を呈するのです。

パウロは、終わりの日にはこうした困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい、と言いました。なぜなら、そのような困難な時代がやって来るということを覚えているなら、それに備えることができるからです。パウロ自身も、彼の人生の終わりの日が、もう目の前に迫っていました。彼は何度も牢の中に入れられました。別に何か悪いことをしたからではありません。福音のために、良いことのために捕われていたわけです。この手紙を書いた時には打ち首になることが決まっていて、ローマの地下牢に閉じ込められていました。しかし、パウロの心は少しも萎えませんでした。むしろ希望を持っていました。そうした困難な中にあっても、牧会で苦しんでいたテモテを励ますことができたのです。なぜでしょうか?それは、終わりの日にはそうした困難な時代になるということをちゃんと知っていたからです。そして、そのような時代の中にあっても、イエス・キリストが再び来られ、彼を信じるすべての者たちに報いてくださると信じていたからです。ですからパウロは、そうした困難な時代にあっても勇気を失うことなく、苦難の中にあったテモテを励ますことができたのです。

皆さんはどうでしょうか。終わりの日には困難な時代がやって来ることを知っていましたか。日々突然襲って来る苦難に、「なんでこうなるの」と嘆いてはいないでしょうか。でも心配する必要はありません。焦らなくても大丈夫です。それはずっと前から聖書で言われていたことですから・・。「ああ来たな」と思ったら、これが聖書で言われていた患難かと思い、すべてを神様にゆだねて祈ればいいのです。そうすれば主が守り、患難に耐える力を与えてくださいます。

新聖歌247番の2番の歌詞にこうあります。

「来なば来たれ試みよ 襲いかかれ悪しき者

主に隠れし魂の などで揺らぐことやある

主の手にある魂を 揺り動かいものあらじ」

主の手にある魂を、揺り動かすものはありません。ですから、そういう困難は来るということを十分覚えながら、その時には岩なる主に隠れればいいわけです。主の手にある魂を、揺り動かす者は何もないのですから。

Ⅱ.そのときに人々は(2-8)

では、そのとき人々はどのようになるのでしょうか。それが2節から8節までに記されてあります。まず2節から5節までをお読みします。

「そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」

ここでパウロは、そのとき人々はどうなっていくのかを具体的に18のリストを挙げて説明しています。その最初にリストアップされているのは、自分を愛する者です。世の終わりが近くなると、人々は自分を愛するようになります。ここでは特にイエス様を信じていない人のとこが言われているのではありません。イエス様を信じているはずのクリスチャンのことが言われているのです。そのクリスチャンが自己中心になり、神から離れて行くようになるというのです。

イエス様はマタイの福音書24章の中で世の終わりの兆しを語っておられますが、その最大のしるしは何かというと、多くの人たちの愛が冷たくなるということでした。「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなるのです(マタイ24:12)。神に対する愛も、教会に対する愛も、兄弟姉妹たちに対する愛も、隣人に対する愛も冷えるのです。なぜでしょうか?不法がはびこるからです。聖書に教えられていることとは違うことを教えたり、聖書に反するようなことを言ったりすると、愛が冷え、自己中心になるのです。世の終わりが近くなると、そういう人たちが多くなるのです。今はそのような傾向が強くなっているのではないでしょうか。

では、このことについて聖書ではどのように教えているでしょうか?マルコの福音書8章34節を開いてください。ここでイエス様はこう言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(マルコ8:34)」

また、こうも言われました。「『心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』…『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』」(マルコ12:30-31)

だれでもイエスについて行きたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、イエスについて行かなければなりません。自分を愛するのではなく自分を捨てて、イエスについて行く、それがクリスチャンの信仰の土台です。そして、神を愛し、隣人を愛します。自分を愛するようにということは、聖書には書かれてありません。健全なセルフイメージを持つことは大切なことですが、それと自分を愛することは違います。自分を愛することができなければ神を愛することもできないし、隣人を愛することだってできないのだから、まずは自分を愛さなければならないと言う人がいますが、それはこの世の知恵が教えていることで、聖書が言っていることではないのです。聖書が言っていることは、あなたが神である主を愛せよ、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよということです。そうすれば、あなたに真の自由と平和がもらされるのです。なぜなら、真理はあなたがたを自由にするからです。真理のみことばに従うなら、その真理があなたを自由にするのです。

次に挙げられているのは、金を愛する者です。終わりの日が近くなると、人々は金を愛するようになるというのです。金を愛して何が悪いのか?世の中すべてが金じゃないですか?しかし、聖書はこう言っています。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(Ⅰテモテ6:10)金を愛することがすべての悪の根であり、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通すことになります。必要であれば、必ず神が与えてくださいます。ですから、金を愛するのではなく、神を愛さなければなりません。お金を何に使うかによってその人の心がどこにあるか、何に関心があるのかがわかります。自己中心的になると神のために使ったり、人のために使ったりということがなくなり、自分のために使うようになります。なぜなら、だれもふたりの主人に仕えることはできないからです。神にも仕え、また富にも使えるということはできません。神を愛すれば、神に仕えるようになり、金を愛すれば、金に仕えるようになるのです。その結果、信仰から迷い出て、悲惨な結果を見に招くことになるのです。

第三のことは、大言壮語する者です。大言壮語とは何でしょうか。それは自慢することです。できそうにもないことや威勢のいいことを言って誇るのです。終わりの日が近くなると、多くの人がこのように大言壮語するようになります。

第四に、不遜な者です。不遜な者とはギリシャ語で「ヒュペレーファノス」という言葉ですが、これは自分を高く示すという意味です。自分を高くするので、そこには当然相手を見下す態度が生まれます。このような心があると、上から目線で言ったり、やったりするようになるのです。

ルカの福音書18章には、有名なパリサイ人の祈りが紹介されています。彼は、立って、心の中でこう祈りました。「神よ。私はわかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」(ルカ18:11-12)

このパリサイ人は、自分を高い所に置きました。そして、取税人をはじめとする罪人をいつも見下していました。それがこの祈りによく表われています。「ことにこの取税人のようでないことを感謝します」と、祈っています。これが傲慢な者、不遜な者の姿です。

次に、神を汚す者です。つまり、神を侮辱する者です。このような人は神を敬うことをしません。神を敬うのではなく自分を敬います。そうした自尊心は常に神への侮辱を生み出します。神よりも自分の方がもっと知っているとか、神を信じて何にもならないと豪語するのです。こうした思いはやがて人を軽蔑し、人を傷つける言動となって表われます。

次は、両親に従わない者です。終わりの日が近くなると、だんだんと両親にも従わなくなる人が増えてきます。両親のことより自分のことが大切だと思うからです。でも、モーセの十戒では何と言っているでしょうか?モーセの十戒の最初の四つの戒めは神との関係について、後半の六つの戒めは対人関係について言われていますが、その対人関係の最初に言われているのは両親に対する戒めです。そこには、「あなたの父と母を敬え。」(出エジプト20:12)とあります。それが「あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるため」なのです。なぜこのように言われているのでしょうか?なぜなら、あなたの両親は神の代理者として立てられているからです。目に見える親を愛することのできない人が、どうして目に見えない神を愛することができるでしょうか。きょうは奇しくも父の日ということですから、両親から離れて住んでいる方は、ぜひ両親に電話なり、メールなりで感謝を表したいものです。

次は、「感謝することを知らない者」です。終わりの日が近くなると感謝することを知らない人が増えてきます。皆さんは感謝していますか?ブツブツ文句ばっかり言ってはいないでしょうか?不平不満ばかり漏らしてはいないでしょうか?なぜ感謝することができないのでしょうか?それが当たり前だと思っているからです。でも、あなたが生きているのは決して当たり前のことではありません。生きたくても生きられない人がたくさんいます。だから、生きていること自体が奇跡であり、感謝であり、恵みなのです。そればかりか、神はあなたを罪から救ってくださいました。永遠の滅びから、永遠のいのちへと移してくださったのです。神はこんな者でも救ってくださったと思うと、本当に感謝ではないでしょうか。いや、私は自分で頑張って生きてきたんです!誰の世話にもなっていません!自分で一生懸命努力して生きてきたんです!そういう人は感謝することができません。それが当たり前だと思っていたり、自分の力でやって来たと思っている人は感謝ができないのです。そういう人は感謝することをしないばかりか、与えられてもまだ足りないと言って文句を言います。終わりの日が近くなると感謝することを知らない者が増えてきますが、そのような中でも私たちは神を覚え、神によって生かされていることを感謝したいと思います。

次に、汚れた者です。汚れた者とは何でしょうか?汚れた者という言葉はギリシャ語の「アノシオス」ということばですが、これは成文化された法律を破るということでよりも、成文化されていない法律を犯すということです。たとえば、ギリシャ人にとっては、死者を埋葬することを拒むことはアノシオスでした。また、兄弟が姉妹と、もしくは、息子が母親と結婚することもアノシオスであったそうです。つまり、律法の文言に書かれているかいないかということと関係なく、その人が生きていく上での基本的な倫理観や道徳観、マナーやモラルといった面で欠如している人のことを言うのです。

そして次は情け知らずの者です。これは家族や友人への愛情がなくなることです。人は自己中心的になると、もっとも親密なはずの家族のつながりも無くなってしまいます。自己中心的な喜びを追及するあまり、自分の人生がそうした基本的なつながりの上に建てられていることも認めようとしなくなるのです。

M兄から聞いたお話ですが、お借りしている畑の近くの小さな池にカモが親子で泳いでいるそうです。しかし、M兄が近づくと近くの茂みに隠れます。すると突然親カモ傷ついたふりをするのだそうです。M兄の関心を自分に向けさせて、子カモを守ろうとするのです。そしてM兄がそこから離れるとまた子カモのところに戻ります。カモでさえこんなに愛情があるのに人間はどうでしょう。そこに傷ついた人がいても知らんふりをするのです。カモ~ン!私たちはカモよりももっとすぐれたものじゃないですか。困った人や苦しんでいる人を見たら、深い同情心、あわれみの心をもって接したいものです。

次に、和解しない者です。これは「アスポンドス」というギリシャ語ですが、憎悪のあまり、争った相手を決して赦そうとしない態度のことです。この語は精神的な残酷さ、冷酷さを述べることばであって、無慈悲な冷酷さのゆえに、相手を分離しようとすることです。どこまでも執念深く、他の人と仲良くやろうとする心がありません。

次に、そしる者です。これは陰口をたたく者、中傷する者のことです。これはギリシャ語では「ディアボロス」という言葉ですが、英語の「devil」(悪魔)の語源になった語です。ですから、もし人を中傷する人がいれば、それは悪魔から来ているのです。終わりの日には、こうした中傷者が増えてきます。

次は、節制のない者です。節制がない者とは、欲望を抑えられない人のことです。人はその心の願望を叶えたい存在なのです。そしていつの間にか習慣や欲望の奴隷になってしまい、その人自身を滅ぼしてしまいます。銀貨30枚でイエスを裏切ってしまったイスカリオテのユダは、この欲望を抑えることができませんでした。彼は節制のない者でした。その結果、彼は自らそのつけを受けることになってしまいました。しかし、それはユダだけのことではなく、私たにも言えることです。

次は、粗暴な者です。粗暴な者とは野蛮な者、獣のように残忍な者のことです。このような人には人間としての同情心やあわれみの心はありません。犬でさえも、自分の主人を傷つけると申し訳なさそうな動作をしますが、粗暴な人にはこのような感情すらありません。

次に、善を好まない人です。善を好まないで悪を好みます。そんな人がいるのでしょうか。いるんです。このような人は、良いことが煩わしく感じます。光よりも闇を愛するのです。その方が安心するのです。このような人は精神的な味覚、感覚を失っているのです。そして、終わりの日には、このような人がだんだん増えてくるのです。

次は、裏切る者です。いつも近くにいて親しい友人だと思っていたら、ただのふりだったとか、自分に都合が悪くなるとすぐに見捨ててしまう人たちのことです。

向こうみずな者とは、無謀なことをする人のことです。その人は、わがままで分別がありません。一見情熱的に見えますが、それはただ自分がやりたいからやっているだけで、そういう人はもはや他の人の意見を聞く耳を持ちません。情熱的であることと無謀であることはまさに紙一重です。

次は、慢心する者です。慢心する者とは、うぬぼれる人、思い上がる人のことです。原語の「テトュフォーメノス」は、自負心で膨張する者という意味です。俺はこんなにすごいんだと、風船が膨張するように心が膨張するのです。

そして、神よりも快楽を愛する者です。趣味やレジャーが悪いというのではありません。それはリフレッシュするために、リラックスするために、神が与えてくださった祝福です。でも、それを神よりも大事にすれば問題が生じてきます。

ここにあるリストの最後は5節に書いてあることです。「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者」です。どういうことでしょうか?イエスは主です!救い主です!と言いながら、それと矛盾するようなことをやっている人のことです。こういう人は、結局はイエス・キリストに従うのではなくて、自分の肉に従って生きています。宗教の形を気にしているだけで中身が伴わないのです。神のことばがどれだけ私たちの生活を変える力があることを理解することができませか。こういう人を避けなければなりません。

そればかりではありません。6節と7節にはこうあります。「こういう人々の中には、家々に入り込み、愚かな女たちをたぶらかしている者がいます。その女たちは、さまざまの情欲に引き回されて罪に罪を重ね、いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることのできない者たちです。」

どういうことでしょうか?「たぶらかす者たち」は、入り込む者たちです。彼らは、愚かな女たちがさまざまな情欲に引き回されていることを知っているので、そこに入り込み、自分の虜にします。大抵の場合、女性は家にいて、子育てと家事の平凡な日々の繰り返しにむなしさを感じています。いったい何のために生きているのかわからなくなったり、過去の罪責感などで悩んで落ち込むことがありますが、そんな時に「ピンポン」と玄関のチャイムが鳴るので行ってみると、優しそうな二人連れがニコニコしながら話しかけです。「聖書を学んでみませんか」「いいえ、私はいいです。」と一度は断るものの、何度か話をしているうちに、この人たち、「本当にいい人たちだわ、ちょっとくらいだったら聞いてみようかしたら」と思い始めます。すると、生きる目的とか、人生の意味など、これまで考えたこともないようなことを教えてくれるのでおもしろくなって、だんだんとのめり込んでいくのです。それがあからさまに間違っていたらすぐにおかしいと気づくのですが、そこにはちょっと真理が混ざっているので、それが聖書の教えとは違うということに気付かないのです。そして時間が経つうちに、聖書とは全く違うところに導かれてしまいます。だから、彼らはいつも学んではいても、いつになっても真理を知ることができません。パウロの時代にもそういう人たちがいました。彼らはいつも学んでいても、いつになっても真理を知ることができないのです。

8節をご覧ください。「また、こういう人たちは、ちょうどヤンネとヤンプレがモーセに逆らったように、真理に逆らうのです。彼らは知性の腐った、信仰の失格者です。」

この「ヤンネとヤンブレ」とはだれのことなのかははっきりわかりません。彼らのことは聖書の他のところには出ていないからです。でも確かなことはモーセの時代に生きていた人物で、モーセに逆らった人たちであるということです。多くの人たちは、ユダヤ人の伝承から、出エジプト記7~9章に登場するエジプトの呪法師のことではないかと考えています。あるいは、出エジプト記12章38節に出てくるイスラエルの民と一緒に入り混じってエジプトを出てきた外国人の中にいた人物ではないかとも考えられています。彼らは後に荒野に導かれたとき、激しい欲望にかられ、「ああ肉が食べたい。エジプトで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。」と言って、モーセに激しくつぶやきました(民数記11:4-5)。確かなことはわかりませんが、彼らについてわかることは、彼らはだましごとにたけていて、人々を惑わしていたということです。彼らの知性は腐っていました。彼らは信仰の失格者です。

だから目を覚ましていなければなりません。敵である悪魔は、食い尽くすべき獲物を探し求めて歩き回っているからです。聖書は悲観的なことを教えているわけではありませんが、でも厳しい現実があるということを予め教えています。ですから、私たちはそのことを覚えて、そうした困難な時代に対処していかなければならないのです。

Ⅲ.しかし、これ以上は進むことはできない(9)

しかし、感謝なことに、聖書はそれだけで終わっていません。最後の9節には力強い約束が記されてあります。ご一緒に読んでみましょう。「でも、彼らはもうこれ以上進むことはできません。彼らの愚かさは、あのふたりの場合のように、すべての人にはっきりわかるからです。」

彼らとはだれのことでしょうか。このように知性の腐った人たちのことです。真理に逆らう人たちです。終わりの日にはそのような人たちがやって来て、狂暴な狼のように群れを荒らし回しますが、彼らはそれ以上進むことはできません。彼らの力もそこまでで、それ以上は進むことはできないのです。化けの皮がはがれるからです。それが真理の光に暴露されると、必然的にしぼみ、滅亡するからです。神の不動の礎は堅く置かれています。だから教会は決して揺り動かされることはありません。だからたとえどんな人が現れても、どんな困難な時代がやって来てもびくともすることはないのです。そのような時代にあっても、堅く立ち続けることができるのです。

ですから、私たちにとって必要なことは、この真理の上にしっかりと立ち続けていることです。そうすれば、どんなことがあっても揺り動かされることはありません。今は、終わりの日の終わりの時です。終わりの日が限りなく近づいています。このような時代には、ますます不法がはびこり、愛が冷えるでしょう。教会もそうした影響を受けることも少なくありません。けれども、私たちは神のものであり、神に属している者として、この神に従うのです。そうすれば、どんな時代にあっても神が守り、決して動かされることがないように支えていてくださいます。そのことを覚えて、終わりの日に困難な時代がやって来ても慌てることなく、堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かっていきましょう。敵である悪魔はもうそれ以上は進むことはできないからです。

ⅡTimothy2:20-26 “Being an Instrument for Noble Purposes”

Today, I will speak on “being an instrument for noble purposes.” In the first half of chapter two, Paul, in order to encourage Timothy who was pastoring the church at Ephesus, advised him to be strong in the grace that is in Jesus Christ. And, Paul advised him to remember Jesus Christ, raised from the dead, descended from David. The reason is that whatever problems Timothy was facing, the key to solving all of them is in Jesus Christ. By remembering who Jesus is, whatever we are suffering, we can endure it.

Last week, we saw that Paul said that quarreling about words is of no value, and only ruins those who listen, and he said to warn them before God because it destroys the faith of some. There were actually people in the church at Ephesus doing this–Hymanaeus and Philetus, whose teaching was spreading like gangrene (the Japanese translation says “like cancer”), and affecting the whole body.

In spite of this, God’s solid foundation stands firm. God’s solid foundation is the church. Even if there is such quarreling in God’s church, the church does not waver, because it is God’s, and God knows who are his. They will turn away from wickedness. So even those the church faces various problems andattacks, it does not waver. It most certainly cannot waver because it stands firm on God’s word.

If this is the case, how are we to be? That’s the subject for today. If the church is those who are in God, we do not waver from that firm foundation, and must become instruments useful to God. Just how can we become instruments like this?

I. Instruments for noble purposes (v. 20-21)

First look at verses 20 and 21.

In a large house there are articles not only of gold and silver, but also of wood and clay; some are for noble purposes and some for ignoble. If a man cleanses himself from the latter, he will be an instrument for noble purposes, made holy, useful to the Master and prepared to do any good work.

What does “in a large house” mean? The “large house” is the church. Like in a large house, where there are not only articles made of gold and silver articles, but wood and ceramic, in the church there are different kinds of containers. Some serve noble purposes, some are made for ignoble purposes. Containers made of gold and silver are not only used for eating, but also are used as decorations. My mother-in-law had some heirlooms, and when she died my wife inherited them–a glittering silver spoon, fork, and tray, not for everyday use, but for special guests and occasions. As particularly valuable items, they are treated specially.

What would happen if these were treated in the opposite way, as a garbage can or container for leftovers? What a shame to use them as a trash can or leftover container, inconspicuously placed on a backyard porch, in some corner of the kitchen, or hidden inside a built-in cabinet. An ignoble use, inside a cabinet mixed in among less worthy articles. In the same way, there are all kinds in the church, and not all are the same, some are used for noble purposes, some are used for ignoble ones.

What is the standard for determining which is which? It isn’t having such great talent or ability. It isn’t how a person serves the church. It is a matter of how much he turns away from wickedness and cleanses himself from it.

Look at verse 21. Here it is: “If a man cleanses himself from the latter, he will be an instrument for noble purposes, made holy, useful to the Master and prepared to do any good work. ”

Everyone, please imagine I have an expensive wine glass here. Would you drink from it if there were mold growing in the bottom of the glass? No matter how shiny a gold container is, if it is filled with trash it can’t be used. Before using it we’d check it to be sure it was clean. We would use a clean one. All the more so if we were to use it for a guest. Christians, God’s laborers, are the same. No matter how gifted or talented, if we are not holy we can’t be used by God. An instrument used by God, an instrument used for a noble purpose is one who has cleansed himself from the latter.

What is this “latter?” Hymenaeus and Philetus were written about before this. They had wandered from the truth, and destroyed the faith of some. In other words, instead of building others’ faith up, they caused people to turn from their faith. They were filthy instruments. You must turn from such wickedness, and become a noble instrument.

Isaiah prophesied about this. Isaiah 52:11: “Depart, depart, go out from there! Touch no unclean thing. Come out from it and be pure, you who carry the vessels of the LORD.”

The people of God, Israel, were saved by God’s unilateral grace. They put on the garments of righteousness. All that was expected of them was that they would keep from defiling them. They were called upon to “Go out, go out, depart from them.” You have been saved from Babylon, clothed in beautiful new garments, so you must brush off the dirt and shake off the shackles. And then get out, and avoid that which defiles. You must get out of there, and cleanse your body. That’s what is worthy of a vessel of God.

Proverbs 25:4 records the same thing. “Remove the dross from the silver, and out comes material for the silversmith.” Impurities. How do we get a good vessel? Remove the dross, the impurities. Do so, and we can become good instruments in our sleep. Now, what about removing the dross?

II. Becoming a holy instrument (v. 22)

Please look at verse 22.

“Flee the evil desires of youth, and pursue righteousness, faith, love and peace, along with those who call on the Lord out of a pure heart. ”

Here, Paul is teaching what to avoid, and what to seek in order to become a useful instrument to God. First, the things to avoid are the evil desires of youth. This not only means lusts of the flesh, including sexual desires, but includes sin that goes well beyond that. That’s what Barclay’s Commentary says.

“Impatience is included in the meaning. That is, to go faster and faster without knowing it, in such a hurry as to not notice when something good has become harmful.

Next, self-centeredness is included. That is, to not be able to suppress your own ideas when their expression is arrogant. And to not know how to accept the superior points of another’s ideas, be sympathetic to them, and understand them.

And there is the matter of liking to quarrel. To debate more, and do less. To spend the night in heated discussion, but to leave problems unsolved.

And, to be overly fond of novelty. To argue against a reason simply because it is an old reason, and to ardent about something for the simple reason it is new. ”

When young, these feelings more easily control us. But not only in our youth. It’s true no matter what our age. We are to flee from this wickedness. How can a young person flee from these?

It’s here in Psalms 119:9-11.

“How can a young man keep his way pure? By living according to your word. I seek you with all my heart; do not let me stray from your commands. I have hidden your word in my heart that I might not sin against you.

How can a young person keep his way pure? The author of the Psalms says it is by living according to God’s word. To seek God’s word with all our heart, and live in accordance with His commands. It’s important to fill our hearts to the brim with God’s word. Why? People talk of what is in their heart, and act according to what is in their heart. So what is in our heart is very important. If filled with God’s word, our behavior will change with it.And Paul not only advises us on the evil to flee from, but the good we should seek after. What are these good things? Four are listed. They are righteousness, faith, love and peace.

First is righteousness. What is righteousness? Righteousness is correctness. It’s not a matter of just being accepted as righteous, but as a Christian who has been accepted as righteous we must seek after righteousness. A Christian must always seek to do the right thing.

The second one is faith. Faith is to trust God. It is to listen to God’s word, to believe God, and to follow his direction. Through this our faith is strengthened, and we can grow. In many cases, the times when our faith is weak we are not listening to what God is saying. Or it seems like we are listening when we really aren’t. If we give priority to our own thoughts, we can’t obey God’s directions.

Jesus spoke of this in his parable of the sower. A certain person was sowing seed, some by the side of the road, some in rocky places, some among thorns, and some on good land. What happened to the seed sown by the side of the road? The birds came and ate it, so it couldn’t bear fruit. The seed sown in rocky places germinated, but without soil, it dried up in the daytime sun, unable to put down any roots. The seed sown among the thorns was covered by the thorn bushes when they grew, so that it, too, was unable to bear fruit. But as for the seed sown in good soil, some bore fruit a hundred-fold, some sixty-fold, some thirty-fold. The seed planted in good soil are people who hear the word of God, understand what it means, and by obeying and living it they bear fruit.

The next thing the Christian must seek after is love. What is love? I Corinthians 13 is well-known. “Love is patient, love is kind. It does not envy, it does not boast, it is not proud. It is not rude, it is not self-seeking, it is not easily angered, it keeps no record of wrongs. Love does not delight in envying but rejoices with the truth. It always protects, always trusts, always hopes, always perseveres.” (13:4-7)

We don’t have these qualities when we are born. They are God’s love, self-sacrificial love, giving love, agape love. God expressed this love to us by giving his own Son. A Christian knows God’s love, and accepts God’s love. But that is not sufficient, from then on he must become a person who lives in that love. A Christians must spend the rest of his life seeking after that love.

The fourth thing is peace. Peace is brought about by a right relationship with God, and a right relationship in respect to our interactions with others–a condition of accord and harmony. If we listen to God’s word and live in obedience to it, it will bring about peace, and if we don’t, it will generate confusion and not peace, conflict and not harmony.

Please look at Philippians 4: 8-9

Finally, brothers, whatever is true, whatever is noble, whatever is right, whatever is pure, whatever is lovely, whatever is admirable–if anything is excellent or praiseworthy–think about such things. Whatever your have learned or received or heard from me, or seen in me–put it into practice. And the God of peace will be with you.

How can the God of peace be with us? Whatever is true, whatever is noble, whatever is right, whatever is pure, whatever is lovely, whatever is admirable–if anything is excellent or praiseworthy–think about such things. And not just think about them, but we must put them into practice. And if the do, the God of peace will be with us.

Do you want to be an instrument for noble purposes? Do you want to be an instrument God can use? If that is your desire, you must flee from evil, and think about what’s is true, noble, right, lovely, all that is excellent. And put them into practice. If we do, the God of peace will be with us.

There is one more important thing to consider here: what it is to call upon the Lord with a pure heart. As a Christian we can’t seek after these on our own. It is with others who have a pure heart that we must do our seeking. That means the body of Christ, the family of God–the Church. A Christian must not go it alone, to separate himself from his companions, to become distant. It may seem easier to be without any friction with others, but throughout the Bible the stress is on doing it “together.” The joy, the power and the support can be found in that companionship.

The British missionary John Wesley put it this way. “A person must have friends. Otherwise, he must make them. No one is going to heaven alone.” What meaningful words, don’t you think? You can understand that by looking at the kanji for “person”–two leaning together and supporting each other. We live by supporting one another, and cannot live alone. The faith life of a Christian is the same; we must seek after righteousness, faith, love and peace along with others who call upon the Lord with a pure heart.

III. Don’t have anything to do with quarrels (v. 23-26)

Thirdly, one more thing that Christians in order to “be an instrument for noble purposes” (21) must be careful about is that they “don’t have anything to do with… quarrels.” (23) Please look at verse 23. Here it says, “Don’t have anything to do with foolish and stupid arguments, because you know they produce quarrels.” “Foolish and stupid arguments” (23) are arguments that have no content and are just an idea. However, such “foolish and stupid arguments…produce quarrels” (23) “It is of no value, and only ruins those who listen.” (14) In the Ephesian church such talk “spread like gangrene.” (17) However, “the Lord’s servant must not quarrel.” (24) Instead, the proper attitude of the Lord’s servant is to “be kind to everyone, able to teach, not resentful.” (24)

  1.  “Be kind to everyone” (24) The Lord’s servant is not to quarrel, but to “be kind to everyone.” (24) This is the attitude that Christians are to have. Most of the time when you quarrel both parties become emotional and excited and so from such a condition a good result will not be produced.  However, with a kind and calm attitude when you communicate with calm words, the other person’s feelings become quiet and at times the other person will listen.

Proverbs 15:1 says, “A gentle answer turns away wrath,

But a harsh word stirs up anger.”

We are not to do something bad to someone because they have done something bad to us. Even if the other person is emotional, we are to respond with a calm attitude and with soft words. Therefore, let’s not quarrel, but “be kind to everyone.” (24) This is the kind of church we are aiming to be.

  1. Be “able to teach.” (24) The Lord’s servant does not quarrel, but studies the Bible well and is “able to teach.”(24) “Be transformed by the renewing of your mind.  Then you will be able to test and approve what God’s will is-his good, pleasing and perfect will.” (Romans 12:2)  It may look like this will take time, but walk on the correct road. It is the most reliable and closest road.
  2. Not to be “resentful”. (24) We need to not be resentful especially towards those who cause you misery. This is a very difficult thing to do. God wants us not to be resentful. Jesus said “Love your enemies and pray for those who persecute you.”
  3. “Those who oppose him he must gently instruct.” (25) To instruct is to correct. However, that is not instructing with anger, but with gentleness. It is not by looking down on him, but with gentleness. He must correct with humility. If so, the cold heart that was frozen shut will by Christ’s warm love melt.

The reason why the Lord’s servant must take such an attitude is written in the last half of verse 25. “In the hope that God will grant them repentance leading them to a knowledge of the truth.” Also verse 26 says, “and that they will come to their senses and escape from the trap of the devil, who has taken them captive to do his will.”

In other words, they may be saved. God “wants all men to be saved and to come to a knowledge of the truth.” (I Tim. 2:4) This is God’s will. Therefore, we as much as possible should strive to not be resentful and have attitudes in accordance with the will of God. Paul too said in 2:10 “Therefore I endure everything for the sake of the elect, that they too may obtain the salvation that is in Christ Jesus, with eternal glory.” We are the same. We don’t know who will be saved so we too need to “endure everything for the sake of the elect, that they too may obtain the salvation that is in Christ Jesus, with eternal glory.” (2:10) We are the same we don’t know who the elect is, but there are such people . We “must be kind to everyone, able to teach, not resentful.” (24) Those who oppose us we “must gently instruct.” (25) It is God that “will grant them repentance,” (25), but it is the work of the servant of the Lord, us Christians, to lead them to repentance.

This is truly the kind of person that God uses as his instrument. The instrument that God uses is completely unrelated to how splendid, or gorgeous he is. It depends upon how holy he is.  “If a man cleanses himself” (21) and flees from unrighteousness, “he will be an instrument for noble purposes.” (21)

Are you an instrument that is used by God?  What do you need to flee from? Also what are you seeking after?  First let’s begin by making our instrument ready as “an instrument for noble purposes…useful to the Master and prepared to do any good work.” (21)

Ⅱテモテ2章20~26節 「尊いことに用いられる器」

きょうは、「尊いことに用いられる器」というタイトルでお話します。2章の前半の所でパウロは、エペソの教会で牧会していたテモテを励ますために、キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい、と勧めました。また、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえられたイエス・キリストを、いつも思っていなさい、とも勧めました。なぜなら、テモテの問題がどのようなものであれ、すべての解決の鍵はイエス・キリストにあるからです。キリストがどのような方であるのかを思い出すなら、どのような苦しみの中にあったとしても、必ずそれに耐えることができるからです。

そしてパウロは先週のところで、何の益にもならず、聞いている人々を滅ぼすことになるような、ことばについての論争などしないように、神の御前で厳しく命じるようにと言いました。そうした論争は人を建て上げるどころか、人を滅ぼすことになるからです。実際にエペソの教会にはそういう人たちがいました。ヒメナオとかピレトといった人たちです。彼らの話は癌のように広がっていました。癌がからだ全体を蝕んで滅ぼしてしまうように、そうした話はキリストのからだである教会を蝕んでいくことになるのです。

それにもかかわらず、神の不動の礎は堅く置かれています。神の不動の礎とは教会のことでした。たとえ神の教会にそういう話が起こっても、神の教会は決して揺り動かされることはありません。なぜなら、教会は神のものであり、神はご自身に属する者を知っておられるからです。そうした人たちは不義から離れます。だから教会はいろいろな問題や攻撃に遭うことがありますが、決して揺らぐことはないのです。決して揺らぐことがない神のことばの上に堅く立っているからです。教会は、神の不動の礎なのです。であれば、私たちはどうあるべきなのでしょうか。それがきょうのテーマです。であれば私たちは、そうした不義から離れなければなりません。そして、神に用いられる器にならなければなりません。いったいどうしたらそのような器になることができるのでしょうか。

Ⅰ.尊いことに用いられる器(20-21)

まず20節と21節をご覧ください。

「大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」

「大きな家」とは何でしょうか。それは教会のことです。大きな家には金や銀の器だけでなく、木や土の器など、あらゆる種類の器があるように、教会にもいろいろな器があります。いろいろな人たちがいるのです。また、尊いことのために用いられる器もあれば、卑しいことのために用いられる器もあります。たとえば、金や銀でできた高価な器は食べる時に使われるだけでなく、装飾品としても用いられます。それは高価なものだからです。食器という領域を超えているわけです。もちろん、食器としても使われますが、そうした飾り物としても使われるのです。

それとは違ってごみ箱とか残飯入れは卑しいことのために用いられます。だから大抵の場合は外のベランダとか、台所の隅の目立たないところに置かれるのです。家の中にはいろいろな器がありますが、ある物は尊いことのために、またある物は卑しいことに用いられるのです。それと同じように、教会にもあらゆる器がありますが、すべてが同じように用いられるかというとそうではなく、あるものは尊いことのために用いられ、ある物は卑しいことのために用いられるのです。

では、それを分ける基準は何でしょうか。どのような人が尊いことのために用いられ、どのような人が卑しいことのために用いられるのでしょうか。それはその人がどれだけ賜物や能力を持っているかということとは関係ありません。また、その人がどのような奉仕をしているかということとも関係ないのです。それは、その人がどれだけ汚れから離れて、自分自身をきよめるかということによって決まります。21節をご覧ください。ここには、「だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」とあります。

皆さん、想像してみてください。たとえば、ここにとても高価なワイングラスがあるとしましょう。しかし、それがどんなに高価なグラスであっても、そのグラスの底にカビが生えていたらどうでしょう。それでも飲めるという人は少ないのではないでしょうか。また、どんなに豪華な器でも、ごみがいっぱい溜まっているとした使うことができません。使うためにはその器が汚れていないことが必要なのです。きれいでなければなりません。それが第一の条件です。ましてお客さんに出す時などはなおさらのことです。それは神の働き人であるクリスチャンも同じです。どんなに賜物があっても、どんな能力が高くても、聖くなければ神に用いられることはできません。神に用いられる尊い器とは、自分自身をきよめて、これらのことから離れなければならないのです。

「これらのこと」とは何でしょうか。その前にヒメナオとかピレトといった人たちのことが書かれてありました。彼らは真理からはずれてしまい、ある人々の信仰をくつがえすような、それを聞いている人たちを滅ぼすようなことを教えていました。すなわち、人々を建て上げるのではなく滅ぼすようなこと、人々が信仰から離れて不敬虔に深入りして、真理から離れていくようなことのことです。そうしたことは器を汚すことです。そうした不義から離れるなら、あなたは尊いことのために用いられる器になれるのです。

そのことを預言者イザヤはこう述べています。イザヤ書52章11節です。「去れよ。去れよ。そこを出よ。汚れたものに触れてはならない。その中から出て、身をきよめよ。の器をになう者たち。」神の民であったイスラエルは、神の一方的な恵みによって救われました。彼らは義の衣という美しい衣を着せていただいたのです。そんな彼らに求められていたことはどんなことかというと、汚れから去ることだったのです。それが「去れよ。去れよ。そこを出よ。」という呼びかけでした。あなたはバビロンから救われて美しい衣を着せられたのだから、そのちりを払い落とし、かせをふりほどかなければなりません。そして、そこを出て、汚れたものに触れてはならない。その中から出て、身をきよめなければなりません。それが主の器をになう者たちなのです。

箴言25章4節にも、同じようなことが記されてあります。「銀から、かなかすを除け。そうすれば、練られて良い器ができる。」かなかすとは不純物のことです。どうしたら良い器ができるのでしょうか。かなかす、不純物を除くことです。そうすれば、寝られて良い器ができるのです。では、かなかすを取り除くとはどういうことでしょうか。

Ⅱ.きよい器になるために(22)

22節をご覧ください。

「それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」

パウロはここで、神に用いられるきよい器になるために、避けなければならないことと追い求めるべきことを教えています。まず避けなければならないことは何でしょうか。若い時の情欲です。若い時の情欲とは肉体的な欲望のことだけでなく、それをはるかに越えた汚れの全般を含みます。バークレーはその注解書でこう言っています。

それは、性急であるという意味も含んでいる。すなわち、徐々に速度を速めることを知らず、あまり急ぐと、益よりもむしろ害になることに気づかないことである。 次に、自己中心を含んでいる。すなわち、自分の意見を抑えることができないことと、その表現が傲慢なことである。そして、自分以外の者の意見にもある優れた点を認め、共感し、理解することを知らぬことである。またさらに論争を好むことである。したがって議論が多く実行は少なくなる。夜を徹して語り明かしても、ただ未解決の問題をまき散らすだけである。また新しがり家である。ただ古いという理由だけである物を批判し、反面、ただ新しいとの理由だけである物を熱望する。体験の価値を低く評価し、昔の人々が信じてきたことに旧式の烙印を押す。」

若い時にはこうした感情に支配されやいものです。しかし、それは若い時だけに限りません。いくつになっても同じです。そうした汚れを避けなければなりません。いったいどのようにして若い人はそれを避けることができるのでしょうか。

詩篇119篇9節~11節には、こうあります。

「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。
あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。
よ。あなたは、ほむべき方。あなたのおきてを私に教えてください。私は、このくちびるで、あなたの御口の決めたことをことごとく語り告げます。私は、あなたのさとしの道を、どんな宝よりも、楽しんでいます。」

どのようにして若い人は自分の道をきよく保つことができるのでしょうか。ここで詩篇の作者は、それは神のことばに従ってそれを守ることだと言っています。神のことばを心に蓄え、神のことばに従ってそれを守ることです。神のことばが心に満ちることが大切だというのです。なぜでしょうか。人は心にあることを話し、心にあるように行動するからです。だからあなたの心が何で満たされているかということが重要なのです。あなたの心が神のことばで満たされているなら、そのような態度に変わっていくからです。

それからパウロはここで悪を避けるだけでなく、良いことを追い求めるようにと勧めています。その良いこととは何でしょうか。ここには4つのことが書かれています。それは義と信仰と愛と平和です。 まず義です。義と正しいということです。これはイエス・キリストを信じて罪から救われ、義と認められることではなく、義と認められたクリスチャンが追い求めなければならないことです。それは不正ではなく正義のことなのです。クリスチャンはいつも正義を求めなければなりません。

第二のことは、信仰です。信仰とは、神に信頼することです。神のみことばを聞いたら、神に信頼して、それに従わなければなりません。そうすることによって信仰が強められ、成長していくことができるからです。多くの場合、信仰が弱っている時というのは、神のことばをあまり聞いていない時です。あるいは聞いているようでも、実際には聞いていない場合がほとんどです。自分の思いや考えが優先して、神に従うことができないのです。

イエス様は種まきのたとえを語られました。ある人が種を蒔いたら、それぞれ道ばた、岩地、いばらの中、そして良い地に落ちました。道ばたに落ちた種はどうなったでしょうか。烏が来て食べてしまったので美を結ぶことができませんでした。岩地に蒔かれた種も、土がなかったのですぐに芽を出しましたが、日が上ると、焼けて、根がないため枯れてしまいました。いばらの中に蒔かれた種も、いばらが伸びて、ふさいでしまったので、実を結ぶことができませんでした。しかし、良い地に聞かれた種は、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びました。良い地に蒔かれた種、それはみことばを聞くと、それを悟り、そのみことばに従って生きる人のことです。神に信頼する人は、何倍もの実を結ぶのです。

次にクリスチャンが追い求めなければならないのは、愛です。愛とは何でしょうか。有名なⅠコリント13章にはこうあります。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」(13:4-7)

私たちは、生まれながらにしてこのような性質を持っていません。これは神の愛、アガペーの愛であり、自己犠牲の愛、与える愛です。神はこの愛を、ご自身の御子を十字架につけて死なせることによって表してくださいました。ここに愛があるのです。だから教会には十字架があるのです。ローマ時代に処刑の道具だった十字架が、いったいなぜ教会に掲げられているのでしょうか。ここに愛があるからです。クリスチャンはこの神の愛を知り、この愛を受けました。でもそれで十分かというとそうではなく、今度はこの愛に生きる者でなければなりません。それはクリスチャンが生涯にわたって追い求めていかなければならないことなのです。

第四のことは、平和です。平和とは神との正しい関係によってもたらされたが、人との交わりにおいて保つべき一致であり、調和であり、ハーモニーのことです。神のことばを聞き、それに従って生きるなら、そこには必ず平和がもたらされます。そうでないと、そこには平和はなく、むしろ混乱や争いが生じるのです。

ピリピ4章8~9節を開いてください。ここにはこう書かれてあります。「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。どうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださるのでしょうか。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判のよいこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することに心を留めることによってです。ただ留めるだけでなく、それを実行しなければなりません。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。

あなたは尊いことに用いられる器になりたいでしょうか。神に用いられる器になりたいですか。もしそのように願っておられるのなら、悪を避け、このようなものに心を留めなければなりません。そしてそれを実行しなければなりません。そうすれば、平和の神がともにいてくださるのです。

しかし、ここにはもう一つ大切なことが教えられています。それは、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、ということです。クリスチャンはこれらのものを決して一人で追い求めるのではありません。きよい心で主を求める人たちとともに、追い求めるのです。それはキリストの共同体であり、神の家族である教会とともにという意味です。クリスチャンは一人になることを求め、自分の仲間から遠ざかってはいけません。その方が何の摩擦も生じないので楽かもしれませんが、聖書では「共に」ということが強調されているのです。その喜び、その力、支えを、その交わりの中に見出さなければなりません。

イギリスの伝道者であったジョン・ウェスレーはこう言いました。「人は友人を持っていなければならない。さもなければ作らなければならない。だれも独りでは天国に行けないからである。」これは含蓄のあることばではないでしょうか。「人」という漢字を見てもわかるように、人は互いに支え合って生きているわけです。独りで生きることはできません。それはクリスチャンの信仰生活も同じで、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなければならないのです。

Ⅲ.争いを避ける(23-26)

第三に、クリスチャンが尊いことのために用いられるために注意しなければならないもう一つのことは、争いを避けなさいということです。23節をご覧ください。ここには、「愚かで、無知な思弁を避けなさい。それが争いのもとであることは、あなたがたが知っているとおりです。」とあります。「愚かな思弁」とは、中身のないただ単なる観念的な話のことですが、このような話からは論争しか生れず、何の益にもたらされません。それはただ聞いている人々を滅ぼすだけなのです。エペソの教会には、このような話が癌のように広がっていました。しかし、主のしもべが争ってはいけません。主のしもべにとってふさわしい態度とは、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒することです。

第一に、すべての人に優しくしなければなりません。争うのではなく、優しくすることがクリスチャンの取るべき態度です。大抵の場合、言い争っている時はお互いに感情的になっているので、そのような状態からは良い結果は生まれてきません。でも優しくし、穏やかな態度で、穏やかなことばで接すると、相手の気持ちも穏やかになり、場合によっては、相手に聞く耳を持たせる場合もあります。

箴言15章1節には、「柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす。」とあります。売り言葉に買い言葉ではなく、たとえ相手が感情的になっても、穏やかな態度で、柔らかなことばで返すなら、相手の憤りを静めることもあるのです。ですから、争うのではなく、むしろ、すべての人に対して優しくしましょう。私たちが目指しているのは、そういう教会です。

次に、よく教えることです。言い争うのではなく、みことばからよく教え、よく学ぶのです。真理とは何なのか、神の御心は何か、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければなりません。それは時間がかかるように見えるかもしれませんが、確かな道に歩むための、いちばん確実で、一番近い道なのです。

そして次は、よく忍びです。よく忍耐することです。特に、自分につらく当たる人には忍耐が必要です。これは口で言うのは簡単ですが、実際の場面では本当に難しいことです。攻撃する人には仕返しをしたくなるからです。それが人間の自然な姿です。けれども神の子どもとされたクリスチャンは、「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」ではなく、自分の敵を愛し、迫害する者のために祈らなければなりません。

もう一つのことは、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい、ということです。訓戒するというのは正すということです。しかし怒って正すのではなく、柔和な心で正さなければなりません。上から目線でではなく、柔和な心で、謙遜な心で正さなければなりません。そうすれば、氷のような冷たく堅く閉ざされた心も、キリストの愛の温かさで溶かされることでしょう。

なぜ、主のしもべはこのような態度を取らなければならないのでしょうか。25節の後半をご覧ください。ここにはこうあります。「もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。」そして26節にも、「それで、悪魔に捕えられて思うままにされている人々でも、目ざめてそのわなをのがれることがあるでしょう。」とあります。つまり、その人が生きている間に救いに導かれるかもしれないからた゜というのです。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」(Ⅰテモテ2:4)だから、私たちもできるだけ忍耐し、神のみこころにかなった態度をとるようにと努めなければならないのです。

パウロは2章10節で、「ですから、私は選ばれた人たちのために、すべてのことを耐え忍びます。」と言いました。救われるようにと神に選ばれている人たちがいるのです。その人たちが救われるために、パウロが耐え忍びました。それは私たちも同じです。だれが救いに選ばれているかがわからないので、でも、確かにそのような人たちがいるのですから、その人たちがキリストにある救いにあずかり、とこしえの栄光を受けるようになるために忍耐しなければならないのです。すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒するのです。悔い改めの心を与えてくださるのは神ですが、その悔い改めの心に導くのは神のしもべである私たちクリスチャンの働きなのです。このような人こそ、神に用いられる器です。神に用いられる器は、それがどれほど高価で、華やかであるかということとではなく、それがどれだけきれいであるかにかかっています。自分自身をきよめて、不義から離れるなら、その人は尊いことに用いられる器になるのです。

あなたは神に用いられる器でしょうか。あなたが避けるべきことは何ですか。また、あなたが追い求めるものは何でしょうか。主人であるキリストにとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるために、まず器を整えることから始めていきたいと思います。

ⅡTimothy2:14-18 “A Workman approved by God”

Today from II Tim. 2:14-18 let’s look at what a workman approved by God is like. In last week’s passage Paul taught how when you suffer for the Gospel, you can tolerate the suffering. That is by remembering “Jesus Christ, raised from the dead.” (8) Jesus was born as a descendant from David.  In other words, Christ’s resurrection proclaims his deity, and his descent from David shows his humanity. The real God who can’t be seen by human eyes became man and came to this earth. Then he was put on the cross for our sins. After that just as the Bible says, on the third day he rose from among the dead. By this he publicly proved that he was the Son of God. By this Jesus received glory. However, Jesus received the glory after he had suffered on the cross.  In the same way the Lord’s worker must remember that after suffering he will receive glory.  Paul himself was like this. Paul himself too suffered for the Gospel but that was so that those who were chosen would be saved. That was so that they would be saved and would receive eternal glory. It was for that purpose that he suffered, but after that suffering he will receive glory. That’s because if we have died with Christ “we will also live with him.” (11)  Paul used a hymn that everyone in that age knew well to explain that. Those who endure will received a reward.  Today is the continuation of this, but here Paul is teaching Timothy that even in the midst of such suffering how God’s worker should be.

  1. Don’t quarrel about words   (Vs. 14)

First of all please read verse 14. “Keep reminding them of these things. Warn them before God against quarreling about words; it is of no value, and only ruins those who listen.”

Here Paul says, “Keep reminding them of these things.” (14) “These things” (14) are the things that Paul said in the preceding passage. In other words, what kind of glory that enduring brings.  That is like a soldier who endures suffering “to please his commanding officer” (1) and is victorious. It is like an athlete that endures training and receives the victor’s crown. Also it is like the hardworking farmer who works continuously and receives “a share of the crops.” (6) Also, just like Jesus by enduring the cross and by the resurrection received the glory of God, those who endure will surely be rewarded.  That reward is full of glory and it will bring great joy. If the rewards man gives are wonderful, then how glorious the rewards given by God will be! What God gives is “eternal glory” (10) and continues for eternity. We must remember these things. We are to remind others of these things.

Another thing is we must warn others “against quarreling about words.” (24) We must “warn them before God.” (24) That is because quarreling “is of no value, and only ruins those who listen.” (14) Such people sneaked into the Ephesian church where Timothy was pastoring. They were teaching wrong things. Not only didn’t they “not agree to the sound instruction of our Lord Jesus Christ and to godly teaching,” (I Tim. 6:3) but they had “an unhealthy interest in controversies and quarrels about words that result in envy, strife, malicious talk, evil suspicions and constant friction.” (I Tim. 6:4, 5)

“Quarreling about words…is of no value.” (14) If we quarrel, will anyone be saved? If we quarrel, will the faith of the people that hear it be built up and mature? No, rather it “only ruins those who listen.” (14) Rather than people being saved, it ruins people.

Ephesians 4:29 says, “Do not let any unwholesome talk come out of your mouths, but only what is helpful for building others up according to their needs, that it may benefit those who listen.”  We must speak words that are “helpful for building others up according to their needs, that it may benefit those who listen.” (Ephesians 4:29) Let’s spend our energy and time for this.

“Warn them before God against quarreling about words.” (14)  Here it says, “before God.” (14) That means that it is that important of a thing.

However, surprisingly such “quarreling about words” (14) can be seen in many places. For example, some people quarrel about how baptism should be done. Baptism should be by immersion, or by sprinkling, or by pouring water on the head. When a person is baptized he should lay back or should kneel bowing forward. However, the way a person is baptized is not important but the essence of it.  If a person repents and is baptized, he is saved. I believe in baptism by immersion, but there are exceptions to it. It is difficult to immerse people who are sick. There are conditions where sprinkling is better. Some people say that then it isn’t necessary to be baptized. However, the Bible commands us to baptize. Also it promises us, “Whoever believes and is baptized will be saved.” (Mark 16:16)

Also some churches have infant baptisms. In such churches when that person grows up he takes confirmation and makes his own personal confession of faith. Therefore, when a person that has been confirmed joins some Baptist churches they must be baptized again. Of course, we don’t require that.

What is important is the essence not the method. Also we must “Warn them before God against quarreling about” (14) such words.

Of course, it is necessary to fight against any teaching that is clearly against the truth. For example, we must thoroughly confront anyone who contradicts things like the trinity, or the divinity of Jesus Christ, etc. These are things that we must take a firm  stand on. The teaching that we are saved by faith is also an important teaching. However, we shouldn’t quarrel about differing unimportant Biblical interpretations. Rather, it is important to acknowledge and accept the differences.

However that is not just faith.  In our daily lives too, surprisingly we criticize others for a slip of their tongue and quarrel. Recently I bought a computer type tablet. It didn’t arrive by the time it was supposed to. I wasn’t planning to go out so there was no problem about it being late. However, it was pass the time it was supposed to arrive so I called the call center to check on it. The person on the phone said that it was due to arrive in the morning and if it hadn’t she was very sorry. She said she would check on it immediately.

Then a moment later the doorbell rang and when I answered the door, the delivery man was standing there.  He said that he had forgotten to bring the tablet that was to be delivered in the morning so that he would go back and bring it so to please wait a little longer.

Then there was a telephone call from the call center. They said they looked into it and the person that was supposed to be delivering it had left. They were very sorry for being late. However, I was the one that should have been apologizing. I had bothered them about something that wasn’t that important. I felt very ashamed. Like this we think we are right and quarrel over little things that don’t really matter.

However, such attitudes are “of no value, and only ruins those who listen.” (14) Therefore, we must be careful not to quarrel “about words”. (14)

  1. A workman approved by God

The key to not quarreling can be found in verses 15 to 18. Verse 15 says, “Do your best to present yourself to God as one approved, a workman who does not need to be ashamed and who correctly handles the word of truth.”

Here Paul is saying that those who quarrel “about words” (14) are the opposite of what a workman of God should be.  Such a person is to be “as one approved” (15) by God, accepted by God. In other words, the workman must do his best to be approved by God. He must do his best to be a workman. To do your best is to eagerly give your all to the task before you. Workmen have work to do, and they must take pains in it. Those  who work diligently with all their soul and might, do “not need to be ashamed.”(15) However, workmen that are unskillful, or unfaithful, or lazy, those who don’t keep their mind on their work, or do it half- heartedly or don’t try to do their best will be ashamed. The workman’s job is to correctly handle “the word of truth.” (15) “The word of truth” (15) is the Gospel which Timothy is to believe, obey and to preach. Timothy must do his best to present himself to God as such a workman.

To correctly handle (15) means to cut straight. It was originally used when a farmer dug trenches straight. There were no curves, but were straight. God’s Word is also the same. There must be no waves, but be straight. It must be handled correctly. It must not be warped by human wisdom. We must listen obediently to message that the Bible is telling us and preach that.

How we can become such a workman approved by God is by doing our best to present ourselves to God. We are do our best to present ourselves as “a workman who does not need to be ashamed”. (15) To “do your best” (15) is to do something with your whole heart, with a devoted heart. We must do our best to present ourselves to God as a workman approved by God that understands correctly the meaning of what the Bible is teaching and who can teach it to other people.

I try not to preach from the same passage I have preached on before because if I preach on the same passage then I don’t learn so much. Without studying there is no understanding. Without understanding, you can’t share with other people. Therefore, the weekly message takes a lot of time. However, for me I am really thankful that I can study.

However, that is a miracle.  I originally was not good at sitting. I always want to be moving. To be moving is easier. However, to prepare 1 message I am sitting in a chair for a long time. That is a miracle! It is only by the work of God that I can sit in a chair for that long of a time every day and study which I don’t like to do either. Without the help of the Holy Spirit I would never be able to do it. Why I do this is because if I don’t, I can’t understand the Bible. If I don’t understand it, then I can’t preach it. In order to be a workman approved by God we must do our best to present ourselves to God.

Please look at verses 16 to 18. Here it says, “Avoid godless chatter, because those who indulge in it will become more and more ungodly. Their teaching will spread like gangrene. Among them are Hymenaeus and Phileptus, who have wandered away from the truth.  They say that the resurrection has already taken place, and they destroyed the faith of some.”

Here it talks about another characteristic of a workmen approved by God. That is they “avoid godless chatter.” (16) That “godless chatter” (16) is teaching that is different from the truth and causes people to “become more and more ungodly” (16) and causes them to wander “away from the truth.” (17) This “teaching will spread like gangrene.” (17)  Strange and bad topics spread faster than good topics.  The Bible compares bad things to yeast. Just like only just a little yeast causes all the dough to rise, such teaching spreads throughout the body of Christ, the Church, and destroys it.

Here the names of two people “Hymenaeus and Phileptus” (17) are specifically given. Hymenaeus was mentioned by name in I Timothy 1:20 too as having shipwrecked his faith. Such “godless chatter” (16) spreads “like gangrene.” (17)

Their mistake was that they “wandered away from the truth.” (17) They said “that the resurrection has already taken place, and they destroyed the faith of some.” (18) They broadcasted to everyone that the resurrection was not a bodily resurrection and that there is only a spiritual resurrection. They interpreted the resurrection allegorically, not literally. They claimed that to rise from the dead is unthinkable so it is stupid to believe in the resurrection. However, the resurrection that the Bible teaches is that when Jesus comes again, our bodies will in reality change into an imperishable glorious body. “The dead in Christ will rise first.  After that, we who are still alive and are left will be caught up together with them in the clouds to meet the Lord in the air. And so we will be with the Lord forever.” (I Thess. 4:16,17) Just as this says this will actually happen. It isn’t just a spiritual resurrection. Please look at I Cor. 15:51 and 52. Here it says, “Listen, I tell you a mystery: We will not all sleep, but we will all be changed-in a flash, in the twinkling of an eye, at the last trumpet.  For the trumpet will sound, the dead will be raised imperishable, and we will be changed.”

When the Lord comes again our bodies “in a flash” (I Cor. 15:52) will be changed into an imperishable glorious body. “For the perishable must clothe itself with the imperishable, and the mortal with immortality. When the perishable has been clothed with the imperishable, and the mortal with immortality, then the saying that is written will come true: ‘Death has been swallowed up in victory.’” (I Cor. 15:53, 54) Like this the Bible clearly promises us that we will be given an imperishable body. Therefore, a workman approved by God avoids “godless chatter”. (16) We must be careful that such people don’t enter the flock.

  1. God’s solid foundation (Vs. 19)

Let’s look at verse 19. “Nevertheless, God’s solid foundation stands firm, sealed with this inscription: ‘The Lord knows those who are his,’ and ‘Everyone who confesses the name of the Lord must turn away from wickedness.’”

“Nevertheless” (19) is even though the false “teaching will spread like gangrene” (17) and some people wander “away from the truth.” (18) “God’s solid foundation stands firm, sealed with this inscription: ‘The Lord knows those who are his,’ and ‘Everyone who confesses the name of the Lord must turn away from wickedness.’”(19) There were people in the Ephesian church that taught false teachings. Such people drew the devout to themselves so many people got caught up in it and “wandered away from the truth.” (18)  “Nevertheless, God’s solid foundation stands firm.” (19) God’s firm foundation is the church. It is a firm foundation.  It will never be shaken. It is a foundation laid by God. It is God’s church. No matter what happens “God’s solid foundation” (19) won’t be moved. Even if false teachings come into it, even if the teachings stir up the church, the church will definitely not be shaken up. That’s because the church is “God’s solid foundation” (19) established by Christ.

Please open your Bibles to Matthew 16:18. Here Jesus said, “On this rock I will build my church, and the gates of Hades will not overcome it.” In this passage Jesus asked Peter, “Who do you say I am?” (Matt. 16:15)

Peter confessed, “You are the Christ, the Son of the living God.” (Matt. 16:16)

Peter made the right confession. However, Jesus said that he didn’t make the confession by his own ability to understand, but it was revealed to him by God. He said that he would build his church upon that confession “and the gates of Hades will not overcome it.” (Matthew 16:18) It is built upon a firm foundation. That is what the church is. If the church was started by a person, no matter how grand it is, it will perish.  Man is unstable. However, God is different. Even if the heavens and earth perish, God’s Word will never perish. Everything will be fulfilled. It is that definite. Therefore, God’s church that was started by God no matter what will “stand firm.” (19) Even if false teachings enter the church, even if a huge problem occurs, the church will continue to “stand firm.” (19)

“God’s solid foundation stands firm, sealed with” (19) two inscriptions. One is ‘The Lord knows those who are his.” (19) The other one is “Everyone who confesses the name of the Lord must turn away from wickedness.” (19) Both of these are words quoted from the event of Korah and his sons in Numbers chapter 16. If you look at them in the light of Jesus words I think you can understand well.

Now we can’t look at this in detail, but William Barclay, a Bible commentator explains these two inscriptions so I’d like to introduce what he says.

The first is a reminiscence of a saying of Moses to the rebellious friends and associates of Korah in the wilderness days. When they gathered themselves together against him, Moses said: “The Lord will show who is his” (Num.16:5). But that Old Testament text was read in the light of the saying of Jesus in Matt.7:22: “Many will say to me in that day, `Lord, Lord did we not prophesy in your name, and cast out demons in your name, and do many mighty works in your name?’ And then will I declare to them, I never knew you: depart from me you evil-doers.” The Old Testament text is, as it were, retranslated into the words of Jesus.

The second is another reminiscence of the Korah story. It was Moses’ command to the people: “Depart, I pray you, from the tents of these wicked men, and touch nothing of theirs” (Num.16:26). But that, too, is read in the light of the words of Jesus in Lk.13:27, where he says to those who falsely claim to be his followers: “Depart from me, all you workers of iniquity.”

Two things emerge. The early Christians always read the Old Testament in the light of the words of Jesus; and they were not interested in verbal niceties, but to any problem they brought the general sense of the whole range of scripture. These are still excellent principles by which to read and use scripture.

The two texts give us two broad principles about the Church:

The first tells us that the Church consists of those who belong to God, who have given themselves to him in such a way that they no longer possess themselves and the world no longer possesses them, but God possesses them.

The second tells us that the Church consists of those who have departed from unrighteousness. That is not to say that it consists of perfect people. If that were so, there would be no Church. It has been said that the great interest of God is not so much in where a man has reached, as in the direction in which he is facing. And the Church consists of those whose faces are turned to righteousness. They may often fall and the goal may sometimes seem distressingly far away, but their faces are ever set in the right direction.

The Church consists of those who belong to God and have dedicated themselves to the struggle for righteousness.” ( William Barclay, Commentary of I Timothy, II Timothy, and Titus, “II Timothy 2:19”)

“The Church consists of those who belong to God and have dedicated themselves to the struggle of righteousness.” (Barclay) Therefore, even if they fall and the goal may seem far away, even if something is distressing, even so, their faces are always facing the goal. Therefore, no matter what happens to God’s church, it is not shaken. Let’s believe this promise of God and let’s reconfirm that we belong to God and that we have dedicated ourselves to the struggle for righteousness, and move forward aiming for the goal of God.

ⅡTimothy2:1-7 “Be strong in the grace that is in Christ Jesus”

Today let’s start II Timothy chapter 2. Let’s look at being “strong in the grace that is in Christ Jesus” (1) This letter is the last letter written by the Apostle Paul. Paul had been arrested again for the Gospel and was in the Roman underground prison. In the midst of the uncertain situation of not knowing when he was going to be executed, he wrote and sent this letter to Timothy. Timothy who was at that time the Pastor of the Ephesian church was weakened, exhausted from dealing with smoldering              problems in the church. To such a Timothy Paul advised, “Fan into flame the gift of God.” (1:6) That is because “God did not give us a spirit of timidity, but a spirit of power, of love and of self-discipline.” (1:7) Paul said that he wanted Timothy to share with him “in suffering for the gospel, by the power of God.” (1:8) There was a good model of this named Onesiphorus. Many people were deserting Paul because he had been captured, but when Onesiphorus heard that Paul had been captured, he “was not ashamed of” (1:16) Paul’s chains. On the contrary, he didn’t consider the danger to his life and “searched hard for” (1:17) Paul until he found him. How great an encouragement that must have been to Paul! Like this he wanted Timothy to join with him “in suffering for the gospel.”

In today’s passage too Paul is advising timid Timothy who lacks confidence, “Be strong in the grace that is in Christ Jesus.” (1) I would like to explain concretely through three examples of how we can “be strong in the grace that is in Christ Jesus.” (1) Sometimes in the midst of struggles we feel weak. Today I would like to talk about 3 aspects of how we can become strong at such times.

  1. By the grace of Jesus Christ. (Vs. 1 & 2)

First of all please look at verses 1 and 2.  I will read verse 1. “You then, my son, be strong in the grace that is in Christ Jesus.”

Paul is I Timothy 1:2 too said, “To Timothy my true son in the faith.” Here too Paul is calling Timothy “my son”. (1) Timothy was saved through Paul so he was a spiritual son. To his son Paul, the spiritual father, says, “be strong”. (1) All parents want their children to “be strong”. (1) No matter how hard things are they want their children to never lose hope. In fact, the harder things are stronger and sturdier they want them to be.  Paul, Timothy’s spiritual father, wanted the same. How we can become stronger?

Here Paul says, “be strong in the grace that is in Christ Jesus.” (1) What does it mean to “be strong in the grace that is in Christ Jesus”? (1)

Ephesians 2:8 & 9 says, “For it is by grace you have been saved, through faith-and this not from yourselves, it is the gift of God-not by works, so that no one can boast.”

We are saved “by grace…through faith.” (Ephesians 2:8) It is not by our works, but “it is the gift of God.” (Ephesians 2:9) A present is by the one way goodwill of the giver. The person wants to so he gives.  He doesn’t have to. God gave this present. He wanted to from his heart. He really wanted to give it to us. That’s because God loves you. Therefore, he gave you a present from his heart.  That was Jesus Christ and the cross. Anyone who believes in Jesus is saved.  That is faith. Therefore, we are not saved by works, but by the grace of God. By receiving God’s grace, this is called faith, we are saved. That is not something that we received by doing something. Therefore, we become strong by remaining in the grace of Jesus Christ. The moment we leave grace we become insecure. It says, “be strong in the grace that is in Christ Jesus.” (1)

Thus this is not to be strong by grace, but to “be strong in the grace.” (1) It is by being “in the grace”, being immersed in grace, that we are to “be strong”. (1) Actually “be strong” (1) in the original Greek is in the passive tense. In other words, it is “to be made strong”. It isn’t becoming strong by your own strength, but by an outside power. That power is being “in the grace that is in Christ Jesus.” (1)

In Acts 1:8 Jesus said, “But you will receive power when the Holy Spirit comes on you; and you will be my witnesses in Jerusalem, and in all Judea and Samaria, and to the ends of the earth.”  “You will receive power when the Holy Spirit comes on you;” (Acts 1:8) and by that power you will be able to be “witnesses in Jerusalem, and in all Judea and Samaria, and to the ends of the earth.” (Acts 1:8) We cannot be witnesses for Christ by our own power. However, when we receive the power of the Holy Spirit we will become witnesses.

Paul is saying this in Ephesians 3:20. “Now to him who is able to do immeasurably more than all we ask or imagine, according to his power that is at work within us.” It is not our power, but “his power that is at work within us.” (Eph.3:20)  Our God, God’s power of the Holy Spirit does “immeasurably more than all we ask or imagine.” (Ephesians 3:20)

Philippians 4:13 says, “I can do everything through him who gives me strength.”  “Him” (Phil. 4:13) is Jesus Christ himself. Jesus through the Holy Spirit works within us so we “can do everything”.  We can’t do it. We “can do everything through him who gives … strength.” (Phil. 4:13)

I think you probably know about Nick Vujicic who was born without legs and arms.  He was born in 1982 to a pastor’s family as the eldest son of 3 children. When he was born he had only shoulders, but no arms. His lower body had 2 toes but no legs. The reason for his handicap is unknown. He was brought up in the church so he knew God’s love. Time after time he prayed for arms and legs, but they weren’t given. In the course of time he began to think that he wasn’t loved by God and it was a mistake that he was born. He thought that in the future he would not be able to work at a decent job. Also he might not be able to get married.  Even if he did, he would never be able to hold the child that is born.  Nick lost his hope for living during his youth. At school there were so many things that he couldn’t do. He was made fun of. His parents held him when he was crying, but they couldn’t understand his really aching heart. It was so bad that at the age of 10 because God didn’t take away his pain, he tried to commit suicide in the bathroom. However, he realized that if he died, his parents would be very sad and was persuaded not to do so.

However, now Nick says that it is a huge joy to be living. He has graduated from college with 2 degrees and is in the real estate business.  He is also invited to many parts of the world to speak.  He can walk on his little legs. He can swim too. With 2 toes he can make a peace sign. He can type 43 words a minute and he can write.

He radiantly says that the truth has set him free. At the age of 15 he came across chapter 9 of John. “Neither this man nor his parents sinned…but this happened so that the work of God might be displayed in his life.” (John 9:3) When he read this he realized why he was born. That was for God’s glory. God for his glory has a plan for him. Even if hands and legs aren’t given up him, when he believed in God and prayed, God didn’t change the situation, but changed his heart. Plus he was able to have assurance that he could “do everything through him who gives … strength.” (Phil. 4:13)

Now he as a Christian evangelist is flying all around the world telling about Christ’s love everywhere. The other day too there was a huge gathering at the Big Site in Tokyo where he spoke.  3 years ago he married and now he has a 2 year old child. How wonderful! Nick “through him who gives … strength” (Phil. 4:13) today too  continues to live with strong power.

“I can do everything through him who gives me strength.” (Phil. 4:13) This is not just Nick, but can be said of all people who have been saved by the grace of God. We are weak, but however, “according to his power that is at work within us” (Eph. 3:20) we “can do everything.” (Phil. 4:13)

Jesus said in John 15:5, “I am the vine; you are the branches.  If a man remains in me and I in him, he will bear much fruit; apart from me you can do nothing.” Jesus is the vine and we are the branches. If a branch is not connected to the tree it can’t bear fruit. If they are separated it can’t bear. It’s that simple. Jesus is speaking using the truths of nature. It is a matter of fact. That can also be said spiritually too.

Christ is the real vine and we are the branches. If we are connected to Christ, if we remain in him, we “will bear much fruit.” (John 15:5) That is you will be strengthened by Christ.

Timothy’s heart was gloomy with many problems. Therefore, Paul is saying to Timothy who was weak, “You then, my son,” (1) Timothy, “be strong in the grace that is in Christ Jesus.” (1) Look to Christ Jesus. Remain in the grace. If so you will be made strong.

Please look at verse 2. Verse 2 says, “And the things you have heard me say in the presence of many witnesses entrust to reliable men who will also be qualified to teach others.”

“The things you have heard” (2) are the truths of the Gospel. Those truths must be entrusted “to reliable men who will also be qualified to teach others.” (2) Paul had entrusted the words of the Gospel to Timothy. Next Timothy must entrust the words of the Gospel “to reliable men who will also be qualified to teach others.” (2) They must be entrusted to the next generation.

Like this by those who believe entrusting the words of the Gospel to the next generation, in the real meaning the Gospel will spread and a religious revival will continue. This is the reason or the goal of why Christians are to “be strong in the grace that is in Christ Jesus.” (1) In other words, here what Paul is saying is that he wanted Timothy to have a wider vision of entrusting the words of the Gospel.

  1. Like a soldier, as an athlete, like a farmer (Vs. 3-6)

Next please look at verses 3 to 6. Here Paul is using 3 examples to explain what a person who is “strong in the grace that is in Christ Jesus” (1) is like.

“Endure hardship with us like a good soldier of Christ Jesus.  No one serving as a soldier gets involved in civilian affairs-he wants to please his commanding officer.  Similarly, if anyone competes as an athlete, he does not receive the victor’s crown unless he competes according to the rules.  The hard working farmer should be the first to receive a share of the crops.” (3-6)

①              Like a soldier (3) “A good soldier of Christ Jesus…wants to please his commanding officer.(3) He doesn’t get involved in civilian affairs, but concentrates 24 hours a day 365 days of the year on pleasing his commanding officer and performing his duties as a soldier. To the end he performs the duties that he has been given.

If you look at Ephesians 6, it says that Christians too are fighting. That is a spiritual battle. Therefore, Christians must are fight a spiritual battle.  We must remember that there is such a battle. We must live to please our commanding officer, Jesus Christ. We must not get “involved in civilian affairs” (3), but perform our duties at all times and to the end.

②              As an athlete  An athlete follows the rules of the game. If not, he doesn’t receive a crown. Usain Bolt was considered the overwhelming favorite to win in the 100 metres at the 2011 World Championships in Daegu, the capital of Korea. Bolt broke early, received a false start and was eliminated from the final.  I was disappointed because I wanted to see his running, but that is the rules of the game. No matter how fast you are, you must follow the rules of the game or you can’t receive a crown.

The Greek Olympics at that time had 3 rules. 1. The competitors had to attend a 6 month training. 3. They had to follow the rules of the competition on the day of the event. If you didn’t follow these rules you would be eliminated.

Thus a good athlete doesn’t neglect self- discipline. No matter how much skill he has if he neglects his daily practice, of course good results can’t be expected. For a long time, severe training is repeated over and over again.

Also he avoids harmful things. By overcoming such hardships, he is able to obtain a crown.

In the same way, Christians too are like an athlete that is aiming for a crown. In order to obtain a crown, daily devoted training is called for. We learned about this in I Timothy. For physical training is of some value, but godliness has value for all things, holding promise for both the present life and the life to come.” (I Tim. 4:8)

Paul in Philippians 3 says this, “Brothers, I do not consider myself yet to have taken hold of it.  But one thing I do: Forgetting what is behind and straining toward what is ahead, I press on toward the goal to win the prize for which God has called me heavenward in Christ Jesus.  All of us who are mature should take such a view of things. And if on some point you think differently, that too God will make clear to you.”

Then Paul when he was imprisoned by the Roman Emperor, Nero, when he was at the end of his life in this world, he said this in II Timothy 4 verses 6 to 8. “For I am already being poured out like a drink offering, and the time has come for my departure.  I have fought the good fight, I have finished the race, I have kept the faith.  Now there is in store for me the crown of righteousness, which the Lord, the righteous Judge, will award to me on that day-and not only to me, but also to all who have longed for his appearing.”

“For I am already being poured out like a drink offering” (4:8) refers to Paul’s approaching death as a martyr. He is pouring out his life as an offering to Christ. Very soon Paul will be martyred, but he said, “I have fought the good fight, I have finished the race, I have kept the faith.” (4:7)  Paul who ran with all his might toward the goal was able to say this. He “fought the good fight” (4:7) and “finished the race”. (4:8) These are wonderful words. When I die, I would like these words to be engraved on my tomb stone. “Now there is in store for me the crown of righteousness, which the Lord… will award to me on that day-and not only to me, but also to all who have longed for his appearing.” (4:8) So we will hear Jesus Christ say, “Well done my faithful servant”, let’s continue to run to receive a crown.

③    Like a farmer  A good farmer works hard. He works hard from early in the morning until late at night. He puts up with the heat and the cold. He works while sweating. Everyone notices the athlete, but the farmer goes unnoticed. He is inconspicuous. He only does routine work every day monotonously repeatedly doing the same job over and over again. However, if he continues to persevere then he will “be the first to receive a share of the crops.” (6) No one notices the farmer. Farming is not a grand profession. It is not an exciting job. However, if the farmer continues to persevere then he will “be the first to receive a share of the crops.” (6) His dedicated effort will be rewarded so he isn’t reluctant to work hard.

I too am like a farmer. I am not reluctant to work hard for the Gospel. There will come a time when surely I will share in the crops. The Psalmist sang, “Those who sow in tears

will reap with songs of joy

He who goes out weeping,

carrying seed to sow,

will return with songs of joy,

carrying sheaves with him.” (Psalms 126:5,6)

“Those who sow in tears will reap with songs of joy.” (Psalms 126:5) A time of reaping, a time of harvest will come so he is not reluctant to work hard.

III.         Reflect (Vs. 7)

Lastly, let’s look at verse 7. “Reflect on what I am saying, for the Lord will give you insight into all this.”

This weaves the three examples together. Moreover, it weaves the whole passage together. Paul wrote this letter to encourage Timothy. Timothy was suffering from problems within the church as well as persecutions from outside the church and his faith had become weak.  However, Paul wrote, “You then, my son, be strong in the grace that is in Christ Jesus.” (1) Teach others what I have taught you. You are like a soldier fighting for the Gospel. You are like an athlete running for a crown.  You are like a farmer working hard for the harvest. Then here, Timothy, “reflect on what I am saying.” (7) Think deeply about it. “For the Lord will give you insight into all this.” (7)

How about us? Do we have insight into all that Paul has said? Do we understand the importance of entrusting God’s Word to other people? Do you know and understand that you are a soldier? An athlete? A farmer? Do you know that “Those who sow in tears will reap with songs of joy”? (Psalm 126:5) Also do you know that the joys of harvest come about after hard work? Reflect on this. If so you will be able to persist in difficulties. You will be able to join “in suffering for the gospel.” (1:8)

Our Christian life is a continuous battle. We are athletes so it is also a place of competition. We are farmers so it is also a field. It is accompanied by hard work. However, in the course of time we will obtain victory, a crown, and a harvest. If we continue to fight for the Gospel, continue to run to the end, and continue to work hard, without fail we will obtain victory, eternity, and a harvest.  However, that is not by our strength.  The Bible says it is “in the grace that is in Christ Jesus.” (1) By being “in the grace that is in Christ Jesus” (1) we are made strong. Let’s be filled with God’s love, God’s grace, and God’s power and continue to fight the battle of faith, continue to run, and continue to work to obtain a harvest and let’s be a person that obtains the crown that God gives.

Ⅱテモテ2章14~19節 「熟練した者として」

きょうはⅡテモテ2章14~18節のみことばから、「熟練した者として」というテーマでお話したいと思います。前回のところでパウロは、教会の牧会で苦しんでいたテモテを励ますために、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストのことを、いつも思っていなさい、と言いました。私たちと同じ人間としてお生まれになられたイエスは、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じような試みに会われたのです。ですから、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づくことができるのです。また、この方は死者の中からよみがえられました。キリストは死からよみがえられて永遠に生きておられる方です。この方が今も生きて、私たちを助けてくださいます。だから、このイエス・キリストをいつも思っているなら、それがどんな苦難であっても耐えることができるのです。きょうのところでパウロは、そのような苦難の中で神の働き人はどうあるべきかを教えています。

Ⅰ.ことばについての論争などしないように(14)

まず14節をご覧ください。

「これらのことを人々に思い出させなさい。そして何の益にもならず、聞いている人々を滅ぼすことになるような、ことばについての論争などしないように、神の御前できびしく命じなさい。」

ここでパウロは「これらのことを人々に思い出させなさい」と言っていますが、「これらのこと」とは何でしょうか。「これらのこと」とは、その前のところでパウロが語ってきたことです。すなわち、耐え忍ぶ者にもたらされる栄光がどのようなものであるかということ、また、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえられたイエス・キリストが今も生きて、助けてくださるということ、そして、もし耐え忍ぶなら、キリストとともに治めるようになるということです。これらのことを人々に思い出させなければなりません。

そしてその一方で、ことばについての論争などをしないように、神の御前できびしく命じなければなりません。なぜなら、そのような論争は何の益もならず、聞いている人々を滅ぼすことになるからです。テモテが牧会していたエペソの教会には、こういう人たちが忍び込んでいました。彼らは違ったことを教えたり、健全なことばと敬虔にかなう教えに同意しないばかりか、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをする病気にかかっていました。そこから、ねたみや、争い、そしりや悪意の疑りが生じ、絶え間のない紛争が生じていたのです(Ⅰテモテ6:3-5)。

このようなことばについての論争から、いったいどんな良いものが生まれてくるというのでしょうか。言い争ったら人が救われるのでしょうか。言い争うことによって、それを聞いた人たちの信仰が建て上げられるのでしょうか。いいえ、そういうことはありません。むしろ、そうした言い争いによって、それを聞いている人々を滅ぼすことになるだけです。何の益にもなりません。だから、そのようなことばについての論争などしないように、きびしく命じなければなりません。ただ命じればいいというのではません。神の御前できびしく命じなさい、とあります。これは、それほど重要なことなのです。

エペソ4章29節には、「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話、聞く人に恵みを与えなさい。」とあります。人を滅ぼすようなことばの論争などの悪いことばを、いっさい出してはいけない。ただ、人々の徳を高める、人々の信仰の成長の助けとなるような、聞く人に恵みを与えるようなことばを語らなければなりません。そういうことのために時間とエネルギーを使いたいものです。

しかし、こうしたことばについての論争は、意外と多くのところで見られます。たとえば、ある人たちは洗礼の方法について言い争ったりします。洗礼は浸礼じゃなければならないとか、いや滴礼でいいんだ、いや頭に水を注がなければならない、洗礼の時は後ろに倒すんだ、前に倒すんだ、下に沈めるんだと、いろいろな方法論を論じるのですが、大切なのは洗礼の方法なのでしょうか。そうじゃないですよね。大切なのは方法ではなく本質です。信じてバプテスマを受ける者は救われます。信じない者は罪に定められます。たとえ信じないで形だけ洗礼を受けたとしても何の意味もありません。それがどういう方法であろうとも、信じてバプテスマを受ける者は救われるのです。私は、基本的に洗礼は浸礼だと信じていますが、でも例外もあります。病気で寝たきりの人を水に沈めることは難しいですし、状況によってはその場で洗礼を授けた方がいい場合もあります。そういう時には滴礼でもいいから洗礼を授けるべきだと考えています。しかしある人は、だったらそういう人は、別に洗礼を授けなくてもいいじゃないか、という人がいます。あくまでも沈めることにこだわっている人は、そのようにまで言うのです。しかし、聖書は信じてバプテスマを受けるようにと命じていますから、それがどのようなやり方でも、信じて洗礼を受けるなら、そこに神の恵みと祝福が注がれるのです。

もちろん、明らかに真理に反するような教えに対しては論じなければならないこともあります。たとえば、三位一体の教理とか、イエス・キリストの神性を否定するようなものに対してはきちんと論証しなければなりません。そこはゆずれないところです。信仰によって救われるということもそうですね。大切な教えです。しかし、細かい聖書の解釈の違いについては言い争うのではなく、それぞれの違いを認め、受け入れることも必要なことなのです。

しかし、それは信仰だけのことではありません。日常の生活においても、私たちは意外と他人のことばじりをとらえて論争してしまうことがあります。私は最近、パソコン型のタブレットを買いましたが、それが届く予定の時間に届かなかったことがありました。別に出かける予定もなかったので多少遅れても問題なかったのですが、予定していた時間が過ぎていたので、確かめようとコールセンターに電話したのです。すると電話の相手の方は、確かにこの日の午前中配達になっているということ、もし届いていないとしたら大変ご迷惑をかけて申し訳ないということ、どうなっているのかすぐに調べてみるということでした。するとすぐに玄関のチャイムがなったので下に降りて行ってみると、宅配の方で、午前中配達予定のタブレットを積むのを忘れたので、これから戻って取ってきますから少し待っていてくださいということでした。するとまたコールセンターからまた電話がありました。調べてみたところ宅配の方は確かに配達には出かけているようだが、遅れて大変申し訳ないということでした。申し訳ないのはこちらの方で、どうでもいいことのために相手を戸惑わせたことを恥ずかしく思いました。このように私たちはどうでもいいことでも、自分が正しいと思うとついつい争ってしまうのです。

でも、このような態度は何の益ももたらしません。聞く人に恵みを与えるどころか全く非生産的な結果を生み出してしまうのです。だから、ことばについての論争などをしないように、私たちは注意しなければなりません。

Ⅱ.熟練した働き人(15-18)

ではそのためにはどうしたらいいのでしょうか。15節から18節までをご覧ください。15節には、「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに解き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。」とあります。 パウロはここで、ことばについての論争などをする人たちとは対照的に、神に仕える働き人はどうあるべきかを語っています。そして、その人は熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげなければなりません。

この「熟練した人」とは、その働きにふさわしい、適格者として認められた人のことです。たとえば、家を建てるとき、建てたのはいいけれど傾いていたというのでは、職人さんとして恥ずかしいことです。新しく建てたのに雨漏れがしたというのも、大工さんとしては失格ということになります。そういうことがないように、土台をしっかり据え、寸法通りにまっすぐに切ってつなぎ合わせ、地震などの揺れがあっても大丈夫なように、柱と柱の間には筋交いを入れて強度を保ったりするわけです。

あるとき、この家を建てた大工さんに聞いたことがあります。この筋交は邪魔だから取れないですかね。すると大工さんがいいました。「これがあるから家がちゃんと建っていられるんですよ。これを取ったらすぐに倒れてしまいますよ。」これは熟練した人の見方です。私のような素人は、「ちょっと邪魔だから、とれないかなぁ」みたいなことを考えるんですが、プロは違います。熟練した人は見えないところまでちゃんと考えて作るのです。また一つ一つの材料がきちんと入るように作ります。作ったのはいいけど後で窓が入らなかったとか、ドアが入らなかったというのでは恥ずかしいことです。熟練した職人さんは、ピタッと入るのです。そうでいなと大工さんとしては失格となるからです。

寿司職人の方もそうです。「はいよ!」と威勢の良い声でにぎりを出してくれますが、もし出された途端に崩れたり、サイズがバラバラだったりしたらどうでしょう。「なんだ!この寿司は」ということになります。それではお寿司の職人さんとしては恥ずかしいことになります。同じサイズの寿司を、ちょ、ちょいの、ちょいで、リズミカルに、しっかりと握ってこそ寿司職人です。名人クラスになると握った感覚で米粒の数までわかると言います。それが熟練した人です。同じように、神のみことばに仕える者もそうでなければなりません。熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かし、恥じることのない働き人として、自分を神にささげなければならないのです。

この「まっすぐに説き明かし」とは、まっすぐに切るという意味です。これは元来農夫がみぞをまっすぐに掘るという意味で用いられました。曲がって掘ってはいけません。神のことばも同じで、曲解しないで、まっすぐに、正確に説き明かさなければなりません。これを人間の知恵によって歪曲したりしてはいけないのです。パウロが、「私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことをせず」(Ⅱコリント2:17)と言っていますが、神のみことばに混ぜ物をして売ったり、自分の思想や経験を証明する道具として、神のことばを曲げて用いてはならないのです。聖書そのものから語りかけてくるメッセージを忠実に聞き、それを伝えていかなければならないのです。

いったいどうしたらそのような熟練した働き人になることができるのでしょうか。ここには、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい、とあります。それは終始一貫して、献身的な思いによってなされるということです。自分を神にささげた者として熱心に神のことばを学び、全身全霊をもってこれに取り組まなければなりません。聖書が教えている意味を正しく理解しなければ、他の人に教えることばできません。

私はこうやって毎週メッセージの奉仕をさせていただいておりますが、私はできるだけ同じ箇所からは話さないように心がけています。なぜなら、いつも同じ箇所から話していたら、自分が学ぶことがないからです。学ぶことがなければ理解することはできません。理解できなければ、他の人に伝えることはできないのです。だから、毎週のメッセージの準備のためにはかなり時間がかかるのですが、私にとってこのような学びができるということは本当に感謝なことです。しかし、それは奇跡でもあります。私は元来座っているのは苦手で、どちらかというと、いつも動いていたいんですね。若い時からスポーツが得意でいつも走ってばかりいたせいか、動いていた方が楽なんです。だから家内からはいつも「あなたは落ち着きがない」と言われるのですが、こういう落ち着きのない人間がずっと座って勉強しているんです。まあ、勉強しているのか、遊んでいるのか、寝ているのかはわかりませんが、とにかくずっと座っているんです。大体30分のメッセージのために、計ったことはありませんが、相当の時間じっと座っています。これは奇跡です。それをほとんど毎週日曜日と祈祷会のために準備します。じっと座っていられない者が毎週何十時間も座って勉強するとしたら、しかも勉強が好きな人ならいいですが、嫌いな私が必死になって勉強しているとしたら、それはまさに神のわざであって、聖霊の助けがないとできないことです。ですからそれが継続して続けられるように、私のために祈ってほしいと思います。でも、なぜこのようにするのかというと、みことばを学ばないとわからないからです。わからないと伝えることはできません。だから真理のみことばをまっすぐと説き明かすために、熟練した働き人になるために、自分を神にささげるよう、努め励まなければならないのです。神にあなたをささげなければならない。まな板の鯉のように、神様、煮ても、焼いても、何をしてもいいです。どうか、あなたのために用いてくださいと、捧げなければならないのです。

16節から18節をご覧ください。ここには、「俗悪なむだ話を避けなさい。人々はそれによってますます不敬虔に深入りし、彼らの話は癌のように広がるのです。ヒメナオとピレトはその仲間です。彼らは真理からはずれてしまい、復活がすでに起こったと言って、ある人々の信仰をくつがえしているのです。」とあります。

ここには、熟練した働き人のもう一つの特徴が語られています。それは、俗悪なむだ話を避けるということです。それは真理からずれた話で、人々を信仰から遠ざけ、人々をますます不敬虔に深入りさせます。彼らの話は癌のように広がるとあります。不思議と悪い話は良い話よりも早く広まりますね。聖書は悪のことをパン種にとえていますが、ほんの少しのパン種がパン全体をふくらませるように、そうした話はキリストのからだである教会全体に広がって、破壊していくのです。ここでは、ヒメナオとピラトという二人の名前が具体的にあげられています。ヒメナオについてはⅠテモテ1章20節にも、信仰の破船に会った人物として名指しであげられていました。そこでの中心人物はヒメナオだけでしたが、ここではピレトも仲間に加わっていることがわかります。そのように、こうした俗悪な話というのは癌のようにすぐに広がっていくのです。

いったい彼らはどういう点で間違っていたのでしょうか。彼らは真理からはずれてしまい、復活はすでに起こったと言って、ある人々の信仰をくつがえしていました。彼らは復活を単なる霊的な出来事、精神的なことであるとして、将来、肉体が復活するなんてあり得ないし、そんなことを信じるのは愚かなことだと吹聴していたのでしょう。でも聖書が教えている復活というのは、そういうことでしょうか。違います。聖書が教えている復活とは、イエス様が再臨されるとき、私たちの肉体が、朽ちないからだ、滅びないからだ、栄光のからだに実際に変えられるということです。まずキリストにあって死んだ人たちです。次に生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。それは文字通り実際に起こる事であって、単に霊的に復活することではないのです。

Ⅰコリント15章51~52節を開いてください。ここには、「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」とあります。主が再び戻って来られるとき、私たちのからだは一瞬のうちに朽ちないものに、朽ちないからだに変えられるのです。朽ちるものは必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは必ず不死を着なければならないからです。朽ちるものが朽ちないものを着、死が不死を着るとき、死は勝利にのまれたという聖書のことばが実現するからです。このように聖書ははっきりと、私たちに朽ちないからだが与えられることを約束しているのです。ですから、熟練した者は、そうした俗悪なむだ話を避けなければならないのです。そうしたものが群れの中に入って来ないように注意しなければなりません。

Ⅲ.神の不動の礎(19)

最後に19節を見ておわりたいと思います。「それにもかかわらず、神の不動の礎は堅く置かれていて、それに次のような銘が刻まれています。「主はご自分に属する者を知っておられる。」また、「主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。」

「それにもかかわらず」とは、偽りの教えが癌のように広まり、ある人たちの信仰をくつがえすようなことがあってもということです。エペソの教会には偽りの教えをする者たちがいました。そういう人たちは敬虔な人たちを自分たちの方に引き込もうとしていたので、多くの人たちがそれに巻き込まれ信仰がくつがえされるということがありましたが、しかし、それにもかかわらずです。それにもかかわらず、神の不動の礎は堅く置かれているのです。神の不動の礎とは何でしょうか。それは教会のことです。新共同訳聖書はこれを、「神が据えられた堅固な基礎」と訳しています。英語では「Gods solid foundation」と訳しています。何ゆえにこれは堅固な基礎なのでしょうか。それは、決してゆらぐことのない神が据えた基礎だからです。それは神の教会のことであり、それはどんなことがあってもびくともしない土台なのです。たとえそこに偽りの教えが入ってきても、その教えが教会を混乱させるようなことがあったとしても、教会は決して揺るがされることがありません。なぜなら、教会はキリストによって立てられた神のものだからです。

マタイ16章18節を開いてください。ここでイエス様はこう言われました。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」これは、人々はわたしをだれだと言いますかというイエスの質問に対して、弟子たちが、「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と告白した、その信仰の告白に対してイエス様が言われたことです。ペテロは正しい信仰の告白をしました。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」でもそれは彼の理解力によってそう言えたのではなく、神様がそのようにはっきりと示してくださったのでそういうことができたのです。その信仰の告白の上に、キリストはご自身の教会を建てると言われたのです。それはハデスの門も打ち勝つことはできません。それは堅固な土台に建てられています。それが教会なのです。もし教会が人によって始められたとしたにどうでしょう。それはどんなに立派なようでも、滅びてしまうでしょう。人間はそのようにいつも不安定なものだからです。しかし、神は違います。天地が滅び去っても、神のことばは決して滅びることはありません。全部が成就します。それほど確かなものです。ですから、神によって始められた教会はどんなことがあってもびくともしないのです。たとえ教会に偽りの教えが入ってきても、たとえ大きな問題が起きようとも、教会は堅く立ち続けるのです。

いったい何がそれを保証するのでしょうか。パウロはここで、その礎、土台には二つの銘が刻まれていると言っています。一つは「主はご自分に属する者を知っておられる」ということであり、それからもう一つは、「主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。」という銘です。これはどういうことでしょうか。これはどちらも民数記16章にあるコラの子たちの出来事というか、その話の中からの引用されている言葉ですが、よく見ると、それがイエス様の言葉に照らし合わせて理解されていることがわかります。

ここであまり詳しく学ぶことはできませんが、ウイリアム・バークレーという聖書注解者が、この二つのことばの意味を説明しているので、それを紹介したいと思います。第一に、教会は神に属する人々で成立している。もはや、自分で自分を所有しようとは思わず、また世間も、自分を所有せず、ただ神のみが自分を所有している、というように自分を神に与えてしまった人々で成立しているのである。

第二に、教会は不義から離れた人々によって成立している。このことは、教会が完成された人々の集まりであるということではない。もしそうなら、教会は存在しえなくなる。よく言われるように、神の大きな関心事は、人間が、どのような地点に到達したかではなく、人間が、どの方向に向いているかである。教会がその顔が、聖と義の方向に向いている人々で成立しているのである。彼らはしばしば失敗し、倒れる。そして、ゴールが、時には悲劇的に、また、落胆させるほどに遠のくことがある。それでも、彼らの顔は絶えずゴールに向き、彼らの願いは常に正義に向かっている。教会は神に所属する人々、正義のための戦いに自分自身をささげた人々で成り立っている。」(ウィリアム・バークレー、聖書注解シリーズ12、ヨルダン社)

教会は神に所属する人たちによって成り立っており、正義のために自分自身をささげた人たちによって成り立っているのです。だから、たとえ失敗して倒れ、ゴールが遠のくことがあっても、また、落胆させられることがあっても、それでもその顔は絶えずゴールに向かっているのです。だから、神の教会はどんなことがあっても揺るがされることはないのです。この神の約束を信じて、私たちも神に所属する者であるということ、また、神に自分自身をささげた者であるということを確認し、神のゴールを目指して前進していこうではありませんか。

民数記23章

きょうは民数記23章から学びます。まず1節から12節までをご覧ください。

Ⅰ.イスラエルを祝福したバラム(1-12)

「1 バラムはバラクに言った。「私のためにここに七つの祭壇を築き、七頭の雄牛と七頭の雄羊をここに用意してください。2 バラクはバラムの言ったとおりにした。そしてバラクとバラムとは、それぞれの祭壇の上で雄牛一頭と雄羊一頭とをささげた。3 バラムはバラクに言った。「あなたは、あなたの全焼のいけにえのそばに立っていなさい。私は行って来ます。たぶん、主は私に現れて会ってくださるでしょう。そうしたら、私にお示しになることはどんなことでも、あなたに知らせましょう。」そして彼は裸の丘に行った。4 神がバラムに会われたので、バラムは神に言った。「私は七つの祭壇を造り、それぞれの祭壇の上で雄牛一頭と雄羊一頭とをささげました。」5 主はバラムの口にことばを置き、そして言われた。「バラクのところに帰れ。あなたはこう言わなければならない。」6 それで、彼はバラクのところに帰った。すると、モアブのすべてのつかさたちといっしょに、彼は自分の全焼のいけにえのそばに立っていた。7 バラムは彼のことわざを唱えて言った。「バラクは、アラムから、モアブの王は、東の山々から、私を連れて来た。『来て、私のためにヤコブをのろえ。来て、イスラエルに滅びを宣言せよ。』8 神がのろわない者を、私がどうしてのろえようか。主が滅びを宣言されない者に、私がどうして滅びを宣言できようか。9 岩山の頂から私はこれを見、丘の上から私はこれを見つめる。見よ。この民はひとり離れて住み、おのれを諸国の民の一つと認めない。10 だれがヤコブのちりを数え、イスラエルのちりの群れを数ええようか。私は正しい人が死ぬように死に、私の終わりが彼らと同じであるように。」11 バラクはバラムに言った。「あなたは私になんということをしたのですか。私の敵をのろってもらうためにあなたを連れて来たのに、今、あなたはただ祝福しただけです。」12 バラムは答えて言った。「主が私の口に置かれること、それを私は忠実に語らなければなりません。」

バラムがバラクのところにやって来ると、バラクは彼を連れ出し、バモテ・バアルに上らせました。(22:41)そこからイスラエルの民の一部を見ることができたからです。

バモテ・バアルに上ると、バラムはバラクに、「私のためにここに七つの祭壇を築き、七頭の雄牛と七頭の雄羊を用意してください。」と頼みました。なぜでしょうか。神に全焼のいにえをささげるためです。七は完全を表す聖なる数字です。また、雄牛と雄羊は、イスラエルのささげものの中でも最も高価なものでした。それを神にささげようとしたのです。それは、バラムが神託を受けるにあたり、必要なささげものをささげようと思ったのです。彼らは最善を尽くし、神の好意を得ようとしたのでしょう。かつてはあくまでも自分の思いを通そうとして神の御怒りを受けたバラムでしたが、ろばが人間のことばをしゃべるという出来事を通して、彼の心は砕かれていました。神の前にへりくだり、神がお語りくださることを期待する彼の姿が現れています。それは、3節の彼のことばを見てもわかります。彼はバラクに、「あなたは、あなたの全焼のいけにえのそばに立っていなさい。私は行って来ます。たぶん、主は私に現れて会ってくださるでしょう。そうしたら、私にお示しになることはどんなことでも、あなたに知らせましょう。」と言いました。彼は、主がお語りくださることは、何でも知らせますと言っています。そして、彼は「裸の丘」に行きました。「裸の丘」とは、見晴らしの良い、高くそびえた山で、草木の生えていない頂上という意味で、当時の占い師は、こうした場所を好んで用いたようです。そこで神はバラムに会われ、彼の口にことばを置いて、言われました。「バラクのところへ帰れ。あなたはこう言わなければならない。」と。いったい神はバラムにどんなことを告げられたのでしょうか。

7節から10節にその内容が書かれてあります。バラムはそれをことわざにして唱えて言いました。「ことわざ」と訳されていることばは、ヘブル語でマーシャールという語で、「箴言」(1列王4:32)と同じ語です。それは、詩の形で宣言や格言を述べることです。新共同訳聖書では「託宣」と訳しています。必ずしも言いならされた格言を意味するわけではなく、むしろここでは、神に授けられたことばを意味していると言えます。

その神から授けられたことばはどのような内容であったかというと、主がイスラエルをのろっておられないのだから、主がのろわない者を、のろえと言われてものろえないということ、またこの民は滅びるどころか、神が他の諸国の民から選ばれた特別な民であり、神に祝福されて大いに増え広がった民であると言い、私も彼らの一人に加えられたいものだ・・と願ったのです。(「正しい人が死ぬように死に、私の終わりが彼らと同じであるように。」)(10)
このことからわかることは、私たちは人間の思いとは別に、神のみこころはすでに定まっているということです。神はイスラエルを特別な民とし、これを祝福されました。彼らは、アブラハムが約束された通りの民となったのです。そのイスラエルを呪おうとしても呪うことはできません。神が祝福しておられるからです。

それは、神を信じる私たちも同じです。私たちは神の子イエス・キリストを救い主として信じたことで神の子とされました。神の特別の祝福の中に入れられたのです。だから、だれかが私たちを呪おうとしても決して呪うことなどできないし、逆に、神が約束してくださったとおり神の祝福によって大いに増え広がるのです。

バラクからヤコブをのろい、イスラエルに滅びを宣言するようにと言われたバラムでしたが、彼は、逆に、イスラエルを祝福することばを言いました。イスラエルが滅びるどころか、イスラエルは他の諸国の民から選び別たれた、特別な民であると宣言したのです。その宣言は、神の民である私たちにも向けられているのです。

Ⅱ.バラムの第二の託宣(13-24)

それでバラクはどうしたでしょうか。次に13節から26節までをご覧ください。

「13 バラクは彼に言った。「では、私といっしょにほかの所へ行ってください。そこから彼らを見ることができるが、ただその一部だけが見え、全体を見ることはできない所です。そこから私のために彼らをのろってください。」14 バラクはバラムを、ゼデ・ツォフィムのピスガの頂に連れて行き、そこで七つの祭壇を築き、それぞれの祭壇の上で雄牛と雄羊とを一頭ずつささげた。15 バラムはバラクに言った。「あなたはここであなたの全焼のいけにえのそばに立っていなさい。私はあちらで主にお会いします。」16 はバラムに会われ、その口にことばを置き、そして言われた。「バラクのところに帰れ。あなたはこう告げなければならない。」17 それで、彼はバラクのところに行った。すると、モアブのつかさたちといっしょに、彼は全焼のいけにえのそばに立っていた。バラクは言った。「は何とお告げになりましたか。」18 バラムは彼のことわざを唱えて言った。「立て、バラクよ。そして聞け。ツィポルの子よ。私に耳を傾けよ。19 神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。20 見よ。祝福せよ、との命を私は受けた。神は祝福される。私はそれをくつがえすことはできない。21 ヤコブの中に不法を見いださず、イスラエルの中にわざわいを見ない。彼らの神、は彼らとともにおり、王をたたえる声が彼らの中にある。22 彼らをエジプトから連れ出した神は、彼らにとっては野牛の角のようだ。23 まことに、ヤコブのうちにまじないはなく、イスラエルのうちに占いはない。神のなされることは、時に応じてヤコブに告げられ、イスラエルに告げられる。24 見よ。この民は雌獅子のように起き、雄獅子のように立ち上がり、獲物を食らい、殺したものの血を飲むまでは休まない。」

バラクは「場所がいけなかった」と思ったのか、場所を変えて再びイスラエルを呪わせようとしました。そして今度は「ピスガの頂」に連れて行きました。ここは後にモーセが死ぬところです。そこからはヨルダンの低地を十分に眺めることができました。イスラエルの宿営が全体ではなかったでしょうが、かなり見えたところだったのでしょう。そこに連れて行けば、きっと呪うにちがいないと思ったのです。

それでバラムは再び七つの祭壇を築き、雄牛と雄羊のいけにえを用意するという念入りな儀式を繰り返し、神に会いに行きました。すると主はバラムに現れ、彼の口にことばを置いて、言われました。しかし、今度はイスラエルに関することではなく、バラクの神に対する考え方の間違いを正すものでした。その内容は19節から24節に書かれてあります。それはまず、神は人間ではなく、偽りを言うことがないお方であるということ。そして、人の子ではないので、悔いることがないということ。そして、神は約束されたことを成し遂げられるということでした。そして、神はイスラエルを祝福せよと言われるので、私はそれをくつがえすことはできない、ということでした。ここでバラムは、神の義と真実を明確に語っています。つまり神の義と真実を取り消すことは誰もできないということです。神は、何物にも依存することなく、ご自身のみこころを最後まで成し遂げられるお方です。神が祝福されたのであれば、だれもそれをくつがえすことはできないということです。

そこに私たちが神を信頼する理由もあります。またそこにイスラエルが神に守られて、神の御心を成し遂げてきた理由もあるのです。バラムはイスラエルが敵を完全に打ち破る力を持っていることを告げています。それは彼らの中に主がともにおられるからです。だから彼らは野牛の角のように強いのです。野牛の角というのは強いということを表しています。また、イスラエルにはまじないはなく、占いもありません。なぜなら、神が彼らに直接語ってくださるからです。彼らは雌獅子のように起き、雄獅子のように立ち上がって、獲物を食らうのです。

これは、私たちに対する約束のことばでもあります。神が私たちに祝福を命じておられるのだから、私たちはいかなることがあろうとも、敵に完全に勝利することができるのです。神が私たちとともにおられるからです。だから、私たちは、人がなんだかんだ言うことであたふたする必要は全くないのです。いつでも、肝が据わった状態でいることができるのです。神が私たちとともにいて、約束されたことを成し遂げてくださるからです。この神が野牛の角をもって勝利を与えてくださるからです。私たちが成すべきことは、私たちをキリストにあって祝福すると約束された神に信頼し、日々、忠実に神のみことばに従って生きることだけです。そうすれば、主が私たちを成功させてくださるのです。

Ⅲ.三度目の託宣(25-30)

それでバラクはどうしたでしょうか。25節から30節までをご覧ください。

「25 バラクはバラムに言った。「彼らをのろうことも、祝福することもしないでください。」26 バラムはバラクに答えて言った。「私はが告げられたことをみな、しなければならない、とあなたに言ったではありませんか。」27 バラクはバラムに言った。「さあ、私はあなたをもう一つ別の所へ連れて行きます。もしかしたら、それが神の御目にかなって、あなたは私のために、そこから彼をのろうことができるかもしれません。」28 バラクはバラムを荒地を見おろすペオルの頂上に連れて行った。29 バラムはバラクに言った。「私のためにここに七つの祭壇を築き、七頭の雄牛と七頭の雄羊をここに用意してください。」30 バラクはバラムが言ったとおりにして、祭壇ごとに雄牛と雄羊とを一頭ずつささげた。」

バラクは、バラムに、「頼みますから、彼らを呪うことも、祝福することもしないでください。」と言いました。するとバラムはバラクに答えて言いました。「私はが告げられたことをみな、しなければならない、とあなたに言ったではありませんか。」

するとバラクは、今度は彼をもう一つの別のところへ連れて行きました。そこはイスラエル全体を見下ろすことができるペオルの頂上でした。もしかしたら、それが神の御目にかなって、彼らをのろうかもしれないと思ったからです。バラクはそこに、バラムが言ったとおり、祭壇を築き、七頭の雄牛と七頭の雄羊を用意し、雄牛と雄羊を一頭ずつささげました。

しかし、どんなに場所を変えても、神からの託宣は変わりません。神がイスラエルを祝福しておられるので、彼らを呪うことはできないのです。バラムは度重なるバラクからの圧力にも屈せずただ神が告げられたことだけを、正確にバラクに伝えました。バラクはモアブの王でしたが、たとえ相手がどんなにえらい王であっても、彼はこびる事も全くありませんでした。その結果、王がだんだん気弱になっていく様子が分かります。これは神の民として生きる私たちの姿でもあります。ローマ人への手紙12章2節には、「この世と調子を合わせてはいけません。いやむしろ何が良いことで完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」とありますが、私たちはこの社会に属しながら歩んでいても、この社会の一員としての責任を果たしつつも、やはりクリスチャンとしてのアイデンティティーを損なうようなことがないように、ただ神が告げよと言われることだけを告げる、神の言葉に忠実なクリスチャンでありたいと思います。

Ⅱテモテ2章8~13節 「イエス・キリストを、いつも思っていなさい」

先週のところでパウロは、教会のさまざまな問題で苦しんでいたテモテに対して、キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさいと勧めました。そして、キリストの恵みによって強くされた人はどのような人なのかについて、三つの例を用いて説明しました。それは兵士のようであり、アスリートのようであり、農夫のようです。この三つに共通していたのは、苦しみの後に勝利が、栄冠が、収穫がもたらされるということでした。涙とともに種を蒔く者は、喜び叫び踊りながら刈り取るのです。そのことを思うなら、今置かれている苦しみに耐えることができます。そのように勧めたのです。きょうのところでは、イエス・キリストをいつも思っていなさいと勧めています。

Ⅰ.イエス・キリストをいつも思っていなさい(8-9)

まず8節と9節をご覧ください。8節には、「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」とあります。

パウロは牧会で苦しんでいたテモテに対して、その苦しみに耐えるために、ここではイエス・キリストのことを、いつも思っていなさい、と勧めています。なぜいつもイエス様のことを思っていなければならないのでしょうか。なぜなら、私たちの問題がどのようなものであれ、すべての答えはイエス・キリストにあるからです。キリストがどのような方であるのかを思い出すなら、どのような苦しみの中にあったとしても、必ずその苦しみに耐えることができるのです。

ではキリストはどのような方なのでしょうか。ここには二つのことが言われています。一つはダビデの子孫として生まれた方であるということ、そしてもう一つは、死者の中からよみがえった方であるということです。

ダビデの子孫として生まれ、というのはどのような意味でしょうか。それはこの方がメシヤ、救い主であるということです。救い主が生まれることは旧約聖書にずっと預言されていましたが、キリストはそのとおりに生まれました。それはこの方こそ旧約聖書に約束されていたメシヤ、救い主であるということなのです。

また、キリストがダビデの子孫からお生まれになられたというのは、神が人となって来られたということを表しています。神は霊ですから、私たちの肉眼によっては見ることはできませんが、その目に見えない神が見える形で現れてくださいました。それがイエス・キリストなのです。私たちは単なる霊や、霊的存在を信じているのではなく、実際に人となってこの地上に来られ、この地上での道を歩まれ、この地上で味わうであろうすべての苦しみを経験された神、イエス・キリストを信じているのです。この方は半分神で、半分人間だったということではありません。この方は100%神であり、100%人間として生まれてくださったのです。それゆえに、私たちが経験するすべての痛み、弱さ、苦しみといったものを十分理解することができるのです。ヘブル4章15節、16節にはこうあります。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

私たちの大祭司とはイエス・キリストのことですが、キリストは私たちの弱さに同情ではない方ではありません。なぜなら、罪は犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じように試みに会われたからです。だから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づくことができるのです。

それは私たちも経験があるのではないでしょうか。自分が苦しい体験を通ったことがあれば、他の人がそれと同じ苦しみを通っている時に、「ああ、本当にそれは大変だよね」と心から同情することができますが、苦しんだことがない人は、「そんなの大丈夫よ」と言って、余計にその人を苦しめてしまうことがあります。イエス様はご自分が苦しみを通られたので、同じように苦しみの中にある人を完全に理解することができるのです。しかもイエス様が通られた苦しみは私たちのそれとは全然比べものにならないくらい大きなものでした。それは十字架の苦しみでした。そのことを思うと、私たちが受けている苦しみなんて爪の垢のようにちっぽけなものでしかありません。そのイエスのことを思うなら、私たちに力と励ましが与えられます。

そればかりではありません。ここには、死者の中からよみがえったイエス・キリスト、とあります。死者の中からよみがえったイエス・キリストを思うとはどういうことでしょうか。それはイエスが死者の中から蘇ったという復活の事実を思っていなさいということではありません。それは。イエスが死から復活して、永遠に生きておられるということを思っていなさいということです。永遠ですから、今も生きておられるということです。今も生きてあなたに力を与え、あなたのために働いておられるのです。そのことを覚えなさい、というのです。クリスチャンが重大な任務に召される時、そしてそれが自分の力ではできないと思う時でも、あなたはそれを一人で行うのではないということを覚えなければなりません。死からよみがえり、永遠に生きておられる主イエスがあなたとともにいて、あなたに力を与え、あなたを助けてくださるのです。

昨日、桂珍姉が召天されました。数年前に子宮頸がんを患い抗がん剤の治療をしていましたが、今月に入ってからみるみるうちに体が衰え、昨日の朝早く息を引き取られ主の許に行かれました。桂珍さんから最後にメールが来たのは、先週の日曜日でした。お祈り感謝します。その二日前にもメールが来て、それは中国語で書かれてあったので王さんに訳してもらったら、「私は大橋牧師によって洗礼を受けました。私は永遠の命を受けることができます。神様の子どもになったのですから。」という内容でした。死を前にした苦しみの中で桂珍さんを支えていたのは永遠のいのちの約束と、今も生きて助けてくださるイエス・キリストだったのです。日本に来て13年、福島県三春町のご主人の家で仕えることはどんなにご苦労があったことかと思います。しかし、そのような中で聖書を読んでは祈り、主イエスから力をいただいて、50年のこの地上での生涯を全うしたのです。桂珍さんが洗礼を受けた時のことを、私は忘れることができません。水から上がった彼女は両手を高らかにあげ、満面の笑顔で「ハレルヤ」と叫びました。それは彼女が永遠のいのちをいただいたことの喜びと、死からよみがえられた主イエスの力を確信した瞬間だったのです。

主イエスのことを思うなら、たとえあなたが苦しみの中にあっても必ず乗り越えることができます。私たちは日々、さまざまな恐れと不安にさいなまれ、自分の無能力さで心をふさぐことがありますが、死者の中からよみがえったイエス・キリストのことを思うなら、あなたは苦しみをも乗り越えることができる力を受けるのです。

テモテは、エペソ教会の牧会に疲れ果てていました。度重なる教会内の問題で落ち込み、外からの迫害に苦しんで、体調も崩していました。このままでは牧会を続けることができないと感じていたそのとき、パウロはこのイエスのことをいつも思っていなさい、と勧めたのです。彼にとって必要だったのは、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストのことを、いつも思っていなさい、ということでした。

それは私たちも同じです。私たちもテモテのように福音のゆえにさまざまな苦しみを受けることがありますが、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえらイエスを、いつも思っているなら、あなたも力を受け、その苦しみに耐えることができるのです。

Ⅱ.選ばれた人たちのために(9-10)

次に9節と10節をご覧ください。まず9節には、「私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。」とあります。今度はパウロです。パウロも福音のために苦しみを受けていました。何度も投獄され、鎖につながれました。今回は、特にローマの地下牢で打ち首にされるという最悪な状況にありました。しかし、神のことばは、つながれることはありません。たとえ自分がこのように鎖につながれて身動きできないような状況でも、神のみことばはつながれることはありません。なぜなら、神ご自身は全能であって、鎖につながれるようなお方ではないからです。その神の働きを留めることはだれにもできません。

ですから、パウロは10節でこう言っているのです。「ですから、私は選ばれた人たちのために、すべてのことを耐え忍びます。それは、彼らもまたキリスト・イエスにある救いと、それとともに、とこしえの栄光を受けるようになるためです。」

「ですから」というのは、9節で語ったように、どんなにパウロが福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれることがあっても、神のことばは、つながれてはいないのですから、ということです。ですから、パウロは選ばれた人たちのために、すべてのことを耐え忍ぶのです。それは、彼らもまたキリスト・イエスにある救いと、それとともに、とこしえの栄光を受けるようになるためです。

皆さん、聖書は、救われるようにと神に選ばれた人たちがいると言っています。神はすべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられますが、かといって、すべての人が信じるわけではありません。信じる人とそうでない人がいるのです。でも、私たちは誰が救われるのかがわからないのでとにかくみことばを伝えるわけですが、そのような中から神の恵みに応答して救われる人がいるのです。その人が神に選ばれた人たちです。しかし、こればかりは伝えてみないとわかりません。「あの人は難しいだろうな」と思う人が以外と素直に信じたり、表面的に柔らかそうな人が以外と頑固だということもあります。だれが救われるのかは全くわからないのです。救われるようにと選ばれた人たちがいるとは言っても、そういう人たちが何もしなくても自動的に救われるということはないのです。だから私たちはとにかくみことばを伝えなければならないのです。そのことをパウロはローマ10章13~17節でこのように言っています。

「「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか」とイザヤは言っています。そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」

福音を聞かなければ信じることはできません。私たちもそうですよね。聞いて理解したから信じたわけです。私も18歳のとき初めて聖書のことばを聞きました。小さい頃から日曜学校に行っていたので聞いたつもりでいましたが、実際は全くわかっていませんでした。あることがきっかけで、「だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」という聖書のことばを聞いたとき、ああそうか、イエス・キリストを信じることによって新しくされるんだ、ということがわかったのです。それまでは信じる人は信じたらいいじゃないか、自分は自分の道を行くみたいな感じで、別に信じている人を非難するわけではないし、かといって自分がその中に入ろうとも思いませんでした。それはキリストについてのことばを聞いたことがなかったからです。キリストについてのことばを聞き、神のことばである聖書を読んでわかったのです。そしてよくわかって私たちは信じることができました。だから信仰は聞くことから始まるのです。聞くことはキリストについてのみことばによるのです。宣べ伝える人がいなかったら、私たちは聞くことができませんでした。したがって、キリストにある救いを受けることはできなかったのです。しかし、あるとき、みことばを宣べ伝える人がいて、その人が語るのを聞いて、信じることができました。神が選んでいてくださったからです。しかし、伝道のことを考えるとわかりますが、そのためにはどれほどの苦しみが伴うことでしょうか。パウロはその福音を語る人で、そのために彼は苦しみがありました。けれども、そのように選ばれていた人が救われて、とこしえの栄光を受けるようになるのなら、たとえそれがどんなに苦しくても耐え忍ぶことができたのです。その喜びのゆえにです。

パウロはこれまで兵士のように、アスリートのように、農夫のようにと語ってきた後で、イエス・キリストもそうだったということを語りました。イエス様もご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍ばれました。それはパウロも同じでした。パウロも多くの苦しみがありましたが、しかしそれを耐え忍ぶことかできました。それは、神に選ばれた人が救われて、とこしえの栄光を受けるようになるということを知っていたからです。

それは私たちも同じです。たとえ、福音のために苦しむことがあっても、そのことによって神に選ばれた人たちが救われ、とこしえの栄光を受けるようになるということを思うとき、たとえ目の前の苦しみがあったとしても、それに耐えることができるのではないでしょうか。

Ⅲ.彼は常に真実である(11-13)

最後に11節から終わりまでを見て終わりたいと思います。「次のことばは信頼すべきことばです。「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」

この「」の内容は、当時一般に広く知られていた賛美歌の一部であったと言われています。もし私たちが、キリストともに死んだのなら、キリストとともに生きるようになる。これは洗礼、バプテスマのことを言っているかのように感じますが、それよりもここでパウロの心にあったのは殉教のことでした。なぜなら、12節のところでパウロは、「もし耐え忍んでいるなら、キリストともに治めるようになると言われています。反対に、もしキリストを否んだなら、キリストも私たちを否まれます。」と言っているからです。パウロは打ち首になることが決まっていました。しかし、たとえ殺されたとしてもキリストとともに生きるようになるということです。彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになるのだから、いったい何を恐れることがあるでしょう。死はもはや私たちを支配することはありません。たとえ肉体が滅んでも、たましいはさらにすばらしいところ、神の御国に入るのです。そこで永遠に生きるようになるのです。そうした確信がパウロにあったのです。

それとは裏腹に、もしキリストを否むようなことがあるとしたらどうでしょう。12節には、もし彼を否んだら、キリストも私たちを否まれる、とあります。この地上にあってキリストともに苦難をともにするなら、やがてキリストにある栄光をともにし、この地上にあって、苦しみを免れようとして、福音を恥と思い、キリストを否むようなことがあれば、キリストも私たちを否まれるのです。

キリストははこう言われました。「人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」(マタイ10:33)」

だから私たちは、たとえこの地上で苦しみがあってもその先に何が待っているのかをよく考えるべきです。この地上の一時的な苦しみのために主を否み、永遠の世界で主に知らないと言われることがないように、キリストとともに生きることの幸いを見なければなりません。

では私たちが主を否むようなことをしたら、もう赦されないのでしょうか。そうではありません。13節をご一緒に読みましょう。13節にはこうあります。「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」

「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。」神が真実な方であることは、旧約聖書の時代から変わることがありませんでした。初めの人アダムが罪を犯すと神様は救いの計画を実行されました。創世記3章15節には、女の子孫から出てくるキリストが、へびである悪魔を完全に滅ぼすと語られました。それが具体的な形として現れるのが創世記12章です。神はアブラハムを選び、彼を通してすべての民族が祝福されると言われました。しかし、アブラハムには子供がありませんでした。いったいどうやって神の約束が実現するでしょう。しかし、神は人間的には不可能だと思われたとき、ひとり子イサクを与えてくださいました。そしてイサクにヤコブが与えられ、ヤコブに12名の息子たちが与えられ、そこからイスラエル民族が生まれるのです。その子孫から約束のメシヤを贈られるのです。それがイエス・キリストでした。

けれども、そこに至るまでにもイスラエルは何回も神に反逆します。エジプトに下って行ったイスラエルはそこで400年間奴隷として過ごしますが、神はモーセを立てて、彼らをエジプトの奴隷から救い出しました。しかし、彼らが荒野に導かれると、主に文句ばかり言いました。食べ物がない、飲み物がない、あれがない、これがないと文句たらたら、いつもブツブツ言いました。そればかりか、自分たちを導いてくれる神を造ろうと、金の子牛を造って拝んだりもしたのです。それで山から下りて来たモーセは怒って、「主につく者は私のところに」と言うと、何人かの人たちが悔い改めたので、彼らを神のさばきから救われました。イスラエルの大きな罪にもかかわらず、神の約束は変わらなかったのです。イスラエルは何度も何度も神に反逆し、罪を犯しますが、神は彼らを赦し、彼らの子供たちをご自分が約束された地に入れられました。なぜでしょうか。それは、神は真実な方だからです。神の約束されたことを忠実に守られる方なのです。

それは彼らが神に反逆しバビロンによって滅ぼされた時も同じです。彼らはそこで70年の時を過ごしますが、神はペルシャの王クロスを立てて彼らを救い出し、カナンの地に帰還させてくださいました。

また、A.D.70年にローマによって滅ぼされた時、イスラエルは世界中に散らされましたが、神はご自身の約束を反故にされることはありませんでした。20世紀になると世界中からユダヤ人を集め、1948年にはついにイスラエル共和国を建設するに至りました。

いったいなぜこのようなことが起こるのでしょうか。私たちは真実でなくても、神は常に真実な方だからです。神の賜物と召命とは変わることがありません。神はどこまでも真実な方なのです。

その神の真実さは、放蕩息子の父親の姿にもはっきりと見ることができます。放蕩した息子が家に帰って来たとき、父親は彼をどうしましたか。まだ彼が遠くにいるのに、父親は彼を見つけるとかわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけをしました。「何でお前はこんなことをしたんだ」ととがめることもせず、それどころかしもべたちに一番良い着物を持って来させ、手に指輪をはめさせ、足に靴を履かせ、子牛をほふらせて、お祝いしました。これが私たちの信じている神です。私たちの神は、放蕩息子の父親のように、自分から離れた息子が帰ってくるとき、喜んで迎え入れてくれる方なのです。

このように、私たちは真実でなくとも、彼は常に真実です。神の愛、神の恵みは決して変わることはありません。私たちが救われたのはこの神の恵みによるものです。救いは神からの賜物です。決して私たちががんばって獲得したものではありません。神が私たちを愛し、ご自身の御子を遣わし、その方が十字架で私たちの罪の身代わりとなり、死んでくださいました。それだけでなく、その死から復活され、この方を信じる者はだれでも救われるとしてくださいました。これが福音であり、私たちはこれを信仰によって受け取ったのです。この信仰さえも神からの賜物です。

では一度救われたらずっと救われているのですか。そうです。少なくとも神はあなたをお見捨てになることは絶対にありません。ヨハネ10章28節に、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」と約束されているからです。本当に救われているのなら、救いは決して変わることはありません。けれども、その一方で信仰から離れて行ってしまうという現実があるのも事実です。神は決して見離さず、見捨てることはなさいませんが、私たちの方で自分から離れてしまうことがあるのです。放蕩息子のようにどこかで離れてしまうということもあり得るわけです。では、それで終わりかと言うとそうではありません。私たちは真実でなくても、神は常に真実なのです。だから、私たちは帰ってくるところを知っています。それがイエス・キリストです。たとえ信仰から離れることがあったとしても、たとえキリストを否むということがあったとしても、それでもあなたが神に立ち返るなら、神はあなたを赦し、あなたを喜んで受け入れ、あなたに愛と恵みを注いでくださいます。だから、この神の愛に立ち返ってください。この神の愛を信じていただきたいです。私たちは真実でなくても、神は常に真実な方だからです。

イエス様の一番弟子といったらシモン・ペテロですが、彼は一番弟子でありながら、イエス様を簡単に裏切ってしまいました。「主よ、他の者があなたを知らないと言っても、私は決してそういうことはありません」と言ったのに、いざイエス様が捕えられると、彼はイエス様を知らないと否定しました。それは「ペテロ、あなたは鶏が鳴く前に三度私を知らないと言います」と言われたイエス様のおことばどおりでした。

大祭司カヤパの家の庭に行くと、「あなたはあの人と一緒にいましたね」と言いますが、彼は「何のことを言っているのか私にはさっぱりわからない」ととぼけるのですが、別の人が「確かにこの人はあの人といっしょにいた人だわ」言われると、「そんな人は知らない」としらを切りました。「いや、ぜったいこの人はあの人の仲間だわ。ことばのなまりでわかるもん。」と言われると、今度はのろいをかけて誓ったとあります。するとすぐに鶏が鳴いたのです。ペテロはイエス様が言われたあの言葉を思い出し、外に出て激しく泣きました。いったいこの時ペテロはどんな気持ちだったでしょう。どんなに自分を責めたかわかりません。あれほど誓ったのに、こんなにも簡単に裏切ってしまうのかと、自分の気持ちの弱さに情けなく思ったかもしれません。しかし、聖書のすばらしいところは、そこで終わらないところです。イエス様はペテロに言われました。「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)そして見事に彼は悔い改め、信仰を回復したばかりか、初代教会の指導者として用いられていったのです。

だから、失敗したからそれで終わりではありません。それでも神はあなたを赦してくださいます。そして、あなたをもう一度用いてくださるのです。それはあなたが真実だからではありません。彼、キリストが常に真実だからです。ですから私たちは何度失敗しても、何度主を裏切るようなことがあっても、その度に悔い改めて、神に立ち返りたいものです。そうすれば、主は赦してくださいます。苦しみのために、私たちももしかしたら主から離れてしまうこともあるかもしれませんが、何度離れても主のもとに立ち返り、主の赦しと愛にあずかりたいと思います。主はあわれみ深く、恵み深い方だからです。私たちは真実でなくても、彼は常に真実です。この真実な方に信頼して、私たちも何度も立ち上がっていく者でありたいと思います。