民数記10章

きょうは、民数記10章をご一緒に学びたいと思います。約束の地に向かって進むイスラエルのために、そのために必要なことを主はシナイの荒野で語っています。今回の箇所でイスラエルは実際に旅立ちます。

1.銀のラッパ(1-11)

まず1節から11節までをご覧ください。

「1 ついではモーセに告げて仰せられた。2 「銀のラッパを二本作らせよ。それを打ち物作りとし、あなたはそれで会衆を招集し、また宿営を出発させなければならない。3 この二つが長く吹き鳴らされると、全会衆が会見の天幕の入口の、あなたのところに集まる。4 もしその一つが吹き鳴らされると、イスラエルの分団のかしらである族長たちがあなたのところに集まる。5 また、あなたがたがそれを短く吹き鳴らすと、東側に宿っている宿営が出発する。6 あなたがたが二度目に短く吹き鳴らすと、南側に宿っている宿営が出発する。彼らが出発するには、短く吹き鳴らさなければならない。7 集会を召集するときには、長く吹き鳴らさなければならない。短く吹き鳴らしてはならない。8 祭司であるアロンの子らがラッパを吹かなければならない。これはあなたがたにとって、代々にわたる永遠の定めである。9 また、あなたがたの国で、あなたがたを襲う侵略者との戦いに出る場合は、ラッパを短く吹き鳴らす。あなたがたが、あなたがたの神、の前に覚えられ、あなたがたの敵から救われるためである。10 また、あなたがたの喜びの日、あなたがたの例祭と新月の日に、あなたがたの全焼のいけにえと、和解のいけにえの上に、ラッパを鳴り渡らせるなら、あなたがたは、あなたがたの神の前に覚えられる。わたしはあなたがたの神、である。」

1節と2節には、「ついではモーセに告げて仰せられた。 「銀のラッパを二本作らせよ。それを打ち物作りとし、あなたはそれで会衆を招集し、また宿営を出発させなければならない。」とあります。主はモーセに、会衆を招集したり、また宿営させるために、銀のラッパを二本作らせるようにと命じました。3節、この二本のラッパが長く吹き鳴らすと、全会衆が会見の入り口にいたモーセのところに集まりました。4節、もし一本のラッパだけなら、分団のかしらである族長たちだけが集まりました。5節、それを短く1回だけ吹き鳴らすと、東側に宿っていた宿営が出発します。6節、二度目に短く鳴らすと、南側の宿営が出発します。このように分団を招集するときには長く、出発するときには短くラッパを吹き鳴らしました。また9節を見てください。イスラエルの民は、絶えず敵からの襲撃の脅威にさらされていましたが、その時には、ラッパを短く吹き鳴らしました。彼らが彼らの神、主に覚えられ、敵から救われるためです。このように敵と戦い、敵に勝利してくださるのも主ご自身でした。敵と戦うとき、主に覚えらるために、ラッパを吹き鳴らしたのです。また10節には、彼らの喜びの日、すなわち、例祭と新月の日に、全焼のいけにえと、和解のいけにえの上に、ラッパを鳴り渡らせるなら、彼らの神の前に覚えられる、とあります。ですから、ラッパの音というのは、まさに神の音であったのです。

私たちが、この地上にいて聞くラッパの音があります。それは、主イエス・キリストが私たちのために再び戻ってきてくるときです。「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」 (Ⅰコリント15:52)。イスラエルの民の族長たちが、ラッパの音を聞いてモーセのところに集まってきたように、私たち教会も、終わりのラッパの音とともに一挙に引き上げられるのです。

それだけではありません。イエスさまがこの地上に戻られるとき、今度はイスラエルの民自身が、イスラエルの土地に集まってきます。イエスさまが言われました。「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」(マタイ24:31)ラッパは私たちを集め、一つにしてくださる神のみわざなのです。また、イスラエルが戦いに出たときに、ラッパが吹き鳴らされたように、神が地上にさばきを下さるときにラッパが吹き鳴らされることがわかります。黙示録に出てくる七つのラッパの災害です。したがって、イスラエルの民がラッパによって集められたり、旅立ったり、戦ったり、祭りを行ったりしたというのは、私たちが神のラッパの合図によって行動するように、それをいつも待ち望まなければいけないことを表しているのです。

2.出発順序(11-28)

次に11節から28節までをご覧ください。いよいよイスラエルが約束の地に向かって旅立ちますが、ここにはその出発の順序が記されてあります。

「11 第二年目の第二月の二十日に、雲があかしの幕屋の上から離れて上った。12 それでイスラエル人はシナイの荒野を出て旅立ったが、雲はパランの荒野でとどまった。13 彼らは、モーセを通して示されたの命令によって初めて旅立ち、14 まず初めにユダ族の宿営の旗が、その軍団ごとに出発した。軍団長はアミナダブの子ナフション。15 イッサカル部族の軍団長はツアルの子ネタヌエル。16 ゼブルン部族の軍団長はへロンの子エリアブ。17 幕屋が取りはずされ、幕屋を運ぶゲルション族、メラリ族が出発。18 ルベンの宿営の旗が、その軍団ごとに出発。軍団長はシェデウルの子エリツル。19 シメオン部族の軍団長はツリシャダイの子シェルミエル。20 ガド部族の軍団長はデウエルの子エルヤサフ。21 聖なる物を運ぶケハテ人が出発。彼らが着くまでに、幕屋は建て終えられる。22 また、エフライム族の宿営の旗が、その軍団ごとに出発。軍団長はアミフデの子エリシャマ。23 マナセ部族の軍団長はペダツルの子ガムリエル。24 ベニヤミン部族の軍団長はギデオニの子アビダンであった。25 ダン部族の宿営の旗が、全宿営の後衛としてその軍団ごとに出発。軍団長はアミシャダイの子アヒエゼル。26 アシェル部族の軍団長はオクランの子パグイエル。27 ナフタリ部族の軍団長はエナンの子アヒラ。28 以上がイスラエル人の軍団ごとの出発順序であって、彼らはそのように出発した。」

イスラエルが出発したのは、第二年目の第二月の二十日のことでした。それは、神がイスラエルの民を登録するようにと命じてから二十日後のことでした(民数記1:1)。雲があかしの幕屋の上から離れていきました。それでイスラエル人はシナイの荒野を出て旅立ちましたが、雲はパランの荒野でとどまりました。そして、どのように出発したかが描かれています。

まず初めにユダ族の宿営の旗が、その軍団ごとに出発しました(14)。ユダの宿営にはユダ部族以外にイッサカル部族とゼブルン部族がいましたので、彼らがまず出発しました。

次は17節にあるように、レビ人が幕屋を取り外して、彼らの後に続いて出発します。彼らは、イスラエルの軍団と軍団の間に挟まれるようにして進みました。その次はルベンの宿営が出発しました。すなわち、南側に宿営していた部族です。ここにはルペン族以外にシメオン部族とガド部族がいました。次に、聖なる物を運ぶケハテ人が出発しました。レビ族です。彼らが着くまでに、幕屋は建て終えられていなければなりませんでした。なぜケハテ族はゲルション族とメラリ族の後に続かなかったのかと言うと、彼らが着くまでに、幕屋が建て終えられていなければならなかったからです。そこまで計算されていたのです。すごいですね。実に整然としています。次に進んだのは、エフライム族の宿営です。これは西側にいた部族でした。ここにはエフライム部族の他にマナセ部族、ベニヤミン部族がいました。最後に出発したのはダン部族の宿営、すなわち、北側に宿営していた部族です。ここにはダン部族の他にアシェル部族、ナフタリ部族がいました。彼らは全宿営の後衛に回りました。

以上がイスラエル人の軍団ごとの出発順序でした。これを上空から眺めると、東から動いて、次にあかしの幕屋が動き、そして南、西、北と円を描くようにして出発していたことがわかります。実に整然としています。それはどういうことかというと、神の民の共同体には、このような秩序と順序があるということです。どうでもよかったのではないのです。神は混乱の神ではなく、平和の神だからです(Ⅰコリント14:33)。それは私たちが集まるところにおいても同じです。神の教会にも平和と秩序があります。それを乱すことは神のみこころではありません。「ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行いな」(Ⅰコリント14:40)わなければならないのです。私たちは、どのように神が権威を人々に与えておられるのかを、見極めることが大切なのです。

3.主の契約の箱が出発するとき(29-36)

最後に29節から36節までを見て終わります。まず29節から32節までをご覧ください。

「29 さて、モーセは、彼のしゅうとミデヤン人レウエルの子ホバブに言った。「私たちは、があなたがたに与えると言われた場所へ出発するところです。私たちといっしょに行きましょう。私たちはあなたをしあわせにします。がイスラエルにしあわせを約束しておられるからです。」30 彼はモーセに答えた。「私は行きません。私の生まれ故郷に帰ります。」31 そこでモーセは言った。「どうか私たちを見捨てないでください。あなたは、私たちが荒野のどこで宿営したらよいかご存じであり、私たちにとって目なのですから。32 私たちといっしょに行ってくだされば、が私たちに下さるしあわせを、あなたにもおわかちしたいのです。」

彼のしゅうとミデヤン人レウエルの子ホハブとは、モーセのしゅうとレウエル、別名イテロの息子レウエルのことです。ここでモーセはレウエルに、自分たちの道案内人になってくれと頼んでいるのです。荒野を歩くことは死を意味するということをテレビで観たことがありますが、何の目印もない広大な荒野を旅することは方向感覚を失うことでもあり、それは一般的には不可能なことでした。ですからモーセはずっとミデヤンの荒野に住んでいた彼らなら、どこをどのように進んで行ったらいいのかをよく知っていましたから、自分たちの目になってほしいと頼んだのです。

しかし、私たちはこれまで民数記を学んでくる中で、主が荒野を旅するイスラエルをどのように整え、備えてきたかを見てきました。まず二十歳以上の男子が登録され、敵の攻撃に備えました。また、イスラエルの各部族は天幕の回りに宿営し上空から見れば十字架の形になって進んでいきました。また、外敵の攻撃ばかりでなく、内側も聖めました。なぜなら、そこには神が住まわれるからです。神が共におられるなら、どんな攻撃があっても大丈夫です。ですから彼らは内側を聖め、ささげ物をささげ、過越の祭りを行ないました。そして、彼らが迷うことがないように、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって導いてくださったのです。これほど確かな備えと導きが与えられていたにもかかわらず、いくらその地域を熟知しているからといっても、イテろの息子に道案内を頼むというのは不思議な話です。いったいモーセはなぜこのようなことをしたのでしょうか。

それはモーセが彼らの道案内を頼ったというよりも、これまで長らくお世話になったしゅうとのイテロとその家族に対する恩返しのためであり、彼らを幸せにしたいというモーセの願いがあったからでしょう。事実、約束の地に入った彼の子孫は、イスラエル人の中に住みました(士師1:16,4:11)。なぜそのように言えるのかというと、33節から終わりまでのところに、実際にイスラエルの荒野旅を導いたのはミデヤン人ホバブではなく、主ご自身であったことがわかるからです。ここにはこうあります。

「33 こうして、彼らはの山を出て、三日の道のりを進んだ。の契約の箱は三日の道のりの間、彼らの先頭に立って進み、彼らの休息の場所を捜した。34 彼らが宿営を出て進むとき、昼間はの雲が彼らの上にあった。35 契約の箱が出発するときには、モーセはこう言っていた。「よ。立ち上がってください。あなたの敵は散らされ、あなたを憎む者は、御前から逃げ去りますように。」36 またそれがとどまるときに、彼は言っていた。「よ。お帰りください。イスラエルの幾千万の民のもとに。」

旅の中では後ろのほうにあるはずの契約の箱が、ここでは先頭に立って進んでいることがわかります。すなわち、本当の道案内人は、ホバブではなく主ご自身であったのです。主が彼らの先頭に立って進み、彼らの休息の場所をもたらしたのです。

そして、その契約の箱が出発するときには、モーセはいつもこのように祈りました。「よ。立ち上がってください。あなたの敵は散らされ、あなたを憎む者は、御前から逃げ去りますように。」また、それがとどまるときには、「主よ。お帰りください。イスラエルの幾千万の民のもとに。」と祈りました。つまり、真にイスラエルの荒野の旅を導いていたのは、主ご自身であったということです。モーセは出発するときには、その主が立ち上がり、敵が逃げ去って行きますように、宿営するときには、主がとどまってくださるように祈ったのです。

この二つの祈りは単純な祈りですが、私たちにとっても大切な祈りです。私たちが、この世において歩むときにも、霊の戦いがあります(エペソ6章)。その戦いにおいて勝利することができるように、主が立ち上がり、敵と戦ってくださるように、そして、敵の手から、私たちを救い出してください、と祈らなければなりません。また、この世において歩んでいるところから立ち止って、礼拝をささげるとき、「主よ、お帰りください。私たちとともにいてください。」と祈ることが必要です。というのは、私たちの信仰の歩みにおいて最も重要なことは、この主が共にいてくださるかどうかであるからです。私たちの信仰の旅立ち、その行程において、主が共におられ、敵から救ってくださり、敵に勝利することができるように祈り求める者となりますように。

Ⅱテサロニケ2章1~12節

新年あけましておめでとうございます。教会ではきょうが新年の礼拝となりますが、この新しい年もみことばから教えられ、主のみこころに歩ませていただきたいと思います。 この新年の礼拝で私たちに与えられているみことばは、Ⅱテサロニケ2章1節からの箇所です。1章のところでパウロは、テサロニケのクリスチャンたちが受けている迫害と患難の意味を語り、彼らを励ましました。それは彼らを神の国にふさわしい者とするためであって、やがてキリストが来臨されるとき、報いとして安息と栄光を受けるためであるということでした。けれども、テサロニケの教会の中には、このキリストの再臨についての間違った理解から、落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしている人たちがいました。そこでパウロは迫害と患難の中にあるテサロニケのクリスチャンたちを励まし主の再臨について正しく教えるために、この第二の手紙を書いたのです。

これはテサロニケのクリスチャンたちだけでなく、今の時代を生きる私たちクリスチャンに対する神からのメッセージでもあります。こうして新しい年を迎えるということは、同時に、主の再臨がより近づいているということでもありますから、私たちはこの主の再臨について聖書から正しく理解し、だれからも、どのようにも、だまされないようにしなければなりません。

きょうはこのことについて三つのポイントでお話をします。第一に、主のご再臨はいつやって来るのですか。その前には二つの兆候があります。背教が起こり、不法の人が現れるということです。不法の人と呼ばれる人が現れなければ、主の日は来ないのです。第二のことは、しかし、今は、その不法の人が来ないように、引き止められているということです。そして第三のことは、その時になると不法の人が現れますが、主は御口の息をもって滅ぼしてしまわれるということです。

Ⅰ.終わりの日の二つのしるし(1-4)

それでは、本文を見ていきたいと思います。まず1節から4節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。

「1 さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。2 霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください」

パウロはテサロニケのクリスチャンたちに、イエス・キリストが再び来られることと、主のみもとに集められることに関して、お願いしています。霊によっても、あるいはことばによっても、あるいはパウロたちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように勘違いして、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないようにしてください・・・と。イエス・キリストが再び来られることと、主のみもとに集められることに関してというのは、主の空中再臨とそのときに起こる携挙という出来事のことであります。

このことについてはすでに、Ⅰテサロニケ4章13節から18節までのところで学んだとおりです。聖書は、主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、天から下って来られます。そのときキリストにあって死んだ人たちが、まず初めによみがえり、次に、生き残っているクリスチャンたちが、たちまち雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うようになると言っています。そのようにして、私たちは、いつまでも主とともにいるようになります。これが主の日に起こることです。

ところが、テサロニケのクリスチャンたちの中には、彼らがまだ地上にいるというのに、主の日がすでに来たかのように話している人たちがいたのです。その日にはクリスチャンたちは引き挙げられると言われているのに地上に残っていたら大変なことになります。いったいこれはどういうことかと混乱しますよね。自分は救われていなかったのかと悩むに違いありません。

「霊によって」とは、別の霊、間違った霊、悪霊のことです。「ことばによって」とは、人のことば、人の考え、人の思いによってということです。神のことばによってではなく人のことば、人の教えによってということです。そして「私たちから出た手紙によって」とは、パウロたちから出たかのような手紙によってということで、パウロたちの名を名乗る偽物の手紙が当時出回っていたことがわかります。このようなことを言いふらす人たちは、いかにもそれが聖霊の導きによって示されたかのように語ったり、パウロが教えた内容であるかのように言って惑わしていたので、彼らは落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしていたのです。

いったい何が問題だったのでしょうか。彼らは人のことばに振り回されていて、聖書に書かれてあることをよく吟味していなかったということす。彼らは幼子のような純粋な信仰を持っていましたが、聖書をよく調べるという点では弱かったのです。ですから、誰かが主の日はすでに来たかのように言うのを聞くとすぐにそれを間に受け、落ち着きを失い、心を騒がせていたのです。私たちも注意したいですね。誰か他の人が語る言葉を聞いて、あるいはそうした類の書物を読んで、それがあたかも神から出たかのように思い込みと、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせてしまうことになります。しかし、もしその言っていることをみことばによってよく吟味するなら、そのように落ち着きを失ったり、心を騒がせたりすることはないのです。

あのベレヤのユダヤ人たちはそうでした。彼らはたとえパウロが語ったことであっても、それが本当に聖書に書いてあることなのかどうかを毎日聖書によって調べました。そのように聖書によってきちんと確認するなら、落ち着きを失ったり、心を騒がせたりすることはないのです。

では主の日はどのようにしてやって来るのでしょうか。3節と4節をご覧ください。

「3 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。4 彼は、すべての神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。」

ここでパウロは主の日が来る前に二つの前兆があると言っています。一つは「背教」であり、もう一つは「不法の人」すなわち「滅びの子」の出現です。「背教」とはギリシャ語で「アポスタシア」と言いますが、これは「元々立っている所から離れて立つ」という意味です。すなわち、元々立っていた信仰から離れてしまうことを指しています。聖書に書かれてあることに背くことと言ってもいいでしょう。これは英語のapostasy(背教、背信という意味)の語源になったことばです。主の日が近くなると、社会全体、全世界がアポスタシアの状態になります。聖書から完全に離れた社会、それがまかりとおるような社会になるのです。現代はまさにそういう社会ではないでしょうか。それがますます加速しているように思えます。パウロはⅡテモテ3章1~5節のところでこう言っています。

「1 終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。2 そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、3 情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、4 裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、5 見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」

現代はまさにここに書いてあるような社会ではないでしょうか。それは神から離れた人間の、もともと立っていなければならない所から離れた人間の姿なのです。これはずっと昔から見られる傾向ですが、世の終わりが近くなるとその傾向がもっともっと強くなります。まさに今はこのような時代を迎えているのです。

主の再臨の前兆としてここに挙げられているもう一つのことは、「不法の人、すなわち滅びの子が現れる」ということです。彼は4節に、「彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高くあげ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。」とあるように、神に反抗し、自分を神よりも高く上げ、自分こそ神であると宣言する反キリストのことです。反キリストはサタンの手先となってキリストに対抗するのですが、パウロは、この反キリストが現れなければ主の日は来ないと言っています。それは何の根拠もなく言っているのではありません。このような不法の人が現れることは実はずっと昔から、旧約聖書で預言されていたことだったのです。

たとえばダニエル書7章24,25節には、「十本の角は、この国から立つ十人の王。彼らのあとに、もう一人の王が立つ。彼は先の者たちと異なり、三人の王を打ち倒す。彼はいと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼしつくそうとする。彼は時と法則を変えようとし、聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる。」(ダニエル7:24,25)とあります。これは世の終わりのひと時とふた時と半時の間、すなわち3年半の間、神に敵対して、聖徒たちを滅ぼしつくそうとする反キリストのことを預言していたのです。彼は、「彼の軍勢は立ち上がり、聖所ととりでを汚し、常供のささげ物を取り除き、荒らす忌むべきものを据える。」(同11:36)のです。彼はエルサレムの神殿の至聖所にズケズケと入って来て、我こそが神であると宣言するのです。

この「荒らす忌むべきもの」については、イエスさまも語られたことです。マタイの福音書24章15節から29節です。「15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)16 そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。17 屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。18 畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。19 だがその日、哀れなのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。20 ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。21 そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。22 もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。23 そのとき、『そら、キリストがここにいる』とか、『そこにいる』とか言う者があっても、信じてはいけません。24 にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。25 さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。26 だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、へやにいらっしゃる』と聞いても、信じてはいけません。27 人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。」

多く聖書学者は、これはB.C.2世紀にエルサレムの神殿を踏み荒したセレウコス朝シリヤのアンティオコス・エピファネスのことだろうと考えていますが、それは一つの型にすぎません。世の終わりには彼とは別の、不法の人、滅びの子、反キリストが現れるのです。彼が現れなければ、主の日はやって来ることはありません。

だから、だれにも、どのようにも、だまされてはいけません。聖書をよく見て、そこに書かれてあることが起こっているかどうかを確認して、冷静に判断しなければなりません。そうすれば、主の日がすでに来たかのように言うのを聞いても、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりすることはないのです。

Ⅱ.引き止める者(5-7)

では、その不法の人はいつ現れるのでしょうか。次に5節から7節までをご覧ください。

「5 私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話しておいたのを思い出しませんか。6 あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現れるようにと、いま引き止めているものがあるのです。7 不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。」

5節の「これらのこと」とは、1節から4節までのところに書かれてあることです。パウロはテサロニケの町を訪れて伝道したとき、信じた人たちにこれらのことをよく話していました。パウロがテサロニケで伝道したのはわずか3週間余りでしたがその短い間に彼は、救われたばかりのベイビークリスチャンに、これらのこと、つまり終末に関する聖書の教えを既に語っていたのです。キリストが再臨されること、また、その時にはクリスチャンは一挙に雲の中に引き挙げられること、そしてそこで主とお会いするということ、しかしその前にまず背教が起こり、反キリストが現れるということを話していたのです。ということは、これらのことは一部の聖書に興味のある人たちだけの話題ではなく、新しく救われたクリスチャンも知っておかなければならない大切で、基本的な教えであることがわかります。

その教えによると、確かに不法の人は現れるのですが、いまそれを引き止めている者があるということです。その引き止めているものとは何でしょうか。7節ではこれを「引き止める者」と人格的に表現しています。そうです、これは神の聖霊のことなのです。これをローマ帝国とその皇帝のことではないかと考えている人もいますが、そうではありません。このサタンの力をどうやってローマの皇帝が引き止めることができるでしょうか。どんなに力ある者でも、この悪に対抗できる者などいません。それを引き止めることができるのはただ神の力、聖霊ご自身以外にはいないのです。聖霊はペンテコステの時以来教会と共に臨在され、教会を守り、神の聖徒たちとともに働いておられるのです。主イエスはこう言われました。

「13 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:13-16)

皆さん、私たちは地の塩、世の光です。塩が塩けをなくしたら何の役にも立ちません。クリスチャンは地の塩として、この世の腐敗を防止する役割が与えられているのです。また、この世の光として、この世を照らしていく役割があります。どんなにこの世が暗くなっても、完全に暗くなることはできません。なぜなら、そこにクリスチャンが置かれているからです。いったいどのようにしたら暗やみに勝利することができるのでしょうか。暗やみに空手チョップを食らわせてもだめです。キリストの御名によって出て行けと叫びますか。あなたがそのようにどんなに叫んでも暗やみが出ていくことはないのです。でももしあなたが光を持ってきたら、一瞬にして闇は消え去ります。ただ光を持って来ればいいのです。そうすればやみはすぐに逃げ去って明るくなります。その光を輝かせなければなりません。その光こそイエス・キリストの光、聖霊の光なのです。この聖霊とともに私たちはこの世に働いているサタンの力を制御し、悪霊の働きをとどめているのです。

しかし、その聖霊が取り除かれる時がやってきます。いつですか。携挙の時です。クリスチャンが一挙に引き上げられるので、彼を引き止めているものが無くなってしまうのです。その時には一気が悪の力がこの地上になだれ込むようになります。そして恐ろしい患難時代が始まるのです。でも今は地上には教会がありますから、聖霊を内住したクリスチャンたちがたくさんいるので、今はそれを引き止めているのです。やがてクリスチャンが取り除かれるとき、この世は一気に真っ暗になるのです。しかし、今はまだ「不法の人」が現れることが引き止められていますが、不法の秘密はすでに働いています。「不法の秘密」とは反キリストの霊のことです。Ⅰヨハネ2章18節にはこうあります。

「小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。」

一人の反キリストは現れていませんが、今は多くの反キリストの霊が働いているのです。事実周囲を見回すと、神に敵対する悪の勢力や、自らを神としてキリストに取って代わって礼拝されたがっている反キリスト的な力が強く働いていることがわかります。あからさまにキリストに反逆することはしなくとも、自分こそは神であるかのように人々から称賛されたり、感謝されたり、礼拝されることを求めている人たちがたくさんいることがわかります。キリストに従うなんてもってのほか、自分の思いのままに生きていきたい。それは反キリストの霊、不法の秘密がすでに働いているからなのです。だから、不法の人はまだ現れてはいませんが、不法の秘密はすでに働いています。それによって私たちは、世の終わりが近づいていることを知ることができますが、今は反キリストが定められた時に現れるようにと、聖霊が引き止めているのです。ですから、私たちは主の聖霊の働きを締め出してはなりません。

Ⅲ.その時になると(8-12)

では「不法の人」が現れるとき、いったいどのようなことが起こるのでしょうか?8節から12節までをご覧ください。まず8節から10節までをお読みします。

「8 その時になると、不法の人が現れますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。9 不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、10 また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。」

「その時になると」、すなわち「引き止める者」が取り除かれる時になると、いよいよ不法の人、反キリストが現れ、神とキリストに対する徹底的な挑戦が始まります。不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴うので、あっと驚くようなことをして、人々の心をひきつけます。一度死んだかと思ったら、その致命的な傷も治って生き返るので、全地が驚いて、彼に従うようになるのです。彼は圧倒的な権威を身にまとい、多くの人と堅い契約を結ぶので、政治的にも、軍事的にもカリスマ的な力をもって世界をまとめるのです。ところが3年半が経ったとき、事態は急変いたします。これまで世界を救うヒーローかと思っていた彼が急に傲慢なことを言い始め、神を汚すようなことを言い、自分こそ神だと宣言するようになるのです。4節にあるとおりです。

けれども主は、御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。「ハルマゲドンの戦い」と呼ばれている戦いにおいてです。御口の息をもってとはみことばによってということです。主はみことばの剣をもって反キリストを滅ぼされるのです。主のみことばにはそれほどの力があるのです。主はこのみことばをもって天地を創造されました。主が「光よ。あれ。」と仰せられると、光ができました。また主がこの地上を歩まれた時も、みことばによって病人をいやし、嵐を静め、死人をよみがえらせました。また、そのみことばによってサタンを退けられたのです。それは両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができるのです。

また、主は来臨の輝きをもって敵を滅ぼされます。この場合の来臨とは地上再臨のことです。その七年前に主は空中に再臨され、ご自身の花嫁である教会を携え挙げられますが、その七年後に、今度は多くの御使いを従えて天から下ってこられるのです。それはありにも輝いた姿なので、不法の子である悪魔は滅ぼされてしまうのです。しかし、そのさばきは悪魔だけに対してのものではありません。10節を見ると、それはその悪魔に従って神がキリストによって与えてくださった救いを拒否して受け入れなかった人々にも臨むのです。彼らがさばかれるのは、何か悪いことをしたからとか、刑事事件を起こしたからではありません。彼らが滅ぼされるのは、サタンの誘惑に負け、キリストの救いを拒んだからです。パウロはここで、「彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。」とはっきりと言っています。

私たちは、神の前に、キリストの十字架の愛を受け入れるか受け入れないか、すなわち、キリストを救い主として信じるか信じないか、救いか滅びの二つに一つの道しかありません。救われもしなければ滅びもしない道といった中間的な道は存在しないのです。救われなくてもいいけど、滅びたくはないとか、そういう道はないのです。救われるか滅びるかのどちらかの道しかないのです。だから、主イエスはこう言われたのです。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その満ちは広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。」(マタイ7:13)

神の愛によって与えられたキリストの唯一の救いをいつまでも拒む者に対して、主はあのエジプトの王パロの心をかたくなにされたように、かたくなにされます。もう少したったら信じられるようになるでしょうとか、仕事を退職したら信じるようになるでしょうというのは、サタンである悪魔の偽りです。後になればなるほどもっとかたくなになってしまいます。もしあなたが救われるための真理への愛を受け入れないと、偽りを信じるように、惑わす力が送り込まれるからです。だから、主が来臨されるとき滅ぼされることがないように、今、神の救い、神のあなたに対する愛を受け入れほしいと思います。確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。ですから、聖霊はこう言われるのです。「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたように、心をかたくなにしてはならない。」(へブル3:7-8)

どうかここにおられる人が一人も漏れることなく、神の御救いにあずかることができるように、きょう、もし御声を聞いたなら、心をかたくなにしないでいただきたいと思います。確かに今は恵みの時、今は救いの日なのです。やがてその救いのドアが閉じられる時がやってきます。そのときに、この救いに漏れることがないように、どうか主の救いを受け入れてください。この新しい一年が主の救いを受け、やがて来る主の来臨にしっかりと備えた年でありますように。たとえ、回りがどんなに騒いでも、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりするのではなく、みことばの約束をしっかり握りしめて生きる年でありますように祈ります。

Ⅱテサロニケ1章5~12節

あっという間に今年最後の主の日を迎えました。この一年も主が毎週の礼拝を守り、導いてくださったことを心から感謝します。きょうはⅠテサロニケ1章5節から12節までの箇所から、「感嘆の的イエス・キリスト」というタイトルでお話します。

Ⅰ.神の国にふさわしい者とするため(5-7)

まず5節から7節までをご覧ください。

「5 このことは、あなたがたを神の国にふさわしい者とするため、神の正しいさばきを示すしるしであって、あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。6 つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、7 苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現れるときに起こります。」

「このこと」とは、1節から4節までに書かれてあることです。テサロニケの教会には激しい迫害がありました。しかし、そのような迫害の中にも彼らの信仰は目に見えて成長し、彼らの相互の愛は増し加わり、そうした迫害や患難に耐えて、信仰を堅く保っていました。試練や苦しみは、彼らの信仰の根を引き抜くことはできなかったのです。でもいったいなぜクリスチャンにはこのような苦しみがあるのでしょうか。ここでその理由が語られているのです。それは、彼らを神の国にふさわしい者とするための、また報いとして彼らに安息を与えるためのものであるということです。どういうことでしょうか?

まず5節には、「このことは、あなたがたを神の国にふさわしい者とするため・・・・あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。」とあります。クリスチャンがこの世で迫害や患難を受けることがあるとしたらそれは神の国のためであって、神の国にふさわしい者とするためなのです。Ⅰペテロ1章7節には、「信仰の試練は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」とあります。皆さん、信仰の試練は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも尊いのです。それは、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になるのです。それは苦しみを受けているクリスチャンが神の国の一員であるということの証拠であり、そのことによってクリスチャンはダイヤモンドのように輝きを増していくことになるのです。不純物が取り除かれることによってもっともっと聖いものに変えられていくために、そして、神の国の住民としてふさわしいものに造り変えられるために、神はこうした患難や試練を用いられるのです。

「そんなのいらない」と言う方がおられますか。そういう人は輝くことができません。称賛と光栄と栄誉を受けることはできないのです。試練はできたら避けて通りたいものですが、実はその試練こそが私たちを神の国にふさわしい者として整えるために神が用いられる道具だというのです。だから聖書はこう言うのです。

「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1:2-4)

これは本を読んで勉強したからできることではありません。ただ試練を通して、患難を通してそれに耐え、その忍耐を完全に働かせることによってもたらされるものなのです。これは口で言うのは簡単なことですが、実行しようとするとなかなかできることではありません。実際に試練に会うと、そのようには思えなくなるのです。そこから逃げることしか考えられなくなります。何とかこの試練を取り除いてくださいとひたすら願うだけなのです。試練が悪いものだと思って、そこから逃げることしか考えられないのです。けれどもその患難が、あなたに忍耐や信仰をもたらすのです。その患難から逃れることばかり考えていたら非常にもったいないことです。神があなたを創り変えることはできません。それは神の働きを阻害することにもなるのです。いつまでも完全なものとして成長を遂げることはできません。しかし、あなたが患難を通して聖書に約束された通りのことを私の身にも行ってください、主よ、どうか患難を道具として用いてください。傷もしみもしわもそのようなものの何一つない栄光の花嫁にしてくださいと祈るなら、神はあなたをそのように創り変えてくださるのです。

そんなこと言ったも、耐えられなかったらどうするんですか。大丈夫です。神はあなたが耐えられないような試練を与えることはなさらないからです。耐えられるように、試練とともに脱出の道を備えてくださいます。Ⅰコリント10章13節を見てください。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」

ですからどうぞ安心してください。あなたがたの試練はみな人の知らないようなものではないのです。みんな同じような試練に会っています。涼しい顔して平気でいる人を見ると、「あの人はいいなぁ。あの人は試練なんてないんだろう」とか、「私の痛みや苦しみを理解することなんてできないだろう」と思うかもしれませんが、そうではないんです。みんな同じような試練を通っているんです。あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではないのです。けれども、神は真実な方ですから、あなたがたが耐えられないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道を備えてくださるのです。何とすばらしい励ましでしょうか。それは私たちを倒すためではなく、私たちを神の国にふさわしい者として整えるために与えているものだからです。あなたはその試練に耐えることによって、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な人となることができるのです。神の国にふさわしい者として整えられるのです。

へブル書12章11節にはこうあります。「すべての懲らしめは、そのときには喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(へブル12:11)すべての懲らしめは、そのときには喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われものですが、後で振り返ってみると、あの苦しい経験があったからこそ今の自分があると思い、むしろその意見が感謝できるようになるというのです。

いったいなぜこんなに苦しみがあるのでしょうか?そのもう一つの答えが6節と7節にあります。「つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。」

クリスチャンに対して不当な苦しみを与える者に対して、神は正当に報いを与えてくださいます。ですから、あなたは自分で復讐する必要はないんです。復讐は神がなさることですから、神は正しくさばいてくださいます。ですから、自分がさばきをつけなくてもいいのです。ついついさばきをつけたくなるのですが、そうやってさばきをつけることによって、私たちがさばかれてしまうことがあります。というのは、私たちは間違ってさばくことの方が多いからです。間違ってさばいたら大変なことになります。その責任はとても重いからですね。誤審、冤罪、これは大変な責任です。その人の人生を台無しにしてしまいます。ですから、そういうことがないように、神が正しく裁いてくださいます。今、不当な目に遭っていても、今、理不尽でも、不条理であっても、やがて神がすべてを正しくさばいてくださいます。

具体的にはどういうことでしょうか。具体的には「あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に力ある御使いたちを従えて天から現れるときに起こります。」

これはキリストが地上に再臨される時に起こることです。その七年前に主は空中に再臨され、キリストの花嫁である教会を一挙に引き上げられます。そして天国で結婚式が行われるのです。それが小羊の婚宴と呼ばれるものです。そこでクリスチャンはいつまでも主とともにいるようになるのです。

しかし、その時この地上では恐ろしいことが起こっているのです。七年間の大患難時代です。反キリストが現れて猛威を振うので、地上の多くの人々が死に絶えるのです。そしてそれがクライマックスに達するまさにその時、キリストが力ある御使いを従えて天から下ってこられるのです。オリーブ山という山です。その時主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わなかった人々を報復されます。その一方で、この地上で苦しみを受けたクリスチャンは、報いとして安息が与えられるのです。

皆さんには安息がありますか。あなたがこの地上でどんなに頑張っても、自分の力で罪を帳消しにすることはできません。あなたを罪から救うことができるのは、ただあなたの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったイエス・キリストだけなんです。このイエスを信じるならあなたの罪は赦され、安息を受けることができます。いい人を演じても限界があります。結局、人はみな必ず死ぬのですから。死んだらすべてを失います。地獄の沙汰も金次第ということは通用しません。あなたは神の前に立ち、神のさばきを受けなければならないのです。もしあなたがイエスを信じていなければ、主はあなたに報復されます。そこには何の安息もありません。でも、イエスを救い主として信じるなら、主が報いとして安息を与えてくださるのです。主イエスは言われました。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

今は不当な苦しみにあえいでいるかもしれません。理不尽な思いでいっぱいかもしれません。でもやがて主イエスが再臨されるとき、主が正しくさばいてくださいます。あなたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、報いとして安息が与えられるのです。

皆さん、なぜ私たちには試練や苦しみがあるのでしょうか。それはあなたを神の国にふさわしい者として整えるためであり、やがてさばき主なる主が再臨されるときに主が正しくさばかれ、あなたに報いを与えるためです。あなたはそこで真の安息を得るのです。だから、たとえ試練や苦しみがあってもがっかりしないでください。もう信じていても意味がないと投げやりにならないでください。主の日は近いのです。そのとき、主が正しくさばかれ、あなたに報いてくださいますから。

今、あなたが抱えておられる試練は何ですか?それがどんなに大きな試練でも、それよりももっと大きな方を見なければなりません。試練を通して神を見るのではなく、神を通して試練を見るなら、その苦しみの中に隠れている神のみこころを見出すことができるのです。

Ⅱ.感嘆の的イエス・キリスト(8-10)

次に8節から10節までをご覧ください。

「8 そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。9 そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。10 その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の―そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです―感嘆の的となられます。」

 

ここには、主イエスが再び来られるとき、神を知らない人々や、主イエスの福音に従わない人をさばかれるとあります。そのような人々は、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。 神はあわれみ深い方ですからすべての人々を救われると思っている方がおられますが、そうではありません。勿論、神はすべての人が救われることを望んでおられますが、だからといってすべての人が主の救いを信じるわけではないのです。そういう人たちはみな永遠の滅びの刑罰を受けるのです。死んだらみんな天国に行くのであって、地獄に行く人なんて誰もいないという人がいますが、それは嘘です。聖書は、そのような人は永遠の滅びの刑罰を受けるとはっきり言っているのです。そんな恐ろしい地獄など実際には存在しないと考えている人々がいますが、それは単なる人間の願望から出た想像にすぎないのであって、実際には地獄は存在するのです。

ですから、聖書はこう言うのです。ヨハネ3章16節です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」聖書は、キリストを信じる者はひとりも滅びないで、永遠のいのちを持ち、信じない者は滅びると明言しているのです。神はこの世の罪人を救うために御子を世に遣わされました。そして十字架にかけて人間の罪の罰を御子に負わせました。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠のいのちを持つためです。これが、人間が罪から救われる唯一の道です。これ以外には救いの道はありません。この御名のほかに、私たちが救われるべき名としては人間には与えられていないからです。この唯一の救い主イエス・キリストを信じない人々に対して、神はこのようにされるのです。

先週はクリスマスでしたが、主イエスが最初にこの地上に来られた時はベツレヘムの家畜小屋で生まれてくださいました。飼い葉おけに寝かされたと言います。実にみすぼらしい姿をとって来てくださいました。しかし、今度再び来られる時には、二度目の来臨の時には、天の万軍を従えて、王の王として、主の主としてお出でになられます。また、その時は最初に来られた時のように一部の人しか知らないような姿ではなく、世界中の人々がはっきりと目撃する形で来られるのです。

「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」(黙示録1:7)

昔は地球の裏側で起こっていることを同じ時間に見ることなど考えられないことでしたが、今やテレビの発明や宇宙中継などによって、お茶の間に居ながら、世界中の動きを一瞬にして知ることができるようになりました。1963年、日本とアメリカとの間で、宇宙中継による最初のテレビ放映が行われましたが、そのときいきなりテレビの映像から飛び込んできたのはジョン・F・ケネディ大統領暗殺の生々しいニュースでした。そのニュースをご覧になった方々は、どれほどの衝撃を受けられたことかと思います。また、1989年にベルリンの壁が崩壊したニュースも、一瞬にして世界中に伝えられました。それと同じように、いやそれよりもはるかに鮮やかに、主の再臨の出来事はもっと大々的な出来事として世界中を揺るがすはずです。その時、世界中のクリスチャンは、どれほどの歓喜の声を上げることでしょう。それが10節にあります。ご一緒に読んでみましょう。

「その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の・・そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです。・・感嘆の的となられます」

世界中の人々の注目を集め、全てのクリスチャンの「感嘆の的」となられる主イェス・キリストの姿を想像するだけでも、胸が躍る思いがします。パウロのこのことばによって、テサロニケのクリスチャンたちは、迫害や患難の中にありながらも、ますます、主イエスに対する信仰を強められたのではないでしょうか。

現代に生きる私たちも、その時が来た時に、主イエスを「感嘆の的」とさせて頂けるように、今からイエスさまを信じ、イエスさまの再臨を待ち望みながら歩む者とさせていだたきたいものです。同時に、家族の誰か、友人のどなたかが取り残されてしまうことがないように、置き去りにされてしまうことがないように、みんなで主イエスを信じることができるように熱心に祈りに励みたい思います。そして主イエスが迎えに来られるとき一人も漏れなく携え挙げられて、天の御国に入れるように祈りましょう。

Ⅲ.御力によって(11-12)

最後に11節と12節を見て終わりたいと思います。

「11 そのためにも、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか、私たちの神が、あなたがたをお召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとを全うしてくださいますように。12 それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。」

そのためにいつも祈っている必要があります。主イエスがいつ戻って来てもいいように、油断しないで祈っていなければなりません。ここでパウロはテサロニケのクリスチャンたちのためにこう祈りました。「どうか私たちの神が、あなたがたをお召にふさわしい者にし、また御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きを全うしてくださいますように。」

神が彼らをこの世とサタンの支配から救い出し、罪を赦し、神の子としてくださったのは決して偶然のことではありませんでした。またそれは単に彼らの願いによるものではなかったのです。それは一方的な神のみわざであり、神の選びによるものでした。主イエスは、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15:16)と言われました。私たち一人一人は神に選ばれ、召し出されてここにいるのです。自分ではたまたま大田原に来て、たまたま教会に来て、たまたま信じたかのように思っていますが、それはたまたまのことではなく、神の深いご計画によるものでした。それはあなたが母の胎に生まれる前から、いや世界の基が置かれるずっと前からそのように選ばれていたことなのです。であるなら、その召しにふさわしく生きることが求められます。

その召しにふさわしい生き方とはどのようなものなのでしょうか。ここには、「御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きを全うしてくださいますように。」とあります。つまり、進んで善を行うクリスチャンになるようにということです。エペソ2章10節には、「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」とあります。

しかし、進んで善を行う力など、私たちにはありません。私たちの生まれながらの人間は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行ってしまうからです。ですから、根本的には善を行う力など持っていないのです。では望みはないのでしょうか。いいえ、だからここには「御力によって」とあるのです。「どうか、私たちの神が、あなたがたをお召しにふさわしい者とし、また御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きを全うしてくださいますように。」と、神の御力が強調されているのです。そればかりではありません。12節をご一緒に読みましょう。

「それは私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。」

ここにも、「私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって」とあります。私たちは自分の力で良い行いができるのではありません。自分の力でキリストと同じ姿に変えられるのではないのです。私たちの神が、御力によって、そのことをしてくださいます。私たちの主であるイエス・キリストの恵みによって、それができるようにと助けてくださるのです。

であれば、私たちは主が私たちをその召しにふさわしい者とし、善を行うことができるように、私たち自身を主に差し出し、主によって造り変えていただかなければなりません。そのとき、主の力と主の恵みによって、私たちもそのような者へと変えていただけるのです。そして、主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるようになるのです。

この新しい年が主イエスの御力によって、その召しにふさわしい者として変えられ、信仰を全うしていくことができますように、主イエス・キリストの恵みによって堅く信仰に歩めるように祈ります。

民数記9章

 きょうはレビ記9章から学びます。まず1~5節までをご覧ください。

「1 エジプトの国を出て第二年目の第一月に、はシナイの荒野でモーセに告げて仰せられた。2 「イスラエル人は、定められた時に、過越のいけにえをささげよ。3 あなたがたはこの月の十四日の夕暮れ、その定められた時にそれらをささげなければならない。そのすべてのおきてとすべての定めに従って、それをしなければならない。」4 そこでモーセはイスラエル人に、過越のいけにえをささげるように命じたので、5 彼らはシナイの荒野で第一月の十四日の夕暮れに過越のいけにえをささげた。イスラエル人はすべてがモーセに命じられらとおりに行った。」

1.過ぎ越しのいけにえをささげよ(1-5)

1節を見ると、時は、再び、第二年目の第一月にさかのぼっています。出エジプト記40章17節に戻っています。モーセが幕屋の建設を完成したのはエジプトを出て第二年目の第一の月でした。その月の第一日に幕屋は完成したのです。それから、主はモーセを呼び寄せ、会見の天幕から彼に告げて仰せられました。それがレビ記の内容です。ですから、この箇所の内容はその時まで遡っていることがわかります。

さて、その時主は(モーセに何を告げられたのでしょうか。イスラエル人に、定められた時に、過ぎ越しのいけにえをささげるようにと言われました。その月の十四日の夕暮れに、その定められた時に、それをするようにと言われたのです。過ぎ越しのいけにえとは、イスラエルがエジプトを出るときにささげたいけにえです。出エジプト記12章3~13節までにそのことが記されてあります。

「3 イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。4 もし家族が羊一頭の分より少ないなら、その人はその家のすぐ隣の人と、人数に応じて一頭を取り、めいめいが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。5 あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。6 あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、7 その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。8 その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。9 それを、生のままで、または、水で煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。10 それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。11 あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これはへの過越のいけにえである。12 その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしはである。13 あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。」

ここには、この月の十日、すなわち、第一年の第一の月の十日のことです。おのおのその父祖の家ごとに羊一頭を用意し、それを十四日の夕暮れにほふり、その血を取って家々の門柱と、かもいにつけなければなりませんでした。そして、その夜にその肉を食べました。種を入れないパンと苦菜を添えて。腰には帯を締め、足にくつをはき、手には杖を持っていました。すぐに旅立てるように支度を整えて食事をしたのです。そして、その夜神はエジプトの地を行き巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、初子という初子はすべて打ちました。ただ門柱とかもいに羊の地が塗ってある家だけは、そのさばきを通り越したのです。そこには神の滅びのわざわいがもたらされることはありませんでした。

その一年後に、イスラエルがシナイの荒野で旅を始めるにあたり、主は同じように過越のいけにえをささげるようにと命じられたのです。いったいこれはどうしてでしょうか。それはイスラエルの民にとって過ぎ越しの小羊の血はエジプトから救い出されたときだけではなく、荒野の旅をするときにも必要だったということです。その旅は、エジプトでの救いと切り離されたものではなく、むしろ、贖いによって彼らは荒野の過酷な生活を耐え忍び、前に向かって進み出すことができます。荒野にひそむ危険やわなも、過越にある主の贖いによって避けることができるのです。

それは私たちクリスチャンも同じです。この過ぎ越しの小羊の血とはイエス・キリストの十字架の血潮を表していますが、それは私たちがイエスさまを信じて救われた時だけでなく、その後の信仰の歩みにおいても、常に必要なもののです。そうでなければ、荒野の旅を全うすることはできません。天の都に向かう私たちの信仰の旅においては、常にキリストの血潮に立ち返る必要があるのです。信仰をもってからどのような局面にいようとも、絶えず過去にキリストが成し遂げてくださった十字架のみわざを仰ぎ見ていくものでなければいけません。ですから、イエスさまは、聖餐式を行うようにと命じられたのです。聖餐のパンを裂き、ぶどう酒を飲むことによって、わたしのからだと血を思い出しなさいと言われたのです。それは、私たちが常に初めの愛に立ち返らなければならないからです。初めの愛に立ち返って、十字架の愛を思い出さなければならないのです。

2.もし死体によって身を汚したら(6-14)

次に6~14節までをご覧ください。

「6 しかし、人の死体によって身を汚し、その日に過越のいけにえをささげることができなかった人々がいた。彼らはその日、モーセとアロンの前に近づいた。7 その人々は彼に言った。「私たちは、人の死体によって身を汚しておりますが、なぜ定められた時にイスラエル人の中で、へのささげ物をささげることを禁じられているのでしょうか。」8 するとモーセは彼らに言った。「待っていなさい。私はがあなたがたについてどのように命じられるかを聞こう。」9 はモーセに告げて仰せられた。10 「イスラエル人に告げて言え。あなたがたの、またはあなたがたの子孫のうちでだれかが、もし死体によって身を汚しているか、遠い旅路にあるなら、その人はに過越のいけにえをささげなければならない。11 第二月の十四日の夕暮れに、それをささげなければならない。種を入れないパンと苦菜をいっしょにそれを食べなければならない。12 そのうちの少しでも朝まで残してはならない。またその骨を一本でも折ってはならない。すべて過越のいけにえのおきてに従ってそれをささげなければならない。13 身がきよく、また旅にも出ていない者が、過越のいけにえをささげることをやめたなら、その者はその民から断ち切られなければならない。その者は定められた時に、へのささげ物をささげなかったのであるから、自分の罪を負わなければならない。14 もし、あなたがたのところに異国人が在留していて、に過越のいけにえのおきてと、その定めに従ってささげなければならない。在留異国人にも、この国に生まれた者にも、あなたがたには、おきては一つである。」

しかし、もし人が死体によって身を汚し、その日に過ぎ越しのいけにえをささげることができなかったらどうしたらいいのでしょうか。死体によって身を汚していた人はどうしてその日にいけにえをささげることができなかたのかというと、宿営の外に追い出されていたからです。覚えていらっしゃいますか、5章2節のところで、ツァラアトの者、漏出を病む者、死体によって身を汚している者は、すべて宿営の外に追い出せとありました。ですから、そのような人は過ぎ越しのいけにえをささげることができなかったのです。そのような人たちはどうしたらいいのかということです。

するとモーセは彼らに言いました。8節です。「待っていなさい。私はがあなたがたについてどのように命じられるかを聞こう。」このことについてモーセは考えたこともなくわからなかったので、彼は主に伺いを立てました。ここにモーセの謙遜さが見られますね。「モーセと言う人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」(民数記12:3)とありますが、彼は本当に謙遜な人でした。わからないことはわからないと正直に認めた上で、答えを知っておられる方に伺いをたてたのです。これが本当に謙遜な人の姿です。

ではその問いに対する神の答えはどういうものだったでしょうか。10~14節をご覧ください。それは一ヶ月遅れの、第二の月に過越の祭りを守るようにというものでした。なぜなら、それはとても重要なことだったからです。過ぎ越しのいけにえをやめるようなことがあったら、その者は民から断ち切られなければなりませんでした。過ぎ越しのいけにえのおきては、少しでもはぶいてはいけませんでした。すべて過ぎ越しのいけにえのおきてに従って捧げなければなりませんでした。

実際に一か月遅れで過ぎ越しのいけにえをささげたという例があります。Ⅱ歴代誌30章1~5節です。この時ユダの王ヒゼキヤはアッシリヤの攻撃に対して、まず宗教改革を行うのです。主に過ぎ越しののいけにえをささげることから始めました。それは第二の月の十四日のことです。なぜなら、身を聖別した祭司たちの数が十分ではなかったからです。そこで、イスラエルとユダの全会衆に呼び掛けてエルサレムに集まり、過ぎ越しのいけにえをささげるようにと手紙を書き送ったのです。その結果はご存知のとおりです。アッシリヤの王セナケリブがエルサレムを包囲するのですが、主は、アッシリヤの王の手からイスラエルを救い出されました。主はひとりの御使いを遣わし、アッシリヤの陣営にいたすべての勇士、隊長、主張を全滅されたのです(Ⅱ歴代誌32:21)。まさに十字架の血潮による勝利です。たとえそれが一か月遅れであっても、それははぶくことができない重要なことであり、それが神の命令に従ってささげられるとき、そこに偉大な神の力と勝利がもたらされるのです。それは最初の過ぎ越しの祭りに優とも劣らない神の祝福なのです。

このことから教えられることは、この過ぎ越しの祭りは聖餐式に相当するということを申し上げましたが、聖餐式では自分を吟味することが求められています(Ⅰコリント11:28)。それが偶発的かどうかとかかわりなく、死体に触れたままで、汚れたままで聖餐にあずかることは避けなければなりません。この場合の死体とは罪、汚れのことです。自分の中に罪、汚れがあるなら、聖餐をひかえるべきです。けれども、たとえその時に聖餐にあずかることができなくても、次の機会にはあずかることができるのです。その罪を悔い改めて、イエスの十字架の血によって聖めていただくことによってです。いや、その1分前でも、自分をよく吟味し、そこに汚れがあるなら、それを悔い改めて聖めていただくことによって、私たちはこの十字架の贖いにあずかることができるのです。

つまり、私たちは何度でもやり直しをすることができる、ということです。イスラエルの民が死体にさわって自分の身を汚したように、私たちも自分の身を汚すことがあります。それゆえ、主の集会の中にある恵みにあずかることができないことがあります。自分は失敗した。もうだめだ。教会に行っても、おとなしくしておこう。または、そんなにイエスさまに対して熱心になる必要はない。私はだめだ、と意気消沈することがありますが、神は完全なやり直しを与えてくださっているのです。私たちは神に立ち返って、新たにキリストの基準に従った生活をやり直すことができるのです。いや、やり直さないといけないのです。自分で勝手に、その基準を落として、キリストから少し距離を離しながら生きるのではなく、主が与えられた二回目のチャンスを精いっぱい生きることが求められているのです。

3.雲の柱火の柱(15-23)

次に15~23節までをご覧ください。

「9 はモーセに告げて仰せられた。10 「イスラエル人に告げて言え。あなたがたの、またはあなたがたの子孫のうちでだれかが、もし死体によって身を汚しているか、遠い旅路にあるなら、その人はに過越のいけにえをささげなければならない。11 第二月の十四日の夕暮れに、それをささげなければならない。種を入れないパンと苦菜をいっしょにそれを食べなければならない。12 そのうちの少しでも朝まで残してはならない。またその骨を一本でも折ってはならない。すべて過越のいけにえのおきてに従ってそれをささげなければならない。13 身がきよく、また旅にも出ていない者が、過越のいけにえをささげることをやめたなら、その者はその民から断ち切られなければならない。その者は定められた時に、へのささげ物をささげなかったのであるから、自分の罪を負わなければならない。14 もし、あなたがたのところに異国人が在留していて、に過越のいけにえのおきてと、その定めに従ってささげなければならない。在留異国人にも、この国に生まれた者にも、あなたがたには、おきては一つである。」15 幕屋を建てた日、雲があかしの天幕である幕屋をおおった。それは夕方には幕屋の上にあって火のようなものになり、朝まであった。16 いつもこのようであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えた。17 雲が天幕を離れて上ると、すぐそのあとで、イスラエル人はいつも旅立った。そして、雲がとどまるその場所で、イスラエル人は宿営していた。18 の命令によって、イスラエル人は旅立ち、の命令によって宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営していた。19 長い間、雲が幕屋の上にとどまるときには、イスラエル人はの戒めを守って、旅立たなかった。20 また雲がわずかの間しか幕屋の上にとどまらないことがあっても、彼らはの命令によって宿営し、の命令によって旅立った。
21 雲が夕方から朝までとどまるようなときがあっても、朝になって雲が上れば、彼らはただちに旅立った。昼でも、夜でも、雲が上れば、彼らはいつも旅立った。22 二日でも、一月でも、あるいは一年でも、雲が幕屋の上にとどまって去らなければ、イスラエル人は宿営して旅立たなかった。ただ雲が上ったときだけ旅立った。23 彼らはの命令によって宿営し、の命令によって旅立った。彼らはモーセを通して示されたの命令によって、の戒めを守った。」

次に、イスラエルの民が旅立つときに、導き手となる雲の柱、火の柱について書いてあります。モーセが幕屋を建てた日から雲が幕屋をおおいました。夕方には幕屋の上に火の柱があって、それが朝までありました。いつもこのようであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えた。雲が天幕を離れて上ると、すぐそのあとで、イスラエル人はいつも旅立ち、そして、雲がとどまるその場所で、イスラエル人は宿営していました。 雲が夕方から朝までとどまるようなときがあっても、朝になって雲が上れば、彼らはただちに旅立ちました。昼でも、夜でも、雲が上れば、彼らはいつも旅立ったのです。彼らとしては、突然雲が上がっても、まだ出発したくないという時もあったでしょうが、それでも、昼でも、夜でも、雲が上がれば、いつでも旅立ったのです。また、一日でも、二日でも、一月でも、あるいは一年でも、雲が幕屋の上にとどまって去らなければ、イスラエル人は宿営して旅立ちませんでした。ただ雲が上ったときだけ旅立ったのです。長い期間、宿営していたら退屈になってしまうかもしれませんが、それでも彼らは雲がとどまっている限り、宿営をつづけました。

これはどういうことでしょうか。それは、イスラエルが主の命令によって旅立ち、また主の命令によってとどまったように、私たちも主の導きに従って進まなければならないということです。私たちの生活は彼らの生活よりもずいぶん便利になりました。いつでも行きたい所に行き、泊まりたい所に泊まることができます。やりたいことをし、やりたくないことはしない、何でも自由にできます。けれども、そのような自由が必ずしも良いとは限りません。何の問題もないようでも、実はそこに大きな落とし穴があるのです。

ヤコブはこう言っています。「聞きなさい。『きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。』と言う人たち。あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。』(ヤコブ4:13-15)」

主のみこころなら、です。私たちのいのちは完全に、主によりかかっています。ですから、主のみこころのみを求めて、主のみこころが成し遂げられることを願い求めて、生きていかなければいけません。人生の行程に、突然の変化があるかもしれません。しかし、柔軟になるべきです。主がなされることを眺めていき、そしてその導きにしたがうべきです。

イスラエルに与えられていたのは雲の柱でした。それは神がそこにおられ、彼らを導いておられることを表していました。同じように、神は私たちに聖霊を与えて、私たちの歩みを導いておられます。中には、「イスラエルはいいなぁ、はっきりとした形で導かれて・・・。雲のように目に見えるものがあったらどんなにいいだろう。迷うことなく、思い煩うこともなく、安心して進んでいけたに違いない。」確かに彼らには目に見える形での道しるべが与えられていました。しかし、だからといってそれでよかったのかというとそうでもないのです。というのは、彼らはそのような確かな道しるべが与えられていたにもかかわらず、不平や不満を言って神の怒りを買っていたからです。彼らは目に見えるものがあっても文句を言っていたのです。大切なのは、それは目に見えるか見えないかというとこではなく、見えても見えなくても、従順に従うことです。

でも神様は私たちに新しい道しるべを与えてくださいました。それは目には見えませんが、私たちの中に住み、私たちを導いてくださる神の聖霊です。神は今、聖霊によって私たちを導いておられるのです。確かにそれは目には見えませんが、私たちの歩みを確かにしてくださる方です。なぜなら、それは私たちの内に住んでくださるからです。そのうちなる聖霊の声によって歩めるというのは何と幸いなことでしょうか。大切なのは、神がどのように導いておられるかを知るということともに、その導いてくださる神の御声に聴き従うことです。私たちに与えられたこの信仰の歩みを、神の聖霊の導きに従って歩んでいくものでありたいと思います。

Ⅱテサロニケ1章1~4節

きょうからテサロニケの第二の手紙に入ります。この手紙もパウロとシルワノとテモテから、テサロニケのクリスチャンたちに宛てて書かれた手紙です。この手紙は第一の手紙が書かれてから数か月後に書かれたものだと言われていますが、いったいなぜ書かれたのでしょうか。テサロニケの第一の手紙が書かれたのは紀元51年頃で、これはパウロの手紙のの中でも最も初期に書かれた手紙ですが、それは救われたばかりのテサロニケのクリスチャンたちを励ますためでした。彼らはその地の住人とユダヤ人から激しい迫害を受けていたので、そうした中にあっても信仰に堅く立ち続けることができるようにと励ますために書いたのです。それにプラスして、彼らの中には主の再臨について誤解している人たちがいて、それによって落ち着きのない生活をしている人たちがいたので、この主の再臨について正しく教えるために書いたのです。

では第二の手紙は何のために書かれたのでしょうか。2章1~3節には、「さて、兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。」とあります。彼らの中には、主の日がすでに来たかのように言う人たちがいて、それがあたかもパウロたちから出た手紙によって語られたかのように言ったので、それを聞いたある人たちは落ち着きを失ったり、心を騒がせていたのです。そこでパウロはこの主の再臨について正しく教え、そのことによって生じた混乱を静めるために、この手紙を書き送ったのです。

皆さん、だれにも、どのようにも、だまされないようにしなければなりません。主の日の前にはこのような不法の人が起こりますが、主は来臨の輝きをもってそれを滅ぼされます。ですから、私たちはみことばの教えを正しく理解し、だれにも、また何にもだまされないようにしなければならないのです。

Ⅰ.目に見えて成長する信仰(3)

それでは、まず3節をご覧ください。

「3 兄弟たち。あなたがたのことについて、私たちはいつも神に感謝しなければなりません。そうするのが当然なのです。なぜならあなたがたの信仰が目に見えて成長し、あなたがたすべての間で、ひとりひとりに相互の愛が増し加わっているからです。」

パウロは、テサロニケ人の教会へあいさつを書き送ると、彼らに感謝しています。なぜなら、彼らの信仰が目に見えて成長し、彼らの間で、相互の愛が増し加わり、すべての迫害と患難に耐えながら、その忍耐と信仰とを保っていたからです。この信仰、愛、希望の三つはクリスチャンの特質であり、キリスト教信仰において尊ばれているものです。Ⅰコリント13章13節にも、「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」とあります。この信仰と希望と愛こそクリスチャンの基本的な特性であって、この三つの特性がそろっていないと健全な信仰の歩みをすることができません。けれども、このテサロニケのクリスチャンたちには、この三つの特性が備わっていたのです。

パウロはテサロニケの第一の手紙でも、彼らの信仰と愛と望みの忍耐についてふれました。1章3節です。奇しくもテサロニケの第二の手紙でも同じ1章3節で、そのことを思い起こして感謝しているのです。

まずここには、「あなたがたの信仰が目に見えて成長し」とあります。この「目に見えて成長し」という言葉は、原語のギリシャ語では「ヒュペラウクサネイ」という一語です。これは英語の「hyper」の語源になった言葉でもあります。「hyper」とは「超」という意味です。超えているということです。限界を超えています。よくハイパーレスキュー隊という言葉を耳にすることがありますが、ハイパーレスキュー隊というのは普通のレスキュー隊を超えている部隊のことです。普通のレスキュー隊では救助が困難な時に出動するのがハイパーレスキュー隊です。彼らは限界を超えて救助にあたるので「ハイパーレスキュー隊」と言われているのです。このテサロニケのクリスチャンたちの信仰は、まさにハイパーでした。限界を超えていました。彼らの信仰は限界を超えるほど目に見えて成長していたのです。その信仰に対してパウロは、感謝をささげずにはいられなかったのです。

思えば、パウロがテサロニケに滞在して伝道したのはたった三週間のことでした。そんなに短い期間であったにもかかわらず彼らの主イエスに対して信仰には、目を見張るものがありました。限界を超えるほどの強い信仰に成長していたのです。救われたばかりだからこそ燃えていたということもあったかもしれませんが、彼らの信仰はそのような一時的なものではありませんでした。それは、彼らが激しい迫害や患難にありながらも忍耐と信仰とを保っていたことからもわかります。

信仰とは、自分と神様とを結ぶパイプのようなものです。この信仰以外に神様と私たちを結ぶものはありません。この信仰によって私たちは、罪の赦しと永遠のいのちを受けました。すべての罪が赦され、いつも神が共にいてくださることを実感することができるようになりました。

また、信仰とは徹底的に神と主イエスに信頼することです。神が私たちに最も望んでおられることは、私たちが富や名誉を得ることではなく、神に信頼し、神を求めて生きることです。ですから聖書はこう言っているのです。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(へブル11:6)そして、テサロニケのクリスチャンたちは、この神に対する信仰と神に従う信仰、そして、主が再び来られる再臨信仰を持っていました。そのような彼らの信仰を、パウロはどれほど喜んだことでしょうか。それは目に見えて成長するほどの著しい成長を遂げていたのです。

皆さんの信仰はどうでしょうか?テサロニケのクリスチャンたちのように目に見えて成長していますか、それとも、そんなに急激にではなくとも、少しずつ、少しずつ成長しているでしょうか。目に見えるほどの著しい成長であっても、少しずつであっても、神が私たちに望んでおられることは、私たちの信仰が成長することです。Ⅱペテロ3章18節には、「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。」(Ⅱペテロ3:18)とあります。私たちも主イエスの恵みと知識において成長する者でありたいと願います。

Ⅱ.増し加わっている愛(3)

次に彼らの愛について見ていきましょう。3節のところでパウロはこのように言っています。「あなたがたすべての間で、ひとりひとりに相互の愛が増し加わっているからです。」

彼らは信仰において目ざましく成長していましたが、それは信仰ばかりでなく愛においても同じでした。彼らの間で、ひとりひとりに相互の愛が増し加わっていたのです。Ⅰテサロニケ3章12節を見ると、これはパウロの祈りの答えであったことがわかります。パウロはこう祈りました。

「また、私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。」神様は、このパウロの祈りに答えてくださり、その数か月後にパウロがこの第二の手紙を書いた頃には、彼ら相互の間には愛が増し加えられていたのです。

愛は、最大の徳です。たとい人があらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。また、たとい人が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与えても、愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は寛容であり、愛は親切です。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを耐え忍びます。いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。愛こそ私たち人間にとって最も必要なものなのです。ところが、この愛が現代の社会において最も欠けているものでもあります。

インドで苦しんでいる人々に愛の手を差し伸べたマザー・テレサが来日した際に、このように言いました。「私たち人間にとって最も本質的なことは、不幸な人々の面倒を見ることではなく、その人を愛することです。人にはパンへの飢えがあるように、愛とか親切な心、思いやりの心などに対する飢えがあります。この大きな飢えや欠乏のためにこそ、人々はこんなにも苦しんでいるのです。」

人間にとって愛こそ最も大切なものであるということは昔も今も変わらない真理なのです。そして、テサロニケのクリスチャンたちの間には、この愛が増し加わっていました。彼らは神の愛を実践していたのです。しかも彼らが置かれていた状況は迫害と患難という厳しい状況でしたが、そうした中にあっても彼らの間に愛が増し加わっていたということは、彼らがそれほど神に愛されていたという証拠でありますし、彼らが福音の本質をきちんと理解していたということですから、パウロがどれほど喜んだかわかりません。それは喜びを越えて感謝となり、神にささげたほどです。

Ⅲ.見上げた忍耐(4)

そればかりではありません。彼らには見上げた忍耐がありました。4節にはこうあります。「それゆえ私たちは、神の諸教会の間で、あなたがたがすべての迫害と患難とに耐えながらその従順と信仰とを保っていることを、誇りとしています。」

ここには「誇りとしています」とあります。何を誇りとしていたのかといいますと、彼らが迫害と患難に耐えながらも、従順と信仰とを保っていたことです。彼らはキリストを信じる信仰のゆえに外部の人々から迫害され、さまざまな苦難を受けたにもかかわらず、それでもひるむことがありませんでした。それはパウロが誇りとしたほどであり、まことに見上げたものだったのです。Ⅰテサロニケ1章6節には、「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。」とありますが、彼らはそのような苦難の中にあっても、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、みことばに従いました。それゆえに、この神のことばは、信じている彼らのうちに働いたのです。私たちの中にも神のみことばを聞くと初めは喜んで受け入れる人がいますが、困難や苦難に会うとすぐにつまずいてしまう人がいます。「こんなはずじゃなかった・・・」と。

イエス様は、種まきのたとえの中で岩地に落ちた種について教えられました。「20 また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。21 しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」(マタイ13:20-21)

岩地に蒔かれた種はすぐに芽を出すものの、太陽が上り、焼けてしまうと、根がないために枯れてしまうのです。根がないクリスチャンはすぐにつまずいてしまいます。いつもみことばに裏付けられ、それがどういうことなのかを悟る人は、困難や迫害が起こっても枯れることはありません。むしろ、それを肥やしにして、もっと大きく成長していくのです。

テサロニケのクリスチャンたちはそうでした。彼らは迫害と患難に耐えながらその従順と信仰を保っていたのです。この「従順」と訳されていることばには※がついていますが、下の脚注の説明を見ると、そこに「忍耐」とあります。これは忍耐のことです。彼らは迫害と患難に耐えることで忍耐を育んでいたのです。真の忍耐は本を読んだり忍耐についての講義を聞くことによって得られるものではなく、迫害と患難という体験を通して得られるものなのです。ですから、ローマ人への手紙5章2節から5節にこうあるのです。

「2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」

ここには、「患難が忍耐を生み出し」とあります。忍耐を生み出すのは患難なのです。それによって忍耐が生み出され、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すのです。この希望は失望に終わることはありません。この希望はイエス・キリストによってもたらされる永遠の栄光につながっていくからです。イエス・キリストが再臨されるときにもたらされる栄光です。これが本当の希望です。「目に見える望みは、望みではありません。」(ローマ8:24)「だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちには、忍耐をもって熱心に待ちます。」(ローマ8:24-25)イエス・キリストによってもたらされる栄光、イエス・キリストが再びおいでになられるとき、私たちの卑しいからだが栄光のからだによみがえり、雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うようになります。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいるようになるのです。これこそ本当の望みです。これは忍耐によってもたらされるのです。忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すのです。それゆえにヤコブはこう言ったのです。

「2 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。3 信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。4 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1:2-4)

「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」なぜなら、信仰が試されると忍耐が生じ、その忍耐を完全に働かせることによって、何一つかけたところのない、成長を遂げた、完全な人になることができるからです。まあ、口で言うのは簡単ですがいざこれを実践しようとすると、かなり大変であることがわかります。なかなかできないからつまずくのです。しかし、テサロニケのクリスチャンたちはこの希望のゆえに、忍耐と信仰を保っていました。彼らのこのような忍耐強さを知ったパウロは、どれほどうれしかったことでしょう。彼はここでこう言っています。「誇りとしています。」これ以上の称賛のことばはないでしょう。「誇りとしています。」そんなテサロニケのクリスチャンたちの信仰は、パウロの誇りでもあったのです。

あなたの信仰はどうでしょうか。試練や患難、苦難に会うとき、あなたはそれをどのように受け止めておられますか?日本のクリスチャンを評して、ある人がこう言いました。「一年目は熱心に働き、二年目には悩み、三年経つといなくなる」これでは残念です。これはまさに岩の上に蒔かれた種です。確かにいろいろな理由があると思いますが、それがどんな理由であるにせよ、どんなことがあっても主イエスから離れない信仰、主イエスにとどまっている信仰、いや、それを肥やしにして逆に強められていく信仰者にさせていただきたいと願うものです。私たちの信仰は筋肉のようなものなのです。ウエイトトレーニングとか、何らかの付加をかけ、それに耐えることによって筋肉が鍛えられるように、私たちの信仰も患難や試練、困難といった付加かがかかることによって鍛えられ、強くされていくのです。それは私たちの信仰が成長を遂げた完全なものとなるために、なくてはならないものでもあるのです。

ヤコブ5章11節に「見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。」とあります。

ヨブは、甚大な試練を受けました。それは、普通の人が耐え切れないような大きな試練でした。財産を奪われ、家族の命を一瞬のうちに取られたのです。そればかりか自分の健康も害し、妻からも見捨てられ、その友からも苦しめられました。ヨブは、大きな怒りを誰かにぶっつけたい気持ちだったでしょう。しかし、彼は忍耐し、神様に信頼したのです。その結果、どうなったでしょうか。最後に神は、以前にもまして彼を祝福してくださいました。ヨブの所有物を二倍にし、七人の息子と三人の娘を与えてくださいました。彼は老年を迎え、長寿を全うしました。神は彼のあとの半生を前の半生よりも祝福されたのです。このヨブの実例が指し示しているのは、再臨の主を待つ信仰者の忍耐です。主は必ず来られ、キリスト者の忍耐を祝福で締めくくってくださいます。だから、耐え忍んだ人は幸いなのです。心に染み渡る約束ではありませんか!最後まで望みを捨てずに、待ち続け、耐え続けましょう。テサロニケのクリスチャンたちの忍耐は、常に彼らが神を待ち望んでいたからこそ出来た忍耐だったのです。

新聖歌385番の作者ジョン・アーネスト・ボード(John Ernest Bode)は次のように歌いました。

「主よ 終わりまで仕えまつらん みそばはなれず おらせたまえ
世の戦いは はげしくとも 御旗のもとに おらせたまえ

主よ 今ここに 誓いをたて しもべとなりて 仕えまつる
世にあるかぎり このこころを つねにかわらず もたせたまえ

これは彼の3人のこどもが堅信礼を受ける時に作った詩だそうです。信仰を告白していよいよこれから神の聖徒として歩む自分のこどもたちが、その信仰をずっと持ち続け、終わりまで主に仕えていくことができるように、それは彼の祈りでもありました。四番の歌詞は「常に変わらずもたせたまえ」とあります。それは、常に変わらず支えてくださいという意味です。主よ、終わりまで、あなたのしもべとして、あなたに仕えることができますように。世のたたかいは激しくても、主よ、あなたの御旗のもとにおらせてください。この世にある限り、この心が常に変わることがないように支えてください。これを、私たち一人一人の祈りと決意としたいと思います。

創世記11章

きょうは、「バベルの塔」から一緒に学んでいきたいと思います。1節を見ると、「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。」あります。それがヘブル語であったのか、アラム語であったのかわかりませんが、全地は一つのことば、一つの話ことばしかありませんでした。このようにことばが一つであったということは、なによりも精神生活が一つであったということです。たとえ彼らの中に堕落している者たちがいたとしても、同じことばで、自分の思いと考えを伝えることができたわけです。

1.シヌアルの地に(1-2)

ところが、それが変わり始める出来事が起こります。2節をご覧ください。「そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。」とあります。このシヌアルの地というのは、10章8~10節にしるされてある世の権力者ニムロデの国にありました。ニムロデとは、ハムの子クシュの子どもです。クシュとはエチオピアのことですから、彼らの多くはエジプトへと移住した民族のことですが、このニムロデは違いました。彼は、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住したのです。これはどこかというと、バビロンのことです。その平野に定住したということは、彼らはそこに安心の根拠を得ようとしたからでしょう。ノアの箱舟以来、人々が拠り所としていたのは神のことばであったはずなのに、いつしか彼らはその神のことばではなく、そうした地理的優位さを安心の拠り所にするようになっていたのです。ですから、彼らは互いに次のように言ったのです。3~4節です。

2.名をあげようとした人たち(3-4)

「彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにレンガを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らはこう言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」

瀝青とはアスファルトのことです。彼らは石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いるようになりました。アスファルトを用いたり、塔を造ったりすること自体は問題ではありませんが、彼らはそれによって自分たちの名をあげようとしました。それが問題でした。人間はこうしたアスファルトのようなものを発見し用いたりすると、自分たちの手のわざを誇るようになり、もう神にでもなったかのように高ぶってしまうのです。「天にまで届く塔」とは、そういう意味でしょう。彼らは公然と神を無視し、神に対抗しようとしました。彼らは愚かにも自分たちの力、自分たちの手で、神のさばきを防げるとさえ思ったのです。

神がアダムとエバに、そして、ノアに与えた命令とはどんなことだったでしょうか。創世記1章28節、9章1-2には、「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地にあるすべてのものを支配せよ。」ということでした。神様は、人間が一箇所に集まって満足することだけを願っておられませんでした。神様は、そのように集まって互いに励まし合い、力をいただいたなら、今度はその人たちが地を満たすために出て行くことを願っておられたのです。神様は、彼らが一箇所に凝り固まって住んだら、すぐに神様とそのみこころを忘れてしまうということを知っておられたのです。案の定、彼らはこのシヌアルの地に定住し、そこで次々に文明の力を発見し、生活が便利になってきますと、いつしか自分たちの力を誇るようなってしまったのです。しかし、神様のみこころは何かというと、地を満たすことです。散らされることです。もし、福音を満たすために出て行こうとしないと、神様は別の方法でそのように導かれます。あの使徒の働きを見てください。神様のみこころは、エルサレムからユダヤ、サマリヤ、および地の果てまで主の証人になることでした。しかし、彼らはなかなか出ていこうとしませんでした。人はそこにとどまっていた方が安定感がありますから、わざわざ冒険してまで出て行こうとはしないのです。その結果、どんなことが起こったでしょうか。神様は迫害を与えました。なかなか重い腰をあげなかった彼らが、そうせずにはいられないように迫害を与えて散らされたのです。ピリポはサマリヤに、別の人たちはアンテオケまで進んでいきました。そして、そのアンテオケからパウロとバルナバが全世界に遣わされて行ったのです。

3年半前に東日本大地震で原発事故が起こりました。なぜあのような悲惨な出来事が起こったのでしょうか。わかりません。しかし、一つだけ言えることは、そのことによって散らされた人たちがキリストの証人として、遣わされたところで証するためではなかったのではないでしょうか。この時もシヌアルの平地で、アスファルトまで作って、れんがも作って、文明がどんどん発達し、生活も安定していく中で、人々はその中にとどまろう、とどまろうという傾向があったに違いありません。それ自体は問題ではないのですが、そのように内側に、内側にと凝り固まっていくうちに、彼らの考え方や思いも凝り固まってそこから出られなくなってしまっただけでなく、いつしか彼らは自分たちの手のわざを誇るようになり、神様を無視し、自らが神になったかのように高ぶっていたのです。それが問題でした。

3.ことばを混乱させた神(5-7)

すると神様はどうされたでしょうか?5-7節です。「そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」

バビロンの町と塔が、彼らの思惑通りに進捗していたとき、神は行動を開始されました。神はどんなことでも決して見逃される方ではありません。まさにそのとき、人間が建てた町と塔をご覧になられるために降りて来られました。それはこれまでのことを神様が知らなかったということではなく、それまでのすべてのことをご存知であられましたが、神の時が来るまで、待っておられたということです。

町はその面積を増し、塔はその高さを加えつつあり、人々が会心の笑みをもって眺めていたまさにそのとき、突如として神が仰せられました。彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」

一致団結するということは、人が何かをする場合とても大切なことですが、その団結が間違ったことのために用いられるとしたそれもまた悲惨なことです。彼らが一つの民、一つのことばで、精神生活が一つであったということはすばらしいことでしたが、それを用いて、神に反逆するとしたら、それほどひどいことはありません。ですから、神はそれができないように立ち上がられたのです。どのように?神様は降って行かれ、彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしたのです。「悪いけど、石を取ってくれる?」「何?」「石」「何?」「石だでば・・・」「もういい。」なんだか私たち夫婦の会話のようです。ことばが通じないというのは辛いところがあります。互いの考えがかみ合わず、行動もすれ違い、その中が大混乱するのです。当然、仕事のつじつまは合わなくなりますし、しまいには怒り出す始末です。そしてついには人間関係が分裂してしまうのです。だからコミュニケーションというのは、とても大切ですね。ことばが通じ合ってもコミュニケーションがうまくいかないと、互いの信頼関係にもひびが入ってきます。神様は、彼らのことばを混乱させたので、彼らは互いにことばが通じ合わないようになってしまったのです。

4.バベル(8-9)

その結果、どうなったでしょうか。8-9節です。「 こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」

彼らはその町を建てるのをやめ、そこから地の全面に散らされて行きました。それは、人間の力がどれほど偉大であっても、神様のさばきを防ぐことはできないということです。神の力はどんな人間の力よりもはるかにまさっているのです。人は事に失敗するまで、このことが本当にわからないのです。まさに霊的盲目です。いや、たとえ事に失敗しても、このことに気づく人は本当に少ないのです。たいていは、今までやっていたことを止めるだけで、そのことから本当の意味で悟ろうとはしません。人は神様によって霊のまなこを開いてもらうまでは、本当に盲目なのです。

それゆう、その町の名は「バベル」と呼ばれました。「バベル」とは、「神の門」という意味です。バビロンの人たちは、この塔を自分たちの手で天に届くように、自分たちの手で天国に行けるようにと名付けましたが、そうした人間の高慢さを見られた神は、彼らのことばを混乱させ、ヘブル語で「混乱する」という意味の「バベル」と呼ばれたのです。

このバベルの塔の話は、私たちに重要な教訓を与えてくれます。それは、人間が一つになるという問題についてです。人間は、しばしば一つにならなければならない必要に迫られます。そして一つになるために多くのことを考えます。また一つの同じ目的のもとに、同じ働きをすれば一つになれると考えますが、それは違います。それこそバベルの塔の建設にほかなりません。私たちが一つになれるのは聖霊によってであって、そうでなかったら必ず失敗するのです。人間的に一つになろうとしても、自己中心的な者たちが自分たちで一つになろうとしたら、そこには必ずほころびが生じます。しかし、キリストの十字架によって一つになっていくとき、そこに完全な一致と調和が生まれてくるのです。というのは、神が一つにされるからです。あのペンテコステの出来事はまさにそのことを物語っているのではないでしょうか。人間は、罪によって神にむ逆らい、人間関係の中に分裂が生じましたが、神様は、聖霊によってその分裂を一つにされたのです。一同が聖霊に満たされることによって、一つにされたのです。現代社会におけるイデオロギーを始めとしたあらゆる種類の対立も、聖霊によって一致する以外に真の解決の道はないのです。

5.生めよ。ふえよ。地に満ちよ。

次に10節と11節をご覧ください。ここには、「 これはセムの歴史である。セムは百歳のとき、すなわち大洪水の二年後にアルパクシャデを生んだ。セムはアルパクシャデを生んで後、五百年生き、息子、娘たちを生んだ。」とあります。

この系図を見てまず気がつくことは、5章に記されてある系図と比べてみると、5章の方にはそれぞれの人を「そして彼は死んだ」という悲しいことばで結んでいるのに対して、ここにはそのような「そして彼は死んだ」というようなことばは一切なく、「生んだ」ということばで終わっていることです。いったいこれはどういうことでしょうか?「生んだ」ということばから考えると、9章1節のところで洪水後のノアに対して神が、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。」と言われた神の祝福を思い出します。そうです。この「生んだ」という表現は、神の祝福を現しているわけです。そしてこれがバベルの塔の事件の後に記されてあるということは、バベルの人々が神に敵対し強制的に散らされて混乱に陥ったのと異なり、セムの子孫は、神の約束の通りに、そこには秩序があり、順調に増えていったことが現されているのです。あのバベルの時のように「頂きが天に届く塔を建て、名をあげよう」というように、神様よりも自分たちの考え、自分たちの思い、自分たちの手のわざを誇るようになると、そこには混乱が生じてまいりますが、セムの歴史に代表される信仰の道、神に従って生きる人生には、秩序と祝福が生まれるということです。

6.選ばれた者の系図(12~26)

それから14~20節までに注目してください。「シェラフは三十年生きて、エベルを生んだ。シェラフはエベルを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。エベルは、三十四年生きて、ペレグを生んだ。エベルはペレグを生んで後、四百三十年生き、息子、娘たちを生んだ。ペレグは三十年生きて、レウを生んだ。ペレグはレウを生んで後、二百九年生き、息子、娘たちを生んだ。レウは三十二年生きて、セレグを生んだ。」

ここにエベルが生まれます。「エベル」という名は「ヘブル」という語の起源になっている言葉です。すなわち、ここからヘブル人が出ました。しかもこの後10章の系図にはエベルにはペレグとヨクタンという子どもが生まれたことがわかりますが、この11章の系図にはヨクタンのことは記されておらず、ペレグの子レウへとつながっているのです。これはどういうことかというと、この系図は10章の系図とは違いセムからエベル、そしてアブラハムへとつながっていく系図を示しているからなのです。すなわち、神の選びがアダムからセツ、ノア、セム、ペレグ、そしてアブラハムに次第にせばめられている様子が描かれているのです。そして12章からの神の選民の歴史がはじまるアブラハムへとつながっていくわけです。ですから、ここではそのアブラハム以前の歴史がどうであったのかを、このセムから始まる系図の中に記していたのです。そして、この系図の中に私たちもまたいます。今の時代を生きる私たちはみな、選ばれた者の系図の終わりに記録されているのです。自分が救いの歴史の中にいると確信して歩めることは何と幸いなことでしょうか。単に目に見える現象にとらわれることなく、神の国全体の視点の中で生きることができるからです。

7.テラの歴史(27~32)

最後にテラの歴史を見ていきましょう。テラと言ってもお寺の歴史ではありません。27~32節です。セツから始まった系図はエベル、ペレグと続いてテラまで続きます。ここから12章のアブラハムの生涯が始まります。そういう意味ではこれは「アブラハムの歴史」なのに、ここには「テラの歴史」という表題がつけられているのはどうしてなのでしょうか?それはこのアブラハムがテラの子どもであり、彼の家族の中から選ばれた者であるということを描こうとしていたのです。アブラハムの生涯において重要なことは彼が最初から特別な家族の中にいたのではなく、異教的なテラの家庭の中からいて、その中から選ばれた者であるということです。それはヨシュア記24章2~節を見るとわかります。テラは他の神々に仕えていたのです。確かにウルとハランは月礼拝の中心地であったと言われています。テラたちはカナンに向かって移住したはずなのにハランに住み着いてしまったというのは、この偶像礼拝と関係があったからではないでしょうか。そうした中から神様はアブラハムを選ばれたのです。そして、やがて約束の地カナンへと導かれた。それがここで言われていることです。アブラハムの信仰の出発点は、こうした異教的な家庭にあったのです。

そういう意味では、私たちもまた最初からキリスト教の環境の中にあったのではなく、アブラハムと同じように偶像に縛られた異教的な背景の中から出た者です。そんな私たちが救われたのはただ神様の一方的な恵み、神様の選びによるものでしかありません。それが信仰の出発点なのです。そのことを覚えながら、そうした虚しい偶像の中から行ける神様に立ち返るようにしてくださった神の恵みに感謝して、神の示される道を歩む者でありたいと思います。

創世記10章

創世記10章には、「諸民族の起源」が記されてあります。それによると世界のすべての民族は、ノアの三人の息子セム・ハム・ヤペテから分かれ出ました。大洪水の時ノアの箱舟に乗ったのは、ノアとその妻、および彼らの息子セム・ハム・ヤペテとその妻たちの合計8人でした。ですから、現在の人類は、すべてノアの子孫であり、またすべての民族はセム、ハム、ヤペテの3人を先祖として、分かれ出たことになります。

1.ヤペテ(10:2-5)

まず取り上げられているのはヤペテです。兄弟の順序からすればセム、ヤペテ、ハムですからセムが取り上げられなければならないのですが、以後、セムの歴史が中心に記されていくので、その前にヤペテとハムの歴史をまず取り上げて、その後で中心のセムについて書き記すという書き方をしています。

「ヤペテ」という名前の意味は「広い」です。事実、ヤペテ系の民族はその名のとおり、非常に広い範囲に移り住みました。ヤペテから出た諸民族は、「白人」と呼ばれる欧米人やロシア人、ペルシャ人、インド人などになりまた。聖書によるとヤペテの子は、「ゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メシェク、ティラス」でした。まず「ゴメル」です。ゴメルの子孫は、「アシュケナズ、リファテ、トガルマ」(10:3)とあります。

「アシュケナズ」はおもに小アジア(今のトルコ)に移り住みましたが、さらに進んでヨーロッパに渡り、ドイツにも移り住んだようです。ユダヤ人はドイツ人を「アシュケナズ」という名で呼んできたのは、ここにその由来があるようです。

「リファテ」はパフレゴニヤ人、「トガルマ」はフルギヤ人のことです。(ヨセフスによると・・)今のアルメニア人の先祖です。彼らはいずれも小アジア(今のトルコ)に移り住みました。

次にヤペテの子「マゴグ」です。彼らはスキタイ人のことで、南ロシアの騎馬民族となりました。(ヨセフス「ユダヤ古代史1巻6:1)

ヤペテのもうひとりの子「マダイ」はメディア人のことです。彼らはメソポタミヤにメディア帝国を作り、のちに兄弟民族のペルシャ人と結託して、メディア・ペルシャ帝国を築き上げました。いわゆるアーリア人は、この「マダイ」の子孫です。アーリアの名は、メデア・ペルシャ帝国の人々が「アーリア人」と呼ばれたことから来ているのです。アーリア人はインド方面にも移り住み、インドの主要民族となりました。したがってインドの主要民族は、ヤペテ系です。

次に出てくるのは「ヤワン」です。「ヤワン」とは、ギリシャ人のことです。ギリシャは、ヘブル語で「ヤワン」なのです。ギリシャ人は自分たちのことを、イオニヤ人(ギリシャ語でイヤオ-ン)と呼んでいました。聖書にはヤワンの子は、「エリシャ、タルシシュ、キティム人、ドダニム人」(10:4)とあります。「エリシャ」はおそらくギリシャや、地中海のキプロス島に渡った人たちです。「タルシシュは、スペインに移り住んだ人たちです。スペインには、「タルテッソ」という港があります。(ヨナ1:3)キティム人は、キプロスに渡り、そこを占領した民族です。(ヨセフス、「ユダヤ古代史」1巻6:1)「ドニダム人は、おそらく北方ギリシャ人、タセルダネア人、ドーリア人、またはエーゲ海東のローデア人のことです。

次は「トバル」です。彼らは旧ソ連の中にあるグルジヤ共和国あたりに移り住みました。グルジヤ共和国の首都トビリシは、この「トバル」に由来しています。

ヤペテの子「メシェク」は、モスコイ人のことで、(ヘロドトス「歴史」3:94)旧ソ連のロシア共和国付近に移り住んだ民族です。モスクワの名は、この「メシェク」に由来しています。ヤペテの子「ティラス」は、エーゲ海周辺に移り住んだエトラシア人です。

このようにヤペテの子孫は、おもにヨーロッパ、ロシア方面に移り住み、インドにも移り住みました。ですからヤペテ系民族は、いわゆる「インド・ヨーロッパ語族」の人々と、ほぼ同じか、ほとんど重なるものです。

一般に言われている「インド・ヨーロッパ語族」というのは、

〔西方系〕スラブ系=ロシア人・ポーランド人・ユーゴスラビア人・ブルガリア人等 チュートン(ゲルマン)系=イギリス人・オランダ人・ドイツ人・ノルマン人 ラテン系=イタリア人・フランス人・スペイン人・ポルトガル人 ギリシャ系=ギリシャ人

〔東方系〕インド人(アーリア人)・イラン人(メデア・ペルシャ人)です。これまで見てきたことからを考えると、大まかに言って、スラブ系は、マゴグ・トバル・メシェク・ゴメル チュートン系(ゲルマン系)は、マダイ・ゴメル ラテン系・ギリシャ系は、ヤワン 東方系は、マダイの子孫ということになるでしょう。ヤペテ系の人々の肌は、大体において白色から、黄色かかったうすい褐色をしています。

2.ハムの子孫(6-20)

次にハムの子孫について見ていきましょう。10章6節には、「ハムの子孫はクシュ、ミツライム、プテ、カナン。」とあります。はじめに「クシュ」は、旧約聖書の古代訳であるアレキサンドリヤ・ギリシャ語訳では「エチオピア」です。この「クシュ」から、アフリカ大陸に住んだヌビア民族が生まれ出ました。クシュの子孫のひとり「セバ」(10:7)、エチエピアの町メロイの旧名でもあります。(ヨセフス「ユダヤ古代史」第二巻10:2)

次に、ハムの子「ミツライム」からは、エジプト人が出ました。ミツライムの子孫「パテロス人」(同10:13)などは、今日のエジプトに定住した民族です。同じくミツライムの子孫「レハビム」(10:13)は、アフリカ大陸の北部のリビアあたりに定住しました。(同ヨセフス)

次にハムの子「プテ」も、アフリカ北西岸リビア地方に移り住みました。ハムの子孫の多くは、アフリカ大陸に広がったのです。彼らはアフリカ北部から次第に南下して、やがてアフリカ全土に広がったのでしょう。

したがって、いわゆるニグロイド(黒人)はハムの子孫ということになります。しかしハムの子孫のすべてが、アフリカ大陸に移り住んだというわけではありません。また、ハムの子孫のすべてが黒人というわけでもないのです。

ここにハムの子クシュの子孫に「サブタ」(10:7)という人がいますが、彼はアラビア半島の南端のハドラマウトというところに定住しました。同じく「ラマ」は、ハドラマウト北方に住んだランマニテ人のことです。

またクシュの子孫「サブテカ」(10:7)は、ペルシャ湾東側の都サムダケを建設した民族であり、「シェバ」は、アラビア半島南西部のマリブを都とする商業国の建設者、「テダン」は、北方アラビア人となった人々です。ハムの子孫の中には、アラビア半島に移り住んだ人々もいました。またハムの子「クシュ」の子孫の中から「ニムロデ」という人物も出ました。彼はメソポタミヤ地方に強大な王国をつくり、地上最初の権力者となりました。 ニムロデの王国は、「シヌアルの地」(10:10)にありました。歴史学のうえで有名なシュメール地方(メソポタミヤ)のことです。彼は都市国家バベル、エレク、アカデ(アッカド)を征服して支配しました。ニムロデの名はその後も伝説的に語り継がれ、のちに神格化されて、バビロンの守護神メロダク(マルズク)として崇められました。有名なハムラビ王(B.C.2000年頃)の時代には、世界最高の神として祭られました。

このようにハム系の民族の中には、メソポタミヤ地方や、アラビア半島方面に広がった人々もいました。さらに次に見るように、パレスチナ地方に移り住んだ人たちもいました。ハムの子ミツライムの子孫「カスルヒム人」は、ペリシテ人の先祖で(10:14)、「バレスチナ」という名は、彼ら「ペリシテ」の名に由来するものです。彼らは、イスラエル人とたびたび戦闘を交えたので、旧約聖書にもよく出てきます。

またハムの子「カナン」から出た民族のほとんども、パレスチナ地方から小アジア地方(今のトルコ共和国)に移り住みました。たとえば、カナンの子孫の「シドン人」(10:15)は、フェニキヤ人となった人々です。フェニキヤ地方(今日のシリア)には、今もシドンという町があります。カナン人の子孫「ヘテ人」は、ハッティ人のことです。彼らはのちに他民族、おそらくヤペテ系民族に征服され、いわゆるヒッタイト王国の住民となりました。 カナンの子孫「エブス人」は(10:16)、エルサレムの先住民族であり、「エモリ人」(10:16)は、スリヤ(今日のシリヤ)に移り住んだ民族です。ヒビ人は、パレスチナに移り住みました。 またカナンの子孫「アルキ人」(10:17)は、レバノン山麓テル・アルカ近辺の住民、「アルワデ人」(10:17)は都市国家アルワデの住人、「ツェマリ人」(10:18)は都市国家ズムラの住人、「ハマテ人」(10:18)は都市国家ハマテの住人と言われています。彼らはいずれも、パレスチナ、レバノン、シリヤあたのり町々の住人となったのです。

結論としてハムの子孫は、アフリカ大陸や、アラビア半島、メソポタミヤ、パレスチナ、シリヤ、小アジア(今のトルコ)の地域に移り住みました。古代史に名だたるエジプト帝国、フェニキア人、またフェニキア人の植民都市カルタゴなどはみな、ハム系です。ハム系の人々の肌の色は、大体において黒色から、黄色かかったうすい褐色まであります。

ニューギニア人、フィリピン原住民、マライ半島(マレーシア原住民)、オーストラリア原住民、そのほか「東南アジア・ニグロイド」とか「オセアニア・ニグロイド」と言われる人々も、ハム系の血が濃いのではないかと思われます。つまりハム系の人々は、かなり東の方まで進出し、東南アジアや、ニューギニヤ、オーストラリア方面にも移り住んだようです。「ハム」という名前の意味は「暑い」という意味で、実際に彼らは、おもに暑い地方に移り住んだようです。

3.セムから出た民族(21-31)

10:22には、セムの子孫は、「エラム、アシュル、アルパクシャデ、ルデ、アラム」とあります。はじめに三番目のアルパクシャデから見ていきましょう。10:24によると、彼の孫に「エベル」という人物が出てきますが、この「エベル」は、「ヘブル人」の先祖です。(11:14)すなわち、「エベル」から、イスラエル人とかユダヤ人と呼ばれる人々が出たのです。またねこのアルパクシャデの子孫の中には、「シェレフ」や「ハツァルマベテ」「ウザル」といった人たちが出ていることがわかります。「シェレフ」は、アラビア南部に定住した民族です。

「ハツァルマベテ」は、今日のアラビア半島南端の、ハドラマウト地方に定住した民族です。名前が似ているのは、この地方に移り住んだのが彼らだったからです。「ウザル」、アラビア半島に移り住みました。イエメンあたりに移り住みました。イエメンの首都サヌアの旧名は「ウザル」であって、これは彼らの先祖の名に由来するものです。このようにセムの子「アルパクシャデ」からは、ヘブル人以外にも、アラビア半島に住む諸民族が出たわけです。

セムの他の子についてはどうでしょうか。セムの子「エラム」は、メソポタミヤの北部(今のシリヤ)付近に定住した民族です。有名な「アッシリア」の名は、彼らに由来しています。しかし、歴史学の上で言ういわゆる「アッシリア帝国」がセム系だったかというと、そうではありません。アッシリア帝国の支配階級となった人々は、ハムの子カナンの子孫であるエモリ人だったからです。彼らはアッシリア一帯を征服し、そこの支配者となりました。

セムの子「ルデ」は「リディア人」(リュディア人)のことで、やはりメソポタミヤに住みました。リディアは、B.C.七~六世紀頃には強国となりました。またセムの子「アラム」も、メソポタミヤやスリヤ(今のシリヤ)地方に定住しました。彼らの言葉「アラム語」は、紀元前一千年頃には全メソポタミヤ地方に広まり、アッシリア帝国やペルシャ帝国の公用語になりました。イエスや弟子たちも、アラム語を話しました。考古学者の意見によると、紀元前7世紀に新バビロニア帝国(聖書でいうバビロン帝国)を建てた「カルデヤ人」は、今のところアラムの一派と思われています。そうであれば、新バビロニア帝国はセム系であったということになりますが、一方ではハム系であるという意見もあり、はっきりしていないところがあります。

いずれにせよ、このようにハムからは、ヘブル人やアラビア人、そのほか、中近東に住む人々が出ました。ただし、これは今日、中近東に住む人々がみなセムの子孫である、ということではありません。今日、中近東にはセムの子孫以外にもハムの子孫やヤペテの子孫なども住んでいます。ここで述べているのは、おもにセムの子孫は中近東に移り住んだということです。

民数記8章

民数記8章を学びます。まず1節から4節までをご覧ください。

1.燭台のともしび(1-4)

「1 はモーセに告げて仰せられた。2 「アロンに告げて言え。あなたがともしび皿を上げるときは、七つのともしび皿が燭台の前を照らすようにしなさい。」3 アロンはそのようにした。がモーセに命じられたとおりに、前に向けて燭台のともしび皿を、取りつけた。4 燭台の作り方は次のとおりであった。それは金の打ち物で、その台座から花弁に至るまで打ち物であった。がモーセに示された型のとおりに、この燭台は作られていた。」

主はモーセに、アロンに告げて言うようにと命じられました。七つのともしび皿が燭台の前を照らすように・・と。それでアロンは、主がモーセに命じられたとおりに、前に向けて燭台のともしび皿を、取りつけました。至聖所には神の臨在の栄光の輝きがありますが、聖所は真っ暗でした。この燭台のともし火によって中が明るくなります。主はこのようにして聖所の中に光があることを望まれました。それにしても、いったいなぜ急に燭台のともしびの話が出てくるのでしょうか。少し不思議な感じがします。しかし、その後の箇所を読むと、その意味が明らかになります。

2.レビ人のきよめ(5-13)

それでは次に5節から26節までを見ていきましょう。

「5 ついではモーセに告げて仰せられた。6 「レビ人をイスラエル人の中から取って、彼らをきよめよ。7 あなたは次のようにして彼らをきよめなければならない。罪のきよめの水を彼らに振りかける。彼らは全身にかみそりを当て、その衣服を洗い、身をきよめ、8 若い雄牛と油を混ぜた小麦粉の穀物のささげ物を取る。あなたも別の若い雄牛を罪のためのいけにえとして取らなければならない。9 あなたはレビ人を会見の天幕の前に近づかせ、イスラエル人の全会衆を集め、10 レビ人をの前に進ませる。イスラエル人はその手をレビ人の上に置く。11 アロンはレビ人を、イスラエル人からの奉献物としての前にささげる。これは彼らがの奉仕をするためである。12 レビ人は、その手を雄牛の頭の上に置き、レビ人の罪を贖うために、一頭の罪のためのいけにえとし、一頭を全焼のいけにえとしてにささげなければならない。13 あなたはレビ人をアロンとその子らの前に立たせ、彼らを奉献物としてにささげる。」

主は、レビ人を幕屋の奉仕を行なうためにささげるように、命じられます。聖所における奉仕は、アロンとその子孫が祭司として任命を受け、祭司たちが行ないます。また祭壇における奉仕も祭司が行ないます。しかしながら、彼らだけでは人数が足りなくてすべての務めを執り行なうことができません。そこで、主は、幕屋の中で奉仕するために、レビ人を取るように命じられています。

レビ人は、まず水によるきよめを受けなければいけません。どのようにきよめるのかが7節以降に記されてあります。まず罪のきよめの水をモーセがレビ人に振りかけます。そして、レビ人は全身の毛をそって、衣服を洗います。レビ人の奉献式は水の洗いから始まるのです。このことは、クリスチャンがどのようにきよめられるのかを教えています。クリスチャンは、イスラエル人のようにささげ物をするだけではなく、レビ人のように自分自身をささげる者ですが(ローマ12:1)、そのときに必要なのが、きよめるということです。クリスチャンはどうやってきよめられるのでしょうか?Ⅰヨハネ1章9節には、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」とあります。私たちをきよめるのは御子イエスの血です。そして、そのようにイエスの血によってきよめられた者は、イエスの御姿に変えられていくために、神のみことばによってきよめられるのです。しかし、ここで注意しなければならないのは、多くのクリスチャンが自分をきよめるということを、自分の内側を見つめて、自分の肉と罪深さを探っていくことであると考え、自分は汚れた者で、主のわざを行なっていく資格はない、奉仕するような資格はない、と思ってしまうのですが、それは誤ったきよめです。主のきよめはそのようにして行われるのではなく、ただキリストの血と聖霊の恵みによって成されていくものなのです。

それが燭台の表していたことだったのです。ここで1節から4節までのところに記されてあった燭台のともしびが生きてきます。このレビ人のきよめの儀式の前に、燭台のともしびを整えるようにとの命令がありました。いったいなぜそんなことが必要なのでしょうか。あまりにも唐突な感じがしないわけでもありません。しかし、実はそれはこのレビ人のきよめの土台、前提であったということです。つまり、燭台のともしびこそ、イエス・キリストと聖霊を表すものだったのです。ヨハネ8章12節には、「イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」とあります。またゼカリヤ書4章をみると、ともしび皿の油は主の御霊である聖霊のことを指していることがわかります。御霊がキリストの栄光を照らし出し、私たち(教会)の心を明るくされるのです。この燭台の光があるからこその、水の洗いがあるのです。この順番が大切です。私たちが自分をきよめるということは、自分の考えで自分自身の内側を見つめるということではなく、聖霊によってキリストの光を照らしていただくことなのです。それによって私たちはきよめられるのです。ゼカリヤ書に「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と書かれてあるとおりです。私たちの働きは、教会の働きは、私たちの能力や力によって行われるのではなく、ただ神の力によって成されていくものなのです。燭台であられるキリストと、油であられるご聖霊の働きことが、レビ人のきよめに必要なものであり、その前提、土台にあるものなのです。

「あなたはレビ人を会見の天幕の前に近づかせ、イスラエル人の全会衆を集め、レビ人を主の前に進ませる。イスラエル人はその手をレビ人の上に置く。アロンはレビ人を、イスラエル人からの奉献物として主の前にささげる。これは彼らが主の奉仕をするためである。」(9-11)

モーセがレビ人を会見の天幕の前に近づかせると、イスラエルの全会衆を集め、レビ人の上にイスラエル人が手を置きます。これはどういうことかというと、レビ人がイスラエル全会衆を代表であったということです。イスラエルの代表として、その働きをゆだねられていたということです。それはレビ人だけのことではなく、イスラエル人のすべてもいっしょに奉仕をしていることを意味していました。つまり、イスラエル人は今、レビ人を自分たちのものとして、主の前にささげているのです。レビ人は、その手を雄牛の頭の上に置き、レビ人の罪を贖うために、一頭を罪のためのいけにえとし、一頭を全焼のいけにえとして主にささげます。このようにしてレビ人を奉献物として主にささげたのです。

3.レビ人の奉仕(14-22)

「14 あなたがレビ人をイスラエル人のうちから分けるなら、レビ人はわたしのものとなる。15 こうして後、レビ人は会見の天幕の奉仕をすることができる。あなたは彼らをきよめ、彼らを奉献物としてささげなければならない。16 彼らはイスラエル人のうちから正式にわたしのものとなったからである。すべてのイスラエル人のうちで、最初に生まれた初子の代わりに、わたしは彼らをわたしのものとして取ったのである。17 イスラエル人のうちでは、人でも家畜でも、すべての初子はわたしのものだからである。エジプトの地で、わたしがすべての初子を打ち殺した日に、わたしは彼らを聖別してわたしのものとした。18 わたしはイスラエル人のうちのすべての初子の代わりにレビ人を取った。19 わたしはイスラエル人のうちからレビ人をアロンとその子らに正式にあてがい、会見の天幕でイスラエル人の奉仕をし、イスラエル人のために贖いをするようにした。それは、イスラエル人が聖所に近づいて、彼らにわざわいが及ぶことのないためである。20 モーセとアロンとイスラエル人の全会衆は、すべてがレビ人についてモーセに命じられたところに従って、レビ人に対して行った。イスラエル人はそのとおりに彼らに行った。21 レビ人は罪の身をきよめ、その衣服を洗った。そうしてアロンは彼らを奉献物としての前にささげた。22 こうして後、レビ人は会見の天幕に入って、アロンとその子らの前で自分たちの奉仕をした。人々はがレビ人についてモーセに命じられたとおりに、レビ人に行った。」

このようにしてレビ人は主の奉仕に就くことができました。彼らはイスラエル人のうちから正式に主のものとなったからです。すべてのイスラエル人のうちで、最初に生まれた初子の代わりに、主は彼らをご自身のものとして取られました。イスラエル人のうちでは、人でも家畜でも、すべての初子は主のものです。エジプトの地で、主がすべての初子を打ち殺した日に、主は彼らを聖別してご自身のものとされました。主はそのイスラエル人のうちのすべての初子の代わりにレビ人を取ったのです。

それで主はイスラエル人のうちからレビ人をアロンとその子らに正式にあてがい、会見の天幕で奉仕ができるようになりました。ですから主の奉仕をするときに必要なことは、「私は主のものである。」という確信です。主が私をここにおいてくださり、主が私のことを握っておられるという確信なのです。私たちが奉仕をしていると、主が自分のことを気にしておられるのか、遠くから見ておられるだけではないのか、という気持ちになることがありますが、主はともにいてくださいます。そして、私は主のものとされているのです。この確信が必要なのです。モーセとアロンとイスラエル人の全会衆は、すべて主がレビ人についてモーセに命じられたところに従って、レビ人に対して行ないました。

4.レビ人の奉仕(23-26)

「ついで主はモーセに告げて仰せられた。「これはレビ人に関することである。二十五歳以上の者は会見の天幕の奉仕の務めを果たさなければならない。」

4章3節には、会見の天幕で務めにつき、仕事をすることができるのは30歳以上50歳までの男子であると言われていますが、ここでは25歳以上となっているのは、おそらくインターンの期間も含めてのことでしょう。インターンとして5年間奉仕し、30歳から50歳までフルに仕えるように定められていたのです。Ⅰテモテ3章には監督の資質が書かれてありますが、そこには「信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。」(3:6)とあります。25歳からでも奉仕できますが、実際にはよく経験を積んで30歳から奉仕するようになっていたのです。また、50歳からは奉仕の務めから退き、もう奉仕してはいけませんでした。その人はただ、会見の天幕で、自分の同族の者が任務を果たすのを助けることはできましたが、自分で奉仕することはできませんでした。50歳以上の人は、サポートする側、監督をする側に回り、実際の奉仕をすることはなかったのです。

Ⅰテサロニケ5:19~28

きょうは、テサロニケ第一の手紙からの最後のメッセージです。前回までのところでパウロは、主の再臨に備えた者の生き方として、いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。と勧めてきました。これが、キリスト・イエスにあって神が私たちに望んでおられることです。そして、その続きがきょうの箇所です。特に、この手紙の最後にあるパウロの結びのことばが心に響きます。「私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように。」いったい、キリストの恵みがあふれる生活とはどのようなものなのでしょうか。きょうはこのことについて三つのポイントでお話したいと思います。

Ⅰ.御霊を消してはなりません(19-22)

まず19節から22節までのところをご覧ください。「19 御霊を消してはなりません。20 預言をないがしろにしてはいけません。21 しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。22 悪はどんな悪でも避けなさい。」

ここには、「御霊を消してはなりません」とあります。どういうことでしょうか?御霊とは神の御霊である聖霊のことです。この聖霊を消してはならないというのです。御霊を消すということは聖霊を否定することです。Ⅰコリント12章1節から3節をご覧ください。

「1 さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが、私はあなたがたに、ぜひ次のことを知っていていただきたいのです。2 ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像の所でした。3 ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。」

神の聖霊によらなければ、だれも「イエスは主」と告白することはできません。私たちがイエスを主と告白することができるのは、この聖霊の促しと導きによるのです。イエス様を信じたくても聖霊の導きがなければそのように告白することはできません。しかし、聖霊がそのように促しているにもかかわらずそれを拒むことがあるとしたら、それは聖霊を否定することになります。御霊を消してしまうことになるのです。

またⅠコリント12章4節から7節のところも見たいと思います。ここには、「4 さて、賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。5 奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。6 働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。7 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。」あります。

ここでは御霊の賜物について語られています。御霊の賜物にはいろいろな種類があります。たとえば、知恵のことばとか、知識のことは、信仰、いやし、奇跡を行う力、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力などです。いったい何のためにこれらの賜物が与えられているのでしょうか?それは、みなの益のためです。そのような賜物が用いられることによって神の教会、キリストのからだである教会が建て上げられていくのです。みなが同じではありません。みんな違います。しかし、その違った賜物が与えられてこそ教会は建て上げられていくのです。それなのに、そうした賜物を否定することがあるとしたらどうなってしまうでしょうか。それはちょうど目が「耳ではないからからだに属さない」と言っているようなものです。だとしたら、いったいどこで見るというのでしょうか?鼻で見るんですか、それとも耳でしょうか。鼻や耳で見ることはできません。目で見るのです。目はからだの中でなくてはならない大切な器官なのです。それと同じように、私たち一人一人もキリストのからだを構成している器官なのです。一つのからだには多くの器官があるように、教会にもいろいろな賜物があります。その賜物を否定してはいけないのです。もし否定することがあるとしたら、それは御霊を否定することであり、キリストのからだを弱くしてしまうことになるのです。

しかし、パウロはこうした賜物の中でも預言をないがしろにしてはいけないと言っています。預言とは言葉を預かると書くように、未来のことを予め語ることも含めた神の言葉を預かり、それを語ることです。なぜ預言をないがしろにしてはならないのでしょうか。なぜなら、異言は自分の徳を高めますが、預言は教会の徳を高めるからです。それは必ず教会を養い育てます。だから預言をないがしろにしてはいけないのです。

パウロはこのことをⅠコリント14章1節のところでこう言っています。、「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」とあります。愛が一番です。なぜなら、愛はすべてを結ぶ帯だからです。たとい人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がなければ、何の値打ちもありません。愛が一番すぐれているものです。こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛なのです。そして次は何でしょうか。次は預言です。御霊の賜物の中でも、特に預言することを熱心に求めなければなりません。神のことばをひたすら求めなければならないのです。なぜなら、神の言葉が私たちを養い育て、教会を建て上げるからです。

また預言だからといってもやみくもに信じてはいけません。それが本当に神からのものであるかどうかを十分に吟味しなければなりません。これは有名な先生が言ったことだからとか、これは有名な先生の本に書いてあったことだからといって、鵜呑みにしてはいけないのです。ここには、「しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。」とあります。

この「見分ける」ということばは「吟味する」とか「検証する」ということです。元々は金属を試すことから出たことばです。それが本当に良いものであるかどうかをテストしました。そのように、それが本当に神から発せられたものなのかどうかを十分に吟味し、それが本物であるならば、たとえ自分の感情がどうであっても、喜んで従わなければならないのです。

使徒の働き17章11節には、ベレヤという町のユダヤ人のことが紹介されていますが、彼らはパウロが語ったことをよく調べました。「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」彼らはパウロが語ったからといってそれを鵜呑みにすることをせず、はたしてそのとおりかどうかを吟味するために毎日聖書を調べたのです。そのため、彼らのうちの多くの者たちが信仰に入りました。毎日聖書を調べるくらいの努力をしたら、何が本物であるかがわかるでしょう。この時代にはまだ新約聖書はなく旧約聖書しかなかったので、彼らは旧約聖書をもって吟味しましたが、今の時代は旧約聖書に加えて新約聖書もあります。この聖書をもって調べるのです。そうすれば教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることはないはずです。

テサロニケのクリスチャンは本当に純粋で、パウロを通して語られた神のみことばを、多くの苦難の中でも、聖霊による喜びをもって受け入れました。その結果、彼らは主にならう者となり、その信仰はすべての信者の模範となりました。それはマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、あらゆる所に伝わっていったほどです。しかし、そうした純粋な人たちだからこそ注意しなければならなかったことは、それを鵜呑みにしてはいけないということでした。Ⅰヨハネ4章1節には、「霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものであるかどうかを、ためしなさい。」とあります。彼らに求められていたことはためすこと、吟味することだったのです。はたしてそれがほんとうに神からのものなのかどうかを検証して、見分けなければならなかったのです。あまり理屈っぽくなるのも問題ですが、信仰はこうした幼子のように純粋に受け入れるという面と、それがほんとうに神からのものなのかどうかを見分けるといった面の両面の作業が求められます。なぜなら、22節にも「悪はどんな悪でも避けなさい」とありますが、それが神に喜ばれ信仰への確かな道だからです。

Ⅱ.神は真実ですから(23-24)

次に23節と24節をご覧ください。ここには、「23 平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。24 あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」とあります。

原文には、「平和の神ご自身が」の前に「de」という言葉があります。「de」というのは「しかし」という意味です。「しかし、平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいます。」これは22節の言葉に続いています。「悪はどんな悪でも避けなさい。」無理です。そんなことできるはずがありません。こんなに汚れた者がすべての悪を避けるなんてとてもできません。「しかし」です。悪を避けることは自分の力ではできないかもしれませんが、しかし、平和の神ご自身があなたを助けてくださいます。あなたを全く聖なる者としてくださるのです。主イエス・キリストの再臨のとき、責められるところがないように、あなたの霊、たましい、からだを完全に守ってくださいます。ですから、神を信じてくださいというのです。

ここには、「あなたがたの霊、たましい、からだ」とあります。これは私たちの全領域においてという意味です。私たちは肉体だけの存在ではありません。私たちは霊、たましい、からだという三つの部分が一つになった統一体なのです。全人的な存在です。立派な家に住み、何一つ足りないものがない生活をしているのに、何だか虚しい。ポッカリ穴が開いたような感じがするのはなぜでしょうか。それは霊が死んでいるからです。私たち人間は神によって造られましたが、どのようにして造られたのかというと、「神のかたち」にとあります。この「神のかたち」というのは肉体のことではありません。これは「霊」のことです。なぜなら、神は霊だからです。この霊をもって神と交わり、神に祈り、神をほめたたえる者として造られました。そのとき私たちの霊は満たされ、生きる喜びが与えられます。しかし、人類最初の人であったアダムが神の命令に背き、取ってはならないと命じられていた木から取って食べてしまったので、神との関係が断絶してしまいました。聖書ではこれを罪と言っています。意味は「的外れ」です。的を外した状態になってしまったのです。本来なら神を愛し、神とともに生きるはずの者が、自分中心に生きるようになってしまいました。その結果、霊が死んでしまったのです。しかし、私たちが幸せになるためには、私たちのからだやたましいだけでなく、霊も健やかでなければなりません。なぜなら、私たちはそのように造られているからです。私たちは霊とたましいとからだが統一されて造られているのです。ですから、この三つの領域が完全に守られることによって、平和で、幸せな人生を送ることができるのです。

動物には霊がありません。霊があるのは人間だけです。動物にあるのはたましいとからだだけです。たましいというのは、感情の部分、情緒的な部分のことです。知・情・意の部分です。動物を見ていると喜んだり、悲しんだりしているのがわかります。私はフェレットを飼っていますが、毎朝エサをあげに行くと、私の顔を見るなりそわそわし始めます。ケージに前足をかけ、からだを大きく伸ばして、「早く出してけれ」みたいなことを言います。その表情をみるとわかるのです。かつてコロという犬を飼っていましたが、この犬も喜びを爆発させていました。私の姿を見るだけでしっぽをふって喜びを表現するのです。しかし、知らない人が近寄るとうなったり、吠えたりします。犬は飼い主には忠実ですね。飼い主がいれば喜び、いないと悲しみます。それは犬にもたましいがあるからです。でも犬には霊はありません。霊は人間だけに備わったものだからです。皆さんの中で犬が祈っているのを見たことのある人がいますか?いないでしょう。犬は祈りませぬ。それは人間だけが持っているものだからです。

それなのに、人間が祈れなかったどうなるでしょうか?もう生ける屍でしかありません。どんなにエステに行ってきれいになっても、どんなにジムに行ってからだを鍛えても、どんなに仕事をがんばって大金持ちになっても、生きる力、生きる喜びがありません。人間にとって一番大きな喜びは、神が共にいることだからです。これを永遠のいのちと言います。死んでも生きるいのち、復活のいのち、天国に導き入れられるいのちを持つこと、それが最高の喜びだからです。

皆さん、医学界の最大の発見は何だか知っていますか?それは、クロロフォルム(麻酔薬)の発見だと言われています。これは、ジェームズ・シンプソンによって発見されました。この麻酔薬が発見されたことによって、痛みをあまり感じることなく、手術が受けられるようになりました。歯を抜くときにも、麻酔薬のおかげで、痛みを感じることなく抜けるので本当に助かります。 ある時、この麻酔薬を発見したジェームズ・シンプソンが新聞記者から、「あなたの人生の最大の発見は何ですか?」という質問を受けました。新聞記者が期待していた答えは、彼の口から、「クロロフォルムの発見です」ということでしたが、シンプソン、そのようには答えませんでした。彼は「私の人生の最大の発見は、イエス・キリストを通して与えられた永遠のいのちです。」と答えたのです。麻酔薬という偉大な発見をしたシンプソンであっても、人生最大の発見は、イエス・キリストを通して与えられる永遠のいのちだったのです。

人はみな、いつかは必ず死にます。死亡率は100%です。しかし、イエス・キリストを救い主として信じるなら、死んだ後も、天の御国に入り、永遠に生き続けるのです。この永遠のいのちこそ、私たち人類にもたらされた最高の発見なのです。イエス・キリストを信じるなら、神があなたの霊、たましい、からだを完全に守ってくださるのです。

24節を見てください。それは神が真実な方だからです。その根拠はあなたにあるのではなく、神にあります。あなたがたを召された方は真実な方ですから、きっとこのことをしてくださいます。あなたにできなくても、あなたが失敗しても、あなたがするのではありません。あなたを召してくださった神がしてくださいます。そのことを信じてほしいと思います。栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられるのはあなたの働きではなく、御霊なる主の働きです。イエスによって救われた人は、イエスによってずっと救われ続けます。救ってくださった方にその責任があるからです。神が私たちを救ってくださったのですから、それが完成する日まで、イエスが再臨するその時まで守ってくださいます。だからとって、イエスに丸投げするわけではなく、私たちの側にも責任があって、私たちも神に自分をゆだねなければなりませんが、そうするなら、神が喜ばれるような者に創り変えてくださいます。あなたは神が望まれる者に変えられているでしょうか。いつも喜んでいるでしょうか。絶えず祈っていますか。すべてのことについて感謝していますか。もしそうでなければ、あなたは神が望まれる者になっていません。でも、神はあなたをそのような者に変えてくださいます。それは御霊なる主の働きによるのです。そう信じて、おそれないで、あなた自身を神に明け渡していただきたいと思います。

Ⅲ.すべての兄弟たちに(25-28)

最後に、25節から終わりまでを見て終わります。25節には、「兄弟たち。私たちのためにも祈ってください。」とあります。パウロが救われたばかりのベイビークリスチャンたちに祈ってくださいとお願いしています。教会の創立者が、生まれたばかりのクリスチャンに、私のためにも祈ってほしいと言っているのです。ほんとうにへりくだった人です。へりくだっていなければこのように言えことはできません。あなたのために祈ってやります、あなたのためにしてやります、聞いてやります、となるのですが、パウロは、私のためにも祈ってほしいと、頭を下げているのです。それだけ牧師には祈りが必要であるということです。私のためにも祈ってほしいと思います。それは私が成功するためではなく、私が神の国の建設のために用いられ、神の栄光があがめられるためにです。

26節、27節には、「すべての兄弟たちに」が強調されています。「すべての兄弟たちに、聖なる口づけをもってあいさつしなさい。この手紙がすべての兄弟たちに読まれるように、主によって命じます。」

ただのあいさつではありません。聖なる口づけをもってするあいさつです。聖なる口づけの「聖なる」という言葉は「フィレマー」というギリシャが使われています。「フィレマー」とは兄弟愛を目に見える形で表してという意味です。そういうあいさつをしなさいというのです。この世でしているようなありきたりの、表面的であたりさわりのない、形だけのものではなく、心からの、相手のことをおもんぱかりのあいさつをしなさいというのです。

「ハレルヤ!お元気ですか?先日はお体の具合がよくなかったと聞いていましたが、その後いかがですか?毎日のお仕事の中で信仰を守るのは大変なことでしょう。どのようにしておられるんですか?神の聖霊が兄弟を守ってくださるように祈っています。」というふうに。

教会に行ったけどだれからも声をかけられなかったとか、だれも親切にしてくれなかったということがないように、回りの人たちのことを気にかけたいあいさつされなかったとか、だれもいうことがないように、できるだけ回りにおられる方々のことを気遣いたいですね。日本人はどちらかというとどこかよそよそしいところがあって、自分から声をかけるというのが苦手なことがありますが、私たちはイエス様を信じた時から自分捨てました。今、私がこの世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。だから、イエス様が望んでおられるように、イエス様が願っておられるように生きていきたいと思います。だからそのようにするのです。聖なる口づけをもってあいさつしなさいとあるように、「あなたにお会いできてうれしい」「あなたのために祈っています」ということを、目に見える形で表したいものです。そしてそのためには、いつも兄弟姉妹に関心を持って祈っていることが大切です。

27節の「すべての兄弟たち」は、この手紙がすべての兄弟たちに読まれるように、とあります。これは主の命令です。主の命令によって、私たちにもこの手紙が読まれました。これがすべての兄弟たちに読まれるようにしなければなりません。他の兄弟たちにもです。すべての人に対してです。なぜなら、この手紙が読まれるとき、私たちの主イエス・キリストの恵みが、あふれるようになるからです。主の日が近づいています。主イエスが再び来られるそのとき、主にあって眠った人たちは、すなわち、主イエスを信じた人たちは、朽ちないからだ、栄光のからだによみがえり、雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うようになります。そのようにして、私たちはいつまでも主とともにいるようになるのです。それが私たちの救いが完成です。この希望は失望に終わることがありません。これは失望に終わらない希望、究極の希望の言葉なのです。これが私たちの慰めとなります。ですから、私たちはこのことばをもって互いに慰め合わなければなりません。この手紙がすべての兄弟たちに読まれるようにしなければならないのです。そしてここに希望を置き、私たちの主イエス・キリストの恵みにあふれた人たちがもっともっと起こされるようにと祈る者でありたいと思います。イエス・キリストの恵みが、あながたとともにありますように。

民数記7章

きょうは民数記の7章から学びます。まず1節から9節までをお読みします。

1.ささげ物(1-9)

「1 モーセは幕屋を建て終わった日に、これに油をそそいで、聖別した。そのすべての器具と、祭壇およびそのすべての用具もそうした。彼がそれらに、油をそそいで聖別したとき、2 イスラエルの族長たち、すなわち彼らの父祖の家のかしらたち―彼らは部族の長たちで、登録を担当した者―がささげ物をした。3 彼らはささげ物をの前に持って来た。それはおおいのある車六両と雄牛十二頭で、族長ふたりにつき車一両、ひとりにつき牛一頭であった。彼らはこれを幕屋の前に連れて来た。4 するとはモーセに告げて仰せられた。5 「会見の天幕の奉仕に使うために彼らからこれらを受け取り、レビ人にそれぞれの奉仕に応じて渡せ。」6 そこでモーセは車と雄牛とを受け取り、それをレビ人に与えた。7 車二両と雄牛四頭をゲルション族にその奉仕に応じて与え、8 車四両と雄牛八頭をメラリ族に、祭司アロンの子イタマルの監督のもとにある彼らの奉仕に応じて与えた。9 しかしケハテ族には何も与えなかった。彼らの聖なるものにかかわる奉仕は、肩に負わなければならないからである。」

1節を見ると、「モーセは幕屋を建て終った日に」とあります。モーセが幕屋を建て終ったのは、イスラエルがエジプトを出てから二年目の、第一月の一日のことです。出エジプト記40章17節にそう記録されてあります。それから一か月間、主はモーセを呼び寄せ、会見の天幕から、彼に告げて仰せられました。それがレビ記の内容です。そして、その後で神はモーセに人口調査をするように命じられました。それが民数記の最初に記されてあることです。それは彼らがエジプトを出て二年目の第二の月の一日のことです。それなのにここでは「モーセが幕屋を建て終った日に」話がさかのぼっています。いったいなぜでしょうか?おそらく二つの理由があったと考えられます。

第一のことは、モーセは幕屋を完成させました。幕屋については、すべての必要が揃ったのです。しかし、これからイスラエルが約束の地に向かって進んでいく上で、何か足りないものを感じたのです。それは、イスラエルが旅をするときの運搬用具です。旅をするときには、幕屋を分解して運ばなければなりません。それを運ぶトラックが必要だったのです。そこで彼らは、必要な車とそれを引っ張る牛をささげます。それが7章に記されてある内容です。ですから、幕屋は完成して聖別したけれども、これから旅立つにあたって、今度はそれを運ぶトラックが必要になったことを、ここで振り返って記録しているのです。

それからもう一つの理由は、この7章はささげものについて記録されていると申し上げましたが、そのささげものについて記す前に、奉仕について記す前に、それに先行することがあったということです。それは何でしょうか?それは神の恵みであり、神の祝福です。6章の最後のところには、アロンによる神の祝福のことばが述べられていました。これはものすごい祝福です。それはイスラエルが何かをしたからではありません。彼らはただ自分を主にささげたので、主は彼らを祝福してくださいました。彼らが何かをしたから祝福されたのではなく、神が一方的に祝福したのです。これが神の祝福です。神は私たちが奉仕をしたから、献金をしたから祝福してくださるのではなく、その前に一方的に祝福してくださる方なのです。つまり、私たちの奉仕やささげものの前に神の恵みが先行するということです。そうした神の愛や恵み、祝福があるからそれに応答してささげる。それが私たちの奉仕であって、その逆ではないのです。ですから、ここに一か月さかのぼってイスラエルのささげ物について記されているのだと思います。

それでは2節から9節までをご覧ください。イスラエルの族長たち、すなわち彼らの父祖の家のかしらたちがささげ物をしました。それはおおいのある車六両と雄牛十二頭で、族長ふたりにつき車一両、ひとりにつき牛一頭でした。族長二人で車1台ですから、車は全部で6台、族長一人につき牛一頭ですから12頭になります。それを幕屋の前に連れてきました。すると主はモーセに告げて仰せられました。「会見の天幕の奉仕に使うために彼らからこれらを受け取り、レビ人にそれぞれの奉仕に応じて渡せ。」(5)そこでモーセは車と雄牛とを受け取り、それをレビ人に与えました。

レビ族には三つの氏族がいました。ゲルション族、メラリ族、ケハテ族です。まずゲルション族には車2両と雄牛4頭です。車は全部で6両、雄牛は全部で12頭ありましたので、それを三つに分ければ車2両と雄牛4頭というのは妥当な数です。しかし、メラリ族はそうではありませんでした。メラリ族には車4両と雄牛8頭です。つまり残りの車と雄牛がすべてメラリ族に与えられました。ということは、残りはゼロです。ですから、ケハテ族には何も与えられませんでした。これはいったいどういうことでしょうか? 私たちはこういう記事を読むと不公平ではないかと感じます。ある人たちはいいものをたくさん受けているのに自分たちはそうではないということに不公平感を抱きやすいのです。特に格差社会が広がっているような日本の社会においてはその傾向があります。しかし、これは本当に不公平なのでしょうか?

ここで鍵になる言葉は「奉仕に応じて」(5,7,8,)という言葉です。これは奉仕に応じて与えられたのです。民数記4章を見ると、彼らの奉仕が割り当てられていたかがわかります。まずゲルション族は幕屋の幕、会見の天幕とそのおおい、その上にかけるじゅごんの皮のおおい、会見の天幕の入り口の垂れ幕、・・およびこれらに関するすべての奉仕」でした(4:25,26)。それはかなりの重量がありました。ですから、人力で運ぶのは大変です。彼らの奉仕には車2両と牛4頭が必要だったのです。そしてメラリ族はというと、幕でおおうところの板、柱、釘、台座などを運ぶように任命されました(29-33)。彼らは幕屋の板や横木、台座といった重いものから釘1本、ひも1本に至る小さな奉仕に至るまで行いました。ですから、もっと人手が必要でしたし、当然、車や牛といった運搬用具も必要だったのです。それではケハテ族はどうだったのでしょうか。ケハテ族に割り当てられていた奉仕は最も聖なるものにかかわることであって、聖所のすべての器具を運ぶというものでした(4:15)。それに触れてもいけませんでした。それに触れて死ぬといけないからです。ですから、それにかつぎ棒を通し、肩にかついで運ばなければならなかったのです。

Ⅱサムエル6章には、これとは違った方法で運んだ結果、神の怒りに触れて死んだ人の事件が記されてあります。そうです、ウザです。彼はダビデの命令によってユダのバアラから自分の町に神の箱を運び入れようとしました。それで彼らは、神の箱を、新しい車に載せて、アビナダブの家から運び出したのです。しかし、ナコンの打ち場まで来たとき、牛がそれをひっくり返そうとしたので、ウザが手を伸ばして、神の箱を押さえました。それで主の怒りがウザに向かって燃え上がり、彼はそのかたわらで死んだのです。この事件での問題は何だったのでしょうか。それはこの民数記に書いてあるような方法によって運ばなかったことです。それは肩にかついで運ばなければなりませんでした。箱に触れて死なないためです。それなのに彼らはそれを新しい車に載せて運ぼうとしました。それが問題だったのです。

ですから、ケハテ族には車も牛も必要ありませんでした。幕屋の燭台以外はかつぎ棒を通して、肩にかついで運んだからです。それでは不公平ではないですかと思われるかもしれません。ゲルション族やメラリ族には車も牛も与えられたのに、ケハテ族には何も与えられなかったのですから・・・。しかし、そうではありません。彼らはそれを肩にかつぐことが許されていたのです。栄光の主に密着するかのようにして奉仕することができました。主の臨在をもとも近く感じることができたのです。それは何よりも特別な奉仕でした。そんなすばらしい特権は他にはありません。車、牛によってではなく、聖なるものに密着しながら歩めたのです。それは不公平どころかむしろ人もうらやむようなすばらしい恵みだったのです。

このところから教えられことは、私たちクリスチャンにとっての幸いは何かということです。私たちにとっての幸いはそうした物質やお金といったものではなく、主ご自身と共に歩むことです。マタイの福音書8章20節のところでイエス様は、「きつねには穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」と言いました。これがイエス様の生き方でした。イエス様は物質に振り回されるような生き方ではなく、神と親密な関係を求めてシンプルに生きられたのです。時としてそうした物が、お金が、神との親密な交わりを阻害することがあります。車や牛が与えられていてもいなくも、それを感謝して受け止める信仰が求められるのです。

2.祭壇奉献(10-11)

次に10節と11節をご覧ください。

「10 祭壇に油が注がれる日に、族長たちは祭壇奉献のためのささげ物をささげた、族長たちが自分たちのささげ物を祭壇の前にささげたとき、11 はモーセに言われた。「族長たちは一日にひとりずつの割りで、祭壇奉献のための彼らのささげ物をささげなければならない。」

幕屋が完成し祭壇に油が注がれる日に、族長たちは祭壇奉献のためのささげ物をささげました。それは12節から終わりのところまでに記されていることですが、それは運搬用具の車や牛だけではありませんでした。彼らは祭壇における奉仕のために必要なものをささげました。11節を見ると、族長たちは一日にひとりずつの割りで、部族ごとにささげるようにと命じられました。なぜ一度に急いで持ってくるようにと言わなかったのでしょうか?それは主が私たちのささげ物をしっかりと受け止めておられるからです。丁寧に、一日一日という間隔を空けて持って凝らせることによって、それを噛み締めるかのようにして受け取られたのです。私たちは効率主義の社会の中で動いていますが、そこでは一つの成果をあげるために、私たちの仕事がまるで機械のねじのように扱われています。しかし、神の方法は違います。「わたしの弟子だということで、この小さい物たちのひとりに、水いっぱいでも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」(マタイ10:42)。とあるように、私たちの一つ一つの小さな奉仕が、一滴のしずくのように感じるものでも、主はそれをしっかりと心に留めておられ、それにしたがって報いをお与えになられるのです。その一つ一つの奉仕を覚えるためです。

3.平等にささげる(12-89)

では、それぞれの部族はどのようにささげたのでしょうか。12節から終わりまでを見てください。ここには、各部族の長たちが何をささげたのかが記されてあります。第一にささげ物をささげたのは、ユダ部族のアミナダブの子ナフションです。そのささげ物は、銀の皿一つ、銀の鉢一つ、これらには穀物のささげ物として油を混ぜた小麦粉がいっぱい入れてありました。また香を満たした金のひしゃく、全焼のいけにえとして雄牛一頭、雄羊一頭、一歳の雄の子羊一頭、罪のためのいけにえとして雄山羊一頭、和解のいけにえとして雄牛二頭、雄羊五頭、雄山羊五頭、一歳の雄の子羊五頭です。そして、それが各部族が一日ずつ、順番に持ってくることが記されてあるのです。

このところを呼んで非常に驚くことは、それぞれの部族が携えてくるささげ物は、すべて同じものであるのにもかかわらず、いちいち繰り返してささげ物の内容が記されていることです。この章は、聖書の中で2番目に長い章であり89節もあります。一番長いのは詩篇119篇ですが、詩篇119篇にはみことばに関するさまざまな事について書かれてあり、私たちの魂を潤わせる内容となっていますが、この章は、ただささげ物の内容が12回繰り返されているだけです。いったいなぜ同じことが12回も繰り返して書かれてあるのでしょうか?いくつかの理由が考えられます。

第一に、主はささげることを大切にしておられるということです。主は、それぞれのささげ物を記録として残しておかれたいと願われたほど、彼らのささげ物に目を留めておられたのです。一日ごとに、それぞれのささげ物が省略されることなく列挙されています。神の目ではどんなに小さなささげものであっても、しっかりと記録されているのです。

第二のことは、各部族はそれぞれ人数が異なるのに、同じささげ物がささげられていることに注目してください。成年男子の人数は、ユダ部族が最も多くマナセ族がもっとも少ないのですが、それでもまったく同じささげものがささげられています。つまり、主の前にあって、どの部族がより多くの注目を集め、他の部族がそれほど注目に値しないということではなく、主の前では、どの部族も覚えられ、主に栄光が帰せられているのです。こうして平等となり、調和が保たれているのです。これは旧約のイスラエルの時代だけでなく、新約の時代も、あるいは今の時代にも適用できる原則でもあります。それが十分の一の原則です。十分の一とは何でしょうか。それは私たちに与えられている財産のすべては神のものであるという信仰の表明として、それを十分の一ささげることによって表したのです。新約の時代に生きる者としてこんな律法に縛られる必要はないと考える人がいますが、これは律法が制定される前にすでにあった神の原則です。創世記14章20節を見ると、アブラハムはサレムの王メルキデゼクに戦利品の十分の一をささげたとあります。それは律法が制定される以前の話です。神は私たちがどれだけささげたかということではなく、どのような割合でささげたのかをご覧になられます。レプタ銅貨2枚をささげたやもめには、彼女は他のだれよりも多くささげたと称賛しました。多く集めた人も少なく集めた人も余ることがなく、また足りないことがないように、神は十分の一という原則を定めてささげることを願っておられるのです。

 

パウロはこう言っています。「今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。こうして、平等になるのです。多く集めた物も余るところがなく、少し集めた物も足りないところがなかった」と書いてあるとおりです。」(Ⅱコリント8:14)

 

私たちも自分に与えられたものは神のものであって、それを神に喜んでお返しするために、いやいやながらではなく、強いられてでもなく、心に決めたとおりに、喜んで主にささげるものでありたいと思います。主は喜んでささげ人を愛してくださるのです。