Ⅰテサロニケ5章16~18節「神が望んでおられること」

きょうは、Ⅰテサロニケ5章16節から18節までの短い箇所から、「神が望んでおられること」というテーマでお話したいと思います。

Ⅰ.いつも喜んでいなさい(16)

まず、「いつも喜んでいなさい」です。これは「パントケカイレテ」というギリシャ語1語で、聖書の中で最も短い節になっています。日本語の聖書の訳で最も短い節はルカ20章30節の「次男も」という節ですが、ギリシャ語では、この「いつも喜んでいなさい」「パントケカイレテ」です。ちなみに英語の聖書で一番短い箇所は、ヨハネ10章35節の “Jesus wept.”です。訳によって長さも違いますが、原文のギリシャ語ではこの「パントケカイレテ」、「いつも喜んでいなさい」が一番短い節です。これは最も短い節ですが、この中には大切なことが語られているのではないでしょうか。

「いつも喜んでいなさい」と言われても、できません。無理です。うれしいことがあったり、楽しいことがあったら喜ぶことができますが、嫌なことがあったり、苦しいことがあったときに喜ぶことなどできません。しかし、神の命令は「いつも喜んでいなさい」です。うれしい時には喜びなさいというのではなく、いつも喜んでいなさいというのです。いったいどうしたらそんなことができるのでしょうか。

その鍵は18節にあります。「キリスト・イエスにあって」です。私たちの力ではいつも喜んでいることはできませんが、キリスト・イエスにあるならばできるのです。自分の力で喜ぼうとしてもできません。自分の殻に閉じこもっていたのでは無理なのです。というのは、私たちの人生には喜べないと思うようなことがたくさんあるからです。いやむしろ、そういうことの方が多いのではないでしょうか。あなたから喜びを奪ってしまう出来事がたくさんあるのです。しかし、そうした中にあってももしあなたが自分の考えや思いにとらわれることなく、キリスト・イエスにあるならできるのです。

パウロは、ピリピ4章4節で「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」と言っています。なぜ彼はこのように言うことができたのでしょうか。彼はこの時獄中にいました。ある程度の自由は許されていましたが、それでも24時間監視されながら生活することは相当のプレッシァーがあったと思います。そうした中にあっても彼は喜びに満ち溢れていました。それは「主にあって」です。彼の置かれていた状況を見たら、決して喜ぶことなどできなかったでしょう。しかし、彼は主にあって喜ぶことができたのです。

では「キリスト・イエスにあって」とか「主にあって」とはどういうことでしょうか。それはイエス様があなたのために十字架にかかって死んでくださったその恵みにあってということです。ヘブル12章2、3節を開いてください。ここにはこうあります。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」

ここでへブル人の手紙の著者は、罪人たちのこのような犯行を忍ばれたイエス様ことを考えなさい。それはあなたがたの心に元気が与えられ、疲れ果ててしまわないためです、と言っています。そうすれば、むしろ感謝になります。こんな私のためにイエス様が身代わりとなって十字架で死んでくださった。私の罪はイエス様によって全部赦されました。これは恵みです。感謝なことです。このイエス様の恵みを思えばということなのです。イエス様はご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともされませんでした。イエス様はあなたのために喜んで命を捨ててくださったのです。このイエスの恵みにあるならです。私たちはこのイエスにあって罪の赦し、永遠のいのち、神の豊かな恵みを受けたのです。神が私たちとともにいてくださるのです。私たちの人生にとって最もすばらしい祝福は神がともにおられるということです。これこそ、何にも代えがたい喜びです。私たちはイエス様を信じたことによってこの恵みを受けているのです。であれば、この世のものは「ちりあくた」にすぎません。どうでもいいことなのです。私たちはイエス・キリストにあって最もすばらしい恵みと祝福をいただいているのですから、この世で遭遇する様々な問題や苦しみは、取るに足りないことなのです。私たちはこのキリスト・イエスにあっていつも喜んでいることができるのです。

私が卒業した神学校の校長であったマクダニエル先生が、今年の夏、天国に帰られました。この先生の口癖は「よ・ろ・こ・べ!」でした。いつも「よ・ろ・こ・べ」と号令をかけました。もう65歳を過ぎて、体もヨボヨボなのに、奥様の健康も思わしくないと聞いていました。神学校の運営でも相当のご苦労もあったことでしょう。でもいつも「よ・ろ・こ・べ」なのです。なぜ先生はそう言っていたのか。それはこの「キリスト・イエスにあって」だったのです。人間的はいつも喜んでいることはできないことですが、「主にあって」「キリスト・イエスにあって」できるのです。

皆さんいかがですか。皆さんはいつも喜んでおられるでしょうか。喜ぼうと思ったら顔を引きつったりして・・。もし皆さんが喜びたいならイエス・キリストを見なければなりません。自分を見たら決して喜ぶことなどできないからです。人生には嫌なことや苦しいこと、辛いことの方が多いのですから。たまに喜ぶことができても、そんな喜びはすぐに吹っ飛んでしまうでしょう。しかし、もしあなたがイエスを見るなら、いつも喜んでいることができます。どうぞこのイエスを見てください。このイエスを見て、喜び、楽しもうではありませんか。

ダビデはこう言いました。「8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:8-11)ダビデはいつも彼の目の前に主を置きました。主が彼の右におられたので、彼の心はゆらぐことはありませんでした。それゆえ、彼の心は喜び、彼のたましいは楽しんだのです。彼がいつも喜ぶことができたのは、彼がいつも彼の前に主を置いたからなのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの心は喜んでいますか。あなたのたましいは楽しんでいますか。あなたは自分の思いでは喜ぶことなどできません。ただあなたの前に主を置くことによってのみ喜びにあふれるのです。それはキリスト・イエスにあってのみ可能なことなのです。このイエスから目を離してはいけません。いつもイエスに目を留めて、イエスがあなたのためにどんなすばらしいことをしてくださったのかを思い巡らさなければならないのです。そうすれば、あなたもいつも喜んでいることができます。

Ⅱ.絶えず祈りなさい(17)

神が願っておられる第二のことは、絶えず祈りなさいということです。絶えず祈るとはどういうことでしょうか?朝から晩までずっと祈っていることでしょうか?24時間何もしないで、四六時中ずっと祈っているということでしょうか?そんなの無理です。仕事もしなければなりませんし、勉強もしなければなりません。家族のこともしなければなりません。やらなければならないこともたくさんあるのに、いつも祈っていることなどできません。無理です。ましてそんな体力もありませんし・・。できるはずがありません。そう思われるかもしれません。もしあなたが絶えず祈るということをそのような理解しているとしたら、それ不可能なことでしょう。しかし、この「絶えず祈りなさい」というのはそういうことではないのです。

この、「絶えず祈りなさい」という原語のギリシァ語は、「隙間なく」という意味です。この「隙間なく」という言葉は、古代ローマにおいては、例えば「しつこい咳に苦しめられている人」を表現する時に使われました。ちょうど今インフルエンザの流行が始まって、あちこちで咳をしている人がいます。もし皆さんがいつも咳に苦しめられているとしたらどうでしょうか。いつも咳のことばかり考えるようになってしまうのではないでしょうか。「どうしたのかな、喉がイライラする、風邪でも引いたのかな。他の人にうつさないようにしなければならない。会議の時に咳き込んでいたらヤバイなぁ・・」とか。ですから、しつこい咳に苦しめられている人は、いつもそのことを意識するようになります。その状態を表しているのです。つまり「絶えず祈りなさい」というのは一秒も休まず祈り続けなさいという意味ではなく、主の臨在を常に意識していなさいということなのです。もちろん、主と親しく交わるためには特別に時間を取って祈ることも重要ですが、しかし、思わず祈りを込めて発する言葉や祈り心から出る神への思いも、それと同じくらい重要なのです。それは私たちが常に神様を意識して歩んでいる証しだからです。

たとえば、車を運転中、教会員のだれかを見かけたとしましょう。それは主がそのように行き合わせてくださったのですから、その人のために即座に祈るのです。「神様、今あの人を見ました。随分急いでいるようでしたが、どうか事故などに遭うことがないように守ってください」とか、「あの人の今日一日が祝福されますように」「あの人の生活を通して神の栄光が現されますように」と祈るのです。それはとっさの祈りです。思わず祈りを込めて発しているにすぎません。しかし、それはいつも主の臨在を意識していなければできないことです。

あるいは、あなたが家でテレビを観ていたとしましょう。すると気になるニュースがあったとします。それで心を痛め、心が騒ぐというようなことがあったとしたら、そのために祈るのです。心の中でも、声に出しても・・・。このように絶えず祈るというのは、私たちのあらゆる出来事の中で反射的に祈ることなのです。それはいつも主を意識していなければできないことなのです。

私は家で食事をしている時、家内がよく「きょうはあの人のために祈っていた」とか、「あのことのために祈っていた」ということを聞くことがありますが、本当に驚きます。毎日忙しくて、あまり時間がないのに、よく祈れるなぁと思うのですが、それはこの祈りです。特別に時間をとってその場にひれ伏し、目をつぶって何時間も祈るということではなく、もちろんそういう時間も重要ですが、日々の生活の中の瞬間、瞬間に祈る祈りなのです。それはいつも主を意識し主の臨在の中にいなければできないことです。

ピリピ4章6節には、「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」とあります。私たちの心に心配や思い煩いがあるとき、私たちは即座にすべての思いを祈りに変えなければなりません。あらゆる場合に感謝をもってささげる祈りと願いによって、私たちの心を神に知っていただかなければならないのです。そのためにパウロは、コロサイの信者にも「目を覚まして、感謝を持って、たゆみなく祈りなさい。」(コロサイ4:2)と言っています。またエペソのクリスチャンには、「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。」(エペソ6:18)と勧めています。

日々の歩みの中で不安や恐れ、心配や憤り、怒り、悩み、苦しみに遭うとき、それらに対する私たちの最初の反応は祈りであるべきなのです。祈りを欠くとき、私たちは神の恵みに頼る代わりに、自分自身に頼るようになります。絶えず祈るということは、要するに、いつも神に信頼し、神と交わることなのです。

Ⅲ.すべてのことについて感謝しなさい(18)

神が私たちに望んでおられる三つ目のことは、すべてのことについて感謝することです。「すべてのことについて感謝しなさい」という言葉を聞くとき、人は次の二つの誤解を起こしやすいのです。一つは、感謝は神様が下さる良いものに対してのみするものだという考えです。そのため、成功したり、健康であったり、祝福があったり、財産が増えたり、素敵なプレゼントをいただいた時といった、うれしいこと、うまくいった時だけ感謝すればいいという考えです。

もう一つの間違いは、感謝は感謝の思いが溢れてきた時だけ感謝すればいいという考えです。しかし、パウロは「すべてのことについて感謝しなさい」と言いました。これはすべてのこと、どんな状況でも、どんな成り行きになっても、すなわちうれしい時でも、悲しい時にも、失敗した時でも、さらには苦しみに直面している時でもです。すべてのことについて感謝しなさいという意味です。いったいどうしたらこのように感謝することができるのでしょうか。

ここで鍵になるのも18節にある「キリスト・イエスにあって」という言葉です。自分の力ではとても感謝することなどできません。しかし、キリスト・イエスにあるなら感謝することができます。キリスト・イエスにあるなら、すべてのことについて感謝することができるのです。災害に見舞われても、病気になっても、愛する人と死別するようなことがあっても、思うように事が進まなくてがっかりすることがあっても、この世を治めておられる神様の視点で物事を見るなら、どんな状況でも、感謝することができるのです。

ジョン・クゥアン師が書いた「一生感謝365日」という本の中に、すべての感謝の基本ということで、次のように書いてあります。「幸せは持っているものに比例するのではなく、感謝に比例する。自分の人生のすべてのことを感謝だと感じられれば、それに比例して幸せも大きくなる。ではどのように感謝することができるだろうか。お金をたくさん稼ぐこと、持っている不動産の値段が何倍にも跳ね上がったこと、商売がうまくいくこと、良い学校に合格したこと、就職したこと、進級したことなどはすべて感謝の対象となる。しかし聖書は、このような感謝はだれにでもできる感謝だと言っている。では、私たちがささげることのできる感謝とは何か。「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によってやすらぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」(ゼパニヤ3:17)イエス・キリストを送ってくださったことにより、死から永遠のいのちに移されたことよりも尊く、価値のある贈り物が他にあるだろうか。だからこそ私たちは、イエスの十字架を見上げて感謝しなければならない。これがすべての感謝の基本であり、始まりである。」

これがキリスト・イエスにあってということです。私たちはイエスにあってこのようなすばらしい救いを受けているのです。ですから、たとえこの地上で悲しいことや苦しいことがあっても、そうした目の前の出来事に押し潰されず、その先にある望みを見て喜び、感謝することができるのです。

先ほど、この手紙を書いたパウロが獄中にあっても喜んだということを紹介しましたが、彼の人生は苦難の連続でした。その宣教においては、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついには死さえも覚悟したとあります。そればかりか、彼は肉体に一つのとげを与えられ、それを去らせてくださいと三度も主に願ったにもかかわらず、取り去られることはありませんでした。人生を呪えと言われて呪うことかできる人がいるとしたら、このパウロとヨブの他にいたでしょうか。それほどの苦しみを味わったのです。そのパウロが「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」と言うことができたのは、彼がこのすばらしい宝を見出していたからなのです。

「11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:11-13) これがパウロの喜び、パウロの感謝の秘訣だったのです。私たちは、私たちを強くしてくださる方によってどんなことでもできるのです。わたしたちに永遠のいのちを与えてくださった神の恵みがあれば、すべてのことについて感謝することができるのです。

新聖歌252番の「やすけさは川のごとく」を書いたスパフォード(HORATIO G.SPAFORD)は、絶望的な状況でも、神の前で喜び、賛美し、感謝した人です。弁護士であり、法医学の教授であった彼は、ムーディーが赴任していたシカゴの教会の執事でした。しかし、シカゴ大火災で全財産を失い、妻と四人の娘たちがヨーロッパに行くために乗った船が衝突事故を起こし、娘たち全員が亡くなってしまいました。生き残った妻に会い行く途中、彼はこの讃美歌「やすけさは川のごとく」と作り、歌いながら感謝をささげたと言われています。

「安けさは川のごとく 心 浸す時、悲しみは波のごとく わが胸、満たす時、すべて安し、み神 共に いませば」「見よ わが罪は十字架に 釘付けられたり、 この安き この喜び誰も損ない得じ」

世界を信仰の目で見上げることができるなら、そこに変化が起こります。神様の力がどれほど大きいか、神様が自分をどれほど愛してくださっているかを知るなら、私たちは神様に感謝をせずにはいられません。信仰の目が感謝を生み出すからです。

皆さんはいかがですか。今、皆さんには不平や不満があるでしょうか。それならこう祈ってください。「神様。不平を言わないよう、私に信仰の目を与えてください。わたしに言葉や出来事を通して、神様の考えと思いを表してくださり、いつでも感謝があふれるようにしてください。」

「愛の原子爆弾」と呼ばれたソン・ヤンウォンという牧師は、それ以前に「感謝の水素爆弾」でした。彼は二人の息子の葬式の時でさえ感謝し、多くの人々を驚かせました。どれほど大きな恵みと悟りを得れば、息子の死を前に感謝できるのでしょうか。普段から感謝できない人が、ある日大きな感謝をささげることはできません。普段小さなことに感謝する人だけが、困難な時に感謝をささげることができるのです。このソン牧師は本当に感謝の人でした。彼の感謝に関する説教には、こう書いてあります。「水を飲みながら感謝せよ。息をしながら感謝せよ。太陽の光を下さる恵みに感謝せよ。土地が与えられている恵みに感謝せよ。死に至る罪から救われた恵みに感謝せよ。今までいのちが与えられている恵みに感謝せよ。永遠のいのちの国を保証されていることに感謝せよ。」

彼の感謝を読むと、神様はすでに私たちに必要なすべてのものを与えて満たしてくださっているということがわかります。水、空気、太陽、大地などはすべて私たちに必要不可欠なものですが、私たちの努力では決して得ることはできません。これらは神様が最初から与えてくださっている贈り物なのです。このように神様は、私たちの肉体に必要なもの、霊的に必要なもののすべてを満たしてくださっています。だから私たちは、与えられている祝福を数えて感謝すればいいのです。感謝は祝福を受ける器です。感謝の器を広げる時、すべてのことが満たされるのです。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。これが神のみこころです。私たちの力ではこの神のみこころを行うことはできません。それはただキリスト・イエスにあってのみ可能なことなのです。このイエス・キリストによって与えられた救いの恵み、聖霊の喜び、神がともにおられることの感謝を、信仰によってささげてまいりましょう。

Ⅰテサロニケ5章12~15節 「互いに平和を保ちなさい」

きょうはⅠテサロニケ5章後半の箇所から、互いの間で平和を保つということについてお話したいと思います。パウロは5章前半のところで、主の再臨に備えてどう生きるべきかについて語りました。その基本は6節にあるように、目を覚まして、慎み深くしていましょう、ということでした。慎み深くとは「しらふで」と訳されることばです。酔ったような状態ではなく、しらふでいましょうということです。その具体的な表われが、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みをかぶるということでした。そのようにして互いに励まし合い、互いに徳を高め合うことが必要なのです。

きょうの箇所はそれを受けて、ではどのように具体的に互いに建て上げていくのかが語られています。そしてここでは、お互いの間に平和を保ちなさいとあります。

きょうはこの平和を保つということについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、互いに平和を保つとはどういうことでしょうか。第二のことは、それを教会の指導者たちとの間でどのように保ったらよいのか、第三のことは、教会の兄弟姉妹との間でそれをどのように保ったらよいのかということです。

Ⅰ.平和を保ちなさい(12-13)

まず12節と13節をご覧ください。ここには、「12 兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。13 その務めのうえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。」とあります。

原文では12節の「兄弟たち」の前に「de」というギリシャ語が使われています。これは「それで」とか、「しかし」という意味の接続詞です。英語の聖書では「Now」という言葉が使われています。「Now we ask you ,brothers,」です。「それで、兄弟たちよ。あなたがたにお願いします」というニュアンスです。つまり、この節はその前に語られてきたこととつながりのある内容であるということです。すなわち、11節でパウロは、キリストの再臨に備えて互いに励まし合うようにと勧めましたが、その具体的な励ましの内容がここで語られているのです。それはあなたがたの指導者たちとの間に平和を保つようにということです。教会には指導者と呼ばれる人たちがいます。そのような人たちと平和を保つようにというのです。

この平和とは、私たちが一般的に考える平和とは異なります。5章3節にも、「人々が平和だ。安全だ」と言っているそのような時に、突如として滅びが彼らに襲いかかる」とありますが、そのような平和のことでありません。表面的にはにこにこしていても心の中では何を考えているのかわからないというような平和ではないのです。この平和はイエス・キリストによってもたらされる神との平和がその土台となっているものです。ローマ人への手紙5章1節には、「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」とあります。

以前、私たちと神との間には平和がありませんでした。敵対関係にあったのです。神を神ともせずに自己中心に生きていた私たちは、神から遠く離れていました。聖書ではこれを罪と言います。その罪のゆえに、神との関係が断絶していました。いわば戦争状態にあったのです。しかし、あわれみ豊かな神は、その大きなあわれみのゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。神の子イエス・キリストの血によって、このイエスを救い主と信じることによって敵対関係を解消し、神に近い者とされたのです。キリストこそ私たちの平和であり、神との間にあった隔ての壁を打ちこわし、敵意を廃棄された方なのです。敵意は十字架によって葬り去られました。私たちは、このキリストによって、大胆に父のみもとに近づくことができるようになったのです。かつて日本とアメリカは激しい戦いを繰り広げましたが、今は互いに助け合う関係になったのと同じです。これが平和です。つまり、神と正しい関係に入ったのです。これがクリスチャンの平和です。クリスチャンは、互いの間にこの正しい関係が保たれなければなりません。それは、神が混乱の神ではなく、秩序の神だからです(Ⅰコリント14:33)。

23節にも、「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。」とありますね。私たちの神は平和の神です。そして、教会はこの平和の神を信じる信仰の共同体なのです。ですから、私たちはこの平和の神にならって、平和の神を私たちの中心に置いて、互いの間に平和を保たなければならないのです。

Ⅱ.指導者を認めなさい(12-13)

では、どのようにしたら平和を保つことができるのでしょうか。ここでパウロは、「あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。13 その務めのうえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。」と言っています。

指導者たちとの間に平和を保つことによってです。教会には指導者と呼ばれる人たちがいます。それは上下関係があるということでありません。ローマカトリック教会ではこの上下関係を明確に設けた階級制度がありますが、プロテスタントでは、聖書ではそのような階級は存在しません。私たちはみな兄弟姉妹であり、祭司なのです。これを万人祭司と言います。ローマカトリック教会では司祭と呼ばれる人を通さなければ神に近づくことはできないと教えますが、プロテスタントではすべての人はイエス・キリストを信じることで、直接神に近づくことができると教えています。神と人との間には何人も入ることはできません。イエス様だけが唯一の仲介者であって、このイエスを信じるなら、だれでも神のもとに近づくことができるのです。

しかし、教会には使徒、預言者、伝道者、牧師または教師、監督、長老といった指導する立場にある火とたちがいるということです。この人たちは別にえらいというわけではありませんが、その与えられた賜物のゆえに、その務めをゆだねられた人たちなので、その人たちを認め、愛をもって深い尊敬を払いなさいというのです。

この「指導し」という言葉と同じ言葉が、Ⅰテモテ3章4節と5節にも使われていて、そこには、「4 自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。5 ―自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう―」とあります。

この「自分の家庭をよく治め」の「治め」という言葉が、「指導し」と同じ言葉です。ここには監督と呼ばれる人の資質が語られていますが、その中でパウロは、監督者というのは自分の家庭をよく治める人でなければならないと言っています。夫として自分の妻をよく治める人、父親として自分の家庭をよく治める人が、監督者としての最低の条件だというのです。なぜでしょうか?自分の家庭こそ最小の単位であるからです。その自分の家庭をよく治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょうか。とても厳しい言葉です。これだけでも、監督者として立っていくということがどれほど難しいことであるかがわかります。夫婦関係がぎくしゃくしていたり、子供たちが全然聖書に従っていなければ、ましてや神の教会を治めていくなどできないでしょう。

 

ですから、こうした立場にある人というのは別に教会だけでなく、家庭の中にも、会社の中にも、学校にも、この社会の中にも、どこにでもあるのです。このように治める人がいてこそ、全体がまとまるのです。こういう人がいなかったらどうなるでしょうか。いいようで悪いです。みんなバラバラになってしまいます。それぞれが自分の言いたいことを主張し、好き勝手なことをするようになるのです。「私はこうしたい」、「ああしたい」とてんでバラバラなことを言い、まとまることはありません。そこには必ず治める人、指導する人、世話をする人、まとめる人、監督する人がいてこそ全体の調和と秩序が保たれ、健全に建て上げられていくのです。教会の場合、それが牧師とか、長老とか、監督とかと呼ばれる人たちで、そのような人たちに対して、その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさいというのです。

ここで大切なのは、「その務めのゆえに」ということです。牧師だから尊敬しなさいとか、監督者だから、指導者だから、尊敬しなさいと言っているのではありません。その務めのゆえにです。それはどんな務めでしょうか。

ここではまず「あなたがたの間で労苦し」とあります。指導者の特質の第一は、教会員の間にいて労苦している人です。Ⅱコリント11章28節には、牧会者であったパウロがどれだけ労苦していたかが書かれています。彼はここで、「このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。」と言っています。「このような外から来ること」というのは、その前に語られている牢に入れられたこととか、むち打たれたこと、石で打たれたこと、難船して海上を漂ったこと、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、飢え渇き、寒さに凍えるといったことですが、このような外から来ることのほかに、日々押しかかるすべての教会への心づかいがありました。これが労苦の中でも最も重いもの、労苦が伴うものでした。「教会への心づかい」です。イエス様は「良い羊飼いは、羊のためにいのちを捨てまい。」と言われましたが、いつも羊の間にいて、羊が守られるようにと、ありとあらゆる心づかいをします。それが羊飼いです。それによって時には命を捨てることもあります。それがどれだけ大きく、重い労苦であるかがわかります。

第二のことは、「主にあってあなたがたを指導し」とあります。教会の指導者は主にあって指導する人です。主にあって指導するとはどういうことでしょうか。主イエスにあって指導するということです。イエスのように歩み、イエスのように指導するということです。常に神のみこころは何なのかを求め、その主のみこころに従って指導するということです。

第三のことは、「訓戒している人」です。指導者とは訓戒する人です。何によって訓戒するのでしょうか。みことばによってです。訓戒するとは14節にも同じ言葉が使われていて、そこでは「戒める」と訳されていますが、聖書のみことばをもって戒め、訓戒し、警告することなのです。できればそんなことはしたくないです。そんなことは言わないで、優しい、親切な言葉だけを言いたいです。でも訓戒がなかったら立派に成長することはできません。それは子育てを考えたらわかります。親が小さなこどもに口うるさく注意するのは、その子に立派に成長してほしいからでしょう。それがなかったらどこに行ってしまうかわかりません。わがままで、勝手な道に進み、自分にも、回りにも害をもたらすようになってしまうでしょう。彼らは聞き分けのない大人になってしまいます。だから、そういうことがないように親は口うるさいくらいに注意するのです。それと同じです。

テサロニケのクリスチャンは生まれたばかりのベイビークリスチャンでした。そんな彼らにとって必要だったのは何かというと、この戒めるということだったのです。聖書のみことばからの訓戒がなかったら、いろいろな教えの風に振りまわされたり、波にもて遊ばれることになってしまいます。そういうことがないように、教会の指導者は、聖書のみことばを教えなければならないのです。そうすれば、どんなにいろいろなことを聞いても、いつも聖書からそれを確認して判断することができるようになるでしょう。それが大人のクリスチャンです。そうなるように、みことばによって教え、訓戒しなければなりません。それが牧師の主要な務めです。牧師には他にもたくさんしなければならないことがありますが、その中でも第一の務めは、みことばによって訓戒すること、みことばによって養うことです。

その務めのゆえに、です。その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払わなければなりません。この「愛をもって深い尊敬を払う」というのは、最大、最高の愛と尊敬をもって、という意味です。それは、従えばいいんでしょ、従えば・・・といった表面的な尊敬のことではありません。愛をもった深い尊敬です。愛がなければ何の意味もありません。たとえ口先で敬っているようでも、それが表面的なものであれば何の意味もないのです。

レオン・モリスという注解者はこう言っています。「従う立場にある人たちが批判にさらされるとき、指導者たちは最善の働きをすることは決してできない。良い指導者に必要なのは、よく従う立場にある者たちの愛と尊敬である。」

また、イギリスの偉大な説教者のチャールズ・スポルジョンはこう言っています。「偉大な会衆は、必ずしも偉大な説教者によって作られるのではない。しかし偉大な説教者は、偉大な会衆によって作られる。」

もし教会員が自分の指導者たちに対して最高で、最大の愛と尊敬をもって扱うなら、その教会員も指導者と同じような存在になれるのです。ですから、深い愛と尊敬を払うことが求められているのです。

Ⅲ.すべての人に対して寛容であれ(14-15)

次に、14節と15節をご覧ください。ここには、指導者たちとの間ではなく、兄弟姉妹の間でどうあるべきなのかが教えられています。「14 兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。15 だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい。」

原文では、14節の冒頭にも「de」という接続詞があります。これは13節までの流れを受けての「de」です。すなわち、お互いの間に平和を保ちなさい」そして、兄弟たちよ。すべての人たちに対してはこうですよ、こうありなさい、と語られているのです。それは、気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい、ということです。私たちは皆、聖人君子ばかりではないということを認めなければなりません。私たちはみな問題を抱えており、そういう罪赦された罪人たちが集まっているところが教会なのです。そのことを認めなければならないのです。その上で、私たちはいったいどうあるべきなのか。

まず、気ままな者を戒めなければなりません。この「気ままな者」という言葉のギリシャ語は軍隊用語で、隊列を乱す兵士を指す言葉です。命令系統を全く無視して、勝手気ままに行動している兵士のことです。詳訳聖書という聖書がありますが、それによるとこれを、「怠け者、だらしのない者、わがままな者」と訳しています。そういう人は面倒くさいからといって放っておき、波風立てないようにせよ、というのではなく、そういう人たちを戒めるようにと言われているのです。教会の秩序を乱す者がいれば、教会の方針に従わないで勝手なことをする人がいたら、教会の指導者を無視して、自分がまるで指導者であるかのようにふるまっている人がいるとしたら、そういう人を戒めるようにと言われているのです。

次は「小心な者を励まし」とあります。詳訳聖書では、「臆病な者」と訳しています。気弱な者、いつもくよくよしている者、いくじがない者、内気で適用性に欠けた者、そういう者がいれば励ますように・・・と。この「励ます」というのは、特にことばをもってというニュアンスなので、優しく、またねんごろに語るという意味になります。内気で、気弱な者、くよくよしている人に対しては優しく、ねんごろに語るというのが「励ます」ということなのです。

次は「弱い者を助け」です。詳訳聖書では、「弱いたましいを助け」とあります。ですから、これは単に身体的に弱いというよりも、信仰的に弱い人のことです。霊的に弱さがある人です。それは聖書もろくに知らないで、勝手気ままに歩んでいる人というよりも、むしろ、律法主義的な人たちのことを指しています。

パウロはローマ人への手紙14章で、偶像にささげた肉を食べてはならないと信じていたクリスチャンを弱いクリスチャンと呼びました。そういう人たちは、自分がそう思っていただけでなく、そうでない他のクリスチャンをさばいていたのです。本来ならキリストにあって自由にされているはずなのにその自由を満喫することができず、自分の中で勝手に律法を課して、クリスチャンとして、してはいけない、ふさわしくない、と線引きしては、自分の描いた基準に合っていない人をだめなクリスチャンとして見下したり、断罪していたのです。彼らは聖書のことはよく知っていたし、厳格に聖書に生きようとしていましたが、それによって、自分と同じようにしていないクリスチャンを見てさばいていたのです。パウロはそういう人たちを弱いクリスチャンと呼び、そういう弱いクリスチャンに対しては助けなければならない、と勧めているのです。この「助ける」という言葉は、しっかりつかむというニュアンスです。これは言葉によって助けるというよりも、彼らに寄り添うようにして、しっかりとつかみ上げるようにして助けるということなのです。

そしてもう一つのことは、「すべての人に対して寛容でありなさい」ということです。教会にはあなたの寛容を脅かす人たちがいます。堪忍袋の緒が切れそうになる人たちがいるのです。そういう人に対して寛容でありなさい、というのです。詳訳聖書ではこれを、「すべての人に対して忍耐強くありなさい」と訳しています。愛は寛容であり、愛は親切です。愛は自慢せず、高慢になりません。愛はすべてを耐え忍ぶのです。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。気ままな人がいてもぶち切れてはいけません。小心な者がいても、ムカついてはならないのです。弱い者がいたとしても腹を立ててはいけません。すべての人に対して寛容であれ、忍耐であれ、というのです。そのようにしてお互いの間に平和を保ちなさい、というのです。

そして、15節です。ここには、「だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい。」とあります。テサロニケのクリスチャンは激しい迫害に遭っていました。彼らはテサロニケの住人からも、テサロニケのユダヤ人たちからも迫害されていたのです。いわばダブルパンチです。それでパウロは三週間しか滞在することができず、そこから逃れなければならなかったのですが、彼らはそういうわけにはいきませんでした。そのような激しい迫害の中でじっと耐え忍んだのです。そうなるとどういうことが起こってくるかというと、復讐心ですね。よ~し、今に見てろ、後でどうなるかわからないからな・・・。神の呪いがあるように・・・なんて祈りたくなるわけです。しかしここでは、だれも悪に対して悪をもって報いることがないようにと戒められているのです。それはローマ12章17~21節にもあります。

「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。18 あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」20 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。21 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」

また、ペテロもこう言っています。Ⅰペテロ3章9節です。「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」

それは主であるイエスから受けた教えであるからです。マタイの福音書5章43~44節にはこうあります。「43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」

それは聖書の一貫した教えであって、すべてのクリスチャンに求められていることなのです。むしろ、クリスチャンはお互いの間で、またすべての人に対して、いつも善行を行うように務めなければなりません。神の一方的な恵みによって罪が赦され、神との平和をいただいた者は、同じように兄弟姉妹を赦し、すべての人に対して善行を行うことができるのです。

私たちは主イエス・キリストによって神との平和が与えられました。平和が与えられた者として、私たちに求められていることは、教会の指導者と呼ばれる人たちを、その務めのゆえに、愛を持って深い尊敬を払い、教会の兄弟姉妹、あるいはすべての人に対して、いつも善行を行うということなのです。そのようにして私たちは、主がいつ戻って来てもいいように、互いに励まし合って、互いに立て上げていくものでありたいと思います。

民数記6章

きょうは、民数記6章から学びます。まず1節から12節までをお読みします。

1.ナジル人の誓願(1-12)

「1 はモーセに告げて仰せられた。2 「イスラエル人に告げて言え。男または女がのものとして身を聖別するため特別な誓いをして、ナジル人の誓願を立てる場合、3 ぶどう酒や強い酒を断たなければならない。ぶどう酒の酢や強い酒の酢を飲んではならない。ぶどう汁をいっさい飲んではならない。ぶどうの実の生のものも干したものも食べてはならない。4 彼のナジル人としての聖別の期間には、ぶどうの木から生じるものはすべて、種も皮も食べてはならない。5 彼がナジル人としての聖別の誓願を立てている間、頭にかみそりを当ててはならない。のものとして身を聖別している期間が満ちるまで、彼は聖なるものであって、頭の髪の毛をのばしておかなければならない。6 のものとして身を聖別している間は、死体に近づいてはならない。7 父、母、兄弟、姉妹が死んだ場合でも、彼らのため身を汚してはならない。その頭には神の聖別があるからである。
8 彼は、ナジル人としての聖別の期間は、に聖なるものである。9 もしだれかが突然、彼のそばで死んで、その聖別された頭を汚した場合、彼は、その身をきよめる日に頭をそる。すなわち七日目にそらなければならない。10 そして八日目に山鳩二羽か家鳩のひな二羽を会見の天幕の入口の祭司のところに持って来なければならない。11 祭司はその一羽を罪のためのいけにえとし、他の一羽を全焼のいけにえとしてささげ、死体によって招いた罪について彼のために贖いをし、彼はその日にその頭を聖なるものとし、12 ナジル人としての聖別の期間をあらためてのものとして聖別する。そして一歳の雄の子羊を携えて来て、罪過のためのいけにえとする。それ以前の日数は、彼の聖別が汚されたので無効になる。」

5章には、宿営の内側を聖めることについて教えられていました。なぜなら、そこに主が住まわれるからです。主が住まわれる宿営を汚さないように、ツァラートの者、漏出を病む者、死体によって身を汚している者をすべて追い出すようにと勧められていました。また、夫婦関係についても教えられていました。それは社会の最小単位であるからです。すべての関係の土台でもある夫婦関係が守られてこそ敵に勝利することができます。

そして、きょうのところにはナジル人の誓願について教えられています。「ナジル人」というのは2節にもあるように、「男または女が主のものとして身を聖別するための特別な誓い」のことです。意味は「聖め別たれた者」とか、「主に献げられた者」という意味です。つまり、自分を主に献げるという特別の誓いのことです。聖書には、すべての神の民に、自分を神にささげるようにと勧められています(ローマ12:1)。「こういうわけで」というのは、イエス・キリストに罪赦された者として、神の民とされていただいたので、ということです。そのように神の恵みによって聖なる者とされたクリスチャンは、自分を聖い生きた供え物としてささげなければならないのです。しかし、ここでは「特別な誓い」とあるように、何か特別な目的のために自分のものを主にささげるという人たちがいたのです。それがナジル人の誓願です。なぜこのような誓願をしたのかというと、神がそれを喜ばれ、そのような人に神の特別な力と御業が現されるからです。それは断食等の信仰の行いもそうです。ただ形式にやったからといってもあまり意味はありませんが、ある目的のために神の恵みとあわれみを求めて自分を聖別するなら、神はその信仰を特別に喜ばれ、御力を現してくださるのです。いわばこのナジル人の誓願はより積極的な面での聖めについての教えであると言えるでしょう。そのようにナジル人の誓願を立てる場合はどうしたらいいのでしょうか。

その場合はまず、彼は、または彼女はナジル人としてぶどう酒や強い酒を断たなければなりませんでした。ここには「ぶどう酒や強い酒を断たなければならない」(3)とあります。また、ぶどう酒と強い酒の他に、酢も飲んではいけませんでした。ぶどう汁もそうです。ぶどうの実の生のものも干したものも食べてはなりませんでした。ナジル人としての聖別の期間には、ぶどうの木から生じるものはすべて、種も皮も食べてはならなかったのです。なぜでしょうか?それはぶどうが心に喜びをもたらすもの、豊かさの象徴であったからです。神へのナジル人はそうした喜びや豊かさを断つことが求められたのです。なぜ喜びとか楽しみを断たなければならなかったのでしょうか。別に喜んではならないとか、楽しんではならないという意味ではありません。しかし、必然的にそうした事態に陥ることがあります。そうした時でもひたすら神を求め、神に祈り、神との交わりの中でその解決を求めていくことが必要だったからなのです。ナジル人にとってはこの世の楽しみよりも、主との交わりを最優先にしなければならなかったということです。

第二のことは、ナジル人がしなければならなかったことは、頭の髪をそってはならないということです(5)。なぜナジル人は髪の毛をそってはならなかったのでしょうか?それは、髪の毛が神の力を象徴していたからです。サムソンは、母の胎内にいるときから神へのナジル人でしたが、主の使いは父マノアに、「その子の頭にかみそりを当ててはならない。」(士師13:5)と言いました。それでサムソンは長髪だったのです。彼には御霊によって怪力が与えられ、何千人ものペリシテ人を殺すことができましたが、その力の源は何だったかというと、彼の髪の毛にありました。それでデリラは自分のひざの上にサムソンを眠らせると、人を呼んで彼の髪の毛をそり落としてしまいました。それで彼の力は彼を去っていったのです(士師16:19)。

サムソンだけではなく、サムエルもナジル人でした。ハンナが、主に祈って、激しく泣いた時、彼女は誓願を立ててこう言いました。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」(Ⅰサムエル1:11)。サムエルは後に偉大な士師、預言者となり、霊的暗黒時代の中にいたイスラエルを復興させるための、神に用いられた器になりました。したがって、ナジル人の長髪は、神に用いられるところの力を象徴していたのです。主に自分のすべてをささげている人は、神の力を受けるのです。

ですから、イスラエルには、このようなナジル人の存在が必要でした。すべてを主に明け渡し、自分の思いを主に定め、右にも左にもそれない人が必要だったのです。神は、このような人たちを通して、ご自分のわざを行なわれるのです。それはキリストの教会においてもいえることです。教会もこのように自分を主にささげ、主のために生きるとコミットした人たちによって建て上げられていきます。そこに神のいのちと力が増し加えられ、ご自身のみわざが現されるからです。

第三に、主のものとして身を聖別している間は、死体に近づくことができませんでした(6)。父、母、兄弟、姉妹が死んだ場合でも、身を汚してはならなかったのです。なぜでしょうか?なぜなら、死体は罪、汚れの象徴だったからです。罪によって死がもたらされました。神のうちにはいのちがあるだけで、死は一切ありません。したがって、これらを避けることが主のみこころだったのです。

ところで、9節から12節までのところには、「もしだれかが突然、彼のそばで死んで、その聖別された頭を汚した場合」はどうしたらよいかが教えられています。つまり、自分の意志によってではなく、たまたまそれに巻き込まれた場合はどうしたらいいのかということです。その場合は12節にあるように、「ナジル人としての聖別の期間をあらためて主のものとして聖別」しなければなりませんでした。すなわち、ふりだしに戻らなければならないということです。その時には、まず七日目に頭をそり、八日目に山鳩二羽か家鳩のひな二羽を会見の天幕の入口の祭司のところに持って来ます。祭司はその一羽を罪のためのいけにえとし、他の一羽を全焼のいけにえとしてささげ、死体によって招いた罪について彼のために贖いをし、彼はその日にその頭を聖なるものとして、ナジル人としての聖別の期間をあらためて主のものとして聖別するのです。罪のいけにえは、罪を犯したときに、その赦しのためにささげられるいけにえで、全焼のいけにえは、神に自分自身をささげるためのいけにえです。私たちが罪を犯したときは、この二つのいけにえが必要です。罪の赦しをいただき、再び主に自分自身をささげることです。このようにして再びやり直すことができました。

けれども、自分の行為によって犯した過ちではないのに、なぜ、罪を犯した者として数えられてしまうのでしょうか。それは、ナジル人として主に自分を献げるということはそのように厳しさが伴うからです。たとえ自分がさわっていなくとも、死体のほうがふりかかってきても、その人は罪のいえにえと全焼のいけにえをささげなければならないのです。そして一歳の雄の子羊を携えて来て、罪過のためのいけにえとしなければなりませんでした。罪過のいけにえは、自分が他の人に危害を加えた場合にささげるものであります。このいけにえをささげたあと、聖別はふりもどしになり、またゼロから出発します。私たちも、ふと思いがけないことですべてのことがだめになってしまうことがありますが、神は、何度でもチャンスを与えてくださいます。これまで築き上げてきたものがゼロになっても、再びスタートすることができるのです。

2.ナジル人の期間が満ちた時(13-21)

次に13節から21節までをご覧ください。

「13 これがナジル人についてのおしえである。ナジル人としての聖別の期間が満ちたときは、彼を会見の天幕の入口に連れて来なければならない。14 彼はへのささげ物として、一歳の雄の子羊の傷のないもの一頭を全焼のいけにえとして、また一歳の雌の子羊の傷のないもの一頭を罪のためのいけにえとして、また傷のない雄羊一頭を和解のいけにえとして、15 また種を入れないパン一かご、油を混ぜた小麦粉の輪型のパン、油を塗った種を入れないせんべい、これらの穀物のささげ物と注ぎのささげ物を、ささげなければならない。16 祭司はこれらのものをの前にささげ、罪のためのいけにえと全焼のいけにえとをささげる。17 雄羊を和解のいけにえとして、一かごの種を入れないパンに添えてにささげ、さらに祭司は穀物のささげ物と注ぎのささげ物をささげる。18 ナジル人は会見の天幕の入口で、聖別した頭をそり、その聖別した頭の髪の毛を取って、和解のいけにえの下にある火にくべる。19 祭司は煮えた雄羊の肩と、かごの中の種を入れない輪型のパン一個と、種を入れないせんべい一個を取って、ナジル人がその聖別した髪の毛をそって後に、これらをその手の上に載せる。20 祭司はこれらを奉献物としてに向かって揺り動かす。これは聖なるものであって、奉献物の胸、奉献物のももとともに祭司のものとなる。その後に、このナジル人はぶどう酒を飲むことができる。21 これがナジル人についてのおしえである。ナジル人としての聖別に加えて、その人の及ぶ以上にへのささげ物を誓う者は、ナジル人としての聖別のおしえに加えて、その誓った誓いのことばどおりにしなければならない。」

ここには、ナジル人としての聖別の期間が満ちた時にはどうしたらよいかが教えられています。ナジル人としての聖別の期間が満ちたときは、彼を幕屋のところに連れて来て、いけにえをささげなければなりませんでした(13)。そのいけにえとは、まず全焼のいけにえです。一歳の雄の子羊の傷のないものでなければなりませんでした。また一歳の雌の子羊で傷のないもの一頭を罪のためのいけにえとして、また傷のない雄羊一頭を和解のいけにえとしてささげなければなりませんでした。和解のいけにえとは、平和のいけにえと訳すこともできますが、神との和解、神との平和が与えられたので、それを楽しむためのいけにえです。

そして、穀物のささげものがあります。種を入れないパン一かご、油を混ぜた小麦粉の輪型のパンと、油を塗った種を入れないせんべいです。パン種は罪の象徴なので、パンの中には種が入っていてはいけませんでした。また油は聖霊の象徴なので、その油を塗るとか混ぜるというのは、主の聖霊が私たちのうちに宿り、また主の油注ぎが私たちのうちにあることを表していました。このように、ナジル人の誓願によって身を聖別することによって、主との特別な交わり、御霊にある喜びを持つことができたのです。

18節には、ナジル人はこれまで伸ばしてきた髪の毛をここでそり、それを祭壇のところで和解のいけにえの下にある火にくべる、とあります。祭司は煮えた雄羊の肩と、かごの中の種を入れない輪型のパン一個と、種を入れないせんべい一個を取って、ナジル人がその聖別した髪の毛をそった後で、これらをその手の上に載せました。祭司はこれらを奉献物として主に向かって揺り動かします。これは聖なるものであって、奉献物の胸、奉納物のももとともに祭司のものとなりました。和解のいけにえは、このように、祭司によって、神の前で高くかかげられます。主に感謝して、主を賛美している姿です。その後で、ナジル人はぶどう酒を飲むことができました。それはどれほどの喜びをもたらしたことでしょう。その喜びがこの後の祝福となって表われます。

3.祝福(22-27)

22節から27節をご覧ください。ここにイスラエルに対する祝福が語られます。

「22 ついではモーセに仰せられた。23 「アロンとその子らに告げて言え。あなたがたはイスラエル人をこのように祝福して言いなさい。24 『があなたを祝福し、あなたを守られますように。
25 が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。26 が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』27 彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。」

これは礼拝の祝祷でも用いられる有名な祝福の祈りです。神はこの祝福の祈りをナジル人の教えの後で、アロンにするように命じられました。なぜでしょうか。これはナジル人の誓いと無関係ではないからです。なぜなら、神は自分自身を聖別する者を喜ばれ、祝福されるからです。ツァラートの者、漏出を病む者、死体で身を汚している者を追い出し、他人に害を加えた者が弁償を行ない、苦い水によってためされ、そしてナジル人の聖別などによって聖別し、内なる人が強められるところに、主はご自分の祝福を注がれるのです。神が願っておられることは、私たちが主に聖別された者として、自分自身を主にささげることです。そのところに神のいのちと力、祝福が現され、教会は外側からも内側からも崩れない堅固な教会として堅く立ち続けることができるのです。

先ほど、ナジル人としてささげられた人としての例としてサムソンとサムエルのことを取り上げましたが、実は新約聖書にもナジル人として自分自身を髪にささげた人がいます。その一人は、バプテスマのヨハネです。天使ガブリエルがザカリヤに対して、「彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、」(ルカ1:15)と言いました。そのように神にささげられたバプテスマのヨハネは、主イエスから「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」(マタイ11:11)と称賛されたほどです。彼はそれほど神の力に満ち溢れていました。

また、使徒パウロも一時、ナジル人の誓いを立てていたことが分かります。ケンクレヤというところで一つの誓いを立てたので、髪の毛を剃っています(使徒18:18)。パウロがケンクレヤで髪を剃った、というのは、その断食期間、その誓願期間に一つの区切りを迎えたということです。ナジル人として、一定期間誓願を立てていて、それに区切りをつけたということは、ケンクレヤで第二次伝道旅行は終わったということです。パウロは、コリントで腰を据えて伝道していました。18章11節に「そこでパウロは、1年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。」とあります。衰弱して、恐れを抱きながら、コリントに来たパウロですが、そこでアクラとプリスキラという、同じようにローマから避難してきた夫婦に出会い、話をしているうちに元気を回復し、そしてイエスさまから励ましのことばを受ける。これが10節です。「わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はいない。この町にも、わたしの民がたくさんいるから。」と、伝道の実りは大きいと主に励まされて、パウロはコリントに一年半滞在したのです。その伝道の働きが終わりました。それで、パウロはシリヤに向かって船出をします。それが18節に書いてあります。そしてケンクリヤに来た時に髪をそったのです。いったいパウロは何ためにナジル人としての誓願を立てたのでしょうか。それはおそらく第二次伝道旅行においてふりかかる数々の迫害の中にも神の恵みと力にあふれて、その御業を果たすことができるようにという願いだったのではないでしょうか。それが終わった。それから解かれたので、彼は髪の毛をそったのです。そのように神の働きにおいて、神の力ある御業が現されるようにと願ってナジル人としての誓願を立てる。自分を神にささげるということはとても大切なことであるということがわかります。

そして何よりもナジル人として生きられたのは、イエス様ご自身でした。イエス様は最後の晩餐の時にこう言われました。「あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。(ルカ22:18)」これはナジル人としての誓願です。イエス様が再び地上に来られる時まで、ぶどうの実で造られた物を飲むことはないと、自分をおささげになられたのです。神の国がもたらされるそのときに、その喜びの祝宴の中でぶどう酒を飲みます、と言われたのです。つまり、主イエス・キリストが切に願われたのは、ご自分の民であるユダヤ人がご自分を受け入れること、そして世界が元の通りに回復することです。それまでは、この喜びと楽しみの時が来るまでご自分を父にお任せしているのです。それほどご自分を父なる神にゆだねておられるのです。そのようなところに、神の救いのみわざがもたらされるからです。

みなさんはどうでしょうか?イエス様に自分のすべてをささげておられますか?主のものとなっておられるでしょうか。自分自身を主にささげておられますか。もしそうであれば、そこに主の御力とみわざがあらわれます。主があなたを祝福し、あなたを守られるからです。主があなたを照らし、あなたを恵まれるからです。主が御顔をあなたに向け、あなた平安を与えられるからです。私たちはそんな力ある主のみわざにあずかるために、自分自身を主におささげして歩む者でありたいと思います。

民数記5章

きょうは、民数記5章から学びます。1章から4章までのところには、イスラエル人の人口調査について記されてあります。イスラエルがこれからシナイ山を出発し約束の地に向かって進んで行く上で、体制を整えることはとても重要なことでした。そこで彼らはまずイスラエル人の人口を数えて登録しました。20歳以上の男子で軍務につくことのできる男子を登録し、また幕屋の器具を運ぶためにレビ人を登録しました。そして、宿営における部族ごとの配置も定めました。幕屋を中心として東西南北の方角ごとに位置したのです。その中心には神の幕屋がありました。神の幕屋を中心にした秩序を保って、約束の地へと向かって行ったのです。彼らはそのようにして自分たちがイスラエルの共同体の一員であることを自覚し、自分に課せられた任務をわきまえて、神を中心とした一枚岩となって前進して行ったのです。

それは神の教会も同じです。教会も自分たちがどの教会に属し、自分たちに託された使命や役割は何なのかを知ることによって、キリストを中心として一枚岩となって進んで行かなければなりません。イエス様は「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(マタイ16:18)と言われました。そのような教会はハデスの門も打ち勝つことができないほど強固で、この世の荒野を進んで行くことができるのです。

しかし、そのように戦闘態勢を整え、奉仕の体制を整えたら大丈夫かというとそうではありません。それを脅かすのがあります。それは宿営の外側からの脅威だけでなく、内側からのものです。それは罪の問題です。罪が宿営を破壊し、死をもたらす原因にもなります。ですから、この罪に対してしっかりと対処していかなければなりません。それがこの5章で取り扱われている内容ことです。それでは早速本文を見ていきましょう。まず1節から4節までをご覧ください。

1.  罪のきよめ(1-4)

「1ついではモーセに告げて仰せられた。2 「イスラエル人に命じて、ツァラアトの者、漏出を病む者、死体によって身を汚している者をすべて宿営から追い出せ。3 男でも女でも追い出し、彼らを宿営の外に追い出して、わたしがその中に住む宿営を汚さないようにしなければならない。」4 イスラエル人はそのようにして、彼らを宿営の外に追い出した。がモーセに告げられたとおりにイスラエル人は行った。」

ここには、ツァラートの者、漏出物を病む者、死体によって身を汚している者をすべて宿営から追い出せとあります。なぜでしょうか?このツァラアトについてはレビ記で見たとおり、らい病とは違います。というのは、ツァラアトは皮膚に現れるだけでなく、家の壁や衣服にも認められる現象であるからです。それが厳密に何を指しているかはいまだに明らかではありませんが、しかし,それは「何らかの原因により、人体や物の表面が冒された状態のことで、汚れたものであることは確かです。漏出を病むというのは性病のことで、それは伝染性のある有害なものでした。また、死体も腐敗するとばい菌がつき、それが伝染する危険性がありました。ですから、このようなものが宿営の中に蔓延すれば、イスラエルの民は滅んでしまいます。どんなに外的から守られるために軍務につく者を配置しても、内部から崩壊する危険があったのです。ですから、外からの攻撃から自分たちを守るだけではなく、内側にある汚れを取り除くことが、彼らが存続していくために不可欠なことだったのです。

しかし、ここではこうした衛生的なことだけでなく、もっと大切な理由がありました。それは3節に書かれてあります。「わたしがその中に住む」という言葉です。そこは、神が住んでおられるところだからです。聖なる主が宿営の中に住まわれているので、汚れた者が宿営の中にいることはできなかったのです。つまり、このツァラアトの者とか漏出を病む者、死体によって身を汚している者というのは、罪の象徴だったのです。そこに罪、汚れがあれば、神がお住みになることはできません。なぜなら、神は聖なる方だからです。聖なるものと汚れたものは相容れないのです。ですから、イスラエル人たちは、自分たちの間にある汚れを取り除かなければならなかったのです。

考えてみると、イスラエルの民がここまで進んでくることができのはなぜでしょうか?300万人にもなる群集を導くことができた力は何だったのでしょうか?それはモーセやアロンに指導力があったからではありません。イスラエルに特別な能力があったからでもないのです。そこに神がおられたからです。神が彼らの真ん中に住んでおられたので彼らは一つになることができ、力強く前進することができたのです。その神がいなかったらどうなるでしょうか。何もすることができません。神が共におられるということ、神がその中に住んでくださるということがイスラエルの強さの秘訣であり、神の民の本質であって、それがなかったら何もすることもできないのです。ですから、神は宿営の中から汚れを追い出すようにと命じられたのです。

このことは、神の共同体である教会にも言えることです。私たちの間にも聖さが保たれていなければなりません。だれかが罪を犯し、指摘しても悔い改めないのであれば、自分たちで取り除いていかなければならないのです。それは、共同体においては、一人の罪が全体の罪として数えられているからです。たとえば、ヨシュア記にアカンが罪を犯したときのことが記されてあります。アカンがアカンことをしたのです。彼は聖絶のものをいくらか取ったのです。聖絶のものは主のものなのに、彼はそれを盗んだのです。そのとき、神は何と言われたでしょうか。「イスラエルが罪を犯した。」(ヨシュア7:11)と言われました。それはアカン一人だけの問題ではありませんでした。イスラエル全体の問題だったのです。そこでヨシュアが率いるイスラエルは、アカンを石打ちによって殺し、自分たちの中から悪を取り除いたのです。教会の中に神のいのちがあるためには、聖めが必要です。教会が力をもって前進するためには、私たちの間にある汚れをきよめなければなりません。

2.  他人に罪を犯した場合(5-10)

次に、5節から10節までをご覧ください。ここには、他人に対して罪を犯した場合どうしたらよいかが教えられています。

「5 ついではモーセに告げて仰せられた。6 「イスラエル人に告げよ。男にせよ、女にせよ、に対して不信の罪を犯し、他人に何か一つでも罪を犯し、自分でその罪を認めたときは、7 自分の犯した罪を告白しなければならない。その者は罪過のために総額を弁償する。また、それにその五分の一を加えて、当の被害者に支払わなければならない。8 もしその人に、罪過のための弁償を受け取る権利のある親類がいなければ、その弁償された罪過のためのものはのものであり祭司のものとなる。そのほか、その者の罪の贖いをするための贖いの雄羊もそうなる。9 こうしてイスラエル人が祭司のところに持って来るすべての聖なる奉納物はみな、祭司のものとなる。10 すべての人の聖なるささげ物は祭司のものとなり、すべての人が祭司に与えるものは祭司のものとなる。」

他人との不和は争いの種になるので、きちんと処理しておくようにということです。そして、ここにはまず、仲間に対して犯した罪は、主に対して不信の罪を犯すことになると言われています。仲間が傷つけられることがあれば、それは主を傷つけることになるということです。私たちが迫害を受けることは、主も迫害を受けることです。ですから、クリスチャンを迫害していたパウロに主イエスが現されたとき、「サウロ、サウロ。どうしてわたしを迫害するのか。」(使徒9:1-5)と言われたのです。ですから、もし兄弟に対して罪を犯したなら、自分の犯した罪を告白してきちんと処理しなければなりません。

しかし、ここではただ告白するだけでなく、それ相応の償いが求められています。その者は罪過のためにその総額それにその五分の一を加えて、被害者に支払わなければなりませんでした。この五分の一、20%を加えなければならなかったのはなぜでしょうか。それは、被害者の受けた心の傷やしこりといったものに対する補償です。そのように弁済することによって真の和解が成立するのです。それほどに、イスラエルが宿営での生活を営んでいくときに、和解が重要であったことがわかります。お互いが敵対的になり、分裂し、孤立していくようになるなら、イスラエルが共同生活を営んでいく上で致命的となります。したがって、主は、危害を加えた者が、罪を告白して、弁償することを命じられたのです。このような関係の修復は、イスラエルだけではなく、教会にとっても必要不可欠なことなのです。

8節に注目してください。ここには、弁償を受け取る権利のある親類がいなければどうしたらいいかが書かれてあります。その場合は、それは主のものであり、祭司のものとなります。そのほか、その者の罪の贖いをするための贖いの雄羊もそうです。弁償を支払う相手がいなくとも、支払わなければいけません。主に対する罪なのですから、この罪が取り除かれなければいけないからです。そのときは、祭司のところに弁償を持ってきます。こうしてイスラエル人が祭司のところに持って来るすべての聖なる奉納物はみな、祭司のものとなるわけです。すべて人の聖なるささげ物は祭司のものとなり、すべて人が祭司に与えるものは祭司のもの、主のものになるのです。

3.姦淫の罪を犯した場合(11-31)

次に、もし妻が道をはずして夫に対して不信の罪を犯した場合はどうしたらよいかについて見たいと思います。少し長いですが、11節から31節まで見たいと思います。まず15節までをお読みします。

「11 ついではモーセに告げて仰せられた。12 「イスラエル人に告げて言え。もし人が妻が道をはずして夫に対して不信の罪を犯し、13 男が彼女と寝て交わったが、そのことが彼女の夫の目に隠れており、彼女は身を汚したが、発見されず、それに対する証人もなく、またその場で彼女が捕らえられもしなかった場合、14 妻が身を汚していて、夫にねたみの心が起こって妻をねたむか、あるいは妻が身を汚していないのに、夫にねたみの心が起こって妻をねたむかする場合、15 夫は妻を祭司のところに連れて行き、彼女のために大麦の粉十分の一エパをささげ物として携えて行きなさい。この上に油をそそいでも乳香を加えてもいけない。これはねたみのささげ物、咎を思い出す覚えの穀物のささげ物だからである。」

ここでは妻が道をはずして夫に対して不信の罪を犯し、男が女と寝て交わったが、そのことが彼女の夫の目に隠れていて、発見されず、そのことに対する証人もなく、またその場で彼女が捕えられもしなかった場合どうするかということです。そして、そのことで夫は疑いを抱いているわけです。夫は、もしかしたら他の男がいるかもしれない、と勘ぐっていますが、その証人はどこにもいません。現場で捕らえられることもありません。ただ夫が、そうではないかと疑っているのです。そのような時はどうしたらよいか。実に生々しい、具体的な問題です。そういう番組もありますね。しかし、ここにはそういう時にはどうしたらよいかの具体的な方法が示されています。

そのような時には、夫は妻を祭司のところに連れていきます。そして、大麦の粉十分の一エパをささげ物として携えて行きます。そこには油を注いでも乳香を加えてもいけません。なぜでしょうか?この油は聖霊のことを表しているからです。イエス・キリストを信じる者に与えられるいのちの御霊のことだからです。ですから、穀物のささげ物に油がまざっているということは、イエス・キリストを信じる者の中に聖霊が住んでおられることを表しているのです。しかし、これはねたみのささげ物、咎を思い出す覚えの穀物のささげ物なので、油を入れてはいけないのです。

ところで、なぜここに夫婦の問題が取り上げられているのでしょうか。それは、私たちのすべての関係の基本がここにあるからです。イスラエルの共同体において、部族、氏族という単位がありましたが、もっとも小さな単位はもちろん家族であり、その中でも夫婦が最小単位です。この夫婦の関係が土台であり、夫婦が一心同体になっていることがイスラエル共同体の大前提であったのです。それはちょうど原子が分裂したら、物質はそのままで存在することはできないように、夫婦に亀裂が生じたら、共同体全体が存続できなくなってしまいます。だから、主は、妻の不信の罪について、その疑いがあるだけでも、それを明らかにするように命じておられるのです。

ではなぜ妻だけの問題が取り上げられているのでしょうか。夫だって、姦淫の罪を犯すのではないでしょうか。むしろその方が多いかもしれません。それなのに、ここでは妻の問題だけが取り上げられているのです。いったいそれはどうしてなのでしょうか。ユダヤ教のラビ、教師は、これは男女相互に適用される、と解釈しています。それはそうでしょう。妻だけに適用されることだとしたら、問題になります。それにのになぜここには妻だけが取り上げられているのでしょうか。

ここで鍵になる言葉は「ねたむ」という言葉です。聖書には、主ご自身が、「わたしはねたむ神である」とおっしゃっておられます。だから、ほかの神を拝んではいけないのです。主だけを拝し、主だけに仕えなさい、と命じられています。そして、主はご自分を夫になぞらえて、イスラエルを妻にして、ご自分とイスラエルとの関係を表しておられるのです。そうです、ここには神とイスラエル、キリストと教会との関係が示されているのです。ですからここにはただの姦淫の罪ということではなく、霊的姦淫の罪について定められているのです。霊的に姦淫の罪を犯すということは、単に罪を犯すことよりも深刻な問題です。妻が夫に対してどのような罪を犯していても、夫が妻を愛しているなら、それを赦すことができますが、他の男に行ってしまったら、どうなってしまうでしょうか。それは関係そのものの一切が切れてしまいます。同じように、私たちが神に対していろいろな罪を犯しても、神は赦してくださいますが、他の神に移ってしまったら、もうそこで関係は切れてしまうのです。パウロはコリントの教会に対してこう言いました。「しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。(Ⅱコリント11:3)それはこのことを語っていたのです。コリントの教会は、偽使徒たちによって異なるイエス、異なる福音、異なる霊を受けていました。そこでパウロは、エバが蛇によって欺かれたように、キリストの花嫁であるあなたの思いも汚されているのではないか、と心配していたのです。

16節から22節までをご覧ください。「16 祭司は、その女を近寄らせ、の前に立たせる。
17 祭司はきよい水を土の器に取り、幕屋の床にあるちりを取ってその水に入れる。18 祭司は、の前に女を立たせて、その女の髪の毛を乱され、その手にねたみのささげ物である覚えの穀物のささげ物を与える。祭司の手にはのろいをもたらす苦い水がなければならない。19 祭司は女に誓わせ、これに言う。『もしも、他の男があなたと寝たことがなく、またあなたがた夫のもとにありながら道ならぬことをして汚れたことがなければ、あなたはこののろいをもたらす苦い水の害を受けないように。20 しかしあなたが、もし夫のもとにありながら道ならぬことを行って身を汚し、夫以外の男があなたと寝たのであれば、』21 ―そこで祭司はその女にのろいの誓いを誓わせ、これに言う―『があなたのももをやせ衰えさせ、あなたの腹をふくれさせ、あなたの民のうちにあってがあなたをのろいとし誓いとされるように。22 またこののろいをもたらす水があなたのからだに入って腹をふくれさせ、ももをやせ衰えさせるように。』その女は、『アーメン、アーメン』と言う。」

ここで彼らは不思議な方法でその疑いを晴らしました。夫が妻を祭司のもとに連れて行くと、祭司は、その女を近寄らせ、主の前に立たせます。そして、きよい水を土の器に取り、幕屋の床にあるちりを取ってその水に入れます。それはのろいをもたらす苦い水です。祭司は女に誓わせてその水を飲ませますが、もし女に汚れたことが何一つなければ女は何の害も受けず、もし女が道ならぬことを行って身を汚していたら、その水がからだに入るとき、腹をふくれさせ、ももをやせ衰えさせました。現代でいうとうそ発見器のようなものかと思いますが、それにしても、何とも奇妙な方法です。いったいこれはどういことなのでしょうか。

まずこの水とはみことばのことでしょう。エペソ5章26節には、「みことばにより、水の洗いをもって」とあります。みことばが水として表現されているのです。みことばが洗うのです。みことばが見極めるのです。その水の中に、幕屋の床にあるちりを取って入れます。これは創世記3章14節のところに、神は蛇に対して、「おまえは、…ちりを食べなければならない。」と言われましたが、のろいを表しているものと思われます。それは神のみことばの中にあるさばきであると言えます。というのは、ヘブル4章12、13節に、こう書いてあるからです。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」とありますが、実は次の言葉に続きます。「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。神のみことばによって、また、聖霊の働きによって、隠れたこともみな裸にされて、さらけ出されるのです。祭司はその女にのろいの誓いを誓わせるというのは、祭司が誓わせたことが女のことばになるということです。もし彼女が嘘を言っていたらのろいがもたらされ、本当だったら害を受けることがないということです。

それからどうなるでしょうか。23節から31節までを見ていきましょう。「23 祭司はこののろいを書き物に書き、それを苦い水の中に洗い落とす。24 こののろいをもたらす苦い水をその女に飲ませると、のろいをもたらす水が彼女の中に入って苦くなるであろう。25 祭司は女の手からねたみのささげ物を取り、この穀物のささげ物をに向かって揺り動かし、それを祭壇にささげる。26 祭司は、その穀物のささげ物から記念の部分をひとつかみ取って、それを祭壇で焼いて煙とする。その後に、女にその水を飲ませなければならない。27 その水を飲ませたときに、もし、その女が夫に対して不信の罪を犯して身を汚していれば、のろいをもたらす水はその女の中に入って苦くなり、その腹はふくれ、そのももはやせ衰える。その女は、その民の間でのろいとなる。28 しかし、もし女が身を汚しておらず、きよければ、害を受けず、子を宿すようになる。29 これがねたみの場合のおしえである。女が夫のもとにありながら道ならぬことをして身を汚したり、30 または人にねたみの心が起こって、自分の妻をねたむ場合には、その妻をの前に立たせる。そして祭司は女にこのおしえをすべて適用する。31 夫には咎がなく、その妻がその咎を負うのである。」

なんと今誓ったことを書物に書き、それを苦い水の中で洗い落とします。つまり、自分のことばが自分の腹の中に入って、自分のうちに実現するということです。ここで、真実が明らかにされます。姦淫の罪を犯していれば、女は子を宿すことができないようなからだになり、犯していなければ何の害も受けなくてもすみます。これは、本当に罪を犯していない人にとっては、この上もなくうれしいことです。夫から疑いをかけられていたけれども、今、潔白であることが証明されたからです。自分が罪を犯したとも、犯していないともわからないような状況でしたが、神は、この方法によって、彼女の純潔をためされたのです。

しかし、私たちはどうでしょうか。主に罪を探られたら、主の前に立っていることができるでしょうか。この苦い水を飲んだら、それがのろいとなって害を受けるような者なのではないでしょうか。しかし、私たちの代わりにのろいを受けてくださった方がおられます。苦い水を飲まれた方がおられるのです。だれでしょうか。そうです、私たちの救い主イエス・キリストです。キリストは私たちの代わりにのろいとなってくださいました。私たちのために苦い水を飲んでくださいました。酔いぶどう酒です。十字架の上で・・・。それは私たちがさばかれることなく、そのさばきを代わりに受けるためでした。私たちはこのイエス・キリストの十字架の身代わりによってのろいをうけない者にしていただけたのです。イエスは、姦淫の現場で捕えられた女に、こう言われました。「わたしもあなたを罪に定めなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:10-11)私たちはキリストによってすべての罪が赦されました。私たちは神ののろいではなく、神の恵みによって聖い者にしていただけたのです。すべての罪が赦されて、身の潔白が証明された人は何と幸いなことでしょう。自分の疑いが晴らされて身の潔白を証明できた女が躍り上がるような喜びに満ち溢れたように、私たちも救い主イエス・キリストを信じる信仰によって義と認められ、このキリストの中にいることによって日々イエス様のように変えられ、やがてくる終わりの時にキリストの花嫁として、いつまでも主とともにいられるということはこの上もない喜びです。この喜びのゆえに、私たちはますます私たちの代わりに死んでくださったキリストに感謝し、この方に中にずっととどまっていたいと思います。たとえ道から外れることがあっても、そののろいを受けてくださったキリストの愛のゆえに、悔い改めて神に立ち返る者でありたいと思います。

Ⅰテサロニケ5章1~11節 「主の日に備えて」

きょうは、「主の日に備えよ」というテーマでお話します。先週は4章13節から、眠った人々のことについて学びました。イエス様を信じて死んだ人たちはどうなるのか。彼らはイエス様が再び来られるその時、雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会います。そのようにして、いつまでも主とともにいるようになるのです。これがクリスチャンの救いの完成です。それはクリスチャンにとっての本当の慰めとなります。このことばをもって互いに慰め合わなければなりません。そして今日の箇所には、そのキリストの再臨にどのように備えたらよいかが語られています。

Ⅰ.主の日は突然やって来る(1-3)

まず、第一のことは、主の日は盗人のように突然やって来るということです。1節から3節までをご覧ください。1節には、「兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。」とあります。

「それら」という言葉は原文にはありませんが、これはキリストの空中再臨、携挙のことであることは、前後の文脈からわかります。その時については、あるいはその時期については、書いてもらう必要がないというのです。なぜなら、彼らはその時についてよく承知していたからです。2節を見ると、「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。」とあります。彼らは主の日がどのようにしてやって来るかをよく承知していたのです。この「主の日」とは、主が再臨される日のことであり、神の激しい怒りが下る時でもあります。その日は夜中の盗人のようにやって来るのです。

3節をご覧ください。「人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如して滅びが彼らに襲いかかります。」この「彼ら」とは1節の「兄弟たち」とは別の人たちのことです。つまり、これはノンクリスチャンたちのことを指して言われているわけです。彼らが「平和だ。安全だ」と言っているようなときに、突然滅びが彼らに襲いかかるのです。もし泥棒が、いついつあなたの家に侵入しますからね、と事前に言ってくれたら、それに備えてしっかり戸締りとかをしてちゃんと用心することもできるのですが、それがいつなのかがわからないのです。それは突如として襲いかかって来るのです。

このことは、すでにイエス様が弟子たちにお話なさったことでもあります。マタイの福音書24章43節には、「しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。」とあります。の子は思いがけない時に来るのです。ですからこのことを知り、このために用心している人は幸いです。けれども、それがいつなのかはわかりませんが、その前兆があります。イエス様はこう言われました。「32 いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。33 そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」(マタイ24:32-33)

これらのことを見たら、人の子が戸口まで近づいていることを知らなければなりません。いちじくの木から、たとえを学ばなければならないのです。枝が柔らかくなって、葉が出てくると、夏が近いということがわかるように、これらの前兆があれば、イエスの再臨が近いということがわかるのです。いったいそれはどんな前兆があるのでしょうか。

まず5節には、「わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」とあります。大勢の偽キリストが現れます。「わたしこそキリストだ」と言って、多くの人を惑わすのです。お隣の韓国はキリスト教の盛んな国ですが、多くの偽キリストが現れています。自分が再臨のキリストだと主張する人が50人もいるというのです。そしてそれを信じる人たちが少なくとも200万人から300万人もいるのです。日本のクリスチャン人口が約100万人ですから、これがどれほどの数であるかがわかるでしょう。これは韓国のキリスト教人口の約4分の1に相当するもので、多くの教会がこうした異端によって傷を受けており、その被害は深刻なものになっています。特に、「新天地」と言われるグループは素性を隠してひそかに教会に入り込むので見分けが難しく、韓国のキリスト教会の脅威になっているのです。

また6節には、「戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょう」とあります。世の終わりが近くなると、戦争のことや戦争のうわさを聞きます。先に起こった二つの世界大戦は、歴史上前例を見ないほどの世界規模で行われました。そして今も戦いが止むことはありません。イスラム国(IS)をはじめ、イスラム過激派と呼ばれるグループが世界中でテロを企てています。これらのテログループはこれまでと違って豊富な資金源を背景に全世界から兵士を集め、世界中に拡がり続けているのです。

そして7節には、「方々にききんと地震が起こります」とあります。日本でも3年前に東日本大震災が発生しましたが、こうした地震やききんが世界中で頻繁に起こっているのです。その他、世の終わりの時には、不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。現代はまさにそのような時代となっているのです。インターネットが普及してからは、ネット犯罪と呼ばれる犯罪があとを絶たず、世界中に悪がはびこっています。

そして何といっても、世の終わりが近くなると、天の果てから果てまで、四方からその選びの民が集められるとあります。これは世界中に散らされているユダヤ人が集められるという預言ですが、この預言のとおりに、世界中に離散していたユダヤ人が集められ、イスラエルという国を再興しました。1948年5月14日のことです。これは世の終わりが近いということの確かなしるしと言えるでしょう。

まさにいちじくの木の枝が柔らかくなって、葉が出てきています。夏が近づいているのです。イエス様は戸口まで近づいているのです。私たちは今、そういう時代に生きているのです。それなのに人々は「平和だ。安全だ。」と言っています。しかし、人々が「平和だ。安全だ」と言っているまさにそのようなときに、突如として滅びが襲いかかるのです。

Ⅱ.しかし、兄弟たちを襲うことはない(4-5)

第二のことは、しかし、クリスチャンには、そのように主の日が、盗人のようにやって来て襲うようなことはありません。4節と5節をご覧ください。「4 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。5 あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。」

「兄弟たち」とは、先ほども言ったように、キリストにある人たちのことです。神のさばきは突如として彼らに襲いかかりますが、クリスチャンを襲うことはありません。なぜなら、クリスチャンは光であられるイエスを信じたことによって、光の子ども、昼の子どもとされたからです。大抵の場合、盗人がやって来るのは夜です。まあ白昼堂々というケースもありますが、大抵の場合は夜なのです。それは暗やみのわざだからです。ですから、光の子どもであるクリスチャンを襲うということはありません。むしろ、その日はクリスチャンにとっては喜びの日です。なぜなら、花婿であられるキリストが花嫁である教会を迎えに来る時だからです。

ヨハネの福音書8章12節に、次のようなイエスのことばがあります。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」イエスは世の光であられ、このイエスを信じ、イエスに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。盗人が突然現れてあなたを滅ぼすというようなことはないのです。

またヨハネの福音書5章24節には、こうあります。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」イエスを信じる者はさばきに会うことがなく、死からいのちに移っています。この場合のさばきとは、いのちの書に名が書き記されていない人が火の池に投げ込まれる最後のさばきであると同時に、キリストが再び来られる時にこの地上に下る大患難によるさばきのことでもあるのです。なぜなら、9節にあるように、「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです」

皆さん、クリスチャンは、キリストが再臨される時にさばかれることはありません。神は私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにとお定めになられたからです。かつてはそうではありませんでした。エペソ2章3節にあるように、「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです―」(エペソ2:4-5)

どんなにいい人でも神の怒りから免れることはできません。どんなにいい人でも、神の目にはそうではないからです。みんなさばかれて致し方ないような者なのです。しかし、あわれみ豊かな神は、その大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいた私たちをキリストとともに生かしてくださいました。私たちが救われたのはただ恵みによるのです。イエスを主と告白し、神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じただけで救ってくださいました。あなたがどれだけいい人で、どれだけ良いことをしたかなどということは全く関係ないのです。ただイエスを救い主と信じただけで救われたのです。イエス以外には救われる道はありません。このイエスを信じた人は光の子ども、昼の子どもですから、暗やみが襲いかかるということはないのです。あなたはイエスを救い主と信じておられるでしょうか。

Ⅲ.だから慎み深くしていましょう(6-11)

ですから、第三のことは、慎み深くしていましょう、ということです。6,7節には「6 ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。7 眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。」とあります。

この「慎み深く」ということばは「しらふ」とも訳せることばです。「酔う者」に対しての「しらふ」です。イエス様は、ゲッセマネの園で祈っておられたとき、弟子たちに、「誘惑に陥らないで、目をさまして、祈っていなさい。」(ルカ22:40)と言われました。それは、これからイエス様が捕えられ、裁判にかけられ、むち打たれ、ののしられ、あげくの果てに十字架につけられて殺されるという事態に備えるためでした。それなのに弟子たちはどうしていたかというと、すっかり眠りこけていたのです。実際に眠っていたというだけでなく、霊的にも眠っていました。その結果どうなったでしょうか。実際の場面に遭遇したときどうすればよいかわからず、結局、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。そしてペテロは、「イエスなど知らない」と三度も主を否定して、大きな罪を犯してしまいました。眠っているとはこういうことです。自分の周りで起こるかもしれない、いろいろな状況を考えることができないで、自分のことしか考えられないのです。そうなると、何か困難が訪れたとき簡単に罪に陥ってしまうのです。眠っていると、罪を犯しやすくなるのです。だから、誘惑に陥らないように、目を覚ましていなければなりません。こういうことが起こったら自分はどのようにすべきか、このような事態に陥ったら自分はどのようにしてキリストに従うべきなのかを予期しながら、しっかりと備えておなかければならないのです。

その具体的な備えがどのようなものなのかが、8節にあります。「しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。」昼の者として慎み深く生きるためには、信仰と愛と望みによって生きなければなりません。ここではただの信仰、愛、希望ではなく、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、とあります。エペソ人への手紙6章にある霊の戦いのときに身に着ける、神の武具と同じようにたとえられているのです。兵士の胸当てとして、信仰と愛をつけます。そして、頭にかぶるかぶととして救いの望みをかぶるのです。

まず信仰の胸当てです。信仰を胸当てとして着けなければなりません。なぜでしょうか。この信仰が望みへとつながっていくからです。せっかく信仰の種が蒔かれても、岩地に蒔かれた種のように、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまうようであれば、実を結ぶことはできません。あるいは、いばらの中に蒔かれた種のように、この世の心づかいや富の惑わしによってふさがれてしまうなら、実を結ぶことはできないのです。実を結ぶためには、良い地に蒔かれなければなりません。みことばを聞いてそれを悟らなければならないのです。聞いたみことばを信仰によって心に結びつけられなければならないのです。

また、胸当てとして愛も着けなければなりません。神はこの愛をイエス・キリストによって現してくださいました。ここに愛があります。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子をお与えになられました。ここに愛があるのです。この愛を胸当てとして着けなければならないのです。

テサロニケのクリスチャンたちは、激しい迫害と極度の貧しさの中にあっても貧困で苦しんでいたユダヤの兄弟姉妹のために喜んで献げることができたのはどうしてでしょうか?それは彼らが神に深く愛されていたからです。この愛こそが私たちをキリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおりに信仰を堅くし、あふれるばかりの感謝へと導いてくれるのです。ですから、この神の愛を胸当てとしてしっかりと身に着けなければならないのです。

それからもう一つは、救いの望みのかぶとです。これは先週見たとおりです。やがてキリストが救いを完成してくださるということに望みを置くのです。私たちはイエス様を信じた瞬間に救われ、永遠のいのちが与えられます。しかし、その救いが完成するのはいつかというと、イエス・キリストが再臨される時なのです。そのとき、私たちは朽ちないからだ、栄光のからだによみがえり、雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいるようになるのです。そのとき、それまでのすべての苦しみから解き放たれ、永遠の喜びに満たされるのです。これが私たちの救いが完成するときです。

しかし、目の前に困難があったり、苦しみがあったりすると、なかなかこの望みを抱くことができなくなります。やがて天の御国の栄光に与るということがわかっていても、目の前のことですぐにつぶやいてしまうのです。この望みは「かぶと」だと言われています。ヘルメットです。頭がやられたらイチコロころです。敵であるサタンはこのことをよく知っているのす。そして、私たちからこの希望を奪おうとして躍起になっているのです。しかし希望というかぶとをしっかりかぶっていれば、サタンは何もすることができません。ですから、救いの望みというかぶとをかぶっていなければならないのです。いつも希望を告白していなければならないのです。

いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。この世の人たちには信仰がありません。したがって、愛もありません。ましてや永遠の希望などないのです。彼らが求めているのはこの世の一時的なものにすぎません。そのようなものはやがて朽ちていきます。いつまでも残るものは信仰と希望と愛なのです。テサロニケの人たちは、この三つの徳を持っていました。信仰の働き、愛の労苦、望みの忍耐を持っていたのです。それゆえに、たとえ救われたばかりでも、たとえ敵から迫害されるという苦しみの中にあって、キリストにしっかりととどまり続けることができました。私たちに求められているのは、この信仰と愛の胸当てを身につけ、救いの望みのかぶとをかぶって、慎み深く歩むことなのです。

最後に、11節を見て終わりたいと思います。ここには、「ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」とあります。ここで強調されていることは「互いに」ということです。互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。このことからわかることは、一人ではイエスの命令を守ることはできないということです。一人の方が落に感じるかもしれません。一人でいた方がだれかと関わる必要もないので問題がなくていいと思うかもしれません。一人でいた方が何の制約も受けることなく、自由に聖書を学ぶことができるのではないかと考えるかもしれませんが、それは間違いです。それはあなたをこの信仰と愛と救いの望みから引き離すためのサタンの巧妙なたくらみなのです。なぜならここに「互いに」とあるからです。一人ではイエス様の命令を守ることはできないし、神のみこころに歩むことはできません。私たちは神の教会に集まってこそ、この互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさいという命令を守ることができるのです。

へブル人への手紙10章25節を開いてください。ここには、「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」とあります。

ここで鍵になる言葉は「かの日」という言葉です。かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか、です。イエス様が再び来られる日、救いが完成する日、その日が近づいているのですから、ますますそうしようではありませんか。いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合おうではないかということです。たまに教会に行きますとか、何とか日曜日だけは行くようにしています、では足りません。本気で再臨を信じているのなら、本気でかの日が近づいていると信じているのなら、ますますそうしなければなりません。一緒に集まることをやめたりしないで、ますますそうしなければなりません。これが世の終わりに生きるクリスチャンの姿なのです。

それがいつなのか、またどういう時かについて、私たちは知りません。しかし、確かなことは、それが確実に近づいているということです。それは盗人のように、突如として襲いかかります。その時、私たちは慌てることがないように、しっかりと備えておきたいと思います。信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。今しているとおり、いっしょに集まることをやめたりしないで、かの日か近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。それが世の終わりに生きるクリスチャンに求められていることなのです。

民数記4章

きょうは民数記4章から学びます。まず1節から20節までをお読みします。

1.ケハテ族の奉仕(1-20)

「1 はモーセとアロンに告げて仰せられた。2 「レビ人のうち、ケハテ族の人口調査を、その氏族ごとに、父祖の家ごとにせよ。3 それは会見の天幕で務めにつき、仕事をすることのできる三十歳以上五十歳までのすべての者である。4 ケハテ族の会見の天幕での奉仕は、最も聖なるものにかかわることであって次のとおりである。5 宿営が進むときは、アロンとその子らは入って行って、仕切りの幕を降ろし、あかしの箱をそれでおおい、6 その上にじゅごんの皮のおおいを掛け、またその上に真っ青の布を延べ、かつぎ棒を通す。7 また、供えのパンの机の上に青色の布を延べ、その上に皿、ひしゃく、水差し、注ぎのささげ物のためのびんを載せ、またその上に常供のパンを置かなければならない。8 これらのものの上に緋色の撚り糸の布を延べ、じゅごんの皮のおおいでこれをおおい、かつぎ棒を通す。9 青色の布を取って、燭台とともしび皿、心切りばさみ、心取り皿およびそれに用いるすべての油のための器具をおおい、10 この燭台とそのすべての器具をじゅごんの皮のおおいの中に入れ、これをかつぎ台に載せる。11 また金の祭壇の上に青色の布を延べなければならない。それをじゅごんの皮のおおいでおおい、かつぎ棒を通す。12 聖所で務めに用いる用具をみな取り、青色の布の中に入れ、じゅごんの皮のおおいでそれをおおい、これをかつぎ台に載せ、13 祭壇から灰を除き、紫色の布をその上に延べる。14 その上に、祭壇で用いるすべての用器、すなわち火皿、肉刺し、十能、鉢、これら祭壇のすべての用具を載せ、じゅごんの皮のおおいをその上に延べ、かつぎ棒を通す。15 宿営が進むときは、アロンとその子らが聖なるものと聖所のすべての器具をおおい終わって、その後にケハテ族が入って来て、これらを運ばなければならない。彼らが聖なるものに触れて死なないためである。これらは会見の天幕で、ケハテ族のになうものである。16 祭司アロンの子エルアザルの責任は、ともしび用の油、かおりの高い香、常供の穀物のささげ物、そそぎの油についてであり、幕屋全体とその中にあるすべての聖なるものと、その用具についての責任である。」17 ついではモーセとアロンに告げて仰せられた。18 「あなたがたは、ケハテ人諸氏族の部族をレビ人のうちから絶えさせてはならない。19 あなたがたは、彼らに次のようにし、彼らが最も聖なるものに近づくときにも、死なずに生きているようにせよ。アロンとその子らが、入って行き、彼らにおのおのの奉仕と、そのになうものとを指定しなければならない。20 彼らが入って行って、一目でも聖なるものを見て死なないためである。」

ここにはレビ族たちの奉仕について書かれてあります。まずケハテ族です。レビ族の先祖はレビですが、レビには三つの種族がおりました。ゲルション、ケハテ、メラリです。彼らは祭司の家系をサポートする聖職者たちです。そのそれぞれの氏族の奉仕について記されてあるわけです。その最初がケハテです。まず3節には、仕事をすることが許されていたのは30歳から50歳までのすべての者とあります。イエス様も幼い頃から主にお仕えしておられましたが、メシヤとして公の生涯に入られたのはおおよそ30歳のころでした。またⅡサムエル5章4節を見ると、ダビデがイスラエルの王になったのも30歳の時であることがわかります。それが神によって定められた時であったのです。

では引退の年は何歳であったかというと、50歳です。50歳と聞いて、「若いなあ、まだまだできる」と思われる方も少なくないのではないでしょうか。なぜ50歳なのか?わかりません。しかし、この50という数字を考えると何となくわかるような気がします。これはヨベルの年として定められていた年数でもあります。それは大解放の年でした。職から解かれて自由になれる年、それが50歳だったのでしょう。しかし、50歳になったからといって引退というわけではなかったようです。民数記8章24~26節には、50歳になると奉仕の務めからは退きましたが、同族の者が任務を果たすのを助けることができました。つまり、現役は退いてもその後継者たちの育成はできたということです。ここには25歳から会見の天幕での奉仕ができたとありますが、これはインターンの期間、見習いの期間です。こうした後継者たちの育成に携わることができたのです。彼らのレビ人としてのキャリヤがこうした形で生かされたわけです。それで50歳という年が定められていたものと思われます。ちなみに、祭司には退職はなかったようです。生涯現役でした。ただその果たすべき役割が違うのです。私の知り合いの牧師に、バルナバ牧師がおられますが、これは聖書的であると言えるでしょう。いつまでも第一線で働くというのもいいですが、むしろそれは後継者にゆだねて、自分はバルナバとして若い牧師たちを支えていくという立場になるのが最もふさわしいのではないかと思います。そういう意味で、私は65歳まで第一線の牧師として主にバリバリ仕え、後はバルナバとして、後継者の育成において助けていれたらと願っているところです。

ところで、このケハテ族の奉仕はどんなことだったでしょうか。彼らの奉仕は、最も聖なるものにかかわることでした。まず宿営が進んで行く時に、モーセとその子らが幕屋に入って行き、仕切りの幕を卸し、それであかしの箱をおおいました。そのようにしておおわれた幕屋の道具を運ばなければなりませんでした。しかし、その前にはアロンとその子らによって、幕屋の器具がじゅごんの皮と真っ青の布によっておおわれました。

まず、あかしの箱が聖所と至聖所を仕切っていた幕によっておおわれました。この垂れ幕にはケルビムが織り込まれていましたが、それは青、紫、白、緋色の糸で織られていました。この四つの色の糸こそキリストご自身を表していたものです。キリストの神としての栄光の輝きです。その上にじゅごんの皮のおおいをかけました。これもキリストを表しています。これは人としてのキリストの姿です。じゅごんの皮はどす黒い色をしていて見た目にはあまりきれいではありませんが、人としてのイエスもそうでした。見た目ではあまりきれいではありませんが、しかし、その中身は神の栄光に満ちていました。そして、その上に真っ青の布を延べました。これは天国の象徴です。神の国です。神の国は一目ではみずぼらしいようでも、外側からは魅力を感じないかもしれませんが、中身すばらしいのです。中に入ると天国を味わうことができます。神を賛美し、祈り、神のことばにふれるとき、そこはさながら天国のすばらしさを味わうことができるのです。それが神の国、天国、です。そのように聖所の器具はじゅごんの皮と真っ青の布でおおわれました。

しかし、祭壇の器具だけは別の色の布が用いられました。13節を見ると、祭壇は青色の布ではなく紫色の布を使いました。なぜでしょうか。それは十字架を表していたからです。紫色と聞けば、私たちはすぐにピンときすね。それはイエス様が着せられた着物の色です。ヨハネ19章2節には、十字架につけられる時、イエス様は紫色の着物を着せられた、とあります。イエス様は私たちの罪のための供え物となって十字架で死んでくださいました。紫色の布はそれを表していたのです。

15節を見てください。このように、宿営が進むとき、アロンとその子らが聖なるものと聖所のすべての器具をおおいおわった後で、ケハテ族が入って来て、これらを運びました。彼らの奉仕は特に注意を要するものでした。聖所の用具に関することだったからです。なぜ、こんなに注意を要したのでしょうか。それは彼らが死なないためです。彼らが聖なるものに触れて死なないためなのです。もしそれらに触れたら死んでしまいます。

Ⅰ歴代誌13章9節、10節には、ウザが神の箱に触れて死んだことが書かれてあります。ダビデが神の箱をキルヤテ・エアリムから自分の町に運ぼうとしていたとき、牛がそれをひっくりかえそうとしたので、ウザが手を伸ばして、箱を押さえたのです。すると神の怒りが発せられ、ウザはその場で死んでしまいました。それほど神は聖なる方であり、私たちが勝手にふれることなどできない方なのです。ですから、この奉仕に当たる時には特に注意し、決して自分の思いつきで、勝手に行ってはなりませんでした。

このことから教えられることは、神の奉仕は決して自分の考えや自分の思いで行ってはならないということです。それは神の方法で行われなければならないのです。キリストを中心に行なわなければなりません。自分でよかれと思ってすることが、死を招いてしまうことにもなるからです。神の召しもないのに、あたかも召されたかのようにふるまうと大変なことになってしまいます。神の奉仕は、教会の奉仕は、いつもみことばに従って、キリスト中心に行われなければなりません。間違っても自分の思いで行ってはならないのです。

2. ゲルション族の奉仕(21-28)

次にゲルション族の奉仕について見ていきましょう。21節から28節までをご覧ください。

「21 ついではモーセに告げて仰せられた。22 「あなたはまた、ゲルション族の人口調査を、その父祖の家ごとに、その氏族ごとに行い、23 三十歳以上五十歳までの者で会見の天幕で務めを果たし、奉仕をすることのできる者をすべて登録しなければならない。24 ゲルション人諸氏族のなすべき奉仕とそのになうものに関しては次のとおりである。25 すなわち幕屋の幕、会見の天幕とそのおおい、その上に掛けるじゅごんの皮のおおい、会見の天幕の入口の垂れ幕を運び、26 また庭の掛け幕、幕屋と祭壇の周りを取り巻く庭の門の入口の垂れ幕、それらのひも、およびそれらに用いるすべての用具を運び、これらに関係するすべての奉仕をしなければならない。27 彼らのになうものと奉仕にかかわるゲルション族のすべての奉仕は、アロンとその子らの命令によらなければならない。あなたがたは、彼らに、任務として、彼らがになうものをすべて割り当てなければならない。28 以上がゲルション諸氏族の会見の天幕においての奉仕であって、彼らの任務は祭司アロンの子イタマルの監督のもとにある。」

ゲルション族の奉仕は25節と26節にありますが、幕屋の幕についての奉仕です。すなわち、幕屋の幕、会見の天幕とそのおおい、その上に掛けるじゅごんの皮のおおい、会見の天幕の入口の垂れ幕を運び、また庭の掛け幕、幕屋と祭壇の周りを取り巻く庭の門の入口の垂れ幕、それらのひも、およびそれらに用いるすべての用具を運び、これらに関係するすべての奉仕です。これをアロンの子イタマルが監督しました。

ここでのポイントは、まずアロンとその子らによって聖所の器具がおおわれ、その後でそれがケハテ族によって運ばれ、その後で彼らが幕を取り卸したということです。ここには一つの順序、一つの流れがあります。また、この奉仕のために監督者が立てられました。アロンの子イタマルです。彼らは勝手に奉仕したのではなくアロンとその子らの命により、イタマルという監督の指導のもとに行われました。

3.メラリ族の奉仕(29-33)

次にメラリ族の奉仕です。29節から33節までをご覧ください。「29 メラリ族について、あなたはその氏族ごとに、父祖の家ごとに、彼らを登録しなければならない。30 三十歳以上五十歳までの者で、務めにつき、会見の天幕の奉仕をすることのできる者たちすべてを登録しなければならない。
31 会見の天幕での彼らのすべての奉仕で、彼らがになう任務があるものは次のとおりである。幕屋の板、その横木、その柱とその台座、32 庭の回りの柱と、その台座、釘、ひも、これらの用具と、その奉仕に使うすべての物である。あなたがたは彼らがになう任務のある用具を名ざして割り当てなければならない。33 これが会見の天幕でのすべての奉仕に関するメラリ諸氏族の奉仕であって、これは祭司アロンの子イタマルの監督のもとにある。」

メラリ族もイタマルの監督の下で奉仕します。彼らの奉仕は、幕屋の板、横木、台座、釘などです。これはかなりの重労働でした。ですから44節を見るとわかりますが、彼らの人数が最も多かったのです。それだけ手がかかりました。釘1本、ひも1本の細かい作業も求められました。

このようにして神の幕屋の奉仕が行われたのです。まずアロンとその子らがもっとも重要な仕切りの幕をとりおろし、それで神の箱をおおい、また他の聖なる用具にもおおいをかけ、それをケハテ族に託します。そして、そしてアロンとその子らの命令によって、今度はゲルション族が幕をとりはずします。そして、幕が取り外されたところで、今度はメラリ族が板、横木、釘、などを取り外したのです。これらはすべて主の命令によって行われました。だれかが勝手に行えば、全体の作業に支障をきたしました。そこには互いのコンビネーションが求められます。

隣のセブンイレブンが新装オープンします。9月下旬に古い建物が取り壊されて以来、わずか2か月たらずで新しい建物が完成しました。私はそれをずっと見ていて感じたことは、その全体を統括している人がいて、その命に従って各部門が動いていたということです。もしその命に従わなかったら完成はもっと遅れたことでしょう。あるいは、作業がバラバラになって建て上げられなかったかもしれません。

これが神の奉仕です。この4章の至ところに「主の命によって」ということばがあるのにお気づきになられたでしょうか(37,41,45,49節)モーセを通して示された主の命令によって、それぞれの監督者たちが立てられ、その監督者たちの割り当てにしたがって、それぞれが奉仕してこそ神の家が建て上げられていくのです。

それは教会も同じです。教会の奉仕においても、このコンビネーションが求められます。神はおのおのに御霊の賜物を与えてくださいました。それは互いがいたわり合い、補い合い、助け合い、支え合って、キリストのからだを建て上げるためです。そこには分裂がなく、たがいにいたわりあうように、一つ一つの奉仕が割り当てられているのです。その調和が保たれる時、キリストのかだは力強く建て上げられていきますが、そうでないと、分裂してしまうことになるのです。エペソ4章1節から16節までのところには、このことについて言われています。

ですから、私たちはいつもこのことに敏感になり、自分に与えられている賜物が用いられ、その賜物がしっかりと組み合わされ、結び合わされることを求めていかなければなりません。その時キリストのからだである教会は成長して、愛のうちに建て上げられるのです。自分だけはという考えは許されません。

そして34節以降からは、30歳から50歳までのそれぞれの氏族の登録人数について書かれています。最後の節を読みます。「モーセを通して示された主の命令によって、彼は、おのおのその奉仕とそのになうものについて、彼らを登録した。主がモーセに命じたとおりに登録された者たちである。」モーセは主の命令にしたがって、これらのことを行ないました。
イスラエルが約束の地に向かって進んでいくために、神はイスラエルにこのような登録と割り当てを行いました。それは彼らが力強く前進していくためです。それは私たちも同じです。私たちもキリストの旗印を高くあげ、この世の旅路において敵に処理するために、十字架のキリストを見上げているでしょうか。神によって救われ、神の民とされた者として、神の命に従って、神に仕えておられるでしょうか。私たちは主によって前進し、主の命によって動く群れなのです。それは自分から出たものではありません。キリストのからだである教会の一員として登録され、互いに励まし、助け合い、結び合って、仕えていく群れなのです。私たちはそのために数えられているのです。それは神の恵みによるのです。あなたは神のイスラエルの宿営の中で自分に与えられた務めを全うしていくとき、群れ全体が生かされ、強められ、共に約束の地に向かって前進していくことができるのです。

創世記9章

きょうは、9章から学びたいと思います

1.新しい命令(1-7)

まず1節から7節までをご覧ください。箱舟から出たノアは、主のために祭壇を築き、その祭壇の上で全焼のいけにえをささげました。すると神は、そのなだめのかおりをかがれ、再びこの地をのろうことはしないと約束されました。それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、言われました。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。」

 

これは神がアダムを創造された時に与えられた祝福と同じことばです。しかし、その後にある動物の支配に関する命令は、初めの創造の時とは異なっていることがわかります。初めの創造の時には、「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」とありましたが、ここでは、「野の獣、空の鳥、地の上を動くすべてのもの、それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。」とあります。何が違うのかというと、動物たちが、人を恐れるようになると言われていることです。動物たちが本能的に人間に対して恐れを示すようになったことです。どういうことでしょうか?人間と動物の関係が根本的に変わったということです。どういうふうに?それまでは人の心をなごませ、いやし、友のような存在であった動物が、食用として食べられるようになったということです。この時になって初めて、人間が動物の肉を食べることが許されたのです。しかし、人が肉を食べる時には一つの決まりが定められました。何でしょうか?「肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。」(4)ということです。どういう意味でしょうか?血のあるままで食べてはならないというのは、生で食べてはならないということでしょう。人が動物の肉を食べる時には、血を適切に処理しなければなりませんでした。なぜでしょうか?人のいのちは血にあるからです。その血は、被造物のいのちを表していました。ですから、人が犠牲をささげるときには、この血が用いられたのです。(レビ17:11)いのちの象徴であるこの血を尊ぶことが求められたのです。ですから6節には、「人の血を流す者は、人によって血を流される。」とあるのです。人の血を流すこと、あるいは自分の血を流すことは、その中にある神のかたちを傷つけることであり、神に反逆することなのです。それゆえに自殺も殺人、神のみここにかなわない罪なのです。つまり、神が新しい人類に肉を食べるそのとき、血のあるままで食べてはならないと言われたのは、人のいのちの尊さを教えるためだったのです。ですから、これは単に生で食べてはならないという衛生的なことや、輸血をしてはならないといった医学的なことが言われていたのではなく、人のいのちに対する考え方を教えることが意図されていたのです。

2.契約のしるし(8-17)

続いて神はノアと、彼といっしょにいた息子たちに告げて言われました。「さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。」その契約の内容とはどんなものだったでしょうか?11節です。それは、「すべての肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」ということです。この神が立てられた契約の特徴は、万物をその範囲としていることと、すべての歴史をその時間としていることです。もはや二度と洪水でこの地上が滅ぼされることはない・・・と。そして神は、この契約を覚えさせるために、一つのしるしを与えてくれました。何でしょうか。虹です。神は雲の中に虹を立てることによって、それをご覧になられ、すべての息ある者との間に交わされた契約を思い出されるというのです。つまり神は、ご自分が立てられた契約を実証するために、虹によって署名捺印されたのです。これは、神のあふれる恵みの行いです。

聖書は、実に神の契約です。ですから、旧約・新約聖書と呼ぶわけです。この神の契約(救いについての契約、約束)が真実であることを、神は確証し、イエス・キリストを十字架の上で死なせ、さらに復活させられたのです。これが神の契約に対する書名捺印です。ノアの場合の契約はこれをさし示していたのです。あるいは、このように言うこともできます。神の契約はイエス・キリストの十字架による契約です。そのしるしとして神は聖餐式を制定されました。その聖餐を受ける度に、神が「私のために」その契約を覚えておられると確信することができます。したがって、ノアへの神の契約とそのしるしの虹は、この聖餐を指し示していたとも言えるでしょう。神はそれをご覧になる度に、永遠の契約を思いおこすと言われましたが、それと同様に、神は聖餐によって、私たちへの契約を思い起こされるのです。

ここで注意しておきたいことは、この契約のしるしとしての虹が雲の中に現れる時、永遠の契約を思い起こされるのは私たちではなく、神の側であるということです。すぐに物事を忘れてしまうような弱い私たち人間の記憶には、契約の土台のひとかけらも置かれていないのです。神が思い起こしてくださいます。これだけで十分ではないでしょうか。太陽と黒雲の交錯する中から、虹が輝き出す時、明るい神の愛が、どす黒いさばきに打ち勝った勝利の象徴として描き出されるのです。天から地へとかけられた美しい虹のかけ橋に、神が人間に対して平和のメッセンジャーを送って来られたかのようです。しかし現実には、視界をはるかに越えて、神の恵みの契約がすべてのものを包んでいることを宣言していたのです。

4.洪水後の人類の歴史の始まり(18-19)

次に18,19節をご覧ください。「箱舟から出て来たノアの息子たちは、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。この三人がノアの息子で、彼らから全世界の民は分かれ出た。」

ここから、洪水後の人類の歴史が始まります。最初の人間アダムによってすべての人間が始まったように、洪水後の人類は、ノアの息子たちによって始まり、全世界の民は彼らから分かれ出ました。それぞれの子孫については来週見ていきたいと思いますが、ここでは「ハムはカナンの父である」と付け加えられていることについて少し考えてみたいと思うのです。なぜここにいきなりカナンが出てくるのでしょうか。これは22節でもそうですし、25節にも記されてあることです。カナンとは、10章6節を見てもわかるように、ハムの四人の子供の末っ子ですが、ここからカナン人の諸氏族が分かれ出るようになります。おそらく、後にイスラエルがカナンを占領するようになった原因が、布石として、ここに記されてあるのではないかと思われます。それはハムの問題でしたが、同時に父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす(民数記14:18)ということが表されているのではないかと思います。

5.ノアの失態(20-21)

さて、ノアはぶどう畑を作り始めた農夫でしたが、ぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていました。ぶどう酒を飲んで酔っぱらったり、天幕で裸になったりすることが問題なのではありません。問題は、彼が明らかに分別を失ってしまったことです。エペソ5章18節には、「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。」とあるのはそのためです。酒を飲むことが問題なのではなく、酒に飲まれてしまうのが問題なのです。裸になっていたというのはその現れでしょう。それにしても、いったいノアはどうして失敗を犯してしまったのでしょうか。かつて箱舟を作った信仰深いノアとは、全く別人のような印象を受けます。やはりそこには気のゆるみ、安心感といったものがあったのではないでしょうか。もう二度と洪水で滅ぼされることはないという神の約束をいただいて、安心しきっていたのかもしれません。そんな心の隙に悪魔が入り込み、お酒という手段を用いて誘惑してきたのです。そのお酒が分別を失わせてしまいました。信仰深いノアでしたが、お酒によって霊的な感覚を失ってしまい、その人生に大きな傷をもたらすことになってしまったのです。

6.ハムの罪(22-23)

さて、そのような父の姿を見た三人の子どもたちは、どのような態度を取ったでしょうか?まずハムです。彼は、父の裸を見て外にいる二人の兄弟たちにそのことを告げました。それでセムとヤペテは着物を取って、自分たち二人の肩に掛け、父の裸を見ないようにして、うしろ向きに歩いて行き、父の裸を覆ったのです。彼らは顔を背けて、父の裸を見ませんでした。この三人のした行為とは、いったいどういうことだったのでしょうか。この後でそのことでハムはのろわれ、セムとヤペテは祝福されています。ハムがのろわれてしまったのはいったいどうしてだったのでしょうか。

まずハムが父の裸を見て、それを外にいたふたりの兄弟に告げたとはどういうことなのでしょうか?このような彼の態度には、父に対する軽蔑(見下げた思いと態度)と、父親の失敗を他人に告げ、それを広げ、批判した(攻撃)したこと。さらには、彼が思っていた父親に対する不満に、兄弟の同調を求めたということが考えられます。それは罪です。出エジプト記20章12節には、「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」とあります。また、21章17節にも、「自分の父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない。」とあります。あるいは、ヤコブ4章11節には、「兄弟たち。互いに悪口を言い合ったりしてはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。」とあります。彼は尊敬し、愛すべきはずの父親の醜態を見たとき他の人にその恥ずかしい姿を見せないように、あるいは、風邪を引いたりしないように配慮してそれを覆うというようなことをしないで、その醜態を嘲笑し、それを兄弟に告げ口して傷口を広げたのでした。

このようなことは、時として私たちにもよくあるのではないでしょうか。他人の欠点、弱点をすぐにあばきたてようとする。人を責め立てるのです。自分の中には大きな梁があるのに、他人の中の小さな塵に目を留めようとする。ガラテヤ6章1節には何と書いてあるでしょうか。「もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人をただしてあげなさい。」とあります。「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」とあります。すなわち、神様がご覧になられるようにほかの人を見、神様が為さるように行動する。それが求められているのです。

それをしたのは他の兄弟セムとヤペテでした。彼らはうしろ向きに歩いて行って、父の裸を見ないように顔を背け、着物で覆ったのです。なぜ彼らはそのようにしたのでしょうか?父の弱さに同情したからです。「何だって父さんもこんな失敗しちゃったけど、回復するように祈ろう」という態度です。父の態度を見て行動したのではなく、神を仰ぎながら父親に近づいたのです。まさに愛はすべての罪を覆うとあるようにです。

7.のろいと祝福(24-27)

さて、そのような三人の息子たちの態度に対して、どのような結果がもたらされたでしょうか?酔いから覚めたノアは、そうした一連の出来事を聞いて、まずハムにいました。「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」

ノアは自分の気分や感情、体面からのろったのではありません。神から罪を赦されなければならない者が、ほかの罪人に対してこれを責めることなどできないからです。彼は、神のさばきを伝達する預言者として、ここでハムに神の御旨をとりついだのです。そして、その内容は、彼はのろわれ、しもべらのしもべとなるということでした。これは後にヨシュアがカナンを征服したとき、カナン人がイスラエルに服従したことや、ソロモンが彼らを奴隷の苦役に徴用したということによって成就しました。

しかし、これは民族としてのカナンというよりも、霊的な意味でのカナンととらえた方がよいと思います。このハムというのは今日の黒人の祖先たちとなった人たちですが、アジア・アフリカの人々の生活の低さというものが、ノアのこののろいから来ているということではありません。というのはこのカナンというのは民族としてのカナンのことではなく、霊的カナンのことだからです。すなわち、霊的なことを軽んじ、神に反逆する者は、神ののろいの中にいるということです。それは今日のヤペテの民族的子孫である白人たちの中にもいるし、逆に霊的ヤペテは、ハムの民族的子孫の中にもいるのです。つまり、こののろいは、神に反逆し、神を神として歩もうとしない人たちすべてに告げられているのろいなのです。 また、セムに対しても言いました。「ほめたたえよ。セムの神、主よ。カナンは彼らのしもべとなれ。」これはセムから後に救い主が誕生することの預言でもあります。このセム系の子孫からアブラハムが生まれ、イエス・キリストが生まれ、人類に救いの祝福がもたらされていくようになるのです。また、ヤペテには、「神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。」と言いました。このヤペテ系の民族から、神の福音を伝える働きをした欧米のキリスト教圏の人々が生み出されました。

このようにてみると、神に従う者への祝福と神に従わない者へののろいがどんなに大きいものかがわかります。始めはそれほど大きな違いがないようですが、三代、四代と続くその子孫の中で、それが大きな広がりをもって現れてくるのです。そういう意味では、この神の祝福の系図が今から広がっていくように、まず私たちがセムやヤペテのように、神のみことばに歩む、信仰の歩みを始めていきたいものです。

ところで、ここでハムではなくハムの子カナンがのろわれているのは、カナンが神の系統であるセムと密接なつながりがあるということと、(地理的、人種的に)末っ子であったハムの、そのまた末っ子であったカナンにまでのろいが相続したことで、カナンがハムの相続者であることが凶兆されているからではないかと思われます。

Ⅰテサロニケ4章13~18節 「祝福された望み」 

きょうはⅠテサロニケ4章13~18節までの箇所から死者の復活についてお話したいと思います。タイトルは、「祝福された望み」です。パウロは4章でテサロニケのクリスチャンたちに三つのことを勧めています。一つは聖くなること、二つ目に互いに愛し合うことです。そして三つ目のことは、互いに慰め合うことです。きょうのところには、三つ目の互いに慰め合うことについて勧められています。いったいクリスチャンにとっての慰めとは何なのでしょうか。18節には、「こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」とあります。これが慰めです。つまり、クリスチャンは死んで終わりではないということ、イエス・キリストが再び来られるとき死んだからだがよみがえり、朽ちることのない栄光のからだによみがえり、一挙に雲の中に引き上げられ、空中で主と会うようになるということ、そのようにして、いつまでも主とともにいるということです。これがクリスチャンの慰めなのです。私たちはこのことばをもって互いに慰め合わなければなりません。きょうはこのことについて三つのポイントお話をしたいと思います。

Ⅰ.知らないでいてもらいたくない(13)

まず13節をご覧ください。ここには「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。」とあります。

「眠った人々」というのは、イエスさまを信じて死んだ人たちのことです。今、この中に眠っている方がおられるでしょうか?その人のことではありません。イエス・キリストを信じて死んで人たちのことです。

ヨハネの福音書11章には、マルタとマリヤの弟ラザロが死んだとき、イエスさまは「彼は眠っている」と言われました(11:11)。また、使徒の働き7章60節でも最初の殉教者ステパノが死んだ時、彼は「眠りについた」と言われています。ですから、眠っている人々というのは、死んだ人々のことを言っているのです。パウロは、この眠った人々のことについて、知らないでほしくないと言いました。なぜでしょうか。なぜなら、他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。

皆さん、何をどう考えるかはとても重要なことです。なぜなら、それによって私たちの世界観が決まるからです。テサロニケのクリスチャンたちはイエスさまが間もなく再臨すると信じその日を迎えることに大きな確信と希望を抱いていましたが、パウロたちがテサロニケを去った後で何人かの兄弟姉妹が死んでしまった時、動揺を隠せませんでした。なぜなら、主の再臨を前にして死んだ人々は再臨の祝福とか、救いの完成にあずかることができないのではないかと思ったからです。しかし、それは彼らの誤解によるものでした。眠った人々のことについて彼らが正しく理解していたら、悲しみに沈むことはなかったのです。

それはテサロニケのクリスチャンたちだけに言えることではありません。私たちも死後のことを知らなかったり、誤解していると、悲しみに沈むことになってしまいます。ですから、聖書の教理を正しく知ることはとても重要なことなのです。私はあまり教理には興味がありませんと言う方もおられますが、もし知らなかったら、他の望みのない人々のように悲しみに沈むことになってしまうのです。そういうことがないように、私たちはこのことについての聖書の教理を正しく知らなければなりません。

特にこれはテサロニケのクリスチャンに向けて言われていることです。パウロはこのテサロニケに三つの安息日にわたって滞在しました。つまり、三週間程度しか滞在できませんでした。ユダヤ人の激しい迫害と妨害があって滞在することができなかたのです。そのような生まれたばかりのクリスチャンにとってどうしても必要な信仰の基礎しか話すことができなかったのです。そんな彼らに対して、眠った人々のことについては、知らないでいてほしくないと言いました。なぜならこれは救いに関する重要な教理だからです。知ってもいい、知らなくてもいいというレベルのことではなく、どうしても知っておかなければならない、キリスト教信仰の根幹に関わる重要な内容だったのです。皆さんは、このことについて知っておられるでしょうか。眠った人々がどうなるかについて、どのように受け止めて目おられるでしょうか。

私たちはイエスさまを信じれば救われるということを知っています。その人のすべての罪は赦されて永遠のいのちが与えられます。これを神学用語で「義認」(justification)と言います。そして、そのように罪が赦された人は、その罪の力から解放されます。それまでは罪の力に全く無力でしたが、罪が赦されたことによって徐々にその罪の支配から解放されて、罪に打ち勝てるようになりました。少しずつですが、イエスさまに似た者に変えられているのです。これを「聖化」(sanctification)と言います。このことはすべてのクリスチャンが経験していることです。しかし、救いはそれだけではありません。未来の側面もあります。やがてイエスさまが再臨される時どうなるかということです。そのときクリスチャンは、死んだ人も生き残っている人も栄光のからだによみがえり、一挙に雲の中に引き上げられ、空中で主と会うようになります。そのようにして、私たちは、いつまでも主とともにいるようになるのです。このことを何というかというと、「栄化」(glorification)と言います。これが救いの完成の時です。パウロがここで言っていることはこの救いの完成、glorificationのことです。そのことはピリピ3章20~21節でも言及されています。

「20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」

私たちはイエスさまを信じて、天に国籍を持つ者とされました。しかし、それだけではありません。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを待ち望んでいるのです。その時、キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださいます。もう二度と罪を犯すことのないからだ、病気になることのないからだ、死ぬことのないからだ、栄光のからだに変えられるのです。まずキリストにあって死んだ人が、次に、生き残っている人が、たちまち雲の中に引き上げられ、空中で主と会うのです。そのようにして、いつまでも主とともにいるようになるのです。これが救いの完成です。これが救いの全貌なのです。何だかビフォアー、アフターみたいですね。それでは全貌をご覧ください。これがその全貌です。だからイエスさまを信じて救われたというだけでは、まだ建物の土台と骨組、屋根、壁が完成して住めるようになったというようなもので、まだ完成はしていないのです。救いの完成はキリストが再臨される時にもたらされます。これがクリスチャンの希望です。そのことがわかるとき、あなたは悲しみに沈むことはありません。このことを知っていたら、現実の生活の様々な困難と苦しみの中にあっても、生きる希望と力が与えられるのです。

Ⅱ.イエスは死んで復活された(14)

では、その根拠は何でしょうか。なぜそのように言えるのでしょうか。なぜなら、聖書にそのように書いてあるからです。このようなことを言うと、中には「何バカなことを言っているんだ」とか、「あれからもう二千年が経っているというのに、キリストの再臨なんかないじゃないか」、「それは象徴にすぎないんだよ」という方がおられるのです。これがノンクリチャンならまだしも、イエスさまを信じているというクリスチャンの中にもそのように言われる方がおられるのです。そこでパウロは、これが実際に起こることであるという根拠、あるいはその保証をここで述べているのです。それは何でしょうか。それはイエスの復活です。14節をご覧ください。ここには、「私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。」とあります。

イエスさまが死んで復活されたのなら、そのイエスを信じるクリスチャンはキリストにつぎ合わされた者なのだから、キリストが復活したように、復活するというのです。「もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」というマルタに対して、イエスさまは、「あなたの兄弟ラザロはよみがえる」と言われました。いったいその根拠は何でしょうか。イエスさまはこのように言われました。ご一緒に読みましょう。ヨハネの福音書11章25節です。

「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)

イエスはよみがえりであり、いのちです。だから、イエスさまを信じる者は、死んでも生きるのです。これが根拠です。これが、私たちが生と死の中で生きなければならない不条理に対する究極の解決であり、慰めなのです。ラザロが死んで悲しみ、泣いているマリヤの姿を見て、また、彼女といっしょにいた人たちも泣いているのを見て、イエスさまは涙を流されました。英語ではたった二文字でこれを表しています。「Jesus wept」(John11:35)です。これは英語の聖書の中で一番短い聖句になっています。イエスさまはなぜ涙を流されたのでしょうか。人は、いろいろな時に涙を流すものです。悲しい時、同情した時、後悔した時、嬉しい時、いろいろな涙があります。しかしそこに共通していることは、人が涙を流す時には必ず何らかの感情が伴っている時であるということです。では、この時イエスさまはどんな感情を持っておられたのでしょうか。33節を見ると、「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて」とあります。イエスさまは、死んだラザロの墓の前で、姉妹のマリアが泣き、一緒に来ていたユダヤ人たちも泣いているのをご覧になられると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて涙を流されたのです。死という冷酷な事実の前に、人は全く無力であるということ、そして人間の愛は引き裂かれ、泣く以外にどうすることもできない存在であるという現実を前に、イエス様は憤りを覚え、心の動揺を感じて涙を流されたのです。つまり、イエス様が涙を流されたのは、人間的には同情の心から出たもののように見えますが実はそうではなく、それ以上に、死というものが、人間にこれほどまでの悲しみをもたらすものであるかを感じられたからなのです。

Ⅰコリント15章26節には、死は「最後の敵」とあります。この死に高らかに勝利したのが、ご自身の死と復活の出来事でした。その主を信じる者は同じように復活することを証明したのが、このラザロの復活という奇跡だったのです。イエス・キリストの死と復活を信じるなら、それを信じるクリスチャンの上にもそれと同じことが必ず実現するのです。

皆さんは、どうでしょうか。やがて朽ちることのないからだ、栄光のからだによみがえるという確信を持っておられるでしょうか。栄光のからだによみがえり、雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うという希望を持っておられるでしょうか。そう信じていても、いざそれが本当に自分の上にも起こるという確信を持てなくなる時があります。しかし、やがて起こるからだにの復活を、感情的にとらえてはなりません。それはただ不安を増大されることになるからです。そうではなく、死んでもよみがえることの保証をイエス・キリストの死と復活、そしてそれを信じる信仰の中に置かなければならないのです。それは変わることのない神のみことばによる約束だからです。

Ⅲ.こういうわけだから(15-18)

最後に、15節から18節までをご覧ください。15節には、「私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。」とあります。

これはパウロが作り出した話ではなく、また、人間が勝手にあみだした教理でもないのです。これは主が語られたことです。それは主のみことばにしっかりと打ち出されていることなのです。その主のみことばのとおりに言うならば、主が再び来られる時まで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。どういうことでしょうか?ここには復活の順序について語られています。主が再び来られるとき、まずキリストにある死者がはじめによみがえり、次に生き残っている人が、たちまち彼らと一緒に雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいるようになるのです。

ところでパウロはここで「生き残っている私たち」と言っています。彼は主の再臨が今すぐに、自分たちが生きている間に起こることとしてとらえていたのです。今この瞬間にも起こるかもしれないという切迫性をもって受け止めていたのです。皆さんはどうでしょうか。そのような切迫した思いでキリストが来られるのを待ち望んでいるでしょうか。もしそのように受け止めていれば、私たちの生活は一変するはずです。もし主が1時間後に来られるとしたらどうでしょうか?家に帰っていろいろ整理するかもしれませんね。これはいらないもの、これは必要なもの、でもやっぱりいらないか・・、と整理してみたら、何もいらなかったとか・・・。パウロはそのような切迫感をもって主を待ち望んでいたのです。

16節と17節をご覧ください。「16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」

主は号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下ってこられます。号令とは、兵士が上官から下される命令のことで、ここでは神の威厳と緊急性を表しています。また、御使いのかしらの声とは、天使長ミカエルの声とも考えられていますが、はっきりしたことはわかりません。それから、神のラッパの響きとは、Ⅰコリント15章52節にある「終わりのラッパ」のことです。このラッパの高らかな響きと共に、ご自身が天から下ってくると、一瞬のうちに、変えられるのです。まずキリストにある死者です。キリストにあって死んだ人たち初めによみがえり、次に、生き残っている人たちです。生き残っている人たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、いつまでも主とともにいることになるのです。

皆さん、これを想像してみてください。今までいっしょにいた人が急にいなくなるのです。「あれ、私の妻がいなくなった」「私の夫もよ」と大きな社会ニュースになりますが、いったいどこへ行ってしまったのかわからないのです。

全米でベストセラーになった小説で、映画にもなった「レフトビハインド」は、この出来事、つまり空中携挙といって、空中に引き上げられることを描いた映画です。ある日突然イエスさまを信じていた人々や幼い子供たちが姿を消してしまうのです。ジャンボジェットの機長をつとめるレイフォード・スティールは乗務員のハティーに夢中になっていました。彼には妻子がいましたが、妻のアイリーンはキリスト教信仰に深く傾倒していたので、彼はそんな妻を遠ざけていたのです。そんな彼がふと操縦室を出てハティーのもとに行くと、彼女が何かでおびえていました。彼女は慌ててレイフォードを調理室に引っ張っていくと、そこで突如として機内に起こった異常を告げたのです。何と乗っていた多くの乗客が、身につけていたものを残して消えてしまったのです。しかもこの現象は、機内に限らず全世界で起こっていました。いったい何が起こったのか・・。宇宙人による誘拐説などいろいろな説が入り混じる中、黙示録の予言が成就したのだということを見抜いた人もいました。その一人、ブルース・バーンズという牧師は携挙されませんでした。彼は牧師でありながら救われていなかったのです。しかし、この事で彼は自らの信仰を見つめ直し、人々にキリストを信じるようにと説得しました。一方、妻と息子を携挙で失ったレイフォードは牧師のブルースと出会い、信仰に生きるようになります。やがて反抗的であった娘も回心し、それ以外でも様々な人々が信仰に目覚めていったのです。

いったいなぜある人が突然いなくなってしまうのか。それは引き上げられるからです。イエスさまを信じた人はみな、死んだ人も、生き残っている人も一瞬のうちに朽ちないものによみがえり、空中に引き上げられるのです。これを「携挙」と言います。それで突然多くの人がいなくなってしまうのです。しかし、それは祝福された望みです。なぜなら、そのように引き上げられ、空中で主と会い、そのようにしていつまでも主とともにいるようになるからです。それはまさにイエスさまとの結婚式なのです。花婿なるキリストが、花嫁なる教会を迎えに来て、そこでふたりは固く結ばれます。もう二度と離れることはありません。ずっと待ち望んだイエスさまとの結婚式が実現するのです。ですから、それは最高の喜びの時でもあります。でも、地上はそうではありません。地上では神の怒りによるさばきの時を迎えます。彼らはイエスさまを信じなかったので、七年間にわたって患難がもたらされるのです。それは私たちが時々経験するような苦しみとか試練といったものではありません。それは神の怒りによる激しいさばきです。しかし、クリスチャンはこのさばきに会うことはありません。なぜなら、「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」(Ⅰテサロニケ5:9)ですから、クリスチャンはこのさばきに会うことはないのです。クリスチャンは引き上げられて、空中で主と会い、いつまでも主とともにいることになるのです。これは希望ではないでしょうか。パウロはこの希望のことを「祝福された望み」と言っています。テトス2章13節をお開きください。ここには、「祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとしたからです。」とあります。

皆さん、これはただの望みではありません。これは祝福された望みです。大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光の現れ、これはキリストの空中再臨のことですが、これは私たちにとって祝福された望みなのです。その時私たちは朽ちることのないからだによみがえって、一挙に引き上げられ、空中で主と会い、いつまでも主とともにいるようになるからです。その時私たちの救いは完成するのです。これが本当の望み、祝福された望みなのです。

皆さんも、たくさんの希望があると思います。将来はレスキュー隊に入り多くの命を救いたいとか、レントゲン技師になって、看護師になって多くの人を病気から救いたい、愛する人と結婚して幸せな家庭を築きたい、元気に赤ちゃんが生まれてきてほしい・・・。どれもすばらしい望みです。しかし、この望みは特別な望み、祝福された望みです。この希望は失望に終わることがありません。何があっても決して失われることのない希望、それがイエス・キリストの栄光ある現れ、携挙なのです。

クリスチャンにはこの希望が与えられています。この希望があることを知っていたら、あなたは悲しみに沈むことはありません。たとえ現実の生活の中に困難や苦難があっても、この希望のゆえに乗り越えることができるのです。この希望があなたの慰め、生きる力となるからです。

有名な賛美歌「いつくしみふかき」を書いたのは、ジョゼフ・スクラビンという19世紀のアイルランド人です。彼の生涯は、この世的には全く恵まれないものでした。大学卒業後に事業を営みますが、結婚式を目前にしてその婚約者を湖の事故で亡くします。事業においても失敗して破産するのです。その後アイルランドからカナダに渡り、教鞭を取りながら、不幸な人や貧しい方たちへの奉仕活動にその生涯を献げました。そんな活動の中で出会った女性と婚約しますが、その女性も結核を患い、帰らぬ人となるのです。彼は1度ならず2度までも愛する婚約者を失うのです。世をはかなみ、自分の人生をどれほど呪ったことでしょうか。神を恨んでも仕方がないと思えるような状況の中で、彼は郷里のアイルランドで病に苦しむ母を慰めるために、この讃美歌を書いたのです。神を呪いたくなるほどの試練と苦悩を味わいながらも、悩みと苦しみの中にある自分を慰め、力づけてくれたのは何だったのでしょうか。それはイエス・キリストでした。イエス・キリストによってもたらされる望みだったのです。

「1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:1-5)

こ の神の愛は、あなたの心にも注がれているのです。なぜなら、あなたも、神の栄光を望んで大いに喜んでいるからです。「このことばをもって互いに慰め合いなさい。」私たちはいつもここに希望を置き、このことばをもって互いに慰め合う者でありたいと思います。私たちには祝福された望みが与えられているのですから。

Ⅰテサロニケ4章1~12節 「主の召しにふさわしく」

きょうは、「主の召しにふさわしく」という題でお話します。「召し」とは「ご飯」のことではありません。呼び招くことです。クリスチャンは主に呼び招かれた者です。ですから、その召しにふさしく生きる者でなければなりません。きょうは、その召しにふさわしい歩みとはどのような者なのかについて学びたいと思います。

Ⅰ.クリスチャン生活の基準(1-2)

まず1節と2節をご覧ください。「1 終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。2 私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授けたかを、あなたがたは知っています。」

ここでパウロは、テサロニケの人たちにお願いし、勧告しています。これは3章13節のことばを受けての勧告です。3章13節には、「また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。」とあります。やがて主イエスが再び来られるのですから、その時に、私たちの神の御前で、聖く、責められるところがないように、しっかりとそれに備えておくようにということですが、そのための勧告であります。ここでは三つのことを勧めています。第一のことは聖くなること、第二のことは互いに愛し合うこと、そして第三のことは、互いに慰め合うことについてです。いったい何が慰めなのでしょうか。このことについては来週お話したいと思います。きょうは、最初のの二つの勧告を見ていきたいと思いますが、その前に、ここにはその前提が述べられています。それは、「あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。」ということです。

ここには「歩む」という言葉が強調されています。この「歩む」というのは何かというとクリスチャンライフのことです。私たちの信仰はただ聖書を頭で学ぶだけのものではありません。その学んだことを実際の生活に適用し、神に従うということを通して実践するわけです。それがクリスチャンの歩みです。その歩みのポイントは何かというと、どのようにして神を喜ばすことができるかということです。以前はそうではありませんでした。以前は、どのようにして自分を喜ばすことができるかということでした。しかし、神によって救われてクリスチャンになってからは、どのようにしたら神を喜ばすことができるかを考えて歩むようになりました。なぜなら、私たちは神によって造られ、神によって救われた者だからです。ですから、その造り主であり救い主である神の喜びは何か、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえて生きるようになりました。ローマ12章1節、2節にそうあります。神の喜びは何かが、クリスチャン生活の基準なのです。

皆さんは、よくリストバンドなどにW.W.J.D.と印字されたものを見かけたことがあるでしょうか。あれはWhat would JESUS do?の頭文字をとったものです。意味は、イエス様ならどうするか?です。それまではいつも自分のしたいことをしていました。しかし、イエス様によって救われた今は違います。自分がしたいことではなく、イエス様が私たちにしてほしいと願っておられることを考えて歩むようになりました。それがクリスチャンです。それがクリスチャンの行動の基準なのです。

それはすでにこのテサロニケの教会の人たちが歩んでいたことです。しかし、パウロはここで「ますますそのように歩んでください」と言っています。クリスチャンにとってもう十分だということはありません。これで十分だと言ったとたんにバックスライドし始めます。クリスチャンが前に進んでいる限りにおいては大丈夫なのですが、もう十分ですそこに立ち止まった瞬間にバックスライド(後退)するのです。ですから、へブル人への手紙6章1節にはこう勧められているのです。

「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。」

皆さん、私たちは初歩の教えで満足するのではなく、常に成熟を目指して進む者でありたいと願わされます。もちろん、そうでないと救いから落ちるということではありません。それでも天国にはいけるので問題ないのですが、神のみこころは、私たちが成熟を目指して歩み続けることなのです。

テサロニケ4章に戻りまして、2節を見ると、「私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授けたかを、あなたがたは知っています。」とあります。1節にも「主イエスにあって、お願いし、また勧告します」とありました。どういうことかというと、これはパウロの個人的な意見ではないということです。これはパウロが主イエスから受けた命令なのです。それをパウロを通して語っているにすぎないのです。ですから、これを人の言葉として軽くあしらってはなりません。これは主イエスの勧告なのです。この天地万物を造られた創造主なる神の、王の王、主の主であられるイエスの言葉なのです。そう受け止めて、私たちは、ますますそのように歩む者でありたいと思います。

Ⅱ.神のみこころはきよくなること(3-8)

次に3節から8節までをご覧ください。「3 神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、4 各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、5 神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、6 また、このようなことで、兄弟たちを踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。」

私はよくクリスチャンの方から相談を受けることがあるのですが、その中で一番多い相談は、「神のみこころは何でしょうか」というものです。「神は私に何を望んでおられるのでしょうか」ということです。それが聖書に具体的に書いてある時は確信をもって「神のみこころは・・・です」と言うことができるのですが、時には微妙なケースもあります。微妙なケースというのは、聖書ではっきり言っていないことや、置かれた状況によってはどちらでもいい場合です。そういう時には返答に困ってしまう時があるのですが、ここには100パーセント、これは神のみこころだということが書かれてあります。それは何かというと、聖くなることです。ここには、「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。」とあります。

聖くなるとはどういうことでしょうか。この「聖い」と訳されている言葉はギリシャ語で「ハギオス」ということばですが、ある目的のために分けるという意味です。ここでは神の目的のために分けること、区別することを指しています。ですから、これを「聖別」とか、「聖化」とも言うのです。7節にも同じことばが使われていますが、ここでは「聖潔」と訳されています。聖潔の聖は、「清」ではなく「聖」ということばを使われています。これは単に清いということではなく、神のために区別されていることを示しているからです。Ⅰペテロ1:15-16には、「15 あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。16 それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない』と書いてあるからです。」とあります。『』の部分はレビ記11章44節等からの引用ですが、神が私たちを召されたのは何のためか、それは私たちが神のようになるためです。それで、神は聖ですから、あなたがたも聖でなければならない、というのです。これが神のみこころなのです。

その具体的な一つのこととして、ここでは不品行を避けるということが語られています。不品行とは、性的な不道徳のことです。パウロが手紙を書き送っているテサロニケは異教の町で、異教的な習慣がはびこっていました。その一つは、妻の他にめかけがいたことのです。日本でも明治時代の前半までは、政治家や高級官僚、財界人と言われるようなクラスの経済人、大地主の多くは、こうしためかけがいたと言われています。それが普通の社会だったのです。ちゃんと働いて家族を養っていれば、めかけがいても問題ではないと思われていました。特にパウロはこの手紙をコリントという所で書いていましたが、コリントの町は性的不道徳がはびこっていた町で、教会の中でさえ、父の妻を妻とする者もいたほどで、そうしたコリントの人たちのふるまいを、「コリントのようにふるまう」と言われていたほどです。パウロはこのコリントの町にいて、テサロニケの人たちのことが心配だったのでしょう。異邦人の町ではこうしたことが当たり前のように行われているけれども、あなたがたの間ではそうであってはならない。神のみこころは、あなたがたが聖くなることであり、そうした異邦人の中にあっても情欲におぼれることなく、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保つようにと書き送ったのです。

いったいなぜ神はこのように望んでおられるのでしょうか。ここに二つの理由が述べられています。一つは、私たちのからだは神から受けた聖霊の宮であるからです。4節には、「各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、」とありますが、この「からだ」と訳されたことばは「器」のことです。Ⅰコリント6章19-20節には、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」とあります。私たちのからだは、神から受けた聖霊の宮なのです。大切な神の聖霊が住んでおられる器なのです。その器であるからだを不品行によって汚すようなことがあってはなりません。だから、不品行を避けなさい、と勧められているのです。

また、Ⅱコリント4章7節にもこの「器」ということばが使われていて、そこには、「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」とあります。この宝とは、文脈からイエス・キリストのことであるのがわかります。あるいは、イエスの御霊である聖霊のことであると言ってもいいでしょう。その宝を、この土の器の中に入れているのです。この土の器とは何でしょうか。それはからだのことです。この土の器のように落としたらすぐに壊れて砕き散ってしまうような器の中に、計り知れない宝を入れているのです。その器を、いったい何のために使おうとしているのでしょうか。それを自分の快楽のためにではなく、神の栄光のために使いなさい、と言われているのです。これまでは自分のからだは自分のものだと思って、自分の目的のために使っていました。自分の快楽のためとか、願望のために使っていたのです。しかし、これからはそうであってはなりません。これからは神が喜ばれるように、神の栄光のために用いなさい、というのです。

もう一つの理由は6節にあります。それは、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりすることになるからです。踏みつけるということばは限度を超えるという意味ですが、神の家族としての一線を越えることになるのです。そのようなことで神の家族を破壊し、主にある兄弟姉妹を傷つけてはならないのです。神のみこころは、私たちが生くなることです。私たちが不品行を避け、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことなのです。

Ⅲ.互いに愛し合うこと(9-12)

主の召しにふさわしい第二のことは、互いに愛し合うことです。9節と10節をご覧ください。「9 兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。10 実にマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、あなたがたはそれを実行しています。しかし、兄弟たち。あなたがたにお勧めします。どうか、さらにますますそうであってください。」

「兄弟愛」と訳されたことばギリシャ語でフィラデルティアという言葉ですが、これは主にある家族が兄弟姉妹として抱く愛のことです。ここでは、この愛については、何も書き送る必要がないと言われています。なぜでしょうか?なぜなら、彼らはこのことを神から教えられた人たちだからです。つまり、それをよく実践していた人たちであったということです。その具体的な例が10節にあります。実に彼らはマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、それを実行していました。彼らはマケドニヤ州全土にいる他のクリスチャンに対して、悩む者を慰め、貧しい人々に助けの手を差し伸べていたのです。後になってパウロはコリントの教会に宛てて、次のような手紙を書き送りました。Ⅱコリント8章1節から5節までを開いてみたいと思います。

「1 さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。2 苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。3 私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、4 聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。5 そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。」(Ⅱコリント8:1-5)

このマケドニヤの諸教会というのは、テサロニケの教会を中心とした諸教会のことですが、彼らはエルサレムの教会を助けようと、迫害の苦しみの中にあっても、また、極度の貧しさの中にあっても、自ら進んで、力に応じて、いや力以上にささげました。彼らは自分たちが経済的に余裕のない者であったにもかかわらず、他者への支援を惜しみませんでした。なぜ彼らはそのようなことができたのでしょうか。それは主イエス・キリストの恵みを知っていたからです。すなわち、主は富んでおられたのに、私たちのために貧しくなられました。それは、彼らがキリストの貧しさによって富む者となるためです。その恵みが満ちあふれる喜びとなって、あふれ出て、惜しみなく施す富となったのです。

「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」(Ⅰヨハネ4:11)

「神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら・・」神に深く愛された者だけが、兄弟姉妹を愛することができます。イエス様の足を涙でぬらし、それを髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油をぬった女もそうです。いったい彼女がなぜそこまでできたのか?それは彼女の多くの罪が赦されたからです。イエス様はこう言われました。「少ししか赦されない者は、少ししか愛せません。」(ルカ7:47)そうです、彼女の多くの罪は赦されたのでよけいに愛することができたのです。少ししか赦されない者は少ししか愛せません。私たちは主にどれだけ赦されたのか、どれだけ愛されたのかによって、互いに愛し合うことができるのです。それが互いに愛する原動力となります。ですから、私たちは互いの兄弟愛の足りなさを指摘する前に、もう一度、すべての愛の出発点であるこの神の愛から謙虚に学ばなければなりません。

それにしても、テサロニケの教会は受けるだけで満足する教会ではありませんでした。受けて、その満ちあふれる喜びが、惜しみなく施す富となってあふれ出ていたのです。そんなテサロニケの教会に対してパウロは、この兄弟愛については、もう何も書き送る必要はないと言いました。彼らに必要なのは、ますますそうであるようにということだったのです。私たちは時として自分のこととか、自分の教会のことにしか目がいかず、その枠の中での献金や奉仕で満足しがちですが、このマケドニヤの諸教会、テサロニケの教会のように、自分たちのことだけでなく、他者のことも顧みて、喜んでささげていく、そんな群れにさせていただきたいとものです。今日でも、まだ小さな群れであるにもかかわらず、海外宣教や対外援助に重荷を持って積極的にささげている教会の姿を見ることがありますが、そのような信仰の姿を見ると本当に励ましを受けます。私たちは、そのような教会になりたいと願っています。激しい戦いや極度の貧しさにもかかわらず、主に救われた喜びがあふれ出て、それが惜しみなく施す富となっていく教会、聖徒たちを支える交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に願う教会、そんな教会になりたいのです。来週も錦秋湖のキャンプ場からキャンプラリーブリでお越しになられますが、最大級のおもてなしをさせていただきたいと思うのです。また、先日もウォーク・ウィズ・ジーザスが行われましたが、そんなささやかなおもてなしが、彼らのこころとからだをいやすために用いられたとしたら、どんなに幸いかと思うのです。何よりも、誰よりも、そうした交わりの恵みに預かりたいと願い、祈り、ささげ、労する人たちが一番大きな恵みを受けるのではないでしょうか。私はそう思うのです。そして、この愛のわざは、これで十分ということはありません。「どうか、さらにますますそうであってください」とあるように、ますますそうありたいと願います。

11節と12節には、「11 また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。12 外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。」とあります。互いに愛し合うことと、落ち着いた生活を志すこと、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働くことに、いったいどんな関係があるというのでしょうか?当時、このテサロニケの教会の中には、主の再臨について間違って理解している人たちがいました。確かに主はすぐにやって来ると言われましたが、だったら何をしたってむだだ、もう働く必要なんてないと、仕事を放棄している人たちがいたのです。しかしそれは極端な再臨の理解であり、不健全な信仰にほかなりません。落ち着いた生活を志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働いてこそ、主が来られるのを真剣に待ち望む者の姿なのです。

なぜなら、そのように自分の仕事に身を入れ、自分の手で働くことによって、外部の人々に対して良い証となるからです。また、自分にとっても乏しいことがなくなるからです。クリスチャンだと言いながら仕事が適当であったり、さぼりがちであったりしたら、まわりにいる人たちに対してあまりいい証にはなりません。クリスチャンだからといって学業をいい加減にしたり、さぼったりしていたら、それを見たまわりの人が「すばらしい」とか、「かっこいい」なんて言って、キリスト教の偉大さに心打たれることなどないでしょう。自分に与えられた仕事に身を入れ、人がやりたくないようなことでも熱心にやったりすることで、外部の人たちに対してもりっぱにふるまうことができるのです。

いったいなぜこんなことを書く必要があったのでしょうか。それはクリスチャンの中で互いに愛し合うということを間違って理解している人たちがいたからです。私たちの中にはどこか、この兄弟愛の意味をはき違えているところがあります。むやみに人を援助するだけでは、それが相手にとって本当の助けにはならないもあるのです。Ⅱテサロニケ3章8節には、テサロニケの教会に、人のパンをただで食べる人がいたことが指摘されていますが、ということは、教会内にそれを許している人たちがいたということです。もちろん、いろいろな事情があって働きたくても働けない人もいるでしょう。病気でからだが動かない人もおられます。そのような方々に対してはむしろ積極的に援助すべきです。しかし、そうでいない人たちに対しては、つまり、働けるのにそうしない人たちには、ただでパンをあげるということはふさわしくありません。それは決して兄弟愛でも何でもないのです。むしろ、その人をだめにしてしまいます。そのような人に必要なことは、自分の手で働くということです。そのことを教え、そのために援助すべきなのです。パウロは、健全な兄弟愛とは他の人を自立した生活へと導くことでもあるということを伝えたかったのです。

私たちはどうでしょうか。聖さにおいても、兄弟愛においても、神のみこころにかなった者となっているでしょうか。もしそうであるなら、さらにますますそうであるように求めていきましょう。もしそうでないなら、悔い改めて、神のみこころに歩めるように、ご聖霊の恵みに信頼したいと思います。あの姦淫の現場で捕えられ、イエス様のもとに連れて来られた女性に対して、主はこう言われました。「あなたを罪に定める人はいなかったのですか。わたしも、あなたを罪に定めない。今からは決して罪を犯してはなりません。」それは私たちに対する言葉でもあります。私たちも過去においては失敗や過ち、罪を犯して神のみこころにかなわない者であったかもしれません。兄弟愛についても、互いに愛し合うことよりも、人をさばくことがあったかもしれません。けれども、神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためです。その召しにふさわしく歩めるように、イエス様がいつも祈っていてくださいます。その祈りに答えて、神が喜ばれるような歩みを、歩もうではありませんか。ますますそのように歩もうではありませんか。私たちはそのために召されたのですから。

民数記3章

きょうは民数記3章から学びます。まず1節から4節までをお読みします。

1.アロンの系図(1-4)

「1 がシナイ山でモーセと語られたときのアロンとモーセの系図は、次のとおりであった。2 アロンの子らの名は長子ナダブと、アビフと、エルアザルと、イタマルであった。3 これらはアロンの子らの名であって、彼らは油そそがれて祭司の職に任じられた祭司であった。4 しかしナダブとアビフは、シナイの荒野での前に異なった日をささげたとき、の前で死んだ。彼らには子どもがなかった。そこでエルアザルとイタマルは父アロンの生存中から祭司として仕えた。」

ここには、主がシナイ山でモーセに語られた時のアロンとモーセの系図が記されてあります。アロンの子らの名は長男がナダブで、次にアビフ、エルアザル、イタマルです。彼らは油注がれて祭司の職に任じられた祭司たちでした。モーセもアロンも皆レビ族の出身です。しかし、すべてが祭司なれるのではありません。祭司になれるのはアロンの家系だけです。その他のレビ族の人たちは、アロンの家系をアシストするために召されていました。

しかし、アダブとナビフは、シナイの荒野で異なった火をささげたので、主の前に死にました。これは、レビ記10章に出てきた内容です。彼らは異なった火をささげたので、主の前で息絶えました。この異なった火とは何かというと、彼らは大祭司しか入ることのできない至聖所に入っていけにえをささげたのです。レビ記16章1節には、「アロンのふたりの子の死後、すなわち、彼らが主の前に近づいてそのために死んで後、主はモーセに告げられた。主はモーセに仰せられた。「あなたの兄アロンに告げよ。かってな時に垂れ幕の内側の聖所にはいって、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない。死ぬことのないためである。」とある。すなわち、この二人の息子は、大祭司である父親のアロンしかできないことを、自分たちの手でやろうとしたのです。彼らは、自分たちにもできると思いました。彼らは主がしてはならないと命じられたことを勝手に行ったのです。それゆえに、彼らは火で焼き尽くされてしまいました。そこでエルアザルとイタマルが祭司として仕えました。

2. レビ部族を近寄らせ(5-10)

次に5節から10節までを見ていきましょう。ここには、「5 はモーセに告げて仰せられた。6 「レビ部族を近寄らせ、彼らを祭司アロンにつき添わせ、彼に仕えさせよ。7 彼らは会見の天幕の前で、アロンの任務と全会衆の任務を果たして、幕屋の奉仕をしなければならない。8 彼らは会見の天幕のすべての用具を守り、またイスラエル人の務めを守って、幕屋の奉仕をしなければならない。9 あなたは、レビ人をアロンとその子らにあてがいなさい。彼らはイスラエル人の中から、正式にアロンにあてがわれた者たちである。10 あなたは、アロンとその子らを任命して、その祭司の職を守らなければならない。ほかの人で近づく者は殺される。」とあります。

ここには他のレビ族の人たちの幕屋における奉仕について書かれてあります。彼らはアロンとその子らにあてがわれました。アロンとその子らの働きをサポートして、祭司たちがそれができるように助けたのです。聖所における奉仕はみな、アロンとその息子たちが行いましたが、それに付随する働きはレビ人たちが担ったのです。ですから、たとえレビ人といえども、聖所の中での奉仕をすることはできませんでした。それはアロンとその子たちだけに許されていたことであり、ほかの人で近づく者は殺されたのです。

3.レビ人はわたしのもの(11-13)

次に11節から13節です。「11 はモーセに告げて仰せられた。12 「わたしはイスラエル人のうちで最初に生まれたすべての初子の代わりに、今これからイスラエル人の中からレビ人を取ることにした。レビ人はわたしのものである。13 初子はすべてわたしのものだからである。エジプトの国でわたしがすべての初子を打ち殺した日に、わたしは、人間から始めて家畜に至るまでイスラエルのうちのすべての初子をわたしのものとして聖別した。彼らはわたしのものである。わたしはである。」

ここには、レビ人を初子の代わりとして聖別することが語られています。神は、イスラエル人のうちで最初に生まれたすべての初子の代わりに、レビ人をとることにした、と言われました。なぜなら、初子はすべて神のものだからです。イスラエルがエジプトの奴隷として仕えていたとき神はそこから彼らを救い出そうとされたとき、エジプト中の初子という初子を殺されました。それを殺して聖別されたのです。ですから、初子は神のものなのです。その初子の代わりに、神はレビ人をとられたのであります。つまり、その初子を自分のものとしたければお金を払って買い取らなければならなかったのですが、その身代金がレビ人であったわけです。

4.レビ族の登録(14-26)

そこで主は、レビ族をその氏族ごとに登録するようにと命じられました。14節から26節までをご覧ください。

「14 はシナイの荒野でモーセに告げて仰せられた。15 「レビ族をその父祖の家ごとに、その氏族ごとに登録せよ。あなたは一か月以上のすべての男子を登録しなければならない。」16 そこでモーセはの命により、命じられたとおりに彼らを登録した。17 レビ族の名は次のとおりである。ゲルションと、ケハテと、メラリ。18 ゲルション族の氏族名は次のとおりである。リブニとシムイ。19 ケハテ族の諸氏族はそれぞれ、アムライとイツハル、ヘブロンとウジエル。20 メラリ族の諸氏族は、それぞれ、マフリとムシ。これらがその父祖の家によるレビ人の諸氏族である。21 リブニ族とシムイ族はゲルションに属し、これらがゲルション人の諸氏族であった。22 数を数えて登録された者は、一か月以上のこれらすべての男子で、登録された者は、七千五百人であった。23 ゲルション人諸氏族は、幕屋のうしろ、すなわち西側に宿営しなければならなかった。24 ゲルション人の、一族の長は、ラエルの子エルヤサフであった。25 会見の天幕でのゲルション族の任務は、幕屋すなわち天幕と、そのおおい、会見の天幕の入口の垂れ幕、26 庭の掛け幕、それに幕屋と祭壇の回りを取り巻く庭の入口の垂れ幕、そのすべてに用いるひもについてである。」

そここで注目してほしいことは、一か月以上のすべての男子が登録されたということです。1章では荒野を進んで行くイスラエルは、20歳以上の男子が数えられましたが、レビ人は一ヶ月以上の男子が数えられています。なぜでしょうか?イスラエル人は軍務につくのですから、成人でなければその任務を行なうことはできませんが、レビ人は、神の働きに召された者だからです。もちろん、一歳にもならない赤ちゃんが、幕屋の奉仕をすることはできません。けれども、彼らは主が臨在しておられるその場所に小さい頃から置かれ、そこで親から神様のことをいろいろ教えてもらうことによって主に仕える備えがされていたのです。そのことがすでに主の前で奉仕として数えられているのです。

それは霊的には私たちのことを指しています。私たちはみなキリストによって贖われた神の民です。祭司であり、レビ人です。神の働きのために選ばれた者なのです。そのような者は生まれて一か月の時から神のもとに置かれているのです。生まれたばかりの霊的赤ん坊にとって幕屋で仕えるということはできないかもしれませんが、主のみそばのそばに置かれる必要があるのです。ただ主の愛と恵みの中に置かれ、そこから神のことを学び取っていかなければなりません。彼らにとって必要なことは奉仕をすることではなく、主の臨在に触れること、主のみことばを聞くという環境に身を置くことなのです。奉仕はその後でいいのです。それなのにすぐに奉仕をさせてしまうことがあります。しかし、みことばを聞くことが彼らにとっての奉仕なのです。もちろん、いつまでも聞くだけではいけません。聞いて、それを実行しなければなりません。しかし、初めは神の臨在に置かれるだけでいいのです。そこで神のことばを聞き、神の恵みに満たされること、後の働きに備えて、十分愛情をいただくだけでいいのです。

そして、レビ族はさらに氏族ごとに分けられ、おのおのの氏族ごとに数えられます。レビ族には三つの氏族がいます。ゲルション族とケハテ族とメラリ族です。まずゲルション族についてですが、

ゲルションの意味は「追放された者」です。人気グループに「EXILE」というグループがいますが、それがこのゲルションの意味です。ですから、ゲルションはEXILE、追放された者であります。その人数は7500人でした。彼らは幕屋のうしろ、すなわち、西側に宿営しました。彼らの天幕での任務は、幕屋すなわち天幕と、そのおおい、会見の天幕の入口の垂れ幕、庭の掛け幕、それに幕屋と祭壇の周りを取り巻く庭の入り口の垂れ幕、そのすべてに用いるひもについてでありました。

幕屋は主に三つのものによって成り立っていました。まず契約の箱と祭壇などの道具です。それから、それらを取り囲む板や、板をつなぐ棒などです。そしてもう一つはその上にかける幕です。ゲルション族の奉仕は、幕屋の幕を取り外し、それを運び、また取り付ける奉仕でした。これは地味な奉仕のようですが、天国における報いの大きい奉仕だと思います。これは霊的にはとりなしの祈りを表していると言ってもいいでしょう。幕によって覆うのです。それがとりなしの祈りです。ヤコブ5章19-20節には、「19 私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、20 罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということ、あなたがたは知っていなさい。」とあります。

またⅠペテロ4章7-8節にも、「7万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」とあります。愛は多くの罪を覆います。祈りによって心を備えなければなりません。主の再臨のために。

5.ケハテ族(27-32)

次に27節から32節までをご覧ください。ここにはケハテ族について書かれています。「27 アムラム族、イツハル族、ヘブロン族、ウジエル族はケハテに属し、これらがケハテ人の諸氏族であった。28 これらの一か月以上のすべての男子を数えると、八千六百人であった。彼らが聖所の任務を果たす者である。29 ケハテ諸氏族は、幕屋の南側に沿って宿営しなければならなかった。30 ケハテ諸氏族の、一族の長は、ウジエルの子エリツァファンであった。31 彼らの任務は、契約の箱、机、燭台、祭壇、およびこれらに用いる聖なる用具と垂れ幕と、それに関するすべての奉仕である。32 レビ人の長の長は祭司アロンの子エルアザルであって、聖所の任務を果たす者たちの監督であった。」

ケハテ族の人数は8600人であり、彼らは幕屋の南側に宿営しました。彼らの任務は、契約の箱、机、燭台、祭壇、およびこれらに用いる聖なる用具と垂れ幕と、それに関する奉仕でした。ケハテの意味は「集まり」です。モーセもアロンも、ミリヤムも、このケハテ族の出身でした。32節を見ると、レビ人の長の長は祭司アロンの子エルアザルであって、聖所の任務を果たす者たちの監督であった、とあります。ゲルションの長はエルヤサフ、ケハテの長はエリツァファンでした。けれども、その彼らを取りまとめる人がアロンの子エリアザルです。アロンの後継者です。彼は、聖所の任務を果たす者のところで監督しました。これらの用具は聖なるものであり、運搬にはとくに注意を要したからです。エルアザルの意味は「神は助ける」ですが、この聖所の任務には、特別な神の助けが求められたのでしょう。

6.メラリ族(33-39)

次はメラリ族です。33-39節をご覧ください。「33 マフリ族とムシ族はメラリに属し、これらがメラリの諸氏族であった。34 数を数えて登録された者は、一か月以上のすべての男子で、六千二百人であった。35 メラリ諸氏族の父の家の長は、アビハイルの子ツリエルであった。彼らは幕屋の北側に沿って宿営しなければならなかった。36 メラリ族に任じられた務めは、幕屋の板、その横木、その柱と台座、そのすべての用具およびそれに用いるすべてのもの、37 庭の回りの柱とその台座、その釘とそのひもについてである。38 幕屋の正面、すなわち会見の天幕の前方に当たる東側に宿営する者は、モーセとアロンまたその子らで、イスラエル人の任務に代わって、聖所の任務を果たす者たちであった。ほかの人でこれに近づく者は殺される。39 モーセとアロンがの命により、氏族ごとに登録した、すべての登録されたレビ人は、一か月以上のすべての男子で、二万二千人であった。」

メラリ族については、人数が6200人で、北側に宿営しました。彼らに任じられた務めは、幕屋の板、その横木、その柱と台座など、そして、庭の回りの柱とその台座、その釘とひもについての奉仕でした。これは幕屋の屋台骨を支えるような奉仕です。いわば縁の下の力持ちのような働きです。そればかりではありません。ここには、釘1本、ひも1本のような小さな奉仕でした。これでも主にお仕えできるのです。いや、こうした小さな奉仕が重要なのです。イエス様は、「小さい事に忠実な人は、大きいことにも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」

(ルカ16:10)と言われました。小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実なのです。そういう人に主は、大きな働きをゆだねられるのです。

7.幕屋の正面(38-39)

そして最後に幕屋の正面です。38-39節です。「38 幕屋の正面、すなわち会見の天幕の前方に当たる東側に宿営する者は、モーセとアロンまたその子らで、イスラエル人の任務に代わって、聖所の任務を果たす者たちであった。ほかの人でこれに近づく者は殺される。39 モーセとアロンがの命により、氏族ごとに登録した、すべての登録されたレビ人は、一か月以上のすべての男子で、二万二千人であった。」

幕屋の正面、すなわち会見の天幕の前方に当たる東側に宿営する者は、モーセとアロンまたその子らで、イスラエル人の任務に代わって、聖所の任務を果たす者たちであった。ほかの人でこれに近づく者は殺されました。幕屋の東側というのは幕屋への入り口があった場所です。そこは聖所への通り道でもありました。ですから、聖なる神にもっとも近いところであり、仲介役のモーセ、そしてアロンしか近くに宿営することが許されませんでした。モーセとアロンが主の命により、氏族ごとに登録したレビ人は、一か月以上のすべての男子で、二万二千人でした。

8.イスラエル人の初子の贖いの代金(40-51)

最後に40節から51節を見て終わりたいと思います。ここにはイスラエル人の初子が数えられています。「40 はモーセに仰せられた。「イスラエル人のすべての一か月以上の男子の初子を登録し、その名を数えよ。41 あなたは、わたしのために、わたし自身、のために、イスラエル人のうちのすべての初子の代わりにレビ人を取り、またイスラエル人の家畜のうちのすべての初子の代わりに、レビ人の家畜を取りなさい。」42 モーセはが彼に命じられたとおりに、イスラエル人のうちのすべての初子を登録した。43 その登録による、名を数えられたすべての一か月以上の男子の初子は、二万二千二百七十三人であった。44 はモーセに告げて仰せられた。45 「レビ人をイスラエル人のうちのすべての初子の代わりに、またレビ人の家畜を彼らの家畜の代わりに取れ。レビ人はわたしのものでなければならない。わたしはである。46 レビ人の数より二百七十三人超過しているイスラエル人の初子の贖いの代金として、47 ひとり当たり五シェケルを取りなさい。これを聖所のシェケルで取らなければならない。一シェケルは二十ゲラである。48 そして、この代金を、超過した者たちの贖いの代金として、アロンとその子らに渡しなさい。」49 こうしてモーセはレビ人によって贖われた者より超過した者たちから、贖いの代金を取った。50 すなわちイスラエル人の初子から、聖所のシェケルで千三百六十五シェケルの代金を取り、51 モーセは、の命により、この贖いの代金を、がモーセに命じられたように、アロンとその子らに渡した。」

イスラエル人の初子を数えたところ22,273人でした。レビ人の人数は22,000人でしたので、273人超過したことになります。レビ人はイスラエルの初子の代わりでしたので、そうすると、273人分は、いつものように贖い金を支払わなければなりませんでした。そこでモーセは贖い金を徴収して、そのお金をアロンに手渡しました。それが40節から51節までの話です。 その代価は、一人あたり5シェケルでした。それはレビ記27章6節で見てきたことです。生まれて1か月から5際までの男子は一人あたり5シェケルの価値と定められていました。それでその273人分を支払ったのです。こうしてレビ人が数えられたのです。

それにしてもなぜレビ人が、他のイスラエル部族から取られて数えられ、主のもっとも近くに宿営し、幕屋の奉仕にあずかることができたのでしょうか。創世記49章5-7節を見ると、彼らは必ずしも良い性格の持ち主ではありませんでした。ヤコブがこのレビとシメオンについて次のように預言しました。

「シメオンとレビとは兄弟、彼らの剣は暴虐の道具。わがたましいよ。彼らの仲間に加わるな。わが心よ。彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りにまかせて人を殺し、ほしいままに牛の足の筋を切ったから。のろわれよ。彼らの激しい怒りと、彼らのはなはだしい憤りとは。私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう。」

「散らす」というのは、相続地を持たないということです。ですから、彼らが約束の地に入ったとき、相続地を持てなかったのです。シメオンについてはヨシュア記19章を見るとわかるのですが、ユダ族の割り当て地の中に吸収されています。彼らはヤコブの預言のとおり、相続地を持つことができませんでした。イスラエルの中に散らされたのであります。なぜでしょうか?彼らのつるぎは暴虐の道具だったからです。彼らは怒りにまかせて人を殺し、ほしいままに牛の足の筋を切ったので、神に呪われたのです。それは創世記34章の出来事を指しています。彼らの直属の妹ディナがシェケムの異教徒の長の息子シェケムに強姦されたので、レイプされて破廉恥な行為をされたので黙っていることができず、その復讐に虐殺したのです。シェケムがディナを嫁にもらいたいと申し出たとき、自分たちは割礼のない民に嫁がせることはできないと言い彼らが割礼を受け、痛みで苦しんでいたとき、皆殺しにしたのです。このことをヤコブは思い出して、彼らの将来は、暴虐であると預言したのです。このような性格の部族が、今、幕屋の奉仕の務めとして取られたのです。それはいったいどうしてなのでしょうか?

出エジプト記32章を開いてください。32章21節から29節です。アロンが罪を犯し、金の子牛の像を作ってどんちゃん騒ぎをし、敵の笑ものになっていた時、モーセは「だれでも、主につく者は、わたしのところに」と言いました。するとレビ族だけがつきました。それでモーセは彼らに、剣で兄弟たちを殺すように命じました。それでその日、三千人ほどが倒れたのです。剣で失敗したレビが、今度はつるぎで主に従ったのです。過去においた失敗はしたが、その過去にしがみつくことをせず、ただ主に従うことを選び取りました。

それは私たちも同じです。私たちも過去において失敗するようなことがあります。自分なんて神に仕える資格なんてないと落ち込むこともあるでしょう。こんな者が神の奉仕に立てるのかと悩むこともあるかもしれません。しかし、神はそんな者でも新しく造り替えてくださり、神の働きのために用いてくださるのです。パウロはピリピ3章13-14節のところで、「13 兄弟たちよ。私は、すでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」と言っています。パウロも、かつてはイエス・キリストに敵対する者でした。イエスを信じる者をつかまえては投獄し、殺害していたのです。それはとても赦されないことでした。しかし、そんな者が神に捕えられたのです。神の福音を宣べ伝える器とされたのです。それで、彼はうしろのものにとらわれることをやめ、ひたむきに前に進んで行くことを学びました。それは私たちも同じです。私たちはクリスチャンを迫害するような者ではありませんでしたが、かつては神に敵対し、自分の思うままに生きていました。とても赦されるには値しないどうしようもない者だったのです。そんな者が神の働きに携わることが許されるのであれば、それはただ神の恵みによるのです。

彼らは確かにかつて神の呪いを受けるようなことをしました。それで相続地を受けることもできませんでした。しかし、神はそんなレビ人を新しく造り替え、たとえ相手から嫌われても、神のみこころに従うことによって、神の呪いを祝福に変えたのです。確かに過去を消すことはできません。自分の犯した罪の結果は刈り取らなければなりません。しかし、それで終わりではない。それでも悔い改めて神に向かうなら、神に従うなら、神はその人を新しく造り替え、ご自身の働きのために用いてくださるのです。呪いを祝福に変えてくださるのです。最も神の近くに置いてくださる。

1章ではイスラエル人が軍務につく者として数えられ、それがこの世との戦いにおけるクリスチャンの勝利を表しているとすれば、幕屋の奉仕に数えられたレビ人は、神の恵みによって奉仕をする者に変えられたクリスチャンの姿を表しているのです。ペテロは主であるイエスを三度も否みました。それは弟子としてふさわしい者ではありません。しかし、復活されたイエスはペテロにお姿を現されたとき、「わたしを愛しますか。」と三度聞かれて、「わたしの羊を飼いなさい。」と命じられました。ペテロは失敗したときに、主にお仕えするように呼び出されたのです。私たちも、そのままでは主にお仕えすることなどできる者ではありません。主に反逆し、主に罪を犯し、神の呪いを受けてもおかしくないような者なのに、主はそんな私たちを赦してくださいました。呪いを祝福に変えてくださいました。だから、私たちはただ神の恵みによって神のご奉仕にあずかることができるのです。この恵みに感謝したいと思います。そして、たとえ自分がそれにふさわしくないと思っていても、主が呼び出されるなら、その召しに答えて主に仕えさせていただきたいと思うのでするそれがレビ人として呼び出されたクリスチャンの姿なのです。