イザヤ65:1-12 レジュメ

「すべての主、すべての神」

イザヤ65:1-12

 Ⅰ.不思議な神の救いの計画(65:1-2)

 「主よ。これでも、あなたはじっとこらえ、黙って、私たちをこんなにも悩まされるのですか。」(64:12)というイザヤの祈りに対する答えが65-66章に示される。「わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。」(1)「わたしに問わなかった者たち」とか「わたしを捜さなかった者たち」とは異邦人のことである。神の御手は神の民であるイスラエルに差し出されたのに彼らはそれを拒んだので、その救いの御手は異邦人に向けられた。いったいそれはなぜか?それはイスラエルが倒れるためではない。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及ぶためであり、そのことによってイスラエルにねたみが起こされ、彼らが救われるためである。こうしてイスラエルはみな救われる(ローマ11:11-14)。これがイスラエルを救う神の計画だったのである。いったいだれがこんなことを考えることができるだろう。だれもできない。ただ神だけが考えることができることできる。すべてのことが、この神から発し、神によって成り、神に至る。神はすべてのすべてなのである。この神が私たちの人生にも深く関わっておられると信じ、神にすべてをゆだねなければならない。

Ⅱ.反逆の民(3-7)

 なのに、イスラエルは神に逆らい、神の怒りを引き起こした。「園の中でいけにえをささげ、れんがの上で香をたき、墓地にすわり、見張り小屋に宿り、豚の肉を食べ、汚れた肉の吸い物を器に入れ」(3,4)た。神は彼らに何度も何度も救いの御手を差し伸べたのに、彼らはその御手をはねのけて、自分たちの思いに従って歩んだのである。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。彼らの咎が、彼らと神との仕切りとなり、彼らの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。そのような罪に対して、神は黙っていない。必ず復讐する。神の怒りの煙、一日中燃え続ける火が彼らを襲う。そのような神のさばきに会うことがないように、差し出された神の救いの御手を受け入れなければならない。

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者はひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(ヨハネ3:16-18)

 Ⅲ.わたしが選んだ者(8-12)

 ところで、イスラエルが神に反逆したからといって、神は彼らを全く退けられたかというとそうではない。神は全く新しい計画をもって彼らを救われる。それが「残りの民」である。「主はこう仰せられる。「ぶどうのふさの中に甘い汁があるのを見れば、それをそこなうな。その中に祝福があるから」と言うように、わたしも、わたしのしもべたちのために、その全部は滅ぼさない。」(8)イスラエルのぶどう全体が腐っても、その中に甘い汁が残るようにする。それが残りの民である。神はイスラエルのためにその全部を滅ぼすようなことはしない。そこに残りの民を残してくださるのだ。それは神にとって祝福となるような存在である。彼らはやがて神の山々を所有するようになる。イスラエルだからといってすべてが神の民なのではない。またイスラエルだからといって、すべてが神に反逆したのでもない。主はこのイスラエルの中に本当のイスラエルを残しておられたのだ。パウロはこの奥義をローマ人への手紙11章1~5節でこう述べている。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。それと同じように、今も恵みの選びによって残された民がいます。」

 時として私たちはエリヤのように嘆いてしまうことがある。「残されたのは私だけ、だれもあなたを信じない。私だけが残されている。私はひとりぼっちでさびしい。孤独です・・・。」しかし、そうではない。あなただけではない。あなたの他にも、神は七千人を、神のために残しておられる。それは励ましではないか。あなたは決して一人ぼっちではない。神のために共に手を取り合い、共に祈り、共に励まし合う仲間がいる。神はちゃんと残りの民を残しておられるのである。

 だから私たちは信じない者にならないで、信じる者になろう。神から差し出された愛の御手を拒絶するのではなく、感謝して受け入れ、その御手に信頼しよう。神はすべてのすべてであって、あなたのために最善の道を備えておられるのだから。

イザヤ書65章1~12節 「すべての主、すべての神」

いよいよイザヤ書のクライマックスに入ります。前回はイザヤの祈りから学びました。主がイスラエルの救い主となられたことはわかった、いつも共にいて、彼らが苦しむ時には苦しみ、その愛とあわれみによって彼らを贖い、昔からずっと背負い続けて来られたこともわかりました。だったらなぜこのような状況を許されるのですか?それがイザヤの祈りでした。それは具体的には、なぜバビロンによってエルサレムが荒廃しているということをお許しになられるのですかということです。そして、きょうのところでその理由が明らかにされます。

Ⅰ.不思議な神の救いの計画(1)

まず1節をご覧ください。 「わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、「わたしはここだ、わたしはここだ」と言った。」    「わたしに問わなかった者たち」とか、「わたしを捜さなかった者たち」とは、異邦人のことを指しています。神の民であるイスラエルは神の民であったのに、その神への反逆のゆえに、エルサレムは完全に荒れ果ててしまいました。でも、なぜ主はそのようなことを許されるのでしょうか。それは、神の救いの御手が、神を呼び求めなかった者たちに向けられるようになるためだったのです。

考えてみると、イザヤが預言者として召命を受けたとき、主は彼にこう仰せられました。「行って、この民に言え。聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。」(6:9-10)本当に不思議な言葉です。これから預言者として神の言葉を語ろうとしているというのに、聞いても悟るなとか、見ても、知るな、その目を堅く閉ざせ、自分の耳で聞くなとか、立ち返っていやされることのないために、というのですから・・。それはいったいどういうことだったのでしょうか。このことのためだったのです。すなわち、そのように彼らが悟らないことによって、救いの御手が異邦人に向けられるためです。

ローマ人への手紙11章11~14節を見ると、ここには、ユダヤ人の救いに関する神の計画が書かれてあります。 「では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。」

「彼ら」とはユダヤ人のことです。彼らがつまずいたのはいったい何のためだったのでしょうか。それは彼らが倒れるためではありません。むしろ彼らが救われるためです。彼らが神に反逆することによって、救いが異邦人に及ぶためだったのです。しかし、それだけではありません。そのように救いが異邦人に及ぶことによってイスラエルにねたみが起こされ、そのようにしてイスラエルが救われるためなのです。こうしてイスラエルはみな救われるという神の救いのご計画が完成するためだったのです。

「神の賜物と召命とは変わることがありません。」(ローマ11:29)

これがイスラエルを救う神の計画だったんですね。いったいだれがこのようなことを考えることができるでしょう。だれもできません。ただ神だけがおできになることです。神は全知全能であり、その計画は測り知れず、私たちが考えることもできないような知恵を持っておられます。それゆえに、私たちはこう祈りながら、そのこの神の測り知れない計画にすべてをおゆだねするしかありません。ローマ人への手紙11章33~36節です。

「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ローマ11:33-36)

すべてのことが神から発し、神によって成り、神に至るからです。私たちは、到底、神様の思いを知ることはできません。神様のご計画のすべてを、初めから終わりまで見極めることはできません。しかし、神様はその大きな知恵と豊かな知識をもって、私たちのために備えておられるのです。

先週、大田原に中国の家の教会出身の王淵さんのお母さんとお婆ちゃんが来会され、証をしてくださいました。王さんの通っておられる教会の牧師は、毛沢東によるあの文化大革命の時に何度も投獄されました。それは毛沢東の徹底した弾圧が加えられたからです。教会という教会は根こそぎにされたかと思われましたが、キリストの命は地下で脈々と生き続けていました。そして文化大革命が終わり1980年代に入ると家の教会はものすごい勢いで成長し、今では中国全土で1億3千万人以上のクリスチャンがいると言われています。いったいなぜ神様は中国にそんなにひどい迫害をもたらしたのでしょうか。  それは中国を救うためでした。文化大革命によって宗教が徹底的に否定され、教会や寺院、宗教的な文化財が破壊されてしまったことで、彼らから因習が取り除かれ、純粋に神を求める心が与えられました。また、そのようにして指導者が捕えられたことで、一般の信徒が家々で群れを導いていくことになったのです。 文化大革命は中国に激しい苦難を与えましたが、それによってリバイバルの備えができ、多くの人たちが救われる結果をもたらしたのです。

先日、ペルーに遣わされている下田宣教師からメールがありました。10月に滝元順先生がペルーに来て聖会を行うということで、その準備のために4時間くらい離れたところに車で向かっていたとき、運転手が居眠りをして大事故を起こしてしましいました。車は横転して何度も回転しぺしゃんこになってひっくりかえって止まりました。下田宣教師は額を何針か縫う怪我をして、顔面血まみれになりました。本当に生きているのが不思議なくらいの大事故でしたが、運転手はほぼ無傷でした。  運転手が警察の事情聴取を受けているとき、下田宣教師は運転手の後ろから、「こうして命があるのは奇跡だ。神様に感謝しなさい!!」とずっと言い続けたそうです。すると、この運転手クリスチャンではなかったのですが、下田宣教師の言葉を通してイエス様を受け入れたそうです。下田宣教師曰く、「人を一人導くために大変な怪我をした」

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のために、神はすべてのことを働かせて益としてくださいます。

「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:9)

神の道は、私たちの道よりも高く、神の思いは、私たちの思いよりも高いのです。神は完全な計画を持っておられます。その神は今に至るまで、私たちのために働いておられるのです。問題はあなたがそのことを信じ、その神の御手にすべてをゆだねるかどうかです。もしあなたが、あなたの道を主にゆだね、主に信頼するなら、主が成し遂げてくださいます。

Ⅱ.反逆の民(2-7)

次に2節から7節までをご覧ください。それとは対照的に、自分は神の民だと自称しながらも、あくまでも神に反逆し、自分の思いに従って歩む者には、神のさばきが下ります。5節前半までをお読みします。

「わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し伸べた。この民は、いつもわたしに逆らってわたしの怒りを引き起こし、園の中でいけにえをささげ、れんがの上で香をたき、墓地にすわり、見張り小屋に宿り、豚の肉を食べ、汚れた肉の吸い物を器に入れ、「そこに立っておれ。私に近寄るな。私はあなたより聖なるものになっている」と言う。

3節の「園の中でいけにえをささげ」とか、「れんがの上で香をたき」というのは、どれも異教的な礼拝のことを指しています。彼らは何度も何度も差し伸べられた主の御手をはねのけ、そうした異教の神々にいけにえをさささげたり、不道徳な祭りごとに夢中になり、神のみ思いを痛めるようなことをしていていました。

そればかりではありません。「墓地にすわり」とは、イスラエルでは厳格に禁じられていた霊媒のことを表しています。彼らは占いをするために墓を訪れ、死んだ者の霊との接触を試みていたのです。「見張り小屋に宿り」というのも超自然的な存在と接触しようとする試みのことです。彼らはそうした隠れた所で夜を過ごし、死者や悪霊から啓示を受けようとしていたのです。「豚」は汚れた動物として食べることが禁じられていました(レビ11:7)。「汚れた肉の吸い物を器に入れる」とは、その豚の肉を煮た汁を器に入れることです。彼らはこのような異教的な儀式に関わることで、自分たちが特別に聖い存在になっていると勘違いして誇り、そうでない人たちをさばいていたのです。神はイスラエルに何度も何度も救いの御手を差し伸べられたのに、彼らは何度も何度もそれを拒み、反逆を繰り返してきました。そのような神の愛の御手をはねのけて、自分の思いに従って歩んだのです。

皆さん、主の御手が短くて救えないのではありません。その耳が遠くて、聞こえないのでもないのです。彼らの咎が、彼らと神との仕切りとなり、彼らの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのです。そしてその結果は何かというと、神のさばきです。そのような人の上には神のさばきがくだるのです。5節後半から7節までのところにこうあります。

「これらは、わたしの怒りの煙、一日中燃え続ける火である。見よ。これは、わたしの前に書かれている。わたしは黙っていない。必ず報復する。わたしは彼らのふところに報復する。―山の上で香をたき、丘の上でわたしをそしったあなたがたの咎と、あなたがたの先祖の咎とをともどもに。わたしは、彼らの先のしわざを量って、彼らのふところに、報復する」と主は仰せられる。」

ここには「報復する」ということが3回繰り返して言われています。皆さん、神は報復する神です。「怒りの煙」とは、神の怒りの息づかいを表しています。また、「一日中燃え続ける火」とは、神のさばきの炎を象徴しています。そのような悪は神の前に置かれたノートにちゃんと記録してあって、決して見過ごされることはありません。彼らのした行いに応じて、必ず裁かれることになるのです。

皆さんはいかがでしょうか。こうした神のさばきを受けることがないように、差し出された神の愛の御手を受け入れておられるでしょうか。神の御手はいつもあなたの前に差し出されています。あなたは、その御手を受け入れておられるでしょうか。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(ヨハネ3:16-18)

御子を信じる者はさばかれません。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれています。どうかさばかれることがないように、神の御子イエス・キリストを信じてください。キリストはあなたが神にさばれないように、代わりにそのさばきを受けてくださいました。十字架の上で・・・。ですから、あなたが、あなたの身代わりとなって、あなたが受けるはずの刑罰を全部受けて死んでくださったと信じるなら、あなたは神のさばきから救われるのです。救われて天国に行くことができます。これが福音です。グッド・ニュースです。どうかこの福音を信じて救われてください。また、この福音を信じて多くの人が救われるように、この福音を宣べ伝えていきたいと思います。

Ⅲ.わたしが選んだ者(8-12)

ところで、イスラエルは神に反逆したからといって、神は彼らを全く退けられたのかというとそうではありません。神は全く新しい計画をもって彼らを救われました。それが残りの民です。8節から12節までをご覧ください。8節にはこうあります。

「主はこう仰せられる。「ぶどうのふさの中に甘い汁があるのを見れば、『それをそこなうな。その中に祝福があるから』と言うように、わたしも、わたしのしもべたちのために、その全部は滅ぼさない。」

どういうことでしょうか。神はイスラエルの全部を滅ぼすことはなさいません。そこに残りの民を残しておられます。それはちょうどぶどうのふさの中にある甘い汁のようなのものです。ぶどう全体が腐っていてもう食べられない状態でも、その中に甘い汁が残っているというのです。それは何でしょうか。それが残りの民です。彼らは神にとって祝福となるような存在です。神はイスラエルのために、その全部を滅ぼすようなことはなさいません。そこにちゃんと残りの民を残しておられるのです。                         9節をご覧ください。「わたしは、ヤコブから子孫を、ユダからわたしの山々を所有する者を生まれさせよう。わたしの選んだ者がこれを所有し、わたしのしもべたちがそこに住む。」

神はヤコブから子孫を、ユダから神の山々を所有する者を生まれさせよう、と言われました。それが神の選んだ者です。神の選んだ者がこれを所有し、そこに住むようになります。しかし、聖書ではこのように神が選んだ者とは残りの民だけのことではありません。実は私たちクリスチャンもそうなのです。クリスチャンも神によって選ばれた者だからです。ヨハネの福音書15章16節にはこうあります。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」

これはイエス様の言葉です。「あなたがた」とは弟子たちのこと、すなわち、キリストを信じるクリスチャンのことです。私たちがキリストを選んだのではありません。キリストが私たちを選び、任命したのです。それは、私たちが行って、実を結ぶためです。私たちは神によって選ばれた者、神の民なのです。そのような者は神の山々を所有するようになるのです。

そして、そのように神の山を所有する者はどのような祝福を受けるのかが10節にあります。 「わたしを求めたわたしの民にとって、シャロンは羊の群れの牧場、アコルの谷は牛の群れの伏す所となる。」

「シャロン」とは荒廃した地、「アコルの谷」とはのろいの谷という意味です。そのようにかつて荒廃していた地が羊の群れの牧場となり、のろわれた谷が牛の群れの伏すところになるのです。

神はご自分の選んだ民をひどくさばかれることはあっても完全に滅ぼされることはしません。そこにちゃんと救われる者を残しておられるのです。イスラエルであるからといって、すべてが神の民なのではありません。またイスラエルだからといって、すべてが主に反逆したのでもないのです。主はこのイスラエルの中に、本当のイスラエルを残しておられたのです。

パウロはこのことをローマ人への手紙11章1~5節のところでこう言っています。 「すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。それともあなたがたは、聖書がエリヤに関する個所で言っていることを、知らないのですか。彼はイスラエルを神に訴えてこう言いました。「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」ところが彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。」

これは励ましではないでしょうか。パウロはこの奥義を伝えるために、エリヤの時代に、バアルにひざをかかめなかった人たちのことを例に取り上げています。あのときアハブとその妻イゼベルは主の預言者たちを殺しました。エリヤをそれを嘆き、「主よ。私だけが残されました。彼らは今この私のいのちさえも取ろうとしています」と言ったとき、神は「エリヤよ、そうじゃないよ。バアルにひざをかがめてない人はあなただけではない。他に七千人の人をわたしのために用意している」と言われたのです。それと同じように、今も、恵みの選びによって残されている人たちがいるのです。ここにも。この大田原にも。

皆さん、私たちは時としてエリヤのように嘆いてしまうことがあります。「主よ、あなたを信じている人はほとんどいません。私はひとりぼっちです。孤独でさびしいです。どんなに伝道しても、だれも信じてくれません。私だけが、私だけが、残されています。」でも本当ですか。違います。あなただけではありません。あなたの他にも、神は七千人を、神のためにちゃんと残しておられるのです。今も、恵みの選びによって残されている人がいるのです。何と感謝なことでしょうか。私だけが・・・と思っていたらそうじゃない。私の他にも、残りの民がちゃんと残されているのです。神のために共に手を携え、共に祈り、励まし合う民が残されているのです。あなたは決してひとりぼっちではありません。これは励ましではないでしょうか。

一方、主に反逆する者たちには、一転して厳しいさばきが下されます。11節です。 「しかし、あなたがた、主を捨てる者、わたしの聖なる山を忘れる者、ガドのために食卓を整える者、メニのために、混ぜ合わせた酒を盛る者たちよ。」

「聖なる山」とは「シオン」のことです。このシオンを忘れるとは、神を礼拝することを止めてしまう、忘れてしまうという意味です。そういう人は、代わりにガドのために食卓を整え、メニのために、混ぜ合わせた酒を盛ったりします。    この「ガド」とは幸運の女神のことです。新共同訳では「禍福(かふく)の神」と訳しています。またメニは「運命の神」です。カナン人だけでなくアラブ人たちも信仰していました。いわば異教の神です。そうした神々に食卓を整え、混ぜ合わせた酒を盛ってドンチャン騒ぎをするのです。それは昔も今も変わりません。

現代でもこのガドとメニを求めて人々は走り回っています。幸運の女神、運命の神を求めて夢中になっているのです。たとえば、ギャンブルとか宝くじはそうでしょう。幸運の女神、運命の神と呼ばれています。そうした神々に夢中になって、本当の神がないがしろにされています。だれもそんなのに夢中になっていませんよ、と言うかもしれませんが、気がついたらいつの間にか買っていたりとか、気になってしょうがないということがあるのです。それは依存しているということです。

先日厚生労働省から発表された統計によると、我が国のパチンコや競馬などのギャンブル依存症の人の割合は成人人口の4.8%に当たる536万人だそうです。これは5年前の1.5倍に増えました。アメリカの1.58%、香港の1.8%、韓国のo.8%に比べても、日本の依存度は極めて高いことがわかります。オーエンさんが中国から来て驚いたことは、日本にはこうした娯楽施設がたくさんあるということです。これでさらにカジノも導入しようと検討されているわけですから、日本にはどれほどガド礼拝、メニ礼拝が多いかがわかると思います。幸運を求めて、運命を求めて走り回っている。まことの神を忘れて・・。それは神が忌み嫌われることなのです。そのような人には、神の激しいさばきがくだります。12節をご覧ください。

「わたしはあなたがたを剣に渡す。それであなたがたはみな、虐殺されて倒れる。わたしが呼んでも答えず、わたしが語りかけても聞かず、わたしの目の前に悪を行い、わたしの喜ばない事を選んだからだ。」

ここで神は、そのような人を剣に渡すと言っています。それで虐殺されて倒れてしまうのです。それは神が忌み嫌われることだからです。神が呼んでも答えず、語りかけても聞こうとせず、神の目の前に悪を行い続け、神が喜ばないことを故意に、意図的に行ってしまうのなら、そのような人には、当然、神のさばきが下るのです。なぜなら、わかっていても平気で逆らう、故意に、意図的に逆らうことがあるとしたら、それは聖霊に逆らう罪であり、決して許されることではないからです。イエス様は言われました。「人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。」(マタイ12:31)

皆さんはどうでしょうか。神が選ばれた者、残りの民ですか。それとも神を忘れてガド礼拝、メニ礼拝に走り回っている人でしょうか。神が救いの御手を差し伸べているのに、故意に逆らって、神の怒りを引き起こしてはいないでしょうか。

どうか神に逆らわないでください。信じない者にならないで信じる者になってください。神はすべてのすべてです。私たちの思いをはるかに越えて神は働き、私たちの人生に完全な計画をもっておられます。その計画にすべてをゆだねてください。この神を信じ、この神に従うことが、あなたにとっての最善の道なのです。やがてそれが明になるでしょう。しかし、その前にどうかこの神の恵みを受け入れてください。神は今もあなたにその手を差し伸べておられます。どうかその御手に信頼してください。そしてこの驚くべき神の救いの計画を知り、共にこの神に心からの賛美と礼拝をささげたいと思います。

イザヤ63:15-64:12 レジュメ

「イザヤの祈り」

イザヤ63:15-64:12

 Ⅰ.神のあわれみを求めて祈る祈り(63:15-19)

 主のあわれみと、豊かな恵みにふれたイザヤは、その主のあわれみを求めて祈る。「どうか、天から見下ろし、聖なる輝かしい御住まいからご覧ください。・・・私へのあなたのたぎる思いとあわれみを、あなたは押さえておられるのですか。」(15)「たぎる思い」という言葉は、エレミヤ31:20では「はらわたがわななく」と訳されている。聖霊は痛むという表現があるように、神にも感情がある。そのたぎるような思い、はらわたがわななくような思いを押さえないでください、と祈っているのだ。

 イザヤはなぜこのように祈ることができたのだろうか。それは彼の中に、主は自分の父であるという思いがあったからである。16節には、「主よ、あなたは、私たちの父です。」ということばが繰り返して語られている。神はあなたを我が子と呼んで下さる。神の子であるなら遠慮はいらない。何でも自分の思いを告げることができる。それはクリスチャンも同じである。パウロは、「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。」(ローマ8:14-15)と言っている。「アバ、父」とは、アラム語で父を呼ぶ呼び方のこと。それは最も親しい人への呼びかけである。私たちはそのような身分に変えられた。それゆえ、私たちは神を父と呼び、何でも願い求めることができるのである。

 J.I.パッカーという神学者は、「新約聖書の教えを一言で要約するとすれば、創造者なる神が、父であるということに関する啓示なのだ」と言った。キリスト教信仰を本当に理解し、自分のものにしているかどうかは、自分が神の子であるということを、どれだけ認めているか、神を自分の父としてどの程度認めているか、ということでわかる。私たちは神の子であるから、父なる神に大胆に、また、必死に求めることができる。

 主イエスはこう言われた。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。・・・してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、天の父が、求める者たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:9-13)

 主は、求める者たちに良い物を与えてくださる。なぜなら、主は私たちの父だから。そう信じて祈るなら、神は豊かにあわれんでくださるのである。

 Ⅱ.へりくだって祈る祈り(64:1-7)

 第二に、神に聞かれる祈りとは、へりくだって祈る祈りである。ここに重要な問いがある。それは、「ああ、あなたは怒られました。私たちは昔から罪を犯し続けています。それでも私たちは救われるでしょうか。」という問いである。そして、その答えは何か。それは救われるということである。なぜなら、私たちは自分の義ではなく、神の義に信頼しているからである。「私たちはみな、汚れた物のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げられます。」(6)この「不潔な着物」と訳された言葉は、直訳では「月の物で汚れた着物」となっている。つまり、月の物で汚れたナプキンのことを指している。イザヤはここで、自分たちの義はみな、使用済みのナプキンのようなものだと、へりくだって祈っている。そのようなものは木の葉のように枯れて、すぐにどこかに吹き上げられてしまう。そのようなもので救われるはずがない。私たちが救われるのはただ、神が与えてくださる衣、義の衣によるのである。だから古い衣を脱ぎ捨てて、キリストという義の衣を着せていただかなければならない。

 Ⅲ.神にすべてをゆだねて祈る祈り(64:8-12)

 神に聞かれる祈りの第三は、神にすべてをゆだねて祈る祈りである。「しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。」(8)ここに「陶器師」という言葉が出てくる。これが意味していることは、神は主権者であられるということである。神は陶器師であり、私たちは粘土にすぎない。私たちはみな、神の手で造られたものなのである。したがって、何の文句も言えない。ただ陶器師であられる主にすべてをゆだねるしかない。練られようが、焼かれようが、壊されようが、廃棄処分にされようが、それはただ陶器師の意のままである。そのみこころにすべてをゆだねなければならない。しかし、この陶器師は、同時に私たちの父でもある。だから、決してひどいことはなさらない。むしろ、私たちにとって最善のことをしてくださる。本来なら捨てられても致し方ないようなものなのに、それを新しく造り替え、神に喜ばれる聖い器にしてくださる。何という幸いなことだろうか。だから私たちはこの陶器師の手にすべてをゆだねて祈らなければならないのである。

イザヤ書63章15節~64章12節 「イザヤの祈り」

先週は63章の前半の箇所から、神の豊かな恵みについて学びました。神に背き続けるイスラエルを、「まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ」(8)と呼んでくださり、「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いを彼らに送って、救ってくださいました(9)。そればかりか、主は昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた(9)のです。そのようにして主は、ずっと昔から彼らを導いて来られました。

それならば、なぜイスラエルはバビロンに苦しめられなければならないのでしょうか。なぜ主はじっと黙って、その状況を見ておられるのでしょうか。きょうの箇所には、そのことに対するイザヤの祈りが記されてあります。この祈りの答えが65章と66章に続くわけです。

きょうはこのイザヤの祈りから、神に聞き届けられる祈りとはどのような祈りなのかを学びたいとと思います。

Ⅰ.神のあわれみを求めて祈る祈り(63:15~19)

まず第一に、それは神のあわれみを求めて祈る祈りです。15節から19節までに注目してください。まず15節をお読みします。

「どうか、天から見おろし、聖なる輝かしい御住まいからご覧ください。あなたの熱心と、力あるみわざは、どこにあるでしょう。私へのあなたのたぎる思いとあわれみを、あなたは押えておられるのですか。」

ここでイザヤは、「どうか、天から見おろし、聖なる輝かしい御住まいからご覧ください。」と祈っています。これは、主が天の輝かしい聖なる御住まいから見ておられるという認識の上で、その熱心と力あるみわざは、いったいどこにあるのですか、と訴えているのです。私たちへのたぎる思いとあわれみを、あなたは押さえておられるのですか・・・と。どうかそんなことはしないでください。押さえることをしないで、私たちの上にそれを注いでください、と祈っているのです。

ここに「たぎる思い」という言葉がありますが、これはエレミヤ書でも使われていますが、そこでは「はらわたがわななく」(エレミヤ31:20)と訳しています。63章10節には主の聖なる御霊を痛むという表現がありましたが、ここでははらわたがわななくのです。神はあなたに対してたぎるような思い、はらわたがわななくような思いを持っておられるのです。その思いを押さえないでください、豊かに注いでください、というのです。そんなこと祈ったらおこがましいんじゃないとか、ズーズーしいんじゃないかとと思う必要はありません。なぜなら、神はあなたの父であられるからです。16節をご覧ください。

「まことに、あなたは私たちの父です。たとい、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主よ、あなたは、私たちの父です。あなたの御名は、とこしえから私たちの贖い主です。」

ここに、「まことに、あなたは私たちの父です。」とあります。そのことが何度も繰り返して言われています。そうです、神様は私たちの父なんです。神はあなたを我が子と呼んでくださる。たとえあなたがイスラエルの父アブラハムのことを知らなくても、たとえあなたがイスラエルに認められなくとも、神はあなたの父となってくださいました。あなたが救い主イエスを信じたことによって・・・。すごいじゃないですか。神は私たちの父なのです。

ローマ人への手紙8章14~15節には、「 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。」とあります。

皆さん、神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもなのです。ここには、、「アバ、父」と呼ぶとあります。「アバ、父」というのはアラム語で父を呼ぶ言葉だそうです。ちなみにお母さんのことは「イマ」と呼びます。「アバもイマ」も赤ちゃんが一番最初に発音するようなごく親しい言葉です。日本語では「パパ、ママ」でしょう。英語では「Daddy」とか「Mommy」です。これはとても親しい呼びかけなのです。神は私たちにとってそのような関係になりました。「アバ・父」と呼べるようになったのです。これはものずこいことです。

J.Iパッカーという神学者は、「新約聖書の教えを一言に要約するとすれば、創造者なる神が、父であるということに関する啓示」なのだといいました。また彼は、「キリスト教の信仰を本当に理解し、自分のものとしているかどうかは、その人が、自分が神の子であるということを、どの程度認めているか、神を自分の父としてどの程度認めているか、ということでわかる」と言いました。ですから、私たちが神を「アバ、父」と呼べることはものすごい特権なのです。私たちはこのような特権をいただいているのです。

ヨハネの福音書1章12節には、「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」とあります。皆さん、これは特権なんです。あなたがアブラハムの子孫であるかどうかなんていうことは全く関係ありません。たとえあなたがアブラハムの子孫じゃなくとも、あなたがイエスを救い主として信じ、受け入れるなら、神の子としての特権が与えられ、「アバ・父」と呼ぶことができるようになるのです。

皆さん、これが私たちの信仰です。神が父であるということ、その父を、「アバ」と呼べる身分にさせていただいたということ、それはいかにもったいなく、かたじけないことではありますが、それが私たちに与えられている恵みであり、その恵みを感じながら、神をお父さんと呼ばせていただく。それが私たちの礼拝なのです。だからこそイザヤは大胆に神に求めたているのです。どうか、天から見下ろして、聖なる輝かしい御住まいからご覧ください。あなたの熱心と、力あるみわざはどこにあるのですか。私へのたぎる思いとあわれみを、あなたは押さえておられるのですか。そんなことをしないでください。どうかあなたの燃えたぎるあわれみを、私の上に注いでください。私はあなたは私の父なのですから・・・・と。

皆さん、神様は、あなたが神様に向かって「アバ、父」と呼びかけることを求めておられます。神にあわれみを求めて祈ることを願っておられるのです。それはあなたがお父さんやお母さんの立場であるならよくわかるはずです。自分の息子や娘が音信不通で、何の関係もないことほど寂しいことはありません。多少うるさいなぁと思うくらいがちょうどいいのです。そうやってお父さんやお母さんを慕い求め、助けを求めてくるくらいがちょうどいいのです。神はあなたと親しい関係を持つことを求めておられるからです。

ルカの福音書11章9~13節にはこうあります。 「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」

だれであっても、求める者は受け、捜す者は見いだし、ただく者には開かれます。なぜなら、天の神はあなたの父だからです。子どもが魚をくださいというのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親はいません。卵をくださいというのに、さそりを与えるような父親がいるでしょうか。たまにそういう人もいますね。でもそれは普通じゃありません。普通、父親は子どもがこれこれ欲しいという時には、何とかその願いを叶えてあげたいと思うものです。皆さん、神はあなたの父です。あなたをあわれみたいと願っておられるのです。無関心であってはいけません。その父なる神に、あわれみを求めて祈らなければならないのです。求めなさい。そうすれば、与えられるからです。

Ⅱ.へりくだって祈る祈り(64:1~7)

第二のことは、へりくだって祈る祈りです。64章1~7節までをご覧ください。まず1~4節です。

「ああ、あなたが天を裂いて降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。 火が柴に燃えつき、火が水を沸き立たせるように、あなたの御名はあなたの敵に知られ、国々は御前で震えるでしょう。私たちが予想もしなかった恐ろしい事をあなたが行われるとき、あなたが降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。神を待ち望む者のために、このようにしてくださる神は、あなた以外にとこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。」

これは、イエス・キリストがさばき主として天から降りて来られる預言です。そのとき、神に敵対している者たち、聖所を踏みつけている者たちは、震えます。主は、私たちが予想もしなかった恐ろしいことをされるので、山々は御前で揺れ動くのです。それは63章前半部分で見たとおりです。そのとき主は敵の流す返り血で、その衣服が真っ赤に染まりるのです。このようなことまでしてくださる神が他にいるでしょうか。いません。4節にこうあるとおりです。

「神を待ち望む者のために、このようにしてくださる神は、あなた以外にとこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。」

このことばは、Ⅰコリント2章9節でパウロが引用しています。そこには「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神が備えてくださったものは、みそうである。」とあります。これが、イザヤ書に記されてあることの意味です。

皆さんは、このようなことを聞いたことがあるでしょうか。どの宗教がそのようなことを告げているでしょうか。それはどの宗教にも見られない、キリスト教だけが、聖書だけが告げていることです。キリスト教以外のどの宗教も、人間が何とかして神に近づくことができると教えます。その救いのベクトル、矢印がすべて下から上に向かっているのです。しかし、キリスト教だけは違います。キリスト教だけはその矢印が上から下に、天から地に向かっているのです。神のが人となられ、神が人となって十字架につけられました。神が人となって私たちのすべての罪を引き受けて死んでくださいました。そして、その名を信じるだけで救われると約束してくださいました。神の救いは上から下に向けられたのです。神の救いは一方的な神の恵みによるのです。信じるだけで救われるのです。しかし、信じない者は罪に定められます。どんなに善いことをしても、どんなに努力しても、どんなに真面目に生きても、自分の行いによっては救われないのです。そのような人は神のひとり子を信じなかったので罪に定められます。やがてキリストが天から降りて来られるときに、さばかれることになります。

このようなことは、私たちの理解を越えています。私たちがいまだかつて見たことも、聞いたこともないようなことです。しかし、神は、このようなことを、 ご自身を愛する者たちのためにそのようにしてくださるのです。

5~7節をご覧ください。 「あなたは迎えてくださいます。喜んで正義を行う者、あなたの道を歩み、あなたを忘れない者を。ああ、あなたは怒られました。私たちは昔から罪を犯し続けています。それでも私たちは救われるでしょうか。私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。しかし、あなたの御名を呼ぶ者もなく、奮い立って、あなたにすがる者もいません。あなたは私たちから御顔を隠し、私たちの咎のゆえに、私たちを弱められました。」

ここでイザヤは言っています。「それでも私たちは救われるでしょうか。」いい質問ですね。主よ、あなたは喜んで正義を行う者、あなたの道をを歩み、あなたを忘れない者を、あなたは迎えてくださいます。けれども、私たちは昔からずっと罪を犯しているのです。こんな私でも救われるでしょうか。救われるのです。なぜでしょうか?6節と7節をご覧ください。それは私たち義ではなく、神の義に信頼しているからです。私たちの義など何でもありません。それは不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、風のように吹き上げられるような存在にすぎません。

この「不潔な着物」という言葉には※がついています。下の欄外の説明を見ると、これは「月のもので汚れた」という意味です。ちょっと生々しい表現になりますが、使用済みのナプキンのことを指しているのです。私たちの義とはそんなものなのです。使用済みのナプキンのようで、汚れた着物のようなのです。私たちは自分の善い行いが自分を救うかのように思っていますが、そんなものは汚れたナプキンのようなものだというのです。被災地に行ってボランティアをする、発展途上国の恵まれない国の人たちを助けようと慈善団体に寄付をする。立派なことです。しかし、そのような行いによって救われると思ったら大間違いです。なぜなら、私たちの義はみな、汚れた着物のようだからです。そのような行いが悪いと言ってるのではありません。そのような行いでは救われないということを言っているのです。

私たちを救うことができるのはただ神の義だけであって、それは神の救いであるイエス・キリストを信じることによってのみなのです。61章10節を振り返ってみましょう。ここには、「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」とあります。ここに「救いの衣」とか「正義の外套」といった言葉があります。私たちが救われるのは私たちの義、不潔な着物ではなく、神が与えてくださる神の義、救いの衣、正義の外套なのです。ですから、私たちはその古い不潔な着物を脱ぎ捨てて、キリストという義の衣を着せていただかなければなりません。

なのにどうでしょうか。7節を見てください。「しかし、あなたの御名を呼ぶ者もなく、奮い立って、あなたにすがる者もいません。」これが現実です。問題は神なのではなく、その神の救いにすがろうとしない私たち人間なのです。 「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのでもない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(イザヤ59:1-2)

「主の御名を呼び求めるなら、だれでも救われる」のです。」(ローマ10:13)

あなたはどうですか。神の前にへりくだって、主の御名を呼び求めておられるでしょうか。それとも、あくまでも自分の義、自分の行いを誇っておられるでしょうか。しかし、覚えていただきたいことは、そんなのは不潔な着物にすぎないということです。木の葉のように枯れ、風が吹けばすぐにどこかに吹き飛んでしまうようなはかないものなのです。そんなものに頼らないで、神に頼ってください。へりくだって神を求めてください。神はへりくだってご自身を求める祈りを、決してないがしろにはなさいません。

Ⅲ.神にすべてをゆだねて祈る祈り(64:8~12)

第三に、神に聞かれる祈りは、神にすべてをゆだねて祈る祈りだということです。8節から12節までをご覧ください。8節、「しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。」

いいですね、この「しかし、主よ・・・」という言葉が。私たちの罪のゆえに神の御名を求めようとしない、神にすがることもしない、それが神との仕切りとなり、神との間に断絶が生じてしまいました。しかし、それで終わりではありません。「しかし、主よ」なのです。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手によって造られたものです。

どういうことでしょうか。たとえ私たちがかたくなでも、たとえ私たちが不忠実でも、神は変わらない愛をもって救ってくださるということです。この愛はヘブル語「ヘセド」といって契約に基づいた愛です。たとえ相手が契約を破っても神は決して破ることはしない、一方的に愛する愛です。 「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」(Ⅱテモテ2:13)

神はどこまでも愛してくださる方なのです。私たちに求められているのは、この神の愛の懐の中に飛び込むことです。子どもが父の懐に飛び込むように、神の懐の中に飛び込めばいいのです。それを何というかというと、ゆだねると言います。

ここには「陶器師」という言葉が出てきます。この「陶器師」という言葉が意味していることは、神は主権者であられるということです。好きなものを自由に造る権利があるということです。神は、まさに好きなものを造ることができる陶器師です。しかし、造るだけではありません。陶器師ですから、それを壊すこともできます。壊して、捨ててしまうこともできるのです。何でも自由にすることができる。それが陶器師です。

ここでイザヤが、「あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。」と言ってるのは、主は私たちをどのように造ろうが、いや、それを壊して、捨ててしまおうが、煮ようが、焼こうが、何をしようが、主はその権利を持っておられるということです。なぜなら、主は陶器師だからです。主が私たちを造られました。

しかし、ここでもう一つの確信があります。それは、主は私たちの父であるということです。ということは、決してひどいことはなさらないということでもあります。私たちにとって最善のことをしてくださるという確信です。私たちは、本来なら捨てられても致し方ないような粘土にすぎない者ですが、主はそれを決して捨てたりはなさいません。それを新しいものに造り替えてくださり、神に喜ばれる、聖い器に造り替えてくださいます。なぜなら、主は陶器師であると同時に、私たちの父だからです。そう信じて、この陶器師の手にわたしたち自身を、あなた自身をゆだねて祈らなければならないのです。

なのに、現状はどうでしょうか。10節と11節を見てください。「あなたの聖なる町々は荒野となっています。シオンは荒野となり、エルサレムは荒れ果てています。私たちの先祖があなたをほめたたえた私たちの聖なる美しい宮は、火で焼かれ、私たちの宝とした物すべてが荒廃しました。」

これは直接的にはバビロン捕囚のこと、究極的には世の終わりの日に荒らす忌むべき者によって、エルサレムが荒らされることを預言しています。しかし、それはイスラエルがバビロンによって滅ぼされた時だけでなく、あるいはこの世の終わりに荒らす忌むべき者によって荒らされるであろう時だけでなく、いつの時代でも起こることです。それは今の、私たちの時代でも、私たちの日々の生活の中にも起こっています。私たちの人生がまさにバビロンや荒らす忌むべき者によって踏みにじられ、荒れ果てたような状態になることがあるのです。主が陶器師であり、私たちの父であられるのなら、いったいどうしてそのようなことを許されるのでしょうか。それが最後の12節のみことばです。

「主よ。これでも、あなたはじっとこらえ、黙って、私たちをこんなにも悩まされるのですか。」

これは祈りの締めくくりの言葉です。これは63章15-17節に出てきた内容に似ています。祈りの始めと祈りの終わりが同じ言葉が使われています。これからバビロンに侵略されて、すべてが破壊されてしまう。それでもあなたは黙って見過ごされるのですか?

この祈りの答えが65章と66章に展開されるわけですが、そこには信じられないような驚くべき祈りの答えが出てきます。これがイザヤ書のクライマックスです。主よ。これでも、あなたはじっとこらえ、溜まって、見過ごされるのですか。私たちを悩まされるのですか。いや、そうではない。その答えをここに示されるのです。祈りに答えてくださる義務などないのに、神は祈り以上のことをしてくださるのです。私たちが祈る以上に、私たちが願う以上のことをしてくださるのです。ですから私たちはこの神を信じて、この神にすべてをゆだねて祈らなければなりません。

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:5)

あなたの道を主にゆだねて祈りましょう。主に信頼しましょう。主が成し遂げてくださいます。それが主に喜ばれる祈りであり、主が聞いてくださる祈りなのです。

レビ記23章1~22節

きょうはレビ記23章から学びます。22章ではどのように主へのささげ物をささげなければならないかということを学びました。きょうのところでは、主の例祭について教えが語られています。それではまず1~8節までを見ていきましょう。

1.主の例祭と安息日(1-3)

「ついではモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。あなたがたが聖なる会合として召集するの例祭、すなわちわたしの例祭は次のとおりである。六日間は仕事をしてもよい。しかし七日目は全き休みの安息、聖なる会合の日である。あなたがたは、いっさいの仕事をしてはならない。この日はあなたがたがどこに住んでいてもの安息日である。」

これはイスラエルの民に対して語られたことばです。彼らは毎年、主の聖なる会合として主の例祭を召集しなければなりませんでした。例祭とは、例年決められた時期に行うべき祭りのことです。それは全部で七つあります。過ぎ越しの祭り、種なしのパンの祝い、初穂の祭り、五旬節、ラッパを吹き鳴らす会合、贖罪日、そして仮庵の祭りです。このうち代表的なものは、過越の祭り、五旬節、仮庵の祭りの三つで、この時には、世界中にいるユダヤ人成年男子が、必ず出席しなければなりませんでした。

3節をご覧ください。「六日間は仕事をしてもよい。しかし七日目は全き休みの安息、聖なる会合の日である。あなたがたは、いっさいの仕事をしてはならない。この日はあなたがたがどこに住んでいても主の安息日である。」

 主の例祭についての教えなのに、まず、安息日について語られています。安息日とは、主が六日間で天地を創造された後、七日目に休まれた日を記念して、この日を聖なる日とするようにと定められたものです。この日にはいっさいの仕事をしてはなりませんでした。この日にはすべての手のわざを休めて、神を覚えて礼拝しなければなりませんでした。この安息日のことが七つの例祭に先駆けて語られているのです。いったいそれはなぜでしょうか。それは、この安息日がこれから語られる主の例祭が示していることの基本であったからです。

それはどういうことかというと、安息日にはすべての手のわざを休めて神を覚え、神を礼拝しなければならなかったように、主の例祭にもすべての手のわざを休めて神を覚え、神を礼拝しなければならなかったということです。なぜでしょうか。そうすることによって、自分たちの働きが自分たちのものではなく主なる神のものであって、神を中心に生かされていることを表明する必要があったからです。自分の行ないをやめ、主の行ないを認めることです。私たちが、だれかのことを知りたいと思うとき、どうでしょう。自分が動くことをやめ、そこに立ち止まって、その人の姿や行なっていることを、じっくりと見るのではないでしょうか。それと同じことです。私たちが、主にあって聖なる者と認められるには、自分ではなく主ご自身の姿や働きに集中し、それをじっくりと見なければならないのです。イスラエルは毎週土曜日の安息日にそれをしました。それだけでなく、一年を通してその節目、節目にそういうときを持ったのです。それが例祭です。

これらの祭りは、収穫祭です。季節ごとに行われました。初穂の祭りは、春の初めに収穫される大麦の初穂を主におささげする祭りです。五旬節は、春の終わりに収穫する小麦の初物を、主におささげします。そして仮庵の祭りは、秋のいちじくの木の実、オリーブ、ぶどう、なつめやしなどの収穫の後に行なわれます。今、イスラエルが、シナイ山の荒野のふもとにいることを思い出してください。これらは、彼らが約束の地に入ってから、与えられるところの収穫を前提にして、主がお語りになっているのです。私たち人間は、荒野にいるときには、水や食料などの備えのために、主に必要を満たしていただくために、祈り、主に拠り頼みますが、豊かになるときに神を忘れてしまいます。そこで、主は、収穫物をご自分にささげるように命じられることによって、イスラエルがいつまでも、主を信じ、主のうちにとどまることを学ばせようとされたのです

私たちは、クリスチャンとして聖なる歩みをするためには自分の働きをやめ、キリストに集中しなければなりません。キリストがなされたみわざ、今、行なわれていること、そしてこれから行なわれることの中に休み、とどまり、自分の行ないを取り除いていく必要があるのです。私たちは、自分が何らかの宗教的な行ないをしているから、自分が聖いと思ってしまうことがあります。たとえば、毎日祈っているとか、日曜日はちゃんと礼拝に行っているとか、いつも、いろいろな人に伝道しているとか、奉仕もちゃんとやっているとかです。それ自体はすばらしいのですが、それが実体のともなったものでなければ、すなわち、それがイエス・キリストにしっかりと結びついたものでなければ吐き出されてしまうこともあるのです。神が私たちに願っておられることは、キリストにとどまることです。キリストのみわざをみとめ、神がキリストにあって成されたことを信じて受け入れ、そのみわざにとどまっていることです。自分をキリストに明け渡すことです。そのためには今やっていることを休め、そこに立ち止り、神に集中しなければなりません。あれをして、これもしてと、忙しく動き回っていると肝心な神との関係が希薄となり、やることだけが先行してしまいます。そして、それがいつしか神のためにというよりも自分のために、自分の思いを実現するためにやっているということもあるのです。そうなると信仰もいつしか形骸化して、そこに生きた神との関係が無くなってしまいます。自分の思い付きで話したり、行動したりということになってしまいます。神のみこころからかけ離れた信仰に陥ってしまうのです。だから神は、こうした例祭を定め、自分の手を休めるようにと教えられたのです。その代表が安息日だったのです。

2.過ぎ越しの祭りと種を入れないパンの祭り(4-8)

4節と5節をご覧ください。

「あなたがたが定期に召集しなければならない聖なる会合、すなわちの例祭は次のとおりである。第一月の十四日には、夕暮れに過越のいけにえをにささげる。」

主への例祭は、過越の祭りをもって始まります。これが第一の月とあるとおり、この祭りをもってユダヤ人の暦が始まります。なぜ過ぎ越しの祭りから始まるのでしょうか。なぜなら、これが贖いを表しているからです。信仰のスタートは贖いです。

 それは、神の小羊であられたキリストを表していました。バプテスマのヨハネはキリストを見たとき、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。(ヨハネ1:29)」と呼びました。そしてイエスさまは、十字架につけられる前夜、弟子たちと過越の食事をされましたが、イエスさまがパンを裂いたときに、「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを与えてこれを行ないなさい。」と言われ、ぶどう酒の杯は、「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」と言われました(ルカ22:20)。そして、イエスは、この過越の祭りの日に十字架につけられて死なれたのです。そうです、イスラエルが食べ、血を門の鴨居と門柱につけたその小羊は、イエス・キリストご自身を示していたのです。ペテロは、「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(1ペテロ1:18-19)」と言いました。

 過越の祭りが、この後のすべての祭りの出発点になっており、この祭りによって他の祭りが成り立っています。すべての土台になる祭りです。それは、私たちの主イエス・キリストが十字架で死なれ、血を流してくださったことが、私たちの信仰の土台であるということです。私たちの奉仕は、どのような動機から始まっているでしょうか。「私は罪人であったのに、神はキリストを死に渡されることにより、ご自分の愛を示してくださった。」ということから始まっているでしょうか?それとも、他のだれかに認められたいとか、自分の心理的欲求を満たしてくれるというような動機から始まっているでしょうか。私たちのすべての奉仕は、ただ「キリストの愛」に突き動かされているものでなければなりません

次に、種なしパンの祭りです。種なしパンの祭りは、過越の祭りのすぐあとに行われました。ここでいう種とはパン種のことで、パンをふくまらせるところのイースト菌のことです。イスラエルの民は、この祝いの前に、家の中にあるパン種をくまなく探し、家の中からパン種を取り除きました。そして七日間、種のないパンを食べました。初めの日と最後の日は仕事をしてはなりません。そして、この七日間、火によるささげもの、つまり、牛や羊、やぎなどの家畜を祭壇で焼いたのです。

これは何を表していたのかというと、過ぎ越しによって罪が取り除かれたことです。その祝いです。聖書ではパン種は罪を表しています。少しでもパン種が入っているとパン全体を膨らませるように、少しでも罪があると全体に広がってしまいます。そこでパウロは、コリント人たちにこう手紙を書き送りました。

「あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。(Ⅰコリント5:6)」

パウロはコリント人たちに、続けてこう言っています。

「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。(1コリント5:7-8)」

あなたがたはパン種がない者であるというのは、罪が許されたからです。キリストの血によって罪が赦され、罪が取り除かれました。もうパン種がなくなったのです。だから、古いパン種で祭りをしたりしないで、パン種の入らないパンで祭りをしなければなりません。それが種を入れないパンの祭りです。すなわちそれはキリストによって罪が取り除かれたことを祝う祭りなのです。

私たちの罪は取り除かれました。主イエス・キリストの血は、私たちの罪を取り除き、私たちを完全にきよめてくださったのです。ですから、私たちと、神との間に、何ら隔ての壁になるようなものは一つもありません。子供がお父さんやお母さんのところに走りよっていくように、私たちも大胆に、父なる神に大胆に近づくことができるのです!「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:16)」とヘブル書にある通りです。

3.初穂の祭り(9-14)

次に9-14節をご覧ください。ここには、初穂の祭りについて記されてあります。

「ついではモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたに与えようとしている地に、あなたがたが入り、収穫を刈り入れるときは、収穫の初穂の束を祭司のところに持って来る。祭司は、あなたがたが受け入れられるために、その束をに向かって揺り動かす。祭司は安息日の翌日、それを揺り動かさなければならない。あなたがたは、束を揺り動かすその日に、への全焼のいけにえとして、一歳の傷のない雄の子羊をささげる。その穀物のささげ物は、油を混ぜた小麦粉十分のニエパであり、への火によるささげ物、なだめのかおりである。その注ぎのささげ物はぶどう酒で、一ヒンの四分の一である。あなたがたは神へのささげ物を持って来るその日まで、パンも、炒り麦も、新穀も食べてはならない。これはあなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。」

  ここには、彼らが約束の地に入り、収穫を刈り入れるときには、収穫の初穂の束を祭司のところに持ってくるようにとあります。祭司はそれを主に向って揺り動かします。彼らが受け入れられるように・・・。これは大麦の収穫の初穂を、主におささげする祭りです。祭司がそれを、主の前に前後に揺り動かして、この収穫を主に受け入れられるようにするわけです。これは、安息日の翌日、つまり日曜日であり、過越の祭りの三日目に行なわれます。つまり、これはキリストの復活を表していたのです。

キリストは過越の祭りの日に死なれ、墓に葬られました。安息日が終わり、日曜日に復活されました。日曜日の朝早く女たちが、イエスに香料を塗ろうと墓にやって来くると、墓の石は取り除かれていました。そこに御使いがいて、女たちにこう言いました。「この方はここにはおられません。よみがえられたのです。」そうです、初穂の祭りは、イエス・キリストの復活を表していたのです。使徒パウロはこう言いました。コリント人への手紙第一15章20節です。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」

 キリストは、私たちのために死んでくださり、その血によって罪を赦し、きよめてくださっただけではなく、よみがえってくださいました。よみがえって、今も生きておられます。そして、今、私たちのうちに住んでいてくださるのです。使徒パウロは言いました。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。 (ガラテヤ2:20)」

ここで、パウロは、私はキリストとともに十字架につけられており、死んでいる、と言っています。私たちはすでに死んでいるのです。このことに気づかないと、いつまでも、自分を改善しよう、良くしようと思ってしまうのです。そして、改善しようと思っても、むしろ罪を行なっている自分を発見して、パウロのように、「ああ、私はなんとみじめな人間なのでしょう。」と嘆いてしまいます。しかし、すでに私たちは死んでいるので、自分ではどうしようもありません。けれども、キリストはよみがえってくださいました。そして、そのよみがえりの主が私のうちに生きておられる。だから私たちは、このキリストにあって、キリストのいのちにある新しい歩みをすることができるのです。

12節には、「あなたがたは、束を揺り動かすその日に、主への全焼のいけにえとして、一歳の傷のない雄の子羊をささげる。その穀物のささげ物は、油を混ぜた小麦粉十分の二エパであり、主への火によるささげ物、なだめのかおりである。その注ぎのささげ物はぶどう酒で、一ヒンの四分の一である。あなたがたは神へのささげ物を持って来るその日まで、パンも、炒り麦も、新穀も食べてはならない。これはあなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。」とあります。

この初穂の祭りのときに、全焼のいけにえ、穀物のささげものを、初穂の祭りのときにもささげます。そして注ぎのささげものというのもあり、これはぶどう酒をささげます。それはなぜでしょうか。祭壇の上の火によって、これらが燃やし尽くされるとき、主がそのいけにえをお受け取りになったことを示しているからです。私たちの罪は完全に赦され、キリストの新しいいのちにあって生きることができるようになったのです。

4.五旬節(七週の祭り:ペンテコステ)(15-22)

 十字架と復活と続いたら、次は何でしょうか。そうです、ペンテコステです。次に五旬節の祭りについて教えられています。15-22節までをご覧ください。

「あなたがたは、安息日の翌日から、すなわち奉献物の束を持って来た日から、満七週間が終わるまでを数える。七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物を主にささげなければならない。」(15-16)

五旬というのは50日のことですが、それは初穂の祭りから七週を数え、さらに一日を加えた日数で。初穂の祭りとは主の復活のことを表していますので、主が復活してから50日目がペンテコステということになります。先ほどから「7」という数字がたくさん出てきているのに、ここでは50日目というのはおもしろいですね。七日目の安息日、七日間の種なしパンの祝い、そして、七週間後の五旬節です。7は、主ご自身のことを表しています。主のみわざが完全であり、完成されていることを示します。ですから、本来なら49日目に行われるはずなのに50日目というのは不思議です。このことについていろいろ調べてみましたが、納得のいく回答が見られなかったので、自分なりにカレンダーをずっと眺めていて気付いたことがありました。この七週の祭りは初穂の祭りから五十日目です。復活の日から五十日です。それは日曜日の出来事でした。それから49日後は土曜日になります。土曜日は主の安息の日ですが、この日ではだめなのです。なぜなら、主は復活をもってすべてを新しくされるからです。それが初穂の祭りの意味でした。そういう意味ではこのペンテコステは新しいスタートのときです。聖霊が降臨されることによってすべてが新しくなります。その新しいスタートは日曜日でなければならなかったのです。初穂の祭りから七週を数えた49日の次の日のことです。それはちょうど五十日後になります。それが五旬節です。だからここにはキリストの復活と聖霊降臨の出来事が完全に予言されていたのです。ユダヤ人はわからなかったと思いますが・・・。

この日には、小麦の収穫の初穂を、主の前におささげします。

「あなたがたの住まいから、奉献物としてパン・・主への初穂として、十分の二エパの小麦粉にパン種を入れて焼かれるもの・・二個を持って来なければならない。」(17)

パンを二つ、主の前にささげます。不思議なことに、このパンにはパン種が入っています。ふわふわとした、私たちが普通に見るパンです。これはなぜでしょうか?また、なぜ二つのパンなのでしょうか?

この五旬節のときに、ある大きな出来事が起こったことを思い出してください。イエスさまがよみがえられ、弟子たちの前に40日間現われて、彼らは祈り始めました。10日後、五旬節のときに、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こりました。そして、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまりました。そして彼らは聖霊に満たされて、外国の言葉で話し出したのです。この日に、ペテロの説教を聞いて、3千人が弟子となり、バプテスマを受けました。そうです、教会が誕生したのです。したがって、五旬節は、聖霊が降って、教会が誕生することを予め示していたのです。

ここでは、その教会とはどのようなものなのかが表されているのです。それはパンにパン種が入っているようなものです。もちろん、キリストによって罪が赦され、罪は取り除かれました。私たちは新しいパン種で祭りをしなければなりません。しかし、それは私たちは罪の完全な者であるということを示しているのではありません。罪は赦されてはいますが、まだ罪の性質を宿した弱い存在であるということです。そうした罪深い弱い私たちの中にキリストが宿ってくださり、キリストのからだが形成されているのです。それが教会なのです。私たちは不完な者ですが、その不完全な中にキリストがおられるのです。この事実を忘れてはなりません。それを表しているのがこの種を入れたパンなのです。

ですから、教会は互いにキリストにあって赦し合い、仕え合い、励まし合い、教え合っていかなければならないのです。そのようにして、成長し、キリストの身たけにまで成長することができるのです。もし自分が立派でもあるかのように考えて人をさばくようなことがあるとしたら、それは間違っています。

そして「二つのパン」ですが、これは、ユダヤ人と異邦人という二者が、キリストの十字架によって一つにされたことを表しています。パウロは、エペソ書2章で、「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。(エペソ2:14-15)」と言いました。キリストにあって、ユダヤ人も異邦人も、隔てなく交わりをすることができます。男も女も、自由人も奴隷も、すべての人がキリストにあって一つとなりました。私たちは、クリスチャンの間に、互いにぎくしゃくしたものがあり、なかなか交わることができない隔ての壁を感じているのであれば、それは、キリストではなく、自分自身が前面に出てしまっているからです。自分ではなく、キリストが第一になって、キリストのことが語られ、キリストが中心になっているとき、両者の違いは妨げとならなくなります。キリストが私たちの平和であり、二つのものを一つにしてくださいました。それが教会なのです。

「そのパンといっしょに、主への全焼のいけにえとして、一歳の傷のない雄の子羊七頭、若い雄牛一頭、雄羊二頭、また、主へのなだめのかおりの、火によるささげ物として、彼らの穀物のささげ物と注ぎのささげ物とをささげる。また、雄やぎ一頭を、罪のためのいけにえとし、一歳の雄の子羊二頭を、和解のいけにえとする。祭司は、これら二頭の雄の子羊を、初穂のパンといっしょに、奉献物として主に向かって揺り動かす。これらは主の聖なるものであり、祭司のものとなる。」(18-20)

そのパンといっしょに全焼のいけにえをささげます。また、穀物のささげ物と注ぎのささげ物をささげます。全焼のいけにえとは、私たちのすべてを主におささげすること、献身を表しています。一方、穀物のささげ物とか注ぎのささげ物とは、感謝を表しています。すなわち、感謝をもって献身を表していたのです。また、和解のいけにえは、主と和解するためのいけにえではなく、和解した者としてのいけにえ、すなわち、喜びを表していました。五旬節にはこうしたパンといっしょに、神への感謝と喜び、そして神への献身が求められたのです。

「その日、あなたがたは聖なる会合を召集する。それはあなたがたのためである。どんな労働の仕事もしてはならない。これはあなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。あなたがたの土地の収穫を刈り入れるとき、あなたは刈るときに、畑の隅まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂も集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」(21-22)

収穫のときに、イスラエル人は、貧しい人、在留寄留者の人たちを顧みなければいけないことを教えられています。畑の隅々まで刈り取ることなく、それは残しておき、貧しい人たちが食べることができるように残しておきます。それは自分たちをエジプトから救い出し、約束の地へと導いてくださった主への感謝の表れでもあります。私たちも、キリストの十字架と復活、そして、聖霊の降臨をもって新しい生活へと導いてくださった主に、心からの感謝と賛美をささげる者でありたいと思います。

イザヤ63:1-14 レジュメ

イザヤ63:1~14 「豊かな神の恵み」 

 Ⅰ.敵を滅ぼされる方(1~6)

 ここには、やがてキリストが再臨され敵を滅ぼされる様子が預言されている。「エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。」(1)エドムとは、聖書では常に神の民イスラエルに敵対する民族として登場してくる。ボツラとはそのエドムの首都のこと。再臨のキリストは、このボツラからやって来る。真っ赤に染まった衣を着て。これはどういうことか。「なぜ、あなたの着物は赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏むようなのか。わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。」(2-3)

 これは十字架の血ではない。これは神に敵対する者がさばかれ、酒ぶねで踏まれた時のように踏みにじられた時に流される血のことである。神に敵対する者は、やがてこのようにさばかれる。神はこのように敵を滅ぼされるのである。

 Ⅱ.豊かな神の恵み(7-10)

 このような神のさばきの中にあっても、主を信じる者はさばかれない。彼らはこのように神への賛美をほめ歌う。「私は、主の奇しいみわざをほめ歌おう。主が私たちに報いてくださったすべての事について、そのあわれみと、豊かな恵みによって報いてくださったイスラエルの家への豊かないくつしみについて。」(7)なぜこのようにほめ歌うのか。それは、神が一方的に救ってくだったから。何の功績もなく、全く救われるに値しない者が救われた。それは神の一方的な恵みによる。だから、神をほめたたえるのである。それがクリスチャンの歩みだ。

 では、神はどのように愛してくださったのだろうか。第一に、神は「偽りのない子たちだ」(8)と呼んでくださった。人を蹴落としても自分を優先し、自分さえよければいいと思うような身勝手な私たちを、偽りのない子と呼んでくださる。それは私たちの罪を見て見ぬふりしているからではない。私たちの罪のすべてを十字架で代わりに受けてくださったからである。

 第二に、「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ」(9)でくださる。「親身になって」という言葉があるが、まさに主イエスは親身になってあなたのことを理解してくださる。なぜなら、主イエスはあなたのために十字架にかかって死んでくださったからだ。だからあなたに同情できないことはない。あなたの悲しみや苦しみのすべてを汲み取ってくださることができるのである。

 第三に、主は「昔からずっと、彼らを負い、抱いて来られた。」(9)主はあなたの最も近い親類になってあなたを贖い、あなたを罪から解放してくださった。そして、昔からずっとあなたを背負い、抱いてこられたのである。

 何という恵みだろう。まさに「豊かな恵み」、「豊かないつくしみ」である。このような神なら、だれでもきっと素直に従うことだろう。しかし、イスラエルはそうではなかった。彼らは逆らい、主の聖なる御霊を悲しませた。私たちが主に逆らうと、御霊は悲しまれる。痛まれる。だから決して逆らうことがないように、素直にイエスを信じ、従っていきたい。いったいどうしたら従うことができるのだろうか。

 Ⅲ.主の恵みを思い出して(11-14)

 それは主の恵みを思い出すことによってである。「そのとき、主の民は、いにしえのモーセの日を思い出した。」いったいなぜ彼らはモーセの日を思い出したのだろうか。それは思い出すためである。神がどれほど偉大な方であり、恵み深く、あわれみ深い方なのかを思い出すためである。主の恵みを思い出すなら、感謝に溢れるようになる。そのくちびるに賛美が溢れるようになるのだ。「恵み」とは、十字架を思うと書く。あなたが十字架を思い出すなら、あなたも必ず感謝に溢れるようになる

 神はあなたを地獄の滅びから救ってくださった。世の終わりの神の復讐の日に、あなたが恐ろしいさばきを受けることがないようにしてくださった。そのために主は十字架にまでかかってくださったのである。この恵みを思い出すなら、あなたにも感謝と賛美が溢れるようになる。

 だから、どうか思い出してほしい。あなたがどのようにして救われたのかを。あなたが救われてから今までどのように導かれてきたのかを。そこには言葉には尽くせないほどの神の大きな愛と恵みがあった。その恵みを思い出してほしい。そして、日々の生活の中にあって、自分の置かれたを現実を見て嘆くのではなく、その中にあってもいつくしんでくださる主の恵みを信仰によって見つめ、感謝に溢れながら喜んで神に仕えていく者でありたい。

イザヤ書63章1~14節 「豊かな神の恵み」

きょうはイザヤ書63章からお話したいと思います。ここには、やがてキリストが再臨される時、どのようなことが起こるのかが記されてあります。実に、聖書には終末に起こる出来事が数多く予言されているのです。そして、それらの予言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが神からのことばを語ったものなので、100パーセント必ずそのとおりになります。それではきょうの箇所に書かれてある預言を見ていきましょう。

Ⅰ.敵を滅ぼされる方(1~6)

まず1節から6節までをご覧ください。1節をお読みします。 「エドムから来る者、ボツラから真紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。」「正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。」

エドムとは、死海の南方にある地域です。聖書では常に神の民イスラエルに敵対する民族として登場しています。それはエドムの祖先であるエサウが、神の特別の祝福である長子の権利を、一杯の煮物と引き替えに双子の弟ヤコブに売り渡してしまったからです。それで兄が弟に仕えることになってしまいました。それでエサウはヤコブを憎むようになったのです。その子孫であるエドム人は常にイスラエルに敵対する者として存在するようになってしまったのです。ボツラとはそのエドムの首都ですが、キリストが再する時このボツラからやって来るというのです。

なぜでしょうか?なぜなら、彼らは神に敵対したので、神は怒って、彼らを踏みにじられるからです。2節と3節をご覧ください。 「なぜ、あなたの着物は紅く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。」

なぜキリストの着物は赤く、その衣は酒ぶねを踏む者のようなのでしょうか。それは、キリストが怒りの酒ぶねを踏んだからです。それで彼らの血のしたたりが、キリストの衣にふりかかり、それですっかり汚れてしまったからです。中には、この血はイエス様が十字架につけられた時に流された血ではないかと考える方がおられますが、違います。これは敵を踏みつけた時の血、その返り血なのです。それがキリストの衣にふりかかったので、真っ赤になってしまったのです。

このことは、黙示録14章17~20節にも記されてあります。ここにもキリストが再臨される時の様子が描かれています。 「また、もうひとりの御使いが、天の聖所から出て来たが、この御使いも、鋭いかまを持っていた。すると、火を支配する権威を持ったもうひとりの御使いが、祭壇から出て来て、鋭いかまを持つ御使いに大声で叫んで言った。「その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。」そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。その酒ぶねは都の外で踏まれたが、血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。」

このところによると、その酒ぶねから流れ出る血は馬のくつわに届くほどになり、1600スタディオンに広がるとあります。馬のくつわほどというのは馬の顔くらいの高さです。大体2メートルくらいでしょうか。それが1600スタディオンにわたって広がるのです。1スタディンは185メートルです。ですから約300キロにわたって広がるということです。まさに血の海です。イザヤはその時のことを預言していたのです。

皆さんはこの酒ぶねで踏まれることがないように、キリストを信じて救われているでしょうか。それとも、エドムのように、ボツラのように、神の敵となっていますか。神なんてどうでもいいと神に敵対し、あくまでも自分の思いのままに生きようとしていると、やがて神の怒りの酒ぶねで踏まれてしまうことになります。神が用意してくださった救い、イエス・キリストを信じて救われていただきたいと思います。御子を信じる者はさばかれることはありません。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれています。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためです。ですから、あなたも救われるために、この御子を信じていただきたいのです。

Ⅱ.豊かな神の恵み(7-10)

次に7~9節までをご覧ください。まず7節です。 「私は、主の恵みと、主の奇しいみわざをほめ歌おう。主が私たちに報いてくださったすべての事について、そのあわれみと、豊かな恵みによって報いてくださったイスラエルの家への豊かないつくしみについて。」

この「私」とはイザヤのことです。イザヤはこの幻を見たとき、その口から神への賛美がほとばしり出ました。キリストが再臨する時、敵を踏みにじり、自分たちに報いをもたらしてくださるという神のみわざを聞いたとき、主にほめたたえずにはいられませんでした。それは私たちも同じです。クリスチャンは圧倒的な神の恵みのみわざを知ったとき、黙っていることなんてできません。その恵みに感動して、応答して、そのみわざをほめ歌うようになります。エペソ2:3-5にはこうあります。

「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです―」(エペソ2:3-5)

私たちが救われたのは、ただ恵みによるのです。何の功績もない者が、全く救われるに値しないような者が救われました。これが恵みです。私たちは生まれながらに罪人であり、ゆえに、神のさばきを受けるべき子らでした。まさに酒ぶねで踏みつけられるような者でした。しかし、そのような者を一方的に神が救ってくださいました。私たちが救われたのは、ただ恵みによるのです。だから私たちは神をほめたたえるのです。そうしないと救われないかもしれないからではありません。この大きな愛と恵みによって救われたので、神をほめ歌うのです。

皆さん、なぜ私たちはこうやって神を礼拝しているのでしょうか?たまにはテレビでも観ながらのんびりしていたいと思うのも無理もありません。なのにこうして教会に来て神を礼拝するのは祝福されるためではありません。祝福していただいたからなのです。もう捨てられても致し方ないような者が救われたので、その神のみわざを賛美せずにはいられないからです。尽きることがない神の恵みに応答したいからです。それは宗教的な義務でも、何でもありません。そうしないと救われないからでもありません。そうすれば何か見返りがもらえるからでもないのです。神が愛してくださったので、その恵みによって救われたので、私たちはそうしたいのです。クリスチャンの生活というのは、まさにこの恵みによって貫かれているものなのです。

では神はどれほどあなたを愛してくださったのでしょうか。8節と9節には、神があなたをどれほどあわれんでくださったかが三つの言葉で表されています。「主は仰せられた。「まことに彼らはわたしの民、偽りのな子たちだ」と。こうして、主は彼らの救い主になられた。彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自分の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」

まず第一に、「まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ」という言葉です。「彼ら」とは、直接的にはイスラエルのことです。元々イスラエルの名はヤコブでした。意味は「かかとをつかむ者」「ずる賢い者」です。人をけ落としても自分を優先する者、偽りだらけの者でした。そんな彼らを、主は「偽りのない子たちだ」と呼んでくださるのです。これは恵みではないでしょうか。いったいなぜ神はこのように言ってくださるのでしょうか。それは彼らの罪を見て見ぬふりをしているからではありません。彼らの罪を代わりに受けて贖ってくださったからです。それは私たちも同じです。私たちも罪だらけな者で、偽りだらけな者ですが、イエス様が私たちの代わりに十字架にかかって死んで、その罪を贖ってくださいました。それゆえに私たちは、「偽りのない子たちだ」と言ってくださるのです。

第二のことは、「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ」という言葉です。あなたが苦しむときには、主もまたいつも苦しんでくださいます。ただ苦しむだけではありません。その苦しみのすべてを引き受けてくださいます。その究極的な表れが十字架なのです。

私たちはよく「親身になって」という言いますが葉が、イエス様はまさに親身になってくださいます。イエス様は私たちの身代わりに死んでくださったので、私たちの弱さを理解し、同情することがおできになるのです。

人はよくこう言います。「あなたの気持ちがよくわかるよ!」と。でも本当はわかりません。人の痛みや苦しみはそれぞれみな違うからです。ある程度のことは理解できるかもしれませんが、それはその人が経験したことにおいて理解できるのであって、その経験が必ずしも同じだとは限りません。だから完全に理解することはできないのです。しかし、キリストはあなたのために死んでくださいました。そこまで親身になってくださいました。だからイエス様はあなたの悲しみも、苦しみも、辛さも、全部くみ取って理解することができるのです。ですからへブル人への手紙にはこうあるのです。 「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル4:15)  そこまで親身になってくださる方はいません。ですから、このイエス様にあなたの人生のすべてを任せていただきたいのです。

ところで、9節には「ご自身の使いが彼らを救った」とありますが、この「ご自身の使い」とは何のことでしょうか。これは直訳では「彼の顔の使い」です。彼の顔、神の目の前にいる使い、それは受肉前のイエス・キリストのことです。イエス様が彼らを救ってくださいました。イエス様があなたを救ってくださいました。イエス様はあなたのために十字架にかかって死んでくださることによって、あなたを救ってくださったのです。このイエスを信じる者はだれでも救われるのです。

もう一つの言葉は、9節後半の「その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた」という言葉です。すばらしい言葉です。主はその愛とあわれみによって彼らを贖ってくださったので、ずっと、彼らを背負い、抱いてくださいます。

「贖う」とはヘブル語で「ガアール」という言葉ですが、「代価を払って買い戻す」という意味です。イエス様はご自分のいのちという代価を払って私たちを買い取ってくださったので、どんなことがあっても見捨てることはなさいません。昔からずっと背負い、抱いてこられたのです。46章3-4節をご覧ください。ここには、「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」(46:3-4)とあります。

皆さん、主はあなたを胎内にいるときから担い、生まれる前から運んでくださいました。それはこれからも同じです。年を取っても変わりません。あなたがしらがになっても、主はあなたを背負ってくださいます。ずっと運んでくださいます。何という恵みでしょうか。神が私たちを救ってくださったということはそういうことなのです。どんなことがあってもあなたを見離したり、見捨てたりすることはしません。これが神の愛です。そのような大きな愛をもって、神はあなたを愛してくださったのです。

であれば、当然、イザヤのように、その奇しい主のみわざに感動して、その恵みをほめたたえ、心から神に従うだろうと思うかもしれませんが、イスラエルはそうではありませんでした。残念ながら、彼らは神に逆らい、神の御霊を痛ませました。10節を見てください。

「しかし、彼らは逆らい、主の聖なる御霊を痛ませたので、主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた。」

そんなに大きな愛と恵みによって救ってくださったのに、ご自分のいのちをかけて救ってくださったのに、その御恩に報いようとするどころかかえって逆らい、主の御霊を痛めつけたのです。これが人間です。これが私たちの姿でもあります。 主は、その豊かな恵みによって私たちを贖い、昔からずっと背負い、抱いて来られたのに、私たちは主に逆らい、主の御霊を悲しませるようなことばかりしているのです。

皆さん、皆さんが神に逆らい、神の救いを拒絶するようなことがあると、主の聖なる御霊は悲しまれます。なぜなら、神はあなたに救われてほしいと願っておられるからです。そのためにひとり子さえも惜しまずに死に渡されました。ですから、その愛を無駄にするようなことをすると悲しまれるのです。どうか神の恵みを無駄にしないでください。信じるだけで救われるんですから、信じるだけですべての罪が赦されるんですから、どうか救い主イエスを信じてください。そして、ここにある神の豊かな恵みを体験してください。

Ⅲ.主の恵みを思い出して(11-14)

いったいどうしたらこの神の恵みを信じることができるのでしょうか。第三のことは、主の恵みを思い出してください、ということです。11節から14節をご覧ください。 「そのとき、主の民は、いにしえのモーセの日を思い出した。「羊の群れの牧者たちとともに、彼らを海から上らせた方は、どこにおられるのか。その中に主の聖なる御霊を置かれた方は、どこにおられるのか。その輝かしい御腕をモーセの右に進ませ、彼らの前で水を分け、永遠の名を成し、荒野の中を行く馬のように、つまずくことなく彼らに深みの底を歩ませた方は、どこにおられるのか。家畜が谷に下るように、主の御霊が彼らをいこわせた。」このようにして、あなたは、あなたの民を導き、あなたの輝かしい御名をあげられたのです。」                                                     そのとき、主の民は、どうしたでしょうか。そのとき、彼らは、いにしえのモーセの日を思い出しました。「いにしえ」とは「昔」のことです。ずっと昔のモーの時代のことを思い出したのです。モーセの時代というのはこのイザヤの時代よりも約700年前のことです。いったいなぜそんなに昔のことを思い出したのでしょうか。それは思い出すためです。神がどれほど偉大な方であり、恵み深く、あわれみ深い方なのかをです。神が自分たちに報いてくだった恵みを思い出せば、神を切に慕い求めるようになるからです。

モーセの時代にはどんなことがあったでしょうか。エジプトに奴隷として400年間も捕えられていましたが、神は大いなる御業をもって彼らを救い出してくださいました。また、追ってくるエジプト軍を背に、目の前には紅海が広がっているという絶対絶命のピンチの中で主は紅海を二つに分け、そこに乾いた陸地を造られ、そこを通らせて彼らを救ってくださいました。また荒野では、家畜が谷を下るように、主が彼らをいこわせてくださり、ついに彼らを約束の地に導いてくださいました。その主はどこらおられるのですか。第二の出エジプトであるこのバビロンからの解放にあたっても、主は同じようにしてくだいます。いいえ、第三の出エジプトであるこの罪からの救いにおいても、確かに主は大いなるみわざをもって導いてくださいます。そのことを思い出すなら、あなたに感謝と喜びが溢れるようになります。

イザヤ書51章1節には、「あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。」とあります。あなたがたがどこからどこから切り出され、どこから救われたのかを思い出せというのです。なぜなら、思い出すことによって希望が与えられるからです。だから、イスラエルにはお祭りがたくさんあるのです。過ぎ越しの祭りから始まって種なしパンの祭り、初穂の祭り、七週の祭りです。ラッパを吹き鳴らす日、贖罪の日、仮庵の祭りです。それは神が彼らにどんなことをしてくださったのかを思い出させ、どのような状況にあっても神に信頼して歩むためです。

それは私たちも同じです。私たちも神の恵みを思い出すなら、その神の豊かな恵みに感動して、心から神を信じ、神について行きたいと思うようになるでしょう。私たちにとってのモーセの日とはいつのことでしょうか。それはキリストがあなたのために十字架にかかって死んでくださった日のことです。キリストがあなたの罪のために死んでくださいました。その死によってあなたは救われました。あなたはそれほどに愛されました。そして、今も愛されています。あなたはずっと主に担われているのです。す何という恵みでしょうか。このことを思い出すならあなたはうれしくなり、喜んで神を信じたいと願うようになるでしょう。

「恵み」という漢字をよくみると、十字架を思うと書くんですね。十字架の恵みを思い出すなら、あなたがそのときからずっと主に守られて来たことを思い出すなら、あなたも必ず感謝にあふれるようになるのです。

ですから、どうか思い出してください。あなたがどのようにして救われたのか、また、あなたが救われてからこれまで、どのように神に導かれてきたのか・・・を。そうすれば、あなたは力を受けます。そして主の恵みと、主の奇しいみわざをほめ歌うようになるのです。どうかあなたの置かれた現状を見て悲しみに沈むことがありませんように。むしろ神の恵みを思い出して、感謝にあふれた日々を送ることができますように。大切なのは、神はどのような方であるかを知ることです。そうすれば、あなたの心に確かな確信と希望がもたらされるでしょう。神はそのあわれみと、豊かな恵みによって、あなたを救い、あなたを守ってくださる方なのです。

Isaiah62:1-12 “Don’t keep silent”

 

The passage that we just read was written when Jerusalem was destroyed by Babylon and it is a prophecy of recovery that the Savior will once more rebuild Jerusalem. It is at the same time a promise of recovery for us Christians.  When a situation is bad, we tend to immediately become depressed and keep silent. We think that it’s useless to do anything, or that no matter what we do it won’t go well, or that it’s impossible in the age that we are living in, etc. Therefore, we become silent. However, no matter what the situation is, no matter what the age is like, we must not keep silent. We must always, at all times preach the Word of God.

  1. God who doesn’t keep silent  (Vs. 1-5)

First of all please look at verses 1 to 5. I will read verse 1. “For Zion’s sake I will not keep silent, for Jerusalem’s sake I will not remain quiet, till her vindication shines out like the dawn, her salvation like a blazing torch.”

Here is says, “For Zion’s sake I will not keep silent.” (1) “I” (1) is the Messiah. This is Jesus Christ’s appearance before he was born as a man. He also appears in 61:1.  I for Zion’s sake “will not keep silent.” (1) “Zion” (1) is Jerusalem. Therefore, Christ is saying that for Zion’s sake he “will not keep silent.” (1)  “Till her vindication shines out like the dawn, her salvation like a blazing torch” (1) Christ will work for the sake of Jerusalem.

Please look at Hebrews 7:24 and 25. Here it says, “but because Jesus lives forever, he has a permanent priesthood. Therefore he is able to save completely those who come to God through him, because he always lives to intercede for them.” (Hebrews 7:24, 25) “Jesus lives forever…to intercede for them.” (Hebrews 7:24, 25)

For your sake Christ “will not keep silent.” (1) Until your “vindication shines out like the dawn,”(1)and your “salvation like a blazing torch” (1) Christ will work for your sake. What encouragement! Humans aren’t like that. If you look at Isaiah 59:16 you will see that humans can’t intercede. “He saw that there was no one, he was appalled that there was no one to intervene.” (Isaiah 59:16) They always think only of themselves. As long as it’s good for themselves, its o.k. Even if they pray for themselves, they can’t pray for others. “He saw that there was no one, he was appalled that there was no one to intervene.” (59:16) However, Christ is different. “Jesus lives forever…to intercede for” (Hebrews 7:24, 25) us.

 

 

How Christ intercedes is written in verses 2 to 5.  “The nations will see your vindication, and all kings your glory; you will be called by a new name that the mouth of the LORD will bestow.  You will be a crown of splendor in the LORD’s hand, a royal diadem in the hand of your God No longer will they call you Deserted, or name your land Desolate, But you will be called Hephzibah, and your land Beulah; for the LORD will take delight in you, and your land will be married. As a young man marries a young woman, so will your Builder marry you; as bridegroom rejoices over his bride, so will your God rejoice over you.”

The “your” in “The nations will see your vindication” (2) is Jerusalem and is also us Christians.  At that time, in other words, at the time of Jerusalem’s restoration, all the people in the world will see God(s mighty acts performed upon us and will rejoice in God. Then “you will be called by a new name that the mouth of the LORD will bestow.” (2)  “A new name” (2) is a new nature. Jerusalem’s name will be changed to a new name. Jerusalem’s new name will be “Hephzibah” (4) which means “my delight is in her”.  Now is different.  Up until now “they call you Deserted, or name your land Desolate.” (4) That name will be changed to “Hephzibah,” (4) “my delight is in her”.

“Hephzibah” (4) appears in II Kings 21:1. It was the name used by the wife of the King of Judah, Hezekiah.  She was for Hezekiah, his delight. How happy a wife is to be called like this. If you are told by your husband, “my delight is in you”, then you probably would be so happy that you’d be on cloud 9. In reverse if you are told that you bring me sadness, you would probably  want to die. Until now they were called “Deserted” (4) or “Desolate” (4) but they no longer will be called that. They “will be called Hephzibah,” (4) “my delight is in her.”

That’s not all. “Your land” (4) will be called “Beulah” (4) which means “married”.  You will be married to Jesus Christ. We have met Christ and have become Christ’s bride.  No matter what situation we are in, we are Christ’s bride. Also our husband, Christ, looks at us and says, “my delight is in you”. How glorious this is!  We don’t deserve to be told this. We betray the Lord over and over again, and make the same mistakes over and over again. We can’t look into the face of the groom Christ. To such a wife, the Lord says, “my delight is in you”. “As a bridegroom rejoices over his bride, so will your God rejoice over you.” (5)

There is no other god who will delight over you. Only the God of the Bible, only Jesus Christ will “rejoice over you.” (5) That is because Christ gave his life for you. He redeemed you with his life. Therefore, no matter how many times you repeat the same mistakes, if you believe God from your heart, then God will love you.

Please open your Bibles to Zephaniah 3:17. “The LORD your God is with you, the Mighty Warrior who save. He will take great delight in you, in his love he will no longer rebuke you, but will rejoice over you with singing.”

This is a wonderful promise! In Jesus’ eyes he sees us like this. “He will take great delight in you, in his love he will no longer rebuke you, but will rejoice over you with singing.” (Zephaniah 3:17) The Lord isn’t angry with you. Neither does he hate you. He takes “delight in you.” (Zephaniah 3:17) You believed in Jesus and became the child of God so the Lord is within you. You may be finding it difficult to do the will of God. You may be making the same mistakes over and over again. Even so God “will take great delight in you.” (Zephaniah 3:17)

Therefore, we must not look away from God. We must never separate ourselves from Jesus. We must not become depressed thinking that we are a terrible person and refuse to come to the Lord. We must open our hearts to the Lord who made us his, extremely loves us, and who delights in us. Like an intimate couple we need to come before the Lord as we are and share everything.

  1. Do not be silent (Vs. 6-9)

The second point is that if the Lord delights in us then we must not be silent. Please look at verses 6 to 9. “I have posted watchmen on your walls, Jerusalem;

they will never be silent day or night.

You who call on the LORD,

give yourself no rest,

and give him no rest till he establishes Jerusalem

and makes her the praise of the earth.

The LORD has sworn by his right hand

and by his mighty arm:

‘Never again will I give your grain

as food for your enemies

and never again will foreigners drink the new wine

for which you have toiled;

but those who harvest it will eat it

and praise the LORD,

and those who gather the grapes will drink it

in the courts of my sanctuary.’”

Here it says, “I have posted watchmen on your walls, Jerusalem.” (6) “The watchmen” (6) were “watchmen on the walls” (6) that were watching to see if there were any enemies coming or not.  In Isaiah’s age this was Isaiah and the other prophets. In other words, it could be said to be the people that gave warnings to the Israelites.  They were warnings that God’s judgment was near. They couldn’t “be silent day or night.” (6) Till God “establishes Jerusalem and makes her the praise of the earth,” (6) they couldn’t be silent.

We, Christians, are the same. God has sent us as watchmen into this world. At all times until this hope is fulfilled we must be watchmen in the world. We must not be silent. We have been put here to warn that the end of the world is near and also to encourage others to repent and believe in God.

Mark 13:33-37 says, “Be on guard! Be alert! You do not know when that time will come.  It’s like a man going away: He leaves his house and puts his servants in charge, each with their assigned task, and tells the one at the door to keep watch. Therefore keep watch because you do not know when the owner of the house will come back-whether in the evening, or at midnight, or when the rooster crows, or at dawn.  If he comes suddenly, do not let him find you sleeping.  What I say to you, I say to everyone; ‘Watch!’”

“That time” is the time of the end of the world.  In other words, when Jesus comes again. That time is just like when the master of the house leaves on a trip “and puts his servants in charge, each with their assigned task, and tells the one at the door to keep watch.” (Mark 13:34) They don’t know when the mater of the house will return. However, so that whenever he comes back, it’ll be o.k., you have to stay awake. The doorkeeper must be on the watch out. Like this when the master returns the servant that he sees awake will be blessed.

About this Paul said, “Preach the word; be prepared in season and out of season; correct, rebuke and encourage-with great patience and careful instruction.  For the time will come when people will not put up with sound doctrine.  Instead, to suit their own desires, they will gather around them a great number of teachers to say what their itching ears want to hear.  They will turn their ears away from the truth and turn aside to myths.  But you, keep your head in all situations, endure hardship, do the work of an evangelist, discharge all the duties of your ministry.”

“Preach the word; be prepared in season and out of season.” (II Timothy 4:2) This is the Word of God that I received when I was called to be an evangelist. When I received this Word of God, I was shown strongly that as an evangelist I have to “preach the word…in season and out of season.” (II Timothy 4:2)

Now is it in season or is it out of season? There are times of in season and times of out of season. It may be more of out of season. That’s because this age is like Paul says here “people will not put up with sound doctrine.  Instead, to suit their own desires, they will gather around them a great number of teachers to say what their itching ears want to hear.  They will turn their ears away from the truth and turn aside to myths.” (II Timothy 4:3, 4) Paul prophesized that such and age would come. However, even at such a time, we must “preach the word”. (II Timothy 4:2)  We must “endure hardship, do the work of an evangelist, discharge all the duties of your ministry.” (II Timothy 4:5) We shouldn’t be pessimistic thinking that no one believes and so it’s of no use, but we must “preach the word…in season and out of season.” (II Timothy 4:2) That’s what God desires of us. We must “correct, rebuke and encourage-with great patience and careful instruction.” (II Timothy 4:2) If so the Lord will work. “As the heavens are higher than the earth, so are my ways higher than your ways and my thoughts than your thoughts.” (55:9) If we follow God’s command “preach the word”, (II Timothy 4:2) then God will do mighty works. What God asks of us is to accomplish the commission as a “watchman”. (6)  As a “watchman” (6) we must give God’s warnings. We must not be silent.  God says, “I have many people in this city.” (Acts 18:10) We must believe the Word of God who said this and “preach the word”. (II Timothy 4:2)

Please open your Bibles to II Cor. 5:17-21. “Therefore, is anyone is in Christ, the new creation has come: The old has gone, the new is here!  All this is from God who reconciled us to himself through Christ and gave us the ministry of reconciliation; that God was reconciling the world to himself in Christ, not counting people’s sins against them.  And he has committed to us the message of reconciliation.  We are therefore Christ’s ambassadors, as though God were making his appeal through us.  We implore you on Christ’s behalf; Be reconciled to God.  God made him who had no sin to be sin for us, so that in him we might become the righteousness of God.”

“God… reconciled us to himself through Christ and gave us the ministry of reconciliation.” (II Cor. 5:18) “We are therefore Christ’s ambassadors.” (II Cor. 5:20) We as Christ’s ambassador, “on Christ’s behalf” (II Cor. 4: 20) must “preach the word” (II Timothy 4:2) saying, “Be reconciled to God.” (II Cor. 4:20) “Believe in Christ and be reconciled to God. If so all your sins will be forgiven.” We have to say like this.  We must not be silent.  That’s because for your sake God “will not remain quiet.” (1) Christ is making intercession for you now. If that is so, we too like Christ we must make intercession on other people’s behalf. We must pray for Jerusalem.

Near the end of verse 9 it says, “those who gather the grapes will drink it.” This is a prophecy that at the end of the world Jerusalem will be restored.  However, this isn’t just only material recovery.  This is spiritual recovery.  Those who believe in Christ will in the course of time be given the glory of drinking wine in God’s Holiest of Hollies. We must preach this.

  1. Your Savior comes!

Lastly let’s look at verses 10 to 12. “Pass through, pass through the gates!

Prepare the way for the people.

Build up! Build up the highway!

Remove the stones.

Raise a banner for the nations.

The LORD has made proclamation

to the ends of the earth:

Say to Daughter Zion,

‘See, your Savior comes!

See, his reward is with him,

and his recompense accompanies him.’

They will be called the Holy People,

the Redeemed of the LORD;

and you will be called Sought After

the City No Longer Deserted.

Verse 11 says, “The LORD has made proclamation to the ends of the earth.” It is not just to the Jews. It will be proclaimed so that all the people living on the earth can hear it.

“See, your Savior comes! See, his reward is with him, and his recompense accompanies him.” (11)

These words are quoted at the end of Revelations. In Revelations 22:12 it says, “Behold, I am coming soon! My reward is with me, and I will give to everyone according to what he has done.” At the end of the world Jesus Christ will come as the Lord of judgment.  At that time the Lord “will give to everyone according to what he has done.” (Rev. 22:12) This is not a reward for what we have done in the past, but is a reward for our labor of faith.

Please look at verse 12. Here again it says that they will be called by a new name. “They will be called the Holy People,

the Redeemed of the LORD;

and you will be called Sought After,

the City No Longer Deserted.” (12)

Until then they were not like that. They were called “Deserted” (4) and “Desolate”. (4) However, in the course of time, when Jesus Christ comes, you “will be called the Holy People, the Redeemed of the LORD; and you will be called Sought After,

the City No Longer Deserted.” (12) That is because you were redeemed by Jesus Christ.  This is only by Jesus Christ that you have become God’s. It is not because you have some advantages. It’s not because you have something wonderful. It is not because you have done something special.  In Japan people who do some kind of meritorious service are awarded a National honor award. For example a person who got successive gold medals at the Olympics or someone that broke a world record of the number of homeruns or someone who was awarded the Nobel prize, such people are awarded the National Honor Award. However, Heaven honor awards are not received because you have done something special. God delights in you.  You are precious to God. It is the grace of God from His side.  The day will come when you will receive it.  You will receive it from your Savior. “See, your Savior comes!” (11)

If that’s the case, even if now you have many problems in front of your eyes, even if at the present time you have tears all of the time, as a result of this certain hope, we can with patience overcome it.  You are redeemed.  You will receive God’s salvation.  It will be accomplished soon.  Let’s remember this and wait expectantly for the Lord’s salvation.

We have been put here to preach this wonderful salvation.    We must preach this wonderful news of joy. We must not be silent. Like Jesus called so that the ends of the earth could hear, Let’s proclaim this word of salvation in a huge voice, “See, your Savior comes! See, his reward is with him, and his recompense accompanies him.” (11)

イザヤ62:1-12 レジュメ

イザヤ62:1~12 「黙っていてはならない」

 Ⅰ.黙っておられない神(1~5)

 主はシオンのために黙ってはいない。その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまで、エルサレムのためにずっと働いていてくださる。このシオンとかエルサレムというのは、神の民であるクリスチャンのことでもある。主は私たちクリスチャンのために、いつも生きてとりなしていてくださる。「そのとき、国々はあなたの義を見、すべての王があなたの栄光を見る。あなたは、主の口が名づける新しい名で呼ばれよう。」「新しい名」とは、新しい性質のことである。そのとき、あなたは新しい名で呼ばれる。その名は、「わたしの喜びは彼女にある」(4)である。あなたはもう「見捨てられている」とか、「荒れ果てている」などと呼ばれることはない。花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ばれる。

 いったいこのような神が他にいるだろうか。どの宗教があなたのことを喜んでくれるだろうか。ただ聖書の神だけが、まことの救い主イエス・キリストだけが、あなたをこのように喜んでくださる。なぜなら、あなたは神の救いを受け入れ、神のものとされたからだ。あなたがどんなに罪を犯し、失敗を繰り返すような人でも、神の目には高価で尊い。神はあなたを喜んでくださるのである。

 Ⅱ.黙っていてはならない(6~9)

 第二のことは、だからあなたも黙ってはならない、ということである。「エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。」(6)

 「見張り人」とは、この時代で言えばイザヤをはじめとした預言者たちのこと。イスラエルに向かって神の警告を発する人たちのことである。それは同時に、私たちクリスチャンたちのことでもある。その見張り人に命じられていることは何か?昼の間も、夜の間も、黙っていてはいけない、ということである。世の終わりが近いことを知り、悔い改めて神を信じるようにと警告を発せなければならない。パウロは、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず、教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(Ⅱテモテ4:2)と言った。「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分に都合の良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(同4:3~4)

 まさに今、そのような時代が来ている。インターネットやスマホの情報に振り回され、それが絶対であるかのように思い込み、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代が来ているのである。しかし、そのような時でも、みことばを宣べ伝えなければならない。困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たさなければならないのである。どうせ誰も信じないのだから伝えないのではなく、だれも信じなくても伝えなければならない。黙っていてはならない。それが見張り人である私たちの務めなのである。

 Ⅲ.あなたの救いが来る(10~12)

 第三のことは、あなたの救いは必ず来るということである。主は、地の果てまで聞こえるように仰せられた。「見よ。あなたの救いが来る。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。」(11)これは黙示録22章12節にも引用されている。世の終わりには、イエス・キリストがさばき主としてやって来られる。そのとき、主はそれぞれのしわざに応じて報いてくださる。その報いとは私たちの過ちに対するさばきではなく、私たちの労苦に対する報いである。「彼らは、聖なる民、主に贖わされた者と呼ばれ、あなたは、尋ね求められる者、見捨てられない町と呼ばれる。」(12)それまでは見捨てられていたかのようであった。荒れ果てた者だった。しかし、やがてイエス・キリストが来られるときはそうではない。あなたは聖なる者、見捨てられない町と呼ばれる。なぜ?なぜなら、あなたの罪は贖われたからである。イエス・キリストを信じて、イエス・キリストの中にあることによって、あなたの罪は完全に贖われた。それゆえに、あなたは神のものとなり、神に喜ばれる者となった。

 であれば、たとえ今、私たちの目の前にいろいろな困難があっても、たとえ涙ばかりが流れるような現実の中にあっても、私たちは落ち込む必要はない。この与えられた希望のゆえに、忍耐をもってそれを乗り越えていくことができる。見よ。あなたの救いが来る。もうすぐ、それが実現しようとしている。だから、そのことを覚えて、この神の救いを待ち望む者でありたい。また、このすばらしい救いを宣べ伝えなければならない。黙ってはならない。キリストのとりなしによって救いの中に導き入れられた私たちは、キリストのように人々のためにとりなす者でなければならないのである。

イザヤ書62章1~12節 「黙っていてはならない」

きょうは、イザヤ書62章のみことばからお話したいと思います。タイトルは、「黙ってはならない」です。ここにはエルサレムの回復が預言されています。バビロンによって滅ぼされ、荒廃したエルサレムを、主がもう一度建て直してくださるということが約束されているのです。それは私たちに対する約束でもあります。主は荒廃した私たちの人生をもう一度立て直してくださるのです。では、早速、本文を見ていきましょう。まず1節から5節までをご覧ください。

Ⅰ.黙っておられない神(1-5)

1節には、「シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために、黙りこまない。その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは。」とあります。シオンとはエルサレムのことです。ここには、主がシオンのために黙ってはおられることをせず、その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまで、働いてくださることが約束されています。

ヘブル人への手紙7章24、25節にはこうあります。 「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」  キリストはいつも生きていて、あなたのためにとりなしをしておられます。黙っているということはありません。ずっと働いていてくださるのです。

何という励ましでしょうか。私たち人間はそうではありません。59章16節には、「主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。」とありましたが、人のためにとりなす人がいないのです。いつも自分のことばかり。自分さえよければいい。自分のたるには祈っても、人のために祈ることができません。それが人間です。しかし、キリストはいつも生きていて、あなたのために、とりなしておられるのです。

これはイザヤの時代で言うなら、バビロン捕囚から解放されることを現しています。イスラエルは罪の結果70年もの間、捕囚としてはバビロンに囚われていましたが、そこから解放してくださるという約束です。主はそのためにずっととりなしておられたのです。

いったい主はどのように働いてくださるのでしょうか。2節をご覧ください。 「そのとき、国々はあなたの義を見、すべての王があなたの栄光を見る。あなたは、主の口が名づける新しい名で呼ばれよう。」

「そのとき」とは、エルサレムが回復するときのことです。そのとき、国々はあなたの義を見、すべての王があなたの栄光を見るようになります。世界中のすべての人が、あなたの上に神の大いなる御業が成されたことを見て、神をほめたたえるようになるのです。そしてあなたは、主の口が名付ける新しい名で呼ばれるようになるのです。「新しい名」で呼ばれるというのは、新しい性質に変えられることを表しています。

そのような性質でしょうか。3~5節をご覧ください。 「あなたは主の手にある輝かしい冠となり、あなたの神の手のひらにある王のかぶり物となる。あなたはもう、「見捨てられている」と言われず、あなたの国はもう、「荒れ果てている」とは言われない。かえって、あなたは「わたしの喜びは、彼女にある」と呼ばれ、あなたの国は夫のある国と呼ばれよう。主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。若い男が若い女をめとるように、あなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。」

それまでは、「見捨てられている」とか「荒れ果てている」と呼ばれていましたが、これからはそのように呼ばれることはありません。これからは「わたしの喜びは彼女にある」とか、「あなたの国は夫のある国」こう呼ばれるようになります。

どうですか、このように呼ばれたら、どんなにうれしいことでしょう。この「わたしの喜びは、彼女にある」という言葉はⅡ列王記21章1節に出てくる「ヘフツィ・バハ」という言葉です。そこではユダの王ヒゼキヤの奥さんの名前として使われています。彼女はヒゼキヤの喜びでした。「ヘフツィ・バハ」。「あなたは私にとって喜びだ」とか、「私の喜びはあなたにある」と言ってもらえる妻はどれほど幸せでしょうか。「あなたは私の悲しみだ」とか、「顔もみたくない」なんて言われたら、もう死にたい気持ちになるでしょう。逆に、「あなたは喜びだよ」なんて言われたら、もう天にも上るような気分になります。

私たちはもともと「見捨てられたもの」と呼ばれても致し方ないような者だったんです。自分勝手な道を歩み、何度も何度も神を裏切ってきました。もう見捨てられても、見放されてもしょうがない者だったのに、神は一方的なあわれみによって赦してくださいました。神はあなたを、「あなたはわたしの喜び」、「あなたは夫のある国」と呼んでくださるのです。

いったいこのような神が他にいるでしょうか。どの神があなたのことをこのように受け入れてくれるでしょうか。どの宗教があなたを心から喜んでくれるくれるでしょうか。ただ聖書の神だけが、イエス・キリストだけがあなたを喜び、あなたを心から受け入れてくださいます。なぜなら、キリストはあなたのためにいのちを捨ててくださったからです。いのちをかけてあなたを贖ってくださいました。だから、たとえあなたがどんなに裏切っても、たとえあなたがどんなに失敗を繰り返しても、あなたが悔い改めて神に立ち返るなら、神はあなたを赦し、受け入れてくださるのです。

今、NHKの大河ドラマで豊臣秀吉に仕えた「軍師、官兵衛」の生涯を描いたドラマが放映されていますが、そこに親を早くに亡くして黒田家に引き取られ、幼い長政(松寿丸)と兄弟のように育てられた後藤又兵衛という家臣が登場しますが、彼は一度ならず二度も黒田家を裏切り、敵となってしまいました。しかし、戦いに敗れた又兵衛が謝罪のため黒田家を訪れたとき、彼は自分はとても許されるに値しない者と身を引こうとしましたが、そんな又兵衛に官兵衛の妻、光(てる)が、こう言って引き留めるのです。「又兵衛、おまえは一度ならず、二度も母を捨てるのですか?」何度捨てても、わたしはおまえの母なんですよ、そう言って受け入れるんですね。それを見ていて、ああ、私たちの天のお父さんと同じだなぁと思いました。いや、天の父はもっと完全な愛をもって受け入れてくださいます。何度失敗しても、悔い改めて立ち返るなら、どこまでも赦してくださいます。「見捨てられている」とか「荒れ果てている」という名前ではなく、「わたしの喜びは、あなたにある」と言ってくださる。それが天の父、あなたの神です。

ゼパニヤ書3章17節にはこうあります。 「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」

すばらしい約束です。イエス様の目に、私たちはこのように写っているのです。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与えてくださいます。主は高らかに、あなたのことを喜ばれるのです。主はあなたのことを怒っているのではもなく、嫌っているのでもありません。あなたのことを喜んでおられるのです。あなたがイエスを信じて、神の子とされたので、主はあなたのただ中におられるからです。あなたはなかなか神のみこころにかなった者になれないかもしれません。何度も同じ失敗を繰り返すかもしれない。それでも神はあなたのことを喜ばれるのです。

だから私たちは、その主から目を背けてはいけません。決してイエス様から離れてはならないのです。やっぱり自分はひどい人間だと落ち込んで、主の下に来ることを拒んではいけないのです。私たちをご自身のものとし、常に私たちを愛し、私たちを喜んでくださる主に心を開いて、あたかも親しい夫婦のように、すべてをさらけ出して、ありのままに出て行かなければならないのです。

Ⅱ.黙っていてはならない(6-9)

第二のことは、であれば私たちも黙っていてはならないということです。6節をご覧ください。 「エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。」

ここに、「エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。」とあります。「見張り人」とはだれのことでしょうか。見張り人とは、城壁に敵がやって来ているかどうかを見張っている人のことです。イザヤの時代であれば、それはイザヤをはじめとした預言者たちのことでした。いわばイスラエルに向かって警告を発する人たちのことです。神のさばきが近づいているという警告です。彼らは、昼も間も、夜の間も、決して黙っていてはいけませんでした。主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはなりませんでした。

それは私たちクリスチャンも同じです。神は私たちを見張り人としてこの世に置かれました。ですから、どんな時でも、その希望が実現するその時までこの世を見張っていなければなりません。黙っていてはならないのです。私たちはこの世の終わりが近づいているという警告を発するために、だから悔い改めて神を信じるようにと勧めるために、ここに置かれているのです。

このことについてパウロはこのように言っています。Ⅱテモテ4章2~5節です。 「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。これは、私が伝道者として召された時に与えられたみことばでもあります。それまでこの社会で普通に働いて、平凡でもいい、クリスチャンの家庭を築き、幸せに生きていきたいと思っていましたが、そのような時、友達が運転する車が車が崖から転落して友達が即死するという事故がありました。翌日、友人の家を訪れ、そこに横たわる友人の亡骸を見て、いったい人は何のためな生きているのだろうと、考えさせられました。その時主はみことばを通してこのように語りかけてくださいました。 「人は、たとえ全世界を得ても、まことのいのちを損じたら何の得があるでしょう。」  それで私はなくなる食物のためにではなく、なくならない食物のために働きたいと主のために働くことを決心したのですが、でも、現実的にはこの日本の社会で伝道者として立っていくことは困難なように感じました。しかし、そのような時に主はこのみことばをもって励ましてくださったのです。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても、悪くてもしっかりやりなさい。」時が良くても悪くても、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たすように・・と。

みなさん、今は良い時でしょうか、それとも悪い時でしょうか。良い時もあれば、悪い時もありますね。どちらかというと悪い時かもしれません。パウロがここで言っているように、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分に都合の良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを変え、自分たちのために寄せ集め、真理から耳を背け、空想話にそれて行くような時代だからです。パウロはこういう時代になるということを、この時からちゃんとわかっていました。というのは、昔も今も本質は変わらないからです。どちらかというとその傾向が強くなっているということです。しかし、たとえ時が悪くても、みことばを宣べ伝えなければなりません。困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たさなければならないのです。だれも信じないからだめだと悲観するのではなく、神の約束に信頼しても、みことばを宣べ伝えなければなりません。それが私たちに求められていることです。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなければならないのです。そうすれば、主が働いてくださいます。私たちに求められていることは、この「見張り人」としての使命を果たすことなのです。見張り人として神の警告を発しなければなりません。黙ってはなりません。この町にはわたしの民がたくさんいる、と主は言われます。そう言われる主のみことばを信じて、みことばを宣べ伝えなければなりません。黙っていてはいけないのです。なぜなら、神はあなたのために黙っていないからです。キリストはあなたのために、いのちを捨ててくださいました。そして、今もあなたのためにとりなしておられるからです。そうであるなら、私たちもキリストのように人々のためにとりなす者でなければなりません。エルサレムのために祈らなければならないのです。

Ⅲ.あなたの救いが来る(10-12)

最後に、10節から12節まで見たいと思います。10節には、「通れ、通れ、城門を。この民の道を整え、盛り上げ、土を盛り上げ、大路を造れ。石を取り除いて国々の民の上に旗を揚げよ。」とあります。なぜなら、あなたの救いが来るからです。

11節をご覧ください。 「見よ。主は、地の果てまで聞こえるように仰せられた。「シオンの娘に言え。『見よ。あなたの救いが来る。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある』と。」  主は地の果てのすべての人に聞こえるように、大声で呼び掛けておられます。

これは黙示録22章12節にも引用されているみことばでもあります。やがて世の終わりになると、イエス・キリストがさばき主としてやって来られます。その時、主はそれぞれのしたわざに応じて報いてくださるのです。あなたの救いがやってきます。それがもうすぐ完成するのです。

12節を見てください。ここには、また新しい名前で呼ばれると言われています。そのとき彼らは、「聖なる民」、「主に贖われた者」と呼ばれるようになります。「尋ね求められる者」とか、「見捨てられない町」と呼ばれるようになるのです。これまでは、そうではありませんでした。これまでは見捨てられ、荒れ果てていました。しかし、やがてイエス・キリストが来られるとき、あなたは聖なる民、主に贖われた者、見捨てられない町と呼ばれるようになるのです。なぜなら、あなたはイエス・キリストによって贖われた者だからです。イエス・キリストにあるという、たったこれだけのことで、神のものとされたからです。あなたに何か得があったからではありません。あなたが何かすばらしい、特別なことをしたからでもないのです。ただあなたが神を信じ、キリストによって罪贖われて神の子どもとされたので、あなたは特別の存在となったからです。あなたは神にとって喜ばれる存在であり、目の中に入れても痛くないほど尊い者となったのです。それは一方的な神の恵みによるのであって、あなたはそれをもうすぐ受け取る日がやって来るのです。あなたは救い主によってその報いを受け取ります。見よ。あなたの救いがもうすぐ来るのです。あなたはこのことを地の果てまで聞こえるように叫ばなければならないのです。

あなたが今、ここにいるのはそのためです。あなたはこのすばらしい喜びの知らせを宣べ伝えるために、ここに置かれているのです。それまで荒廃していた生涯が神のあわれみによって、そのひとり子が十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたという事実を信じることによって救われ、見捨てられない町と呼ばれるようになるというすばらしい知らせを伝えるために、ここに置かれているのです。

神のみこころは、ひとりも滅びることなく、すべての人が救われて真理を知るようになることです。この救いの知らせを、ひとりでも多く人に伝えようではありませんか。主が地の果てにまで聞こえるように叫ばれたように、私たちもこの救いのことばを大きな声で叫ぼうではありませんか。