イザヤ66:18-24レジュメ

「永遠をどこで」

イザヤ66:18-24

 Ⅰ.のがれた者たち(18-19)

 イザヤ書の最後の箇所からのメッセージである。ここには、やがて神はすべての国々と種族を集めるので、彼らは来て、神の栄光を見る、とある。「わたしは彼らの中にしるしを置き、彼らのうちののがれた者たちを諸国に遣わす。すなわち、タルシシュ、プル、弓を引く者ルデ、トバル、ヤワン、遠い島々に。これらはわたしのうわさを聞いたこともなく、わたしの栄光も見たことがない。彼らはわたしの栄光を諸国の民に告げ知らせよう。」(19)この「のがれた者たち」とはだれのことなのかわからないが、彼らはこれまで主なる神のうわさを聞いたことも、その栄光を見たこともない諸国の民のところに出ていき、主の栄光を告げ知らせるようになる。

 神はこの尊い働きのために私たちを選んでくださった。そう、この「のがれた者たち」は、私たちのことでもあるのだ。私たちには、「のがれた者」として、すべての国々に主の栄光を告げ知らせる使命が与えられている。あなたはその準備ができているだろうか。主の栄光をすべての民に伝えるために、あなたは主に献身しておられるだろうか。

 Ⅱ.歴史の最終ゴール(20-23)

 「彼らは、すべての国々から、あなたがたの同胞をみな、主への贈り物として、馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて、わたしの聖なる山、エルサレムに連れてくる。」(20)「あなたがたの同胞」も誰のことを指しているのか明確ではない。しかし、のがれた者たちの宣教によって救われた人たちのことであるのは間違いない。彼らは聖なる山に連れて来られる。何のために?礼拝するためである。彼らはエルサレムにやって来て、心を一つにして主を礼拝する。「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように、-主の御告げ-あなたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。」(22)これは天国の光景である。神が造られる新しい天と新しい地が、神の前にいつまでも続くように、彼らは決して滅ぼされることはない。いつまでも続く。永遠に神をほめたたえる。これが神の民に約束されている勝利の姿である。これが全歴史の最終ゴールだ。すべての人が神の前に来て、礼拝をささげるようになる。私たちはいったい何のために造られたのか?神を礼拝するためである。永遠に神をほめたたえるためなのである。やがてそれが実現する。これが神の民であるクリスチャンに約束されている最後の姿なのだ。

 Ⅲ.永遠をどこで?(15-17)

 しかし、イザヤ書はこれたけで終わってはいない。最後に24節の言葉が加えられている。「彼らは出て行って、わたしにそむいた者たちのしかばねを見る。そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌み嫌われる。」これはげヘナ、地獄のことである。イエス様はここから引用して、ゲヘナが実際にある現実の世界であることを示された(マルコ9:47-48)。もしあなたが悔い改めないで、イエスを信じないなら、このゲヘナに投げ込まれる。私たちを救うのはただイエスを救い主として信じ、それを口で告白することによってのみである。そうでなければ地獄に落ちてしまうことになる。そこはうじがわいていて、永遠に消えない火で焼かれる。どんなに苦しくて死にたくても、死ぬこともできない。そこで永遠に苦しみ続けることになる。それが地獄である。

神は私たち人間がひとりも滅びることがないように、この地獄に行くことがないように、ひとり子イエスを送ってくださった。このイエスを信じるなら、だれでも救われる。その人は神が造られた新しい天と新しい地で、永遠に神とともに生きることになる。天国と地獄、あなたはどちらで永遠を過ごしたいか?選択はあなたにゆだねられている。イエス様を信じて、天国で永遠に神とともに生きる者となっていただきたい。

レビ記25章23~55節

きょうは、レビ記25章の後半部分から学びたいと思います。まず23節から28節までをご覧ください。

1.買戻しの権利(23-28)

「23 地は買い戻しの権利を放棄して、売ってはならない。地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに寄留している異国人である。24 あなたがたの所有するどの土地にも、その土地の買い戻しの権利を認めなければならない。25 もし、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったなら、買い戻しの権利のある親類が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない。26 その者に買い戻しの権利のある親類がいないときは、その者の暮らし向きが良くなり、それを買い戻す余裕ができたなら、27 売ってからの年数を計算し、なお残る分を買い主に返し、自分の所有地に帰る。28 もしその者に返す余裕ができないなら、その売ったものは、ヨベルの年まで、買い主の手に渡る。ヨベルの年にその手を離れると、その者が、自分の所有地に帰る。」

ここには買戻しの権利について語られています。買戻しの権利とは25節にあるように、もし、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったなら、買戻しの権利のある親類が来て、兄弟が売ったものを買い戻すというものです。その者に買戻しの権利のある親類がいないときは、その者の暮らし向きが良くなり、それを買い戻す余裕ができたら、売ってからの年数を計算し、なお残りの分を買主に支払って、自分の所有地に帰りました。もしその者に返す余裕ができなかったら、ヨベルの年まで待たなければなりませんでした。ヨベルの年になれば、前回学んだように、すべての者が、自分の所有地に戻ることができました。

それにしても、なぜ神はこうも一度割り当てられた所有地に対して、こだわりを持っておられるのでしょうか?それは23節にあるように、「地はわたしものであるから」です。確かに、イスラエル人がそれを所有していますが、元々それは神に属しているものであり、神の所有地です。彼らはただそれを一時的にゆだねられているにすぎません。

私たちは全てのことについて、この姿勢を持っていなければいけません。前回は安息年について学びましたが、なぜ、七年ごとに安息を得なければならなかったのか?それは安息することによって、自分の手からその土地が離れるからです。そして元々、その土地を与えられた神を認めることができるようになります。土地についてもそれはもともと自分のものではなく主ご自身のものであり、自分はあくまでも主にこの務めを割り当てられているにしか過ぎないのだ、ということを知ることは、とても大切なことです。

25節には、貧しくなってその地を売らなければならなくなった時に、近親の者がそれを買い戻してあげなければならないということが記されてあります。ヘブル語ではこれを「ゴエル」と言います。「ゴエル」とは、買い戻す者という意味ですが、ルツ記に出てくるボアズが、ルツが嫁いだエリメレク家にとってのゴエルでした。彼は、今は亡きエリメレクの土地を、ナオミとルツのために買い戻してくれたのです。それはやがい来られるイエス・キリストの型でもありました。

また、例えば自分のしている商売がうまくいって暮らし向きが良くなれば、自分自身で買い戻すことができました。ヨベルの年までの土地の収穫によってかつて売っていたわけですが、自分の手から離れた年数を差し引いて、その土地を買い戻します。けれども、たとえ買い戻すことができなくても、ヨベルの年になれば自分のものに戻ってきたのです。

次に29~34節をご覧ください。

「29 人がもし城壁のある町の中の住宅を売るときは、それを売ってから満一年の間は、買い戻す権利がある。買い戻しはこの期間に限る。30 もし満一年たつまでに買い戻されないなら、城壁のある町の中のその家は買い戻しの権利の喪失により、代々にわたり、それを買い取った人のものとなって、ヨベルの年にも手を離れない。31 その回りに城壁のない村落の家は土地とみなされ、買い戻すことができ、ヨベルの年にはその手を離れる。32 レビ人の町々、すなわち、彼らが所有している町々の家は、レビ人にいつでも買い戻す権利がある。33 レビ人から買い戻していたもの、すなわち、その所有している町で売られていた家は、ヨベルの年には手放される。レビ人の町々の家は、イスラエル人の間にある彼らの所有だからである。34 しかし、かれらの町々の放牧用の畑は売ってはならない。それは彼らの永遠の所有地だからである。」

人がもし城壁のある町の中の住宅を売るときは、それを売ってから満一年の間は、買い戻す権利がありましたが、満一年の間に買い戻されなかったら、城壁のある町のその家は買戻しの権利の喪失ということで、代々に渡って、買い取った人のものとなりました。それがたとえヨベルの年であっても、その買い取った人の手から離れることはありませんでした。

これはどういうことでしょうか。ここでのポイントは、それが城壁のある町に囲まれた住宅であるということです。作物を育てる土地とは異なり、城壁に囲まれた町にある住居は買い戻しの権利は一年しかありませんでした。その期間が過ぎれば、たとえヨベルの年になっても買い戻すことはできませんでした。なぜでしょうか。城壁の中に住むことは、自分たちを敵から守ることだからです。もしそこに住んでいる人から買い戻されるようなことがあれば、そこに住んでいた人はその町から出て行かなければならなくなります。つまり、自分たちの安全と保護がなくなり、敵の手に渡される危険性があったのです。ですから、そうした事態にならないように、城壁の中にある住宅が売られることがないようにされたのです。もしそうしたことになれば買戻しの権利を喪失するという例外まで定め、何とかしてそのような事態にならないようにしたのです。しかし31節にあるように、城壁のない村落の家は土地とみなされ、買い戻すことができたばかりか、ヨベルの年にはその手を離れたのです。

レビ人には、土地の割り当てが与えられていませんでした。なぜなら、主ご自身が彼らの相続地であったからです。彼らは神の幕屋に関する奉仕に従事する人々であり、主にお仕えするということそのものが財産だったのです。ですから、そのレビ人から買い戻していたものは、ヨベルの年には手放され、再びそのレビ人のものとなりました。レビ人の町々の家は、イスラエル人の間にあるかれらの所有地だったからです。ですから、レビ人の場合は、城壁の中の住居とは異なり、いつでも買い戻すことができました。しかし、彼らの町々の放牧用の畑は売ってはなりませんでした。それは彼らの永遠の所有地だからです。売ること自体が論外だったのです。

2.兄弟が貧しくなり、身売りしたらどうするか(35-46)

次に35~46節までを見ていきましょう。まず38節までをお読みします。

「35 もし、あなたの兄弟が貧しくなり、あなたのもとで暮らしが立たなくなったなら、あなたは彼を在住異国人として扶養し、あなたのもとで彼が生活できるようにしなさい。36 彼から利息も利得も取らないようにしなさい。あなたの神を恐れなさい。そうすればあなたの兄弟があなたのもとで生活できるようになる。37 あなたは彼に金を貸して利息を取ってはならない。また食物を与えて利得を得てはならない。38 わたしはあなたがたの神、である。わたしはあなたがたにカナンの地を与え、あなたがたの神となるためにあなたがたをエジプトの地から連れ出したのである。」

ここには、あなたの兄弟が貧しくなり、あなたのもとで暮らしが立たなくなったなら、どうしたらよいかということが教えられています。25節には、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったなら、その地の買戻しの権利を認めなければならないということが語られていましたが、ここでは所有地どこではありません。その貧しさがもっとひどくなり、生活そのものは成り立っていかなくなった場合、日々の生活さえままならない状態に陥った場合どうしたらいいかが教えられているのです。そして、もしあなたの兄弟がそのような状態に陥ったなら、彼を在留異国人として扶養し、あなたのもとで彼が生活できるようにしなければなりません。在留異国人として扱うなんてひどいじゃないかと思われるかもしれませんが、逆に、身売りしなければならなくなった人をこのように扱うということは、そのこと自体が神のあわれみのしるしです。というのは、ここでは異邦人ではなく在留異国人と言われているからです。それは土地を持たない寄留者のこと、あるいは、旅人のことを表しているからです。財産を失って、もう身売りしなければならなくなった人を奴隷としてではなく旅人のように、寄留者のように扱うというのは、何と大きなあわれみでしょうか。なぜそのように扱うのでしょうか。

38節にその理由が書かれてあります。それは、主がエジプトからイスラエル人を連れ出してくださったからです。それなのに、再び奴隷になるようなことがあるとしたら、それが全く無意味なものとなってしまいます。それで主は、同胞のイスラエル人がその貧しい人を扶養するように命じておられるのです。そして、その状況を利用してその人から利息を取るようなことがないように、つまり、従属関係に陥ることのないように戒めておられるのです。「あなたの神を恐れなさい」(43)と。

それにしても、なにゆえに神はそこまで貧しくなった人たちを憐れんでおられるのでしょうか。おそれは神の家族の中では全ての人が平等であって、そこには何の差別もあってはならないからです。全ての人が罪人であり、全ての人がキリストへの信仰によって義と認められるという差別なき救いのゆえなのです。ゆえに、そこに上下関係や階層制度が入ってはならないのです。すべてのクリスチャンは兄弟であり、姉妹なのです。

39~46節までをご覧ください。

「39 もし、あなたのもとにいるあなたの兄弟が貧しくなり、あなたに身売りしても、彼を奴隷として仕えさせてはならない。40 あなたのもとで住み込みの雇い人としておらせ、ヨベルの年まであなたのもとで仕えるようにしなさい。41 そして、彼とその子どもたちがあなたのもとから出て行き、自分の一族のところに帰るようにしなさい。そうすれば彼は自分の先祖の所有地に帰ることができる。
42 彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出した、わたしの奴隷だからである。彼らは奴隷の身分として売られてはならない。43 あなたは彼をしいたげてはならない。あなたの神をおそれなさい。
44 あなたのものとなる男女の奴隷は、あなたがたの周囲の国々から男女の奴隷を買い取るのでなければならない。45 または、あなたがたのところに居留している異国人の子どもたちのうちから、あるいは、あなたがたの間にいる彼らの家族で、あなたがたの国で生まれた者のうちから買い取ることができる。このような者はあなたがたの所有にできる。46 あなたがたは、彼らを後の子孫にゆずりとして与え、永遠の所有として受け継がせることができる。このような者は奴隷とすることができる。しかし、あなたがたの兄弟であるイスラエル人は互いに酷使し合ってはならない。」

39節以降の場合は、実際に身売りしてしまった場合のことです。たとえ身売りしたような場合でも、彼を奴隷として仕えさせてはなりませんでした。その時には住み込みの雇人としておらせ、ヨベルの年までその人のもとで仕えるようにさせなければなりませんでした。奴隷として扱ってはならなかったのです。それはイスラエル人の間で主人と奴隷の関係を持たせることを、神は望んでおられなかったからです。労働にふさわしい賃金を支払わなければなりませんでした。「彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出した、わたしの奴隷だからである。」(42)だからです。ただ異邦人は奴隷とすることができました。44~45節にあるように、彼らの周囲の国々から奴隷を買い取ることができましたが、彼らの中からはだれも奴隷にすることは赦されていませんでした。

それは神の教会においても同じです。キリスト者は、後に王となり祭司となることが約束されています(黙示1:6)。キリストと共に神の国を統治することが約束されているのです。したがって今の時代にも、教会の外では雇用関係や商売や政治活動など、この世の制度の中で主の命令に違反しない限りのことを行うことはできますが、それを教会の中に持ち込むことはできません。私たちはあくまでもキリストが頭であられ、互いに神の家族の兄弟姉妹であるからです。

3.在留異国人の奴隷となってしまったらどうしたらいいか(47-55)

最後に47節から55節までを見て終わりたいと思います。

「47 もしあなたのところの在住異国人の暮らし向きが良くなり、その人のところにいるあなたの兄弟が貧しくなって、あなたのところの在住異国人に、あるいはその異国人の氏族の子孫に、彼が身を売ったときは、48 彼が身を売ったあとでも、彼には買い戻される権利がある。彼の兄弟のひとりが彼を買い戻すことができる。49 あるいは、彼のおじとか、おじの息子が買い戻すことができる。あるいは、彼の一族の近親者のひとりが買い戻すことができる。あるいはもし、彼の暮らし向きがよくなれば、自分で自分自身を買い戻すことができる。50 彼は買い主と、自分が身を売った年からヨベルの年までを計算し、彼の身代金をその年数に応じて決める。それは雇い人の場合の期間と同じである。51 もし、まだ多くの年数が残っているなら、それに応じて自分が買われた金額のうちの自分の買い戻し金を払い戻さなければならない。52 もしヨベルの年までわずかの年数しか残っていないなら、彼はそのように計算し、その年数に応じてその買い戻し金を払い戻さなければならない。53 彼は年ごとに雇われる者のように扱われなければならない。あなたの目の前で、その人は彼を酷使してはならない。54 たとい、彼がこれらの方法によって買い戻されなかったとしても、ヨベルの年には、彼はその子どもといっしょに出て行くことができる。55 わたしにとって、イスラエル人はしもべだからである。彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出したわたしのしもべである。わたしはあなたがたの神、である。」

ここには、あなたがたの兄弟、すなわちイスラエル人が貧しくなり、在留異国人に身を売ってしまったらどうしたらよいかが教えられています。これは最悪な状況です。主はイスラエル人の奴隷になることも避けるように戒めておられたのに、ここでは異邦人の奴隷になってしまった状況が想定されています。いったいこんなことがあるのでしょうか。イスラエルの歴史を見ると侵略の歴史です。その昔はエジプトに捕えられて奴隷になったことがありますし、この後にはバビロンによって滅ぼされ、奴隷としてとらえられ、奴隷として過ごすときがやってきます。このようにイスラエル人だからといって必ずしも平穏に過ごすことができるかというとそうではありません。こうした外国からの侵略によらなくても、生活が貧しくなり、身を売ってしまうという状況に陥る場合があるのです。そのような時はいったいどうしたらいいのでしょうか。

その時は、先ほど土地においての買い戻しの権利を奴隷を解放する身代金を支払うことで行使することができます。つまり、彼が身を売ったあとでも、彼には買い戻される権威があるのです。彼の兄弟のひとりか、あるいは彼のおじとか、おじの息子とかが買い戻すことができます。あるいは、彼の一族の近親者のひとりが買い戻すことができます。あるいは、もし彼の暮らし向きが良くなれば、自分で自分を買い戻すこともできます。そのときは、どのようにして買い戻せばいいのでしょうか。

50節以降にこうあります。 彼は買い主と、自分が身を売った年からヨベルの年までを計算し、彼の身代金をその年数に応じて決めます。それは雇い人の場合の期間と同じです。もし、まだ多くの年数が残っているなら、それに応じて自分が買われた金額のうちの自分の買い戻し金を払い戻さなければなりません。もしヨベルの年までわずかの年数しか残っていないなら、彼はそのように計算し、その年数に応じてその買い戻し金を払い戻さなければなりませんでした。彼は年ごとに雇われる者のように扱われなければなりません。あなたの目の前で、その人は彼を酷使してはなりません。たとい、彼がこれらの方法によって買い戻されなかったとしても、ヨベルの年には、彼はその子どもといっしょに出て行くことができました。

それは土地を売買するときの計算と同じですね。ヨベルの年まで何年残っているかによって身代金が変わりました。たとえば後十年残っていれば、十年分の労働賃金を売り手に支払います。そして、奴隷のように酷使してはならないと強く戒めておられます。これらの戒めの根拠が55節にあります。

「わたしにとって、イスラエル人はしもべだからである。彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出したわたしのしもべである。わたしはあなたがたの神、主である。」

イスラエル人は主のみに属する僕だからです。神の僕である者は、他のあらゆるものから自由にされている存在ですから、他に負債があったり、ましてや身売りされている状態は何としてでも回復させ、解放させなければならないのです。

これはどんことを表していたのかというと、イエス・キリストの身代金です。イエス様は、ご自分が来たのは、「多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:45)と言われました。その贖いの代価とは、人質に身代金を与える身代金の意味を持っています。また奴隷を解放する時の身代金です。貧しくなって土地を売り渡し、また自分の身をも売り渡さなければいけない状態から解放するために、主はご自分の命をもって買い戻しの権利を行使されたのです。

やがてヨエルの年が来ます。究極的に主が全てのものを回復される時が来ます。その時に私たちは栄光の姿に変えられます。そして、主と共に地上に降りてきて御国を相続するようになるのです。しかし、だからといって私たちは罪の中にいていいのでしょうか。罪の中にいることは、まさに身売りしているような状態と同じです。罪を犯せば、罪の支配を受けるようになるからです。その結果、自分の持っているものまでが奪い取られることになってしまいます。神との慕わしい交わりはもちろんのこと、教会の兄弟姉妹との信頼関係も失われ、夫婦の関係や親子関係にも傷が生じます。そして罪を犯し続けると、さらには世においても惨めな姿になります。ちょうど異邦人の奴隷になってしまうのと同じです。

主は、そのようなことのないように、何とかしてご自分が与えられた贖いの代価によって、私たちが自分に与えられている神の自由を、その分け前を取り戻すべく働きかけておられます。ご聖霊が、私たちが確かに罪の支配を受けないように、そこから自由になり、神の霊的祝福を楽しむことができるように導びいてくださいます。そして、兄弟たちが代わりに買い戻すように、教会では兄弟たちが罪を犯している仲間を、重荷をもって助け、柔和な心で正していくのです。パウロはガラテヤ5章13節で、「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」と言っています。私たちは自由を持っているのですから、罪を犯してその特権を売り渡してはなりません。むしろ、その自由を保ちつつ、他の兄弟姉妹に対して愛をもって仕えていかなければならないのです。

イザヤ書66章18~24章 「永遠をどこで」

きょうはイザヤ書から最後のメッセージです。聖書全体の最後が黙示録であり、その最後に新しい天と新しい地の預言で終わっているように、このイザヤ書の最後も新しい天と新しい地の預言で終わります。きょうはこの最後の箇所から、「永遠をどこで」というタイトルでお話したいと思います。

Ⅰ.のがれた者たち(18-19)

まず18節と19節をご覧ください。18節には「わたしは、彼らのわざと、思い計りとを知っている。わたしは、すべての国々と種族とを集めに来る。彼らは来て、わたしの栄光を見る。わたしは彼らの中にしるしを置き、彼らのうちののがれた物たちを諸国に遣わす。すなわち、タルシシュ、プル、弓を引く者ルデ、トバル、ヤワン、遠い島々に。これらはわたしのうわさを聞いたこともなく、わたしの栄光を見たこともない。彼らはわたしの栄光を諸国の民に告げ知らせよう。」

どういうことでしょうか。ここには、主がどのようにご自身の栄光を諸国の民に告げ知らせるのか、その計画と方法が語られています。それはイスラエルの中ののがれた者たちにしるしを置き、彼らを諸国に遣わして、まだ一度もまことの神について聞いたことのない人々に神の栄光を告げ知らせるというものです。ここには、「タルシシュ、プル、弓を引くものルデ、トバル、ヤワン、遠い島々」とあります。タルシシュとは今のスペインです。それからプル、これはエジプトに隣接するリビアのことだろうと考えられています。それからルデ、これも北アフリカの西方の地域のことと考えられています。そしてトバル、これは今のトルコあたりのことで、ヤワンはギリシャのことです。遠い島々、これは世界中の遠い島々のことで、この中には日本も含まれます。すなわち、彼らを通して全世界に神の栄光が宣べ伝えられるというのです。

ところで19節に、「彼らの中にしるしを置く」とありますが、このしるしを置かれた人とは誰のことでしょうか。ある人たちはこれを黙示録7章に出てくる十四万四千人のことだと考えています。彼らはその額に印を押されていて、その数は十四万四千人でした。この人たちは誰かははっきりわかりませんが、ここには、イスラエルの12部族からそれぞれ1万2千人ずつ選ばれた人であるとあります。彼らはその後、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群集とともに、御座と小羊との前に立って礼拝をささげます。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」(黙示録7:10)と。すなわち、彼らは諸国の民を救いに導くために遣わされたユダヤ人であり、彼らによって救われた人たちと一緒に、天国で大声で主を賛美するようになった人たちだ、というのです。

いったいそれはだれのことでしょうか?ある人たちこれを使徒の働き1章15節に出てくる120人のキリストの弟子たちのことだと考えます。彼らはイエスさまが天に昇って行かれた後エルサレムにあった家に泊まり、心を合わせて祈っていましたが、その時天から聖霊が下り、イエス様のことを力強く語り始めました。そして最初の教会が誕生するのです。そして、彼らを通して福音がエルサレム、ユダヤとサマリやの全土、および地の果てにまで宣べ伝えられていきます。そこにはペテロやヨハネ、ヤコブ、アンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモン、ヤコブの子ユダといったキリストの弟子たちでしたが、彼らを通してキリストの福音が全世界に宣べ伝えられていきました。この人たちのことを指しているのではないかというのです。

しかし、このしるしとはおそらくそうではないと思います。このしるしとはイエスさまご自身のことを指していると思われます。というのは、マタイの福音書12章38-~40節にこうあるからです。

「そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。」

イエスさまは、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられていないと言われました。そのしるしとは何か。ヨナが三日三晩大魚の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるということです。イエスさまこそ十字架で死なれ、よみにくだられ、三日三晩地の中におられた方です。ですから、このしるしとはイエスさまのことを示していたのです。だとすると、このしるしを置かれた人とはだれのことかというと、イエスさまを信じたクリスチャンのことなのです。神が選ばれたのがれた者たちとはクリスチャンのことであり、神はキリストというしるしを彼らの上に置き、彼らを通して全世界の、まだイエスさまを知らない人たちに福音を宣べ伝えさせ、そこに救われる人たちを備えてくださり、神の元に集めてくださるという預言だったのです。ですから、これは福音が全世界に宣べ伝えられている今の時代の預言であり、今も継続して行われていることなのです。神は私たちクリスチャンを通して、地の果てにまで、神の栄光を宣べ伝えよるようにと計画しておられたのです。

神はそのために私たちを選んでくださいました。「あなたがたが私たちを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それはあなたがたが行って、実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしのなによって求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15:16)  神はこの尊い働きのためにあなたも選んでくださいました。あなたは「のがれた者たち」なのです。そののがれた者として、すべての国々に主の栄光を伝える使命が与えられているのです。あなたはその準備ができているでしょうか。主の栄光をすべての国々伝えるために、あなたはどのように備えているでしょうか。

Ⅱ.歴史の最終ゴール(20-23)

次に20節から23節をご覧ください。20節には、「彼らは、すべての国々から、あなたがたの同胞をみな、主への贈り物として、馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて、わたしの聖なる山、エルサレムに連れて来る」と主は仰せられる。「それはちょうど、イスラエル人がささげ物をきよい器に入れて主の宮に携えて来るのと同じである。」とあります。

20節の「彼ら」とは、こののがれた者たちのことです。彼らは、すべての国々から救われた人たちを呼び集め、「主への贈り物」として聖なる山エルサレムに連れて来るのです。何のためでしょうか。礼拝するためです。そこでユダヤ人の中でイエス様を信じて救われたクリスチャンと、異邦人の中でイエス様を信じて救われたクリスチャンが一つになって神を礼拝するためです。

22節をご覧ください。「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように、―主の御告げ―あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。」

神が造られる新しい天と新しい地は、神の前にいつまでも続きます。それは決して滅びることはありません。そして、神のみもとに集められた神の民たちも、決して滅びることはありません。彼らは永遠に生き続けるのです。この世の終わりにはすべてのものが焼けてくずれ去りますが、新しい天と新しい地はいつまでも続きます。そして、その新しい天と新しい地を相続するクリスチャンもいつまでも生きることになります。そこで終わることのない神の保護と助けを受けて、永遠に神と共に生き続けるのです。いったい私たちは、そこで何をするのでしょうか。23節をご覧ください。

「毎月の新月の祭りに、毎週の安息日に、すべての人が、わたしの前に礼拝に来る」と主は仰せられる。」

彼らはそこで神を礼拝します。すべての人が主の前に来て、礼拝をささげるのです。これが天国です。救い主イエス・キリストを信じ神の民とされたクリスチャンは、永遠に神をほめたたえるようになるのです。黙示録21章にはその様子が語られています。

「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。」(黙示録21:1-7)

皆さん、神の民であるクリスチャンには、この勝利が約束されているのです。神の幕屋が人とともにあり、神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。神ご自身が彼らとともにいて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません。なぜなら、以前のものが過ぎ去ったからです。新しい天と新しい地で神からいのちの水を、価なしに飲ませていただけるのです。私たちはこの天国で、永遠に神を礼拝するのです。何という慰めでしょうか。

皆さん、これが歴史の最後、歴史の最終ゴールです。すべての人は神の前に来て、礼拝をささげるようになるのです。これが神の救いの計画の究極の目的なのです。私たちはいったい何のために造られたのでしょうか。それは神を礼拝するためです。永遠に神をほめたたえるためです。そのために罪が贖われました。だから、礼拝なんかしたくないという人は、天国には一人もいません。神様なんて信じないなんていう人は誰もいないのです。天国にいる人はみなイエスさまの救いのみわざに感動し、感謝しているので、その救い主に心から礼拝をささげたいのです。

私は1994年に初めて韓国を訪れたとき、光林教会という世界で一番大きなホーリネス教会の礼拝に出席したことがありますが、とても驚きました。3千人は入ると言われるその礼拝堂で、大勢の聖歌隊とオーケストラといっしょに礼拝をささげるのです。礼拝が始まると自動的にカーテンが閉じて、オーケストラが奏でる讃美歌が流れます。新聖歌23番の「来る朝ごとに」でした。とても厳かな感じがしました。賛美しながら体が震えるような聖さを感じました。涙がとまりませんでした。ものすごい主のご臨在に圧倒されました。もういつまでもそこにいたい、いつまでも主を賛美していたい、そんな時間でした。

天国での賛美はそれ以上です。主がそこにおられるのですから。大勢の人で神をほめたたえのです。これほどすばらしいことはないと思えるような感動と喜びに包まれるでしょう。他のことはもうどうでもいいと思うくらいに、永遠に神をほめたたえることができる。それが天国です。こんなにすばらしい世界は他にはありません。すべての人がこの天国で神の前に来て、神をほめたたえるのです。これが神の民であるクリスチャンに約束されている最後です。あなたはこの中に含まれているでしょうか。

Ⅲ.永遠をどこで(24)

しかし、イザヤ書はこれだけで終わってはいません。24節のことばが加えられています。23節で終わってもよかったのに、24節のことばが加えられているのです。それはどのような内容でしょうか。最後にこの24節をお読みします。

「彼らは出て行って、わたしにそむいた者たちのしかばねを見る。そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌みきらわれる。」

実は、これは地獄の描写です。これがゲヘナと呼ばれる所です。マルコの福音書9章47~48節を見ると、イエス様はここから引用されました。

「もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国に入るほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。」

イエス様がこれを引用されたということは、これがほんとうにあるということなのです。皆さん、人は死んだらどうなるのでしょうか。

先週の日曜日の夜のNHKスペシャルで、「臨死体験  人は死ぬときどうなるのか」が放映されました。20年余り前、臨死体験について徹底的に取材し考察を深めてきたジャーナリストで評論家の立花隆さんは74歳を迎え、がんや心臓の病を抱えて死を間近に感じている今、再び臨死体験の最新研究の現場を見つめ、“死”について見つめ直しました。果たして人は死んだらどうなるのか。死の間際に一定の人が見る臨死体験が世界で注目され始めた1980年代以降、それは脳内現象として科学で説明できるとする「脳内現象説」と、肉体が死んでも“魂”が存在し続けるという「魂存在説」の二つの説が互いに相容れない、激しい議論が続けられてきた中で、立花さんは新たな臨死体験の掘り起こしをすると同時に、そもそも魂とは何なのかを最新の脳科学や心理学、哲学にいたるまで、徹底した取材に基づいて正面から挑みました。科学的に見て、死後の世界があると言える余地はどれくらいあるのか。死後の世界がないとしたら、『私(自分)』という存在をどう説明することができるのか。私たちが当たり前と思っている『私』という存在はいったい何なのか。有史以来、人類が追い求め続けてきた生と死にまつわる壮大な謎に挑むわけのです。  立花さんの結論としてはわからないということですが、その中で長らく死後の世界を否定してきた二人の科学者が、死後の世界はあると確信するようになったことを紹介していました。  一人はエベン・アレキサンダー(Eben Alexander)博士です。彼は脳神経外科の権威ですが2008年に急性細菌性髄膜炎という重い病にかかり、脳の新皮質に深刻なダメージを受けてこん睡状態に陥った経験から、死後の世界はあると確信するようになったというのです。ハーバード大学で教育を受け、25年にわたって神経外科医として一線で活躍する彼は、自分が病気にかかる以前はこの死後の世界を否定していましたが、この経験を通して彼の確信は全く変えられたのです。  もう一人はレイモンド・ムーディ(Raymond Moody)という科学者です。彼はアメリカの医師で心理学者でもありますが、長年、臨死体験を研究してきた第一人者で、著書に「かいまみた死後の世界」とか「死者との再会」など多数書いておられます。彼は1991年3月にNHKが放送した「立花隆リポート 臨死体験 人は死ぬ時何を見るのか」で死後の世界を否定していたのですが、その23年後のこのレポートでは、死に対して大きな心境の変化がありました。レイモンド博士はこの23年の間に精神が病み自殺を図り臨死体験をする中で、死後の世界を信じるようになりました。「なぜそこまで見解が変わったのですか?」という立花さんの問いに、彼はこう答えています。

「私は、自分の心をより見つめるようになったのです。心はすばらしく魅力的なものです。当時は死後の世界を認めず、他の説明をこじつけようとしました。しかし、それは死後の世界はあると明確に言い切れなかったので、認めることから逃げていたのだと思います。その一方で、今自分が自分で言っていることに驚いています。客観的に考えてみれば、死後の世界があり、人生の終わりにあの世が続いているとはっきり言えること自分に矛盾を感じます。なぜそうなったのかは本当に自分でもわかりません。でもそもそも人生は死ぬまで理解できないものなのです。私たちが死ぬとき何があるのか、私たちの論理や思考が不十分であるため、なかなかわからないのだと思います。ただわかっていることは私たちが死ぬとき臨死体験という冒険をしながら人生を全うしていくということでしょう。あなたが永遠に落ち着ける場所を見つけられるように祈っています。」これが長年臨死体験を研究してきたムーディー博士の言葉です。

人は死んだらどうなるのでしょうか。この二人の体験に基づかなく共、聖書は明確に語っています。人は死んで肉体が滅んでも、魂は永遠に生き続ける・・・と。ただ生き続けるだけではありません。そこには天国と地獄があって、そのどちらかで生きるようになると語っています。すなわち、神の子イエス・キリストを自分の罪からの救い主として信じる人は天国で、永遠に神とともに生きるようになり、そうでない人、つまり、イエスさまを信じない人は地獄に行くようになるのです。そこにはうじがわいていて、そのうじは死なず、その火も消えることもありません。それが地獄です。あなたはどこで永遠を過ごしたいですか。天国ですか、それとも地獄ですか。私は地獄には行きたくないけど、天国にも行かなくてもいい、私は中国がいい、なんて言う人がいますが、死後の世界には中国はありません。天国か地獄のいずれかしかないのです。だとしたら、神の救いであるイエス・キリストを信じて天国に行った方がいいじゃないですか。神はそのためにイエスをこの世に遣わしてくださったのです。神はあなたが救われて永遠のいのちを持つことを願っておられるのです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(ヨハネ3:16-18)

これが聖書の要約であり、イザヤ書の結論でもあります。御子を信じる者はさばかれません。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれているのです。どうかさばかれることがないように、神の御子を信じてください。

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ロー10:9-10)

イエスを信じて、口で告白する者だけが救われます。そうでない者は、天国に行くことができません。そういう人は地獄に行きます。そういうことがないように、あなたも罪を悔い改めて、救い主イエスを信じてください。信じるなら天国に行くことができ、そこで永遠に神をほめたたえ、神を喜ぶことができます。それこそ神によって造られた私たち人間にとっての究極のゴール、目的なのです。天国でも一緒に永遠に神を賛美しようではありませんか。天国か地獄か、どちらを選ぶかは、あなたの選択にゆだねられているのです。

イザヤ66:6-17レジュメ

「エルサレムとともに喜べ」

イザヤ66:6-17

 Ⅰ.新しい神の民イスラエルの誕生(6-9)

 「彼女は産みの苦しみをする前に産み、陣痛の起こる前に男の子を産み落とした。だれが、このような事を聞き、だれが、これらの事を見たか。地は一日の陣痛で産み出されようか。国は一瞬にして生まれようか。ところがシオンは、陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ。」(7-8)

 これはいったいどういうことか。「彼女」とはシオンのこと、その彼女から産み落とされる子とは新しい神の民イスラエルのことである。世の終わりになると、シオンから一瞬にして新しい国、民族が産み落とされる。このシオンとは神の臨在と支配、そして礼拝の中心となるところである。それは教会のことを指していると言ってもいい。もちろん、それは第一義的にはキリストのからだなる天上の教会のことであるが、その現れである地上の教会のことでもある。この教会を通して、主は新しい神の民である霊的イスラエル(クリスチャン)を産み出すというのだ。しかも一瞬のうちに・・。地上の教会を見る限り欠陥だらけで、時にはみすぼらしいと感じることさえあるが、この教会を通して主は新しいイスラエルを産み出される。それは教会に福音宣教がゆだねられているからである。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって救いを得させる神の力である。この福音のゆえに、教会を通して新しいクリスチャンが産み出されるのである。

あなたはその聖なる共同体である教会を愛し、教会に仕えておられるだろうか。教会を通して与えられる神の恵みを体験しておられるか。神はシオンを通して新しい神の民を産み出してくださる。その神のみわざにともにあずかろうではないか。

Ⅱ.エルサレムとともに喜べ(10-14)

 「エルサレムとともに喜べ。すべてこれを愛する者よ。これとともに楽しめ。すべてこれのために悲しむ者よ。これとともに喜び喜べ。」(10)敵の攻撃を受け荒廃していたエルサレムが回復し、栄光に輝く。そのエルサレムとともに喜べと勧められている。なぜなら、彼らは彼女の慰めの乳房から乳を飲んで飽き足り、その豊かな乳房から吸って喜んだからだ。彼らは幼子が母親の乳房からおっぱいを飲んで満ち足りるように、神の豊かな乳房から飲んで喜んだ。かつて神はアブラハムに「エルシャダイ」としてご自身を現されたが、これは母親の乳房が語源になっている。私たちの神はおっぱいの神であって、幼子が母親の乳房から吸って満足するように完全な満足を与えてくれる全能の神なのである。

それゆえに神は、「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。」(13)人はだれでも慰めを必要としている。その慰めはいったいどこにあるのだろうか。主は私たちにこう呼びかけておられる。「わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。あなたは、何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子をおそれるとは。」(51:12)あなたは何を恐れていますか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れる必要など全くない。なぜなら、神があなたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められるからだ。

 Ⅲ.敵を激しく怒られる主(15-17)

 けれども、神に敵対する者に対してはそうではない。「まことに、主は火の中を進んで来られる。その戦車はつむじ風のようだ。その怒りを激しく燃やし、火の炎をもって責め立てる。」(15)その敵とは、具体的には「おのが身を聖別し、身をきよめて、園に行き、その中にある一つのものに従って、豚の肉や、忌むべき物や、ねずみを食らう者たち」(17)である。すなわち、表面的には敬虔に神に仕えているようでも、実際には偶像に仕えている者たちのことである。彼らは神のことばを悟らす、自分勝手な信仰、自分勝手な礼拝を求めて走り回っている。そのような高慢を遠ざけなければならない。そして、神のみことばにおののき、エルサレム(教会)とともに喜び、神の喜びと平安、慰めと満たしを経験させていただく者でありたい。

イザヤ書66章6~17節「エルサレムとともに喜べ」

イザヤ書の最後の章を学んでいます。きょうは6節から17節までのみこばから、「エルサレムとともに喜べ」というタイトルでお話します。この66章は65章の続きです。「主よ、いつまでですか」(6:11)というイザヤの質問に対して、主はエルサレムの荒廃とさばきのメッセージを語りますが、それで終わりではありません。その先に新しいイスラエル、霊のイスラエルがエルサレムとともに喜ぶ日がやってくることが示されます。きょうは、それがどれほどの喜びなのかをみことばからご一緒に見ていきたいと思います。

Ⅰ.神の民の誕生(6-9)

まず、6節から9節までをごらんください。 「聞け。町からの騒ぎ、宮からの声、敵に報復しておられる主の御声を。彼女は産みの苦しみをする前に産み、陣痛の起こる前に男の子を産み落とした。だれが、このような事を聞き、だれが、これらの事を見たか。地は一日の陣痛で産み出されようか。国は一瞬にして生まれようか。ところがシオンは、陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ。「わたしが産み出させるようにしながら、産ませないだろうか」と主は仰せられる。「わたしは産ませる者なのに、胎を閉ざすだろうか」とあなたの神は仰せられる。」

ここには、キリストが再臨される時の様子が語られています。キリストが再臨される時、キリストその敵に報復されます。それで町には騒ぎが、宮からは声が聞こえて来るのです。しかし、エルサレムはすみやかに回復されます。7節を見ると「彼女は産みの苦しみをする前に産み、陣痛の起こる前に男の子を産み落とした」とあります。「彼女」とはもちろんシオン、エルサレムのことです。シオンが産みの苦しみが臨む前に産み、陣痛が起こる前に男の子を産み落とすのです。これはどういうことかというと、8節を見るとわかります。

「地は一日の陣痛で生み出されようか。国は一瞬にして生まれようか。ところがシオンは、陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ。」

これはシオンがその子ら、すなわち神の民を産み出すという預言です。それは一瞬のうちになされます。「陣痛が起こる前に、一日の陣痛で、陣痛を起こすと同時に」産まれるのです。私は出産をしたことがありませんが、出産の前兆である陣痛がないまま出産できたらどれほど楽でしょうか。そのように神の民は一瞬にして産み出されるのです。あなたが新しく生まれた時も同じです。あなたはイエスさまを救い主と信じた瞬間に新しく生まれました。

ヨハネの福音書3章を見ると、ニコデモはイエスさまに尋ねます。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」(ヨハネ3:4)と。  するとイエス様は答えて言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」(ヨハネ3:5)

皆さん、人は水と御霊によって生まれなければ、神の国を見ることはできません。肉は神の国を相続することができないからです。ですから、御霊によって生まれなければ、だれも神の国に入ることはできないのです。御霊によって生まれるとは、御霊のことばである聖書のことばを聞き、それを信じて受け入れることです。あなたが神の国に入るには、あなたが幼子のようにへりくだり、神のことばを聞き、そこにある神の救いを受け入れなければならないのです。そうすれば、あなたもその瞬間に新しく生まれ変わります。そして、神の国に入ることができるようになるのです。

ところで、ここにはシオンが産み出すとあります。シオンとはエルサレムのことです。神の臨在とご支配のあるところを意味しています。それは何を指しているのでしょうか。教会です。神の祝福は教会を通して流れるのです。もちろんそれはキリストのからだである天上の教会のことですが、それと同時に、この地上の教会のことであもあります。なぜなら、この地上にある一つ一つの教会はどんなに小さく、欠陥があったとしても、それは天上の教会の現れだからです。ですからイエスさまは、「何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」(マタイ18:18)と言われたのです。「まことにあなたにもう一度告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんなことでも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしのなにおいて集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:19-20)  何ということでしょうか。こんな欠陥だらで、不完全な教会でも、この地上に立てられた教会のふたりが、どんなことでも、心を一つにして祈るなら、天におられる私たちの神様は、それをかなえてくださるのです。この地上の教会の私たちがつなぐなら、それは天においてもつながれており、解くなら、それは天においても解かれているのです。この地上の教会をみる限りほんとうにみすぼらしいと感じることさえありますが、でも主はこの地上の教会が解くなら、解かれ、つなぐならつなぐと仰せになられました。この地上の教会はどんなに小さくとも、そこにキリストが満ちておられ、この教会を通して新しく救われる人たちを起こしてくださるのです。だから教会が大きいか小さいかということは全く関係ありません。大切なのは、そこにキリストのいのちが流れているかということです。キリストのいのちはキリストにとどまり、キリストのことばに従うところに流れます。イエスさまは言われました。

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)

また、こう言われました。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネ15:7)

ですから、キリストのことばに従い、キリストにとどまるなら、そこにキリストのいのちが溢れるようになります。たとえその教会がどんなに小さくとも、この地上の教会のふたりが、心を一つにして祈るなら、天におられる私たちの神は、それをかなえてくださるのです。私たちの教会を通して、神の祝福が流れるようになるのです。神の民が生み出さるのです。

それゆえ、3世紀の有名な教父キプリアヌスは(Thascius Caecilius Cyprianus)は、「教会の外には、救いはない」と言ったのです。もちろん、救いは主のわざであり、産み出される方は神ご自身です。しかし、神は教会を通してそれを行ってくださるのです。ですから彼は、「教会の外には、救いはない」と言ったのです。  また、あの有名な宗教改革者マルチン・ルターはこう言いました。「教会の外には、望みもなく、罪の赦しもない。永遠の死とさばきがあるのみである。」そこまで言い切ったのです。なぜなら、教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところだからです。そして、教会には福音を宣べ伝える使命がゆだねられているからです。ですから、イエスさまはペテロに「わたしは、あなたに天の御国のかぎをあげます。」(マタイ16:19)と言われたのです。何を血迷ったのか、ローマカトリック教会はローマ教皇こそがこのペテロの後継者であると主張し、教皇をあたかも神のように敬っていますが、そういうことではありません。これは、「あなたは生ける神の子キリストです」と言ったペテロの信仰告白を指しているのです。イエスさまはその岩の上にわたしの教会を建てると言われたのです。そのような信仰告白の上に立てられた教会は、ハデスの門もそれに打ち勝つことはできないのです。それは教会には福音を宣教するという使命がゆだねられているからです。神は教会を通して救われる人を生み出しておられるのです。そういう意味で、マルチン・ルターが言ったことはあながち間違いではないのです。教会はこの福音を宣べ伝えているがゆえに救いがあるのです。

皆さんはどうでしょうか。こうした教会の理解の上に立って、教会を愛し、教会に仕えておられるでしょうか。教会を通してなされる神の救いのみわざに取り組んでおられるでしょうか。教会を通して生み出される新しい神の民を待ち望み、福音を宣べ伝えておられるでしょうか。「シオンは、陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ。」このすばらしい恵みに、私たちも加わらせていただきましょう。

Ⅱ.エルサレムとともに喜べ(10-14)

次に10節から14節までをご覧ください。10節には、「エルサレムとともに喜べ。すべてこれを愛する者よ。これとともに楽しめ。すべてこれのために悲しむ者よ。これとともに喜び喜べ。」とあります。

ここには、「喜べ」とか「楽しめ」という言葉が何回も出てきます。新しい神の国の中心であるエルサレムが喜びと楽しみの所となります。それまで荒廃していたエルサレムが回復し、栄光に輝くようになるからです。すべてこれを愛する者、すべてこのために悲しんだ者が慰めを受けるようになり、喜びにあふれるようになります。

それは11節にあるように、赤ちゃんが母親の乳房から飲んで飽き足りるかのようです。皆さん、赤ちゃんがお母さんのおっぱいを飲んでいる姿を見たことがありますか。赤ちゃんはそれさえあれば満足です。安心してぐっすり休みます。おっぱいは赤ちゃんにとってオールマイティなのです。それさえあれば満足します。そのような満足が与えられます。

おもしろいことに、かつて主はアブラハムに「エル・シャダイ」としてご自身現わされましたが、この「エル・シャダイ」とは母親が赤ん坊に乳を飲ませることがその語源となっています。「エル」は神、「シャダイ」は女性の乳房を指す言葉です。言わば、神はおっぱいの神です。赤ちゃんはそれさえあれば十分に満ち足ります。おっぱいを飲んでいれば大喜びなのです。ここで言われていることはそういうことです。おっぱいを通して赤ちゃんのすべての必要が満たされるように、神はご自身の民のすべての必要を満たしてくださるのです。

12節から14節をご覧ください。 「主はこう仰せられる。「見よ。わたしは川のように繁栄を彼女に与え、あふれる流れのように国々の富を与える。あなたがたは乳を飲み、わきに抱かれ、ひざの上でかわいがられる。母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。あなたがたはこれを見て、心喜び、あなたがたの骨は若草のように生き返る。主の御手は、そのしもべたちに知られ、その憤りは敵たちに向けられる。」

12節の「繁栄」と訳されている言葉は「シャローム」ということばです。これはあらゆるわざわいから解放された平和な状態を表しています。新しいエルサレムはまさに川のような繁栄と平和が与えられ、あふれる流れのような富がもたらされます。

「あなたがたは乳を飲み、わきに抱かれ、ひざの上でかわいがられる。」また乳が出てきています。あなたがたはおっぱいを飲み、わきに抱かれて、ひざの上でかわいがられる。つまり、神は母親が赤ちゃんを完全に養い、保護するように、イスラエルを完全に守られるのです。

13節を見てください。「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。」それは母に慰められる者のようです。ここには「慰め」という言葉が3回も使われています。母親は慰めに満ちています。子どもが痛い思いをしたらどこに行くでしょうか。大抵は母親のところに行きます。なぜなら、慰めてくれるからです。滑り台から落ちて、ブランコから落ちて、テーブルにつかまり立ちしていたら落ちてあびをぶつけたとき、ワンワン泣くと、お母さんのところに行きます。お父さんのところには行きません。お父さんは慰めことを知らないからです。「何やってんの。ちゃんとつかまってないからだよ。」なんて冷たい言葉を発します。あっ、お母さんも言いますね。でもその後の対応が違います。 「何やっての。ちゃんとつかまっていないからよ。」 「しょうがないわね。」 「痛い、痛い、痛かったね。」 「痛いの、痛いの飛んで行け!」 「ほら、もう直った。よかったね」 なんて言って慰めてくれます。やっぱりお母さんです。お母さんは慰めに満ちています。私たちの神はお父さんのような力強さもありますが、お母さんのような優しさも持っておられる方です。あなたを慰め、あなたの必要を満たしてくださるのです。

皆さん、いったいどこに慰めがあるのでしょうか。人はみな慰めを必要としています。みなさんの中に「私は慰めがいらない」という人がいるでしょうか。誰もいないと思います。私たちは、生きている限りさまざまな困難にぶつかります。多くの人が、仕事のことや家庭のこと、人間関係のこと、自分の健康のことなど、さまざまな問題を抱えながら生きているのです。元気で活動的な人でも、身近に自分の悩みを打ち明けることのできる人がいなければ、やはり孤独に陥るでしょう。そんな時、いったい私たちはどこに慰めを見いだすことができるのでしょうか。

ある人は慰めを求めて、エンターテーメントに走ります。それもいいでしょう。しかし、こうしたエンターテーメントは一時的な気晴らしにはなっても、真の意味で人の心を深く慰めることはできません。エンターテーメントで満足できないと、人はやたらと高価なものを買ったり、お酒やギャンブル、ドラッグと、もっと強い刺激を求めて走り回りますが、こうしたものも一時的には渇きをいやしてくれても真の満足は与えることはできません。それは慰めるどころか、もっとひどい状態に引きずり込んでしまうこともあります。ではほんとうの慰めはどこにあるのでしょうか。

ここには、「わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。」とあります。慰めてくださるのは神です。「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」(40:1)という言葉をもって始まるこのイザヤ書の後半部分には、その神の慰めが随所に語られています。(49:13、51:3、52:9他)まことに神は慰めの神です。その神がイスラエルだけでなく、今の時代を生きる私たちクリスチャンにも与えられているのです。キリストはこのように言われました。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

人は、さまざまなところに慰めを求めます。しかし、神以外のところに本当の慰めはありません。神の慰めは母親が赤ん坊を扱うようにやさしく、温かいものですが、同時に力あるものです。それは、いったん亡びた国をよみがえらせるほどの力です。罪の中に死んでいた者をそこから引き上げることのできるほどの慰めなのです。神が、この慰めを与えてくださるのに、どうして私たちは、慰めにもならないものを求め、救いにもないところに行くのでしょうか。神の救いと慰めを知っていながら、なんの救いも慰めもないかのように嘆くのでしょうか。イザヤ51章12節で、主は、私たちに呼びかけておられます。「わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。あなたは、何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは。」ほんとうの慰め主のところに行きましょう。このお方を信じ、このお方から深く、大きい慰めを受け取りましょう。

1977年11月15日、土曜日、新潟市で、学校のクラブ活動を終えたひとりの女子中学生が忽然(こつぜん)と姿を消しました。横田めぐみさんです。警察の必死の捜査にもかかわらず、彼女の行方は全くわかりませんでした。母親の早紀江さんは、娘に深い心の悩みがあって、それで行方をくらましたのではないかと考えました。「どうして、娘の気持ちを分かってあげられなかったのだろう。」と自分を責めました。この事件があって、いろんな人が彼女を訪ね、さまざまなアドバイスを与えましたが、その多くは「因果応報」に基づいた話でした。この家族には、過去に悪事があって、それが娘に報いとなって表われたのだというのです。だからお祓いをしてもらいなさい、先祖を供養しなさいというのですが、それは彼女をもっと苦しめました。

そんな時、ひとりの友人が、「聖書のヨブ記を読んでみたら」と言って一冊の聖書を置いて帰りました。悶々とした日を過ごしていた彼女はすぐには聖書を開くことができませんでしたが、ある日、大きな悲しみが襲ってきたので、彼女は聖書を開いて読んでみることにしました。彼女は、それまでも聖書のことばに断片的には触れていましたが、この時はじめて読んで感動しました。それはヨブ1章21節の「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」ということばです。そのとき彼女は、「人間よりも偉大なお方がおられ、すべてを包んでおられる」ということが分かり、聖書から深い慰めを得たのです。

めぐみさんの失踪から20年がたち、それが北朝鮮による誘拐であることが明らかになり、それからさらに10年がたちましたが、めぐみさんの行方はまだ明らかになっていません。そんな中で横田早紀江さんは、毎月、北朝鮮のために祈る、祈り会を開いています。彼女はこう言っています。「北朝鮮は、私から娘を奪い、私を苦しめた国ですが、北朝鮮の人たちは、私の娘以上に苦しめられています。神は全能で奇跡をなさるお方です。生きて娘に会いたい。けれどもそれもみこころの中にあります。今は、苦しめられている人たちが救われ、世界に平和が来るようにと祈っています。」  自分の娘の人生を台無しにした国とその人々を憎んでも当然なのに、早紀江さんは、その国の人々のために祈っているのです。このようなことは人間の慰めだけしか知らない人にはできません。神の慰めを知っている人だけが、他の人にもそれを分け与えることができます。人間の慰めは小さくて、不十分で、自分のためにも足りないほどですから、まして他の人に分け与えることなどできませんが、神からの慰めは大きくて、満ちあふれるほどですので、いくらでも人に分け与えることができます。分け与えずにはおれなくなるのです。

私たちも神の慰めのことばを聞き、深く慰められ、この神の慰めを人々と分かちあうことができますようにと祈り求めましょう。

Ⅲ.敵を激しく怒られる主(15-17)

最後に15節から17節を見て終わりたいと思います。 「見よ。まことに、主は火の中を進んで来られる。その戦車はつむじ風のようだ。その怒りを激しく燃やし、火の炎をもって責めたてる。実に、主は火をもってさばき、その剣ですべての肉なる者をさばく。主に刺し殺される者は多い。おのが身を聖別し、身をきよめて、園に行き、その中にある一つのものに従って、豚の肉や、忌むべき物や、ねずみを食らう者たちはみな、絶ち滅ぼされる。―主の御告げ―」

主はご自分に頼る者たちを見捨てることはされず、母のような愛によって慰めてくださいますが、敵に対してはそうではありません。その憤りが敵に向かって燃え上がるのです。

15節ではそれを「火」と「つむじ風」と「炎」という言葉で表しています。「見よ。まことに、主は火の中を進んで来られる。」「火」は神のさばきを、また、「つむじ風」は破壊的なイメージを、そして「火の炎」は激しい神の怒りを表しています。実に、主は火をもってさばき、その剣ですべての肉なる者をさばかれるのです。

いったいこの敵とはだれのことでしょうか。17節には、「おのが身を聖別し、身をきよめて、園に行き、その中にある一つのものに従って、豚の肉や、忌むべき物や、ねずみを食らう者たちはみな、絶ち滅ぼされる。」とあります。自ら身を聖別し、きよめているといいながら、園に行って、異教の神々に仕えていた人たちのことです。彼らは神に仕えているようで、一方では豚の肉や、忌むべき物、ねずみを食らう者たちでした。そうです、彼らは3節と4節に出てきた自分勝手な敬虔を求めていた人たちです。神によって産み出された子らと関係のない人たちです。それは言い換えると神のエルサレムとともに喜ぶことができない人たちのことなのです。神のことばも悟れず、ただ自分勝手な敬虔を求めるならば、その身に神のさばきを招くことになります。神が与えてくださるすべての祝福は、まことの教会を通して流れ出るからです。神が約束された共同体ではなく、自分勝手な信仰、自分勝手な礼拝を求めて走り回る霊的な高ぶりを遠ざけなければなりません。

あなたはどうですか?エルサレムとともに喜んでいますか。神のみことばにおののいておられますか。エルサレムとともに喜べ。エルサレム、神の教会とともに喜び、神の喜びと繁栄、慰めと満たしを体験させていただきたいと思います。

創世記5章

きょうは、5章に記されてあるアダムの歴史の記録からご一緒に学んでいきたいと思います。

Ⅰ.人類最初の人アダム(1-2)

まず1~2節をご覧ください。「これはアダムの歴史の記録である。神は人を創造されたとき、神に似せて彼を造られ、男と女とに彼らを創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、その名を人と呼ばれた。」

これは系図の形として書かれた歴史です。ユダヤ人の習慣として、彼らはよくこのような書き方をしました。マタイの福音書1章に記されてある系図もそうです。この系図の最初に述べられていることは、アダムが造られた時の経緯、要約です。神は人を造られた時どのように造られたかというと、神に似せてであります。神に似せて彼を造られ、男と女とに彼らを造られました。神が彼らを創造された時、神は彼らを祝福し、その名を「人」(アダム)と呼ばれました。3節以降は、その神の祝福がどのように展開(成就)していったかが記録されています。

Ⅱ.アダムの歴史(3-5)

3節からのところには、アダムの系図として10人の名前が出てきます。アダム、セツ、エノシュ、ケナン、マハラルエル、エレデ、エノク、メトシェラ、レメク、ノアです。この系図の叙述には、ある一定の型があることがわかります。それは、

①「・・は・・才になって、・・を生んだ。」→父になった時の年齢

②「・・は・・を生んだのち、・・年生きて、息子、娘たちを生んだ」→残りの 年数と他の子供の誕生

③「・・の一生は・・年であった。こうして彼は死んだ。」→合計した年齢(寿命)、死

というパターンです。これがこの系図の強調点なのです。この系図を見てまず第一に気づくことは、ここに出てくる人々の寿命が今日と比べて著しく長いということです。6章3節になって人の寿命が120歳と定められますが、それと比較しても、それ以前の人たちの寿命はことのほか長いことがわかります。これは、洪水前の気象や環境、食べ物など、今よりもずっと良かったということがその理由に上げられます。放射線による汚染なども、その当時は全くありませんでした。しかし、それ以上に、そこに神の祝福があったということが表されているのでしょう。この地上に人が増え始め、人の悪が増大したのがノアの時代であった(6:1-5)ということを考えると、ある程度は納得できます。現代は科学が進歩しているようですが、実際には退化しています。一つ一つの技術は進化しているようでも、社会的には逆に悪くっています。それはこの地上に人の悪がもっと増大しているからです。このままでは、この地球はいったいどうなってしまうことでしょう。それに比べこのアダムの時代からのしばらくの時代は、そうした悪が少なかったことを考えると、このように長く生きることができたということも理解できます。しかし、たとえ人の寿命がいくら長いとはいえ、その最後は「こうして彼は死んだ」ということばで結ばれていることを思うと、最初の人アダムによってもたらされた罪の結果人類に死がもたらされたことは、本当に悲しいことです。

ところで、ここにはそれぞれの人の年齢がしるされていますが、アダムの創造からノアの洪水までの年数が記録されているのではありません。これらの数を合計すると、大体2000年くらいになります。ですから、多くの人たち、特にファンダメンダリストと言われる人たちは、ここからアダムからノアの時代までを2000年、ノアからアブラハムの時代までを2000年、アブラハムからイエス・キリストの時代までを2000年、そして、今日まで2000年と計算し、人類が誕生してから今日までの年数を8000年だと主張しますが、それには注意が必要です。というのは、これはあくまでも系図を記しているのであって、年代記ではないからです。多くの系図がそうであるように、そこには省略されている人たちもいるからです。

Ⅲ.神とともに歩んだエノク(21-24)

この系図の中でもう一つ際だっていることは、24節の記録です。ここには、「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」とあります。5章の系図に記されてあるほかの人たちが「そして彼は死んだ」と結ばれているのに対して、エノクだけは例外です。彼だけは「死んだ」ではなく、「彼はいなくなった」とあるのです。神が彼を取られたので、彼はいなくなったのです。これはいったいどういうことでしょうか?

ここには、「エノクは神とともに歩んだ」とあります。ヘブル11章5節には、「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれることが、あかしされていました。」とあります。彼は神に喜ばれることがあかしさていたので、神に移されて、みえなくなったのです。

また、ユダ1章14節、15節には、「アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。すべての者にさばきを行い、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。」とあります。

これは主の再臨の預言です。エノクは、やがて主が千万の聖徒を引き連れて来られ、不敬虔な物たちをさばかれることを預言していたのです。ということは、これらのことからエノクがどのような歩みをしていたかがわかると思います。それは一言で言うなら、「神とともに歩く」歩みです。エノクの時代にはすでに多く人々がこの地上に増え広がっており、そうした人々の心が悪に傾いていた中で、彼は神とともに歩んだのです。後にノアの記述が出てきますが、ノアも同じです(6:5)。罪の中に生まれた人間の歩みというのはこの世の流れにしたがい、何の迫害もない、安易な道に歩みがちですが、それは放っておけば地獄へと堕ちていく道であります。こうした中で信仰に目覚め、つねに信仰の決断をもって歩もうとすれば、そこには多くの戦いも生じますが、実に、そうした歩みこそ神とともに歩む道なのです。エノクの人生はそういうものだったのです。彼は神を仰ぎ、永遠に変わることのない真実な神、全能であられる神により頼みながら、信仰によって生きたのです。彼が主の再臨と最後のさばきについて宣べ伝えていたということは、そのことを表しているのではないでしょうか。

そのように神とともに歩む者の最後は、「死を見ないように天に移される」ということです。これは「神とともに歩む者」の姿であり、一つのひな型です。すなわち、神とともに歩む人は、主イエス・キリストの再臨の時に必ず携え上げられ、永遠に主とともにいるようになるのです。エノクは肉体の死を見ませんでした。神とともに歩む私たちもやがて最後の死を見ることなく、永遠のいのちを受け継ぐようになるのです。

[分かち合いのために]

  1. アダムは何歳の時セツが生まれましたか。またセツを生んでから何年生きましたか。アダムの一生は何年でしたか。その後、彼はどうなりましたか。アダムの後の系図を見ると、そこにどのような書き方(パターン)がありますか。
  2. この系図をみると、多くの人たちが900歳くらい生きました。なぜそんなに長く生きることができたのでしょうか。
  3. この系図の中でエノクは他の人たちと違いがあることがわかります。どのような違いがありますか。彼はなぜ神に取られたのでしょうか。神とともに歩むとはどういうことでしょうか。そのような人にはどんな祝福が約束されていますか。

創世記4章17~26節

前回は4章1~16節までのところから、カインとアベルについて学びました。信仰によってアベルは神が喜ばれるささげ物をささげましたが、カインはそうではありませんでした。カインは自分の考えによってささげ物をささげました。それは自分の手によるささげ物を表していました。ですから、神はアベルのささげ物には目を留められましたが、カインのささげ物には目をとめられませんでした。

そしてそのことで嫉妬したカインはアベルに襲いかかり、彼を殺してしまったのです。しかも殺しておいて、今度は自分が殺されると嘆いているのです。神様はそんなカインをあわれみ、彼が殺されることがないように、彼に一つのしるしを与えてくださいました。それが何であったのかははっきりわかりませんが、それは彼が悔い改めようにという神からの機会でもあったわけです。しかしながら彼は悔い改めることをせず、エデンの東、ノデの地に住み着きました。「ノデ」それは「動揺」です。「さすらい」です。神から離れて人生はさすらいなのです。きょうのところには、その彼の人生がどのようになったのかがしるされています。

1.文化の起源(17-22)

まず17節をご覧ください。「カインはその妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ。カインは町を建てていたので、自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけた。」

ノデの地に住み着いたカインは、そこで妻を得ます。アダムとエバにはカインとアベルしかいなかったのに、いったいこの妻はどこからやって来たのかという疑問が起こりますが、それはここには書いていないだけで、アダムとエバには他に多くのこどもがいたようです。そのひとりが25節に出てくるセツですが、他にも多くいたのです。この17節には「町を建てた」とありますから、町を建てるくらいのこどもたちがいたということです。1:28のみことばから考えると、それは不思議なことではありません。

さて、カインはその妻を知り、子供を設けました。彼はその町の名にちなんで「エノク」という名をつけました。意味は「開始する」です。おそらく彼は、自分の思うような人生を、自分の計画を開始するという意味で町を建て、そういう名前にしたのだと思います。そして、それと同じような考えを持っていた人たちがたくさんいたのです。それがエノクという町です。

そのエノクにイラデが生まれ、イラデにはメフヤエルが生まれ、メフヤエルにはメトシャエルが生まれ、メトシャエルにはレメクが生まれました。19節を見ると、このレメクはふたりの妻をめとったとあります。ひとりはアダで、もう一人がツィラです。これがカインの道を歩む者の姿、神から離れた者たちの結末です。つまり、このレメクは今日まで続いている一夫多妻制の原型となったのです。男女の一夫一婦の関係は創造のはじめから定められていて、これは神聖なものなのに、神を信じないで、自分の欲望のままに歩む者は、この男女の神聖な関係を破り、神に反抗したのです。唯一の神を信じない者は、このように自分の欲望のままに生きようとするのです。

さて、20節を見ると、この二人の妻のうちアダはヤバルとユバルを、そしてツィラはトバル・カインを産みました。まずヤバルは天幕に住む者となり、家畜を飼う者、すなわち農業に従事する者の祖先になりました。そしてユバルは竪琴と笛を巧みに奏でる奏者、すなわち芸術の祖先、そしてトバル・カインは青銅と鉄のあらゆる用具を作る鍛冶屋、すなわち産業の祖先となりました。いわゆる文化の起源がここにあるわけです。しかし、このように文化がカインと彼の子孫たちから出たからといって、それ自体が悪であるということではありません。文化自体はすばらしいものであり、罪の結果、あるいは罪をおおう手段として生まれたものではありません。というのは、もし文化が悪であるとしたら、文化の進歩自体が悪になってしまいますし、人間の文化的努力のいっさいが無意味なものになってしまうからです。ですから、文化そのものは悪ではなく、それは神から与えられた恵みであり、人間の生活を潤すものであり、自然と社会に対して人間がなす真善美の活動とその成果なのです。問題は、こうした文化活動を営む人間がどうであるかということです。せっかく神様から恵みとして与えられたこの文化を自分たちの知恵や力を誇るものとして用いようとしたら、本末転倒になってしまいます。もしそうだとしたら、すなわち、それが神の栄光のためではなく、自分のたちの力を誇る道具になるとしたら、それは神への反逆の有力な武器と科してしてしまうのです。まさに現代の文化はこの神なしの文化であり、本当に罪に満ちた文化です。私たちに求められているのはこうした文化ではなく、神のための、神の栄光を現す聖書に基づいたキリスト教の文化をうち建てることです。

2.レメクの歌(23-24)

次に、23~24節をご覧ください。「さて、レメクはその妻たちに言った。「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」

これはレメクがその妻アダとツィラに言ったことばです。レメクはここで何を言っているのでしょうか。これはレメクが、自分の残忍さを誇っているのです。カインを殺す者がいれば七倍の復讐を受けるのであれば、自分を殺す者にはその七十七倍の復讐を受けるということです。つまり、神様がカインに約束された七倍の復讐では足りないとして、七十七倍も報いようとしてるのです。それは自分の力が神以上のものであることを誇示しているのです。このように、人間は堕落すると、自分の残忍さを誇ったり、自分の不道徳を平気で人に誇ったりするようになるのです。これがカインの道、これが罪深い人間の姿です。

3.主の御名によって祈ったエノシュ(25-26)

それに対してここに、そうしたカイン、レメクとは違うもう一つの系統が現れます。それが信仰の系統、セツです。25~26セツには、「アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。人々は主の御名によって祈ることを始めた。」とあります。

先にアベルを失ったアダムとエバは、神様の前に深い悲しみと嘆きの日々を過ごしていたことでしょう。この悲嘆に暮れていた家庭にも、新しい喜びが訪れます。「セツ」の誕生です。「セツ」とは「基礎」という意味です。詩篇11:3には「正しい者」と訳されています。他に「柱」という意味もあります。おさらく、アダムとエバは新しく与えられた子どもとその子孫によって、自分たちの生活の基礎を正しく据えようとしたのではないかと思います。セツこそアベルに代わるべきものであり、アベルの足跡を踏むべき者と考えたのです。それがこの「カインはアベルを殺したので、彼の代わりに、神はもうひとりの子を授けられたから」という意味に込められているわけです。ですから、セツにもまた子供が生まれたとき、その子はエノシュと言いますが、そのとき、人は主の名で祈ることを始めたとあるのです。セツこそは、アベルに代わるべきもの、信仰の系統となるべき者として、神が与えてくださいました。そしてやがてこのセツの系統からアダらハムから始まるイスラエル民族が、そして、イエス・キリストにつながる系統が出てくるのです。ルカ3:38は、そのことを記しています。「エノス」とは「この「エノシュ」のことです。自分の町を建て、物から物に生きようとしたカイン、レメクの系統に対して、神様はアベルに代わる新しい信仰の系統として、ここにセツと、その子孫エノシュから始まる系統を備えてくださったのです。そして、エノシュは主の名によって祈り始めました。レメクが傲慢不遜にも大手をふっていた時に、このように主の御名によって祈ることは、決してやしいことではありません。しかしこのような人々を、神様はいつもわずかながら残しておられるのです。この尽きない神の恵みに感謝して、この信仰の道を歩み続ける物でありたいと願わされます。

創世記4章1~16節

きょうは創世記4章から人類で最初に起こった殺人事件について学びたいと思います。アダムとエバの最初の子であったカインが、その弟アベルを殺したという出来事です。

 Ⅰ.カインとアベルのささげもの(1-7)

まず1節~5節をご覧ください。

「人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た」と言った。彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。ある時期になって、カインは、値の作物から主へのささげ物を持って来たが、アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た、主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。」

アダムとエバに最初の子どもが与えられました。名前は「カイン」です。意味は、「わたしは得た」です。アダムとエバが神に背いて罪を犯し、エデンの園を追放された時、神は彼らに「女の子孫」から救い主を与えると約束してくださいました(3:15)。ですから、彼らに長男が生まれたとき「得た」と思ったのでしょう。しかしながら、それが間違っていたことがわかると、次に生まれた子どもを「アベル」と名付けました。意味は「空虚」です。神の救いがないことは本当に虚しいことだと悟ったのです。

さて、そのカインとアベルが成長して大人になった時、カインは土を耕す者に、アベルは羊を飼う者になりました。日が経って、神にささげ物をささげる時期になった時、カインは地の作物の中から主へのささげ物を持ってきましたが、アベルは羊を飼うものとして、彼の羊の中から、しかも羊の初子の中から、最上のものを持ってきました。すると神様は、アベルとそのささげ物に目を留められましたが、カインとそのささげ物には目を留められませんでした。いったいなぜ神様はアベルとそのささげ物には目を留められたのに、カインとそのささげ物には目を留められなかったのでしょうか。

その後で、そのことで怒り、顔を伏せていたカインに、神様は「あなたが正しく行ったのであれば受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口に待ち伏せしていて、あなたを恋い慕っている。」と言われました。すなわち、彼は正しく行なわなかったのです。いったいどういう点で彼は正しく行っていなかったのでしょうか。

このところをよく見ると、彼は土を耕す者になったのですから、その収穫の中から主へのささげ物を持って来たことは問題ではないかのように感じます。そこで多くの人はそのささげる態度に問題があったのではないかと考えます。アベル場合は最上のものを持ってきたのに対して、カインはそうではなかった。つまり彼は適当にささげたというのです。しかし、問題はささげ物の質で決まるのではありません。結果としてはそれも原因の一つであったかもしれませんが、ここでの問題は別のところにありました。それは、彼らがささげた物が何であったのかということです。つまり、血による犠牲であったかどうかが問われているのです。アベルは血による犠牲をささげたのに対して、カインは血のないささげ物をささげました。彼らはアダムとエバの子どもとし、神が受け入れられるささげ物とはどのような物であるのかを聞いて、それを知っていたはずです。すなわち、神が受け入れられるささげ物とは罪を贖うべきものであり、そこには動物の血が流される必要があったということです。なぜなら、罪の支払うべき報酬は死であり、命は血の中にあるからです。レビ記17:11とヘブル9:22に、次のように記されてあります。

「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」(レビ17:11)

「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」(ヘブル9:22)

血を注ぐことがなければ、罪の赦しはありません。彼らはそれをアダムとエバから聞いてちゃんと知っていたはずなのです。なぜなら、アダムとエバが罪を犯したとき、自分たちが裸であることを知り、それで神の前に出るのが恥ずかしいと思いいちじくの葉で腰の覆いを作って着ましたが、その着物は神の御前には何の役にも立たず、そのために神様は別の着物を着せてくださいました。どういう着物だったでしょうか?そうです、「皮の衣」(3:21)です。それは動物の血の犠牲が伴うものでした。彼らはそのことを知っていたのです。アベルはそのことをわきまえて血の犠牲としてささげ物をささげましたが、カインはそうではありませんでした。それが問題でした。彼らはともに堕落したアダムとエバの子どもとしてエデンの園の外で生まれましたから、ともに罪人であるという点では同じでした。しかし、その罪の赦しを請うために、すなわち、神に受け入れられるための手段、方法は違っていました。アベルは神の方法に従って、神のあわれみによりすがり、血の犠牲をささげたのに対して、カインは罪の赦しを受けることなしに、自分の手のわざをささげたのです。しかし、自分のわざによっては神に近づくことはできません。ただ神のあわれみによらなければ、神に近づくことも、罪の赦しも受けることはできないのです。このことをわきまえないで、自分のわざによって神に受け入れられようとすることは、神の御前には傲慢以外の何ものでもありません。

このことは、神の小羊であられるイエス・キリストを信じる信仰を表していたことは明らかです。神はイエス・キリストの十字架で流された血潮によって、その名を信じる者を義としてくだり、はばかることなく、大胆に恵みの座に近づくことができるようにしてくだったのです(ヘブル4:16)。

神がアベルのささげ物を顧みてくださりカインのささげ物に目を留められなかったのは、そういう点でカインが正しく行っていなかったからであって、決して神が人をかたよって見ておられたからではありませんでした。神はかたよって見られる方ではないからです(ローマ2:11)。そういう意味では、ささげ物が受け入れられなかったとしてもその責任は神様にあるのではなくささげた側にあるのだから、神に対して憤ったり、顔を伏せたりすべきではないのに、カインは自分の罪をわきまえずにやたら腹を立て、ついには弟を殺してしまいました。罪深い人間の本性が、ここによく表れているのではないかと思います。

 Ⅱ.カイン、アベルを殺す(8-14)

では、その人類最初の殺人事件を見ていきましょう。8節から14節です。

「しかし、カインはアベルに話しかけた、「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。今や、あなたはその土地にのろわれてりう。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」カインは主に申し上げた。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」

ささげ物が受け入れられなかった責任は自分にあり、そのことを示されたカインは、神の言われることに耳を傾けるどころかアベルに嫉妬し、彼に襲いかかって、殺してしまいました。ここに最初の殺人事件が起こったのです。神に背き、神の言われることを拒んでいる罪人は、みなこのカインのようです。他の人を傷つけてしまうのです。それがこのような暴力的な犯罪につながることがあれば、暴力として表れなくても、苦々しい態度や、わがままな行動になってあらわれることもあります。しかし、それは結果的には悲惨的で、誰かを傷つけてしまうことになるのです。そして、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われても、そうした殺人の責任をとろうとするどころか、「知りません。私は弟の番人なのでしょうか」とうそぶいくことになるのです。カインは、神様が自分の罪のすべてを知っておられることがわかっていても、あるいは、その罰からのがれられないことがわかっていても、それでもなお悔い改めて赦しを得ようとしませんでした。むしろ自己憐憫から、自分の運命をのろい、神の罰が厳しいと言って、不平を述べているのです。そして、罰からのがれられないと見てとると、今度は深く絶望してしまいます。今度は、アベルを殺した報復として、だれかが自分を殺しはしないかと思い、心配しているのです。まさにこれが罪人の姿です。どこまでも頑ななのです。神は、ひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われることを望んでおられます(Iテモテ2:4)。ですから、どんな罪を犯したとしても、ただ神の前に悔い改め、へりくだって歩めばいいのに、なかなかそれができないのです。そして、もっと、もっと意固地になって神をのろい、不平を並び立てながら、自分の人生をのろうのです。それが罪深い人間の姿なのです。

 Ⅲ.一つのしるし(15-16)

そんなカインに対して、神はどうされたでしょうか。15節と16節をご覧ください。

「主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。」

 

なんと、そのようなカインの嘆きに対して、神様は「それだから・・」と、だれも彼を殺すことがないように一つのしるしを下さいました。このしるしが何であるかはわかりませんが、いったいなぜ神様はこのようなしるしを彼に与え、彼を守ろうとされたのでしょうか。それは、神様はあくまでも彼が悔い改めることを願っておられたからです。そのために彼を守られる手段を講じてくださったのです。にもかかわらず彼は、そんな神様の愛の思いを悟ることができず、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住み着きました。「ノデ」とは「動揺」という意味です。神を離れてからのカインの毎日は、動揺にほかなりませんでした。それはさすらいであり、さまよいです。くる日もくる日も不安な動揺に終始しなければならない生活は、どんなに悲惨であったかがかります。

スタインベック原作の映画「エデンの東」は、ここにその名のルーツがあります。厳格な父に受け入れてもらえないジェームス・ディーン扮する主人公が、父に受け入れてもらうことを願いつつも、かえって背を向けて葛藤する様を描いています。

殺人の罪を犯しても、カインは真に悔い改めることをしませんでした。ところが、そんな彼の上にも、神様は「保護」という恵みを与えられました。神様はそれほどに人類が悔い改めて神に立ち返ることを願っておられるのです。私たちはカインの道、すなわち神様から離れた自己中心の道ではなく、アベルの道、すなわち、自分の罪を悟り、そのままの姿では聖なる神様の御前には出ることができないことを知り、信仰によって身代わりの犠牲をささげる。つまり、来るべき救い主イエス・キリストに信頼する道、信仰の道を歩む者でありたいと願います。

レビ記25章1~22節

きょうは、レビ記25章前半の部分から学びたいと思います。まず1節から7節までをご覧ください。

1.安息年(1-7)

「25:1 ついで主はシナイ山でモーセに告げて仰せられた。2 「イスラエル人に告げて言え。わたしが与えようとしている地にあなたがたがはいったとき、その地は主の安息を守らなければならない。3 六年間あなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の枝をおろして、収穫しなければならない。4 七年目は、地の全き休みの安息、すなわち主の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の枝をおろしたりしてはならない。5 あなたの落ち穂から生えたものを刈り入れてはならない。あなたが手入れをしなかったぶどうの木のぶどうも集めてはならない。地の全き休みの年である。6 地を安息させるならあなたがたの食糧のためになる。すなわち、あなたと、あなたの男奴隷と女奴隷、あなたの雇い人と、あなたのところに在留している居留者のため、7 また、あなたの家畜とあなたの地にいる獣とのため、その地の収穫はみな食物となる。」

ここには安息年に関することが教えられています。2節には、「わたしが与えようとしている地にあなたがたがはいったとき、その地は主の安息を守らなければならない。」とあります。「六年間あなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の枝をおろして、収穫しなければならない。4 七年目は、地の全き休みの安息、すなわち主の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の枝をおろしたりしてはならない。」

安息日については十戒めで教えられていました。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。」(出エジプト20:8-10)ここでは安息日ではなく安息年です。つまり、六年間畑に種を蒔き、収穫しなければなりませんが、七年目は、地の全き休みの安息として、種を蒔いたり、ぶどうの枝をおろしたり、刈り入れをしてはならないというのです。いったいなぜ主はこのようなことを命じられたのでしょうか。

それがその土地のためになるからです。6節を見ると、「あなたの食糧のためになる」とあります。私は農業の経験はありませんが、これは一般的にも通用する原則だそうです。連作をするとその土地が痩せると言われています。ですから、他の作物を植えたりして連作を避けるそうですが、イスラエルの場合は一切の耕作を休みます。それはさらに豊かになるための神の知恵なのです。収穫を得るために休むのです。

私たちはどうして、こんなにひっきりなしに働くのでしょうか?それは不安だからです。働かないでいられません。働かなかったらと収入が減るのではないか、他の人たちに追い越されてしまうのではないかと心配するので、その心配が私たちを労働へと駆り立てるのです。もう一つの理由は、私たちにある貪欲さです。もっとお金がほしい、もっと成績を伸ばしたい、といった欲望が休むことを止めさせます。けれども、そこにあるのは神が働かれる余地を除外することに他なりません。神が実を結ばせてくださり、神がすべての営みの源であるということを忘れて、自分たちの手で、自分たちの力で何とかしようという思いが働くのです。

しかし、神は、私たちの助けがなくても働くことがおできになります。すべての良いものは神から来ていることを知るには、そこに立ち止まらなければなりません。すべての手のわざをやめて、神の教えに耳を傾け、それに聞き従わなければならないのです。

それにしてもなぜこんなにも主が休むことを強調しているのかと言いますと、それはイスラエルがエジプトで奴隷だったことと関係があります。イスラエルはかつてエジプトで430年間奴隷として過ごしていたわけですが、奴隷は休むことができません。休むということは、奴隷状態から解放されて自由人になったことを表しています。ですから、彼らがこうして休むというのは、彼らが神によって贖われて神の民となり、自由になったことを意味していたのです。

また、もっと元をたどれば、働くことは最初の人アダムとエバが罪を犯したことによってもたらされた神ののろいでした。アダムとエバは神の命令に背き、食べてはならないと命じられていた木から取って食べたので、その結果、額に汗して働かなければならなくなったのです。それまで彼らは神が与えてくださったエデンの園で自由に生きることができました。しかし、罪を犯した結果、奴隷のように働かなければならなくなってしまったのです。神を認めないで、自分の知恵で生きることを選んだ者は、自分で働かなければならないという結果が生じてしまいました。

けれども、そんな罪の重荷から神は私たちを解き放ってくださいました。神はその子イエス・キリストをこの世にお遣わしになり、罪にとらえられていた私たちを解放してくださいました。ですから、この安息年の示していたことは、こうした罪の重荷から解放して私たちの心に全き安息をもたらしてくださったイエス・キリストであったのです。まさにキリストは安息日の主であられましたが、この安息年の主でもあられるのです。

ところで、イスラエルはこの戒めをずっと守りませんでした。守らなかった結果どのようになってしまったでしょうか。バビロンに捕え移されるという悲惨な結果を招くことになってしまったのです。Ⅱ歴代誌36章21節をお開きください。ここにはこうあります。

「これは、エレミヤにより告げられた主のことばが成就して、この地が安息を取り戻すためであった。この荒れ果てた時代を通じて、この地は七十年が満ちるまで安息を得た。」(Ⅱ歴代誌36:21)」

「これは」とは、イスラエルがバビロンに捕え移されたのは、ということです。それは彼らが、彼らに与えられたこの主の戒めを守らなかったからなのです。彼らが守らなかったので、主はこの安息を取り戻すため、バビロンを通してこの地を休ませたのです。その期間は70年でした。主は強制的にその土地を休ませるために、バビロンを用いて彼らを取り除いたのです。

私たちは神の命令を重荷であると思って、それを退けることができると思っても、実は退けられるのは神の命令ではなく、私たちの方であることをここで知らなければなりません。そして、それが自分たちにとってどうであるかということを自分たちで判断しないで、ただ神の仰せられたことに聞き従わなければならないのです。

2.ヨベルの年(8-17)

「8 あなたは、安息の年を七たび、つまり、七年の七倍を数える。安息の年の七たびは四十九年である。9 あなたはその第七月の十日に角笛を鳴り響かせなければならない。贖罪の日に、あなたがたの全土に角笛を鳴り響かせなければならない。10 あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。11 この第五十年目は、あなたがたのヨベルの年である。種を蒔いてはならないし、落ち穂から生えたものを刈り入れてもならない。また手入れをしなかったぶどうの木の実を集めてはならない。12 これはヨベルの年であって、あなたがたには聖である。あなたがたは畑の収穫物を食べなければならない。13 このヨベルの年には、あなたがたは、それぞれ自分の所有地に帰らなければならない。14 もし、あなたがたが、隣人に土地を売るとか、隣人から買うとかするときは、互いに害を与えないようにしなさい。15 ヨベルの後の年数にしたがって、あなたの隣人から買い、収穫年数にしたがって、相手もあなたに売らなければならない。16 年数が多ければ、それに応じて、あなたはその買い値を増し、年数が少なければ、それに応じて、その買い値を減らさなければならない。彼があなたに売るのは収穫の回数だからである。17 あなたがたは互いに害を与えてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしはあなたがたの神、主である。」

次に8節から17節までを見ていきましょう。ここには「ヨベルの年」について記されてあります。安息の年を七たび、つまり、七年の七倍を数えた年が「ヨベルの年」です。この日は角笛を吹き鳴らさなければなりません。「ヨベル」とは、「雄羊の角笛」という意味です。安息年と同じように、完全に土地を休ませます。したがってヨベルの年の目的の一つは安息年と似ており、「疲れたものを休ませ、回復させ、新たな始まりを与える」ことにあります。10節には、「国中のすべての住民に解放を宣言する」とあります。しかし、安息年とは違う特徴がこのヨベルの年にはあります。それは、このヨベルの年には、それぞれが自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰ることができたということです。

これはどういうことかというと、主の恵みの完全な回復です。創世記12章には神がアブラハムにカナンの地を与えると約束してくださいました。そしてヨシュアの時代にイスラエルはこのカナンを占領し、それぞれの部族ごとに割り当てました。こうしてイスラエルの各部族に自分たちの所有する土地が与えられたのです。

ところが、時間の経過とともに経済的事情が生じ、ある人は貧しくなって自分の土地を手放さなければならないという状況に陥ってしまうこともありました。ところが五十年目には、それら全ての土地の譲渡がリセットされて原状回復されるのです。必ず、元の所有者の所に戻されるのです。このようにして神は、代々、初めに定められた相続地を誰かに売り渡されることのないようにしてくださったのです。これはまさに主の恵みの大解放です。

そこで土地の売買のやり方を見ると、それは次のヨベルの年までにどれだけ収穫することができるかでその評価額が決まりました。たとえば40年先にヨベルの年があるのであれば40回の収穫があるということですから40回の収穫に応じた価値があるとされ、10年後にヨベルの年があるならば10回の収穫数に応じた価値があるということで土地の評価額が決まりました。今読んだところは、それを無視して土地の売買をするとのないようにという戒めです。「神を恐れなさい」とあります。人の思惑によって神が初めに与えられた土地の約束が次第に損なわれていきますが、それによって神が定めた計画が損なわれることがないように、神は七年の七周期という時を定めて、新たな始まりの時を設けてくださっているのです。

ところで、神は、このヨベルの年の原則をこの人類の救済の歴史において大体的に行なわれました。そうです、主イエス・キリストにおける大解放です。私たちはキリストにあって、罪から解放されて自由になりました。キリストにあってその人生をリセットすることができるのです。ルカ4章18節と19節には、このことが記録されてあります。ここに「主の恵みの年を告げ知らせるために」とあります。この主の恵みの年こそ、このヨベルの年のことだったのです。主イエスはこの恵みの年を告げ知らせるために来てくださったのです。それまで罪に囚われ、虐げられていた人が、イエス・キリストによって罪から解放され、全く自由にされるのです。ですから、このヨベルの年は、キリストによる罪からの解放のひな型であったわけです。

しかしそれだけではありません。それは単に罪からの解放というだけでなく、やがてキリストが再臨されることによってもたらされる主の千年王国の預言でもありました。24章ではユダヤ教の例祭について学びましたが、「ラッパの吹き鳴らす会合」とか「贖罪の日、「仮庵の祭り」という秋に行われる収穫祭、後半の三つの祭りは終末に起こることの預言でもあるとお話しました。ラッパが吹き鳴らされるのは、主が再臨される時の合図だったのです。

使徒の働き3章19-21節を見ると、ペテロは、ここでこのヨベルの年のことを思いながら、こう説教しました。「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。」

ここに「回復の時」とありますが、これが主イエス・キリストの再臨される時のことです。その時キリストは万物を回復させてくださいます。主の千年王国をこの地に樹立してくださるのです。それはかつて主が人類を創造された時のエデンの園の回復です。神はこの地上を滅ぼされる前に、あのエデンの園をもう一度回復し、そこに私たちを住まわせることを計画されました。万物が改まって輝けるエデンの園が回復されます。その御国を受け継ぐことができるようにしてくださるのです。それは主の恵みの年の大解放、ヨベルの年の完全な実現です。

ですから、このヨベルの年はかつてのイスラエルの時代における恵みの回復でしたが、それが救い主イエス・キリストによる罪からの大解放を示していたのであり、そしてそれは同時に世の終わりの万物が改まる時にもたらされる主の千年王国の預言でもあったのです。

3.3年間の収穫(18-22)

「18 あなたがたは、わたしのおきてを行ない、わたしの定めを守らなければならない。それを行ないなさい。安らかにその地に住みなさい。19 その地が実を結ぶなら、あなたがたは満ち足りるまで食べ、安らかにそこに住むことができる。20 あなたがたが、『もし、種を蒔かず、また収穫も集めないのなら、私たちは七年目に何を食べればよいのか。』と言うなら、25:21 わたしは、六年目に、あなたがたのため、わたしの祝福を命じ、三年間のための収穫を生じさせる。25:22 あなたがたが八年目に種を蒔くときにも、古い収穫をなお食べていよう。九年目まで、その収穫があるまで、なお古いものを食べることができる。」

最後に18節から22節までを見て終わりたいと思います。ここではどんなことが教えられているのかというと、安息年またヨベルの年に土地を休ませるなら自分たちの生活はどうなるかということです。一年間まるごと土地を休ませ耕作しなかったら、食べる物がありません。そして安息年の翌年に種を植えることができても、収穫は次の年になります。したがって三年分の収穫が、安息年の前の年に必要なのです。そこで主は、9年目に3年間の収穫を生じされるというのです。そのことを約束してくださっているのです。

かつてイスラエルが荒野を放浪していたとき、主は安息日にマナを集めてはならないと命じられました。では安息日の食糧はどうすればいいのか。何とその前の日に二日分のマナを与えると約束されたのです。それでも安息日に集めに行った人がいましたが、七日目に集めに出た人は、何も見つかりませんでした(出エジプト16:27)。それじゃ、無くならないようにといっぱい集め、翌日まで取っておいた人はどうなったかというと、それに虫がわき、悪臭を放ったため、食べることができませんでした(出エジプト16:20)。人間って、どこまでも貪欲なんですね。明日のことを心配ばかりしています。明日食べるものをどうしようか・・・と。しかし、神は心配するなと言われます。それが神の命令ならば、必ず神が祝福してくださいます。彼らがちゃんと食べることができるように三年間の収穫を生じさせるというのです。

マタイの福音書6章25節から34節までをお開きください。ここには「25 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。28 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」とあります。

イエス様は、「自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。」(マタイ6:25)と言われました。それは異邦人が切に求めているものです。神に贖われた神の民が求めなければならないのは、神の国とその義です。それを第一に求めなければなりません。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。たとえば、空の鳥を見なさい。種まきもせず、刈り入れもしませんが、天の父がちゃんと養っていてくださいます。あるいは。野のゆりを見てください。働きもせず、紡ぎもしないのに、きれいに着飾っています。天の父が養っていてくださるからです。あなたがたは鳥よりも、のの花よりももっとすぐれたものではありませんか。あなたがたは神に贖われた神の民なのです。だから、神がちゃんと養ってくださいます。あなたにとって必要なことは心配することではなく、神に信頼することなのです。神の国とその義とを第一にしなければなりません。そうすれば、神が祝福してくださいます。

ですから、安息日を守ること、そして七年ごとの安息年を守ること、また、ヨベルの年を守ることは、神が養ってくださることを信じることに他なりません。言い換えれば、食べ物も飲み物も、着る物も財産も、そのすべてが神からの恵みであることを認め、この神に信頼しなければ何一つ持つことができないものであるということを認めることでもあるのです。すべて自分が行なっているのだ、という思いは養い、備えてくださる神を無視した、傲慢な態度に他ならないのです。

イザヤ66:1-5 レジュメ

「主のことばにおののく者」

イザヤ66:1-5

 Ⅰ.天はわたしの王座、地はわたしの足台(1)

 65章に続き、祈りの応答が語られる。「主はこう仰せられる。『天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの立てる家は、いったいどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。』」(1)

 これはイスラエルに対する最後のチャレンジである。神のために彼らが建てる家はどこにあるのか?どこにもない。たとえどんなに立派な神殿を建てようとも、この天地を創造された神を入れることなどできない。いったなぜ神はこんなことを言われたのだろうか。それは当時のイスラエルの中に神殿を大切にし、そこで行われている宗教儀式を守っていれば救われるという間違った考えを持っている人たちがいたからである。しかし、神のために建てる家などどこにもない。実体は神殿にではなく、天にある御座にある。それこそ大事にしなければならないものなのに、彼らはそれを忘れていた。

 Ⅱ.わたしが目を留める者(2)

 「これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。」(2a)「これらすべて」とは、神が造られたすべてのものである。神はこれらすべてのものを造られた。それゆえ、すべてのものは神のもの。だからたくさんのものを神に献げれば神が喜ばれるかというとそうではない。神のために立派な神殿を建てれば、神が満足されるかというとそうでもない。神はすべてのものを造られ、すべw

のものを持っておられる。それゆえ、神が我々に求めておられるものはそのような物ではなく、私たち自身、私たちの心なのである。それゆえ神はこう仰せられる。「―主の御告げ―わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」(2b)神が目を留める者は、へりくだって心砕かれ、神のことばにおののく者である。「へりくだって心くだかれ」とは、単に謙遜になることではない。自分の心が悲しみと絶望で打ちひしがれた状態になることを指す。また、「おののく」とはただ恐ろしさに震えるということよりも、神のことばに圧倒され、ひれ伏さずにはいられないような畏怖の念を持つことである。神のことばがなければ生きていくことはできない、神のことばだけが自分の生きる支えですと、神のことばを救いの唯一の希望とする人のことである。神は、このような者に目を留めてくださる。

 Ⅲ.自分勝手な道を選ぶ者(3-5)

 それとは逆に、自分勝手な道を選ぶ者がいる。そのような者は「牛をほふる者は、人を殺す者。羊をいけにえとする者は、犬をくびり殺す者。穀物のささげ物をささげる者は、豚の血をささげる者。乳香をささげる者は、偶像をほめたたえる者。」(3)である。どういうことか?彼らは表面的には敬虔にふるまっているようだが、その実は偶像をほめたたえる者であったということ。なぜなら、彼らは自分勝手な道を選び、その心は忌むべき物を喜んでいたからである。彼らは神に喜ばれることよりも自分の考えを優先させ、あくまでも自分の考えに従っていけにえをささげていた。彼らは神のみことばに従っているようでも、実際には自分の選択を優先させていたのである。それは偶像礼拝と同じことだ。

 このようなことは、私たちの信仰生活にも言える。もしへりくだって心砕かれることなく、神のことばにも聞き従おうとせず、自分勝手な道を選ぶなら、どんなに熱心に信仰生活をしていても全く意味がない。それは見せかけの信仰であり、偽善的な信仰にすぎず、神が最も忌み嫌われることなのである。神が私たちに願っておられることは、へりくだって心砕かれ、神のことばにおののくことである。神のことばを聞いて、それに従うことである。

 あなたは神のことばにおののいておられるだろうか。私たちの人生には二つの道がある。一つはへりくだって心砕かれ、神のことばにおののく道であり、もう一つの道は自分勝手に歩む道である。どちらの道を歩むかは自分で決めなければならない。しかし、もしあなたがへりくだって心砕かれ、神のことばにおののくなら、神はあなたに目を留めてくださる。あなたは神の御国を相続するようになるのだ。私たちはそのような道を歩む者でありたい。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13,1