申命記14章

今日は申命記14章から学び思います。申命記は英語でDEUTERONOMYと言いますが、「二度語る」という意味です。神はモーセを通して、これから約束の地に入るイスラエルに対して彼らが守るべき教えと定めを二度語るのです。いいえ、何度でも繰り返して語っています。それはなぜでしょうか。私たちはすぐに忘れやすい存在だからですね。だから、忘れないように、こうして何度もなんども語っているわけです。そしてその中心は何だったかというと、6章4-5節にあったように、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神であると主を愛しなさい、ということでした。それが11章まで語られて、12章からは、それを妨げる要因にどんなものがあるのかを具体的に語っています。12章はついて、主が選ばれた場所で礼拝をささげるようにと勧められていました。主が選ばれし場所には主の御名が置かれているからです。ですから、主を愛し、主を礼拝する者は、主の御名が置かれている場所に集まって共に主を礼拝することが求めてられているのです。人数が問題なのではありません。主は、二人でも、三人でも、私の名によって集まるところに私はいると言われました。二人でも、三人でも、主の名が置かれた所、当時、それは主の幕屋でしたが、そこで礼拝をささげなければなりませんでした。

そして前回の13章には、彼らは、自分たちのうちから他の神々に仕えるようにそそのかす者があったらどうしたらよいかということが教えられていました。そして、そのような者がいたら、必ず処罰しなければならないということが教えられていました。それがたとえあなたの兄弟、しまい

娘、愛妻、無二の親友であってもです。あるいは、その町の者全員がそうなってもです。その場合はその町とそこにいるすべてのものを剣の刃で聖絶しなければならないとありました。なぜなら、彼らは主によってエジプトの奴隷の状態から救われた者であり、主に従うこと、主を愛することが、彼らの祝福だからです。そうでなければ祝福はないからです。だから、自分たちにとってどうかということてはなく、主にとってどうか、主にとって良いことで、正しいとこであるならば、その主の教えに従って生きなければならない、ということが語られてきたのです。ですから、きょうの14章も、主を愛するという戒めの中で、語られている命令なのです。

 

1.死人のために自分の身に傷つけてはならない(1-2)

 

まず1節と2節をご覧ください。

「あなたがたは、あなたがたの神、主の子どもである。死人のために自分の身に傷をつけたり、また額をそり上げたりしてはならない。あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。」

 

死人のために自分の身に傷をつけたり、額をそり上げたりというようなことが、異教的な風習として行われていたようです。自分の息子、娘の死を前に悲しみをこらえきれない親の気持ちはわかります。それで命を絶つ人もいるくらいです。ですから、死者のために体を傷つけるという気持ちがわからないわけではありませんが、そのようにしてはいけません。なぜなら、彼らは、主の聖なる民とされたからです。主は彼らを地の面のすべての国々の民のうちから、彼らを選んでご自分の宝の民とされました。その神に従わなければならないからです。悲しみは悲しみとしてしっかりと受け止めつつ、死もいのちも支配しておられる全能の神にゆだねなければならないのです。

 

2.忌みきらうべきものを、いっさい食べてはならない(3-20)

 

次に3節から20節までをごらんください。

「あなたは忌みきらうべきものを、いっさい食べてはならない。あなたがたが食べることのできる獣は、牛、羊、やぎ、鹿、かもしか、のろじか、野やぎ、くじか、おおじか、野羊。および、ひづめが分かれ、完全に二つに割れているもので、反芻するものは、すべて食べることができる。反芻するもの、または、ひづめの分かれたもののうち、らくだ、野うさぎ、岩だぬきは、食べてはならない。これらは反芻するが、ひづめが分かれていない。それは、あなたがたには汚れたものである。豚もそうである。ひづめは分かれているが、反芻しないから、あなたがたには汚れたものである。その肉を食べてはならない。またその死体にも触れてはならない。すべて水の中にいるもののうち、次のものをあなたがたは食べることができる。すべて、ひれとうろこのあるものは食べることができる。ひれとうろこのないものは何も食べてはならない。それは、あなたがたには汚れたものである。すべて、きよい鳥は食べることができる。食べてならないものは、はげわし、はげたか、黒はげたか、黒とび、はやぶさ、とびの類、烏の類全部、だちょう、よたか、かもめ、たかの類、ふくろう、みみずく、白ふくろう、ペリカン、野がん、う、こうのとり、さぎの類、やつがしら、こうもり。羽があって群生するものは、すべてあなたがたには汚れたものである。羽のあるきよいものはどれも食べることができる。あなたがたは自然に死んだものを、いっさい食べてはならない。あなたの町囲みのうちにいる在留異国人にそれを与えて、彼がそれを食べるのはよい。あるいは、外国人に売りなさい。あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。」

 

ここには食べることができるものとそうでないものの区別が記されてあります。食べて良いものはどのようなものでしょうか。牛、羊、やぎ、死か、かもしか、野やぎ、くじか、おおじか、野羊、およびひづめが分かれて、反芻するものです。つまり、足の裏がふくらんでいるもので、例えば、犬や猫は足の裏がふくらんでいますが、ひづめがないため食べることはできません。また、反芻しない動物とは、肉食動物のことです。反芻するのは、草食動物だけです。しかし、反芻するもの、あるいはひづめが分かれているものでも、次のものは、食べてはいけないとされていました。すなわち、らくだです。これは反芻しますが、そのひづめが分かれていないので、汚れたものとされていました。また、岩だぬき、野うさぎ、豚です。これは、ひづめが分かれており、ひづめが完全に割れたものですが、反芻しないので、汚れたものとされました。

 

それでは、ここで言わんとしていることはどういうことなのでしょうか。というのは、イエスさまは、すべての動物はきよい、と言われたからです。また、神はペテロに、「神がきよいと言われたものを、きよくないから食べないと言ってはならない」と言われました。イエスは律法の目的であり、それを成就された方ですから、私たちはイエス様のことばに従わなければなりません。つまり、神がきよいとされたものをきよくないと言ってはならないということです。それは水の中にいるものも、空を飛ぶものも同じです。いったいこれはどういうことなのでしょうか。

 

このように地上の動物の中で食べてよいものと汚れているもの、また、水の中の生き物の中で食べてよいものと汚れたもの、空中を飛ぶものの中で食べてよいものと汚れているものの区別を見ると、なぜ神がそのように言われたかがわかります。それは衛生的な理由もありますが、それ以上にもっと大切な霊的な意味があったからです。それはこの3つに分類された動物について、汚れた動物の共通点を探してみるとわかります。

 

第一に、地上の動物は肉食が汚れているとされている点でん。そして、空の鳥では猛禽類(肉食)が、汚れています。なぜでしょうか?人のいのちは血にあるからです。ですから、神は初めに人を創造されたとき、人も含め、この地上のすべての動物は草食動物だったのです。つまり、神は、どの動物も肉を食べないように創造されたのです。実は、イエスさまが再臨されてからの千年王国においても、熊やライオンが草を食べると預言されています(イザヤ11:6-7)。だから、これが理想の状態なのですが、人が肉を食べるようになったのはノアの洪水後のことです。しかし、そこには一つだけ条件がついていて、それは、「肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。」(創世9:4)ということでした。これは、律法において定められたことですが、たとえ動物を食べるときにも、いのちを尊重しなければならないということです。したがって、神は生き物のいのちをとても大切にされており、ご自分のかたちに造られた人のいのちは、何ものにもまさって尊いものであるということです。

 

ですから、イスラエル人が肉食動物を食べないのは、神が人間や生き物を大切にしているように、自分たちもいのちを大切にしていることの現われなのです。もっと広い意味でいえば人を大切にするということでもあるでしょう。神を畏れかしこんで、人を自分よりも優れたものとみなし、慎み深く生きることでもあります。高ぶったり、無慈悲になったり、そしったり、陰口を言ったりするというのは、それは相手を傷をつけることであり、いわば「血を流す」ことでもあるのです。私たちの社会ではそうしたことが日常茶判事に起こっていますが、でもクリスチャンの間ではそうであってはなりません。そのように相手を食い物にし、相手の心を突き刺すような価値観を持ってはいけません。それを汚れたものとみなし、忌み嫌わなければならないのです。

 

第二のことは、これらの動物はすべて地上に、あるいは水に、直接、接していることです。どういうことかというと、地上の動物で、ひづめが割れているものがきよいとされたのは、足が直接、地面に接していないものです。それに対して、足の裏のふくらみで歩くものは、地面に接しているので汚れているとされました。同様に、水の中の生き物でうろこやひれがないものは、直接水に接するので汚れているとされました。あるいは、水底に接しているものもそうです。四つ足の這うものは、もちろん地面に接していますが、はね足のある者は、基本的に地の上ではねているだけで、這うことはないので、汚れてはいません。つまり、汚れているかどうかは、地に属しているかどうかで区別されているのです。

 

コロサイ人への手紙3章には、こうあります。「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。…ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。」(3:1-2,5)不品行、汚れ、情欲は地に属するものです。そうではなく、クリスチャンは天にあるものを求めなければなりません。

 

また、ヤコブはこう言っています。「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。…しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」(ヤコブ3:14-17)

 

ねたみや敵対心は地に属しているが、純真、平和、寛容、温順は上からの知恵です。ですから、私たちは、何が汚れているかを見分け、そこから袂(たもと)を断つという決断を、常に行なっていかなければならないのです。パウロは、こう言っています。

 

「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」(Ⅱコリント6:14~18)

 

あなたはどこに属していますか。この地上でしょうか、それとも天でしょうか?私たちは、神の一方的な恵みによってこの世から救い出された者、神の民、聖なる者です。ですから、この世に属するものではなく神に属するものとして、自らを聖別しなければなりません。彼らの中から出て行かなければならないのです。食べてよいきよい動物と汚れた動物の区別の規定が意味していたのは、まさにこのことだったのです。

 

また、ここに「子やぎを、その母の乳で煮てはならない」とあります。これはどういう意味でしょうか。肉と乳製品を一緒に食べてはならないということです。だからユダヤ人はハンバーガーを食べますが、チーズバーガーは食べません。肉と乳製品が一緒だからです。厳格なユダヤ教徒の家では肉料理用の鍋と、乳製品用の料理用の鍋が分けられているそうです。厳格なユダヤ人だとそこまでいつちゃんうんですね。

 

しかし、これはそういう意味ではありません。これは、子やぎをその母の乳で煮て食べると多産になるという異教的な習慣があって、そうした異教の習慣と関わりを持つことがないようにという意味です。実際に、イシュタロテとか、アシュタロテ、バアルといった偶像崇拝においてはこのようなことが行われていました。こうした異教的な習慣ではなく、ただ神の教えと守り、神を愛し、心を尽くして、神に従わなければならないことが言われているのです。

 

3.十分の一をささげる(22-29)

 

最後に22節から29節までを見て終わりたいと思います。

「あなたが種を蒔いて、畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならない。主が御名を住まわせるために選ぶ場所、あなたの神、主の前で、あなたの穀物や新しいぶどう酒や油の十分の一と、それに牛や羊の初子を食べなさい。あなたが、いつも、あなたの神、主を恐れることを学ぶために。もし、道のりがあまりに遠すぎ、持って行くことができないなら、もし、あなたの神、主が御名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、あなたの神、主があなたを祝福される場合、あなたはそれを金に換え、その金を手に結びつけ、あなたの神、主の選ぶ場所に行きなさい。あなたは、そこでその金をすべてあなたの望むもの、牛、羊、ぶどう酒、強い酒、また何であれ、あなたの願うものに換えなさい。あなたの神、主の前で食べ、あなたの家族とともに喜びなさい。あなたの町囲みのうちにいるレビ人をないがしろにしてはならない。彼には、あなたのうちにあって相続地の割り当てがないからである。三年の終わりごとに、その年の収穫の十分の一を全部持ち出し、あなたの町囲みのうちに置いておかなければならない。あなたのうちにあって相続地の割り当てのないレビ人や、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人や、みなしごや、やもめは来て、食べ、満ち足りるであろう。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。」

 

ここには、収穫の十分の一を毎年主にささげるようにと勧められています。なぜでしょうか。それは、彼らが、いつも、彼らの神、主を恐れることを学ぶためです。私たちは自分の大切だと思っていることに時間とお金を費やします。その中で主こそ私たちを罪から救い出してくださった方であり、私たちにとって第一のお方であることを認め、この方を敬い、この方に従っていくことのしるしとして十分の一をささげるのです。ですから、これは決して義務でも、義理でもなく、神がなしてくださったことへの感謝の表われであり、この方によって生かされていることを示す信仰の表明なのです。もしそれが遠くて持っていくことが大変であれば、それをお金に代えてささげることができました。

 

いったいなぜイスラエルに、このようなことが求められていたのでしょうか。それは主への感謝というのはもちろんですが、そのことを通して主と交わりを持つためです。主は何も欠けたところがなく、私たちのささげ物を必要とされていません。神が、これらのささげ物を通して望まれているのは、私たちの「交わり」なのです。つまり、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神を愛しなさい、と言われた、あの命令に従い、神を愛することを求めておられるのです。ささげものはそのための手段にすぎません。その本質は神ご自身を喜ぶことです。私たちはとかく、自分の信仰を霊的、精神的なものだから、このようなささげものは特に必要ではないと考えがちですが、その信仰が本物であれば、喜んで自分を神にささげるようになるのです。時間も、お金もすべてを。私たちはよく霊的な事柄について口で語ることができても、実際の生活の中で、たとえば自分の収入や時間を主におささげしていなければ、それはただ表面的な信仰にすぎないと言えます。このように自分の生活に密着したところにまで、主がおられることを認め、このような実際の事柄について、自分をささげることによって、その信仰が本当に主に喜ばれる生きたものとなるのです。ある意味でこれは神との深い交わりの表われでもあるのです。

 

またここには、あなたの町囲みのうちにいるレビ人をないがしろにしてはならない、とあります。彼らには相続地の割り当てがなかったからです。彼らは主への奉仕に専念するために、その収入となるべき相続地が与えられていませんでした。ですから、他のイスラエル人たちが支えなければならなかったのです。これは新約聖書にも貫かれている教えであり、福音の働きに専念している者たちを、その他の人たちが支えるべきであることが命じられていますが、神の群れがこのみことばに聞き従うなら、どれだけ祝福されるでしょう。そして、教会は10組のクリスチャンがいればこれはそれほど難しいことではないはずです。

 

三年の終わりごとに、その年の収穫の十分の一を全部持ち出し、あなたの町囲みのうちに置いておかなければならない。とあります。それは彼らのうちにあって相続地の割り当てのないレビ人や、彼らの町囲みのうちにいる在留異国人や、みなしごや、やもめは来て、食べ、満ち足りるためです。神は、貧しい者、小さい者にあわれみを施すことを求めておられます。イエス様は、「この小さい者にしたのは、わたしにしたのである。」と言われました。また、「あなたがたも、この子どものようでなければ、神の国に入ることはてきません。」と言われました。この社会の中で貧しい者たち、小さい者たち、弱い者たちを心から受け入れ、彼らのために何ができめかを考えて取り組まなければなりません。なぜなら、そうするなら、「あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。」

申命記13章

今日は申命記13章から学びたいと思います。イスラエルの民はエジプトを出て約40年間荒野をさまよいましたが、ようやく約束の地の入り口まで導かれました。ここからヨルダン川を渡って約束の地に入ります。そこでモーセは、イスラエルが約束に地に入るにあたり、そこでどうあるべきかをくどいと思われるくらい何回も語るわけですが、5章から11章までにはその原則的なことを、つまり、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよということでしたが、前の章からはそのことについてのもっと具体的なことが教えられています。

 

1.預言者、夢見る者(1-5

「あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現われ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう。」と言っても、その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。あなたがたの神、主に従って歩み、主を恐れなければならない。主の命令を守り、御声に聞き従い、主に仕え、主にすがらなければならない。その預言者、あるいは、夢見る者は殺されなければならない。その者は、あなたがたをエジプトの国から連れ出し、奴隷の家から贖い出された、あなたがたの神、主に、あなたがたを反逆させようとそそのかし、あなたの神、主があなたに歩めと命じた道から、あなたを迷い出させようとするからである。あなたがたのうちからこの悪を除き去りなさい。」

 

まず1節から5節までをご覧ください。12章の終わりのところには、彼らが約束の地に入って行ったら、その地の偶像を粉々にするようにというだけでなく、その偶像がどんなものかと興味をもって「私もそうしてみよう」などということがないように、わなにかけられないように注意しなさいとありました。けれともここでは、その地の偶像ではなく、自分たちの中から偶像へと誘い込もうとする悪しき働きに注意するようにと警告されています。それは何かというと、「預言者」と「夢見る者」の存在です。預言者とは、神のことばを語る者ですが、神のことばではなく自分のことば、自分の思い、自分の考えを語る者が出て来て人々を惑わすというのです。それを何というかというと「偽預言者」と言います。あるいは、「夢見る者」とも言われます。彼らは神が語ってもいないことを勝手に語り、人々を神の道から惑わすようなことをするわけです。そんな話に惑われるなんてバカじゃないかと思うかもしれませんが、彼らは羊の身なりをしてやってくる狼なので、なかなかその正体に気付きにくいのです。特に、何かのしるしや不思議を示すので、人々は「この人はほんとうの預言者だ」とだまされてしまうのです。それだけ人は見えるものに弱いんですね。何だか特別な力があるかのように感じてしまいます。何を言っているかわからない聖書を学ぶより、目に見える不思議なことや、心にぐっとくるものを求めがちなのです。そして、ヤハウェなるまことの神ではなく、他の神々へと、他の道へと、偶像礼拝へと人々を導こうとするのです。

 

それは神の教会の中でも同じです。偽預言者や偽教師が現れては超自然的なことや顕著な働きをして、人々を神のみこころから遠ざけてしまうのです。とはどちらかというと魅力的なことに心が奪われやすいですから、どうしてもそっちの方に傾きやすいのです。しかし、ここが勝負です。なんらしるしもないただ神様を信じ続けることは忍耐が試されますが、そのときこそ、自分が本当に主を愛しているかどうかがわかるのです。たとえ自分の思いとは違っても、たとえ他の人が自分と違うことをしていても、それでも神のみこころは何かを判別し、そこに立ち続けていかなければなりません。心を尽くし、精神を尽くして、あなたの神である主を愛さなければならないのです。

 

5節には、そのような者たちに対する厳しい処罰が記されてあります。なぜそんなに厳しく言われているのでしょうか。なぜなら、これがイスラエルのいのちにかかわることだからです。彼らが神からそれて別の神に向かうなら、彼らは滅んでしまうからです。

 

そういう意味では、このことは私たちも注意しなければなりません。私たちは偶像を拝むということはしないかもしれませんが、本当の神以外のものを神にしてしまうこと、すなわち、そういう意味での偶像があるのではないでしょうか。聖書が何と言っているかというよりも、あの人はこう言ったとか、この本にはこう書いてあったとか、自分はこう思うと言って、神の道からそれていることがあるのです。自分でも気づかないうちに・・・。これがキリスト教だと思いこんでいることがあります。気を付けたいものです。

 

2.家族が誘っても(6-11

 

次に節から11節までをご覧ください。

「あなたと母を同じくするあなたの兄弟、あるいはあなたの息子、娘、またはあなたの愛妻、またはあなたの無二の親友が、ひそかにあなたをそそのかして、「さあ、ほかの神々に仕えよう。」と言うかもしれない。これは、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった神々で、地の果てから果てまで、あなたの近くにいる、あるいはあなたから遠く離れている、あなたがたの回りの国々の民の神である。あなたは、そういう者に同意したり、耳を貸したりしてはならない。このような者にあわれみをかけたり、同情したり、彼をかばったりしてはならない。必ず彼を殺さなければならない。彼を殺すには、まず、あなたが彼に手を下し、その後、民がみな、その手を下すようにしなさい。彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。彼は、エジプトの地、奴隷の家からあなたを連れ出したあなたの神、主から、あなたを迷い出させようとしたからである。イスラエルはみな、聞いて恐れ、重ねてこのような悪を、あなたがたのうちで行なわないであろう。」

 

今度は、家族の者たち、あるいは非常に身近な者が、あなたを他の神々へと誘い込むときの場合にはどうしたらいいかということです。たとえあなたの家族や無二の親友があなたを誘っても、そういう者に同意したり、耳を貸したりしてはいけないとあります。あわれみをかけてもなりません。同情してもだめです。その人をかばったりすることもゆるされません。なんとここには、必ず殺されなければならないとあります。まずあなたが手を下し、その後で、民がみな、その手を下すようにしなければなりません。えっ、そこまでしなければならないんですか。本当に驚きを隠せません。いったいどうしてそこまでしなければならないのでしょうか。その理由が10節にあります。「彼は、エジプトの地、奴隷の家からあなたを連れ出したあなたの神、主から、あなたを迷い出させようとしたからである。」

すなわち、主はその家族をエジプトの地、奴隷の家から解放してくださった神だからです。いわば家族の家族と言ってもいいでしょう。今日家族がこうして幸せに暮らせるのは、それは主が彼らをエジプトの奴隷の家から解放してくださったからです。その救い主を捨てるようなことがあるとしたら、それこそ家族をないがしろにすることであって、ゆるされることではありません。

 

イエスさまは、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10:37と言われました。これは家族がどうでもいいということでなく、優先順序の問題です。キリストよりも家族を愛する者はキリストの弟子にふさわしいものではありません。家族以外にも、私たちは教会や仕事、趣味といった生活していく上で欠かすことができない大切なことがたくさんありますが、その中にあっても神を第一としなければならないのです。ではその他のことはどうでもいいということではなく、どれも大切なことでありますが、時によっては家族よりも仕事を、仕事よりも教会を、教会よりも家族を優先にしなければならないことがありますが、どんなことがあっても神を第一とし、家族や仕事よりももっと強く、もっと堅く、もって熱く、結びついたものでなければならないのです。その中にはたとえ家族といえども入り込むことはてきないのです。

 

3.町の住民を惑わせたら(12-18

 

最後に12節から18節までをご覧ください。

「もし、あなたの神、主があなたに与えて住まわせる町の一つで、よこしまな者たちが、あなたがたのうちから出て、「さあ、あなたがたの知らなかったほかの神々に仕えよう。」と言って、町の住民を迷わせたと聞いたなら、あなたは、調べ、探り、よく問いたださなければならない。もし、そのような忌みきらうべきことがあなたがたのうちで行なわれたことが、事実で確かなら、あなたは必ず、その町の住民を剣の刃で打たなければならない。その町とそこにいるすべての者、その家畜も、剣の刃で聖絶しなさい。そのすべての略奪物を広場の中央に集め、その町と略奪物のすべてを、あなたの神、主への焼き尽くすこの聖絶のものは何一つ自分のものにしてはならない。主が燃える怒りをおさめ、あなたにあわれみを施し、あなたをいつくしみ、あなたの先祖たちに誓ったとおり、あなたをふやすためである。いけにえとして、火で焼かなければならない。その町は永久に廃墟となり、再建されることはない。あなたは、必ずあなたの神、主の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じるすべての主の命令を守り、あなたの神、主が正しいと見られることを行なわなければならない。」

 

ここには、イスラエルの民がその町のすべての住人をそそのかした場合どうしたらよいかを語っています。をあげています。その町全体が偶像崇拝に陥ってしまたケースです。その場合は、まずよく調べ、探り、問いたださなければなりませんが、そのようなことが実際に行われていたとしたら、その町の住民のすべてを剣の刃で打たなければなりません。その町とそこにいるすべての物、その家畜もです。徹底的にそれを取り除かなければならないというのです。

 

 いったいなぜそこまでしなければならないのでしょうか。一つの理由は、それは、主がイスラエルをエジプトの奴隷の状態から救い出された方だからです。今のイスラエルがあるのは、彼らを救ってくださった主のおかげです。それなのに主を捨てて他の神々に走るようなことがあるとしたら、どれほど主は悲しまれることでしょう。

 

 もう一つの理由は。そのようにしなければイスラエルに祝福はないからです。1126-28には、主は彼らの前に、祝福とのろいを置くと言われました。主に従うなら祝福を、従わなければのろいを置くと言われたのです。ですから、彼らが他の神々に走るなら、そこにはのろいしかありません。そののろいを受けることがないように、聖絶しなければならないのです。この主がともにおられるということが、イスラエルにとっての祝福の源であり、最高の喜びです。その主を捨てて、他の神々に走って行くようなことがあるとしたら、そこには滅び以外の何ものもありません。そうしたものは一切、取り除かなければならないのです。主との密接な関係を壊すような要因をすべて破壊するように、というのです。

 

 それは、イエス・キリストによって罪が贖わられた私たちにとっても同じではないでしょうか。私たちにとっての幸せと成功、祝福のかぎはイエス・キリストであって、この方を離れては何の実を結ぶこともできません。私たちが豊かな実を結ぶのはただ主につながっている時だけであって、それがなかったらそこには滅び以外の何ものもないのです。そうした要因は取り除かなければなりません。そして、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、神を愛さなければならないのです。

 

今度のさくらチャペルの開所式で、「尽きせぬ愛をあなたに」(Just Let Me Say)を賛美します。私はこの賛美が好きです。天地が滅びようとも 変わらず、赦しと恵みの中で 主は私たちを神の子としてくださいました。そしてとこしえに変わらない愛で私たちを包んでいてくださいました。この主だけに心を向け、この主だけを見上げて歩みたいと思うのです。


「尽きせぬ愛をあなたに」(Just Let Me Say)

 

尽きせぬ愛をあなたに 恵み憐れみうけ、
麗しいあなたのみもとで 御顔拝させよ

天地が滅びようとも わが言葉は変わらず
ただ主よ 愛します わが友 救い主

さやかなみ声聞かせよ やさしく我を呼ぶ
拝させよ 栄光と力 御霊の炎を

荒野が園になるまで わが心は求める
ただ主よ 従います わが友 救い主

せつなき心われに あつく燃ゆる思い
とこしえに変わらぬ主の愛 ついにわれは知る

赦しと恵みの中で 神の子とされた身を
ただ主よ 感謝します わが友 救い主

 

この主の愛と恵みから迷い出ることがなにいように、心を尽くして主だけを愛しましょう。

申命記12章

今日は申命記12章から学びたいと思います。ここには、5章から11章までに語られた原則的なことを、具体的な場面に適用させています。つまり、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛するにはどうしたらいいかということについて教えられているわけです。これは26章まで続きますが、きょうは、その最初の部分を見ていきたいと思います。

 

1.主がしてくださったあなたがたの手のわざを喜びなさい(1-7

 

「これは、あなたの父祖の神、主が、あなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたがたが生きるかぎり、守り行なわなければならないおきてと定めである。あなたがたが所有する異邦の民が、その神々に仕えた場所は、高い山の上であっても、丘の上であっても、また青々と茂ったどの木の下であっても、それをことごとく必ず破壊しなければならない。彼らの祭壇をこわし、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を火で焼き、彼らの神々の彫像を粉砕して、それらの名をその場所から消し去りなさい。あなたがたの神、主に対して、このようにしてはならない。ただあなたがたの神、主がご自分の住まいとして御名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ぶ場所を尋ねて、そこへ行かなければならない。あなたがたは全焼のいけにえや、ほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、誓願のささげ物、進んでささげるささげ物、あなたがたの牛や羊の初子を、そこに携えて行きなさい。その所であなたがたは家族の者とともに、あなたがたの神、主の前で祝宴を張り、あなたの神、主が祝福してくださったあなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。」

 

まず第一のことは、偶像を打ち砕くことです。2節には、「それをことごとく必ず破壊しなければならない」とか、3節には、神々の彫像を粉砕して、それらの名をその場所から消し去りなさい、とあります。ただ、主が選んだ場所を尋ね、そこにささげものを携え、主が祝福してくださった彼らの手のわざを喜び楽しまなければなりません。

 

主ご自分の住まいとして御名を置くために、彼らの全部族のうちから選ぶ場所とはどこですか。これは聖なる所、主の幕屋です。そこには主が住んでおられます。そこに行かなければなりません。

 

どのように?6節をご覧ください。ここには、「あなたがたは全焼のいけにえや、ほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、誓願のささげ物、進んでささげるささげ物、あなたがたの牛や羊の初子を、そこに携えて行きなさい。」とあります。これは主へのささげものを表しています。全焼のいけにえは主への献身を、また収穫物の十分の一をささげるとありますが、これはすべてが主のものであり、主の恵みによって与えられたことへの感謝のしるしです。そして奉納物とは幕屋の奉仕に必要なものを指しています。誓願のささげ物は、何か自分が志を立てて、一つのことを、責任を持って行なうことを示すささげものです。すなわち、これらはすべて主への感謝のささげものです。しかもここには、進んでささげるささげ物とあります。ささげ物で大切なことは、人に言われたからささげるのではなく、自ら進んでささげること、神への自発的な応答としてささげることなのです。牛や羊は初子をささげるようにと言われています。これは「初物」のことですね。それは最上のささげものを意味しています。余った物とか、無残ったものをささげるのではなく、初物を取っておき、それを喜んで主にさささげることに意味があるのです。主イエスはレプタ銅貨2枚をささげたやもめは、他のだれよりも多く献金をしたとありますが、それは彼女のささげものに、このような要素が含まれていたからです。

 

2.主が選ぶ場所で(8-14

 

次に8節から14節までをご覧ください。「あなたがたは、私たちがきょう、ここでしているようにしてはならない。おのおのが自分の正しいと見ることを何でもしている。あなたがたがまだ、あなたの神、主のあなたに与えようとしておられる相続の安住地に行っていないからである。あなたがたは、ヨルダンを渡り、あなたがたの神、主があなたがたに受け継がせようとしておられる地に住み、主があなたがたの回りの敵をことごとく取り除いてあなたがたを休ませ、あなたがたが安らかに住むようになるなら、あなたがたの神、主が、御名を住まわせるために選ぶ場所へ、私があなたがたに命じるすべての物を持って行かなければならない。あなたがたの全焼のいけにえとそのほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、それにあなたがたが主に誓う最良の誓願のささげ物とである。あなたがたは、息子、娘、男奴隷、女奴隷とともに、あなたがたの神、主の前で喜び楽しみなさい。また、あなたがたの町囲みのうちにいるレビ人とも、そうしなさい。レビ人にはあなたがたにあるような相続地の割り当てがないからである。全焼のいけにえを、かって気ままな場所でささげないように気をつけなさい。ただ主があなたの部族の一つのうちに選ぶその場所で、あなたの全焼のいけにえをささげ、その所で私が命じるすべてのことをしなければならない。」

 

ここでも、同じことが教えられています。彼らが約束の地に入ったら、主が御名を住まわせる場所へ、主が命じられるものを持って行かなければならない、とあります。しかし、その前、モーセはここでとても大切なことを語っています。それは、イスラエルは、「おのおのが自分の正しいと見ることを何でもしている。」ということです。自分が良かれと思っていることをしている。神が言われることではなく、自分の思いと、自分の考えで、正しいだろうと判断して生きているのです。それは彼らがまだ主が彼らに与えようとしている地に行っていないからである。もし彼らがヨルダン川を渡り、主が与えてくだる地に入ったなら、そうであってはいけません。かって気ままな場所で全焼のいけにえをささげてはいけないのです。自分勝手な考えで、自分の思いで礼拝をささげてはいけないのです。神を信じ、神に従って生きる人は自分が正しいと思うかどうかではなく、神が正しいと思っておられるかどうか、神が願っておられることは何かを知り、それに従って行動しなければなりません。たとえそれが自分の頭で理解できないことであっても神がそう言われるから従う、これが信仰者の生きる基準なのです。

 

10節には、彼らが約束の地に入ることができたらどうすべきかが教えられています。11節を見ると、御名を住まわせる場所へ、主が命じられる物をもって行かなければならないと言われています。御名を住まわせるために選ばれた場所とはどこでしょうか。それは神が臨在しておられるところ、つまり、神の幕屋です。なぜ神の幕屋に行かなければならないのでしょうか。それは私たちの信仰は個人的なものではないからです。ある意味で一人一人の神との関係が最も重要ですが、かといって一人で神を礼拝するだけが望ましいことではありません。むしろ、神のみこころを知れば知るほど、そこには「互いに」ということがどれほど重要であるかがわかります。主イエスも、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:20)と言われました。私たちは、いつでも、どこでも、主を礼拝することができますが、そのように主を礼拝する人は、主の御名において集まるところで礼拝をささげることがいかに重要であるかに気付くはずなのです。また、もし共に集まって礼拝することがなければ、すなわち、ここに書かれてあるように、「おのおのが自分で正しいと見えることを行っているならば、自分では主を礼拝しているようなつもりでも、実は自分が正しいと思うようなことをしているにしかすぎないのです。それは悪い意味での個人主義です。私たち互いに集まって、主イエス・キリストを礼拝することによって、互いに責任関係が生まれてくるのです。互いに集まり、互いに祈り、互いに仕え合い、互いに交わることによって、自分が正しいと思うことではなく、主が正しいと思われていることは何かを求めることができるのです。「鉄が鉄を研ぐ」という御言葉がありますが、主にあって集まるところにこそ、自分の思いが、自分勝手なものから主へのものへときよめられていくのです。

 

そのことは13節でも言われています。ここには、「かって気ままな場所でささげないように気をつけなさい」とあります。かって気ままな場所で礼拝するというのは、自分勝手な礼拝、という意味です。自分に都合が良い時に、都合が場所で、都合がいい方法で礼拝をささげるというのはかって気ままな礼拝と言えるでしょう。神をあがめているようで、実はあくまでも自分が中心の礼拝です。自分の好きな方法で礼拝をささげようとするところに偶像が生まれます。自分だけの世界、自分だけの宮ができ、そこに祭司を雇うという、士師記に出て来るミカのようになるのです。(士師記17章)主はこれを忌み嫌われます。そうではなく、私たちは主のみこころを聞いていかなければなりません。それぞれおのおのが正しいと思うことではなく、主が語っておられることを共に聞き、共に受けとめ、共に果たしていく者でなければなりません。それを聞いていくのが一人一人に課せられている使命なのです。そして、それは普通教会の指導者に与えられ、牧師が主によって導かれることによって教会が導かれていきます。ですから、牧師の役割はとても重要です。主のみこころは何かをいつも聞いていかなければならないからです。

 

3.血は食べてはならない(15-19

 

「しかしあなたの神、主があなたに賜わった祝福にしたがって、いつでも自分の欲するとき、あなたのどの町囲みのうちでも、獣をほふってその肉を食べることができる。汚れた人も、きよい人も、かもしかや、鹿と同じように、それを食べることができる。ただし、血は食べてはならない。それを地面に水のように注ぎ出さなければならない。あなたの穀物や新しいぶどう酒や油の十分の一、あるいは牛や羊の初子、または、あなたが誓うすべての誓願のささげ物や進んでささげるささげ物、あるいは、あなたの奉納物を、あなたの町囲みのうちで食べることはできない。ただ、あなたの神、主が選ぶ場所で、あなたの息子、娘、男奴隷、女奴隷、およびあなたの町囲みのうちにいるレビ人とともに、あなたの神、主の前でそれらを食べなければならない。あなたの神、主の前で、あなたの手のすべてのわざを喜び楽しみなさい。あなたは一生、あなたの地で、レビ人をないがしろにしないように気をつけなさい。」


ここでは肉を食べることについて語られています。彼らがささげた家畜、牛や羊以外のきよい動

物は、すべて食べることができました。しかし、ただし、血は食べてはなりませんでした。それは地面に水のように注ぎ出さなければならなかったのです。なぜでしょうか。レビ記17:11にその理由が記されてあります。それは、「肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」

 

 これはどういうことでしょうか。ここには、なぜ血を食べてはならないのかというと、人のいのちは血の中にあるからです。だから、その血をもって贖いが行なわれるのです。旧約聖書ではそのために動物の血が流されました。その血が犠牲にされることによって、人々の罪の身代わりとなって死ぬことによって、人々の罪が赦されたのです。まして、動物ではない、神のひとり子の血によって罪が贖われたとしたら、その罪はどんなに清められることでしょう。私たちはイエス様の血によって完全な罪の赦しを受けることができたのです。いのちはみな尊いものですが、御子のいのちほどに高価で尊いものはありません。けれども、この方を犠牲にすることにより、私たちがキリストにあって完全に贖われるため、永遠に救われるようにされたのです。ペテロは言いました。「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(Ⅰペテロ1:18-19)」私たちは、キリストの尊い血によって贖い出されました。それゆえに主は、「あなたがたはだれも血を食べてはならない。あなたがたの間の在留異国人もまた、だれも血を食べてはならない。と言われたのです。

 

17節から19節までのところにはおもしろいことが命じられています。ここでは、神へのささげものでない獣は、どこでも食べることができましたが、神へのささげものに関する食事、聖なる食事は、主が選ばれる一つの場所でしか食べることができませんでした。そして、それは息子、娘、男奴隷、女奴隷、レビ人と共に食べなければならなかったのです。特にここではレビ人とともにとか、レビ人をないがしろにしてはならないとあるので、これはレビ人に相続財産として与えられるべき分のことが語られているものと思われます。レビ人をないがしろにしてはならない。十分の一をもって、主の聖なるもの、牛や羊の初子などを、主のささげものとしてささげ、それをレビ人たちが受け、食べたのでしょう。それをみんなで喜ぶ。それがイスラエルが約束の地に行って行うべきことだったのです。

 

4..主が良いとみられること(20-28

 

「あなたの神、主が、あなたに告げたように、あなたの領土を広くされるなら、あなたが肉を食べたくなったとき、「肉を食べたい。」と言ってよい。あなたは食べたいだけ、肉を食べることができる。 もし、あなたの神、主が御名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、私があなたに命じたように、あなたは主が与えられた牛と羊をほふり、あなたの町囲みのうちで、食べたいだけ食べてよい。かもしかや、鹿を食べるように、それを食べてよい。汚れた人もきよい人もいっしょにそれを食べることができる。ただ、血は絶対に食べてはならない。血はいのちだからである。肉とともにいのちを食べてはならない。血を食べてはならない。それを水のように地面に注ぎ出さなければならない。血を食べてはならない。あなたも、後の子孫もしあわせになるためである。あなたは主が正しいと見られることを行なわなければならない。ただし、あなたがささげようとする聖なるものと誓願のささげ物とは、主の選ぶ場所へ携えて行かなければならない。あなたの全焼のいけにえはその肉と血とを、あなたの神、主の祭壇の上にささげなさい。あなたの、ほかのいけにえの血は、あなたの神、主の祭壇の上に注ぎ出さなければならない。その肉は食べてよい。気をつけて、私が命じるこれらのすべてのことばに聞き従いなさい。それは、あなたの神、主がよいと見、正しいと見られることをあなたが行ない、あなたも後の子孫も永久にしあわせになるためである。」

 

主が良いとみられることが続きます。これまでの荒野の旅とは異なり、広大な土地にイスラエルの民は住みます。幕屋や神殿があるところに行くには何日もかけなければいけない人々も出て来ます。ゆえに、食べたいものはそこで食べることができます。

 けれども、血を食べてはいけないことが強く戒められています。23節に、「血はいのちだからである」とあります。血を食べることは命を奪うことになります。命は神にのみに属しているものであり、他の何ものも奪うことはできません。したがってこのいのちの象徴である血を食べないことによって、それは自分が主のものであり、主の定めに従っていることを表していたのです。

 

もしこれを現代のクリスチャンに当てはめるならどうなるでしょうか。互いにキリストにあって一人ひとりの命を大切にする、ということでしょう。相手をキリストにあって配慮し、祈り、仕え、キリストがその人のために死なれたことを認めることです。言い換えれば、キリストの贖いをないがしろにしない、キリストの贖いに生きる、キリストのみこころに従って生きるということでしょう。

 

5.わなにかけられないように(29-32

 

「あなたが、はいって行って、所有しようとしている国々を、あなたの神、主が、あなたの前から断ち滅ぼし、あなたがそれらを所有して、その地に住むようになったら、よく気をつけ、彼らがあなたの前から根絶やしにされて後に、彼らにならって、わなにかけられないようにしなさい。彼らの神々を求めて、「これらの異邦の民は、どのように神々に仕えたのだろう。私もそうしてみよう。」と言わないようにしなさい。あなたの神、主に対して、このようにしてはならない。彼らは、主が憎むあらゆる忌みきらうべきことを、その神々に行ない、自分たちの息子、娘を自分たちの神々のために、火で焼くことさえしたのである。12:32 あなたがたは、私があなたがたに命じるすべてのことを、守り行なわなければならない。これにつけ加えてはならない。減らしてはならない。」

 

ここには、彼らが約束の地に入って行ったときに、気を付けなければならないことが記されてあります。それは、わなにかけられないように、ということです。そこにはどんなわながあったのでしょうか。彼らの神々を求めて、この地の異邦の民はどんな神々に仕えていたのだろうか、自分もそうしてみようと、思うことです。

 

こんなことがあるのでしょうか。あるのです。サタンは私たちの心の隙間を狙って、いつも戦いを挑んできます。心に余裕ができたそのとき、これまで考えもしなかったことをしてみたいと思うことが起こるのです。その一つがこれでしょう。この地の住民はどんな神を拝んでいたのかを知ろうとしているうちに、いつしか自分がそれを拝んでいるということがあります。私たちが主かせら目をそらした瞬間、全く別の神があなたの心を支配してしまうことがあるのです。どんなに長く信仰生活を送っていても・・・。しかも、とても恐ろしいと思うことは、そのことになかなか気づかないということです。ヘブル書にはあなたの耳が鈍くなってとありますが、あなたの心に覆いかかるため、そのことにすら全く気付けないのです。ですから、みことばの学びはとても重要です。そうした私たちの心を主に向けさせ、主のみこころは何であるかを示してくださるからです。主が命じるすべてのことを守り行いなさい、とあったも、その命令がわからなければ、どうして主に従うことができるでしょうか。それこそおのおのの信仰、自分勝手な信仰になってしまいます。そういうことがないように、主が明治らておられることは何かを学び、従順な心、聖霊の助けによってこの道を進んでいかなければなりません。それが、私たちがほんとうの意味で祝福を受ける道なのです。

申命記11章

今日は申命記11章から学びたいと思います。まず1節から7節までをご覧ください。

 

1.主の偉大さ(1-7)

 

「あなたはあなたの神、主を愛し、いつも、主の戒めと、おきてと、定めと、命令とを守りなさい。 きょう、知りなさい。私が語るのは、あなたがたの子どもたちにではない。彼らはあなたがたの神、主の訓練、主の偉大さ、その力強い御手、伸べられた腕、そのしるしとみわざを経験も、目撃もしなかった。これらはエジプトで、エジプトの王パロとその全土に対してなさったこと、また、エジプトの軍勢とその馬と戦車とに対してなさったことである。・・彼らがあなたがたのあとを追って来たとき、葦の海の水を彼らの上にあふれさせ、主はこれを滅ぼして、今日に至っている。・・また、あなたがたがこの所に来るまで、荒野であなたがたのためになさったこと、また、ルベンの子エリアブの子であるダタンとアビラムに対してなさったことである。イスラエルのすべての人々のただ中で、地はその口をあけ、彼らとその家族、その天幕、また彼らにつくすべての生き物をのみこんだ。これら主がなされた偉大なみわざのすべてをその目で見たのは、あなたがたである。」

 

モーセは今、約束の地に入って行こうとしているイスラエルに、これまでの過去の歴史を振り返りながら、神の定めとおきてを語っています。「申命記」というタイトルの意味は、「繰り返して語る」です。ですからモーセは、神の民であるイスラエルにとって必要なことを繰り返し、繰り返し語っているわけですが、その中心は何かというと、10章12,13節でしたね。つまり、心を尽くして、神を愛することです。ただ、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くして神を愛すること、これこそ、神が彼らに求めておられることであり、彼らが約束の地に入ってからも守り行わなければならない中心的なことでした。

 

そして、この11章でも、モーセはそのことをイスラエルの民に繰り返して語ります。1節です。なぜでしょう。2節7節までのところに、その理由が語られています。それは主が偉大な方であり、主こそ神であられるからです。ここではその主の偉大な出来事のいくつかのことが取り上げられています。まず3節と4節には、主が彼らをエジプトから連れ出されたこと、そして5節には、彼らがここに来るまで、主が荒野でなされた数々の御業です。食べ物がないといえば空からマナを降らせ、水がないと言えば岩から水をほとばしり出させました。肉を食べたいと言えばうずらの大群を運んできました。また、そこには大きくて、強い敵がたくさん立ちはだかりましたが、主はそうした敵も打ち破り、40年の荒野の旅を守ってくださいました。それは一言で言えば、8章4節にあるように、「あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった」ということです。

そればかりではありません。6節には、荒野であった一つの恐ろしい出来事が書かれてあります。それはルベンの子エリアブの子であるダタンとアビラムに対して、主が成されたことです。それは、彼らがモーセに反抗し、「あなたがただけが特別なのではない」と逆らったため、地が割れて、生きたままそこに突き落とされたという出来事です。ほんとうに主は生きておられる偉大な方なのです。そして、これは彼らの先祖たちの時代に起こったことではなく、彼らの時代に起こった出来事でした。そのとき彼らはまだ幼い子供か10代であったため、こうしてまだ生き残ってはいましたが、確かに彼らもそうした主の数々の出来事を見たのです。主はそのように偉大な方なのです。彼らはそのことを知らなければなりません。

 

2.天の雨に潤されて(8-25)

 

次に8節から25節までを見たいと思いますが、15節までをご覧ください。

「あなたがたは、私が、きょう、あなたに命じるすべての命令を守りなさい。そうすれば、あなたがたは、強くなり、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地を所有することができ、 また、主があなたがたの先祖たちに誓って、彼らとその子孫に与えると言われた地、乳と蜜の流れる国で、長生きすることができる。なぜなら、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地は、あなたがたが出て来たエジプトの地のようではないからである。あそこでは、野菜畑のように、自分で種を蒔き、自分の力で水をやらなければならなかった。しかし、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天の雨で潤っている。そこはあなたの神、主が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主が、絶えずその上に目を留めておられる地である。もし、私が、きょう、あなたがたに命じる命令に、あなたがたがよく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら、「わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。また、わたしは、あなたの家畜のため野に草を与えよう。あなたは食べて満ち足りよう。」

 

ここでも繰り返して、モーセを通して語られる主の命令を守るようにと勧められています。なぜでしょうか。なぜなら、そうすれば、彼らは強くなり、その地を所有することができるからです。また、主が先祖たちに誓ったとおり、その地で長生きすることができるからです。というのは、彼らが入っていこうとしている地は、彼らが出て来たエジプトの地のようではないからです。そこでは野菜でも何でも自分で種を蒔き、自分で水をやり、自分の力で育てなければなりませんでしたが、彼らが入って行こうとしている地には天の雨で潤っているからです。そこでは主が、絶えずその上に目を留めていてくださいます。エジプトは肥沃な地であり、イスラエルよりも何倍も豊かな地でした。そのエジプトでは自分で種を蒔き、自分で水をやり、自分の力で何とかしならなかったのに、約束の地ではその必要が全くないのです。何が違うのでしょうか。そこに主がおられることです。そこに主の目があります。主が共におられるので、主が祝福してくださるのです。

 

これはまさにこの世界と信仰の世界、霊的世界の違いではないでしょうか。この社会は自力の世界です。自分の知恵と、自分の力で一生懸命耕やかさなければなりません。しかし、それとは違う世界があります。それは信仰の世界であり、そこには主の恵みが満ち溢れています。主ご自身が働いてくださいます。そこには天の雨が潤っています。その雨が豊かな収穫をもたらしてくくれるのです。13節と14節をご一緒に読みたいと思います。

 

「もし、私が、きょう、あなたがたに命じる命令に、あなたがたがよく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら、「わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。また、わたしは、あなたの家畜のため野に草を与えよう。あなたは食べて満ち足りよう。」

 

もし主が命じる命令に従うなら、主が季節にしたがって、先の雨と後の雨を与えてくださいます。先の雨とは秋の雨のことで、10月後半から12月の前半まで降る雨のことです。これは夏の干ばつで固くなった地を柔らかくするために降る雨で、この時期に大麦と小麦の種蒔きがなされるので、土地が豊かに潤されるためにとても大切な雨となります。ヘブル語では「ヨーレー」(יוֹרֶה)といって、旧約聖書に3回使われています。(申命11:14、エレミヤ5:24, 24)。

それに対して後の雨は春の雨のことで、3月から4月の収穫の前に降る大切な雨です。この雨が大麦や小麦などの農作物や牧草のために必要な雨とされています。ヘブル語では「マルコ―シュ」(מַלְקוֹשׁ)と言って、旧約聖書では8回使われています。(申命11:14、ヨブ29:23、箴言16:15、エレ3:3/5:24、ホセア6:3、ヨエル2:23、ゼカリヤ10:1) これらはみな季節にかなって降る「祝福の雨」(エゼキエル34:26)です。です。

 

ヨエル 2章23節には、「シオンの子らよ。あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜り、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ。」とあります。これはペンテコステと、この世の終わりに降る大いなるリバイバルの預言ではないかと言われています。初めの雨(秋の雨)」はすでに二千年前のペンテコステに降りました。しかし大収穫の「後の雨」である(春の雨)」はまだです。これが降るときは第二のペンテコステということができます。大艱難時代の終わり頃に、第二のペンテコステによってイスラエルの民は民族的に覚醒して救われ、その後にキリストの再臨がなされて千年王国がやってきます。その前には、すでに主にあるクリスチャンたちは空中に携挙されていますが、ユダヤ人の民族的救いの実現なしには異邦人クリスチャンの救いの完成もないのですから、無関心でいることはできません。私たちもまたこの後の雨のために祈らなければなりません。

 

しかし、ここではこの初めの雨と後の雨、神の祝福の雨を注ぐと言われています。私たちは世の終わりの前にもそのような神の祝福を受けるのです。もし、私たちが、神が命じる命令に、よく聞き従って、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして主を愛するならば・・・。

 

だから聖書はこう告げるのです。16節と17節をご覧ください。

「気をつけなさい。あなたがたの心が迷い、横道にそれて、ほかの神々に仕え、それを拝むことのないように。主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主が天を閉ざされないように。そうなると、雨は降らず、地はその産物を出さず、あなたがたは、主が与えようとしておられるその良い地から、すぐに滅び去ってしまおう。」

 

だから、気をつけなければなりません。私たちの心が迷い、横道にそれて、ほかの神々に仕え、それを拝むようなことがないように。そんなことあるはずないじゃないですか・・・。しかし、人の心はコロコロ変わるから心というそうです。豊かになると人はすぐに高ぶり、横道にそれてしまうのです。ほかの神々に仕えるようになります。これは必ずしも偶像崇拝のことではなく、まことの神以外のものを神とすることを指しています。時には、自分が神になってしまうこともあります。自分の力がこれをしたのだ・・・と。しかし、そのように心が迷い、横道にそれてしまうとどうなるでしょうか。主が天を無度差してしまわれます。その結果、雨が降らず、その地は産物を出さず、すぐに滅びてしまうことになってしまいます。だからそういうことがないように注意しなければなりません。どのように注意したらいいのでしょうか。

 

18節から25節までをご覧ください。

「あなたがたは、私のこのことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、それを唱えるように。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。それは、主があなたがたの先祖たちに、与えると誓われた地で、あなたがたの日数と、あなたがたの子孫の日数が、天が地をおおう日数のように長くなるためである。」

 

ここには、このことばをあなたの心とたましいに刻み付け、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい、とあります。どういうことでしょうか。このみことばから離れることがないように、しっかりと心に刻み付けるようにということです。そればかりではありません。それをあなたの子供たちにも教えなければなりません。そして、いつもこれを唱えるように、門と門柱に書き記すようにというのです。もうみことば漬けですね。なぜここまでしなければならないのでしょうか。それはあなたがたの子孫の引かずが、天が地を覆う日数のように長くなるため、すなわち、長く生きるためです。これは後の雨の後にもたらされる千年王国で実現することになります。

 

そればかりではありません。もしこのようにして主にすがるなら、たとえ敵があなたがたよりも大きくて、強くても、主が彼らをあなたの目の前から追い払われ、その地を占領することができるからです。あなたがたが足の裏で踏む所は、ことごとくあなたがたのものとなる。信じますか。信じましょう。あなたがたの足の裏で踏むところは、ことごとくあなたがたのものとなる。この教会の土地も、そのようにして与えられます。私たちではなく、ただ主が、そのことをしてくださると信じて、私たちはただ主よりすがり、ことごとく足の裏で踏んでいかなければなりません。

 

3.祝福とのろい(26-32)

 

最後に、26節から32節までをご覧ください。

「見よ。私は、きょう、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く。もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を、もし、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。あなたが、はいって行って、所有しようとしている地に、あなたの神、主があなたを導き入れたなら、あなたはゲリジム山には祝福を、エバル山にはのろいを置かなければならない。それらの山は、ヨルダンの向こう、日の入るほうの、アラバに住むカナン人の地にあり、ギルガルの前方、モレの樫の木の付近にあるではないか。あなたがたは、ヨルダンを渡り、あなたがたの神、主があなたがたに与えようとしておられる地にはいって、それを所有しようとしている。あなたがたがそこを所有し、そこに住みつくとき、私がきょう、あなたがたの前に与えるすべてのおきてと定めを守り行なわなければならない。」

 

ここで主はイスラエルの前に、祝福とのろいを置くと言われました。もし、主の命令に従うなら祝福を、逆に、もし、主の命令に聞き従わず、主の命じる道から離れ、他の神々に従って行くのなら、のろいを与えるというのです。まさに二者択一です。私たちは、どちらかというとこの立場をあいまいにします。あまり熱心にならず、またあまり不熱心にもならず、その中間くらいがちょうどいいのではないかと思うのです。けれども、信仰に中立というのはありません。従うのか、従わないのか、のどちらかなのです。信じて命を持つか、あるいはそのままでいて神の裁きを受けているかのどちらかです。

 

しかし、ぜひ誤解しないでください。私たちは主に従うとは言っても従うことなどできない汚れた者なのです。だからこそ、キリストが呪われた者となって、私たちののろいを受けてくださったのです。そしてこのキリストを信じる信仰によって、私たちは神の祝福に預かることができるようになりました。だから、私たちはみんな従えない者なのですが、神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いによって義と認めていただいたのです。だから従えば祝福であり、従わなければのろいであるということではなく、もともとのろいを受けなければならなかった者を、神がその呪いを代わりに受けてくださったがゆえに、祝福された者としてくださった。それなのであれば、私たちには中途半端な態度は逆に赦されないのではないでしょうか。ご自分のいのちを捨てて私たちを救ってくださった主に対してふさわしい応答は、ローマ12:1-2にあるように、私たち自身を神にささげることであって、神が命゛知ることに対して全身全霊をもって応えていくことなのではないでしょうか。それが神が私たちに求めておられることなのです。

申命記10章

先週は、イスラエルの民がどれほどうなじのこわい民であるか、しかし、それにもかかわらず主はモーセのとりなしの祈りに答えて、彼らをその大いなる力と伸べられた腕とをもって連れ出されたことを学びました。きょうの箇所はその続きです。まず1節から5節までをご覧ください。

 

1.二枚の石の板(1-5

 

「そのとき、主は私に仰せられた。「前のような石の板を二枚切って作り、山のわたしのところに登れ。また木の箱を一つ作れ。その板の上に、わたしは、あなたが砕いた、あの最初の板にあったことばを書きしるそう。あなたはそれを箱の中に納めよ。」そこで私はアカシヤ材の箱を一つ作り、前のような石の板を二枚切り取り、その二枚の板を手にして山に登って行った。主は、その板に、あの集まりの日に山で火の中からあなたがたに告げた十のことばを、前と同じ文で書きしるされた。主はそれを私に授けた。私は向き直って、山を下り、その板を私が作った箱の中に納めたので、それはそこにある。主が命じられたとおりである。」

 

「そのとき」とは、97節から21節までにある内容のことです。モーセは、主がイスラエルと結ばれた契約の板を受けるために、シナイ山に上って行ったのに、そのとき山のふもとではどんなことが行われていましたか?モーセがなかなか戻って来ないのを見て、自分たちに先立って行く神を造ろうと、金の子牛の像を作り、それを拝んでいたのです。モーセは山から下りて来たときびっくりして、これはいったいどういうことかと問い詰めるも、あまりのショックと憤りに、持っていた二枚の石の板を投げつけ、それを砕いてしまったのです。モーセは必死のとりなしをして、彼らを赦してくれるようにと懇願しました。すると主は、彼らはいつも主にそむき逆らってきた民でしたが、彼らを赦し、神の所有の民としての身分を保ってくださいました。そのときです。

 

そのとき、主は、前のような二枚の石の板を切って作り、もう一度主のもとに、山の上に登れと言われました。どういうことでしょうか。それは、主が与えてくださる契約のやり直しです。モーセは先の石の板を粉々に砕きましたが、それはイスラエルの民が神の契約をことごとく破ったことを表していました。しかし、今、もう一度前のように二枚の石の板を切って、神の前に出るようにと言われたのです。すなわち、主は再び彼らと関係を修復してくださるというのです。

 

そして4節に注目してください。ここには、主が、その二枚の石の板に直接書き記されたとあります。主が直接書きしるされたという箇所は他の聖書の箇所にはありません。Ⅱペテロ1:21を見ると、「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」とあるように、預言は人間の意志によってもたらされたものではないにしても、それは聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったものを書き記したものです。このように神が直接書いたものではありません。けれども、それが主が直接書かれたものであっても、あるいは人を通してであっても、主が聖霊によってその著者を動かして、その著者が書いていることを知らなければいけません。

 

2.えり分けられたレビ部族(6-9

 

「イスラエル人は、ベエロテ・ベネ・ヤアカンからモセラに旅立った。アロンはそこで死に、そこに葬られた。それで彼の子エルアザルが彼に代わって祭司の職に任じられた。そこから彼らは旅立ってグデゴダに行き、またグデゴダから水の流れる地ヨテバタに進んだ。そのとき、主はレビ部族をえり分けて、主の契約の箱を運び、主の前に立って仕え、また御名によって祝福するようにされた。今日までそうなっている。それゆえ、レビには兄弟たちといっしょの相続地の割り当てはなかった。あなたの神、主が彼について言われたように、主が彼の相続地である。」

 

 モーセはここで挿入的にこの言葉を入れています。その内容は、アロンが死んでその子エルアザルが彼に代わって祭司に任じられたこと、彼らはそこから旅立ってヨテバテに進んだということです。 そのとき、主はレビ部族をえり分けて、主の契約の箱を運び、主の前に立って仕え、また御名によって祝福するようにされました。

 

 どういうことでしょうか?神に仕える祭司の働きが重要であることが述べられているのです。イスラエルの民には、祭司の仲介の働きがあって初めて主の前に出ることができ、主に仕えることができるということです。イスラエルの民は、そのままでは決して神の前に立つことはできませんでした。あくまでも祭司の働きによって、主の祝福と恵みが民に分け与えられるのです。レビ人たちはそのために特別に神によってえり分けられた民なのです。このレビ人をないがしろにしてはならないということです。彼らには主の相続地が与えられていませんでした。主が彼らの相続地であったからです。それゆえに、このレビ人は民に代わる代表としてえり分けられ、民のためにとりなしをするようにと特別に選ばれたのです。このレビ人という仲介者をないがしろにしてはならないのです。

 

 それは今日でいうなら、イエス・キリストご自身のことです。私たちは自分たちの行いによって主の前にできることはできません。あくまでも、神の大祭司イエスのとりなしによってのみ神の近くに行くことができるのです。そのイエスの仲介なしに、自分たちの思いと判断によって進んで行ってはならないということです。私たちの中にはキリストがおられます。この方こそが私たちの仲介者であり、和解者であられます。この方にあって私たちは初めて平和と恵みと愛を互いに体験することができます。私たちはこのキリストと共に十字架につけられたのです。この方の血の注ぎかけがあるので、私たちはしっかりと立つことができるのです。

 

 3.神があなたに求めておられること(10-22

 

「私は最初のときのように、四十日四十夜、山にとどまった。主はそのときも、私の願いを聞き入れ、主はあなたを滅ぼすことを思いとどまられた。そして主は私に、「民の先頭に立って進め。そうすれば、わたしが彼らに与えると彼らの先祖たちに誓った地に彼らははいり、その地を占領することができよう。」と言われた。イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることであ。主は、ただあなたの先祖たちを恋い慕って、彼らを愛された。そのため彼らの後の子孫、あなたがたを、すべての国々の民のうちから選ばれた。今日あるとおりである。る。見よ。天ともろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、あなたの神、主のものである。あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい民であってはならない。あなたがたの神、主は、神の神、主の主、偉大で、力あり、恐ろしい神。かたよって愛することなく、わいろを取らず、みなしごや、やもめのためにさばきを行ない、在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる。あなたがたは在留異国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で在留異国人であったからである。あなたの神、主を恐れ、主に仕え、主にすがり、御名によって誓わなければならない。主はあなたの賛美、主はあなたの神であって、あなたが自分の目で見たこれらの大きい、恐ろしいことを、あなたのために行なわれた。あなたの先祖たちは七十人でエジプトへ下ったが、今や、あなたの神、主は、あなたを空の星のように多くされた。のである。あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない。」

 

主はモーセに二枚の石の板とともに、「民の先頭に立って進め。」と命じられました。そうすれば、主が彼らを約束の地に入れ、その地を占領することができる・・・と。これは徹頭徹尾主の戦いなんですね。主が勝利を与えてくださいます。私たちの力がそうするのではありません。私たちはうなじのこわい民であり、主のみこころにかなわない者ですが、あわれみ豊かな神は、私たちの罪を赦し、ご自分の御心に歩もうとするものを助けて、約束の地に入れてくださるというのです。

 

ここでモーセは一つの結論を述べています。それは、主があなたがたに求めておられることは何かということです。それは、それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることです。主が求めておられることはあれも、これも守り行うということではなく、「ただ」です。ただ、神を畏れ、神のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くして、精神を尽くして、あなたの神である主に仕え、主に従うことです。

 

私たちはどちらかというと、「ただ」というよりも、「あれもして」「これもして」神のためにいろいろなことをして、神を喜ばせることが、主のお喜びになられることではないかと思うのですが、聖書はそのようには教えていません。主が求めておられることは「ただ」なのです。主を恐れ、主の道に歩み、主に仕え、主を愛します。

ミカ書にも似たような御言葉があります。「私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(6:6-8)」

 

なぜなら、主が私たちを愛されたのは私たちが何かをしたからではなく、私たちが正しい者だからでもありません。ただ愛されたからでした。主は、ただあなたの先祖たちを恋い慕って、彼らを愛されたのです。そのため彼らの後の子孫、あなたがたを、すべての国々の民のうちから選ばれました。私たちには何も正しいものはないのです。むしろ悪ばかりがあるのです。だから、正しさをすべて主に求めて生きていかねばならないのです。主を恐れて、自分の悟りに頼らず、主の道に歩み、主を愛して、主に仕えなければならないのです。私たちのうちに義はなく、むしろキリストのうちにあります。自分の義ではなく、キリストの義を仰がなければならないのです。

 

16節には、「心の包皮を切り捨てなさい」とあります。これは心の割礼を行いなさいということです。割礼とは、神の民のしるしですが、どんなに外見で割礼を施しても中身が無ければ意味がありません。大切なのは心の包皮を切り捨てるということ、心の割礼を受けるということです。では、心の包皮を切り捨てるとはどういうことでしょうか。それは神のみ言葉に対して心を開き、みことばを素直に受け入れる従順な者になることです。どんなに体に割礼を受けていても、神のみことばに心を閉ざし、みことばに対して鈍感であるなら、つまりうなじがこわければ何の意味もありません。

 

なぜでしょうか。17節から22節までのところにその理由が記されてあります。なぜなら、あなたがたの神、主は、神の神、主の主、偉大で、力があり、恐ろしい神、かたよって愛することをなく、わいろをとらず、在留異国人を愛される方だからです。神はただ外見で神の民であるというしるしを見て満足される方なのではなく、そのように社会的立場の弱者に対して配慮を求められる方だからです。

 

主はあなたの賛美、主はあなたの神であって、あなたがたが自分の目で見たこれらの大きい、恐ろしいことを、あなたのために行われました。彼らの先祖たちは七十人でエジプトに下ったが、今や、あなたの神、主は、あなたを空の星のように多くされました。

 

このことを見てください。それは決して人間ができることではありません。主は大いにる方であって、大いに賛美されるべき方であります。その方にふさわしいことは私たちが何か良いことをして自分を誇ったりするようなことではなく、この神の御心を知り、この方を心を尽くしてほめたたえ、感謝をもって仕えることなのです。つまり、あなたの心がいつもこの方と一つとなり、この方のみこころに歩むことなのです。

 

この一年がそのような年となりますように。もうすぐさくら市での開拓伝道も始まりますが、主が私たちに求めておられることは何でしょうか。それは私たちが一生懸命に伝道することよりも、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、主の命じるすべてのことを守り行うことなのです。そこに神の豊かな祝福と栄光が現されるのです。

申命記9章

きょうは、申命記章から学びます。まず1節から10節までをご覧ください。

 

1.主が敵を追い払われたのは・・・(1-6

 

「聞きなさい。イスラエル。あなたはきょう、ヨルダンを渡って、あなたよりも大きくて強い国々を占領しようとしている。その町々は大きく、城壁は天に高くそびえている。その民は大きくて背が高く、あなたの知っているアナク人である。あなたは聞いた。「だれがアナク人に立ち向かうことができようか。」きょう、知りなさい。あなたの神、主ご自身が、焼き尽くす火として、あなたの前に進まれ、主が彼らを根絶やしにされる。主があなたの前で彼らを征服される。あなたは、主が約束されたように、彼らをただちに追い払って、滅ぼすのだ。あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出されたとき、あなたは心の中で、「私が正しいから、主が私にこの地を得させてくださったのだ。」と言ってはならない。これらの国々が悪いために、主はあなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。あなたが彼らの地を所有することのできるのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。それは、これらの国々が悪いために、あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。また、主があなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブになさった誓いを果たすためである。知りなさい。あなたの神、主は、あなたが正しいということで、この良い地をあなたに与えて所有させられるのではない。あなたはうなじのこわい民であるからだ。」

 

ここにも「聞きなさい」とか、「知りなさい」という言葉が繰り返して出てきています。彼らは何を聞かなければならないでしょうか。それは主が彼らの前に進み、摘を根絶やしにされるということです。それは彼らが強いから、彼らが正しいからではありません。それは主がアブラハム、イサク、ヤコブに訳されたからであり、その約束を果たされるためです。それは主が約束されたことを果たされる真実な方だからなのです。

このことを考えると、私たちはとても安心感が与えられます。これがもし自分たちの正しさのゆえであったとしたら、そうでなかったとしたらたちどころに滅ぼされてしまうことになります。しかし、それは私たちとは全く関係なく、ただ主が正しい方なので、主がそのように約束された方なので、その約束に従ってその地の住人を追い払ってくださるのです。

それゆえに6節には再び、「知りなさい」と出てきます。主は、私たちが正しいということで、この良い地を与えてくださるのではなく、むしろ、私たちはうなじのこわい民であるにもかかわらず、主はそのようなことをしてくださるのです。

いったい私たちはどれほどうなじがこわい民なのかを見ていきましょう。続く7節から21節までに、そのことについて記されてあります。

 

2.主に逆らい続けてきたイスラエル(7-21

 

「あなたは荒野で、どんなにあなたの神、主を怒らせたかを覚えていなさい。忘れてはならない。あなたがたはホレブで、主を怒らせたので、主は怒ってあなたがたを根絶やしにしようとされた。 私が石の板、主があなたがたと結ばれた契約の板を受けるために、山に登ったとき、私は四十日四十夜、山にとどまり、パンも食べず、水も飲まなかった。その後、主は神の指で書きしるされた石の板二枚を私に授けられた。その上には、あの集まりの日に主が山で火の中から、あなたがたに告げられたことばが、ことごとく、そのまま書かれてあった。こうして四十日四十夜の終わりに、主がその二枚の石の板、契約の板を私に授けられた。そして主は私に仰せられた。「さあ、急いでここから下れ。あなたがエジプトから連れ出したあなたの民が、堕落してしまった。彼らはわたしが命じておいた道から早くもそれて、自分たちのために鋳物の像を造った。」さらに主は私にこう言われた。「わたしがこの民を見るのに、この民は実にうなじのこわい民だ。わたしのするがままにさせよ。わたしは彼らを根絶やしにし、その名を天の下から消し去ろう。しかし、わたしはあなたを、彼らよりも強い、人数の多い国民としよう。」エジプトの地を出た日から、この所に来るまで、あなたがたは主に逆らいどおしであった。私は向き直って山から降りた。山は火で燃えていた。二枚の契約の板は、私の両手にあった。私が見ると、見よ、あなたがたはあなたがたの神、主に罪を犯して、自分たちのために鋳物の子牛を造り、主があなたがたに命じられた道から早くもそれてしまっていた。それで私はその二枚の板をつかみ、両手でそれを投げつけ、あなたがたの目の前でこれを打ち砕いた。そして私は、前のように四十日四十夜、主の前にひれ伏して、パンも食べず、水も飲まなかった。あなたがたが主の目の前に悪を行ない、御怒りを引き起こした、その犯したすべての罪のためであり、主が怒ってあなたがたを根絶やしにしようとされた激しい憤りを私が恐れたからだった。そのときも、主は私の願いを聞き入れられた。主は、激しくアロンを怒り、彼を滅ぼそうとされたが、そのとき、私はアロンのためにも、とりなしをした。私はあなたがたが作った罪、その子牛を取って、火で焼き、打ち砕き、ちりになるまでよくすりつぶした。そして私は、そのちりを山から流れ下る川に投げ捨てた。主があなたがたをカデシュ・バルネアから送り出されるとき、「上って行って、わたしがあなたがたに与えている地を占領せよ。」と言われたが、あなたがたは、あなたがたの神、主の命令に逆らい、主を信ぜず、その御声にも聞き従わなかった。私があなたがたを知った日から、あなたがたはいつも、主にそむき逆らってきた。」」

 

ここには、イスラエルがいかに主に逆らい通しであったかが示されています。彼らはホレブで主を怒らせました。いたいホレブでどんなことがあったのでしょうか。せっかく主がモーセを通して二枚の石の板、契約を与えてくださったというのに、彼らは堕落して、自分たちのために鋳物の像を作ってしまったのです。12節を見ると、「早くもそれて」とありますが、彼らはなぜそんなにも早くそれてしまったのでしょうか。人はみな目に見えるものに弱いんですね。少しでも状況が不利になるとすぐに不安になってしまうのです。実際に導いてくれる対象がほしいのです。そういう弱さがあるのです。

 

それはホレブでの出来事だけではありません。22節には、「あなたがたはまた、タブエラでも、マサでも、キブロテ・ハタアワでも、主を怒らせた。」とあります。タブエラではどんなことがあったでしょうか。これは民数記11章に記録されてある内容ですが、ホレブの山を出るとすぐに、彼らのうちのちのある者たちが激しい欲望にかられ、モーセにつぶやいたのです。「ああ、肉が食べたい」と。「エジプトで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいかも、にら、たまねぎも、にんにくも。」なのに今はこのマナを見るだけだ・・・。それはモーセにとってとても苦しいことでした。あまりにも苦しかったので、自分一人で背負うことができず、民の長老たちの中から七十人を集め、モーセをサポートしなければなりませんでした。そして主は、そのようにつぶやいたイスラエルに対して、主は肉をくださるが、一日や二日ではない。十日も、二十日も、一か月もであって、ついには彼らの花から出て来て、吐き気を催すほどになる、と言われたのです。そして、彼らがキプロテ・ハタアワまでやって来た時には、主はうずらの大群を運んできたので食べることができたのですが、彼らの歯と歯の間にあるうちに激しい疫病が起こり、彼らはそれで死に絶えたのです。

 

マサでの出来事というのは、エジプトを出てすぐのことです。彼らはエジプトを出てすぐシナイの荒野に導かれたのですが、そこには飲み水がありませんでした。レフィデムに宿営したときのことです。それで彼らは主を試み、つぶやいて言いました。「自分たちをエジプトから連れ出したのは、自分死セブンたちを渇きで死なせるためですか。」人は苦しくなるとすぐにこのようにつぶやいてしまいます。主を信じることができないのです。それでモーセはどうしたかというとあの杖をもってホレブの岩の上に上り、そこで岩を打つと、岩から水が流れ出たのです。その岩とはだれでしょう。コリントを見ると、その岩こそイエス・キリストであったとあります。つまり、イスラエルの四十年の荒野の旅は、主イエスを信じた後の私たちの信仰の旅でもあるのです。そこには多くの苦しみがあります。試みが起こります。しかし、イスラエルが岩からほとばしる水を飲んだように、私たちも岩であるキリストから飲み続けることができるのです。モーセはそのところをマサ、またメリバを名付けました。それは彼らが主と争い、主を試みたからです。彼らはそれほどまでに主に境続けたのです。

 

そして、23節にはカデシュ・バルネヤでの出来事が記録されています。忘れられない出来事です。彼らはそこから偵察隊を遣わしてかの地を探らせたのに彼らは主のみことばにそむいて上っていかなかったので、その後38年間も荒野をさまようことになってしまいました。当然、二十歳以上の男子はみな荒野て滅んでしまうことになりました。彼らか主を信じなかったので、神のさはぎを招いてしまいました。

 

3.神の慰め(25-29

 

「それで、私は、その四十日四十夜、主の前にひれ伏していた。それは主があなたがたを根絶やしにすると言われたからである。私は主に祈って言った。「神、主よ。あなたの所有の民を滅ぼさないでください。彼らは、あなたが偉大な力をもって贖い出し、力強い御手をもってエジプトから連れ出された民です。あなたのしもべ、アブラハム、イサク、ヤコブを覚えてください。そしてこの民の強情と、その悪と、その罪とに目を留めないでください。そうでないと、あなたがそこから私たちを連れ出されたあの国では、『主は、約束した地に彼らを導き入れることができないので、また彼らを憎んだので、彼らを荒野で死なせるために連れ出したのだ。』と言うでしょう。しかし彼らは、あなたの所有の民です。あなたがその大いなる力と伸べられた腕とをもって連れ出された民です。」

 

しかし、主はそれでもイスラエルを滅ぼそうとはなさいませんでした。ここでモーセはイスラエルの民がほぼされないように祈っています。彼はどのように祈ったでしょうか。

代位に彼は、イスラエルは主が力強い御手を持ってエジプトから連れ出された民であるということ、第二に、確かにイスラエルはうなじのこわい民ではあるけれども、主はその彼らの先祖アブラハム、イサク、ヤコブと契約をされた神であるということ、そして第三は、もし主がイスラエルを滅ぼすというようなことがあるとしら、その地の住人の物笑いとなり、無全く証にならないということ、そして第四に、彼らがどんなに不忠実な民であっても、神によって贖われた神の民、神の所有の民であり、その大いなる力と述べられた腕とをもって連れ出された民であるということです。

 

つまり、神がイスラエルを救われるのはイスラエルが何か良い民であり、特別な民だからなのではなく、主ご自身の栄光のためであるということです。うしたモーセのとりなしにゆえに、彼らは神のさばきを免れ、約束の地まで導かれました。それは彼らが正しい民だからではなく、何か特別な能力があったからでもなく、神が彼らを愛されたから、彼らを愛してご自分の所有の民とされたからなのです。

 

こうした神の特別の愛の中に私たちも置かれているのです。モーセがイスラエルの民のためにとりなして祈ったように、私たちもまだ救われていない神の民のためにとりなし、祈る者でありたいと願わされます。

申命記8章

きょうは、申命記8章から学びます。まず1節から10節までをご覧ください。

 

1.試みられる神(1-10

 

「私が、きょう、あなたに命じるすべての命令をあなたがたは守り行なわなければならない。そうすれば、あなたがたは生き、その数はふえ、主があなたがたの先祖たちに誓われた地を所有することができる。あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。次から、これから入る約束の地の姿について書かれています。あなたの神、主が、あなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。そこは、水の流れと泉があり、谷間と山を流れ出た深い淵のある地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろの地、オリーブ油と蜜の地。そこは、あなたが十分に食物を食べ、何一つ足りないもののない地、その地の石は鉄であり、その山々からは青銅を掘り出すことのできる地である。あなたが食べて満ち足りたとき、主が賜わった良い地について、あなたの神、主をほめたたえなければならない。」

 

 モーセは何回も何回も、主がイスラエルに命じるすべての命令を守り行うようにと命じます。なぜでしょうか。そのために主は、イスラエルが荒野を歩んだ全行程を思い出させています。そこには多くの苦しみ、試みがありました。荒野ですから食べ物や飲み物がありませんでした。それはまさに死活問題であったわけですが、いったいなぜそのような苦しみがあったのでしょうか。それは、彼らが主の命令を守るかどうか、彼らの心のうちにあるものが何であるのかを知るためでした。

 

 主は私たちを試みる時があります。いったいそれは何のためかというと、そのような苦しみの中にあっても主に拠り頼むなら、主が助け導いてくださることを知るためでした。3節には、『それは、無人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。』とありますが、まさにそのためだったのです。

 

 ヤコブ書12節から4節には次のようにあります。「私の兄弟たち。さまざまな試練に遭うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」

 

私たちに試練があるのは、私たちの成長のためなのです。その試練がためされて忍耐が生じ、その忍耐を完全に働かせることによって、成長を遂げた、完全な人になることができまるからです。だから、ヤコブは、「さまざまな試練に遭うときには、それをこの上もない喜びと思いなさい。」と言っているのです。確かに、できるなら試練を避けたいと思うものですが、しかし、その試練を通して学び、それを乗り越えることによって、本当の意味で成長を遂げることができるということを思うとき、それはむしろ喜ばしいものでもあるのです。かわいい子には旅をさせよ、ということばがありますが、主は、人がその子を訓練するように、私たちを訓練されるということを、私たちは知らなければなりません。そのような苦しみにある時こそ信仰を働かせ、全能の神に拠り頼まなければならないのです。イスラエルの荒野での四十年は、まさにそれを文字通り経験する時であり、このことを学ぶ学びの場であったのです。

 

 そして、イスラエルが入って行こうとしている地は良い地です。そこには、水の流れと泉があり、谷間と山を流れ出た深い淵のある地です。小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろの地、オリーブ油と蜜の血です。十分に食べることができ、何一つ足りないものがない地です。そのような地に導いてくださるからなのです。何という希望でしょう。このような地へ導き入れられるということを知るなら、目の前にどんな大きな試練があっても乗り越えられるのではないでしょうか。私たちは目の前の問題を見るのではなく、その先にある希望に目を留めなければなりません。

 

Ⅱ.主を忘れることがないように(11-18

 

次に11節から18節までをご覧ください。

 

「気をつけなさい。私が、きょう、あなたに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてとを守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、あなたの牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。・・主は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出し、燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、堅い岩から、あなたのために水を流れ出させ、 あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。・・ あなたは心のうちで、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ。」と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。」

ここでモーセは、イスラエルの民に向かって注意を促しています。それは、彼らに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてとを守らず、彼らの神、主を忘れることがないように、気を付けなさい、ということです。いつそのようなことが起こりやすいのでしょうか。12節にあるように、「あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて済、牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、所有物が増し加わる時です。その時心が高ぶり、主を忘れてしまいがちなのです。そのような時、愚かにも人間は、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだと言うようになるのです。

 

しかし、主が彼らを祝福し、彼らをエジプトの地、奴隷の家から連れ出し、あの恐ろしい荒野を通らせた際に、堅い岩から水を流れ出させて飲ませ、天からマナを降らせて食べさせたのはいったい何のためだったのかというと、彼らを苦しめ、彼らを試み、ついには、彼らをしあわせにするためだったのです。主は彼らを祝福したいと願っておられますが、それは、彼らの心が高ぶって、自分の手のわざを誇るためではなく、主に感謝し、主をほめたたえるためだったのです。しかし、そうしたしあわせがもたらされると、あたかもそれを自分で手に入れたかのように錯覚してしまうのは彼らだけのことではなく、私たちも同じです。のど元過ぎれば熱さ忘れるということわざがあるように、あの苦しみの中にいた時は主に助けを求めても、そこから解放されるとすぐに主を忘れてしまうというのは、昔も今も変わらない人間の愚かな性質でもあるのです。ですから、私たちは、いつも主を忘れないようにしなければなりません。18節でモーセは、「あなたの神、主を心に据えなさい。」と言っていますが、主を心に末なければならないのです。

 

もう一つのことは、主が彼らに富を築き上げる力を与えられるのは、彼らの先祖たちに誓った契約を果たされるためであるということです。つまり、主は、イスラエルが何か良いものを持っているから祝福されたのではなく、あくまでも契約を履行されるために祝福されるということです。この理解はとても大事です。主はご自分が約束されたことは、必ず成就してくださいます。契約に違反するようなことは決してなさらないのです。私たちの主は契約を果たされる真実な神なのです。

 

その真実のゆえに、主は私たちの罪を赦され、神の子どもとしてくださいました。神が私たちをご自分の子としてくださったのは私たちが良い人間だからではなく、ましてや特別な能力があるからでもなく、そのように約束してくださったからなのです。それが時至って成し遂げられました。イエス・キリストを通してです。神は私たちをこよなく愛し、私たちを罪から救うためにメシヤを遣わしてくださると約束してくださり、このメシヤを信じる者を罪に定めないと約束してくださったので、その約束のゆえに、私たちは赦されているのです。私たちはこの契約の中に入れられているのです。ですから、どんなことがあっても、私たちを罪に定めることはできません。(ローマ8:31-39

 

Ⅲ.万が一、主を忘れるようなことがある場合(19-20

 

 最後に、19節と20節を見て終わります。ここには、もし主を忘れるようなことがある場合どうなるかが語られています。

 

「あなたが万一、あなたの神、主を忘れ、ほかの神々に従い、これらに仕え、これらを拝むようなことがあれば、きょう、私はあなたがたに警告する。あなたがたは必ず滅びる。主があなたがたの前で滅ぼされる国々のように、あなたがたも滅びる。あなたがたがあなたがたの神、主の御声に聞き従わないからである。」

 

人が自分の力で、自分の手でこのようなことをしたのだと思い始めると、主を忘れるようになるだけでなく、ほかの神々に仕え、これらを拝むようになると言われています。この場合の神々とは必ずしも手でこしらえた偶像だけでなく、神以外のものを神とすることを指しています。まことの神から離れれば、それに代わる何かに捕われてしまうのは当然のことだと言えます。それゆえ、いのちある神との交わりが阻害されてしまうのです。

 

そのようなことになればどうなるかというと、必ず滅びることになってしまいます。主に従い、主のおきてと、主の定めを守るなら、そこにいのちと祝福が溢れますが、反対に心が高ぶり、主から離れてしまうなら、滅びを招くことになってしまうのです。

 

このイスラエルに対する戒めは、教会に対しても言えることです。黙示録には、豊かになったラオデキヤの教会に対して、主はこのようなことばを書き送りました。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」自分のありのままの姿を知らなければいけません。「わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」(黙示録3:17-18

 

ですから、私たちは金も、衣も、目薬も、主イエスからいただかなければなりません。イエス様からいただいて、真理を悟らせていただきながら、神に喜ばれる道を歩まなければならないのです。それが心に主を据えるということです。どんな時でも主を忘れることがないように、いつも心に主を据えて歩む物でありたいと願わされます。

申命記7章

きょうは、申命記7章から学びます。モーセは、イスラエルが約束の地に渡って行って、そこで彼らが行うためのおきてと定めを語っています。前回のところでは、親が子どもに教える内容とその理由を語りました。それは、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよということでした。なぜなら、主は彼らをエジプトから救い出された方であられるからです。それがイスラエルの根源にあることで、新約の時代に生きる私たちにとっては十字架と復活による罪の贖いを指しています。私たちを罪から贖ってくださった主に従うことを、自分の子、孫、そしてその子孫に語り告げなければならないのです。そして、きょうのところには、異邦人を追い払うことについて教えられています。

 

1.互いに縁を結んではならない(1-5

 

まず、1節から5節までをご覧ください。

「あなたが、はいって行って、所有しようとしている地に、あなたの神、主が、あなたを導き入れられるとき、主は、多くの異邦の民、すなわちヘテ人、ギルガシ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、およびエブス人の、これらあなたよりも数多く、また強い七つの異邦の民を、あなたの前から追い払われる。あなたの神、主は、彼らをあなたに渡し、あなたがこれを打つとき、あなたは彼らを聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。容赦してはならない。また、彼らと互いに縁を結んではならない。あなたの娘を彼の息子に与えてはならない。彼の娘をあなたの息子にめとってはならない。彼はあなたの息子を私から引き離すであろう。彼らがほかの神々に仕えるなら、主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主はあなたをたちどころに根絶やしにしてしまわれる。むしろ彼らに対して、このようにしなければならない。彼らの祭壇を打ちこわし、石の柱を打ち砕き、彼らのアシェラ像を切り倒し、彼らの彫像を火で焼かなければならない。」

 

 イスラエルが、入って行って、所有しようとしている地には、多くの異邦の民がいます。ここにはその七つの民が列記されています。それはヘテ人、ギルガシ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、およびエブス人です。これらの民はイスラエルよりも圧倒的に多く、強い民ですが、主が彼らを追い払ってくださるので恐れる必要はありません。何と力強い宣言でしょうか。この新しい一年が、力強い主の約束に守られてスタートできることを感謝します。

 

しかし、主がそのように先住民族を追い払われるとき、イスラエルの民が注意しなければならないことがありました。それは、主がそのように彼らを打つとき、彼らを聖絶しなければならないということです。彼らと何の契約も結んではならないし、容赦してはなりませんでした。

また、彼らと互いに縁を結んでもなりませんでした。それは具体的にどういうことかというと、彼らの娘をその地の息子に与えはならないし、その地の娘を彼らの息子にめとってはならないということです。なぜでしょうか?それは彼らの息子が主から離れることによってしまうからです。そうなれば、主の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主はたちどころに彼らを根絶やしにしてしまわれます。ですから、彼らはその地の住民の祭壇を打ちこわし、石の柱を打ち砕き、彼らのアシェラ像を切り倒し、彼らの彫像を火で焼かなければなりませんでした。

 

パウロはこのことについて、コリント人への手紙第二でこう言っています。「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。」(Ⅱコリント6:14-15

 

これは、不信者との関わりを一切持ってはいけないということではありません。むしろ、神の愛を伝えていくために彼らと積極的に関わっていくべきです。けれども、そのことによって自分たちが立っているポイントを見失うことがないようにしなければなりません。光と闇とに全く交わりがないように、キリストと悪魔には何の交わりもないのです。度を越えた交わりは命取りとなってしまいます。それが不信者との結婚なのです。結婚は神が定めたもっとも親密な関係であるがゆえに、不信者と縁を結ぶなら、その根本が崩れてしまうことになります。つまり、まことの神から離れてしまうことになるのです。「いや、たとえ信仰が違っても別に問題はない」と言う人がいますが、本当でしょうか。そのようなことは決してありません。相手があなたに合わせているか、あなたが相手に合わせているかであって、最も深いところで一つになることはできないのです。それどころから、あなたは確かに信仰に歩んでいるようでも、もっと深く入っていこうものなら相手のことが気になってブレーキをかけてしまうことになるでしょう。つまり、同じ土俵に立てないのです。その結果、神との関係が弱くなってしまうか、離れてしまうことになってしまいます。

 

Ⅱ.主があなたがたを愛されたから(6-16

 

いったいなぜ主は異邦の民と縁を結ぶことについて、そんなに厳しく命じておられるのでしょうか。その理由が6節から16節までのところにあります。

 

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。あなたは知っているのだ。あなたの神、主だけが神であり、誠実な神である。主を愛し、主の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られるが、主を憎む者には、これに報いて、主はたちどころに彼らを滅ぼされる。主を憎む者には猶予はされない。たちどころに報いられる。私が、きょう、あなたに命じる命令・・おきてと定め・・を守り行なわなければならない。それゆえ、もしあなたがたが、これらの定めを聞いて、これを守り行なうならば、あなたの神、主は、あなたの先祖たちに誓われた恵みの契約をあなたのために守り、あなたを愛し、あなたを祝福し、あなたをふやし、主があなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われた地で、主はあなたの身から生まれる者、地の産物、穀物、新しいぶどう酒、油、またあなたの群れのうちの子牛、群れのうちの雌羊をも祝福される。あなたはすべての国々の民の中で、最も祝福された者となる。あなたのうちには、子のない男、子のない女はいないであろう。あなたの家畜も同様である。主は、すべての病気をあなたから取り除き、あなたの知っているあのエジプトの悪疫は、これを一つもあなたにもたらさず、あなたを憎むすべての者にこれを下す。あなたは、あなたの神、主があなたに与えるすべての国々の民を滅ぼし尽くす。彼らをあわれんではならない。また、彼らの神々に仕えてはならない。それがあなたへのわなとなるからだ。」

 

異邦の民を根絶やしにしなければいけない理由は、彼らが主の聖なる民だからです。「聖」というのはある一定の目的のために分離されるという意味です。彼らが分離されて、聖なる神のものとされたということです。それをここでは「ご自分の宝の民とされた」と言われています。神によって造られた民はこの地上に数多くあれども、主は、この地の面のすべての国々の民にうちから、彼らを選んでご自分の宝の民とされたのです。これはものすごいことです。この世界には何十億という人が住んでいますが、その中で私たちを神の民、宝の民としてくださったのです。それはどのくらいのパーセントの確率かというと、この日本では1パーセント以下の確率です。その中に私たちも入れさせていただきました。主の宝の民とされたのです。これはものすごいことではないでしょうか。ですから、その密接な関係を壊すような要因をすべて破壊するように、というのです。

 

いったいなぜ主はイスラエルをご自分の宝の民として選ばれたのでしょうか。7節からのところらその理由が記されてあります。それは彼らがどの民よりも数が多かったからではありません。力があったからでもない。ただ愛されたからです。ん、どういうことですか?そういうことです。主がただ愛されたから・・・。つまり、私たちに何か選ばれる根拠があったからではなく、神が一方的にただ愛されたからです。これが聖書に描かれている神の選びです。つまり、神の選びは、神の一方的な主権的な選びなのです。

 

パウロは、この神の主権的な選びについてこう言いました。「神はモーセに、『わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。』と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」(ローマ9:15-16

 

しばしば、ユダヤ人が選民思想を持っていると言ってユダヤ人を批判する人がいますが、そもそも選民思想というのはそのようなものではありません。選民とは、神が一方的に自分たちを選び、一方的に関わりを持たれ、一方的にご自身の御業を成してくださることです。私たちが何かすぐれているから愛されているのではなく、ただ愛したいから愛されているのです。自分には愛されるような資格がないのに、にもかかわらず愛されることなのです。それが神の選びなのです。自分に愛される資格がないのに愛されるのは気持ちが悪いものですが、でもほっとします。自分が根本的に愛されていることを知ると、自分のありのままの姿、罪深いその暗やみの部分も見る勇気が与えられるからです。イスラエルが試されて、ここまで罪性が明らかにされてもなお、主が彼らを見捨てておられないように、私たちもとことんまで自分の罪深さが示されても、主がなお愛されていることを知ることができるのです。

 

 彼らの神、主は、そのような方です。この主だけが神です。他に神はいません。そして、この神が彼らと結ばれた、おきてと定めがこれなのです。これというのは十戒であり、また、その中心である神だけを愛しなさいということです。それ以外のものが入ってきてはいけません。これは神の恵みの契約なのです。これを守り行うなら、主が彼らを愛し、祝福し、その恵みの契約を千代までも守られますが、主を憎む者には、主はたちどころに彼らを滅ぼされます。その祝福の内容が12節から16節まで書かれてあります。特に16節には、「彼らをあわれんではならない」とありますが、神から祝福される力は、この不信者と交わらないという聖別にあることがわかります。私たちがどれほど立派に信仰に生きていても、たくさんの人々に福音を語っても、もしこの真理に立っていなければ、そこには力がありません。それがあなたへのわなとなることがあるからです。

 

Ⅲ.恐れてはならない(17-26

 

「あなたが心のうちで、「これらの異邦の民は私よりも多い。どうして彼らを追い払うことができよう。」と言うことがあれば、彼らを恐れてはならない。あなたの神、主がパロに、また全エジプトにされたことをよく覚えていなければならない。あなたが自分の目で見たあの大きな試みと、しるしと、不思議と、力強い御手と、伸べられた腕、これをもって、あなたの神、主は、あなたを連れ出された。あなたの恐れているすべての国々の民に対しても、あなたの神、主が同じようにされる。あなたの神、主はまた、くまばちを彼らのうちに送り、生き残っている者たちや隠れている者たちを、あなたの前から滅ぼされる。彼らの前でおののいてはならない。あなたの神、主、大いなる恐るべき神が、あなたのうちにおられるから。あなたの神、主は、これらの国々を徐々にあなたの前から追い払われる。あなたは彼らをすぐに絶ち滅ぼすことはできない。野の獣が増してあなたを襲うことがないためである。あなたの神、主が、彼らをあなたに渡し、彼らを大いにかき乱し、ついに、彼らを根絶やしにされる。 また彼らの王たちをあなたの手に渡される。あなたは彼らの名を天の下から消し去ろう。だれひとりとして、あなたの前に立ちはだかる者はなく、ついに、あなたは彼らを根絶やしにする。あなたがたは彼らの神々の彫像を火で焼かなければならない。それにかぶせた銀や金を欲しがってはならない。自分のものとしてはならない。あなたがわなにかけられないために。それは、あなたの神、主の忌みきらわれるものである。忌みきらうべきものを、あなたの家に持ち込んで、あなたもそれと同じように聖絶のものとなってはならない。それをあくまで忌むべきものとし、あくまで忌みきらわなければならない。それは聖絶のものだからである。」

 

さて、イスラエルの民が約束の地に入って行くにあたり、そこには当然、恐れが生じます。敵は自分たちよりもはるかに多く、強いわけですから、どうやって彼らを追い払うことができるのでしょう。そのために主は、かつてエジプトでパロに対してなされたことを思い出させています。それと同じように、主は彼らが恐れているすべての国々対して成されます。だから彼らを恐れてはなりません。

 

ここでも、やはりエジプトにおける主のみわざが出発点となっています。クリスチャンも同じように、キリストが十字架で死なれ三日目によみがえられたという主の圧倒的な救いの御業がすべての勝利の原点にあります。それによって、「神はわたしたちとともにおられる」ことが現実のものとなり、何も恐れる必要がなくなったのです。私たちはキリストの御業によって罪から贖われたにもかかわらず、いつも恐れを抱きながら生きる者です。自分の肉の弱さのゆえに、いつも罪に打ち負かされてしまう弱さがあります。そのことでいつもおびえているような者ですが、しかし、死者の中からキリストをよみがえされてくださった神が、私たちのうちにすでに住んでおられるのです。復活させる力があることを信じるその信仰によって、私たちのうちで復活の力が働くのです。そして肉の行ないを殺すことができるのです。

 

しかし、それはすぐにということではありません。22節には、「徐々にあなたの前から追い払われる」とありますが、私たちの肉の思いや行ないも、一挙になくなるのではなく、御霊に導かれつつ、徐々に克服されていくものなのです。ですから、たとえ今はそうでなくても、このキリストのいのちをいただいている者として、やがて完成へと導かれていくことを信じて、ここに希望を置きたいと思うのです。

 

25節と26節には、聖絶のものを欲しがったり、それを家に持ち込んではならないと教えられています。聖絶されたものを自分のところも持ち込むというのは、神が葬ってくださった罪を、また掘り起こすこととを意味しています。そのようなことを行なえば、私たちの状態は初めのときよりも悪くなってしまうと、使徒ペテロは話しています(Ⅱペテロ2:20)。ですから、そのようなことがないように注意しなければなりません。

 

 このように、主は私たちをご自分の宝の民としてくださいました。それは私たちかに何か愛される資格があったからではなく、主がただ愛されたからでした。私たちに求められていることは、この主が与えてくださった定めとおきてを守り、心を尽くして、精神を尽くして、力を尽くして主を愛することです。それがすべてです。主はそのような者を祝福してくださいます。何も恐れてはなりません。なぜなら、全能の主があなたとともにおられるからです。私たちに必要なことは、ただこの主を愛し、主と共に歩むことなのです。この新しい一年がそのような一年でありますように。

申命記6章

きょうは、申命記6章から学びます。モーセは前の章から、イスラエルが約束の地に渡って行って、そこで彼らが行うためのおきてと定めを語っています。6章はその続きです。

 

1.聞きなさい。イスラエル(1-9

 

まず、1節から9節までをご覧ください。

「これは、あなたがたの神、主が、あなたがたに教えよと命じられた命令・・おきてと定め・・である。あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地で、行なうためである。それは、あなたの一生の間、あなたも、そしてあなたの子も孫も、あなたの神、主を恐れて、私の命じるすべての主のおきてと命令を守るため、またあなたが長く生きることのできるためである。イスラエルよ。聞いて、守り行ないなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたの父祖の神、主があなたに告げられたように、あなたは乳と蜜の流れる国で大いにふえよう。聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。

 

イスラエルが約束の地を所有してから、そこで、主が命令したおきてと定めと行うのは、彼らが一生の間、主を恐れて生き、長く生きることができるためです。それは彼らだけではありません。モーセも、また彼らの子も孫も、であります。主のおきてと定めは、後の世代の者たちに新しい啓示として語られることはなく、すでにモーセに与えられた神の律法によって生きることです。彼らはこれを子々孫々に伝えていかなければなりませんでした。

 

それは私たちも同じです。初代教会の信者たちは、使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、祈りをしていました(使徒2:42)。彼らは使徒たちによって教えられた教え、それは元々主によって教えられたことでありますが、それを堅く守らなければなりませんでした。

 

パウロ自身も手紙の中でこう言っています。「兄弟たち。堅く立って、私たちのことば、また手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。」(Ⅱテサロニケ2:15彼らはパウロのことば、使徒たちの教えを堅く守ることが求められたのです。ですから、私たちはこの使徒たちの教えに従っている者であり、イエス・キリストの福音の真理を継承している者たちなのです。何か新しい啓示が与えられたとか、今まで聞いたことがない魅力的な教えを聞いたというような、当時のアテネの人たちのように、新しいものを追い求めているクリスチャンがいますが、そのような新しいものはありません。聖書は既に完結しているのです。私たちはそこから神の真理を再発見し、その喜びの中で生きていかなければならないのです。私たちの役割は、ただ、神が語られた真理を継承させていくことだけです。

 

では、神が語られた真理とは何でしょうか。神のおきてと定めとは何でしょうか。4節と5節をご覧ください。

「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

この「聞きなさい」という言葉は申命記においてのキーワードであるということはお話しました。これは、「シェマ」と呼ばれているもので、ユダヤ人の信仰の柱になっている御言葉です。それは、主はただひとりであるということ、そしてこの主を心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして愛するということです。

 

まず、「主は私たちの神。主はただひとりである。」ということですが、これは、ユダヤ人が迫害されても、殺されても、決してゆずらなかった信仰です。唯一神の信仰ですね。主はただひとりであるということです。しかし、私たちが信じている神は一つは一つですが、その一つの神は三つの人格を持っておられる神であって、それが一つである神、三位一体の神です。それが聖書全体を貫いている教えです。それは、たとえば創世記11節や、126節をみればわかります。ではこの箇所はどうなのでしょうか。実は、ここも同じなのです。「主は私たちの神」の「神」は「エロヒーム」という複数形が使われているのです。そして、「ただひとり」という言葉も「エカド」という言葉ですが、これは複合単数形が使われているのです。複合単数形というのは、例えば「一本の手」と言うときに、手には5本の指がありますが、複合的に一つにされているわけです。そのような時に使われるのが複合単数形です。それは創世記1章1節と同じです。「初めに、神が天と地を創造された。」の「神」は複数形ですが、「創造された」は複合単数形です。ここと同じです。複数なのですが単数であめことを表しているわけです。つまり、これも三位一体を表していることばなのです。

 

次に、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」という言葉ですが、これは、前回学んだ十戒の要約です。イエス様は、ある律法の専門家から、律法の中で、大切ないましめはどれですか、と質問されたとき、この戒めを語られました(マタイ22:38)。もし主を愛するなら、主のおきてと定めに喜んで応答したいと思うでしょう。それはもう戒めではありません。愛と恵みの言葉以外の何ものでもありません。だから、神を愛すること、これが第一の戒めであり、

律法全体の要約なのです。また、あなたの隣人をあなた自身のように愛するという第二の戒めも大切です。律法全体と預言者とが、この二つにかかっているのです。

 

 それゆえ、私たちはこの主が命じる命令を心に刻まなければなりません。また、子どもたちによく教え、家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、これを唱えなければなりません。このことばを忘れないように、手に結び付け、記章として額の上に置かなければなりません。また、家の門柱と門に書きしるさなければならないのです。ユダヤ人は、これを文字通り実践しました。ですから、皆さんもご覧になられたことがあるでしょう。ユダヤ人の額にマッチ箱ほどの大きさの箱をくくりつけている写真を・・。それはこの箇所を忘れないようにと、額の上に置いたのです。

 

 これは、パウロのことばでいえば、「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ」ことです。(コロサイ3:16。イスラエル人はそれを忘れないようにあらゆることをしました。特に、彼らは、外側で主のみことばを刻みましたが、私たちはこれを、心に住まわせなければならないのです。エレミヤ31:3には、「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。」とあります。また、使徒ヨハネは、「あなたがたの場合、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それでだれからも教えを受ける必要がありません。」(Ⅰヨハネ2:27)」と言いました。ですから、聖霊ご自身が、神のみことばによって私たちに語りかけてくださるので、形式的にみことばを刻む必要はありません。聖霊ご自身がそのことばを解き明かしてくださるようにしていただくことが大切です。しかし、こうしたことのためにもみことばを心に刻むという努力は求められているのです。それが聖霊の油を注がれているクリスチャンのあり方なのです。

 

 2.あなたは気を付けて(10-19

 

次に10節から19節までをご覧ください。

「あなたの神、主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地にあなたを導き入れ、あなたが建てなかった、大きくて、すばらしい町々、あなたが満たさなかった、すべての良い物が満ちた家々、あなたが掘らなかった掘り井戸、あなたが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与え、あなたが食べて、満ち足りるとき、あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい。あなたの神、主を恐れなければならない。主に仕えなければならない。御名によって誓わなければならない。ほかの神々、あなたがたの回りにいる国々の民の神に従ってはならない。あなたのうちにおられるあなたの神、主は、ねたむ神であるから、あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、主があなたを地の面から根絶やしにされないようにしなさい。あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。あなたがたの神、主の命令、主が命じられたさとしとおきてを忠実に守らなければならない。主が正しい、また良いと見られることをしなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、主があなたの先祖たちに誓われたあの良い地を所有することができる。そうして、主が告げられたように、あなたの敵は、ことごとくあなたの前から追い払われる。」

 

次にモーセは、イスラエルが約束の地に入って行ったときに、陥りやすい過ちについて語っています。それは何でしょうか。12節をご覧ください。それは、「あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい」ということです。彼らが約束の地に入っていくとき、そこで多くの祝福を受けます。すべての良い物で満たされるのです。そのような祝福にあずかることはすばらしいことですが、そこに一つの危険もあるのです。それは、主を忘れてしまうということです。自分がどのようなところから救われてここまで来たのかを忘れ、あたかもそれを自分の力で成し得たかのような錯覚を抱き、自分で豊かになった、自分の行ないでこれだけのことができている、また自分はこのような祝福を受けるのに値するものだ、と思い違いをしやすいのです。そのような危険性があります。

 

かつて日本にも多くの救われた人たちがいました。フランシスコ・ザビエルが最初に日本にキリスト教を宣教したとき、明治維新によって新しい国が作られたとき、そして、戦後、敗戦の貧しさと苦しみの中で人々が真の幸福とは何か、人生の目的は何なのかを求めて教会にやって来た時です。ある教会の記録によると人々は波が押し寄せるかのように教会にやって来たとあります。どの教会も人、人、人で満ちあふれていました。入り切れないほどの人がやって来たのです。

ところが、高度経済成長を経て日本が豊かになると、今度は波が引くように、教会から人々が去って行ったとあります。いったい何が問題だったのでしょうか。いろいろな問題が複雑に絡み合っているためこれが問題だとは言い切れないところはありますが、その一つの要因がこれなのです。豊かになった。もう神に頼る必要がなくなったのです。人はどちらかというと物質的に豊かになると、それに反比例して霊的に貧しくなってしまいます。神への飢え渇きが起こりづらくなるのです。別に神に頼らなくてもやっていける、わざわざ教会に行く必要を感じないのです。それはまさに主がラオデキヤの教会に書き送ったことではないでしょうか。

 

黙示録3:14-22のところで、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らないラオデキヤの教会の人たちに、主は、目が見えるようになるために、目に塗る目薬を買いなさい、と言われました。熱くもなく、冷たくもない信仰ではなく、厚いか、冷たいかであってほしいというのです。なまぬるいものは吐き出すとまで言うのです。

 

これはいつの時代でも同じです。人は豊かになると主を忘れてしまうという過ちに陥りやすくなるのです。だから、気を付けなければなりません。あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなければならないのです。ただ主を恐れなければなりません。主に仕え、御名によって誓わなければならないのです。ほかの神々、神以外のものに仕えてはなりません。

 

なぜですか?なぜなら、主は、ねたむ神であられるからです。主を忘れ、主以外のものに走っていくなら、主はあなたをねたみ、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、主があなたを地の表から根絶やしにされるのです。何ですか、ねたむというのは?皆さん、私たちの神はねたむ神なのです。それはちょうど夫婦のようです。夫婦であれば、一方が他の対象に向かっていけばねたみます。それは愛しているからです。相手がどうでもよければそのような感情は起こらないでしょうが、愛によって結ばれた夫婦ならば、それは当然にして起こってくる感情なんのです。神とイスラエルの関係も同じです。神は彼らをエジプトの奴隷の中から救い出されたお方で、神の民とされたのです。にもかかわらず、彼らが別の神に走って行くことがあるとしたら、そこには当然妬みが起こるのではないでしょうか。それはイスラエルだけでなく、私たちにも言えることです。私たちも主の愛によって罪という奴隷から救われました。主イエスの十字架の贖いによって買い戻されました。私たちは主のものなのです。そんな私たちが主から離れることがあるとしたら、どれほど主が悲しまれることでしょうか。

 

だから、主が命じられた教えとさとしを忠実に守らなければならないのです。彼らがマサで主を試みたように、主を試みてはならないのです。マサで試みとは、水がなく、主につぶやいたときの試みです。モーセが岩を杖でたたいたことによって水が出てきました。祝福が主を忘れさせてしまうように、試練も主を忘れさせてしまいます。試練の中にいるとき、私たちは苦々しくなって、不平を鳴らしてしまうからです。しかし、そうであってはならないとモーセは戒めています。

 

3.あなたの息子が尋ねるとき(20-25

 

次に20節から25節までをご覧ください。

「後になって、あなたの息子があなたに尋ねて、「私たちの神、主が、あなたがたに命じられた、このさとしとおきてと定めとは、どういうことか。」と言うなら、あなたは自分の息子にこう言いなさい。「私たちはエジプトでパロの奴隷であったが、主が力強い御手をもって、私たちをエジプトから連れ出された。主は私たちの目の前で、エジプトに対し、パロとその全家族に対して大きくてむごいしるしと不思議とを行ない、私たちをそこから連れ出された。それは私たちの先祖たちに誓われた地に、私たちをはいらせて、その地を私たちに与えるためであった。それで、主は、私たちがこのすべてのおきてを行ない、私たちの神、主を恐れるように命じられた。それは、今日のように、いつまでも私たちがしあわせであり、生き残るためである。私たちの神、主が命じられたように、御前でこのすべての命令を守り行なうことは、私たちの義となるのである。」

 

ここでモーセは再び、子どもに教えることを命じています。子どもは、いろいろな場面で親に質問します。「なんで?」。昨日も孫が泊まりました、その話が止まりませんでした。「グランパ、これ何?」「あれは?」次から次に質問が出てきます。そして、もう大きくなると、おそらくこういう質問が出てくるでしょう。「主が命じられた、このさとしとおきてと定めとは、どういうことか・・?」そのとき、どう答えたらいいのでしょうか。

 

そして、そのときにはまず、イスラエルの先祖がどういう状態であったかを話さなければなりません。すなわち、彼らはエジプトで奴隷の状態であったということです。しかし、そのような状態から、主が力強い御手をもって、彼らをエジプトから連れ出されました。どのような御手があったのでしょうか。主は彼らの目の前で、エジプトに対して、パロとその全家族に対して大きくてむごいしるしと不思議とを行ってくださいました。そのようにして、彼らを先祖たちに誓われた地へと導いてくださったのです。それは、私たちがこのおきてを守り、いつまでも主を恐れるためです。そして、今日のように、いつまでも自分たちが幸せに、生きるためなのです。だから、主が命じられた命令を守り行うことは、私たちの義となるのです。イスラエルにとって出エジプトが、彼らの新しい生活の出発点であったのです。そして、それをいつまでも忘れないために、彼らは過ぎ越しの祭りを行います。ただ口伝で伝えるだけではありません。それがどのようなものであったのかを、いつも体験として覚えようと努めたのです。

 

それは私たちも同じです。キリストの十字架と復活のみわざからすべてが始まります。そのことを忘れないように聖餐式を行うのです。そして、それをただ忘れないというだけでなく、私たちにはさらにこれを宣べ伝えていくという使命がゆだねられています。その起点となるのがイエス・キリストの十字架の贖いであり、十字架と復活によって成し遂げられた救いの御業なのです。自分たちがいかに罪の中にあえいでいた者であったのか、しかし、そのような中から神が救い出してくださいました。圧倒的なしるしと不思議をもって導き出してくださいました。そのことを伝えていかなければならないのです。

 

きょうは今年最後の祈祷会なりましたが、この一年の終わりもキリストの十字架の贖いの恵みにとどまり、新しい年もこの恵みで始まっていく者でありたいと思います。

申命記5章

きょうは、申命記5章から学びます。 モーセはこれまで、エジプトから出てモアブの地に至るまでの経緯を話しましたが、ここからは具体的に、守るべき、おきてと定めを話し始めます。

 

1.おきてと定めとを守らなければならない(1-5

 

まず、1節から5節までをご覧ください。

「さて、モーセはイスラエル人をみな呼び寄せて彼らに言った。聞きなさい。イスラエルよ。きょう、私があなたがたの耳に語るおきてと定めとを。これを学び、守り行ないなさい。私たちの神、主は、ホレブで私たちと契約を結ばれた。主が、この契約を結ばれたのは、私たちの先祖たちとではなく、きょう、ここに生きている私たちひとりひとりと、結ばれたのである。主はあの山で、火の中からあなたがたに顔と顔とを合わせて語られた。そのとき、私は主とあなたがたとの間に立ち、主のことばをあなたがたに告げた。あなたがたが火を恐れて、山に登らなかったからである。主は仰せられた。」

 

モーセは再び、イスラエルの民を集めて語ります。「聞きなさい」ということばは、この申命記のキーワードの一つです。それだけ重要な内容であるということです。「きょう、私があなたがたの耳に語るおきてと定めとを。これを学び、守り行ないなさい。」と。その内容は、かつて彼らがホレブにいたとき、そこで神と結ばれた契約についてです。主はあの山で、火の中から彼らと顔と顔とを合わせて語られました。これは、主がイスラエルに個人的に語られたということです。主がいかにイスラエルの民を愛し、この民と婚姻関係のような、一体化した結びつきを持ちたいかを表しているのです。主は、私たちに対しても、個人的にお語りになりたいと願われています。私たちは、個人的に語られる神の御声を聞くことによって、神との関係を持つことができるのです。

 

2.主のおきてと定め(6-21

 

次に6節から21節までをご覧ください。

「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。安息日を守って、これを聖なる日とせよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。・・あなたも、あなたの息子、娘も、あなたの男奴隷や女奴隷も、あなたの牛、ろばも、あなたのどんな家畜も、またあなたの町囲みのうちにいる在留異国人も。・・そうすれば、あなたの男奴隷も、女奴隷も、あなたと同じように休むことができる。あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。あなたの隣人に対し、偽証してはならない。あなたの隣人の妻を欲しがってはならない。あなたの隣人の家、畑、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」

 

モーセはこれから、十戒について語りますが、その前提になっているのは、主がイスラエルをエジプト贖い出されたお方であるという事実です。律法が与えられたのは、それを行なって救われるためではなく、エジプトから救われ、贖われた者だから、その贖ってくださった方の命令として行うのです。だから、罪が贖われた者でなければ、本当の意味で神の律法を行うことはできません。この戒めのベースにあるのは愛なのです。

 

先日、近藤先生ご夫妻とお話している中で、よくクリスチャンが日曜日教会に行かなければならないのは束縛されるようで嫌だということを聞くけれども、自分はそういうことがなかったので、そういう人の気持ちが理解できないとおっしゃっておられました。神に罪が救われた喜びで日曜日は教会に行きたくて、行きたくてしょうがなかったというのです。それはここで言っていることです。これから語られる戒めは決していやいやながら、強制されてするのではなく、主によって罪が贖われた者だから喜んで応答したいのです。

 

では、その内容を見ていきましょう。まず神の律法の第一の戒めは、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。」です。主のみを神とし、他のものを神としてはいけないということです。これは単に木や石で作った神を神としてはいけないというだけでなく、神以外のものを神の位置に置いてはいけないということを意味しています。神以外に自分の仕事や家庭を、神以外に自分自身を置いてはいけないのです。それらを拝んでもなりません。仕えてもなりません。ただ神だけを礼拝し、神にだけ仕えなければならないのです。

 

12節から15節までには、安息日を守るように言われています。安息日とは、主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたので、この日を聖なる日とするように定められたものです。ところが、申命記には、スラエルの民がエジプトの地で奴隷であったが、神が力強い御手をもって、彼らを導き出されたので、そのことを覚えるために、この日を安息日として守るようにと定められています。つまり、モーセは今、新しい世代のイスラエルに、主がエジプトから導き出されたことを起点にして、その生活を営むように指導しているのです。

 

 ここに、安息日とは何なのか、その意義を見出すことができます。それは、まぎれもなく、主のみわざが行なわれ、完成したので安息する、という意義です。主が天地を創造されたとき、その創造のみわざは完成し、七日目に休まれました。これは創造のわざからの安息です。そして、イスラエルがエジプトの奴隷状態から贖い出されましたが、これは主の救いのみわざの完成です。主は救いのみわざを終えられたので、安息されたのです。つまり、救いのみわざからの安息です。このように主のみわざが完成したところに憩い、とどまることが、安息日の意義なのです。それは主イエスによってもたらされた安息を指し示しています。主イエスは十字架の上で、「テテレスタイ」(完了した)と言われました。また三日目に死人の中からよみがえられたことによって、全人類を罪から救い出す神のみわざが完成したのです。ですから、私たちはこの主イエスのみわざの中に憩うことができるのです。つまり、私たちはいつでも、主イエス・キリストにあって真の安息を持つことができるのです。であれば、この安息日の規定はもはや律法ではありません。私たちを罪から贖い出して救いのみわざを成し遂げてくださった主の中に安息を得ているという喜びをもって、主の日に集まることは当然のことではないでしょうか。

 

そして次に、あなたの父と母を敬え。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。あなたの隣人に対し、偽証してはならない。あなたの隣人の妻を欲しがってはならない。あなたの隣人の家、畑、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。と続きます。

ここで出エジプト記の記述と若干違う点は、最後の「隣人の妻を欲しがってはならない」です。出エジプト記には「あなたの隣人の家をほしがってはならない。」とあり、その後に、「隣人の妻・・・」と続きますが、ここには、あなたの隣人の妻をとあって、家のことに関する記述はありません。いったいなぜでしょうか。おそらく、この後の7章に異邦人の妻のことが語られているので、そのことを意識していたからでしょう。イスラエルが約束の地に入ったときには、その地の住民を聖絶しなければなりませんでした。彼らと縁を結んではならなかったのです。それゆえ、イスラエルの隣人の妻を欲しがってはならなかったのです。ですから、この隣人の妻というのは単に隣人の妻というだけでなく、異邦人の妻のことも含んで語られていたのです。

 

3.主の御声を聞き続ける(22-27

 

次に22節から27節までをご覧ください。

「これらのことばを、主はあの山で、火と雲と暗やみの中から、あなたがたの全集会に、大きな声で告げられた。このほかのことは言われなかった。主はそれを二枚の石の板に書いて、私に授けられた。あなたがたが、暗黒の中からのその御声を聞き、またその山が火で燃えていたときに、あなたがた、すなわちあなたがたの部族のすべてのかしらたちと長老たちとは、私のもとに近寄って来た。そして言った。「私たちの神、主は、今、ご自身の栄光と偉大さとを私たちに示されました。私たちは火の中から御声を聞きました。きょう、私たちは、神が人に語られても、人が生きることができるのを見ました。今、私たちはなぜ死ななければならないのでしょうか。この大きい火が私たちをなめ尽くそうとしています。もし、この上なお私たちの神、主の声を聞くならば、私たちは死ななければなりません。いったい肉を持つ者で、私たちのように、火の中から語られる生ける神の声を聞いて、なお生きている者がありましょうか。あなたが近づいて行き、私たちの神、主が仰せになることをみな聞き、私たちの神、主があなたにお告げになることをみな、私たちに告げてくださいますように。私たちは聞いて、行ないます。」 

 

これらの戒めを、主はあのホレブの山で、火と雲と暗やみの中から、イスラエル全会衆に、大きな声で語られました。そして、それを二枚の石の板に書いて、モーセに授けられました。イスラエルの部族のすべてのかしらと長老たちとは、それを聞いてモーセのところに来て言いました。「私たちは火の中から御声を聞きました。」と。主の御声を聞いてもなお生きているとは考えられないことでしたが、彼らはそのようにして主と顔と顔とを合わせて、主の御声を聞いたにもかかわらず、滅ぼされることはありませんでした。これはすごいことです。天地万物を創造された大いなる神が、自分たちに個人的に直接、語られることなど、あまりにも信じがたいことだったのです。それで彼らは、主がモーセに告げられることばはみな聞いて、行いますと言いました。

 

28節から33節までです。

「主はあなたがたが私に話していたとき、あなたがたのことばの声を聞かれて、主は私に仰せられた。「わたしはこの民があなたに話していることばの声を聞いた。彼らの言ったことは、みな、もっともである。どうか、彼らの心がこのようであって、いつまでも、わたしを恐れ、わたしのすべての命令を守るように。そうして、彼らも、その子孫も、永久にしあわせになるように。さあ、彼らに、『あなたがたは、自分の天幕に帰りなさい。』と言え。しかし、あなたは、わたしとともにここにとどまれ。わたしは、あなたが彼らに教えるすべての命令・・おきてと定め・・を、あなたに告げよう。彼らは、わたしが与えて所有させようとしているその地で、それを行なうのだ。」あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに守り行ないなさい。右にも左にもそれてはならない。あなたがたの神、主が命じられたすべての道を歩まなければならない。あなたがたが生き、しあわせになり、あなたがたが所有する地で、長く生きるためである。」

 

主は、イスラエルの決意をとても喜ばれました。そして、彼らの心がいつもこのようであって、いつまでも、主を恐れ、主のすべての命令を守るように、と仰せになられました。この時だけでなく、いつもこのようであるように、いつまでもこのようであるようにというのが、主の願いだったのです。私たちはある時主の御声を聞いて「アーメン」と言って従いますが、しばらく経つとその気持ちがいつしか失せてしまい、自分の思いが優先してしまうことがあります。そうではなくて、いつも、いつまでも、主に聞き従わなければなりません。そのためにはどうしたらいいのでしょうか。主の御声を聞き続けることです。主と顔と顔とを合わせてその御声を聞き、主をおそれることが求められます。そのことによってイスラエルは主との結びつきが始まりました。個人的に語られることなしに主と関係は持つことはできないし、またイスラエルも、主を恐れおののいて、その御声に聞き従うことなくして、神との関係を保つことはできません。私たちの信仰生活の土台は、この主との生ける結びつき以外にはないのです。

 

あのザアカイもそうでした。主がエリコの町にやって来られたとき、ザアカイはいちじく桑の木に登りました。そのザアカイに向かってイエスは御顔を向け、個人的に語られました。主がホレブでイスラエルに対してなされたようにです。すると彼は、自分の財産の半分を貧しい人に渡し、だまし取った物は四倍にして返す、と言ったのです(ルカ19:1-10)。いったいなぜ彼はそのように言ったのでしょうか。それは、彼がイエスの御声を聞き、イエスの聖さにふれて、自分の汚れが明らかになり、悔い改めたからです。彼はイエスと個人的な関係を持つことができたのです。そして、このように主と個人的な関係を持つとき、私たちは変えられていきます。聖なる主にお会いすることは恐れも伴いますが、そのような個人的な主との関係が、私たちをご自身へと近づけていくのです。

 

しかしモ―セに対して主は、「あなたは、わたしとともにここにとどまれ。」と言われました。この十戒の他にもイスラエルに教えなければならない、おきてと定めとを告げるためです。そして、これらをイスラエルが所有する土地で守り行なうようにと命じなければなりません。なぜでしょうか。それは彼らが生き、しあわせになるためです。私たちは主のおきとさだめを守ることが、そこから右にも左にもそれないで、その道を歩み続けることが、私たちの幸せとなり、私たちが生きる道でもあるのです。

きょうは、申命記5章から学びます。 モーセはこれまで、エジプトから出てモアブの地に至るまでの経緯を話しましたが、ここからは具体的に、守るべき、おきてと定めを話し始めます。

 

1.おきてと定めとを守らなければならない(1-5

 

まず、1節から5節までをご覧ください。

「さて、モーセはイスラエル人をみな呼び寄せて彼らに言った。聞きなさい。イスラエルよ。きょう、私があなたがたの耳に語るおきてと定めとを。これを学び、守り行ないなさい。私たちの神、主は、ホレブで私たちと契約を結ばれた。主が、この契約を結ばれたのは、私たちの先祖たちとではなく、きょう、ここに生きている私たちひとりひとりと、結ばれたのである。主はあの山で、火の中からあなたがたに顔と顔とを合わせて語られた。そのとき、私は主とあなたがたとの間に立ち、主のことばをあなたがたに告げた。あなたがたが火を恐れて、山に登らなかったからである。主は仰せられた。」

 

モーセは再び、イスラエルの民を集めて語ります。「聞きなさい」ということばは、この申命記のキーワードの一つです。それだけ重要な内容であるということです。「きょう、私があなたがたの耳に語るおきてと定めとを。これを学び、守り行ないなさい。」と。その内容は、かつて彼らがホレブにいたとき、そこで神と結ばれた契約についてです。主はあの山で、火の中から彼らと顔と顔とを合わせて語られました。これは、主がイスラエルに個人的に語られたということです。主がいかにイスラエルの民を愛し、この民と婚姻関係のような、一体化した結びつきを持ちたいかを表しているのです。主は、私たちに対しても、個人的にお語りになりたいと願われています。私たちは、個人的に語られる神の御声を聞くことによって、神との関係を持つことができるのです。

 

2.主のおきてと定め(6-21

 

次に6節から21節までをご覧ください。

「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。安息日を守って、これを聖なる日とせよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。・・あなたも、あなたの息子、娘も、あなたの男奴隷や女奴隷も、あなたの牛、ろばも、あなたのどんな家畜も、またあなたの町囲みのうちにいる在留異国人も。・・そうすれば、あなたの男奴隷も、女奴隷も、あなたと同じように休むことができる。あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。あなたの隣人に対し、偽証してはならない。あなたの隣人の妻を欲しがってはならない。あなたの隣人の家、畑、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」

 

モーセはこれから、十戒について語りますが、その前提になっているのは、主がイスラエルをエジプト贖い出されたお方であるという事実です。律法が与えられたのは、それを行なって救われるためではなく、エジプトから救われ、贖われた者だから、その贖ってくださった方の命令として行うのです。だから、罪が贖われた者でなければ、本当の意味で神の律法を行うことはできません。この戒めのベースにあるのは愛なのです。

 

先日、近藤先生ご夫妻とお話している中で、よくクリスチャンが日曜日教会に行かなければならないのは束縛されるようで嫌だということを聞くけれども、自分はそういうことがなかったので、そういう人の気持ちが理解できないとおっしゃっておられました。神に罪が救われた喜びで日曜日は教会に行きたくて、行きたくてしょうがなかったというのです。それはここで言っていることです。これから語られる戒めは決していやいやながら、強制されてするのではなく、主によって罪が贖われた者だから喜んで応答したいのです。

 

では、その内容を見ていきましょう。まず神の律法の第一の戒めは、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。」です。主のみを神とし、他のものを神としてはいけないということです。これは単に木や石で作った神を神としてはいけないというだけでなく、神以外のものを神の位置に置いてはいけないということを意味しています。神以外に自分の仕事や家庭を、神以外に自分自身を置いてはいけないのです。それらを拝んでもなりません。仕えてもなりません。ただ神だけを礼拝し、神にだけ仕えなければならないのです。

 

12節から15節までには、安息日を守るように言われています。安息日とは、主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたので、この日を聖なる日とするように定められたものです。ところが、申命記には、スラエルの民がエジプトの地で奴隷であったが、神が力強い御手をもって、彼らを導き出されたので、そのことを覚えるために、この日を安息日として守るようにと定められています。つまり、モーセは今、新しい世代のイスラエルに、主がエジプトから導き出されたことを起点にして、その生活を営むように指導しているのです。

 

 ここに、安息日とは何なのか、その意義を見出すことができます。それは、まぎれもなく、主のみわざが行なわれ、完成したので安息する、という意義です。主が天地を創造されたとき、その創造のみわざは完成し、七日目に休まれました。これは創造のわざからの安息です。そして、イスラエルがエジプトの奴隷状態から贖い出されましたが、これは主の救いのみわざの完成です。主は救いのみわざを終えられたので、安息されたのです。つまり、救いのみわざからの安息です。このように主のみわざが完成したところに憩い、とどまることが、安息日の意義なのです。それは主イエスによってもたらされた安息を指し示しています。主イエスは十字架の上で、「テテレスタイ」(完了した)と言われました。また三日目に死人の中からよみがえられたことによって、全人類を罪から救い出す神のみわざが完成したのです。ですから、私たちはこの主イエスのみわざの中に憩うことができるのです。つまり、私たちはいつでも、主イエス・キリストにあって真の安息を持つことができるのです。であれば、この安息日の規定はもはや律法ではありません。私たちを罪から贖い出して救いのみわざを成し遂げてくださった主の中に安息を得ているという喜びをもって、主の日に集まることは当然のことではないでしょうか。

 

そして次に、あなたの父と母を敬え。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。あなたの隣人に対し、偽証してはならない。あなたの隣人の妻を欲しがってはならない。あなたの隣人の家、畑、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。と続きます。

ここで出エジプト記の記述と若干違う点は、最後の「隣人の妻を欲しがってはならない」です。出エジプト記には「あなたの隣人の家をほしがってはならない。」とあり、その後に、「隣人の妻・・・」と続きますが、ここには、あなたの隣人の妻をとあって、家のことに関する記述はありません。いったいなぜでしょうか。おそらく、この後の7章に異邦人の妻のことが語られているので、そのことを意識していたからでしょう。イスラエルが約束の地に入ったときには、その地の住民を聖絶しなければなりませんでした。彼らと縁を結んではならなかったのです。それゆえ、イスラエルの隣人の妻を欲しがってはならなかったのです。ですから、この隣人の妻というのは単に隣人の妻というだけでなく、異邦人の妻のことも含んで語られていたのです。

 

3.主の御声を聞き続ける(22-27

 

次に22節から27節までをご覧ください。

「これらのことばを、主はあの山で、火と雲と暗やみの中から、あなたがたの全集会に、大きな声で告げられた。このほかのことは言われなかった。主はそれを二枚の石の板に書いて、私に授けられた。あなたがたが、暗黒の中からのその御声を聞き、またその山が火で燃えていたときに、あなたがた、すなわちあなたがたの部族のすべてのかしらたちと長老たちとは、私のもとに近寄って来た。そして言った。「私たちの神、主は、今、ご自身の栄光と偉大さとを私たちに示されました。私たちは火の中から御声を聞きました。きょう、私たちは、神が人に語られても、人が生きることができるのを見ました。今、私たちはなぜ死ななければならないのでしょうか。この大きい火が私たちをなめ尽くそうとしています。もし、この上なお私たちの神、主の声を聞くならば、私たちは死ななければなりません。いったい肉を持つ者で、私たちのように、火の中から語られる生ける神の声を聞いて、なお生きている者がありましょうか。あなたが近づいて行き、私たちの神、主が仰せになることをみな聞き、私たちの神、主があなたにお告げになることをみな、私たちに告げてくださいますように。私たちは聞いて、行ないます。」 

 

これらの戒めを、主はあのホレブの山で、火と雲と暗やみの中から、イスラエル全会衆に、大きな声で語られました。そして、それを二枚の石の板に書いて、モーセに授けられました。イスラエルの部族のすべてのかしらと長老たちとは、それを聞いてモーセのところに来て言いました。「私たちは火の中から御声を聞きました。」と。主の御声を聞いてもなお生きているとは考えられないことでしたが、彼らはそのようにして主と顔と顔とを合わせて、主の御声を聞いたにもかかわらず、滅ぼされることはありませんでした。これはすごいことです。天地万物を創造された大いなる神が、自分たちに個人的に直接、語られることなど、あまりにも信じがたいことだったのです。それで彼らは、主がモーセに告げられることばはみな聞いて、行いますと言いました。

 

28節から33節までです。

「主はあなたがたが私に話していたとき、あなたがたのことばの声を聞かれて、主は私に仰せられた。「わたしはこの民があなたに話していることばの声を聞いた。彼らの言ったことは、みな、もっともである。どうか、彼らの心がこのようであって、いつまでも、わたしを恐れ、わたしのすべての命令を守るように。そうして、彼らも、その子孫も、永久にしあわせになるように。さあ、彼らに、『あなたがたは、自分の天幕に帰りなさい。』と言え。しかし、あなたは、わたしとともにここにとどまれ。わたしは、あなたが彼らに教えるすべての命令・・おきてと定め・・を、あなたに告げよう。彼らは、わたしが与えて所有させようとしているその地で、それを行なうのだ。」あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに守り行ないなさい。右にも左にもそれてはならない。あなたがたの神、主が命じられたすべての道を歩まなければならない。あなたがたが生き、しあわせになり、あなたがたが所有する地で、長く生きるためである。」

 

主は、イスラエルの決意をとても喜ばれました。そして、彼らの心がいつもこのようであって、いつまでも、主を恐れ、主のすべての命令を守るように、と仰せになられました。この時だけでなく、いつもこのようであるように、いつまでもこのようであるようにというのが、主の願いだったのです。私たちはある時主の御声を聞いて「アーメン」と言って従いますが、しばらく経つとその気持ちがいつしか失せてしまい、自分の思いが優先してしまうことがあります。そうではなくて、いつも、いつまでも、主に聞き従わなければなりません。そのためにはどうしたらいいのでしょうか。主の御声を聞き続けることです。主と顔と顔とを合わせてその御声を聞き、主をおそれることが求められます。そのことによってイスラエルは主との結びつきが始まりました。個人的に語られることなしに主と関係は持つことはできないし、またイスラエルも、主を恐れおののいて、その御声に聞き従うことなくして、神との関係を保つことはできません。私たちの信仰生活の土台は、この主との生ける結びつき以外にはないのです。

 

あのザアカイもそうでした。主がエリコの町にやって来られたとき、ザアカイはいちじく桑の木に登りました。そのザアカイに向かってイエスは御顔を向け、個人的に語られました。主がホレブでイスラエルに対してなされたようにです。すると彼は、自分の財産の半分を貧しい人に渡し、だまし取った物は四倍にして返す、と言ったのです(ルカ19:1-10)。いったいなぜ彼はそのように言ったのでしょうか。それは、彼がイエスの御声を聞き、イエスの聖さにふれて、自分の汚れが明らかになり、悔い改めたからです。彼はイエスと個人的な関係を持つことができたのです。そして、このように主と個人的な関係を持つとき、私たちは変えられていきます。聖なる主にお会いすることは恐れも伴いますが、そのような個人的な主との関係が、私たちをご自身へと近づけていくのです。

 

しかしモ―セに対して主は、「あなたは、わたしとともにここにとどまれ。」と言われました。この十戒の他にもイスラエルに教えなければならない、おきてと定めとを告げるためです。そして、これらをイスラエルが所有する土地で守り行なうようにと命じなければなりません。なぜでしょうか。それは彼らが生き、しあわせになるためです。私たちは主のおきとさだめを守ることが、そこから右にも左にもそれないで、その道を歩み続けることが、私たちの幸せとなり、私たちが生きる道でもあるのです。