ヨハネの福音書5章1~18節「ベテスダと呼ばれる池で」

ヨハネの福音書から学んでおりますが、きょうから5章に入ります。きょうは、イエス様がベテスダと呼ばれる池で38年間も病気で横になっていた人をいやされた出来事から学びたいと思います。

 

Ⅰ.良くなりたいか(1-9a)

 

まず1節から9節前半までをご覧ください。

「その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。」

 

1節には、「その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。」とあります。この「ユダヤ人の祭り」が何の祭りであったのかはわかりません。しかし、ユダヤ人が「祭り」という場合、それは過越しの祭りを意味していたので、おそらく過越しの祭りであったと考えられます。もしそうであったとすれば、イエス様が公生涯に入られてエルサレム上られたにのは、これが2回目となります。4章54節に、「イエスはユダヤを去ってガリラヤに来てから、これを第二のしるしとして行われた。」とありますが、最初にエルサレムからガリラヤに来られ、第二のしるしとして王室の役人の息子を癒されました。その後、イエスは再びこのユダヤ人の祭りがあって、エルサレムに上られたのです。

 

エルサレムには、羊の門の近くに、へブル語でベテスダと呼ばれる池がありました。「ベテスダ」とは「あわれみの家」という意味です。その池には五つの回廊がついていました。回廊とは、建物や中庭を囲むように巡らされた屋根付き廊下のことです。このベテスダの池にはその回廊が五つついていました。そしてそこに病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだが麻痺している人たちが大勢、横になっていました。なぜなら、その池の水が時々動き、その時に、真っ先にこの池に入った人は、どのような病気でもいやされる、という言い伝えがあったからです。

 

きょうの聖書の箇所を見ると、4節が抜けているのに気付いた方おられるかと思いますが、下の脚注を見ると、異本に3節後半と4節として、次の一部または全部を加えるものもあるとして、そのことが説明されてあります。つまり、「彼らは水が動くのを待っていた。4 それは、主の使いが時々この池に降りて来てみずを動かすのだが、水が動かされてから最初に入った者が、どのような病気にかかっている者でも癒されたからである。」ということです。この箇所は、多くの有力な写本には載っていないので、本文には含まれていませんが、当時、このような噂が広がっていたのでしょう。「溺れる者わらをもつかむ」ということわざがありますが、大勢の病人が一縷(いちる)の望みを置いて、そこにやって来ていたのです。

 

そこに、38年も病気にかかっている人がいました。彼の病気がどのような病気だったのかはわかりませんが、7節で、彼が、「水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」と言っているのを見ると、からだの機能が麻痺する病気だったのではないかと思います。それにしても38年ですよ。38年といったら本当に長い年月です。それは人生の半分、否、人生のほとんどと言っても過言ではないでしょう。彼はその期間を病気のために費やしてきたのです。そして今、神のあわれみを求めてここにいたのです。

 

そこにイエス様が来られると、イエス様は彼が横になっているのを見て、すでにそれが長い間そうしていることを知って、何と言われたでしょうか。イエス様は、「良くなりたいか」と言われました。「良くなりたいか」って、良くなりたいからここにいるのではないですか。病人ならだれでも良くなりたいと思うのは当然のことです。そんなことを言うとはちょっと失礼ではないかとさえ感じます。ではなぜイエス様はこのように言われたのでしょうか。それは、その後の彼の答えを見るとわかります。

 

7節を見ると、彼は「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」と答えています。この病人はイエス様から「良くなりたいか」と言われたとき、「はい、良くなりたいです。」と答えませんでした。彼は良くなりたいと答えたのではなく、どうして良くなれないのかの理由を述べただけでした。すなわち、水がかき回されたとき、池の中に自分を入れてくれる人がいないということ、そして、行きかけると、もうほかの人が先に下りて行くということでした。つまり、彼は最初からあきらめていたのです。病気がいやされることなどありえないし、そんなことは無理だ、と思っていました。ですから、イエス様はこの病人に「良くなりたいのか」と言われたのです。それは、本当に良くなりたいと思っているのか、そのことを本気で願っているのかということです。彼がイエス様から「良くなりたいか」と言われたとき、「もちろん、そうです」とすぐに答えることができなかったのは、そのような思いが、とっくの昔に失せていたからなのです。たとえそのような気持ちがあったとしても、「このままでいた方が楽だ」という思いが彼のどこかにあったかもしれません。このまま病気でいた方が人々から施しを受けながら生きていくことができるけれども、もし治ってしまったら、今度は自分の力で生きていかなければならない。病気以外の様々な問題に直面することもあるだろう。ですから、病気が治ることで生活が変わることに少なからず不安があったのです。それで、無意識のうちに「自分には無理だ」、「誰も助けてくれないから」ということを口実に、そのままの状態にとどまっていようとしたのです。

 

しかし、それはこの病人だけではありません。それは、私たちにも言えることです。たとえば、今の生活を変えたいと思っていても本当に変えたいのかというとそうではなく、「どうせ無理ですよ」「解決することなんてできるはずがない」と半ばあきらめていることということがあるのではないでしょうか。あるいは、良くはなりたいけれども、「このままでいた方が楽だ」という思いが、良くなりたいという思いにブレーキをかけていることがあるのです。

 

武庫之荘福音自由教会の大橋秀夫先生は、これをサーカスの象にたとえました。ある動物園の象の鎖が解けたというニュースを聞きました。幼稚園の園児が動物園に遠足に行って、その象さんを見たときに、重い鎖でつながれていました。しかも、その鎖は1.5mぐらいしかありませんでした。それで幼稚園の子どもたちが帰ってから、園長先生に、「象さんかわいそう」という手紙を書いたのです。動物園の方ではそれで数千万円の予算を割いて園舎を改造し、象の鎖を解いてあげたというわけです。

そのニュースを聞いた大橋秀夫先生は、一つのことを思い出しました。それはサーカスの象のことです。サーカスの象も鎖につながれているのですが、動物園の象と違って、コンクリートで固められた杭につながれていません。なぜならば、サーカスの象は、旅から旅へと移動するので、たいがいは、象の力ならば簡単に抜けてしまうような木の杭とか、鉄の杭につながれているだけなのです。それなのに、サーカスの象は、なぜ逃げないのでしょうか。その答えはこうです。子どもの時に、子どもの時の象なので、小象の時ですね。その小象の時から絶対に抜けないような鎖につながれているんです。そうすると、大きくなっても、この鎖を結んだ杭は抜けない、と思ってあきらめてしまうのだそうです。これが象の飼育係のコツなのでしょうか。一回でも抜くことに成功すると、これは抜けると思ってしまうんだそうです。ですから、小象の時に絶対に抜けない杭につないでおくのです。(「成長する人、しない人」P31~32)

 

私たちも、この象と同じように、自分の中に「できない」という思いが働いて、最初からあきらめていることがでるのではないでしょうか。イエス様はそんな私たちに「良くなりたいか」と問うておられます。私たちは、もっと良くなりたいと思っています。しかし、そこに「でも」という言葉が続くのです。「でも、私は受験に失敗した」「でも私にはそんな能力なんてない」「結婚生活もうまくいかなかった」と、自分で自分に鎖をかけてしまうことがあるのです。あのサーカスの象のように。

 

しかし、イエス様はこの鎖を解き放つことができます。大切なのは、私たちが本気で良くなりたいと願うかどうかです。イエス様は、私たちが求めていないのに無理矢理何かをすることはなさいません。イエス様は、まず私たちが自分の状態を知り、そこから解放されることを本当に求めているかどうかに気づかせることによって、生き生きした人生を歩ませようにされるのです。

 

この病人の場合はどうだったでしょうか。8節と9節をご覧ください。

「イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。」

 

「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」と答えた病人に対して、イエス様は、「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」と命じられました。すると、その人はどうなったでしょうか。その人はすぐに治って、床を取り上げて歩き出すことができました。象の鎖が引きちぎれた瞬間です。彼は38年間も自分を縛っていた問題から解放されたのです。

 

しかし、このところをよく見ると、彼がいやされるために、彼がイエス様を信じたということは一言も書かれていません。確かに、彼はイエス様のことばに応答して自分の足に力を入れて歩き出すことができたのでしょうが、そのためにイエス様を信じたといったことは全く書かれていないのです。それがイエス様であることすらわかりませんでした。それがイエス様であると分かったのは、後で彼が宮に行って、再びイエス様と出会った時です。それまではわかりませんでした。これはどういうことでしょうか。

 

これは、ヨハネが記す7つのしるしの第三番目のしるしです。「しるし」とは証拠としての奇跡のことです。イエス様がメシヤであることをユダヤ人たちに証明するためのものです。この「しるし」においては、その人に信仰があるかどうかは問われないということです。むしろ治してくださった方がどのような方であるのかが重要です。ですから、ここには彼がどれだけイエス様を信じたかということよりも、イエス様が彼をどのようにいやされたのかに力点が置かれているのです。すなわち、このいやしにおいては、徹頭徹尾、イエス様が主導権を握っておられたということです。イエス様の方からベテスダと呼ばれる池に行かれ、イエス様の方から38年も病気にかかっておられる人をご覧になら、イエス様の方から近づいて行かれました。そして、イエス様の方から「良くなりたいか」と言われたのです。彼は自分にはできない理由をいろいろ並べましたが、それでもイエス様はあわれみをもって「床を取り上げて歩きなさい」と言って彼をいやされました。そうです、すべてはイエス様の一方的なあわれみによるのです。この池が「ベテスダ」という名前であったのもそのためです。「ベテスタ」とは「あわれみの家」という意味です。イエス様はあわれみ深い方です。イエス様は、その深いあわれみをもって私たちをいやすことができる救い主なのです。

 

Ⅱ.もう罪を犯してはなりません(9b-14)

 

次に9節後半から15節までを見ていきたいと思います。

「ところが、その日は安息日であった。そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。しかし、その人は彼らに答えた。「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか。」しかし、癒やされた人は、それがだれであるかを知らなかった。群衆がそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」

 

38年間病気だった人は治って、宮にいました。これは、ユダヤ教の神殿のことです。おそらく彼は、自分の床を家に運び、すぐに神殿に上って行って、神に感謝をささげようとしたのでしょう。しかし、そこで一つの問題が起こりました。それは、その日が安息日であったということです。10節には、「そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、『今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない』と言った。」とあります。

なぜこれが問題だったのかというと、彼らは安息日に床を取り上げてはならないと思っていたからです。どういうことかというと、確かにモーセの十戒には安息日に関する規定がありますが、それは、「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。」(出エジプト20:8)というものでした。六日間働いて、すべての仕事をしなければなりませんでした。しかし、七日目は、主の安息の日です。この日にはいかなる仕事もしてはなりません。問題はこの「いかなる仕事」とは何かということです。彼らはそれを厳しく守るために安息日にしてはならない39項目からなる労働のリスト挙げていました。そして、その中に「どんなものでも運搬してはならない」という決まりがあったのです。ここでユダヤ人が問題にしたのはそれです。つまり、安息日に人をいやしたことが問題だったのではなく、安息日に床を取り上げて運んだことが問題だったのです。全くナンセンスです。彼らは安息日律法の文言に捉われ、その安息日律法が本来目指していた精神を見失っていました。

 

そこで彼は答えました。11節、「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」すると今度は、そんなことを言ったのは誰かと、問い正しました。しかし、いやされた人は、それがだれであるかを知らなかったので、答えることができませんでした。群衆がそこにいる間に、イエスは立ち去っておられたからです。

 

しかし、後になって、イエスは宮の中で彼を見つけると、こう言われました。14節です。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」

どういうことでしょうか。これを読むと、罪を犯すと、病気が再発してもっと悪くなるよと脅しているかのように感じるかもしれませんが、これはそういうことではありません。確かに、飲み過ぎで肝臓が悪くなったら、お医者さんはその人に、「これからは飲み過ぎに注意してください。そうでないともっと悪くなりますよ」と言うかもしれません。それに、当時は、病気の原因は罪を犯したからだと考えられていたので、そのように思うのも無理もなかったかもしれません。しかし、イエス様がここで言われたのはそういう意味ではなく、神との関係における罪のことでした。つまり、「もう罪を犯してはなりません」というのは、どんな罪も、どんな悪いことも一切してはならないということではなく、故意に神に背を向け、神との関係を自ら拒絶することがないようにということだったのです。私たちは罪を犯さずには生きて行けません。罪を犯さないように努力することは大切なことですが、もっと大切なことは、自分が罪を犯すような弱い者であることを認め、神の前に日々悔い改めて生きることです。つまり、神の恵みとあわれみに生きることなのです。

 

そうでないと、もっと悪いことが起こるかもしれないからです。この「もっと悪いこと」とは何でしょうか。これをこの罪との関係で考えるなら、これは肉体的な面だけでなく霊的な面も含めてのことであるのがわかります。つまり、もしあわれんでくださった神様に背を向けて生きるようなことがあるならば、今までの38年間の不自由な生活以上に、もっと悪いこと、すなわち、彼の人生から平安や安息が失われてしまうことになるかもしれないということです。ローマ6章32節に、「罪からくる報酬は死です。」とあるように、永遠に神との交わりから断たれてしまうことにもなりかねません。もしそのようなことがあるとしたら、からだは良くなったとしても、それ以上に不自由な者、最悪な結果になってしまいます。そうならないように、いつも神様に信頼し、感謝して生きるように、と言われたのです。

 

Ⅲ.ベテスダの池、イエス・キリスト(15-18)

 

最後に16から18節を見て終わりたいと思います。

「その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。」

 

ベテスダの池でいやされた人は、自分が誰によっていやされたのかを知ると、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えました。それを聞いたユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めます。それは、イエスが安息日の律法を破ったからです。そればかりではありません。イエスを殺そうとするようになりました。それは、イエス様が「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです」と言って、ご自分を神と等しくされたからです。

 

この神をご自分の父と呼んだということですが、それは、イエス様がご自分を父なる神と等しい位置に置かれたということです。少なくとも、当時のユダヤ人たちはそのように理解していました。つまり、イエス様はご自分がメシヤであり、神と等しい者であると宣言されたのです。それでユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになったのです。

 

ヨハネが、第三のしるしとしてこの奇跡を取り上げた理由はここにあります。つまり、この38年も病気で横になっていた人をいやすことによって、イエスこそメシヤであられるということ、イエスこそ救い主であられるということを示そうとされたのです。これがわからなければ、どんなに律法を守っているようであっても全く意味がありません。なぜなら、律法が指し示していたのはこのイエス・キリストであったからです。律法は良いものですが限界があります。それは私たちに罪を示し、救いが必要であることを悟らせるものです。パウロはガラテヤ書の中で、律法はキリストのものに導く養育係だと言っているのはそのためです。しかし、ここに律法が指し示していた、しかも律法の要求を完全に満たした救いが現れました。それがイエス・キリストです。神の救いは自分の努力や力によってもたらされるのではなく、ただイエス・キリストによってもたらされます。このベテスダの池での出来事は、そのことを示していたのです。

 

このベテスダの池には五つの回廊がついていましたが、ある人たちは、この五つの回廊は、モーセ五書と呼ばれる律法を表していたと考えています。モーセ五書とは、創世記から申命記までの五つの書です。モーセが書いたのでモーセ五書と呼ばれています。その回廊にベテスダの池がありました。それは、この場所が神のあわれみを受けるためには、五つの回廊に象徴される律法の戒めをきちんと守らなければならない」ということを示していたというのです。それはこの律法と恵みとの関係から考えるとあながち間違いであるとは言えません。その回廊にいた人の中で、自分の力で救われた人がいたでしょうか。だれも律法を完全に守ることができる人などいないのです。

しかし、ここに律法とは別の、しかも律法によって証しされた救いがあります。それがイエス・キリストです。キリストはメシヤとしてこの世に来てくださり、神のあわれみを表してくださいました。「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と言われ、罪の中に伏せていた人をいやしてくださいました。私たちを罪から救うことができるのは、ただ神の恵み、神の子イエス・キリストの他にはいないのです。

 

ですから、この38年間も病気だった人がいやされた出来事は、私たちが律法の世界に留まるのではなく、自分の努力や力に頼るのではなく、キリストの言葉に信頼し、その言葉に従って新しい歩みを始めなさい、という招きだったのです。なぜなら、キリスト様こそあわれみの家、ベテスダの池そのものであられるからです。

 

イエス様は、あなたの罪と汚れをきよめる泉であり、あなたをあわれみ、あなたをいやす泉、ベテスダの池そのものです。この池で、あなたも罪の赦しときよめを受けませんか。心とからだのいやしを受けてください。そのために必要なのは、「掟、床を取り上げて歩きなさい」と言われる主イエスのことばを信じて、それに従うことです。キリストのあわれみは、尽きることがないからです。

ヨハネの福音書4章43~54節「見ないで信じる者に」

ヨハネの福音書4章から3回にわたってお話ししてきました。第一回目は救いと悔い改めについて、第二回目は礼拝について、そして第三回目は伝道についてです。今日は、この4章の終わりの箇所から、信仰の成長についてお話ししたいと思います。タイトルは、「見ないで信じる者に」です。

 

Ⅰ.見ないかぎり信じない(43-48)

 

まず、43節から48節までをご覧ください。45節までをお読みします。

「さて、二日後に、イエスはそこを去ってガリラヤに行かれた。イエスご自身、「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と証言なさっていた。それで、ガリラヤに入られたとき、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎したが、それは、イエスが祭りの間にエルサレムで行ったことを、すべて見ていたからであった。彼らもその祭りに行っていたのである。」

 

「さて、二日後に」とは、イエス様がサマリヤに滞在されて二日後に、ということです(4:40)。イエス様はそこを去ってガリラヤへ行かれました。ガリラヤに行くことは、当初からの計画でした。しかし、イエス様は一人の魂に飢え渇いた女性を救うためにサマリヤを通過し、その途中スカルというサマリヤの町に滞在されたのです。それは、いわば寄り道でした。しかし、その寄り道は何とすばらしい結果をもたらしたことでしょう。イエス様はその町に二日間滞在し、さらに多くの人々が、イエス様を信じたのです。

 

その二日後に、イエス様はそこを去ってガリラヤに行かれました。なぜなら、イエスご自身が、「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と証言なさっていたからです。自分の故郷では尊ばれないとわかっていたのに、どうしてわざわざガリラヤへ行かれたのでしょうか。そこである人たちは、この44節のことばは、イエスがガリラヤへ行かれた理由を説明しているのではないと考えます。そうでないとさっぱり意味が通じなくなるからです。この新改訳2017ではそのように訳しています。しかし、この44節の冒頭には日本語では訳されていませんが、「そういうわけで」とか「なぜなら」という理由を説明するギリシャ語の接続詞「ガル」ということばがあって、これは明らかにイエスがガリラヤへ行かれた理由を表しているのです。ですから、新改訳聖書第三版では、ここをちゃんと、「イエスご自身が、『預言者は自分の故郷では尊ばれない』と証言しておられたからである。」と訳しています。訳としては、こちらの方が正確です。問題は、であればイエス様はなぜガリラヤへ行かれたのかということです。自分が尊ばれない所には、だれも行きたいとは思わないはずです。それなのに、イエス様はあえてガリラヤへ行かれたのです。そこには二つの理由があったと考えられます。

 

一つは、このガリラヤというのはガリラヤ地方のことであって、ナザレのことではなかったからです。イエス様が言われた「自分の故郷」とはナザレのことであって、ガリラヤ地方全体のことを指していたのではなかったということです。確かにナザレもガリラヤ地方の町の一つではありますが、ナザレの町と他の町とではイエス様に対する感情に明らかに違いがありました。一般的にガリラヤの町々では尊ばれていましたが、ナザレではそうではなかったのです。そこには自分の家族も住んでおり、その家族にとってイエス様は単なる家族の一員にすぎず、神の預言者として尊ばれることはありませんでした。たとえば、ヤコブの手紙を書いたヤコブはイエス様の実の兄弟ですが、彼がイエス様をメシヤとして信じたのはイエス様が復活してからのことでした。それまではただの家族の一員、親切なお兄ちゃんくらいにしか受け止めていなかったのです。

ですから、イエス様がガリラヤに帰っても、ナザレを訪問することはありませんでした。その結果、遠くにいたサマリヤの人たちやガリラヤの他の町々村々の人たちが祝福を受け、近くにいたナザレの人たちが祝福を逃すことになってしまいました。これは何という皮肉なことでしょうか。私たちの祝福は、イエス様とどれだけ近くにいるかということによってではなく、イエス様をどのような目で見、どのように歓迎するかによって決まるのです。イエス様を私たちの人生に歓迎する人になりましょう。

 

では、そのガリラヤの人たちはどのようにイエス様を歓迎したでしょうか。45節をご覧ください。彼らはイエスがガリラヤに入られたとき、イエスを歓迎しました。すばらしいですね。でもどうして彼らはイエス様を歓迎したのでしょうか。その後のところに理由が述べられています。

「それは、イエスが祭りの間にエルサレムで行ったことを、すべて見ていたからであった。彼らもその祭りに行っていたのである。」

なるほど、彼らがイエスを歓迎したのは、過越しの祭りを祝うためにエルサレムに上ったとき、そこでイエスが行われたしるしを見たからです。彼らはガリラヤに帰るなり、エルサレムで起こった不思議な出来事を隣人たちに報告していたのです。ですから、イエス様がガリラヤに到着すると、熱狂的にイエス様を歓迎したのです。

 

でも、これは本物の信仰とは言えません。それは2章23~24節に出てくるエルサレムの人々と何ら変わりありません。そこにはこうあります。

「過越しの祭りの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。」

イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスを信じましたが、それはどうしてかというと、イエスが行われたしるしを見たからです。ですから、たとえ彼らがイエス様を信じても、イエス様は彼らに自分を任せることはなさいませんでした。つまり、彼らを信頼しなかったのです。イエス様が行われたしるしを見て信じるだけなら、それは本物の信仰とは言えないからです。イエスのなされる御業を見て信じること自体が悪いのではありません。しかし、それは信仰の入口にすぎず、あくまでも神のみことばが真実であるということの証拠としての奇跡であって、そこから本物の信仰へと進んで行かなければならないのです。つまり、イエス様が私たちの罪のために十字架で死んでくださったメシヤ、救い主であるということをしっかりと告白し、新しく生まれ変わるという経験が必要なのです。それが信仰の第一ステップです。それがなければ、どんなに不思議なしるしや奇跡を見ても何の意味もありません。

 

ヨハネは、そのことを示すために、次に王室の役人の息子の話を取り上げています。46節から48節までをご覧ください。

「イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。イエスが水をぶどう酒にされた場所である。さてカペナウムに、ある王室の役人がいて、その息子が病気であった。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところに行った。そして、下って来て息子を癒やしてくださるように願った。息子が死にかかっていたのである。イエスは彼に言われた。『あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。』」

 

イエス様は再びガリラヤのカナへ行かれました。そこはかつてイエスが水をぶどう酒に変えるという奇跡を行われたところです。そこにカペナウムという町から、ある王室の役人が来ていました。この王室とはヘロデ・アンティパスに仕える役人のことで、今で言うと、政府の高官のことです。彼は息子が病気で死にかかっていたので、息子を癒してもらうためにカペナウムからわざわざやって来たのです。カペナウムからカナまでの距離は約30㎞、標高差は約600mあります。その距離を一気に上って来たのですから、彼がどれほど切羽詰まっていたかがわかります。

 

イエス様はいったいなぜガリラヤに行かれたのか、そのもう一つの理由がここにあります。それは、この役人を救いに導くためでした。イエス様は以前サマリヤの女を救いに導くためにわざわざスカルというサマリヤの町に行かれたように、この王室の役人を救うためにわざわざガリラヤへ行かれたのです。「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と証言なさっていたのに・・です。この役人はどのように救いに導かれて行ったのでしょうか。

 

彼には悩みがありました。彼の息子が病気で死にかかっていたという悩みです。身分が高ければ悩みがないというわけではありません。どんなに身分が高い人でも悩みごとを持っているのです。それは身分が低い人が持っているものとは違うものかもしれませんが、誰にでも悩みがあるのです。そして、その悩みはその人にとっては切実なものなのです。

 

しかしながら、そうした悩みや苦しみが、いつでも人を不幸にするのかというとそうではありません。むしろ、こうした悩みが私たちを救うための(罪から)一つの契機になる場合があります。この王室に役人も息子が病気で死にかかっていたという苦しみの中でイエス様のところへ助けを求めに来ることで、本当の救いを得ることができました。

 

彼はイエス様のところにやって来ると、何と言ったでしょうか。47節を見ると、彼はイエスのところに行き、「下って来て息子を癒してくださるように願った。」とあります。これはどういうことでしょうか。当時、多くの人々が、イエスが祭りの間にエルサレムでなさった「しるし」によって信じていました。ですから、この役人も、イエス様がエルサレムで多くの「しるし」を行ったといううわさを聞いて、イエス様に助けを求めに来たのでしょう。

 

しかし、それに対するイエスの答えは殺伐としたものでした。48節をご覧ください。

「イエスは彼に言われた。『あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。』」

どういうことですか。息子が病気で死にそうなのだから、来て癒してくださいと願うのは当然のことではないでしょうか。それなのに、「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」と言うのは理解できません。癒しを求めることが問題なのではありません。問題は、しるしや不思議を見ないかぎり信じないということです。それはあのガリラヤの人たちと少しも変わりません。彼らがイエスを歓迎したのは、イエスが祭りの間にエルサレムで起こったことを、すべて見ていたからでしたが、それはこの役人も同じでした。彼はイエスがユダヤからガリラヤにやって来たことを聞いて、自分の病気の息子が癒されたのなら信じようと考えていたのです。問題の解決を求めてイエスのところにやって来ることは大切なことです。しかし、それは信仰の入口にすぎず、そこから本物の信仰へと進んでいかなければならないのです。ですから、イエス様はここで、「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」と言われたのです。最初はそれでもいいでしょう。しかし、いつまでもそこにとどまっていてはなりません。そこから一歩進んでみことばに信頼する信仰を持たなければならないのです。

 

マタイの福音書8章に登場するあのローマの百人隊長はそうでした。彼は、イエス様の発せられる御言葉の権威を認め、それに従いました。ちょっと開いて確認してみましょう。

「イエスがカペナウムに入られると、一人の百人隊長がみもとに来て懇願し、『主よ、私のしもべが中風のために家で寝込んでいます。ひどく苦しんでいます』と言った。イエスは彼に『行って彼を治そう』と言われた。しかし、百人隊長は答えた。『主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。』

イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。『まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。』」(マタイ8:5-10)

 

この百人隊長は、イエスが御言葉を発せられれば、すべてのものはそれに服従すると信じて疑いませんでした。なぜなら、百人隊長である彼でさえ部下に命じれば、部下は必ずそのとおりにしたからです。ましてや、この天地万物の創造主であられる神が発するのであれば、すべてのものがそれに服するのは当然のことです。ですから、わざわざ来てもらう必要もありません。ただそのように言っていただくだけで良かったのです。そうすれば、すべてはそれに従うと信じて疑わなかったのです。

 

しかし、この役人は、まだそこまでの信仰を持ち合わせていませんでした。ですから、「下って来て息子をいやしてください」と願っているのです。何ですか、「下って来て息子をいやしてください」とは。彼はイエス様が下って来て、息子を癒してくださらなければ、息子は直らないと思っていました。しるしと不思議を見ない限り信じられない信仰、そのような信仰しか持ち合わせていなかったのです。

 

それは49節の彼のことばにも現れています。49節で彼はこのように言っています。「主よ。どうか子どもが死なないうちに、下って来てください。」

これはどういうことですか。死んだら終わりだということです。だから死なないうちに来てほしかったのです。イエス様がどんなに偉い方であっても、死んでしまえば、もう手の施しようがないと考えていました。主がよみがえらせる力を持っておられることは信じていなかったのです。

 

それは、あのラザロが病気だった時と同じです。ラザロが死んでから、イエスがマリヤとマルタの家にやって来ると、彼女たちは異口同音にこう言いました。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(ヨハネ11:32)そうです、彼女たちもまた、死んだら終わりという信仰しか持っていませんでした。

そのような彼女たちにイエス様は何と言われましたか。有名なみことばです。イエス様はこのように言われました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)

 

すばらしい約束ですね。皆さん、私たちの人生には「死」のような出来事が起こることがあります。それが実際の死であることもありますし、もうすべてが終わった、お先真っ暗だというようなこともあります。けれども、イエス様はその死からよみがえりました。イエス様はよみがえりです。いのちです。イエス様を信じる者は死んでも生きるのです。イエス様は死に勝利されました。この方が私たちとともにおられるのです。この方が共におられるなら、私たちに絶望はありません。私たちはこの方にあって、常に勝利ある人生を送ることができるのです。それはしるしと不思議を見なければ信じない信仰からは生まれてきません。それは、見なくても信じる信仰、イエス様の御言葉を信じる信仰から生まれてくるのです。

 

Ⅱ.イエスが語ったことばを信じる(50)

 

そこでイエス様は、この王室の役人の信仰を次のステップへと導かれます。それは、「しるし」に頼る段階から「みことば」を信じる信仰です。50節をご覧ください。

「イエスは彼に言われた。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。」

 

「子どもが死なないうちに、下って来てください」という役人の願いに対して、イエス様は「行きなさい。あなたの息子は治ります。」と言われました。「わかりました。すぐに行きましょう」とか、「それは大変ですね。急いて行きましょう」とかではなく、ただ「行きなさい。あなたの息子は治ります。」と言っただけです。どうしてでしょうか。それは、この王室の役人に対して、信仰の飛躍を経験させようと考えておられたからです。

 

すると彼はどうしたでしょうか。「その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。」不思議ですね。あれほど切羽詰まってやって来た人が、「行きなさい。あなたの息子は治っています」と聞いただけで、そのことばを信じたのですから。私だったら、「いいえ、帰りません。あなたが一緒に来てくださるのでなければ、どんなことをしたって帰りません」と言い張ったのではないかと思います。たとえば、自分の孫がそういう状態だったら、「助けてくださいイエス様。何とかしてください。このピンチを乗り越えられたなら、何でもしますから」とか言って強引に連れて来ようとしたのではないかと思います。それなのに彼は、イエスが語ったことばを聞くと、すんなりと帰って行きました。なぜでしょうか?あきらめたのですか?どんなに言ってもだめだ・・・と。そうではありません。彼はこのイエスが語ったことばを信じたのです。彼はここで一つの信仰の冒険をしました。自分の思いに固執するのをやめ、主が言われることに従うことにしたのです。

 

これは、彼の信仰が次の段階に進んだことを示しています。事実、彼が帰途に着いたのは翌日のことでした。つまり彼は、イエス様にこのように言われた後ですぐに家に戻ったのではなく、そこにもう一泊しているのです。なぜそのことがわかるのかというと、後でこの息子の病気が治ったとき、その時刻を尋ねると、「昨日の第七時」と答えているからです。カペナウムからカナまでは30㎞、帰る気であれば帰れたのです。それなのにそこにもう一泊滞在したのは、彼がイエス様の言われたことばを信じたからなのです。確かに状況は絶望的でした。自分の無力さに打ちのめされる思いだったでしょう。しかし、そのような中にあってもイエス様のみことばに信頼することで、嵐の中でも動じない舟の錨のような安心感が与えられたのだと思います。

新聖歌248番の「人生の海の嵐に」は、そのような信仰が賛美されています。

「人生の海の嵐に もまれ来しこの身も

不思議なる神の手により 命拾いしぬ

いと静けき港に着き われは今 安ろう

救い主イエスの手にある 身はいともやすし」

 

私たちもこのようなことをよく経験します。もう自分の力ではどうしようもなくなったとき、すべてを主にゆだねることで人知をはるかに越えた不思議な神の平安を体験するということがあるのです。まさに彼はこれを体験したのです。キリストのことばに信頼すること・・で。

 

しかし、これがなかなか難しいのです。私たちは自分の持っているものをなかなか手放すことができません。自分の結婚にしても、将来のことについても、仕事のことや家庭のこと、あるいは自分の財産やいのちについても、自分でしっかり握りしめているだけで、それを主にゆだねることができなくて苦しむのです。信じなさいと言われても、信じることができなくて、自分で何とかしようともがくのです。それではなかなか主の力を体験することはできません。あなたが今しっかり握っているものを一度手放す時、主はそれを何倍にもして与えくださいます。その時、あなたの信仰も大きく飛躍することができるでしょう。

 

Ⅲ.みことばを体験する(51-54)

 

この王室の役人の信仰はどのように飛躍したでしょうか。彼は、そのみことばを体験しました。最後にそれを見て終わりたいと思います。51節から54節をご覧ください。

「彼が下って行く途中、しもべたちが彼を迎えに来て、彼の息子が治ったことを告げた。子どもが良くなった時刻を尋ねると、彼らは「昨日の第七の時に熱がひきました」と言った。父親は、その時刻が、「あなたの息子は治る」とイエスが言われた時刻だと知り、彼自身も家の者たちもみな信じた。

イエスはユダヤを去ってガリラヤに来てから、これを第二のしるしとして行われた。」

 

彼が下って行く途中、しもべたちが彼を迎えに来ると、彼の息子が治ったことを告げました。そこで、子どもが良くなった時刻を尋ねると、前日の第七時に熱が引いたということでした。それはユダヤの時刻で、今日の時刻では午後1時になります。それはちょうどイエス様が「あなたの息子は治る」と言われた時刻でした。それで彼自身も彼の家の者たちもみな信じたのです。あれっ、彼はイエス様が言われたことばを信じて帰って行ったのではなかったですか?それなのに、イエス様が「あなたの息子は治る」と言われた時刻と息子が癒された時刻が同じ時刻であったことを知って信じたというのはおかしいのではないでしょうか。いいえ、それは、彼がイエス様のことばを信じていなかったということではありません。イエス様が言われたことを信じた結果、本当にそのようになったことを知って改めて信じたということです。つまり、信仰によってみことばが真実であることを体験したということです。

 

皆さん、信仰において大切なことは、このみことばを体験するということです。信仰というのは、まず神のみことばの正しい解釈が求められますが、いくら神のみことばを知っていても、それが頭だけであるとしたら、いざという時に何の役にも立ちません。それこそ、実際の生活の中で自分が思ってもいなかったことが起こると、右往左往し、信仰につまずいてしまうことになるのです。しかし、みことばを体験した人は違います。ちょっとやそっとのことでは動じません。この不動の信仰に至るためには、どうしてもみことばの体験が必要なのです。自分の結婚の問題について、また自分の将来について、自分の仕事や生活、その他あらゆることについて、たえず聖書のみことばに生き、みことばの真実さを体験していく時、不動の信仰に至ることができるのです。その結果、彼だけでなく、彼の家族全員が同じ信仰を持つようになりました。

 

あなたはこの役人のように、イエス様のことばだけに信頼して、そのみことばを体験しておられるでしょうか。それとも、しるしと不思議を見ない限り、決して信じませんという段階でしょうか。しるしと不思議を見て信じる段階からイエス様のことば、聖書のことばに信頼する段階へ、そして、そのみことばを体験する信仰へと進ませていただきましょう。

 

54節を見ると、「イエスはユダヤを去ってガリラヤに来てから、これを第二のしるしとして行われた。」とあります。この奇跡は、ガリラヤでの二回目のしるしでした。「しるし」というのは、証拠としての奇跡です。イエス様が神の子、キリストであるということの証拠としての奇跡のことです。最初のしるしもこのカナで行われました。それは水がぶどう酒に変わることを通して、主はこの自然界をも支配しておられる方であり、私たちに真の喜びをもたらすことができるということを示していましたが、今回の奇跡は、この王室の役人の息子のいやしを通して、主は死にそうな病人をも癒すことがおできになられるいのちの主であられることを示されました。「信じるなら神の栄光を見る」(ヨハネ11:40)のです。ですから、信じない者にならないで、信じる者になりましょう。しるしと不思議を見る信仰から、見ないでも信じる信仰へ、そして、それを体験する確固たる信仰へと進ませていただきましょう。

ヨハネの福音書4章27~42節「目を上げて畑を見なさい」

ヨハネの福音書4章のサマリヤの女から学んでおりますが、きょうは、イエス・キリストを信じたサマリヤの女がどのように変わったのか、また、そのことによってどのような影響がもたらされていったのかを学びたいと思います。

 

Ⅰ.水がめを置いたサマリヤの女(27-30)

 

まず、27節から30節までをご覧ください。

「そのとき、弟子たちが戻って来て、イエスが女の人と話しておられるのを見て驚いた。だが、「何をお求めですか」「なぜ彼女と話しておられるのですか」と言う人はだれもいなかった。

彼女は、自分の水がめを置いたまま町へ行き、人々に言った。「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」そこで、人々は町を出て、イエスのもとにやって来た。

 

「そのとき」とは、イエスがサマリヤの女と話していた時のことです。そのとき、食べ物を町まで買いに出かけていた弟子たちが戻って来て、イエスがサマリヤの女の人と話しているのを見て驚きました。新改訳聖書第三版には、「不思議に思った」とあります。なぜ不思議に思ったのでしょうか?それは当時の習慣からすれば、あり得ないことだったからです。当時は、ユダヤ人がサマリヤ人に、しかも女の人に話をするなんて考えられないことでした。しかし、「何を求めておられるのですか」とか、「なぜ彼女と話しておられるのですか」と言う人はだれもいませんでした。言えるような雰囲気ではなかったのでしょう。弟子たちには、しばしばイエス様の言動が理解できないことがあったので、あまり気にしなかったのだと思います。

 

そうこうしているうちに、彼女は、自分の水がめを置いたまま町へ行ってしまいました。彼女は水を汲みに井戸までやって来たんじゃないですか。それなのに、水も汲まないで、その水がめを置いたまま町へ行ってしまったのです。いったいなぜ彼女は水がめを置いたまま町へ行ってしまったのでしょうか。

 

それは、彼女の放った次の言葉からわかります。29節をご覧ください。「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」

彼女が町へ行ったのは、自分を全く変えてくださったキリストを、ほかの人たちに伝えるためでした。

 

このことから、彼女が全く新しく造り変えられたことがわかります。もはや以前のように人々を恐れ、人々を避け、人々が水を汲みにやって来ないような時間を見計らって、水を汲みに来るような人ではありませんでした。自分から積極的に町へ行き、「皆さん、来てください。この方がキリストなのでしょうか。いや、きっとそうです。たぶんそうでしょう。だって私のことを、すべて言い当てることができたんですもの。」と言えるようになったのです。コリント第二5章17節に、「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」とあります。彼女は新しく造られました。この水がめは、彼女が負っていた人生の重荷を象徴しています。彼女はその人生の重荷をキリストの下に下ろすことができたのです。それで彼女はうれしくて、うれしくて、黙ってなどいられませんでした。それで、積極的に自分の方からこの救い主を人々に伝えたいと思うようになったのです。

 

ここで大切なことは、彼女がしぶしぶ町に出て行ったのではないということです。そうせずにはいられなかったのです。これこそ、神の救いの恵みの御業にほかなりません。救いの恵みがその人の中に入ると、それまで持っていた考え方や価値観といったものが少しずつ変えられて行きます。それまでは、すべて自分が中心でした。自分の思いや考えに従って生きていましたが、キリストを信じて新しく生まれ変わると、今度は神中心に生きるようになるのです。神のために少しでもお役に立ちたいと思うようになります。少なくとも、聖書の原則からすればそうなるはずです。そうでないとしたら、どこかおかしいと言えます。

 

最近、聖書入門講座で学ばれたYさんが古本屋を始めたので、先週お祝いを兼ねて出かけて行きましたら、そこに尾山令仁先生が書かれた「教会の歴史」という本がおいてありましたので、「えっ、こういう本も置いておられるんですか。じゃ、これを買います。」と言って買いました。別に、ぜひ読んでみたいと思って買ったわけでなく、ちょっとでもYさんの励ましになればと思って買っただけですが、帰宅してパラパラとめくってみたら最後のところに「日本の教会の歴史」について書いてあったので読んでみましたが、まさに目から鱗でした。

 

尾山先生は、特に明治以降の日本のキリスト教の歴史を振り返りながら、日本では社会の情勢によって教会がころころ変わってきたと指摘しています。たとえば、明治時代の初期の頃、日本が欧化主義には傾いていたころは、近代化の過程にあった日本は、キリスト教に対して、一種の尊敬の念を持っていたので、比較的順調に進展していきましたが、その反動というべき欧化主義とキリスト教の流行をうれえた神道、仏教、儒教の三つの宗教が一致して国家主義を唱えるようになると、欧化主義の衰退とともにキリスト教への圧迫となって動き出し、キリスト教会は衰退の一途をたどるようになりました。その繰り返しだというのです。つまり、キリストがこの世のあらゆるものに優先するというキリスト告白よりも、自国が優先する自国主義が、日本の教会においても、その根本的特徴としてあげられるというのです。簡単に言えば、イエス様を信じても、イエス様よりも自分が中心となっているということです。「それはその時代の日本の教会の特徴であるというよりも、いつの時代の、どの国においても言えることであり、克服しなければならない弱さであると言えますが、それにしても、明治以来、形作られてきた日本の教会の特徴がここにあると言っていいでしょう。」と言っています。

 

これはものすごい指摘だと思いました。日本の教会がなぜ成長しないのか、その根本的な原因がここにある、教会自身の体質の中にあるということを忘れてはならないし、その中で新しい体質の教会が出現することが待望されているわけですが、どうしたら新しい体質の教会が出現するのか、尾山先生はそこまで触れることはありませんでしたが、改めて、その霊的洞察に感心させられました。

 

そして、その尾山先生が触れなかった点、すなわち、どうしたら新しい教会が出現するのかということですが、その答えがここにあるのだろうと思います。つまり、神の恵みによって全く新しい者に造り変えていただくということです。キリストの福音によって新しく造り変えられ、その福音によって神の恵みに触れ続けていくなら、神は私たちをもこのサマリヤの女のように変えてくださるのではないでしょうか。それは私たちの努力や鍛錬によってではできませんが、神にはそれがおできになります。神にはどんなことでもできるからです。神は私たちを新しく造り変え、その心にご聖霊の恵みで満たして下さる時、私たちも黙ってなどいられないような神の御思いに満ち溢れるようになるのです。

 

それは、あの取税人ザアカイを見てもわかります。彼はイエス様と出会い、自分の財産の半分を貧しい人たちに施し、だれかから騙し取った物があれば、それを四倍にして返しますと言いました。だれかにそう言われたからではありません。イエス様に出会い、その救いの恵みに与った結果、そのようにしたいと思うようになったのです。

 

また、パウロもそうでした。パウロは、それまで異端であると確信し迫害していたキリスト教の信仰を宣べ伝えるために、自分の有望な将来をことごとく捨ててしまいました。彼は、その理由を次のように言っています。

「しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。」(ピリピ3:7-8)

パウロは、この救いの恵みに圧倒されて、これまで得であると思っていたものが、損と思うようになりました。それは、キリスト・イエスのすばらしさを知ったからです。それゆえ、彼は、その他の相対的な価値しかないものを、「ちりあくた」と思ったのです。これは、そのように心の中ではっきりと整理することができた人の言葉です。あれも、これもではなく、この一事に励むことができました。それはこの救いの恵みがどれほどすばらしいものであるかを知ったからです。サマリヤの女も同じです。彼女も、そうしなければならなかったのではなく、そうせずにはいられなかったのです。

 

そしてそれは今日も同じです。キリストの救いの恵みを本当に知っていれば、その人の生き方は自ずと変えられて行きます。イエス・キリストの救いのすばらしさを知ったら、この救いの恵みに圧倒されて、神にすべてをゆだね、キリストをすべてに優先して生きるようになるのです。

 

あなたはどうですか?あなたにとって、霊的なことは、他のどんなものよりも重要な価値があると考えていますか?永遠のいのちを持つことは、この地上の過ぎ行くいかなるものよりも重要であると考えておられますか。もしそうであるなら、あなたの行動はおのずと決まってくると思います。

 

どうぞ、イエス様の足もとに、あなたの水がめを下ろしてください。そして、このイエス・キリストが与える水を飲んでください。この水はいつまでも渇くことなく、あなたの内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ますから。そうすれば、あなたも驚くべき変貌を体験することでしょう。

 

Ⅱ.わたしの食べ物(31-34)

 

次に、31節から34節までをご覧ください。

「その間、弟子たちはイエスに「先生、食事をしてください」と勧めていた。ところが、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」

そこで、弟子たちは互いに言った。「だれかが食べる物を持って来たのだろうか。」 イエスは彼らに言われた。「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。」

 

イエス様がサマリヤの女と話しているところに、町まで食べ物を買いに行っていた弟子たちが戻って来ると、サマリヤの女は、イエス様を証しするために町へ行ってしまいました。そこで、弟子たちは自分たちが買って来た食べ物をイエス様に差し出し、食事をしてくださいと勧めると、イエス様は意外なことをおっしゃられました。32節をご覧ください。「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」

どういうことでしょうか?弟子たちは、自分たちが町まで買いに行っている間、だれかが食べ物を持って来たのだろうか、と思いました。しかし、これはそういうことではありません。これは34節にあるように、霊の食べ物のことを指していたのです。そのことを、イエス様は次のように言っておられます。

「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。」

 

イエスの食べ物とは、イエスを遣わされた方、つまり父なる神のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。そもそも食べ物というのは、ごはんやパンのように、あるいはお肉や野菜のように、それを食べなければ生きていけないという意味で、その人を生かす命の源であります。しかし、イエス様が言われた食物とは、そうしたな物資的な物ではなく霊の糧のことでした。霊的に満足を与えてくれる食べ物のことだったのです。その食べ物とは何でしょうか。それは神のみこころを行い、神のみわざを成し遂げることです。

 

皆さん、神のみこころとは何ですか?神のみこころは、一人も滅びることなく、真理を知るようになることです。テモテ第一2章4節にそのようにあります。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」神様は、すべての人が、自分の問題に気づき、解決を見いだし、罪赦され、癒され、最善の人生を歩むようになることを望んでおられます。そのみこころを実現するために、神が人となって来てくださいました。それがイエス・キリストです。

 

イエス様はまた、「そのわざを成し遂げることです」とも言われました。イエス様が成し遂げようとしておられる「神のみわざ」とは何でしょうか。それは、私たちの罪をあがなうための十字架の死を意味しています。つまり、十字架において私たちの罪の問題を解決し、神の救いをもたらしてくださることが「神のみわざ」であるというのです。その救いのみわざを成し遂げることが、イエス様の食べ物であり、イエス様の喜び、力であると言われたのです。人のために十字架でいのちを捨てるほどの愛を最後の最後まで注ぎ出し、人の救いの道を整えていく働きが、イエス様の糧であったのです。ですから、イエス様にとっては、サマリヤの女を救いに導くことが神のみこころであり、霊的な満足を得ることでした。

 

あなたの食べ物は何ですか。あなたの霊の糧とは何でしょうか。魂の充足のために、どんな食べ物をいただいているのでしょう。私たちは、よく主の祈りで「日ごとの糧を今日も与えたまえ」と祈りますが、それは、いったいどんな糧なのでしょうか。

ヨハネ6章27節には「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。」とあります。なくなる食物ではなく、なくならない食物、永遠のいのちに至る食べ物のために働くこと、それが私たちの食べ物です。

 

私たちはしばしば問題にぶつかる時、その困難に押しつぶされそうになることがありますが、それは、このことを忘れているからです。すなわち、何のために生き、何のために存在しているのか、何のために働いているのかという根本的なことです。ですから、目先に問題が起こると、それに振り回されてしまうのです。しかし、もし私たちの人生の根本的なこと、すなわち、私たちが生きているのは神のみこころを行うためであるということがわかると、そうした問題に振り回されることから解放され、イエス様と同じような霊的喜びを味わうことができます。それは何にも代えがたい霊的喜びであり、私たちを生かす力となるのです。

 

Ⅲ.目を上げて畑を見なさい(35-42)

 

では、どのようにしてなくならない食べ物のために働けば良いのでしょうか。最後に、35節から42節までを見て終わりたいと思います。35節から38節までをご覧ください。

「あなたがたは、『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と言ってはいませんか。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。

ですから、『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということばはまことです。 わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました。ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の実にあずかっているのです。」

 

ここには救霊のわざについてとても重要なことが記されてあります。つまり、救霊のわざについてどのように考えるべきであるかが教えられているのです。弟子たちは、刈り入れ時まで、まだ四カ月もあると思っていましたが、霊の刈り入れはそれとは違います。物質的な世界では、種を蒔いてから収穫するまでに、一定の時間がかかりますが、霊的な世界ではそうではありません。霊的な世界では、種まきと刈り入れとが同時に起こることがあるのです。このサマリヤの人たちはそうでした。彼らはサマリヤの女を通してイエスの話を聞くと、あっという間に多くの人々がイエス様を信じるようになりました。39節には、「さて、その町の多くサマリヤ人が、『あの方は、私がしたことをすべて私に話した』と証言した女のことばによって、イエスを信じた。」とあります。それで、サマリヤ人たちはイエスのところに来て、自分たちのところに滞在してほしいと願いました。そこでイエスは、二日間そこに滞在されると、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じるようになりました。まさにリバイバルです。サマリヤの町々に起こったリバイバルは、このようにもたらされました。種まきと刈り入れとが、同時に起こったのです。

 

どうしてこのようなことが起こるのでしょうか。それは、36節にあるように、「蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。」どういうことですか?それは、37節と38節で、イエス様が説明しておられるように、魂の刈り取りにおいては、ひとりの人が種まきから刈り取りまでをするとは限らないということです。私たちが伝道して、だれかが決心をした場合、その多くは、すでにほかの人によって御言葉の種が蒔かれていて、心の準備ができていたということがよくあります。先月バプテスマに導かれたM兄は、幼い頃からクリスチャンの両親に導かれて教会に行っていました。しかし、中学、高校と学校の部活で忙しく教会から足が遠のいていましたが、大学で大田原に来たことがきっかけで信仰の決心へと導かれました。もうそのような心の準備ができていたのです。

ですから、多くの人々を救いに導いたからと言って、決して自慢などできるものではありませんし、すべきでもありません。それはただ神が憐みによって、私たちが失望しないようにと、既に準備されていた人を送ってくださり、巡り合わせてくださったにすぎないからです。

 

この出来事からずっと後に、初代教会において、ステパノの殉教の死を契機として、クリスチャンたちが迫害され、地方へ散らされるということが起こります。使徒の働き8章にある出来事です。その時、散らされた人たちは、みことばを伝えながら巡り歩きました。その中にピリポという伝道者がいて、彼はサマリヤの町に下って行きましたが、そこで人々にキリストを宣べ伝えると、多くの人々がイエス様を信じました。まさかサマリヤでこんなに多くの人々が信じるとは、だれが想像することができたでしょう。そこで、この知らせを聞いたエルサレムの教会は、急きょペテロとヨハネを遣わしますが、彼らはサマリヤへ行って、実際に自分の目でそれを確かめました。ヨハネとは、この福音書を書いたヨハネのことですが、彼は、昔、イエス様がここへ来て、サマリヤの女に御言葉を語られたことと、その時に自分たちに語られたこの御言葉を思い出したに違いありません。

 

ですから、一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れるということばはまことなのです。ある人は種を蒔くように召されていますが、別の人は刈り取りをするように召されています。でも、魂が刈り取られるとき、種を蒔く人と刈り取りをする人はともに喜びます。なぜなら、神の国においては両者ともに神からの報酬を受けるからです。

 

パウロは、このことを、コリント第一3章6~9節で、このように言っています。

「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。植える者と水を注ぐ者は一つとなって働き、それぞれ自分の労苦に応じて自分の報酬を受けるのです。私たちは神のために働く同労者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。」

 

大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。この神に期待して、私たちは種を蒔き続けていかなければならないし、刈り取りもしていかなければなりません。神がどのように用いられるかは、問題ではありません。どのように用いられても、神の国の働きに参加させていただけることを喜ぼうではありませんか。ですから、イエス様は、「目を上げて畑を見なさい。」と言われたのです。「色づいて、刈り入れるばかりになっています。」と。

 

あなたはどのような目で霊の畑を見ていらっしゃいますか。畑はもう色づいています。刈り入れを待つばかりとなっています。周りを見ると、まったく色づいていないように見えるかもしれません。特に、日本ではクリスチャンが少ないですから、余計にそう感じるかもしれません。しかし、イエス様は、「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」と言われます。この確信を持って歩んでいきましょう。パウロが言うとおり、「確かに、今は恵みの時、今は救いの日」(Ⅱコリント6:2)なのですから。

ヨハネの福音書4章19~26節「御霊と真理によって礼拝する」

新年おめでとうございます。この新しい年も、共に主を礼拝できることを心より感謝します。

 

今日は、新年最初の主の日の礼拝となりますが、ヨハネの福音書から続いて学んでいきたと思います。前回は4章前半のイエス様とサマリヤの女の会話から、どうしたら「生ける水」を得ることができるのかという救いと悔い改めをテーマに学びましたが、今日はその続きです。今日は、「御霊と真理によって礼拝する」というテーマでお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.御霊と真理による礼拝(19-24)

 

まず、19節から24節までをご覧ください。19節と20節をお読みします。

「彼女は言った。『主よ。あなたは預言者だとお見受けします。私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。』」

 

「彼女」とはサマリヤの女のことです。サマリヤの女とイエス様との会話は、一般的な水の話題から、彼女自身の霊的問題へと進み、そんな彼女に対してイエスは、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」と言われました。つまり、彼女に自分の罪を自覚させ、悔い改めへと導こうとされたのです。

 

すると彼女は、何と言ったでしょうか。19節には、「彼女は言った。『主よ。あなたは預言者だとお見受けします。』」とあります。どういうことでしょうか。彼女は自分の内面が暴露されてしまったとき、自分の前に立っている人が、ただの人ではないことに気づいたということです。預言者だと思いました。

 

この「預言者だとお見受けします」ということばですが、これは彼女がイエス様をメシヤだと認めていたということを示しています。というのは、サマリヤ人はモーセを預言者と認めていましたが、それ以降の預言者は認めていなかったからです。モーセの次に登場する預言者は、メシヤご自身でした。ですから、彼女がここでイエス様に対して「あなたは預言者だと思います」と言ったのは、彼女がイエス様をメシヤ、救い主と認めていたからなのです。

 

ここで、今まで眠っていた彼女の信仰心が呼び覚まされました。彼女は生まれて初めて信仰を自分の問題として考えるようになりました。それまでは自分がどこから来てどこへ行くのか、何のために生きているのかもわからず、ただ彷徨っていましたが、ここに来て初めて自分の心の目を天に向けるようになったのです。

 

すると彼女は何と言ったでしょうか。20節をご覧ください。「私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」

ここで彼女は礼拝のことを話題にしています。どうしてかというと、彼女が信仰について考えた時、ある一つの疑問が生じてきたからです。それは、礼拝すべき場所はどこかということです。サマリヤ人はこの山で礼拝しましたが、ユダヤ人は、礼拝すべき場所はエルサレムだと言っていたからです。「この山」とはゲリジム山のことです。サマリヤ人は、ゲリジム山こそ聖なる山だと主張していました。そしてそれを裏付けるために、彼らが正典と認めていたモーセ五書を書き換えていました。例えば、アブラハムがイサクをささげたのは、モリヤの山(エルサレム)ではなく、ゲリジム山になっています。それは、ユダヤ人に対抗するためにそのように書き換えたものでした。サマリヤに住んでいる人であれば、サマリヤ人の言うことに従うのでしょうが、彼女の心は開かれたので、このことを尋ねてみたいと思ったのです。

 

それに対してイエスは何と言われたでしょうか。21節とから24節までをご覧ください。

「イエスは彼女に言われた。『女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。』」

 

どこで礼拝すべきなのかという彼女の疑問に対して、イエス様はどこで礼拝するのかということではなく、どのように礼拝するのかが重要だと言われました。このどのように礼拝するのかというのは、どのような仕方で礼拝したら良いのかということだけでなく、どうしたらそのような礼拝をすることができるのかということも含まれていました。いったいどのように礼拝したら良いのでしょうか。

 

23節、24節をもう一度ご覧ください。そのことについて、主イエスは続けてこのように言われました。「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」

 

ここには、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません、とあります。御霊と真理によって礼拝するとは、どういうことでしょうか。私たちは昨年まで新改訳聖書第三版を使用していましたが、第三版ではここを「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」とあります。実は、このように訳している聖書の方が圧倒的に多いのです。2017版のように「御霊と真理によって」と訳しているのは他にToday’s English Versionという英語の訳くらいで、他のほとんどの訳は「霊とまことによって」と訳しています。「霊とまことによって」と訳すると、心から礼拝するという意味になりますが、「御霊と真理によって」となると、神の御霊、聖霊によって礼拝するということになるので、ニュアンスが若干変わってきます。原語のギリシャ語では「プニューマテイ カイ アレーセイア」となっていますので、「霊とまことによって」となっています。2017版でこのように訳したのは、おそらく「神は霊ですから」に合わせて訳したためと思われます。しかし、このように訳しても特に問題はありません。事実、ピリピ3章3節には、「神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです。」とあります。ここには肉によって礼拝することに対して「神の御霊によって礼拝する」とあります。ですから、「霊とまことによって礼拝する」とは、「神の御霊と真理によって礼拝する」ということと同じことなのです。

 

では、御霊と真理によって礼拝するとはどういうことなのでしょうか。これは、「肉」とか、「物質」、「偽り」に対するものとしての「御霊」、「真理」のことを指しています。具体的にはエルサレムの神殿における礼拝に対する霊とまことの礼拝のことです。どういうことかというと、ユダヤ人たちは、エルサレムにある荘厳な神殿で、律法に従って、動物などのいけにえをささげていれば礼拝していると思っていましたが、それは単なる形だけの礼拝、見せかけだけの礼拝であって、真の礼拝とはそのようなものではないということです。なぜなら、ここに「神は霊ですから」とあるように、神は単なる形だけの、見せかけだけの礼拝を求めておられるのではないからです。神は霊ですから、神の御霊による、霊と真心からの礼拝を求めておられるのです。ですから、この神を礼拝するためには、神の御霊を受けなければなりません。そうでなければ本当の礼拝をささげることはできないのです。

 

しかし、人間はこの神の御霊を失ってしまいました。もともと人間は神のかたちに造られたのに、これを失ってしまったのです。神のかたちとは何でしょうか。神のかたちとは神は霊のことです。人間はもともと神の霊を持つ者として造られたにもかかわらず、最初の人間が罪を犯してしまったことで神様との交わりが断たれてしまいました。それを霊的死と言います。霊的に死んでしまった人間は、神様も、神様の恵みも分からなくなってしまいました。このような人間がどうやって神を礼拝することができるでしょうか。できません。神は霊ですから、その霊によって礼拝しなければならないのに、その霊が死んでしまったわけですから。

 

ですから、神様を心から礼拝するためには、この神の霊を持たなければなりません。どうしたら持つことができるのでしょうか。イエス様はニコデモにこのように言われました。

「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)そうです、人は新しく生まれなければ、神の国を見ることができません。そのためには、自分の罪を悔い改め、イエス様を救い主として信じ受け入れなければならないのです。それが神の示してくださった唯一の方法でした。聖書ではこれを救いと言っています。神は私たちが救われるために、そのひとり子を天から送ってくださいました。それがイエス・キリストです。

 

「だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。」(同3:13-14)

 

ですから、私たちが救われるためには、十字架に付けられたイエス・キリストを信じなければなりません。信じる者は救われます。イエス様を信じる者は罪が赦され、神の御霊を受けることができます。そして、この神の御霊によって新しく生まれた人は、霊とまことによる礼拝することが出来るようになるのです。

 

自分の努力や熱心さだけでは、このような礼拝をささげることはできません。私たちが神を礼拝するためには、どうしても神の霊である御霊の助けが必要なのです。御霊の力によってこそ心からの礼拝をささげることができるのです。

 

Ⅱ.あなたと話しているこのわたしがそれです(25-26)

 

ではどうしたら、その神の御霊を受けることができるのでしょうか。25節をご覧ください。イエス様のことばに対して彼女はこう言いました。

「女はイエスに言った。『私は、キリストと呼ばれるメシヤが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。』」

 

イエス様がサマリヤの女に対して霊とまことによって礼拝することについてお話しすると、彼女はまだ納得がいかないのか、「私は、キリストと呼ばれるメシヤが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」と言いました。これは、彼女がその御霊によって礼拝するためには、神のメシヤが必要性であることを認めていたということです。

 

それに対してイエス様は何と言われたでしょうか。26節です。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」と言われました。これはものすごいことばです。なぜなら、イエス様がご自分のことをメシヤと宣言されたからです。これは驚きです。メシヤというのは、神ご自身を意味することばでした。ですから、これはイエス様がここで、ご自身を神と宣言されたということなのです。これまで歴史上に多くの偉人と呼ばれる人が出てきましたが、このように自分のことを神と宣言された人は誰もいません。釈迦も、孔子も、だれもこのように宣言した人はいないのです。こんなふうに言える人なんて一人もいないからです。もしこのように言う人がいるとしたら、それはその人が本当にメシヤであるか、それとも、全くのペテン師であるかのどちらかでしょう。しかし聖書が人類に与え続けてきた影響を考えるなら、イエス様がペテン師であることは考えにくいことであり、むしろ、イエス様が言われたこのことばはまことに真実であると言えます。そして、イエス様がこの真実なことばを罪の中にあったこのサマリヤの女に啓示されたというのは、まことに恵み以外の何ものでもありません。

 

この女のイエス様に対する理解がどのように変化してか見るのはおもしろいです。9節では、「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」と言いました。それが11節では「主よ」に変わっています。第三版訳では「先生」です。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。」そして

19節では「預言者」になっています。それが25節になると、「キリスト」と呼んでいます。「私は、キリストと呼ばれるメシヤが来られることを知っています。」と言っています。

イエス様は、彼女が霊的なことを理解できるように少しずつ導いておられたのです。同じように主は、私たちの心の目も開いてくださり、イエス様のことがわかるように少しずつ導いておられます。

 

そんな彼女にイエスは、「あなたと話しているこのわたしがそれです。」と言われました。彼女は、主が目の前におられたのに、それが主であることを彼女はわかりませんでした。

私たちも毎週日曜日に教会に来て礼拝をささげていながらも、ここに主がおられることがわからないということがあります。私たちが御霊と真理によって礼拝をささげるために、まず私たちの霊の目を開いていただく必要があるのではないでしょうか。

 

Ⅲ.今がその時(23)

 

最後に、この御霊と真理によって礼拝をささげる時について考えたいと思います。23節をもう一度ご覧ください。イエス様はこのサマリヤの女に、「この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。」と言われると、「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時がきます。」と言われました。その「時」はいつでしょうか。今です。「今」がその時です。「今でしょ。」この「今」とはいつのことを指して言われたのでしょうか。

 

それは、イエス・キリストが来られた今のことです。それまでは、こうした礼拝をささげることはできませんでした。それまでは旧約聖書の中で、定められているとおりに礼拝しなければならなかった。それ以外の礼拝は決して神に受け入れられなかったのです。礼拝する場所は、エルサレムであると定められていました。礼拝の仕方も事細かく律法に定められていました。しかし、イエス・キリストが来られた今、そのような礼拝の仕方とは違う「霊とまことによって」礼拝をささげることができるようになりました。いや、あの旧約聖書が定めていた礼拝の規定は、すべてイエス・キリストを指示していたのです。たとえば、出エジプト記に出てくる幕屋の構造の一つ一つは、イエス様のことを指し示していたことがわかります。すなわち、あの旧約聖書の律法にある礼拝の規定は、本体であるキリストを指し示している影のようなものだったのです。動物の犠牲は、キリストの十字架の贖いを示していました。しかし、キリストが来られ、キリストの教会が生まれると、もはやそのように影の礼拝ではなく、本体の礼拝をささげることができるようになりました。その本体がキリストです。ですから、キリストが来られた今は、そうしたさまざまな規定によって礼拝をささげるのではなく、キリストによって、真の礼拝がささげられるようになったのです。今がその時です。このサマリヤの女に現われてくださった主イエス様は、今も生きておられ、私たちが御霊と真理によって礼拝をささげることを求めておられるのです。

 

先々週はクリスマス礼拝でしたが、クリスマスとはキリストのミサ、キリスト礼拝のことです。あの東方の博士たちは、どのようにキリストを礼拝したでしょうか。マタイの福音書2章11節には、「それから家に入り、母マリヤとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。」とあります。彼らはイエス様の前にひれ伏して礼拝しました。皆さんはどうでしょうか。ひれ伏して礼拝しているでしょうか。礼拝とは原語のギリシャ語では「プロスクネオ」と言いますが、意味は「頭を低く下げ、または跪いてほめたたえる」ということです。ひれ伏して礼拝をささげることです。ですから、東方の博士たちはまことの礼拝をささげました。彼らは霊とまことによって礼拝したのです。

 

また、黙示録4章10~11節には、「二十四人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝した。また、自分たちの冠を御座の前に投げ出して言った。 「主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」とあります。ここにも、24人の長老が「御前にひれ伏して」拝んだとありますね。「御座に着いておられる方」とは、イエス・キリストのことです。彼らはイエス・キリストの御前にひれ伏して礼拝し、「主よ。私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」と言いました。これが賛美です。

 

神を礼拝する時、御前にひれ伏して、ただ神だけを高めなければなりません。しかし今日、どれだけの人がこのような礼拝をささげているでしょうか。この真の礼拝とはかけ離れた状態になってはいないでしょうか。礼拝において、一番大切なのが神様ではなく自分自身で、自分が恵まれ満たされることや、自分の願いが叶えられることだけを求めるようになってはいないでしょうか。神様が高められることよりも、自分が高められることを求めています。

 

しかし、真の礼拝とは「プロスクネオ」、ただ神の御前にひれ伏すことです。私たちはそれができます。なぜなら、イエス・キリストが来てくださったからです。イエス・キリストが来られ、十字架で救いの御業を成してくださることによって、信じる者に永遠のいのち、神の御霊を与えられました。その御霊によって、私たちは真の礼拝をささげることができるのです。今がその時です。

 

私たちは今年、この御霊と真理によって神を礼拝しましょう。神はこのような礼拝者を求めておられます。そして、神はこのような礼拝者の祈りを必ず聞いてくださるのです。

ヨハネの福音書4章1~18節「生ける水」

今日は、今年最後の主日礼拝を迎えております。この年も、共に主を礼拝し、心からの感謝と賛美を献げることができたことを、感謝したいと思います。

 

今日は、ヨハネの福音書4章前半の箇所から、イエス様とサマリヤの女との会話を通して、いつまでも渇くことがない生ける水について、ご一緒に学びたいと思います。

 

ナポレオン・ヒル(Napoleon Hill)という人は、現代に7つの不安と恐怖が潜在していると言いました。

それは、貧しさの恐怖であり、失敗の恐怖、病気の恐怖、愛を失うことへの恐怖、老いていくことへの恐怖、自由を失うことへの恐怖、そして死の恐怖です。

そして、このような不安や恐怖から逃れようと、人々は、ありとあらゆることを試みますが、この世のものだけでは、決して解決できない精神的空虚と不安のために、人々は疲れ果てています。皆さんはいかがでしょうか。

 

イエス・キリストは、ある日、魂を生き返らせる、いのちの水に飢え渇いていた、一人の女性と出会いました。その女性は、かつて人生の幸せを求め、5回も結婚しましたが、その心は満足を得ることはできませんでした。しかし、イエス様との出会いを通して、その心の飢え渇きを、永遠のいのちの水で満たしていただくことができました。彼女は、どのようにして、満たしてもらうことができたのでしょうか。

 

Ⅰ.サマリヤを通って行かれたイエス(1-5)

 

まず、1節から5節までをご覧ください。

「パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。

しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリヤの町に来られた。」

過越しの祭りをエルサレムで過ごしておられたイエスは、その後しばらく、ユダヤ地方に滞在し、そこでバプテスマを授けておられましたが、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けているということがパリサイ人の耳に入ったとき、ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれました。

 

なぜそのことが問題だったのかというと、イエスの奉仕のほうがバプテスマのヨハネのそれよりも影響力を増したために、パリサイ人の関心と敵意が、今やバプテスマのヨハネからイエスに向けられていたことを意味していたからです。

 

それはイエスが彼らを恐れていたということではありません。まだその時ではなかったということです。その時とは、イエスの時です。イエスが十字架にかかって死なれる時はまだ来ていませんでした。それでイエスは、ユダヤを去って再びガリラヤへ向かわれたのです。

 

しかし、サマリヤを通って行かなければなりませんでした。当時、パレスチナは南のユダと北のガリラヤの間にサマリヤという地方があって、ユダヤからガリラヤの間を行き来する時には、そこを通らず、わざわざヨルダン川を渡って、ヨルダン川に沿って北上しました。もっとも急ぎの用の人は、サマリヤを通って行く人もいないわけではありませんでしたが、この少し後の所に、「ユダヤ人はサマリヤ人と付き合いをしなかったのである」とあるように、普通ユダヤ人たちは、その道を通ることはほとんどありませんでした。ですから、「サマリヤを通って行かなければならなかった」というのは、単に急ぎの用事があったからではなく、もっとほかの理由があったからなのです。

 

それはいったいどのような理由だったのでしょうか。それは5節にあるように、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリヤの町に来るためでした。そこにはヤコブの井戸がありました。主イエスがここへ来られたのは、単に名所旧跡を見に来られたのではありません。そこで、名もない一人の人、しかも、人生の裏街道を歩いているような人と会うためでした。会うためとは言っても、事前に会う約束をしていたわけではありません。これまで一度も会ったことのない人です。しかし、イエスはこの人と会うために、わざわざ普通のコースを取らず、サマリヤを通って行かなければなりませんでした。名もない、一人の女性を救いに導くために、イエスは、初めから、そのように計画しておられたのです。

 

私たちも、それが自分の考えや計画と違っても、神の御心ならば、それを変える柔軟さが求められます。それはイエス様のように、自分に与えられている神の使命を知り、そこに生きることから与えられるものです。いつも神の御心は何か、何が良いことで神に受け入れられることなのかを求め、その使命に生きる者でありたいと願わされます。

 

Ⅱ.イエスが与える水(6-14)

 

次に、6節から14節までを見て行きましょう。まず、8節までをご覧ください。

「イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。一人のサマリヤの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた」

 

イエスは、旅の疲れで、井戸の傍らに、腰をおろしておられました。イエスは、私たちと同じような肉体をもってこの地上での生涯を歩まれたので、疲れを感じられることもあったのです。日々の奉仕と、歩きながらの旅は、肉体的に相当きつかったのでしょう。

 

時はおよそ第六時でした。これはユダヤの時刻のことで、現在の時刻で言うと、正午ごろとなります。つまり、太陽が最も高く上る時間です。イスラエルのこの時間は砂の上で卵が焼けるほど暑いと言われていて、人々は、大抵外へ出ずに家の中でゆっくりと過ごすのが習慣となっていました。

 

そんな時間に、ひとりのサマリヤの女が、水を汲みに来たのです。いったいなぜ彼女はこんな時間に水を汲みにやって来たのでしょうか。通常は朝夕の涼しい時間帯に水を汲み終えるのが当然ですから、人目を避けて水を汲みにやって来たこの女性には、何らかの事情があったことがわかります。その事情とはどんなことだったのでしょうか?

 

それは、他人に会いたくなかったということです。16節から18節にある、イエスと彼女との会話を見てください。ここでイエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」と言うと、彼女は、「私には夫がいません。」と答えています。するとイエスは、彼女の心のやみを暴き出すかのように、このように言われました。

「自分には夫がいない、というのはそのとおりです。あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないからですから。あなたは本当のことを言いました。」

つまり、彼女は五回も結婚しましたが、その五回とも別れ、今は別の男性と同棲していたということです。今でこそバツイチ、バツニ、バツサンも珍しくありませんが、バツゴというのはあまり聞きません。しかし、彼女は、かつて人生の幸せを求め、5回も結婚しましたが、その心は満たされることはありませんでした。だれと結婚しても同じ。それなら結婚するのなんて止めて、ただ自分を満足させてくれる相手がいれば十分と、別の男性と一緒に暮らしていたのです。

 

しかし、それで問題が解決したかというとそうではなく、そのことで他人から後ろ指を指されるようになると、だんだん心が重くなり、他人と距離を置くようになりました。話をするのが面倒くさいのです。だれとも会いたくありませんでした。それで、だれも来ないお昼の時間を見計らって水を汲みにやって来たのです。

 

以前私が住んでいた家の近くに福島女子短大があったため、家の周りにはたくさんのアパートがありましたが、住んでいれば当然ごみも出るわけで、それを町内会が管理しているごみ収集所に置くわけですが、燃えるゴミも、燃えないゴミも一緒に捨てるため、しかも町内会費を払っていないということで、近所の人たちがクレームをつけました。「あなたたち町内会費も払ってないのに勝手に捨ててもらっては困るわ!」

すると、ごみ収集所から、学生たちの姿が消えました。消えたと言っても、どこかに行ってしまったわけではなく、町内会の人たちと会わないような時間帯を見計らってごみを捨てるようになったのです。夜中の2時とか、3時とかの時間です。彼女たちにとっては、いろいろと文句を言われるのが嫌だったのです。できるだけ会いたくないし、何も言われたくないという思いから、通常捨てる時間帯ではない時間に捨てるようになったのです。それと同じです。

 

そんな彼女にイエスは、「わたしに水を飲ませてください」と言われました。これは、常識はずれのことでした。というのは、ユダヤ人とサマリヤ人とは付き合いをしなかったからです。もともとユダヤ人とサマリヤ人は、同じイスラエル民族でした。しかし、その昔イスラエル王国が今の朝鮮半島のように北と南に分裂した後で、北王国イスラエルは生けるまことの神から離れてしまったため、ついに紀元前722年に東方のアッシリア帝国によって滅ぼされてしまうと、主だった男たちはみなアッシリアへ連れて行かれ、その後に残った貧民たちの所にアッシリア人をはじめとした多くの異民族の男性が送り込まれて来たために、彼らは混血族になってしまったのです。ユダヤ人は血の純潔を特に重んじていたので、それ以来、彼らを異邦人同様に蔑視するようになりました。

 

しかも、ここに「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」とあるように、ユダヤ人の男性が、サマリヤ人の女性に語りかけるということは、考えられないことでした。というのは、当時、女性の地位はとても低く、男性が女性に話しかけるということは、一般にはほとんどなかったからです。それなのに、イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください。」と言われました。なぜでしょうか。

 

それは、この女が本当に必要としているものは何かを、イエスが知っておられたからです。10節をご覧ください。「イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」」

 

イエスが言っていたのは、「生ける水」のことでした。イエスは「水」という平凡なものから、深い霊的真理を語っても、サマリヤの女にはそれを理解することはできませんでした。なぜなら、ニコデモの場合もそうでしたが、彼女は、あくまでも目に見えるこの世の物、物質的な世界にしか関心がなかったからです。それは彼らが宗教的ではなかったということではありません。ニコデモはユダヤ教の正当派であるパリサイ派に属していましたし、この女も後の箇所を見るとわかりますが、礼拝について関心を持っていました。しかし、彼らは霊的には盲目でした。ですから、イエスが語られた霊的真理に対する応答は、まことにトンチンカンなものだったのです。この女は11節、12節で、このように答えています。

「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」

 

覚えていらっしゃいますか。イエス様がニコデモに「新しく生まれなければならない」と言われたとき、彼がどのように答えたか・・を。ニコデモはこう言いました。

「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」(ヨハネ3:4)

ニコデモは、イエス様が「新しく生まれなければならない」と言われたことを、もう一度、お母さんの胎内で生まれてくることだと理解していました。それと同じです。サマリヤの女も、ニコデモも、霊的にはさっぱり理解できませんでした。

 

そこで、イエスは、彼女が理解できるように、同じ霊的真理を別の形で、少し違った言葉で、説明されました。13節、14節です。ご一緒に読んでみましょう。

「イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」」

 

イエスは、最初、「神の賜物」と言われたことを、10節で、「生ける水」と言い換えています。そして、ここに来てさらに、「永遠のいのちへの水」と言い換えています。この「生ける水」とか、「永遠のいのちへの水」とは、何のことを指していたのでしょうか。

 

ヨハネの福音書7章37-39節を開いてください。ここには、「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」 イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。」とあります。

これは神の御霊、聖霊のことを言っていたのです。つまり、イエスが与えられる生ける水とは、御霊と御言葉によって与えられる救いの恵みのことであり、これが与えられると、それまで求めても得られなかった本当の満足を得ることができるのです。それだけでなく、泉のように、永遠のいのちへの水が湧き出て来て、ほかの多くの人々を潤し、渇きを満たすことができるようになるのです。

 

これまで、この人類は、この心の渇きをいやしたいと思っていろいろなものを作り出してきました。それだけでなく、心の渇きをいやそうとして、目新しいものに取り組んでみたり、この世の中のどこかにそれがあるのではないかとずっと求めてきました。しかし、この世のものでは、また渇いてしまうのです。ちょうど、喉が渇くようにです。喉の渇きをいやそうと水を飲んでも、一時的にはいやされても、じきにまた渇いてしまいます。私たちが毎日していることは、このようなことなのです。人間が作ったものや、この世のものに求めても本当の満たしは得られないのです。主イエスに求めることです。イエスは言われました。「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」

 

私たちは、「風と共に去りぬ」という有名な映画をよく知っています。そして、この映画の主演男優であったクラーク・ゲーブルについてもよく知っています。彼はオスカー賞を何度も取りました。幸せを求めて5回も結婚しました。彼にはお金もあり、恋もあり、名誉もあり、人気もありました。私たちから見れば、彼は自分が求めたこの世の物のすべてを手にしたかのように見えました。

しかしある朝、彼はむなしく疲れ果て、自分のベッドで自殺しているのが発見されました。飢え渇いたその魂を、この世のもので満たすことはできなかったのです。永遠のいのちの水を見つけられずに終わったその魂が、残念に思えてなりません。

 

あなたはどうですか。永遠のいのちという水を持っておられますか。まだ持っていないなら、主イエスにそれを求めてください。なぜなら、イエスは、「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも決して渇くことがありません。」と言われたからです。イエスが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。その水は、イエス・キリスト以外には、どこを探しても得ることはできません。イエス・キリストこそ、私たちに生ける水を与えることができる唯一の方なのです。そして、その水は、その人の内で泉となるだけでなく、永遠のいのちへの水が湧き出ますとあるように、私たちの周りのすべての人をも潤す水となるのです。

 

Ⅲ.行って、あなたの夫を呼んで来なさい(15-18)

 

いったいどうしたら、その水を得ることができるのでしょうか。最後に15節から18節までを見て終わりたいと思います。

「彼女はイエスに言った。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」彼女は答えた。「私には夫がいません。」イエスは言われた。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」」

 

イエスが、「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」と言うと、彼女は、イエスに「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」と言いました。すると、イエスは彼女にこのように言われました。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」

 

これはどういうことでしょうか。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」と言われても夫とは離婚していて、夫はいませんし、今一緒にいるのは夫ではなく、ただ同棲しているだけの人ですから、夫ではありません。それならば、なぜイエスはこのようなことを聞かれたのでしょうか。

 

それは、彼女が、主の御前に、自分をありのままにさらけ出し、それを悔い改める必要があったからです。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」というイエスのことばは、彼女にとって、とても痛い言葉だったでしょう。できれば、そこだけは触れてほしくなかった。それは、ちょうど石の割れ目に釘を突き刺すようなものだったに違いありません。ちょっとでもたたいたらパカンと割れてしまうようなものでした。それでもイエスがそのように言われたのは、彼女が永遠のいのちへの水を受けるには、どうしてもそのことが避けられなかったからです。彼女が永遠のいのちを得るためには、自分の中にある罪をそのままにしておくわけにはいきませんでした。それを、主の御前にさらけ出さなければならなかったのです。このサマリヤの女が隠していた罪に光を当てるために、主は夫のことに触れたのです。

 

それに対して、彼女が「私には夫がありません。」と答えると、イエスは何と言われたでしょうか。イエスはこのように言われた。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」

このイエスの言葉は注目に値します。なぜなら、彼女の告白に対して、主イエスはそれを暖かく受け止めておられるからです。彼女に対して、なぜそんなに男を変えたのかとか、そのような同棲生活は正しくないと言うこともできたでしょうが、主はそのようなことは一言も言わず、むしろ愛と善意をもって受け止めてくださいました。それは、今日も同じです。主は、私たちの真実な悔い改めを、暖かく受け止めてくださるのです。

 

それは、主が彼女の罪をいい加減にして扱っておられたということではありません。主はここで、「今あなたと一緒にいるのは、あなたの夫ではないからです」と言われました。それが正しいことではないということをはっきりと言われたのです。しかし、だからといって彼女を叱責したり、断罪したりするのではなく、「あなたは本当のことを言いました。」と、受け止められました。これが、イエス・キリストが、私たちにも取ってくださる態度です。こうして初めて、自分の醜く汚れた本当の姿に気付くというか、自分の姿が示されるのです。

 

これは、私たちが他人に接する態度とはずいぶん違いますね。私たちが他人に接する時、たとえば、親が子供に対する場合などを考えてみると、子どもが自分の過ちを認めていても、正直に答えたことに対して、それを受け止めるというよりは、むしろそのしたこと自体を咎めたり、怒ってしまったりします。しかし、そのようにすれば、もう二度と正直に自分の間違いを認めることはしないでしょう。そして、むしろ怒られないようにと嘘をつくようになるものです。子どもが嘘をつく場合の多くは、このようにして起こります。これは、何も子どもに限ったことではなく、ほかの人に対する場合も同じで、多くの人間関係の中で、よく私たちがしてしまうことです。しかし、主イエスは違います。イエスは、私たちの罪の告白と悔い改めを、暖かく受け止めてくださるのです。

 

ですから、私たちに求められていることは、ありのままに、正直に、イエス様の前に出ることです、自分がどんなに汚れていても、それを隠すのではなく、それをさらけ出しながら、救い主イエスのところに来て、永遠のいのちへの水を求めるなら、主イエスは、決して渇くことがない、生ける水を与えてくださいます。その水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出るのです。

 

今日は、今年最後の礼拝となりましたが、この一年を振り返りながら、自分の罪、過ちがあればそれを主の御前にさらけだしてきよめていただきましょう。主は赦してくださいます。「もし私たちが、自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」そして、主が与えてくださる生ける水を持って、新しい生活を始めさせていただきましょう。

ヨハネの福音書3章31~36節「上から来られる方」

今日は、「上から来られる方」というタイトルでお話します。今、M兄とT姉のバプテスマ式を行いました。お二人は、イエス・キリストを信じてバプテスマを受けらました。キリスト教の信仰では、この誰を信じるかというのがとても重要です。

 

宗教と呼ばれるものにはたくさんありますが、中には何を信じているのかがよくわからないものも少なくありません。何を信じているのかということよりも、とにかく信じることが重要だと、信じることだけを強調するものも多いのです。鰯の頭も信心から、というわけです。ひどい言い方をすれば、何を信じるかなんてどうでもいいのです。確かに信じる対象がどうであれ、熱心に手を合わせることで一時的な心の安らぎが与えられるかもしれませんが、それで問題が解決されるのかというとそうではありません。どんなに信じても、自分が信じている対象が本当に救ってくれる力を持っているものでなければ、何の意味もないのです。ですから、信仰において最も重要なことは、その信じている対象がどのような方であるかということです。

 

今読んでいただいた箇所には、私たちの信じている方、イエス・キリストがどのような方であるのかがよく教えられています。

 

Ⅰ.上から来られた方(31-33)

 

まず31節から33節までをご覧ください。

「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地のことを話す。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。

この方は見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。 その証しを受け入れた者は、神が真実であると認める印を押したのである。」

 

27節から30節まではバプテスマのヨハネの言葉が記されてありますが、この箇所は、そのバプテスマのヨハネの言葉の続きなのか、この福音書を書いた使徒ヨハネの言葉なのかははっきりわかりません。バプテスマのヨハネの引用をここまでとしないで、36節の終わりまでとして訳すこともできるからです。しかし、36節の言葉を見ると、これは使徒ヨハネの言葉と考えるのが自然かと思います。なぜなら、3章18節にも、「御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。」と語れているからです。どちらが語った言葉であるにせよ、大切なのはその内容です。

 

「上から来られた方」とは、イエス・キリストのことです。キリストはただの人ではなく、上から来られた方です。つまり、天から来られた方なのです。それに対して「地から出る者は地に属し、地のことを話します。」これはだれのことを言っているのかというと、私たち人間のことです。私たちは、地から出た者なので、地のことを話します。しかし、キリストは天から来られた方なので、天からの言葉を語られるのです。ご自分が天において見たことを、聞いたことを証しされるのです。

 

これは驚くべきことではないでしょうか。私たちはだれも天に行ったことがない

で、そこがどういうところなのかわかりませんが、この方はもとから天におられたので、天上のことがどうなっているのか、その現実を証しすることができるのです。

 

1975年に、レイモンド・ムーディという有名な内科医が、「死後の生」という本を書きました。彼は、死んでからまた生き返ったという100人の人々に会って、調査し、死後どういうことがあったのか、その体験をまとめました。

ある人は、「一人しか通ることのできないような、暗いトンネルを通った」とか、「すでに死んでいる、自分の身内や友人を含めた、いろいろな魂や、天使のような案内者に会った」とか、あるいは、「言葉に言い表すことができないような平安と喜びを体験した」と答えました。

 

しかし、実際のところは、それが本当に天国だったのかどうかわかりません。なぜなら、その人たちは死にかけたかもしれませんが、本当に死んだのかどうかさえわからないからです。つまり、天国に行ったのかどうかわからないのです。

 

しかし、キリストはもとから天におられたので、天上のことがどうなっているのか、はっきり伝えることができたのです。1章18節には、「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」とありますが、ひとり子の神であられるキリストが、神を説き明かされたのです。

 

しかしここにはもっと驚くべきことが記されてあります。それは、この方は自分が見たこと、聞いたことを証ししているのに、だれもそのあかしを受け入れないということです。それは、私たちの回りを見れば一目瞭然でしょう。私たちの回りに、どれだけの人がそのあかしを受け入れているでしょうか。本当に一握りの人しかいません。

 

日本では、クリスチャンは人口のおよそ1%であると言われていますが、実際にはそんなにいないでしょう。日本の人口はおよそ1億2645万人ですから、仮にその1%がクリスチャンだとすると、126万人となります。しかも、その半分がカトリックですから、プロテスタントは50~60万人くらいでしょう。その中で日曜日に教会に行っているのは24万人くらいだと言われていますから、仮に電車に200人乗っていれば、クリスチャンが1人いるかどうかです。M兄が通っている大学の学生数は約6,500人ですから、30人くらいいても不思議ではありませんが、そんなにいないでしょう。ここには3~4人だけです。だれもそのあかしを受け入れません。

 

でも、わずかでもそのあかしを受け入れる人がいます。そういう人はどういうことになるのかというと、33節にあるように、神が真実な方であると認める印を押した人です。ここには、「その証しを受け入れた者は、神が真実であると認める印を押したのである。」とあります。この32節と33節の言い方は、1章11~12節のみことばを思い出させます。「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」

 

私たちが犯しやすい過ちは、神がお語りになったことを受け入れようとしないことです。そればかりか、その上に立って判断しようとします。それは先生が生徒に教えようとしている時、その教えを受け入れないで、それを批判するようなものです。いや、それ以上でしょう。なぜなら、先生も人間である以上、間違えることもあって、時として先生以上に優秀な生徒がいるということもあるからです。しかし、神の場合はそのようなことは絶対にありません。それなのに、人間が神の上に立って、それが正しいか、間違っているのかを、判断しているとしたら、本末転倒もいいところで、そのような態度では、いつになっても神を理解できるはずがありません。被造物である人間にできることは、ただ神の証しを受け入れることしかないのです。なぜなら、この方はすべてのものの上におられる方だからです。すべてのものの上におられ、すべてを支配しておられる方の証しをそのまま受け入れること、それが信じるということにほかなりません。

 

クリスチャンとは、このイエスの証しを受け入れた者です。その人は、ただイエスのことばが真実であることを確認したというだけでなく、神は真実であるということを認める印を押しました。なぜなら、イエスを遣わされたのはその父なる神であられるからです。イエス様を信じても、その初めの頃は、神様が真実な方なのかどうかよく分からないこともあります。イエス様を信じたのに、どうして私の人生にこんなことが起こるのかということがありますと、神様なんていないんじゃないか、と思うこともあります。しかし、時が経てば経つほど、本当に神は真実なお方であるということが分かってくるものです。

 

先日、末期のすい臓がんで、ご自宅で療養されているYさんを尋ね、一緒に賛美戸祈りの時を持たせていただきました。今年の6月にご病気であることがわかった時には、夏を乗り越えられないのではないかと思いましたが、不思議な神の恵みによって、ずっと命が保たれているというだけでなく、平安の中に過ごしておられます。痛みがある時は鎮痛剤を飲む程度で、他に特別な治療はしておられません。

ローマ人への手紙8章28節の御言葉、「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)を読んだ時、Y姉がこうおっしゃられました。「いや、クリスチャンになったばかりの頃は次から次に試練がやって来て、神様なんていないんじゃないかと思ったこともありましたが、しかしあれから25年、振り返ってみると、本当に神様に守られていたということがよくわかります。もっと早く信じればよかったと思います。ただこうして信仰によって救われた今、イエス様にいつも見守られて、平安が与えられていることを感謝しています。幸いなことに、死ぬことに恐れはないんです。死は終わりの始まりですから。」

本当にそうではないでしょうか。時が経てば経つほど、神がいかに真実な方であるかということが実感として分かってきます。その証しを受け入れた者は、この神が真実な方であるということを認めるだけでなく、その真実な神に励まされて生きる力が与えられるのです。

 

Ⅱ.キリストは神のことばを語られる(34-35)

 

次に、34節と35節をご覧ください。「神が遣わした方は、神のことばを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである。父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお与えになった。」

 

「神が遣わした方は、神のことばを語られる」。これは、イエス・キリストのことです。キリストは神から遣わされた方なので、神のことばを語られます。なぜなら、「神が御霊を限りなくお与えになるから」です。新改訳聖書第三版には、「神が御霊を無限に与えられるからである。」とあります。

 

これはどういうことかと言うと、一般に預言者と呼ばれる人は神のことばを語りますが、どのようにして語るのかというと、神の御霊、聖霊に導かれてです。預言者は自分が語りたいことではなく、神が語るようにと導いてくださっていることを語るのです。しかし、私たちが神のことばを語るのと、キリストが語るのとでは少し違いがあります。確かに私たちも御霊に導かれて語っていますが、限界があるのです。そのために祈り、聖書をよく調べ、神が語っておられることはこういうことだと確信をもって語りますが、時々わからないということや、間違って理解することがあります。しかし、イエス様はそういうことがありません。イエス様は完全に神のことばを語ることができました。なぜなら、神が御霊を無限に与えられたからです。

 

これは、神のことばを語る私たちがいつも目指していることです。説教者(預言者)は、自分の思いや考えを語るのではなく、神から預かった言葉を、神からのことばとして語らなければならないということです。その神のことばこそ聖書です。キリストが地上におられた時は、キリストからじかに神のことばを聞くことができましたが、キリストが昇天して天に行かれた後は、神は私たち人間の救いに関する御心を、この聖書に啓示してくださいました。ですから、神の御心のすべては、この聖書の中に書かれてあるのです。聖書が神からの啓示であると言えるのは、これが神の御霊である聖霊によって書かれたものだからです。テモテ第二の手紙3章16節に、「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」と書かれてあるとおりです。聖書こそ100%神の御霊によって書かれた書であり、キリストが地上におられた時に語られた時と同じ権威をもった神のことばにほかなりません。だから説教者は、この神のことばである聖書を語らなければならないのです。

 

しかし、それは説教者だけではありません。その説教を聞く人も同じで、それを説教者のことばとしてではなく、また人間のことばとしてではなく、神のことばとして聴かなければなりません。

 

私はこれまで毎週日曜日の礼拝で説教を語ってきました。神のあわれみによって35年間語らせていただいたので、礼拝説教だけで1820回語ってきたことになります。その他に祈祷会やさまざまな集会で語って来たことを合わせると相当数の説教を語って来たことになります。私はよくしゃべるので、中には私は口から生まれて来た人間だと思っている人もいますが、実はそうではなく、本当に口下手で、シャイで、できれば誰かの陰に隠れていたいタイプなのです。そんな私が語り続けることができたのは、それは私の中に語るものがあったからではなく、神が語るべきことばを与えてくださったからです。そうでなければ、そんなに語り続けることなんてできなかったでしょう。

 

でも、もっと驚くべきことは、そこにそれを聴いてくださる方がおられたということです。学校ならば卒業もありますが、教会には卒業がありません。何年も、何十年も、教会を移らない限り、ずっと同じ牧師からの説教を聴き続けなければならないのです。それも大変なことだとつくづく思います。語る方も大変ですが、聴く方はもっと大変です。「また同じことを言っている。前にも聞いたなぁ」と愚痴の一つが出ても不思議ではありません。それなのにずっと同じ牧師から聴き続けることができるのは、それを人間の言葉としてではなく、神からの言葉として聴いておられるからです。それが、人間の言葉であれば、聴き続けることなんてできないでしょう。そうです、私たちがいつも礼拝で耳を傾けている聖書は、人間から出た言葉ではなく、神から来た言葉なのです。説教者はただそれを取り次がせていただいているに過ぎません。ですから、いつまでも語り続けること、また聴き続けることが可能になってくるのです。

 

あなたは、神のことばである聖書のことばをどのように受け止めておられるでしょうか。聖書のことばを神のことばとして受け止め、そこに信頼をおいていますか。聖書のことばをそのように受け止めるなら、あなたの人生にもこの豊かな神の恵みが注がれるのです。

 

Ⅲ.永遠のいのちを持つ者(36)

 

最後に36節のことばを見て終わりたいと思います。この節は、これまで語ってきたことの結論です。「御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」

 

「御子を信じる者は永遠のいのちを持っている」御子イエスを信じる者には、今、この地上で生きている時点で、すでに永遠のいのちが与えられているのです。永遠のいのちは、死後に与えられるものだけではなく、信じた時から体験できる神との生きた交わりであり、神の臨在であるからです。

 

それはまた、この御子イエスを信じない者に対する霊的現実でもあります。ここには、「御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがとどまる。」とあります。それは死後のことだけでなく、今すでに始まっているのです。いくら神のことばを聞き、イエス・キリストの福音を聞いても、それに従う意志がない人には、永遠の祝福にあずかることがないというだけでなく、今も神の怒りがその上にとどまっているのです。神との生ける交わりがありません。人のからだも血管が詰まると重大な病気を引き起こすように、神との交わりが断たれると、そこに神のいのちが流れることはありません。霊的に死んでいるのです。しかし、あわれみ豊かな神様は、その死の原因である罪を取り除くために、御子イエスを遣わしてくださいました。この方を信じる者はひとりも滅びないで、永遠のいのちを持つのです。

 

あなたは、この永遠のいのちを持っておられますか。それとも、まだ神の怒りがとどまっているでしょうか。T姉とM兄は、御子イエスを信じて永遠のいのちを持つことができました。その答えを御子イエスに見出したのです。あなたも御子イエスを信じてください。信じて、この方の中にしっかりととどまってください。それが、神が御子をこの世に遣わされた目的だったのです。

ヨハネの福音書3章22~30節「主役はキリスト」

きょうは、ヨハネの福音書3章22節から30節までの箇所から、「主役はキリスト」というタイトルでお話しします。

 

Ⅰ.ヨハネの弟子たちのいらだち(22-26)

 

まず22節から26節までをご覧ください。

「その後、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。

一方ヨハネも、サリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が豊かにあったからである。人々はやって来て、バプテスマを受けていた。ヨハネは、まだ投獄されていなかった。

ところで、ヨハネの弟子の何人かが、あるユダヤ人ときよめについて論争をした。彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。ヨルダンの川向こうで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。そして、皆があの方のほうに行っています。」」

 

「その後」とは、ニコデモとの会話の後で、のことです。イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられました。それがどこであったかのかははっきりわかりませんが、おそらくヨルダン川でのことでしょう。というのは、26節に、「先生。ヨルダンの川向うで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。」とあるからです。おそらく、ヨハネがいた所からそう遠くない場所でイエスはバプテスマを授けておられたのだと思います。

 

一方ヨハネはというと、サリムに近いアイノンという所でバプテスマを授けていました。そこには水が豊かにあったからです。その頃はまだ、ヨハネは投獄されていませんでした。ヨハネはこの後でガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスに捕らえられ投獄されますが、まだ捕らえられていなかったので、バプテスマを授けていたのです。

ですから、その頃はイエスとバプテスマのヨハネの双方がバプテスマを授けていました。これは、どういうことでしょうか?それはちょうどリレーのバトンの受け渡しのようです。ヨハネは旧約聖書の最後の預言者でした。彼において旧約の時代は終わります。旧約聖書の主な役割は、キリストが来られることを予め前もって告げることでした。そのキリストが来られたのです。ですから、ヨハネの働きが終わって、ヨハネが指し示していたキリストの働きが今まさに始まろうとしていました。そのバトンがキリストへと渡されようとしていたのです。

 

ところが、ヨハネの弟子たちはそのことが理解できませんでした。それで彼らはヨハネのところに来て、こう言いました。26節、「先生。ヨルダンの川向うで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。」

 

バプテスマのヨハネが、以前ヨルダン川でバプテスマを授けていた時は、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川の全地域から人々がやって来ました。その中には、パリサイ人やサドカイ人も大勢いれば、ローマの兵士たちもいました。ところが、バプテスマのヨハネが主イエスのことを、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(1:29)と言ってあかしし始めると、人々はどんどん彼から離れて行き、イエスの方について行くようになりました。彼らは、それがおもしろくなかったのです。

 

ある註解者は、この時のヨハネの弟子たちの心境をこのように推察しています。

「ヨハネの弟子たちは、多くの者がイエスのもとに行くのを見て、いらだちを覚えたのであろう。ヨハネの使命が、イエスを指し示すことであることは百も承知していたはずなのに、『皆があの方のほうに行きます』という言葉から想像できるように、人の波が大きくイエスの方に移っていくのを見た時、弟子たちは切ない気持ちになったのであろう。そして、その切ない気持ちはいらだちへとふくれあがっていったに違いない。ヨハネの弟子たちの心の中にはイエスに対するねたみの思いが湧き上がってきたのではないだろうか。人が離れていくのを寂しいと思う気持ちが雪だるま式にふくれあがり、やがてねたみへと変わっていったのである。人間の争いのほとんどは、この感情を震源地としているのである。イエスを十字架につけたのも、ユダヤの指導者たちのねたみのせいであったと他の福音書には記されている。」

 

この時のヨハネの弟子たちの心境がよく表されているのではないでしょうか。人間の争いのほとんどは、この感情を震源地としているのです。すなわち、人をねたむ心こそが、人間の争いの原因なのです。

 

先日祈祷会で士師記12章から学びましたが、エフタに詰め寄ったエフライム人の問題もここにありました。彼らはアンモン人に勝利したエフタに詰め寄ってこう言い増した。「なぜ、あなたは進んで行ってアンモン人と戦ったとき、一緒に行くように私たちに呼びかけなかったのか。」(士師記12:1)

なぜって、以前エフタがアンモン人と戦ったとき、彼らに助けを求めたのに、彼らは助けてくれなかったからです。それなのに、今ごろになって不平を漏らし、戦いを挑んでくるなんて、筋が違います。それは彼らの中に高ぶりとエフタに対するねたみがあったことが問題でした。

 

パウロは、コリントの教会に宛てて書いた手紙の中で、彼らは御霊の人ではなく、まだ肉の人だと言っています。なぜなら、彼らの間にはねたみや争いがあったからです。それである人は「私はパウロにつく」と言い、別の人は「私はアポロに」と言っていたのです。アポロとは何ですか。またパウロとは何ですか。彼らは、あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」(Ⅰコリント3:6-7)

 

あなたにはこのような思いはないでしょうか。私たちは、すぐに人と自分を比較してはねたみを抱いてしまいます。自分よりもほかの人の方が優れているのを見ると、あるいは、ほかの人がうまく行っているのを見ると、その人が妬ましくなるのです。しかし、それはただの人、つまり、イエスを知らない人と同じです。そうした思いはただ争いを引き起こすだけで、そこからは何も良いものが生まれてきません。ですから、もしあなたの中にこうした思いがあるならば、イエス様に赦していただきながら、神の御霊によって聖めていただかなければなりません。

 

Ⅱ.自分の立場をわきまえる(27-28)

 

次にそうした弟子たちの訴えに対して、バプテスマのヨハネがどのように答えているかを見てみましょう。27節と28節をご覧ください。

「ヨハネは答えた。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。『私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです』と私が言ったことは、あなたがた自身が証ししてくれます。」

 

「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。」とは、どういう意味でしょうか?人々がキリストの方に行くのは、神がそうさせておられるからであるということです。それなのに、ねたみを抱くことがあるとしたら、その神の主権を侵害すことになります。私たちは、どんな場合でもそこに神の御手があることを認めなければなりません。

 

それは私たちの生死に関しても言えることでしょう。たとえば、私たちの家族の中に障害のある子どもが生まれてくると、なかなかそれを受け入れることができないかもしれません。そのことで親は自分を責め続けるでしょう。しかし、そこに神の御手があると信じ、神が与えてくださったものであると受け止めるなら、その苦しみから解放されるでしょう。

 

それは自分のいのちについても同じことが言えます。人は自分の死が近づいて来るとなかなかそれを受け入れることができません。そのためにもがき苦しむのです。しかし、クリスチャンは違います。クリスチャンは、自分の人生すら自分のものではなく、自分がこの世に生かされているのは、神が自分にいのちを与えてくださったからであると受け止めているので、そして、この世での使命を果たし終える時、神はこの世のすべての苦しみから解放して、もっとすばらしい天の御国に入れてくださるということを信じているので、安らかに死を迎えることができるのです。

 

今、さくら市ミュージアムで「青木義雄と内村鑑三」展をやっておりますが、昨日はその記念講演として内村鑑三の人と信仰についての講演会がありました。講師が、黒川知文先生と言って、私の神学校の時の講師だったので、講演を聞きに行きました。内村鑑三の信仰に改めて感動しました。

何に感動したのかというと、その講演の中で内村鑑三が愛娘のルツ子さんを天に送るのですが、その告別式で内村鑑三がこのように言ったことです。「今日はルツ子の葬儀ではなく、結婚式であります。私は愛する娘を天国に嫁入りさせたのです」そして、墓地に埋葬する際には、一握りの土をつかみ、その手を高く上げ、甲高い声で「ルツ子さん、万歳!」と大勢の参列者の前で叫んだのです。後に東大の総長となった矢内原忠雄は、当時19歳でしたが、この叫びを聞いて雷に撃たれたような衝撃を受けたと言っています。

なぜ内村鑑三がこのように言うことができたのか。それは彼の中にキリストの再臨信仰があったからです。かなわち、キリストが再臨されるとき、キリストにあって死んだ者の復活があり、生ける者の携挙があると堅く信じて動かなかったからです。その時から、彼の再臨運動が一層熱を帯びていくわけです。そして、各地での聖書講義には平均で800人もの人々が集まったと言われています

17歳で札幌農学校に入学した彼は、キリストとの出会うわけですが、26歳の時にアメリカのアマースト大学でシーリー学長との出会いによって真の救いの体験をすると、このルツ子さんの死という試練を乗り越えて、死んでも復活する再臨信仰に至り、このように言うことができたのです。

 

それは生死に関することだけでなく、私たちの人生のすべてにおいて言えることです。人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。今、私たちに起こっているすべてのことが神によって与えられているものであると受け止められるなら、すべての心のいらだちから解放されるでしょう。たとえ人が自分のところから他の人のところへ移って行くようなことがあったとしても、それが天から与えられたことであると受け止めるなら、すべてを神にゆだねることができるのです。

 

バプテスマのヨハネの場合はどうだったでしょうか。彼は28節でこのように言っています。「私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです』と私が言ったことは、あなたがた自身が証ししてくれます。」

 

彼は、自分に与えられている立場がどのようなものであるかを、よく自覚していました。自分がどのような者であるかが分からない人は、とかく傲慢になります。パウロはコリントの教会の人たちに対してこう言っています。「いったいだれが、あなたをほかの人よりもすぐれていると認めるのですか。あなたには、何か、人からもらわなかったものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。」(Ⅰコリント4:7)

これはどういうことかというと、彼らが持っているものはすべて神からもらったものなのに、どうしてもらったものでないかのように誇るのかということです。彼らは、自分がどこから出発したのかを忘れていました。罪と汚れの中から、神の一方的な恵みによって、キリストの十字架の贖いによって救われたのに、そして、その神の恵みとして御霊の賜物が与えられたのに、あたかも自分の力で得たかのように錯覚していたのです。ですから、「あの人は、なぜ、自分たちのように神に仕えていないのか」と批判していたのです。それは彼らが、自分たちがどのような者であるのかを忘れていたからです。

 

自分を誇る人の多くは、この点がよくわかっていません。頭がよいということにしても、努力できるということにしても、ある種の才能を持っているということにしても、どれもすばらしいことですが、しかし、どれ一つとして自分の力で得たものではないのです。それらはみな与えられたものなのです。そういうことが分かってくると、自分の分もまたおのずと分かってくるのではないでしょうか。

 

バプテスマのヨハネは、自分に与えられていたものをよく自覚していました。「私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです。」私はそういう者でしかないのです。だから、人々があの方の方へ行ったとしても、何の問題もありません。むしろ、それが本望です、と言うことができたのです。

 

謙遜ということは、口で言うのはやさしいことですが、実際にそれを行うということは、決してやさしいことではありません。特に、いかに人を蹴り落として自分が上に立つかを求めているこの競争社会の中に生きている私たちにとっては、本当に難しいことです。しかし、そのような中にあっても真に謙遜に生きるコツは、このバプテスマのヨハネのように自分に与えられた立場をわきまえ、そこに生きることなのです。

 

Ⅲ.主役はキリスト(29-30)

 

では、主役は誰でしょうか。主役はキリストです。バプテスマのヨハネはそのことを29節と30節でこのように言っています。

「花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」

 

バプテスマのヨハネは、続けて弟子たちに語っています。「花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。」

ヨハネはここで自分のことを、結婚式における花婿の友人にたとえています。花婿の友人とは、ベストマンとかブライズメイトのことです。日本ではベストマンとかブライズメイトのいる結婚式はあまり見られませんが、アメリカの結婚式ではよく見られます。というか、ほとんどの結婚式におります。彼らの役割は何かというと花嫁や花婿を引き立て、彼らを助け、彼らが結婚して、喜びの生活に入れるようにすることです。あくまでも結婚式の主役は花嫁であり、花婿です。その主役である花嫁を引き立て、そばに立って耳を傾け、大いに喜んでいるのが花婿の友人なのです。間違っても、自分が出すぎてはいけません。バプテスマのヨハネはここで、自分はその花婿の友人であり、花婿であられるキリストの声を聞いて喜びに満ち溢れていると告白しているのです。

 

これこそヨハネが彼の弟子たちに求めたことでした。そして、これはすべてのクリスチャンにも求められていることです。クリスチャンはみなこの花婿であられるキリストの友人であり、あくまでも主役はキリストなのです。このことを忘れてはいけません。というのは、謙遜はこのことをわきまえることから得られるものだからです。つまり謙遜は、謙遜になろうと努力することによって獲得できるようなものではなく、キリストとの正しい関係にあることによってもたらされるものであるということです。キリストはこのように言われました。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30)

どうすれば、たましいに安らぎが来るのでしょうか。キリストのくびきを負って、キリストから学ぶことによってです。なぜなら、キリストは柔和でへりくだっているからです。ですから、このキリストのくびきを負って、キリストから学ぶなら、たましいに安らぎを得ることができるのです。くびきとは、牛や馬など二頭の家畜をつなぐ棒のことですが、普通は牛や馬の頸部に取り付けられます。つまり、このくびきを負って、キリストとつながれているなら、私たちも柔和で、へりくだった者になることができるということです。

 

私たちは、花婿に仕える友人のように、花婿であるキリストを喜び、キリストに仕える者です。そして、花婿が花嫁と結ばれることによってその役目を果たし終えるように、キリストによって成し遂げられた救いの御業が全世界に宣べ伝えられ、多くの人々が救われて、世の終わりに天において子羊の婚宴が開かれることを待ち望みつつ、主に仕えて行く者なのです。

 

来週はM兄とT姉のバプテスマ式が行われますが、それはまさに花婿であられるキリストとの結婚式でもあります。やがて世の終わりにキリストとの婚宴が開かれる時、そこに招かれることでしょう。それはキリストの喜びであり、私たちの喜びでもあります。なぜなら、私たちは花婿のそばに立って、花婿が語ることに耳を傾け、花婿の声を聞いて大いに喜んでいる者だからです。それが私たちの喜びでもあるのです。

 

最後のところでヨハネは、「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」と言っています。これこそクリスチャンとしての最大のあかしです。「私が盛んになり、あの方は衰えなければなりません。」ではなく、「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」それでいいのです。それが私たちの人生であり、私たちの喜びだからです。

 

パウロは、コリント人への手紙の中で、「私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。」(Ⅱコリント4:5)と書きましたが、それはまさにこのことでした。私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えるのです。あくまで主役はキリストなのです。そのことを忘れないでください。

 

今日からアドベントが始まりました。クリスマスの12月25日と言えば、冬至のころです。一年で一番夜が長い時期です。それから少しずつ昼が長くなっていきます。キリストがいよいよ光り輝き、栄光をお受けになられるのです。それに対して、バプテスマのヨハネは半年早く誕生しました。これはあくまでもそのように定められたということであって、実際のキリストの誕生日はいつなのかははっきりわかりません。ただわかっていることは、その半年前にバプテスマのヨハネが誕生したということです。ということは、クリスマスが12月25日とすれば、彼の誕生は6月24日となります。6月24日は夏至のころで、それから次第に昼が短くなっていきます。これは極めて象徴的であると言えるのではないでしょうか。バプテスマのヨハネは、この方をあかしさえすれば、それでこの世における使命は終わり、消えていくのです。まさに彼の人生は、「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」でした。

 

それは、私たちの人生も同じです。私たちの人生は、この方をあかしさえすれば、それでいいのです。それが本望です。それでこの世における使命は終わり、消えていくべき者にすぎないのです。私たちは、この神の定めを本当に理解しているでしょうか。それが本当に分かると、私たちの心は真の自由を得ることができます。私たちもこのバプテスマのヨハネから学び、彼のような生涯を送らせていただきましょう。あくまでも主役はキリストです。この方が盛んになり、私は衰えていかなければなりません。この方の声を聞いて大いに喜びましょう。キリストの心を心とする者、それが花婿であるキリストの友なのです。

ヨハネの福音書3章16~21節「永遠のいのちを持つために」

きょうは、ヨハネの福音書3章16節からのところから、「永遠のいのちを持つために」というタイトルでお話しします。

今お読みした聖書の箇所、特に3章16節は、聖書の中でも特に有名な箇所です。それは、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」という言葉です。なぜこの言葉が有名なのかというと、聖書には多くのことが書かれてありますが、その最も大切なことがここにあるからです。聖書のエッセンスがこの言葉の中にすべて含まれていると言えるでしょう。それゆえに、この箇所は「聖書の中の聖書」、「聖書の中の小聖書」と言われているほどです。

きょうは、この有名な箇所から、永遠のいのちを持つためにはどうしたらよいかについて、ご一緒に考えていきたいと思います。

 

Ⅰ.ひとり子を与えるほどの神の愛(16a)

 

まず16節に注目してください。ここには、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とあります。

 

今日ほど愛という言葉が使われている時代はないでしょう。至る所で愛という言葉がささやかれていますが、その愛は、愛の形をしてはいても、実際には、そうではありません。むしろ愛とは正反対である場合がほとんどです。というのは、愛は自己犠牲が伴うものだからです。しかし、大抵の場合は、ほかの人に与えるものではなく、自分のためにすべてを奪うものになっています。

 

しかし、ここに本当の愛があります。それは、神が、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛されたことの中に現されました。ある註解者は、「ここに神の無限の愛がある。この愛は人間の知らない愛である」と言っています。何ゆえに、この愛は人間の知らない愛なのでしょうか。たとえば、この愛に最も近いものに母親の愛があるでしょう。母親にとってわが子は特別の存在で、まさに目の中に入れても痛くない存在です。母親であればわが子のために自分を犠牲にすることもいとわないでしょう。しかし、そのような愛でさえ「わが子」に限定されたもので、それを超えて愛するということはほとんどありません。
しかし、神の愛はそうではありません。神の愛は、全く愛される価値のない者でさえも愛する愛です。人間は神によって造られたにもかかわらずその神を愛することはおろか、神に背を向け、罪の奴隷となっていました。聖書では、これを罪と言っていますが、この罪深い人間のために、神はそのひとり子をお遣わしになり、十字架で死んでくださったのです。

 

旧約聖書のホセア書に出てくる物語は、この神の愛がどのようなものかをよく表しています。

ホセアという預言者は、神の愛をあかしするために、彼自身得意な生活を余儀なくされました。ホセアは、ディブライムの娘ゴメルと結婚し、三人の子どもが生まれました。しかし、妻のゴメルはホセアと結婚しながらも不貞を続け、彼よりも別の男性を求めたのです。夫のホセアは彼女を愛するあまり、その心は引き裂かれるばかりに痛み、苦しみます。けれども、ゴメルは夫から離れ、愛人たちのところに身を潜め、売春までするようになるのです。そのことを知ったホセアは恥を忍んでその場に出向き、お金を払って彼女を連れ戻します。ホセアは彼女が悔い改めることを願い、彼女のすべての罪を赦そうとするのです。

 

このたぐいまれな経験は、神が神の民イスラエルに対して抱いていた思いを表していました。背かれる者の苦しみと、その背く者への愛の深さを、彼は自分の経験を通して知り、神に反逆しているイスラエルの民を神がどんなに深く愛しておられるのかを語ったのです。いったいどこに夫を捨てて別の男に身も心も寄せた女を愛する人がいるでしょうか。しかし、ホセアは神の命令に従い、別の男に身を売っている妻を愛し、彼女を多くの代価を払って買い戻したのです。これが神の愛です。

 

この妻ゴメルの姿やイスラエルの姿は、私たちの姿でもあります。私たちは神を愛し、神の喜びと栄光のために造られたにもかかわらず、その神を愛することはおろか、神に背を向け、自分勝手に生きていました。それなのに、神はそんな背信と不遜のかたまりのような私たちを愛し、多くの代価を払って罪の奴隷から買い戻してくださいました。神は、全く愛される価値のない者さえをも愛してくださったのです。

 

いったい神はどのように愛してくださったのでしょうか。ここには、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」とあります。「ひとり子」とは、イエス・キリストのことです。この「ひとり子」という言い方は、神そのものであられるお方を意味しています。神ご自身が犠牲となってこの世に来られ、十字架にかかって死なれるほどに、愛してくださいました。その愛の広さはいかばかりかというと、「世を」という言葉の中に表されています。神の愛はその選ばれた民イスラエル人だけでなく、この世を愛されました。神の愛は、全世界のあらゆる民族に及ぶのです。しかも、その愛の大きさは、ひとり子をお与えになったほどでした。これは十字架での犠牲を指しています。尊い神の御子イエス・キリストの死こそ、神が私たちを買い戻すために支払われた代価だったのです。

 

皆さん、物の価値というのは、差し出された代価よって決まります。たとえば、ここにマイクがありますが、これは3万円くらいで買いました。3万円を払って買ったわけですが、それはそれだけの価値があったからです。では、神様は、私たちのためにどれだけの代価を払ってくれたでしょうか。何とそのためにご自身のひとり子をお与えになりました。本来であれば全く価値がない者なのに、神はそれほど価値ある者と見てくださったのです。それほどまでに愛してくださいました。

 

ローマ人への手紙5章7節~8節には、こうあります。「正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」

神は、私たちがまだ罪人であったときに、キリストが私たちのために死んでくださったことによって、ご自身の愛を明らかにしてくださいました。罪人である私たちのためにいのちを捨ててくださる方がおられる。これが神の愛です。これが聖書の中心なんです。このような愛は私たち人間の中にはありません。それは、私たち人間の知らない愛です。神はこの愛を、ひとり子であられるイエス・キリストをこの世に与えることによって表してくださったのです。

 

Ⅱ.永遠のいのちを持つために(16b-18)

 

いったいなぜ神はそれほどまでに愛してくださったのでしょうか。16節後半から18節にこのように記されてあります。

「それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」

 

それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。永遠のいのちとは何でしょうか?永遠のいのちとは、単に長生きすることではありません。ヨハネの福音書17章3章には「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」とあります。

 

私たちは「永遠のいのち」という言葉を聞くと、死んだあとも続くいのちであるかのように考えがちですが、確かに、死んでからも続くいのちのことでもありますが、その本質は神の臨在のことです。唯一まことの神とキリストを知ることに他なりません。私たちが、日々の祈りの中で、あるいは神のみことばを読む中で、主がどのように自分と関わっておられるのかを知り、その神を仰ぎ見て、神の御前にひれ伏す中で生ける神と交わることこそ、永遠のいのちなのです。そこに神がおられるということです。神とキリストの臨在の中で生きること、それが永遠のいのちです。

 

それは、人がそのように造られたからです。創世記1章27節には、「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」とあります。「神のかたち」とは何でしょうか?それは霊のことです。神は、私たちを肉体を持つ者として造られただけでなく霊を持つ者として造ってくださいました。これは神を慕い求め、神に祈る存在として造られたということです。ですから、人は神につながり、神に祈り、神と交わり、神のいのちを持つことで、本当に人間らしく、真の喜びと満足を得て生きることができるのです。

 

それなのに、最初の人であったアダムが神の命令に背いて罪を犯したことによって、この神との関係が切れてしまいました。つまり、霊的に死んでしまったのです。神との交わり、永遠のいのちを失ってしまいました。それゆえに神は、そのように霊的に死んだ人が新しく生まれ変わって神との関係を回復するために、すなわち、永遠のいのちを持つために、御子をこの世に送ってくださったのです。それは、御子を信じる者が、一人として滅びることなく、このいのち、永遠のいのちを持つためです。

 

それはまた、この地上での肉体のいのちがのちが尽きても、決して終わることがない神との交わりのことでもありのす。

母が脳梗塞で召されて10年が経ちました。召された日の朝方まだ薄暗い時間にカタッと音がしたので「大丈夫?」と起きてみると、母は意識がはっきりしていて、「いや、何だか目が覚めたんだ」というので、「そう、まあ、安心して、イエス様が一緒にいるから」というと、「そうだね」と言ってまた静かに眠りに就きました。そして、だいぶ明るくなったころ少し経って息づかいが荒くなったかと思うと、静かに息を引き取りました。母は私が手を握り締めている中で、天に帰って行きました。静かな死でした。それは、天国を確信し、まるで、ふすまをあけて隣の部屋にいくように、召されて行きました。83歳の生涯でした。私は、母との別れの悲しみや寂しさで涙を流しましたが、それは決して絶望の涙ではありません。しばしの別れの涙です。なぜなら、死は、決してイエス・キリストが与えてくださった永遠のいのちを奪うことはできないからです。永遠のいのち、それは、決して変わることのない希望なのです。

神様は、私たちにこの永遠のいのちを与えるために、そのひとり子を遣わしてくださったのです。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではありません。御子によって世が救われるためです。御子を信じる者はさばかれません。

 

ここから、私たちが救われるためには二つの側面があることがわかります。それは神がしてくださったことと、私たちがしなければならないことです。神がしてくださったこととは、もちろん、神がこの世を愛してくださったということです。神は、実に、そのひとり子をお与えになるほどに愛してくださいました。しかし、私たちが救われるためにはもう一つの側面があります。それは、私たちがその神の愛に応答して、御子を信じるということです。御子を信じる者は、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つのです。

 

それは前回のメッセージで語った通りです。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって、永遠のいのちを持つためです。」(3:14-15)十字架に上げられたイエス・キリストを仰ぎ見るなら、救われるのです。仰ぎ見るとは、信じるなら、ということですが、イエスを、自分の罪の救い主として信じるなら、救われるということです。

 

実は、前回のメッセージをホームページにアップしたところ、本当に多くの方々からメールをいただきました。その中には、十字架に付けられたイエスを信じるだけでは救われないというものもありました。自分の罪は、自分で背負って、イエス様に着いていくのが、正しいです、というのです。また、イエスが命じられたとおり、神を愛し、隣人を愛さなければ救われない、というのもありました。でも、自分の罪を、自分で背負うことができますか?神を愛し、隣人を愛することができますか?できません。だから、神様は信仰によって救われる道を用意してくださったのです。私たちが救われる道は、神がしてくださった十字架と復活の御業を信じて受け取る以外にないのです。確かに、イエスは、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに着いて来なさい、と言われましたが、それは私たちが救われるためではなく、救われた私たちがその救いの恵みに感謝してささげる応答なのであって、私たちが救われる唯一の道は、神の一方的な恵みの賜物、プレゼントであるイエスの救いの御業を信じて受け入れることしかないのです。

 

これはリーダースダイジェストという雑誌に載っていた実話ですが、カナダのある町の町はずれに刑務所がありました。

冬の寒い日、その刑務所の高い塀の外の寂しい道を12、3歳の少女が一人、粗末な外套の襟を立てて、行ったり来たりしていました。

ちょうど、刑務所の所長さんが、そこを通りかかりました。そして、「どうしたの?」と、声を掛けました。

少女は、怯えたように、小さな声で言いました。「わたし、この中にいるお父さんにクリスマスプレゼントを届けに来たのです」。

「じゃあ、私が届けてあげよう。ちゃんとあなたが届けに来たことを話して、渡してあげるから、早く家にお帰り。風邪をひかないようにね」。

その少女のお父さんは、強盗犯人で、その刑務所でも有名な、嫌われ者でした。乱暴で、直ぐに喧嘩をし、規則を守らず、看守たちの言うことを聞かず、手のつけられない囚人でした。

所長さんは、自分で、その少女のプレゼントを渡しに行って、こう言いました。「さあ、君の娘さんが、この吹雪の中を届けに来たクリスマスプレゼントだよ。開けてごらん」。

でも、そのお父さんは一言も口をきかず、包みを開こうともしませんでした。そして、恐い顔をして、所長さんをにらみつけています。

所長さんは、優しく言い続けました。「君の娘さんの心のこもったプレゼントなんだよ。さあ開けてごらん」。やっと、お父さんは、ノロノロとリボンをほどき、小さな紙の箱を開けました。

箱を開けたお父さんは、「あぁー、これは!」と大きな声をあげました。なんと、その箱の中には、目も覚めるようなきれいな金髪の巻き毛が入っていました。少女は、自分の髪の毛を、惜しげもなく、ばっさりと切って、箱に入れたのです。

そして、娘さんからのカードが添えてありました。そこにはこう書かれていました。

「愛するお父さん。クリスマスおめでとうございます。私はお父さんに何か良いプレゼントをと考えたのですが、お金がありません。だから、お父さんも大好きだった、私の大切な髪の毛を、クリスマスのプレゼントとして贈ります。

私の愛するお父さん、早くうちに帰って来てちょうだい。私はいつまでも待っています。お母さんもいなくなったので、わたしは今、伯父さん叔母さんの所にいます。二人とも、お父さんのことを良く言いません。でも、お父さん、私にとって世界でたった一人のお父さん、私はお父さんが大好きよ。どんなに辛くても、寂しくても、私はお父さんを待っています。

お父さん、お体を大切にね。私は毎晩毎朝、神様にお父さんのことを祈っています」。

手紙を読んでいるうちに、この男の目から、涙がどっと溢れ出て、子供のように泣き出しました。涙が後から後から流れ、本当に長い間、このお父さんは泣き続けました。

自分の一番大切な金髪の巻き毛をささげた娘さんの愛が、荒れてすさんだお父さんの心に平和をもたらしたのです。

その時から、このお父さんは、生まれ変わったように良い人になって、刑務所でも模範的な囚人になったそうです。

 

最も大切なものさえ与える愛は私たちを変えます。私たちを新しく造り変えるのです。そして、私たちの心に平和をもたらします。でも、そのためには、その愛を受け取らなければなりません。神があなたに贈られた大切な贈り物を、信仰によって受け取らなければならないのです。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。ユダヤ人であっても異邦人であっても、救われる唯一の道は、神の御子イエス・キリストを信じること以外にはないからです。

 

Ⅲ.そのさばきとは(19-21)

 

では、信じないとどうなるでしょうか。信じない者はさばかれます。いや、すでにさばかれています。神のひとり子の名を信じなかったからです。19節から21節をご覧ください。

「そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。」

 

さばきというものは、普通世の終わりにあるものだと考えられていますが、事実、世の終わりにもありますが、しかし世の終わりにだけあるのではなく、もうすでに今現在始まっていると、聖書は言っています。これはどういうことかというと、悪いことをする者は、自分の行っていることや、その動機が神の光に照らし出されることを恐れるため、光であるイエス・キリストのもとに来ようとしないということです。そうすることによって、神のさばきを自分自身に招いているのです。つまり、イエスを信じないこと自体、神から離れていること自体が、神のさばきであるというのです。最初の人間アダムが罪を犯した時のことを考えてください。「あなたはどこにいるのか」と神に呼びかけられたとき、はどうしたでしょうか。彼は、神を恐れて、隠れました。それが神のさばきです。神によって造られ、神を愛し、神に従って生きるように造られた人間が、神を恐れて隠れたということ自体が、さばきなのです。

 

私は、以前、刑務所で教誨師をしていたことがあります。教誨師というのは、刑務所に収容されている人たちにそれぞれの宗教の立場から教え諭すことを目的に、個人と集団に行われるものですが、ある時、それに出席していた収容者たちに尋ねたことがあります。「皆さんは、実際に罪を犯して捕まるまでどんなお気持ちでしたか?」

するとそこにいるほとんどの人が同じように答えました。「あれは、生きた心地がしなかった!」

いつ捕まるかという恐れで不安でたまらなかったというのです。警察官に職務質問されようものなら、その緊張は極度に達しました。捕まって安心したというか、捕まるまでが地獄だったというのです。

これと同じです。捕まるまでが地獄です。捕まっても地獄ですが、捕まるまでも地獄です。すでにさばかれているからです。神のもとに来ようとしないこと自体、神のさばきにほかなりません。

 

それではなぜ人は神のもとに来ようとしないのでしょうか。それは光がこの世に来ているのに、自分の行いが悪いため、それが明るみに出されることを恐れるからです。つまり、悪い行ないを愛しているからです。神が望むようにではなく、自分の望むように生きていきたいのです。イエス様を信じると新しく生まれ、罪から離れなければならないと知っているので、イエスのところに来ようとしないのです。人はイエス様を信じない理由をいくつも並べ立てますが、本当の理由はただ一つ、今の生活を変えたくないだけです。

 

力ルヴァンはそのことについて、このように言っています。「彼らがキリストに近づくことの妨げとなっているのは、明らかに彼ら自身の邪悪さなのである。彼らが光よりも闇を選び、彼らに差し出されている光を避けるのは、悪意からそのようにしているばかりでなく、更に自分の罪深さを感じている心に由来しているのである」 確かにその通りではないでしょうか。そして、そのようなことは、私たちにも思い当たる節があります。キリストはそのような私たちの心の深いメカニズムを明らかにしておられるのです。

 

しかし、これは単に悪者はキリストを避け、善人はキリストに近づくということではありません。キリストが十字架につけられたあのゴルゴタの丘を思い出してください。ほかにも二人の犯罪人が、キリストと一緒に十字架につけられました。一人はキリストの右に、もう一人は左につけられました。民衆が「おまえが神のキリストなら、自分を救ってみろ」とあざけったとき、十字架にかけられた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「お前はキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言いました。

しかし、もう一人の犯罪人は彼をたしなめてこう言いました。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているのではないか。私たちは、自分がしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことは何もしていない。」(ルカ23:40-41)

そして、こう言いました。「イエス様。あなたが御国に入れられるときには、私を思い出してください。」(ルカ23:42)

するとイエスは彼に言われました。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)

悪人がキリストを否定して、善人がキリストを受け入れたのではありません。この二人はどちらも犯罪人でした。その犯罪のゆえに処刑されなければならなかった罪深い人間だったのです。  では、なぜ一人の犯罪人はキリストをあざけり、一人は受け入れたのでしょうか。分かりません。ただ分かることは、もしイエス様が私にどちらになりたいのかと問われたら、私もキリストを受け入れる者になりたいということです。福音は、神様の一方的な恵みですから、私たちは何をしなくてもよいのかというと、そうではありません。御子を信じなければなりません。それが私たちに求められている応答なのです。福音は神様の一方的恵みですが、私たちはそれを受け取らなければならないのです。

 

「ちいろば」という本を書いた榎本保郎先生は、そのことを次のように言っています。「朝が来るのは私の努力ではない。しかし、早朝の素晴らしさを味わうためには、早起きが必要なのである」

私たちも、神がイエス・キリストを通して与えてくださった愛に対して、その愛に心から応える者でありたいと思います。そして、イエス様があの一人の犯罪人に、「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」と言われたように、私たちも永遠のいのちを持つ者でありたいと思うのです。

ヨハネの福音書3章1~15節「新しく生まれる」

きょうは、聖書の中でも有名なニコデモの話から、「新しく生まれる」というタイトルでお話しします。

 

Ⅰ.ニコデモの悩み(1-2)

 

まず1節と2節をご覧ください。

「さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。

この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」

 

ここに、ニコデモという人が登場します。1節には、彼がとのような人であったかが紹介されています。つまり、彼はパリサイ人の一人で、ユダヤ人の議員であったということです。パリサイ人とは、ユダヤ教の一派で、聖書を重んじ、その教えを真剣に守ろうとしていた人々のことです。当時は六千人ぐいいたと言われています。彼らは、人々から尊敬の目をもって見られていました。ニコデモはそのパリサイ派に属していました。

 

それだけではありません。彼はユダヤ人の議員でもありました。ユダヤ人の議会は、サンヘドリンと呼ばれていたユダヤの最高議会のことです。祭司や長老、学者たち等71人で構成されていました。そこでは政治的なことだけでなく、宗教的なことも含め、すべてのことがここで議決されていました。彼はその議員だったのです。

 

つまり、彼は当時のユダヤ人としては最高の社会的地位と名誉、そして、財産の持ち主であったということです。それは今日でいうと、東大の教授であり、衆議院議員であり、最高裁の判事でもある、といった立場の人です。

 

そんな彼が、ある夜、イエスのもとに来てこう言いました。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」

 

ニコデモはなぜ、イエスのもとにやって来たのでしょうか。3節のところで主イエスは、「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と答えていますが、このことばから考えると、彼はどうしたら神の国を見ることができるのかがわからなかったのです。神の国を見るということは、永遠のいのちを得るということです。すなわち、それは救われるということです。いったいどうしたら救われるのか、ニコデモはわからなかったのです。彼はパリサイ派の人で聖書を重んじ、聖書に従って生きてきましたが、聖書の中で最も重要なこの救いに関することがわからなかったのです。そして、何としても知りたくて、イエスのもとにやって来たのです。

 

彼はここでイエスを「先生」と呼んでいます。大工の子であったイエスを「先生」と呼ぶのは異例です。「先生」という言葉は、当時最大級の敬意を払った言葉だったからです。それは彼が、イエスが行ったしるしは、神が共におられるのでなければできないと考えていたからでしょう。もしかすると彼は、ガリラヤのカナの婚礼で、イエスが水をぶどう酒に変えられた奇跡のことを聞いていたのかもしれません。あるいは、エルサレムの神殿でイエスが行われたしるしについて聞いたのかもしれません。それとも、直接それらを目撃していたのかもしれません。いずれにせよ、彼はそのような不思議なしるしは神によらなければできないと考えたので、恥も外聞も捨てて、イエスのもとにやって来たのです。夜に・・。

 

ここでは、彼が「夜」やって来たとあります。どうしてわざわざ夜「夜」やって来たのでしょうか。ある人は、それはイエスは日中とても忙しかったので、じっくりと話すために夜やって来たのではないかと考えています。また、ユダヤ教のラビは、夜、律法を勉強する習慣があったので、その夜にやって来たのではないかと考える人もいます。けれども、彼が夜、イエスのもとにやって来たのは、やはり人に知られないようにしたかったからではないかと思います。というのは、このヨハネの福音書19章39節にもニコデモのことが言及されているのですが、そこにも「以前、夜イエスのところに来たニコデモも」と、彼が夜イエスのもとにやって来たことが強調されているからです。それが彼の特徴でした。彼はそこまでしてイエスのもとに行こうとしたのです。

 

この時彼はすでに確固たる地位を築いていました。名誉もありました。そんな彼が若干33歳のイエスのもとに教えを受けに行くということには相当抵抗もあったことでしょう。そのような彼の姿が、「夜イエスのもとにやって来た」ということで表されているのです。しかし、彼はそれでもイエスのもとにやって来ました。それは、彼がそれほど真剣に救いを求めていたからです。皆さん、それが求道の第一歩です。このような求道心こそ、私たちが救われるために、また、救われてキリストをさらに深く知っていくために必要なことなのです。

 

Ⅱ.新しく生まれる(3-8)

 

それに対して、イエスは何と答えたでしょうか。3節をご覧ください。

「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

 

「まことに、まことに」という言葉は、原語では「アーメン、アーメン」です。ヨハネの福音書では、イエス様が大切なことを語られる時、このように「アーメン、アーメン」という言葉で語っておられます。それは、これからとても大切なことを告げますよ、というニュアンスです。その大切なこととはどんなことでしょうか?それは、人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない、ということです。これはニコデモがどうしたら神の国を見ることができるのか、どうしたら永遠のいのちを得ることができるかと尋ねたことに対するイエスの答えです。これはどういう意味でしょうか。

 

これは、聖書で言う救いとはどのようなものであるかを教えています。ここに「新しく」と訳された言葉は、「上から」という意味があります。「上」とは神様ご自身のことを指しています。つまり、「人は、神様によって生まれなければ、神の国を見ることが出来ない」というのです。というのは、聖書で言う救いとは、単に良い人間になろうとすることとは違うからです。一般に良い人間になろうとすることは、人間の努力や教育によって進歩することを意味しますが、新しく生まれるというのは、神のいのちである聖霊を受け入れ、聖霊が自分の内に住んでくださることを意味しているからです。たとえば、猫や猿をどんなに教育し、良い服を着せたとしても、猫や猿が人間になることはできません。人間の子供になるには、人間のいのちを持たなければなりません。そのように、人が新しく生まれるためには、神のいのちである聖霊を持たなければならないのです。つまり、人は母の胎内で肉体のいのちを得ますが、神の聖霊を受け入れ、その聖霊が私たちの魂の中に入っていただくことによって、神の子どもとして新しく生まれることができるのです。

 

ウィリアム・ジェームズという心理学者は、「宗教体験の種々相(しゅじゅそう)」という本の中で、こんなことを言っています。「一度しか生まれたことのない人は二度死ぬ。しかし、二度生まれた人は一度しか死なない。」

少しわかりずい言葉ですが、この二度生まれるということは、普通の肉体の誕生と今ここで取り上げられている霊の誕生という二つの誕生のことを意味しています。つまり、普通の肉体の誕生しか経験していない人は、肉体の死とともに、永遠の死を経験しなければならないということです。それに対して、普通の肉体の誕生とともに、霊的誕生を経験している人、すなわち新生を体験した人は、肉体の死を経験するだけで、最後の永遠の死は経験しないということです。つまり、最後の神の裁きに会うかどうかは、新しく生まれているかどうか、霊的に誕生したかどうかで決まるというのです。

 

ところが、ニコデモは、そのことがよく理解できませんでした。それで4節でこのように言いました。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」

彼はユダヤ教の教師でありながら、イエス様が言われたことを全然理解できませんでした。この言葉の中に彼のとまどいがよく表れているのではないでしょうか。そんなことを言ったって、もう一度母の胎に入って、生まれ直すなんてできないでしょう、と言っているのです。彼は「新しく生まれる」ということを耳にしたとき、赤ちゃんとして生まれてくるあの肉体の誕生のことしか考えられなかったのです。

 

しかし、イエスはあくまでも霊的誕生のことを語っておられました。それで5節と6節でこのように言われました。

「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」

人はどのようにしたら新しく生まれることができるのでしょうか?イエスはここで、「水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」と言われました。「水と御霊によって生まれる」とはどういう意味でしょうか?

 

これについては、大きく分けて三つの解釈がありますが、多くの註解者は、この水は水のバプテスマを指し、御霊は御霊のバプテスマを指していると考えています。すなわち、救い主イエスを信じ、水のバプテスマを受けることによって救われるというのです。しかし、聖書はそのように言っておりません。人はイエスを認め、信じることによって救われるのであって、バプテスマを受けなければ救われないとはどこにも書かれていないからです。

 

そこで、ある註解者は、この「水と御霊によって生まれなければ」というのは、「水すなわち御霊によって生まれなければ」という意味だと解釈しています。なぜなら、マタイの福音書3章11節に、「その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。」とありますが、この「聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられる」というのは、「聖霊すなわち火のバプテスマ」という意味であるからです。ですからこの「水と御霊によって生まれなければ」という表現も、「水すなわち御霊によって生まれなければ」と理解すべきだというのです。すなわち、御霊は水のように洗い、私たちを救ってくださるということです。このように解釈する人たちは、それを裏付けるみことばとしてテトス3章5節を取り上げています。そこには、「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。」とあります。

 

しかし、もっと適切な解釈は、この「水」を「みことば」と解釈することです。なぜなら、エペソ5章26節を見ると、ここには「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、」とあるからです。「キリストがそうされたのは」の「そうされた」とは、キリストが十字架で死なれたことを指していますが、キリストが十字架で死んでくださったのはいったい何のためだったのでしょうか。それは、みことばにより、水の洗いをもって、私たちをきよめて聖なるものとするためでした。ここでは「みことば」が水の洗いのことを示しているのは明らかです。ですから、この「水と御霊によって生まれなければ」というのは、人は神のみことばを受け入れ、主イエスを罪からの救い主として信じるなら、神の御霊によって新しく生まれると解釈するのが一番適切ではないかと思います。

 

それにしても、いったいなぜ人は新しく生まれなければならないのでしょうか。なぜなら、生まれながらの人は、罪を持っているからです。これを原罪と言います。ですから、その罪を赦していただかなければ神の国に入れていただくことができないのです。そのためには新しく生まれなければなりません。イエス・キリストを信じて新しく生まれた人、つまり神のみことばを受け入れ、御霊によって新しく生まれた人だけが神に国に入ることができるのです。

 

このことをなかなか理解できず不思議に思っていたニコデモに対して、イエス様は一つの譬えで語られました。何ですか?「風」です。7節と8節をご覧ください。

「あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」

 

風は吹いていても、それがどこから来て、どこへ行くのかわかりません。ただ「ピュー」と風が吹いている音を聞いたり、「バタン、バタン」というトタン屋根が風に煽られている音を聞くことによって「あ、風が吹いているな」とわかるのです。また、部屋から外の街路樹を眺めたとき、枝が大きくなびいているのを見たり、雲や煙がたなびくのを見て、風が吹いているのがわかります。御霊によって新しく生まれるのも同じです。それは人の目で見ることはできませんが、御霊によって新しく生まれると、その人の人生がすっかり変わるので、だれの目にも明らかとなるのです。そして風は右から吹いてきたかと思ったら今度は左から吹いて来るというようにその動きが一定でないように、神の御霊も思いのままに吹くのです。そうです、それは決して私たち人間がコントロールできるものではなく、全く自由な神のご意志によってなされることなのです。私たちは、その御霊の働きを妨げではなりません。

 

するとニコデモはどのように答えたでしょうか。9節、ニコデモはこう言いました。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。」

彼にはそのことがなかなか理解できませんでした。どうして理解できなかったのでしょうか?それは、彼は自分の理性と経験を頼りにしていたからです。つまり、自分の頭で理解できることと、自分が体験したことしか受け入れられなかったのです。

イスラエルの宗教指導者であった彼がこのように考えていたというのは不思議なことです。というのは、彼には神からの啓示である旧約聖書が与えられていたからです。旧約聖書をみれば、そこには超自然的なことがたくさん出てきます。たとえば、イスラエルがエジプトから出てくるとき神がエジプト中の初子という初子を皆滅ぼされたこととか、後ろからエジプト軍が追って来て逃げ場を失い絶対絶命のピンチに陥ったとき紅海が二つに分かれたとか、ユダヤ人が絶滅の危機に陥ったとき、神はエステルを用いてその絶滅の危機から救ってくださったとか、バビロンに70年間も捕らえられていたユダヤ人がペルシャの王によって解放されユダヤの地に帰還することができたとか、どれも神のご介入がなければ決して起こり得なかったことばかりです。それなのにニコデモが理解できなかったのは、彼が御霊に属していたのではなく、この世にぞしていたからです。コリント第一2章14節に次のようにあります。

「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。」

 

つまりニコデモはユダヤ教の宗教指導者ではありましたが、御霊に属することを受け入れなかったので、御霊のことがさっぱり理解できなかったのです。これは今日でもよく見られます。社会的にどんなに学力に優れていても、聖書が言っていることがどういうことなのかがさっぱりわからないというのと同じです。それは、自分の理性と経験だけを判断のよりどころとしているからです。でも、自分の理性がどれほど正しいでしょうか。自分の経験がどれほど確かだと言うのでしょうか。自分では何でも知っていると思っていても、実は本当に知らなければならないことさえ理解していないことが多いのです。そんな私たちの理性や経験によって霊のことを理解しようとしても理解できないのは当然のことです。御霊のことは御霊によって判断するものだからです。大切なのは、私たちが霊的には本当に無知であるということを認め、神の真理を知りたいという思いで、神に求めることです。そうすれば、知ることができます。求めなさい。そうすれば与えられるのです。

 

Ⅲ.永遠のいのちを持つために(11-15)

 

そんなニコデモに対して、イエスはどうしたら新しく生まれることができるのか、どうしたら永遠のいのちを持つことができるのかを説明されました。11節から15節までをご覧ください。

「まことに、まことに、あなたに言います。わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

 

イエスは、ニコデモが霊的なことに鈍感であることに対してあきれながらも、忍耐をもって真理を説いてくださいました。それがこの11節以降にあることです。そして、ニコデモがよく知っている旧約聖書の出来事を引用して説明なさいました。14節です。

「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。」

 

これは民数記21章にある内容で、イスラエルの民が昔、経験したことです。イスラエルの民が、神の力強い御手によってエジプトから救い出され、約束の地カナンに向かって荒野を旅していた時、主は彼らが生きていくために必要なパンや水を何回もお与えになりました。それなのに彼らは神とモーセに対してつぶやきました。

「なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている。」(民数記21:5)

すると神は怒られて彼らに毒蛇を送り、それにかませたので、つぶやいた者たちはその毒蛇にかまれ、イスラエルのうちの多くの者が死んだのです。これは、神に反逆する者たちへの神の裁きでした。この苦しみの中からイスラエルの民は自分たちの罪を悔い改め、モーセにとりなしの祈りをするように願いました。それでモーセが祈ると、神は不思議なことを言われたのです。燃える蛇を作り、それを旗さおの上に付けよ、と言うのです。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる・・と。モーセは主が仰せられたとおりに青銅の蛇を作り、それを旗さおの上につけました。そして、蛇にかまれた者が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きたのです。

これは、どう考えても理屈に合わない出来事です。青銅の蛇を仰ぎ見ただけで、いのちが助かるというのは、普通だったら考えられません。しかし、理解できなくても、神様の言葉を信じてその通りにした人たちは救われました。

 

いったいこれはどういうことを意味していたのでしょうか。イエスは、この出来事を引用し、「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。」と言われました。「それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」つまり、旗さおの上につけられた青銅の蛇を仰ぎ見た者が救われたように、私たちの罪のために十字架に付けられて死なれたイエス・キリストを仰ぎ見る者は救われるということです。私たちは、最初の人アダムが罪に陥って以来、何千年という間、その罪のために死ななければならない運命にありました。それは、ちょうどイスラエルの民が荒野で神につぶやいて、毒蛇にかまれた時のようです。しかし、神はあの時モーセに命じて青銅の蛇を旗さおに上げたように、天から下りて来られた神の御子イエス・キリストを十字架につけてくださったので、このイエスを仰ぎ見る者は救われるようにしてくださったのです。あの青銅の蛇は、十字架につけられたイエス・キリストの姿であったのです。それは、人の子を信じる者がみな、永遠のいのちを持つためです。十字架のキリストを仰ぎ見る者、すなわち、イエス・キリストを自分の罪の救い主と信じる者は、だれであっても、罪から救われ、永遠のいのちが与えられ、神の国に入れていただくことができるのです。

 

このようなことを聞くと、そんな非科学的で迷信じみたことに惑わされるものかと言う人もいるでしょう。そんなことは、自分の理性が許さない、という人もおられるでしょう。事実、旗さおの上につけられた青銅の蛇を仰ぎ見る者は死ななくても済むんだと聞いた人々の中にも、その反応は必ずしも同じではなかったでしょう。中には、そんなことは自分の今までの長い経験の中で一度もなかったし、そんなばかげたことで人が救われるはずがないじゃないか、という人もいたでしょう。あるいは、そんな迷信じみたことをだれが信じるものかと拒絶した人もいたでしょう。そういう人はみな、どうなりましたか?そういう人はみな死んで行きました。

しかし、苦しみのあまり、わらをもすがるような思いで、天幕からはい出し、旗さおの見えるところまで来て、その上に付けられていた青銅の蛇を仰ぎ見た人は救われました。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、人の子を信じる者がみな永遠のいのちを持つためです。

 

皆さんはどうですか。旗さおにつけられた青銅の蛇を仰ぎ見ていますか。十字架のイエスを仰ぎ見ているでしょうか。仰ぎ見ることが骨の折れることでしょうか。いいえ、簡単なことです。だれにでもできます。そして、信仰をもって仰ぎ見るなら、どんな人でも救われるのです。これが信仰です。この信仰によって、私たちは新しく生まれることができるのです。別に高価な薬を飲まなければ救われないとか、お百度参りをしなければならないと言っているのではありません。ただ旗さおに付けられた青銅の蛇を仰ぎ見るだけでいいのです。私たちが救われるのは、ただイエス・キリストを信じること、それ以外に道はありません。

 

ヨハネ19章39~41節をご覧ください。先ほど言及した箇所です。ニコデモはイエス様を信じて、新しく生まれ変わったでしょうか。

「以前、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持ってやって来た。彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料と一緒に亜麻布で巻いた。イエスが十字架につけられた場所には園があり、そこに、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。」

これはイエスが十字架で息を引き取られた直後のことです。以前、夜イエスのところに来たニコデモとは、この時のことを指しています。彼はイエスが十字架で息を引き取られた直後、十字架のもとに進み出て、イエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料と一緒に亜麻布で巻きました。これは午後3時頃の出来事です。彼は以前、夜イエスのところに行きましたが、この時は違いました。白昼公然とイエスのもとに進み出たのです。それは彼が十字架に付けられたイエスを仰ぎ見て救われたからです。彼は水と御霊によって新しく生まれたのです。

 

あなたはどうでしょうか。ニコデモのように罪から救われて、永遠のいのちを持っていますか。ここにニコデモのように神を見出し、永遠に生きる道を見つけた大学者たちの証しがあります。

天文学者ヨハネス・ケプラーは、星が一定の法則に従って動いていることを最初に発見した人です。彼の星の運動についての3つの法則は、宇宙旅行のための研究の基礎となったと言われています。その彼がこう言っています。

「この発見によって、父である神のお名前が少しでもあがめられるなら、私の名前は、永遠に忘れられてもよい」

なぜなら、彼は偉大な神の救い、永遠のいのちを得ることができたからです。またアイザック・ニュートンは、誰もが知っている偉大な科学者ですが、彼は、「私のすべての発見は、祈りの答えでした。」と言っています。

また世界的に有名な、ドイツの医師で、宣教師でもあったアルバート・シュバイッツァーは、ある日、ニコデモのように主イエスに出会い、永遠のいのちをいただき、限りない喜びに与りました。そして彼は思いました。あのアフリカには、どれほど多くの人が神の愛を知らずに死んで行くのだろう。それで彼はドイツでも有名な大学の教授職を退き、アフリカに生き、生涯を黒い大陸の星のように生きました。そのおかげで、今日アフリカでは、最も多くの人々が新しいいのちを得ています。

 

あなたもニコデモのように神を見出し、永遠のいのちをいただいてください。もう既にイエスを信じて、この永遠のいのちを受けておられる方もいると思いますが、まだ信じていない方のために、その方が心から信じて受け入れることができるために、今、祈りの時を持ちます。この祈りの終わりのところで、「アーメン」と言いますが、それは、「今、祈ったことはほんとうです」という意味です。あなたが、「アーメン」と心から言えたなら、あなたのすべての罪が赦され、あなたも永遠のいのちを持つことができます。ですから、私の後に続いて祈ってください。そして、「アーメン」と心から告白してください。

「主イエスさま。私はあなたを必要としています。あなたが、私の罪のために十字架で死なれたことを感謝します。私は、あなたを、私の罪からの救い主、人生の主としてお迎えいたします。私のすべての罪を赦し、永遠のいのちを与えてくださったことを感謝します。どうか私の心の王座に座して、私の人生を導いてください。イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。」

どうでしょうか。あなたも心からイエス様をあなたの人生の主として受け入れることができたでしょうか。イザヤ書45章22節にはこうあります。

「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。」

私たちが救われる道はただ一つ、キリストを仰ぎ見ることです。キリストを仰ぎ見る者は、みな救われ、神の国に入れていただくことができるのです。あなたもキリストを信じ、その生涯、キリストを仰ぎ見続けてください。

ヨハネの福音書2章12~25節「主に信頼される者に」

きょうは、ヨハネの福音書2章12節から25節までにある「宮きよめ」の出来事から「主に信頼されるに」というタイトルでお話しします。

 

皆さんは、イエス様に対してどのようなイメージを持っておられるでしょうか。子どもたちを抱いて優しくお話しされる姿ですか。それとも病人の手を取っていやされるあわれみ深いイエス様のお姿でしょうか。あるいは、弟子たちとガリラヤ湖を舟で渡られたときに嵐を静めたような、力強いお姿ですか。

聖書を見るとイエス様のいろいろなお姿が出てきますが、きょうの箇所には普通とはちょっと違うイエス様の姿が描かれています。それは憤られるイエス様です。勿論、その怒りや憤りは私たちのように利己的な動機によるものとは違い、天地万物を造られた創造主としての、何が正しくて、何が間違っているのかを示す、正しい憤り、怒りです。

 

きょうは、この箇所からイエス様に喜ばれる者とはどのような者かについて学びたいと思います。

 

 

Ⅰ.神の家を商売の家にしてはならない(12-17)

 

まず12節から17節までをご覧ください。

「その後イエスは、母と弟たち、そして弟子たちとともにカペナウムに下って行き、長い日数ではなかったが、そこに滞在された。

さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。そして、宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、

細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、鳩を売っている者たちに言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。」

 

「その後」とは、イエス様がガリラヤのカナでご自分の栄光を現された後で、ということです。イエス様は母マリヤ、そしてイエス様の弟子たちはともに婚礼に招かれましたが、婚礼の宴会でぶどう酒がなくなったときユダヤ人のきよめのしきたりによってそこに置いてあった水がめに水を満たし、それをぶどう酒に変えられました。それがイエス様の最初のしるしでした。「その後」のことす。

その後イエス様は、母と弟たち、そして弟子たちとともにカペナウムに下って行き、長い日数ではありませんでしたが、そこに滞在されました。

 

そして、ユダヤ人の過ぎ越しの祭りが近づいたので、イエス様はエルサレムに上られました。イエス様の公の生涯、公生涯においては、過越の祭りが4回ありましたが、13節の過越しの祭りはその最初のものです。イエス様の公生涯を3年半と計算する理由は、その間に4回の過越しの祭りがあったからです。 イエス様は、最初の過越の祭り約半年前にバプテスマを受けておられます。

 

「過越の祭り」とは、かつてイスラエルがエジプトの奴隷として捕らえられていたとき、神はモーセを通してそこから解放してくださいましたが、そのことをお祝いする祭りです。そのとき、神はモーセを通して「わたしの民を行かせなさい」とエジプトの王パロに言いましたが、パロは頑なでなかなか行かせなかったので、エジプトに十の災いを送られました。その最後の災いは、エジプト中の初子という初子を皆滅ぼすというものでした。ただ、神が命じるとおりに羊の血を取りそれを家の門柱とかもいに塗った家だけは、災いを通り越すというのです。

それでイスラエル人はみな神が命じられたとおりに羊をほふって血を取り、その血を自分たちの家の門柱とかもいに塗ったので神のさばきが通り過ぎていきました。しかし、エジプトの王とその民はそれを拒んだので神のさばきが彼らに臨み、エジプト中の初子という初子は人から家畜に至るまですべて死んでしまいました。それでイスラエルの民は長い間、実に430年間もエジプトの奴隷として捕らえられていましたが、そこから奇跡的に解放されたのです。それはまさに一方的な神の御業によるものでした。それで神はこのことを忘れないようにと、これを過越しの祭りとして行うように命じられたのです。

これはユダヤ人にとって最大の祭りでした。モーセの律法によると、巡礼祭と呼ばれる祭り、つまりエルサレムに上って祝う祭りが三つありましたが、過越の祭りは、その最初のものでした。そこには離散したユダヤ人たちが、何万人、何十万人と集まっていたのです。

 

その過越の祭りが近づいたとき、イエスがエルサレムの宮の中へ入って行くと、そこに牛や羊や鳩を売っている者たちと、両替人が座っているのを見て、激怒されました。そして、細縄でむちを作り、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒したのです。いったいなぜこんなことをしたのでしょうか。

 

そこにいた牛や羊や鳩は、犠牲として神にささげられる動物です。モーセの律法の規定によると、それらの動物は、傷もしみもないものでなければなれませんでした。自分で犠牲の動物を持って来ても良かったのですが、それは祭司によって吟味されなければならず、外部から持ち込まれた動物が検査に合格することはありませんでした。結局、巡礼者たちは、検査で「適格」の印のついた動物を、高い値段で買うしかなかったのです。

 

また、すべての男子が半シェケルの神殿税を治めることになっていましたが、ローマの貨幣はカイザルの肖像が刻まれていたため使用することができませんでした。そのため、人々は高い手数料を払って、ユダヤの貨幣に両替していたのです。

 

そうした腐敗した神殿の様子を目の当たりにして、主イエスは激怒されました。そして、商売人や両替商たちを神殿から追い出されたのです。しかも、細なわでむちを作り、商売用の台を倒して、それを実行されました。

 

それはイエスが神殿の所有者であること、つまり、ご自身がメシヤであることを主張するためでした。16節を見てください。イエスは、羊や牛を宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒すと、鳩を売っている者たちにこう言われました。

「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」

 

どういうことでしょうか。神の家であるはずのエルサレムの神殿が商売の家となっている。そういうことがあってはならない、というのです。神のささげる動物を売る人たちや両替人たちが、そこで大儲けしていました。そしてその利益の一部がその神殿の業務を司っていた大祭司や宗教指導者たちのところに流れていました。そういうことがあってはならない、というのです。なぜなら、ここは「わたしの父の家」だからです。父の家であるということは、子であるイエスの家でもあります。そうです、この神の家であなたがたは何をしているのか、というのです。イエス様はそれをご自分の家であると言われたのです。つまり、イエス様はご自分がメシヤであることを示されたのです。

 

皆さん、神の家は本来何をするところなのでしょうか。そうです、神の家は本来神を礼拝するところです。心から神に礼拝がささげられるところであるはずなのです。それなのに、その大切なことをおろそかにされているとしたら、それは本末転倒です。神の家の主人公は神であり、また、キリストであるはずなのに、いつしかその神とキリストがどこかに追いやられてしまい、形式的な活動が繰り返されているだけだとしたら、それはもはや神の家とは言えないのです。彼らは形式的なささげものをすることで、神を礼拝しているつもりでした。決められた儀式さえ行っていれば、神様に喜ばれるはずだと思っていました。その結果、こうしたことが平気で行われていたのです。また、それを見ても誰も何とも思わなくなっていました。霊的に鈍感になっていたのです。

 

こうしたことは、私たちにもあるのではないでしょうか。ただ礼拝に出席していれば宗教的な務めを果たしていると思ったり、与えられた奉仕を行っていれば神に喜ばれるものと思っていることがあります。勿論、このようなことがどうでもいいというのではありませんが、そこに肝心の神が、キリストがどこかへ追いやられているとしたら、何の意味もないのです。

 

Ⅰサムエル記15章22節にはこうあります。

「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」

また、同じⅠサムエル記16章7節には、「人はうわべを見るが、主は心を見る。」とあります。

 

パウロは、ローマ人への手紙の中でこのように勧めています。

「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたにお勧めします。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」(ローマ12:1)

あなたがたのからだを、あなたがた自身を、神に喜ばれる、聖い生きた供え物としてささげること、これこそ神が喜ばれる礼拝であって、それ以外のことが、そのこと以上に大きくならないように絶えず吟味しなければなりません。

 

17節をご覧ください。ここには、「弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。」とあります。弟子たちは、イエス様のあまりの激しい憤りに、旧約聖書の言葉を思い出しました。それは「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」という言葉です。これは詩篇69篇9節の言葉ですが、リビングバイブルでは、「神の家を思う熱心が、わたしを焼き尽くす」と訳されています。イエス様はご自分を食い尽くすほどに、焼き尽くすほどに、神の家を思うことに命をかけておられたのです。

あなたはどうですか。イエス様のように神の家を思う熱心で焼き尽くされるほど、神の家を、神ご自身を求めておられるでしょうか。

 

ダビデは、敵にいのちを狙われる困難な状況の中で、このように告白しました。

「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすために。」(詩篇27:4)

あなたが一つのことを主に願うとしたらいったい何を願うでしょうか?ダビデは、主の家に住むことを願いました。そこで主の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすためです。それこそがすべての問題の根本的な解決だと知っていたからです。

 

私たちにはたくさんの願いがあります。しかしその中で、何を第一に願うかによって、私たちの生き方が決まってきます。確かに日ごとにたくさんの必要があります。しかし、その中にあっても主の家を熱心に思い、主の家に住むことを第一に求め、主に喜ばれる礼拝をささげる者でありたいと願います。

 

Ⅱ.本当の礼拝のために(18-22)

 

では、本当の礼拝をささげるためにはどうしたらいいのでしょうか?18節をご覧ください。

「すると、ユダヤ人たちがイエスに対して言った。「こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか。」

神殿をビジネスの場としていた大祭司にとって、イエスの行為は到底容認できるものではありませんでした。そこで彼らは、「あなたがそのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか」とイエスに問いました。このしるしとは、メシヤとしてのしるしです。前にお話ししたように、イエスが宮きよめをされたのは、ご自身がメシヤであることを宣言するためでした。そのメシヤのしるしを求めたのです。パウロは、「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追及します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。」(Ⅰコリント1:22-23)と言っていますが、しるしを求めるのがユダヤ人の特徴なのです。

 

これに対してイエスはこう言われました。19節です。

「イエスは彼らに答えられた。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」

どういうことでしょうか?これは復活の預言です。このあたりから、イエス様とユダヤ人の間に食い違いが生じてきます。彼らは、イエス様がご自分のからだについて言われたことを理解することができず、そこに建っていた神殿のことだと思い込み、こう言いました。20節です。

「この神殿は建てるのに四十六年かかった。あなたはそれを三日でよみがえらせるのか。」

この神殿の改修工事はヘロデ大王によって始められ、その工事が46年目に入っていました。1882年にスペインのバルセロナに建築中のサグラダ・ファミリアは、着工から144年後の2026年に完成するということで話題になっていますが、このヘロデの神殿も着工から46年経ってもまだ完成していないという建物でした。エルサレムが滅びたのは紀元70年ですが、改修工事はその6年前の紀元64年まで続きました。その神殿を三日で建てるというのか、と言ったのです。

 

けれどもイエスが言われた神殿とはヘロデが建てた神殿のことではなく、ご自分のからだのことを指して言われたのでした。つまり、イエスは十字架にかけられて死なれますが、三日目によみがえられるということだったのです。

 

弟子たちも、この時点ではイエスが何を言っておられるのかさっぱりわかりませんでした。ですから、ヨハネは21、22節で開設の文章を入れて、説明を加えています。「しかし、イエスはご自分のからだという神殿について語られたのであった。それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じた。」

イエスはすでにこの時点で、十字架と復活の預言をしておられたのですが、彼らには理解することができませんでした。

 

イエスの思いと、宗教指導者たちの思いは遠くかけ離れていました。また弟子たちも、イエスの心を理解することができませんでした。私たちはどうでしょうか。私たちの信仰は、イエスの思いから遠く離れているということはないでしょうか。イエス様は確かに壊れた神殿を三日でお建てになりました。そして、イエス様は今も生きておられます。私たちもその生きておられるイエスに呼びかけ、宮きよめをしていただこうではありませんか。

 

しかし、このことと宮きよめとは、どのような関係があるのでしょうか。それは、イエス様が宮きよめをなさった本当の目的がここにあったということです。つまり、イエス様が宮きよめをなさったのは、ただ単に神の家を商売の家としてはならないということではなく、神殿の礼拝に関わる律法の規定を廃棄してそれに代わる新しい礼拝の秩序を確立するためだったということです。つまり、あのサマリヤの女に対して、「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時がきます。」(ヨハネ4:23)と言われたように、どのようにすれば霊とまことによる礼拝をささげることができるのかということを教えるためだったのです。そしてそれは神殿で動物のいけにえや献金をささげるといった形式的なことによってではなく、それはイエス・キリストが十字架上で死なれ、三日目によみがえられることによってもたらされるものなのです。

ですから、私たちは旧約時代のような動物の犠牲をささげることによってではなく、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる礼拝、本当の礼拝をささげることができるのです。

 

22節をご覧ください。ここには、弟子たちが「聖書とイエスが言われたことばを信じた。」とあります。ガリラヤのカナでイエス様が水をぶどう酒に変えた時は、「それで、弟子たちはイエスを信じた」ありました。弟子たちは既に信じていたんじゃないのですか?それなのに、「聖書とイエスのことばを信じた」というのはおかしいではないでしょうか。

この「聖書」とは、旧約聖書のことです。つまり、旧約聖書に書かれてある預言が成就したことを知ったということです。詩篇16篇10節には、「あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。」とありますが、その預言が成就したことに気付いたのです。また、イエスが言われたことばとは、新約聖書のことと理解して良いでしょう。この時点ではまだ新約聖書は完成していませんでしたが、弟子たちは旧約聖書に書いてある預言が、イエス・キリストの十字架と復活によって成就したことを知って、イエスこそ救い主であると信じたということなのです。

 

皆さんは今、どのように礼拝をささげておられるでしょうか。あなたを霊とまことによる真の礼拝に導いてくださる方は、あなたのために十字架で死なれ、三日目によみがえられた救い主イエス・キリストを通してなのです。このイエスを通して、私たちは心からの礼拝をささげていきましょう。あなたの思いとイエス様の思いが離れることがありませんように。いつもイエス様と共に歩み、イエス様に喜ばれる者となりましょう。それがイエスの心と一つにさせていただく鍵なのです。

 

Ⅲ.主に信頼される者に(23-25)

 

ところで、この宮きよめの話はこれで終わりではありません。その結果について聖書は興味深いことを記しています。23節から25節までをご覧ください。

「過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。

しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。すべての人を知っていたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。」

 

イエス様が過越しの祭りの間、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じましたが、イエス様ご自身は、彼らに自分をお任せになりませんでした。この「お任せになる」と訳された言葉は、その前の節の「信じた」と訳されている言葉と同じ言葉です。つまり、「信じなかった」ということです。ですから、ここでは、確かに多くの人々がイエス様の行われたしるしを見て、イエス様を信じましたが、その一方で、イエス様はどうだったかというと、そうした彼らを信頼されなかったというのです。どうしてでしょうか。

 

その後のところに理由が記されてあります。それは、イエスがすべての人を知っておられたからです。それどころか、人の内にあるものを知っておられました。人が心の中でどんなことを考えているかを知っておられました。それゆえ、イエスは、その人が善人であるか悪人であるかを他人から教えてもらう必要はなかったのです。へブル人への手紙4章12節には、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。」とあります。この「神のことば」をイエスに置か消えてみると、イエスがどのような方であるかがわかります。イエスは、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心の思いやはかりごとを見分けることがおできになるのです。

 

この方の御前に、隠しおおせるものはありません。人はうわべを見ますが、主は心を見られるのです。つまりイエスは人間ではなく、全地全能の神であられるのです。確かに彼らはイエス様の奇跡を見て信じましたが、その信仰はまだ本物ではありませんでした。それはちょうど種まきのたとえの中で、種を蒔いた人の種が四種類の違ったところに落ちたようにです。それは道ばたであり、岩地であり、いばらであり、良い地です。

道ばたに落ちた種は、すぐに悪魔が来てその人の心に蒔かれた種を奪って行きました。岩地に落ちた種は、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れましたが、みことばのための困難や迫害に会うと、すぐに躓いてしまいました。いばらの中に蒔かれた種は、みことば聞いて信じ、順調に成長しましたが、この世の心遣いや富の惑わしがみことばをふさいでしまうので、実を結ぶことができませんでした。しかし、良い地に落ちた種は、三十倍、六十倍、百倍の実を結びました。

 

これは、みことばの種が蒔かれるとき、四種類の人がいるということではありません。同じ人でも、ある時には、道ばたであったり、岩地であったり、いはらの中であったり、また良い地であったりすることがあるということです。しかし、そうした中にあっても、キリストのことばにとどまり、キリストとの交わりを持ち続けていくこ人は、多くの実を結ぶことができるようになります。それが主の弟子となるということです。

 

確かに、彼らはイエスを信じました。しかしその信仰というのは、まだ困難や迫害があると後戻りするような信仰だったのです。そのような人を信頼することができるでしょうか。私たちも、いざというとき、退いてしまうような友人がいるとしたら、そのような人に身を任せることはできないでしょう。それと同じです。しるしを見て信じることが悪いのではありません。病気が癒されたり、困難な問題が解決したという体験はすばらしいことです。しかし状況が悪くなると手のひらを返したかのように信仰から離れてしまうというのでは、ジェットコースターに乗っているかのように安定感がありません。そのような人に身を任せることはできません。

 

キリストとの出会いは大切です。けれども、その後ずっと、そのキリストに継続して従い続けることは、それと同じくらいに、否、ある面でそれにも増して大切なのです。私たちの信仰は信じて終わりというのではなく、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ者になるということ、つまり主の弟子になることが求められているのです。

 

いったいどうしたらそのような者になることができるのでしょうか。イエス様はご自分を信じたユダヤ人たちに、次のように言われました。

「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。」(ヨハネ8:31)

この言葉からわかることは、私たちがキリストの弟子になるためには、キリストを信じることから始まるのですが、それだけで終わらず、主のみことばにとどまり、主に堅く結びつき、主との交わりの中に生きることが大切です。

 

私たちもキリストのことばにとどまり、キリストとの交わりの中に生きることによってキリストの弟子とさせていただきましょう。そのような者こそ主がご自分をお任せになる人なのです。少なくても自分に関しては、全身全霊をもって主イエスに従う決心をしようではありませんか。