イザヤ書37章30~38節 「完全な勝利」

きょうは、イザヤ書37章の最後の箇所から「完全な勝利」というタイトルでお話したいと思います。アッシリヤの王セナケリブの言葉を聞いたユダの王ヒゼキヤは、主の宮に上り、主の御前にひれ伏して祈りました。すると主はイザヤを通して言われました。「あなたが祈ったことを、わたしは聞いた」(21)と。そして、主がヒゼキヤに語られたことは、神がすべてを支配しておられるということでした。すべてを知り、すべてを支配しておられる神が計画し、神がなさっておられることならば安心です。なぜなら、神はすべてのことを働かせて益としてくださるからです。ですから、安心することができるわけです。そればかりではありません。神は完全な勝利をもたらしてくださいます。きょうのところには、その神の完全な勝利がどのような形でもたらされたのかが記されてあります。

Ⅰ.あなたへのしるし(30-32)

まず30節から32節までをご覧ください。「30 あなたへのしるしは次のとおりである。ことしは、落ち穂から生えたものを食べ、二年目も、またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。31 ユダの家ののがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ。32 エルサレムから、残りの者が出て来、シオンの山から、のがれた者が出て来るからである。万軍の主の熱心がこれをする。」

まず30節から32節までをご覧ください。すばらしい約束がヒゼキヤに伝えられます。それは、アッシリヤは撤退するがユダは生き延びるようになるというメッセージです。そのしるしは何でしょうか?そのしるしは、一年目は、落ち穂から生えたものを食べ、二年目は、またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べることができるということでした。46もの城壁のある町々が滅ぼされ、土地はかなり荒廃するため、すぐには収穫は望めないというのです。最初は落ち穂から拾って食べ、二年目も同じです。しかし、三年目になると自分で蒔いた種から収穫できるようになります。最初はそれほど収穫を期待することはできませんが、徐々に回復していき、やがて安定した生活ができるようになるというのです。これが神の原則です。最初は何もありません。落ち穂から拾って食べなければなりません。しかし、徐々に実を結ぶようになるのです。

KDK(国内開拓伝道会)の委員をしておられる板倉邦雄先生は、今から四十年前に、奥様と二人で開拓伝道を始められました。四十年といったらイスラエルが荒野をさ迷っていた期間と同じ期間です。荒野では、田畑を耕し、種を蒔いて、収穫することはできません。その日その日を天から降ってくる「マナ」を食べて生活をしのぎました。そのことによって彼らは、誰が自分たちを養ってくれるのか、誰が着る物や住む所を用意してくださるのかを徹底的にわからせて頂いたのです。板倉先生も開拓伝道を始めて二年目の暮れには、年を越すモチ代もありませんでした。牛乳配達は、一本配って何円です。どこにも頼るところがなくて祈っていたとき、一通のクリスマス・カードが、アメリカの恩師から届きました。そこには、「クリスマスおめでとう。今年のクリスマスプレゼントは、君に贈ります。」と書かれてあって、その中にドルの小切手が入っていたそうです。  あれから四十年、主は先生と教会を豊かに祝福してくださいました。このみことばの約束の通りです。ことしは、落ち穂から生えたものを食べ、二年目も、またそれから生えたものを食べますが、三年目には、自分で種を蒔いたものから刈り入れるようになる。これが神の約束です。神は少しずつ、少しずつ、しかし確実に回復させてくださり、やがて安定した実を結ぶようにしてくさるのです。ですから、自分の思うようにいかないことがあったとしても、いちいちつぶやいてはいけません。神の約束を信じて、忍耐して、その時を待たなければならないのです。

また、そのためには、下に根を張らなければなりません。31節には、「ユダの家ののがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ。」とあります。これは、ユダの町々はアッシリヤによって滅ぼされますが、神は残りの民を残してくださり、この民によってユダを回復させ、やがて増え広がるようにしてくださるという約束です。それを支えていくものは何でしょうか?根です。下にしっかりと根を張ってこそ、上に実を結ぶことができます。ですからここに、「ユダの家の逃れて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ。」とあるわけです。

1992年、箱根駅伝で優勝した山梨学院大の上田監督は、「何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ」と言いました。私もこの言葉が好きです。山梨学院大学は創部6年目に箱根駅伝に出場すると、15位から11位、7位、4位、2位と順位を上げて行き、そしてこの年優勝にまで上り詰めることができました。その背後には、どれほどの練習と、実としては現れない下積みの期間があったことかと思います。

確かに、やればすぐに成果が現れるというわけではありませんが、上に実が結ばない時でも、黙って手をこまねいているのではなく、見えない大地の下深くに、下へ下へと根を伸ばせというのです。根を張らずして実はなりません。実は目に見えますが、根は外から見えません。ややもすると私たちは、たちどころに成果が現れるものを求めがちですが、大地にしっかりと根を張るというプロセスなしには実は結ぶことはできません。下に根を張ってこそ上に実を結ぶことができるのです。あなたにとって今成すべきことは何でしょうか?私たちにとってしなければならないことは何でしょうか?それは下に根を張ることです。そうすれば、主が実を結ばせてくださいます。

32節をご覧ください。ここには「万軍の主の熱心がこれをする」とあります。どういうことかというと、イスラエルの回復は一方的な主の恵みによるということです。あなたの熱心ではありません。あなたの努力によるのでもありません。あなたがあれをしたから、これをしたからでもないのです。それはただ神の恵みによります。万軍の主の熱心によるのです。ですから、私たちはただこの神の約束を信じて、忍耐しつつ、へりくだって、忠実に主の御業に励まなければなりません。下に根を張っていかなければならないのです。そうすれば、時が来て、やがて回復させてくださいます。神が実を結ばせてくださるのです。

これがヒゼキヤに与えられたしるしでした。彼はどんなに苦しくてもこのしるしを受け入れて、神の約束を待ち望みました。一方、彼のお父さんだったアハズ王はどうだったかというと、しるしを求めなさいという主のことばを断って、アラムとエフライムの連合軍が攻めて来た時、アッシリヤの力に拠り頼んで失敗しました。皆さん、これがあなたへのしるしです。あなたはこれを受け入れなければなりません。ことしは、落ち穂から生えたものを食べ、二年目も同じです。しかし、三年目になると、自分で蒔いた種から刈り入れをして、食べるようになります。最初はそれほど収穫を期待することはできませんが徐々に回復していき、やがて安定した生活ができるようになります。この神からのしるしを受け入れましょう。そして、下にしっかりと根を張りながら、神の時を待ち望みたいと思います。

Ⅱ.彼はこの町に侵入しない(33-35)

次に33節から35節までをご覧ください。「33 それゆえ、アッシリヤの王について、主はこう仰せられる。彼はこの町に侵入しない。また、ここに矢を放たず、これに盾をもって迫らず、塁を築いてこれを攻めることもない。34 彼はもと来た道から引き返し、この町には入らない。―主の御告げ―35 わたしはこの町を守って、これを救おう。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。」

ここで主は、アッシリヤの王について、はっきりと語られました。「彼はこの町に侵入することはない」と。一本の矢も放つことなく、エルサレムをまともに攻撃することができずに撤退するようになります。なぜそのようなことになるのでしょうか?主がこの町エルサレムを守っておられるからです。主がこの町を救ってくださるからです。万軍の主の熱心がこれをしてくださいます。主ご自身のために。そして、主のしもべダビデのために。

主はダビデに約束されました。「12 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」(Ⅱサムエル7:12-13)その約束のゆえにです。もし南ユダが、イスラエルが滅ぼされるようなことがあれば、この約束は無に帰してしまいます。その結果、ダビデの身から出る世継ぎの子によって、イエス・キリストによってもたらされる永遠の神の国が、彼の王国をとこしえまでも堅くするという神の約束が果たされなくなってしまいます。そのようなことは絶対にありません。主は約束されたことを必ず成し遂げてくださいます。主が語られたことは一つもたがわず実現するのです。神は真実な方だからです。万軍の主がこれをするのです。

Ⅲ.完全な勝利(36-38)

最後に、その結果どうなったかを見て終わりたいと思います。36節から38節までをご覧ください。「36 主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。37 アッシリヤの王セナケリブは立ち去り、帰ってニネベに住んだ。38 彼がその神ニスロクの宮で拝んでいたとき、その子のアデラメレクとサルエツェルは、剣で彼を打ち殺し、アララテの地へのがれた。それで彼の子エサル・ハドンが代わって王となった。」

何と主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、185,000人を打ち殺しました。一晩のうちに・・。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていたのです。学者たちの間にはこれがどういうことだったのかの議論がありますが、これがどういうことだったのかを議論することには全く意味がありません。ある学者はユダヤ教の歴史家にヨセフスという人がいるのですが、これは実際的には「疫病」であったと記していることから、食中毒によってアッシリヤの陣営に多くの死者が出たと結論付けていますが、それは全く意味がないことです。なぜなら、それがどのようにしてであれ、主の使いが出て行って、打たれたからです。人間的な思惑を超えたところで、主が働いてくださり、主が成してくださったことだからです。万軍の主がこれをされたのです。

詩篇46篇は、このときヒゼキヤが感極まって歌った歌だと言われています。開いてみましょう。

「1 神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。2 それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。3 たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。セラ4 川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。 5 神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。6 国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。神が御声を発せられると、地は溶けた。7 万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ8 来て、主のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた。9 主は地の果てまでも戦いをやめさせ、弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた。10 「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」11 万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ」

神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助けです。ヒゼキヤはこれを体験したのです。マルチン・ルターはこれにメロディーをつけました。それが「神はわがやぐら」(新聖歌280番)です。「神はわがやぐら、わが強き盾。苦しめる時の、近き助けぞ。」いかに敵が強くても、そんなのはやがて朽ちていく人の力にすぎない。われらと共におられ、戦ってくださる方は、万軍の主であり、天の大神なり。そう歌ったのです。これは歴史を動かした祈りです。これは文字通り神が祈りに答えて下さった結果であって、決してフィクションではありません。歴史的な事実なのです。そしてその勝利は、ただ今救われて、敵がいなくなったというレベルではなく、その敵がニスロクという偶像を拝んでいた時に、自分の息子たちたちによって剣で殺されるという結果の、完全な勝利だったのです。神がイザヤの、またヒゼキヤの祈りに答えてくださって、このような完全な勝利をもたらしてくださったのです。

そして、それはヒゼキヤだけではなく、神の栄光を求め、神のために生きようと、必死になって祈り求める者たちすべての人に言えることなのです。神は、そのような者たちの祈りを聞いてくださいます。時にサタンは脅しをかけてきたり、不信仰に誘ったり、まともなことを言って惑わして来たりしますが、そうした危機にあっても、主の臨在を確信し、主がすべてを働かせて益としてくださる方であることを信じて、ただ主をあがめて祈り求めるなら、主はその祈りに答え、今日でも事態をひっくり返してくださるのです。

アメリカのアラバマ州エンタープライズとう村に、ワタミハナゾウムシという害虫の記念碑が立っているそうです。その祈念碑にはこう書かれています。

「我々は我々の綿花を蝕んでいた害虫に心から感謝を表する。彼らは我々に繁栄の機会を与え、また何であれ、成せばなるという信念を呼び覚ましてくれた。」

どういうことかというと、本来アラバマ州は綿花の栽培で有名な土地でしたが、20世紀初頭、突然ワタミハナゾウムシという害虫が大量に発生し、綿花を蝕んでしまいました。どれだけ手を尽くしても無駄でした。そして、かつては国内で最も裕福であり政治的にも力をもっていたこの地域は、国内で最も貧しい地域となってしまいました。そこで仕方なく住民たちは涙して祈り、数十年も耕してきた綿花畑を完全に掘り起こし、そこにアーモンドを植えることにしました。それで彼らはアーモンドで収益を得るようになったわけですが、ちょうどその頃、世の中は値の張る木綿の代わりに、質が良く、安価な化学繊維を求めるようになったのです。綿の栽培に頼っていた他の州は大きな打撃を被りましたが、アラバマ州は既に繁栄を味わっていました。それはこのワタミハナゾウムシのおかげたというわけです。もしワタミハナゾウムシがいなかったらこの村は綿花だけに依存し続けていたことでしょう。この害虫が襲ってきたおかげで、涙して祈り、神に信頼してその地を掘り起こしてアーモンドを植えたおかげで、経済の活性化に成功したのです。長期的視点に立てば、ワタミハナゾウムシは綿花の収穫に大きな被害をもたらしましたが、神様は彼らのその涙の祈りに答えて事態をひっくり返し、村全体に恩恵をもたらしたのです。    私たちの人生にもワタミハナゾウムシに蝕まれるようなことがあるかもしれません。アッシリヤに完全に包囲されるような事態に遭遇することがあるかもしれない。しかし、どのような事態になっても神があなたの避け所であって、そこにある助けであり、この神の栄光を求めて祈るなら、神はその祈りに答えて、あなたを救ってくださいます。完全な勝利をもたらしてくださるのです。問題は、あなたがこのことを信じるかどうか、本気で祈り求めるかどうかです。理屈ではダメです。昔はそういこともあったなではダメです。今、このとき、この瞬間にも神は働いておられる。神は助けてくださると信じて祈り求めることです。この生ける神を体験することです。神はそれを求めておられます。神はわが力、そこにある助けと信じ、この神に向かって、祈り求めましょう。神はあなたにも完全な勝利をもたらしてくださるのです。

イザヤ書37章14~29節 「ヒゼキヤの祈り」

きょうはイザヤ書37章のみことばから、ヒゼキヤの祈りについて学びたいと思います。エルサレムを完全に包囲したアッシリヤの王セナケリブは、ユダの王ヒゼキヤに手紙を送り、彼を脅迫します。「おまえは、エルサレムがアッシリヤの王の手に渡されないと言っているが、おまえは、アッシリヤの王たちがすべての国々にしたことを、それらを絶滅させたことを聞いているはずだ。それでも、おまえは救い出されるとでも言うのか。」先には全権大使として交渉に出て来たラブ・シャケの暴言に対して、彼は預言者イザヤに人を遣わして祈ってくださいと、祈りを要請しました。それに対して語られた主のことば「あなたが聞いたあのことば、アッシリヤの王の若い者たちがわたしを冒涜したあのことばを恐れるな。」(37:6)ということでした。しかし、状況は一向に変わらず、むしろもっと深刻になっていきます。問題の当初は、自分の信仰と祈りで乗り越えることができましたが、それが続くと乗り越えることが難しくなっていきます。いったいヒゼキヤはどのようにしてこの難局を乗り越えたのでしょうか。

Ⅰ.まず主の前に(14)

まず第一に、ヒゼキヤは主の前に行きました。14節をご覧ください。「ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、主の宮に上って行って、それを主の前に広げた。」

ヒゼキヤは、自分を傷つけるひどい内容の文書を見たとき、主の宮に上り、それを主の前に広げました。彼はまな板の鯉のように自分を主の前にさらけ出して祈ったのです。これは信仰者の模範的な姿ではないでしょうか。私たちは自分が傷つくような文面を見た時、あるいは容赦ない言葉を浴びせられる時、いったいどうしたらいいのでしょうか?そのような時にはまず主の前にそれを持って行き、それを主の前に広げることです。すぐに弁護士のところへ行って相談するとか、消費者ローンに、カウンセラーに相談するというのではなく、まず主のところへ行き、主の前にそれを広げなければなりません。「主よ。ご覧ください。こんな文書が送りつけられてきました。こんなひどい脅迫めいたことが書かれているんですよ。どうぞご覧になってください。」と。主はすべてのことをご存じであられますが、あえてそれを神の前に広げ、神に知っていただくようにするのです。というのは、私たちは意外に人の言葉に弱いからです。ちょっとした些細な言葉でも、一晩中眠れないこともあります。舌は小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。そして、人生の車輪を焼き尽くします。言葉は小さなものですが、非常に強い力を持っています。そうした言葉で傷ついたり苦しんだりするときそれを自分で解決しようとしないで主のもとに持って行き、主に知っていただくようにすればいいのです。主は私たちの弱さに同じようできない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じようになられました。ですから、私たちの弱さを十分理解することがおできになられます。そして、それに見合った助けを与えてくださるのです。ですから、そのような時にはまず主のもとに行き、主の御前でそれを広げ、すべてを打ち明ければいいのです。

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6-7)

どうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が与えられるのでしょうか?何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただくことによってです。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守っていただけます。皆さん、私たちには祈れるという特権が与えられているのです。なのに、なかなかそれを用いようとしないのはなぜでしょうか。その問題を神のみもとに持って行こうとしないのはなぜでしょうか?それは、神を信じていないからです。神よりも自分を信じているので、神よりもそれ以外のものを信頼しているので祈ろうとしないのです。「いろいろやってみてだめだったら祈ってみます」とか、「そんな祈っている暇があるなら、いろいろやってみた方がいいんじゃない?」と言うのを聞くことがありますが、逆です。いろいろやってみる前に、まず神のところに行き、その思いを知っていただかなければなりません。そうすれば、あなたは問題から解放され、人のすべての考えにまさる神の平安を得ることができるのです。ひとたびヒゼキヤのように主の前に自分をさらけ出し、「主よ。これを見てください。」と祈るなら、主はあなたにご自身がどんなに偉大な方であられるかをはっきりと見せてくださり、立ち上がる勇気と力を与えてくださいます。それまではアッシリヤの王の前の言葉に立ち上がることができず、顔を伏せ、布団の中にじっと閉じこもったままであったかもしれませんが、ひとたび主の御前に心を注ぎだして祈るなら、すべてが変わり始まるのです。その祈りがあなたを変え、あなたの状況も変えるのです。

Ⅱ.ヒゼキヤの祈り(15-20)

では、ヒゼキヤはどのように祈ったでしょうか?15節から20節までをご覧ください。ここにはヒゼキヤのすばらしい祈りが記録されています。彼は自分の思いを神に打ち明けると、口を開いてこう祈り始めました。16節です。

「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。」

ヒゼキヤはまず祈りの中で神を神として認め、その神をほめたたえました。「ケルビム」とは天使たちの最高位にある天使のことです。エデンの園で、いのちの木を守るために火の剣を持っていた天使(創世記3:24)であり、また契約の箱の贖いのふたの上でそれを守っていた天使(出エジプト25:20)です。そのケルビムの上に座しておられるイスラエルの神というのは、イスラエルの神、主がそうした天使たちとは比較にならないほど偉大な方であるこという意味です。ヒゼキヤはそのように告白したのです。ご存じのように、アッシリヤの王はイスラエルの神を他の偶像の神々と同じレベルにまで引き下げましたが、イスラエルの神はそうではありません。イスラエルの神はすべての神々に優る神であって、この天地万物、全宇宙を造られた創造主なる神なのです。すなわち、ヒゼキヤはその祈りにおいて、まず神を神として認めたのです。神を神として認め、その神をほめたたえたました。これが祈りにおいて私たちが真っ先に行うことです。特にあなたが窮地に置かれた時、ピンチに陥った時、まず主を認め、主を賛美してほしい思います。

これはイエス様が弟子たちに教えられた「主の祈り」にも共通していることです。主は祈ることを教えてくださいという弟子たちの願いに、次のように言われました。「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。・・』」(マタイ6:9)

「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。」これがイエス様が教えられた祈りです。まず主の偉大さに目を留め、その偉大さをほめたたえなければなりません。なぜなら、このように真っ先に神の偉大さに目を留め、その偉大さをほめたたえることによって、いつの間にか自分の抱えていた問題がいかにちっぽけなものであったかに気づかされるからです。それまではこんなに大きな問題はないと思っていたのに、偉大な神をほめたたえているうちにその問題がいかにも小さく、いかにもちっぽけなものであるかがわかってくるのです。あんなに悩んでいた問題が、実は問題でもなかったということに気づかされるのです。私たちの神はケルビムのはるか上に座しておられる方で、この方だけが天地を造られた創造主の神であることがわかるとき、そして、この方はひとり子イエス・キリストを与えるほどに私を愛してくださった方であることがわかるとき、絶対に私を見捨てるようなことはなさらないし、私のために最善のことをしてくださるという確信が生まれてくるのです。そうであれば、もう悩む必要はありません。何の心配もいりません。恐れてはなりません。すべてをこの神にゆだねればいいのです。それができるのは、神の偉大に目が留められ、そのことに気づかされる時なのです。

神は天地を造られた全能者だということを、あなたは信じているでしょうか?神は何でも知っておられ、何でもおできになられる方であることを信じていらっしゃるでしょうか?そう信じているなら、あなたが本気でそのことを信じているなら、決して悩むことはいりません。この請求書どうしようとか、この支払いはどうしよう・・・。でもあなたが本気で神は世界一の大富豪であると信じているなら、もう悩む必要はないのです。神が何とかしてくださるからです。神様はあなたの天の父です。そのパパに頼めばいいのです。パパが何とかしてくださいます。もう私は絶望です。この病気はだれにも治せない。本当でしょうか?違います。この天地を造られた創造主なる神は、全能者なる神は、あなたの病をも癒すことがおできになられます。あなたの救い主であられる神が、文字通り神の手を持って癒してくださいます。スーパードクターと呼ばれている人でさえ治せない病気さえも、神は完全に癒すことがおできになられるのです。(高崎の金井先生が癒されました!)

「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」(出エジプト15:26)

もちろん、病院に行って適切な治療を受けることも大切です。神はそのような方法によってもお癒しなさるからです。ですから、この神を信じる人には「絶望」の2文字はありません。「あなたに信頼します。あなたにすべてをゆだねます。癒すのはあなたです」と祈るなら、主はあなたをいやしてくださいます。お金が解決するのではありません。薬が解決するのでもありません。医療や技術が解決するのでもないのです。解決してくださるのは神です。この神を信じるなら、信じて祈るなら、もう悩む必要はありません。現状がどうであれ、たとえ貧乏のどん底にあっても、たとえ余命何ヶ月という宣告を受けたとしても、天地を造られた主があなたのために最善のことをしてくださるからです。

次に17節をご覧ください。ここには、「主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセナケリブのことばをみな聞いてください。」とあります。

ここでヒゼキヤは、主に耳を傾けて聞いてください。目を開いて見てください、と言っています。神が全知全能であられるのなら、何でも知っておられるのなら、なぜこのように祈るのでしょうか?それは、主は私たちと向き合って、私たちの心の叫びを直接聞きたいからなのです。主はあなたからどんなことでも聞きたいのです。あなたの叫びに耳を傾け、あなたが悩んでいること、困っていること、苦しんでいることを聞いて、あなたに答えてあげたいのです。あなたからもっと頼りにされたいと願っておられるのです。

以前テレビで中高生になった自分の娘の携帯に、ひっきりなしにメールを送りつけてくる父親の存在を報じていました。中高生の娘にとっては父親からのメール、しかも絵文字とかついているメールがくるとウザイと感じるらしいのですが、それなのに父親がメールを送りつけてくるのはどうしてなのかを聞いてみたところ、娘と会話がしたい、もっと娘と交わりたいと思っているからです。父親にとってはいつまでも小さな娘のままなのです。その娘が小さな時にはいつでも「パパ」と言ってきたのが、少しづつ大きくなり、思春期の頃になると全く自分から離れていき、会話もなくなってしまう現実にどことなく寂しさを感じているらしいです。父親は、娘のことを知っているのです。なのにあえてメールまでして、嫌われるのを承知のうえでそうやってメールを送りつけてくるのはなぜか?それは娘との交わりを求めているからなのです。

同じように神は、あなたと交わりたいのです。あなたが神に語りかけ、神に頼り、神と共に歩むことを願っておられるのです。だからあなたがもっと神に祈るように、神に叫ぶようにされるわけです。私たちは問題を自分の中に閉まっておくようなことをしないで、ヒゼキヤのように神に聞いていただくように、神に見ていただくように、「主よ。御耳を傾けてください。主よ。御目を開いてご覧ください。」と祈らなければなりません。

18節と19節をご覧ください。ヒゼキヤは続いて次のように祈りました。「主よ。アッシリヤの王たちが、すべての国々と、その国土とを廃墟としたのは事実です。19 彼らはその神々を火に投げ込みました。それらは神ではなく、人の手の細工、木や石にすぎなかったので、滅ぼすことができたのです。」

どういうことでしょうか?ヒゼキヤは偶像の神々の現実を述べています。アッシリヤの王たちは、すべての国々と、その国土を廃墟にしたのは事実です。なぜなら、それらはみな神ではなく、人の手による細工にすぎないからです。たとえそれがどんなに荘厳なものであっても、国宝とか重要文化財に指定されるようなものであっても、そんなものは人の手によって造られたものであって、木や石にすぎないものです。だから簡単にアッシリヤの王たちでも焼き尽くすことができたのです。だが、イスラエルの神、万軍の主は違います。この方は木や石で造られた偶像の神々などとは訳が違うのです。この方は天地を造られた「生ける神」です。これが20節に見られるヒゼキヤの祈りにつながるわけです。

「私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、あなただけが主であることを知りましょう。」(20)

これが祈りの究極的な目的です。ここには「あなただけが主であることを知りましょう」とあります。つまり、ヒゼキヤは神の御名があがめられることを求めていたのです。これが私たちが祈るその祈りの目的です。ヒゼキヤが受けていた圧迫は、自分たちの神が他の神々と同列に扱われていることでした。そのようにして神の栄光が隠されていたのです。だから彼は、すべての国々があなたこそ主であることを知ることができるように、と祈ったのです。もちろん、アッシリヤから救われたかったでしょう。その問題から何とか解放されたいというのは当然のことです。しかし、それよりも何よりも、彼はこのアッシリヤからの救出劇によって、主に栄光が帰されることを願ったのです。イスラエルの神こそ真の神であるということを、内外に知らしめることができるようにと祈ったのです。

皆さん、私たちの重荷は何でしょうか?主の栄光が隠されていることです。多くの人がイエスを信じていないことは、主の栄光が隠されていることなのです。まだ主にすべてを明け渡すことができず、何か他のものを握りしめているものがあるとしたら、それも主の栄光が隠されていることになります。私たちはもっと神の栄光が現されるように祈らなければなりません。

しかし、ほとんどの場合、私たち日本人の祈りは願掛けです。祈りという言葉を聞くと、大抵の場合は困った時の神頼みです。それでも祈らないよりはましかもしれませんが、本当の祈りとは神とのコミュニケーションであって、一方通行ではないのです。その中で私たちが祈る究極的な目的は、すべての栄光を主に帰することなのです。

この時ヒゼキヤがアッシリヤの脅威から逃れるためには、神にしかできない方法をもって救出されることが必要でした。これがもしヒゼキヤの力によって打ち勝つことができるとしたら、それはヒゼキヤの力によってということになってしまい、神に栄光を帰することにはなりません。その中でヒゼキヤが求めたのはどういうことかというと、ただあなたの方法によって救ってくださいということでした。あなたにしかできない方法によってアッシリヤの手から救い出してくださいということだったのです。たとえ自分たちがアッシリヤに包囲され、そのまま苦しみ続けることになったとしても、それでもあなたに栄光が帰せられるのであればそのようにしてください。そう祈りました。彼はただ助けてください、この窮地から救ってください、この問題から解放してください、この病気を癒してくださと祈ったのではなく、ただ神に栄光が帰せられるようにと祈りました。たとえ問題が解決しなくても、たとえこの病気が治らないでこのまま死ぬようなことになったとしても、それでも神に栄光が帰せられるようにと祈ったのです。

ここでマタイの福音書26章を開いてください。ここにはイエス様のゲッセマネの園での祈りが記されてあります。十字架を前に悲しみもだえられたイエスは、弟子のペテロとヨハネ、ヤコブに、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」(26:38)と言われると、イエスは少し進んで行かれ、ひれ伏して祈って言われました。その時に祈られた祈りがこれです。

「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(同39)

これこそ祈りの真髄です。「できますならば・・・」「しかし、私の願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」ヒゼキヤの祈りも同じです。「私たちの神、主よ。私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、すべての王国は、あなただけが主であることを知りましょう。」私の願いではなく、あなたのみこころが成されますように。あなたの栄光があがめられるようにしてください、と祈ったのです。

Ⅲ.ヒゼキヤの祈りの答え(21-29)

このようにヒゼキヤが祈った結果、どうなったでしょうか?最後に21節から29節までを見て終わりたいと思います。まず21節をご覧ください。「アモツの子イザヤはヒゼキヤのところに人をやって言わせた。「イスラエルの神、主は、こう仰せられます。あなたがアッシリヤの王セナケリブについて、わたしに祈ったことを、わたしは聞いた。」

主はヒゼキヤが祈ったことに対して、「わたしは聞いた」と言われました。これは大きな慰めではないでしょうか。主は、私たちが祈る時、それを聞いてくださいます。それだけではありません。主はアッシリヤの王セナケリブについて、次のように語られました。22節から29節までにある内容です。22節、「処女であるシオンの娘はあなたをさげすみ、あなたをあざける。エルサレムの娘は、あなたのうしろで、頭を振る。」

「あなた」とはアッシリヤ(アッシリヤの王セナケリブ)のことです。処女であるシオンの娘は、アッシリヤをさげすみ、あざけるようになります。エルサレムの娘は、アッシリヤの後ろで、頭を振ります。これは、アッシリヤがエルサレムや他の国々対して取った態度です。それがそっくりアッシリヤに返って来るということです。マタイの福音書7章2節に、「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」ということばがありますが、まさにそのことです。アッシリヤはシオン、エルサレムに対してさげすみ、あざけり、頭を振りましたが、それと同じように、今度は自分たちもされるのです。

「あなたはだれをそしり、ののしったか。だれに向かって声をあげ、高慢な目を上げたのか。イスラエルの聖なる方に対してだ。」(23)

このところの「あなた」もアッシリヤ(アッシリヤの王セナケリブ)のことです。アッシリヤはまさか自分たちが神に対して高ぶったという意識は持っていなかったでしょう。彼はあくまでもヒゼキヤに対して語っていると思っていました。しかし、事実は違います。それはヒゼキヤに対してではなく、ヒゼキヤの信じていた神に対する高ぶりだったのです。たとえノンクリスチャンであっても神のことを聞いているのです。なのにその神を神としてあがめていないとしたら、その神を冒涜することがあるとしたら、それは神に対する反逆であり、高ぶり以外の何ものでもありません。注意しなければなりません。

24節から26節までをご覧ください。「あなたはしもべたちを使って、主をそしって言った。『多くの戦車を率いて、私は山々の頂に、レバノンの奥深く上って行った。そのそびえる杉の木と、美しいもみの木を切り倒し、私はその果ての高地、木の茂った園にまで入って行った。25 私は井戸を掘って水を飲み、足の裏でエジプトのすべての川を干上がらせた』と。26 あなたは聞かなかったのか。昔から、それをわたしがなし、大昔から、それをわたしが計画し、今、それを果たしたことを。それであなたは城壁のある町々を荒らして廃墟の石くれの山としたのだ。」

26節のことばは非常に重要なことばです。アッシリヤは自分たちの業績を誇らしげに語りましたが、彼らがそのことを成し遂げたのは、すべて神の摂理の中で、神が計画され、神が成し遂げられたことであるということです。しかもそれは大昔から神が計画しておられたことなのです。彼らはただ神の道具として用いられたにすぎません。すべては神の御手の中にあることなのです。

皆さん、この神の主権を知ることはとても大事なことです。すべてのことは主が計画され、主がしておられることだということを受け入れるとき、私たちは安心することができます。たとえ悪いこと、辛いこと、苦しいこと、不都合なこと、理不尽なことがあったとしても、そこにも神の御手が働いておられることを知るなら、その状況さえも受け入れることができるようになるのです。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。」(ローマ8:28)

私は今年の1月からまた聖書の通読を楽しんでいますが、聖書を読みながら心に残ったことばがあります。それは出エジプト記6章1節の「今にあなたにわかる」ということばです。私は通読の時は現代訳を使っていますが、現代訳ではここを「今にわかる時が来る。」と訳しています。今はわからないかもしれない。神がパロにしようとしていることを。いくら神のことばを伝えても、彼はかたくなになって聞こうしません。それはわたしが彼の心をかたくなにしているからであって、そのことによって神の大いなる御業がなされ、主こそ神であるということをすべての人が知るようになるためなのです。今はわからないかもしれません。しかし、後にわかるようになる、と言われたのです。そして、私たちはその結末を読んで知っているように、そのことばのとおりに主はエジプト中の初子という初子をすべて殺すことによって、イスラエルがエジプトから出て行くようになるわけです。その時点ではわかりませんが、今にわかるようになるのです。とすれば、私たちはむしろ目の前の状況を楽しむことさえできます。神様はどのようなことをしてくださるのかと思うと、ワクワクした気持ちになります。そして、すべてのことを主にゆだねることができるのです。

27節から29節をご覧ください。特に28節をお読みします。「あなたがすわるのも、出て行くのも、入るのも、わたしは知っている。あなたがわたしに向かっていきりたつのも。」

これもすばらしいみことばです。主はアッシリヤの王セナケリブの一挙手一投足まですべてご存知です。彼が立つのもすわるのも、彼が出るのも入るのも、彼がいきりたつのもすべてご存じなのです。ごまかしはききません。今何を考えているのか、神様はすべてをご存じなのです。「そんなこと信じられるか。」「そんな絵空事、起こるはずがない」そう思われた方がここに二人おられます。どんなに神に対して反抗しても、どんなに心の中でつぶやいても、神はすべてのことをご存じなのです。その上で神は今ここに私を招いてくださった。その上であなたを導いてくださったのです。そこには神の意図があり、計画があるのです。神の主権が及ばない領域は一つもありません。神はすべてのことを計画しておられ、そこに関わっておられます。だから私たちはそこに深い安堵感を置くことができるのです。何もやきもきする必要はありません。いきり立つ必要もありません。恐れることもいりません。むしろ安心して主にお任せすればいいのです。

これがヒゼキヤの祈りに対する主の答えでした。何かで悩み、苦しんでいるとき、そこにも神の御手が働いているということを知るとき、それほど大きな安心はありません。ヒゼキヤは祈りの中で、このことを確信することができました。高慢なアッシリヤを滅ぼしてくださるという約束を受けたのです。私たちの生涯にもヒゼキヤが受けたような脅かしを受けることがあるかもしれません。けれども、主を冒涜するあのことばを恐れてはなりません。むしろヒゼキヤのようにそれを主の前に広げ、主に向かって祈らなければなりません。そうすれば、主がその祈りを聞いてくださいます。そして、主がご自身の御手の中で、すべてを益に変えてくださるのです。だから祈りましょう。あなたの悲痛を祈りに変えてください。そのとき驚くべき神のみわざがなされ、その悲痛をも神の祝福へと変えられるのです。

イザヤ書37章1~13節 「困難に直面する時」

きょうはイザヤ書37章のみことばから、「困難に直面する時」というタイトルでお話したいと思います。私たちの人生には大なり小なり、いろいろな問題が襲ってくるものです。そうした問題に対して、どのように対処していったらいいのでしょうか。  きょうのところには、南ユダに迫っていた危機的な状況に対して、ヒゼキヤ王がどのように対処していったのかが記されてあります。この時ヒゼキヤは、国家的レベルの最大な危機に直面していました。アッシリヤの王セナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々を攻め落としてこれを取り、エルサレムのヒゼキヤのもとに迫っていたのです。セナケリブから遣わされたラブ・シャケはあれやこれやと言って揺さぶりをかけ、ヒゼキヤ王に降伏を呼びかけました。いったい自分たちはどうすべきなのか、周りの国々のように、自分たちもアッシリヤによって滅ぼされてしまうのかといった絶望的な状況の中で、ヒゼキヤはどのように対処したでしょうか。

Ⅰ.主の宮に入ったヒゼキヤ(1)

まず1節をご覧ください。ここには「ヒゼキヤ王は、これを聞いて、自分の衣を裂き、荒布を身にまとって、主の宮に入った。」とあります。

ラブ・シャケの不遜なことばを聞いたヒゼキヤは、どうしたでしょうか。彼は、自分の衣を裂き、荒布を身にまとって、主の宮に入りました。荒布とは、喪に服する時に着たものです。それは悲しみと悔い改めを表すもので、自分は全く価値のないものですという、自己謙虚さを表すものでした。祭司たちが本気になって祈るとき、特に断食して祈る時に着たのがこの荒布でした。ヒゼキヤは王様であるにもかかわらずその王位も衣も脱いで、荒布を身にまとい、神殿に入りました。もうそこまで敵が迫っているのです。そんなことをしていたら敵に占領されてしまうかもしれません。それでもヒゼキヤは一切神の御前に兜(かぶと)を脱ぎ、神に対する信頼をもって主の御前に出て行きました。たとえ敵が自分たちの上を乗り越えていこうとも、たとえ自分たちがどうなろうとも、とことん祈り抜く覚悟だったのです。祈りというのは時間や断食も大切ですが、何よりもどのような心で神に向かうかです。神様はその心を見られます。ヒゼキヤは主の御前に、心を注いで祈りました。主はそのような祈りを蔑(ないがしろ)ろにされる型ではありません。あなたが主の御前に必死になって涙して祈る時、主はその涙の意味を知り、必ずや偉大なみわざを起こしてくださいます。

イスラエルが士師(さばきつかさ)の時代からサウル王によって始まる王制の時代をつないだ人物はサムエルですが、彼は、母親ハンナの涙の祈りのうちに生まれた神の器でした。  ハンナの状況は複雑でした。一つ屋根の下、一人の夫に二人の妻がいました。しかも、ハンナは不妊であったのに対して、もう一人のペニンナは子だからに恵まれているのをいいことに、意地の悪いことをハンナにしてくるのでした。ハンナの女性としてのプライドはズタズタに引き裂かれ、傷だらけでした。  逃げ場のない袋小路のようなところで生きる苦しみの中で、彼女は祈りました。彼女は主に祈って、激しく泣きました。彼女は心のうちで祈っていたので、くちびるは動いていましたが、その声は聞こえませんでした。それで祭司エリは彼女が酔っているのではないかと思いました。 「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」 「いいえ、祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、お酒も飲んでおりません。私は主の前に、私の心を注いでいたのです。」「私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです。」  すると祭司エリを通して主のことばを受けます。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」  このようにしてあの偉大なサムエルが誕生するのです。苦しみは涙の祈りを生みます。そして芯の強い、不退転の決意を秘めた祈りは、やがて必ずや偉大な神のみわざを呼び起こすのです。

皆さんはどうでしょうか。ヒゼキヤのように危機的な状況に直面する時、主の宮に行って、主に向かって祈っているでしょうか。自分の衣を裂き、荒布を身にまとっているでしょうか。このような状況になっても私たちはいろいろな言い訳をして、主の宮に入ろうとしません。教会に行こうとしないのです。それもまたサタンの巧妙な策略であります。サタンは私たちが主の宮、教会に行かせないように、あの手、この手を使って攻撃してくるのです。教会に行かれると、主の宮に入られると、すべての企みがだめになってしまうことを知っているからです。だから何としても行ってほしくないわけです。「きょうは体調が悪いから行けない。休みにしよう」「行こうと思ったけど急にお客さんが来て行けなくなった」「こどもが風邪っぽいからやめよう」と、いろいろな理由で行かせないようにするのです。しかし、本当の解決はどこにあるのでしょうか。本当の解決は、あなたが自分の衣を裂き、荒布を身にまとって、主の宮に入り、主の前で心を注いで祈ることから始まるのです。

ユダヤ人の歴史において、このイザヤの時代は本当に悲惨でした。他国の脅威にさらされ、国内の治安や道徳は乱れ、信仰は忘れられ、退廃と自暴自棄の嵐の中で、崩壊寸前でした。しかしそれは今の時代も同じです。今の時代もめいめいが自分勝手に生き、信仰は忘れられ、いつ主が再臨されてもおかしくないような状況です。しかし、だからこそ主を仰げと言うのです。すべてに絶望している今こそ、主にのみ期待して、主を待ち望むようにと。私たちは、いつでもどこからでも祝福を受けることができます。その鍵は、どこにへたり込んでいようとも、自在に引き上げることがおできになる方に向かって、祈り求めるか否かにかかっているのです。

Ⅱ.祈りをささげてください(2-4)

次に2節から4節までをご覧ください。2節をお読みします。「2彼は宮内長官エルヤキム、書記シェブナ、年長の祭司たちに荒布をまとわせて、アモツの子、預言者イザヤのところに遣わした。」

ここでヒゼキヤ王は、宮内長官エルヤキムと、書記シェブナ、年長の祭司たちに荒布をまとわせて、イザヤのところに遣わしました。これはどういうことかというと、彼は自分がお祈りするだけでなく、自分のカウンセラーとしていつも指導を仰いでいたイザヤに、祈りの応援を求めたということです。

彼はイザヤにこう言いました。3節と4節です。「きょうは、苦難と、懲らしめと、侮辱の日です。子どもが生まれようとするのに、それを産み出す力がないのです。4 おそらく、あなたの神、主は、ラブ・シャケのことばを聞かれたことでしょう。彼の主君、アッシリヤの王が、生ける神をそしるために彼を遣わしたのです。あなたの神、主は、その聞かれたことばを責められますが、あなたはまだいる残りの者のため、祈りをささげてください。」

すごい表現ですね。子どもが生まれようとするのに、それを生み出す力がないというのです。陣痛の苦しみは、産んだ人でないと分からないと思いますが、一番痛いのは、一番苦しいのは、赤ちゃんが生まれる直前だと言われます。その時が、痛みが最高潮に達する時です。それで子どもが産まれてくればいいのですが、産まれようとしているのに出て来ないのです。すなわち、最高潮に達した痛みがずっと続いているままなのです。生み出す力がありません。本当にすごい表現です。もう恥も外聞もありません。

祈りというのは内容も大切ですが、その態度が重要です。「子どもが生まれようとしているのに生み出す力がない」と、彼は自分を本当にさらけ出して祈りました。私たちはこのように自分をなかなさらけ出すことが苦手です。どちらかというと、人の前ではある程度理性的に、社会性をもった人間であるかのようにふるまいたいので、自分の感情を抑制する傾向にあるのです。ですから神の前に出る時でさえ、ありきたりの、形式的な祈りで終わってしまうことが多いのですが、時にはこのように自分をさらけ出すことも必要なのです。

以前、韓国のオンヌリ教会に行った時、その教会の祈祷会に出席したことがあります。あまりにも人が多いので、その祈祷会は大学の体育館のような所で行われていました。約五千人くらいの人たちが集まっていましたが、それがなかなか終わらないのです。結局5時間くらい続きましたが、なかなか終わらないなどと思っていたのは私くらいかもしれません。みんな必死になって祈っていました。ある人は激しく泣きながら講壇にまで詰め寄ると、小さなこどもが両手を広げて父親のもとに行くように、「主よ、主よ。」と叫びながら出て行きました。隣にだれがいるかなんて関係ありません。だれがいようとも、ただ神の前にぐじゃぐじゃになりながら祈っていました。子どもが産まれようとするのに、それを生み出す力がない、自分は全く無力な者であるということを、正直に、ありのままに告白して祈っていました。

ヒゼキヤも同じです。自分は今、子どもが産まれようとしているのに、それを生み出す力がないと言いました。そうです、ヒゼキヤは自分が全く無力な者であることを正直に認めたのです。そして、そのように自分の無力さを悟ることのできる人は、次のように言うことができるのです。4節の最後のところを見てください。ここで彼はこう言っています。「あなたはまだいる残りの者のために、祈りをささげてください。」

苦難に会う時、もちろん自分で祈ることは大切なことですが、同時に、祈りの友に祈ってもらうことも大切です。「私はこんなことですから、どうか祈ってください。」と頼むのです。今は電話やコンピューターがありますから、ヒゼキヤの時のようにイザヤのもとに使いを送る必要はありません。ピッ、ポッ、パッで相手に通じます。「どうか私のために祈ってください」とお願いすればいいのです。  「いいよ、これはおれひとりで祈るから・・・」。これはあまりいいことではありません。心を許せる人、あるいは牧師にでもいいですから、何も恥ずかしいことはないのですから、「このために祈ってください」と、連絡してほしいと思います。実は、生きた信仰というのはこれなのです。神が祈りに答えてくださったという体験をした人は、生きる神との関係の中に生きることができます。これがキリスト教信仰なのです。今日の教会の弱いところは、そこにあるのではないでしょうか。祈れません。祈りません。お互いの生涯においても同じだと思います。それはまだ自分の中に力が残っていると思っているからなのです。残っていなかったらそんなふうには言えません。「自分には産み出す力がない。もうお手上げです。どうしようもないんです。」と言うでしょう。そのように認めた人だけが「祈ってください」とお願いすることができるのであって、そのような人こそ真に謙遜な人なのです。

パウロはいわば人間的に見たら力のある人でした。彼は知的にも、霊的にも、賜物においても、教養においても、あるいは、神が与えてくださった使徒としての権威、神の特別な召命などにおいては本当に優れた人で、そのようなものの力によって福音を広め、前進させることができるとしたら、まさにパウロその人だったでしょう。そのパウロが実に人の心を動かすようなやり方で、すべての聖徒たちに力を貸してくれるように求め、切望し、嘆願しました。彼はローマにいる兄弟たちに対して、このように手紙を書き送りました。

「兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。」(ローマ15:30)

彼は、私のために、私とともに祈ってください、と言いました。彼がユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、エルサレムの教会に対する愛の奉仕を全うすることができるように、また、その結果として、彼が喜びのうちにローマに行き、彼らと会うことができるように祈ってほしいと願ったのです。この「私とともに祈ってください」というのは、「わたしとともに戦ってください」という意味ですが、パウロは祈りこそ戦いであると認識していました。そして、この祈りによってこそ戦いに勝利し、彼に与えられた使命を全うすることができると考えていたのです。だからパウロは、「私のために祈ってください」と言うことができたのです。しかし、これはなかなか言えることではありません。自分の弱さをさらけ出すようでできないのです。けれども彼はこのように言うことが彼の威厳を傷つけ、影響力をそこない、その敬虔さを低下させてしまうなどとは全く考えていませんでした。もしそうだとしたら、どうだというのでしょう。そんな威厳など消え失せてしまえ、そんな影響力などなくなってしまえと言ったでしょう。彼のように使徒の中でも特別に召された人であっても、人々の祈りによって支えられていなければ、彼のすべての能力は不十分だったのです。ですから彼はあらゆる人々に手紙を書き送って、彼のために祈ってくれるように頼んだのです。

ですから、私たちも互いにこう言わなければなりません。「私のために祈ってください」私も皆さんにぜひお願いしたいです。どうか、私のために祈ってください。この教会に対する神の奉仕を全うし、神が与えてくださった使命を忠実に果たすことができるように、さまざまな試練の中にあっても、ただ神様の御力によって力強くこの働きを全うできるように祈っていただきたいのです。かつてイスラエルがレフィデムの荒野でアマレクと戦った時、アロンとフルがモーセの手を支えたように、どうか私の手が下がるとことがないように祈っていただきたいのです。また、お互いのために祈ってほしいと思います。そうすれば、その一つ一つの小さな祈りが、水滴と同じように集まって、やがて逆らうすべてのものを寄せ付けないほどの大海のようになることでしょう。私はそう信じています。

Ⅲ.あのことばを恐れるな(5-13)

最後に、そのヒゼキヤの要請に対するイザヤの応答を見て終わりたいと思います。5節から13節までをご覧ください。まず7節までをお読みします。「5ヒゼキヤ王の家来たちがイザヤのもとに来たとき、6イザヤは彼らに言った。「あなたがたの主君にこう言いなさい。主はこう仰せられる。『あなたが聞いたあのことば、アッシリヤの王の若い者たちがわたしを冒涜したあのことばを恐れるな。 7 今、わたしは彼のうちに一つの霊を入れる。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。わたしは、その国で彼を剣で倒す。』」

ヒゼキヤのことばに対して、イザヤは主のことばを告げました。それは、「あなたが聞いたあのことば、わたしを冒涜したあのことばを恐れるな。」ということでした。あなたが聞いたあのことばとは、具体的には36章のところでラブ・シャケが語ったことばです。特に18節から20節のところには、彼がイスラエルの神を冒涜し、主がアッシリヤの手からエルサレムを救い出すことはできないと言ったあのことばです。それはヒゼキヤ王やユダの住人をバカにしたというよりも、彼らが信頼していたイスラエルの神、主を冒涜することであったと、神は認識していたのです。これは私たちも注意しなければなりません。誰かを非難するつもりで何気なく言ってしまった事が、実は主を冒涜しているということがあるからです。しかし、それはその人を非難する以上に主を非難したり、冒涜していることになるのです。そんなことばをおそれることはありません。主はヒゼキヤに慰めに満ちたことばをくださいました。ラブ・シャケのことばを恐れるなと語られたのです。

これはヒゼキヤにとってどれほど大きな慰めと励ましとなったかわかりません。彼にとってこの神のことばは、おそらく彼が抱えていた問題のほとんどを解決に導いてくれるものだったに違いありません。というのは、「恐れ」こそ私たちの人生を弱くするものだからです。恐れるとき、私たちは力を失います。体から力が抜けた、腰が抜けた、立ち上がれず、へなへなになると、まるで風船から空気が抜けたように、萎えてしまうのです。立つこともできません。生きていくこともできなくなってしまうかもしれません。それほどに、恐れは私たちを弱くするのです。そんなヒゼキヤに対して、神は「恐れるな」と語って励ましてくださいました。

そればかりではありません。主はヒゼキヤに具体的にどのように働かれるのかを示してくださいました。それは7節にあるように、主はラブ・シャケのうちに一つの霊を入れるということでした。彼はあるうわさを聞いて、自分の国に引き上げるようになりますが、主はその国で彼を剣で殺すというものでした。

果たせるかな、それが実際に起こります。8節から13節のところにそのことが記録されてあります。8節を見ると「ラブ・シャケは退いて」とありますね。ラブ・シャケはこれまでエルサレムを包囲していましたが、あるうわさを聞いて退くのです。そのうわさとは、9節にあるように、クシュの王ティルハカが、彼らと戦うために出て来ているというものでした。クシュとはエチオピアのことです。その王ティルハカというのはエジプト第25王朝のタルハカ王のことです。このエジプト軍がアッシリヤと戦うために出てきているということでした。この 時アッシリヤは二手に分かれて戦っていましたので戦力が弱くなっていたんですね。それでクシュの王ティルハカに攻められたら負けるかもしれないと恐れたラブ・シャケは、一時退いてリブナを攻めていたアッシリヤの王セナケリブと合流したわけです。しかし、これはあくまでも噂にすぎないことでしたが、ラブ・シャケはこれを本気にして恐れ、退いたのです。主がヒゼキヤに言われた通りなりました。その後、アッシリヤの王セナケリブはリブナから人を遣わしてヒゼキヤを動揺しますが、最終的にどうなったかというと、主の奇跡的なご介入によってある晩主の使いがアッシリヤの陣営に出て行き、一晩でアッシリヤの兵士185000人を打ち破られたので、アッシリヤの王セナケリブは自分の国に帰って行きましたが、そこで自分の二人の息子に殺されてしまうのです。これはⅡ列王記19章に書かれてあります。すなわち、ヒゼキヤに対して主が言われたとおりになったわけです。

主は単に「恐れるな」と語られただけでなく、実際に彼とともにいて戦ってくださいました。そして、勝利をもたらされました。だから、何も恐れることはありません。私たちが恐れなければならないのは、私たちのからだもたましいも、ともにゲヘナに投げ込むことのできる方だけです。この方を恐れなければなりません。この方があなたとともにおられるなら、あなたは何も恐れることはないのです。そのことをヒゼキヤに示したのは何かというと、イザヤを通して語られた神のことばでした。ヒゼキヤが自分の罪と弱さを認め、神の御前にひれ伏した時、彼はこの神のみことばを聞くことができたのです。そして、これが私たちを完全な解決へと導いてくれます。

あなたはこの神のみことばを聞いていらっしゃいますか?ヒゼキヤのように自分の衣を引き裂き、荒布を身にまとって、神の御前にひれ伏しているでしょうか?神のことばを預かっている人に、へりくだって、みことばを聞かせてくださと願い出ておられるでしょうか。あなたがそのようにして神の御前に出るなら、神はあなたにもみことばを語ってくださいます。そして、あなたが今置かれている悩みから解放し、危機的な状況から救い出してくださるのです。あなたがいつもこの真実な神の約束に信頼し、神の救いを経験することができるように祈ります。

イザヤ書36章1~22節 「敵の攻撃を受ける時」

きょうは、イザヤ書36章のみことばから学びたいと思います。タイトルは「敵の攻撃をうける時」です。敵というのは悪魔であり、サタンのことです。パウロは、「私たちの戦いは血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみに対する世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6:12)と言っておりますが、私たちには、日々、この悪魔との戦いがあるわけです。その悪魔が攻撃してきた時、いったい私たちはどのようにして対処していったらいいのでしょうか。

きょうの箇所は、イスラエル、これは南ユダ王国のことですが、そこにアッシリヤという国の将軍でラブ・シャケという人が攻撃してきた時、ユダの王ヒゼキヤがどのようにそれに対処したかについて記されてあります。

前にもお話したように、この36章から40章までの箇所は、このイザヤ書の前半部分と後半部分をつなぐような役割をしている箇所です。イザヤ書は全部で66章ありますが、66巻から成っている聖書が旧約聖書39巻と新約聖書27巻に分かれているように、このイザヤ書も39章までの前半部分と40章から始まる後半部分の27章に分けられています。その中でイザヤはこの36章から39章までのところにその時代に実際に起こった出来事を書き記すことによって、これまでイザヤが預言したことが必ず実現することを示そうとしたのです。

その実際に起こった出来事というのが、アッシリヤの攻撃からユダが奇跡的に救われ、守られたという出来事だったのです。いったいユダはどのようにして守られたのでしょうか。

Ⅰ.恐れない(1-12)

まず第一に、敵の巧みな策略を見ていきたいと思います。まず1節と2節をお読みします。「1 ヒゼキヤ王の第十四年に、アッシリヤの王セナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々を攻めて、これを取った。2 アッシリヤの王は、ラブ・シェケに大軍をつけて、ラキシュからエルサレムに、ヒゼキヤ王のところへ送った。ラブ・シャケは布さらしの野への大路にある上の池の水道のそばに立った。」

「ヒゼキヤ王の第十四年」というのは、歴史的には前701年のことです。アッシリヤの王セナケリブは、ユダのすべての城壁のある町々を攻めて、これを取りました。具体的には、この時セナケリブが取った町々は46にのぼったことが、セナケリブが残した文献(「ティーラ・プリズム」大英博物館に貯蔵)に記されてあります。

そこでアッシリヤの王セナケリブは、ラブ・シャケに大軍をつけて、ラキシュからエルサレムに、ヒゼキヤ王のところへ送りました。降伏を迫るためです。この「ラブ・シャケ」というのはシャケの愛好家ではありません。(冗談)これは、役職の名称です。意味は「献酌官の長」です。献酌官というのは王の側近にいて、酒の毒味をし、王の杯が空いたらすかさず酒を注ぐという任務でした。それゆえ、王の信頼も厚く、高い地位にありました。いわばセナケリブ王の側近中の側近であり、彼の右腕であったわけです。ラキシュは、エルサレムから南西に50㎞くらいのところにあった町です。そこからラブ・シャケに大軍をつけて、ヒゼキヤ王のところに送ったのです。

ラブ・シャケがエルサレムにやって来て立った「布さらしの野への大路のある上の池の水道のそば」は、かつてイザヤがヒゼキヤ王のお父さんであったアハズ王に会った場所です(7:3)。アラムとエフライム(北イスラエル)の連合軍が南ユダに攻めてくるという知らせを聞いた彼は、どうしたらいいものかと悩んでいましたが、そのとき主がイザヤを通して次のように語られました。「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはならない。」(同7:4)と。なのにアハズ王は、そのイザヤのことばに信頼しませんでした。主に信頼しないでアッシリヤに頼ったのです。アッシリヤに助けてもらってその難局を乗り越えようとしました。しかし、そんなことをしたらどうなるでしょう。昨日の友はきょうの敵ということばがあるように、今度はそのアッシリヤによって攻められることになるのです。案の定、それが現実になりました。北イスラエルとアラムを滅ぼしたアッシリヤは隣国をも呑み込み、破竹の勢いで今度は南ユダ王国に攻めてきたのです。アッシリヤの将軍ラブ・シャケは、その布さらしの野への大路にある上の池の水道のそばでヒゼキヤ王に告げるのです。

ヒゼキヤはこの時どんな思いだったでしょう。自分のお父さんが神のことばに従わないで目に見える力に頼って失敗しました。そして同じ過ちを今度は自分も犯してしまったわけです。彼もまたそのアッシリヤに攻撃された時エジプトに頼りました。エジプトに頼れば何とかなる思ったからです。しかし、その安心毛布(シークレットブランケット)も十分ではありませんでした。ユダを守るには短かすぎたのです。  そこで彼が目をつけたのは金でした。アッシリヤの王にお金を渡して和平条約を結びました。しかし、その和平条約も簡単に裏切られてしまいます。アッシリヤの王セナケリブはヒゼキヤ王との間に結んだ契約を破棄し、ラブ・シャケに大軍をつけてユダに迫ったのです。この時ヒゼキヤは、自分のお父さんと同じ失敗を犯したことに気づいたと思います。お金でうまくいくと思ったのに、ちゃんと約束したにもかかわらず裏切られてしまった。自分の考えで何とかなると思ったのに、それがうまく行かず空回りしました。わかっていても、人は同じ失敗を繰り返してしまうものです。結局のところ、主に頼る以外に本当の解決はありません。私たちの前には主に信頼する以外に道はないのです。

3節をご覧ください。「そこで、ヒルキヤの子である宮内長官エルヤキム、書記シェブナ、および、アサフの子である参議ヨアフが、彼のもとに出て行った。」 宮内長官、書記、参議とは、イスラエルを代表する人たちです。彼らは、ヒゼキヤ王の代理として今、ラブ・シャケに接見しているのです。

そうした彼らに向かってラブ・シャケはこう言いました。4節から10節までのところです。まず4節から6節までのところです。「4 ラブ・シャケは彼らに言った。「ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリヤの王がこう言っておられる。いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか。5 口先だけのことばが、戦略であり戦力だと思い込んでいるのか。今、おまえはだれに拠り頼んで私に反逆するのか。6 おまえは、あのいたんだ葦の杖、エジプトに拠り頼んでいるが、これは、それに拠りかかる者の手を刺し通すだけだ。エジプトの王、パロは、すべて彼に拠り頼む者たちにそうするのだ。」

「いったい、おまえたちは何に拠り頼んでいるのか。」このことが私たちにも問われています。このようなピンチの時、いったいあなたは何に拠り頼んでいるでしょうか?何に信頼していますか?だれを信頼していますか?ヒゼキヤは人間的なものに頼りました。彼が頼ったのはエジプトの軍事力でした。しかし、そのエジプトのするこというのは、それに寄りかかる者の手を刺し通すだけです。それは何の解決にもなりません。本当の解決は何がというと、主に拠り頼むことです。それでヒゼキヤは、南ユダの人たちは、「われわれは、われわれの神、主により頼む」と言いました。悔い改めるのに遅いことはありません。どんなに失敗しても、自分が失敗を示されたその時に悔い改めればいいのです。ですから、ヒゼキヤは自分の態度を悔い改めて、主にだけ拠り頼むことを、主にだけ従うことを決心しました。

ところがです。ヒゼキヤがそのように決心すると、ラブ・シャケは変なことを言って彼らを揺さぶってきました。7節です。「おまえは私に『われわれは、われわれの神、主に拠り頼む』と言う。その主とは、ヒゼキヤが高き所と祭壇を取り除いておいて、ユダとエルサレムに向かい『この祭壇の前で拝め』と言ったそういう主ではないか、と。」

ここでラブ・シャケは、おまえ達は「我々の神、主に拠り頼む」と言っているが、その主とはどの主なのか、というのです。どううことでしょうか。Ⅱ列王記18章4節を見ると、ここでラブ・シャケが言っていることがどういうことだったのかがわかります。Ⅱ列王記18章4節には、「彼は高き所を取り除き、石の柱を打ちこわし、アシェラ像を切り倒し、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた。そのころまでイスラエル人は、これに香をたいていたからである。これはネフシュタンと呼ばれていた。」とあります。ヒゼキヤが取り除いた高き所とか、偶像というのは、異教の神々のことであって、イスラエルの神のことではありませんでした。また、ラブ・シャケが言っていたイスラエルの高きところを取り除いてというのは、モーセの作った青銅の蛇、つまり迷信のようなものでした。ヒゼキヤはそうした異教の神々とか、迷信といったものから聖めるために、そうしたものを取り除いたのです。ラブ・シャケはそのことを利用して、「ヒゼキヤが礼拝している神とは、彼自身が高きところを取り除いた神だ」と言いがかりをつけたのです。それはラブ・シャケの完全な誤解でした。彼はそうしたことをうそぶいて、イスラエルに混乱を持ち込もうとしていたのです。    いったいなぜラブ・シャケはこんなことをしたのでしょうか。それはその背後にサタンの力が働いていたからです。神の敵である悪魔がイスラエルを憎んで滅ぼそうと彼らを混乱させようとしたのです。サタンはしていないのに、そんなことやってもいないのに、あたかもやっているかのように平気でうそぶいてきます。これがサタンの常套手段です。「あの人はあんなことを言った」「こんなとをやった」そう非難して脅してくるのです。

それだけではありません。8節と9節をご覧ください。「8 さあ、今、私の主君、アッシリヤの王と、かけをしないか。もしおまえのほうで乗り手をそろえることができれば、私はおまえに二千頭の馬を与えよう。9 おまえは戦車と騎兵のことでエジプトに拠り頼んでいるが、私の主君の最も小さい家来のひとりの総督をさえ撃退することはできないのだ。」

ここでは、イスラエルを完全にバカにしています。ラブ・シャケはユダの人々に、馬に乗ることのできる人を準備するなら馬二千頭をあげようと言いました。ユダ王国は一時多くの馬を持っていましたが、アッシリヤによって城壁のある町々を取られた今、その大半の兵力を失い、エルサレムで孤立無援の状態でした。馬をもらってもその馬に乗れる兵士がいないという有様だったのです。ヒゼキヤの率いる軍隊では、アッシリヤの王セナケリブの一番低い階級の指揮官ですら退けることができない状態でした。ヒゼキヤはエジプトの戦車と騎兵の助けに拠り頼まなければならない哀れな状態でした。そこには圧倒的な軍事力の差があったのです。ラブ・シャケはその圧倒的な軍事力の差というものを、まざまざと見せつけているのです。そんな神に信頼したって何にもならない。そんな神を拝んでも、どんなに礼拝をささげても全く効果なんてないし、むだなことだ。何の役にも立たない。そう言って責め立ててくるのです。

さらに10節を見ると、「今、私がこの国を滅ぼすために上って来たのは、主をさしおいてのことであろうか。主が私に『この国に攻め上って、これを滅ぼせ』と言われたのだ。」と言っています。何と、彼らがこうやって南ユダ王国を滅ぼすために上って来たのは、主のみこころによることだと言っているのです。本当にアッシリヤが南ユダ王国を、イスラエルを滅ぼそうとしていることが神のみこころによることなのでしょうか。違います。確かに神はこのユダ王国を懲らしめる道具としてアッシリヤを用いましたが、それはあくまでも道具としてであって、ユダを滅ぼすためではありませんでした。彼らがそのように言っているのは彼らが高ぶり、自分たちの立場を忘れ、逆にイスラエルの神を冒涜しているからなのです。確かに神はアッシリヤを通してユダに罪を示されましたが、それはユダが滅びるためではなく、そのことによって悔い改め、罪の滅びから免れるためだったのです。そのように主張するのは悪魔であって、それはまさに悪魔の巧妙な策略でした。

こうしたサタンの巧妙な策略に対して、南ユダの高官たちはどのように対処したでしょうか?11節をご覧ください。ここには「11 エルヤキムとシェブナとヨアフとは、ラブ・シャケに言った。「どうかしもべたちには、アラム語で話してください。われわれはアラム語がわかりますから。城壁の上にいる民の聞いている所では、われわれにユダのことばで話さないでください。」とあります。ラブ・シャケにユダのことばで話さないで、アラム語で話してくださいと頼みました。なぜでしょうか?それは、ユダの人々がこのラブ・シャケの語る言葉を聞いて意気消沈するのを恐れたからです。住民はこれを聞いてみな怯えてしまうのではないか。当時はアラムが世界の共通語でした。ユダの高官たちはそのアラム語を話すことができたので、そのアラム語で話してくださとお願いしたのです。

しかし、このことは逆にラブ・シャケに弱みを握られる結果となってしまいました。ラブ・シャケはヒゼキヤのしもべたちの頼みを一蹴し、もっと大きな声で、だれにでもわかるヘブライ語で叫び続けました。しもべたちの要請はむしろ自分たちの欠点をさらけ出すことになり、ラブ・シャケの気勢を高めることになってしまったのです。ラブ・シャケは逆にユダの民に「自分の糞を食らい、自分の尿を飲むようになる」と言って恐怖を引き起こすだけでなく、これ以上の抵抗がどれほどの悲劇的な結果をもたらすかの強い警告となってしまいました。

皆さん、敵である悪魔を甘く見てはいけませんが、過度に恐れてもなりません。敵があなたの弱みにつけこんであざけり、攻撃してきたとしても、その脅かしにおびえたることなく、主の御名によって大胆に立ち向かっていかなければならないのです。

皆さん、「恐れ」の反対語は何でしょうか。恐れの反対語は平安とか、安心ではありません。恐れの反対語は「信頼」です。たとえば、道の途中に一本橋があってそこを渡らなければならないとき、その橋が壊れるのではないかと思うと恐れが襲ってきます。しかし、その橋の内側に強力な鉄筋が打ち込まれていることを知ったら、何の恐れもなく渡ることができます。そこには決して壊れないという信頼があるからです。このように、私たちの人生において恐れに打ち勝つ秘訣は神への全き信頼です。信仰がある人は自分の力や知恵で生きようとせず、神の無限の資源と能力に頼って生きているので恐れません。何でも自分の手でやらなければならないと思うとき、私たちの中に心配と恐れが絶えません。ただ神に御手に頼って生きることによってのみ、その恐れから解放されるのです。    聖書に最も多く記されている単語は「愛しなさい」とか「謙遜になりなさい」ではなく「恐れるな」です。この単語は聖書の中に366回使われています。ある人は365回だという人もいますが、正確には366回です。ある人は、この単語が聖書に365回ではなく366回記されている理由は、それはうるう年まで計算されているためであると言います。神様は一日に一回毎日「恐れるな」と言っておられるのです。うるう年までも計算に入れて・・。恐れることは不信仰です。

あなたの人生にも、完全に敵に取り囲まれていると思うような時があるかもしれません。自分の考えでうまくいくと思ったのにそれが空回りして、にっちもさっちもいかないという時があります。しかし、たとえあなたがどのような状況にあったとしても、たとえ敵である悪魔があなたの弱みにつけ込んで襲ってくるようなことがあっとしても、あなたは恐れてはなりません。あなたは、あなたとともにおられる主を見なければならないのです。主があなたを愛しておられること、そしてあなたのために戦ってくださることを信じ、この方にすべてをゆだねしなければならないのです。それが敵に攻撃された時に、あなたがまず第一にしなければならないことなのです。

Ⅱ.信仰に堅く立って(13-17)

次に13節から20節までを見ていきたいと思います。まず13節から15節をお読みします。

「13 こうして、ラブ・シャケはつっ立って、ユダのことばで大声に呼ばわって、言った。「大王、アッシリャの王のことばを聞け。14 王はこう言われる。ヒゼキヤにごまかされるな。あれはおまえたちを救い出すことはできない。15 ヒゼキヤが、主は必ずわれわれを救い出してくださる、この町は決してアッシリヤの王の手に渡されることはない、と言って、おまえたちに主を信頼させようとするが、そうはさせない。」

ラブ・シャケはエルサレムのすべての民に聞こえるように、大声でアッシリヤの王のメッセージを伝えます。ヘブライ語で・・。彼がまず言ったことは、ヒゼキヤにごまかせるなということでした。ヒゼキヤはあなたがたを救い出すことはできない。ヒゼキヤは、主が必ず自分たちを救い出してくれると言ってあなたがたを主に信頼させようとしているけれども、そんなことは絶対にないと断言しています。つまり彼は民を煽動して、ヒゼキヤに背を向けさせようとしているのです。ヒゼキヤの反アッシリヤ政策に懐疑的だった一部のエルサレムの住民たちは、このラブ・シャケのことばに少なからず動揺した人もいたことでしょう。

それだけではありません。16節と17節を見ると、ここでラブ・シャケは彼らに甘いことばをかけて、巧みに誘惑していることがわかります。もしイスラエルの主に信頼するのをやめるなら、そしてアッシリヤの王と和を結び、降参するなら、あなたがたは自分のぶどうと、自分のいちじくを食べることができる。また、自分の井戸から水を飲むことができる。その後であなたがたをあなたがたと同じような国に連れて行くが、そこは穀物とぶどう畑の地で、パンとぶどう酒を食べることができる・・。どうですか。食べ物に弱いのは私だけでないでしょう。ペコペコにお腹がすいているときに、カラカラにのどが渇いているときに、自分のぶどうを食べることができるとか、自分の井戸から飲むことができると言われたら、そうしようかなと思うのが普通です。これは、彼らにとって本当に大きな誘惑でした。

かつてイエス様が四十日四十夜断食した後で荒野に導かれた時、サタンは同じアプローチをとってイエスを誘惑しました。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい。」(マタイ4:3)これはどういうことでしょうか。これは、イエスよ、おまえが本当に神の子であるなら、その証拠を見せなさい、というものです。そんな必要などありません。イエスが神の子であるのは事実であって、そのようにして父なる神を疑うようなことは、父との信頼関係を揺るがすことであり、罪を犯すことになるからです。そのことを十分承知の上で悪魔はイエスを誘惑しましたが、さすがにイエス様はそんな悪魔の策略を見抜き、こう言われました。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と書いてある」と(同4:4)。」お腹が空いているときにこのようなことを言われると、ついついその誘惑にのってしまいそうになりますが、それがサタンの常套手段です。サタンはいつも甘いことばをかけて誘惑してきますが、それはすべて偽りにすぎません。

この時もラブ・シャケはユダの民に向かい、甘いことばで誘惑しました。それはまさにユダの民にとって大きな誘惑であったに違いありません。こんなに苦しんでイスラエルの神に信頼するなんてバカみたい。かなりリスクが伴うことだ。自分の糞を食べ、自分の尿を飲まなければならないというみじめな生活をしなければならないなんてまっぴらごめんだ。そんな恐れや不安を抱きながら絶望的に生きるよりも、さっさと降参して彼らの言うことに従うべきだ、と思う人たちも少なからずいたことでしょう。それは私たちをたぶらかせようとするサタンの常套手段なのです。私たちは困難な時であればあるほど、信仰に堅く立たなければならないのです。

Ⅲ.ただ黙って、主を待ち望む(18-22)

最後に18節から22節までを見て終わりたいと思います。18節から20節までをご覧ください。

「18 おまえたちは、ヒゼキヤが、主がわれわれを救い出してくださると言っているのに、そそのかされないようにせよ。国々の神々が、だれか、自分の国をアッシリヤの王の手から救い出しただろうか。19 ハマテやアルパデの神々は今、どこにいるのか。セファルワイムの神々はどこにいるのか。彼らはサマリヤを私の手から救い出したか。20 これらの国々のすべての神々のうち、だれが自分たちの国を私の手から救い出しただろうか。主がエルサレムを私の手から救い出すとでもいうのか。」

ラブ・シャケは、ヒゼキヤのことばにそそのかされないようにと、続けてユダの民に叫びます。どの神々もアッシリヤの王の手から救い出すことなどできない。それはユダの神も然りである。ヒゼキヤが信じる神も、エルサレムをアッシリヤの王の手から救い出すことなどできないというのです。当時、アッシリヤの征服を妨げることができた民族など一つもなかったため、ラブ・シャケが言っていることは現実的に妥当なものであるかのように感じられました。そうした彼の働きかけに対して、ユダの民はどのように応じたでしょうか。21節と22節をご覧ください。

「21 しかし人々は黙っており、彼に一言も答えなかった。「彼に答えるな」というのが、王の命令だったからである。22 ヒルキヤの子である宮内長官エルヤキム、書記シェブナ、アサフの子である参議ヨアフは、自分たちの衣を裂いてヒゼキヤのもとに行き、ラブ・シャケのことばを告げた。」

ラブ・シャケのことばに対して、ユダの民は黙っていました。沈黙を通したのです。なぜでしょうか?「彼に答えるな」というのが、王の命令だったからです。これはとても賢いことです。私たちはよく沈黙すべき時に沈黙することができずに失敗したり、不利益を被ることがあります。悪魔の攻撃に対していちいち耳を傾けて議論する必要はありません。そのような時に一番いい方法は沈黙することなのです。黙って一言も答えないで、全く相手にしないことです。相手にするから問題なのです。

たとえば、最初の人アダムとエバはどのようにして罪を犯してしまったのでしょうか?悪魔はとても賢いので、どうしたら彼らが罪を犯すのかを知っていました。それはエバを誘惑すねことです。「あなたがこれを食べるその時、あなたの目が開け、神のようになるということを、神は知っているのです」と言ってアダムを誘惑しても、アダムがその話しにのることはないことを知っていました。なぜなら、アダムの関心は肉的なことであって、どうしたら金持ちになれるかとか、 どうしたら有名になれるかといったことでした。彼の関心は目が開かれて神のようになれるかどうかということよりも、どうしたらエバに気に入られるかということだったのです。しかし、エバは違います。彼女は霊的なことにとても興味がありました。ですから、「あなたの目が開け、神のようになり・・」ということを聞いたら、その話にのっていく傾向があったのです。ですからサタンはアダムではなくエバに、そしてエバを通してアダムを誘惑しようとしたのです。  エバはどうしたでしょうか。彼女は「あなたの目が開け、神のようになり・・」と言われたとき、その話に乗ってしまいました。彼女がしなければならなかったのは黙ることです。全く相手にしないことでした。サタンがどんなことを言って来ても彼女が何を言わなかったら、サタンは「こりゃ話しても無駄だ」と思って離れて行ったことでしょう。なのに彼女はその話しに答えてしまいました。その結果、彼女は禁じられていた木の実を食べ、それを夫にも与えたので、夫も食べたのです。サタンのことばに応答したことが、失敗の原因だったのです。

現実の生活の中では、このように一言もしゃべらないということは難しいことかもしれませんが、そのような時にはう言えば良かったはずです。「そのことについては私の夫に聞いてください。私はあまりよく知りませんので。」「あっ、そのことですか。そのことについてはアダムのところへ行ってください。彼はそのことについてよく知っていますよ。」「すみません。私はよく内容がわからないので、わかる方にお話してください。私がそのことで話すことは何もありません」そうすれば、それですべては終わったはずです。あるいは、イエスのように、「・・と書いてある」とみことばによって応答すれば良かったのです。しかし、そうではなかった。それが彼らが罪に陥ってしまった最大の要因です。

敵の攻撃を受けるとき、それに対処する一番いい方法はただ沈黙することです。一言も答える必要はありませんし、答えてはならないのです。ただ沈黙するだけでいいのです。沈黙は相手と同じレベルで立ち向かうのではなく、神に目を向け、その方に頼る機会を与えることです。

ダビデは、サウル王に憎まれ、命を狙われ、ユダの荒野を10年間もさまよいました。その荒野の試練の中で彼はどこに希望と救いを置いたのでしょうか。彼はこのように告白しました。

「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩、わが救い、わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。」(詩篇62編1-2,8節)

彼が希望を置いたのは主ご自身でした。主こそわが岩、わが救い、わがやぐら。私は決して、ゆるがされない、と言ったのです。そして、彼はただ黙って、主を待ち望んだのです。神の御前に心を注ぎだして祈ったのです。

皆さん、私たちは待つことがあまり得意じゃないというか、好きではありません。「今すぐ欲しい!」のです。そういう社会に生きています。すぐに解決を見たいのです。しかし、時には待たなければならないこともあります。ただ黙って待ち望まなければならないことがあるのです。沈黙すべきときに沈黙することができなくて、私たちはどれほど失敗してきたことでしょう。沈黙すべき時と立ち向かうべき時を見分けなければなりません。

戦いが激しく、敵が目の前に立っていて、自分が今にも倒れそうだと思うとき、私たちがすべきことはただ黙って主を待ち望むことです。ただ主に信頼すればいいのです。自分が最も無力で弱く絶望的な存在であるということを悟り、子どものように御前に出ればいい。いつでも神が私たち見ておられるということ、そして、私たちを救い、守る準備をしておられるということを信じてください。それが敵の攻撃を受ける時の最善の対処法でなのです。

イザヤ書35章1~10節 「やがて来る神の国の祝福」

きょうはイザヤ書35章から、「やがて来る神の国の祝福」というタイトルでお話したいと思います。33章からアッシリヤが滅ぼされ平和な世界がもたらされるということを語ってきたイザヤは、この35章で再びその平和な世界について語っています。それはイザヤの時代で言えばアッシリヤからの解放のことですが、遠い未来のことで言うと、世の終わりに起こる七年間の患難時代の後にもたらされる千年王国のことです。主イエスが王の王、主の主としてこの地上に再臨され、エルサレムに着座されねと、この地上に千年にわたるメシヤの王国を樹立されるわけです。それが千年王国です。その時にはすべてが変わります。それはさながら天国にいるかのような麗しい世界です。主イエスが来られるとき、この地上はそのように祝福に満ちた世界に変わるのです。きょうはこの神の国がやがて来るとき、千年王国において、この地上がどのように祝福に満ちた世界に変わるのかを見ていきたいと思います。

Ⅰ.荒野は楽しみ、荒地は喜ぶ(1-2)

まず最初に1節と2節をご覧ください。「1 荒野と砂漠は楽しみ、荒れ地は喜び、サルランのように花を咲かせる。2 盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜るので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。」

その時、この自然界が変えられます。「荒野と砂漠は楽しみ、荒れ地は喜び、サルランのように花を咲かせる。」荒野とか砂漠というのは一切植物が育たない乾いた地を意味します。そのような荒野と砂漠は楽しみ、荒れ地は喜び、サフランのように花を咲かせます。レバノンとかカルメル、シャロンというのは33章9節にも出てきましたが、自然の豊かさを表しています。レバノンは杉の木で有名ですが、それは常緑のしるし、いのちのしるしです。またカルメルとかシャロンも果樹とか花で有名ですが、それは豊かな実のしるしです。罪によってしおれてしまったレバノンやカルメル、シャロンが、再びいのちと豊かさに満ち溢れるようになるのです。というのは、自然界がしおれてしまったのは、人間が罪を犯したからです。最初の人間アダムが罪を犯してしまったので、その影響が自然界全体に及んでしまいました。本来、自然界が人間にきばを向くということはありませんでした。自然災害とか、弱肉強食といったものはなかったのです。それらはむ人間が罪を犯した結果もたらされたものなのです。自然界をはじめ被造物全体が人間の罪によって巻き添えをくってしまったのです。ですから、その罪が贖われれば、自然界も元の姿に回復します。荒野と砂漠は楽しみ、荒れ地は喜び、サフランのように花を咲かせるようになるのです。

ローマ人への手紙8章19節から23節までのところを見ると、被造物全体がその時を待ち望んでいるとあります。

「19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。 20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意思ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」

それが主が再臨される時です。その時、クリスチャンの肉体が贖われます。クリスチャンは既に霊においては贖われていますが(救いを受けていますが)、肉体においてはまだ贖われていません。いつそれが贖われるのかというと、イエスが再び来られる時なのです。その時キリストにあって死んだ人たちがよみがえり雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会います。このようにして、いつまでも主とともにいることになるのです(Iテサロニケ4:15-17)。この時、クリスチャンは朽ちないからだ、栄光のからだによみがえります。つまり、肉体も贖われるわけです。その時、人間の罪によって巻き添えをくった被造物全体も贖われるわけです。なぜなら、被造物が虚無に服したのは自分たちの意志によってではなく、服従させた方、すなわち、人間の罪によるものだからです。ですから人間の罪が贖われるとき被造物全体も贖われ、まだ罪が犯されていなかった創造時の世界に回復するのです。荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせるようになるのです。何とすばらしいことでしょうか。

皆さん、主が再び来られるとき、神の国があなたに臨むとき、あなたはサフランのように花を咲かせるようになります。それは荒れ果てた大地に、神が無限に恵みの水を注いでくださることによってのみ可能なことなのです。それは決して人の力によってできることではありません。人にはこのような無限の力はないからです。あなたがどんなに砂漠に水を注いでも、そこが潤されることは絶対にありません。ただ神の恵みの水が注がれることによって、そこに恵みの泉が湧き出ることによってのみ、砂漠が緑の草原に変わるのです。そして、これまでカラカラに乾いていた地が潤され、多くの花を咲かせ、実を結ばせてくださいます。

あなたの心はどうでしょうか。あなたの心は荒野や砂漠のように乾いていませんか。荒地のように荒れ果ててはいないでしょうか。もしあなたの心が乾いているなら、それはこの神の恵みに満たされていないからです。あなたがどんなに自分で自分の心を満たそうとしてもできません。ただ神だけが、砂漠のように乾いた心を満たすことができるのです。神の愛と神のいのちである聖霊があなたに臨むとき、あなたの心もシャロンのように豊かな花を咲かせるのです。

アメリカのボストンの地下病棟に、一人の少女が隔離されていました。少女はひどい心の病に侵されていて、人が近寄ると奇声をあげ、恐ろしい毒舌を浴びせました。医師たちは全力を尽くしましたが、結局回復不可能という診断を下しました。少女の両親も放棄してしまい、面会にさえ来ませんでした。誰一人として彼女に関心を示す人はいませんでした。  しかし、年老いて退職した一人の看護士が彼女に福音を伝え始めました。この看護士は六ヶ月間、ずっと主の愛を彼女に伝えました。すると少女の心が変わり始めました。心の暗やみが晴れ始め、徐々に世の中に向かって心を開き始めました。そして、ついに彼女の心が癒されたのです。心の光を取り戻した少女は自分と同じような心の病気で苦しんでいる人たちに尽くそうと決心しました。この少女こそあのヘレン・ケラーを世の中へと導いたサリバン先生でした。アン・サリバン・メイシーです。彼女はイエスに出会い全く変えられました。回復不可能だった彼女が世の中を変える偉大な生涯を歩むことができるようになったのは、ただ神の力によることでした。

あなたもキリストに出会うなら全く変わります。キリストを通して注がれる神の聖霊は回復不可能なあなたの心を、豊かな花を咲かせる野のような心に変えることができるのです。

Ⅱ.強くあれ、恐れるな(3-7)

次に3節から7節までを見ていきましょう。まず3節と4節をお読みします。「3 弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。4 心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」

主が再び来られる時、どのようなことが起こるのでしょうか?ここには「神が来て、あなたがたを救われる」とあります。霊的な救いだけではありません。肉体的にも、物質的にも救ってくださいます。具体的にはどのようなことかというと、5節と6節の前半のところに次のようにあります。「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。6 そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。」

やがて神の国が臨むと自然界ばかりでなく、人間にも変化が起こります。目の見えない人が見えるようになり、耳の聞こえない人が聞こえるようになります。足のなえた人、動かない人も、鹿のようにとびはね、口のきけない人の舌は喜び歌うようになるのです。

これらのことは、二千年前にイエス様が来られた時、実際にこの地上においてなされた事柄です。ルカの福音書7章19節から23節までのところをお開きください。ここには、「19 すると、ヨハネは、弟子の中からふたりを呼び寄せて、主のもとに送り、「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか」と言わせた。20 ふたりはみもとに来て言った。「バプテスマのヨハネから遣わされてまいりました。『おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか』とヨハネが申しております。」21 ちょうどそのころ、イエスは、多くの人々を病気と苦しみと悪霊からいやし、また多くの盲人を見えるようにされた。22 そして、答えてこう言われた。「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。23 だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」とあります。    実は、これらのことは来るべきメシヤの証拠でした。主イエスは来るべきメシヤとしての証拠を示すためにこれらの奇跡を行われたのです。ですから、バプテスマのヨハネが「来るべき方はあなたですか。それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか。」と尋ねたとき、主イエスが言われたことは、「あなたがたは、自分たちの見たり、聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい」ということでした。目の見えない人が見えるようになり、足のなえた人が歩くようになり、ツァラートに犯された人がきよめられ、耳の聞こえなかった人が聞こえるようになり、死人も生き返っています。貧しい人たちにも福音が宣べ伝えられています。これを見ればわたしが何者であるかがわかるでしょう。旧約聖書に、来るべきメシヤはどういう方であり、どのような働きをされるかがちゃんと書かれてあるではないか。それとよく照らし合わせてみるように。そうすれば、きっとわかるはずだ。わたしがだれであるかが・・。ですから、主イエスはそのように言われたのです。主イエスは、ご自分の力によって既に神の国が臨んだことを宣言されたのです。

しかし、その時イエスが成されたことはそのほんの一部にすぎませんでした。その完全な現れは神の国が到来するまで待たなければなりません。主イエスが再び来られる時まで待たなければならないのです。その時、それが完全な形でもたらされることになります。主イエスはこの地上での公生涯において、それをチラッと見せてくださったわけです。ちょうどテレビの予告編みたいですね。次の時にはどうなるかをめまぐるしく変わる画面によってチラッチラッと見せるわけですが、実際どうなるかはその時に全体を見て「ああ、こういうことだったのか」と気づくわけですが、それと同じです。イエス様は二千年前に千年王国に起こることをチラッと見せてくださいましたが、それは実際に千年王国がもたらされる時の予告だったわけです。その時、私たちは完全な形で神の国の到来を見るようになるわけです。何とすばらしいことでしょうか。

ですから、イザヤはこう告げるのです。「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ。恐れるな。見よ。あなたがたの神を。復讐が、神の救いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」(3-4)と。こうした将来の希望は、今を生きる私たちに励ましを与えます。さまざな苦しみや圧迫によって弱った手を強め、よろめいたひざをしっかりさせます。いろいろなことで思い煩って、心騒ぐ人たち、パニくっている人たち、ひっくり返っている人たちに勇気と力を与えるのです。主イエスが来られるというメッセージは、主イエスが来て、あなたがたを救われるというメッセージは、真にあなたを強めるのです。

オランダに50年間たばこを吸い続けていたおばあさんがいました。エリーナという人です。彼女はそのたばこをやめるためにあらゆる努力をしてきましたが、なかなかやめることができませんでした。そんな彼女も78歳になりましたが、彼女が78歳になったとき、一つ年上のジェイソンというご老人と愛し合うようになりました。たばこを吸わないジェイソンが、「私は君と結婚したいのだが、君のたばこのために決心がつかないんだ」と言うと、エリーナはどうしたと思いますか?彼女はジェイソンのその言葉を聞いた瞬間、たばこをやめたのです。50年もなかなかやめられなかったたばこを、ジェイソンの言葉を聞いた瞬間にやめることができたのです。まさに愛の力ですね。愛の力は意志の力よりも偉大です。クリスチャンの生活に起こる驚くべき変化の秘密は、道徳ではなくこの愛にあります。一方、幸せのために変化を追求する人々の姿を指摘するこのようなことばがあります。「ご飯を食べれば一日幸せで、新しい携帯を持つと一週間は幸せで、新しい車を買うと一ヶ月は幸せです。そして新しい家を買うと一年は幸せです。」

しかし主イエスを信じ、この神に望みを置く人は永遠に幸せです。詩篇146篇5節には、「幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く者は。」とあります。主に望みを置く人は何と幸いでしょう。いつもこの励ましと力を受けることができるからです。

今、この中に弱っている人がいるでしょうか。よろめいている人がいらっしゃいますか。心騒いでいる人がいますか。その人はこの方を見てください。この方とは主イエス・キリストです。主は来て、あなたがたを救われます。あなたのからだと心を完全なものに回復してくださいます。それこそ本当の希望です。この希望があなたを奮い立たせてくれるのです。

Ⅲ.そこにある大路(8-10)

最後に8節から10節までを見て終わりたいと思います。「8 そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。9 そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず、そこで出会うこともない。ただ、贖われた者たちがそこを歩む。10 主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。」

荒野や砂漠には道がありません。道がないからつまずくのです。また、道がないからさ迷うのです。ですから、荒野の中に入った人は道を失い、さ迷い、いのちを失うことがあるわけです。神はそのような荒野に道を造られました。神が造られる道は「大路」です。その道は「聖なる道」と呼ばれます。汚れた者はそこを通ることができません。それは贖われた者たちのものです。罪が贖われたきよい人々だけが通ることができます。旅人も愚か者、これは罪人のことですか、そこを通ることはできません。そういう人たちがこの道に迷い込むことはないのです。そこには獅子もおらず、猛獣もいません。この「獅子」とか「猛獣」というのは悪魔、サタンのことです。サタンも千年間縛られ底知れぬ所に入れられるので、そうした悪魔の誘惑に会うこともありません。先日、高速道路を運転していたら熊の標識を見ました。この近くですよ。こんなところに熊が出るのかなぁと思いましたが、熊が出たら大変です。襲われてしまいます。今、私たちが住んでいる世界では、いろいろなものが出てきます。そういうものが道に出てぶつかったり、つまずいたり、転んだり、するのです。中には酔っぱらって運転する人もいます。しかし、その道にはそうしたものが迷い込むことはありません。ただ贖われた者たちだけがそこを通ります。神によって救われた人は、その道で迷うことも、いのちを失うこともありません。永遠の喜びを味わい、楽しむことができます。楽しみと喜びがついて来て、悲しみと嘆きは逃げ去るのです。これが救われた者の姿です。主イエスの血潮によって救われた人は、決して再び失われることはありません。その人たちの前には永遠の喜びだけが溢れているのです。私たちの救いはまさにこのようなものなのです。

あなたはどうですか?あなたにはこのような楽しみと喜びがありますか?あなたの心の中には、このシオンへの大路があるでしょうか?詩篇84篇5節と6節には、「なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。」とあります。この大路を行く人は、涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。

その大路こそイエス・キリストです。イエスは言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のもとに来るとはありませんる」(ヨハネ14:6)この「道」は「the way」です。その道です。神のみもとに行くことができるたった一つの道です。それがイエス・キリストです。人生にはいろいろな道がありますが、神のもとに行くことができる道はたった一つしかありません。それがイエス・キリストなのです。その道を通って行かなければ父のもとに行くとはできません。自分の知識や経験では行けないのです。

有名な賀川豊彦という伝道者がこのように言いました。「道というのは、踏まれることによってのみ、その務めを果たす。イエスさまが「おまえたちの足がどんなに汚れていても、泥だらけの足であろうが、私を踏んで通ったら私の父のもとに行けるぞ。私は道だ。さあ、足がきれいになってからではない。そのままで踏むのだ。と天と地の間に立ってくださった姿が十字架だ。」

あなたがどんな存在であってもイエスを道として受け入れ、この方にあなたの人生のすべてをゆだねて歩んで行くなら、あなたも贖われた民としてその道を歩くことができます。そこにはあなたの道を妨げたり、行く手を遮るような物は何もありません。あなたは喜び歌いながらシオンに入り、とこしえの喜びをいただくのです。悲しみと嘆きとは逃げ去り、楽しみと喜びがついて来ます。まさにダビデが言ったように、いつくしみと恵みとが、私を追ってくるのです。

どうかあなたもこの道を歩んでください。イエスが備えてくださった大路を歩みながら、やがて来る神の国の祝福に備えていただきたいと思うのです。その時が来ると、すべてが祝福に変わるからです。

イザヤ書34章1~17節 「確かな主のことば」

きょうはイザヤ書34章のみことばから、「確かな主のことば」というタイトルでお話をしたいと思います。    Ⅰ.国々よ。聞け。(1-4)

まず最初に1節から4節までをご覧ください。1節をお読みします。「国々よ。近づいて聞け。諸国の民よ。耳を傾けよ。地と、それに満ちるもの、世界と、そこから生え出たすべてのものよ。聞け。」

ここで主は、すべての国々に対して語っておられます。南ユダの人たちだけではありません。すべての国々の、すべての人々が聞かなければならない大切なメッセージを語っておられるのです。それはどのようなことでしょうか。2節から4節までのところに、次のようにあります。

「2 主がすべての国に向かって怒り、すべての軍勢に向かって憤り、彼らを聖絶し、彼らが虐殺されるままにされたからだ。3 彼らの殺された者は投げやられ、その死体は悪臭を放ち、山々は、その血によって溶ける。」

どういうことでしょうか?主がすべての国に向かって怒り、すべての軍勢に向かって憤る時がやって来るとは・・。これは、世の終わりにもたらされる患難時代と、その後に起こるこの世における最後の戦いであるハルマゲドンの戦いと呼ばれるものの預言です。「彼らを聖絶し」、「彼らが虐殺される」というのは、イザヤの時代で言えばアッシリヤに対する神のさばきのことを指していますが、それは同時に、この世の終わりに起こるハルマゲドンの戦いの描写なのです。それは、キリストを拒絶したこの罪の世界に対する神の怒りの時です。詳しい内容は黙示録6章から19章までのところに記されてありますので、後でご覧いただければと思います。その最後の戦いにおいて主は敵である悪魔を虐殺して、勝利するのです。そして「彼らの殺された者は投げやられ、その死体は悪臭を放ち、山々は、その血によって溶ける」ようになるのです。

それだけではありません。4節をご覧ください。その時には天変地異も起こるということが語られています。「天の万象は朽ち果て、天は巻き物のように巻かれる。その万象は、枯れ落ちる。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。いちじくの木から葉が枯れ落ちるように。」

天の万象は朽ち果てます。そして、天は巻き物のように巻かれるのです。これはおもしろい表現ですね。巻物のように巻かれる・・。かつて第二次世界大戦の時に広島と長崎に原爆が投下されましたが、その時、天はどのようになりましたか?きのこ雲が空高く渦巻きました。そうです、天は巻き物のように巻かれるのです。やがて起こる世界規模の戦争においてはこの核も使用されるということです。そして世界中にあのきのこ雲がわき起こるようになるのです。その万象は枯れ落ちます。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように、いちじくの木から葉が枯れ落ちるように、枯れ落ちるのです。これは、空から惑星や隕石が落ちてくるということでしょう。その時になると天の万象は枯れ落ちて、ぶどうの木から葉が落ちるように、いちじく木から葉が枯れ落ちるように、いろいろなものが枯れて落ちてくるのです。

いったいなぜこのようなことが起こるのでしょうか。それは人間が罪を犯したからです。創世記3章17節を見ると、最初の人アダムとエバが罪を犯したとき、この地は呪われたものとなった、とあります。彼らが罪を犯したので、全世界が、自然界も含めて、呪われてしまったのです。ですから、もちろん、この地球環境のために私たちが働きかけることは大切なことですが、この地球が完全な状態に回復するためには神がこの罪を解決して、全く新しい環境を再創造されなければなりません。それが主イエスの再臨の時であり、キリストによって樹立される新しい神の国、千年王国の時なのです。ローマ人への手紙8章19節には「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。」とありますが、それはこのイエスが再臨される時のことです。被造物全体が、切実なる思いで神の子たちの現れを待ち望んでいるのは、その時、罪に汚れたこの世が刷新され、全く新しい世界が創造されるからなのです。

すべての国々の、すべての民は、このメッセージを聞かなければなりません。これは神に敵対する物たちに対する神の警告です。ですから、神の民であるあなたは万物の創造者であり、主権者である神の前にへりくだり、この方だけを礼拝し、この方にすべての栄光と賛美と感謝がささげられるようにしなければなりません。あなたはこの万物の創造者である神の前らどんな存在でしょうか。自分の思いを捨てて、神のみこころに従うべきことはどんなことでしょうか。

Ⅱ.エドムに下る神のさばき(5-15)

次に5節から15節までを見ていきましょう。5節をお読みします。「天ではわたしの剣に血がしみ込んでいる。見よ。これがエドムの上に下り、わたしが聖絶すると定めた民の上に下るからだ。」

ここには、エドムに対する神のさばきが語られています。エドムというのはエサウという人を先祖に持つその子孫のことです。エサウというのはヤコブと双子の兄弟のお兄ちゃんの方です。兄がエサウで、弟がヤコブです。エサウはエドムと呼ばれる地に住んだので、後に「エドム人」と呼ばれるようになりました。そのエドムに対して神の怒りが注がれているのです。なぜでしょうか。8節をご覧ください。「それは主の復讐の日であり、シオンの訴えのために仇を返す年である。」どういうことかというと、このエドムは神の民であるイスラエルの敵であり、そのイスラエルの訴えのために仇を返されるからです。ご存じのように、エサウは長子でありながら肉的なものに心が奪われ、その長子の権利を弟ヤコブに譲ってしまいました。たった一杯のスープのために、たった一杯のシチューのために、たった一杯のカレーライスのために、その大切な長子の権利を売ってしまったのです。神の祝福を自ら放棄してしまいました。それゆえ「神はヤコブを愛し、エサウを憎また」(ローマ9:13)のです。それ以来、エサウは、エドム人は、神の敵となってしまいました。イスラエルの敵になったのです。このイザヤが活躍していた時代にも、エドム人はユダに侵略してはこれを攻めるというようなことをしていました。また、新約時代になるとイドマヤ人であったヘロデ大王はユダヤ人の王として生まれたイエスを殺すためにエルサレムに住む二歳以下の男の子を虐殺したという話が出てきますが、このイドマヤ人というのは実はエドム人のことです。エドム人は後に「イドマヤ人」と呼ばれるようになりました。彼はキリストを殺そうとしたのです。神に敵対する者でした。このようにエドム人は神の民イスラエルの親類でありながら、彼らに敵対するようになってしまったのです。すなわち、エドムとは神に敵対する者の代名詞なのです。そうしたエドムに対して、神は復讐すると言っておられるのです。

どのように復讐されるのでしょうか。9節と10節には、「9エドムの川はピッチに、その土は硫黄に変わり、その地は燃えるピッチになる。10それは夜も昼も消えず、いつまでもその煙は立ち上る。そこは代々にわたって、廃墟となり、だれも、もうそこを通る者はない。」とあります。

ここにはピッチとかわけのわからないことばが出てきますが、ピッチとは原油や石油を熱で分解してできる黒い残留物のことです。常温では固体ですが、高温で溶かすと黒色の液体になります。エドムの川はそのようなピッチに変わります。その土は硫黄に変わり、その地は燃えるピッチになります。それは夜も昼も消えることがありません。いつまでも煙が立ち上ります。もうだれもそこを通ることはできません。パイプラインが破壊され火がいつまでも消えないといったイメージです。エドムとは地理的には今のサウジアラビヤの北方に位置していますから、原油の量が中途半端ではなく多いのです。しかし、そうした原油を運ぶパイプラインが破壊されるので、そこはまさに火の海になってしまいます。その火は昼も夜も消えることがありません。本当に恐ろしい情況を目の当たりにするようになります。

さらに11節から12節を見ると、そこは完全に荒れ果てるということが言われています。「11 ペリカンと針ねずみがそこをわがものとし、みみずくと烏がそこに住む。主はその上に虚空の測りなわを張り、虚無のおもりを下げられる。 12 そのおもだった人のうち、王権を宣言する者が、だれもそこにはいない。すべての首長たちもいなくなる。」

ここに出てくるペリカンとか針ねずみ、みみずく、烏といった生き物は、荒れ果てた寂しいところに住む獣です。この「虚空」とか「虚無」と訳されたことばは、創世記1章2節のところで「茫漠」と訳されていることばと同じことばです。それは「荒野」のことです。「地は茫漠として何もなかった」混沌としていた。そういう状態になるということです。完全に廃墟と化してしまうのです。

そればかりではありません。13節から15節には、「13 そこの宮殿にはいばらが生え、要塞にはいらくさやあざみが生え、ジャッカルの住みか、だちょうの住む所となる。14 荒野の獣は山犬に会い、野やぎはその友を呼ぶ。そこにはこうもりもいこい、自分の休み場を見つける。15 蛇もそこに巣を作って卵を産み、それをかえして、自分の陰に集める。とびもそれぞれ自分の連れ合いとそこに集まる。」とあります。

ジャッカルとだちょうは、廃墟に住む代表的な動物です。また「野やぎ」はヘブル語で「サイール」と言いますが、「毛深いもの」を意味します。ここから悪霊を指すことばとして用いられるようになりました。よくやぎの顔をした動物が悪魔として出てくることがありますが、それはこのことです。また、「こうもり」も悪霊を指します。ヘブル語では「レリース」と言いますが、エドムに実在していた夜の女神のことです。蛇も悪の象徴として用いられています。すなわち、このエドムは荒れ果て、完全に廃墟と化してしまうというだけでなく、悪の力、悪霊も巣食うようになるという預言なのです。なぜでしようか。神に敵対したからです。神に敵対する者とその勢力は、このエドムのようになってしまいます。完全に廃墟と化するのです。

神に敵対する者に対して神は、このように復讐されるのです。ですから、神に敵対してはいけません。神に敵対するとエドムのようになってしまいます。アブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われます(創世記12:3)。ですから、アブラハムを祝福する者になりましょう。決して呪ってはいけません。エサウのように自らの欲望のためにこの世を愛するようなことがあってはならないのです。神を愛し、神の民であるクリスチャンを愛する者でなければなりません。あなたはどうでしょうか。

ローマ人への手紙8章31節から34節までのところに、次のようにあります。 「31では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしてくださるのです。」

神が私たちの味方であるなら、だれも私たちに敵対することはできません。大切なのは、私たちが神の側にいるかどうか、あるいは、神が私たちの側にいるかどうかであって、それがいつも私たちの最大の関心事でなければなりません。神が私たちの側にいてくださるなら、神が私たちの味方であるなら、私たちは何も恐れることはないのです。だれも私たちに敵対することなどできないからです。

ですから、私たちの関心事は、どうしたら私たちが神の味方であるか、どうしたらいつも神のみこころに従うことができるかということです。神に従うとは、神の御心に従うことですから、そのためにはどうしても聖書に向かわなければなりません。聖書をよく読んで、しかもただ読みっぱなしではなく、それを実行することが大切です。みことばに従い、みことば生きる時、私たちは神の味方であるということ、神が私たちの側におられることを確信することができるのです。

Ⅲ.確かな主のことば(16-17)

最後に16節と17節を見て終わりたいと思います。「16 主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。17 主はこれらのもののために受ける割り当てをくじで定め、御手が測りなわで測ってこれを分け与えたので、とこしえまでも彼らはこれを所有し、代々にわたって、ここに住む。」

どういうことでしょうか?「主の書物」とは聖書のことです。特に、預言のことばと言ってもいいでしょう。これを調べて読め、というのです。口語訳ではここを「あなたがたは主の書をつまびらかにたずねて、これを読め。」と訳しています。「つまびらかにたずねて」すごい表現ですね。あまり使いません。「つまびらか」という言葉は。これは詳しく読めということです。細かいところまでよく調べて読むように。そうすればわかります。これらのもののうちどれも失われていないということが。何一つ欠けていないということが。すべての預言が一つもたがわず成就したことがわかるんです。なぜそのように言うことができるのでしょうか?なぜなら、それは「主の口がこれを命じ、主の御霊が、これを集めた」からです。これは人が書いたものではなく、主が命じて書かせたもの、つまり、神のことばだからです。実際には預言者イザヤが書いたわけですが、これを書いたイザヤは自分で書いたというよりも神の力強い導きと、御霊の力を感じながらこれを書いたのです。自分の知恵や知識によってではなく、神の口から出たことばが御霊によって彼に感動を与え、これらのことを書かせてくださったとうのです。

ペテロ第二の手紙1章20節と21節を見ると、「20 それは何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。21 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」とあります。預言は決して人間の意志によってもたらされたものではありません。聖霊に動かされて人たちが、神からのことばを語ったものなのです。それゆえに聖書は神のことばであると私たちは信じてはばからないわけです。これがプロテスタント教会の信仰の中心です。いろいろな違いがあってもいいんです。しかし、これだけは違ってはまずのです。聖書は神のことばであるということです。それゆえ、聖書は私たちの信仰の道しるべであって、私たちにとって重要なことは、この聖書に何と書かれているか、聖書は何と言ってるかということです。あの人は何と言ってるかとか、自分はどう思うかということではなく、聖書は何と言ってるのか、それはどういう意味なのかということが重要なのです。

私は聖書を読むたびに思うのですが、特にこのイザヤ書などを読んでいると、これはどう見ても絶対に人が書いたものではないと思います。道徳的なことや倫理的なことは、ある程度他の宗教書やさまざまな教典と呼ばれるものの中にも同じようなことが書かれてありますが、預言となると、他の宗教書や教典には決して見られないものです。見られたとしてもハズレます。昨年12月21日はマヤの暦では世の終わりの日であったそうです。それで世界中が混乱しましたが、残念ながらその預言は外れました。これはとても人が書けるようなものではないのです。これは神の霊感を受けた人たちが、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語った、神のことばなのです。

中には聖書なんて信じられないとか、そんなの人の創作であって、ただの神話だという人がいますが、そういう人は実のところ全然聖書を読んでいない人たちです。読んだとしてもそこに書かれてある内容をよく調べていません。もしよく調べて読むなら、つまびらかにたずねて読むなら、本気で聖書に向かうなら、その人は間違いなくその預言の驚くべき内容に、そして、これまでの歴史の中でそのことばが確実に成就してきたという事実に圧倒され、これがまさに神のことばであると確信することでしょう。

実はイザヤ書はこの後36章から39章までのところに、イザヤの時代に起こった歴史的な事実を記しています。イザヤ書は全部で66章ありますが、その前半の締めくくりの36章から39章までのところに歴史的な事実を記しているわけです。それはなぜかというと、これまでイザヤが預言したことが本当に起こったということを示すためです。すなわち、エルサレムを完全に包囲したアッシリヤに対して、神が超自然的に介入され一晩で18万5千人を打ち倒しました。イザヤが言ったことは本当に成就しました。それは世の終わりに起こることも同じように成就するということを表しています。世の終わりには患難時代があるとか、ハルマゲドンの戦いがあるとか、千年王国が樹立されるというようなことを言いましたが、聖書を知らない人にとってはまさにたわごとのような話でしょう。全く信じられないことです。しかし、それらのことは必ず起こります。聖書の預言は絶対成就するからです。それは一つもたがわず実現します。ですから、私たちは主の書物を調べて読まなければなりません。これをつまびらかにたずねて読まなければならないのです。

ぜひ今年は一年でこの聖書を全部読みたいですね。これを通読と言います。あまり深いことは考えないで聖書にはどんなことが書かれてあるんだろうといった気持ちで読み進めて行くことです。私も1月1日から実行していますが、毎日大体5章くらいずつ読むと1年で通読できるようです。ディリーブレッドのようなものには通読表がありますので、そのようなものを使うと読みやすいかと思います。しかしある時には、自分の心にひっかかったり、「これはすばらしいみことばだなぁ」と思うようなことばがあれば、それをつまびらかにたずねて読むことが大切です。礼拝や祈祷会でもそうですし、「幸いな人」や「リビングライフ」などのように聖書のみことばを解説しているものがあると便利です。そうしたものを用いてつまびらかに読んでいくなら、聖書の意味の深さというものを幾倍にも増していくことができると思います。

もちろん、そうしているからといって、「自分はだれよりも聖書を知ってるとか、わかってる」といってそこに立ちどまっていたら、そこから先に進んでいくことができません。どんなに学んでも、さながら学んだことがないかのように、へりくだって、いつも新鮮にみことばを聞こうとする態度、みことばに向かう姿勢が大切です。

ペテロは「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」(Iペテロ1:23)と言いました。この種は決して朽ちない種であり、いつまでも変わることのない、神のことばです。このことばがあなたにいのちを与え、新しく生まれ変わらせてくださいます。

千葉県の天然記念物に指定されている「大賀蓮(オオガハス)」という蓮の花をご存じでしょうか。この花は今から二千年前の蓮の種が奇跡的に発芽して咲いたものです。二千年前といったら、途方もなく長い間です。発見された時には固く石のようになっていました。もう命はないだろうと思われましたが、三粒のうち二粒は失敗しましたが、一粒の種が発芽して花が咲き実を結びました。その種の中には命があったのです。それに環境が整えられますと、芽を出して成長し、花を咲かせて実を結びます。これは大賀一郎という植物学者が発見したことから「大賀蓮」と呼ばれていますが、今では人々に幸せを運ぶ種として飛ぶように売れているそうです。

ペテロが、あなたがたが新しく生まれたのは、この朽ちることのない種が蒔かれたからだと解釈しました。なぜクリスチャンに永遠のいのちがあるのかというと、神の種であるみことばにいのちがあり、その種が人の中に蒔かれて芽を出すからなのです。なんてすばらしいことでしょう。新しく生まれ変わるということはそういうことなのです。それは生ける、いつまでも変わることのない神のことばによるのであって、主の書物を調べて読む、つまびらかにたずねて読むなら、やがてその種から芽が出て、豊かに花を咲かせることでしょう。

もしかすると、あなたの中にはまだこの芽が出ていないかもしれません。まだ何の変化も見られないかもしれません。しかし、この種は必ずやがてあたなのうちに芽を出し、美しい花を咲かせ、実を結ばせてくださいます。なぜなら、これはいつまでも変わることのない、生ける、神のことばだからです。ですから、主の書物を調べて読みましょう。つまびらかにたずねて読みたいと思います。イザヤを通して語られたみことばは必ず実現します。私たちは神が語られたことばをつまびらかに読んで、神のみこころにかなった歩みを求めていく者でありたいと思います。

イザヤ書33章17~24節 「この方が私たちを救われる」

新年あけましておめでとうございます。この新しい年をどのような祈りで始められたでしょうか。この新しい年の上に、主の祝福が豊にありますように祈ります。この新年の朝に私たちに与えられているみことばは、イザヤ書33章17節から24節までのみことばです。きょうはこのみことばから「この方が私たちを救われる」というタイトルでお話をしたいと思います。

Ⅰ.麗しい王(17-19)

まず初めに17節から19節までをお読みします。「17 あなたの目は、麗しい王を見、遠く広がった国を見る。18 あなたの心は、恐ろしかった事どもを思い起こす。「数えた者はどこへ行ったのか。測った者はどこへ行ったのか。やぐらを数えた者はどこへ行ったのか。」19 あなたは、もう横柄な民を見ない。この民のことばはわかりにくく、その舌はどもって、わけがわからない。」

「麗しい王」とは、やがて来られるメシヤ、イエス・キリストのことを指しています。「あなたの目は、麗しい王を見、遠く広がった国を見る。」イザヤは、やがてイエス・キリストがこの地上に再臨して千年王国を樹立する時のことを語っています。その時、あなたの目は、この麗しい王が、地の果てまで広がった、世界の隅々に至るまで支配した国を見るようになります。

「あなたの心は、恐ろしかった事どもを思い起こす」とは、アッシリヤに取り囲まれた出来事のことです。「数えた者」とか「測った者」、また「やぐらを数えた者」、「横柄な民」とは、もちろんアッシリヤのことです。彼らはユダを侵略しそこにあった金、銀、財宝を、あるいは、捕虜の数を数えていました。また、彼らが奪った土地を測量していたわけです。「やぐら」とはアッシリヤの攻撃を防御する見はり塔のことですが、アッシリヤがやって来たときそれを奪って武装解除していました。彼らは実に横柄な民でした。そんなアッシリヤはどこにもいません。どこへ行ってしまったのでしょうか。主がやって来て彼らを滅ぼしたので、彼らは自分の国に帰って行きました。ある晩、主の使いがやって来てアッシリヤの陣営にいた185,000人の兵士を打ち倒したので、彼らは命からがら逃げて行ったのです。麗しい王が来て彼らを打ち破られたので、彼らは命からがら逃げて行きました。

皆さん、麗しい王が来るとき、それまで自分たちを取り囲んでいた強大な敵がどこかへ行ってしまいます。これまで目の前に立ち立ちはだかっていたものが取り除かれて、遠くまで見えるようになるのです。麗しい王が来て、それらを滅ぼしてくださるからです。もしあなたがアッシリヤのような強大な敵に囲まれて四面楚歌のような状態になったとしても、あなたの目がこの麗しい王を見るなら、あなたがイエス・キリストを見上げるなら、あなたはそこから解放されるのです。遠く広がった国を見るようになります。目の前の問題がどこかに吹っ飛んでしまいます。今まで近視眼のように目先のことしか見えず、全然先のことが見えなかったのが、遠くまで見渡せるようになるのです。イエスを見た瞬間に、あなたの視界が広がるからです。これまでみたことがないような世界が広がってきます。狭い世界で縮こまって苦しんでいたのが、イエスを見た瞬間に、遠くまで見渡せるようになるのです。自分を脅かしていた人たち、恐ろしい出来事も、どこかに行ってしまいます。イエス・キリストを見れば、目の前の問題が吹っ飛んでしまうのです。問題は、あなたの目が何を見るかです。もしあなたの目が、麗しい王を見るなら、あなたは遠く広がった国を見るようになるのです。

ソウル・サーファーという映画を観ました。13歳のベサニー・ハミルトンは、暖かい家族と暮らすハワイのカウアイ島で、何よりサーフィンを愛する少女で、プロサーファーとして将来を有望視されていた矢先、練習中にサメに襲われて左腕を失います。将来が見えない不安の中、転機となったのは、スマトラ沖地震後、ワールド・ビジョンというクリスチャンの団体が行ったタイでの緊急支援活動にボランティアとして参加したことでした。津波で甚大な被害を受けた被災地での活動を通し、自分が頑張ることで、世界のこどもたちみんなに勇気と希望を伝えることができるいう想いを抱きました。これまでサーファーにしか見えなかった彼女が片腕を失ったことで麗しい王であられるイエスに目を向けたとき、将来と希望が与えられたのです。

もしあなたの目が麗しい王であられるイエスを見るなら、あなたも遠く広がった国を見るようになるのです。この新しい一年が、そのように年でありますように。

Ⅱ.祝祭の都(20-21)

次に20節と21節をご覧ください。ここには、「20 私たちの祝祭の都、シオンを見よ。あなたの目は、安らかな住まい、取り払われることのない天幕、エルサレムを見る。その鉄のくいはとこしえに抜かれず、その綱は一つも切られない。 21 しかも、そこには威厳のある主が私たちとともにおられる。そこには多くの川があり、広々とした川がある。櫓をこぐ船もそこを通わず、大船もそこを通らない。」とあります。

「祝祭の都」とはシオン、エルサレムのことです。エルサレムでは主を祝うための祭りがたくさん行われていました。特に過越の祭り、七週の祭り(別称ペンテコステ)、仮庵の祭りの三大祭りは、成人男性であれば世界中どこにいても、エルサレムに来て参拝しなければなりませんでした。ですから、エルサレムは祝祭の都と呼ばれていたわけです。そこは安らかな住まいです。天幕が取り払われたり、その鉄のくいが抜かれたりすることはありません。その綱が切られたりすることはありません。どんなに敵が強大であっても、エルサレムが破壊されたり、滅ぼされたりすることは絶対にないのです。今日、エルサレムほど危険な場所はないかのように感じます。連日のようにテロがあったとか、パレスチナとの戦闘があったという報道がなされています。いつ破壊されてもおかしくないような場所です。しかし、この町が破壊されることは絶対にありません。そこは安らかな住まいだからです。

イランのマフムード・アフマディネジャド(Mahmoud Ahmadinejad) 大統領は「イスラエルを世界地図から抹消する」と宣言しましたが、彼がどんなにそのように叫んでも、イスラエルが、エルサレムが抜かれることは決してありません。一説によると、彼がイスラエルを抹消しようと躍起になっているのは、彼自身がユダヤ人であったからだと言われています。彼の一族は500年前から続くユダヤ人の末裔で、その祖先はさらに遠く2600年前までさかのぼり、「バビロン捕囚」のユダヤ人を解放した紀元前593年に遡ると言われています。その時にペルシャに移り住んだらしいのです。(ゴードン・トーマス,「インテリジェンス・ジャーナリスト」2009年12月号)。改宗を経験した家族は、たいてい改宗前に信仰していた教義に批判的になると言われますが、彼の強烈な反イスラエル、反ユダヤ教の言動は、ユダヤ教から足を洗い、その事実を消したいという思いが働いているのだろう、と言うのです。しかし、どんなに彼が叫んでも、イスラエルが、エルサレムが抹消されることはありません。そこは祝祭の都とあるように、主なる神が礼拝される所なので、絶対に失われることはないのです。世の終わりになると麗しい王であられるイエス・キリストがここに降りて来られ、世界を治められます。ここは安らかな住まいです。私たちはいつの日か、ここに書かれてあることが本当だったということを見るようになるでしょう。

21節をご覧ください。ここには、「しかも、そこには威厳のある主が私たちとともにおられる。そこには多くの川があり、広々とした川がある。櫓をこぐ船もそこを通わず、大船もそこを通らない。」とあります。威厳のある王とはイエス・キリストのことです。やがてイエス・キリストが天から降りて来られるとき、 私たちクリスチャンをも天から引き連れて来て、この地上を治めます。

不思議なのは、ここに「そこには多くの川があり、広々とした川がある。」とあることです。というのは、エルサレムには多くの川や、広々とした川はないからです。いったいこれはどういうことなのでしょうか。

ゼカリヤ書14章4節を開いてください。(新改訳聖書第三版旧約p1560)ここには「その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。」とあります。これは、主が再臨されるときの様子です。主はエルサレムの東にあるオリーブ山の上に立ちます。するとオリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができます。そして山の半分は北に移り、他の半分は南に移ります。どういうことかというと、大きな地殻変動が起こるということです。そして、そのように地殻変動が起こった結果、8節にあるように、「その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏にも冬にも、それは流れる。」ようになるのです。何とエルサレムからわき水が流れ出て、半分は東の海、死海ですね、もう半分は西の海、地中海です、そこに流れるようになるのです。それは夏にも冬にも流れます。チョロチョロした川、小川ではありません。夏にも、冬にも流れるような大きな川ができるのです。そこには櫓をこぐ船や大船も通りません。これは敵の船のことです。敵は離散していくので、そこを通ることはありません。世の終わりには、そのようになるのです。

それで、これは霊的にどういうことなのかというと、こういうことです。ヨハネの福音書7章37節から39節までをご覧ください。

「37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」    この祭りとは仮庵の祭りです。その祭りの大いなる日に、イエス様は立って、大声で言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が行っているとおりに、その人の心の奥底から、活ける水の川が流れ出るようになる。」実はこの「川」は複数形で書かれてあるんです。一本のチョロチョロとした川ではありません。小さな川が流れるということではないのです。大きな川が怒濤のように、まるで洪水のように流れ、それが溢れ、いくつもの支流となって流れるようになるということです。爆発的に水が湧き出て、その勢いが本流となって流れ、いくつもの川になって流れほどになるということです。これは何のことを言っていたのかというと、御霊のことです。イエスを信じる者が後になって受ける御霊、聖霊のことです。イエスを信じる人には、御霊が川のようになって流れるようになるのです。もしあなたがイエスを信じるなら、あなたの目が麗しい王を見るなら、あなたの心の中にもこの川が流れ出るようになるのです。そこには敵の船も通りません。そのような船も取り去られるからです。それが生ける水の川です。あなたの心にも聖霊が溢れるようになります。これを聖霊のバプテスマと言ってもいいです。そのような経験をするようになるのです。

けれどもここに、「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので」とあります。この時はまだイエスは栄光を受けていなかったので、御霊はまだ注がれていませんでした。この栄光とは何かというと、第一義的には、十字架と復活のことを指しています。イエス様は十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられ、四十日の間、弟子たちに現れて、神の国のことを語られました。そして天に上って行かれました。この時にはまだイエス様が栄光を受けていませんでした。ですから、御霊はまだ注がれていなかったのです。いつ御霊が注がれるのかというと、イエスが栄光を受けられる時です。その時に御霊が注がれます。もう既にイエスは天に昇って行かれました。いつでも御霊が注がれます。しかし、ここには一つだけ重要なことがあるんです。それは、イエスが栄光を受けられる時に御霊が注がれるということです。もしあなたが自分の生涯を主にささげますと祈るなら、その瞬間に、あなたは御霊の注ぎを受けます。もしあなたがへりくだって、あなたのすべてを主にゆだねますと告白するとその瞬間に、あなたは御霊の満たしを受けるのです。これまでは自分の栄光ばかり求めてきました。自分のやりたいことを、自分の夢がかなえられることばかりを求めて生きてきました。でもこれからはイエスの栄光が現されるために生きます、と決心するとき、御霊が注がれるのです。大きな川となって、もうその川が溢れ出ていくつもの川になって流れくらいの川になって流れるようになるのです。その時あなたも聖霊の力を受けるようになります。聖霊のバプテスマを受けたいのなら、聖霊に満たされたいと願うなら、すべての栄光を主に帰するように生きようと決心することです。自分ばかりを見ていると、この御霊の注ぎを受けることはできません。ただ主の栄光が現されるようにと願って生きるところに注がれるのです。

そのためには、この主の招きに応答することが必要です。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」だれでも渇いているなら、イエスのところに行って飲まなければなりません。イエス・キリストを信じて、あなたの人生をすべてイエス様にささげますと決心してください。この新しい年の初めに最もふさわしい信仰の応答は、主よ、あなたを信じます。あなたに従います。あなたにすべてをささげます。そのような信仰の決心なのです。その時に御霊が注がれます。その時にすべての変化が始まるのです。それまではみんな渇いています。クリスチャンでも「こんなはずじゃなかった」とか、「なんかしっくりこない」、「なんだか力が感じられない」と思っています。自分のふがいなさに嫌気がさしているという方もおられるでしょう。しかし、ひとたびイエスを見るなら、イエスに栄光を求めて祈るなら、御霊が川のように流れるようになるのです。

Ⅲ.この方が私たちを救われる(22-24)

第三のことは、この方が私たちを救われるということです。22節から24節までをご覧ください。22節には「まことに、主は私たちをさばく方、主は私たちの立法者、主は私たちの王、この方が私たちを救われる。」あります。皆さん、この方が私たちをさばく方です。この方が私たちの立法者です。この方が私たちの王なのです。これはどういうことかというと、この方は司法において、立法において、また行政において正しく治められる方であるということです。民主主義においてはこの三権が分立していることが原則になっています。三権分立の原則です。日本国の憲法でも、国会、内閣、裁判所の三つの独立した機関が相互に抑制し合い、バランスを保つことによって、権力の濫用を防ぎ、国民の権利と自由を保障する「三権分立」の原則を定めています。 しかし、人は正しくさばくことができません。人はうわべを見るからです。人はうわべを見るが、主は心を見る。正しくさばくことができるのは主だけです。また内閣や国会を見ても、主権者である国民のニーズがいろいろなので、何が良いのかを判断することが非常に難しいわけです。いったい国としてどうあるべきなのかを正しく判断し、たとえそれが時には国民の不利益になることであることでもそのことを説得して理解を得、協力を得ていくということは至難の業です。そのような中で国を動かしていくということは無理です。ではどこに救いがあるのでしょうか。ここにあります。イエス・キリストです。この方が私たちを救われます。ヒゼキヤという王様ではありません。私たちを救うことができるのは、私たちの本当の王様は目には見えませんが、今も生きてすべてを治めておられる方、イエス・キリストです。この方が私たちを救われるのです。

23節と24節をご覧ください。ここには、「23あなたの帆の綱は解け、帆柱の基は、結びつけることができず、帆は、張ることもできない。そのとき、おびただしい分捕り物や獲物は分け取られ、足のなえた者も獲物をかすめる。24そこに住む者は、だれも「私は病気だ」とは言わず、そこに住む民の罪は赦される。」 あります。ここにはこの方が支配される国はどのような国なのかが語られています。「あなたの帆の綱は解け、帆柱の基は、結びつけることができず、帆は、張ることもできない。」というのは、敵が残していった軍隊のことです。神のさばきによってアッシリヤは壊滅的な打撃を受けました。完全に破壊されたわけです。「そのとき、おびただしい分捕り物や獲物は分けられ、足のなえた者も獲物をかすめる。」これはまさに征服者の姿です。人々がやって来て、それらを分捕り物としてかすめ奪います。そのようにして神は敵を一掃されるのです。悪をすべて滅ぼされます。

「そこに住む者は、だれも「私は病気だ」とは言わず、そこに住む民の罪は赦される。」そこに住む者は、だれも「私は病気だ」と言いません。麗しい王であられるイエスが来られると、すべてが正常になります。今は足が不自由であったり、身体的にハンディキャップがあったりして不自由な生活を余儀なくされていても、肩がこったり、頭がこったり、腰や膝がこったり、内臓脂肪、中性脂肪、コレステロール、高血圧が気になったりします。しかし、その日には「私は病気だ」と言う人はだれもいなくなるのです。もう病院もいりません。サプリメントも必要ないんです。だれも病気だと言わないのですから。また、そこに住む人たちの罪は赦されます。だれも罪責感で悩んだり、罪悪感、自責の念で苦しむことはありません。罪はすべて赦されるからです。平和に満ちた世界がもたらされます。

どのようにしてこのようなことが起こるのでしょうか。麗しい王であられるイエス・キリストが来られることによってです。イエスが王としてこの国を治められるので、そこは麗しい国になります。それがこの地上の千年王国です。これは天国とは違います。天国はその後でもたらされる完全な国で、しかも永遠に続く国です。神様はその前にこの人類の歴史の最後に、一千年に及ぶ幸福な時代を持つように計画されました。なぜでしょうか。それは神の安息のためです。神様はかつて、天地創造のために六日間をさき、次の一日を安息とされました。同様に、神は救いの完成のために六千年の時をさき、次の一千年を安息の時代とされたのです。こうして人類の歴史は完成するのです。この千年王国においては、キリストが再臨される以前からクリスチャンであった人も、またそうであなかった人々も、豊かな恵みの時代を享受するようになるのです。その後で、全世界の人々に対して、最後の審判と呼ばれる裁きがあり、万物は更新されて「新天新地」を迎えるわけです。その前に私たちはこの至福の時を経験します。これが本当の至福の時です。それはイエスが来られることでもたらされます。ですから、イエス・キリストが来られるのが待ち遠しわけです。うるわしい王であられるイエスが来られるとき、すべてが変わります。ですから私たちはこの主を待ち望み、ただこの主をたたえて歩んでまいりたいと思います。

新聖歌427番の曲は「ただ主をあがめて」という曲ですが、これはクリスチャン・ミッショナリー・アライアンスの創始者A・B・シンプソンという人が作詞した賛美です。彼は37歳の時、重い病に倒れました。そのため、牧師としての仕事のすべてを放棄しなければならなくなりました。1年にわたる療養生活ののちに家に帰ったものの、心はぐっと沈み込むように重かったそうです。何しろ担当の医師が、あといくらももたないと宣告していたからです。  彼にとっての最後のよりどころは、神のおことばである聖書でした。真剣にみことばに取り組んでいるうちに、すばらしい真理に出会いました。それは、キリストは彼にとってすべてのすべてであるということでした。キリストは贖い主、聖め主、いやし主、そのほか彼の必要のすべてのすべてであるという真理を見いだしたのです。  ある金曜日の午後、彼は外に出ました。肉体の痛みと衰弱のため、足取りはおそく、息切れが激しかったものの、彼は松林の中に入って行きました。そして松の葉が敷き詰められたジュータンにひざまづき、石の代わりに丸太を祭壇にして祈り、主の御顔を尋ねたとき、突然、聖霊が激しく彼の上に注がれました。「私の魂のあらゆる部分が、神のご臨在を感じて高鳴っていた」と彼は告白しています。その時から彼はたましいだけでなく、肉体的にも全く変えられたのです。  それからというもの彼は、神の国のために様々なことを成し遂げました。彼が成し遂げた仕事の量は、パウロとウェスレーを除いては比べられる人はいないというほどの信仰の勇者になりました。その彼が、キリストはまさに生きておられることを実感して作詞した歌が「ただ主をあがめて」だったのです。

皆さん、キリストがすべてのすべてです。「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。」(コロサイ2:9-10)この新しい年が、このキリストを待ち望み、キリストを見上げて歩む年でありますように。主は私たちの王、この方が私たちを救われるからです。

イザヤ書33章1~16節 「今、わたしは立ち上がる」

きょうは、イザヤ書33章からご一緒に学びたいと思います。タイトルは「今、わたしは立ち上がる」です。10節のところに、「今、わたちしは立ち上がる」と主は仰せられる。」とあります。私たちが苦しみの中にある時、困難の中にある時、主のあわれみを求めて祈るなら、主は立ち上がってくださいます。立ち上がって救ってくださいます。ですから、私たちは苦難の時、主を待ち望まなければなりません。きょうはこのことについて三つのことをお話したいと思います。

Ⅰ.主を恐れること(1-6)

まず最初に1節から6節までをご覧ください。1節をお読みします。「ああ。自分は踏みにじられなかったのに、人を踏みにじり、自分は裏切られなかったのに、人を裏切るあなたは。あなたが踏みにじることを終えるとき、あなたは踏みにじられ、あなた裏切りをやめるとき、あなたは裏切られる。」

ここにも「ああ」ということばが出てきます。これも神のさばきの宣告です。ユダを滅ぼそうとするアッシリヤに対して、主は怒っておられるのです。「自分は踏みにじられなかったのに、人を踏みにじり、自分は裏切られなかったのに、人を裏切るあなたは。」この「あなた」とはアッシリヤのことであり、アッシリヤの王でセナケリブという人物のことを指しています。彼は踏みにじられなかったのに、人を踏みにじりました。裏切られなかったのに、裏切りました。どういうことかというと、彼は自分たちが攻撃を受けたわけではないのにユダを踏みにじろうとしました。つまり、侵略目的でエルサレムを包囲したのです。また、自分は裏切られなかったのに人を裏切ったというのは、平和条約を結びながらも平気で破ったという行為のことです。Ⅱ列王記18章13節から17節までを開いてください。この背景となる出来事が書かれてあります。

「13 ヒゼキヤ王の第十四年に、アッシリヤの王セナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々を攻めて、これを取った。14 そこでユダの王ヒゼキヤはラキシュのアッシリヤの王のところに人をやって、言った。「私は罪を犯しました。私のところから引き揚げてください。あなたが私に課せられるものは何でも負いますから。」そこで、アッシリヤの王は銀三百タラントと、金三十タラントを、ユダの王ヒゼキヤに要求した。15 ヒゼキヤは主の宮と王宮の宝物倉にある銀を全部渡した。16 そのとき、ヒゼキヤは、ユダの王が金を張りつけた主の本堂のとびらと柱から金をはぎ取り、これをアッシリヤの王に渡した。17 アッシリヤの王は、タルタン、ラブ・サリス、およびラブ・シャケに大軍をつけて、ラキシュからエルサレムのヒゼキヤ王のところに送った。彼らはエルサレムに上って来た。彼らはエルサレムに上って来たとき、布さらしの野への大路にある上の池の水道のそばに立った。」

ユダに攻めてきたアッシリヤの王セナケリブに対して、白旗を揚げて降伏したヒゼキヤは、賠償金を支払うことで解決を図りました。アッシリヤの王は銀三百タラントと、金三十タラントを要求したので、ヒゼキヤは主の宮と王宮の宝物倉にある銀と、主の本堂のとびらと柱に付いていた金をはぎ取ってセナケリブに渡しました。エルサレムを守るためには、住民のいのちを守るためには、それしかなかったのです。それで和平の約束を取り付けることができるならよいと考えたわけです。それなのに、アッシリヤの王セナケリブはどうしたかとうと、タルタン、ラブ・サリス、ラブ・シャケといった将軍に大軍をつけてヒゼキヤ王のところに送りました。「降参せよ」と伝えるために。彼らは平気でこの協定を破りました。裏切ったのです。

このような裏切りに対して、主は黙ってはおられません。必ず報復されます。ここに「あなたが踏みにじることを終えるとき、あなたは踏みにじられ、あなた裏切りをやめるとき、あなたは裏切られる。」とあります。まさに「イスラエルを呪う者は呪われる」(創世記12:3)です。イスラエルを踏みにじる者を、主は必ず復讐されるのです。ローマ人への手紙12章19節には、

「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」

とあります。皆さん、神が復讐なさいます。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せてください。なぜなら、神は事を正しくさばかれる方だからです。神だけが正しい知識と完全な判断を持っておられるからです。人間は間違います。そうではないか、きっとそうだと自分で思い込んで判断してしまいます。しかし、神にはそのようなことはありません。神には間違いがありません。正しくさばくことがおできになります。ですから、この方に任せなければならないのです。

2節をご覧ください。ここには「2 主よ。私たちをあわれんでください。私たちはあなたを待ち望みます。朝ごとに、私たちの腕となり、苦難の時の私たちの救いとなってください。」とあります。

復讐は神に任せ、私たちがしなければならないことは、主のあわれみを求めて祈ることです。「主よ。私たちをあわれんでください。私たちはあなたを待ち望みます。」皆さん、主はあわれんでくださる方です。このことは30章18節にもありました。

「それゆえ、主はあなたがたを恵もうとして待っておられ、あなたがたをあわれもうとして立ち上がられる。」

主に信頼しないで逃げまどうイスラエルに対して、主は「それゆえ、主はあなたがたを恵もうと待っておられる。あわれもうと立ち上がられる」と言われたのです。考えられません。驚くべき恵みです。アメージング グレースです。本来ならさばかれても致し方ないのに、そんなイスラエルを恵もうとして待っておられる。あわれもうとして立ち上がってくださるのです。だから私たちは大胆に、このあわれみを求めて祈ることができるのです。遠慮はいりません。こんなこと祈ってもいいのかな。こんなこと祈ったらおこがましいかな。そんなこと考えなくてもいいのです。

そもそもアッシリヤも悪いのですが、ユダも悪いのです。はたから見たら滅ぼされても文句は言えません。同じ罪人です。主のことばを平気で裏切り、主に背を向け、自分勝手に生きてきました。偶像礼拝に走りました。アッシリヤも人を踏みにじり、平気で約束を破るひどい人たちですが、ユダも似たり寄ったりです。五十歩百歩。何ら変わらない罪人なのです。そんな彼らであっても、主にあわれみを求めて祈るなら、主は立ちあ゛ってくださるのです。あなたも祈ることができます。あなたもあわれみを求めて、主に大胆に祈ることができるのです。

ここには「朝ごとに、私たちの腕となり、苦難の時の私たちの救いとなってください。」とあります。いいですね。それは「朝ごとに」与えられる恵みです。神様の恵みは一度祈って終わりではありません。それは朝ごとに注がれる恵みなのです。毎日、毎日祈り求め、毎日、毎日、新しい恵みを受けることができます。また「腕」とは力の象徴ですが、私たちは主に、「私たちの腕となってください」と祈ることができます。自分なんでもかんでもできると思ったら大間違いです。私たちは主の腕にすがって、主の力にすがって、主に助けを求めて祈らなければなりません。「苦難の時の私たちの救いとなってください。」いいんです。苦しい時の神頼みでも。もちろん、苦しくない時でも、順境の時でも神に頼ることが必要ですが、苦しい時にはなおのこと「主よ。私たちをあわれんでください」と祈らなければなりません。

3節から5節までを見てください。「3 騒ぎの声に国々の民は逃げ、あなたが立ち上がると、国は散らされます。4 あなたがたの分捕り物は、油虫が物を集めるように集められ、いなごの群れが飛びつくように飛びつかれる。5 主はいと高き方で、高い所に住み、シオンを公正と正義で満たされる。」

そのような祈りに主はすぐに答えてくださいます。主は立ち上がって事を行われます。この「騒ぎ」とは、主が動かれるのでそこにざわめきが起こるということを表しています。主が動かれると国々の民は逃げまどい、散らされます。ちょうどいなごがやって来たらすべて食い尽くすように、散らされてしまいます。徹底的にさばかれるのです。もはやだれも止めることはできません。主がそのように報復されるからです。主はいと高き方だからです。すべてを超越しておられます。たとえアッシリヤがどんなに強大であっても主はそれ以上の方です。それ以上にパワフルな方なのです。あなたの敵がどんなに強大であっても、このいと高き方に対しては何もできません。事実、この方は天地万物を創造された方、全能者なのです。この方がついていれば何も恐れることはありません。この方はシオンを公正と正義で満たされます。どんなに踏みにじられても、どんなに裏切られても、主は正義と公正で満たされます。ちゃんとさばきをつけてくださるのです。このような神様にすがることができるということは何と幸いなことでしょうか。いつまでも踏みにじられたままではありません。いつまでも裏切られたままではないのです。主が正しくさばかれます。私たちが苦難に会う時、そして、その苦難が長く感じられるとき、私たちの神に対する信仰は弱ってしまいます。しかし、このような時こそ、私たちはあわれみを求めて、恵みを求めて祈らなければなりません。他のものに拠り頼もうとする不信仰と絶望感を捨て、神の助けを待たなければならないのです。

6節をご覧ください。ここには、「あなたの時代は堅く立つ。知恵と知識とが、救いの富である。主を恐れることが、その財宝である。」とあります。何を言ってるのかさっぱりわかりません。残念です。この日本語の訳は。ここでは5節のことばを受けて主がどのような方であるのかを示しながら、その祝福の鍵は何なのかということが語られているのです。すなわち、主こそ、あなたの時代の確かなよりどころであるということです。主こそ知恵、知識であり、救いの富です。不安と激動の時代にあっても、信頼できるのはこの主だけであって、この主を恐れることがあらゆる問題の解決の鍵であり、豊かさの源なのです。ですから、この世の勢力を恐れるのではなく、主を恐れることこそ勝利の鍵なのです。おもしろいことに、この「救い」ということばは複数形で書かれています。「いろいろな救い」です。金魚すくいとかどじょうすくいのことではありません。アッシリヤから救われるというだけではないということです。私たちの人生には実に様々な苦難がありますが、そうした様々な苦難に対する救いが約束されているのです。大きな救いがあれば小さな救いもあります。永遠の滅びである地獄から救い出された主は、あなたの日々の生活における様々な救いを提供してくださるのです。この主を恐れることが鍵なんです。主を恐れるとは、主がおられることを認め、この方をあがめ、敬い、ひざまずいて礼拝することです。一言で言うなら、それは神を神とするということです。それがあなたの財宝になります。あなたの豊かさになるのです。

箴言3章5節から8節までを開いてください。ここには「5 心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。6 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。7 自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。8 それはあなたのからだを健康にし、あなたの骨に元気をつける。」とあります。心を尽くして主に拠り頼まなければなりません。自分の悟りに頼ってはなりません。あなたの行く所どこにおいても主を認めなければなりません。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにしてくださいます。ここには「あなたのからだを健康にし、あなたの骨に元気をつける」とあります。心身共にすこやかになるのです。なぜでしょうか?主があなたの道をまっすぐにしてくださるからです。この主があなたの健康の源、祝福の鍵です。オロナミンなんとかではありません。

そしてコロサイ人への手紙2章3節も開いてみましょう。いったいこの主とはだれのことですか?ここには「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」とあります。はは~ん、この主とはキリストのことなのです。このキリストのうちに、すべての知恵と知識との宝が隠されているのです。つまり、イエス・キリストを知ることが困難に打つ勝つ秘訣であり、豊かさの鍵なのです。困ったとき、道に迷ったとき、どうしたらいいかわからなくなってしまったとき、まるで敵に囲まれて包囲されてしまい、もうにっちもさっちもいかず袋小路のような状態に置かれたとき、いったいどうしたらいいのか?自分の悟りに頼るべきでしょうか?これまでの経験を生かして何らかの対処を考えるべきなのでしょうか?専門家の人たちに、この世の力のある人にすがるべきでしょうか?いいえ、あなたがすべきことは主を恐れることです。イエス・キリストを知ることです。それがすべてです。すべての答えはイエス・キリストにあります。この一語に尽きます。イエス・キリストがすべてのすべてなのです。この方を知ることが知恵と知識の初めであり、ここにすべての宝が隠されているのです。自分に頼ってはいけません。自分の知恵、力、能力、経験、考え、そんなものは何の役にも立ちません。むしろ、あなたの道を妨げてしまうことになります。ただへりくだってイエス・キリストを求めること。ここに真の解決があるのです。    Ⅱ.主は立ち上がる(7-12)

次に7節から12節までを見ていきたいと思います。まず7節から9節までお読みします。「7 見よ。彼らの勇士はちまたで叫び、平和の使者たちは激しく泣く。8 大路は荒れ果て、道行く者はとだえ、契約は破られ、町々は捨てられ、人は顧みられない。9 国は喪に服し、しおれ、レバノンははずかしめを受けて、しなび、シャロンは荒地のようになり、バシャンもカルメルも葉を振り落とす。」

7節の「彼らの勇士」とは、南ユダ王国の名のある人たちのことです。また「平和の使者たち」とは、和平協定のためにユダからアッシリヤに遣わされた人たちのことです。彼らはちまたで叫び、激しく泣くようになります。せっかく和平協定を結びこれで安泰だと思っていたのに、アッシリヤがその和平協定を破ってしまったからです。結局、お金に頼ってもうまくいきませんでした。この世の力で、自分たちの力で何とかしようとしてもだめでした。それで彼らは号泣しているのです。今、まさに完全に滅ぼし尽くされようとしています。町々は荒らされ、国は喪に服したかのように、しおれてしまいました。その様子を9節で次のように表現しています。

「レバノンははずかしめを受けて、しなび、シャロンは荒地のようになり、バシャンもカルメルも葉を振り落とす。」

レバノンというのはレバノン杉で有名なように、緑が絶えない、いつもいのちに溢れている所です。そんなレバノンがはずかしめを受けて、しなびてしまいます。シャロンとはバラで有名ですが、それは義の象徴でもあります。そのシャロンも荒地のようになります。バシャンは牧草地で有名な所です。そこは肥沃な土地と称されていました。またカルメルは果樹園で有名です。多くの果樹を実らせました。そんなバシャンもカルメルも葉を振り落とすようになります。アッシリヤが契約を破棄し、一方的に裏切ったからです。しかし、その時ユダは主のあわれみを求めて必死になって祈りました。主の助けを求めて、へりくだって祈りました。その結果どういうことになったでしょうか。10節から12節にこうあります。

「10 「今、わたしは立ち上がる」と主は仰せられる。「今、わたしは自分を高め、今、あがめられるようにしよう。11 あなたがたは枯れ草をはらみ、わらを産む。あなたがたの息は、あなたがたを食い尽くす火だ。12 国々の民は焼かれて石灰となり、刈り取られて火をつけられるいばらとなる。」

ユダが自分たちの力ではどうすることもできなくなって主に助けを求めたとき、主が答えてくださいました。主は、「今、わたしは立ち上がる」と言われます。「今、わたしは自分を高めよう」「今、あがめられるようにしよう。」と言われるのです。ここで主は「今」ということを三回も繰り返しています。それは、ユダが悔い改め、主に立ち返った「今」を表しています。先程もお話したように、主に立ち返り、主のあわれみを求めて祈るとき、主は立ち上がってくださいます。 苦難の時の救いとなってくださるのです。具体的には、ヒゼキヤ王の祈りに答えて、ある晩に、主の使いがアッシリヤの陣営に出て行き十八万五千人を打ち殺しました。そして、アッシリヤの王セナケリブは自分の国に帰ると、ニスロクという偶像の宮で拝んでいたとき、その子アデラメレクとサルエツェルが入って来て、彼を剣で打ち殺したのです(Ⅱ列王記19:35-37)。神のさばきの結果、アッシリヤの王セナケリブは惨憺たる結果に終わりました。(end in unspeakable tragedy)ここに記されてあるように、彼らはいのちのない枯れ草をはらみ、焚きつけのために使われるわらを生むだけになりました。彼らがエルサレムを攻めれば攻めるほど、逆にそれが自分たちの首を締める結果になってしまったのです。彼らは灰しか残らないほど焼き尽くされ、火の中に投げ入れられたいばらのようになりました。

これまで沈黙していたかのように思われた主が、エルサレムのために立ち上がってくださったからです。ヒゼキヤ王の必死の祈りに答えて、主が御業を行ってくださいました。皆さん、主はいつまでも黙っておられる方ではありません。あなたの祈りに答えてくださる方です。あなたがあわれみを求めて祈るとき、主は必ず立ち上がってくださるということを覚えていただきたいと思います。

Ⅲ.神を敬うこと(13-16)

最後に13節から16節までを見て終わりたいと思います。13節です。「 遠くの者よ。わたしのしたことを聞け。近くの者よ。わたしの力を知れ。」今度は遠くにいる者たちだけでなく、近くにいる者たちにも語られます。近くにいる者とはだれのことでしょうか。シオンにいる人たちのことです。つまり、ユダの人たちのことです。せっかく主が立ち上がり、驚くべき方法で解決してくださるというのは、彼らの中にはイザヤの語るメッセージを無視した人たちがいたのです。

14節をご覧ください。「罪人たちはシオンでわななき、神を敬わない者は恐怖に取りつかれる。「私たちのうち、だれが焼き尽くす火に耐えられよう。私たちのうち、だれがとこしえに燃える炉に耐えられよう。」

イザヤのメッセージを聞いて神にすがろうというより、あくまでも自分たちの力で窮地を脱しようとする人たちがいました。そういう人たちのことを、ここでは「罪人たち」とか、「神を敬わない者」と呼ばれています。「神を敬わない者」ということばは英語では「godless」、とか「hypocrite」と訳されています。これは「不信者」とか「偽善者」のことです。信じているといいながら、実はそうでない人たちのことです。そんな人がいるのでしょうか。いるのです。ただ物理的にシオン(エルサレム)にいれば自動的に救われるというわけではありません。民族的にはユダヤ人であっても、信仰を持たなければ滅んでしまいます。そういう人たちは、火で焼き尽くされてしまうのです。

「私たちのうち、だれが焼き尽くす火に耐えらよう。私たちのうち、だれがとこしえに燃える炉に耐えられよう。」

だれも耐えられません。それは30章33節のところに「トフェテ」ということばが出てきましたね。「焼き場」「ゲヘナ」「地獄」のことです。そこは深く、広く掘られているので、その火は永遠に消えることはありません。硫黄の流れのように燃やすので、だれもその火に耐えることはできないのです。神を信じない人、信じていると言いながら実はそうでない人、偽善者は、この燃える火の中に投げ入れられるのです。

しかし、神を信じ、神を敬う人が、この火に焼き尽くされることは絶対にありません。イエス・キリストがその人の身代わりとなって十字架にかかって死んでくださったからです。キリストがその人の代わりに神のさばきを受けてくださったので、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは絶対にないのです。したがって、神を信じ、神を敬う人たちにとっては、この焼き尽くす火は全く恐怖にはなりません。

かつてバビロンに捕らえ移された人たちの中にシャデラク、メシャク、アベデネゴという3人の少年たちがいましたが、彼らはこの火を全く恐れませんでした。彼らは神を信じていたからです。あるとき、ネブカデネザルが自分の金の像を拝むように、もし拝まなければ火の燃える炉の中に投げ込まれる、という命じても、彼らは決して偶像を拝むことをしませんでした。たとえそのようになっても、彼らの信じる神は、火の燃える炉から自分たちを救い出すと信じていたからです。それを聞いたネブカデネザル王は怒りに満ちて、炉を普通よりも七倍熱くし、その中に上着や下着やかぶり物の衣服を着たまま縛り上げた彼らを投げ込みました。するとどうでしょう。その火があまりにも熱かったので、彼らを連れて来た者たちは、その火炎で焼き尽くされてしまいましたが、炉の中に投げ込まれた彼らは縛ったはずのロープは焼けただれて落ち、自由に歩き回っていました。何の害も受けていないのです。そしてよく見ると、そこに神の子のような第四の者がいるのが見えました。この神の子が彼らとともにいて、彼らを守ってくださったのです。この神の子とはだれでしょう。そうです、イエス・キリストです。受肉前のキリストです。キリストが彼らとともにいて、完全に守っておられたのです。

「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」(Ⅰテサロニケ5:9)

「神は焼き尽くす火です。」(ヘブル12:29)けれども、神を信じ、神を敬う者にとっては、もはやそうした恐怖の対象ではなく、救いの保障であり、安心と安全の確かな約束なのです。

15節と16節をご覧ください。「15正義を行う者、まっすぐに語る者、強奪による利得を退ける者、手を振ってわいろを取らない者、耳を閉じて血なまぐさいことを聞かない者、目を閉じて悪いことを見ない者、16 このような人は、高い所に住み、そのとりでは岩の上の要害である。彼のパンは与えられ、その水は確保される。」

正義を行う者とは、正しい者です。まっすぐに語る者とは、ねじ曲がったことを言わない、嘘はいわない。半分だけ真実を語ってあとの半分は自分に都合のいいことを言って人をおとめるようなことを言わない人です。また、強奪による利得を退ける者、手を振ってわいろを取らない者とは、ワイロを受け取らない人、お金に対してクリーンであるということです。耳を閉じて血なまぐさいことを聞かない者、目を閉じて悪いことを見ない人というのは、悪に加担しないという姿勢のことです。そういう人は、高い所に住み、そのとりでは岩の上の要害となります。これはどういうことかというと、敵の攻撃を受けることがない安全で、安心な所に住むという意味です。また、そういう人にはパンや水といった日毎の糧が絶えないのです。これが神を信じる人、クリスチャンの姿です。イエス・キリストによって義と認められた者の姿です。神の恵みによってキリスト・イエスの尊い救いにあずかった者は、神を敬う者、正義を行う者、すなわち、神に似た者に変えられていくのです。それは御霊なる主の働きによります。「私たちのうち、だれが焼き尽くす火に耐えられよう。私たちのうちだれがとこしえに燃える炉に耐えられよう。」だれも耐えられません。しかし、ただ神の恵みによって、イエス・キリストを信じる信仰により、私たちキリストにある者は、価なしに義と認めていただけます。ですから、私たちはその恵みに答える者として、正義を行う者、まっすぐに語る者、ワイロを取ったりしない。血なまぐさいこと、人の悪口を言ったり、人の評判を悪くするようなうわさ話に同調して、自分もいっしょになって話しているということはしない。悪いものを見たり、聞いたりしません。私たちの回りには、私たちを毒するようなものがたくさんあります。そのようなものはには目を閉じ、耳を閉じます。そうでないと、あなたの足場は危うくなってしまいます。安全、安心でいられなくなります。ただ神のひとり子イエス・キリストを信じ、正義を行う者だけが、新しいエルサレムで神の守りと助けを楽しむことができるのです。

あなたはいかがですか?どんなに緊迫した状況の中でも、あるいはどんなに悪い時代に生きていても、私たちは主に目を向け、主のあわれみを求めて祈ろうではありませんか。主の助けを求めて、朝ごとに、祈りましょう。その時、主が立ち上がってくださるのです。

イザヤ書32章1~20節 「義は平和をつくり出す」

きょうは、イザヤ書32章から学びたいと思います。タイトルは「義は平和をつくり出す」です。31章のところで、アッシリヤの威嚇を受けていたユダは、神ではなくエジプトに頼りました。神はそのようなユダを罰せられますが、最後には親鳥が羽を広げてひなを守るようにユダを守られ、アッシリヤを滅ぼされます。それはこのイザヤの時代だけのことではなく、世の終わりの預言でもあります。その日、アッシリヤは人間のものでない剣に倒れ、人間のものでない剣が彼らを食い尽くします。再臨の主が神に敵対する者たちに勝利され、神の民に平和をもたらすのです。千年王国をもたらします。その預言がこの32章に記されているわけです。それはどのような御国なのでしょうか。

Ⅰ.高貴な人は高貴なことをする(1-8)

まず第一に1節から8節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。「1 見よ。ひとりの王が正義によって治め、首長たちは公義によってつかさどる。2 彼らはみな、風を避ける避け所、あらしを避ける隠れ場のようになり、砂漠にある水の流れ、かわききった地にある大きな岩の陰のようになる。」

1節の「ひとりの王」とは、イザヤの時代ではヒゼキヤ王のことを指していますが、究極的にはメシヤであられるイエス・キリストのことを指しています。その日、すなわち、千年王国ではキリストが正義によってこの世界を治めます。彼はあらしの避け所のように人々を守られ、砂漠の川のようにいのちを与え、かわききった地にある大きな岩陰のように安息を与えます。ですから、その時には完全な平安、完全な憩いがもたらされるのです。イエス・キリストを信じる人には今も霊的な面で平安が与えられていますが、千年王国の時には、それが文字通りの平和がもたらされるようになるのです。

また、そのひとりの人によって治められる王国は、外的な環境の変化だけでなく、民の心まで新しくします。3節と4節をご覧ください。「3 見る者は目を堅く閉ざさず、聞く者は耳を傾ける。4 気短な者の心も知識を悟り、どもりの舌も、はっきりと早口で語ることができる。」これはどういうことかといと、霊的に無感覚だった者の心が変化し、はっきりと見聞きできるようになるということです。「気短な者」とは、軽率で、頑固な者のことです。罪深く、かたくなな性質のゆえに神のみことばを悟れなかった者が悟れるようになり、真理を明確に語るようになるので。すべてが刷新されます。それは王であられるキリストが治められるからです。

このことについては、既にイザヤ書で何度か語られてきました。たとえば、イザヤ書9章6節と7節には、「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」とあります。「みどりご」とは赤ちゃんのことです。やがて来られるメシヤは赤ちゃんとして来られます。それは人としてお生まれになられたイエス・キリストによって成就しました。その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれます。この方は力ある神です。この方はダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえます。

また11章1節から5節にも次のように記されてありました。「1 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。2 その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。3 この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、4 正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。5 正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。」

「エッサイ」とはダビデ王の父です。やがて来られるメシヤはこのダビデの子孫から出てくるというのです。しかもここには「その根から若枝が出て実を結ぶ」とあります。この「若枝」はヘブル語で「ネイツァー」といいますが「ナザレ」の語源になった言葉です。このメシヤはガリラヤのナザレから出て実を結ぶようになるのです。この預言のとおりにイエス・キリストはダビデの子孫であるヨセフから生まれました。ナザレから出て実を結ばれました。そしてイエス様は神の知恵によってみことばを語られました。それはこの方の上に主の霊が祖ぞかれていたからです。やがて世の終わりにこの方は再び来られ、その神の霊によって正しくこの世を治められるのです。

ところで1節を見ると、ここには「首長たちは公義によってつかさどる」とあります。この「首長たち」とはだれのことかというと、実は私たちクリスチャンのことなのです。その時、クリスチャンはキリストとともにこの地上を治めるようになるのです。ローマ人への手紙8章18節を見ると「私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」とありますが、その時私たちは御霊のからだによみがえり、再臨の主とともにこの地上を治めるようになるのです。(マタイ19:28,黙示録1:6,5:10)

また、5節には「もはや、しれ者が高貴な人と呼ばれることがなく、ならず者が上流の人と言われることも」(5)ありません。「しれ者」とはヘブル語で「ナバル」と言いますが、意味は「愚か者」です。愚か者は神を恐れず、主に向かって迷いごとを語り、飢えている者を飢えさせ、渇いている者に飲み物を飲ませません。また、「ならず者」とありますが、これは「無節操な者」とか「悪いことをたくらむ者」という意味です。彼らは神の御心に逆らい、みだらなことをたくらみ、貧しい者をないがしろにします。千年王国ではこのような人が高貴な人と呼ばれたり、上流の人と呼ばれることはありません。今はしれ者が高貴な人と呼ばれたり、ならず者が高く評価されたりすることがありますが、来るべき千年王国ではそういうことは絶対にないのです。ひとりの王であられるメシヤが正義によって正しくさばかれるからです。

ですから、そのことでいちいち心を痛めたり、怒りに燃えてその人たちに復讐しようとしてはいけません。何とかその立場から引きずり下ろそうとする必要はありません。その時が来れば、主がひっくり返してくださるからです。政治の力でひっくり返そうとか、みんなの力でひっくり変えそうとしても無意味なのです。ある程度はできたとしても限界があるからです。ではどうしたらいいのでしょうか?8節をご一緒に読みましょう。

「しかし、高貴な人は高貴なことを計画し、高貴なことを、いつもする。」

ここに「高貴な人」という言葉が出てきます。、高貴な人は高貴なことを計画し、高貴なことを、いつもします。「高貴な人」という言葉ですが、これは出エジプト記35章5節と22節にも出て来ることばで、「心から進んでささげる者」という意味です。つまり、その心が神に向かっている人のことです。自発的に心から主に礼拝をささげる人のことなのです。しれ者はそうではありません。ならず者は違います。彼らは神を敬うことをしません。主に向かって迷いごとを語ります。しかし、高貴な人は賛美をささげます。自ら進んで礼拝をささげます。不法をたくらむのではなく飢えている人たちに、渇いている人たちに愛の手を差し伸べ、彼らに神の愛を示すのです。これが高貴な人です。これがクリスチャンです。これが信仰者であり、真の礼拝者と呼ばれている人たちです。私たちは高貴な人でなければならないのです。

奴隷解放運動を行ったマルチン・ルーサー・キング牧師は、1968年4月3日にテネシー州メンフィスにある教会(メイスン聖堂)で行った生涯最後の説教の中で、次のように言いました。 「過去の私たちは辛く苦しい時を過ごしました。しかし、そんな過去は全く重要なことではありません。今、私は山の頂上に登ったからです。もちろん私も、普通の人たちのように長生きすることを願います。しかし、長生きすることは私の任務ではないようです。とにかく今、私はそこに感心はなく、神の御心のとおりに従いたいだけなのです。その方は、私が山に上るようにされました。そして私は遠くに約束の地を見下ろしました。おそらく私はみなさんと共にその地に入ることはできないかもしれません。しかし、私たちが一つの民として約束の地に入ることを、皆さんが今夜確信できることを切に願います。今、私はとても幸せです。何も心配することはありません。何も私を脅かすことはできません。私の目が再び来られる主の栄光ある姿を見たからです。」(アリスター・マグラス、「天国の希望」)

キング牧師は実に高貴な人でした。彼の心はいつも神に向かっており、ただ神の御心に従うことを求めていました。高貴な人は高貴なことを計画し、高貴なことを、いつもする。あなたのしていることはどんなことでしょうか?あなたが見ているもの、あなたが計画していることは何でしょうか?高貴な人は高貴なことをします。あなたが神を敬い、主に向かって賛美をささげ、主の御心に歩めますように。あなたの心がいつも神に向かい、神を見上げて生きることができますように。

Ⅱ.のんきな女たち(9-14)

次に9節から14節までを見ていただきたいと思います。9節をお読みします。「のんきな女たちよ。立ち上がって、わたしの声を聞け。うぬぼれている娘たちよ。わたしの言うことに耳を傾けよ。」

ここに急に女性たちが出てきます。「のんきな女たち」と「うぬぼれている娘たち」です。「のんきな女たち」とは、直訳では「安らかな女たち」です。いい意味では安らかな女たちですが、ここでは悪い意味で用いられていて、「安逸をむさぼっている女たち」という意味になります。これはイスラエル、南ユダに対する警告でした。彼らはエジプトに、人間的な力に頼り、イスラエルの聖なる方に目を向けませんでした。何度も災いがあると警告してもその恥ずべき行いと生活を悔い改めることをせずに、のんきにしていました。悔い改める気配すら見せない霊的に無感覚で、無頓着な状態だったのです。また「うぬぼれた女たち」とは、直訳では「信じる女たち」です。これもいい意味ではすばらしいように聞こえますが、その信じている対象が問題でした。彼らが信じていたのは神ではなく自分自身でした。自分を信じていたのです。さばきが目の前に迫っているのに「大丈夫よ。全然問題じゃないわ」と、自分の力を過信していたのです。「神様なんていなくてもへっちゃらさ」とうぬぼれ、自己満足の中に生きていたのです。そういう女たちへの警告でした。

これは別に女性だけの問題ではありません。男性も同じです。人間は男でも女でもみな同じ性質を持っています。ですから、女性に限らず男性も、このような傾向があるわけです。うぬぼれているのです。なのにここで「女たち」と言われているのは、実は女性はその社会の道徳的基準になるからです。女性をみればその社会がどういう社会であるかがわかります。女性が道徳的に倫理的に堕落していると、その堕落した姿が社会に如実に表れるのです。これは事実です。別に女性を蔑視しているのではありません。女性を見ればその社会がどんな社会であるかが一目瞭然なのです。そういう意味で「女たち」と言われているだけで、これは男も同じ事です。目の前にさばきが迫っているのに、「大丈夫だ。何の問題もない。今は平和じゃないか。何一つ不自由なことなんてない」と言って過信し安逸をむさぼっていると、間違った安全意識を持っていると、やがて悲惨な結果を招くことになるのです。

テサロニケ第一5章1節から3節までを開いてください。ここにものんきでうぬぼれた人たちが出てきます。「1 兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。2 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。3 人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦の産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。」とあります。主は盗人してのようにやって来られます。それがいつであるかはだれにもわかりません。人々が「平和だ。安全だ」とのんきなことを言っているような時に、突如として滅びが襲うのです。

10節から14節までを見てください。ここにはそのようなのんきな女たち、うぬぼれた女たちに襲うさばきが語られています。「うぬぼれている女たちよ。一年と少し日がたつと、あなたがたはわななく。ぶどうの収穫がなくなり、その取り入れもできなくなるからだ。11 のんきな女たちよ。おののけ。うぬぼれている女たちよ。わななけ。着物を脱ぎ、裸になり、腰に荒布をまとえ。12 胸を打って嘆け。麗しい畑、実りの多いぶどうの木のために。13 いばらやおどろの生い茂るわたしの民の土地のために。そして、すべての楽しい家々、おごる都のために。14 なぜなら、宮殿は見捨てられ、町の騒ぎもさびれ、オフェルと見張りの塔は、いつまでも荒地となり、野ろばの喜ぶ所、羊の群れの牧場となるからだ。」

豊かな収穫を期待し、喜びに酔っていた女たちが、胸を打って、嘆くようになります。ですから、のんきにしていてはいけません。うぬぼれていてはいけないのです。目を覚まして、慎み深くしていなければなりません。かしこまって主のみ声を聞き、主の言われることに耳を傾けなければなりません。クリスチャンはイエス・キリストを信じて救われ平安をいただいた者ですが、のんきな者ではありません。主がいつ来られてもいいように、いつ来られても恥ずかしくないように、目をさまして、慎み深くしていなければならないのです。主が来られてからでは遅いのです。その前に供えておかなければならないのです。あなたはどうですか?何の問題もないからといって安逸をむさぼっていることはありませんか。その安逸が霊的無感覚となり、主から遠く離れていることにも気づかなくなっていることはないでしょうか。

黙示録にはアジヤにある七つの教会に宛てて主は手紙を書き送りましたが、エペソの教会に対して主はこのように言われました。「わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。3 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。4 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。5 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」(黙示録2:2-5

どこから落ちたかを思い出して、悔い改めて、初めの行いをしなさい。目を覚まして、死にかけているほかの人たちを力づけなさい。熱いか、冷たいかであってほしい。それが主が私たちに求めておられることなのです。

Ⅲ.義は平和をつくり出す(15-20)

最後に15節から20節までのところを見て終わりたいと思います。15節から18節までをお読みします。「15 しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。16 公正は荒野に宿り、義は果樹園に住む。17 義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。18 わたしの民は、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住む。」

ここでは「しかし」ということばが強調されています。懲らしめの期間が過ぎれば、神は祝福してくださるという約束です。神は聖霊を注いでくださいます。神の霊は天地を創造された霊であり、人間にいのちを与えた霊です。また、神の霊は神の人が大いなるみわざをなすことができるように力を与える霊でもあります。この霊が注がれるときすべてが変わります。まず荒野が果樹園になり、果樹園が森とみなされるようになります。これは神が造られた世界が全く帰られるということです。罪に汚れたこの世界が果樹園のように、また森のように麗しい世界に、最初の人アダムとエバが罪を犯す前に置かれたあのエデンの園のように回復するのです。

それだけではありません。そうした自然の変容に次いで、道徳的、霊的な原則が確立します。16節に「公正は荒野に宿り、義は果樹園に住む。」とあるように、公正や義といった健全な規則と習慣が、荒野や果樹園を覆うようになるのです。    そればかりではありません。17節を見てください。ここには「義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。」とあります。「義」とは神との関係です。神との正しい関係が平和をつくり出し、とこしえの平穏と信頼をもたらします。とこしえの平穏と信頼です。これはとこしえの平安と安全のことです。

皆さん、だれもがこの平安と安全を求めています。平穏でいたいのです。平安がほしいと思っています。いったいどうしたらたらされるのでしょうか。「義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたら」します。それは神と正しい関係を持つことによってです。神との絆がなければならないのです。「絆」とは昨年の流行語にもなったことばですが、人と人の強い結びつきのことです。この絆がないと、平和を持ちことができないのです。ですから、悪者には平和がありません(イザヤ48:22)。神との関係が正しくないと平和がありません。神との関係がズレていたり、ゆがんでいたり、何か障害物があると、平安がないのです。不安になります。義が平和をつくります。ですから平和がほしければ、平穏でいたければ、神との関係を求めなければならなりません。ローマ人への手紙5章1節には、

「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」

とあります。私たちが神と正しい関係を持つためには、イエス・キリストを信じて罪を赦してもらわなければなりません。生まれながらの人間はすべて神から離れ、罪を犯しているので、神からの栄誉が受けられなくなっています。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となってしまいました。善を行う人はいません。ひとりもいません。人間の力によってはだれも神の前に義と認められないのです。そこで神は律法とは別の義、神の義を示してくださいました。それがイエス・キリストです。キリストは神のひとり子であられながら、私たちと同じような人間の姿をとってこの世に生まれてくださいました。神が人間となられたのです。これがクリスマスです。神が人間になるなんて考えられない。そんなたわいもないような話をだれが信じるか、という人がいますが、その信じられないようなことを神はしてくださいました。これはあまりにも大きな出来事だったので、この人類の歴史が二つに分かれたほどなのです。B.C.とA.D.に。しかし、事実神はユダヤのベツレヘムというところで処女マリヤの胎から男の子を与えてくださいました。そして33年の生涯を送られ、最後に私たちの罪を一身に受けて十字架で死んでくださいました。それはこの方を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。この方によって神の怒りがなだめられました。人間の罪に対する神の怒り、神の敵意は、この方によって取り去られたのです。ですから、この方を信じる者はだれでも罪がゆるされ、神と和解することができるのです。神との平和を持つことができるのです。そして、その義は平和をつくり出し、その義はとこしえの平安と信頼をもたらすのです。

あなたは、この義を持っているでしょうか。「わたしの民は、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住む。」罪が赦された人、クリスチャンは「わたしの民」と呼ばれます。神の民は、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住むようになるのです。これがクリスチャンライフです。あなたの家庭はどうですか?あなたの家庭は平和な住まいになっているでしょうか?安全な家ですか?安らかないこいの場でしょうか?あなたの職場はどうですか?学校はどうですか?ちっとも心が安まらないとか、まるで泥沼だ、というようなことはないでしょうか。「わたしの民は、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住む」あなたがイエス・キリストを信じて神と和解し、神との平和を持つなら、あなたもこの約束のとおりになるのです。

その日が近づいています。二千年前には文字通り上から聖霊が注がれ、力強い神の働きによってキリストの教会が誕生しました。世の終わりには同じように顕著な聖霊の注ぎが起こるでしょう。その時私たちは、この平和を完全な形で享受することになります。平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住むという約束が実現します。ですから、その前にあなたもこの平和の約束を信じてほしいと思います。その日私たちがともにこの平和な住まいに住むことができますように。そのために来られた平和の君であるイエス・キリストを信じ、その約束を自分のものにすることができますように。キリストはそのために生まれてくださいました。あなたが神との平和を持ち、やがて平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住むようになるために・・・。義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらすということを、あなたにも知ってほしいと思います。

イザヤ書31章1~9節 「この方以外に救いはない」

きょうは、イザヤ書31章から学びたいと思います。タイトルは「この方以外に救いはない」です。アッシリヤが攻めてくるという緊迫した状況の中でエジプトに頼ったイスラエル、南ユダを、主は「反逆の民」と呼びました。そんなことをしたらどうなるか。恥と侮辱がもたらされます。苦難と苦悩が襲います。そして破滅と破壊がもたらされるのです。解決の道はただ一つ。それは主により頼むことでした。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(30:15)のです。なのに彼らは、それを望みませんでした。そんなイスラエルに対して、主は再びこのエジプトにより頼むことの愚かさについて語ります。

Ⅰ.こころ尽くして主により頼め(1-3)

まず第一に、1節から3節までをご覧ください。「1 ああ。助けを求めてエジプトに下る者たち。彼らは馬にたより、多数の戦車と、非常に強い騎兵隊とに拠り頼み、イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めない。2 しかし主は、知恵ある方、わざわいをもたらし、みことばを取り消さない。主は、悪を行う者の家と、不法を行う者を助ける者とを攻めたてられる。3 エジプト人は人間であって神ではなく、彼らの馬も、肉であって霊ではない。主が御手を伸ばすと、助ける者はつまずき、助けられる者は倒れて、みな共に滅び果てる。」

「ああ」とは、災いを宣告する時のことばです。このイザヤ書には何回も繰り返されて出てきます。29章1節、15節、30章1節にも出てきました。神に従わないで自分の考えで、自分の判断で、自分勝手に生きようとしていたイスラエルを見て、主は「ああ」と嘆いておられるのです。しかし、それはただ災いを宣告しているだけではありません。忠告して、警告として、あらかじめ語っているのです。ひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われることを望んでおられる神は、常に救いの道を用意しておられます。ですから、このように災いが宣告されている時にはいつも神の救いの約束も備えられているということを見落としてはなりません。  では主が嘆いておられたことはどんなことでしょうか。それは、彼らがイスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めないで、エジプトを求めたことです。北からアッシリヤが攻めてきた時、エジプトに軍事同盟を求めました。助けを求めてエジプトに下りました。彼らはエジプトの軍事力を求め、それによって窮地を乗り切ろうとしたのです。目に見える力に頼ろうとしました。

私たちも何か困ったことがあるとき、すぐに目に見える力に頼ろうとします。目に見える人間の力、人間の能力、人間の技術力、頼りになりそうな人、何らかの専門家であったりその道のエキスパート、資格のある人、有名な人たち、そういう人たちに頼ろうとします。そういう傾向があります。ユダもまた同じようにエジプトに頼ろうとしました。多数の戦車、非常に強い騎兵隊、その軍事力に頼ろうとしたのです。それがあったら何とかなる・・と。聖書でエジプトというのはこの世を表しています。この世の象徴がエジプトなんです。かつてイスラエルはエジプトから解放されたのにこうした窮地に陥るとすぐにエジプトに逆戻りしたように、クリスチャンもこうした窮地になるとすぐにこの世にバックスライドする危険性があります。そのようなことがあってはなりません。

ピリピ人への手紙3章3節を開いてください。ここには、「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。」とあります。皆さん、クリスチャンとはどういう人のことをいうのでしょうか。クリスチャンとは、神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みとしない人たちのことです。この時イスラエルが頼りにしていたものは人間的なものでした。馬、多数の戦車、非常に強い騎兵隊といったものでした。人間の力、軍事力でした。人間のはかりごとだったのです。そういうものに目を留めていました。しかし、クリスチャンが頼みとするのはそういうものではありません。クリスチャンが頼みとしなければならないのはイエス・キリストです。そして御霊によって礼拝する。それが信仰者の道なのです。

箴言3章5節も開いてみましょう。これは有名な聖書のことばです。ここには「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。6 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」とあります。心を尽くして主に拠り頼まなければなりません。自分の悟りに頼ってはなりません。イスラエルは自分の悟りに頼りました。エジプトと同盟を結べば守られると思ったのです。しかし、そこには恥と侮辱が、苦悩と苦難が、破滅と破壊がもたらされました。自分の悟りに頼ってはならないのです。あなたの行く所どこにおいても主を認めなければなりません。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにしてくださいます。

百選錬磨のダビデは、自らの戦力、軍事力に頼ることをせず、むしろ主を誇りました。彼は詩篇20篇7節でこう歌っています。「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主を御名を誇ろう。」ダビデは、彼の神、主の御名を誇りました。心を尽くして主により頼んだのです。その結果、主は彼の道をまっすぐにしてくださいました。彼はイスラエルの王として確固たる王国を築き上げることが出来たのです。

それから約300年、このイザヤの時代に、イスラエルはそうではありませんでした。主に目を向けたのではなく、馬や戦車に目を向けました。彼らはこのダビデに習うべきでした。こういう時だったからこそ彼らは、イスラエルの聖なる方に目を向けるべきだったのです。

皆さん、こういう時にこそ私たちの信仰の真価が問われます。大変な時にその人がどこを見ているか、何を大切にしているかが浮き彫りになります。そういう意味では試練は信仰の試金石だと言えます。試練の時にその人が真っ先に主に向かうなら、その人の信仰は本物だと言えますが、しかし、試練の時にはその人が主ではなく主以外のもの求めるのなら、それがその人がほんとうに信じているものなのです。試練の時にどこを見るのか、何に頼ろうとするのかによってそれがわかるのです。ですから、主はあえてアッシリヤを彼らに送られたのです。その時に彼らがどこを見るか、何を頼るのかを浮き彫りにさせるためです。試練は私たちの信仰を試すために送られてきます。私たちがほんとうに何を信じているのか、何に頼るのか、どこを見ているのか、何を求めているのかを明らかにするために、あえて送られるのです。アッシリヤに囲まれた時だからこそ、こういう時だからこそ、私たちはイスラエルの聖なる方に目を向け、この方を求めなければならないのです。

2節をご覧ください。ここには、「しかし主は、知恵ある方、わざわいをもたらし、みことばを取り消さない。」とあります。なぜ主に目を向け、主を求めなければならないのでしょうか。なぜなら、主は知恵ある方であり、みことばを取り消さない方だからです。私たち人間は有限で未来のことを予測することさえできませんが、主は永遠なる方であり、時間の制約を受けることなく、すべてのことを見通され、すべてのことを瞬時に、的確に、正確に判断されます。主は知恵ある方なのです。

また、ここには「みことばを取り消さない」とあります。言われたことは必ず実行されます。有言実行ですね。だから力があるのです。人のことばはそうではありません。言っても実行されません。政治の世界でもマニフェストでどんなに「こうします」と言っても実行されることがありません。どんなにすばらしい政策を掲げても途中で頓挫してしまうのです。力がないからです。人のことばはいい加減で、無力です。エジプトも口では約束するというものの、実際のところはちょっとでも自分たちに不利になると、手のひらを返したかのような態度を取りました。言ったことを取り消してすぐに見捨ててしまうのです。けれども主はそのような方ではありません。みことばが取り消されることは決してありません。言われたことをは必ず実行します。これがほんとうの力ではないでしょうか。ヘブル4章12節には、「神のことばは生きていて、力があり」とあります。なぜ力があるのでしょうか。それが必ず成るからです。100%実現します。これがほんとうの力です。この力のある方に目を留め、耳を傾け、より頼んでいく以上の安全、安心はありません。これほど確かな保障はないのです。

3節には、このことが対比によって説明されています。「エジプト人は人間であって神ではなく、彼らの馬も、肉であって霊ではない。」あたりまえのことです。このあたりまえの対比を通して何が言いたいのかというと、人間は肉にすぎないということです。肉は必ず朽ちて滅んでいきます。けれども霊は違います。霊は滅びません。神は霊です。ですから、朽ちることも、滅びることもありません。また肉はコロコロ変わります。頼りになると思っていたのに突然できませんと言われ、裏切られることもあります。親友だと思っていたのに、見捨てられてしまうこともあるのです。しかし、神はそうではありません。この方はいつまでも変わることがないのです。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも同じです。」(ヘブル13:8)とあります。イエス・キリストはいつまでも変わることがありません。「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」(Ⅱテモテ2:13)たとえ私たちが不真実であっても、彼は、イエス・キリストは、神は常に信じであられ、約束されたことを必ず守られるのです。私たちが恐れなければならないのはこの方です。アッシリヤではありません。エジプトでもありません。この方です。イエス様はマタイの福音書10章28節で、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」と言われました。からだを殺しても、たましいを殺せない人を恐れてはなりません。そんなものよりも、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなければなりません。  しかし、私たちは時として、こうしたものを恐れてしまいます。人を恐れてしまうことがあります。しかし、人間は肉であって霊ではありません。やがて朽ちて、滅んでしまうようなものなのです。そんなものを恐れてはなりません。それよりもたましいも肉も滅ぼすことのできる神を恐れなければならないのです。

あなたが恐れているものは何ですか?あなたにとってのアッシリヤは何でしょうか?たとえそれがどんなに強大なものであっても恐れてはなりません。そして、エジプトのような肉に頼ってはなりません。エジプトは人間であって神ではなく、彼らの馬も、肉であって霊ではないからです。あなたが恐れなければならないのは神なのです。

Ⅱ.エルサレムを守られる主(4-5)

次に4節と5節をご覧ください。「まことに主は、私にこう仰せられる。「獅子、あるいは若獅子が獲物に向かってほえるとき、牧者がみなそのところに集められても、それは、彼らの声に脅かされず、彼らの騒ぎにも動じない。そのように、万軍の主は下って来て、シオンの山とその丘を攻める。5 万軍の主は飛びかける鳥のように、エルサレムを守り、これを守って救い出し、これを助けて解放する。」

「獅子」とか「若獅子」とはアッシリヤのことです。ですから、「獅子、あるいは若獅子が獲物に向かってほえるとき」というのは、アッシリヤが南ユダに向かって攻めるときという意味です。そして「牧者」とはエジプトのことです。ここではエジプトが牧者にたとえられているわけです。なぜ牧者にたとえられているのかというと、牧者が羊を飼っているときライオンとか狼といった獣が襲ってくる場合、大声をあげて追い払っていたからです。まさにアッシリヤが南ユダを攻めていたときはそのような状態でした。そのユダを助けようと牧者であるエジプトが大声をあげて追い払おうとしましたが、獅子、あるいは若獅子であるアッシリヤはそんな声には全く動じませんでした。びくともしないのです。

ところが、その次のところにこのようにあります。「そのように、万軍の主は下って来て、シオンの山とその丘を攻める。5 万軍の主は飛びかける鳥のように、エルサレムを守り、これを守って救い出し、これを助けて解放する。」どういうことでしょうか?シオンの山を、エルサレムを攻撃していたのはアッシリヤなのに、ここでは「そのように、万軍の主は下って来て、シオンの山とその丘を攻める」というのです。

こういうことです。ここでは「獅子」や「若獅子」はアッシリヤのことを指して言われていますが、実はその背後にあってアッシリヤをあやつっていたのは主であったということです。主はアッシリヤを、ユダを懲らしめる道具として用いていたのです。ところがアッシリヤは高ぶってユダを滅ぼそうとしました。自分たちに与えられた立場をわきまえず、それを越えて、徹底的に滅ぼそうとしたのです。しかし、それは神のみこころではありませんでした。あくまでも主は、ユダを懲らしめるために彼らを用いただけで、その目的はユダが悔い改めて、主に立ち返ることだったのに、その神の御心からそれて、あたかも自分たちが王であるかのように高ぶったので、主はアッシリヤをさばかれ、その誇らしげな高ぶりを罰せられました。それが5節に書かれてあることです。

「万軍の主は飛びかける鳥のように、エルサレムを守り、これを守って救い出し、これを助けて解放する。」

エルサレムを滅ぼそうとアッシリヤがエルサレムを包囲したとき、朝起きて外を見ると18万5千人のアッシリヤ兵が倒れていました。当時のユダの王ヒゼキヤの祈りに、へりくだってささげたその祈りに主が答えてくださり、前の晩に主の使いがアッシリヤの陣営に出て行き、一晩でそれだけの兵隊を倒したのです。そのことをここでは「飛びかける鳥のように、エルサレムを守り」とあります。まさに主は飛びかける鳥のように出て行き、エルサレムを守られたのです。

これは前701年にアッシリヤの手から守られただけのことではありません。世の終わりにも同じようなことが起こります。世の終わりには、この人類の最終戦争が起こります。こをハルマゲドンの戦いと言います。世界中の軍隊がメギドの丘、ハルマゲドンに集結し、主とその軍隊に戦いを挑むわけですが、その時にも主は飛びかける鳥のようにエルサレムを守られます。再臨のキリストは天から降りて来られるとエルサレムに着座され、ご自身に敵対する者を御口の剣によって滅ぼしてしまわれます。まさに鳥のように、エルサレムを守って救い出し、これを助けて解放してくださるのです。

そしてそれは前701年にアッシリヤの手からエルサレムを守られ、また、世の終わりにおいて再臨の主がご自身に敵対する者の手からエルサレムを守られるだけでなく、どの時代にも繰り返して起こることでもあります。主はいつの時代でも飛びかける鳥のように、エルサレムを守り、これを守って救い出し、これを助けて解放してくださるのです。

たとえば、1917年にこのようなことが実際にありました。1917年といったら第一次世界大戦のまっただ中です。この時にエルサレム(イスラエル)を支配していたのはオスマントルコ帝国でした。オスマントルコというイスラム国です。イスラエルはその一部であったわけです。そしてこの第一次世界大戦の時、イギリスがこのオスマントルコと戦っていました。イギリスがオスマントルコに勝利することによって、イスラエルはイギリスの委任統治となりました。その時イギリスを率いていたのがエドモンド・アレンビーという将軍です。彼は敬虔なクリスチャンで、その枕元にはいつも聖書を置いて寝ていたというくらいですから、聖書の舞台でもあり、歴史的な建造物がたくさんあるこのこの町に爆弾を落としたり、ミサイルを打ち込んで破壊したくありませんでした。何とか無傷で開放したかったのです。  そこで彼のとった方法は、飛行機を飛ばして空からビラをまくという方法でした。そのビラにはこう書いてありました。「降伏か死か」そして、その下に彼のサインが書かれてあったのですが、オスマントルコはイスラム帝国でアラビヤ語を使っていたのでアラビヤ語でサインしたわけです。「エドモンド・アレンビー」をアラビヤ語で表すと「アラー・ネビー」となるのだそうです。アラーはイスラム教の神、ネビーは預言者という意味です。ですから、アラー・ネビーというのは「アラーの預言者」となるわけです。「降伏か死か」(アラーの預言者)それを見たとイスラム教の住民たちは非常に恐れました。まして飛行機などあまり見たことがない時代です。空から飛行機が飛んできてアラビヤ語のメッセージが書いてあって、しかもそれがアラーの預言者からであるというので、彼らは怯えきってエルサレムから退居したのです。それでエルサレムは無傷で英国の支配下に入ったわけです。まさに飛びかける鳥のようにやって来て、エルサレムを守られ、救い出され、解放しました。それによって十字軍以来初のキリスト教国による統治となったわけです。そしてその後1948年には国として独立を果たすわけです。イスラエル共和国となりました。

ですから神はいつの時代にもこのエルサレムの上に特別に御目を注いでくださり、これを守り、守って救い出し、これを助けて解放してくださいます。それは国としてのイスラエル、エルサレムだけでなく、神の民となったクリスチャンに対しても同じです。私たちは霊的イスラエルです。エルサレムそのものです。その私たちを主はいつも御目を注いで守ってくださいます。助けて解放してくださる。だから私たちはこの方に信頼し、ヒゼキヤのようにへりくだって祈り、この方の助けを待ち望まなければならないのです。

Ⅲ.この方以外に救いはない(6-9)

最後に6節から9節までをご覧ください。「6 イスラエルの子らよ。あなたがたが反逆を深めているその方にもとに帰れ。7 その日、イスラエルの子らは、おのおの自分のために自分の手で造って罪を犯した銀の偽りの神々や金の偽りの神々を退けるからだ。8 アッシリヤは人間のものでない剣に倒れ、人間のものでない剣が彼らを食い尽くす。アッシリヤは剣の前から逃げ、若い男たちは苦役につく。9 岩も恐れのために過ぎ去り、首長たちも旗を捨てておののき逃げる。―シオンに日を持ち、エルサレムにかまどを持つ主の御告げ―」

ここには、イスラエルに対して、この方のもとに帰るようにと勧められています。この方は、親鳥が自分の身を惜しまずにひなを守るように、ユダを愛され、その愛によって守られる方です。その方のもとに帰らなければなりません。悔い改めて、正しい道に方向転換しなければなりません。悔い改めて、偶像を捨て、神のもとへ立ち返った結果、ユダはアッシリヤから解放されるという感激を味わいます。アッシリヤは人間のものではない剣に倒れ、人間のものではない剣が彼らを食い尽くしました。人間のものでない剣とは何でしょうか。それは主の使いのことです。彼らは人間のものではない剣に倒れたのです。

皆さん、救いは人間によるものではありません。あなたを究極的なさばきから救うことができるのは人間ではないのです。地獄の滅びからあなたを救うことができるのはイエス・キリストだけです。使徒の働き4章12節には次のようにあります。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」

皆さん、この方以外にはだれによっても救いはありません。自分で自分を救うことも、だれかに救ってもらうこともできません。救うことができるのはイエス・キリストだけなのです。100%神であり、100%人であられたイエス・キリストだけがあなたを救うことができるのです。アッシリヤの手からイスラエルを救ったのはエジプトではありませんでした。アッシリヤの手からイスラエルを救ったのは主の使いでした。これは受肉前のキリストのことです。このキリストが彼らを救い出し、彼らを助けて解放したように、あなたを救い、あなたを助けて解放してくださるのです。

ですから、この方に立ち返ってください。あなたが今見ているものは何ですか。何に頼ろうとしているでしょうか。アッシリヤに囲まれ八方塞がりでも、上が空いています。どうぞ上を見上げてください。イスラエルの聖なる方に目を向け、この方を求めてください。その時神様は不思議をなさいます。人間のものでない剣で敵を打ち破り、あなたを守り、あなたを救いだし、あなたを助けて解放してくださいます。その方のもとに帰りましょう。その方により頼みましょう。この方があなたの道をまっすぐにしてくださるからです。