イザヤ書24章14~23節 「残りの者の歌」

きょうは、イザヤ書24章の後半部分から学びたいと思います。タイトルは「残りの者の歌」です。1節には、「彼らは、声を張り上げて喜び歌い、」とあります。彼らとは、残りの者たちのことです。このイザヤ書24章は「イザヤの黙示録」と呼ばれている章で、神の救いのご計画全体があますところなく語られています。その中で全世界に対する神のさばきがやってくることが語られてきました。この地に住む人たちは神との契約を破ったので、神は地をさばかれ、地を荒れ廃らせます。世界はしおれ、衰えるのです。それが世の終わりの患難時代に起こることであります。これまで陽気にはしゃいでいた人たちもしおれてしまう、そんな時代がやって来ると警告したのです。

しかし、そのような中にもわずかな者が救われます。いわゆる「残りの者」と呼ばれている人たちです。残り物ではありません。残りの者です。この「残りの者」は、イザヤ書における重要なテーマの一つですが、神は、そのさばきが行われる患難時代にも残りの者を残してくださり、賛美をささげることができるようにしてくださるのです。きょうはこの「残りの者の歌」について見ていきたいと思います。

Ⅰ.残りの者の歌(14-16a)    まず14節から16節の前半までをご覧ください。「彼らは、声を張り上げて喜び歌い、海の向こうから主の威光をたたえて叫ぶ。それゆえ、東の国々で主をあがめ、西の島々で、イスラエルの神、主の御名をあがめよ。私たちは、「正しい者に誉れあれ」と言う地の果てからのほめ歌を聞く。」

「彼ら」とは、先程申し上げたように「残りの者たち」のことです。彼らは、これまで陽気に楽しんでいた人たちがしおれ、ため息をつく中で、それとは対照的に、彼らは声を張り上げて歌い、海の向こうから主の威光をたたえて叫ぶようになります。

黙示録7章9節から17節に、そのときの様子が描かれています。ちょっと長いですが見てみたいと思います。

「その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群集が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、 言った。「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか」と言った。 そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」(黙示録7:9-17)

彼らは、御座と小羊との前で、大声で叫んで言います。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」と。「賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。」と、叫ぶのです。その人たちはだれかというと、14節に「彼らは、大きな患難を抜け出た人たち」とあります。患者時代における神の激しいさばきが行われる中で悔い改め、主を信じて受け入れた人たちです。いわゆる残りの者たちなのです。彼らは、主に賛美と感謝をささげ、昼も夜も、神に仕えるのです。もちろん、ここには栄光のからだによみがえったクリスチャンたちもいます。クリスチャンは、イエス様が再臨するとき墓からよみがえり朽ちないからだ、栄光のからだ、復活のからだによみがえらされ、空中に一挙に引き上げられます。そこでいつまでも主とともにいるようになるのです。しかし、実際にはこの地上に七年間の患難がもたらされているとき、そのさばきを免れ空中にいるわけですが、その七年間の患難時代が終わるとき、イエス様とともにこの地上に下りて来て主とともに千年間支配するわけです。そして、患難時代を通り抜けた人たちと一緒に声を合わせて主を賛美するようになるのです。

ヘンデルが作曲した「メサイヤ」は、救い主イエスについて歌っている歌ですが、演奏時間が三時間にも及ぶ大曲です。そのなかに、有名な「ハレルヤ・コーラス」があります。何回も何回も「ハレルヤ、ハレルヤ」と繰り返すすばらしい合唱です。  十八世紀の中ごろ、イギリスのロンドンで初めて「メサイヤ」が演奏されたときのことです。救い主がおいでになるという預言から始まり、神様の愛と救いのご計画、イエス様のご生涯を歌っているこの曲が、全能の神を賛美する「ハレルヤ・コーラス」のなかに「全能の主である神は」というフレーズにさしかかると、神の威厳に心を打たれた聴衆は、たまたま臨席していた国王ジョージ二世と一緒に思わず立ち上がり、神に敬意を表しました。そして、コーラスが終わるまでずっと立ちつくしていたと言われています。それ以来、「メサイヤ」が演奏されるときはいつでも、「ハレルヤ・コーラス」のところで聴衆が起立するようになりました。この偉大な神を前に、座って聴いていることなどできないのです。世の終わりには、そのような賛美がささげられるのです。

ベートーベンは、「第九」を作曲しました。第九とは大工さんのことではありません。「第九交響曲」のことです。日本ではいまや年末恒例の演奏曲目になりました。これを歌わなければ年を越せないという人もいるほどです。  この合唱曲は「歓喜の歌」と呼ばれていますが、作曲者のベートーベンの生涯は、歓喜とはほど遠いものでした。楽団の歌手だった父親は大酒飲みで、息子に音楽を仕込んでひともうけしようと、練習を強制しました。もともと才能のあったベートーベンは、若い頃からピアノを教えたり演奏したりして家族を養っていました。1800年に「第一交響曲」を発表し、作曲家として認められるようになりましたが、三十歳のころ、作曲家として最も大切な耳が聞こえにくくなったのです。そのころベートーベンは、アメンダという牧師に手紙を書いて、「私はこの世で神が造られた最も惨めな人間だと感じることがたびたびあります」と言っています。二人の弟に宛てた手紙の中でも、「おお、神のみこころよ。私はいつまた喜びに出会えるのでしょう。その日はもう決して来ないのではないかと思っています。それはあまりにも残酷です。」と書き送っています。  勧められる治療をいろいろ試み、何度も手術を受けましたが聴力はほとんど回復することはありませんでした。その苦しみの中でベートーベンは神様の助けを求めて祈りました。天に召される二週間前に友達に宛てて書いた手紙の中には、「神様がこの苦しみから守ってくださるようにということだけを祈っています。私の人生がどんなに苦しく恐ろしいものであっても、神様のみこころに従うことによって、苦しみに耐え抜く力が与えられることでしょう。」と書いています。  あの第九は、彼が聴力を失ってからの作品です。「ベートーベンの生涯」の作者ロマン・ロランは、「第九交響曲」の合唱の部分を評して、「少しずつ歓喜は全体を手に入れる。それは一つの征服である。悲哀に対する戦いである。・・・・全人類が腕を天へ差し出し、強い歓声をあげて、歓喜に向かって飛びかかり、胸の上にそれを抱きかかえる。」と書いています。  苦しみの中から求めてやまなかった「喜び」を、ベートーベンは神様への信仰のうちに見いだし、力強く音楽に表現したのです。それは彼が、この天での礼拝、神への賛美の光景を知っていたからです。

私たちもこの礼拝へと招かれています。やがて残りの者たちとともに心からの賛美をささげるようになるのです。それこそ私たちの希望ではないでしょうか。たとえ今は辛いこと、苦しいこと、悲しいことがあっても、私たちはやがてそのような歓喜に満ち溢れるようになるのだということを信じて、この地上にあっても心からの賛美を主にささげる者でありたいと思います。

Ⅱ.止まらない神のさばき(16b-20)    次に16節後半から20節までをご覧ください。16節の後半のところをお読みします。「しかし、私は言った。「私はだめだ、私はだめだ。なんと私は不幸なことか。裏切る者には裏切り、裏切り者は、裏切り、裏切った。」

どういうことでしょうか。確かに患難時代にも救われる人がいます。わずかな残りの者がいるわけです。そして彼らは賛美の歌を歌うようになります。しかし、手放しでは喜べません。なぜなら、そこに永遠に滅び行く人たちがいるからです。一部の人たちが救われることはすばらしいことですが、あまりにも多くの人たちが苦しみ滅んでいくことに、手放しで喜ぶことはできないのです。

17節と18節をご覧ください。ここには「地上の住民よ。恐れと、落とし穴と、わなとがあなたにかけられ、その恐れの叫びから逃げる者は、その落とし穴に落ち、落とし穴からはい上がる者は、そのわなに捕らえられる。天の窓が開かれ、地の基が震えるからだ。」とあります。

だれも神のさばきから逃れられないということです。たとえ隠れようとしても、たとえ逃れようとしても、隠れる場所がなく、逃れる場所がありません。というのは、天の窓が開かれ、地の基が震えるからです。「天の窓が開かれ」というのは、創世記7章11節にも出てきます。そこでは「天の水門が開かれ」とあります。あのノアの大洪水の時、天の窓、天の水源が開かれ、大量の雨が降って全地を覆い、すべての生き物を滅ぼし尽くしました。しかし、神はとこしえの契約によってもう二度と洪水によっては滅ぼさないと約束されました。ではこの天の窓が開かれとはどういうことなのでしょうか。これは大雨というより、天からもっと恐ろしいものが降ってくるということです。何でしょうか。雹です。巨大な雹が降ってきます。黙示録16章21節を見ると、それは1タラントほどの大きな雹とあります。1タラントというのは約35㎏です。それほど大きな雹が降ってくるわけです。よく農作物が雹の被害に遭ったというニュースを聞くことがありますが、その雹というのはあられ程度の大きさです。しかし、世の終わりの時に降ってくる雹はあられどころではありません。35㎏もある大きな雹です。よくスーパーで30㎏のお米を買いますが、あれほどのものがものすごい勢いで天から落ちてきます。そんな大きなものが降ってきたら家でも、畑でも、目に見えるすべてのものが破壊し尽くされてしまいます。

それからここには「地の基が震える」とあります。専門用語で「ポール・シフト」と言います。地軸が動くことです。ひどい場合には北極と南極が反転します。それによって気候変動が起こったり、地殻変動が起こったりするわけです。地軸が少しずれるだけでこの地球に大きな影響がもたらされます。多く人たちが逃げようとしても、逃げられないほどの災害となって現れるのです。

そして19節と20節には、「地は裂けに裂け、地はゆるぎにゆるぎ、地はよろめきによろめく。地は酔いどれのように、ふらふら、ふらつき、仮小屋のように揺り動かされる。そのそむきの罪が地の上に重くのしかかり、地は倒れて、再び起き上がれない。」とあります。

大地震が起こるということです。黙示録16章18節には、「この地震は人間が地上に住んで以来、かつてなかったほどのもので、それほどに大きな、強い地震であった。」とあります。ものすごい規模の地震が起こるのです。東日本大震災もマグニチュード9の大地震でした。その爪痕はあまりにも大きく、人々の暮らしを一変させてしまいましたが、もっと大きな地震が起こるというのです。その結果、地は酔いどれのように、ふらふら、ふらついてしまいます。そのそむきの罪が地の上に重くのしかかるからです。

イザヤは、それを見て嘆きました。わずかな者が救われて神を賛美するようになることはすばらしいことですが、その一方で、神のさばきによって滅んでいく人たちもいます。そういう人たちを見て、イザヤは「私はだめだ、私はだめだ。何と不幸なことか。」と嘆いたのです。

皆さんはどうでしょうか。確かに自分はイエス様を信じて救われました。どんな患難があっても大丈夫。永遠のいのち、天の御国の中に入れられました。そこで主に賛美をささげるようになります。今は小さな群れでの賛美ですが、やがてすべての国々の人々と、だれも数え切れないほどの大ぜいの人たちと、あらゆる言語で賛美する時がやってきます。それはものすごい感動と喜びをもたらすことでしょう。

私の一番下の娘はオーストラリヤからやってきた宣教師によって建てられた教会に通っていますが、そこでは毎週ヒルソングの曲を賛美するそうです。夜でもヒルソングです。何百人もの若者が集まって賛美するだけで感動しています。しかし、やがて世の終わりに持たれる賛美はそんなものではありません。何万人、何十万人もの人たちが一緒に賛美する大合唱です。そんな栄光の中に導き入れられます。しかしその一方で、こうした患難に苦しみ、滅んで行く人たちもいるのです。私たちはそういう人たちが救われるように祈らなければなりません。そのような人たちもこの救いの箱舟の中に入れられ、やがて神を賛美する人たちの中に加えられるように、神のさばきのメッセージを語っていかなければならないのです。

Ⅲ.王座に着かれる神(21-23)

最後に21節から23節までをご覧ください。21節と22節をお読みします。「その日、主は天では天の大軍を、地では地上の王たちを罰せられる。彼らは囚人が地下牢に集められるように集められ、牢獄に閉じ込められ、それから何年かたって後、罰せられる。」

ここにも「その日」ということばがあります。これは患難時代に起こることが預言されてあるわけですが、ここではその患難時代の最後に起こることが書かれてあります。それは人類最後の戦いです。その戦いをハルマゲドンの戦い、ギリシャ語ではメギドの戦いと言いますが、この戦いで、主は天の大軍と地上の王たちを罰せられるわけです。もちろん天の大軍というのは、サタンを頭とする悪霊の勢力のことです。エペソ6章12節やコロサイ2章15節にも出ています。地上の王たちとは、エルサレムの覇権を巡って集まってくる勢力のことです。東から2億にのぼる兵力が、西からも反キリスト率いるヨーロッパの勢力が、その他にも北から南から、みなこのメギドの丘、ハルマゲドンを目指してやって来ます。そして彼らは天から降りて来られる主に戦いを挑みますが、主は御口の息をもって彼らを吹き飛ばします。このことです。

その後彼らはどうなるのか?22節を見ると、「彼らは囚人が地下牢に集められるように集められ、牢獄に閉じこめられ、それから何年かたって後、罰せられる。」とあります。「囚人の地下牢」とはハデスのことです。天の大軍も地上の王達もみなその地下牢に投げ込まれ、鎖でつながれます。詳しくは黙示録の20章以降を参照してください。そして、ここには「それから何年かたって後、罰せられる」とあります。この何年かというのは千年間です。悪魔でありサタンである竜は、底知れぬ所に投げ入れられて千年間縛られているので、この地上には千年間平和な時代が訪れます。千年王国です。千年の間主イエスが王として君臨する平和な時代がやってくるのです。

しかしその千年が終わると罰せられます。千年の後に、竜と呼ばれるサタンが再び解き放たれるからです。なぜ神はそんなことをされたのでしょうか。永遠にサタンを地下牢に閉じこめておけば何の問題もないのに、そうやって自由にさせるからいろいろな問題が起こるんだ、とあなたは思われるかもしれません。しかし、人間はロボットではありません。自由意志を持つ者として造られました。その自由意志を用いて神を愛することを望んでおられるのです。ですから神がサタンを解き放たれるのは、千年間平和な時代を過ごした人間が、ほんとうに神を愛し神に従うのか、あるいは悪に従うのかの二者択一を迫るためなのです。栄光のからだに復活させられたクリスチャンは罪を犯すことはありません。イエスが再臨された空中に引き上げられたクリスチャンは朽ちないからだ、栄光のからだ、完全なからだを持っているので、再び罪を犯すことはないのです。これは患難時代を通った生身の人間、残された者がどうかということなのです。そして黙示録20章には海の砂ほどの人がサタンを選ぶとあります。(黙示録20:8)多くの者たちが惑わされサタンにつき従い、キリストに対抗しようとエルサレムを取り囲みます。そのときです。天から火が降ってきて、それらを焼き尽くします。そして永遠の火、ゲヘナに投げ込まれるわけです。これが白い御座のさばきという、神の最終的なさばきです。

そして新しい天と新しい地です。黙示録21章です。新しい天と新しい地がもたらされます。以前の天と、以前の地は過ぎ去ります。新しい天と新しい地が天から下ってきて、そこで永遠に主とともに過ごします。そこには太陽も月もありません。なぜなら、イエス様ご自身が都の太陽だからです。そのイエスの輝きがあまりにもすごいので、太陽や月の輝きもかげってしまうほどです。万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり、栄光がその長老たちの前で輝くからであるとは、そのことを指しているのです。ですから、このイザヤ書24章が「イザヤの黙示録」と呼ばれているゆえんはここにあります。神の永遠のご計画の全体をあますところなく語っているからです。

そして、この箇所からわかることは、最終的に主は勝利されるということです。皆さん、なぜ私たちは主を賛美するのでしょうか。それはこの方が究極的な勝利を与えてくださるからです。イザヤが見た主は、エルサレムに着座された方は、究極的に敵であるサタンと世のすべての悪を滅ぼされる勝利の主です。その王座に着かれる主の姿こそ、私たちの希望です。私たちが主を賛美するのは、主が究極的な勝利を与えてくださるからです。

あなたはが今見ているのは何ですか。目の前のさまざまな問題ですか。それとも世の終わりにもたらされる究極的な勝利ですか。勝利者であらるイエスをあなたの心の王として迎え、この方に心からの賛美をささげようではありませんか。

イザヤ書24章1~13節 「地をさばかれる神」

きょうは、イザヤ書24章の前半の部分からお話したいと思います。タイトルは、「地をさばかれる神」です。イザヤは、13章から23章にかけてイスラエルを取り囲む周辺諸国に対する神のさばきの宣告を語ってきました。きょうのところから新しい段落に入ります。ここには全世界に対する神のさばきの宣告が語られていくわけです。イザヤは、まず身内であるイスラエルに対して語りました。神のさばきは、神の家から始まるのです。まず神の民であるイスラエルが、クリスチャンが自分自身を吟味しなければなりません。今立っていると思っている人は、倒れないように注意しなければならないのです。もし罪を犯していれば悔い改めなければなりません。もし高慢であればへりくだらなければなりません。その次はだれでしょう。その次はイスラエルを取り囲んでいた周辺諸国に対する宣告でした。神のさばきは、神の民であるイスラエルからその周辺諸国へと広がっていることがわかります。そしてそのさばきの宣告は、今度は世界規模へと広がっていきます。周辺諸国を越え全世界へと拡大していくわけです。そればかりではありません。その時代を超えて世の終わりにおける神のさばきの宣告となって語られていきま。ですからこの箇所は、「イザヤの黙示録」と呼ばれているのです。ダニエル書やヨハネの黙示録のように、世の終わりのことが詳細に述べられているからです。  きょうは、この世の終わりの神のさばきの描写を通して、私たちが今、この時代にあっていかにあるべきかをみことばから学んでいきたいと思います。

Ⅰ.ひっくり返る世(1-4)

まず第一に、神様はさばきによってこの世をひっくり返します。1節から4節までをご覧ください。

「見よ。主は地を荒れすたらせ、その面をくつがえして、その住民を散らされる。 民は祭司と等しくなり、奴隷はその主人と、女奴隷はその女主人と、買い手は売り手と、貸す者は借りる者と、債権者は債務者と等しくなる。地は荒れに荒れ、全くかすめ奪われる。主がこのことばを語られたからである。地は嘆き悲しみ、衰える。世界はしおれ、衰える。天も地とともにしおれる。」

ここに「見よ。主は地を荒れすたらせ、その面をくつがえして、その住民を散らされる。」とあります。この「くつがえして」ということばは、「上下をひっくり返す」という意味です。まさに天変地異が起こります。世の終わりには、私たちの想像を越えた地殻変動が起こるのです。

このことは、イエス様も弟子たちに語られました。マタイの福音書24章21節と22節をご覧下さい。ここには、「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。」とあります。それはいまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難です。もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者がいないでありましょう、それほど大きな苦難です。

黙示録6章12節から14節までのところにも、このことが描かれています。「私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。」

イザヤが語っているのはこの大きな地震のことでした。昨年、私たちが経験した東北大震災は、マグニチュード9クラスの大地震でした。マグニチュード9というのはエネルギーに換算すると475メガトンに匹敵するそうです。475メガトンといってもあまりピンとこないかと思いますが、これは原油326万バレルに相当します。といってもまだピンとこないでしょう。これは全世界の石油消費量の四日分です。ですからものすごいすごいパワーなのです。三陸沿岸を襲った津波の力は、時速1,000キロで飛んでいるジェット機250機分に相当します。それほど力のある津波が押し寄せ防波堤を破壊したのです。それはあの阪神淡路大震災の1,000倍、ハイチ地震の5,000倍のパワーでした。けれども終わりの時に起こる地震はこれとも比べものにならないくらいの大きい地震です。すべての山や島がその場所から移されるような規模なのです。単なる震動や揺れではなく、地殻変動を伴うほどの大きさであり、また地域的ではなく世界的な規模で起こります。この地上で起こりうる最大級の地震はマグニチュード10だと言われていますが、それは昨年の東北大震災の何千倍もの大きな地震です。そのような考えられないような地震が世の終わりに起こるのです。

2節をご覧ください。ここには、「民は祭司と等しくなり、奴隷はその主人と、女奴隷はその女主人と、買い手は売り手と、貸す者は借りる者と、債権者は債務者と等しくなる。」とあります。これはどういうことかというと、上下関係がないということです。神のさばきはどんな人に対しても平等をもたらされます。金持ちであろうと貧乏人であろうと関係ありません。地位が高い人でも低い人でも同じです。見てくだい。ここにはまず民と祭司が等しくなるとあります。これは宗教的な差別がなくなるということです。それから奴隷と主人が等しくなるとあります。これは社会的な差別がなくなるということです。そして買い手と売り手も等しくなります。これは経済的な差別もなくなるということです。神のさばきは人々に平等をもたらすのです。

このことは神のさばきだけでなく、神の救いも言えることです。救いは、あなたがどのような立場にあるかとか、どれだけ裕福であるか、どれだけ能力があるかということと全く関係ありません。神の救いはただへりくだって、救い主イエス・キリストを信じことによってのみ救われます。イエス様を信じるならどんな人でも救われます。しかし、信じないなら罪に定められます。神の救いは私たちの身分や能力、財産といったことと関係なく、ただ救い主イエス・キリストを信じることによってのみもたらされるからです。そして、この神の救いは、あなたにも差し出されているのです。

そして、3節をご覧ください。ここには、この大地震によってもたらされる経済的損失がどれだけ大きなものであるかが書かれてあります。それはちょうどかすめ奪われた時のように、略奪された時のように、巨額の経済的損失を被ることになるのです。昨年の大震災による損失は、16兆円から25兆円にのぼると試算されています。復興のために必要なお金は、10年間で23兆円だと言われています。全く想像できない金額です。たった一つの地震でもこれだけの損失が出るのですから、これが全世界的な規模で、地球規模で起こったらどうなるでしょうか。まさに天文学的な数字になります。とても復興などできないという状況になるのです。

必ずこのような状況になります。なぜなら、これは主によって語られたからです。3節後半のところに、「主がこのことばを語られたからである」とあります。主によって語られたことは必ず実現します。ですから私たちは、いつも油断せずに祈っていなければなりません。ルカの福音書21章36節に「しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」とあります。新聞の一面を見て、テレビのトップニュースを見て、世界で今起こっていることを知り、今がどのような時代なのかを悟り、心を砕いて、世の終わりに備えていなければなりません。いたずらに世の終わりの前兆に振り回されたりするのではなく、主イエスがいつ来られてもいいように、いつ私たちを迎えに来てもいいように、備えておかなければならないのです。

4節をご覧ください。ここには「地は嘆き悲しみ、衰える。世界はしおれ、衰える。天も地とともにしおれる。」とあります。ここには「しおれる」とか「衰える」といことばが繰り返して出てきます。たった一度の大震災でも、多くの人たちの心はしおれてしまいます。社会全体が衰えてしまうのです。これは経済的な面だけでなく精神的にも、感情の面でも、政治的な面においてもです。ここに「天と地とともにしおれる」というのは※がついています。下の説明を見ると、これは「地の民の天はしおれる」の読み替えだとありますが、どういう意味なのかさっぱりわかりません。これはどういうことかというと、地の民の天、すなわち地の民の高いところがしおれるということです。つまり上流階級が衰えるという意味にもとれるということです。いづれにせよ、そうした天変地異によって世界中のすべての人たちの心がしおれ、衰えるようになるということなのです。

あなたの心はどうでしょうか。あなたの心はしおれていませんか。衰えていませんか。使徒の働き17章6節を見ると、パウロとシラスがテサロニケで伝道していたとき、多くの人たちは彼らのことばをよく聞いて信仰に入りましたが、ねたみにかられたユダヤ人たちは、ヤソンと兄弟たちの幾人かを役人たちのところに引っ張って行き、大声でこのように言いました。「世界中を騒がせて来た者たちが、ここにも入りこんでいます。」クリスチャンのことを、「世界中を騒がせて来た者たち」と呼んだのです。これは世界中をひっくり返して来た者たちという意味です。クリスチャンは世界中をひっくり返すような存在なのです。そのような力が与えられているのです。聖霊の力です。世の終わりが近くなると、人々の愛が冷え、世界はしおれ、衰えていきますが、私たちにはこの聖霊の力が与えられていることを覚え、世界をひっくり返すような者でありたいと思います。

Ⅱ.契約を破った人間(5-6)

第二に、神がこの世をひっくり返すと言われた原因を考えてみたいと思います。5節と6節をご覧ください。ここには、「地はその住民によって汚された。彼らが律法を犯し、定めを変え、とこしえの契約を破ったからである。それゆえ、のろいは地を食い尽くし、その地の住民は罪ある者とされる。それゆえ、地の住民は減り、わずかな者が残される。」とあります。

ここには天変地異の理由が書かれてあります。それは、地がその住民によって汚されたからです。キリストを拒絶する人たちの罪によって汚されたからなのです。私たちはしばしば、昨年のような大震災を経験すると、「なぜ神様はこんなひどいことを許されるのか」と言って神を非難します。しばしば起こっていることを見て、なぜ神はこんな悪を許されるのか、と責めます。けれどもそれは見当違いです。ここにはっきりと書かれてあるように、世界がこのように暗くなったのは神のせいではなく、この地に住む人間が律法を犯し、定めを変え、とこしえの契約を破っているからなのです。すべての不幸は、人間の罪の結果もたらされたものです。ゆえに究極的には、そのような災害さえも罪の結果によると言えるのです。

「とこしえの契約」とは、ノアの契約のことではないかと考えられています。神はノアとその家族に、もはや大洪水で地を滅ぼすことはしないと約束されました。(創世記9:11)その契約のしるしが虹でした。虹が雲の中にあるとき、神はそれを見て、彼らとの契約を思い出し、大洪水をもたらすことはしないと約束されたのです。あのノアの契約、虹の契約です。

しかし、このノアの契約は神の恵みによる一方的な契約であって、人間によって破棄することはできません。人間によって破棄することができるのは、一方的な契約ではなく、法と規定を守ることを含んだ契約であるはずです。ですから、これはあのシナイ山でイスラエルと結ばれた戒め、十戒のことだと思います。6節に、この契約を破棄したことによってのろいが与えられるというのも、この契約の背後にシナイ山の契約があったことを示唆しています。おそらくイザヤは、あのノアのとこしえの契約にシナイ山の契約を合わせて地に住む住人を告発しているのでしょう。

6節には「それゆえ」とあります。この地に住む住人が、神との契約、とこしえの契約を破棄したので、のろいは地を食い尽くすようになりました。せっかく神がノアにとこしえの契約を与えたのに、ぶどう畑の農夫であったノアは、ぶどう酒を飲んで酔っぱらい、その家族にのろいをもたらしたように、この人類は神との契約を破棄したことで、のろいを招いてしまったのです。

そののろいとは何でしょうか。ここには「それゆえ、地の住民は減り、わずかな者が残される。」ということです。この地に住む住人が、飢饉や疫病、あるいは自然の災害によって激減するようになるのです。この「減る」ということばですが、これは直訳すると「焼かれる」です。世の終わりのさばきは、火によるさばきです。ペテロ第二の手紙3章3節から13節までをご覧ください。少し長いですが読んでみたいと思います。

「まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」    世の終わりになると、神の火によるさばきが起こります。天の万象は焼けてくずれ落ちます。そのようにして地上の人口が激減するわけです。それは黙示録にも書かれてもあることです。そんなこと起こるはずがない。全然変わらないじゃないか。世界は今も昔もずっと同じだ。とあざける者たちは言うでしょうが、そういう人たちは、なぜそのことが起こっていないのかという理由を見落としているのです。それは、神が忍耐しておられるからなのです。神はひとりも滅びることを望まず、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられるのです。ですから、この火によるさばきに会わないように、悔い改めて、神に立ち返らなければなりません。神はそのために忍耐して待っておられるのです。

「サハラの炎」という本を書いたシャルル・ド・フーコーはフランスの軍人でした。しかし彼は、主に人格的に出会った後、カトリックに立ち返り修道士となりました。そして、サハラ砂漠で原住民のために宣教する中、原住民の銃に撃たれ殉教しました。  彼はその著書の中でこのような質問を投げかけています。「神を信じるクリスチャンにとって最も難しいことは何だろうか」皆さんはクリスチャンとして最も難しいと感じることは何でしょうか。その答えは人によってそれぞれ異なるでしょう。このフーコーは自らこのように答えています。  「神を信じるクリスチャンにとって最も難しいことは神を信じることだ」と。  実に的を射た答えではないでしょうか。私はこれを読んだとき本当に涙が溢れました。私たちは自分が神を信じていることを微塵も疑いません。いつも「神を信じている」と告白しています。にもかかわらず、ある決定的な瞬間に、神に法則よりも世の法則を信じてしまうのです。その時間、その場所に、その出来事の中に神がおられ、神が関わっておられるということを忘れているのです。「神が私たちとともにおられる」と口で言うほど、すべてのことにおいて、その事実を信じて行動することは容易なことではありません。であれば、神をあざける人たちが、そんなことが起こるはずがないと言うのも理解できます。神を信じることは、神を信じていない人だけでなく、神を信じているクリスチャンにとっても最も難しいことなのです。

私たちは、今も生きて働いておられる神をもっと意識しなければなりません。そこから始めることを忘れてはならないのです。これが神がこの世をさばかれる理由だということをしっかりと覚えておきたいと思います。

Ⅲ.喜びが消える(7-13)

第三に、この神のさばきの結果、この地はどのようになってしまうのかを見て終わりたいと思います。7節から13節までをご覧ください。「新しいぶどう酒は嘆き悲しみ、ぶどうの木はしおれ、心楽しむ者はみな、ため息をつく。陽気なタンバリンの音は終わり、はしゃぐ者の騒ぎもやみ、陽気な立琴の音も終わる。歌いながらぶどう酒を飲むこともなく、強い酒を飲んでも、それは苦い。都はこわされて荒地のようになり、すべての家は閉ざされて、入れない。ちまたには、ぶどう酒はなく、悲しみの叫び。すべての喜びは薄れ、地の楽しみは取り去られる。町はただ荒れ果てたままに残され、城門は打ち砕かれて荒れ果てる。それは、世界の真ん中で、国々の民の間で、オリーブの木を打つときのように、ぶどうの取り入れが終わって、取り残しの実を集めるときのようになるからだ。」

大患難は何もかも変えてしまいます。これまで大事にしてきた財産を失い、大切な家族をも失ってしまいます。そのような中で人々の喜びは取り去られ、悲しみが覆うようになります。陰気になってしまうのです。何をしても全く楽しくありません。酒を飲んで憂さを払おうとしてもそのようにはなりません。これまでお笑いを見て楽しんでいた人が青ざめるようになるわけです。別に楽しむことが悪いということではありません。あまりにも悲しくて楽しめない現実がそこにあるわけです。    10節を見ると、「都はこわされて荒地のようになり」とありますが、この「荒地」とは創世記1章2節の「茫漠」と同じ言葉です。何もないような状態を指します。本来であれば草木が生え、花が咲き、動物や人間が暮らすはずの地が、何もない状態になります。天地が創造される以前の何もない状態となるわけです。世の終わりになると、あるべきものがすべて無くなってしまいます。荒地の状態になるのです。

11節には「ちまたには、ぶどう酒はなく、悲しみの叫び。すべての喜びは薄れ、地の楽しみは取り去られる」とあります。あるのは悲しみだけです。世界中の都、世界中の町々、ちまたにあるのは悲しみの叫びだけです。

12には「城門は打ち砕かれる」とあります。これは町の要であった城門が砕かれるということで、安全も失われるということです。安全神話が断ち切れるのです。これまで安全だ、安心だと言われてきたものがそうでなくなるのです。軍事力で安全を確保しようとしてもできなくなります。喜びもなければ、頼れる人もいません。安心して暮らせる安住の地は消えて無くなってしまうのです。

13節のオリーブやぶどうの収穫のたとえは、神のさばきによってほんのわずかな実だけが残されるということを語っています。イスラエルでは小麦もそうですが、オリーブやぶどうを収穫する時も、すべてを収穫しないようにという教えがありました。貧しい人たちのために残しておくようにしなければなりませんでした。それは貧しい人たちを救済するための神の方法だったのです。しかし、それは本当にわずかです。わずかな者だけが残されます。残されますが、それでも大患難を通らなければならないのです。

ですから、今が恵みの時、今が救いの日なのです。もし今イエス・キリストを救い主として信じるなら、あなたは救われます。そして、イエス様が再び来られるとき朽ちないからだ、復活のからだ、永遠のからだによみがらされ、雲の中に一挙に引き上げられ、いつまでも主とともにいるようになるのです。この恐ろしい神のさばきに会うことはありません。なぜなら、「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」(Ⅱテサロニケ5:9)クリスチャンにもたらされるのは嘆きや悲しみではなく栄光と喜びなのです。

あなたはいかがですか。最近何をしても心に喜びがないということはありませんか。その理由が何であり、どうすれば喜びを回復できるのかを探ってください。それが世の終わりの審判から来ているものであるならば、主がおられないところから生じている空しさからであるならば、悔い改めて、主の再臨に備えてください。そしてやがて来る審判の日を恐れと不安の心で迎えるのではなく、栄光と喜びをもって迎えて

イザヤ書23章1~18節 「征服される神」

きょうは、イザヤ書23章からお話したいと思います。タイトルは「征服される神」です。イザヤは、13章からイスラエルを取り囲む周辺諸国に対する神のさばきの宣告を語ってきました。きょうのところはその最後のところです。この最後のところには、フェニキヤの主要都市であったツロに対する宣告が語られています。

ツロとは「岩」という意味ですが、地中海東岸のフェニキヤ人の古代都市国家でした。彼らはアッシリヤやバビロンのように広大な土地を有していませんでしたが、地中海を舞台に世界中の国々と貿易をして栄え、巨万の富を築いていました。今で言ったら日本みたいなところです。何の資源もありません。しかし、貿易によって莫大な富を得、世界経済を動かしています。そのツロに対する宣告です。いったいツロはどのようにして滅んでいったのでしょうか。

Ⅰ.経済大国ツロ(1-5)

まず初めに1節から5節までをご覧ください。 「ツロに対する宣告。タルシシュの船よ。泣きわめけ。ツロは荒らされて、家も港もなくなった、とキティムの地から、彼らに示されたのだ。海辺の住民よ。黙せ。海を渡るシドンの商人はあなたを富ませていた。大海によって、シホルの穀物、ナイルの刈り入れがあなたの収穫となり、あなたは諸国と商いをしていた。シドンよ、恥を見よ、と海が言う。海のとりでがこう言っている。「私は産みの苦しみをせず、子を産まず、若い男を育てず、若い女を養ったこともない。」エジプトがこのツロのうわさを聞いたなら、ひどく苦しもう。エジプトがこのツロのうわさを聞いたなら、ひどく苦しもう。」

タルシシュというのは、今のスペインにある町です。当時は地の果てと思われていました。預言者ヨナはアッシリヤのニネベに行ってみことばを語るようにと主から命じられましたが、そんな敵のところに行って語りたくないと、主の御顔を避けて向かったのがこのタルシシュでした。なぜここにタルシシュが出てくるのでしょうか。それはタルシシュがツロの貿易相手国だったからです。ツロは、それほど遠方の国々とも貿易をしていました。そのタルシシュに対して「泣きわめけ」と言われているのは、その最大の貿易相手国であったツロが滅びるからです。そこでツロによって収益を得ていたタルシシュは自分たちの損失を嘆き、泣きわめくようになるわけです。

それはタルシシュだけではありません。ここに「キティム」というのが出てきます。これはキプロスのことです。同じ地中海に浮かぶ島でした。このキティム嘆くようになります。

2節の「海辺の住民」とはフェニキヤの町々のことです。ツロやシドンといった町々です。彼らも地中海を交易する商人たちのおかげで多くの富を築いていましたが、それが無くなります。「黙せ」とはそのことです。これまで騒がしく、商売に明け暮れていた人たちに、今、黙れ、と言われているのです。3節の「シホルの穀物」とはエジプトの運河の穀物のことです。彼らはエジプト、ナイルから収穫した穀物を他国へ売り、多くの富を得ていましたが、それもできなくなります。

4節にはシドンが出てきます。シドンは同じフェニキヤ地方にある町で、ツロから北に32㎞離れている町です。聖書にはこのツロとシドンという町がいつもセットで出てきます。ですから、これはツロと同じことだと考えて良いと思います。ここにはそのシドンの人たちの姿が、子を産まず、産みの苦しみをしたことがない女にたとえられています。彼らは何の苦労もせず、莫大な富を得ていました。これは今日の経済大国の姿です。何の苦労もしないで、ちょっと数字を動かしただけで大金をせしめる人たちのことです。現代で言えば株とか不動産といった投資のことです。そこには何もしなくてもどんどんお金が貯まっていくからくりがあります。お金が貯まること自体は問題ではありませんが、そのようにお金が貯まると、いつしか自分は何でもできる者であるかのように錯覚し、神様なしでも十分やっていけると高ぶってしまいやすくなります。しかし、そこにはハイリスクが伴います。そのような国はやがて滅びてしまうことになるのです。

イエス様は、「しかし、あなたがた富む者は哀れです。慰めをすでに受けているから。いま食べ飽きているあなたがたは哀れです。やがて飢えるようになるから。いま笑うあなたがたは哀れです。やがて悲しみ泣くようになるから。」(ルカ6:23,24)と言われました。富んでいるあなたがたは哀れだ。いま食べ飽きているあなたがたは哀れです。いま笑っているあなたがたは哀れです。なぜなら、もう既に慰めを受けているからです。やがて飢えるようになるからです。やがて悲しみ泣くようになります。自分は豊かになったから大丈夫だ。神にも、キリストにも頼らなくてもいい。自分は自分でやっていける。自分には家があり、貯金があり、健康があるから大丈夫だ。家族がみんな元気で、それぞれの目標に向かって着々と進んでいるから安心だ・・・。そういった慢心な思いがあると神は砕かれるのです。やがて飢えることに、やがて悲しみ泣くようになるのです。

パウロは、「衣服があればそれで満足すべきです。」(Ⅰテモテ6:8)と言いました。なぜなら、金持ちになりたがる人は、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥るからです。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(同6:10)まさにツロとシドンの人たちは金銭を愛したことで、信仰から迷い出て、自分を刺し通すことになってしまったのです。

それは、私たちも同じではないでしょうか。日本とツロは非常に似ています。今は陸続きになっていますが、ツロはもともと小さな島国でした。陸地から550㍍ほど離れた島国だったのです。しかし、やがてバビロンがこの島を攻めるとき、海戦ではかなわないとがれきで海を埋め立て道を作りました。それで陸続きになったのです。でも、もともとは小さな島国でした。資源はほとんどありませんでした。そのツロが経済大国となって世界を支配するようになったのは海洋貿易の結果でした。世界中のお金が集まって、そのお金をもとに株や不動産に投資して、巨万の富を得ていたのです。日本も小さな島国です。資源もをあまりありません。持っているのはテクノロジーです。そうした技術力によって全世界に進出し、それで得たお金で企業買収を積極的に展開しました。一時はエコノミック・アニマルと称されたほどです。

家内の実家の隣にナパという町がありますが、そこはぶどう畑が広がっていて、ワインの生産で有名です。その町にはイタリアから移住した人たちが多く住んでいましたが、日本人はそのぶどう畑とワイナリーをすべて買収しました。そしてそこでただワインを生産するだけでなく、観光名所の一つにまでして多額の富みを得ました。また、日本の航空会社がパイロットの育成にとその町にあった空港も買い取りました。日本で用地を買収して空港を作ったら多額の費用がかかるからです。まさにエコノミック・アニマルです。そうやって世界中の不動産を買収しようとした日本は、ツロそのものです。しかし、そのような国はやがて滅んでしまいます。バブルがはじけて衰退の一途をたどるようになると、それまで世界第一だった国内総生産(GHP)は、中国、アメリカ、EUに抜かれ、第四位にまで後退しています。巨万の富を築き上げたと高ぶっていると、神はそうしたものを取り除かれるのです。それは人ごとではありません。

Ⅱ.高ぶったツロ(6-14)

次に6節から14節までのところに注目したいと思います。まず6節から9節までのところをご覧ください。「海辺の住民よ。タルシシュへ渡り、泣きわめけ。これが、あなたがたのおごった町なのか。その起こりは古く、その足を遠くに運んで移住したものを。だれが、王冠をいだくツロに対してこれを計ったのか。その商人は君主たち、そのあきゅうどは世界で最も尊ばれていたのに。万軍の主がそれを計り、すべての麗しい誇りを汚し、すべて世界で最も尊ばれている者を卑しめられた。」

こににも「海辺の住民」が出てきます。これもさきほどと同じようにツロをはじめとしたフェニキヤ地方の町々のことです。その海辺の住民に、タルシシュへ渡り、泣きわめくようにと言われています。タルシシュに移住するようにということです。なぜなら、このフェニキヤの町々は滅ぼされてしまうからです。その町は、前2,500年から前2,300年に建てられた古い町です。ここに「だれが王冠をいただくツロに対して」とあるように、かつて「海の女王」と呼ばれたほど貿易が盛んでした。彼らは世界で最も尊ばれていたのです。彼らの商売は世界一、超一流と称賛されていました。日本のビジネス業界そのものです。世界中に日本の企業が進出しています。日本人はビジネスに非常に長けていて、何をしても成功させてしまいます。アメリカから始まったセブン・イレブンも、日本のセブンイレブンがその経営を立て直し買収したほどです。今や日本式のビジネスモデルは、世界中で尊ばれています。なのにその麗しい誇りが汚され、世界中で最も尊ばれている者が卑しめられるのです。なぜでしょうか。9節、万軍の主がそれを計られたからです。すべての麗しい誇りを汚し、すべて世界で最も尊ばれている者を卑しめられたからです。

10節と11節をご覧ください。「タルシシュの娘よ。ナイル川のように、自分の国にあふれよ。だが、もうこれを制する者がいない。主は御手を海の上に伸ばし、王国をおののかせた。主は命令を下してカナンのとりでを滅ぼした。」

ツロが滅んだので、その貿易相手国であったタルシシュに、何らかの対策を模索するようにと言われています。「主は御手を海の上に伸ばし」とは、海を舞台に富と名声を得ていたツロとシドンに対して神のさばきが始まったことを示しています。カナンの堅固なとりでをも破壊する神のさばきは、フェニキヤと多くの国々をおののかせました。このカナンとはフェニキヤのことを指しています。

12節から14節までをご覧ください。そして仰せられた。「もう二度とこおどりして喜ぶな。しいたげられたおとめ、シドンの娘よ。立ってキティムに渡れ。そこでもあなたは休めない。」見よ、カルデヤ人の国を。―この民はもういない。アッシリヤ人がこれを荒野の獣の住むところにした。―彼らは、やぐらを立てて、その宮殿をかすめ、そこを廃墟にした。タルシシュの船よ。泣きわめけ。あなたがたのとりでが荒らされたからだ。」

神のさばきに落ちたシドンには何の喜びもありません。それはシドンだけではありません。ツロも、フェニキヤの町々も同じです。キティム、これは先ほども申し上げましたがキプロス島ですね。そこへ逃れても平安を得ることはできません。一時は地中海を支配していたシドンは、どこに行っても平安を得ることはできません。13節のカルデヤ人の国とはバビロンのことです。かつてアッシリヤはバビロンを滅ぼして占領しました。その頃はまだバビロンは小国でした。そして、アッシリヤによって破壊され廃墟となりました。前710年のことです。そのようにツロやシドンもまた完全に廃墟になるのです。

あれほど輝いていたツロが、まさに美の極み、知恵に満ちていたツロが、完全に廃墟と化したのです。なぜでしょうか。彼らが高ぶったからです。エゼキエル書28章1節から19節までを開いてみたいと思います。

「次のような主のことばが私にあった。「人の子よ。ツロの君主に言え。神である主はこう仰せられる。あなたは心高ぶり、『私は神だ。海の真ん中で神の座に着いている』と言った。あなたは自分の心を神のようにみなしたが、あなたは人であって、神ではない。あなたはダニエルよりも知恵があり、どんな秘密もあなたに隠されていない。あなたは自分の知恵と英知によって財宝を積み、金や銀を宝物倉にたくわえた。商いに多くの知恵を使って財宝をふやし、あなたの心は、財宝で高ぶった。それゆえ、神である主はこう仰せられる。あなたは自分の心を神の心のようにみなした。それゆえ、他国人、最も横暴な異邦の民を連れて来て、あなたを攻めさせる。彼らはあなたの美しい知恵に向かって剣を抜き、あなたの輝きを汚し、あなたを穴に投げ入れる。あなたは海の真ん中で、刺し殺される者の死を遂げる。それでもあなたは、自分を殺す者の前で、『私は神だ』と言うのか。あなたは人であって、神ではない。あなたはあなたを刺し殺す者たちの手の中にある。あなたは異邦人の手によって割礼を受けていない者の死を遂げる。わたしがこれを語ったからだ。―神である主の御告げ―」次のような主のことばが私にあった。「人の子よ。ツロの王について哀歌を唱えて、彼に言え。神である主はこう仰せられる。あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった。あなたは神の園、エデンにいて、あらゆる宝石があなたをおおっていた。赤めのう、トパーズ、ダイヤモンド、緑柱石、しまめのう、碧玉、サファイヤ、トルコ玉、エメラルド。あなたのタンバリンと笛とは金で作られ、これらはあなたが造られた日に整えられていた。わたしはあなたを油そそがれた守護者ケルブとともに、神の聖なる山に置いた。あなたは火の石の間を歩いていた。あなたの行いは、あなたが造られた日からあなたに不正が見いだされるまでは、完全だった。あなたの商いが繁盛すると、あなたのうちに暴虐が満ち、あなたは罪を犯した。そこで、わたしはあなたを汚れたものとして神の山から追い出し、守護者ケルブが火の石の間からあなたを消えうせさせた。あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、王たちの前に見せものとした。あなたは不正な商いで不義を重ね、あなたの聖所を汚した。わたしはあなたのうちから火を出し、あなたを焼き尽くした。こうして、すべての者が見ている前で、わたしはあなたを地上の灰とした。 国々の民のうちであなたを知る者はみな、あなたのことでおののいた。あなたは恐怖となり、とこしえになくなってしまう。」

これはツロの君主の姿を描いたものです。もちろん、その背後には天使の長であったルシファーが堕落したことが描かれています。おもしろいですね。天使長の堕落がこのツロの堕落と重ねて描かれているわけです。彼の問題は何だったのでしょうか。それは彼が心の中で「自分は神だ」と言って高ぶったことです。彼はダニエルよりも知恵があり、自分の知恵と英知によって財宝を積み上げ、金や銀を宝物倉に蓄え、商いに知恵を使って財宝を増し加えると、自分を神のようにみなしてしまいました。それゆえに神は、最も横暴な民を連れて来て、彼を責めさせ、彼を滅びの穴の中に投げ入れました。彼は全きものの典型であり、知恵に満ち、美の極みでした。しかし、彼は自分の豊かさに酔いしれ、自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせました。しかし、彼は人なのであって神ではありません。なのに自分が神であるかのように高ぶって罪を犯してしまったのです。それが問題でした。悪の根源は、高ぶることです。高ぶって、自分を神とすることなのです。神はそういう人を退けられるのです。

先月行われたロンドンオリンピックは、私たちに多くの感動をもたらして閉幕しましたが、中でも男子100㍍と200㍍、そして400㍍×4のリレーは、注目の的でした。そこで優勝したのがジャマイカのボルトでした。ウサイン・ボルトです。彼の走りはそれを見る多くの人たちを魅了しました。特に、昨年韓国テグで行われた100㍍レースでフライングで失格となり、今年のジャマイカの国内選手権ではチームメイトのヨハン・ブレークに敗れていただけあって、いったいどんなレースになるかと固唾をのんで観ていました。結果、ボルトが北京オリンピックに続いて100、200、400㍍リレーを見事の連覇しました。それは本当にすばらしい走りでした。しかし、彼はこのオリンピックが始まる前にしきりにいいました。「俺は伝説になる」と。今までオリンピックで100、200を連覇した人はいません。ですから、それによって伝説になろうとしたのです。  それを聞いていたIOCのロゲ会長は、オリンピックの歴史におけるボルトの評価はボルトが引退した後に定まるとして次のように述べました。「五輪に4度出場して毎回メダルを取ったカール・ルイス(Carl Lewis)は伝説だ。 ウサイン・ボルトもコンディションとモチベーションを維持できれば五輪に4度出場できるだろう。今はまだ注目を集めているだけで、伝説と呼ぶには値しない」  ボルト本人は五輪で2大会連続の短距離2冠を達成すれば自分を伝説と見なす、と 話していましたが、周りはそう見ていませんでした。自分でそのように思い込んでいただけなのです。彼が伝説になるかどうかはどうでもいいことで、彼は、神から与えられた賜物を最大限発揮し神の栄光をあがめればいいのです。 実は、このウサイン・ボルトはクリスチャンです。ボルトは、メダルを獲得後、神に感謝し、ツイッターで次のようにコメントしています。「私は神が私のためにしてくださったすべてのことを感謝したい。なぜなら、神なしではこれらすべては不可能であったからだ。」

このコメントが全面に出れば良かったのに、どうも「伝説になる」と言ったことが前面に出て、彼はかなり誤解されて報道されてしまいました。いずれにせよ、 どんなに偉大な人でも「彼は人であって神ではない」のです。もし自分が神であるかのように高ぶるなら、神はツロに対してなされたようにそういう人を退けられるのです。

ですから皆さん、神の御前にへりくだりましょう。あなたがどれだけ立派でも、どれだけ知恵があって、どれだけ美しく、どれだけ肉体的に優れたところがあっても、あなたは人なのであって、神ではありません。そのことをわきまえ、神の御前にへりくだらなければなりません。

13章から始まったこのイザヤ書の第二部はイスラエルを取り囲む周辺諸国に対する神のさぱきの宣告でしたが、その最初に出てきたのがバビロンでした。なぜバビロンだったのでしょうか。それは当時バビロンが軍事力によって世界を支配していたからです。そして最後に登場したのがツロでした。それは、ツロが経済力によって世界を制覇していたからです。しかし、それがたとえ軍事力であっても、経済力であっても、神の御前に高ぶる者を、神は卑しめられるのです。バビロンの王ネブカデネザルは、自分の力によってすべての栄光を得たと思った瞬間に獣のようにされました。自分が頂点に立っていると思った瞬間に、すべての者の上におられる神がさばかれるのです。人はみな自分を誇りたくなる傾向がありますが、私たちが誇らなければならないのは神なのであって、自分ではありません。それは私たちは鼻で息をしなければ生きていくことができない朽ちていく存在にすぎないからです。誇るならば神を誇りましょう。そのような人に神は、さらに豊に恵みを与えてくださるのです。

Ⅲ.征服されたツロ(15-18)

最後に15節から18節までをご覧ください。「その日になると、ツロは、ひとりの王の年代の七十年の間忘れられる。七十年が終わって、ツロは遊女の歌のようになる。「立琴を取り、町を巡れ、忘れられた遊女よ。うまくひけ、もっと歌え、思い出してもらうために。」七十年がたつと、主はツロを顧みられるので、彼女は再び遊女の報酬を得、地のすべての王国と地上で淫行を行う。その儲け、遊女の報酬は、主にささげられ、それはたくわえられず、積み立てられない。その儲けは、主の前に住む者たちが、飽きるほど食べ、上等の着物を着るためのものとなるからだ。」

ここではツロが遊女にたとえられています。その日になると、ツロは、ひとりの年代の七十年間忘れられます。この七十年というのは、神のさばきが行われるための期間を表す象徴的な数字だと思われます。ここではアッシリヤがツロを攻撃して破壊される期間のことです。しかし、その七十年が終わると、ツロは再び回復します。主がツロを顧みられるので、彼女は再び遊女の報酬を得、地の全ての王国と地上で淫行を行うようになります。これは、ツロが再び繁栄して国々と商いを再開することを示しています。商いを淫行にたとえてあるのは、商業自体が罪だということでありません。その利益のためには何でもするといった否定的な側面が表現されているからです。遊女には節制がありませんから、信念やイデオロギー、伝統、体面といったことにこだわりがなく、お金がもうかるなら何でもするといった一面があるのです。

しかし、最後はどうなるのでしょうか。18節をご覧ください。ここには、「その儲け、遊女の報酬は、主にささげられ、それはたくわえられず、積み立てられない。その儲けは、主の前に住む者たちが、飽きるほど食べ、上等の着物を着るためのものとなるからだ。」とあります。

どういうことでしょうか。そのようにして儲けた遊女の報酬が、何と主の栄光のために用いられるようになるというのです。エズラ記3章7節をご覧ください。ここには、「彼らは石切り工や木工には金を与え、シドンとツロの人々には食べ物や飲み物や油を与えた。それはペルシヤの王クロスが与えた許可によって、レバノンから海路、ヤフォの杉材を運ぶためであった。」とあります。これはユダヤ人がバビロン捕囚からエルサレムに帰還し、そこで神殿を再建していた時の様子が記されてあるところですが、ここに、ツロとシドンの人たちがいるのです。彼らはこの神殿再建のために、ツロとシドンからやって来て働いていました。つまり、ツロは再び商いによって富を得る町に復興するわけですが、それによって得た報酬や富といったものが、今度は主の栄光のために用いられていくということです。言い換えるなら、それらのものも主の目的のために呑み込まれていくということです。それは、主が征服されたと言っても良いでしょう。それぞれの国が、自分たちは他国を滅ぼして征服していたかのように思い込んでいたでしょうが、実際はそうではありませんでした。実際は、主がそうした国々を呑み込んでいたのです。すべてのことをその主権の下に置かれ、完全に掌握していたのです。主の栄光の中に呑み込まれていくというシナリオになっていたのです。18章7節では、クシュ、エチオピアに対して預言が語られた中で、このような約束がありました。

「そのとき、万軍の主のために、背の高い、はだのなめらかな民、あちこちで畏れられている民、多くの川の流れる国から、万軍の主の名のある所、シオンの山に、贈り物が運ばれて来る。」

また、19章25節には、「わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシ リヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように。」とありました。これはどういうことなのかというと、エチオピアも、アッシリヤも主に仕えるようになるということです。その日になると、この世にあるすべてのものが、主のご支配の下に置かれるようになるのです。自分の欲望、自分の権力のために得た財産や権力、土地といったすべてのものが、最後には神の国の中に呑み込まれていくようになるのです。

これが福音です。福音にはそれほどの力があるのです。今はどこか肩身の狭い思いをしているかのようですが、その日になると、圧倒的な勝利者になるのです。ローマ人への手紙8章37節に、「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」とあります。これらすべての中にあっても、圧倒的な勝利者となります。世の中がどんなに暗くても、敵である悪魔がどんなに攻撃してきても、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべての中にあって圧倒的な勝利者となるのです。それは、「イエス・キリストにあるいのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(ローマ8:1)私たちはこの支配の中にいるのです。この勝利が約束されています。私たちは福音による勝利者、征服者なのです。

このことを信じましょう。罪さえも呑み込んでしまうこの神の恵みの中に入れさせていただいたことを感謝して、その恵みの中を歩む者でありたいと思います。そして、この恵みの中に一人でも多くの人が加えられるように祈りつつ、労していこうではありませんか。それが勝利者である者の姿なのです。

イザヤ書22章15節~25節 「神のしもべとして」

きょうは、イザヤ書22章の後半部分からお話したいと思います。タイトルは「神のしもべとして」です。この22章は「幻の谷に対する宣告」、すなわちエルサレムに対するさばきの宣告が語られているところです。先週のところには、このエルサレムが神にではなく戦争の武器や水源の確保、城壁の補修といったこと、すなわち人間的なものに目をとめていたので、その罪を悔い改めることが勧められていました。

きょうのところにはシェブナとエルヤキムという二人のしもべが登場します。この二人のしもべを通して、幻の谷であったエルサレム、神の民であったイスラエルはいったいどうあるべきなのかが教えられています。すなわち、神のしもべとして、へりくだって、忠実に歩まなければならないということです。

Ⅰ.自分を高くする者は低くされる(15-19)

まず15節から19節までのところをご覧ください。「万軍の神、主は、こう仰せられる。さあ、宮廷をつかさどるあの執事シェブナのところに行け。あなたは自分のために、ここに墓を掘ったが、ここはあなたに何のかかわりがあるのか。ここはあなたのだれにかかわりがあるのか。高い所に自分の墓を掘り、岩に自分の住まいを刻んで。ああ、ますらおよ。主はあなたを遠くに投げやる。主はあなたをわしづかみにし、あなたをまりのように、くるくる丸めて、広い広い地に投げ捨てる。あなたはそこで死ぬ。あなたの誇った車もそこで。主人の家の恥さらしよ。わたしはあなたをその職から追放し、あなたの地位から引き降ろす。」    ここにはシェブナという人物が出てきます。ここには「宮廷をつかさどるあの執事シェブナ」とありますが、36章22節には「書記シェブナ」と書かれてあります。いずれにせよ、彼はユダの王ヒゼキヤの宮廷をつかさどっていました。そのシェブナにどんなことが言われたのでしょうか。16節、「あなたは自分のために、ここに墓を掘ったが、ここはあなたに何のかかわりがあるのか。ここはあなたのだれにかかわりがあるのか。高い所に自分の墓を掘り、岩に自分の住まいを刻んで。」

どういうことでしょうか。彼は自分の栄誉を残そうとしていたということです。人は自分がどれだけ立派であったか、偉大であったかを示すためにこのように豪華な墓を作ったり、記念碑を作ったりするものです。今もエルサレムに行くとアブシャロムなど過去の指導者たちの墓があるそうです。シェブナも自分のために豪華な墓を建てようとしていました。アッシリヤに四方八方を囲まれ、今にも攻め込まれるという危機的状況にあっても、彼はそんな的外れなことをしていたのです。

そんなシェブナに対して、主は何と言われたでしょうか。17節から19節です。 「ああ、ますらおよ。主はあなたを遠くに投げやる。主はあなたをわしづかみにし、あなたをまりのように、くるくる丸めて、広い広い地に投げ捨てる。あなたはそこで死ぬ。あなたの誇った車もそこで。主人の家の恥さらしよ。わたしはあなたをその職から追放し、あなたの地位から引き降ろす。」

「ますらお」とは何でしょうか。「ますらお」とは、強い人とか、勇士という意味です。一般的にはあまり使わないことばです。なぜシェブナのことを「ますらお」と呼んでいるのでしょうか。文語訳ではここを、「見よ、エホバはつよき人のなげうつ如くに汝をなげうち給わん」と訳しています。つまり、シェブナがますらおではないのです。主は、ますらおが遠くに投げるように、彼をわしづかみにして遠くに投げやるということです。柔道みたいですね。柔道の選手は、相手の襟元をギュとわしづみにし、内股や払い腰で遠くに投げ飛ばします。あるいは巴投げで遠くに投げ飛ばします。そのように主は、シェブナを遠くになげやるというのです。

また18節を見ると、「まりのように、くるくる丸めて、広い地に投げ捨てる」とあります。これはわかりやすいですね。ボールのようにくるくる丸めて、広い地で遠くに投げやるのです。そしてそこで死を迎えます。彼の最期は墓ではなく、広びろとした地でした。なぜでしょう。それは、彼が自分を高くしたからです。主イエスは、「だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」(マタイ23:12)と言われましたが、自分を高くする者は低くされるのです。

Ⅱ.忠実な神のしもべ(20-24)

次に20節から23節までを見たいと思います。20節と21節をご覧ください。「その日、わたしは、わたしのしもべ、ヒルキヤの子エルヤキムを召し、あなたの長服を彼に着せ、あなたの飾り帯を彼に締め、あなたの権威を彼の手にゆだねる。彼はエルサレムの住民とユダの家の父となる。」

ここにもう一人の人が出てきます。ヒルキヤの子エルヤキムです。イザヤ書36章3節を見ると、彼は宮内長官であったことがわかります。彼もユダの王ヒゼキヤに仕えていた人でした。21節の「あなた」とはシェブナのことです。シェブナの着ていた長服を彼に着せ、シェブナの飾り帯を彼に締め、彼の権威をエルヤキムにゆだねるというのです。シェブナに与えられていた権威や地位がこのエルヤキムに与えられるというのです。

いったいなぜでしょうか。20節を見ると、ここに「わたしのしもべ」とあります。そうです、彼は神のしもべとして自分に与えられた立場を忠実に貫いたからです。シェブナは自分を高くしたので低くされましたが、エルヤキムは神のしもべとしてその立場を貫いたので逆に高められたのです。エルヤキムは政府の要職にありながらも、高い地位にありながらも、神の御前にへりくだっていたのです。

マルコの福音書10章42節から45節までを開いてみましょう。 「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。 あなたがたの間でひとの先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人たちのための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

これは、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが主イエスのところに来て、神の御国で自分たちを右大臣、左大臣にしてほしいと願い出たことに対して言われたことばです。この世では偉い人たちが人々の上に権威をふるうが、あなたがたの間では、神の御国ではそうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい、と言われたのです。人々の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになるように。これが神の国の原則です。イエス様が来たのも仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、多くの人たちのための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためだったのです。

かつてある教会に、長年事務畑で仕事をされたご婦人の方が退職され、定年後のご奉仕にと事務の奉仕(有給の事務員)をしておられました。都会の教会では、若いスタッフというところでしょうが、その教会は田舎にあったことから若い方もそれほどおらないこともあって、長年一般の企業で事務をされてきたこの方が仕えておられました。用事があって電話をかけるとよくその方が出られるのですが、何とも言えない穏やかさというか、おっとりとした感じの、味のある応対が、こちらの心をなごませてくれました。  ある日のことです。この方が一日の教会の仕事を終えて午後5時過ぎに電車で帰ったのはいいのですが、6時頃にまた電車に乗って教会に引き返して来ました。どうしたんだろうと思ったら、鍵をかけるのを忘れたのではないかと心配になって、戻ってきたというのです。  若い人ならてきばきと仕事をこなす姿も、見ていて気持ちがいいものですが、このように、ひたすら忠実に、一つ一つを主にささげるかのようになされる奉仕も味のあるものです。有給とはいうものの、このような奉仕は献身的な心がなければできないものです。

シェブナは自分の地位や立場を利用して自らに栄光を帰そうとして神に仕えませんでしたが、エルヤキムはそうではありませんでした。彼は神のしもべとして、自分に与えられた役割を忠実に行いました。一つ一つの働きを主に対してするように、心から仕えたのです。だから彼は用いられたのです。大切なのは、神のしもべとしての自覚をもって、与えられたことに対して忠実であることです。

マタイの福音書25章には、主人から五タラント、二タラント、一タラント預けられたしもべが、それをどのように管理したかの話があります。五タラントと二タラントを預かったしもべは、それぞれさらに五タラントと二タラントを儲けましたが、一タラント預けられたしもべは、それを土の中に隠しておきました。五タラントと二タラントを預けたしもべに対して、主人はこう言いました。

「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかなものに忠実だったから、私はあなたにたくさんのものを任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(マタイ25:21,23)

興味深いのは、五タラント預かったしもべも、二タラント預かったしもべも、同じように主人からほめられていることです。主人がうれしいのは、どれだけ働いたかと言うことではなく、どれだけ忠実であったかということです。そして、その忠実さというのは、自分が神のしもべであるという自覚から生まれてくるのです。    ところで、22節をみると、このエルヤキムに与えられた栄光がどれほどすばらしいものであったかがわかります。ここには「わたしはまた、ダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。」 とあります。エルヤキムはダビデの家の鍵が与えられました。ダビデの家の鍵とは、王としての権威のことです。最終的な決定を下す権威が任せられました。彼が開くと閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はありません。それほどの権威が与えらたのです。

ところで、この箇所は黙示録3章7節に引用されているみことばです。主イエスはフィラデルフィヤにある教会に対して書き送った手紙の中で、ご自分のことを、『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。」と言われました。主イエスは御国のかぎを持っておられる方です。主が開かれるとだれも閉じることはなく、主が閉ざされると、だれも開くことができません。主は御国のドアを閉じたり、開いたりする権威をもっておられる方なのです。それがどれほどの権威であるのかというと、その人の永遠を左右するほどの権威です。エルヤキムはそのキリストのひな型、象徴として描かれていたのです。彼にはそれほどの権威がゆだねられていたのです。

そのフィラデルフィアの教会に対して主イエスが言われたことはこうでした。3章8節です。「わたしは、あなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」    彼らにはだれも閉じることのない門が開かれていました。これは天の御国の門のことです。彼らには天国の門が開かれていたのです。なぜでしょうか。それは彼らが少しばかりの力しかありませんでしたが、主のことばを守り、主の名を否まなかったからです。つまり、彼らが主のことばに忠実であったからです。

皆さん、教会の真価は外観や人数ではありません。たとえ少数であっても、たとえ貧弱に見えても、そういうこととは関係なく、そこに真実の信仰があるかどうかなのです。主のことばを守るかどうか、それが信仰生活の基本であり、そしてそれはさらに、キリストの名を告白し、あかしすることによって、具体的に実証されるものなのです。仏教、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教、ヒンズー教、神道、さらにはいろいろな新興宗教が存在していますが、その中でキリスト教を信じているということではないのです。クリスチャンらしくふるまっているということでもありません。そこに主のことばに対する忠実な信仰があるかどうかです。フィラデルフィアの教会には、この主のことばに対する忠実な信仰があったのです。

先週、「地方伝道を考える」というシンポジウムでご奉仕させていただきましたが、そこに新潟県の佐渡で伝道しておられる牧師先生御夫妻が参加しておられました。16年前に佐渡で開拓伝道して以来、人口5~6万人が住んでいますがほんのわずかな人しか集まらず、毎週畳に説教しているような感じだとと言われます。そのような中で伝道することはどんなに大変なことかと思います。そんな中でこのシンポジウムに参加され、ここで主から慰めを与えられ、遣わされたところで忠実に奉仕しておられます。まさに日本のフィラデルフィアの教会ではないかと思わされました。

天国に行けば、何十万人、何百万人の人をこれまでキリストに導いたビリー・グラハムもいれば(まだビリー・グラハム師はご健在ですが)、たった一人の息子であるかもしれませんが、その息子をキリストにあって立派に育てあげた一人の母親も、同じような報いと称賛を主からいたたくのです。大切なのは、私たちが神のしもべとしてどれだけ忠実であったかどうかなのです。

23節をご覧ください。ここには「わたしは、彼を一つの釘として、確かな場所に打ち込む。彼はその父の家にとって栄光の座となる。」とあります。「彼」とはエルヤキムのことですが、同時にイエス・キリストのことも預言されています。というのは、22節のことばはキリストのことも指し示していたからです。そして、キリストを一つの釘として打ち込むというのは十字架のことを指していると言ってもいいでしょう。主は彼を一つの釘として、確かな場所に打ち込まれるのです。この釘とは天幕を安全に固定するための釘のことです。天幕を安全に固定させるためには、堅い基盤に釘を打ち込まなければなりません。それによってダビデの家に持続的な繁栄と成功がもたらされるのです。その釘こそエルヤキムであり、イエス・キリストなのです。イエス・キリストの十字架こそ、神の家の礎であり、確かな基盤なのです。それは御国の栄光となるのです。それこそ私たちの人生の確かな基盤です。

あなたの人生のよりどころは何でしょうか。十字架こそ確かな場所に打ち込まれた釘なのです。あなたの人生がこの十字架の上に築き上げられるなら、それは栄光となり、多くの繁栄と安定をもたらすことになるのです。

Ⅲ.キリストを信じて(25)    ですから第三のことは、キリストを信じましょう、ということです。25節をご覧ください。「その日、―万軍の主の御告げ―確かな場所に打ち込まれた一つの釘は抜き取られ、折られて落ち、その上にかかっていた荷も取りこわされる。主が語られたのだ。」

ここは解釈が難しい箇所です。確かな場所に打ち込まれたはずの一つの釘が抜き取られ、折られて落ち、その上にかかっていた荷も取り壊されるとはどういうことなのでしょうか。多くの注解書は、これはエルヤキムの腐敗のことが描かれていると解釈しています。さすがのエルヤキムも親戚縁者が押しかけ、あまりにも彼に依存するため、彼の政治を駄目にするような腐敗をもたらしたのであろうというのです。しかし、そういうことではありません。

ここに「その日」ということばがあります。「その日」とはイザヤ書におけるキーワードの一つであるということはこれまでも何度もお話してきましたが、それはイザヤの時代のことよりもずっと後のことが語られているわけです。では何を指しているのでしょうか。

ここに記されてある「確かな場所に打ち込まれたはずの釘」とは、ユダヤ人のことです。彼らは確かな場所に打ち込まれたはずの釘なのに、彼らは抜き取られ、折られてしまいました。なぜなら、聖書の中に約束されていたメシヤ、キリスト、救い主を受け入れなかったからです。確かな場所に打たれたはずのキリストを受け入れなかった。それで彼らは抜き取られ、折られてしまったのです。

ヨハネの福音書1章11節、12節をご覧ください。「この方はご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」

キリストはご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れませんでした。確かな場所に打ち込まれた釘を拒絶したのです。それでその救いはどうなってしまったのかというと、彼らから取り去られ、異邦人にもたらされたのです。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には神の子としての特権が与えられたのです。ユダヤ人はイエスを救い主として受け入れなかったので、抜き取られ、折られて落ちました。この方こそ来るべきメシヤであり、私たちが信じて、受け入れるべきお方なのです。そうでないと、彼らと同じように、私たちもまた抜かれ、折られて落ち、その上にかかっていた荷も取り壊されてしまうことになるのです。

あなたはこの方を受け入れていますか。この方を信じて救われていますか。あなたが抜き取られることがないように、どうか目を大きく開いて、この方の救いを受け入れてください。十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたキリストこそ、私とあなたの救い主なのです。信仰の勝利者であるイエスから目を離さないでください。この世は(サタン)は、あなたがキリストから目を背けるようにありとあらゆる手段を使って攻撃してきます。別に神様なんて信じなくても十分じゃないか、毎週教会なんて行かなくても問題なく生きていける、目に見えない神様を信じるよりも、インターネットでこの世の現実を知る方が重要だ・・・と。そうやってこの方を拒絶するようにし向けるのです。しかし、そこには救いはありません。確かな場所に打ち込まれた釘も、抜き取られ、折られて落ち、その上にかかっていた荷も取り壊されるのです。十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたイエス・キリストを受け入れる人、その名を信じた人々には、神の子どもとしての特権が与えられます。それが神のしもべとしての原点なのであります。私たちはキリストのしもべとしてこの方を受け入れ、この方の恵みの中に生きる者でありたいと願わされます。この方を信じて歩む一人一人の上に、 神の栄光と祝福が豊にありますようにお祈りします。

イザヤ書22章1~14節 「必要なのは神」 

きょうは、イザヤ書22章の前半の部分からお話をしたいと思います。タイトルは、「必要なのは神」です。1節を見ると、「幻の谷に対する宣告」とあります。この「幻の谷」とはエルサレムのことです。エルサレムでは預言者たちによって神からの幻や預言が語られました。また、エルサレムは周囲が山々に囲まれた谷のようなところなで「幻の谷」と呼ばれていたわけです。

ところで、これまでの宣告はイスラエル(エルサレム)を取り囲む周辺諸国に対する預言だったのに、ここでは突然エルサレムに対して語られているのはどうしてなのでしょうか。それはエルサレムが、これまでもイザヤが語ってきたように、真の神を信じないで、人間の力に拠り頼んでいたからです。その点では、彼らも異教の国々と何ら変わりはありませんでした。そのような彼らにも同じように主のさばきが下るのです。神の民だからといって安心していてはいけません。そのことを示すために、主はエルサレムにも警告のことばを語っているのです。きょうはこのエルサレムに対する警告の言葉から三つのことを学びたいと思います。

Ⅰ.騒がしい町エルサレム(1-4)    まず1節から4節までをご覧ください。1節と2節の前半です。「これはいったいどうしたことか。おまえたちはみな、屋根に上って。喧噪に満ちた、騒がしい町、おごった都よ。」

エルサレムの家は、屋根はフラットになっていて屋上に上ることができました。そこで人々は夕涼みをしたり、ビアガーデンのようにしてお酒を飲んだり、お祭りをながめたり、人々をもてなしたりしていました。彼らはその屋根に上っていたのです。何のためでしょうか。ここには「喧噪に満ちた、騒がしい町、おごった都よ。」とあります。喧噪とは、うるさいとか、やかましい、騒がしい、落ち着きがない、にぎやかであること、ざわめいているという意味です。彼らは、この世の楽しみに興じてドンチャン騒ぎをしていたのです。しかし、預言者イザヤにとっては、エルサレムの住民が屋根に上ってドンチャン騒ぎをすることはとても不可解なことでした。というのは、当時彼らはそのような状況に置かれてはいなかったからです。彼らの罪のために神のさばきが下り、アッシリヤという国によって滅ぼされる危機にありました。彼らはそうした罪を悲しんで主に対して悔い改めなければならなかったのに、全く逆の態度をとっていたのです。

2節と3節を見てください。「おまえのうちの殺された者たちは、剣で刺し殺されたのでもなく、戦死したのでもない。おまえの首領たちは、こぞって逃げた。彼らは弓を引かないうちに捕らえられ、おまえのうちの見つけられた者も、遠くへ逃げ去る前に、みな捕らえられた。」

これはアッシリヤの脅威に脅かされていた時と、その後のバビロンによってエルサレムが包囲された時のことが描かれています。ユダが滅ぼされた時に戦うことをしなかったというのは、バビロンによって滅ぼされ、捕囚として捕らえ移された時のことです。彼らが死んだのは敵の剣で刺し殺されたからではなく、互いにわすがな食べ物を奪い合って同士討ちしたからです。時の王はそのすきを見て逃げましたが、結局、途中で捕らえられ、バビロンに捕らえ移されました。

いったいなぜこのようなことになってしまったのでしょうか。それは彼らが神のことを考えず、自分のことしか考えていなかったからです。エルサレムは「幻の谷」と呼ばれているように、本来、神からの幻を受け取るところです。なのに彼らはその幻を受け止めて、主の御前にひれ伏すことをせず、世の楽しみに心が引き寄せられていたのです。皆さん、たとえ神の民であっても、この世の人のように生きるなら、そこに神のさはぎが下ることになります。なぜなら、ローマ人への手紙2章11節に「神にはえこひいきなどはないからです」とあるからです。ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、患難と苦悩とは、悪を行うすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、善を行うすべての人の上にあるのです。神の民だからといって、神のさばきから免れることはありません。神の民であっても、この世と同じように生きるのであれば、神のさばきがその上に下ることになるのです。

私たちはどうでしょうか。主の幻を受け取るごとに、それが主からのみこころと受け止めて、へりくだって主の御前に進み出ているでしょうか。それとも自分の生活や満足を優先にしてはいないでしょうか。イスラエルの問題はここにありました。神の民だということに安心して、そこに信仰の実体が伴っていませんでした。屋上に上って安逸をむさぼっていたのです。自分のことばかり考えて、神のことを考えていませんでした。神の恵みによって、主イエスの尊い救いに与った私たちは、何が良いことで神に受け入れられることなのかをわきまえ知り、そのみこころに歩む者でありたいと思います。

4節をご覧ください。ここには「それで私は言う。『私から目をそらしてくれ、私は激しく泣きたいのだ。私の民、この娘の破滅のことで、無理に私を慰めてくれるな。』とあります。これは預言者イザヤのことばです。イザヤは、エルサレムにふりかかる神のさばきを見て激しく泣きました。それは「無理に私を慰めてくれるな」と、慰めを拒絶するほどでした。愛する者に神のさばきが下る。そのことを思うだけで、彼は悲しみで取り乱したのです。あなたは自分の娘の破滅のことで、イザヤのように激しく嘆くということがあるでしょうか。愛する者がさばかれて地獄に堕ちるということに、どれだけ深い悲しみを抱いておられるでしょうか。神の家族である教会のメンバーが、神から離れこの世の人たちのように生きているのを見て、どのように思っておられるでしょうか。イザヤのように、張り裂けんばかりの悲しみと嘆きをもっているでしょうか。彼らが主に立ち返るように祈らなければなりません。

Ⅱ.必要なのは神(5-11)

次に5節から11節までをご覧ください。5節から7節をお読みします。「なぜなら、恐慌と蹂躙と混乱の日は、万軍の神、主から来るからだ。幻の谷では、城壁の崩壊、山への叫び。エラムは矢筒を負い、戦車と兵士と騎兵を引き連れ、キルは盾のおおいを取った。おまえの最も美しい谷は戦車で満ち、騎兵は城門で立ち並んだ。」

大丈夫だ、これからも今までと同じようにのうのうと暮らしていけると思っていたエルサレムの住民にある日突然、危機が迫りました。アッシリヤがやって来てエルサレムを包囲したのです。エルサレムの谷が戦車や兵士、騎兵で満たされ、エルサレムの城門の前に立ち並び、その城壁を崩そうとしていたのです。エラムとかキルというのは、アッシリヤの軍隊としてエルサレムの攻撃に参加していた町のことです。

そのような状態になったとき、イスラエル(エルサレム)はどのように対応したでしょうか。8節をご覧ください。「こうしてユダのおおいは除かれ、その日、おまえは森の宮殿の武器に目を向けた。」そのような状態に陥ったとき、彼らがまず目を向けたのは武器庫でした。このような時こそ主なる神に立ち返れば本当にすばらしいことですが、彼らが目を向けたのはその神ではなく武器だったのです。どのようにして戦ったらいいかという戦略でした。

そればかりではありません。9節をご覧ください。ここには、「おまえたちは、ダビデの町の破れの多いのを見て、下の行けの水を集めた」とあります。これはどういうことかというと、水源を確保したということです。ユダの王ヒゼキヤは、アッシリヤが攻めてきたとき水源を断たれたら終わりだと、当時エルサレムの城壁の外にあったギホンの泉と呼ばれていた泉から城壁の中に水を引くために水路を作りました。これが有名なヒゼキヤの水路と呼ばれているものです。ヒゼキヤはギホンの泉から水をひいて、二重の城壁の間に貯水池を造ったのです。この池が新約聖書ヨハネの福音書9章7節に出てくる「シロアムの池」です。イエス様が生まれつきの盲人の目をいやされたとき、つばきで泥を作り、その泥を盲人の目に塗って、「行って、シロアムの池で洗いなさい。」と言われました。盲人は行って、洗うと、見えるようになりました。あの池です。これはヒゼキヤがアッシリヤの攻撃に備えるために作った池だったのです。

そればかりではありません。10節を見てください。ここには「また、エルサレムの家を数え、その家をこわして城壁を補強し、」とあります。これはどういうことかというと、城壁を補強したということです。

この時のヒゼキヤの果敢な行動には感心します。彼はありとあらゆる防御策を考え、アッシリヤの攻撃に備えました。しかしです。11節後半をご覧ください。ここには、「しかし、おまえたちは、これをなさった方に目もくれず、昔からこれを計画された方を目にも留めなかった。」とあります。

主なる神様は、このヒゼキヤの行動を評価されませんでした。なぜなら、彼は一番肝心な神に目を留めなかったからです。それは、これをなさった方に目もくれず、昔からこれを計画された方を目にも留めなかったということです。「これをなさった方」とは、英語では「Maker」です。造られた方です。エルサレムを造られた方、武器を造られた方、水を造られた方、城壁を造られた方、その根源なる創造主なる神に目もくれませんでした。昔からこれを計画された方を目にも留めませんでした。武器や、水源の確保、城壁の捕集といった目に見えるものに頼ったのです。

しかし、この箇所の背景となっている第二歴代誌32章を見ると、確かにヒゼキヤはアッシリヤの王セナケリブの攻撃に備えて水源を確保したり、くずれていた城壁を建て直したり、大量の投げやり等を作りましたが、同時に主に信頼していたこともわかります。開いてみましょう。第二歴代誌32章7節と8節です。

「強くあれ、雄々しくあれ。アッシリヤの王に、彼とともにいるすべての大軍に、恐れをなしてはならない。おびえてはならない。彼とともにいる者よりも大いなる方が私たちとともにおられるからである。彼とともにいる者は肉の腕であり、私たちとともにおられる方は、私たちの神、主、私たちを助け、私たちの戦いを戦ってくださる方である。」民はユダの王ヒゼキヤのことばによって奮い立った。」(歴代誌Ⅱ32:7-8)

すごいことばじゃないですか。これはアッシリヤの王セナケリブが攻めてきた時に、ヒゼキヤが民の隊長たちに言ったことばです。ここでヒゼキヤは、たとえアッシリヤが攻めて来るようなことがあってもおびえることはない。私たちとともにおられる方は、彼らとともにいる者よりも大いなる方であると宣言しました。これぞ信仰から出たことばです。信仰がなければこのようなことは言えません。なのに神に目を留めなかったとはどういうことなのでしょうか。

このことばを見る限り、確かにヒゼキヤは神に信頼していたように見えます。しかし、神に信頼するとはどういうことなのかがわかっていませんでした。確かに彼は神は偉大な方であり、彼らとともにおられる方は敵とともにいる者よりも大いなる方であると認めていました。その神が戦ってくださると信じていました。しかし、へりくだって祈っていなかったのです。本当に必要なのはあなたです、と心を注いで祈っていませんでした。口では私たちの主は大いなる方であると告白しながらも、目に見える武器や水源の確保、城壁の修復といったことにとらわれていたのです。そんな彼が本当に主に目を向けるようになったのはいつのことですかその後セナケリブがエルサレムの隊長たちに「おまえたちは何に拠り頼んでいるのか。そんな神がおまえたちを救い出してくれるとでも思っているのか。ヒゼキヤのことばにだまされるな。彼を信じてはならない。」と言った時です。 その時ヒゼキヤはどうしたでしょうか。同じ第二歴代誌32章20節にこうあります。

「そこで、ヒゼキヤ王とアモツの子預言者イザヤは、このことのゆえに、祈りをささげ、天に叫び求めた。」

そのような絶体絶命の中で、ヒゼキヤ王は、主の御前に心を注ぎだして祈り、天に叫び求めたのです。それで主はひとりの御使いを遣わし、アッシリヤの陣営にいたすべての勇士、隊長、首長を打って全滅させたのです。つまり、ユダが救われたのは、ヒゼキヤが心を注ぎだして必死で祈ったからです。ただ頭だけで主は大いなる方であると理解していただけでなく、その神に全面的におゆだねしたからなのです。敵の攻撃に備えて武器を用意したり、水源を確保したり、城壁を補修したりするといったことが悪いのではありません。そのように自分たちにできることをすることは大切なことです。しかし、それがすべてではありません。そうしたことをしっかりとした上で、なおかつ、主にすべてをゆだねなければならないのです。「主よ。私にはあなたが必要です。あなたこそ私の助けです。私の岩、私の盾、私の避けどころ、私の救いです」と告白し、へりくだって祈ることが必要なのです。

あなたの生活の中に問題が起こるとき、あなたはそれをどのように解決していますか。自分にできるだけの解決策を考えてそれを実行しますか。しかし、それでもあなたの中に不安が拭えないのはなぜでしょうか。あなたがまだ恐怖にかられているのはなぜでしょうか。それは、あなたが神の前にひれ伏して祈っていないからです。必死になって「神様、助けてください。あなたが救いです。あなただけが助けです」と祈っていないからです。いざという時には貯金を下ろせばいいやとか、あれをすればいい、これをすればいいと思っているからなのです。しかし、本当に必要なことは「あなただけが救いです」と祈ることなのです。問題の解決を求めて必死で取り組むこと自体は悪くありません。しかし、最終的に私たちは主の前にひざまずいて、へりくだって、主に祈り求めなければならないのです。

Ⅲ.神の呼びかけ(12-14)

ではどうしたらいいのでしょうか。ですから第三のことは、悔い改めて、神を求めましょう、ということです。12節から14節までをご覧ください。

「その日、万軍の神、主は、「泣け。悲しめ。頭を丸めて、荒布をまとえ」と呼びかけられたのに、なんと、おまえたちは楽しみ喜び、牛を殺し、羊をほふり、肉を食らい、ぶどう酒を飲み、「飲めよ。食らえよ。どうせ、あすは死ぬのだから」と言っている。そこで万軍の主は、私の耳を開かれた。「この罪は、おまえたちが死ぬまでは決して赦されない」と、万軍の神、主は仰せられた。」

「泣け。悲しめ。頭を丸めて、荒布をまとえ」とは、悔い改めるようにとの促しです。主はイスラエルに、断食をして、悔い改めるようにと言われたのに、彼らの取った態度は全く逆のものでした。どうせ明日は死ぬんだから、好きなものをたらふく食べよう、やりたいことは何でもしようと、最後まで快楽を求めたのです。

これが神を信じない人たちの姿です。神を信じない人たちにとってはこの世がすべてです。この世に生きている間に楽しめるものを楽しまなければならないと思うのです。

Ⅰコリント15章32節を開いてください。ここには「もし、死者の復活がないのなら、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」ということになるのです。」とあります。死者の復活を否定する偽りの教えがコリントの教会に入り込んでいましたが、そんな彼らに対してパウロは、もし死者の復活がないとしたら、それはただこの地上の快楽を求めるだけの生き方になってしまうと警告しているのです。復活の希望、永遠のいのちは、単なる教理ではありません。私たちの日々の生活を決定付ける重要な教えなのです。

パウロは、「毎日が死の連続でした」と告白しています。伝道者としての彼の生涯は、まさに迫害と困難の連続でした。毎日、毎日、死ぬような経験を通りました。いったいなぜ彼はそのような道を通ることに甘んじたのでしょうか。それは、キリストのために死ぬ者は、キリストにあるいのちによみがえらされる。キリストのために死ぬ者は、天国に行ってから大いなる報いを受けるという希望があったからです。そういう希望があったからこそ、彼はこの戦いに耐えることができたのです。でもこの希望がなかったら、この希望を信じていなかったらどうでしょう。この地上のことがすべてになります。死んだら終わりだ。何も無くなってしまう。ただ灰になるだけだ。だったらせめて生きている間だけでも好きなことをして楽しもうということになるのです。

そこで主は何と言われたでしょうか。14節です。「そこで万軍の主は、私の耳を開かれた。「この罪は、おまえたちが死ぬまでは決して赦されない」と、万軍の神、主は仰せられた。」

どういうことでしょうか。「私の耳を開かれた」と言う言い方は、とてもユニークです。直訳すると「私の耳においてご自身を明らかにされた」となります。これは、預言者に対して神が特に強く語られてことを表わしています。その内容はどんなことでしょうか。「この罪は、おまえたちが死ぬまでは決して赦されない」というものでした。この罪は、神の警告を無視し、この世の快楽を求めて走り回っていることです。神の栄光を現すために造られた者が、その神を敬うことをせず、自分の欲望のままに生きることです。この罪は、死ぬまで赦されません。ということは、死んだら赦されるのかというとそうではありません。死んでからはその機会は全くないのです。その死ぬまでの間にも、悔い改めの機会が残っていないということです。それほど重大な罪を犯していることになるということなのです。いったんお酒におぼれると、そこから立ち直ろうとしても、身体が思うように効かなくなるのと同じです。

その結果どうなってしまうのでしょうか。死ぬまでそのままの状態にされます。それがバビロン捕囚でした。自分は神の民だから大丈夫だ、自分はクリスチャンだから大丈夫だと思っていても、神のみこころから離れ、自分勝手に生きる手射るようなことがありますと、私たちも同じようにされます。

ですから、悔い改めて、神に立ち返りましょう。そうすれば神は赦してくださいます。「泣け。悲しめ。頭を丸くして、荒布をまとえ。」神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神は、それをさげすまれません。必要なのはただあなただけです。あなただけが救いですと、神の前にへりくだって生きること、それが私たちに求められていることなのです。

イザヤ書21章1~17節 「朝が来ない夜はない」

きょうは、イザヤは書21章からお話したいと思います。タイトルは「朝が来ない夜はない」です。イザヤは13章からイスラエルを取り囲む周辺諸国に対して神のさばきの宣告を語っています。これまでバビロン、アッシリヤ、ペリシテ、モアブ、ダマスコ、クシュ、エジプトに対して語られてきました。きょうのところには、再びバビロンに対して、そしてドマ、またアラビヤに対して語られています。きょうは、こうした国々に対する宣告のことばから、この時代を生きる希望と力について三つのことをお話したいと思います。

Ⅰ.神にはえこひいきなどない(1-10)

まず1節から10節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。「海の荒野に対する宣告。ネゲブに吹きまくるつむじ風のように、それは、荒野から、恐ろしい地からやって来る。きびしい幻が、私に示された。裏切る者は裏切り、荒らす者は荒らす。エラムよ、上れ。メディヤよ、囲め。すべての嘆きを、私は終わらせる。」

「海の荒野」とはバビロンのことです。バビロンは沙漠でありながらチグリス・ユーフラテス川という海のような大河が流れていたので、海の荒野と呼ばれていました。そのバビロンに対する宣告です。バビロンに対してはすでに13章と14章で語られましたが、ここで再び語られています。

いったいどんなことが言われているのでしょうか。それはきびしい幻です。2節に、裏切る者が裏切り、荒らす者が荒らすようになるとあります。「エラム」とはペルシャのことです。そのペルシャがメディヤとともにバビロンを攻めるというのです。これはイザヤが預言した時から二百年後に実現しました。44章と45章には、ペルシャのクロス王によって滅ぼされると実名をあげて預言されていますが、その通りになったのです。イザヤがこれを預言した当時は、メディヤとペルシャはまだ小国でした。その当時隆盛を極めていたのはアッシリヤでした。それからバビロンが台頭してくるわけですが、そのバビロンがその後のメディヤとペルシャの連合軍によって滅ぼされてしまうのです。ここで語られたとおりになります。聖書の預言のすばらしさはここにあります。主によって語られたことは必ず成就するのです。

3節から5節までをご覧ください。ここには、そのバビロンが滅びる様子が描かれています。5節、「彼らは食卓を整え、座席を並べて、飲み食いしている。『立ち上がれ、首長たち。盾に油を塗れ。』」「彼ら」とはバビロンの王ネブカデネザルの孫にあたるベルシャツァルのことです。彼らは宮殿で大宴会を催していました。そこに突然、メディヤとペルシャの連合軍が攻め入りました。詳しいことはダニエル書5章に記されてありますので後でご覧ください。ベルシャツアルは、祖父のネブカデネザルがエルサレムから持ってきた金や銀の器を使って酒を飲み、木や石で造られた神々をあがめていました。そこに突然人の手が現れたかと思うと、何やら壁に文字を書きました。がくがくと震えたベルシャツァルは、「いったいこれはどういうことか」とダニエルを呼んでそれを解読させます。それは、あなたの悪は積み上げられた、あなたの治世は終わった、この国は二つに分割するというメッセージでした。そして、その夜、メディヤとペルシャがやってきてこれを滅ぼすのです。

難攻不落と言われていたバビロンが、あっという間に滅びてしまいました。高さ90㍍、幅24㍍、長さ数十㎞にも及ぶ石の壁に囲まれていたバビロンは、誰もこの石垣を破壊することはできないと油断していましたが、メディアとペルシャはその城壁を破壊して攻めてきたのではなく、何と水路を使って城壁に侵入してきたのです。そのようにして攻めてくるなど夢にも思ってもいなかったバビロンは、一夜にして滅びました。ダニエル書にある預言のとおり、ベルシャツアルの治世は終わったのです。

それにしても、そのバビロンの様子を語るに当たり、イザヤはこう言っています。3節、「それゆえ、私の腰は苦痛で満ちた。女の産みの苦しみのような苦しみが私を捕らえた。私は、心乱れて聞くにたえない。」  それがあまりにも残酷だったので、イザヤの腰は苦痛で満ち、その心は震えました。聞くに堪えないほど、見るにたえないほど、イザヤは心を痛めたのです。神の警告に一向に耳を傾けず、滅ぼされていくバビロンの姿に、心を痛めているのです。

私たちはどうでしょうか。救い主イエス・キリストを信じなければ永遠に滅びていくたましいを見て心痛んでいるでしょうか。自分はイエス様を信じて救われるから大丈夫だ。でも家族や友人はどうでしょうか。そのままでは滅びてしまいます。地獄に落とされてしまうのです。イエス・キリスト以外に救われる御名はないからです。このイエスを信じないで地獄に行くようなことがあるとしたら、それこそ悲しいことです。心が痛みます。まさに見るにたえない、聞くにたえなくなるのです。そういうことがないように、私たちはこの救いのことばを伝え、一人でも多くの人がイエス・キリストを救い主として信じるように祈らなければなりません。そういう人たちを見て何とも思わないとしたら、私たちはあわれみのない人間でしかありません。神様と同じ心で感じる者でありたいと思います。

6節から9節までは、そのバビロンにメディヤとペルシャが侵入する時の様子が記されてあります。「主に私はこう仰せられた。「さあ、見張りを立たせ、見たことを告げさせよ。戦車や、二列に並んだ騎兵、ろばに乗った者や、らくだに乗った者を見たなら、よくよく注意を払わせよ。すると獅子が叫んだ。「主よ。私は昼間はずっと物見の塔の上に立ち、夜はいつも私の見張り所についています。ああ、今、戦車や兵士、二列に並んだ騎兵がやって来ます。彼らは互いに言っています。『倒れた。バビロンは倒れた。その神々のすべての刻んだ像も地に打ち砕かれた』と。」

メディヤとペルシャの連合軍は、戦車や騎兵だけでなく、ろばとらくだを使いました。それを見張っていた見張り人は叫びます。9節の「獅子」とは見張り人のことです。見張り人は、メディヤ、ペルシャの連合軍がやって来てバビロンを討ち滅ぼしたとき、興奮してこう叫びました。「倒れた。バビロンは倒れた。」バビロンが倒れたことを二回叫んでいます。それほど興奮していたのです。絶対に滅びることがないと思われていたバビロンが滅びたことに対する驚きが、ここに表されています。決して滅びないと言われたバビロンは、このようにして滅びました。これはイザヤの時代から二百年後に起こったことですが、同時に、この世の終わりに起こる出来事をも預言しています。すなわち、黙示録18章2節にある大バビロンは滅びるということです。この大バビロンというのは、神に敵対する勢力、悪のシステムのことです。この世の終わりには、必ず悪はさばかれるのです。

ところで、10節に注目してください。ここには「踏みにじられた私の民、打ち場の私の子らよ。私はイスラエルの神、万軍の主から聞いた事を、あなたがたに告げたのだ。」とあります。「踏みにじられた私の民」とはイスラエルのことです。「打ち場の私の子らよ」というのもイスラエルのことを指しています。イザヤはイスラエルの周辺諸国にこれから起こることをあらかじめ預言している中で、それはそうした周辺諸国だけのことではない、それはイスラエルも聞かなければならないことだと言っているのです。人ごとだと思ってはなりません。対岸の火事だと思ってはならないのです。自分たちは神に選ばれた聖なる国民だから大丈夫だ、関係ないと思ってはなりません。むしろあなたがたは周辺諸国と何ら変わらないのだから、注意してこのメッセージを聞き、これを厳粛に受け止めなければならないというのです。

これは新約聖書で言われていることでもあります。ローマ人への手紙2章5節から11節を開いてください。ここには、「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行うすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行うすべての者の上にあります。神にはえこひいきなどはないからです。」

神にはえこひいきなどはありません。神の民だから、イスラエルだから、聖なる国民だから何をしてもいいということではないのです。たとえ神の民であっても真理に従わないで不義に従うようなことがあると、その人の上に神の怒りと憤りが下さるのです。神にはえこひいきなどないからです。艱難と苦難とは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、悪を行うすべての人の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、善を行うすべての人の上にあるのです。たとえイスラエルの民であっても、たとえクリスチャンであっても、罪を犯し、いつまでもかたくなになって悔い改めないなら、バビロンのようにさばかれてしまいます。だからイザヤは、ここで「あなたがたに告げたのだ」と言っているのです。人ごとだと思ってはなりません。あなたがたも彼らと同じようになれば、同じような目に遭うのです。

イザヤは言いました。「踏みにじられた私の民、打ち場の私の子らよ。私はイスラエルの神、万軍の主から聞いた事を、あなたがたに告げたのだ。」私も皆さんに告げています。あなたは救われていますか。永遠のいのちを確かにいただいていますか。間違いなく100%天国に行くと確信を持っていますか。それがないなら、ぜひ、恥ずかしがらずに、今、決心してほしいと思います。イエスを主と信じ、口で告白するなら、あなたは救われます。永遠の運命がそれで決まります。イエス・キリストをどう見るかによって、あなたの人生は決定づけられます。イエスを主と告白する人は天国の国民になります。そうでない人はさばかれます。地獄に行ってしまうのです。私は天国にも地獄にも行きたくない、私は中国に行きたいという人がいますか。そういうのはありません。天国か地獄のどちらかを選択しなければならないのです。

Ⅱ.朝が来ない夜はない(11-12)

第二のことは、朝が来ない夜はないということです。11節を12節をご覧ください。「ドマに対する宣告。セイルから、私に叫ぶ者がある。「夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りよ。今は夜の何時か。」夜回りは言った。「朝が来、また夜も来る。尋ねたければ尋ねよ。もう一度、来るがよい。」

これはドマに対する宣告です。ドマとは「エドム」のことです。エドムというのは、ヤコブとエサウの双子の兄弟のおにいちゃんのエサウが先祖になりました。エサウの子孫がエドム人、ヤコブの子孫がイスラエル人です。このドマというのはエドムの別名です。巻末の地図を見ていただくとわかりますが、モアブの南に位置しています。このドマに対する宣告です。

「夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りよ。今は夜の何時か。」「夜回り」とは、見張り人のことです。日本語で夜回りといったら「夜警」のことです。夜の警備をしている人たちです。何年か前に、夜回り先生という本が流行りました。元高校教師の水谷修という人のことです。非行問題に取り組み、夜の繁華街で生徒を指導していたことから「夜回り先生」と呼ばれるようになりました。ここでは、イザヤが夜回りと呼ばれています。「夜回りよ。今は夜の何時か・・・」と。

今は夜の9時です、ということではありません。夜はあとどれくらいあるかのかということです。アッシリヤの侵攻が夜にたとえられているわけです。あの大帝国に完全に呑み込まれてしまう。もうお先真っ暗だ。私たちは征服されてしまうんだ。もう先がない。夜が来る。いつになったら夜が明けるんだ、ということを聞いているのです。

それに対してイザヤは何と答えているでしょうか。12節です。「夜回りは言った。「朝が来、また夜も来る。尋ねたければ尋ねよ。もう一度、来るがよい。」

何を言っているのかピンときません。「朝が来、また夜も来る。尋ねたければ尋ねよ。もう一度、来るがよい。」「朝が来」というのは、朝は必ず来るということです。これは希望です。朝が来ない夜はありません。必ずやって来ます。アッシリヤに滅ぼされてしまうかもしれないが、それでも必ず朝はやって来ます。捕囚の民となっている者は必ず解放される、それが朝です。でもまた夜が来てしまいます。朝が来るということは、夜も来るということなのです。それがこの地上で起こることです。アッシリヤは確かにエドムを攻めてエドムを吸収していきますが、それだけでは終わりません。アッシリヤの支配が終わると、今度はバビロンに支配されることになります。朝が来てもまた夜がやって来るのです。それがこの夜回りの宣告です。尋ねたければ尋ねよ。これから世界情勢がどうなっていくのか。神のことばがそれを告げてくれます。もう一度、来るがよい。これがエドムに対する預言でした。

これは世の終わりにおいても必ず起こることです。世の終わりにも夜がやって来ます。神のさばきがかつてなかったほどのスケールでやってきます。未曾有の災害が、天変地異がやって来ます。もうやって来ているのかもしれません。しかし、もっと大きなスケールでやってきます。それが世の終わりの最後の患難時代に起こります。そのような時代がこれからやって来るのです。夜がやって来る。

私たちの時代は、間違いなく夜に向かっています。完全に真っ暗闇になる日が近いのです。世の中はどんどんどんどん暗くなって行きます。毎日ニュースを観ていても暗いニュースばかりです。明るいニュースはほとんどありません。毎日のように凄惨な事件が起きています。先日もコロラド州デンバーの映画館で銃の乱射事件がありました。何人も死んで、何人も怪我をしました。そういうことが日常茶飯事に起きています。一昔前には考えられないような凶悪事件が後を絶ちません。もうそんなニュースを観ても。聞いても何とも思わなくなってしまいました。もう慣れてしまいました。それほど日常的になっています。あ、またか、また起こったんだ・・。それほどに世の中は病んでいます。どんどん暗くなって来ているのです。しかし、それはイエス・キリストに言わせれば、それらは世の終わりの前兆です。マタイの福音書24章には、世の終わりには、「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷えていく」(12節)とあります。冷たくなるのです。まさに今はそのような時代ではないでしょうか。親が子供を平気で殺します。子供も親を平気で殺します。そういう時代です。

第二テモテ3章1節から5節までを開いてください。ここにも世の終わりにはどういう状態になるかが記されてあります。「 終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」    これが世の終わりです。世の終わりは困難な時代です。その時人々は自分を愛する者、自分さえよけむればいい。自己愛ですね。自分勝手になります。自己顕示欲が強くなります。だれも注目してくれない、だから通り魔殺人のようなことが起こるのです。人々の注目を浴びるためにだれでも良かった。殺したかった、目立ちたかった、マスコミに取り上げられたかったといった、そんな理由で人が殺されているのです。自分を愛しているのです。金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神を汚す者、両親に従わない、感謝することを知らない。神よりも快楽を愛する者、そういった者たちがはびこるというのです。思春期だからしょうがないとか、最近の若者はなっていないなど、私たちはいろいろな理由を探りますが、本当の理由は違うのです。愛がないのです。愛が冷えているのです。世の終わりが近づいているからです。

聖書ではっきりと言われていることは、この世はよくならないということです。こんなに文明が発達し生活が便利になったんだから、世の中はもっと明るくなるはずだ。違います。世の中はもっと暗くなっています。もっと困難な時代がやって来るのです。世の終わりが近づいているのです。古き良き時代はやって来ません。どんなに人間が努力しても、社会はもっと悪くなっていく一方です。私も保護司をやっていて、毎年この時期になると街頭に出て「社会を明るくする運動」をします。テッシュとかを配って啓蒙活動をします。中学生との対話を通して、中学生が希望を持てるように励まします。でも社会は明るくなりません。ますます暗くなっているのです。

じゃ、どうせこの世は終わるんだからと自暴自棄になったり、隠遁生活をしたらいいのでしょうか。いいえ、社会がどんなに暗いからといって私たちは決してあきらめたり、否定的にはなったりはしないのです。むしろ私たちはクリスチャンとして朝が来ることを期待するのです。夜が来るのは避けられませんが、朝が来ることを期待して待ち望むのです。

その朝とは何でしょうか。主イエスのご再臨です。主イエスが私たちを迎えに来て来てくださいます。花嫁である教会を迎えに来るために再び戻って来られるのです。そのとき私たちは主イエスと同じ復活のからだ、朽ちないからだ、栄光のからだによみがえり、雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会います。そして、いつまでも主とともにいるようになるのです。それは私たちの救いが完成するときであり、最高の喜びの時なのです。これこそクリスチャンにとっての朝です。希望の朝です。なにそんな夢みたいなことを信じてるのと、ノンクリスチャンにとっては信じられない話かもしれません。荒唐無稽でしょう。そんなことが起こるはずはないと思うかもしれません。しかし、聖書にはそうなるとちゃんとそのように書いてあるのです。

「神は、私たちが御怒りに会うように長ダメになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」(Ⅰテサロニケ5:9)

キリストは明けの明星と呼ばれていますが、暗闇を突き破る一番星です。朝なのです。ですから、キリストを信じる者にとってこの世の終わりは「お先真っ暗」といった絶望的なことではなく、むしろもうすぐ朝がくるという期待に胸をふくらませ、希望に輝く時なのです。この世がどんなに暗くても、必ず朝がやって来ます。朝が来ない夜はありません。

ですから、今の時代をどうみるのかです。一千兆円もの借金を抱えて、この国はいったいどうなるのかという不安があるでしょう。自分には何の借金もありませんと言っても、ひとり何百万という借金を、赤ちゃんも含めてこの国の国民みんな課せられているのです。いつかこの国は破綻するかもしれません。年金も当てにならないかもしれません。若者たちには未来がありません。円高も進んでいます。これから先、何の希望も持てない、世の中は暗くなる一方です。でもクリスチャンには希望があります。絶望的にならなくても、何もかもあきらめて自殺なんてしなくてもいいのです。私たちには生きる希望があるのです。しかも永遠に生きる希望が与えられているのです。イエス・キリストを信じれば希望があります。そしてクリスチャンにもたらされる朝は夜にならないものです。黙示録を読んでいただきますと、天国には夜がないということがわかります。小羊なるイエス・キリストが光となって照らしておられるからです。

このような希望が私たちには与えられています。いつか必ずそのようになります。しかもそれは近い未来です。主イエスは、今晩にも戻って来られるかもしれません。あなたにはその準備ができているでしょうか。主イエスがいつ来られてもいいように、私たちは目を覚まして備えておくべきです。光の子ども、昼の子どもとして、信仰と愛を胸当てとして着け、救いをかぶととしてかぶって、慎み深くしながら、この朝を待ち望むべきです。(Ⅰテサロニケ5:8)

聖書に戻ってください。セイルから夜回りに告げる声がありました。「夜回りよ。今は夜の何時なのか」もうかなり夜が更けて、朝が近づいています。クリスチャンは、夜回りとして、このことを人々に伝えなければなりません。今晩、街に行ってみてください。うろうろしているのは若者たちだけではありません。路頭に迷っている人たち、何のために生きているのかわからない人たち、ただ死を迎えようとしている人たちがたくさんいます。最近は学校のいじめの問題が大きく報じられています。彼らには夜回りのメッセージが必要です。人生はまだまだ長い。自分だけは死なないと思っている人たちに、あなたは夜回りとしてこの希望のメッセージを伝えていく必要があります。いつか人は死にます。思ったより人生は短いということを伝えていく必要があるのです。

Ⅲ.主に身を避けて(13-17)

最後に、アラビヤに対する宣告を見て終わりたいと思います。13節から17節までをご覧ください。「アラビヤに対する宣告。デダン人の隊商よ。アラビヤの林に宿れ。テマの地の住民よ。渇いている者に会って、水をやれ。のがれて来た者にパンを与えてやれ。彼らは、剣や、抜き身の剣から、張られた弓や激しい戦いから、のがれて来たのだから。まことに主は私に、こう仰せられる。「雇い人の年季のように、もう一年のうちに、ケダルのすべての栄光は尽き果て、ケダル人の勇士たちで、残った射手たちの数は少なくなる。」イスラエルの神、主が告げられたのだ。」

アラビヤとは、今のサウジアラビヤのことです。その意味は「沙漠」です。その沙漠にアッシリヤが攻めてきます。そこでデダンの商人に、アラビヤの林に宿れ、と語られています。ところが、同じアラビヤの町テマには、そのようにして逃れてくるデダンの商人たちに会って、水やパンを与えるようにと言われているのです。いったいこれはどういうことなのでしょうか。

デダンの商人たちが守られるべき理由は、彼らが戦渦を逃れる避難民であるということです。かつてモアブに対して語られたメッセージの中でも、「荒らす者からのがれて来る者の隠れ家となれ」(16:4)とありました。のがれて来る者の隠れ家となり、避難所となって彼らを助けてあげることは、神のみこころなのです。

それにしても、このデダンとテマは、直線距離にして約130㎞です。デダンから南東に130㎞離れたところにテマがありました。わずか130㎞しか離れていないこの二つの町が、一方は避難民で、もう一方はそうした避難民をかくまう隠れ家であるとはどういうことなのでしょうか。この二つの町を調べてみると、同じ沙漠の中にある町でも、テマはオアシスの町で、豊かな地下水が流れていました。その地下水からの噴水は有名です。なぜテマが援助として述べられているのかというと、それはこの「水」に関係があったのです。同じ沙漠の中にある町でも、このテマには渇いた者の渇きを癒すための十分な水があったのです。

皆さん、キリストは「わたしは生ける水」だと言われました。キリストが与える水を飲む者は渇くことがありません。キリストが与える水は、その人の中で泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。キリストこそ真の隠れ家なのです。この方に身を避けるなら、この方が私たちに必要な水とパンを与えてくださいます。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:38)

あなたはだれのもとにのがれていますか。キリストのもとに来なさい。そうすれば、あなたも決して渇くことはありません。世の中がどんなに真っ暗であっても、必ず朝が来るのです。このキリストのもとに来てください。それがこの時代を生きる希望であり、力なのです。

イザヤ書20章1~6節 「裸の預言者」

私たちはキリストのようになりたいと思います。それがクリスチャンの究極的な目標です。しかし、キリストのように裸にされて、ののしられて、つばきをかけられて、殴られて、むち打たれて、あげくのてに十字架にはりつけにされる。 きょうはイザヤ書20章からお話します。タイトルは「裸の預言者」です。裸の王様という童話はありますが、裸の預言者というのは聞いたことがありません。しかし、この20章には裸の預言者が登場します。イザヤは神から「行って、あなたの腰の荒布を解き、あなたの足のはきものを脱げ。」と命じられると、彼は三年間、裸になり、はだしで歩きました。いったいなぜ彼はそんな姿になったのでしょうか。きょうはこの裸になった預言者イザヤの姿から、ご一緒に学びたいと思います。

Ⅰ.腰の荒布を解き、足のはきものを脱げ(1-4)

まず第一に、1節から4節までをご覧ください。「アッシリヤの王サルゴンによって派遣されたタルタンがアシュドデに来て、アシュドデを攻め、これを取った年―そのとき、主はアモツの子イザヤによって、語られた。こうである。「行って、あなたの腰の荒布を解き、あなたの足のはきものを脱げ。」それで、彼はそのようにし、裸になり、はだしで歩いた。そのとき、主は仰せられた。「わたしのしもべイザヤが、三年間、エジプトとクシュに対するしるしとして、また前兆として、裸になり、はだしで歩いたように、アッシリヤの王は、エジプトのとりことクシュの捕囚の民を、若い者も年寄りも裸にし、はだしにし、尻をまくり、エジプトの隠しどころをむき出しにして連れて行く。」

イザヤは、18章でクシュに対して預言し、19章ではエジプトに対して預言しました。クシュに対してもエジプトに対しても、もし彼らが悔い改めて神に立ち返るなら、神は彼らを赦し、彼らを救ってくださると語りました。特に、19章の最後のところでは、神はエジプトに対して「わたしの民エジプト」と呼ばれました。異教の民であるエジプトでも、神の救いから漏れることはないのです。しかし、そのクシュとエジプトは悔い改めませんでした。そこで神はこの20章において、この二つの国に対するさばきを宣告されます。しかし、その宣告の方法は極めて珍しいものでした。

1節の「アシュドテ」というのはペリシテにあった町です。アッシリヤの王サルゴンがこのアシュドテを取った年、これは前711年のことですが、そのとき、主はイザヤに不思議なことを言われました。「行って、あなたの腰の荒布を解き、あなたの足のはきものを脱げ」

どういうことでしょうか。荒布とは、イザヤがふだん来ていた衣服のことでしょう。それはある時には嘆きの荒布を表し、またある時には、預言者たちの質素な生活を表していました。その荒布を解き、足のはきものを脱げというのです。つまり、裸になれというわけです。いったいなぜ神はイザヤにこんなことを命じたのでしょうか。それは、このようなことによって神からのメッセージを人々に強く印象づけるためでした。これは預言者の「象徴的行動」と呼ばれるものです。預言者はしばしば、自分たちの語ったことばを人々に強く印象づけるために、このように目に見える形で表現したのです。

預言者エゼキエルは左脇を下にして390日間横になりました。それが終わると今度は右脇を下にして40日間です。(エゼキエル4章)なぜこんなことをしたのでしょうか。それはイスラエルの罪を示すためです。1年を一日として、390日間、また、40日間、イスラエルはずっと神に背き罪を犯し続けていることを示そうとしたのです。    また、エレミヤも亜麻布の帯を買い、それをユーフラテス川のほとりに行って隠しました。そして、しばらくすると、今度はその隠した帯を取り出したのです。その帯は腐っていました。いったいなぜこんなことをしたのでしょうか。その帯のように、イスラエルは腐ってしまうことを表すためです。(エレミヤ13章)  このように預言者はしばしば、神からのメッセージを、より強く人々に訴えるために、それが目に見える形で表したのです。

最近、巡回伝道者のアーサー・ホーランド先生が重い十字架をかついで日本を縦断しているという話を聞きました。以前にも同じ事をして話題になったことがありますが、同じです。人々がそれを見るとき、「これはいったい何ですか」と尋ねるでしょう。これは、実はイエス様がゴルゴタの丘に向かって歩いていた時の、その姿の再現なんです。この国の人々がイエス様を信じるようにと祈りながらこうしてるんです・・・。と証しているのです。それは言葉以上にインパクトがあります。十字架こそ神の愛のしるしであり、あなたの救いであるというメッセージを、伝えているわけです。まあ、どれだけの人がそれを理解しているかはわかりませんが・・・。

ここでは脇を下にして横たわるのでもなく、帯を腐らせるのでもなく、あるいは、十字架をかついて歩くのでもありません。腰の荒布を解き、足のはきものを脱げというのです。裸になって歩き回るのです。裸とはいっても真っ裸ではなく、部分的に下着を身につけていたでしょう。それにしても奇異な行動です。いったいこれはどういうことだったのでしょうか。3節と4節をご覧ください。ここには「そのとき、主は仰せられた。「わたしのしもべイザヤが、三年間、エジプトとクシュに対するしるしとして、また前兆として、裸になり、はだしで歩いたように、アッシリヤの王は、エジプトのとりことクシュの捕囚の民を、若い者も年寄りも裸にし、はだしにし、尻をまくり、エジプトの隠しどころをむき出しにして連れて行く。」とあります。

これはクシュとエジプトのことが預言されていたのです。すなわち、クシュとエジプトはアッシリヤとの戦いに敗れ、裸にされ、はだしで、連れて行かれるということです。イザヤが裸になり、はだして歩いていたように。その屈辱的な姿が表されていたのです。

それにしても、3年間も裸で歩き回るのは普通ではありません。一般的には考えられないことでしょう。しかし、時として神様は、ご自身のみことばを伝えるために、このような手段を用いることがあるのです。私たちは、できれば見栄えのいい方法でみことばを伝えたいと願うものですが、時にはこのように常識を越えたことを示されるがあります。そのような時に私たちは、一見それが恥ずかしいことのようでも、それに従う勇気と従順な信仰が求められるということを覚えておきたいと思います。

Ⅱ.裸の預言者(2)

それに対してイザヤはどのように応えたでしょうか。次にイザヤの応答について見ていきたいと思います。2節の後半をご覧ください。「それで、彼はそのようにし、裸になり、はだしで歩いた」

いくら神様の命令とはいえ、また、いくら神に仕える預言者とはいえ、公衆の面前で三年間も裸で歩き回るなんて考えられません。狂気の沙汰としか思えないでしょう。特にイザヤは貴族の出身で人々から尊敬と信頼も受けていましたから、裸になって歩き回ることには、かなりの抵抗があったと思います。なのに彼は神の命令に従いました。裸になり、はだしで歩いたのです。3年間も。なぜ彼はそのようにしたのでしょうか。それは、神様に従うということは神様が言われることを額面通りに受け入れ、そのとおりにすることだということをよく理解していたからです。たとえそれが恥ずかしいことでも、人から見たら気が狂っているんじゃないかと思われることでも、主が語られたことであるならばそれに従うという信仰があったのです。

皆さん、私たちの中には、イザヤのようになりたいという思いがあります。イザヤのように神のみことばをまっすぐに解き明かし、神に用いられる器になりたいという思いがあります。しかし、その一方でこのようなイザヤの姿をみると、やっぱりやめておこうという思いにもなります。そんな恥ずかしいことはしたくない。気が狂っているんじゃないかと思われます。馬鹿にされます。そんなの嫌です!そういう思いになります。しかしあなたがイザヤのようになりたいのなら、イザヤのように神に用いられる器になりたいと思うなら、神が言われることに従わなければなりません。神が言われる一部だけに従うのではなく、神が言われるすべてのことに従わなければならないのです。人からどう思われようと、人から嫌われようと、拒否されようと、神がそうせよと言われるなら、それをします!それが私たちのなすべき態度なのです。

それはイエス様のお姿でもありました。イエス様は文字通り裸でこの世に来てくださいました。全宇宙を造られた栄光の主が裸となって、私たちと同じ人間の姿で生まれてくださったのです。そして30歳になられた時、ご自分を公に現わされました。神の国の福音を語り、病人をいやし、悪霊を追い出し、死人を生き返らせ、身を粉にして、人々に仕えられました。  しかし、イエスが来られたのはイスラエルをローマの圧政から救い出すためではないことがわかると、群衆は手のひらを返したかのかのように、もうイエスなど必要がないと十字架につけて殺しました。イエス様は衣服をはぎ取られ、むち打たれ、それこそ真っ裸にされて、重い十字架を背負いながら、悲しみの道「ヴィア・ドロローサ」を歩かさせられました。そして、裸のままで両手両足を十字架に釘付けされ、人々のさらしものとなったのです。それはちょうど過ぎ越しの祭の時でしたから、全世界から大勢の人々がエルサレムに集まっていた時です。そのような時に、イエス様は裸で十字架につけられ、人々のさらしものになったのです。いったいなぜイエス様は裸にされて、十字架の死にまでも従われたのでしょうか。それは私とあなたのためです。ここにいるすべての人のためです。いや、ここにいない人も含めたすべての人のために贖いの代価となるためでした。イザヤは三年間裸で歩きましたが、イエスもおよそ三年間公の生涯を歩まれ、最後は裸で死なれたのです。

私たちは病人をいやしたり、悪霊を追い出したり、さまざまな奇跡を行って人々を助け、人々の役に立つことならば喜んで行いますが、人々から蔑(さげす)まれたり、あざけられたり、むち打たれたり、つばをかけられたり、十字架にさらしものになったりするようなことはしたくありません。私たちは自分の見た目を気にします。人からの評判も気になるのです。しかし、イエス様はそうではありませんでした。イエス様は人からどう思われようと、どのように見られようと、ただあなたと私が救われるために、その一心で十字架を忍ばれたのです。人々からきちがいだとか、悪魔だとか、いろいろな誹謗中傷を受けても、あなたの救いのために裸になられたのです。であれば、そのあしあとに従う私たちは、たとえ恥ずかしいと思うようなことであっても、人から馬鹿にされるようなことがあっても、その人が永遠の滅びから救われるのであれば何でもするという覚悟がなければなりません。

ピリピ人への手紙1章12節から15節までのところを開いてみましょう。ここには「さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり、また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました。人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。」とあります。

これはパウロの経験です。「私の身に起こったこと」とは、彼が投獄されたことを指しています。彼はえん罪で自分が投獄されましたが、そのことを喜んでいると言いました。なぜでしょうか。それは、彼がそのように投獄されたことによって、かえって福音を前進させることになったからです。というのは、そのことで兄弟たちに確信がもたらされ、ますます大胆に神のことばを語るようになってからです。ですから、どんな理由であるにせよ、福音が前進するのであれば、それはすばらしいことだと告白したのです。いったいなぜパウロはそのように受け止めることができたのでしょうか。20節と21節にそのカギがあります。

「それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」

これがパウロの生き方でした。彼はただキリストがあがめられることだけを求めていました。自分はどうでもいいのです。自分がどんな目に会っても、何をされても、裸にされても、ばかにされても、卑しられても、辱められても、変人だと言われようとも構いません。自分の身によってキリストのすばらしさが現されるのならそれでいい。私のために、あなたのために、裸ににされて十字架にかかって死んでくださったキリストがあがめられるなら本望だ。パウロにとって、生きることはキリスト、死ぬことも益だったのです。

すばらしい告白ではないでしょうか。もし私たちがパウロのようにただキリストがあがめられることだけを求めているなら、キリストの福音が前進することだけを求めて生きているなら、自分のことはもうどうでもよくなるはずです。恥ずかしいとか、かっこ悪いとか、ヘンな人だと思われるとか、関係ありません。もうヘンな人なんですから心配いりません。それがイエス様によって神の御国の民とさせていただきました。私たちはキリストの福音にふさわしく生きることだけを求めていけばいいのです。

それは嫌です。そうではなく、キリストのように大衆の面前で奇跡を行ったり、病人をいやしたり、ミラクルメーカーのようになって人々の称賛を受けたいのです。スポットライトをあびたいのです。すばらしい人、いい人だと思われたいのです。人の役に立ちたいのです。感謝されたいのです。でも人々からのけものにされ、拒絶され、裸にされる。罪もないのに罪を着せられる。そういったことはごめんです。イザヤのようになりたいです。イザヤのように用いられたいです。でもイザヤのような裸になって三年間も歩き回りたくありません。白い目で見られるのは嫌です。しかし、私たちはキリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。もちろん信仰はいつも苦しみだけということではありません。でも時にキリスト・イエスにあって敬虔に生きようと思えば、みな迫害を受けるとあるように、私たちは裸にならなければならないことがあるのです。辱めを受けなければならないときがあります。人から冷ややかな目で見られて、蔑(さげす)まれなければならない時があるのです。聖書をプレゼントしたのに送り返されて来たとか、この人に救われてほしいと思うから一生懸命に相談にのってあげたり、訪問したり、援助してあげたのに、それらがすべて水泡に帰するかのように、もうあなたとは付き合いたくありませんとか、二度と顔も見たくありません。もう電話もしないでほしい、もう教会には誘わないでくれ、そんなふうに言われることがあります。しかし、その何もかもイエス様が通られた道であったということを忘れてはなりません。

ですから、裸になることを恐れないでください。イエスもあなたのために裸になられました。パウロは、「私は、福音を恥とはしない」と言いましたが、福音を恥としてはいけません。イエスはあなたを救うために恥を忍んで、文字通り、裸になられました。あなたはつばきをかけられたことがあるでしょうか。目隠しをされてぼこぼこに殴られ、だれが殴ったかあててみろなんてバカにされたことはありますか。背中を鞭で打たれたことがあるでしょうか。骨が砕け、内臓が飛び散るほど打たれたことがあるでしょうか。真っ裸にされて高いところでさらしものにされたことがあるでしょうか。両手両足を釘で打ち付けられたことはあるでしょうか。キリストはこれらすべての辱めを受けられました。これらすべてはあなたのためだったのです。

なのに私たちは福音を恥じて、こんなことを言ったらヘンな人だと思われるんじゃないかとか、職場や家庭で関係がギクシャクするのではないかと恐れます。嫌われたくありません。バカにされたくありません。いい人でいたいのです。有能な人間として、立派な人に思われるように、人の評判を気にしています。人からどう思われているかが最大の関心事です。けれども、福音を恥としてはいけません。もし福音を恥とすれば、人の子も、そのような人を恥としますと主イエスは言われました。(ルカ9:26)イザヤは「行って、あなたの腰の荒布を解き、あなたの足のはきものを脱げ」と命じられたとき、それがどんなに恥ずかしいことであっても、卑しめられることであっても、非常識だと思われるようなことであってもそれに従いました。私たちも、主が命じられるなら、たとえそれが自分にとって受け入れがたいことであっても従っていくことが求められているのです。

Ⅲ.まことの拠り所(5-6)

最後に5節と6節をご覧ください。ここには、イザヤが三年間、裸になり、はだしで歩き回ったというのはエジプトとクシュに対するしるしであったばかりでないことがわかります。それはイスラエルに対するしるしでもありました。イスラエルがまことの神を拠り所とするためだったのです。

「人々は、クシュを頼みとし、エジプトを栄えとしていたので、おののき恥じる。その日、この海辺の住民は言う。『見よ。アッシリヤの王の手から救ってもらおうと、助けを求めて逃げて来た私たちの拠り所は、この始末だ。私たちはどうしてのがれることができようか。』」

5節に出てくる「人々」とはイスラエル、南ユダ王国のことです。アッシリヤの攻撃に備えてエジプトとクシュに頼っていたイスラエル(南ユダ)は、恥を見るようになるというのです。なぜなら、その味部ととクシュがアッシリヤによって滅ぼされ、裸で連れて行かれるようになるからです。それを見るイスラエルは、6節にあるように、「見よ。アッシリヤの王の手から救ってもらおうと、助けを求めて逃げて来た私たちの拠り所は、この始末だ」と言うようになるのです。これは海辺の住民たち、具体的にはアシュドテを含むペリシテの町々の住民のことです。しかし、それがイスラエルであろうと、海辺の住民であろうと、まことの神以外のものを拠り所にする人たちは、同じように嘆くことになるのです。

そして、このようなことが私たちの生活にも起こります。これまで安全だ、安心だと信じて疑わなかったものがもろくも崩れ去るのを見て、「これまで自分たちが信じてきたものはいったい何だったのか」と言って嘆くようになるのです。ですから、私たちはそういことがないように、このイザヤの預言のことば、神のことばを聞いて、それに従うべきです。

第二次世界大戦後しばらく、日本人の生活の価値判断は、何が善で何が悪であるかということでしたが、その後は今日まで、何が得で何が損になるかということで測られてきました。ところが最近はそうではなく、何がホンモノかどうかで判断される時代になってきました。何がホンモノなのかがわかりません。ホンモノまがりのものがたくさんあるからです。あれも、これも、たぶん、きっとホンモノに違いないと思わせるものがたくさんあります。単に人を集め、派手な活動をしていても、それがホンモノであるとは限りません。ホンモノとは「何があってもびくともしないもの」、「決して滅びることがないもの」です。いつまでも続く永遠のものです。それは、この天地を造られたまことの神様です。この方こそまことの拠り所であり、この方に信頼するなら決して失望させられることはありません。

これがあなたが選択しなければならない道です。この方に信頼するなら、あなたは決して失望することはないのです。詩篇32篇7節、8節、「この人生にどんな嵐が吹き寄せようと、私は神様のもとに身を避けます。そこでは勝利の歌が響き、苦しみに巻き込まれることがないからです。神様はこう言われます。「私はあなたを教え、最善の人生航路へと導いてあげよう。助言を与えて、一歩一歩を見守ってあげよう。」

神が教え、神が助言を与えて一歩一歩導いてくださる人生、これこそ間違いのないホンモノなのです。どうかこの方に身を避けることができますように。それがイザヤが裸になってまでも伝えたかった神のメッセージだったのです。

イザヤ書19章1~25節 「わたしの民エジプト」

きょうは、イザヤ書19章のみことばからご一緒に学びたいと思います。タイトルは「わたしの民エジプト」です。25節のところで、主はエジプトを祝福してこう言っておられます。「わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように。」本当に不思議なことばです。ここで主はエジプトを「わたしの民」と呼んでいるのです。「わたしの民」というのは普通イスラエルに対して言われていることなのに、ここではエジプトにも、いやアッシリヤにも使われているのです。いったいこれはどういうことなのでしょうか。  きょうは、このエジプトに対する神の宣告から三つことをお話したいと思います。

Ⅰ.エジプトに対するさばき(1-15)

まず第一に、エジプトに対するさばきの宣告から見ていきましょう。1~15節までをご覧ください。1節をお読みします。

「エジプトに対する宣告。見よ。主は速い雲に乗ってエジプトに来る。エジプトの偽りの神々はその前にわななき、エジプト人の心も真底からしなえる。」

ここで主は、「速い雲に乗ってエジプトに来る」と言っておられます。これは神がエジプトをさばかれるために速やかに来られるという意味です。エジプトの問題は何でしょうか。偶像です。偽りの神々であります。ですからここに、「エジプトの偽りの神々はその前にわななき、エジプト人の心も真底からしなえる。」とあるのです。また、3節にも「エジプトの霊はその中で衰える。わたしがその計画をかき乱す。彼らは偽りの神々や死霊、霊媒や口寄せに伺いを立てる。」とあります。これはがエジプトの姿でした。エジプトはいろいろな偶像で満ちていました。太陽の神、ナイルの神、かえるの神、ブヨの神、アブの神までいました。エジプトの王パロ自身も神でした。エジプトは何でもかんでも神になり、なんでもかんでも拝んでいました。

なぜエジプトはそんなに偶像を拝んでいたのでしょうか。それは、そうした偶像が自分自身を投影していたからです。皆さん、偶像というのは自分の欲望の投影として生まれてくるのです。何かをするとき、それがうまく行くようにと偶像を造るわけです。商売繁盛を願う人、大学受験で希望の大学に合格するようにと神社に行き、絵馬などを奉納している姿をよく見ます。それも同じです。「車のライセンスが最短距離でとれますように」、「できるだけ安くあがりますように」などと、みんな自分の願いを書いて絵馬に託すわけです。自分の願いを聞いてくれる神が必要だから、その神を人間が造るのです。ですから、偶像というのは人間の欲望を投影させて形にあらわしたものなのです。私たちの住むこの日本にも偶像がたくさんあります。日本は八百万の国ですから、神々が八百万もいるのです。何でも神になります。自分の欲望を満たしてくれるなら、それでいいわけです。そういうのを神にしてしまうのです。それがこの罪の世の姿なのです。そうした偽りの神々を、主は速い雲に乗って来られ、さばかれるのです。

どのようにさばかれるのでしょうか。2節をご覧ください。「わたしは、エジプト人を駆り立ててエジプト人にはむかわせる。兄弟は兄弟と、友人は友人と、町は町と、王国は王国と、相逆らって争う。」

「エジプト人を駆り立ててエジプト人にはむかわせる」どういうことでしょうか。エジプトに内乱を起こすということです。エジプト人同志が戦って、自分たちの国力を弱めていくというのです。今もエジプトでは内紛が絶えません。先に行われた大統領選挙を無効とする裁判所と軍が、大統領と議会側と激しく対立しています。エジプトの歴史をたどってみるとずっとそうなんです。たとえば、あの有名な古代エジプト第18王朝のファラオであったツタンカーメン(Tutankhamun、紀元前1342年頃 – 紀元前1324年頃)はものすごい財宝を誇る王でしたが、内乱につぐ内乱で、自分たちの国力を消費してしまい、ツタンカーメン以降、ついには衰退の一途をたどり、ほとんど世界に力をもつことができなくなりました。それは神を計算に入れないで、自分たちの賢さによって歩もうとした彼らに対する神の審判、さばきだったのです。

もう一つは、外国の侵略によるさばきです。4節をご覧ください。ここには、「わたしは、エジプト人をきびしい主人の手に引き渡す。力ある王が彼らを治める。―万軍の主、主の御告げ―」とあります。内側だけでなく、外側からも踏みにじられるというのです。実際にイザヤの時代にはアッシリヤが台頭してきていて、エサルハドンという王がエジプトを攻め、首都テーベを取ります。(B.C.664)そして、その後もバビロンやペルシャによって非常な脅かしに遭い、ついにはギリシャの王アレキサンダー大王によって統一されてしまいます。この預言のとおりになるわけです。

そればかりではありません。5節から10節までのところを見ると、ナイル川が干上がるとあります。「海から水が干され、川は干上がり、かれる。多くの運河は臭くなり、エジプトの川々は、水かさが減って、干上がり、葦や蘆も枯れ果てる。ナイル川やその河口のほとりの水草も、その川の種床もみな枯れ、吹き飛ばされて何もない。漁夫たちは悲しみ、ナイル川で釣りをする者もみな嘆き、水の上に網を打つ者も打ちしおれる。亜麻をすく労務者や、白布を織る者は恥を見、 この国の機織人たちは砕かれ、雇われて働く者はみな、心を痛める。」

ご存知のとおり、世界最古の、そして最長のエジプト文明が発達したのは、ナイル川のおかげです。毎年ナイル川がの洪水によって上流から栄養分をたっぷり含んだ土が流れてくるので、肥沃な土壌と水によって、豊かな農作物がもたらされました。前5世紀のギリシアの歴史家ヘロドトスは、「エジプトはナイルの賜物」と言いましたが、エジプトの経済はすべてこのナイルに依存していたのです。 そのナイルが干上がるというのです。これはイザヤの時代には起こりませんでしたが、近年、これが成就しました。1970年にアスワン・ハイ・ダムが作られたことで、ナイル川の生態バランスが破壊され、すべての環境が変わってしまいました。川の氾濫によってもたらされていた豊かな土壌は流れてこなくなり、かえって地中海からの塩水が入って来るようになったので、農業を台無しにしてしまいました。それは農業だけではありません。漁業も同じです。そして葦から得られる繊維で衣類を作っていた産業も大きな打撃を受けます。経済全体に損失が波及するのです。

それはエジプトが偽りの神々、偶像を拝んでいたからです。真の神を恐れず、敬わず、礼拝せず、自分たちが造った神々を拝んでいたからなのです。ここで私たちはもう一度自問自答しなければなりません。いったい私たちの生活の中心には何があるのか・・・と。これがあるから私の今の生活は豊かになっているという「これ」とは何かということを自問自答しなければなりません。もしそれがエジプトのように偶像の神々であったとしたら、神は同じようにさばかれるのです。

11節から15節までをご覧ください。エジプトの問題はそうした偶像だけではありませんでした。彼らは人間の知恵を頼りとしていたことがわかります。「ツォアンの首長たちは全く愚かだ。パロの知恵ある議官たちも愚かなはかりごとをする。どうして、あなたがたはパロに向かって、「私は、知恵ある者の子、昔の王たちの子です」と言えようか。あなたの知恵ある者たちはいったいどこにいて、あなたに告げ知らせようというのか。万軍の主がエジプトに何を計られたかを。ツォアンの首長たちは愚か者、ノフの首長たちはごまかす者。その諸族のかしらたちは、エジプトを迷わせた。主が、彼らの中に、よろめく霊を吹き入れられたので、彼らは、あらゆることでエジプトを迷わせ、酔いどれがへどを吐き吐きよろめくようにした。それで、頭も尾も、なつめやしの葉も葦も、エジプト人のために、なすべきわざがない。」

エジプトは偶像や魔術だけでなく、知恵においても有名でした。さまざまな学問がエジプトで発達しました。40歳になるまでエジプトの宮殿で生きていたモーセも、エジプトのあらゆる学問を教え込まれ、ことばにもわざにも力があったと言われています。(使徒7:22)また、イスラエルの王ソロモンは知恵者で有名ですが、それがどれほどの知恵であったかは、「エジプトのすべての知恵とにまさっていた」(Ⅰ列王4:30)と言われていたほどです。

しかし、それがどれほど立派な知恵のようであっても、神様が下されたさばきに対する解決案を見出すことはできませんでした。彼らは自ら知恵があると言いながらも、万軍の主がエジプトに計られたかを告げることはできません。ヨセフの時代に、エジプトのどの知恵ある者もパロの夢を解き明かすことができなかったのと同じです。(創世記41:8)それは神から出たことであったので、神の霊によらなければわきまえ知ることができなかったのです。Ⅰコリント1章18節から25節を開いてください。ちょっと長いですがお読みしたいと思います。

「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」

皆さん、自分の知恵によっては神を知ることはできません。ただ神の知恵、神の力であられるキリストによってのみ神を知ることができるのです。十字架のことばは滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力なのです。

私たちは、この世で起こっていること、また自分の身の回りで起こっていることを知りたいという欲求があります。しかし、私たちがまずしなければならないことは、今起こっていることは主から来ているのだということを知り、それを認めることです。たとえ何が起こっているのかがわからなくても、主がご計画をもって導いておられるこということを認め、その神の知恵によって生きることなのです。十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられた救い主イエス・キリストを信じて心に受け入れ、この方にあって生きることが知恵の始まりだからです。

そうでないと、エジプトのようにこの世の幼稚な学問に振り回されてしまうことになります。14節に「主が、彼らの中に、よろめく霊を吹き入れられたので、彼らは、あらゆることでエジプトを迷わせ、酔いどれがへどを吐き吐きよろめくようにした。」とあるように、酔っぱらった時のように、識別力や分別力を失ってしまうのです。そして15節に「それで、頭も尾も、なつめやしの葉も葦も、エジプト人のために、なすべきわざがない。」とあるように、国全体が今、何をすればよいかが分からない状態になってしまうわけです。「頭」とはここに出ている知恵者や指導者たちのこと、「尾」とは一般民衆の気持ちを支える占いや魔術のことでしょう。つまりそうした知恵者、政治的指導者たちも何をすべきなのかがわからず、国全体がよろめいてしまうというのです。

何だか、日本のことが語られているようですね。しかしこれは日本だけでなく、今の世界の姿を現しているのです。神から離れて偶像に走り、自分の知恵を誇るこの世です。何をすべきなのかがわからない状態です。

あなたは、あなたの人生に危機的な状況が押し寄せるとき、何によって解決しようとしていますか。この世の知恵によって解決しようとしてはいないでしょうか。しかし、この世の知恵には限界があることを悟り、神の知恵に拠り頼む者でありたいと思います。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

Ⅱ.エジプトの救い(16-22)

第二に、エジプトの救いです。イザヤの預言はエジプトに対するさばきから一転して、エジプトの回復について語ります。16~22節までのところに注目してください。まず16節と17節をお読みします。

「その日、エジプト人は、女のようになり、万軍の主が自分たちに向かって振り上げる御手を見て、恐れおののく。ユダの地はエジプトにとっては恐れとなる。これを思い出す者はみな、万軍の主がエジプトに対して計るはかりごとのためにおののく。」

ここから19章の終わりまで、「その日」ということばが立て続けに5回も出てきます。これはイザヤ書におけるキーワードのひとつで、世の終わりの患難時代のことが預言されているということをお話しましたが、世の終わりには次のようなことが起こるのです。

「その日、エジプト人は、女のようになり、万軍の主が自分たちに向かって振り上げる御手を見て、恐れおののく。」のです。女のようになるとは弱くなるということです。最近では逆のケースも少なくありませんが、基本的に女性は弱いです。その日、エジプトは、女の人のようになるのです。自分たちの知恵、力を誇り、高ぶっていたエジプトのプライドは砕かれて、女の人のように弱くなります。万軍の主が自分たちに向かって振り上げる御手を見て、恐れおののくようになるのです。それだけではありません。18節から22節までには驚くべき事が記されてあります。

「その日、エジプトの国には、カナン語を話し、万軍の主に誓いを立てる五つの町が起こり、その一つは、イル・ハヘレスと言われる。その日、エジプトの国の真ん中に、主のために、一つの祭壇が建てられ、その国境のそばには、主のために一つの石の柱が立てられ、それがエジプトの国で、万軍の主のしるしとなり、あかしとなる。彼らがしいたげられて主に叫ぶとき、主は、彼らのために戦って彼らを救い出す救い主を送られる。そのようにして主はエジプト人にご自身を示し、その日、エジプト人は主を知り、いけにえとささげ物をもって仕え、主に誓願を立ててこれを果たす。主はエジプト人を打ち、打って彼らをいやされる。彼らが主に立ち返れば、彼らの願いを聞き入れ、彼らをいやされる。」    ここには、その日、エジプトの真ん中に、主のために、ひとつの祭壇が建てられ、すべてのエジプト人が、主にいけにえをささげるようになるとあります。彼らがしいたげられて主に叫ぶとき、主は彼らのために戦って彼らを救い出されるというのです。その日、エジプト人は主を知り、いけにえとささげ物をもって主に仕えるようになるのです。

皆さん、これはエジプトに対して語られていることばです。かつて偶像を拝み、自分知恵、力を誇っていたエジプトがイスラエルのようになると、主は約束しておられるのです。神とイスラエルとの間の個人的な関係が、ここではエジプトにも適用されるというのです。アメージングです。こんなことがあるのでしょうか。あるのです。それはエジプト人ばかりでなくだれもです。彼らが主に立ち返れば、主は彼らの願いを聞き入れ、彼らをいやしてくださるのです。ということは、エジプトに対する神のさばきの目的は何だったのでしょうか。それは、彼らを滅ぼすことではなく、彼らが救われること、彼らがいやされることだったのです。主はエジプト人を打ち、打って彼らをいやされるのです。これが神様が私たちを救われる方法です。

いったい私たちになぜ苦しみがあるのでしょうか。どうしていろいろな問題が起こってくるのでしょうか。それは私たちが救われるためです。私たちがいやされてためなのです。主はわたしたちを打たれ、その後でいやされるのです。これが主の救いの方法です。間違わないでください。主はあなたをあなたをさばこうとしておられるのではないのです。主はあなたを救おうとしておられるのです。救おうとしておられるので、時として、懲らしめを与えられるのです。ヘブル人への手紙12章7節から11節をお読みします。

「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」

デイリーブレッドという小冊子に、ミシガン州のコーナーストーン大学の学長で、誰りもイエスを愛し、 何よりも神のみことばを語ることを大切にしているとジョー・ストウェル氏 (Joe Stowell)氏が、子どもの頃にあった出来事を書いておられます。  私には、子どもの頃のはっきりとした思い出があります。幼稚園の先生に何と言われたのかは覚えていませんが、私は彼女に向かって「黙れ!」と言ったのです。そのときのことは忘れもしません。彼女は「家に帰りなさい」と言いました。そこで私は、教室を出て、数十メートル先の我が家に向かって歩き出しました。そして歩道を進んでいくと、裏庭の草むしりをしている母の姿が見えました。さあ、どうしましょう。私はここで、戦略的な選択に迫られました。そのまま進んで幼稚園を早引きした理由を母に話すか、それとも幼稚園に戻って先生と対峙(たいじ)するかです。  教室に戻るとすぐ、先生は私をトイレに連れて行き、私の口を石鹸で洗いました。このような体罰は今日ではありえないことでしょうが、この方法は実に効果的でした。今でも、私は自分が何をしゃべるかには慎重で、口を開くときは注意を払っています。ジョー・ストウェル氏の今があるのは、あの出来事のおかげたというのです。石鹸で口を洗うなんて考えられないことですが、それによって彼は、「ああ、お口を正しく使わないといけない」ということをしっかりと学んだのです。

皆さん、神は、私たちを子どもとして扱っておられるのです。神の子どもとして正しく成長するようにと、熱い思いを持っておられるのです。そのため、時には懲らしめを与えることがありますが、それによって着実に「平安な義の実」(ヘブ12:11)を実らせることができるように、私たちの人生を正しい方向に向けられます。神の戒めは、より良い人生への希望なのです。ですから、神に戒められたなら、その御手を拒まないようにしましょう。あなたがどんな人間になっていくのかを気にするほどに、神は、あなたを愛しておられます。ですから、神が叱ってくださったなら、それを感謝して受け止め、その中で主に立ち返り、主の名を呼び求めましょう。そうすれば、主はエジプト人を打って、いやされたように、あなたもいやされるのです。

Ⅲ.わたしの民エジプト(23-25)

第三のことは、それだけではありません。主はこのエジプトに対して、わたしの民と呼んでいることです。23節から25節までをご覧ください。

「その日、エジプトからアッシリヤへの大路ができ、アッシリヤ人はエジプトに、エジプト人はアッシリヤに行き、エジプト人はアッシリヤ人とともに主に仕える。 その日、イスラエルはエジプトとアッシリヤと並んで、第三のものとなり、大地の真ん中で祝福を受ける。万軍の主は祝福して言われる。「わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように。」

このところを見ると、神の救いはエジプトだけにとどまっていないことがわかります。エジプトからアッシリヤへの大路ができ、エジプトとアッシリヤは互いにその大路を行き交い、ともに主に仕えるようになるというのです。アッシリヤといったら周辺諸国の中でも一番の悪です。他の諸国も悪いことをしていましたが、それらの国々を飲み込み、ほしいままに略奪し、滅ぼしていったのがアッシリヤです。そのアッシリヤもまた主に立ち返るようになり、神の救いの中に入れられるようになるのです。かつてヤクザだった人たちが主に立ち返り、ミッション・バラバという団体を作り、よい証をしておられます。その人たちの証を聞いていて思うことは、人生どんなに落ちても大丈夫ということです。アッシリヤはとんでもない悪でしたが、それでも悔い改めた時に救われました。だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5:17)たとえあなたが過去にどんなひどい人生を歩んでいたとしても、人生やり直すことができます。悔い改めて、主に立ち返るなら、主はあなたの罪を赦し、すべての悪から聖めてくださるのです。そして、かつて敵対関係にあったアッシリヤとエジプトが、信仰によって敵対関係を清算し、平和に共存するようになるのです。略奪と占領のために通った道が、ともに神を礼拝するために通る道に変えられるのです。すばらしい約束です。    極めつけは25節のことばです。「万軍の主は祝福して言われる。「わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように。」これほどすばらしいことばがあるでしょうか。「わたしの民」といったら普通イスラエルに対して使われることばです。それがここではエジプトに、また、アッシリヤに対して用いられているのです。神に敵対していたら彼からが、神から遠く離れていた彼らでも、神の恵みによって神の民としていただけるのです。

「ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。」(エペソ2:11-13)

皆さん、どんな人でも神の恵みから漏れる人はありません。以前は肉においては神から遠く離れていた異邦人でも、キリスト・イエスの中にあることによって、キリストを信じることで、神の民としていだたけるのです。神の救いは全世界に及ぶのです。それはこの日本も例外ではありません。イスラエルから見たら地の果てにすぎないような日本、しかもここには八百万の神があり、偶像があり、罪が溢れていて、もう救いようがない国であっても、イエス・キリストの血によって、イエス・キリストを信じることによって、神の民とさせていただくことができるのです。この日本にも神の愛のまなざしが注がれているのです。神の救いは地の果てにまで及んでいるのです。ですから、イザヤはこう叫びました。

「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」(イザヤ45:22)

どうですか。あなたはこの神を仰ぎ見ていますか。仰ぎ見て、救われているでしょうか。神の恵みは、あなたにも届いているのです。どうかイエス・キリストを信じて、たとえ今神から遠く離れていても、神の民にさせていただこうではありませんか。

また、この救いが地の果てのすべての人に差し出されているのであれば、私たちは、これをどうしたら具体的にくまなく広げることができるのかを考えていかなければなりません。自分たちのことばかり考えていてはいけないのです。全世界に目を向けなければなりません。主イエスは言われました。「受けるよりも、与えるほうが幸いである。」(使徒20:35)自分たちは直接地の果てまで行くことはできないかもしれません。けれども、この国にいて、他国の人々と接する機会がよくあります。それらの人々の多くは、仏教であったり、イスラム教であったりとそうしたバックグランドを持っており、本当の神様を知らない人たちがほとんどです。そうした人たちに出会うとき、私たちはどのように接しているでしょうか。漠然とした拒否感によって彼らに接していることはありませんか。私たちはそうした人も神が「わたしの民」とみなされることを信じて、キリストの愛をもって接していかなければなりません。神の救いは全世界に及んでいるのです。それは、私たちがこのことを神からのみこころとして受け止め、そのための通りよき管となることを真剣に求めているかどうかにかかっているのです。

イザヤ書18章1~7節 「わたしは静まってながめよう」

きょうは、イザヤ書18章から学びたいと思います。タイトルは、「わたしは静まってながめよう」です。1節を見ると、「ああ。クシュの川々にある羽こおろぎの国」とあります。これは、下の欄外の説明にもあるように「エチオピヤ」のことです。当時のクシュというのは現在のエチオピアよりももっと広範囲で、現在のスーダンやソマリヤを含む地域でした。クシュの川々とはナイル川の支流のことで、そこは「羽こおろぎの国」と呼ばれていました。この「羽こおろぎ」とは何なのかははっきりわかりませんが、この国に多いツェツェばえのことではないかと言われています。エチオピアは非常に蒸し暑く、羽こおろぎが多いことで有名です。  きょうは、このクシュに対する神のさばきの宣言から、圧倒的な主の力について三つのポイントでお話したいと思います。

Ⅰ.静まってながめよう(1-4)

まず第一のことは、ただ神に信頼せよということです。1節と2節をご覧ください。「ああ。クシュの川々にある羽こおろぎの国この国はパピルスの船を水に浮かべて、海路、使いを送る。すばやい使者よ、行け。背の高い、はだのなめらかな国民のところに。あちこちで恐れられている民のところに。多くの川の流れる国、力強い、踏みにじる国に。」

ここにはクシュ、エチオピアが使いを送るとあります。いったいどこに、また何のめに送るのでしょうか?イスラエルです。南ユダ王国にです。その当時、アッシリヤが隆盛を極めていて、アッシリヤはB.C.732年にシリヤを滅ぼすと、B.C.722年には北イスラエル、そして、B.C.701年にはペリシテを、さらにはヨルダンの東にあったモアブ、そして、南のアラビヤを支配すると、今度は南下を続け、ついにエジプトにまで迫っていました。そこでそのアッシリヤに対抗するに南ユダ王国に使いを送り同盟を結ぼうとしたのです。つまり、これはアッシリヤの脅威に対するクシュの外交活動だったのです。

それに対してユダの王はどうしたでしょうか?2節の後半から4節にかけて次のようにあります。「すばやい使者よ、行け。背の高い、はだのなめらかな国民のところに。あちこちで恐れられている民のところに。多くの川の流れる国、力強い、踏みにじる国に。世界のすべての住民よ。地に住むすべての者よ。山々に旗の揚がるときは見よ。角笛が吹き鳴らされるときは聞け。「わたしは静まって、わたしの所からながめよう。」」

ここでは「全世界のすべての住民よ」と呼びかけられています。もうクシュだけではありません。全世界が主のわざが行われることに注目するように、主が戦いを宣告されるというのです。

クシュにしても、南王国ユダにしても、アッシリヤの脅威に対して、とてもじゃないけど太刀打ちできないという焦りの中で、かなり動揺していました。心騒がせていました。パニクッていたのです。そんなクシュの人たちに対して、主が言われたことはこうでした。「わたしは静まって、わたしの所からながめよう。」

ここで神は全く動揺していません。パニくってもいません。焦ってもいません。ただ静観しておられます。「わたしは静まって、わたしの所からながめよう」と言っておられるのです。まさに高みの見物です。その状況をすべてご存知の上で、ただ静かにながめておられるのです。神様はあわてたり、動揺したりする必要などないからです。彼らがどんなに軍隊を組んで攻めてこようが、そんなのは小さな蟻が軍隊を組んで人間を攻撃するようなもので、何の役にも立ちません。一息で吹っ飛ばしたり、足で踏みつけることができるのです。人間がどんなに騒いでも、神にとっては全く動じることはないのです。神様は圧倒的な力を持っておられる方なのです。

詩篇2篇1節から6節までを開いてみましょう。ここには、「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。」天の御座に着いている方は笑い、主はその者どもをあざけられる。ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」とあります。

これは有名なメシヤ詩篇と呼ばれるものです。なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのでしょうか。地の王たちは立ち構え、相ともに集まり、主と、主に油注がれた者とに逆らおうとするのでしょうか。これは世の終わりの最終戦争、ハルマゲドンの戦いの預言です。世界中からハルマゲドンに集結して、主と、主に油注がれた者、これはメシヤなるキリストのことですが、それに対抗しようとします。しかし、主は彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てるのです。全く相手になりません。彼らがどんなに一つになって攻めても、主は一息で滅ぼされます。鼻息だけで吹っ飛ばしてしまうのです。神は、それほどに力ある方なのです。なのになぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのでしょうか。圧倒的な力を持っておられる主にゆだねることこそ、真の解決なのです。

今、あなた心を騒がせているものは何ですか。私たちの周りには、私たちの心を騒がせるものがたくさんあります。しかし、それがどんなものであっても、私たちの主はそうしたものに全く動揺することがなく、簡単に解決することがおできになるのです。であれば、私たちはどんな状況にあっても心を騒がせることなくすべてをこの方にゆだね、主が解決してくださるのを静かに主の解決を待ち望む者でありたいと思うのです。

2章22節には、「鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値打ちがあろうか。」とあります。鼻で息をする人間とはすぐに死んでいくもろい存在のことです。そうしたものは、きょうきれいに咲き誇っていても明日には枯れてしまう花のようなもので、もろいのです。そんなものにいったい何の値打ちがあるというのでしょうか。どんなに偉大な指導者も頼りにはなりません。人はみな死ぬ運命にあるからです。呼吸が止まり、いのちの火が消えた瞬間に、その人の人生の計画は、すべて水の泡になってしまいます。本当に頼りになるのはこの天と地を造られた創造主なる神であって、この人類の歴史を通して私たちをとことん愛しておられる神なのです。

今、ちょうど祈祷会で出エジプト記を学んでおりますが、エジプトにいるイスラエルを救い出すために神はモーセを召されました。ところが、モーセはいろいろな言い訳をして行こうとしないんですね。行きたくないのです。行きたくないので、その召命を断る理由をあげるのです。まず彼があげた理由は、「わたしはいったい何者なのでしょうか」ということでした。私にはそんな力なんてありませんよ、というのです。それに対して主は、「わたしはあなたと共にいる」と約束してくださいました。あなたが何者であるかなんて関係ない。このわたしがあなたとともにいて、エジプトにいる彼らを救い出す、と言われたのです。  それにた対してモーセが言ったことは、「わかりました。でも、あなたがたの父祖の神が、私をあなたのところに遣わされたと言えば、その名は何かというでしょう。何と答えたらいいんですか。すると神はこう言われたのです。「わたしはあるというものである。」「わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた」と言いなさい。どういう意味でしょうか。「私はあるというものである」とは・・。これは、他の何にも依存せずに存在することができる方であるという意味です。人間はそうじゃないでしょ。人間は食べ物があって、飲み物があって、息をして、他の人に頼って、他のものに依存してやって生きることができるわけですが、本当の神様はそのような方ではありません。他の何にも依存せずに存在することができるのです。存在の根源なる方です。永遠から永遠まで生きておられる方です。過去においても、現在においても、未来においても、ずっと存在しておられる方です。この方はすべてのものを創造された神なのです。その方が私を遣わされたと言え、と言われたのです。

皆さん、これが神の名前です。永遠にわたって呼ばれる神の御名なのです。「わたしはあるというものである」神は、他の何ものにも依存せず、ただそれだけで存在することができる方なのです。永遠から永遠まで存在しておられ、この天地万物のすべてを創造された神なのです。 私たちが真に信頼することができるのは、この方なのです。この方は、あなたを愛し、あなたのために御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。であれば、神は御子といっしょにすべてのものを恵んでくださらないわけがありましょうか。神は、あなたのために、あなたの必要のためにすべてのものを与えてくださるのです。あなたが本当に信頼しなければならないのは、この方なのです。

ダビデは、「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。」(詩篇62:1-2)と言いました。ダビデはなぜこのように告白することができたのでしょうか。それは、彼が自分を愛してやまない創造主なる神様こそ、信頼に値する方であるということを自分の体験を通して知っていたからなのです。

皆さん、皆さんを愛してやまない方がいらっしゃいます。どんなことがあってもあなたを見放さず、見捨てないと言われる方がおられるのです。その方が主、この天地を造られた創造主なる神です。あなたがこの方の腕の中に飛び込めば大丈夫だという信頼があるとき、あなたもダビデのような賛美が生まれてくるのです。さまざまな「恐れと不安」という呪縛から解放され、この方の腕の中に安らぐことができるようになるのです。

Ⅱ.神には時がある(5-6)

第二に、しかし神には時があるということです。5節と6節までをご覧ください。「刈り入れ前につぼみが開き、花ぶさが育って、酸いぶどうになるとき、人はその枝をかまで切り、そのつるを取り去り、切り除くからだ。それらはいっしょにして、山々の猛禽や野獣のために投げ捨てられた。猛禽はその上で夏を過ごし、野獣はみな、その上で冬を過ごした。」

どういうことでしょうか?これは、ぶどうの剪定(せんてい)のたとえです。パレスチナではぶどうが収穫されるのは五月頃で、すでに花が散ったぶどうの木にぶどうがなり始めますが、その時、農夫は熟した良いぶどうができるように、実を結ばない枝を剪定するわけです。切り取ってしまうのです。そして、実を結ばない枝は、山に住む猛禽の夏の餌として、野に住む野獣の冬の餌として与えられるのです。つまり、これまで高いところから静かにながめておられた主が、刈り込みをなさる時があるということなのです。

皆さん、神は時が熟するのを待っておられます。イスラエルがエジプトにいた時も、神は待っておられました。ヤコブがエジプトに下って来てから約四百年の間、確かに神が働いておられましたが、神からの直接的な介入がありませんでした。エジプトでの激しい苦役のもと、もう見捨てられたのではないかと思っていたとき、神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こし行動を起こされたのです。時が熟するまでに長い時がありました。しかし、その時が満ちたとき、神はモーセを立てて彼らをエジプトから救い出されたのです。

また、彼らがエジプトから脱出するときも、すぐに出て行くということができませんでした。神は何度も何度もパロの心をかたくなし彼らを出て行かせませんでした。いったい何のためだったのでしょうか。神の栄光が現されるためです。そのようにして神は最後にイスラエルを紅海の水を真っ二つに分け、その乾いた道を通ることによって救い出されたのです。そして、エジプトの軍隊をその水で滅ぼされました。これが神のなさることなのです。このように神は、神の偉大なみわざをイスラエルに、また全世界に知らしめるために、あえてその時を設けておられたのです。

イエスが愛してやまなかった人たちの中に、マルタとマリヤの姉妹がいましたが、その弟ラザロが病気だった時も同じです。マルタとマリヤはイエスのところに使いを送り、そのことを告げるのですが、イエスはというと、ラザロが病んでいるということを聞いても、そのおられたところになお二日とどまっておられました。それでラザロは死んでしまうのです。後日、イエスが彼らの家に行ってみると、マルタはイエスに言いました。「主よ。もしあなたがここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」なぜ早く来てくださらなかったのですか。なぜ兄弟が生きているうちにいてくださらなかったのですか。それは神の栄光が現されるためです。もう死んで四日も経っていましたが、イエスは彼らに言われました。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光をみる。」(ヨハネ11:40)人は死ねば終わりだと考えます。しかし、イエスを信じる者は死んでも生きるのです。死んでも生きる・・・。そう言われた主は、ラザロが葬られていた墓の前に立ち、大声で言われました。「ラザロよ。出てきなさい。」すると、死んでいたラザロが生き返ったのです。手と足を長い布で巻かれたまま出てきました。  なぜイエスは早く行かなかったのでしょうか。それは、神の栄光が現されるためです。これが神のなさることであります。私たちは、その時を神にゆだねなければなりません。信じなければならないのです。信じるなら、神の栄光をみるようになるからです。

私たはち一見、神様は私たちのことを救ってくださらない、何もしてくださらないというふうに感じるときがありますが、そうではありません。逆に神様は私たちを救おうとして、その時が熟するのを待っておられるのです。そして神の栄光がはっきりと現れるようにしてくださいます。私たちはそのことを覚えておかなければなりません。そして、状況が全く変わらないような時でも、この神の時を忍耐して待ち望む者でありたいと思うのです。

Ⅲ.シオンの山に贈り物が(7)

最後に、そんなクシュでありますが、このクシュにも神の恵みが注がれているということを見て終わりたいと思います7節をご覧ください。「そのとき、万軍の主のために、背の高い、はだのなめらかな民、あちこちで恐れられている民、多くの川の流れる国、力の強い、踏みにじる国から、万軍の主の名のある所、シオンの山に、贈り物が運ばれて来る。」

これはどういうことでしょうか?アッシリヤの攻撃に対して南ユダ王国に使いを送り、自分たちと同盟を結びこれに対抗しようと騒いでいたクシュに対して、主はイザヤを通して言われました。そんなことしなくてもいい。わたしはすべてのことをちゃんとながめていて、その時になったら打ち倒すから。だから、あなたがたは静かにしていなければならない。ただ神を信じて、静かに待っていなければならないのだ・・・と。

しかし、クシュはこの神のことばを受け入れませんでした。そして20章をみるとわかるのですが、エジプトともにアッシリヤに滅ぼされてしまいます。あのモアブの時と同じように、なぜ自分たちがイスラエルの神を信じなければならないのか、なぜ力のある我々が彼らの神の助けを期待しなければならないのかと言って、神のことばを拒んだのです。

しかし、ここをみると、そのクシュ、エチオピアが、シオンの山に贈り物を運んでくるようになるというのです。この贈り物とは回心のことです。そんなエチオピア人も主に立ち返るようになるということなのです。これは終わりの日のエチオピアの姿です。終わりの日に、「万軍の主のために、背の高い、はだのなめらかな民、あちこちで恐れられている民、多くの川の流れる国、力の強い、踏みにじる国から、万軍の主の名のある所、シオンの山に、贈り物が運ばれて来る。」 クシュは、「万軍の主の名のある所、シオンの山に、贈り物が運ばれて来る。」ようになるというのです。

果たせるかな、それが文字通り実現します。使徒の働き8章26節から38節をご覧ください。少し長いところですが、お読みしたいと思います。これはエチオピアの宦官が救われた話です。彼は礼拝のためにエルサレムに上り、そこから帰る途中で、馬車に乗りながら、イザヤ書を読んでいました。すると、御霊がピリポに言われました。「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と。ロンドンオリンピックの開催ももうすぐですが、ピリポはずいぶん足が速かったんですね。馬車に近寄ることができました。オリンピックに出たら金メダルも取れる速さです。そして、宦官が読んでいた箇所からイエスのことを宣べ伝え、バプテスマを授けました。エチオピア人の宦官が、主イエスを信じたのです。そのためエチオピアにはクリスチャンが増え、コプト教会という古代教会もあるほどです。傲慢で、イザヤの預言をなかなか受け入れなかったクシュ人、エチオピアですが、そのような中にも主を信じる人を起こしてくださり、シオンの山に贈り物が運ばれて来るようになったのです。

これは異邦人の救いの型です。やはり主はイスラエルだけでなく、このエチオピアや周辺の諸国にも救いをお与えになろうと考えておられたのです。私たちはこのことを覚えて、傲慢になって、神のことばを拒んだりせず、こんな者でもあわれんでくださる神の恵みとあわれみに感謝して主の救いにあずかる者でありたいと思います。

ここには、シオンの山に、贈り物が運ばれてくるとありますが、主が最も喜ばれる贈り物とは何でしょうか。それは金や銀ではありません。それは私たち自身です。私たち自身のたましいなのです。そのたましいが神のみもとに立ち返り、神とともに生きるようになるとき、神は最も喜んでくださるのです。

先日、東京にいる娘が戻って来た際、祈祷会に出て証してくれました。娘は今、東京にあるジーサス・ライブ・ハウスという教会に行っているのですが、この教会では毎週月曜日と火曜日、そして木曜日の夜に、ストリートライブをして伝道しています。路傍伝道ですね。娘は火曜日のライブに参加しているのですが、それは六本木で行われています。六本木というのは居酒屋が多いらしいのです。そして、その居酒屋の定員さんが外に出てチラシを配っているのです。娘達が集まっていたとき、そこにその定員さんが来て、「とても雰囲気が良くて、楽しい居酒屋があります。どうぞ来てください。」と言ってチラシを手渡したそうです。するとそこにいた教会の若いメンバーが、こっちはもっと楽しくて、雰囲気が いいところです。どうぞ来てください、と言って教会の案内を手渡したそうです。すると、次の日曜日の礼拝にその方が来られました。その教会では午前11時と、12時45分、3時半と、5時半の4回礼拝が行われているのですが、その方は12時45分の礼拝に来られました。そして、その後3回の礼拝全部に出られたそうです。そして、その教会では毎回の礼拝で決心を募ります。「どうですか。イエス様を信じる方は手をあげてください」するとその方は手を上げませんでした。次の礼拝でもあげませんでした。しかし、最後の礼拝の時に招きに応じて手をあげたのです。  娘たちはとても喜んで歓迎しました。するとその方がこう言われたそうです。「いや、みんなとても輝いていたので、何かあるなぁと思って来てみたけど、本当にここは輝いています」と。何よりも神様がどれほど喜んでおられたことかと思います。神様が最も喜ばれるのは砕かれた、悔いた魂です。私たちのたましいが主のみもと似立ち返り、神とともに生きるようになることを、主は臨んでおられるのです。

万軍の主のある所、シオンの山に、送りものが運ばれて来る。この国も必ずそのようになります。私たちのたましいが主への贈り物として運ばれていく時がやって来るのです。そう信じて、私たちは神のみことばに従順に従いましょう。そして、静まって、主がみわざを行ってくださる時を待ち望もうではありませんか。

イザヤ書17章1節~11節 「救いの神を忘れないで」

きょうは、イザヤ書17章からお話します。タイトルは「救いの神を忘れないで」です。イザヤは、これまでイスラエルを取り囲んでいた周辺諸国に対する神のさばきのことばを語ってきました。まずバビロンに対して、次にアッシリヤとペリシテ、そしてモアブに対して語られました。きょうのところでは、ダマスコに対して語られているところです。

Ⅰ.この世と調子を合わせてはならない(1-3a)

まず1節から3節までをご覧ください。「ダマスコに対する宣告。見よ。ダマスコは取り去られて町でなくなり、廃墟となる。アロエルの町々は捨てられて、家畜の群れのものとなり、群れはそこに伏すが、それを脅かす者もいなくなる。エフライムは要塞を失い、ダマスコは王国を失う。アラムの残りの者は、イスラエル人の栄光のように扱われる。―万軍の主の御告げ―」

これは、ダマスコに対する宣告です。ダマスコというのはシリヤの首都です。今も連日話題になっているあのシリヤです。聖書の時代にはアラムと呼ばれていました。アラムというのは今日のシリヤのことです。そのシリヤの首都がダマスコであります。現在、2,190万人が住んでいる大きな町です。このダマスコ、あるいはダマスカスとも呼ばれている有名な町です。

このダマスコはキリスト教とも縁(ゆかり)のある町ですね。サウロがクリススチャンを迫害するために出かけて行った町です。当時彼はユダヤ教に熱心で、それは神の教会を迫害したほどでした。そのサウロがクリスチャンというクリスチャンを捕らえて縛り上げ牢屋の中にぶち込もうとして出かけて行った町、それがダマスコです。結局、彼はそのダマスコに向かう途中で復活の主に出会い回心に導かれました。目から鱗の体験をしたわけです。サウロからパウロに変えられました。そのダマスコです。

そのダマスコに対してどんなことが語られているのでしょうか。「見よ。ダマスコは取り去られて町でなくなり、廃墟となる。アロエルの町々は捨てられて、家畜の群れのものとなり、群れはそこに伏すが、それを脅かす者もいなくなる。エフライムは要塞を失い、ダマスコは王国を失う。アラムの残りの者は、イスラエル人の栄光のように扱われる。」ということです。

ここで注目していただきたいことは、このダマスコは取り去られて廃墟となると言われていることです。先ほど申し上げたように、このダマスコは世界最古の町ですが、その歴史においてはまだ一度も廃墟になったことがありません。昔からずっと今に至るまで人が住み続けているわけです。しかし、ここにははっきりと「廃墟となる」と言われています。ということは、この預言はこれから起こるということです。ですから、これはイザヤの時代に起こることではなく、遠い未来に起こることが預言されているわけです。とはいっても、イザヤがこれを預言したのはアハズ王が死んだ年(14:28)、すなわちB.C.715年ですから、もう2700年も経っているわけです。それはそう遠くない未来に起こることでしょう。毎日テレビのニュースを観ていると、このシリヤの情勢が非常に緊迫しています。2007年にはシリヤが核を保有しているということでイスラエルが空爆を行いました。このみことばの実現に向かって刻一刻と進展しているわけです。もしダマスコが壊滅したということを聞いたら、このみことばが成就したんだと思ってください。イザヤの時代には遠い未来のことでしたが、現代に生きている私たちにとっては、これは近い未来に起こる出来事なのです。ダマスコは取り去られて町でなくなり、廃墟になります。アロエル、これもシリヤの町のことですが、アロエルの町々は捨てられて、家畜がたむろするようになるのです。

ところで、3節を見てください。突然ここにエフライムが出てきます。エフライムとは北イスラエルのことです。今ダマスコに対して語られているのに、突然エフライムのことが出てきます。「エフライムは要塞を失い、ダマスコは王国を失う。アラムの残りの者は、イスラエル人の栄光のように扱われる。」と。

いったいどうしてここにエフライム(北イスラエル)のことが言及されているのでしょうか?実はこのときエフライムはアラムと手を組んでいました。隣国アッシリヤの攻撃に対処するために、彼らは同盟を結んだのです。もちろん、南ユダ王国にも動揺がありました。けれども、そのような危機的状況の中でもヒゼキヤ王は神に信頼し神に助けを求めて祈ったので、神が奇跡的に助けてくださいました。しかし、エフライムはそうではありませんでした。彼らは神に信頼しないでアラムと手を組んだのです。そのために彼らは、アラムとともに滅ぼされることになったのです。ダマスコはB.C.732年に、エフライムはB.C.722年にそれぞれ陥落しました。エフライムは要塞を失い、ダマスコは王国を失ったのです。

これはどういうことかというと、たとえ神の民であっても異教の国と手を組むようなことがあると、滅ぼされてしまうということです。これまでのイスラエルの歴史をみるとき、主が災いを下されるときにはいつもイスラエルを他の民族と区別して、イスラエルには災いが下ることがないようにしてくださいましたが、ここでは違います。ここではダマスコと一緒にさばかれているのです。神を信じているクリスチャンでもこの世と調子を合わせたり、この世の中に埋没していくことがあるとすれば、エフライムのような結果を招くことになるということです。

ローマ人への手紙12章1節と2節を開いてください。ここには、「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」とあります。

「この世と調子を合わせてはいけません」口語訳では「妥協してはならない」です。これはこの世から離れなさいとか、遠ざかりなさいということではありません。イエス様は「あなたがたは地の塩、世の光です」と言われました。この世にあって塩のように、また、光のように生きなければならないのです。なぜなら、クリスチャンはこの世から救い出され、神の国の中に入れられたからです。国が違えば、法律も違います。どの世界に住んでいるかによって、その生活のスタイル、原理原則は違います。クリスチャンは神の国のものですから、神の国の原則に従って生きているのであって、この世の原則に従ってはいません。だから、神から離れたこの世の思想や流行に合わせるのではなく、神のみこころは何なのか、何がよいことで神に受け入れられるのかをわきまえ知らなければなりません。そのために必要なことは何でしょうか。心の一新によって自分を変えることです。神の御霊によって心を変えていただかなければなりません。日々、あなた自身を神にささげてください。あなたのからだを、神に受け入れられる生きた供え物としてささげてください。それが霊的な礼拝です。その霊的な礼拝によって、あなたの中に聖霊が臨み、あなたは新しく変えられ、神のみこころをわきまえ知ることができるようになるのです。

ロトの妻は、この世と調子を合わせてしまったので、塩の柱になってしまいました。(創世記19:26)彼女は、主がアブラハムのゆえにロトとその家族を救おうとされたとき、御使いから「いのちがけて逃げるように。うしろを振り向いてはいけない。」と言われたのに、従いませんでした。うしろを振り向いてしまったのです。なぜでしょう。この世に未練があったからです。彼女はソドムの人々の罪深い生活が気に入っていたので、そこから立ち去りたくありませんでした。彼女は神の警告を無視したために、塩の柱になってしまったのです。

あなたの中にこのロトの妻と同じような思いはありませんか。この世があまりにも魅力的なので、そこからなかなか抜け出せないでいるということはないでしょうか。あなたを神にささげてください。この世と調子を合わせるのではなく、神に焦点を合わせてください。神のみこころは何か、何が良いことで、神に受け入れられることなのかをわきまえ知り、そのみこころに歩もうではありませんか。そうでないと、エフライムがダマスコと一緒に滅びたように、この世と一緒に滅んでしまうことになってしまうのです。

Ⅱ.アラムの残りの者(3b-6)

第二のことは、そのような中でも神様は残りの者を残しておられるということです。3節後半をご覧ください。ここには、ダマスコは王国を失うと言われた後で、「アラムの残りの者は、イスラエル人の栄光のように扱われる。」とあります。

エフライムとアラムは、神ではなく人に頼ったので、神はエフライムとアラムを裁かれました。しかし、そのようなさばきの中にあっても、わずかに残りの者を残し、彼らをイスラエル人の栄光のように扱われるというのです。4節から6節をご覧ください。「その日、ヤコブの栄光は衰え、その肉の脂肪はやせ細る。刈り入れ人が立穂を集め、その腕が刈り入れる時のように、レファイムの谷で落穂を拾うときのようになる。オリーブを打ち落とすときのように、取り残された実がその中に残される。二つ三つのうれた実がこずえに、四つ五つの実りがある枝に残される。―イスラエルの神、主の御告げ―」

ここに「その日」という言葉があります。これはイザヤ書におけるキーワードの一つであるということは前にもお話したとおりです。もっと具体的に言うならば、これはイザヤがおかれていた時代のことと同時に、世の終わりのことが預言されているわけです。その日、ヤコブの栄光は衰え、その肉の脂肪はやせ細ります。刈り入れ人が立穂を集め、その腕が穂を刈り入れるときのように、レファイムの谷で落ち穂を拾うときのようになるのです。そこにわずかながら穂が残るという意味です。ボアズの畑で落ち穂拾いをしたルツは、この残りの穂を拾ったのです。また、オリーブの実を刈り取るようになります。オリーブの実を刈り取るとき、すべての実が完全に落ちるかというとそうではありません。そこに二つ、三つの実が残されます。それと同じように、アラムの中にもわずかながらですが、残りの者が残されるのです。神は、アラムが異邦人だからといってすべてを刈り取るようなことはなさいません。そこにイスラエルの真の神を信じ、従う、敬虔な民を残しておられるのです。

あの有名はアラムの将軍ナアマンはその一人です。彼は全身重い皮膚病で苦しんでいましたが、イスラエルの神を信じて救われました。神の預言者エリシャのことばを信じてヨルダン川に七度身を浸して救われたのです。

皆さん、私たちが落胆するのは、どういう時でしょうか?礼拝にあまり人が来ない時です。祈祷会に人がいない時です。救われる人がいない時です。しかし、それで落胆してはいけません。神様はその中にもちゃんと残りの者を残しておられるからです。

エリヤの時代、イスラエルは最悪の暗黒時代を迎えていました。神様に従う人々は激しい弾圧を受け、国中が神様から離れて、バアルとアシェラ像を拝んでいたのです。福音を伝え続けて疲れ果てたエリヤは、神様の御前にこのように嘆きました。「主よ。私は万軍の神、主に熱心に仕えてきました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りました。」(Ⅰ列王19:14)彼は、私しか残っていないと嘆いたのです。すると、神様は言われました。「わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」(同19:18)どういうことでしょうか?神様は、イスラエルと結ばれた契約を捨てなかった、ということです。神は、信仰を持って祈る人を残しておかれたのです。  今の時代も同じです。信じている人がだれもいないように見える中で、神様は残りの者を残してくださり、その人たちを通して神のみわざを行っておられるのです。これが神の方法です。

最近、和歌山県にある美浜グレイスキリスト教会、これは日本バプテスト教会連合に所属する教会ですが、献堂式を行ったという記事を読みました。この教会は戦後間もなくアメリカ人宣教師フランシス・B・ソーリーという宣教師によって開拓され1971年には旧会堂を建設しましたが、宣教師が帰国したあと、20数年にわたり無牧の状態が続き、一時は礼拝出席者が2名にまで減少しました。また台風による旧会堂の床上浸水などの試練にも遭い、解散もしくは合併の危機に直面しました。しかし、この残りの民である二人が最後までこの教会を守ると決心をし、祈り続ける中で、3年前から近隣にあるバプテスト教会連合の教会の牧師による兼牧が始まりました。そのうちに、受浸者や転会者が起こされ、現在会員が8名にまで回復、この8人と客会員、彼らの家族が力を合わせて、今回の新会堂献堂に至りました。おおよそ、教会形成の理念や戦略といったものには全く無縁の教会ですが、兄弟姉妹たちの神様の力を信じきるまっすぐで単純な信仰、そしてあきらめない祈り、そして神様への素朴な献身が豊かな実を結んだのです。教会は、このような残りの民によって守られ、支えられ、前進していくのです。

皆さん、「残りの民」は必ずいるのです。世の終わりまで、主が来られる時まで信仰を堅く守り、神様の御前に従う約束の民は必ずいます。どんなに大きな迫害や、どんなに苦しい状況があったとしても、神の恵みによって「残りの民」は保たれているのです。

このシリヤのダマスコですが、現在人口が2,190万人の大都市です。そのほとんどはイスラム教徒ですが、その中にもクリスチャンがいるんですね。クリスチャンの割合は10%です。ですから、もちろんクリスマスは公休日です。信教の自由がないこの国で10%ものクリスチャンがいることは、神の約束がいかに真実であるかを物語っているのではないでしょうか。日本では信教の自由が保障されているのにクリスチャンは1%にも満ちていません。プロテスタントだけで言うと0.2%です。それでも0.2%はいるのです。ほんのわずかですが、神様はちゃんと残りの民を残しておられるのです。

ですから、たとえ教会が小さいからと言って、そこにあまり人が集まっていないからと言って、落胆してはいけません。神様はどこにでもこの「残りの者」を残しておられ、ご自分の御業を進めておられると信じて、そのみことばに従っていかなければならないのです。

Ⅲ.救いの神を忘れないで(7-11)

では誰が「残りの者」なのでしょうか?最後に、それは神の救いの恵みを覚え、そこにしっかりととどまっている人だということをお話して終わりたいと思います。7節と8節をご覧ください。「その日、人は自分を造られた方に目を向け、その目はイスラエルの聖なる方を見、自分の手で造った祭壇に目を向けず、自分の指で造ったもの、アシェラ像や香の台を見もしない。」

「その日」、アラムの人々は偶像を捨てイスラエルの偉大な主に立ち返るようになります。悔い改めがイスラエルだけでなく、異邦人であったアラムの人々にも起こるわけです。これは、異邦人であっても主に信頼して救われる残りの民が現れるという希望のメッセージです。

それに対して9節のことばはイスラエルに対して語られています。「その日、その堅固な町々は、森の中の見捨てられた所のようになり、かつてイスラエル人によって捨てられた山の頂のようになり、そこは荒れ果てた地となる。」

「その堅固な町々」とは、イスラエルが占領したカナンの町々のことです。エリコの町は、城門が堅く閉ざされた堅固な町で、だれひとり出入りするものがありませんでした。しかし、たとえそのような堅固な町であっても偶像崇拝を行っていたので、イスラエルによって滅ぼされてしまいました。そして、今度はそれと同じようなことがイスラエルの身に起こるというわけです。イスラエルは神の民でしたが神の背き神から離れてしまったので、神の民としての特権を奪われ、そこは荒れ果てた地になってしまうというのです。

いったい何が問題だったのでしょうか。10節と11節にその原因が記されてあります。「あなたが救いの神を忘れてあなたの力の岩を覚えていなかったからだ。それで、あなたの好ましい植木を植え、他国のぶどうのつるをさす。あなたが植えたものを育てるときに、朝、あなたの種を花咲かせても、病といやしがたい痛みの日に、その刈り入れは逃げうせる。」

どういうことでしょうか。彼らがそのようになってしまったのは、救いの神を忘れてしまったからです。力の岩を覚えていなかったからなのです。非常に重要な警告です。決して犯してはならない過ちです。救いの神を忘れてはなりません。私たちにとって一番大きな危機は何でしょうか。この救いの神を忘れてしまうことです。それによって、私たちの霊的な運命が決まってしまうからです。

ルカの福音書に、十人のらい病人がいやされた話があります。イエスが、サマリヤとガリラヤの境にある村を通り過ぎていた時です。十人のらい病人が、声を張り上げて叫びました。「イエス様、先生、どうぞ憐れんでください。」彼らの必死の叫びを聞かれたイエスは、彼らを憐れんで言われました。「行きなさい。そして自分の身体を祭司に見せなさい。」このみことばを聞いたらい病人たちは、祭司長の所に行く途中で完全に癒されました。ところが、こうして癒された十人の中で、神をほめたたえるためにイエスのもとに戻って来たのは、たったひとりだけでした。しかもそれはサマリヤ人だったのです。それを見たイエスは言われました。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」それからイエスはそのサマリヤ人に言われました。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」結局このサマリヤ人は病が癒されたばかりでなく、救いを得る恵みを受けるようになりました。

今日、大きな恵みを受けてもすぐに忘れてしまうこの9人のような人がたくさんいます。ことわざに「恵みは水に記し恨みは石に刻む」という言葉があります。恵みはすぐに忘れても、恨みは絶対に忘れないという意味です。多くの恵みを受けても、その恵みをあまりにも容易に忘れてしまうのです。特に親や兄弟、夫婦のようにごく身近な人たちから受けた恵みは、受けて当然のものと考えています。 そうして他人と比較しては、あれがない、これがだめだと不足な部分を探し出し、それに対する恨みを心に根強く持ち続けることが多いのです。神の恵みを忘れてはいけません。

主エスは「わたしを覚えてこれをおこないなさい」と言われました。聖餐式は、イエスの恵みを覚えるものです。神がイエスを通してあなたに何をしてくださったのかを、いつも覚えておかなければなりません。私たちはらい病人のように 腐り果てる罪人でしかありませんでした。罪のゆえに本当に虚無的で悲劇的な人生を送らなければならなかったのです。しかし、そんな私たちのために神はイエス・キリストをこの世に送り、十字架につけてくださることによって、罪を処罰してくださいました。この主イエスの犠牲的な愛と恵みによって神から離れて死に向かっていた私たちは、その罪から救われ天国に入れていただけるようになりました。私たちは罪と死によって全く絶望的な壁にぶつかり、砕け散るしかないような存在でしたが、永遠のいのちを受ける者とされたのです。神はイエス・キリストによって、私たちの霊魂の中に真の喜びをもたらしてくださいました。私たちは、この救いの神を忘れてはならないのです。いつもこの救いの神を覚え、感謝をささげる者でなければなりません。

アメリカのバージニア州に、貧しい母子が住んでいました。牧師であった父親は子どもが幼い時に天に召され、母親が女手一つで他人の洗濯や掃除などをして苦しい家計から学費を捻出しました。子どもである息子は、いつも母親の労苦に感謝して熱心に勉強に励み、努力してプリンストン大学を卒業しました。卒業式では大学の総長から賞を受け、卒業生総代としてスピーチをしました。彼はスピーチの最後にこう言いました。「お母さん感謝します。お母さんのお陰でこうしてボクは卒業することができます。ですからこれは僕が受けるのではなく、お母さんが受け取るべきです。」そう言うと彼は、学長から受けた金メダルを、みすぼらしい服を着た母親の胸にかけてやりました。やがてその息子は、弁護士になり、大学教授になり、ついには大統領になりました。彼こそ二十代アメリカ大統領ウィルソンです。後に彼はノーベル平和賞も受賞しました。

「わたしを覚えてこれを行いなさい。」あなたは救いの神を忘れないために何をしていますか。こうして日曜ごとに礼拝に出席すること、また、聖餐の恵みに預かること、これは主イエスの救いの恵みを忘れないために大切なことなのです。きょうはこの後で婚約式が行われますが、7月15日は二人にとって決して忘れられない日になるでしょう。いや忘れてはいけません。7月15日という日にちではなく、そのように導いてくださった神の恵みを忘れてはならないのです。  どうか救いの神を忘れることがありませんように。いつも主の救いの恵みを覚え、主に感謝をささげることができますように。それが残れた者のしるしであり、さらに多くの祝福を受ける人なのです。