イザヤ書9章1~7節 「ひとりのみどりご」

きょうは、イザヤ書9章に入ります。このところも何度か取り上げたことがありますが、8章からの流れの中でもう一度読んでみたいと思います。タイトルは「ひとりのみどりご」です。イザヤは7章のところで、やがて来られるメシヤがどのような方であるのかを「インマヌエル」という言葉で表しました。意味は、神は私たちと共におられる、です。私たちを罪から救い出すことができる神が私たちと共におられるなら、私たちは何を恐れる必要があるでしょうか。どのような問題にも勝利することができます。この方が私たちと共におられるのです。  きょうのところには、やがて来られるメシヤがどのような方であるかを、ひとりのみどりごとして紹介されています。きょうは、このみどりごがどのような方であるのかについて、三つのポイントでお話したいと思います。

Ⅰ.やみの中の光(1-5)

まず1節から5節までをて見ていきましょう。1節と2節をご覧ください。「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」

この箇所は「しかし」という接続詞で始まっています。ということは、前の章からの続きになっているということです。8章では、神のおしえとあかしに尋ねなければならない、ということが語られてきました。もし、このことばに従わないとどうなるのでしょうか。20節の終わりにこうあります。「その人には夜明けがない。」皆さん、なぜこの世は暗いのでしょうか。神のみことばがないからです。神のおしえとあかしを聞こうとしないで、別のものに聞こうとします。霊媒とか、さえずりとか、ささやきとか、口寄せといったものです。こうしてみことばが軽んじられるので、人々はだんだんと飢えていくのです。8章21節、22節にはこうあります。「彼は、迫害され、飢えて、国を歩き回り、飢えて、怒りに身をゆだねる。上を仰いでは自分の王と神をのろう。地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者。」イスラエルは、神のみことばに従わなかったので、アッシリヤをはじめとした異邦の民に踏みにじられ、苦難とやみが彼らを覆ったのです。

「しかし」です。しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなります。先にはゼブルンとナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けます。「ゼブルンの地とナフタリの地」とは、最初にアッシリヤの手に落ちたところです。イザヤが預言したとおり、北イスラエルはイザヤの子「マヘル・シャラル・ハシュバズ」が生まれて、まだ「お父さん、お母さん」と呼ぶことも知らないうちに、アッシリヤに滅ぼされてしまいました。これがいわゆるアッシリヤ捕囚です。B.C.722年に起こりました。そして、その地域には多くの異邦人が住むようになったので、その地は「異邦人のガリラヤ」と呼ばれるようになりました。しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなります。ゼブルンとナフタリの地は、はずかしめを受けましたが、光栄を受けました。異邦人のガリラヤは顧みられました。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見ました。死の陰の地に住んでいた人に、光が照りました。どのようにでしょうか?それから約700年後のことですが、神のメシヤがこの地に来て、神の福音を語ってくださいました。マタイの福音書4章12節から17節までを開いてみましょう。

「ヨハネが捕えられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町である。これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。暗やみの中に座っていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

イエスは、ゼブルンとナフタリとの境にある町カペナウムに来て、宣教を開始されました。これは預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためでした。このようにして異邦人のガリラヤは光栄を受けたのです。イエスが語られた恵みのことば、イエスが行われた数々の奇跡、いやしは、その地の人たちにとってどれほど大きな慰めをもたらしたことかと思います。アッシリヤはさることながら、その後もバビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマといった異邦人にずっと踏みにじられてきました。そうした苦しみの中で、神の民であることにどれほどの特権と喜び、意義を感じていたでしょうか。ほとんど感じられなかったでしょう。自分たちが何のために存在し、どこに向かって歩んでいるのかもわからない、無味乾燥な生活の繰り返しでした。そのような中にイエスが来られたのです。そして、そのようにしいたげられていた異邦人のガリラヤで、福音の第一声を語られました。それは、苦しみにあえいでいた彼らにとって、本当に大きな喜びであり、慰めであり、希望であったにちがいありません。

それと同じように、イエスはあなたの心のやみ、人生の苦難のただ中に来てくださいます。そして、これまでいろいろなことでしいたげられ、苦しんでいた心を、傷ついていた心に光を照らしてくださいます。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見るようになります。あなたがイエスを信じたその時から、この光が照るようになるのです。

3節から5節には、そんな彼らの喜びが次のように表現されています。「あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。」

それは刈り入れ時の喜びのようであり、また、戦利品を分け合う時の喜びのようであります。また、それはあのミデヤンの日になされた時のようです。ミデヤンの日になされたというのは、士師記7章に出てくる話ですが、ギデオンがたった三百人の勇士によって、十三万人以上のミデヤン人を打ち破ったという話です。それによって、それまで彼らにのしかかっていた重荷から解放されました。私たちも日々いろいろなストレスを抱えながら生きていますが、このストレスがどれほど体に悪いものであるかを知っています。そうした重荷の一切を、あのミデヤンの日になされたように、粉々に粉砕されるのです。その結果、完全な勝利と平和がもたらされます。「戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる」からです。

もちろん、私たちはまだ完全な形でこの実現を見ていません。ここに記されてあるような解放というものを、まだ経験していません。それは、イエスが再臨される時まで待たなければならないのです。イエスが再臨されるとき、私たちは復活のからだ、御霊のからだをいただいて墓からよみがえり、空中で主と会います。その後イエスと一緒にこの地上に下りて来て、千年間地上を治めるわけです。これが千年王国です。そのとき、このみことばが文字通り実現します。それまで待たなければなりません。しかし、イエスを信じたその瞬間から、あなたの中にこの神の支配が始まります。そして、これまで体験したことがない喜びと解放を体験するでしょう。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見たというこのみことばを、あなたは実際に体験することになるのです。

Ⅱ.ひとりのみどりご(6)

次に6節をご覧ください。ここには、やみを照らす光としてのメシヤがどのようにして来られるかが記されてあります。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」

その方は、ひとりのみどりごとしてお生まれになられます。そして、ひとりの男の子として、私たちに与えられます。これはイエス・キリストによって成就しました。クリスマスの出来事です。ヘンデルの「メサイヤ」の題材にもなっているところですね。

ここには、「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。」とあります。「みどりご」とは、赤ちゃんのことです。ひとりの赤ちゃんが生まれると書いた方がわかりやすいと思いますが、文章語としては「みどりご」という言葉を使います。このみどりごが、生まれるのです。この「生まれる」という言葉に注意してください。「生まれる」というのですから、これはこのみどりごの人性、人間性が表されています。この方は人間としてお生まれになられるということです。

しかし、その次を見てください。ここには「ひとりの男の子が、私たちに与えられる」とあります。ここで「男の子」と訳されたのは間違いです。これは「男の子」ではなく「息子」、あるいは、「ひとり子」と訳さなければならない言葉です。なぜなら、ここではこの方の神としての性質、神性が強調されているからです。ですから、この方は生まれるのではありません。与えられるのです。ひとりの男の子が与えられるとありますね。英語では「a Son」です。息子です。息子が与えられるのです。息子が与えられるということで思い浮かべる聖句がありますか?ヨハネ3章16節です。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

このひとり子のことです。このひとり子は神のひとり子という意味で、神としての性質が強調されているわけです。ですから、ただの「男の子」にすると、そのニュアンスが伝わりません。やがて来られるメシヤは、ひとりの嬰児として生まれた神の御子なのです。イエスは100%神であり、100%人間です。イザヤはそのような方がメシヤとして来てくださると預言したのです。

この方について、続いてこのように書かれてあります。「主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。ここには、この方がどのような方であるのかが、四つの呼び名で表されています。

まず第一に、この方は「不思議な助言者」です。ワンダフル・カウンセラー(wonderful counselor)です。イエス・キリストはワンダフルなカウンセラーです。 どういう点でワンダフル・カウセラーなのかというと、イエスは私たちの心の中で考えていることも含めて、私たちのすべてを知っておられ、私たちの人生における完全な計画も持っておられ、その道を示してくださるという点においてです。この方は人間のレベルを超えています。私たちにとって何が最善であるのかを知って、その道に導くことができるのです。

ですから、あなたに悩みがあり、相談事があるなら、イエス様に相談してください。相談料はもちろん無料です。アポイントもいりません。予約は一切必要ありません。いつでも、どこでも、私たちはこの不思議な助言者に悩み事を聞いてもらえます。あなたの思い煩い、言い知れぬうめきの言葉も、この方がしっかりとくみ取って、受け止めてくださいます。シロアムの水のほとりに行ってみてください。静かな時間をこの方と過ごしてみてください。この方があなたに必要なことを必ず示してくださいます。ワンダーフルカウンセラーがワンダフルなアドバイスをしてくださいます。

でも、ただアドバイスをしてくれるだけではありません。ただアドバイスをしてくれるだけなら、この世のカウンセラーと何も変わりません。この方がワンダフルなのは、同時に力ある神だからなのです。力ある神とは、マイティー・ゴッド(mighty God)です。マイティーとは、力強いとか、大能という意味です。この方はただアドバイスをしてくれるだけでなく、そのアドバイスを実行する力を持っておられます。私も牧師としていろいろなアドバイスをします。でもアドバイスしかできません。それ以上のことはできません。しかし、この方はワンダーフルカウンセラーですから、アドバイスをされたら、そのアドバイスをあなたが実行するために必要な力を与えてくださいます。この方が力ある神としてあなたを支えてくださいます。そのアドバイスを実行できるように、最後までこの方がついていてくださいます。この方には不可能なことは一つもありません。ヨハネの福音書1章3節には、

「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」

とあります。この方は無から有を、すべてのものを造られた創造主なのです。この全能の力をもってあなたを助けてくださいます。

それから、ここには「永遠の父」とあります。赤ちゃんとして生まれてきますが父です。父親とはどういう存在でしょうか。皆さんも父親ならばわかるはずです。子供が悲しんでいたら、子供が傷ついていたら、父親であるあなたの心は動きます。子供が何かで悩んでいたら、何とかして助けてあげたいと思うものです。欲しいものがあれば、お金がなくても何とか勝ってあげたいと思うでしょう。お腹が空いていたら、満たしてあげたいと思います。イエス・キリストは父親の心を持って、悲しんでいるあなたを、苦しんでいるあなたを、ニーズを抱えているあなたを、黙ったまま傍観しておられる方ではありません。父親の心は動くんです。あなたのために動きます。ですから、父の心を持っておられるイエスは、あなたに最高のアドバイスを与え、最善に導きたいと願っておられるのです。あなたを助けたいと常に願っています。あなたの支えになりたい、力になりたいと、いつも願っています。ただ力があるのではありません。ただアドバイスができるのではありません。的確なアドバイスをし、そのアドバイスを実行できるように力を与え、それがあなたのことを心から思ってのアドバイスであるということがわかります。マタイの福音書7章7節から11節までを開いてください。

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」

私たちの救い主イエス・キリストは父の心を持っておられます。そして、私たちのニーズに心を動かしてくださり、それに答えてくださいます。それだけではありません。ここには、永遠の父とあります。単なる父ではなく、永遠の父です。肉の父親は年を取るとこの世を去って行かなければなりません。しかし、イエスは永遠の父として、私たちとともにいてくださるのです。マタイの福音書28章20節には、「また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」とあります。イエスは世の終わりまで、いつもあなたとともにいてくださいます。ヨハネの福音書14章18節では、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」とあります。あなたを捨てて、孤児にするようなことはなさいません。今しばらくの間は天におられるのでこの目で見ることはできませんが、代わりに聖霊を送り、私たちが見ることができるようにしてくださっています。ですから、私たちは安心して、自分の生涯をこの方にゆだねることができるのです。

そして、キリストについてここにはもう一つの呼び名で紹介されています。それは「平和の君」です。「プリンス・オブ・ピース」(prince of peace)です。この方は平和の王として来られました。

この地上には、どこを見ても平和はありません。多くの戦争が繰り返されています。その悲劇を見ても、人類は少しも反省することなく、限りなく戦争を繰り返しているのです。相対性理論を唱えたアインシュタインは、生前、「今や文明を破壊する武器に対する防備策はない」と言いました。また、ジョン・F・ケネディーは、「人間は戦争を終息させなければならない。そうでないと、戦争が人間を滅ぼしてしまう。」と言いました。いったいどうしたら平和になるのでしょうか。

この平和はお金で買うことはできません。ただ十字架に付けられて死なれたイエス・キリストを信じ、神と和解することによってのみもたられます。なぜなら、この方は平和の君として来られたからです。エペソ人への手紙2章14-16には、 「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人を造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」(エペソ2:14-16)とあります。キリストこそ私たちの平和です。キリストは、ご自分の肉によって敵意を廃棄されました。それは平和を実現するためであり、神と和解するためでした。

かつてイギリスの作家ジェフリー・アーチャーが、「ケインとアベル」という小説を書きました。銀行の頭取ケインとアメリカのホテル王と言われたアベルが、ささいなことで喧嘩をし、反目しながら生活するようになりました。しかし、このケインの娘とアベルの息子が愛し合うようになり、親の反対を押し切って結婚し、こどもが生まれるのです。その子供の名前はウィリアム・アベル・ケインです。この子の誕生をきっかけに、長らく続いていたケインとアベルの家に和解がもたらされました。イエス・キリストはこのウィリアム・アベル・ケインのように、神と人類が和解をするためにこの世に生まれてくださったのです。そして、あくまでも神に背き、自己中心的に行き続ける人間のために十字架にかかって死なれることで、私たちが受けるべき一切の刑罰をその身に負ってくださいました。イエス・キリストこそまことの平和です。この方はやがて再びこの地上に来られる時、完全な平和な国を樹立してくださいます。

Ⅲ.ダビデの王国(7)

最後に7節をご覧ください。「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」

これは来るべきメシヤ王国のことです。Ⅱサムエル7章12,13節のところで、主がダビデに約束された王国のことであります。「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」この王国のことであります。ダビデの身から出る世継ぎの子とはソロモンですが、これはソロモンのことではありません。この王国はイエス・キリストによって樹立される王国のこです。それはこのイザヤ全体のテーマの一つにもなっている王国のことで、世の終わりにキリストが再臨されたことによってもたらされる王国、千年王国のことです。その時キリストはエルサレムに王座を置いて、君臨されるのです。罪によって破壊された世界は刷新されて、天地が創造された時のパラダイスのような地球に回復してくださいます。そこには弱肉強食などがない平和な時代がやってきます。信じられないような平和と繁栄の時代をイエスが立てられるのです。

しかし、キリストの弟子たちは、このことをよく理解していませんでした。イエスが最初にこの世に来られたとき、それがすぐにもたらされるものだと思って、「主よ、いつですか。いつあなたは王国を打ち立ててくださるのですか。」と何回も尋ねました。しかし、これに対するイエスの答えはこうでした。ヨハネの福音書18章36節です。

「イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」

わたしの国はこの世の国ではありません。イエスが打ち立ててくださる王国は、この世のものではありません。物理的、政治的、経済的なこの世の国ではありません。むしろこれは、ルカの福音書17章20,21節に記されてあるような国です。

「さて、神の国はいつくるのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」

イエスが言われている神の国というのは目に見えないもので、むしろ、信じる者たちの心の中にあるものだとおっしゃられました。パウロはこの神の国についてローマ14章17節で次のように言っています。「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」

ですから、イエスはこの世に千年王国をもたらすために今から二千年前に来たのではありません。政治的、軍時的指導者で来たのではありません。しかし、当時の人々は、まさにイエスがローマの圧政から救い出して、そしてイスラエルを復興して、旧約に約束されているようなダビデのとこしえの王国を樹立してくれる方だと思い込んでいました。もうこれで税金を払わなくてもいい、もうこれで何不自由ない生活ができるようになるとか、そう思っていたのです。

今日も早合点している人たちがいます。クリスチャンと呼ばれている人たちの中に、神の国が物理的にこの地上に樹立されるべきだと考えて、クリスチャンの政治家をたくさん送り込んで、そしてこの目に見える世界をよくしていくように変えてべきだ、そして、キリスト教国にしようという人たちがいます。しかし、そういう教えは非聖書的です。それは二千年前のユダヤ人たちと同じ過ちであります。または、弟子たちの混乱と同じです。

イエスはなぜ今から二千年前に来られたとき地球上のすべての悪を一掃して、この地上に千年王国を樹立されなかったのでしょうか?それは人々がイエスを拒んだからです。イエスをメシヤとして受け入れなかったからです。イエスはまずは霊的なメシヤとして、罪人の罪を取り除くためにこの世に来られました。すべての罪を贖い、すべての罪を赦して、私たちを義と認めるためにこの世に来てくださったのです。霊的メシヤとして罪の問題をすべて解決するために来られたのです。天国の国民としてふさわしく整えるために、罪の処理が必要でした。ですから、二千年前にイエスが始めて来られた時には、この目的のために来られたのです。でも、二回目は違います。二回目は、さばき主としてやってきます。そしてここに約束されているように、その王国はとこしえの王国となります。弟子たちはそのことがわからなかったので、常に混乱していたのです。旧約聖書に約束されていた神の王国を期待していたのですが、早合点していたり、混乱してしまったりしていたのです。

私たちも注意したいと思います。イエスがもたらした神の国は霊的なものです。私たちの罪を赦し、私たちが永遠のいのちを持つために来てくださいました。これがやがて実際にこの地上にもたらされる神の王国へとつながって行きますが、そのためには待たなければなりません。それにふさわしく整えられるために、二千年前にこの世に来られ、罪の贖いを成し遂げてくださったイエス・キリストを救い主として信じ名ければならないのです。それが、やがてもたらされる地上の楽園、千年王国に入る最大の準備なのです。

あなたは、その準備が出来ていますか?あなたは二千年前に来られ、あなたのために十字架にかかって死なれ、あなたの罪をあがなってくださったイエスを救い主として信じているでしょうか?

「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」万軍の主の熱心がこれを成し遂げてくださいます。あなたがすることではありません。救いは一方的な神の恵みのみわざです。あなたがすることは、その神の恵みを受け入れることだけなのです。万軍の主の熱心がこれを無成し遂げてくださいます。あなたは神が成し遂げてくださった救いのみわざを、信仰をもって受け止めてください。そのときあなたの中に神の国が始まるのです。

イザヤ書8章1~22節 「主を待ち望む」

きょうはイザヤ書8書から学びたいと思います。タイトルは「主を待ち望む」です。アラムの王レツィンとイスラエルの王ペカが連合して攻めてくると聞いた時、ユダの王アハズは揺れに揺れました。林の木々が揺らぐように動揺したのです。その時イザヤに主のことばがありました。「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。」しかし、アハズ王はそのことばを信じることができませんでした。「しるしを求めよ」という命令にも従わないで、自分の力で解決しようとしたのです。それはアッシリヤに頼るということでした。アッシリヤに頼れば何とかなると考えたのです。しかし、昨日の友はきょうの敵です。今度はそのアッシリヤによって苦しめられることになります。人間の考えることはいつもこうなのです。表面的には解決したかのように見えますが、もっと自分をがんじがらめにしてしまうことになります。本当の解決は主にあります。主を待ち望まなければなりません。きょうは、そのことについて三つのことをお話したいと思います。

Ⅰ.神がともにおられる(1-10)

まず第一に1節から10節までをご覧ください。1節から4節につばのようにあります。「主は私に仰せられた。「一つの大きな板を取り、その上に普通の文字で、『マヘル・シャラル・ハシュ・バズのため』と書け。そうすれば、わたしは、祭司ウリヤとエベレクヤの子ゼカリヤをわたしの確かな証人として証言させる。」そののち、私は女預言者に近づいた。彼女はみごもった。そして男の子を産んだ。すると、主は私に仰せられた。「その名を、『マヘル・シャラル・ハシュ・バズ』と呼べ。それは、この子がまだ『お父さん。お母さん』と呼ぶことも知らないうちに、ダマスコの財宝とサマリヤの分捕り物が、アッシリヤの王の前に持ち去られるからである。」

主はイザヤにもう一人の男の子を与えられました。その子の名前は「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」です。意味は「急げ」、「獲物を」、「奪え」、「早く」です。略奪者は速やかに来る、ということでしょう。その言葉のとおりに、アッシリヤがやって来てアラムとエフライムを滅ぼし、彼らの国から財宝を奪っていくわけです。それがこの「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」という名前が意味していたことでした。4節のダマスコというのはアラム(シリヤ)の首都のことで、サマリヤとはエフライム(北イスラエル)の首都のことです。この二つの国にアッシリヤがやって来て、すみやかに財宝を奪っていくのです。「この子がまだ『お父さん。お母さん』と呼ぶことを知らないうちに」とは、この子がまだ小さいうちにという意味です。おそらく1歳か2歳になるまでにということでしょう。7章15節から17節のところに預言されていたとおりです。そのとおりに、これが預言されてから1~2年のうちに、すなわち、前732年にダマスコが、また前722年にサマリヤが滅ぼされることになるわけです。ユダの王アハズにとっては「してやったり」といった気持ちだったでしょう。自分が思っていたとおりになったわけですから・・・。アラムとエフライムの攻撃という難局を乗り越えることができました。

ところがです。事はそれでは終わりませんでした。5節から8節を見てください。「主はさらに、続けて私に仰せられた。「この民は、ゆるやかに流れるシロアハの水をないがしろにして、レツィンとレマルヤの子を喜んでいる。それゆえ、見よ、主は、あの強く水かさの多いユーフラテス川の水、アッシリヤの王と、そのすべての栄光を、彼らの上にあふれさせる。それはすべての運河にあふれ、すべての堤を越え、ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する。インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる。」

どういうことでしょうか?主は、アハズが主をないがしろにしてアッシリヤにより頼んだことを責めておられるのです。「この民は、ゆるやかに流れるシロアハの水をないがしろにして、レツィンとレマルヤの子を喜んでいる。」と。この「ゆるやかに流れるシロアハの水」ですが、これはエルサレムの町の外にあるギホンの泉からエルサレムに流れていた小川のことです。その水は、イエス様が盲人をいやされたあのシロアムの池に流れていました。「シロアハ」はギリシャ語で「シロアム」です。その川の全長は533メートルありましたが、その間の高低差はわずか2メートルしかなかったので、人の目には目立たないくらいのゆるやかな流れになっていたのです。しかし、そのように目立たない水であってもエルサレムの住人にとってはなくてはならないいのちの水です。生きていく上で必要不可欠なものでした。なのにそれをないがしろにして、レツィンとレマルヤの子を喜んでいる、つまり、神に信頼しないでアッシリヤに頼り、この二つの国が倒れたことを喜んでいたのです。

それで主はどうされるのかというと、7節と8節です。「それゆえ、見よ、主は、あの強く水かさの多いユーフラテス川の水、アッシリヤの王と、そのすべての栄光を、彼らの上にあふれさせる。それはすべての運河にあふれ、すべての堤を越え、ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する。」

それゆえに、主は、あの水かさの多いユーフラテスの水を、彼らの上にあふれさせます。ユーフラテスの水とはアッシリヤのことです。アッシリヤによってアラムとエフライムは滅ぼされます。しかし、それだけではありません。「それはすべての運河にあふれ、すべての堤を越え、ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する」ようになるのです。つまり、その水は運河にあふれ、ユダにまで流れ込むようになるということです。自分たちを守ってくれるはずのアッシリヤが、今度はユダに押し寄せ、飲み込んでしまうというわけです。このことは、前701年にアッシリヤの王セナケリブがエルサレムにやって来てこれを包囲し、陥落させる寸前にまで追い込んだことで実現します。それは、アハズがゆるやかに流れるシロアハの水をないがしろにして、アッシリヤに頼ったからです。

これは、私たちへの教訓でもあります。シロアハの水はゆるやかに流れるのであまり目立ちません。しかし、実はこの水こそ私たちを生かすいのちの水なのです。その流れはあまりにもゆるやかなので、私たちはついついそれをないがしろにしがちになります。人間の目を奪う派手な活動に心が奪われてしまうのですが、ほんとうに私たちが目を留め、心を留めなければならないは、このシロアハの水なのです。ここにこそ本当の解決があるからです。

8節後半から10節には、「インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる。」国々の民よ。打ち破られて、わななけ。遠く離れたすべての国々よ。耳を傾けよ。腰に帯をして、わななけ。腰に帯をして、わななけ。はかりごとを立てよ。しかし、それは破られる。申し出をせよ。しかし、それは成らない。神が、私たちとともにおられるからだ。」とあります。

このみことばは非常に難解なみことばです。この翼が何を指しているのかがわかりずらいのです。これまでアッシリヤをユーフラテス川にたとえていましたが、ここではそれが翼に代わっているのか、それとも、ユダを守る翼として描かれているのかがはっきりしていないのです。もしこの翼があっしりやのことを指していると解釈すると、これは略奪の翼となります。アッシリヤの軍隊によってユダの国民は、国中どこにも逃げ場がないという意味になるわけです。しかし、これが保護のための翼と解釈すると、逆に、これを神ご自身の保護の翼になるわけです。神が翼を広げてユダを守っておられるという意味になるのです。おそらく、ここでは神の保護を表していると考えるのがいいと思います。なぜなら、ここに「インマヌエル」ということばがあるからです。「インマヌエル」とは、神は私たちとともにおられる、という意味です。この後の10節にも、「このことばが繰り返されています。「神が、私たちとともにおられるからだ。」つまり、どんなに彼らがユダを攻めて来てもそれは成りません。なぜなら「神が、私たちとともにおられるから」です。その広げた翼でユダを守ってくださるのです。

実際に、これがヒゼキヤの時代に起こります。36章から39章のところにその様子が記されてありますが、ヒゼキヤ王の第十四年に、アッシリヤの王セナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々を攻め取りました。その時、ヒゼキヤは主に祈ります。「あなただけが神です。どうか、私たちを彼の手から救ってください。」と。すると主はイザヤを通して言われました。「あなたが聞いたあのことば、アッシリヤの王がわたしを冒涜したあのことばを恐れるな。わたしは、彼を剣で倒す。彼はもと来た道から引き返し、この町には入らない。わたしはこの町を守って、これを救おう。万軍の主の熱心がこれをする。」するとどうでしょう。その夜、主の使いは出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺しました。人々が翌朝起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていたのです。(38:36)

当時世界の最強国であったアッシリヤが弱小国であったユダに勝てないはずがないのです。しかし、ユダを打とうとするアッシリヤの試みは実現しませんでした。なぜでしょうか?神が、ともにおられたからです。インマヌエル。その広げた翼が国の幅いっぱいに広がり守ってくださったからなのです。

Ⅱ.神が聖所となられる(11-15)

第二に、11節から16節までをご覧ください。まず11節と12節です。「まことは主は強い御手をもって私を捕らえ、私にこう仰せられた。この民の道に歩まないよう、私を戒めて仰せられた。」「この民が謀反と呼ぶことをみな、謀反と呼ぶな。この民の恐れるものを恐れるな。おののくな。」

この民の道とは、アハズをはじめとしたユダの人たちが歩んでいた道です。彼らはアラムとエフライムの攻撃を恐れ、アッシリヤと手を組んでそれに対峙しようとしましたが、それは主をないがしろにすることでした。そうした民の道に歩まないように、というのです。この民が恐れるものを恐れてはならないのです。イザヤが本当に恐れなければならないものは何でしょうか?それは、主ご自身です。13節をご覧ください。ここには、「万軍の主、この方を、聖なる方とし、この方をあなたがたの恐れ、この方を、あなたがたのおののきとせよ。」とあります。

私たちは絶えず、人を恐れるのか、それとも神を恐れるのかの選択に迫られますが、私たちが恐れなければならないのは、万軍の主なのです。この方を恐れ、この方をおののきとしなければなりません。イエス様は何と言われましたか?「からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。」(ルカ12:4-5)と言われました。これが万軍の主です。そうすれば、この方が聖所になってくださるのです。聖所とは何ですか?聖所とは、主がともにおられる場所を意味します。主がともにおられるので、何の心配もいりません。そこは安全な場所となるのです。しかし、信じない人にとってはそうではありません。それは、妨げの石、つまずきの岩です。わなとなり、落とし穴となるのです。ルカの福音書2章34節に、「また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対のしるしとして定められています。」とあります。これはイエス様が生まれたとき、シメオンという預言者がイエスについて語った言葉です。イエス様は多くの人が倒れ、また立ち上がる他めに定められたのです。ある人にとっては聖所となり、またある人にとっては妨げとつまずきの石になるのです。その差はどこから生じるのでしょうか?主の言葉に信頼できるかどうかです。

オーストラリアのニック・ブイチチさんは、生まれつき両手両足がない先天性四肢欠損症という障害をもっています。彼は、その現実をなかなか受け止められなかったようです。牧師の家庭に生まれ、イエス様が僕を愛しているのなら、どうして神様は他人のように僕に手足をくださらなかったのか、と思っていました。思春期になり、決まった仕事についたり、結婚したり、子どもを育てたりといった人並みの幸せすら手にできないで、一生みんなのお荷物として生きるしかないのなら、生きていても仕方がない…と、一度は自殺を試みました。風呂の中に沈んでいる時、両親が泣いている光景が頭をよぎり、自殺をとどまりました。死にたいという息子の気持ちを知った父はニックの頭をなでながら「みんなお前の味方だ。どんな時でも私たちがついている…」と話してくれました。  15歳になったとき、ヨハネの福音書9章に出てくる生まれつきの盲人の話を聞いて、衝撃を感じました。「彼が盲目に生まれついたのは誰が罪を犯したからですか」という弟子の質問に答えたイエス様のことば「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」(3節)ということばに触れたとき、すべての答えがわかりました。このようにして生まれてきたのは、神様の栄光が現されるためだということ・・を。これまでずっと、手や足が与えられるように祈ってきましたが、神様は、「私の恵みはあなたに十分である。私の力は弱さのうちに完全に現れる』(Ⅱコリント12:9)と教えてくださいました。ですから、『たとえ与えられなくても、あなたを信頼し続けます』と祈るようになったのです。神様は状況ではなく、彼の心を変えてくださいました。  同じころ、300人の学生の前で、自分が乗り越えて来た数々の困難について、自分の思いについてスピーチをしました。するとその話を聞いた一人の女の子が泣きだしました。彼女はこういいました。「あなたのおかげで人生が変わりそうです」。「その時、自分にも誰かのためにできることがあるかもしれないと思いました。」この経験がきっかけで、世界30か国を回って講演するようになりました。ニックは言います。「本当の障害とは、自分の人生に自分で限界を設けてしまうことです。神様は僕に奇跡を現わすという計画ではなくて、僕自身が誰かに対して奇跡になるという計画をお持ちでした。その計画を最初、僕も両親も全く分かりませんでしたが、それがわかったのです。神様は僕だけでなく皆さんにも計画を持っておられます。どうか、あなたに対して持っている神様の『将来と希望を与える』計画に期待してください」

本当に恐れなければならないのは、この方なのであって、自分の置かれた状況とか、環境ではないのです。この方を恐れ、この方に信頼するなら、この方が聖所となってくださるのです。

ですから、16節に次のように命じられているのです。「このあかしをたばねよ。このおしえをわたしの弟子たちの心のうちに封ぜよ。」どういうことでしょうか?「たばねる」とは、一つにまとめるということであり、「封じる」とは、閉じるとか、ふさぐということです。神のあかしとおしえを心のうちに束ねて、しっかりたくわえておくようにという意味です。多くの問題の原因はここにあります。神の御言葉ではなく、他のものに尋ねてしまうのです。

19節と20節を見てください。「人々があなたがたに、「霊媒や、さえずり、ささやく口寄せに尋ねよ」と言うとき、民は自分の神に尋ねなければならない。生きている者のために、死人に伺いを立てなければならないのか。おしえとあかしに尋ねなければならない。もし、このことばに従って語らなければ、その人には夜明けがない。」とあります。神の御言葉ではない、他のものに尋ねるので、夜明けがないのです。そうしたところにあるのは、苦難とやみ、苦悩と暗やみ、悪国と追放です。

これは、イザヤの時代だけでなく、現代でも同じです。どちらかというと人々は、こうしたものに引きつけられていく傾向があるのです。霊媒とか、さえずり、口寄せ、占いです。神の御言葉よりも、もっと感覚的なものとか、イメージに訴えるもの、あるいは人間の感性に訴えるスピーチなどに引きつけられていくのです。東洋的な思想を取り入れた瞑想などです。そうしたものがキリスト教の中にも入り込んでいます。そして、知らずのうちにどっぷりと浸かっているということがあるわけです。しかし、そこには夜明けがありまん。そこにあるのは、苦難とやみ、苦悩と暗やみなのです。御言葉がないと暗くなるのです。ですから、これをたばねて、心の中に封じておかなければなりません。頑固に、神の御言葉にしがみついていなければならないのです。なぜなら、ほんとうに人を生かし、人を守り、人を助け、人を励まし、人を正しい道に導くものは神の言葉だからです。詩篇119篇105節に「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」とあるとおりです。神のみことばだけが私たちの道を照らし、進むべき道を示してくださるのです。

Ⅲ.主を待ち望め(16-22)

ですから、第三のことは主を待ち望めということです。17節と18節をご覧ください。「私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に、望みをかける。見よ。私と、主が私に下さった子たちとは、シオンの山に住む万軍の主からのイスラエルでのしるしとなり、不思議となっている。」    このような主の言葉に対して、イザヤは「私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に、望みをかける。」と告白しました。すばらしいですね。何がすばらしいのかというと、イザヤはヤコブの家から御顔を隠しておられる主を待つと言っていることです。イザヤが置かれていた情況は、まさに主が御顔を隠しておられるようでした。主がおられるなら、いったいなぜそのような情況を許されるでしょうか。アラムやイスラエルが攻め寄せてくることや、アッシリヤが押し寄せてくること、あるいはいくら主に信頼せよと語ってもだれも聞こうとしないというようなことが・・・。それはまさに主が御顔を隠しておられるかのようでした。けれどもイザヤは、その中でも主を待ち望むと言ったのです。この方に望みをかけるといったのです。これがほんとうの信仰です。信仰とは望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものなのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待つのです。周りの状況にかかわりなく主を待ち望むこと、これが真の信仰者の姿勢なのです。

アンドリユー・マーレイの名著「主を待ち望め」の中に、次のような話が記されてあります。  少し前のことですが、英国に有名な交響楽団があり、国内のあちこちを回ってコンサートを開いていました。ところが不況が始まり、客の入りが悪くなってきました。そして何年かののちには、ついに一般の人は切符を買えなくなるところまで来たのです。そんなある日の夕方のこと、力なく会場の整理をしていた一人の楽団員が言いました。「きょうは、コンサートはやめにしよう。昨晩は、ほんのわずかの入りだった。ところがきょうは、もっと悪いことに雪が降っている。一人も来ないかもしれないから、きょうは中止にしよう。」「そうだ、そうだ。こんな悪い状態でこれ以上がんばり続けるのは、もうごめんだ。」と、もう一人が相づちを打ちました。  ところが、思慮ある年輩の団員が、こう言ったのです。「ちょっと待ってくれ。われわれは、切符を買った人に対して責任がある。だからたった一人しか来ないにしても、やめてはいけない。さあ今晩は、ベストを尽くそう。」こうして彼らは、今までで最高の演奏をすることができました。感動に酔った少数の観衆の中に一人の品のある老紳士がいて、帰りがけに一枚の紙切れを手渡しました。そこにはこう書いてありました。「とてもすばらしい演奏を感謝しています。国王より。」そう、国王が見ていたのです。

主を待ち望むことは、簡単なことではありません。しかし、私たちの天の王であり、しかも御父であられるお方が、私たちに愛のまなざしを向けておられるのです。「隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6:6)だから、たとい思わしくない情況下であっても、この方に望みをかけるなら、この方がすべてをご覧になられて、豊かに報いてくださるのです。

「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ40:28

主を待ち望み、日々新しい力をいただき、走ってもたゆまず、歩いても疲れない、そんな人生を歩ませていただきたいものです。

イザヤ書7章10~25節 「インマヌエルの神」

きょうは、イザヤ書7章の10節から25節までのみことばから学びたいと思います。タイトルは「インマヌエルの神」、共におられる主です。14節に、「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」とあります。「インマヌエル」というのは「私たちと共におられる神」、または「神われらと共にいます」という意味です。これはキリスト教においてとても大切な用語です。私たちの信じる神は、神社や仏閣に行かなければいない神なのではなく、いつも私たちと共におられる神です。今日は、このインマヌエルの神について三つのポイントでお話しししたいと思います。

Ⅰ.しるしを求めよ(10-12)    まず、10節から12節までをご覧ください。「主は再び、アハズに告げてこう仰せられた。「あなたの神、主から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから。」するとアハズは言った。「私は求めません。主を試みません。」

ここに、「主は再び、アハズに告げて仰せられた」とあります。再びということは、その前にも一度語られたということです。どんなことを語られたのでしょうか?1節には、「ウジヤの子のヨタムの子、ユダの王アハズの時のこと、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、エルサレムに上って来てこれを攻めた」とあります。これは前745年ことです。イザヤが預言者として召されてから5年後のことです。ユダの王がアハズになったとき、アラムとイスラエル、これは北イスラエルのことですが、連合してユダを攻めてきたのです。その知らせがアハズに告げられたとき、彼の心は揺れに揺れました。2節には、「林の木々が風で揺らぐように動揺した」とあります。そのとき預言者イザヤをとおして主が語られました。4節です。「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。」と告げました。そして10節、「もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことはできない。」それに対してアハズは何と答えたでしょうか?何とも答えていません。答えられなかったのです。なぜなら、彼の中には主に信頼するよりもアッシリヤという大きな国に助けをを求め、彼らによってその危機を打破しようという思いがあったからです。ですから、ここには深い沈黙があるのです。それは人間の不信が作り出した神との間の深淵です。

そこで主は再び、アハズに告げて言われました。「しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから。」と。「しるし」とは何でしょうか?しるしとは聖なる神のオン前に出ることです。主に信頼するなら守られるというしるしのことです。聖書を見ると、このようなしるしを求めることはあまり好ましいことではありません。申命記6章16節には、「あなたの神、主を試みてはならない」とあります。また、主イエスは弟子であるトマスに、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:29)と言われました。見ずに信じることが大切なのです。それが信仰です。しるしを求めて主を試みるようなことは、信仰者にとってふさわしいことではありません。なのになぜ主はここで「しるしを求めよ」と言われたのでしょうか?

それはこのアハズのためです。なかなか神を信じることができない彼のために、しるしを求めるようにと言われたのです。もし彼がわずかながらも神を経験することができれば、もっと神に信頼することができるようになるでしょう。ですから、それは神のあわれみだったのです。

この後でヒゼキヤという王様が出てきます。ヒゼキヤはこのアハズの子ですが、とても信仰的な王様でした。彼は「しるしを求めなさい」と神から言われたとき、それに従い大胆にしるしを求めました。彼が病気になって死にかかった時、大声で泣きながら祈りました。「主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行って来たことを。」(38:3)そして「その祈りが本当に答えられるというしるしを見せてください」と祈ったのです。すると主はその祈りに答えてくださり、彼の寿命を15年伸ばしてくださいました。その時のしるしが、日時計の陰を十度戻すということでした。(38:8)そしてそのとおりに日時計の陰が十度戻ったのです。それはヒゼキヤにとってどれほど大きな励ましになったことでしょう。神に祈ったことが答えられるという経験は、私たちの信仰にとって大きな励ましになるのです。

「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」(ヨハネ15:24)

それに対してアハズは何と答えましたか?12節、「私は求めません。主を試みません。」これはいかにも信仰的なようですが、実は全く逆です。従順のない信仰は本当の信仰ではないからです。神様が「求めなさい」と言われたら求めることが信仰の態度なのです。なのにいろいろな理屈や言い訳をとして従わないとしたらそれは信仰的なようで、実は不信仰なのです。アハズの中には神を求めてもムダだという思いがありました。このような危機的な状況を打破するには、もっと具体的な対策が必要だと思ったのです。このような思いは私たちにもよくあります。口では神様に信頼していると言いながらも、実際には自分の考えによって解決しようとします。アハズも「主を試みません」と言いながら、実は自分の考えで対処しようと思っていたのです。

Ⅱ.神からのしるし(13-17)

そこで、主はアハズに何と言われたでしょうか?13節から17節までをご覧ください。「そこでイザヤは言った。「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。この子は、悪を退け、善を選ぶことを知るころまで、凝乳と蜂蜜を食べる。それは、まだその子が、悪を退け、善を選ぶことも知らないうちに、あなたが恐れているふたりの王の土地は、捨てられるからだ。主は、あなたとあなたの民とあなたの父の家に、エフライムがユダから離れた日以来、まだ来たこともない日を来させる。それは、アッシリヤの王だ。」

アハズの答えは預言者イザヤのみならず、神をも煩わすものでした。それゆえに、主みずから、彼らに一つのしるしを与えられました。つまり、アハズがあくまでも自分の考えに従って行動としていたので、神の方から一方的にそのしるしを与えられるというのです。そのしるしとは何でしょうか?それは、処女が身ごもって、男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名づけられるということです。どういうことでしょうか?

これは有名なインマヌエル預言です。マタイはこの箇所を引用して、イエスが処女マリヤから生まれたという事実を書き記すことで、この方がまことのメシヤであると語りました。マタイの福音書1章22節と23節です。「このすべての出来事は、主の預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」    しかし、いったいなぜこれがしるしだというのでしょうか。先程も申し上げたように、このしるしというのは神に信頼するなら守られるというしるしです。敵であるエフライムとアラムの連合軍を神様が打ち破ってくださるというしるしなはずです。それが処女がみごもって男の子を産み、その名を「インマヌエル」と呼ばれるようになる、とうのはどういことなのかがわかりません。

昔からこの箇所は非常に難解な箇所だと言われてきました。英国の有名な説教家であるチャールズ・スポルジョンは、この箇所は聖書の中でもっとも難解な箇所の一つだと言いました。それほど解釈が難しい箇所なのです。何がそんなに難しいのかというと、ここに出てくる処女とはだれのことなのか、男の子とはだれのことなのかがはっきりわからないことです。それもそのはずです。処女がみごもるというようなことなど考えられないことだからです。この人類の歴史上、そのようなことは一度もありませんでしたし、あり得ないことなのです。ですから、これがしるしだと言われてもピンときません。

普通、預言というのは何重にも重なり合っている山のように、近くの山と遠くの山が重なって見えているのです。これがイエス様によって成就したことはわかりますが、それがこのアハズの出来事といったいどういう関係があるというのでしょうか?

これが本当の救いであるということです。そのことを伝えたかったのです。おそらく、アハズの時代におけるこの処女とは、8章3節に出てくる女預言者のことでしょう。預言者イザヤの妻です。彼女はイエスの母マリヤのような意味での処女ではありませんでしたが、若い女性という意味でこの処女という言葉で表されていたのだと思います。そして、その女預言者から生まれる男の子の「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」が、この処女から生まれる男の子を指しているものと考えられます。なぜなら、15節から17節には、「この子は、悪を退け、善を選ぶことを知るころまで、凝乳と蜂蜜を食べる。それは、まだその子が、悪を退け、善を選ぶことも知らないうちに、あなたが恐れているふたりの王の土地は、捨てられるからだ。主は、あなたとあなたの民とあなたの父の家に、エフライムがユダから離れた日以来、まだ来たこともない日を来させる。それは、アッシリヤの王だ。」とあるからです。その子が、悪を退け、善を選ぶことを知るころまでというのは2~3歳くらいのことでしょう。その頃までに、アハズが恐れていた二人の王、アラムとイスラエルの王は、捨てられることになるからです。誰によって?アッシリヤによってです。「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」という名前は、そのことを意味していました。意味は、「急げ」「獲物を」「奪え」「早く」という意味です。「略奪者はすみやかに来る」という意味です。その通りに、アラムとイスラエルがユダを攻めて来た2年後の前732年にアラムが、また、前722年にはイスラエルが、このアッシリヤによって滅ぼされることになるのです。 ですから、これは女預言者と彼女から生まれる男の子「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」のことなのです。

しかし、ここにはそのことをボヤッと示すだけで、むしろこの時から700年後に生まれるキリストのことがはっきりと示されているのです。なぜでしょうか?これが本当の救いだからです。アハズにとっては、確かにエフライムとアラムの連合軍が攻めてくるということは脅威だったでしょう。何とかしてそこから救われるようにと考えて、北の大国アッシリヤに助けを求めました。それでアラムとイスラエルは滅ぼされ、問題は解決したかのように見えたかもしれませんが、それは本当の解決ではありませんでした。本当の危機はその後でやって来ることになるからです。昨日の友は今日の敵というようなことが起こるわけです。何と今度はそのアッシリヤに攻められ苦しむようになるのです。ですから、それは本当の解決ではありませんでした。本当の解決はイエス・キリストにあるのです。それがこの神が与えてくださったしるしだったのです。

箴言29章25節に、「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」とあります。人を恐れるとわなにかかるのです。表面的には勝利したかのようでも、次の瞬間にはそれが原因でもっと自分をがんじがらめにしてしまうことになるのです。本当の解決は人にではなく主にあるのです。肉にではなく御霊にあるのです。人となってお生まれになられた「インマヌエル」の神にあるのです。それがこのしるしがこれだったのです。

Ⅲ.その名はインマヌエル(18-25)

では、なぜこれが本当の解決だと言えるのでしょうか?18節から25節までをご覧ください。ここには、アハズが神ではなくアッシリヤに頼ってしまった結果が記されてあります。まず、18節と19節です。

「その日になると、主はエジプトの川々の果てにいるあのはえ、アッシリヤの地にいるあの蜂に合図される。すると、彼らはやって来て、みな、険しい谷、岩の割れ目、すべてのいばらの茂み、すべての牧場に巣くう。」

ここではアッシリヤだけでなく、エジプトも視野に入れて預言されています。これまでユダと北イスラエルの戦争の歴史は、周辺の小国とのいわば小競り合いにすぎませんでしたが、今度の戦いはそういうレベルではありません。南からはエジプト、北からはアッシリヤといった超大国が相手なのです。エジプトいう「はえ」が、また、アッシリヤという「蜂」がユダに襲いかかってくるのです。

それから、20節には、「その日、主はユーフラテス川の向こうで雇ったかみそり、すなわち、アッシリヤの王を使って、頭と足の毛をそり、ひげまでもそり落とす。」とあります。ここにはアッシリヤの王の残虐さが描かれています。彼らは生きたまま人の皮膚をそぎ落とすというようなことをしました。また、目をえぐり出したり、舌にかぎ針を通して捕らえ移すという残虐な行為をしました。

そして21節と22節には、「その日になると、ひとりの人が雌の子牛一頭と羊二頭を飼う。これらが乳を多く出すので、凝乳を食べるようになる。国のうちに残されたすべての者が凝乳と蜂蜜を食べるようになる。」とあります。これは多くの民がとりこにされ、殺されるので、家畜や食料が余るということです。

そして23節から25節です。「その日になると、ぶどう千株のある、銀千枚に値する地所もみな、いばらとおどろのものとなる。全土がいばらとおどろになるので、人々は弓矢を持ってそこに行く。くわで耕されたすべての山も、あなたはいばらとおどろを恐れて、そこに行かない。そこは牛の放牧地、羊の踏みつける所となる。」これはどういうことかというと、全土がいばらとおどろになるため、いくら土地を耕しても農作物が採れないので、仕方なく猟に出かけて行くようになるということです。

これはユダが主なる神ではなく、人間の力により頼んだ結果です。私たちが目に見える肉の力に頼れば一時的には解決したかのように見えますが、しかしそれはやがて自分をがんじがらめにするような事態を招くようになるのです。自分を救ってくれるはずのものが、かえって自分を苦しめる結果になってしまうのです。ですから、それは本当の解決ではありません。ほんとうの解決は、「インマヌエル」神がともにおられることにあるのです。

なぜ神がともにおられることが本当の解決なのでしょうか?なぜなら、神はキリストにおいてアラムやエフライムの連合軍やアッシリヤによる攻撃といったことから救われるといったところではない、永遠の滅びに追いやろうとするサタンの攻撃、すべての悪の根源である罪から救ってくださるからです。このイエスが私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられることによって、神はこの救いのみわざを成し遂げてくださいました。永遠の滅びから神共にいましの永遠の救いの中に、私たちを導いてくださったのです。ですから、イエス様は私たちのどのような問題や苦しみからも救うことがおできになるのです。これが本当の解決であり、救いなのです。

けれども、全く聖い神が汚れた人間の中に住まわれる事など考えられません。光がやみと交わることがないように、聖い神が汚れた人間と交わることなどあり得ないからす。しかし、神はこれをイエス・キリストにおいて実現してくださいました。聖い神が人間の姿をとってこの地上に生まれてくださったのです。真の神と真の人とがナザレのイエスにおいて全く一つになられたのです。イエス様がインマヌエルとなってくださることによってこれが実現してくださったのです。そしてこのイエス様が、神共にいましを実現してくださったのです。

今、祈祷会で、ヨセフの生涯を学んでいます。兄弟の憎しみによってエジプトに売られたヨセフは、主が彼とともにおられたので、主人ポテファルの家で成功させてくださいました。  けれども、主人の妻からの誘いを断ったため、今度は監獄に入れられます。しかし、聖書はそこで驚くべき事実を示しています。「しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。」(創世記39:21)誰からも見捨てられたと思われるようなその監獄の中にさえ主はともにおられたので、彼は監獄の長の心にかなうようにされ、そこでなされるすべてのことを管理するようになったのです。主がともにおられるなら、どのようなことがあっても主が守り、主が祝福してくださいます。これが人生の成功の秘訣です。

マタイの福音書を見ると、その最初の1章のところで、「神は私たちとともにおられる」(1:23)と約束してくださった主は、その最後においてもともにいてくださると約束していることがわかります。28章20節のところです。あの有名な大宣教命令の中で、イエス様は、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、わたしが命じておいたすべてのことを守るように彼らを教えなさい。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます」と言われたのです。  しかし、それだけではないのです。その真ん中の18章19節20節にも出てくるのです。「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」  つまり、私たちを罪から救ってくださるインマヌエルは、私たちの祈りに答えてくださるインマヌエルとして、また、伝道において支え、励ましてくださるインマヌエルとして、いつも私たちとともにいてくださるのです。

であれば、私たちは何を恐れ、何を心配する必要があるでしょうか。罪からの救いにおいて、また祈りにおいて、そして伝道において、私たちとともにおられる神は、いつでも私たちとともにいて、守ってくださいます。これが本当の救いなのです。罪に悩んでいる方がおられますか?伝道の困難を覚えている方がおられますか。そういう方は祈りましょう。心を注いで祈りましょう。主はそこにもともにいて、その祈りに答えてくださいます。私たちのすべての問題に完全に答えてくださるのです。その名はインマヌエルと呼ばれるようになる。これが私たちに与えられたしるしなのです。

イザヤ書7書1~9節 「神の前に静まる」

きょうは、イザヤ書7章に入ります。ここは昨年のアドベントで取り上げた箇所ですが、1章から学んで来る流れの中で、もう一度この箇所を取り上げてみたいと思いました。そして、そのようにして見てきますと、全く新しい光が与えられます。きょうはこの箇所から、「神の前に静まる」というタイトルでお話したいと思います。

Ⅰ.アハズ王の動揺(1-2)

まず1節と2節をご覧ください。1節には「ウジヤの子のヨタムの子、ユダの王アハズの時のこと、アラムの王レツィンとイスラエルの王レマルヤの子ペカが、エルサレムに上って来てこれを攻めたが、戦いに勝てなかった。」とあります。

イザヤはウジヤ王が死んだ年に預言者として召されましたが、それからすぐにその子ヨタムも死に、その子アハズが王として即位しました。これは大体前735年のことです。その頃に一つの大きな事件が起こりました。アラムとイスラエル(北イスラエル)が、エルサレムに上って来てこれを攻めたのです。アラムとはシリヤのことですが、隣国北イスラエルのさらに北にある大国です。ユダは全体でも日本の四国くらいしかない小さな国ですから、こんな国に攻められたらひとたまりもありません。がしかし、このところを見ると、「戦いに勝てなかった」とあります。

どういうことかというと、この箇所の背景が歴代誌第二28章に記されてあるのですが、そこを見ると、アラムとイスラエルはユダを攻め大損害を与え多くの捕虜を引き連れて帰って行ったのですが、イスラエルがサマリヤに帰ったとき、そこにオデデという預言者が現れてこう言ったのです。28章9節から11節です。「見よ。あなたがたの父祖の神、主がユダに対して憤られたため、主はあなたがたの手に彼らを渡された。ところが、あなたがたは天に達するほどの激しい怒りをもって彼らを殺した。今、あなたがたはユダとエルサレムの人々を従えて自分たちの男女の奴隷にしようとしている。しかし、実はあなたがた自身にも、あなたがたの神、主に対して罪過があるのではないか。今、私に聞きなさい。あなたがたが自分の同胞をとりこにしたそのとりこを帰しなさい。主の燃える怒りがあなたがたに臨むからです。」(Ⅱ歴代誌28:9-11)    つまり、兄弟を奴隷にするとはどういうことか、ということです。イスラエルはもともと一つの国でしたが、前931年に北イスラエルと南ユダに分裂していました。その国を攻めるなどあり得ない。あなたがた自身にも罪過があるではないか。そんなことをしていたら、主の怒りがあなたがたに臨むぞ。帰しなさい。自分の同胞をユダに帰しなさい。それで、イスラエルはユダを帰したのです。それが「戦いに勝てなかった」ということです。

ところが2節を見るとこうあります。「ところが、「エフライムにアラムがとどまった」という報告がダビデの家に告げられた。すると、王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。」

ところが、その知らせがアハズ王とユダの民に告げられると、王の心も民の心も、激しく動揺しました。林の木々というのは、風がない時には静かに立っていますが、少し風が吹きますと、一本一本の枝が風に揺られてざわざわとなります。だんだん風が強くなってきますと、その音も大きくなってきます。アハズ王とユダの民たちの心は、この林の木々が風に揺れるように動揺したのです。それは、私たちが人生の困難や、まさかと思うようなことが起こってきた時の動揺に似ています。このような困難に直面するとき、私たちの心もまた激しく動揺するのです。そしてその動揺を抑えようとあれこれするのですが、なかなか抑えることができず、混乱に陥るのです。アハズもそうでした。彼もまたそうした動揺を抑えようとアッシリヤという国に助けを求めてこの問題を打開しようとしたのです。

これが人間の考えることです。人は何か問題が起こると、その場しのぎの解決や対策を講じようとします。ちょうどコンビニでインスタント食品を買うように、その場しのぎの神々を手に入れようとするのです。しかし、それは一時的な解決をもたらしてくれるかもしれませんが、ほんとうの解決にはなりません。ユダはアッシリヤに助けを求めることでその場の危機をしのぐことができたかもしれませんが、後でほんとうの危機がやって来ることになるのです。「昨日の友が今日の敵」というようなことが起こります。何とそのアッシリヤによって脅かされることになるわけです。アハズはアッシリヤと同盟を結ぶことで、確かにつじつまは合ったかのように見えましたが、そのつけは30年後に大きく膨らんで返ってくることになるのです。

Ⅱ.静かにしていなさい(3-4a)

ではどうしたらいいのでしょうか?3節4節をご覧ください。「そこで主はイザヤに仰せられた。「あなたとあなたの子シェアル・ヤシュブとは出かけて行って、布さらしの野への大路のそばにある上の池の水道の端でアハズに会い、そこで彼に言え。気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。あなたは、これら二つの木切れの煙る燃えさし、レツィンすなわちアラムとレマルヤの子との燃える怒りに、心を弱らせてはなりません。」

主はイザヤに、息子の「シェアル・ヤシュブ」を連れてアハズに会いに行くようにと言われました。「シェアル・ヤシュブ」とは、「残りの者は帰る」という意味です。これはユダに対するしるしです。そうした激しい危機の中にもユダは守られるというしるしでした。その子を連れて、布さらしの野への大路のそばにある上の池の水道の端でアハズに会うようにと言うのです。なぜなら、アハズはそこにいたからです。

この「上の池の水道」というのは、エルサレムの城壁の外にある「ギホンの泉」からエルサレムへと流れている水道のことです。なぜそこにアハズがいたのかというと、エフライムとアラムが攻めてくるという報告を聞いて、そしたらまず水路をつぶしに来るだろうと、彼はこの水道を見に来ていたのです。ここにも彼の動揺ぶりが表れていますね。心配になってあれこれと動き回っていたのです。そこでイザヤが告げたことはこういうことです。「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはいけません。あなたは、これら二つの木切れの煙る燃えさし、レツィンすなわちアラムとレマルヤの子との燃える怒りに、心を弱らせてはなりません。」と。

「気をつける」とは「注意する」ということです。これは敵の攻撃に注意するようにということではなく、そのような行動に対して自らがどうあるべきなのか、どのように対処すべきなのかを注意するようにということです。また、「静かにする」とは、そのような敵の攻撃に対して自らが何か行動を起こすということではなく、主が成してくださることを静かに待ち望みなさいということです。また、「恐れてはならない」とは、心配しないで、しっかりと立っているようにということです。アハズの心の中には北の勢力から身を守るためにアッシリヤと手を結ぶことで、賢い政治家であるかのように振る舞おうとしましたが、イザヤにはそのようには見えませんでした。それは虎のしっぽをつかむようなものです。ここで問題ははっきりしていました。救いは信仰によるのか、それともわざによるのかということです。主を信頼して救われるのか、それとも抜け目ない政治的な賭けによるのかです。イザヤは主に信頼して救われるようにと言ったのです。

ところで、このところをよく見ると、ここで言われていることの中心は、「静かにしていなさい」でるということがわかります。つまり、主に信頼するということは、静かにしているということなのです。ところが、これがなかなかできないのです。周りがざわついている時にみんなと一緒にざわめくことは簡単ですが、それに反して静まるということは難しいことなのです。しかし、神に信頼するということはそういう時に静かにすることなのです。そのためには、本当の意味で見るべきものが見えていなければなりません。目の前には困難な状況が見えているわけですから、それ以上のものが見えていなければ静まることはなどできないからです。

この「静まる」という言葉ですが、これはヘブル語で「シャカトー」で、もともとの意味は「身を沈める」という意味です。水とか、何かの中に身を沈めてしまうことが静まることだというのです。その何かというのが神なのです。困難なことを見たり、聞いたりすることがあるでしょう。あるいは、そうしたことに巻き込まれたりすることもあるでしょう。しかし、そうしたことに身を沈めてしまうのではなく神の中に身を沈めること、それが静まることなのです。いろいろなことが目の前を通り過ぎ、いろいろなことが耳を通過していくとき、そうしたことに関心を向けるのではなく、神にのみ関心を向けるのです。日光の東照宮には賢いお猿さんがいますね。その猿は「見ざる、言わざる、聞かざる」といって、目と口と耳を両手で塞いでいます。成長期には自分を誘惑するものがたくさんあるので、そうしたものからシャットアウトするために、あえて見ないようするという説明でした。私たちも、周りの状況に身を沈めると不安や動揺に襲われますが神の中に身を沈めるなら、それを克服することができるのてす。このようにすることは私たちの理性では難しいことですが、時にはその理性をも否定するかのようにして神に信頼することが必要なのです。

私たちは疲れた時とか、大変な時に温泉に入るとほんとうに気持ちがいいですね。佐久山温泉、五峰の湯、あおき温泉、いいろあります。温泉の中でじっと身を沈めると、ほんとうに心が温まります。ちょうど胎児がお母さんの胎内の羊水の中で泳いでいるように、気持ちがいいものです。ある学者は、あれが人間の安らかさの原形であろうと言っていますが、しかし、人間のやすらかさは温泉では間に合いません。神の中に身を沈めて、どういうことが起こってもこの方が必ず守ってくださるという確信を持つことが、まことの平安につながるのです。アハズ王は、エフライムとアラムが攻めてくるという困難に対して、遠くのアッシリヤと手を組めば助けられるだろうと考えましたが、そうではなく、もっと遠くの、目に見えるものではなく、目に見えないお方に身を沈めることが必要だったのです。

Ⅲ.神はわれらの力(4b-9)

神に信頼することがどうして真の解決をもたらすのでしょうか?第三に、その理由を見たいと思います。4節後半から9節までをご覧ください。第一の理由は、私たちの神は全能者であられるからです。4節の後半をご覧ください。「あなたは、これら二つの木切れの煙る燃えさし、レツィンすなわちアラムとレマルヤの子との燃える怒りに、心を弱らせてはなりません。」

イザヤがアハズに、気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはならないと語ると、アハズが恐れていたこれら二つの国がどのようなものなのかを示しました。それは、木切れの煙る燃えさしにすぎないということです。ゴ-ゴ-と勢いよく燃えている火ではなく、燃えているのかいないのかわからないくらい力のない燃えさしです。人間の目にそれがどれだけ強大に見えるものであっても、神の前には何の力もない燃えさしにすぎないのです。

私たちが問題に直面する時の本当の問題は、その問題を見てしまうことです。そこに身を置いてしまうことなのです。そうすると、その問題の大きさに圧倒されて打ちのめされてしまうのです。車いすの大統領、フランクリン・ルーズベルトは、「恐れなければならないものはただ一つ、恐怖そのものである」と言った言葉は有名です。私たちが恐れなければならないのは、この恐怖なのです。問題そのものを見れば恐怖になりますが、神を見て、神に身を置くなら、問題は小さく見えるのです。なぜなら、神は全能であって、神の目を通してみれば、それは燃えさしにすぎないからです。

アメリカの映画に、『シンデレラマン』(原題: Cinderella Man)という映画があります。これは、1929年の大恐慌時代のアメリカで、絶望的な貧困の中で家族のために必死にチャンスをつかもうとした伝説のプロボクサー〈ジェームス・J・ブラドック〉の実話を基に描いた人間ドラマです。彼は連戦の疲労から怪我もあり、一時ボクシングライセンスを剥奪されてしまいます。そして、ボクサーの仕事を失ったジムは、港湾労働者として日雇いの仕事をしながら妻や子供たちと暮らしていましたが、生活は貧しく、食べ物を買うことさえもやっとでした。やがて、消化試合のために、たった一回のボクシングの試合を戦うチャンスを得るわけですが、そこから這い上がって、世界ヘビー級選手権のタイトルマッチの挑戦権を得るまでになります。しかし相手はかつて試合で二人の選手を殺しているマックス・ベアです。だれもが足をすくむ相手ですが、彼はどんなに打たれても倒れずに15ラウンドを戦い抜くのです。そして判定で勝利しました。それは彼が熊のように大きな相手を見ていたからではないのです。妻が試合前に彼に語ったことばを握りしめていたからです。「自分が何ものなのか忘れないで。あなたはニュージャージー州の誇り、人々の希望の星よ。子どもたちのヒーロー、そしてあなたは私の心のチャンピオンよ。ジェームズ・J・ブラドック、必ず帰って来てね。」そう告げるんです。ブラドックは熊のような相手を見ていたのではなく、そうした妻の、人々の声援を胸にして戦っていたのです。

神が私たちとともにおられる方は、この世にいるあの者よりも強いのです。私たちがこの全能の神に身を置くことができれば、神が戦ってくださいます。そしてみことばの約束のとおりにしてくださるのです。ですから、この方に身を置いて、この方のみことばの約束を握りしめ、この方によって困難に立ち向かっていかなければならないのです。

第二の理由は、5節から7節までにあります。「アラムはエフライムすなわちレマルヤの子とともに、あなたに対して悪事を企ててこう言っています。『われわれはユダに上って、これを脅かし、これに攻め入り、わがものとし、タベアルの子をそこの王にしよう』と。神である主はこう仰せられる。『そのことは起こらないし、ありえない。」

「そのこと」とは、アラムとエフライムの悪事のことです。彼らはアハズを王位から引きずり下ろし、自分たちのいいなりになる王を代わりに王にしようとしました。タベアルの子です。しかし、そのことは起こらないし、ありえません。むしろ、8節に書いてあるようなことが起こるというのです。「実に、アラムのかしらはダマスコ、ダマスコのかしらはレツィン。―六十五年のうちに、エフライムは粉砕されて、もう民ではなくなる。―」

これはどういうことかというと、そのように高ぶっているアラムとエフライムは粉砕されるというのです。なんと65年のうちに、エフライムは粉砕されて、もう民ではなくなるのです。果たせるかな、これが実際に起こるのです。イザヤがこれを預言したのは前735年から734年頃にかけてですが、その数年後にアッシリヤがアラムに、そしてさらにその10年後にエフライム、すなわち北イスラエルにやって来てこれを滅ぼします。そして多くの住人をアッシリヤへ移住させる代わりに、外国人をサマリヤに移住させました。これがサマリヤ人の起源です。新約聖書にはサマリヤの女とか、良きサマリヤ人など、サマリヤ人に関する記述がたくさん出てきますが、そのサマリヤ人というのは、この時アッシリヤから移住してきた人たちによって生まれた人たちのことなのです。エズラ記4章10節を見ると、アッシリヤの王オスナパルという人物がやって来て、多くの外国人をこのサマリヤに移住させたことがわかります。これがイザヤが預言した時から65年後の前669年のことなのです。このようにして、エフライムは粉砕されて、「もう民ではなくな」ったのです。

このように、神の預言がことごとく成就したことを見ると、ほんとうに聖書はすごいなぁと改めて思いますが、と同時に、私たちの知らないところで全能の神が働いておられることがわかります。ですから、信じなければなりません。神の前に静まり、神に信頼するなら、神が立たせてくださるのです。

残念ながらアハズは神に信頼しませんでしたが、アハズの子ヒゼキヤはそうではありませんでした。彼はアハズとは違って心から主に信頼しました。前701年にアッシリヤの軍隊がセナケリブという将軍とラブシャケという大将に率いられてやって来たとき、もうエルサレムは風前の灯のように思われましが、このヒゼキヤは何をしたかというと、もちろん、砦を築いて懸命に武装したり、泉から水を引くための水道工事をしたりしましたけれども、何よりも神に信頼を置きました。神に信頼するということは、祈っていれば、信じていれば何もしなくてもいいということではありません。ベストを尽くしてその困難に立ち向かうべきです。けれども自分のベストだけでは戦えないのですから、根本的なところにおいて神に信頼する必要があるのです。その時の状況がこのイザヤ書36章と37章に記録されてありますが、その中心は文字通り神の前に静まるということでした。37章14節を開いてみましょう。

「ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、主の宮に上って行って、それを主の前に広げた。」

「おまえたちの国は、私に従わなかったから滅ぼされるのだ。どこの国でも、私たちの神は救うと言ったけれども、そんな国は一つもない。ヤーウェの神などいったい何になるか。降伏せよ。」という手紙を受け取ったヒゼキヤは、イザヤのところに使いを送って祈ってもらいました。そして自分でも、「それ敵が来た。槍を取れ。軍隊を整えよ」とは言わないで、まるで非武装であるかのように神の前に出たのです。敵から受け取った手紙を自分で読むかのようにして神の前に広げ、「神様、こう書いてあります。彼は高慢にもこのようなことを言っています。神様、あなたという存在がいても、あなたは助けることなどできないと書いてあります。そんなこと言わせていいのですか。神様助けてください」と祈りました。神に身を置くとはそういうことなのです。見えないからいないのではありません。見えませんが、さながらそこにおられるように、「神様、こんな手紙が来ましたが、どうしましょう。どうかあなたの栄光を現してください」祈ることです。たとえ自分が王様であったとしても、その王服も冠も投げ捨てて麻布を着て、灰をかぶって、「本当に私はちりやはいにすぎません」と言って神の前に出たのです。

神は、このヒゼキヤの祈りを聞かれました。アッシリヤの軍隊が攻めてきた翌朝に宮殿の上から周りを見わたすと、あちこちに死人の山が築かれていました。聖書を見ると、十八万五千人のアッシリヤ人が死骸となって横たわっていた、とあります。生きていた人々はセナケリブと共に逃げ帰り、やがてセナケリブは本国で自分の偶像の神に祈りをささげていたら、その息子たちに刺し殺されて死に、ついにアッシリヤという国が滅んでいくことになったのです。

これが神のなさることです。この十八万五千人が一晩で死んだのは、「天の使いがこれを打ったから」です。実際にどうやってこれだけの敵が倒れたのかわかりません。当時のユダヤ人の歴史家でヨセフスという人は、「一晩のうちに彼らは疫病で死んだのだろう」と書いています。それは食べた食あたりか、何か起こしたのだろうということですが、はっきりしたことはわかりません。しかし、それがどのようにしてであっても間違いないのは、神がそのようにしてくださったということなのです。それはただ運が悪かったからではなく、そうした困難の中で神に祈ったヒゼキヤの祈りが、神に身を沈めたヒゼキヤの祈りがあったからなのです。ヒゼキヤが、イザヤのメッセージにしたがって神に立ち返り、静かにして、自分を動揺させる一切のものを断ち切り、神の前に自分がどうなろうが、国がどうなろうが、「神様、あなたに信頼します」といったその信頼を、神が受け取ってくださったからなのです。私たちがそのように本気になって神の前に出ていく時に、神がどうして私たちの信頼に応えてくださらないことがあるでしょうか。神は必ずその信頼に応えてくださるのです。そう信じて私たちは、状況にとらわれて沈んでしまうのではなく、神の約束の中に自分を沈める者でありたいと思います。「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」(詩篇46:1)なのです。

イザヤ書6章1~13節 「イザヤの召命」

きょうから6章に入ります。きょうは、イザヤがどのように預言者として召されていったのかを学びたいと思います。イザヤは預言者として既に神の御言葉を語っていましたが、彼の本格的な預言活動はこの6章からです。ここで彼は神から召命を受け、本格的に預言者として活動していくわけです。それまでの1章から5章までは、このイザヤ書全体の総論、あるいは、序論であったと言えるでしょう。イザヤはどのようにして召されたのでしょうか。きょうは、彼の召命について三つのことを学びたいと思います。

Ⅰ.私は、もうだめだ(1-5)

まず1節から5節までをご覧ください。「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」

ここに「ウジヤ王が死んだ年に」とあります。イザヤが預言者として召されたのは、ユダの王ウジヤが死んだ年でした。ウジヤ王が死んだのがいつだったのかをはっきりと特定することは難しいですが、大体紀元前740年頃です。Ⅱ歴代誌26章15節をみると、このウジヤ王がどのような王様であったのかについて次のように記されてあります。「さらに、彼はエルサレムで、巧みに考案された兵器を作り、矢や大石を打ち出すために、やぐらの上や、城壁のかどにある塔の上にこれを据えた。こうして、彼の名は遠くにまで鳴り響いた。彼がすばらしいしかたで、助けを得て強くなったからである。」  ウジヤは非常に優れた王様で52年の長きにわたりユダを治めていましたので、その名は遠くにまで鳴り響いていました。そのウジヤ王が死んだ年にイザヤは召されたのです。彼はその年に一つの幻を見ました。それは「高くあげられた王座に座しておられる主」の幻でした。ここには一つの対比が見られます。それはウジヤ王との対比です。あれほどまでに人々から尊敬と信頼を得ていたウジヤが死んでその王座から離れたのとは対照的に、まことの王であられる主が高くあげられた王座に座しておられたのです。これはどういうことかというと、ほんとうに頼るべき方はウジヤ王ではなく主であられるということです。Ⅱ歴代誌26章22節を見ると、ウジヤの業績を書き記したのはイザヤであったと記されてありますが、イザヤはこのウジヤ王の業績を書き記しながら、どこか彼に期待を寄せるところがあったのではないかと思われます。そのウジヤが死んで王座から離れ、主が高くあげられた王座に座っておられるのを見て、ほんとうに頼るべきお方は主なる神であるということに改めて気づかされたのではないかと思います。

では、その王座に座しておられた主はどのような方だったでしょうか?「そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。」

まず、そのすそは神殿に満ちていました。「すそ」とは着物のすそのことです。それは、王の権威を表すものです。ですから、着物のすそが神殿全体に満ちていたというのは、王の王としての権威が神殿全体に及んでいたということです。人間の王は死んだり、退位させられたりしますが、まことの王であられる主ははるか高いところにおられ、最高の権威をもって君臨しておられるのです。

そしてここには、「セラフィムがその上に立っていた」とあります。「セラフィム」とは、主に仕える御使いたちのことです。単数形では「セラフ」、複数形で「セラフィム」となります。これは「燃える」という意味の言葉に由来していることから、聖めと関係のある働きをしていた天使ではないかと考えられています。彼らにはそれぞれ六つの翼がありました。そして二つの翼で顔をおおい、二つの翼で両足をおおい、二つの翼で飛んでいました。なんともおもしろい格好ですね。私は絵を描くのがあまりというか全然得意ではありませんが、これを絵で描いたらおもしろいと思います。セラフィムがなぜこのような格好をしていたのかというと、恥ずかしかったからではないのです。まともに主を見ることができなかったからなのです。あまりにも聖くて・・・。あまりにも聖いのでまともに見ることができず、このように身をかがめていたのです。そしてセラフィムは互いに呼び交わして言いました。

「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」

ここでセラフィムが三度も「聖なる、聖なる、聖なる」と言ったのは、主がそれほど聖かったことを表しています。三位一体の神を表していたと言えないこともありませんが、このように言うことで、神の聖さを強調していたのです。この「聖なる」という言葉は、もともと「別たれている」という意味です。創造された物とは完全に別たれているのです。それらと同列に置くことはできません。全く異質なのです。この聖さはこの世のどんな言葉をもってしても言い表すことはできないでしょう。水晶のように透き通っているというレベルではないのです。もっと聖いのです。それは、その叫ぶ者の声で、敷居の基がゆらぎ、宮全体が煙で満たされるほどでした。これは何かというと、神の臨在の表れです。神の栄光の輝きです。宮全体が震え、煙で満ちるほど聖かったのです。

イザヤは、その聖さに触れました。その時、彼は何と言ったでしょうか?5節です。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」

どういうことでしょうか?この「ああ」という言葉ですが、これは5章で彼がユダの民に向けて語った言葉です。「忌まわしいものだ」とか「わざわいなるかな」という意味です。イザヤはここでそれを自分に向けて発しているのです。「ああ、私は何と忌まわしいものか。私にわざわいが来る」と。イザヤは圧倒的な聖い神に触れたとき、自分がいかに汚れた者であるかが示されたのです。もうそこに立っていることができないほどになりました。しかも、ここで彼は「私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる」と言っています。それは彼が預言者として神の言葉を語るには全く汚れた者であり、ふさわしくない者であると告白しているのです。

これがイザヤの預言者としての最初でした。「あなたがたは」と言っているうちはまだ青い(幼い)のです。「あの人が」「この人が」ではなく、私は汚れた者だと砕かれて、初めて主の働きに入っていくことができるのです。

イエス様は、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」(マタイ5:3)と言われました。この「心の貧しい」ということが、まさにこの心のことなのです。これは、本当にみじめなほどの貧しさを表す表現です。服は着ているけれど服を買うお金がないといった程度の貧しさではなく、食べるものも住む家もない、ホームレスになるほどの貧しさを意味する言葉なのです。本当に飢えている人は、舌やお腹が裂けていると言いますが、そのような人のことです。それほどに霊的に貧しい状態のことです。それほどに御前に砕かれている人のことです。そういう人は幸いだとイエス様は言われたのです。なぜなら、天の御国はその人のものだからです。

フランスの哲学者で、思想家でもあり、数学者、物理学者でもあったパスカル(Blaise Pascal、1623年6月19日 – 1662年8月19日)は、早熟の天才で、その才能は多分野に及んでいましたが、彼が残した偉大な文章の大部分は、彼が落馬して、その苦しみの中で主イエスと出会い、その病床で書かれたものだと言われています。その中に有名な次のようなことばがあります。「私の心の中には、本当の神以外には満たすことのできない空洞がある」彼はそのように言うことができました。それは、彼がその苦しみの中で、自分自身が全く無能であり、神様なしには生きて生きてはいけないということ悟ったからです。神様なしには何も成し遂げられないという心です。そういう人は幸いだとイエス様は言われたのです。そのような人にこそ、神様の栄光と神様の御力が力強く臨むのです。

イザヤが体験したのはこれでした。圧倒的な主の聖さを前にしたとき、彼は「ああ、もうだめだ。」と叫ばずにはいられませんでした。しかしこの経験こそ、彼が預言者として召されていくための第一歩だったのです。「あなたたちは」ではなく、「私は汚れている。もうだめだ」と砕かれるような経験こそ、真の預言者として神の御言葉を語っていくために必要なことだったのです。イザヤは天に高くあげられた主を見てその聖さを目の当たりにしたときに、初めてそのような心を持つことができました。

私たちも同じです。私たちが他の人を見て、「あの人はどうだ」とか「この人はどうだ」と言っているうちは、なかなか心砕かれることはできません。私たちの心が砕かれるためには絶対的な神の前に立ち、その聖さに触れなければなりません。神の前に立ったとき初めて、自分がどれだけ汚れた者であるかに気づかされるからです。

私の知っている人で、とてもゴルフの上手な人がいます。その人はいつも、「自分がドライバーを打ったら二百ヤードくらい飛んでいく」みたいな自慢話ばかりします。しかしその人がプロの選手に会った時、自分を誇ることができなくなりました。タイガー・ウッズの前で自分のゴルフを誇ることができるでしょうか?イチロー選手の前で自分の野球の技術を誇れるでしょうか?それと同じです。私たちは全く聖なる方の御前で、自分の正しさを誇ることなどできません。ですから、私たちは完全に聖であられる主の御前に出て、その聖さに触れることによって初めて砕かれ、謙遜になることができるのです。それが主の働きに入るための第一歩です。

Ⅱ.私を遣わしてください(6-8)

第二のことは、たとえ私たちがそのように汚れた者であっても、主は聖めてくださるということです。6節から8節までをご覧ください。「すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

主の聖さに触れたとき、イザヤは「もうだめだ」「私は汚れた者だ」と打ちのめされてしまいましたが、ちょうどそのとき、彼のもとにそのセラフィムのひとりが飛んで来て、その手にあった祭壇からの燃えさかる炭を彼の口に触れて言いました。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪は贖われた。」

どういうことでしょうか?神の一方的なあわれみによって、彼の汚れが聖められたということです。それはイザヤの力よるものではありませんでした。救いは外からもたらされたのです。祭壇の上の燃えさかる炭が触れることによって彼の不義は取り去られ、罪は贖われたのです。これはキリストの十字架による罪の赦しを意味していました。というのは、祭壇の上にあったのは、罪を贖うための全焼のいけにえだったからです。私たちの罪が赦されるのは神が与えてくださったイエス・キリストという小羊の血によるのであって、それ以外にありません。それは一方的な神の恵みによるものなのです。その祭壇の炭がイザヤに触れたので、彼の不義は取り去られ、彼の罪は贖われたのです。

その時です。イザヤは、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と言いました。

これはどういうことかというと、主のために出て行く人、主のために遣われて行くのはだれかということです。それは、神の恵みを体験した人です。一方的な神の赦しを体験した人であるということです。主のために働く人は何の欠点もない完璧な人で、賜物が豊かに与えられている人かというとそうではありません。そうでないとできないとしたら、おそらくだれもすることができないでしょう。私たちはみんな不完全な者だからです。しかし、そのような不完全な者であっても、神の恵みを知っている人なら、神の一方的な恵みによって罪が赦された経験を持っている人なら、だれでもできるのです。なぜなら、これは恵みのわざだからです。神の恵みを知った人だけが他の人にこの恵みを分かち合うことができるのです。

私たちの中にはどこか完璧でなければ奉仕ができないという考えがありますが、それは正しくありません。私たちがどんなに不完全な者であっても、神様にその不義を取り去っていただき、その罪を贖っていただいたのなら、神の働きのために出て行くことができるのです。自分はきちんとしていないから奉仕はできないというのは弁解です。自分がきちんとしているかどうかは全く関係ありません。なぜなら、奉仕は恵みのわざだからです。自分の罪が神の一方的な恵みにより、キリストを信じる信仰によって赦されたということがわかったなら、もうせずにはいられなくなるはずです。イザヤのように、「ここに私がおります。私を遣わしてください。」と言うことができるのです。

イエス様の弟子のペテロが召された時も同じでした。ルカの福音書5章を見ると、夜通し漁をしても何一つとれなかったペテロに対して、イエス様は「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」(5:4)と言われました。「やってもムダだと思うけど、イエス様、あなたがおっしゃるなら・・」とその通りにしてみると、網が破れそうになるほど魚がとれたのです。それを見たペテロは「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言いました。自分の汚れ、弱さに気づかされたのです。しかし、そんなペテロにイエス様は、「こわがらなくてもよい。あなたは人間をとるようになるのです」(5:10)と言われたのです。

アメリカのニューヨーク州のグレースチャペルの牧師レスリー・B・フリン(Leslie B.Flynn)はペテロのことを「ガリラヤ湖のような人だ」と表現しました。ガリラヤ湖というのは、いつ波が荒れるかわからない湖です。ある時は静かだなぁと思っていたると、次の瞬間には急に激しく荒れ狂うことがあります。ペテロがガリラヤ湖のような人だというのは、ガリラヤ湖のように落ち着きのない人だという意味です。「静かにしていなさい」と言うときに騒ぎ、「目を覚ましていなさい」と言えば眠り、「眠れ」というと起きて来ます。「勇気を持て」と言えば卑屈になって閉じこもり、「進み出ろ」というとしり込みをするという人でした。そんな彼をイエス様は召されたのです。いったいなぜイエス様はペテロを召されたのでしょうか?それは、彼が完璧な人間だったからではありません。彼が不完全な者であることを十分承知のうえで、また、その後に起こるであろうすべてのことをご存知のうえで彼を召されたのです。彼の名前はもともと「シモン」という名前でしたが、それは葦を意味します。葦のようにいつも揺れ動いているような不安定な人間でしたが、そんな彼を主は少しずつ整え、やがて確かな弟子へと変えていかれたのです。文字通り岩を意味する「ペテロ」に変えられたのです。

その決定的な出来事とは、鶏が鳴く前に彼がイエス様を知らないと三度否定するという出来事でした。イエス様が言われたとおりになった時、彼はイエス様のお言葉を思い出し、外に出て激しく鳴きました。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31-32)  復活された主イエスに出会ったとき、彼は主の赦しを体験しました。「ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」(ヨハネ21:17)  「私は知らない」と主を三度も否定したペテロでしたが、この罪の赦し、十字架の恵みを知った彼は、いのちをかけて主の愛に応える者へと変えられていったのです。伝説によると、ローマで伝道したペテロは当時のローマ皇帝ネロの迫害によって十字架にはりつけになって処刑されたと言われていますが、その際に彼は、イエス様と同じ状態で処刑されるには値しないとして、逆さまに十字架に掛けられたと言われています。

クリスチャンの生活とは教義がどうであるかとか、どれだけ信仰生活をしてきたかとか、ましてやどれだけ教会の奉仕をしたかではありません。クリスチャンの生活とは、神がキリストにおいて何を私にしてくださったのかということです。どのように取り扱ってくださったのかという恵みの大きさ以外の何ものでもないのです。この神の恵みの大きさがわかったら私たちも立ち上がることができるし、その召しに応えていきたいと願わずにはいられなくなるのです。

Ⅲ.残りの者がいる(9-13)

最後に、9節から13節までを見て終わりたいと思います。イザヤが「ここに私がおります。私を遣わしてください」と言うと、主が次のように言われました。9節と10節です。「すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返ってもいやされることのないように。」

これは非常に奇妙な命令です。神の預言を語るのは、そのことを民に告げ、民がそれに聞き従って応答するために語るのですが、ここではその逆です。聞いている人がもっとかたくなになって、悟れなくなり、いやされることがないために語れというのです。これはどういうことでしょうか?主はだれが信じて、だれが信じないか、だれがかたくなになって受け入れないかということを全部ご存知のうえで、それでもすべての人に救いの機会を与えておられるということです。悔い改めることができる機会を与えてくださるのです。かたくなになって受け入れず、さばきを受けるようになるということを知っていても語られるのです。それは、彼らをあわれんでおられるからです。少しでも悔い改める機会を与えようとしておられるからなのです。そして、最後の最後まで忍耐をもって語られるのです。ローマ人への手紙9章22節に「ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容を持って忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。」とありますが、神様はまさに忍耐と寛容の神なのです。

では預言を語っても無駄なのでしょうか?いいえ、そうではありません。11節を見ると、イザヤは「主よ。いつまでですか」と尋ねています。私だったら、「では、いくら語っても無駄じゃないですか。預言する意味なんかないじゃないですか」と言いたくなるところですが、イザヤは砕かれていたのでそのようには言いません。「主よ、いつまでですか」彼は、それがいつまでも続くものではないことを知っていたのです。それに対する主の答えがこうでした。11~13節です。「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、主が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株。」

これはどういうことかというと、バビロン捕囚のことです。このイザヤが預言していた時から約100年後に、実際にこの御言葉が成就しました。バビロンがユダを攻め、彼らを自分たちの国に捕らえ移しました。また、これは紀元70年にローマによってエルサレムが滅ぼされることによっても実現しました。それでユダヤ人は世界中へと散らされて行きました。けれども神は彼らを再び集めてくださいました。全世界からユダヤ人を集め、パレスチナに国を建ててくださったのです。それがイスラエル共和国です。そして、やがてこの世の終わりに、あのバビロンによって破壊された時のような、あるいはローマによって滅ぼされたような大患難時代がやって来ます。その時までです。その時にどんなことが起こるのでしょうか?13節をご一緒に読みましょう。

「そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株。」

この「聖なるすえこそ、その切り株」というのは残り民のことです。神様は彼らを聖めるためにさばきを行われますが、それは彼らを滅ぼすためではありません。その中で彼らが聖められ、悔い改め、主に立ち返るためなのです。そのために神はその中に切り株を残しておられるのです。残りの者がいるのです。世の終わりまで、主が来られる日まで信仰を堅く守り、神様の御前に従う約束の民は必ずいるのです。

1949年中国に共産主義が入る以前、中国には60万人くらいのクリスチャンがいたと思われますが、共産化以降はそのほとんどが根こそぎ引き抜かれてしまい、全滅したかのように思われました。しかし今、中国には少なくても6,000万人のクリスチャンがいると言われています。世界で最もクリスチャンが多いのが中国です。迫害を受けた60万人のクリスチャンのうち一部が死に、一部が投獄されて、残りはごくわずかな人々になりましたが、神様はそこに残りの民を備え、彼らを通して福音を宣べ伝えさせ、信じる民の数を増やし続けられたのです。神様はこうした残りの民を備えて用いられたのです。神様は決して福音の種を完全に干からびるようにはなさいませんでした。そんなに苦しい状況にあっても、いつも「残りの民」を立て、ご自分の驚くべきみわざを成し遂げられるのです。

私たちの希望はここにあります。私たちの回りを見たらごくわずかなクリスチャンしかいないようですが、神様はその中にも残りの民を備えておられるのです。目の前の状況を見たら真っ暗でも、そこにちゃんと希望の灯を灯していてくださいます。それを通して驚くべきみわざを成し遂げられるのです。これが神のなさることなのです。信じましょう。私たちは疑って、つぶやいたりして、神の祝福を失うのではなく、その希望をしっかりと見つめながら、神様が成し遂げられることを待ち望む者でありたいと思います。

イザヤ書5章8節~30節 「主が忌みきらわれること」

きょうは「主が忌みきらわれること」というタイトルでお話したいと思います。前回のところでイザヤは、ぶどう園の歌を歌いました。そのぶどう畑の主人は、よく肥えた山腹にぶどう畑を持っていて、そこを掘り起こしたり、石を取り除いたりして、良いぶどうを植えましたが、なんと酸っぱいぶどうができてしまいました。公正を待ち望んでいたのに流血が、正義を待ち望んでいたのに、泣き叫びが起こったのです。これは見た目ではよく似ていましたが、中味が全然違っていました。きょうのところには、その酸っぱいぶどうの実がどのようなものであったのかが詳しく述べられています。イザヤはそれを「ああ」という言葉を6回繰り返して語っているのです。

この「ああ」という言葉は、「忌まわしいもの」とか、「わざわいなるかな」と訳される言葉です。マタイの福音書の中に、イエス様がパリサイ人や律法学者に語るとき、「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人」(23章)と言っていますが、それと同じ言葉です。この言葉は旧約聖書の中で50回用いられていますが、その中でイザヤは21回も用いています。これはさばきや懲らしめの警告などに用いて、心の悲しみのうめきを表すことが多いのですが、そういう意味でイザヤは「うめきの預言者」であったとも言えます。イスラエルの罪を見て悲しまれる神の嘆きを「ああ」「ああ」と嘆いたのです。

いったい主はイスラエルのどんなことに心痛められたのでしょうか。きょうはそのことについて三つのポイントでお話したいと思います。

Ⅰ.天にあるものを求めて(8-17)

まず第一に8節から17 節までをご覧ください。ここには六つの「ああ」のうちの最初の二つが出てきます。一つ目は8節から10節です。「ああ。家に家を連ね、畑に畑を寄せている者たち。あなたがたは余地も残さず、自分たちだけが国の中に住もうとしている。私の耳に万軍の主は告げられた。「必ず、多くの家は荒れすたれ、大きな美しい家々も住む人がなくなる。十ツェメドのぶどう畑が一パテを産し、一ホメルの種が一エパを産するからだ。」

これはどういうことでしょうか?これは、イスラエルの貪欲に対する嘆きです。レビ記25章23節を見ると、「地は買い戻しの権利を放棄して、売ってはならない。地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに寄留している異国人である。」とあります。神はイスラエルの社会で土地の売買を禁じられました。なぜならそれは本来神のものであって、神から与えられたものだからです。しかし、貪欲な金持ちは神の掟を破り、土地と家を買い、富を蓄えました。これに対して神様は、彼らの買った家を荒れ廃らせ、そこにだれも住まなくなると言われたのです。農夫がどれだけ汗を流しても労苦しても、地は作物を生み出すことができなくなります。何と十ツェメドのぶどう畑が一バテしか産することができず、一ホメルの田畑も一エパしか産することができないというのです。広い土地もちょっとしか収穫できず、多くの種を植えても、ちょっとしか収穫できないのです。なぜ?貪欲だからです。コロサイ3章5節には、「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」とありますが、それは神が忌み嫌われることであり、罪なのです。人間がどれだけ欲張っても、神が許されなければ何も手にすることはできません。

ここに「余地も残さす」という言葉がありますが、これは日本人が得意としていることです。日本では土地が狭いので、その狭い土地を出来るだけ有効利用しようと、少しも無駄にしないように余地を残しません。ですから家を建てる時などは建坪率ギリギリに建てるので、隣家との間はほとんどありません。そのように余地を残さないということはすばらしいことではありますが、時には大雑把であることも必要なのです。聖書を見ると、イスラエルが小麦を収穫する時には大雑把に刈り取るようにと勧めています。なぜでしょうか?それによって貧しい人たちが食べることができるからです。ルツはその落ち穂を拾い集めることができたので、十分に食べることができました。もしボアズがケチケチしていたら、全く余地を残さないですべて刈り取っていたら、そうした貧しい人たちは食べられなかったでしょう。大雑把というといい加減というイメージを持ちやすいですが、時には大雑把に、おおらかでであることが大切です。

イエス様は「受けるよりも、与える方が幸いである」と言われました。私たちは、時には無駄になると思えるようなことでも、惜しみなく施す心を持って、余地を残すことが大切なのです。

二つ目に神が嘆いておられることは、11節と12節にあります。ここには、「ああ。朝早くから強い酒を求め、夜をふかして、ぶどう酒をあおっている者たち。彼らの酒宴には、立琴と十弦の琴、タンバリンと笛とぶどう酒がある。彼らは、主のみわざを見向きもせず、御手のなされたことを見もしない。」とあります。

これはどういうことでしょうか?これは享楽のことです。彼らは朝から強い酒を飲んでいました。普通お酒って夜飲むんでしょ。一日の仕事を終えてゆっくりと休み、その日の疲れが取れるようにと飲むわけです。しかし、彼らは朝早くから飲んでいました。そればかりか、ここに「彼らの酒宴には、竪琴と十弦の琴、タンバリンと笛とぶどう酒がある」とあります。享楽にふけっていたのです。 彼らは神が注がれた恵みを覚えるような生活ではなく、一日中お酒を飲み、どんちゃん騒ぎをしていたのです。そうした刺激的なものを求めることによって、神様の恵みとかすばらしさといったことを考えることができなくなっていたのです。

そのような人たちに神様はどうされるのでしょうか?13節と14節にこうあります。「それゆえ、わが民は無知のために捕らえ移される。その貴族たちは、飢えた人々。その群衆は、渇きで干からびる。それゆえ、よみは、のどを広げ、口を限りなくあける。その威光も、その騒音も、そのどよめきも、そこでの歓声も、よみに落ち込む。」

それゆえ、捕らえ移され、それゆえ、干からびるのです。ここにはその理由が「わが民は無知のために」、「その群衆は、渇きで」とあります。これはどういうことかというと、神の知識がないためにということです。神様のことばを聞いても酒に興じて霊的に判断することができないと、霊的に枯渇し、ついには奴隷状態になってしまうのです。これは文字通り、バビロンという国に捕らえ移されることを示していますが、なぜそのようなことが起こるのかというと、神を信じないからです。神を神としてあがめることをしないために起こるのです。神を神としないで人間を神としているからなのです。

しかし、このことがわからないのです。なかなか気づきません。お酒を飲んで、享楽にふけっているからです。そのような感覚的なもの、刺激的なものばかりを求め、神に対して無知だからです。私たちは、どちらかというと、こうした感覚的なものをもとめがちなのです。ですから、私たちの周りにはそうしたもので溢れています。テレビや宣伝や広告などもそうですが、何も考えなくてもいいように流れています。しかし、みことばの学びは頭を使います。忍耐を要します。苦労します。このイザヤ書からの説教も1章からここまで学ぶのに二ヶ月くらいかかっています。祈祷会では創世記を学んでいてもうすぐ終わりますが、1年以上かかっています。本当に時間がかかります。しかしこれを避けて通ることはできません。どんなに大変でもこれに向き合って少しずつ学んでいくことによって、堅い食物を食べることができるようになるからです。そうでないと干からびてしまいます。霊的な枯渇状態に陥ることになるのです。教会も感覚的なものばかりを求めてこの作業を怠ると、霊的に枯渇してしまうことになります。聞こえがいい話ばかりでなく、聖書全体から神のみこころをじっくりと聞き、それを自分の生活に適用していくことによって、私たちは霊的に十分養われることができるのです。

この二つの忌まわしいものに共通していることは、霊的に鈍感であったということです。神様ではなく地上のものを求めていたことです。しかし、大切なことは神を恐れること、神の命令を守ることです。以前、生け花をやっている方から 聞いた話ですが、生け花をするときにはまず天を定めるのだそうです。天を定めてから下に、左右対称に生けてくると全体のバランスがとれるらしいのです。それは私たちの信仰生活も同じです。まず天を定めること、そこから下に、左右対称にバランスを保つことによって、その人生が真に潤いのあるものになるのです。

Ⅱ.主のみことばを大切に(18-24)

次に、残りの四つの「ああ」、忌まわしいもについて見ていきたいと思います。まず18,19節をご覧ください。ここには、「ああ。うそを綱として咎を引き寄せ、車の手綱でするように、罪を引き寄せている者たち。彼らは言う。「彼のすることを早くせよ。急がせよ。それを見たいものだ。イスラエルの聖なる方のはかりごとが、近づけばよい。それを知りたいものだ」と。」とあります。

これはどういうことでしょうか?これは、神を侮辱しているのです。「神がさばくというのなら、どうぞさばいてくださいよ。何も起こってないじゃないですか。アッ、ハッ、ハッ。」というわけです。Ⅱペテロ3章3節と4節には、「終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」とありますが、まさにこのことです。彼らはあえて神の悪いことを言い、神に挑戦するのです。

皆さん、この18節のみことばを見て何か思い出しませんか?そうです、よく日本のお祭りでこのような光景を見ます。大勢の人たちがみこしを担ぎ、だしなどを引いている様は、まさにこれと同じです。彼らはそうやって咎を引き寄せ、罪を引き寄せているのです。「これこそ自分たちを守ってくれる神だ。祭りだ、祭りだ」と言って・・。それは神への冒涜以外の何ものでもありません。

そして四つ目に出てくる忌まわしいものは、20節です。「ああ。悪を善、善を悪と言っている者たち。彼らはやみを光、光をやみとし、苦みを甘み、甘みを苦みとしている。」

これはどういうことかというと、価値観を逆転しているのです。聖書の価値観を悪とし、人間の価値観を善としているのです。たとえば、アメリカでは今、大統領選挙の予備選が行われていますが、そこでいつも問題になっているのが同性愛の問題と妊娠中絶の問題です。どうして選挙でこういうことが問題にされているのかというと、その候補者がどういう価値観を持っているかなのです。アメリカの建国の精神は聖書が土台にありますから、今でもこの聖書の価値観に従って生きている方が多いのです。しかし、だんだんと自由主義的な考えが入ってきて、そうした価値観が揺るがされているのです。たとえば、同性愛についてはレビ記や申命記、あるいはローマ人への手紙を見ても明らかにそれが罪であって、罪の結果そうなったのだと教えていますが、そうした自由主義に立つ人たちは、「まあ、そんなに堅いこと言わさんな。」「そんなことを言うあなたは非寛容だ」と逆に罪に定められる始末です。「それは病気なんだからしょうがない」というわけです。「それは人間の権利なのであって、その権利を認めるべきだ」と言うのです。こうした価値観の転換が起こっているのです。これが現代の社会が混乱に陥っている大きな原因なのです。価値観を逆転させて、悪を善、善を悪にしているのです。

それから五つ目の「ああ」です。21節をご覧ください。ここには、「ああ。おのれを知恵ある者とみなし、おのれを、悟りがある者と見せかける者たち。」とあります。

これはどういうことかというと、そのように悪を正当化するために、それを理論武装する人たちのことです。たとえば、先程の同性愛について言えば、それは医学的な見地からすれば病気であるとか先天性のものであると言って、それを理論的に正当化するのです。その背後にあるのは何かというと高ぶりです。自分を知恵ある者と思い込んでいるのです。「おのれを知恵ある者とみなし、おのれを、悟りのある者と見せかけ」ているわけです。こういう人は救いようがありません。箴言26章12節に「自分を知恵のある者と思っている人を見ただろう。彼よりも、愚かな者のほうが、まだ望みがある。」とあるからです。わからなければわからないで教えることもできるのですが、自分が正しいと思っている人には何を言っても通じません。そういう人よりは、愚か者のほうが、まだ望みがあるというのです。

それから最後の「ああ」です。22節と23節をご覧ください。「ああ。酒を飲むことでの勇士、強い酒を混ぜ合わせることにかけての豪の者。彼らはわいろのために、悪者を正しいと宣言し、義人からその義を取り去っている。」

日本では酒に強いのは男らしいと認める誤った風潮があります。「酒の一升やそこいら飲めなくては男ではないぞ」みたいなことを言ったりするわけです。また酒飲みを弁護する風潮もあります。イザヤの時代もそうでした。酒飲みはカッコイイと思われていたのです。しかも、そのように豪語していたのがどうも正義を旨とするはずの裁判官だったのです。彼らはわいろのために、悪者を正しいと宣言し、義人からその義を取り去っていました。まさに泥酔した者のように、正しい判断が失われていました。そのことがここで非難されているのです。わいろを受け取るのにためらいがなく、正義を曲げるのに良心の痛みがないとしたら、それは心がすっかり酔っぱらっているからにほかなりません。そのような人たちは神様の目にはとても忌まわしい者だというのです。

いったい何が問題なのでしょうか?イザヤは24節のところには、彼らがそのように道徳的に忌まわしく、公然と神を侮辱し、価値観を逆転させ、むしろ罪を理論武装させて正当化し、酒のために判断を曲げてしまう原因がどこにあるのかが述べています。「それゆえ、火の舌が刈り株を焼き尽くし、炎が枯れ草をなめ尽くすように、彼らの根は腐れ、その花も、ちりのように舞い上がる。彼らが万軍の主のみおしえをないがしろにし、イスラエルの聖なる方のみことばを侮ったからだ。」  それは彼らが主の教えをないがしろにし、イスラエルの聖なる方のみことばを侮ったからです。皆さん、なぜ日本では神を侮るようなことが起こるのでしょうか?それは、みことばをないがしろにしているからです。主の教えを侮っているからなのです。神のみことばをないがしろにするので、物質的なものに頼ったり、高ぶったり、自分の考えを正当化するようなことが起こってくるのです。これが問題です。考えて見てください。私たちの社会で、どれだけの人が主のみおしえを求めているでしょうか?私はみことばを準備して一日中座っていることがありますが、「聖書に何が書いてあるか知りたいのです」と求めてくるような人は皆無です。先日、学校とか病院で聖書を配布しているギデオン協会の方々が来られて話しを聞きましたが、聖書を配布しようとしても寒くて学生たちがポケットから手をださないので受け取らないというのです。それで寒い時期に配布するのを止めてもう少し温かくなってから配るようにしたとのことでしたが、それは寒いからではないのです。心が寒いからなのです。万軍の主のみおしえをないがしろにし、イスラエルの聖なる方のみことばを侮っているからです。それゆえ火が刈り株を焼き尽くすように彼らの根は腐れ、その花も、ちりのように舞い上がるのです。もし私たちの住む社会を健全な秩序あるものにしていきたいと思うなら、ここから改めていかなければなりません。すなわち、自分の知恵を誇ることをやめて、主のみおしえに聞かなければならないということです。聖なる方のみことばを大切にしなければならないのです。

Ⅲ.神に導かれて(25-30)

最後に、このように地上のものだけを求め、神を侮る人たちに、どのような神のさばきが臨むのかを見て終わりたいと思います。25,26節をご覧ください。ここには、「このゆえに、主の怒りが、その民に向かって燃え、これに御手を伸ばして打った。山々は震え、彼らのしかばねは、ちまたで、あくたのようになった。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。主が遠く離れた国に旗を掲げ、地の果てから来るように合図されると、見よ。それは急いで、すみやかに来るとあります。」とあります。

25節の「山々は震え」とは大地震のことです。イスラエルが神に逆らい、神を侮辱し、おのれを知恵ある者としたので、神の怒りが燃え上がり、御手を伸ばして彼らを打ったので、山々は震え、彼らのしかばねは、あくたのようになりました。しかばねとは死体のことです。それがあくたのようになりました。あくたというのはごみとか、ちりのことです。死体がごみのようにその辺にごろごろ散乱するようになりました。また、それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされ、主が遠く離れた国に合図をすると、その国が急いで、すみやかにやって来て、これを攻めるようにするのです。それは獅子のようにほえ、若獅子のようにうなって、獲物を捕らえます。救おうとしても救い出す者はいません。30節、「その日、その民は海のとどろきのように、イスラエルにうなり声をあげる。地を見やると、見よ、やみと苦しみ、光さえ雨雲の中で暗くなる。」

これはバビロン捕囚のことです。バビロンの軍隊がやって来て獅子のように、若獅子のようにイスラエルに襲いかかるので、彼らは悲惨な状態になるというのです。また、これはこの世の終わりにもたらされる大患難時代のことでもあります。神に敵対し、おのれを神とする者に、神は獅子のように襲いかかり、激しくさばかれるのです。

ですから私たちは、この地上の瞬間的なものではなく、天にある永遠のものを思って生きなければなりません。へりくだって神のみおしえに聞き従う者でなければなりません。そうでないと、やがてこのような神のさばきが臨むのです。

ところで、ここまで読んで「あれっ」と思いませんか?これまでずっとイザヤ書を学んできましたが、そこには必ず回復の希望が語られていました。イスラエルの罪とそれに対する神のさばきの宣言とともに、その後に回復が語られていたのです。なのに、ここにはそれがありません。神のさばきで終わっているのです。いったいどうしてでしょうか?実は、イザヤが語りたかったことはこれだったんです。なかなか悔い改めようとしないユダに対して、怒っていたのです。「これだけ言ってるのにわからないのですか」「神様はこのように回復してくださるというのに、どうしてあなたがたは悔い改めないのですか」「そのように悔い改めないのならさばきです」「いいですか」そんな感じです。神のさばきを宣言することで、彼は終わりたかったのです。

しかし、預言を語るということはそういうことではありません。預言を語るということは自分が何を語りたいかと言うことではなく、主が語っておられることを語ることなのです。彼はそのことを6章に入ってから気がつくのです。そこで彼は預言者としての召命をいただき本格的な預言活動が始まっていくわけですが、そこで彼はある一つのことを示されるのです。それは、これまで「あなたがたはわざわざいだ」と語ってきた彼が、本当に汚れていたのは自分自身であったということです。そこで彼は祭壇の火が彼のくちびるに触れるという経験を通して聖められ、真の預言者として立ち上がっていくわけです。そしてもっとスケールの大きな預言者として用いられていくのです。ですからここが彼の預言者としての転換点でもあったと言えるのです。彼はここから、自分が語りたいことを語るのではなく、まさに主に引っ張られるようにして語るように変えられていくわけす。

それは私たちの信仰生活も同じです。私たちの信仰の歩みは、自分が語りたいことを語ったり、自分がしたいことするのではなく、主が語っておられることを悟り、主が願っているのかを行うことです。主の御手に引っ張られるようにして導かれていくことが私たちの信仰生活なのです。そのような価値観の転換が私たちにも求められているのです。イザヤの場合はここがその転換点だったのです。そういう意味では私たちも素直な心でみことばを聞きそれに従いながら、神に喜ばれる信仰者としてふさわしく整えられる者でありたいと思います。

イザヤ書5章1~7節 「ぶどう畑の歌」

きょうはイザヤ書5章のみことばから、「ぶどう畑の歌」というタイトルでお話をしたいと思います。1節の前半のところに、「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。」とあります。イザヤは預言者として主のことばを伝えましたが、ここではイスラエルの霊的な状況をぶどう畑のたとえを用いて語っています。しかも、ただ語っているのではなく、愛の歌によって語っているのです。きょうはこの愛の歌を通して、神様がどれほどイスラエルを愛しておられたのかを三つのポイントで見ていきたいと思います。まず第一に、イスラエルに対する神様のご期待を見たいと思います。第二のことは、そのような期待にイスラエルがどのように応答したかについてです。そして第三のことは、私たちが良い実を結ぶにはどうしたらいいのかについてです。

Ⅰ.神のご期待(1-2a)

まず最初に、イスラエルに対する神様のご期待から見ていきたいと思います。1節と2節の前半のところをご覧ください。「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。」

ここはそのまま読んでよくわかる内容です。ここにぶどう畑を持っている主人がおり、彼は一生懸命にそこを耕して、良いぶどうの苗を植えました。しかもそれを保護するために柵を巡らし、収穫したときに良い酒を作るための一切の用意を調えて、ぶどうを栽培しました。この「よく肥えた山腹」という表現は、この土地の豊かさを表しています。パレスチナは、テラロッサと呼ばれるよく肥えた良質の土地で、ぶどうの栽培にはとても適していた所でした。しかし、それはその土地がそのまま良い畑であったという意味ではありません。良い畑であるためには、それなりに手入れをしなければならないからです。そこでこのぶどう園の主人はそこを掘り起こし、石を取り除いて、そこに良い品種のぶどうの苗を植えました。そしてその中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうがなるのを待ち望んでいたのです。

これは並々ならぬ労苦です。ゴロゴロとした岩や石を取り除くのは容易なことではありません。また、その取り除いた石で石垣を張り巡らし、残った石で見張りやぐらを立て、監視するということも大変な仕事だったでしょう。特に大切な収穫の時期には24時間体制で監視しなければなりませんでした。また、酒ぶねまで掘ったのです。酒ぶねとは収穫物を貯蔵しておくための桶のことですが、ずっと長く使えるように、岩を掘って造られていたのです。まさに至れり尽せりです。酒ぶねまでもの「までも」ということばの中に、その手のかけようがよく表れているのではないかと思います。これほどまでに手をかけてくださったのです。

ここに出てくるぶどう畑とはイスラエルのこと、そしてそのぶどう畑にこれほどまで手をかけてくださるのは神様のことです。神様はこれほどまでにイスラエルを愛してくださったのです。よく旧約聖書は怖い神で新約聖書は優しい愛の神だということを聞くことがありますが、そうではありません。聖書の神は一貫して愛の神です。ここに表れている神の姿を見るとそれがよく表されています。神様を怖い存在だと思っているのはその人が勝手にそのように思い込んでいるだけで、実際はそうではないのです。神様はどこまでも愛であって、イスラエルのためにはこんなにも手をかけ、足をかけて養っておられたのです。

いったいなぜ神様はこんなにもイスラエルを愛されたのでしょうか?それはこのぶどう畑に収穫を期待していたからです。甘くて美味しいぶどうがなるのを楽しみに、楽しみにずっと待っていたからなのです。2節後半にある「甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた」という言葉には、そんな主人の心がよく表れているのではないかと思います。

どこか忘れましたが、私は以前高級和牛が食べられるというレストランに行ったことがあります。するとそのレストランの入口におもしろい張り紙がしてあるのを見付けました。「この店で使用している和牛は高級黒毛和牛で、毎日クラシック音楽を聴かせ、マッサージをして育てた特産和牛です。」何とその店で使われていた和牛は、毎日クラシック音楽を聴かせて育てた牛なのです。しかもマッサージ付きですよ。ちょっと贅沢じゃありませんか。するとその下に説明が書いてありました。「クラシック音楽を聴いて育てられた牛肉は良質のとても軟らかい肉になります。」私はその説明書を見たとき本当かなと思いましたが、それよりもこの店のオーナーの心意気というか、やる気を感じました。そこまでして良い肉を生産して提供したいと思っていたのです。それほど期待していたわけですね。

エペソ人への手紙1章3~6節を見ると、次のようにあります。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」

パウロはここで、神はキリストにあって、天にある霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました、と言っています。何と世界の基の置かれる前から救われるようにと選んでいてくださったのです。いったい何のためでしょうか?それは、私たちに与えてくださった神の恵みの栄光がほめたたえられるためです。私たちを通して神様の栄光がほめたたえられるために、生まれる前から、いやこの世界の基の置かれる前から、私たちは救われるようにと選ばれていたというのです。神様の御思いというものがひしひしと伝わってくるようです。いったい私たちはどれだけそんな神様の思いを意識しているでしょうか?こうして救われたことを、あるいは、毎週教会に来て礼拝できることを当たり前であるかのように思ってしまい、そうした神様のご期待に応えられないでいることはないでしょうか。

おそらくこのエペソのクリスチャンはそういう状況にあったのだと思います。そこにはアルテミス神殿があり、魔術が盛んなその異教の偶像の町で、せいぜい信仰を失わないようにするのが精一杯だったかもしれませんが、実は神様はこのエペソの町に大きな期待を寄せていたのです。それゆえに、神はパウロやテモテやヨハネといった、名だたる牧会者を次々とこの教会に送り込まれたのではないでしょうか。黙示録に登場する七つの教会の多くは、このエペソ教会の伝道によって生まれたのではないかと言われていますが、この教会には、単に地元での伝道や教会形成にとどまらない、大きな期待が寄せられていたのです。同じように神様は、私たちにも期待しておられるのです。私たちを見たら、ガリラヤのような田舎者で、いったい何ができるかと思えるようなちっぽけな存在なのかもしれませんが、けれども神様はこんなガリラヤの田舎の教会が世界宣教を担うような大きな、神の使命に応えるような、そういう存在になってほしいと願っておられるのです。

かつてプロ野球中日ドラゴンズの選手であった中村選手は、まだ日の目を見ない頃に、当時の監督であった星野仙一さんから「おれはおまえを日本一の選手にしてやる」と言われたそうです。当時の彼の、どこにどれだけの可能性を見いだしたのかはわかりませんが、とにかく彼はそのことばで燃えました。  仮にも、日本一の捕手にしてやると監督が言ってくれた。監督は、そこまで自分に期待してくれている。そう思うとうれしくて、彼はどの選手よりも早くグランドに行き、どの選手よりも遅くまで練習しました。今では、その熱心さと、どんな怪我からでも這い上がってくる闘志は有名です。

だれからも期待されていないと思えば、やる気をなくすのは当然ですが、大きく期待されていると知ったら、奮闘せずにはいられないのもうなずけます。神様は私たちのうちに可能性を見いだし、熱く期待しておられます。神様の祝福を受け取って立ち上がりたいものです。

Ⅱ.神の失望(2b-4)

ではこの神の期待に対して、イスラエルはどのように応答したでしょうか。2節後半から4節までのところをご覧ください。「ところが、酸いぶどうができてしまった。そこで今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができたのか。」

神様の熱い期待とは裏腹に、何と酸いぶどうができてしまいました。この「酸いぶどう」と訳された言葉は、口語訳では「野ぶどう」と訳されています。これは「臭くて食べ物にならない実」です。ぶどうによく似ているのですが、もっと小さくて特殊な臭いがして食べ物にならないものです。箴言13章5節にも同じ言葉が使われていますが、そこでは「悪臭を放つ」と訳されています。うまく熟さず、腐って悪臭を放つようなぶどうができてしまったのです。あれほど手塩にかけて育て、甘いぶどうがなるように期待していたのに、悪臭を放つような腐ったぶどうができてしまったのです。このときの主人の気持ちといったら、いったいどんなものだったでしょうか。「酸いぶどうができてしまった」という言葉の中に、この主人の残念さ、無念さがにじみ出ています。

そこで主は今、エルサレムの住民とユダの人にそのジャッジを求めます。「そこで今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができたのか。」

これは、これ以上手を加える必要はないといわれるほど手を加えたのに、全く食べ物にならないような腐ったぶどうが出来てしまったのはどうしてなのか、自分に何過落ち度があったのか、足りないことがあったか、あったなら教えてほしい、とジャッジを求めているのです。もちろん答えはNoです。ありません。神様のイスラエルに対する取り扱いは完璧でした。それは至れり尽せりで、足りないことなど何一つなかったのです。ではなぜ、酸いぶどうができてしまったのでしょうか。答えは7節にあります。

「まことに、万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えつけたもの。主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血。正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び。」

ここに、「主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血。正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び。」とあります。この「公正と流血」、「正義と叫び」という言葉は必ずしも相対する反対語ではありません。これは日本語ではよく表せませんが、ヘブル語では一つの音の遊びというか、語呂合わせであることがわかるんです。「公正」というのは、ヘブル語で「ミシュパート」と言いますが、「流血」というのは「ミシュパーハ」なんです。ミシュパートに対してミシュパーハです。また、「正義」というのはヘブル語で「ツァデーク」といいますが、「叫び」というのは「サデーカー」といいます。音はよく似ていますが、意味は全く違います。つまり、見かけは神様の期待にそっくりでも、中味は全く違っていたということなのです。これが問題だったのです。実際はそうでないのにそうであるかのよえに見せかけること、それが問題だったのです。

私もよく存じ上げている方で丸屋真也という先生がおられます。この先生は「健全な信仰とは何か」という本を書いておられますが、この本の中でなぜこのようなことが起こってくるのかについて次のように述べています。先生はそれを「霊的化」という言葉を使って説明しているわけですが、本当は霊的ではないのにあたかも自分が霊的であるかのように思い込んで、振る舞ってしまうというのです。霊的というのは神のみこころにかなっているということです。神のみこころにかなっていないのに、実際のところは神のみこころからかけ離れたところにいるのに、「霊的とはこのようなことだ」という先入観やイメージがあるので、霊的だと誤解してしまうのです。そして、こうした霊的化が習慣化すると無意識のうちにですが、福音を自分流に理解して信仰生活を送るようになってしまうというのです。これでは霊的に成熟することは困難であり、逆に、霊的な衰退に陥らないとも限りません。まさに表面的には甘いぶどうのようであっても、中味は酸っぱいというのはこうした状態のことなのです。

イスラエルは、そのように良い実を結ぶことができないものになってしまいました。神から恵みをいただいているのだからと、恵みのエリート意識の中に閉じこもってしまい、恵みを受けながらもその歩みを捨ててしまいました。そして、酸っぱいぶどうしか結ぶことができなくなってしまったのです。自分の力でどんなに努力しても、神様のご期待にそえるような公正も、正義も結ぶことができないものになったのです。

ぶどう園の主人が期待したのはそんな実ではありません。甘いぶどうです。甘いぶどうの実がなるのを待ち望んでいたのです。それがぶどう畑に期待されていたことであり、そこにぶどう畑が存在していることの意義なのです。

Ⅲ.まことのぶどうの木(5-6)    ではどうしたらいいのでしょうか?どうしたら甘いぶどうの実を結ぶことができるのでしょうか?5,6節をご覧ください。ここには、「さあ、今度はわたしがあなたがたに知らせよう。わたしがわがぶどう畑に対してすることを、その垣を除いて、荒れすたれるに任せ、その石垣をくずして、踏みつけるままにする。わたしは、これを滅びるままにしておく。枝はおろされず、草は刈られず、いばらとおどろが生い茂る。わたしは雲に命じて、この上に雨を降らせない。」とあります。

ここには、ぶどう畑の主人の結論が述べられています。「さあ、今度はわたしが、あなたがたに知らせよう。」自分がしてきたことで何か落ち度がありましたか?なかったですね。じゃ、今度は私がやることを知らせましょう、というのです。「その垣を除いて、荒れすたれるに任せ、その石垣をくずして、踏みつけるままにする。」これは外敵が来るということです。自分たちが守られているのは神様の守りがあったからです。なのにそのことを認めないで、逆に神様を否定するようなことを行っているとしたら、全く意味がありません。それで神様はその垣を除いて、荒れすたれるに任せ、石垣をくずして、踏みつけるままにするのです。そして、それを滅びるままにしておかれます。刈り取りもなさいません。もうボーボーです。そこに足を踏み入れることもできません。神様が刈り込みをしてくださるので私たちは安心して生活ができるのに、もうそれもありません。極めつけは「わたしは雲に命じて、この上に雨を降らせない。」ということです。雨はいのちの象徴です。太陽が昇り、雨が降るからこそ、私たちは潤いを感じることができわけです。雨が降らなかったら植物も育たないし、生きることもできません。その雨も降らせないというのです。このような神様のさばきが臨むというのです。

ところで、このぶどう畑のたとえは、イエス様がユダヤ人の指導者に語られたものです。マタイの福音書21章33~44節を開いてみましょう。ユダヤ人の指導者たちがこのたとえを聞いたとき、「あっ、これはあのイザヤ書5章にあるたとえだな」とすぐにピーンと来たはずです。彼らは宗教指導者ですから、旧約聖書の内容はよくわかっていたのです。そしてここに出てくる農夫たちが自分たちのことであり、しもべたちというのが預言者たちのことであることもちゃんと知っていたのです。それで主人が農夫たちのところへしもべを遣わすと農夫たちはそのしもべたちを袋だたきにして殺したというんでしょ。それを聞いていた指導者たちの雲行きはたせんだんと怪しくなってくるわけです。そして37-39節のところで主人が送った息子を、農夫たちが殺して、財産を自分たちのものにしてしまうというわけですから、その話を聞いていた彼らはいてもたってもいられないような気分だったのではないかと思います。

ところで、そういうことになったらこのぶどう園の主人はいったいどうするでしょう。41節を見ると、「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を治める農夫たちに貸すに違いありません。」とあります。  それが、今ここで言われていることです。そして、どうするのかというと、43節に書いてあるのです。

「だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。」

もし神様のご期待にそえず酸っぱいぶどうの実を結ぶようなことがあると、神の国は彼らから取り去られて、神の国の実を結ぶ国民に与えられるのです。この国民とはだれのことでしょうか?そうです、異邦人のことなんです。ユダヤ人がなかなか信じようとしなかったので、神様はその恵みを取り上げて異邦人に与えると言われたのです。その結果、神の国が今、私たちのところにももたらされるようになったわけです。ということは、私たちが神のご期待にそえるような実を結ぶには、神の御子であられるイエス・キリストを信じて、受け入れて、そのみことばに従って歩まなければならないということです。

ヨハネの福音書15章5節のところでイエス様は次のように言われました。 「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」

皆さん、イエス様がぶどうの木なのです。私たちは枝です。枝は木にとどまっていなければ実を結ぶことができないように、私たちも木であるイエス様にとどまっていなければ実を結ぶことはできません。自分でどんなに努力してみても、神が喜ばれるようなことはできないし、反対にやってはいけないと分かっていても、やってしまうということがたくさんあるのです。ところが、そういう私たちのためにぶどうの木であるイエス様が十字架にかかって死んでくださいました。ぶどうの木であるイエス様が切られてしまったわけです。そしてその幹であるイエス様の切り口と私たちの切り口がつぎ合わされて、イエス様のいのちが流れるようになりました。そのいのちによって、私たちも多くの実を結ぶことができるようになったのです。すなわち、このイエス様との生ける交わりを通してのみ、私たちは実を結ぶことができるということです。

何とすばらしい約束でしょうか。私たちの力では酸っぱくて腐ったような実しかできないのに、イエス様と交わり、イエス様のいのちによって、甘いぶどうの実ができるのです。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」といった実を結ぶことができるのです。

アブラハム・リンカーンは、成人して間もなく、ひどいノイローゼにかかったと言われていますが、彼が自分以外の大きなものに仕えるように自分の生活を軌道修正することによって、ついに神のために、また人のために尽くすようになったと言われています。この自分以外の大きなものこそ、イエス・キリストでした。また、キューリー夫人もその夫の悲劇的な死の後、その生涯を神にささげ、科学的研究に身を投じてラジウムを発見し、世界の科学界に大いなる貢献をしました。 救世軍のウィリアム・ブースも全盲になりまたが、その魂に対する情熱は冷めることなく、奉仕の決意をますます不動なものとしていきました。

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」私たちもイエス様にとどまって、見せかけでない本物の実を結ぶ者になりましょう。

少し前に見たテレビの園芸番組の中で、園芸の専門家が、「植物に話しかけることで、植物の成長を促すことができる。」と言っていました。その植物はクリーピング・チャーリーという観葉植物の一種ですが、その解説者はこう言っていました。「この葉に優しく声をかけたり、撫でたり、話しかけたりすることによって、その植物の自尊心をはぐくむことができる」  私たちはクリーピング・チャーリーです。神様が私たちにいつも語りかけておられます。「いい木だね。今日も、とてもきれいだ。すばらしいよ。」とか「痛いだろう。でも、あなたがもっと実を結ぶためにこうやって剪定しているんだよ。後になれば分かるから。」私たちはいつもそうした神の励ましの声を聞いて、神の期待を感じながら、神のことばに深く根を下ろして、生ける神と交わることによって、豊かな実を結ぶ者でありたいと思います。

イザヤ書3章16節~4章6節 「聖めてくださる神」

きょうは3章16節から4章全体のところから、「聖めてくださる神」というタイトルでお話したいと思います。イスラエルが鼻で息をする人間をたよりにした結果、主は彼らがたよりとしていたものを除かれました。すべてのパン、すべての水、勇士や戦士、さばきつかさと預言者、こういったものが除かれたのです。その結果、ユダは混乱し、荒廃するようになりました。しかし、それで終わりではありません。神はそのようなイスラエルから汚れを取り除き、彼らを聖めてくださいます。きょうのところには、そのエルサレムの回復が語られています。

きょうは、この聖めてくださる神について三つのポイントでお話したいと思います。第一のことは主はうわべではなく心を見られるということです。第二のことは、主は高ぶりを取り除かれます。第三のことは、主はそのような汚れを聖めてくださるということです。

Ⅰ.内面を美しく(3:16-23)

まず第一に、主は私たちの内面をご覧になられるということについて見ていきましょう。16節から23節までをご覧ください。16節には「主は仰せられた。「シオンの娘たちは高ぶり、首を伸ばし、色目を使って歩き、足に鈴を鳴らしながら小またで歩いている。」

どういうことでしょうか。ここで神は、エルサレムを一人の娘にたとえています。1章のところでは妻にたとえられていましたが、ここでは娘です。この娘たちは高ぶり、首を伸ばし、色目を使って歩き、足に鈴をならしながら小またで歩いていました。首をのばして歩くというのは気取って歩くということでしょう。色目を使って歩くとは、男性の関心を引こうとこびを使って歩くということです。足に鈴を鳴らしながら小またで歩いていう表現には、男性の関心を引こうとしていた姿がよく描かれています。もちろん、数々の宝石を身を飾り、厚化粧をしてのことです。17節を見ると、「それゆえ、主はシオンの娘たちの頭のいただきをかさぶただらけにし、主はその額を向きだしにされる。」とあります。そうした数々の装飾品をはぎ取り、べっとりと塗った厚化粧をはがされるのです。

18節から23節までのところには、そうした装飾品の数々がリストアップされています。全部で21もあります。足飾り、髪の輪飾り、三日月形の飾り物、耳輪、腕輪、ベール、頭飾り、くるぶしの飾り、飾り帯、香の入れ物、お守り札、指輪、鼻輪、礼服、羽織、外套、財布、手鏡、亜麻布の着物、ターバン、かぶり物、などです。ずいぶんありますね。これだけの装飾品を身に着けていたのです。

いったい何が問題だったのでしょうか。美しさを求めることが問題だったのではありません。美しさを求めることは与えられた人間の本能であり、創造の秩序です。最初の人間アダムとエバが罪に陥り、自分たちが裸であることを知って恥ずかしいと思ったとき、彼らはいちじくの葉をつづり合わせたもので腰の覆いを作りましたが、神は彼らのために自ら皮の衣を作って着せてやりました。(創世記3:21)。また、アブラハムは約束の子イサクの嫁リベカのために、金の飾り輪と金の腕輪を与え、さらに、銀や金の品物や衣装を贈っています。(創世記24:22,53)。また、ルツ記を見ると、ナオミは世継ぎを得るために、嫁のルツをボアズのところへ遣わす時、香水と晴着をまとわせました(ルツ3:3)。ですから装飾品や飾り物自体は悪ではなく、それらを身に着けることも罪ではありません。こうしたものは正しく用いるならば、祝福と喜びと感謝のために役立てられるのです。

ではいった何が問題だったのでしょうか?それは、そのように外側に表れる姿と内側に隠されている姿が不均衡であったことです。シオンの娘たちは、神のみこころにかなうことよりも、人々によく見られるために身を飾ることに神経を使い、贅沢に暮らしていたのです。それが問題でした。そして、そうした彼らの根本的な問題はどこにあったのかというと、16節に「シオンの娘たちは高ぶり」とあるように、彼らが高ぶっていたことです。彼らは高慢で、その関心はただ自分のことだけに向けられていたのです。彼らは神の民でありながら神のことよりも、この世のことで一杯だったのです。

イザヤは、この高ぶりが悪の根源であることを見抜いていました。それは虚栄心といった方がよいかもしれません。人間の高ぶりは過度の性的欲望とぜいたくな生活態度に現れてきます。「色目を使う」とか「小またで歩く」、「髪の輪飾り」「腕輪」ということばは、旧約聖書の中でここにしか使われていない独特のことですが、イザヤは、彼らがいかに高慢で虚栄を張っていたのかを、こうしたことばを使って表現しようとしていたのだと思います。

しかし、神様はシオンがこうした装飾品で身を飾り虚栄心を満足させるのではなく、心砕かれて、神と人を愛するようになることを願っておられました。ペテロ第一の手紙3章3,4節には、「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものではなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちないことのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」とあります。心の中のオシャレこそ、私たちが求めていかなければならないものなのです。

皆さんの美しさの基準は何でしょうか。人はうわべを見るが、主は心を見られます。私たちは主に喜ばれる心を求めていかなければなりません。柔和で穏やかな霊といった、心の中の隠れた人がらを飾りにしなければならないのです。

Ⅱ.高ぶりは砕かれる(3:24-4:1)

第二のことは、そのような高ぶりは砕かれるということです。3章24節から4章1節までをご覧ください。「こうして、良いかおりは腐ったにおいとなり、帯は荒なわ、結い上げた髪ははげ頭、晴れ着は荒布の腰巻きとなる。その美しさは焼け傷となる。あなたの男たちは剣に倒れ、あなたの勇士たちは戦いに倒れ、その門はみな、悲しみ嘆き、シオンはさびれ果てて地に座す。その日、七人の女がひとりの男にすがりついて言う。「わたしたちは自分たちのパンを食べ、自分たちの着物を着ます。私たちをあなたの名で呼ばれるようにし、私たちへのそしりを除いてください。」

新改訳には訳されていませんが口語訳を見ると、24節には「・・に代わって」ということばが五回も繰り返して用いられています。すなわち、「芳香は代わって、悪臭となり、帯は代わって、なわとなり、よく編んだ髪は代わって、かぶろとなり、はなやかな衣は代わって、荒布の衣となり、美しい顔は代わって、焼き印された顔となる。」とあります。これは、今の状況に比べてどれほど悲惨的な状態になるかが表現されているのです。シオンの娘たちは、見た目の美しさや華やかさだけに心が奪われ神に信頼することをしなかったので、神はシオンの娘たちの頭のいただきをかさぶただらけにし、もろもろの飾りを取り除かれるので、見るも悲惨な姿になってしまうというわけです。

これはその後約100年後にバビロンによって捕らえ移されることで実現しました。その時ユダの女たちは身を飾る宝石など、すべての貴重品が没収されました。香水をつけていた人も何日も風呂に入れなかったので、腐った臭いになりました。身につけていた帯は彼らを縛るなわになり、そのなわに縛られてバビロンへと連れて行かれたのです。そして美しい髪も切られてはげ頭になり、晴れ着も悲しみを表す荒布になりました。その美しさは失せ果ててしまいました。

そればかりではありません。25,26節には、「あなたの男たちは剣に倒れ、あなたの勇士たちは戦いに倒れ、その門はみな、悲しみ嘆き、シオンはさびれ果てて地に座す。」とあります。自分たちが頼っていた男たちが戦闘で倒れてその多くが死んで行くようになるというのです。「その門」の「門」とは行政を司るところですね、いわゆる役所のことです。そこに戦死者の情報がどんどん入ってくるので、そこで人々は嘆き悲しみ、深い悲しみが町全体を覆うようになるというのです。こうしてシオンはさびれ果てて地に座します。シオンは完全に荒廃するのです。

4章1節をご覧ください。「その日、七人の女がひとりの男にすがりついて言う。『私たちは自分たちのパンを食べ、自分たちの着物を着ます。私たちをあなたの名で呼ばれるようにしてください。わたしたちへのそしりを除いてください。』」と。どういうことでしょうか?戦いで多くの勇士が倒れてしまうため、少数の男性しか残らなくなるということです。その比率は女性7に対して男性が1です。そうなると女性たちが焦ってこう言うのです。「どんな男でもいいから結婚してほしい・・・。」そして、もし結婚できるなら生活のことは心配しないでください。生活のことは自分で何とかしますから。ただ何とか結婚してください。なぜそこまでして結婚したいのでしょうか?ここに、「私たちへのそしりを除いてください。」とありますが、そのようにして何とか面目を保ちたいからです。

結婚だけが人生のすべてではないのに、この娘たちにとってはそれがすべてでした。そこにしか希望を見いだすことができませんでした。旧約時代には結婚とか出産は神の祝福のしるしとみなされていたので、これがなかったら他の人に遅れを取ってしまうのではないかと思っていたからです。何とか体裁だけでも整えたかったのです。このような姿からも、彼らが外見だけを取り繕ろうとしていたことがわかります。

このように、彼らが誇っていたものはすべて身にまとうもので、内面を飾るには何の役にも立たないものばかりでした。そうしたものを誇りとして生きていたのです。そのようなものを誇りとしていると神は彼らをさばかれ、そのようなものを取り除かれるのです。そして、荒廃と嘆きがもたらされるのです。私たちはこうしたむなしい生き方から立ち返り、私たちにいのちを与え、豊かな恵みをもって守っておられる神の前に心砕かれ、へりくだって生きるものでありたいと願います。

Ⅲ.聖と呼ばれるようになる(4:2-6)

ところで神は、不信仰、不従順、偶像礼拝で汚れたエルサレムをさばかれるだけでなく、これを贖い、聖めることによって、神の都にふさわしくされます。それが4章2節から6節までのところに書かれてあることです。

「その日、主の若枝は、麗しく、栄光に輝き、地の実は、イスラエルののがれた者の威光と飾りになる。シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖と呼ばれるようになる。みなエルサレムでいのちの書にしるされた者である。主が、さばきの霊と焼き尽くす霊によって、イオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めるとき、主は、シオンの山のすべての場所とその会合の上に、昼は雲、夜は煙と燃える火の輝きを創造される。それはすべての栄光の上に、おおいとなり、仮庵となり、昼は暑さを避ける陰となり、あらしと雨を防ぐ避け所と隠れ家になるからだ。」

「その日」とは、世の終わりに、主が再臨されるときのことです。「主の若枝は、麗しく、栄光に輝き、地の実は、イスラエルののがれた者の威光と飾りになる。」ここには、神の救いの計画が「主の若枝」として表現されています。この「若枝」ということばは、メシヤの呼び名です。クリスマスに学びましたが、11章1節には、「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」とありました。また、エレミヤ書23章5節にも、「見よ。その日が来る。―主の御告げ―その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行う。」とありますが、これらはやがて来られる主イエス・キリストのことです。その日、すべての人の高ぶりは打ち砕かれ、絶望的な荒廃が地を覆いますが、神が送られたメシヤなる主の若枝(キリスト)は、麗しく、栄光に輝き、イスラエルののがれた者は、その恵みによって、地の産物を豊かにいただくようになるのです。

ここにまた出てきました。「のがれた者」ということばです。これは3節の「残された者」と同じです。この「残りの者」の思想はイザヤ書を一貫している重要なテーマで、何回も何回も繰り返して出てきます。(1:8-9、4:2-3、6:13、10:20-22、11:11,16、28:5,、37:31-32、46:3、49:6)それは彼が結婚して生まれた長男に「シュアル・ヤシュブ」という名前を付けたことからもわかります(イザヤ7:3-4)。シュアル・ヤシュブという名前の意味は、「残った者は帰ってくる」です。イスラエルは神の民でありながら、神を忘れ、神に反逆したことで、そのさばきを免れることはありません。戦争やききん、天災といったことによって神のさばきを受けるのです。けれども、それで終わりではありません。神様はあわれみのゆえに「残る者」を残し、捕囚の地から帰され、真の神の民が絶えることがないように、神様の守りのうちに神の民としてその道に歩み続けることができるようにしてくださるというのです。

そうです、神のさばきの目的はイスラエルを滅ぼすことではなく、彼らを回復することです。そのようなさばきによって彼らの汚れを洗い、聖めてくださるわけです。しかし、その中にも少数の者を残しておられる。3節をご覧ください。「シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖と呼ばれるようになる。みなエルサレムでいのちの書にしるされた者である。」

ここには「聖と呼ばれるようになる」とありますが、これはすごいことなんです。「聖と呼ばれるようになる」とは「聖なる者」、つまり、完全に聖い者として御国を受け継ぐ者になるということです。ですからここに、「いのちの書に名がしるされた者である」とあるのです。これはものすごい約束です。

イエス様は、悪霊を追い出したり、数々の奇跡を行って意気揚々と帰って来た弟子たちに次のように言われました。「確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがた名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」(ルカ10:19-20)

このいのちの書に自分の名前が書き記されているかどうかが重要なことなのです。それは悪霊を追い出すとか、病気が癒されるといったことよりも重要なことです。なぜなら、どんなに悪霊が出て行き、病が癒されたとしても、それが永遠のいのちにつながらなかったら何の意味もないからです。このいのちの書に名前がしるされているかどうかということが、私たちの人生にとって最も重要なことなのです。

クロロホルムという麻酔薬を発見して一番最初に臨床に用いたのは、イギリス人の医師ジェームズ・シンプソンという人です。彼は1947年に、外科の手術にこれを最初に使用しました。それによって手術を受ける際の痛みと苦しみから人々を解放したのです。そのジェームズ・シンプソンに、ある人が尋ねました。「あなたにとっての最大の発見は何ですか。」当然その人は、「クロロホルムの発見です」と答えると思っていたらその予想に反して、シンプソンは次のように答えました。「私の最大の発見は、イエス・キリストを自分の救い主として見いだしたことです」イエス・キリストを自分の救い主として見いだせたことは、彼の人生にとって最大の喜びであったというのです。

私たちの人生にはいろいろな喜びがあります。病気が治った、就職が決まった、いい人と結婚できた、受験に合格した、問題が解決した、自分の願いが叶ったなどです。しかし、私たちの人生における最大の喜びは、イエス・キリストを見いだし、このいのちの書に名が書き記されているかどうかであって、これに優る喜びはありません。

主の若枝はこのことをしてくださいます。その日、主の若枝は、麗しく、栄光に輝き、すべての人の高ぶりを打ち砕かれます。しかし、そこに残りの者を残してくださり、聖と呼ばれるようにしてくださる。それが、このいのちの書に名がしるされた者たちなのです。

そして主は、そのような残された者たちを、完全に守ってくださいます。6,7節をご覧ください。 「主が、さばきの霊と焼き尽くす霊によって、シオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めるとき、主は、シオンの山のすべての場所とその会合の上に、昼は雲、夜は煙と燃える火の輝きを創造される。それはすべての栄光の上に、おおいとなり、仮庵となり、昼は暑さを避ける陰となり、あらしと雨を防ぐ避け所と隠れ家になるからだ。」

終末に起こる大患難時代に、神はシオンから汚れを取り除くために激しくさばかれますが、その中で悔い改め、主に立ち返る者たちを残されます。そうした残りの者たちは、神の激しいさばきの中にあっても、決して滅ぼされることはありません。なぜなら、主ご自身がイスラエルののがれた者の威光と飾りになられるからです。主はそこに昼は雲を、夜は煙と燃える火の輝きを創造されます。そして、昼は灼熱の太陽の日差しから彼ら守り、夜は火の柱となって彼らを寒さから守ってくださるのです。また、おおいとなって、仮庵となって、彼らを守られます。この「おおい」というのは、地球を紫外線から守るオゾン層のように、害になるものをすべて遮断し、その中にあるものを守るものです。神様は彼らのおおいとなって、また仮庵となってくださるので、さまざまな害から彼らを守ってくださるのです。91篇をお開きください。

「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。」(1節)

「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大楯であり、とりでである。あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。」(4,5節)

「それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。」(9節)

「私の隠れ家」という本を書いたコーリー・テンブーンは、第二次世界大戦中政治犯としてドイツの強制収容所に連行されましたが、文字どおり主が彼女の隠れ家となってくださったことを経験しました。人知では測れない奇跡のみわざの数々によって、そこから救い出されたのです。彼女は本来極めて臆病な性格で、一匹の毛虫が目の前にぶら下がっても、キャッーと悲鳴をあげるほどの人ですが、主が避け所になってくださったので、死を前にしても、大きな平安に包まれることができたのです。

主が避け所、隠れ家になってくれるので、私たちはどんな困難の中にあっても、主にすべてをゆだね、主の平安の中に安息を得ることができます。思いがけない病気や事故や、あるいは試練に襲われるとき、絶望に陥って神につぶやいてはいないでしょうか?それがどんなに激しい試練でも、父が子どもを永遠に捨てることがないように、神様も子である私たちを決して見放したり、見捨てたりはなさいません。むしろその中で守り、大きな希望と慰めを与えてくださるのです。ですから、私たちの人生にも大なり小なりの試練がありますが、どのような試練に遭ってもこのみことばの約束を握りしめて、いつも主に信頼してこの信仰の道を歩み続けて行く者でありたいと思います。やがて、あなたも聖と呼ばれるようになるのです。

イザヤ書3章1~15節 「取り除かれる神」

きょうは、イザヤ書3章のみことばからご一緒に学んでいきたいと思います。タイトルは「取り除かれる神」です。2章の最後のところでイザヤは、「鼻で息をする人間をたよりとにするな。」と警告しましたが、きょうのところには、そうした人間にたよることがどんなに値うちがなことなのかを示すために、彼らがささえとし、たよりとしていたものが取り除かれるのです。

きょうはこの「取り除かれる神」について、三つのことをお話したいと思います。第一のことは、神はささえとたよりを除かれるということです。第二のことはその結果です。信頼の対象を間違えた結果、国全体に悲劇と混乱が臨みます。第三のことは、しかしそのような中にあっても、悔い改める者は神のあわれみを受けるということです。

Ⅰ.取り除かれる神(1-3)

まず1節から3節までをご覧ください。「まことに、見よ、万軍の主、主は、エルサレムとユダから、ささえとたよりを除かれる。-すべて頼みのパン、すべて頼みの水、勇士と戦士、さばきつかさと預言者、占い師と、長老、五十人隊の長と高官、議官と賢い細工人、巧みにまじないをかける者。」    まず神様が取り除かれるのは何でしょうか?ここに「すべての頼みのパン、すべての頼みの水」とあります。「すべての頼みのパン、すべての頼みの水」とは、私たちの生活に欠かせないものです。私たちは毎日当たり前のように食べ、当たり前のように水を飲んでいますが、実はこうした食べ物や飲み水は神様によって与えられているものなのです。にもかかわらず、それがあたかも自分の力で得ることができると考え、神様なしでも生きられると思っている彼らから、神はすべての食料を取り除かれるのです。

それだけではありません。2節には、「勇士と戦士、さばきつかさと預言者、占い師と長老」とあります。「勇士と戦士」とは軍事的指導者や兵士たちを指します。日本にも自衛隊がありますが、そのような人たちによって私たちは回りの国々の攻撃から守られているわけです。それから「さばきつかさと預言者」です。これは政治家であり、これからの方向性を示していく人たちです。ここに書かれてある預言者とはどういう意味なのかははっきりわかりません。イスラエルが神ではなく人間をたよるようになった結果預言者が必要なくなったので取り除かれるのか、あるいは、預言者自身が堕落したため取り除かれるということなのか、はっきりわかりません。おそらくここではさばきつかさとの関係で挙げられているので、ここでは国の方向性を指し示す存在としての預言者ということでしょう。そういう人たちも取り除かれるのです。国にとっても、教会にとってもそうですが、こうしたリーダーが取り除かれるということは全体の統一が損なわれるということであって、憂慮すべきことです。しかし、このような人たちも除かれるのです。

それからここには「占い師と長老」とあります。占い師と長老が一つの組になって出てくるのはおもしろいですね。占い師と長老にどんな共通点があるのでしょう。この両者に共通していることは、安心感を与えるということです。人間はだれとも不安を持っているわけです。その不安を聞き、方向性を指し示してくれるのが占いしであり、長老なわけです。実際に若い女性などは、まあ男性もそうですけれども、自分が将来どうなるかがすごく不安なわけですよね。どんな仕事に就いたらいいのか、恋愛はどうなるのか、結婚はどうしたらいいのか、そのような不安を抱えているわけですが、それに答えてくれるのが占い師であり、長老なわけです。「はい、あなたはこういう運命線がありますね。だからこの年にこういう人と会いますよ。その人と結婚しなさい。そうしないとねあなたは二度と婚期はやってきません。次に来るのは75のま時です・・・」なんて。長老は占い師とは立場は違いますが、とても尊敬できる人なので、自分の悩みなどとを相談するわけです。そういう人を取り除かれるのです。

それから「五十人隊の長と高官」です。五十人隊の長というのは警官みたいな人たち、高官とは役所に勤めているような人たちです。こういう人たちがいるので、私たちは安心て生活することができるわけですが、このような人たちも除かれるというのです。

そして、「議官と賢い細工人」ですね。これは技術者たちのことです。建築、土木関係、工業関係の技術者たちです。現代ならば、さしづめ科学者たちというところでしょう。日本は特に技術立国でしょ。こういう技術で世界と戦ってきたわけです。このような技術が取り除かれたら何もなくなってしまいます。そういう技術者たちも除かれるのです。

それから、「巧みにまじないをかける者」も除かれます。これは偶像を造っている人たち、また呪いをかける人たちのことです。

こうした一つ一つを主は取り除かれると言われるのです。これはやがてバビロンの王ネブカデネザルによって成就します。Ⅱ列王記24章14節をご覧ください。

「彼はエルサレムのすべて、つまり、すべての高官、すべての有力者一万人、それに職人や、鍛冶屋もみな、捕囚として捕らえ移した。貧しい民衆のほかは残されなかった。」

とあります。バビロンの王ネブカデネザルが捕囚としてエルサレムからバビロンにこうした人々を捕らえ移したことで実現するのです。B.C.605年のことです。けれどもこれはバビロンによる捕囚だけでなく、この世の終わりの時代にもたらされる預言でもあるのです。大患難時代と呼ばれる時が来ると、こうしたものが取り除かれるのです。    いったいなぜこのようなことが起こるのでしょうか?神にたよらないで人間にたよるからです。目に見えるものにたよるからです。ユダの過ちは、偽装された「ささえとたより」に依存したことでした。イザヤは前の章のところで、「鼻で息をする人間をたよりにするな」と警告しましたが、そこに問題があったのです。人は、神が与えてくださったものと神をを混同し、いつしか神よりもそうした物に信頼し、神を蔑ろにするようになったのです。神に信頼すべき時に、人間的なものに頼るようになってしまいました。私たちは本来の神との関係を見失ってはならないのです。

Ⅱ.信頼の対象を間違えた結果(4-7)

では、そのようなささえとたよりが除かれると、どんなことが起こるのでしょうか。次にその結果を見ていきたいと思います。4節から7節までをご覧ください。ここには、「わたしは、若い者たちを彼らのつかさとし、気まぐれ者に彼らを治めさせる。民はおのおの、仲間同士で相しいたげ、若い者は年寄りに向かって高ぶり、身分の低い者は高貴な者に向かって高ぶる。そのとき、人が父の家で、自分の兄弟をとらえて言う。「あなたは着る物を持っている。私たちの首領になってくれ。この乱れた世を、あなたの手で治めてくれ。」その日、彼は声を張りあげて言う。「私は医者にはなれない。私の家にはパンもなく、着る物もない。私を民の首領にはしてくれるな。」とあります。

ユダの民が頼りとするすべてのものが除かれた結果、ユダに悲劇的なことが起こります。ユダを治めていた指導者が変わり、経験のない未熟な指導者が立てられます。若い者たちが彼らのつかさとなり、気まぐれな者が彼らを治めるようになるのです。これは若い人を誹謗しているのではありません。この若さというのは年齢的な若さのことよりも、経験がないこと、未熟であること、能力や資質がないことを表しています。気まぐれで、自分のことにしか関心がない無情な者たちが国を治めるので、国は混乱に陥るのです。

そのため、仲間同士で相しいたげるようになり、若い者は年寄りに向かって高ぶり、身分の低い者は高貴な者に向かって高ぶります。尊敬や信頼が無くなり、争いが絶えなくなるのです。そして6節にあるように、誰でもいいからこの乱れた世の中をちゃんと治めてくれ、と叫ぶようになるのです。ここには、「そのとき、人が父の家で、自分の兄弟をとらえて言う。「あなたは着る物を持っている。私たちの首領になってくれ。この乱れた世を、あなたの手で治めてくれ。」とあります。「着る物」とは、ごく一般の洋服のことです。トライアルとか、しまむらとか、ユニクロとか、別に宣伝しているわけではありませんが、そうしたお店で買えるような衣服のことです。そうした衣服を持っているというだけで、その人に自分たちの首領になってくれと頼むようになるわけです。頼まれた方も頼まれた方で、自分たちにはそんな力量も志しないのにできるわけがないでしょと言って、逃げ出してしまう始末です。「その日、彼は声を張り上げて言う。「私は医者にはなれない。私の家にはパンもなく、着る物もない。私を民の首領にはしてくれるな。」と。何が起こってもだれも責任を取りません。神様よりも人に、世の中にたよったことによって、国は混乱し、悲惨な結果を招くことになったのです。

Ⅲ.義人は幸いである(8-15)

ではどうしたらいいのでしょうか。ですから第三のことは、悔い改めて、主に立ち返ろうということです。8-15節をご覧ください。

「これはエルサレムがつまずき、ユダが倒れたからであり、彼らの舌と行いとが主にそむき、主のご威光に逆らったからである。彼らの顔つきが、そのことを表している。彼らは罪を、ソドムのように現して、隠そうともしなかった。ああ、彼らにわざわいあれ。彼らは悪の報いを受けるからだ。義人は幸いだと言え。彼らは、その行いの実を食べる。悪者にはわざわいあれ。わざわいが彼にふりかかり、その手の報いがふりかかる。わが民よ。幼子が彼をしいたげ、女たちが彼を治める。わが民よ。あなたの指導者は迷わす者、あなたの歩む道をかき乱す。主は論争するために立ち上がり、民をさばくために立つ。主は民の長老たちや、民のつかさたちと、さばきの座に入る。「あなたがたは、ぶどう畑を荒れすたらせ、貧しい者からかすめた物を、あなたがたの家に置いている。なぜ、あなたがたは、わが民を砕き、貧しい者の顔をすりつぶすのか。―万軍の神、主の御告げ―」

ここに社会が乱れ、人々の心が不安になり、町全体が荒廃する原因が示されています。それは、彼らが主に逆らったからです。彼らの舌と行いとが主にそむき、主のご威光に逆らったからなのです。箴言14章34節に、「正義は国を高め、罪は国民をはずかしめる。」とありますが、まさにそのとおりです。人々は神に背いて自分勝手に生きるようになってしまいました。それが問題なのです。傲慢な人間はこれを自由と呼びますが、それは自由どころか錨のない船であり、糸の切れた凧のような不安定なものなのです。そして、その時から人生の漂流が始まるのです。

そのような人たちは、9節にあるように、罪を恥じることもありません。創世記19章に出てくるソドムの人たちのように、罪を隠そうともしません。創世記19章に出てくるソドムの人たちは、ロトのところにやって来た二人の神の使いを連れ出せとロトに言いました。自分たちは彼らをよく知りたいのだ・・・と。この「知りたい」というのは性的に知りたいということです。男が男を知りたいというのは男色、ホモセクシャルのことですが、彼らはそういう口に出すことも恥ずかしいことを、堂々と言ったのです。

しかし、そのようなイスラエルに対して、神は慰めのことばを語ります。それが10節と11節のことばです。ご一緒に読んでみましょう。

「義人は幸いだと言え。彼らは、その行いの実を食べる。悪者にはわざわいあれ。わざわいが彼にふりかかり、その手の報いがふりかかる。」

どういうことでしょうか?それでもなお、主なる神に従う人は幸いであるということです。なぜなら、彼らは主の御前にあって、罪を悔い改めることの行いの報い、つまり神の憐れみを受けることができるからです。ところが、主なる神に逆らう悪人は、神の前にあって大きな災いを受けることになるでしょう。なぜなら、善人がその行いにおいて報いを受けるように、悪人もその行う悪によって、相応の神の裁きを受けるからです。

皆さん、神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。(ローマ2:6-8)

ではどうしたらいいのでしょうか。罪(神に背いていた状態)を悔い改めて、イエス・キリストを救い主として、また主として信じなければなりません。そして、人にではなく神に信頼しなければならないのです。それが義人という意味です。そのような人は、その行いの実を食べるのです。なぜなら、ローマ人への手紙3章23、24節に、次のように約束されてあるからです。

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

すべての人は罪人であって、自分の力や努力によってはだれも義と認められることはできません。義と認められるには、神のひとり子であられるイエス・キリストを信じる以外に道はないのです。私たちがどんなに努力しても、どんなに善いことをしても、自分の罪を償うことはできないのです。ただ十字架にかかって死なれ、私たちの罪の贖いとなってくださったイエス・キリストを信じることによってのみ、私たちの罪は赦され、義と認められるのです。この神の救いを受け入れなければなりません。

私たちの本当の問題は、問題が起こるとそれを自分自身で解決しようとすることです。自分の力で問題を解決しようとしているかどうかは、皆さんがいつも疲れているかどうかでわかります。自分の力で問題を解決しようとすると、イライラして疲れてしまいます。喜びに溢れて生きるより、敗北感を抱き、落ち込み、落胆するようになります。平安を保つよりも、緊張し、プレッシャーを感じてしまいます。忍耐を働かせるよりも、欲求不満になり、イライラしていろんな物や人にあたるようになるのです。人に親切にするよりも、すべてを自分のために行ってしまいます。良い模範になるよりも、自分には何の良いところもないと感じています。心優しく振る舞うよりも、怒りや不満を相手にぶつけてしまいます。それは、自分で解決しようとするからです。しかし、神様は私たちが問題を自分で何とかしようとすることをやめて、神に信頼するようにと願っておられるのです。

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」(詩篇55:22)

目の前の状況がどんなに悪くても、神様はその状況を一変させることがおできになります。人生がどんなに望みがないように見えても、神は希望をもたらすことができるのです。イエス・キリストを死からよみがえらせた力によって、神は問題の中に沈んでいる私たちを引き上げ、その問題を解決してくださるのです。

「信仰の人」と称されたジョージ・ミューラーは、一生の間に9,975人もの孤児を養いました。その間に、お金や食料が足りなくなったことが何千回もあったそうです。けれども、本当に必要に迫られたとき、彼はその必要をだれにも告げずにただ祈りました。すると神はいつも必ず必要なものを与えてくださいました。 1864年5月から翌年の5月までのことです。この孤児の家には、15の大貯水槽がありましたが、日照りのためにどの貯水槽にも水がなくなってしまいました。300人の子どもたちのために毎日、10キロリットルもの水が必要なのに、九つの深い井戸もかれて、そのうえ、今まで一度も枯れたことのない泉からも、ほとんど水が出なくなってしまったのです。  ジョージ・ミューラーは、職員や子どもたちと一緒にみんなで心を合わせて祈りました。天候も支配される神様に、「どうか雨を降らしてください」と祈りました。するとどうでしょう。彼らの必死の祈りとは裏腹に全く雨が降りませんでした。けれども神様は、雨を降らせてくださる代わりに、何人かの人の心を動かして、必要な水を与えてくださいました。まず、大きな井戸を持っている農家が協力してくれました。その農家の水が足りなくなると、今度は別の農家の人が、自分の畑のなかを流れる小川を分けてくれました。その人たちは、何も頼まなかったのに、進んで協力してくれたのです。雨が降って貯水槽に水がたまるまで、一日も欠かすことなく、必要な水が与えられました。

あなたの重荷も主にゆだねましょう。主に信頼しましょう。自分の努力に頼ることをやめて、人生を完全に主にゆだねましょう。そうすれば、主が私たちの内側にその実を結ばせてくださるのです。

「義人は幸いだと言え。彼らは、その行いの実を食べる。」のです。イエス様を信じて、神に信頼して生きる人は何と幸いでしょう。そういう人はその行いの実を食べるようになるのです

問題は、それをいつするかです。先送りしていると、いつか命取りになることがあります。「いつか歯医者に行こう。いつか手術しよう。いつか家族と過ごす時間を十分に取ろう。いつかもっと真剣なクリスチンになろう。いつか教会の働きに積極的に関わろう。いつか・・・」と思っているうちに、そのいつかがやって来ない時が来るのです。  大切なのは今です。今、主を信じ、今、すべてを主にゆだねると決心することです。そうすれば、今、この瞬間に、主の救いの恵みが始まるのです。

イザヤ書2章1~22節 「鼻で息をする人間をたよりにするな」

きょうはイザヤ書2章全体から学びたいと思います。タイトルは「鼻で息をする人間をたよりにするな」です。これは22節のみことばそのものです。ここには、「鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか。」とあります。きょうは、神様にたよることについて三つのことをお話したいと思います。

Ⅰ.主の光に歩もう(1-5)

まず第一に、1節から5節までをご覧ください。ここには、「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて示された先見のことば。終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。来たれ。ヤコブの家よ。私たちも主の光に歩もう。」とあります。

これは、イザヤがユダとエルサレムについて預言したことばです。イザヤは、「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。」と預言しました。この「終わりの日」とはいつのことなのでしょうか?これは、やがてキリストが再臨した後にもたらされるこの地上における千年王国の時のことです。イザヤはその終わりの日に現れる輝かしい神の国の幻を見たのです。

いったいその日にどのようなことが起こるのでしょうか?その日、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来ます。主の家の山とは、エルサレムのことです。このエルサレムが山々の頂に立ち、丘々よりもそびえ立つようになるのです。これはエルサレムが文字通りすべての山よりも高くなるということではありません。これはシオンの山、エルサレムが、どの山よりも輝かしい所になるという意味です。その日、主の家の山は、山々の頂きに堅く立ち、丘々よりもそびえ立つようになるのです。なぜでしょうか?主が再臨されて、そこに立たれるからです。ゼカリヤ書14章4節をご覧ください。そこには、「その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。」とあります。その日、主がすべての聖徒たちを引き連れて来られ、オリーブ山に立たれるのです。すると、エルサレムからわき水が流れ出て、その半分が東の海に、他の半分が西の海に流れ出るようになのです。(同14:8)夏にも、冬にもそれは流れます。また、その日には、光も、寒さも、霜もなくなります。昼も夜もありません(同14:6)。夕暮れ時に、光があるのです。イエス様が再臨され、この主の山に立たれるからです。問題は、主がその山に立たれて何をされるのかということです。3節をご覧ください。ここには、

「多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。」

とあります。主はご自身の山に立たれるとき、そこでみことばを教えてくださるのです。主自らです。今は牧師とか、教師とか、伝道者とかがたくさんいて、こういう人たちを通してみことばが教えられていますが、この時には主が自ら教えてくださるのです。主が教えてくださるので全く誤りはありません。私は毎週かなりの時間をかけてみことばの準備をしていますが、それでもぼんやりしています。けれども、この時には主が直接顔と顔とを合わせて語ってくださるのです。はっきり・・・と。何とすばらしいことでしょうか。その時私たちは、主が語られるみことばを聞いて、感動で心が震える経験をするでしょう。

それだけではありませんよ。4節を見ると、「主は国々をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」とあります。どういうことかというと、その日、主が国々をさばかれ、判決を下さるので、そこに完全な平和がもたらされるということです。主のさばきは完全だからです。その時には剣が鋤に、槍がかまに変わります。軍事道具が農業用具になるのです。軍事道具が必要なくなるからです。軍事予算は必要なくなり、それらがみな農業予算に変わるのです。今そんなことをしたら大変なことになります。そんなことをしたら諸外国からの驚異に脅かされることになってしまうでしょう。ですからどの国でも軍備を増強して戦争に備えなければなりません。しかし、それがあまりも膨大なので、どの国でも悲鳴を上げている状態なのです。しかし、この終わりの日にはそうしたことも必要なくなります。主が正しく国々をさばいてくださるので、そこには完全な平和がもたらされるからです。悪は全くはびこることがないので、女の人でも夜間安心して出かけることができます。子供たちが誘拐される心配もいりません。人に騙されこともないのです。あのエデンの園のようです。そのような世界がもう一度この地上にもたらされるのです。それが主の千年王国です。それゆえに主はこう仰せられるのです。5節です。

「来たれ。ヤコブの家よ。私たちも主の光に歩もう。」

終末の主の家の山の情景に見とれていた会衆に向かって、主は「さあ、来たれ。」と言って、彼らを未来から現在へと引き戻されます。そして、実際的行動へと駆り立てられるわけです。その実際的行動とは何かというと、「私たちも主の光に歩もう」ということです。「主の光に歩む」とは、神のみことばに従って生きるということです。イスラエルは神のみことばを聞くよりも、世の中のことを優先し、異邦人のように、人が造った物を拝んでいました。その罪を悔い改めて、主の道に歩もうではないか、と言うのです。

それは私たちクリスチャンも同じです。コロサイ3章5節には、「地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」とあります。私たちはこのむさぼりによって偶像礼拝の罪を犯してしまうことがあります。神様よりも自分のことが、この世のことが優先してしまうことがあるのです。それは偶像礼拝だと聖書は言うのです。主が私たちに求めておられることは、私たちも主の山に上り、そこで主のみ教えを聞き、その小道を歩くことです。人間関係や様々なプログラムが中心となるのではなく、神のみことばを聞いてそれに従うという生活、みことばが私たちの生活の中心でなければならないのです。  皆さんはいかがですか?皆さんにとっての最優先の事柄は何でしょう?主が語られるみことばを聞いて、その小道を歩くことによって、私たちも主の光に歩む者でありたいと思います。

Ⅱ.主だけが高められる(6-21)

次に6節から21節までを見ていきましょう。こうした主の招きに対してイスラエルはどのように応答したでしょうか。6節から9節までには、次のように記されてあります。「まことに、あなたは、あなたの民、ヤコブの家を捨てられた。彼らがペリシテ人のように東方からの者、卜者で満ち、外国人の子らであふれているからだ。その国は金や銀で満ち、その財宝は限りなく、その国は馬で満ち、その戦車も数限りない。その国は偽りの神々で満ち、彼らは、自分の手で造った物、指で造った物を拝んでいる。こうして人はかがめられ、人間は低くされた。―彼らをお赦しにならないように。―」

「彼らをお赦しにならないように」というのはひどいことばです。なぜイザヤはこのようなことを言ったのでしょうか?それは彼らのあり方があまりにもひどかったからです。まず彼らはペリシテ人のように占いに満ちていました。卜者とは牧者ではありません。これは占いをする人のことです。人はこれから先どうなるのかがわからないと占いにたよるようになります。クリスチャンは将来どうなるかを聖書によってある程度知ることができるのであまりブレることがありませんが、聖書を知らない人はいつもブレています。そして占いにたよるのです。かなり前のことですが、日本で一年間にどれくらいの金額が占いに使われているかを調べたことがありますが、それによると数千億円にも上りました。それだけ不安だということなのでしょう。だったら聖書を学んだほうがよっぽどいいと思うのですが、そういう人たちは聖書よりも占いに走ってしまうのです。手っ取り早いからでしょう。

そればかりではありません。7節を見ると、「その国は金や銀で満ち、その財宝は限りなく・・」とあります。これは何のことかというと富のことです。富にたよるのです。あの愚かな金持ちのように、これから先何年分も物をたくわえることができたと、自分のたましいにこう言うのです。「さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」しかし、その時神はこう言われます。「愚かもの。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。」このような人は、自分のいのちは財産にあると思っているのです。しかし、そのいのちが取り去られたら、そのように蓄えた物は、いったい何になるでしょうか。

さらに、ここには「その国は馬で満ち、その戦車も数限りない。」とあります。これは軍事力を表しています。どの国でもそうですが、国が豊かになるともっと国を強くしていきたいと思うようになるのです。そしてこうした軍事力にたよろうとするのです。当時のイスラエルもそうでした。

そして偶像礼拝ですね。8節には「その国は偽りの神々で満ち、彼らは、自分の手で造った物、指で造った物を拝んでいる。」とあります。ユダの地は、偶像礼拝でいっぱいでした。自分の手で造った物、自分の指でこしらえた物を拝んでいたのです。

こうしたイスラエルに対して神様はどうされるのでしょうか。9節にはこのようにあります。「こうして人はかがめられ、人間は低くされた。」どういうことでしょうか?ここで「人間は低くされた」というのは、人間性が低くされたという意味です。詩篇115篇4節から8節に、「彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。これに信頼する者もみな、これと同じである。」とあります。これに信頼する者もみな、これと同じです。偶像を拝む者は偶像のようになるのです。真の神様を礼拝する人は、神様のようになります。人はその触れるものに似ていくのです。イスラエルはこうした偶像を拝んでいたので、偶像のようになっしまいました。それが人間は低くされたという意味です。    ですからイザヤはこう言うのです。「彼らをお赦しにならないように。」もうどうしようもない状態です。そのような彼らには神の怒りと神のさばきしか望めなません。そういう告白だったのです。

どんなに神様が彼らを祝福しようとしても、彼らはこれを受け入れようとするどころかこれを拒み、他のもので心を満たそうとしました。いったい何が問題だったのでしょうか?高慢です。広辞苑で調べてみると、高慢とは「自分の才能・容貌(ようぼう)などが人よりすぐれていると思い上がって、人を見下すこと。また、そのさま。」とありますが、聖書でいう高慢とは、少し意味合いが違います。聖書で言う「高慢」とは、自分の才能や容貌などが人よりすぐれていると思い上がることだけではなく、神を信じないことです。神に聞き従わないことなのです。「神様なんていらない。私は自分でやっていけるから」とか、「神様がなくても十分満足ですわ」といった思いです。それが高慢であるということです。このように高慢であると神様はさばかれ、そうしたものをことごとく低くされるのです。

10節と11節には、「岩の間に入り、ちりの中に身を隠せ。主の恐るべき御顔を避け、そのご威光の輝きを避けて。その日には、高ぶる者の目も低くされ、高慢な者もかがめられ、主おひとりだけが高められる。」とあります。高ぶる者に対して神が敵対し、激しいさばきを行われるので、人々は岩間に隠れ、ちりの中に身を隠すようになるのです。

また、12節から18節を見ると、「まことに、万軍の主の日は、すべておごり高ぶる者、すべて誇る者に襲いかかり、これを低くする。高くそびえるレバノンのすべての杉の木と、バシャンのすべての樫の木、すべての高い山々と、すべてのそびえる峰々、すべてのそそり立つやぐらと、堅固な城壁、タルシシュのすべての船、すべての慕わしい船に襲いかかる。その日には、高ぶるものはかがめられ、高慢な者は低くされ、主おひとりだけが高められる。偽りの神々は消えうせる。」とあります。ここに出てくるレバノンの杉の木とか、バシャンの樫の木とか、タルシシュの船というのは。どれもすばらしいものです。たとえば、レバノンの杉は、ソロモンの神殿に使われましたし、バシャンというのは、ゴラン高原のことですが、ガリラヤ湖の東側にある高原で、とってもきれいな所だそうです。春になると花が咲き乱れ、放牧にもとても適している所です。またタルシシュというのはスペインの南部の都市ですが、そこでは鉱石が採れ、貿易の町としてとても栄えました。人間が見て「これはすばらしい」と思っているものが全部だめになってしまうのです。

極めつけは19節から21節でしょう。ここに、「主が立ち上がり、地をおののかせるとき」とありますが、これは大地震のことです。主が立ち上がり、大地震によって地をおののかせる時が来るのです。それが大患難時代に起こるのです。黙示録6章12節から17節は、そのことを預言したものですが、次のように記されてあります。

「私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」

やがて世の終わりに、大きな地震が起こり、天地万物のすべてが揺れに揺れるようになるのです。そのとき人々はほら穴と山の岩間に隠れ、自分たちが拝むために造った金や銀の偽りの偶像をもぐらやこおもりに投げつけるようになるのです。全く役に立たないと言って・・・。そうして偽りの神々は消え失せ、主おひとりだけが高められるようになるのです。

皆さん、いったなぜこの世において神様の栄光が見えずらくなっているのでしょうか。神様ではなく占いにたよっているからです。神様ではなく富にたよっている。神様ではなく人間の力にたよっているからです。神様ではなく偶像にたよっているからです。そういうことを皆がしているから神様の栄光が見えなくなっているのです。たとえば、私たちが高い山に登って、「ああ、神様が造られた自然は何とすばらしいんだろう」と思っていると、頂上には鳥居があったりして、そこで人々が偶像を拝んだりしているわけです。そうするとすぐに神様の栄光に陰りが出てくるのです。こうしたことはみな人間の高慢さから出ていることであって、神様はそうした人間の高慢を砕かれるのです。

Ⅲ.鼻で息をする人間にたよるな(22)

ではどうしたらいいのでしょうか?ですから、イザヤの結論はこうです。22節です。ご一緒に読んでみましよう。「鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか。」

鼻で息する人間をたよりにするなとはどういうことでしょうか?口で息をすればいいんですか。あるいは耳で。そういうことではありません。鼻で息する人間とはすぐにだめになってしまう人間という意味です。いいですか?皆さんの鼻と口を手で押さえて息ができないようにしたら、どれだけ生きていられるでしょうか。10分ですか?あるいは20分でしょうか?さすがに1時間も息をしないでいられる人はいないでしょう。息をしなかったら人はみな死んでしまうのです。人間とは、それほどもろいものです。そのような人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか。というのです。しかし、これは戦いです。クリスチャンにとっても戦いです。人のことばを聞いて安心するところがあるからです。そうでしょ。人のことばがないと不安になります。ですから、神様のことばを聞いていても、人のことばの方を信頼してしまうのです。しかし、それは息でしかありません。すぐに消えてしまうのです。なぜそのようなものにたよるのでしょうか?実はこれがなぜイエス様を信じないのかという理由でもあるわけです。人間にたよってしまうのです。人間にきたいしてしまう。人間中心なんです。それが問題です。

ある人が、「国に危機が襲ったとき何にたよるか」という統計をとりました。それによると、アメリカで一番多かった答えは「神」でした。そのような時には教会に行って祈りますというのが一番多かったのです。ですから一時的であっかもしれませんが、あの同時多発テロ事件が起こったとき人々はこぞってみな教会に行ったそうです。国中で「God Bless America」が歌われました。「レフト・ビハインド」という再臨に関する書物が多く読まれました。それは最終的にたよるのは神様だと意識しているからです。しかし、日本では違います。日本では何にたよるかというとマスコミなんでかね。テレビや新聞です。マスコミでは何と言ってるかが基準になるのです。このマスコミというのは何かというと人間のことばなんです。人間にたよっていく。それが日本です。日本はそうやって発展を遂げてきたのです。

鍋谷堯爾先生(なべたに ぎょうじ)は、ご自身ま著書「鷲のように翼をかって」の中で、同じようなことを指摘しています。すなわち、日本が明治維新以降、これだけの近代資本主義社会を築くことができたのは、人間の合理性とお金の損得勘定で動く日本人の精神的土壌がその背景にあったと述べておられます。

そうした傾向は教会の中にも入り込んでくる場合があります。聖書は何と言ってるかではなく、牧師はどういう人なのかとか、教会にはどのような人が集まっているかということが、善し悪しの判断の基準になることがあるのです。神様よりも人に関心が向き、神のことばよりも人のことばを信頼してしまうのです。聖書が何と言ってるかよりも、他の人は何といってるかが自分の生きる基準になっているのです。そして他の人からどう思われるかがすごく気になり、悪く言われたりすると極端に落ち込んでしまえわけです。しかし、大切なのは人が何と言ってるかではなく、神のみことばは何と言ってるかです。私たちは人にたよることを止めて、神様だけをたよりにしなければなりません。鼻で息をするような人間には何の値うちがあるでしょうか。ありません。それは、きょうはきれいに咲き誇っていても明日には枯れてしまう野の草のようなものなのです。真にあがめられるべきお方はおひとりだけです。この天地を造り、これを統べ治めておられる神様だけなのです。私たちはこの方をたよりとしなければなりません。

かつてエジプトに捕らわれていたイスラエルを救い出すために神がモーセを召された時、「わたしは、「わたしはあるという者である」(出エジプト3:14)と言われました。主は、他の何にも依存することない自存の神であるという意味です。

「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ40:28-31)

私たちが信頼すべき方はこの方です。永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない方。この方です。この先私たちにどんなことが起こるかわかりませんが、どんなことがあってもこの方だけにたよって生きる者でありたいと思います。