イザヤ34:1-17  レジュメ

「確かな主のことば」                                      N048

Ⅰ.国々よ、聞け。(1-4)

すべての国々の、すべての人々に対する主のことばである。「主がすべての国に向かって怒り、すべての軍勢に向かつて憤り、彼らを聖絶し、彼らを虐殺されるままにされるからださ」(2)この地上における人類の最終戦争の預言である。そのとき、「彼らの殺された者は投げやられ、その死体は悪臭を放ち、山々は、その血によって溶ける。天の万象は朽ち果て、天は巻き物のように巻かれる。その万象は、枯れ落ちる。」(3-4)最初の人アダムによっててもたらされた罪によって、この地はのろわれたものとなってしまった。神はその罪を精算し新しいものに再創造されるために、この世をさばかれる。すべての国々の、すべての民は、このメッセージを聞かなければならない。この神のさばきから逃れるために、主イエスを信じなければならない。「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」(Iテサロニケ5:9)

Ⅱ.エドムに下る神のさばき(5-15)

エドムとは、エサウを先祖に持つ子孫のことである。彼らはエドムに住むようになったので、エドム人と呼ばれるようになった。彼はもともと双子の兄弟ヤコブの兄であつた。しかし、一杯のスープのために自分の長子の権利を弟ヤコブに売っしまった。それゆえ、「神はヤコブを愛し、エサウを憎まれた。」エドム人は神の敵となってしまった。イスラエルに敵対するようになったのである。そんなエドムに対して神は復讐されるのである。神に敵対してはならない。神に敵対すれば、神にさばかれることになる。しかし、神が私たちの味方であるなら、だれも私たちに敵対することはできない。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子といつしよにすべてのものを、私たちに恵んでくださる。だから大切なことは神に立ち返ること、神と和睦することである。エドムのように神にさばかれることがないように、このメッセージを聞かなければ上らない。

Ⅲ.確かな主のことば(16-17)

これまでイザヤが語ったことは必ず実現する。なぜなら、それは神のことばであるからだ。「これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、主の国がこれを命じ、主の御霊がこれらを集めたからである。」(16)だから、主の書物を調べて読まなければならない。つまびらかにたずねなければならない。ペテロは、「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」(Iペテロ1:23)と言っている。このみことばが永遠のいのちをもたらす。この種がその人の心に蒔かれると芽が出て、美しい花を咲かせ、実を結ばせてくれる。だから、主の書物を調べて読み、つまびらかにたずねて読みたい。いのちの花はそこから咲くのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!)

・あなたは、世の終わりについてどのように受け止めていましたか。この    みことばは、あなたの生活をどのように変えますか?

・あなたは、神の民であるクリスチャンに言葉や行動で傷を与えていませんか?神の民であるクリスチャンの成功を心から喜び、祝福していますか?

・あなたは、どのように聖書を読んでいますか。あなたにとつて聖書を調べて読むとはどういうことですか?そのためにあなたにできることはどんなことですか?

イザヤ33:17-24 レジュメ

「この方が私たちを救われる」                             N047

Ⅰ.麗しい王(17-19)

「あなたの日は、麗しい王を見、遠く広がった国を見る。」(17)「麗しい王」とはイエス・キリストのことである。キリストは世の終わりに再び来られ、千年王国を樹立する。その預言である。その時、あなたの日は麗しい王を見、遠く広がった国を見るようになる。そこにはもう恐ろしかった事どもはない。「数えた者」、「測った者」、「やぐらを数えた者」はもういない。主が彼らを滅ぼされたからである。これはイザヤの時代で言うとアッシリヤのことである。主が来られ、彼らを滅ぼされたので、彼らはどこかへ行ってしまつた。横柄な民はもう見ないのである。

Ⅱ.祝祭の都(20‐21)

「祝祭の都」とはエルサレムのことである。エルサレムでは主を祝うためのたくさんの祭りが行われていた。そこは安らかな住まいである。天幕が取り払われたり、鉄のくいが抜かれたり、その綱が切られたりすることはない。どんなに敵が強大でもこの祝祭の都が破壊されたりすることは絶対にない。そこに麗しい王が来られ、世界を治められるからである。逆に、そこに多くの川を、広々とした川を見るようになる。キリストが再臨してオリーブ山に立たれるとき、オリーブ山は真っ二つに裂け、エルサレムから湧き水が流れるようになるからである。それはチョロチョロと流れる小川ではない。怒濤のように、まるで洪水のように流れる川である。その川は盗れ、いくつもの川になって流れるようになる。

これは霊的にどういうことを言っているのかというと、イエスを信じる者の心に、このような川が流れるようになるということである。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言つているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水のり||が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37)

これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことである。この時にはまだイエスが栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかった。しかし、キリストが十字架にかかって死なれ、三日日によみがえられ、天に上って行かれた今、イエスが栄光を受けられるとき、御霊は大きな川のようになつて私たちの心に注がれる。もしあなたがイエスを信じ、このイエスにあなたの人生のすべてをささげると決心するとき、あなたの心の奥底にも、この生ける水の川が流れるようになるのである。

Ⅲ。この方が私たちを救われる(22‐24)

「まことに、主は私たちをさばく方、主は私たちの立法者、主は私たちの王、この方が私たちを救われる。」(22)私たちは人をさばくことはできない。また、正しいルールを定め、それを治めていくことも無理である。人はうわべを見るからだ。しかし、主は心を見られる。主はすべてを正しく判断され、完全に治められる。だから「そこに住む者は、だれも「私は病気だ」とは言わず、そこに住む民の罪は赦される。」(24)これが主が治められる国、千年王国である。その時には足が不自由であつたり、身体的なハンディキャップによつて不自由な生活を余儀なくされることはない。「私は病気だ」という人はおらず、罪責感、罪悪感で悩むこともない。平和に満ちた世界がもたらされる。それはイエス・キリストが治められるからだ。麗しい王であられるイエス・キリストが来られるとき、すべてを刷新される。ゆえに、私たちはこの麗しい王を待ち望む者でなければなせない。新しい年が、この主を待ち望み、主に従い、主を御名だけが崇められる年であるように。すべてのすべてであられるキリストがあがめられる年となるように。

まとめ(自分に適用してみましょう!)

・あなたを取り囲んでいる強大な敵は何ですか。あなたの日は何を見ていますか?目の前の問題ですか、それとも麗しい王でしょうか?

・あなたの心の奥底に、生ける水の川が流れていますか?イエスが栄光を受けられるためにあなたがしなければならない決心は何ですか?

イザヤ33:1-16 レジュメ  

「今、わたしは立ち上がる」                            N046

Ⅰ.主を恐れること(1-6) 

ユダを踏みにじり、ユダとの和平協定を破ってエルサレムを包囲したアッシリヤに対して、さばきのことばが語られる。人を裏切り、踏みにじる彼らは、踏みにじられ、裏切られることになる。それに対して、主にあわれみを求めて祈り、主を待ち望んだユダは、主からあわれみを受けることになる。アッシリヤがどんなに強大であっても主はそれ以上に力のある方だ。この天地を創造された全能者である。この方が正しくさばいてくださる。いつまでも踏みにじられたままではない。いつまでも裏切られたままでもない。私たちは苦難に会うとき、そして、その苦難が長く感じられるとき、神に対する信仰が弱くなってしまうことがある。しかし、このような時こそ、神のあわれみを求めて祈り他のものに頼もうとする不信仰と絶望感を捨てて、神の助けを待ち望まなければならない。なぜなら、主こそあなたの時代の確かなよりどころであるからだ。主こそ知恵、知識であり、救いの富である。不安と激動の時代にあっても、信頼できるのはこの主だけであって、この方を恐れることがあらゆる問題の鍵であり、豊かさの秘訣なのである。

 Ⅱ.主は立ち上がる(7-12)

賠償金を納めることで和平協定を結ぼうとしたユダは裏切られ、完全に滅ぼされようとしていた。「レバノンははずかしめを受けて、しなび、シャロンは荒地のようになり、バシャンもカルメルも葉を落とす。」(9)この世の力で、自分の知恵で何とかしようとした結果、ユダはしおれた葉のようになってしまった。そのとき、ユダの王ヒゼキヤは、ただ主のあわれみを求めて祈った。イザヤにも使いを送り、祈りを要請したのである。そのとき、主が答えてくださった。「今、わたしは立ち上がる」と主は言われる。「今、わたしは自分を高め、今、あがめられるようにしよう。」(10)ある晩に、主の使いがアッシリヤの陣営に出て行き、185,000人もの人を打ち殺したのである。その結果、アッシリヤの王セナケリブは自分の国に帰ったが、彼が偶像の宮で拝んでいたとき二人の息子に剣で殺されてしまった。これまで沈黙していたかのように思われた主が、立ち上がられた。ヒゼキヤの祈りに答えてくださったのである。主はいつまでも黙っておられる方ではない。あなたのために立ち上がられる。あなたの祈りに答えてくださる方なのである。

Ⅲ.神を敬うこと(13-16) 

「遠くの者よ。わたしのしたことを聞け。近くの者よ。わたしの力を知れ。」(13)近くの者とはユダの人たちのことである。彼らの中にはせっかくイザヤが神のことばを語ったのにそれを無視した人たちがいた。彼らはイザヤのメッセージを聞いて神にすがろうとするよりも、あくまでも自分たちの力で窮地を脱しようとした。ここではそのような人たちのことを「罪人たち」とか「神を敬わない者」と言われている。これは「不信者」とか「偽善者」のことである。神を信じていると言いながら、その神に従おうとしない人たちのことである。ただ物理的にシオンにいれば救われるということではない。たとえ神の民と呼ばれる人たちであっても、信仰を持たなければ滅んでしまう。「私たちのうち、だれが焼き尽くす火に耐えられよう。私たちのうち、だれがとこしえに燃える炉に耐えられよう。」(14)だれも耐えられない。それは深く、広く掘られているからだ。そこには火とたきぎとが多く積んであって、硫黄の流れのようにそれを燃やすので、その火は永遠に尽きることはない。これがゲヘナ、地獄である。その火に耐えられる人はだれもいないのである。神を信じない人、信じていると言いながら実のところはそうでない人たちは、この中に投げ入れられる。

けれども、神を信じ、神を敬う人が焼き尽くされることは絶対にない。なぜなら、イエス・キリストがその人の身代わりとなって十字架で死んでくださったからである。キリストがその人の代わりに神のさばきを受けてくださったので、この火で焼き尽くされることは決してない。それは恐怖とはなり得ないのである。そのような人は、正義を行い、まっすぐに語り、わいろを受け取らず、悪には加担しない。そのような人は高い所に住み、そりとりでは岩の上の要害となる。そのような人には日毎の糧が供給される。これが神を信じる人、クリスチャンの姿である。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・困難に直面するとき、あなたは何を求めていますか?神のあわれみを求めて祈っていますか?この世の力に頼ろうとしていません?

・あなたは正義を行っていますか?まっすぐに語っていますか?わいろを取ったりしていませんか?わいろを取ったりしていませんか?悪に無加担しているようなことはありませんか?

イザヤ32:1-20 レジュメ 

「義は平和をつくり出す」                             N045

Ⅰ.高貴な人は高貴なことをする(1-8) 

神ではなくエジプトに頼っていたユダに対してさばきを警告した神は、終わりの日に、親鳥がひなを守るようにユダを守られると約束された。ここでは、その終わりの日に起こることについて語られている。「見よ。ひとりの王が正義によって治め、首長たちは公義によってつかさどる。」(1)ひとりの王とはイエス・キリストのことである。終わりの日、そしてそれに続く千年王国では、キリストが正義によって世界を治める。彼はあらしの避け所のように人々を守られ、砂漠の川のようにいのちを与え、かわききった地にある大きな岩陰のように安息を与える。そこには完全な平和と完全な憩いがもたらされる。(2)それだけではない。「見る者は目を堅く閉ざさず、聞く者は耳を傾ける。気短な者の心も知識を悟り、どもりの舌も、はっきりと早口で語ることができる。」(3-4)これまで霊的に無感覚だった心が変化し、はっきりと見聞きできるようになる。また、これまで悟れなかった神のみことばを悟れるようになり、真理を明確に語れるようになる。「もはや、しれ者が高貴な人と呼ばれることがなく、ならず者が上流の人と言われることもない。」(5)「しれ者」とは「愚か者」のこと、「ならず者」とは、「悪いことをたくらむ者」のことである。彼らは神を恐れず、神の御心に逆らい、みだらなことをたくらみ、貧しい者をないがしろにするが、そういう人たちが高貴な人と呼ばれることはない。高く評価されることは絶対にない。高貴な人は高貴なことを計画し、高貴なことを、いつもする。(8)これがクリスチャンである。クリスチャンは自ら進んで神を礼拝し、飢えている人たち、貧しい人たちに愛の手を差し伸べる。私たちは高貴な人でなければならない。

 Ⅱ.エルサレムを守られる主(9-14)

ここに急に女性たちが出てくる。「のんきな女たち」と「うぬぼれている女たち」である(9)。「のんきな女たち」とは「安逸をむさぼっている女たち」のことである。彼らは神に頼るようにと何度も警告されても霊的に無感覚になっており、恥ずべき生活を悔い改めることをしなかった。また「うぬぼれた女たち」とは「自信過剰な女たち」のことである。彼らが信じていたのは自分自身であった。だから主に信頼するようにと何度も警告されても、「大丈夫。何の問題もない」と言って自分の考えで生きていた。そういう人たちには、突如として滅びが襲う。豊かな収穫を期待し、喜びに酔っていた女たちが、突如として胸を打って、嘆くようになるのである。

Ⅲ.義は平和をつくり出す(15-20) 

「しかし、ついには、上から霊が注がれ、荒野は果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。」(15)そればかりではない。神との和解を達成した平和な社会が現れる。「義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす」(17)からである。「義」とは神との関係である。神との関係が平和をつくり出す。神との関係が正しくないと平和はない。不安になってしまう。平和がほしければ、平穏でいたければ、神との関係を求めなければならないのである。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との関係を持っています。」(ローマ5:1)クリスチャンはイエス・キリストを信じる信仰によって義と認められた者であり、神との間に平和を持っている者である。ゆえに、クリスチャンにはこの平和が約束されている。「わたしの民は、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住む。」(18)神の民であるクリスチャンには、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場が与えられている。イエス・キリストはそのためにこの世に来てくださった。キリストは平和の君として来られた。あなたがキリストを信じるなら、あなたにもこの平和が与えられる。アドベントのこのとき、このイエス・キリストの救いを待ち望む者でありたい。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・高貴な人は高貴なことをします。あなたがしていることはどんなことですか。あなたが見ているもの、また計画していることはどんなことですか?

・問題がないからといって今の生活に安住していませんか?その安逸が霊的無感覚となり、主からの語りかけを逃していませんか?

・あなたの家庭は平和ですか?あなたの職場、学校はどうですか?もし平和でないとしたら、どこに問題がありますか?

イザヤ31:1-9 レジュメ  

「この方以外に救いはない」                            N044

Ⅰ.心を尽くして主により頼め(1-3) 

ここでもエジプトにより頼むことがいかに愚かなことであるかが語られている。北からアッシリヤが攻めて来てエルサレムを包囲したとき、彼らはイスラエルの聖なる方に目を向けず、エジプトの馬に、多数の戦車と、非常に強い騎兵隊とにより頼んだ。人はすぐに目に見えるものに頼ろうとする。目に見える力、能力、技術力に頼ろうする傾向がある。それはイスラエル(南ユダ)も同じだった。彼らはエジプトの軍事力に頼ろうとした。そういうものに目を留めていたのである。しかし、クリスチャンとは神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスの力を誇り、人間的なものを頼みとしない人たちである。(ピリピ3:3)心を尽くして主により頼まなければならない。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにしてくださる。

なぜ主に拠り頼まなければならないのだろうか。それは「主は、知恵ある方、わざわいをもたらし、みことばを取り消さない」(2)からである。神は全知全能である。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い。(Iコリント1:18-25)これほど確かな保障はない。世界中を敵に回しても、それ以上に力のあるこの方がついていれば鬼に金棒である。だから、この方を恐れ、この方に頼らなければならないのである。

 Ⅱ.エルサレムを守られる主(4-5)

たとえアッシリヤが攻めて来ても大丈夫。「万軍の主は飛びかける鳥のように、エルサレムを守り、これを守って救い出し、これを助けて解放する。」(6)この言葉通りに、主の使いがアッシリヤの陣営に出て行き、一晩で18万5千人を打ち倒した。まさに主は飛びかける鳥のように、エルサレムを守ってくださった。それは世の終わりに起こる預言でもある。やがて世界中の軍隊がメギドの丘、ハルマゲドンに集結し、主とその勢力に向かって対抗する。しかし、主は天からやって来てエルサレムに着座されると、御口の剣をもって敵を滅ぼされる。(黙示録19章)まさに飛びかける鳥のように、エルサレムを守られるのである。そしてそれはいつの時代も同じである。主はエルサレムであるご自身の民の上に特別に御目を注いでくださり、これを守り、守って救い出し、これを助けて解放してくださる。だから私たちはこの方を待ち望み、この方により頼まなければならないのである。

Ⅲ.この方以外に救いはない(6-9) 

それゆえ、主はイスラエルに仰せられる。「あなたがたが反逆を深めているその方のもとに帰れ。」(6)悔い改めて、正しい方向に転換するようにと言うのだ。そうすれば、親鳥がひな鳥を守られるように、主はその愛によって守られる。ここには「アッシリヤは人間のものでない剣に倒れ、人間のものでない剣が彼らを食い尽くす。」(8)とある。これは主の使いがアッシリヤの兵士18万5千人を打ち倒したことを指している。彼らが何かしたから救われたのではない。ただ主の使いが出て行き、彼らを打ち倒されたので彼らは救われたのだ。救いは人間の力によるものではない。私たちを究極的なさばきから救うことができるのはイエス・キリストだけである。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名の他に救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)私たちはこの方に目を向け、この方を求め、この方に拠り頼まなければならないのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたが恐れているものは何ですか?あなたにとってのアッシリヤは何ですか?その強大な敵(問題)に対して、あなたはどのように対処しようとしていますか?

・あなたが目を向けているのは何ですか?何を求めていますか?

イザヤ30:27-33 レジュメ

「天国か地獄か」                                           N043

Ⅰ.主の御名が遠くから来る(27-28) 

これまでイスラエル(ユダ)を苦しめていたアッシリヤをさばくために主が来られる。その怒りは燃える炎のようで、向こう見ずの暴れ馬を手綱でギュと締めるようにアッシリヤを扱われる。そのようにして主は、神の民がそれ以上苦しむことがないように助けてくださるのだ。これは世の終わりの預言でもある。世の終わりにも主に戦いを挑むこの世の軍隊がハルマゲドンに集結するが、主は御口から出る剣によって完全に敵を打ち破られる。それはいつの時代も同じである。いつの時代でも主は、ご自分の民を苦しめる敵を打ち破るために来てくださる。あなたは、主が来られるのを待ち望まなければならない。

 Ⅱ.喜びと楽しみを与えてくださる神(29)

主があなたのところに来られ敵を打ち破られるとき、「あなたがたは、祭りを祝う夜のように歌い、主の山、イスラエルの岩に行くために、笛に合わせて進む者のように心楽しむ。」(29)かつてイスラエルがエジプトから出たときもそうだった。エジプトから救われた彼らは紅海を目の前にして、追ってきたエジプト軍に何も成す術がなかった。まさに背水の陣である。しかし、神は紅海を真っ二つに分け、そこにかわいた道を作り、彼らが通って救われるようにしてくださった。その偉大な神の御業をみたとき、モーセとイスラエルは主に向かって、心からの賛美をささげた。またモーセの姉、女預言者ミリヤムは、タンバリンと踊りで主をほめたたえた。そのような喜びを与えてくださる。そして主はひとり子イエス・キリストによってもっと偉大なことをしてくださった。イエス・キリストによって人類を縛っていた罪の縄目から解放してくださったのである。そして、やがて天の御国で永遠に喜び楽しみながら、主をほめたたえるようにしてくださるのである。

Ⅲ.アッシリヤはおののく(30-33) 

アッシリヤに対するさばきはイスラエルにとっては喜びの時であるが、アッシリヤにとってはそうではない。それは恐怖と嘆きの時である。アッシリヤに対する主の怒りは「威厳のある御声、激しい怒り、焼き尽くす火の炎、大雨、あらし、雹の石」(30)となる。アッシリヤは全く気力を失うようになる。そして、最後はトフェテに投げ込まれる。「トフェテ」とは「焼き場」のこと。ギリシャ語では「ゲヘナ」で、地獄のことである。そこには火とたきぎとが多く積んである。その火は永遠に消えることがない。永遠に燃える火の中で苦しみ続ける。それが地獄である。アッシリヤは、そこに投げ込まれる。このアッシリヤとは反キリストのことである。悪魔とその使いの悪霊たち、そしてその悪魔に従って神を拒み続けた者たちのことである。彼らはこのトフェテに投げ込まれるのである。神が愛ならどうして人を地獄に落とすようなことをされるのか?それは違う。地獄はもともと人間のために用意されたものではなく、サタンと悪霊たちのために用意されたものである。神はこんなひどい所に人間を送りたいなど微塵も思っていない。むしろひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われることを望んでおられる。そのために神は御子をこの世に与えてくださった。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神はそれほどにこの世を愛してくださった。にもかかわらず地獄に行く人がいるとしたら、それはその人が行きたいと願っているからである。別に天国なんかに行かなくてもいい。どうせ死んだら終わりなんだから。天国も、地獄もない。あるのは中国だ。などと言って信じようとしないのである。そして、残念ながらその数は私たちが思っているよりも多い。

しかし、イエスを信じる者が地獄に行くことは決してない。イエスを信じる者はみな救われて天国に行くのである。だから今のうちに、チャンスがある今のうちに、天に宝をたくわえてほしい。イエスを救い主と信じて受け入れ、天国に入るために備えていただきたい。ほんとうに価値あるものは朽ちないものである。この朽ちないいのち、永遠のいのちを与えるために、イエスはあなたのところに来てくださった。その神の恵みを受け入れて、あなたも喜びと感謝に溢れて主をほめたたえる世界に入っていただきたいと切に願うものである。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたは主が来られるのを待ち望んでいますか?今、主があなたのところに来られても大丈夫ですか?

・あなたには救いの喜びがありますか?目の前の困難に対してつぶやいたり、あきらめたりしていませんか?

・あなたはイエス・キリストを救い主として信じていますか?天国に行く備が出来ていますか?

イザヤ30:15-26 レジュメ

「主を待ち望む者の幸い」                                       N042

Ⅰ.驚くべき神の恵み(15-18) 

神によらないではかりごとをめぐらすイスラエルを、主は反逆の民と呼んだ。彼らはアッシリヤの侵攻に対してエジプトに助けを求めようとした。パロの保護のもとに身を避け、その陰に隠れようとしたのである。しかし、その結果は恥と侮辱であり、苦悩と苦難であった。それは非常にリスクの伴う危険なものであった。彼らが救われる道はただ主に立ち返って静かにすることである。落ち着いて、主に信頼することであった。しかし、彼らはこれを望まなかった。そんなイスラエルに対して主は、「それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。」と言われた。「それゆえ」とは、彼らがこれを望まなかったゆえにということだ。彼らはあくまでも主に反逆し続けた。それゆえに、主は、彼らを恵もうと待っておられたというのだ。これが神の恵みである。恵みとは全く受けるに値しない者の上に注がれる神の過分な親切である。彼らは神に反逆した者として、全く恵みを受けるに値しない者であった。にもかかわらず、主はそのような彼らを恵もうとされた。私たちの主は高いところにいてふんずり返っている方ではない。上から目線で、祝福がほしければ自分で取りに来いというような方ではない。自分の罪で苦しんでいる者を見て、自ら走り寄って、抱きかかえ、口づけして、受け入れてくださる方だ。主はあなたを恵もうとして待っておられ、あわれもうとして立ち上がられる方なのである。

 Ⅱ.主を待ち望む者の幸い(19-24)

主を待ち望む者は幸いである。そのような者にはどのような祝福が与えられるのだろうか。第一に、「あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み、それを聞かれるとすぐ、あなたに答えてくださる。」(19)「もうあなたは泣くことはない。」「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」(Iヨハネ5:14)そればかりではない。第二に、あなたは神のみ声を聞くことができる。「たとい主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜っても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。」(20-21)神のことばを聞けることが、キリスト教信仰の最高の祝福である。あなたが主を待ち望むなら、あなたはうしろから「これが道だ。これに歩め」という主のことばを聞くようになる。

第三の祝福は、この方であなたの心は満たされる。「あなたは、銀をかぶせた刻んだ像と、金をかぶせた鋳物の像を汚し、汚れた物としてそれをまき散らし、これに「出て行け」と言うであろう。(22)あなたがキリストに出会うと、これまで頼りにしていたものがちりあくたのように感じるようになる。もう必要がなくなる。これがないと生きていけないと思っていたもの、たとえばアルコールであったり、ニコチンであったり、麻薬、お金、車、ブランド品といったものが必要なくなる。本物を持つと偽物は必要なくなる。これらのものに「出て行け」と言うようになるのである。

そればかりではない。第四に物質的な祝福がもたらされる。「主は、あなたが畑に蒔く種に雨を降らせ、その土地の産する食物は豊かで滋養がある。その日、あなたの家畜の群れは、広々とした牧場で草をはみ、畑を耕す牛やろばは、シャベルや熊手でふるい分けられた味の良いまぐさを食べる。」(23-24)神の祝福は物質的な面にも及ぶのである。

Ⅲ.究極のいやし(25-26) 

そればかりではない。究極的ないやしも与えられる。究極的ないやしとは救いのことである。その日、主は彼らの傷を包み、その打たれた傷をいやされる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。(黙示録21:4)そこには太陽も、月もない。なぜなら、神である主が彼らを照らされるからである。それは日の光の七倍のように明るい。都の中央にはいのちの木があり、その木の葉が彼らをいやす。それは完全ないやしである。イザヤはこれを預言していたのだ。そのいやしを受けるのである。主を待ち望む者にはこのような祝福が約束されていることを知って、この主を待ち望んでほしい。主はあなたを恵もうと待っておられ、あわれもうと立ち上がられる。あなたが主に立ち返って静かにすれば、あなたは救われ、落ち着いて信頼すれば、あなたは力を得るのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたがありのままで主のもとに行くことを阻んでいるものは何ですか?あなたの中には「もっと立派にならないと教会に行けない」とか、「ちゃんとしないと信じられない」という思いはりませんか。

・あなたはどんなことで絶望し泣き叫んでいますか。あなたが祈り、願い求めておられることは何ですか。

・あなたはイエス・キリストの中にある豊かさを経験していますか。あなたがまだ固執しているものは何ですか。

イザヤ30:1-15 レジュメ

「反逆の子ら」                                              N041

Ⅰ.何もしないラハブ(1-7) 

主は、南ユダを「反逆の子ら」と呼んだ。それは「彼らははかりごとをめぐらすが、わたしによらず、同盟を結ぶが、わたしの霊によらず、罪に罪を加えるばかり」(1節)だったからである。その当時、南ユダにはアッシリヤの脅威が迫っていた。アッシリヤは北イスラエルをのみ込むと、破竹の勢いで南ユダに迫っていたのだ。いったいどうすればいいのか。ユダはエジプトに助けを求めた。しかし、それは主によることではなかった。神を抜きにしたはかりごとだったのである。人がはかりごとをめぐらすこと、計画を立てること自体は問題ではない。問題は、その計画が神を抜きにしたものであり、自分であれこれとはかりごとをめぐらしてしまうことである。しかし、私たちはまず神に求めなければならない。神には計画があることを認め、その神の計画の中にむしろ私たちが参画していかなければならないのだ。そうではなく人に頼るととんでもないことになる。ユダは神の指示をあおごうとせずユダに下って行こうとした。そこに安心を求めた。しかし、その結果は恥であり、侮辱であった。また、そこには苦難と苦悩が伴った。なのに、エジプトは何の役にも立たなかったのである。ここに「何もしないラハブ」(7節)とある。「ラハプ」とは騒ぎ立てるとか、威張り散らすという意味である。いかにも強そうで頼りになるかと思ったら何もしない。ここの別訳は「病気で休んでいるラハブ」である。寝たきりで、何もできない状態だった。それがこの世である。南ユダはそのようなものに頼ろうとしていたのだ。しかし、彼らがまず尋ねなければならなかったのは神であり、神に頼らなければならなかった。神だけが全能者であり、真に助けとなられる方なのである。

 Ⅱ.主の小道を歩もう(8-11)

神はイザヤに、ご自分のみことばを書き記すようにと言われた。それは、彼らの苦悩は彼らが神のことばに従わなかったからであることを示すためであった。神のことばこそ唯一信頼に値するものである。なのに、彼らはこの神のことばをどのように受け止めたであろうか。「彼らは予見者に『見るな』と言い、先見者には『私たちに正しいことを預言するな。私たちの気に入ることを語り、偽りの預言をせよ。』」(10節)と言った。何ということか。聖書をねじ曲げて、自分たちに都合いいように語れというのだ。なぜ彼らはそのように言ったのだろうか?それはイザヤをはじめとした預言者たちが正しいことを知っていたからだ。しかし、それは自分たちの都合に合わない。気に入らなかった。だから自分たちが気に入るようなことを語ってもらいたかったのである。しかし、それは道からそれ、小道からそれることであった。それは、神ご自身を拒否していることと同じことである。彼らは口では神を信じていると言いながらも、その実は神を退けていたのだ。ただ自分たちに都合のいい神を造っていたにすぎない。その神をイエス・キリストと呼んでいただけだったのである。

人はみな自分にとって都合のいい話を聞きたい。嫌なことは聞きたくない。なめらかな言葉、受け入れやすい言葉を聞きたいのだ。しかし、箴言27:5には、「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。」とある。時として心にグサッと突き刺さるようなことばであってもそれが神のことばであるなら、それを神からの愛のむちとして受け止めるものでありたい。そうした懲らしめによって、私たちは成長を遂げていくことができるのである。

Ⅲ.立ち返って静かにせよ(12-15) 

もし神のことばをないがしろにし、しいたげと悪巧みに拠り頼むなら、どのようなとになるのか?「それゆえ、このあなたがたの不義は、そそり立つ城壁に広がって今にもそれを倒す裂け目のようになる。それは、にわかに、急に、破滅をもたらす。」(13節)そこには破滅しかない。ちょうどほんのわずかな亀裂が城壁全体を崩してしまうように、神のことばを退ける人は必ず崩壊を招くことになる。それはにわかにやってくる。急にもたらされる。そして、その破滅は、陶器師のつぼが容赦なく打ち砕かれるときのように、粉々に砕かれる。もはやその破片で、炉から火を集めたり、水ためから水を汲むほどのかけらさえ見いだされない。もう人生をやり直せないほどに、これまでの人生が一つも役に立たないほどに砕かれるのである。

これは警告である。反逆の子らへの警告だ。彼らははかりごとをめぐらすが、神にはよらない。窮地になれば、自分にはこんな計画がある。これに頼れば何とかなると考える。十分蓄えがあるから大丈夫。これまでの経験で何とかなる。あの人に頼めば打開できる・・・。とあれこれと思いをめぐらすが、神の霊によらない。それは明らかに罪である。その結果は恥であり、侮辱である。遠回りして、苦労して、さまざまな危険にさらされるものの何の役にも立たない。そのまま歩めば最後は小さな裂け目からすべてが崩壊してしまう。粉々になってしまう。今までの人生はいったい何だったのかと思うほど、粉々に砕かれてしまうのである。これまで蓄えたものも役に立たない。得た資格も役に立たない。あんなに健康に留意してからだを鍛えても、あるとき何の役にも立たない時がやってくる。

では救いはどこにあるのか?「立ち返って静かにすれば、あなたは救われ、信頼すれば、あなたは力を得る。」(15節)あなたが親しくすべき方は神である。そして、いつも近くに置くべきものは聖書だ。聖書を通して神に出会い、そのみことばを聞き、それに従うなら、あなたは救われる。力を得る。どうか破滅ではなくこの救いの道を歩んでほしい。反逆の子にならないで、神に喜ばれる子になっていただきたい。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたの人生にはどんな脅威がありますか。その危機の状況で、あなたはどこに助けを求めていますか?。

・あなたは聞きたくない聖書のことばを聞くとき、どのように反応していますか?「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。」という聖書のことばをどう思いますか。

・あなたの人生には小さな亀裂はありませんか。あなたはそれをどのように修復しようとしていますか?

イザヤ29:1-24 レジュメ

 [アリエルのうめき]                             N040

 Ⅰ.しいたげられるアリエル(1-8)

 アリェルとはエルサレムの名である。「神のライオン」とか[祭壇の炉]という意味かおる。アリエルはダビデによって都に定められた。神の箱がエルサレムに運ばれてきたとき、ダビデは力の限り踊った。それはまさにライオンのように勇ましい姿であった。しかしそれは同時に祭壇の炉をも意味する。いけにえをささげる炉のことてある。そこで彼らは大のような試練を受ける。なぜなら、彼らの心が神から遠く離れていたからだ。

 しかしそんなアリエルを神は救われる。敵が彼らを取り囲んでも、神の奇跡的なご介入によって彼らは救われる。これはB.C.701年のアッシリヤの攻撃の様子が背景にある。アッシリヤはエルサレムを取り囲み、エルサレムはまさに風前のともしびのようになったが、神の使いが出て行き、一晩で185、000入のアッシリヤ兵を撃ち殺した。どんなに敵が襲っても、万軍の主は雷と地震と大きな音をもって、つむじ風と暴風と焼き尽くす炎をもって彼らのところに訪れてくれる。アリエルが、エルサレムが滅ぼされることなど決してない。なぜなら、エルサレムはダビデによって定められたからである。ダビデの子イエス・キリストが臨在しておられる神の都だからである。その神の都を破壊しようとすることなどまさに夢物語であり、非現実的なことなのである。そのような者だらけ、夢見る者たちのように、干からびたのどのようになる。

 Ⅱ.深い眠りの霊(9-16)

 いったいなぜアリエルはうめくようになったのか。それは彼らの目が閉ざされており、彼らの頭小おおわれていたからである。彼らはぶどう酒や強い酒は飲んでいなかったが、エフライムのようにふらついていた。それは彼らに深い眠りの霊が注がれていたからである。彼らは神のことばを全く理解することができなかった。それは封じられた書物のようであった。読み書きできる人も、できない人も屯、理解できなかった。それはこの書物がそれほど難しかったからではない。理解しようという気持ちがなかったからだ。悟りたいと思っていなかった。どんなに知識のある人でも聖書を理解したいと思わなければ、その意味はわからない。それは退屈で、無味乾燥な、どこを読んでもわからないミステリヤスなものになってしまう。しかし、どんなに無学な者であっても、聖書を学びたい、もっと深く知りたいと願うなら、理解が与えられる。

 その根本的な原因は何だったのか。彼らは目先では神を敬っていても、その心は神から遠く離れていたことである。ワーシップサービスではなく、リップサービスになっていた。神を賛美しながら全く別のことを考えていた。心が伴っていなかったのだ。心ここにあらずであった。これが問題である。それは彼らが人の教えを教えとして、神の教えを教えていなかったからだ。自分に都合がいいように、自分の考えや主義主張を唱えていたからである。その結果、彼らの心は神から遠く離れていたのである。聖書を教えているようでも、実際は聖書の教えではなかった。人間の教えを教えとしていたのだ。これでは神の御業は現れない。たとえ私たちが理解できようができまいが神のことばを神のことはとして受け入れ従うときに、私たちが理解できないはどのすばらしい御業が現れるのである。

 III.つぶやく者も教えを学ぶ(17-24)

 ここにはアリエルの回復が述べられている。「もうしばらくすれば、確かに、レバノンは果樹園に変わり、果樹園は森とみなされるようになる。」(17)聖書の確かな約束である。その約束のとおりに、かつて地雷が埋め込まれていたレバノンは、今や立派な果樹園に変えられた。レバノンの人口の40%はクリスチャンである。やがて終わりの日に、レバノンは完全なかたちで回復することであろう。その日、耳の聞こえない者が書物のことばを聞き、目の見えない者の目が暗黒とやみから物をみるようになる。これまで「ああ眠い。聖書はほんとうに退屈な本だ。何か書いてあるかわからない。読みたくない。」と言っていた人が、こぞって聞くようになる。心の迷っていた者は悟りを得、つぶやく者もおしえを学ぶようになるのだ。神は必ずこのようにしてくださる。なぜなら、そこは神が臨在しておられる神の都だからである。神があなたとともにおられ、あなたをすべてのわざわいから守ってくださる。アブテハムを贖われた主はあなたをも贖ってくださり、この神の都に置いてくださった。あなたもまた回復されるのである。あなたの心は迷っていないか。つぶやいていないか。へりくだって神のことばを聞き、貧しい者の心とかって神のことばを求めよう。そうすれば、あなたにも悟りが与えられ、この約束に立つことができるようになる。水遠の神の深いご計画に目を留めることができるようになるのだ。主のおしえを学ぶこと。それが私たちの信仰の原点である。

まとめ(自分に適用してみましょう)

・あなたはしいたげられていませんか。あなたがどんなにしいたげられても、神はあなたを守ってくださると 信じていますか。

・あなたは神のことばを求めていますか。知りたいと願って卜ますか。それを実際の生活の中でどのように表 していますか。

・あなたの信仰は目先だけの形式的なものにはなっていませんか。心が伴った信仰であるために必要なことは何ですか。

イザヤ28:14-29 レジュメ

「これを信じる者はあわてることがない」                          N039

Ⅰ.これを信じる者はあわてることはない(15-16) 

ここで主はイザヤのメッセージを聞いてあざける者たちに語られた。「主のことばを聞け。」と。彼らは「私たちは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる。たとい、にわか水があふれ、越えて来ても、それは私たちには届かない。私たちは、まやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきたのだから。」(15)と言った。「死」とか、「よみ」とは、エジプトのことである。彼らは北から攻め入ろうとしていたアッシリヤに対抗するためエジプトと同盟を結ぼうとした。エジプトと契約を結べば、たとえアッシリヤが攻めてきても大丈夫だと思ったのである。しかし、それは死と契約を結ぶようなものである。よみと同盟を結ぶようなことなのだ。そんなものは何の役にも立たない。アッシリヤが大洪水のように襲ってきたら、たとえエジプトと同盟を結んでも失望することになってしまう。彼らはただ神に信頼するようにというイザヤのメッセージをあざ笑い、自分たちの考えで、自分たちの力でそれを乗り越えようとしたが、それは全くむなしいことであった。

そこで主は彼らに次のように言われた。「見よ。わたしはシオンに一つの石を据える。これは、試みを経た石。堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることはない。」主は彼らに、彼らが頼らなければならないまことの道を示された。それはシオンに据えられた礎の石である。それは試みを経た石であって、どんなことがあっても壊れたりすることがない堅い石である。何度も何度も検査して証明済みの石なのである。これに信頼するなら、あわてることはない。パウロはこれをローマ人への手紙の中に引用している。彼はこの石こそイエス・キリストだと宣言した。イエス・キリストこそ全く傷のない完全なお方である。イエス・キリストこそこの堅く据えられた礎の、尊いかしら石なのであって、この方に信頼する者は決して失望させられることがないと言った。

我々は当時のイスラエルの指導者たちのようにエジプトと手を組めば守られるのではないかと考える。エジプトとはこの世の象徴だ。この世の力を借りて、この世の専門家を動員して、あの問題、この問題に対処すれば何とかなるのではないかと考えるが、その結果は失望するだけである。これを信じる者は、あわてることはない。ただキリストを信じ、この方にすがることによってのみ、我々は守られるのである。

 Ⅱ.比類なき神のみわざ(17-22)

なのに、彼らは神により頼むことをしなかった。それゆえに神はアッシリヤをもって彼らを懲らしめる。彼らによって踏みにじられるようにされた。それは身を伸ばすには短すぎる寝床のようであり、身をくるむには狭すぎる毛布と同じだ。いざというときに何の役にも立たない。私は生命保険に入っているから大丈夫。銀行にこれだけ貯金があるから、不動産がある、私には健康がある、健康だけが取り柄です、あの資格、この資格があるから食べていくには心配ない。しかし、それは短すぎる寝床であり、狭すぎる毛布である。いざというときに、あなたを守ってはくれないのだ。ほんとうに守ってくれるものは、あなたを地獄の滅びから救い出してくださったイエス・キリストだけである。主はかつてペラツィムの山でペリシテを打ち破った時のように、そのみわざを行われる。それは比類のないみわざだ。このイザヤの時代もエルサレムは何十万人というアッシリヤの軍隊に囲まれたが、ユダの王ヒゼキヤとイザヤが必死に祈ったとき、主の使いが出て行き、一晩で185,000人のアッシリヤ兵を打ち倒した。まさにアメージングである。それはイザヤの時代だけではない。この世の終わりに何十万という地上の軍隊がメギドの丘に集結し、そこで再臨の主に立ち向かっても、主は一息で彼らを滅ぼされる。そのみわざは偉大で、比類のないものである。どの時代であっても、彼に信頼する者は失望させられることはない。

Ⅲ.その奇しいはかりごと(23-29) 

それは、農夫の作業をみればわかる。農夫は土地を耕したら種を植える。その植え方は穀物の種類によって異なる。「ういきょう」や「クミン」といった香辛料の種は手を蒔くが、小麦、大麦、裸麦といった穀物の種は、それぞれうねに、定まった場所に、その境にと、場所が違う。農夫はその穀物の種類にしたがって最も適した方法で、一番最適な場所に蒔いたり、植えたりする。

それは収穫も同じだ。すべてがすべて脱穀機で脱穀するわけではない。ういきょうやクミンは棒を打って脱穀するかと思えば、堅い穀物の実は、脱穀車や馬のかかとを利用して脱穀する。つまり、農作業は作物によっていろいろな手順や法則がある。それと同じように、神は国家や個人を扱う時にもいろいろなやり方や方法があるのだ。大切なのは、その背後に奇しい神のみわざがあることを覚え、その神に完全にゆだねることである。たとえ自分たちの考えや思いでは愚かなことのようであっても、主が最善に導いてくださると信じて従うことが求められているのだ。

主のはかりごとは奇しく、そのおもんぱかりはすばらしいものであ。主はイザヤの時代にユダに対して最善の計画を持っておられたように、私たちにもすばらしい計画を持っておられる。そう信じて、神のみことばをあざ笑うのではなく、純粋に、慕い求める者でなければならない。

まとめ(自分に適用してみましょう!)

 ・あなたには当時の宗教指導者たちのように、単純なイザヤのメッセージを、聖書のみことばをあざ笑うといった心はありませんか。生まれたばかりの乳飲み子のように、みことばの乳を慕い求めていますか。

・あなたはこの世のもので自分を守ろうとする思いはありませんか。あなたが頼りとしているものは何ですか。そのことで失望させられたことはありませんか。あなたがイエス・キリストだけに信頼するために必要なことは何ですか。