イザヤ21:1-17 レジュメ

「朝が来ない夜はない」                        N028

Ⅰ.神にはえこひいきがない(1-10) 

「海の荒野」とはバビロンのことである。バビロンに対するさばきについて既に13章と14章で語られたが、ここで再び語られている。難攻不落と言われたバビロンが、メディヤとペルシャの連合軍によって一夜にして滅んだ。それは見るにたえない、聞くにたえないものであった。神に敵対する者は、やがて必ず滅ぼされることになる。

ところでここには、イスラエルに対して「踏みにじられた私の民、内ち場の私の子らよ。私はイスラエルの神、万軍の主から聞いた事を、あなたがたに告げたのだ。」(10節)とある。このことはバビロンやイスラエルの周辺諸国に対してだけ言われていることではない。神の民であるイスラエル自身も聞かなければならないことなのである。自分たちは神に選ばれた聖なる民だから大丈夫だ。自分たちには関係がないと思ってはならない。彼らは周辺諸国と何ら変わらない者だということを自覚し、注意して神のメッセージを聞かなければならないのだ。

ローマ2章11節には、「神にはえこひいきなどはないからです。」とある。神の民だから何をしてもいいということではない。たとえ神の民であっても真理に従わないで不義に従うなら、その人には神の怒りと憤りが下る。また逆に、ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、善を行うすべての人の上に栄光と誉れと平和があるのである。

 Ⅱ.朝が来ない夜はない(11-12)

ドマに対する宣告である。ドマとはエドムのことであり、エサウの子孫にあたる。そのドマに対して主は、「セイルから、私に叫ぶ者がある。「夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りは言った。「朝が来、また夜も来る。尋ねたければ尋ねよ。もう一度、来るがよい。」と言われた。今は夜の何時か、というのである。夜とはアッシリヤの侵攻のことである。あの大帝国に呑み込まれてしまう。もうお先真っ暗だ。もう先がない。夜が来る。あといつになったら夜が明けるのかというのだ。朝が来ても、また必ず夜がやって来る。それはこの世の常だ。この夜とはアッシリヤの攻撃であり、バビロンの攻撃のことである。せっかく朝が来ても、また夜が来る。この世は間違いなく夜に向かって進んでいる。完全に真っ暗になる暗闇が近づいているのだ。

しかし、クリスチャンはそのような暗闇にあっても希望を持つことができる。それは主イエスの再臨である。やがてイエスが私たちを迎えに来るために戻って来られる。その時私たちは栄光のからだによみがえらされ、いつまでも主とともにいるようになる。目の涙もすっかりぬぐい取ってくださる。それこそクリスチャンの救いが完成する時である。ノンクリスチャンには荒唐無稽なことであろう。けれども、クリスチャンにとっては希望の朝だ。この夜がどんなに暗くても、必ず朝がやって来るという希望を持つことができるのである。

Ⅲ.主に身を避けて(13-17) 

だから、私たちは主に身を避けなければならない。ここには、アラビヤに対する宣告が記されてある。テマの地の住民に、デダンの人の隊商に水をやれというのだ。テマもデダンもアラビヤにあった町である。テマとデダンは、直線距離にして130㎞しか離れていなかった。なのに一方は難民となり、一方は難民の援助者になる。その違いはいったいどこにあるのか。「水」である。この二つの町はどちらも沙漠の中にあったが、テマには豊かな地下水が流れていた。それでその町はオアシスであったのだ。同じ沙漠にある町でも、テマには彼らの渇きをいやすための十分な水があったのだ。

主イエスは言われた。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:14)

キリストこそ真の隠れ家であり、この方に身を避けるなら、私たちの中に、生ける水の川が流れ出るようになる。この世がどんな暗くなっても、この方がその暗闇を照らしてくださる。朝が来ない夜はない。キリストこそこの時代を生きる希望であり、力なのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたの中に、自分はクリスチャンだから大丈夫だという思い込みはありませんか。あなたが悔い改めなければならないことは何ですか。

・あなたにとっての暗闇は何ですか。その暗闇の中をどのように歩んでいましたか。暗闇を照らす光であるキリストの再臨を待ち望みましょう。

イザヤ20:1-6 レジュメ

「裸の預言者」                            N027

Ⅰ.腰の荒布を解き、足のはきものを脱げ(1-4) 

アッシリヤの王サルゴンがペリシテの町アシュドテを取った年、主はイザヤに奇妙なことを命じられた。「行って、あなたの腰の荒布を解き、あなたの足のはきものを脱げ。」裸になれというのだ。いったいなぜ神はこんなことを命じられたのだろうか。これは、預言者の「象徴的行動」と呼ばれるものである。預言者はしばしば自分たちの語ったことばを人々に強く印象づけるために、このように目に見える形で表現した。それはエジプトとクシュがアッシリヤとの戦いに敗れ、裸にされ、はだしで連れて行かれることを表していた。

それにしても、三年間も裸で歩き回るのは普通ではない。常識では考えられない行為である。しかし神は、ご自分のみことばを伝えるために、時にはこのような方法も用いることがある。そのような時に私たちは、一見それが恥ずかしいようなことでも、それに従う勇気と信仰が求められるということを覚えておきたい。

 Ⅱ.裸の預言者(2)

それに対してイザヤはどのように応答しただろうか。2節に「それで、彼はそのようにし、裸になり、はだしで歩いた」とある。いくら神の命令とはいえ、また、神に仕える預言者であるとはいえ、公衆の面前で三年間も裸で歩き回るなんて考えられない。狂気の沙汰としか思えない。特に、貴族の出身の身で人々から尊敬と信頼を受けていた彼にとって、かなりの抵抗があったことだろう。なのに彼は神の命令に従い、裸になり、裸足で歩いた。これが信仰である。信仰とは神が命じられることを額面通り受け入れ、それを行うことである。たとえそれが恥ずかしいことであっても、人から見たら気が狂っていると思われるようなことであっても、主が語られたならばそれに従うことなのだ。

キリストは神でありながら私たち人間と同じ姿をとってこの世に生まれてくださった。裸で・・・。そして30年の間神の国の福音を宣べ伝え、病人をいやし、悪霊を追い出し、死人を生き返らせた。ここまではよかった。しかし、その後イエスがイスラエルをローマの圧政から救い出すために来たのではないことがわかると、群衆はこぞって叫んだ。「十字架につけろ」そしてキリストは着ていた衣服をはぎ取られ、むち打たれ、重い十字架を背負ってゴルゴタの道を歩まれた。そして、ついにはその両手両足を釘付けにされ、裸のままで、人々のさらしものになったのである。私たちは、病人をいやしたり、悪霊を追い出したり、死人を生き返らせたりして、人々の役に立ちことならば喜んで行いたいが、人々からさげすまれ、あざけられ、つばをかけられ、十字架にさらしものにされるようなことはしたくない。しかし、キリストに従うとは、キリストが行ったすばらしいしるしや奇跡を行うだけでなく、人々から誹謗中傷されたり、馬鹿にされるようなことであっても、それが神のみこころならば従うことでもあるのだ。

パウロは、「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です」(ピリピ1:21)と告白した。彼はただキリストがあがめられることだけを求めて生きていたのだ。自分はどうでもいい。自分がどんな目に遭っても、何をされても、裸にされても、ばかにされても、卑しめられても、はずかしめられても、変人だと思われようと、自分の身によってキリストのすばらしさが表されるのならそれでいいと思ったのである。それがキリストに従うということなのだ。

Ⅲ.まことの拠り所(5-6) 

ここには、イザヤが裸になったのはイスラエルに対するしるしのためであったことが記されてある。クシュを頼みとし、エジプトを栄えとしていたイスラエルが裸で連れて行かれる彼らを見て、自分たちがこれまで拠り所としていたものがどんなにはかないものであったのかをまざまざと見せつけられたのだ。

第二次世界大戦後、日本人の生活の価値基準は、何が善で何が悪であるかであった。その後今日まで、何が得で何が損であるかで測られてきた。しかし、最近は違う。何がホンモノであるかどうかで判断される時代になった。ホンモノとは、何があってもびくともしないもの、決して滅びることがない、永遠のものである。それはこの天地を造られたまことの神だけである。この方に信頼する者は失望させられることはない。この方こそまことの拠り所なのである。これが、イザヤが裸になってまでも伝えたかったメッセージだったのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたは、常識的に理解できないことを神が指示されるなら、どうしますか。あなたにとって裸になるとはどういうことですか。

・危機を抜け出すために、あなたはだれに助けを求めますか。今、神があなたに願っておられる従順は何ですか。

イザヤ19:1-25 レジュメ

「わたしの民エジプト」                        N026

Ⅰ.エジプトに対するさばき(1-15) 

エジプトに対するさばきの宣告である。エジプトは偶像で満ちていた。太陽の神、かえるの神、ブヨの神、アブの神など、さまざまな偶像を神として拝んでいた。それゆえに神はエジプトをさばかれる。まず内乱によって、そして、外国の侵略によって、そして、エジプトのいのちの象徴であったナイル川を干上がらせることによってエジプトにわざわいをもたらす。そればかりではない。エジプトは自分たちの知恵を誇り、それに頼っていた。しかし、それがどれほど立派な知恵であっても、神が計られたことを告げることはできない。なぜなら、神から出たことは神の霊によらなければわきまえ知ることができないからである。エジプトは自分たちの知恵に頼っていたので、結局、その知恵に振り回されたことになった。国全体がよろめいてしまったのである。この世の知恵には限界がある。神の知恵に拠り頼む者は幸いだ。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。

 Ⅱ.エジプトの救い(16-22)

エジプトに対する神の宣告はさばきの宣告だけではない。彼らの救いについても約束された。「エジプトの国の真ん中に、主のために、一つの祭壇が建てられ、その国境のそばには、主のために一つの石の柱が立てられ、それがエジプトの国で、万軍の主のしるしとなり、あかしとなる。」(19-20)

かつて偶像を拝み、自分の知恵、自分の力を誇っていたエジプトがイスラエルのようになると言われたのである。何ということであろう。考えられない神の恵みである。神はたとえご自身に敵対していた者であっても、悔い改めて神に立ち返るなら赦してくださるのだ。いや、神がエジプトをさばかれるのはエジプトを滅ぼすためでなく、その中で彼らが悔い改め、彼らをいやすためであったのだ。

Ⅲ.わたしの民エジプト(23-25) 

ここにはもっとすごいことが記されてある。何とそのエジプトに対して主は、「わたしの民エジプト」と呼んでおられるのだ。神の民とはイスラエルに対して使われることばである。そのことばをここではエジプトに対して用いているのである。「万軍の主は祝福して言われる。「わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように」(25)これほどすばらしい約束があるだろうか。過去にどんなに神から遠く離れていた者でも、神の恵みによって神の民としていただけるのである。

「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」(イザヤ45:22)

主こそ神である。この神の恵みは、あなたにも注がれている。あなたがこの神を仰ぎ見るなら、あなたも救われる。神の民とさせていただくことができるのだ。この救いは地の果てにまで差し出されている。イスラエルから見たらこの日本はまさに地の果てであろう。しかし、こんな偶像に満ちた国であっても、神の恵みから漏れることはない。ゆえに私たちは自分のことだけを考えてはならない。目を全世界に向けなければならない。神の救いは全世界に及んでいる。この神の約束を信じて、このすばらしい救いのみわざを全世界にもたらされていくために、通りよき管となることを求めていきたい。

まとめ(自分に適用してみましょう! 

・あなたには、自分の欲望を満たす偶像はありませんか。コロサイ3:5には「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」とあります。あなたの中にはどんなむさぼりがありますか。

・あなたが誇りとしているものは何ですか。この世の知恵ですか。それとも、十字架につけられたキリストですか。

・神はエジプトを「わたしの民」と呼ばれました。かつてどんなに神から離れていても、悔い改めて神に立ち返るなら、神はその罪を赦してくださいます。あなたも主なる神を仰ぎ見て救われてください。あなたが神を仰ぎ見ることを妨げているものがありますか。それは何ですか。

イザヤ18:1-7 レジュメ

「わたしは静まってながめよう」                     N025

Ⅰ.ただ神に信頼して(1-2) 

クシュに対する宣告である。クシュとはエチオピアのことである。クシュは、アッシリヤの攻撃に備えるためにイスラエル(南ユダ王国)と同盟を結ぼうとした。それはユダの王ヒゼキヤにとっても大きな誘惑であったにちがいない。しかし、イザヤを通して主が語られたことは、ただ主に頼れということであった。人は危機的状況に直面すると、すぐに目に見える何かに頼ろうとする。しかし、どんなに偉大な人でも、どんなに力強い国であっても、頼りにはならない。人はみな死んで滅びてしまうからだ。本当に頼りになるのは、この天地を創造された神だけである。ダビデは「私のたましいは黙って、ただ神を待ち臨む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩。わが救い、わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。」(詩篇62:1-2)と言った。この神に信頼するとき、何があっても決して揺るがされない平安が与えられるのである。

 Ⅱ.神には時がある(4-6)

なぜ神に信頼するなら揺るがされることがないのだろうか。なぜなら、神は絶対的な方だからである。主はイザヤを通して次のように語られた。「わたしは静まって、わたしの所からながめよう。」(4)クシュが秘密裏にユダと同盟を結ぼうとしていたとき、主は黙ってそれをながめておられた。まさに高見の見物である。全然慌てていない。慌てることなど必要ないのだ。なぜなら、主は圧倒的な力を持っておられるからである。国々が騒ぎ立ち、国民がむなしくつぶやいても、天の御座に着いておられる方は、笑い、あざけられる。

ということは、主はそれを静かにながめて、何もしないということなのだろうか。そうではない。主には時がある。その時を待たなければならない。ちょうどぶどうの木に実が成り始めるとき、実を結ばない枝は切り取られるように、その時が来たら神が働かれる。神は時が熟するのを待っておられる。エジプトにいたイスラエルを救われた時も、四百年の時が必要であった。エジプトでの苦役で苦しみ、神に捨てられたのではないかと思えたその時、神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こし行動を起こされたのである。時が熟するまでには長い時間がかかった。しかし、その時が満ちたとき、神はモーセを立て彼らをエジプトから救い出されたのである。私たちは、この神の時を忍耐して待たなければならない。

Ⅲ.シオンの山に贈り物が(7) 

そんなクシュにも、神の恵みが注がれている。「そのとき、万軍の主のために、背の高い、はだのなめらかな民、あちこちで恐れられている民、多くの川の流れる国、力の強い、踏みにじられる国から、万軍の主の名のある所、シオンの山に、贈り物が運ばれてくる。」(7)贈り物とは回心のことである。このクシュ(エチオピア)の多くの人々が、主に立ち返るようになるというのだ。

使徒8:26-38を見ると、エチオピア人の宦官が救われた話しがある。彼は礼拝するためにエルサレムに上って帰る途中、ピリポによって救いに導かれた。世の終わりには、これがもっと明らかな形で現れる。それはエチオピアだけではない。世界のすべての民が主を信じるようになるのである。シオンの山に贈り物が運ばれてくるのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・ピンチになったとき、あなたは何に頼っていますか。あなたが主に頼るために必要なことは何ですか。

・あなたの祈りがなかなか聞かれないとき、神に失望していませんか。あなたはどのように神の時を待ち望んでいますか。

・主のみこころは、すべての人が救われることです。そのためにあなたができることは何ですか。

イザヤ17:1-14 レジュメ

「救いの神を忘れないで」                        N024

Ⅰ.この世と調子を合わせてはならない(1-3a) 

ダマスコに対する宣告である。ダマスコはアラム(シリヤ)の首都である。このダマスコに対して何と言われているか?ダマスコは取り去られ、廃墟となるということ。これはまだ歴史においては実現していない。ということは、これからこの町は廃墟になるということだ。ここで注目すべきことは、「エフライムは要塞を失い、ダマスコは王国を失う」(3a)ということだ。いったいこれはどういうことだろう?神の民であったエフライム(北イスラエル)が、異教の国と同様に滅ぼされてしまうということである。なぜ?彼らと手を組んだからだ。ゆえに神の民であっても異教の国と同じ運命をたどることになってしまった。ローマ人への手紙12:2には、「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」とある。クリスチャンになってもこの世と調子を合わせこの世の中に埋没していくことがあるとすれば、エフライムと同じような結果を招くことになってしまうということを覚悟しておかなければならない。

 Ⅱ.アラムの残りの者(3b-6)

ダマスコは取り去られて廃墟となると宣告した後で、主はその中でも残りの者を残してくださると約束しておられる。3節後半に「アラムの残りの者は、イスラエル人の栄光のように扱われる」とある。私たちは、礼拝に来ている人が少ないと落胆してみたり、祈祷会にあまり集まっていないと気落ちしてしまう。しかし、この落胆は正しいものではない。主はそうしたわずかな人を残しておられ、その人たちを通してご自身のみわざを行ってくださるからだ。かつてエリヤは「私しか残りませんでした」と嘆いたとき、神様はエリヤ以外に七千人を残しておくと言われた。神様は必ず信仰を持って祈る人を残しておられるのだ。

Ⅲ.救いの神を忘れないで(7-11) 

では残りの民の特徴は何か?それは、神の救いの恵みを覚え、そこにしっかりととどまっている人である。10節に「あなたが救いの神を忘れて、あなたの力の岩を覚えていなかったからだ。」とある。アラムはもちろんのこと、イスラエルがアッシリヤによって滅ぼされわずかな者しか残らなくなったのは、彼らが救いの神を忘れてしまったからだ。力の岩である神を忘れたからである。非常に重要な警告である。決して犯してはならない過ちだ。あなたの救いの神を忘れてはならない。私たちにとって一番大きな危機は何かというと、この救いの神を忘れてしまうことである。それによって、私たちの霊的な運命が決まってしまうからだ。ことわざに「恵みは水に記し、恨みは石に刻む」という言葉がある。恵みはすぐに忘れても、恨みは絶対に忘れない。しかし、神の恵みを忘れてはいけない。

イエスは「わたしを覚えてこれを行いなさい」と言われた。聖餐式はイエスの恵みを覚えるものである。神がイエスを通してあなたに何をしてくださったのかをいつも覚えていなければならない。私たちは皆、らい病人のように腐り果てていく罪人にすぎなかった。この罪のゆえに、私たちの人生は本当に虚無的で悲劇的なものでしかなかった。しかし、そんな私たちのために神はご自分のひとり子を遣わし、十字架の上で死んでくださった。そして、私たちの罪を贖い、永遠に生きる者としてくださった。私たちはこの愛と恵みを惜しげもなく与えてくださった救いの神を忘れてはならないのだ。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたの中にこの世が麗しく感じ、そこからなかなか出られないでいることはありませんか。あなたをこの世に引きずっているものは何ですか?

・あなたの中にクリスチャンが少ないという落胆はありませんか。神様は残りの者を残しておられ、そのわずかな者を通してご自身のわざを進めておられることを信じましょう。

・あなたは救いの神を覚えていますか?神の恵みを忘れないために、あなたはどのようにしていますか?

イザヤ16:1-14 レジュメ

「涙であなたを潤す」                           N023

Ⅰ.子羊を送れ(1-5) 

前回に続き、モアブに対する宣告が語られている。主はモアブに、「子羊を、この国の支配者に送れ」(1)と言われた。この国の支配者とは南ユダ王国のことである。モアブは今アッシリヤからの攻撃を受け、国外に逃れようとしていた。そんなモアブに対して、主は、エルサレムに助けを求めるようにと言われたのだ。なぜ?彼らがアッシリヤの攻撃から逃れることのできる唯一の道は、イスラエルの神に助けを求める以外にはないからである。それはイスラエルにも同じことが言える。主はイスラエルに、「あなたの中に、モアブの散らされた者を宿らせ、荒らす者からのがれて来る者の隠れ家となれ」(3)と語られた。これはイザヤの時代のことだけでなく、世の終わりの患艱時代のことである。患難時代には逆にイスラエルが反キリストの迫害を逃れてさまようことになる。そんな彼らのためにモアブは隠れ家とならなければならないというのだ。

私たちの周りには、思いがけない事故や患艱によって散らされている人たちがいる。私たちは、そういう人たちの隠れ家にならなければならない。「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。」(詩篇91:1)主こそまことの隠れ家である。私たちはこの真の隠れ家なる主を、一人でも多くの人に提供していかなければならない。

 Ⅱ.涙であなたを潤す(6-16)

モアブは、主が設けてくださった逃れの道を拒んだ。彼らは、ふどうをはじめとする豊かな農作物を自慢し、高ぶった。それゆえ、モアブは、モアブ自身のために泣きわめく。彼らは打ちのめされて、ぶどうの実はしおれてしまう。そして、荒野をさまよい、涙を流して泣くようになる。

しかし、ここに不思議なことばが記されてある。「わたしはわたしの涙であなたを潤す」(9)主がモアブのために泣いておられるのだ。自分たちの経済を誇り、高ぶり、神に背いた彼らは滅ぼされて当然なのに、そんなモアブのために泣いておられるのである。なぜ主は彼らのために泣いておられるのか?それは、神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われることを望んでおられるからである。主がモアブをさばかれるのはそうしたいからではない。いくら言っても悔い改めないので、そうせざるを得ないのである。ここに「わたしのはらわたはモアブのために、わたしの内臓はキル・ヘレスのために立琴のようにわななく」(11)とあるが、まさに「断腸の思い」なのだ。

Ⅲ.神に聞き従う(13-14) 

ではどうしたらよいのか?神の声に聞き従うことである。ここに、「これが、以前から主がモアブに対して語っておられたみことばである。」(13)とある。これは突然の宣告なのではない。以前から、ずっと以前から警告されていたことなのだ。なのに、彼らはこれを聞こうとしなかった。聞く耳を立てなかったのである。

主は今もはっきりと語っている。問題は、あなたがそれを聞くかどうかである。世の終わりが来ることをあなたは聞いている。あなたはその準備をしているか。主が語られたことは全部が成就する。そのみことばを聞いて受け入れるかどうかにかかっているのである。モアブは受け入れなかったために滅びてしまった。あなたはそのようなことがないように、今、この時に、神のみことばを聞いてそれを素直に受け入れ、主に従って生きる人生を選択していただきたい。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたは、いと高き方の隠れ場に住んでいますか?あなたの隠れ場はどこですか?

・あなたが自慢しているものは何ですか?主はあなたのために涙を流しておられますか?それとも、あなたを喜んでおられますか?なぜそのように思いますか?

・あなたは以前からずっと神があなたに語っておられることに気付いていましたか?あなたはその声に従っていますか?

イザヤ15:1-9 レジュメ

「わたしの心は叫ぶ」                           N022

13章から、イスラエルを取り囲んでいた周辺諸国に対する神のさばきの宣告が語られている。今回はモアブに対する宣告である。

Ⅰ.一夜のうちに起こるさばき(1-4) 

主はモアブに対して語られた。「ああ、一夜のうちにアルは荒らされ、モアブは滅びうせた。ああ、一夜のうちにキル・モアブは荒らされ、滅びうせた。」(1)「アル」とか「キル・モアブ」とは、モアブの町々である。そうした町々が一夜のうちに滅びると、主は言われた。まさに想定外である。しかし、人生にはこのような想定外の出来事が起こる。主の再臨も同じだ。「主の日が盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として無滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦の産みの苦しみが臨むようなもので、それを逃れることは決してできません。」(Ⅰテサロニケ5:2-3)私たちは、主がいつ来られてもいいように、その備えてをしておかなければならない。

 Ⅱ.わたしの心は叫ぶ(5)

ここには、「わたしの心はモアブのために叫ぶ」とある。(5)モアブといったらイスラエルの敵である。そのモアブが滅ぼされることは、神にとって、また、イスラエルにとっても喜ばしいことではないのか?主はなぜここでモアブが滅びることに対して泣いておられるのだろうか?それは第一に、神は、ひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われることを望んでおられるからだ。確かに神は罪を罰する方である。しかし、喜んで罰するのではない。いくら言ってもなかなか悔い改めないので、致し方なく罰するのである。神の本心は、ひとりも滅びないで、すべての人が救われることなのである。

第二のことは、このモアブという民族の特殊性にある。モアブはアブラハムの甥ロトの息子である。(創世記19:37-38)ダビデの曾おばあちゃんは、モアブ人のルツであった。ということは、ダビデにはモアブ人の血も流れていたことになる。そして、その子孫に救い主キリストが誕生する。モアブ人はイスラエル人の敵ではあったが、ユダヤ人ととても関係の深い民族だったのだ。そのようなモアブに、主はあわれみの心を持っておられた。私たちの周りにもモアブのような人たちがたくさんいる。私たちの家族や友人、知人である。そのような人たちは神から特別に愛されている人たちでもある。そのような人たちが救われるようにと、主は涙して祈っておられるのである。

Ⅲ.のがれた者と残りの者とに獅子を向ける(6-9) 

第三のことは、神は忍耐して私たちが悔い改めるのを待っておられるが、そこには限りがあるということだ。そして、それでも悔い改めない人には、容赦ない神のさばきが臨むのである。ここには、「ああ、ニムリムの水は荒廃した地となり、草は枯れ、若草も尽き果て、緑もなくなった。」(6)とある。水源地であったニムリムの水が塞がれたので、その地域一帯の草は完全に枯れ、草一本も生えないほどに荒れ果てた。それだけではない。モアブののがれた者と、その土地の残りの者とに獅子が向けられる。徹底的なさばきが行われるのである。

これは神のあわれみと矛盾するものではない。神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられる。そして、じっと忍耐して待っておられる。がしかし、そこには限りがあることを覚えておかなければならない。それまでに悔い改めないと、神はモアブに対してなされたようなさばきをもたらされる。神はあわれみ深い方であられるゆえに、そうしたさばきを悲しんでおられる。だから私たちは、うしろの戸が閉じられる前に、この神の和解を受け入れ、悔い改めて神の救いを受け入れなければならないのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたは、主が突然来られても大丈夫なように、その備えができていますか?

・あなたの周りにいて、まだイエス様を信じていない家族、友人、知人はだれですか。主は彼らをあわれんでおられます。彼らの救いのために祈っていますか?

・あなたは神の救いを受け入れていますか?もしくまだイエス様を救い主として受け入れていなければ、今、頭を垂れ、キリストを救い主として受け入れる祈りをしましょう。

イザヤ14:24-32 レジュメ

「主に身を避けて」                             N021

Ⅰ.主の計ったとおりに成就する(24-27) 

アッシリヤに対する宣告である。主はアッシリヤを打ち破り、主の山で踏みつける、と言われた。(25)そして、アッシリヤに虐げられている民は、そのくびき、その重荷から解放される。このみのことばの通りに、アッシリヤはバビロンによって滅ぼされた。ここで主が誓って仰せになられたとおりになったのである。主が考えられたとおりに事は成り、主が計られたとおりに成就する。であれば、主のみこころに従って生きることが最善である。人類の歴史は、この宇宙に含まれている全てのものを造られた創造主なる神と私たち人間の歴史である。その歴史の中に私たち一人一人のストーリーも含まれている。私たちのすべての歴史が、この神の御手に握られているのである。だから、私たちにとって必要なことは、この神のことばを信じ、この方にすべてをゆだねて歩むことである。神のことばは必ず成るということを知るとき、私たちは神が真実な方であり、力ある方であることを確信し、この神にすべてをゆだねることができるのである。

 Ⅱ.喜ぶな、ペリシテの全土よ(28-31)

ここにはペリシテに対する宣告が記されてある。「おまえを打った杖」(29)とはイスラエルのことである。昔からペリシテ人はいつもイスラエルの敵であった。そのイスラエルがアッシリヤに滅ぼされたとき、彼らは手をたたいて喜んだ。しかし、喜ぶのはまだ早い。彼らの敵であったイスラエルが折られたからといって、喜んではならない。なぜなら、蛇の子孫からまむしが出、その子は飛びかける燃える蛇となるからである。これはアッシリヤのことを指している。イスラエルが折られてももっと残虐なアッシリヤが出て来て、彼らを苦しめることになるというのだ。果たせるかな、このみことばの通りにペリシテはB.C.701年にアッシリヤによって滅ぼされることになる。そして、B.C.332年にアレクサンドロス大王によって攻略されると、ペリシテ人は歴史から姿を消すことになった。

 

Ⅲ.主に身を避けて(32) 

ではどうしたらいいのか。主に身を避けることである。「主はシオンの礎を据えられた。主の民の悩む物たちは、これに身を避ける。」北の大国アッシリヤに対抗するために周辺諸国の弱小国が考えた対策は、互いに同盟を結んで戦うことであった。しかし、時の南ユダ王国の王であったヒゼキヤは、これをきっぱりと断った。彼は、「主はシオンの礎を据えられる。主の民の悩む者たちは、これに身を避ける」と言ったのである。主に身を避ける者は幸いである。なぜなら、主がその人を守ってくださるからだ。私たちは何か問題があるとすぐに目に見える物や人に頼ろうとするが、本当に頼りとしなければならないのは神ご自身である。聖書のちょうど真ん中の聖句は詩篇119篇8節である。そこにはこのように記されてある。「主に身を避けることは、人に信頼するよりもよい。」これが私たちの信仰生活の中心である。私たちの生活の中心は神であって、神に祈り、神を讃美し、神に身を避けることである。主に信頼を置くとき、そこに奇跡が生まれる。すべての祝福は、主に信頼することから生まれるのである。主に信頼することは、人に信頼するよりもよい。そのことを覚えて、私たちの思いや考えをはるかに越えて働いておられる神にすべてをゆだねて歩んでいこう。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたは、主のはかりごとは必ず成るという信仰がありますか。あなたは、このことを信じて、すべてを主にゆだねていますか。それとも、なかなか信じられずに不信仰に陥ってはいませんか。

・あなたは何に身を避けていますか。何を信頼していますか。主に身を避けることは、人に信頼するよりもよい、というみことばを、あなたはどのように受け入れていますか。

イザヤ14:1-23 レジュメ

「いこわせてくださる神」                     N020

Ⅰ.いこわせてくださる神(1-8)

1節に、「まことに、主はヤコブをあわれみ、再びイスラエルを選び、彼らを自分たちの土地にいこわせる。」とある。主は、かつてエジプトに捕らえられていたイスラエルを救い出してくださったように、バビロンに捕らえられていたイスラエルを解放し、いこわせてくださるというのだ。いったいなぜ主はこのようなことが行ってくださるのか?それは、主が彼らを選ばれたからである。彼らを選ばれたので、彼らをあわれみ、自分たちの土地にいこわせてくださるのである。そのために主は彼らの痛み、また激しい怒りを除き、過酷な労役を解いてくださる。かつてダビデは、「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」(詩篇23:1)と告白した。主はわたしたちをいこわせてくださる。敵である悪魔を打ち破り、その縄目から解放してくださるのである。

 Ⅱ.どうして天から落ちたのか(9-15)

バビロンの問題は何だったのか。12節から15節までの聖句は、悪の起源を考えるにあたりとても重要な箇所である。「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。 密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」「暁の子、明けの明星」とは、バビロンの王の背後で彼を動かしていた張本人、つまり悪魔のことです。悪魔は、もともと光輝く天使であった。天使たちの最高位に位置していた天使長だったのである。ラテン語ではこれを「ルシファー」と言う。天使長ルシファーは光輝く存在であったが、堕落した。堕落して天から落ちたのである。これが悪魔の起源である。

いったい何が問題だったのか。彼は心の中でこう言った。「私は天に上ろう。神々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。」つまり、ルシファーは高ぶったのである。神のようになろうとした。神のようになることは問題ではない。問題はその動機にある。自分が神のようになり、神からの指図を何も受けることなく、何でも自分で思う通りに判断し、自分勝手に行動しようとした。それが問題だったのである。神によって造られた人間にとって最も大切なことは、自分を造ってくださった神を敬い、神に信頼し、その御声に従うことである。なのにルシファーは自分の美しさ、自分の能力に酔いしれて、本来の目的を失ってしまった。それが問題だったのである。

キリストは神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることはできないとは考えず、自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられた。そればかりではなく、自分を卑しくし、死にまでも従い、実に十字架の死にまでも従われた。(ピリピ2:6-8)キリストは私たちの模範であり、私たちの目標である。罪から解放された私たちは自分中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりも優れた者と思わなければならない。自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなければならないのである。それがクリスチャンの求める姿なのである。

Ⅲ.勝利の神(16-23) 

そのような悪魔を、神は完全に滅ぼされる。どんなに王国を震撼させ、町々を絶滅し、世界を荒野のようにした者であっても、最終的には墓の外に投げ出される。神が完全に勝利してくださるからである。その勝利の源が小羊の血である。黙示録12章11節には、「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。」とある。小羊の血と神のあかしのことばのゆえに、完全に勝利できるのである。過去においても、現在でも、あるいは未来においても、私たちは罪だらけな者である。そんな者であってもキリストがその罪の一切を身に受け十字架で血を流してくださったので、それらすべてを洗い清めてくださった。私たちは、この小羊の血によって勝利を得ることができるのである。どんなにサタンである悪魔が罪を責め立てても、キリストにある神の愛から引き離されることはない。大切なこのことは、この神に信頼し、神の御前にへりくだって生きることだ。それが神の恵み、神のあわれみに応えるクリスチャンの歩みなのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたの中には「私は・・」といった自分中心の思いや虚栄はありません?あなたはどのように他の人に仕えることができるかを考えてみましょう。

・あなたは自分の罪のことで悩み、苦しんでいませんか。もし自分の中に罪があれば、その罪を悔い改め、キリストの十字架の血を受け入れ、赦していただきましょう。キリストにある神の愛の大きさに感謝しましょう。

イザヤ13:1-22 レジュメ

「バビロンは滅びる」                       N019

はじめに

ここから新しい段落が始まる。これまではイスラエルに対する神の言葉が語られていたが、ここからは、イスラエルの周辺諸国に対する神のさばきの宣告が語られていく。その最初に登場するのがバビロンである。なぜバビロンから始まるのか?それはバビロンが単なる一つの国ということ以上に、霊的に神に敵対する勢力の象徴であったからだ。黙示録18章2節に記されているあの「大バビロン」である。

Ⅰ.神はあらゆるものをざきの道具として用いられる(1-3) 

バビロンを滅ぼすために神が用いられた道具の一つは、クロス王率いるメディアとペルシャの連合軍であった。この連合軍を用いて当時難攻不落と言われていたバビロンを神は滅ぼされた。主は、かつて北イスラエルを懲らしめるためにアッシリヤを用いたように、今度は高慢なバビロンを滅ぼすためにペルシャの王クロスを用いられたのである。元々このクロスは異教徒の王である。にもかかわらず、神はバビロンをさばくために彼を用いられた。それだけではない。5節には「彼らは遠い国、天の果てからやって来る。彼らは全世界を滅ぼすための、主とその憤りの器だ。」とある。これはメディアやペルシャのことではない。これは黙示録17章、18章に登場する反キリスト、獣のことである。神は、ご自身の目的を遂行するために、あらゆるものを道具として用いられる。神はクリスチャンしか用いられないというのは大間違いである。異教徒だから、偶像崇拝者だから用いられないということはない。神は、ご自身の目的を果たすためにありとあらゆるものを用いられる。であれば、神はあなたや私をも用いてくださるということになる。たとえあなたがろばのように鈍感であっても、石のように堅い頭でも、神に用いられるのである。であれぱ、神に用いられる器となるために、へりくだって、神に従う心を持たなければならない。

Ⅱ.神は罪人を根絶やしにされる(6-16)

このような言葉を聞くと、あなたは驚かれるに違いない。愛の神がいったいどうして人を滅ぼすようなことをされるのか?優しくあわれみ深い神が、そんな恐ろしいことをするはずはない・・・と。しかし、神は愛であると同時に義なる方なので、いつまでも悪を放っておくようなことはなさらない。必ず正しくさばかれる日がやってくる。一時は栄華を誇っていたバビロンに対して神は、「泣きわめけ」(6)と言われた。神のさばき、神の破壊が来るからだ。その時すべての者は気力を失い、すべての者の心はしなえる。彼らはおじ惑い、子を産む女が身もだえするように、苦しみと、ひどい痛みが彼らを襲うようになる。神は人間を純金よりもまれにし、オフェルの金よりも少なくされるのである。(12)

しかし、主に信頼する者は決してさばきに会うことはない。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いてわたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5:24)とイエスは言われた。神の義であるイエス・キリストを信じた瞬間に、これまでのすべての罪が赦され、神の恐ろしいさばきに会うことがないようにしてくださるのである。イエスを信じる者には、決して揺り動かされることのない御国が与えられる。ここにこそあなたの絶対的な安心の保障があるのだ。

Ⅲ.主のほかに神はいない(17-22) 

ゆえに、結論は、この主を仰ぎ見て救われよ、ということである。ここにもう一つ不思議な記述がある。それは、バビロンを滅ぼすためにメディヤ人クロスを奮い立たせるということである。しかし、この時まだクロスは生まれていなかった。これが書かれたのはB.C.715の年ことだが、クロスがバビロンからイスラエルを解放したのはB.C.539年のことである。176年も先のことを、いったいどうやって預言することができたのか?しかも「クロス」という名前まで正確に預言している。それは、この主こそ神であるということの明確な証拠なのである。「遠い昔のことを思い出せ。わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる』と言う。」(イザヤ46:9-10)聖書のユニークさはここにある。神でなければ未来のことを正確に告げることはできない。その未来のことを正確に告げているのが聖書である。これが私たちの信じている神だ。

であれば、この神にすべてをゆだねなければならない。すべてはこの方の御手の中にある。だから、私たちはこの方にすべてをゆだねることができる。将来のことがよくわからなかったり、先が見えないことほど不安なことはない。しかし、神はその先のことをはっきりと告げてくださる。何もかもすべてわかっておられる方なのだから、この方にお任せすることが確かな平安を受けることにつながる。「わたしのほかに神はいない」と言われる方を信じ、この方を恐れかしこんで生きること。この方を拠り所として生きることが、神のさばきから逃れ平安をもって一生を生きるための源なのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたは、イエスを信じて神のさばきから逃れていますか?

・あなたにとっての安心の保障は何ですか?「わたしのほかに神はいない」と言われる神に対して、あなたはどのように応答しますか?

・あなたが今不安に感じていることは何ですか?何もかもすべてのことを知っておられる神に、あなたの人生をおゆだねしてください。