イザヤ12:1-6 レジュメ 

「救いの泉」                           N018

はじめに

ここには、再び集められたイスラエルが、主に感謝し、賛美している姿が描かれている。

Ⅰ.神は私の救い(1-2) 

「その日」とは、イスラエルがバビロンから解放されエルサレムに帰還した日のことであり、また、世の終わりの患難時代のことでもある。その日、彼らは主に感謝し、「見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。」(2)と言って、主を賛美するようになる。「神は私の救い」は、ヘブル語で「ヨシュア」(イェホーシュア)である。このギリシャ語が「イエス」だ。イエスが救いである。救いはイエスに信頼することから生まれる。イエスに信頼する者は、何も恐れることはない。「信頼する」とは、「ゴロンと横になること」である。自分のすべてを神に明け渡すこと、それが信頼である。F・B・マイヤーは、「信仰はバケツだ」と言った。信仰というバケツで救いの泉であるイエス・キリストから汲み取るので、何の恐れもいらないのである。

 Ⅱ.救いの泉(3)

3節に「あなたがたは喜びながら、救いの泉から水を汲む。」とある。主の救いを体験すると、そこに喜びが溢れるようになる。この救いの泉こそイエスである。イエス様は、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水が流れ出るようになる」(7:37-38)と言われた。「この水を飲む者は、だれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:13-14)イエスは、決して渇くことのない水を与えてくださる。だれでも渇いているなら、もう渇きたくないなら、いつも不平不満ばかり言っている人生から解放されたければ、イエスの所に行って飲まなければならない。イエスこそこの救いの泉なのである。

Ⅲ.そのみわざを語り告げよ(4-6) 

「その日、あなたがたは言う。「主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、国々の民の中に知らせよ。」(4)主に救われた人は、主の救いを体験した人は、それを国々の民の中に知らせるようになる。黙ってなどいられない。そのみわざがあまりにもすばらしいので、一人でも多くの人に伝えたいと思うようになるのである。その日が必ずやって来る。今はとても賛美する気にもならないという人も、その日が来ると賛美したくなる。主はあなたの救いとなられた。あなたは喜びながら、救いの泉から水を汲む。そのすばらしいみわざをほめ歌い、国々の民の中で語り継げよう。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたは主に信頼していますか?イスラエルのように主への感謝と賛美に満ち溢れていますか。あなたが恐れていること、心配していることは何ですか?

・あなたは渇いていますか?その渇きをどのようにいやしていますか?救いの泉であるイエスから汲んでいますか?

・あなたは救われた喜びを人々に知らせていますか?主はあなたにどんなすばらしいことをしてくださいましたか?

イザヤ11:10-16 レジュメ

「再び集められる主」                       N017

はじめに

きょうのところには、主が再臨されるときに起こる大きな出来事が預言されている。それは主がイスラエルを再び集められるということである。

Ⅰ.全世界の王キリスト(10) 

10節に、「その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く」とある。エッサイの根とはメシヤの称号で、イエス・キリストのことである。その日、イエス・キリストは国々の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝くようになる。パウロはローマ15:12でこの箇所を引用し、「異邦人はこの方に望みをかける」と言っている。ユダヤ人だけではない。異邦人も神のあわれみによって救われ、ユダヤ人と一つになりイエス・キリストの父なる神をほめたたえるようになる。やがて来られるメシヤは、ユダヤ人だけでなく異邦人も含めた全世界の王となられる。キリストは、ユダヤ人ばかりでなく全世界の民にとっての王であり、いこいの場所となるのである。

Ⅱ.再び集められる主(11-13)

ここにも「その日」という言葉が出てくる。「その日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りを買い取られる。」(11)かつてエジプトにいたイスラエルが救い出されたようなことが起こる。それはイザヤの時代ではバビロン捕囚からの解放のことであり、遠い未来の終末のことで言えば、全世界に散らされたユダヤ人が集められるということである。この預言のごとく1900年代に入ってから全世界に散らされていたユダヤ人がエルサレムに帰還し国を再建した。スラエル共和国である。1900年もの間流浪していた民が再び国を建てるということなど考えられない。しかし、これが実際に起こった。それは聖書の預言に書いてあったからだ。聖書に預言されていることは必ず成就する。世の終わりには、天の果てから果てまで、四方からその選びの民が集められる。イスラエル共和国の再建は、その預言の成就の始まりである。この世は確実にその成就に向かって動いている。もう夏は近い。主が再び来られる日がすぐそこまで来ている。主がいつ戻って来られても大丈夫のように備えておくことが求められている。

Ⅲ.大路が備えられる(13-16) 

ここには世の終わりに起こるもう一つの出来事が預言されている。それは北と南に分裂していたイスラエルが統一するということである。ソロモンの死後以降分裂していたイスラエルが一つになる。そしてイスラエルを脅かしていた敵がユダヤ人に従うようになる。今もイスラエルを脅かしている勢力がある。周辺のアラブ諸国である。これらの国もイスラエルに服し、協力するようになる。そして、ユダヤ人はもはや誰にも妨げられることなくエルサレムに戻ることができるようになるのである。かつてイスラエルがエジプトから上って来たような大路が備えられる。問題はその道を通るかどうかである。エジプトの奴隷であったイスラエルが主の力強い御手によって解放されたように、主は、再び、まことの救い主イエス・キリストによって、罪の滅びの穴から救い出してくださる。ご自身のもとに集められる。私たちがそこから解放されるには、この道を通らなければならない。主の招きに応じて、信仰の一歩を踏み出さなければならない。私たちの古い性質は、慣れ親しんだ罪の生活に留めようとするが、主が用意してくださった大路を歩まなければならないのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたにとってのいこいの場所はどこですか。あなたは何に望みを置いていますか。

・あなたは主が来られる備えが出来ていますか。あなたのともしびには油が入っていますか。

・あなたは主が備えてくださった大路を歩んでいますか。あなたを古い生活に留めようとしているものは何ですか。

イザヤ11:1-9 レジュメ 

「エッサイの根株から出る若枝」                         N016

はじめに

きょうのところには、やがて来られるメシヤがエッサイの根株から出ると記されてある。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」のである。

.エッサイの根株から出る若枝(11:1 

エッサイの根株とは、ダビデの家系を指している。というのは、エッサイとはダビデの父親のことだからである。しかし、なぜダビデとは言わないでエッサイと言ったのか?それはやがて来るメシヤはダビデの家系から生まれるみどりごでありながら、へりくだった状態で生まれることを示すためであった。エッサイは羊飼いで、身分が低かった。エッサイというのは侮辱的で、屈辱的な表現であったのだ。また、「根株」というのは切り株のことであるが、イスラエルはまさに根株のような状態であった。シーンと静まりかえった森の中で木々が切り倒されて根株しか残っていない絶望的な状態だった。そのようにシーンと静まりかえった中に、それを打ち破るかのようにして生まれたのがキリスト、メシヤであった。神は、すべて焼けこけて、もう命さえもないかのような切り株から新芽が生え、そこから若枝が出て実を結ぶようにしてくださった。だれもが絶望している時に、何の望みないと思われるような中に、神の救いが始まったのである。

.若枝であるメシヤの性質(2-5

では、その若枝として来られるメシヤはどのような方なのか?ここには「その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」とある。これは聖霊の七つの働きを表している。七は完全数でもある。やがて来られるメシヤは主の霊、聖霊によって、完全な主の働きをしてくださる。それと同じように、主の霊をいただいているクリスチャンも聖霊によって神のわざを行うことができる。それなのに、なぜ私たちは聖霊の力がないのか?求めていないからである。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば、見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」(ルカ11:9-10)天の父は、求める人たちに、聖霊を下さる。1回や2回ではなく、何回も求め続ける者でありたい。

.若枝であるメシヤの支配(6-9 

第三に、この若枝として来られるメシヤが支配する王国はどのようなものかを見てみたい。6節には「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し」とある。これはメシヤであられるキリストが再臨した後にもたらされる千年王国の光景だ。その時、狼は羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏すようになる。文字通りの平和な世界が樹立されるのである。なぜなら、キリストが再臨されるその時、人類にのろいをもたらした罪を完全に贖ってくださるからだ。アダムとエバが犯した罪の影響はこの人類ばかりでなく、自然界、動物界全体に及んでいった。その結果、弱肉強食といったことが起こったのである。しかし、その罪が贖われることでそうした敵意も完全に葬り去られ、文字通りの平和がもたられるのである。

しかし、その神の国は、キリストを救い主として信じ罪が赦されたクリスチャンの中に既に来ている。「神の国はいつ来るのか」というパリサイ人の質問に対して、主イエスは「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではない。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:21)と言われた。神の国は既に私たちのただ中にある。私たちはその救いの完成を待ち望んでいるのだ。「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」(ヘブル9:28)主がいつ来られても大丈夫のようにこの若枝であるメシヤを信じ、その到来を待ち望む者でありたい。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたは切り株のような状態ではありませんか?そのような絶望的な状態の中に、神は救い主を誕生させてくださったことを信じますか。

・あなたは聖霊に満たされていますか?聖霊に満たされることを求めていますか?あなたはどのようにして聖霊に満たされることを求めすか?

・あなたは主の来臨の備えができていますか?救い主イエスを信じて罪が赦されていますか?

イザヤ10:5-27 レジュメ

「主にたよれ」                                  N015

はじめに

きょうのところはイスラエルではなく、アッシリヤに向けて語られたことばである。アッシリヤはイスラエルを懲らしめるために神が用いた道具でしかなかったのに高ぶってしまった。そのアッシリヤに対して語られている。

.高ぶらないで(10:5-15 

その第一のことは、高ぶらないようにということである。アッシリヤは、神の怒りの杖、憤りのむちにすぎなかったのに、その度を超えてしまった。ただイスラエルを懲らしるだけでなく、滅ぼそうとした。彼らは自分たちが神の道具であるとは思わず、完全に自分たちのやり方に徹した。「斧は、それを使って切る人に向かって、高ぶることができようか。のこぎりは、それをひく人に向かっておごることができようか。」できない。それは棒が、それを振り上げる人を動かし、杖が、木でない人を持ち上げるようなものである。斧やのこぎりは、あくまでも道具でしかない。道具としての役割を考えそれに徹していかなければならなかった。カール・ヒルティーは、「人間の力の秘密は、神の道具であるという性質にある。なぜなら、すべての永続的な真実の力は神のものであって、人間のものではないからである。」と言った。私たちが用いられるのは、私たちが信心深いからではない。敬虔なクリスチャンだからでもない。頑張っているからでもない。聖いからでもない。他のクリスチャンよりも立派だからでもない。それはすべて神の恵みである。

イエスは、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」と言われた。イエスこそまことのぶどうの木であって、私たちはただの枝にすぎない。枝だけで実を結ぶことはできない。イエスにつながって初めて実を結ぶことができるということを覚え、慎ましく歩む者でなければならないのである。

.高ぶる者は罰せられる(16-19

不遜にも神に反逆して高ぶったアッシリヤに対して、主はどうされるか?「それゆえ、万軍の主、主は、その最もがんじょうな者たちのうちにやつれを送り、その栄光のもとで、火が燃えるように、それを燃やしてしまう。」(16節)このことばの通りに、アッシリヤの王セナケリブはユダに破れて敗走した。当時世界最強と言われた軍隊が、日本の四国ほどの面積しか持たないユダに敗れたのである。そして息子の代になるとこの国は弱体化してやせ衰え、最終的にはバビロンに敗れ完全に滅んでいくことになる。

.主にたよれ(20-34 

「その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家ののがれた者は、もう再び、自分を打つ者にたよらず、イスラエルの聖なる方、主にたよる。」(20節)「その日」とは世の終わりの日のことである。世の終わりの7年間の患難時代のことだ。その日になると、イスラエルの残りの者は、イスラエルの聖なる方、主にたよるようになる。まことの神であり、救い主である主に立ち返るようになるのである。だからアッシリヤを恐れてはならない。主の怒りが彼らを滅ぼしてしまうからだ。かつてイスラエルがエジプトを出て行く際、エジプトが執拗に追いかけて来たとき、モーセが紅海の上に杖をかざすと、海の水が真二つに分かれた。それで彼らはその乾いた道を通って救われた。それと同じように、主は私たちを奴隷の状態から、目の前の問題から救い出してくださる。

あなたが思い煩っていることは何か?怖がっていることは何か?あなたが勝手にあきらめていることは何か?その支払いがどれだけのものだというのか。その病がどれほどのものだというのか。それがどんなに大きなものであっても、地獄と等しいほど大きなものではない。主は私たちを地獄の滅びから救い出してくださった。でれば、それがどんな問題でも、必ず救い出してくださる。イスラエルの残りの者がイスラエルの聖なる方、主に、まことをもってたよったように、私たちにとってこの方にたよりながら生きていく者でありたい。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたの中には、自分がこれだけ頑張ったから・・という思いはありませんか?自分に与えられたものはすべて神の恵みによるものであると受け止め、神に感謝をささげていますか?

・あなたが不安になり、思い煩い、恐れていることは何ですか?主にたよるなら、主がその問題から救い出してくださるという信仰がありますかれ?そのような確信を持つにはどうしたらいいでしょうか?

イザヤ9:8-10:4 レジュメ 

「ヤコブに落ちた主のことば」                           N014

はじめに

これまでイザヤはユダに対して神のことばを語ってきたが、このところでは北イスラエルに対して語っている。その中心は、「なおも、御手は伸ばされている」ということである。北イスラエルにはこれまでも何人かの預言者がみことばを語ってきたが、彼らはそのことばを受け入れなかった。そういう彼らに、神の怒りの御手が伸ばされているのである。

.その敵たちをあおりたてる(9:8-12 

まず神は、その敵たちをあおりたてる。ここには「レツィンに仇する者たちをのし上がらせる」とある。これはアッシリヤのことである。そればかりではない。一緒になってユダを攻めたアラムからも攻撃されることになる。なぜ?それは彼らが神ではなく他のものに頼んだからだ。神以外のものに頼ると、結局のところ、それによって苦しめられてしまうことになる。これがイスラエルの生活のパターンであった。

.かしらも尾も、切り取られる(13-17

イスラエルは敵たちにあおられても主を求めなかった。そこで主は、イスラエルからかしらも尾も切り取られた。かしらとは長老や身分の高い者、尾とは偽りを教える預言者たちのことである。つまり、霊的・精神的指導者のことである。そういう指導者たちを切り取られるというのだ。たった一日のうちに、素早く。それは彼らが偽りを教えて民を惑わし、誤った道に導いていたからである。注意しないと、私たちも偽りを教える預言者になりかねない。キリストの福音ではなく別の福音を教えてしまうことがある。聞いている人に合わせて、そういう人たちに受け入れられる温かいことば、優しいことばだけを語ろうという誘惑に陥ることがある。こうした偽りを教える預言者は切り取られてしまう。それは預言者だけでなく教会も同じ。「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分に都合のよいことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(Ⅱテモテ4:3,4)神のことばを神のことばとして教え、語っていく。今の時代も、このことが求められている。

.互いにいたわり合わない(18-21 

それだけではない。ここには「だれも互いにいたわり合わない」(19)とある。人々はみな自分のことだけを考えて行動するようになるのである。その結果、右にかぶりついても、飢え、左に食いついても、満ち足りず、おのおの自分の腕の肉を食べるようになる。それほどに飢えるのである。ガラテヤ5:15には、霊的な意味での共食いについて語られている。肉の力で生きようとすると、かみ合ったり、食い合ったりするようになる。なぜなら、霊的にお腹が満たされていないから。だから、霊的に栄養失調になると、キリストにある仲間をさばいたり、引き落としたり、かんだりといったことが起こってくるのだ。霊的にいのちをいただき、霊的に満たされていることがどれほど重要であるかがわかる。

.助けと救いはキリストにあり(10:1-4 

 それだけではない。遠くからあらしが来るとき、どこにも逃げ場が無くなる。嵐とはアッシリヤのことである。そうした嵐が押し寄せてくるとき、いったいだれに助けを求めるのか?どこに自分の栄光を保つのか?どこにもない。助けと救いの道はただ一つ。十字架にかかって死なれたイエス・キリストである。「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」(ローマ5:9)神の怒りの御手がどんな伸ばされていても、イエス・キリストにある者はその怒りから救われるのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたが頼っているものは何ですか?神ですか?それとも神以外のものですか?

・あなたは神のことばを自分に都合がいいように、気ままな願いをもってみことばを聞いていることはありませんか。どのような心で神のことばを求めていますか?

・あなたは霊的に満たされていますか?霊的に飢えて主にある兄弟姉妹をさばいたり、批判したりしていませんか?

・あなたは、イエス・キリストを信じていますか?神の怒りがどんなに伸ばされていても、この怒りから救われる道にいますか?

イザヤ9:1-7 レジュメ

「ひとりのみどりご」                               N013

はじめに

ここには有名なメシヤ預言が記されてある。7章では、やがて来られるメシヤがどのようにして生まれてくるかが語られていたが、ここではそのメシヤがどのような方であるかが紹介されている。

Ⅰ.やみの中の光(1-5) 

このところは「しかし」ということばで始まっている。それは8章で語られていたこととは対照的にということを表してする。8章では、神のおしえとあかしに尋ねないと夜明けがないということが語られてきた。そこにあるのは苦難とやみである。神のみことばではなく死人に伺いを立てるようなことをすると、やみに覆われる。「しかし」である。「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンとナフタリの地ははずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨネダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。」(1)北イスラエルはアッシリヤによって滅ぼされ、民としてのアイデンテティーを完全に失ってしまった。「ゼブルンとナフタリの地」は、最初にアッシリヤの手に落ちた所である。この地域には異邦人が多く住んでいたので「異邦人のガリラヤ」と呼ばれていた。そこが光栄を受けたのである。マタイ4:12~17を見ると、この言葉のとおり、イエスがこのガリラヤで宣教を開始されたことが記されてある。ガリラヤの人たちにとってそれはどれほど大きな慰めであったことか・・。

Ⅱ.ひとりのみどりご(6)

では、その光はどのようにしてもたらされるのだろうか。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。」このみどりごこそ、メシヤなるキリストだ。このみどりごがどのような方であるかを、ここでは四つの名前を使って表している。まずは「不思議な助言者」である。私たちのことをすべて知っておられ、完全で、正しい道に導くことができる方という意味である。もし私たちに何らかの悩みがあり、誰かに相談したいと思うとき、いったいどのような人に相談するだろうか?私たちのことをよく知り、理解して、正しい道に導いてくれる人ではないか。このみどりごは、そのように導いてくださる不思議な助言者なのである。第二に、この方は「力ある神」である。力あるとは、大能であるという意味。この方は天地万物を創造され、これを支配しておられる全能の神なのである。第三に、「永遠の父」である。イエスは言われた。「わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)この方は永遠に私たちを守ってくださる方である。そして第四に、この方は「平和の君」である。この地上には平和がない。戦争は限りなく繰り返されている。少しも心休まる時がない。しかし、この方はやがてこの地上に完全な平和をもたらしてくださる。幼い子が毒蛇と戯れ、ライオンが家畜と共に草を食べるような平和をもたらしてくださるのである。

Ⅲ.万軍の主の熱心がこれを成し遂げる(7) 

いったいどうやってこのようなことが実現するのだろうか?「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」私たちの力ですることではない。それはただ万軍の主の熱心によって成し遂げられるのである。私たちに必要なのは、この神の御業を受け入れることである。そうすれば、私たちの心に神の平和が、希望の光が、もたらされる。苦しみがあったところに、やみがなくなる。ただ神の御前に頭を垂れて悔い改め、私たちのために神が与えてくださったひとりのみどりごを心に信じて受け入れるとき、、私たちの心にキリストの光が輝き出すのである。

 

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたの心にはどんな「やみ」がありますか?神がご自分の時にあなたの苦しみのくびきを断ち切ってくださることを信じますか?

・ひとりのみどりごが、力ある神であると信じていますか?あなたの生活の中で、全能なる主の御手が必要な領域はどこですか?

・あなたのために万軍の主が成し遂げてくださるという信仰がありますか?救い主イエス・キリストはあなたを救うために送られた方であることを受け入れ、この方が成し遂げてくださることを信じましょう。

イザヤ8:1-22 レジュメ

「主を待ち望め」                                 N012

はじめに

アラムとエフライムが攻めてくるという報告を聞いたアハズ王の心は、林の木々が揺れるように動揺した。それで主はイザヤを通して「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはならない。」と言われたが、彼はそりことばを信じることができなかった。そしてアッシリヤに助けを求めた。しかし、今度はそのアッシリヤによって苦しめられることになる。本当の解決は、主を待ち望むことである。

Ⅰ.神がともにおられる(1-10) 

主はイザヤにもう一人の男の子を与えた。「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」だ。意味は、「略奪者はすみやかに来る」である。これはユダに対するしるしであった。その通りに、アッシリヤが速やかにやって来てアラムとエフライムを滅ぼし、彼らの財宝を略奪していった。しかし、事はそれだけでは終わらなかった。今度はユダにまで襲いかかって来たのだ。それは彼らがゆるやかに流れるシロアハの水をないがしろにしたからである。それゆえ、主は水かさの多いユーフラテス川の水、アッシリヤの王と、そのすべての栄光を、彼らの上にあふれされた。シロアハの水とは、エルサレムの町の外にあったギホンの泉からエルサレムに流れていた川のことである。全長は533メートルあったが、高低差はわずか2メートルしかなかったので、とてもゆるやかに流れていた。あまりにもゆるやかだったので、人の目には目立たなかった。しかし、それがどんなに目立たない水であっても彼らにとってはなくてはならないいのちの水である。それをないがしろにしたので、今度は逆に水かさの多いユーフラテス川の水(アッシリヤ)を、彼らの上にあふれされるのだ。私たちが目を留めなければならないのは人間の目で目立つ派手な行動や活動ではなく、このシロアハの水だったのである。

しかし、そのようなユダに対して、主は慰めの言葉を語る。「インマヌエル。その広げた翼はあなたの国いっぱいに広がる。」(8)アッシリヤがどんなに押し寄せて来ても、インマヌエルの神がともにおられ、その翼を広げて守ってくださるというのだ。実際にこれがヒゼキヤの時代に起こる。アッシリヤの王セナケリブがユダのすべての城壁のある町々を攻め取り、陥落する寸前にまで追い込んだ。しかし、主の奇跡的な介入によって一晩に十八万五千人のアッシリヤ軍が滅ぼされ、ユダは守られた。神がともにおられたからである。インマヌエルの神が、その翼を広げて守ってくださったのだ。

Ⅱ.神が聖所となられる(11-15)

アハズと祭司ウリヤに主の言葉をストレートに語ることを恐れていたイザヤに、主はこのように仰せられた。「万軍の主、この方を、聖なる方とし、この方を、あなたがたの恐れ、この方を、あなたがたのおののきとせよ。そうすれば、この方が聖所となられる。」(13,14)それは、ユダとイスラエルの二つの家には妨げの石とつまずきの岩になる。多くの者がそれにつまずき、倒れて砕かれる。しかし、主に信頼する者は守られる。主が聖所となって、守ってくださるからだ。

ゆえに「このあかしをたばねよ。このおしえをわたしの弟子たちの心のうちに封ぜよ。」(16)これは御言葉を心にたくわえよということである。なぜ霊媒や、さえずり、ささやき、口寄せに尋ねなければならないのか?自分の神に尋ねなければならない。教えとあかしに尋ねなければならないのだ。もし、このことばに従って語らなければ、その人には夜明けがない。苦難とやみ、苦悩と暗やみ、暗黒と追放が覆うようになる。神のみことばがないと、私たちの人生は暗くなってしまう。

Ⅲ.主を待ち望め(17-18) 

ここに、イザヤの力強い信仰の宣言が見られる。「私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に、望みをかける。」(17)イザヤが置かれていた状況は、主が御顔を隠しておられるかのようであった。主がおられるなら、アラムとエフライム、あるいはアッシリヤに攻められるといった状況を許されるであろか?しかし、そうした中で彼は、主を待つ、と言った。この方に望みをかけると言ったのだ。これが信仰である。信仰とは望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものである。そうでない時に主を待ち望むことは簡単なことではない。しかし、隠れた所で見ておられる私たちの父なる神が、その信仰を見ておられ、報いてくださるのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたが目を留めているのは何ですか?この世の派手な活動ですか?それともゆるやかに流れているシロアハの水ですか?

・あなたは何に尋ねていますか?何に望みをかけていますか?あなたにとって神を待ち望むとは、どういうことですか?

イザヤ7:10-25 レジュメ

「共におられる神」                                N011

はじめに

14節に「その名をインマヌエルと名付ける」とある。これは「神はわれらとともにおられる」という意味である。私たちの信じる神は、神社や仏閣に行かなければおられない神ではなく、いつも私たちと共におられる神である。

Ⅰ.しるしを求めよ(10-12) 

エフライムにアラムがとどまったという知らせを聞いたアハズの心は、林の木々が揺れるように動揺した。そんなアハズに対して主はイザヤを通して「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。」と告げたが、彼は静かにしていることができなかった。アッシリヤに助けを求めてその難局を打破しようとしたのである。そんなアハズに主は仰せられた。「しるしを求めよ。」と。しるしとは証拠としてのしるしである。主に信頼するなら守られるというしるしだ。それに対して彼は、「私は求めません。主を試みません。」と答えた。これは一見信仰的なようだが、実際は全く逆であった。主が求めよと言われるなら求めることこそ信仰的なのに、彼はそれに従わなかった。神よりもアッシリヤに信頼していたからだ。主が私たちに求めておられることは、私が主に求め、それを受けることによって、喜びに満ち溢れることである。

Ⅱ.神からのしるし(13-17)

アハズがしるしを求めないので、主みずから、彼に一つのしるしを与えられた。それは、処女がみごもって男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名づけられるということである。どういうことか?マタイはこの箇所を引用して、イエスが処女から生まれたという事実を書き記すことで、イエスがメシヤであるとした。(マタイ1:22,23)しかし、預言は普通その置かれた状況に対して語られているのと同時に、遠い未来のことを語っている。この場合、敵であるエフライムとアラムの連合軍を神が打ち破ってくださるしるしであるはずだ。それなのにキリストの誕生について預言されているとしたら、あまりにも飛躍しすぎている。いったいこの処女とはだれのことなのか?また、処女から生まれてくる男の子とはだれのことなのか?これは8章3節に出てくる女預言者のことであり、その女預言者から生まれてくる子「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」(「略奪者はすみやかにやって来るという意味」である。そう、これはアッシリヤのことであった。その預言のとおり、その数年後にアッシリヤがアラムとエフライムを攻撃して打ち破った。

しかし、このことがキリストの誕生といったいどういう関係があるのか?本当の救いはイエス・キリストだということである。確かにアハズはアッシリヤによってアラムとエフライムに勝利できたかもしれない。しかし、そのつけはその後でやってくることになる。何と今度はそのアッシリヤによって攻められることになるのだ。ゆえにアッシリヤは本当の救いではない。ただ一時的な危機を逃れるだけのものでしかなかった。本当の救いは処女から生まれるメシヤだけである。

Ⅲ.インマヌエル(18-25) 

なぜこのメシヤこそ本当の救いなのだろうか?なぜなら、キリストはアラムやエフライムではない、あるいはアッシリヤでもない私たちを永遠の滅びに追いやろうとするサタンの力、すべての悪の根源である罪から救ってくださるからである。キリストはそのために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられた。十字架と復活によって救いのわざを完成してくださった。だからここに本当の救いがある。十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられた方は、今も生きて私たちのためにとりなしてくださる。この方にあって、私たちはすべての不安と恐れ、問題と苦しみから解放され、真の平安を得ることができるのである。このインマヌエルの主は、私たちを罪から救う時だけでなく、私たちが祈る時も、また、私たちが福音を宣べ伝えるために出て行く時も、いつも、私たちとともにいてくださる。この方に信頼することこそ、私たちは救われ、勝利ある人生を歩むことができるのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたは、しるしを求めていますか?何にそのしるしを求めていますか?

・神ではないものに信頼して失敗した経験がありますか?あるいは信頼して守られたという経験がありますか?考えてみましょう。

・あなたは、どのようなことにおいて主がともにおられること求めていますか?罪のゆるしにおいて、それとも祈りにおいて、あるいは伝道において、あるいは、その他のことにおいてですか?どんなことにおいても主がともにおられることを信じて祈りましょう。

イザヤ7:1-9 レジュメ

「神の前に静まる」                               N010

はじめに

ウジヤ王が死んだ年に預言者としての召命を受けたイザヤは、本格的な預言活動を開始する。その最初は、ユダの王アハズに対するものであった。

Ⅰ.アハズ王の動揺(1-2)

ユダの王アハズの時代に、「エフライムにアラムがとどまった」という知らせが告げられた。するとアハズの心も、民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。ユダは日本の四国くらいしかない小さな国だ。アラムとエフライム(北イスラエル)が連合して攻めて来られたらひとたまりもない。そこでアハズはどうしたかというと、北の超大国アッシリヤに助けを求めた。人間の考えることはいつもこうである。何か問題が起こると、その場しのぎの解決や対策を講じるのである。しかし、それはコンビニでインスタント食品を買うようなもので、ほんとうの解決をもたらすものではない。むしろ、そのことが後にユダをもっと苦しめることになる。「昨日の友が今日の敵」というようなことになるのだ。そのつけはそれから約30年後に、大きく膨らんで返ってくることになる。

Ⅱ.静かにしていなさい(3-4a)

そのとき、イザヤに主のことばがあった。「あなたとあなたの子シェアル・ヤシュブとは出かけて行って、布さらしの大路のそばにある上の池の水道の端でアハズに会い、そこで彼に言え。」と。「シェアル・ヤシュブ」とは「残りの者は帰る」という意味。それはユダに対するしるしであった。そのシェアル・ヤシュブを連れてアハズに会うように言われたのだ。その内容は、「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。」ということだった。この中心は、「静かにしていなさい」ということである。心が激しく動揺する時どのような態度を取ることが信仰的な態度なのかというと、「静かにしていること」である。しかし、そのような時に「静かにしている」ということはなかなかできない。騒ぎに巻き込まれ、あの手、この手と動いてしまうのだ。「静まる」とは、「身を沈める」という意味である。水とか、何かの中に身を沈めることである。その何かというのが神である。困難な状況に置かれたり、そうしたことに巻き込まれてしまうことがある。しかし、そうした中に身を置くのではなく、神の中に身を置かなければならない。それが「静まる」ということだ。

Ⅲ.神はわれらの力(4b-9) 

なぜ神の前に静ならなければならないのか?第一に、神は全能者であるからだ。人の目にどれだけ大きな問題でも、神の目には小さなものでしかない。アハズが恐れていたアラムとエフライムも、神の目には煙る燃えさしでしかなかった。私たちが問題に直面する時のほんとうの問題は、その問題を見てしまうことである。そこに身を置いてしまうのだ。そして、その問題に圧倒されて絶望してしまう。しかし、問題にではなく神に身を置くと、その問題が小さく見えてくる。大切なのは、この方の目を通して問題に立ち向かっていくことだ。

第二の理由は、この全能なる神は今に至るまで働いておられるからである。心を弱らせていたアハズに対して、主は、アラムとエフライムの策略は起こらないし、ありえない、と言われた。私たちは何かの問題が起こると、それを悪い方に考えてしまう習性がある。しかし、そのようなことは起こらないし、ありえない。むしろ、六十五年のうちに、エフライムは粉砕される。実際に、この時から六十五年後の前699年に、エフライム(北イスラエル)はアッシリヤの王オスナパルによって粉砕され、多くの外国人が移住してきたことで「民でなくなった」。サマリヤ人となったのである。この預言が成就したのだ。神が語られたことは必ず実現する。神は、私たちの理解を越えたところで働いておられるのだ。ゆえに、私たちはこの全能の神を信じ、この神の前に静まらなければならない。

アハズの子ヒゼキヤは、アハズとは違い神に信頼した。前701年にアッシリヤの王セナケリブがエルサレムを包囲した時、彼は主の前に静まって祈った。すると主はヒゼキヤの祈りに答え、その晩、主の使いによってアッシリヤ軍十八万八千人を打ち殺した。セナケリブは慌てて国に帰ると、そこで息子に刺し殺されてしまった。これが神のなさることである。神に信頼し、神の前に静まるとき、神はその信仰に応えてくださる。「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」(詩篇46:1)

神の前に静まろう。私たちの人生にも林の木々が揺れるように動揺することが起こるが、そのようなときに私たちに求められていることは、この主の前に静まることなのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!)

・あなたは今、何を恐れていますか?それをどのように解決しようとしていますか?

・あなたは神が全能者であり、あなたのために働いておられることを信じていますか?あなたにとって主の前に静まるとは、どういうことですか?

イザヤ6:1-13  レジュメ

「イザヤの召命」                                 N09

はじめに

ここに、イザヤが預言者として召されたことが書かれてある。彼は既に1章から5章にかけて預言してきたが、ここから彼の本格的な働きが始まる。

Ⅰ.私は、もうだめだ(1-5) 

イザヤが預言者として召されたのはウジヤ王が死んだ年(B.C.740年頃)であった。ウジヤ王は軍事的に優れた手腕を発揮し、ユダで52年間という長きにわたって治めた。Ⅱ歴代誌26章15節を見ると、「その名は遠くにまで鳴り響いた」とある。そのウジヤ王が死んだ年にイザヤは預言者として召されたのである。その時彼は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。あれほど優れていたウジヤ王が死んだのとは裏腹に、高くあげられた主の王座を見たのである。それはセラフィムが「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」と叫ぶほどであった。

その時イザヤは、「ああ、私は、もうだめだ。私のくちびるは汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。」と叫ばずにはいられなかった。あまりの聖さに、立っていることができなかったのである。これまで彼はイスラエルの民に向かって「ああ、汚れた者たち」と語ってきたがこの聖なる主を見たとき、汚れているのは彼らだけでなく自分自身もそうであることに気づかされたのだ。神のことばを語るには全く汚れた者であり、資格などないことを告白したのである。しかし、この経験こそ、彼が預言者として召されていくために必要なことであった。人と比較しているうちはなかなか自分の汚れには気づかない。このように絶対的に聖い神の前に立たせられて初めて自分がどれだけ汚れているに気づかされる。そしてその聖さに触れることによって砕かれ、真の預言者として用いられていくのである。

Ⅱ.私を遣わしてください(6-8)

イザヤが主の聖さに触れ打ちのめされていた時、祭壇の上から燃えさかる炭を持ってきたセラフィムが、それをイザヤの口に触れてこう言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」どういうことだろうか?神の一方的な恵みによって彼の不義が聖められたということである。それは彼の業によったのではない。外からやって来たのだ。救いは神の一方的な恵みによって与えられる。その恵みによって彼は聖められたのである。

そのとき彼は、「だれを遣わそう。だれがわれわれのために行くのたろう」と言っていられる主の声を聞いたので、「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と言った。だれが主のために遣わされて行くのか?それは決して完全な人ではない。神の一方的な恵みに触れた人である。なぜなら、これは恵みの業であるからだ。イザヤは決して聖く、正しい人ではなく、また、そうした能力を備えてはいなかった。ただ神の恵みによってその罪が贖わたので、「ここに、私がおります。私を遣わしてください」と答えることができたのである。クリスチャンの奉仕はどれだけしたか、できるかではない。神がキリストにおいて何をしてくださったのかである。その恵みの大きさの何ものでもない。その恵みを受けたからこそ、主の働きに立ち上がることができるのである。

Ⅲ.神に導かれて(9-13) 

イザヤが「ここに私がおります。私を遣わしてください」と応えると、主は「行って、この民に言え。」と言われた。その内容は、聞いた人たちがもっとかたくなになっていやされることがないようということであった。聞いて信じるためならわかるが、聞いて信じないために行けというのでは意味がない。けれども主はそのように命じられた。それは、神の忍耐である。神はそのような人でも悔い改めることができるように、最後の最後まで忍耐をもって語られる。

では預言をすることにどんな意味があるのか?預言をしても無駄ではないか?そうではない。イザヤはここで「いつまでですか?」と尋ねている。それはいつまでも続くことではない。神のさばきが行われるまでのことである。これは具体的にはバビロン捕囚のことを指しているがそれだけではなく、世の終わりのことも指している。そこにはなお、十分の一の人たちが残される。その人たちは「聖なるすえ」である。それまでである。残りの者がいる。世の終わりまで、主が来られる日まで信仰を堅く守り、神様の前に従う民が必ずいるのだ。その時までである。私たちの希望はここにある。たとえ目の前が真っ暗でも神様はそこにも残りの民を備えてくださり、その人たちを通して驚くべきみわざが成し遂げられるのだ。私たちがその残りの者である。この終わりの時に主への信仰を堅く守り、このすばらしい神の恵みを宣べ伝える者でありたい。私たちはそのために召されたのだから。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたは聖い神の御前に立っていますか?あなたはイザヤのように「もうだめだ」と砕かれるような経験をしていますか?

・あなたは、神の一方的な恵み(救い)を経験しましたか?主が「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言われる時、どのように応答しますか?