イザヤ5:8-30 レジュメ

「主が忌みきらわれること」                            N08

はじめに

神は、甘いぶどうがなるのを期待して苦労しながらぶどうの苗を植えたが、出来たのは酸っぱいぶどうであった。きょうのところには、その酸っぱいぶどうがどのようなものであったのかが詳しく述べられている。イザヤはこれを「ああ」という言葉で表現した。これは「忌まわしいもの」とか「わざわいなるかな」という意味である。

Ⅰ.天にあるものを求めて(8-17) 

最初の「ああ」は、彼らの貪欲に対する嘆きである。神はイスラエルに土地の売買を禁じられた。それは本来神のものであって、神から与えられたものだということを覚えるためである。にもかかわらず彼らは神の掟を破り、土地と家を買い、富を蓄えた。それは彼らが神ではなくこの地上のものを求めていたからである。「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」(コロサイ3:5)そうした彼らの貪欲を神は忌みきらわれ、どんなに広い土地を耕しても少ししか収穫できないようにした。人間がどれだけ頑張っても、神が許されなければ何も手にすることはできないのである。

もう一つの「ああ」は、享楽に対する神の嘆きである。彼らは朝から酒を飲み、享楽にふけっていた。彼らは神が注がれた恵みを覚えるような生活ではなく、刺激的で、感覚的なものを求めていた。それゆえ神は彼らを捕らえ移された。その「無知」と「渇き」で干からびるようにさせたのである。彼らのように感覚的なものだけを求めると霊的に干からびることになる。時間がかかってもみことばを学び、それに従う習慣を身に着けることで、霊的に養われることを求めていかなければならない。

Ⅱ.主のみことばを大切に(18-24)

三つ目の「ああ」は、神への侮辱である。彼らは神に向かって公然と「神がいるならさばいてみろ」と言った。これは神への冒涜であり、挑戦である。終わりの日には、このようにあざける者が増えてくる。(Ⅱペテロ3:3-4)四つ目の「ああ」は、価値観の逆転である。聖書の価値観を悪とし、人間の価値観を善としている。アメリカでは大統領選の予備選が行われているが、そこで同性愛や妊娠中絶の問題が出てくる。こうしたことは悪から出ていることなのに、それを善とし、聖書の価値観を歪めるような動きが絶えない。しかも、そのような悪を正当化するために、それを理論武装する人たちがいる。医学的、科学的にどうのこうのと論じてそれを正当化するのだ。自分を知恵ある者と思い込んでいる。そのような人は救いようがない。そのような人よりも、愚かの人のほうが、まだ望みがある。(箴言26:12)これが五番目のことである。最後の「ああ」は、酒飲みをあおる人たちである。また、お酒で正しい判断を失った裁判官たちである。彼らはわいろで正義を曲げていた。何と忌まわしいこと。

いったい何が問題だったのだろうか?それは、彼らが万軍の主のみおしえをないがしろにし、イスラエルの聖なる方のみことばを侮ったことだ。自分の知恵を誇ったり、自分の考えを正当化したりするのではなく、主のみおしえを聞くこと、そこから義の道が始まるのである。

Ⅲ.神にちび導かれて(25-30) 

このような忌まわしい者たちには、神のさばきが臨む。山々は震え、彼らのしかばねは、あくたのようになる。そして、主が遠い国に合図を送ると、その国がすみやかにやって来て、獅子のようにイスラエルに襲いかかる。そう、バビロンだ。バビロンがやって来て彼らに襲いかかるので、彼らは悲惨な状態になる。それは彼らがこの地上の瞬間的なものを求めたからであり、へりくだって主のみおしえに聞こうとしなかったからだ。

ところで、イザヤは神のさばきで終わっている。これまでイザヤ書を学んでくる中で彼は、このような神のさばきの後で必ず回復の希望が語っていたのに、ここでは語られていない。いったいなぜか?イザヤが言いたかったことは、この神のさばきだったから。けれども本当の預言とは自分が語りたいことを語るのではなく、神が語ろうとしていることを語ることであであるる。彼は6章に入ってそのことに気づかされる。ほんとうにわざわいなのはユダの人たちではなくむしろ自分自身であることに気がつくのである。それが彼の転換点であった。それによって彼はもっとスケール大きな預言者として召されていくことになる。私たちの信仰生活も同じだ。私たちが何をしたいかではなく、主が願っておられることを行うこと、それが信仰の歩みである。主の御手に引っ張られるように導かれて進む者でありたい。そのためにも、私たちはいつも素直な心でみことばを聞き、それに応答していきながら、主のしもべとしてふさわしく整えられていきたいものである。

 

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたは天にあるものを求めていますか?あなたが今関心を持っていることは何ですか?あなたが天にあるものを求めていくために妨げているものは何ですか?

・あなたの信仰は、刺激的で感覚的なものですか?それとも主のみおしえに聞き従うものですか?

・主が忌みきらわれる六つのもの中で、あなたの中に見られるものがありますか?あるとしたらそれは何ですか?

イザヤ5:1-7 レジュメ

「ぶどう畑の歌」                            N07

はじめに

ここでイザヤは、イスラエルの霊的な状況をぶどう畑のたとえを用いて語る。「さあ、わが愛する者のために私は歌おう。そのぶどう畑についての愛の歌を。」と。

Ⅰ.神のご期待(1-2a) 

ぶどう畑の主人は、そこを一生懸命に耕して、良いぶどうの苗を植えた。しかもそこにやぐらを立て、酒ぶねまで掘って・・。そこには並々ならぬ労苦が伴ったはずだ。いったいなぜそこまで手をかけてくださったのだろうか?収穫を期待していたからである。甘くて美味しいぶどうがなるのをずっと楽しみにしていたのだ。

エペソ1:3~6を見ると、神はキリストにあって、天にある霊的祝福をもって私たちを祝福してくださった、とある。何と世界の基の置かれる前から救われるようにと選んでおられた。なぜ?神の恵みの栄光がほめたたられるためである。神は私たちにも期待しておられる。自分自身を見たら本当にちっぽけな者にすぎないが、そんな神の期待に応えていく者でありたい。

Ⅱ.神の失望(2b-4)

ところで、そんな神の期待とは裏腹に、酸っぱいぶどうが出来てしまった。このぶどう畑の主人は、どれほど残念だったことか・・。いったいなぜ酸っぱいぶどうが出来てしまったのだろうか?7節には、「まことに、万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植え付けたもの。主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血。正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び。」とある。この「公正と流血」、「正義と叫び」という言葉は相反する反対語ではない。ヘブル語では非常に音が似ている言葉である。つまり、見かけは神様の期待にそっくりでも、中味は全く違うものであったのだ。実際はそうでないのに、あたかもそうであるかのように見せかけていたことが問題だったのである。ぶどう畑の主人が期待していたのは見せかけだけの甘いぶどうではなく、実際に甘いぶどうであった。それがぶどう畑に期待されていたことであり、存在している意義があったのである。

.まことのぶどうの木(5-6 

ではどうしたらよいのか?どうしたら甘いぶどうの実を結ぶことが出来るのか?マタイの福音書21章のところで、主イエスはこのたとえをユダヤ人の指導者たちに語られた。彼らは主人が遣わした息子を殺して、財産を自分のものにしてしまった・・・と。そうすると、そのぶどう園の主人はいったいどうするか?「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を治める農夫たちに貸すに違いありません。・・だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。」(21:41-43)彼らは神の御子キリストを受け入れなかったので、神の国は彼らから取り去られたのである。神の期待にそえるような甘いぶどうの実を結ぶためには、神の御子イエス・キリストを信じ、そのいのちの交わりの中で生きる者でなければならない。主イエスは、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」と言われた。(ヨハネ15:5)主イエスとの生きた交わりこそ、私たちが多くの実を結ぶために必要なことなのである。

 

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・神があなたに期待しておられることはどんなことですか?神の期待に応えるために必要なことは何ですか?

・あなたは、どのような実を結んでいますか?甘い実ですか?それとも酸っぱい実ですか?甘い実を結ぶために、あなたにとって必要なことは何だと思いますか?

イザヤ3:16-4:6 レジュメ

「聖めてくださる神」                     N06

はじめに

イスラエルが鼻で息をする人間にたよった結果、主は彼らがたよりとしていたものを取り除かれた。その結果、エルサレムは混乱し、荒廃するようになった。しかし、それで終わりではない。神はそのようなイスラエルから汚れを取り除き、彼らを聖めてくださる。

Ⅰ.内面を美しく(3:16-3:23) 

シオンの娘たちは高ぶり、首を伸ばし、色目を使って歩き、足に鈴を鳴らしながら歩いていたので、主はシオンの娘たちの頭をかさぶただらけにし、その額をむきだしにされる、と言われた。いったい何が問題だったのか?高ぶっていたことである。彼らの関心は自分たちのことだけであって、神に向いてはいなかった。それがそうした装飾品や虚栄心に現れていたのである。「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのない、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」(Iペテロ3:3-4)心の中のオシャレこそ、私たちが求めていかなければならないものなのである。

Ⅱ.高ぶりは砕かれる(3:24-4:1)

シオンの娘たちは、見た目の美しさや華やかさに心が奪われ神に信頼することをしなかったので、神はシオンの娘たちの虚偽をあばかれる。そして「その門はみな、悲しみ嘆き、シオンはさびれ果てて地に座す」ようになる。シオンに、荒廃と嘆きがもたらされるのである。

.聖と呼ばれるようになる(4:2-6 

しかし、それだけでは終わらない。神はそのようにエルサレムから汚れを取り除き、聖めてくださる。その日、主の若枝は、麗しく、栄光に輝き、イスラエルののがれた者の威光と飾りになるのである。そして、シオンに残れた者は、聖と呼ばれるようになる。これは義と認められるということであり、神の御国を受け継ぐ者とされるという約束だ。主イエスは、「ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:20)と言われた。それは私たちにとって最も重要なことであり、喜ばしいことである。やがて来られる主の若枝なるキリストは、そのようにしてエルサレムを回復してくださるのだ。それだけではない。そのように残された者のために主は、おおいとなり、仮庵となってくださる。昼は暑さを避ける陰となり、あらしと雨を防ぐ避け所と隠れ家となってくださるのだ。どのような嵐があっても、主は避け所となって完全に守ってくださる。「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。・・主はご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。・・それはあなたが避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。」(詩篇90:1,4,5,9)

これが主の約束である。私たちの人生にも思いがけない困難に直面することがあるが、主が避け所、隠れ家になってくださるという約束を信じて、主の道を歩み続けていく者でありたい。

 

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたが飾りとしているものは何ですか?髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものですか?それとも柔和で穏やかな霊という心の中の隠れた人柄ですか?

・あなたは、主があなたの避け所と隠れ家であると信じていますか?あなたが今直面している試練や苦しみは何ですか?主の約束を信じるとはあなたにとってどのようなことですか?

イザヤ3:1-15 レジュメ 

「取り除かれる神」                      N05

はじめに

前章でイザヤは、「鼻で息をする人間をたよりにするな」と警告した。そのような人間に依存することには何の値うちもないことを示すために神は、彼らからささえとたよりを取り除かれる。

Ⅰ.取り除かれる神(1-3) 

神が取り除かれるものは何だろうか。まず神は彼らから、すべての頼みのパンと頼みの水を除かれる。これは私たちの生活に欠かせないものである。このような生活に必要な物を除かれる。しかし、それだけではない。さらに勇士と戦士、さばきつかさと預言者、占い師と長老、五十人隊の長と高官、技官と賢い細工人、巧みにまじないをかける者を除かれる。これは軍事的指導者、政治的指導者、宗教的指導者、そして技術者たちのことである。このような人たちは、人々が安心して生活していくために必要な人たちであるが、このような人たちも除かれるのである。それは彼らが神に頼らないで、人間に頼ろうとしたからだ。ゆえに神は彼らから、すべてのささえとたよりを取り除かれるのである。

Ⅱ.信頼の対象を間違えた結果(4-7)

その結果どのようなことになるか?彼らからこのようなささえやたよりが除かれた結果、ユダに悲劇的なことが起こる。彼らを治める指導者が変えられ、経験のない未熟な指導者が立てられる。気まぐれで自分のことしか関心がない無情な者たちの統治によって、国は混乱に陥るのである。そして、何が起こってもだれも責任を取ろうともしない。神よりも人や世の中に頼った結果、国全体が悲惨で混沌とする。

.義人は幸いである(8-15 

ではどうしたらいいのか?このような状況に陥ったのは、彼らが主にそむいたからである。彼らの舌と行いとが主にそむき、主のご威光に逆らったからである。ゆえに解決は主に立ち返ること以外にはない。ここにその約束が示されている。「義人は幸いだと言え。彼らは、その行いの実を食べる。」(10)それでもなお、主なる神に従う人は幸いである。なぜなら、彼らは神のあわれみを受けるからだ。神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになられる。忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下される。ゆえに神に背いていた罪を認めて悔い改め、イエス・キリストを救い主として、また主として信じて受け入れ、神のみこころに従って歩もうとする人には、神の恵みが、永遠のいのちが与えられるのである。

私たちの本当の問題は、問題が起こるときそれを自分自身で対処してしまうことである。自分の力で解決しようとするのだ。しかし神は、私たちが自分の力で問題を解決しようとするのではなく、神に信頼することを願っておられる。状況がどんなに悪くても、神はその状況を一変させることができる。イエス・キリストを死者の中からよみがえらせた力によって、問題の中に沈んでいる私たちを引き上げ、助けてくださるのである。

 

 

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたが頼りとしているものは何ですか?それはあなたの心を神よりもとらえていませんか?

・あなたは、自分に問題があるときそれにどのように対処していますか?自分の力で解決しようとはしていませんか?神に信頼することを妨げているものは何ですか?

イザヤ2:1-22 レジュメ  

「鼻で息をする人間をたよりにするな」             N04

はじめに

イザヤ書には、イスラエルの神への反逆とそれに対する神のさばき、そして回復の約束というパターンが何度も繰り返して出てくる。きょうの箇所は回復の希望から語られている。

Ⅰ.主の光を歩もう(1-5) 

「終わりの日」とは、キリストが再臨した後にもたらされる千年王国のこと。その時、主の家の山は、山々の頂きに堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。なぜ?そこにキリストが立たれるからである。キリストが再臨してシオンに立たれ、そこでご自分の道を、主のみことばを教えてくださる。ゆえに、多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。」と。私たちも主の山に上らなければならない。主の光に歩まなければならない。私たちにとっての最優先事項は、主のみおしえを聞いて、その小道を歩むことなのである。

Ⅱ.主だけが高められる(6-21)

この主の招きに対してイスラエルはどのように応答したか?彼らはペリシテのように占いに走り、金銀を求め、馬や戦車にたよった。それゆえに神は、彼らをさばかれる。主は彼らに激しいさばきを行われるので、彼らは岩間に隠れ、ちりの中に身を隠すようになる。こうして高慢な者が低くされ、主おひとりだけが高められるのである。なぜこの世において神の栄光が見えづらくなっているのか?神にではなく占いに、富に、人間に、偶像にたよっているからである。こうしたことはみな人間の高慢から出ていることである。このような高慢を神は砕かれる。そういう時がやって来るのである。

.鼻で息をする人間をたよりにするな(22 

ではどうしたらいいのか?イザヤの結論はこうである。「鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか。」人間は本当にはかない。少しでも息を止めればすぐに死んでしまう。そのような人間をたよりにしてはならない。これは戦いである。私たちは人のことばを聞いて安心するところがあるからだ。特に日本人はそのような傾向が強い。神様のことばよりも人のことばを信頼してしまう。人に期待してしまうのである。そして他の人からどう思われるかがすごく気になり、悪く言われると極端に落ち込んでしまうのである。しかし、大切なのは人が何を言っているかではなく、神のみことばは何と言っているかだ。私たちは人にたよることを止めて、神様だけをたよりにしなければならない。

かつて神様はモーセに、「わたしは、『わたしはある』という者である。」(出エジプト3:14)と言われた。主は自存の神である。永遠から永遠まで他の何にも依存することなく存在し、万物を統べ治めておられる方である。この方だけが真にたよることができる方なのである。

 

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたは主のみおしえを求めて主の山に上っていますか?主のみことばを聞くことよりも、この世のことを優先して走り回ってはいませんか?

・「高慢な者は低くされ」とあります。あなたにとっての高慢はどのような点ですか?謙遜な心で兄弟姉妹を自分よりもすぐれた者とみなしていますか?

・あなたは神だけにたよっていますか?それとも、鼻で息をする人間にたよってはいませんか?神だけにたよるためにあなたが克服しなければならないことは何ですか?

イザヤ1:21-31 レジュメ

「初めのようにされる神」                   N03

はじめに

イスラエルは、神に背を向けて離れ去ってしまった。その結果、彼らは、頭から足の先まですっかり弱り果てた。そんなイスラエルに神は、和解の道を示される。それは、彼らが悔い改めて、神に立ち返るなら、彼らの罪は赦され、雪のように白くなるという約束である。きょうの箇所には、神の回復のシナリオ(計画)が描かれている。

Ⅰ.遊女になった忠信の都(21-23) 

ここで神はイスラエル(エルサレム)を「忠信の都」と呼んでいる。「忠信」とは、まごころを尽くし、うそ偽りがないこと。イスラエルはもともと神にとって忠信の都であったのに、遊女となってしまった。神から与えられた契約に背き、不純になり、偶像に心を移すようになったのである。ちょうど銀がかなかすに、良い酒を水で割ったように・・。その結果彼らは、盗人の仲間となり、わいろを愛し、報酬を追い求めるようになってしまった。イエス様は、塩が塩気を無くしたら、何の役にも立たない、と言われた。(マタイ5:13)クリスチャンが召されるとは、キリストの花嫁として誠実であること。そうでないと目の前に置かれてものをだけを追い求めるようになってしまう。そしてそこから堕落と破滅と混乱が生じるようになる。だれも二人の主人に仕えることはできない。神にも仕え、富にも仕えることはできないのである。 

Ⅱ.忠信の都の回復(24-27)

そのような反逆を、神は必ず罰せられる。がしかし、そのように罰せられるのは彼らを滅ぼすためではない。彼らから不純物(かなかす、浮きかす)を取り除いて、彼らを回復させるためである。こうして彼らを初めのように、昔のようにする。これは終末に起こる大患難時代の預言である。この苦しみの中で彼らはかなかすが灰汁のように溶かされ、浮きかすが取り除かれる。つまり、不信仰が取り除かれ、主イエス・キリストを信じるようになるのである。同じように、私たちの人生にも試練が襲ってくることがあるが、それは私たちを滅ぼすためではなく、私たちを練りきよめるためである。神は私たちを愛し、私たちを救いたいので、このような試練を与えて警告しておられるのである。ゆえに、いまは、しばらく間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならないこともあるが、これがやがてイエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉に至るためのものであることを信じて、耐え忍ぶ者でありたい。神様は真実な方なので、耐えることができないような試練には会わせない。むしろ耐えることができるように、試練とともに、脱出の道を備えておられるのである。 

.忠信の都となるために(28-30

ではどうしたらよいのか。だから悔い改めなければならない。悔い改めないと神のさばきが臨む。しぼんだ樫の木のように、水のない園のようになってしまう。神様は忠信の都を回復させようとしておられる。そのために私たちは悔い改めて、神に立ち返ることが求められているのである。悔い改める者は、正義によって贖われるからである。 

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたは、キリストの花嫁として誠実に信仰を守っていますか?だれも、二人の主人に仕えることはできません。(マタイ6:24)あなたのもう一人の主人は何ですか?

・あなたから取り除かれなければならない不純物は何でしょうか?そのために神はどのような試練を与えておられますか?あなたは自分の人生のすべてにおいて、神様があなたのために働いておられることを認めていますか?

イザヤ1:10-20 レジュメ 

「雪のように白く」                     N02

はじめに

イザヤは、神に反逆を重ねるイスラエル(ユダ)に対して叱責のメッセージを語ることから始めた。それはすべての問題の根源が神との関係にあるからだ。しかし、叱責のメッセージだけではない。彼は、そのような罪を赦して余りあるほどの神の恵みについても語った。

Ⅰ.聞き従うことはいけにえにまさる(10-17) 

神はイスラエルを「ソドムの首領たち」とか、「ゴモラの民」と呼んだ。それほどに彼らの信仰は退廃していたからである。彼らは多くいけにえをささげていたが、それはただ形だけのものであった。神が求めていたものは信仰である。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(Iサムエル15:22) 

Ⅱ.雪のように白く(18)

そんな形だけの信仰であったイスラエルだが、神は和解の道を提示された。それは悔い改めである。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くする。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようにする。」人の心はどれほど罪深いものか。パウロはローマ人への手紙の中で詩篇のことばを引用して次のように語った。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある者はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益なものとなった。善を行う人はいない。ひとりもいない。彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。彼らのくちびるの下には、まむし毒があり、彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」(3:10-18)

それほど罪に汚れた人間であっても、もし悔い改めるなら、神はその罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださる。(Iヨハネ1:9)これが福音である。 

.だから悔い改めて(19-20 

だから悔い改めなければならない。悔い改めて、救い主イエスを信じなければならないのである。もし悔い改めて主が喜ばれる道を歩むなら、主はその人を祝福してくださる。もし拒むなら、剣にのみこまれる。選択は二つに一つしかない。真ん中はない。すべては私たちの選択にかかっているのである。生まれながらの人間はなかなか神の前に出ようとしない。自分の力、自分の努力で間に合わせようとするのだ。しかし、人間の力では天まで届くことはない。ただ神が与えてくださった救い主イエスを信じることによってのみ、罪が赦されるのである。 

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたは、神に聞き従う信仰がありますか?あなたが陥りやすい形式的な信仰の行いは何ですか。その原因を神との関係に見出していますか?

・神の前で悔い改めるべき罪がありますか?「雪のように白くする」という神の約束を受け入れていますか?

・ 犠牲が伴っても、従順の道、祝福の道を歩もうと決意していますか?

イザヤ1:1-9 レジュメ

「まず主に立ち返ることから」                                                        No1

はじめに

イザヤとは「主は救いである」という意味。イザヤはウジヤ王の死んだ年(B.C.739)~ヒゼキヤ王の統治期間が終わった年(B.C.687)までの53年間預言活動をした。危機的な状況にあっても真の救いは主であることを語った。

Ⅰ.神に背を向けたイスラエル(2-4) 

イザヤのメッセージは神の懲らしめから。神によってご自分の民として選ばれたイスラエルは、神に逆らった。牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼い葉おけを知っているのに、イスラエルは知らなかった。悟らなかった。人生のすべての問題は、人生の究極的な目標である神から離れていることから起こる。まず神との関係の修復から始めていかなければならない。そうでないと、すべてが応急処置に終始してしまうことになる。 

Ⅱ.弱り果てたイスラエル(5-8)

神から離れてしまったイスラエルはどうなったか?頭も心臓も弱り果て、足の裏から頭のてっぺんまで病気になった。健全なところは何一つなく、すべてが傷と、打ち傷だらけになってしまった。しかもだれにも治療してもらえない。また他国の破滅にも似たように荒れ果ててしまった。あたかもぶどう畑の小屋のように、キュウリ畑の小屋のように・・。ちょっとでも雨風にさらされたらすぐに壊れてしまうビニールハウスのように、弱り果て、荒れ果ててしまった。 

.残されたイスラエル(9

そのような中にも主は、残りの者を残してくださった。彼らが完全に滅びるようにはされなかったのである。アッシリヤやバビロンといった国々はそうではなかった。彼らは神にさばかれて完全に破滅した。しかし、イスラエルはそうではなかった。残りの者を残しておられたのである。それは主のあわれみによる。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。」(哀歌3:22)大切なのは数ではなく信仰。私たちの中に神が認めてくれる信仰があるかどうか、神のみこころに従って歩んでいるかどうかである。どんなことがあっても神様の賜物と召命とは変わることはない。 

まとめ(自分に適用してみましょう!)

・あなたは今、神様とどのような関係にあるでしょうか。神様から離れてはいませんか?もし離れていたら悔い改めて、主に立ち返りましょう。

・主はラオデキヤの教会に、「あなたは、自分は富んでいる。豊かになった。乏しいものは何もないと言って、実は自分はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることを知らない。」(黙示録3:17)と言われました。あなたにとって乏しいものがあるとしたらどんなことでしょうか?

・ あなたの中に数に慰めを求めようとしていることはありませんか?大切なのは数ではなく神に認められる信仰があるかどうかです。あなたの信仰は神に認められる信仰でしょうか。どうしてそのように思いますか?