イザヤ9:1-7 レジュメ

「ひとりのみどりご」                               N013

はじめに

ここには有名なメシヤ預言が記されてある。7章では、やがて来られるメシヤがどのようにして生まれてくるかが語られていたが、ここではそのメシヤがどのような方であるかが紹介されている。

Ⅰ.やみの中の光(1-5) 

このところは「しかし」ということばで始まっている。それは8章で語られていたこととは対照的にということを表してする。8章では、神のおしえとあかしに尋ねないと夜明けがないということが語られてきた。そこにあるのは苦難とやみである。神のみことばではなく死人に伺いを立てるようなことをすると、やみに覆われる。「しかし」である。「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンとナフタリの地ははずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨネダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。」(1)北イスラエルはアッシリヤによって滅ぼされ、民としてのアイデンテティーを完全に失ってしまった。「ゼブルンとナフタリの地」は、最初にアッシリヤの手に落ちた所である。この地域には異邦人が多く住んでいたので「異邦人のガリラヤ」と呼ばれていた。そこが光栄を受けたのである。マタイ4:12~17を見ると、この言葉のとおり、イエスがこのガリラヤで宣教を開始されたことが記されてある。ガリラヤの人たちにとってそれはどれほど大きな慰めであったことか・・。

Ⅱ.ひとりのみどりご(6)

では、その光はどのようにしてもたらされるのだろうか。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。」このみどりごこそ、メシヤなるキリストだ。このみどりごがどのような方であるかを、ここでは四つの名前を使って表している。まずは「不思議な助言者」である。私たちのことをすべて知っておられ、完全で、正しい道に導くことができる方という意味である。もし私たちに何らかの悩みがあり、誰かに相談したいと思うとき、いったいどのような人に相談するだろうか?私たちのことをよく知り、理解して、正しい道に導いてくれる人ではないか。このみどりごは、そのように導いてくださる不思議な助言者なのである。第二に、この方は「力ある神」である。力あるとは、大能であるという意味。この方は天地万物を創造され、これを支配しておられる全能の神なのである。第三に、「永遠の父」である。イエスは言われた。「わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)この方は永遠に私たちを守ってくださる方である。そして第四に、この方は「平和の君」である。この地上には平和がない。戦争は限りなく繰り返されている。少しも心休まる時がない。しかし、この方はやがてこの地上に完全な平和をもたらしてくださる。幼い子が毒蛇と戯れ、ライオンが家畜と共に草を食べるような平和をもたらしてくださるのである。

Ⅲ.万軍の主の熱心がこれを成し遂げる(7) 

いったいどうやってこのようなことが実現するのだろうか?「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」私たちの力ですることではない。それはただ万軍の主の熱心によって成し遂げられるのである。私たちに必要なのは、この神の御業を受け入れることである。そうすれば、私たちの心に神の平和が、希望の光が、もたらされる。苦しみがあったところに、やみがなくなる。ただ神の御前に頭を垂れて悔い改め、私たちのために神が与えてくださったひとりのみどりごを心に信じて受け入れるとき、、私たちの心にキリストの光が輝き出すのである。

 

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたの心にはどんな「やみ」がありますか?神がご自分の時にあなたの苦しみのくびきを断ち切ってくださることを信じますか?

・ひとりのみどりごが、力ある神であると信じていますか?あなたの生活の中で、全能なる主の御手が必要な領域はどこですか?

・あなたのために万軍の主が成し遂げてくださるという信仰がありますか?救い主イエス・キリストはあなたを救うために送られた方であることを受け入れ、この方が成し遂げてくださることを信じましょう。

イザヤ8:1-22 レジュメ

「主を待ち望め」                                 N012

はじめに

アラムとエフライムが攻めてくるという報告を聞いたアハズ王の心は、林の木々が揺れるように動揺した。それで主はイザヤを通して「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはならない。」と言われたが、彼はそりことばを信じることができなかった。そしてアッシリヤに助けを求めた。しかし、今度はそのアッシリヤによって苦しめられることになる。本当の解決は、主を待ち望むことである。

Ⅰ.神がともにおられる(1-10) 

主はイザヤにもう一人の男の子を与えた。「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」だ。意味は、「略奪者はすみやかに来る」である。これはユダに対するしるしであった。その通りに、アッシリヤが速やかにやって来てアラムとエフライムを滅ぼし、彼らの財宝を略奪していった。しかし、事はそれだけでは終わらなかった。今度はユダにまで襲いかかって来たのだ。それは彼らがゆるやかに流れるシロアハの水をないがしろにしたからである。それゆえ、主は水かさの多いユーフラテス川の水、アッシリヤの王と、そのすべての栄光を、彼らの上にあふれされた。シロアハの水とは、エルサレムの町の外にあったギホンの泉からエルサレムに流れていた川のことである。全長は533メートルあったが、高低差はわずか2メートルしかなかったので、とてもゆるやかに流れていた。あまりにもゆるやかだったので、人の目には目立たなかった。しかし、それがどんなに目立たない水であっても彼らにとってはなくてはならないいのちの水である。それをないがしろにしたので、今度は逆に水かさの多いユーフラテス川の水(アッシリヤ)を、彼らの上にあふれされるのだ。私たちが目を留めなければならないのは人間の目で目立つ派手な行動や活動ではなく、このシロアハの水だったのである。

しかし、そのようなユダに対して、主は慰めの言葉を語る。「インマヌエル。その広げた翼はあなたの国いっぱいに広がる。」(8)アッシリヤがどんなに押し寄せて来ても、インマヌエルの神がともにおられ、その翼を広げて守ってくださるというのだ。実際にこれがヒゼキヤの時代に起こる。アッシリヤの王セナケリブがユダのすべての城壁のある町々を攻め取り、陥落する寸前にまで追い込んだ。しかし、主の奇跡的な介入によって一晩に十八万五千人のアッシリヤ軍が滅ぼされ、ユダは守られた。神がともにおられたからである。インマヌエルの神が、その翼を広げて守ってくださったのだ。

Ⅱ.神が聖所となられる(11-15)

アハズと祭司ウリヤに主の言葉をストレートに語ることを恐れていたイザヤに、主はこのように仰せられた。「万軍の主、この方を、聖なる方とし、この方を、あなたがたの恐れ、この方を、あなたがたのおののきとせよ。そうすれば、この方が聖所となられる。」(13,14)それは、ユダとイスラエルの二つの家には妨げの石とつまずきの岩になる。多くの者がそれにつまずき、倒れて砕かれる。しかし、主に信頼する者は守られる。主が聖所となって、守ってくださるからだ。

ゆえに「このあかしをたばねよ。このおしえをわたしの弟子たちの心のうちに封ぜよ。」(16)これは御言葉を心にたくわえよということである。なぜ霊媒や、さえずり、ささやき、口寄せに尋ねなければならないのか?自分の神に尋ねなければならない。教えとあかしに尋ねなければならないのだ。もし、このことばに従って語らなければ、その人には夜明けがない。苦難とやみ、苦悩と暗やみ、暗黒と追放が覆うようになる。神のみことばがないと、私たちの人生は暗くなってしまう。

Ⅲ.主を待ち望め(17-18) 

ここに、イザヤの力強い信仰の宣言が見られる。「私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に、望みをかける。」(17)イザヤが置かれていた状況は、主が御顔を隠しておられるかのようであった。主がおられるなら、アラムとエフライム、あるいはアッシリヤに攻められるといった状況を許されるであろか?しかし、そうした中で彼は、主を待つ、と言った。この方に望みをかけると言ったのだ。これが信仰である。信仰とは望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものである。そうでない時に主を待ち望むことは簡単なことではない。しかし、隠れた所で見ておられる私たちの父なる神が、その信仰を見ておられ、報いてくださるのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたが目を留めているのは何ですか?この世の派手な活動ですか?それともゆるやかに流れているシロアハの水ですか?

・あなたは何に尋ねていますか?何に望みをかけていますか?あなたにとって神を待ち望むとは、どういうことですか?

イザヤ7:10-25 レジュメ

「共におられる神」                                N011

はじめに

14節に「その名をインマヌエルと名付ける」とある。これは「神はわれらとともにおられる」という意味である。私たちの信じる神は、神社や仏閣に行かなければおられない神ではなく、いつも私たちと共におられる神である。

Ⅰ.しるしを求めよ(10-12) 

エフライムにアラムがとどまったという知らせを聞いたアハズの心は、林の木々が揺れるように動揺した。そんなアハズに対して主はイザヤを通して「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。」と告げたが、彼は静かにしていることができなかった。アッシリヤに助けを求めてその難局を打破しようとしたのである。そんなアハズに主は仰せられた。「しるしを求めよ。」と。しるしとは証拠としてのしるしである。主に信頼するなら守られるというしるしだ。それに対して彼は、「私は求めません。主を試みません。」と答えた。これは一見信仰的なようだが、実際は全く逆であった。主が求めよと言われるなら求めることこそ信仰的なのに、彼はそれに従わなかった。神よりもアッシリヤに信頼していたからだ。主が私たちに求めておられることは、私が主に求め、それを受けることによって、喜びに満ち溢れることである。

Ⅱ.神からのしるし(13-17)

アハズがしるしを求めないので、主みずから、彼に一つのしるしを与えられた。それは、処女がみごもって男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名づけられるということである。どういうことか?マタイはこの箇所を引用して、イエスが処女から生まれたという事実を書き記すことで、イエスがメシヤであるとした。(マタイ1:22,23)しかし、預言は普通その置かれた状況に対して語られているのと同時に、遠い未来のことを語っている。この場合、敵であるエフライムとアラムの連合軍を神が打ち破ってくださるしるしであるはずだ。それなのにキリストの誕生について預言されているとしたら、あまりにも飛躍しすぎている。いったいこの処女とはだれのことなのか?また、処女から生まれてくる男の子とはだれのことなのか?これは8章3節に出てくる女預言者のことであり、その女預言者から生まれてくる子「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」(「略奪者はすみやかにやって来るという意味」である。そう、これはアッシリヤのことであった。その預言のとおり、その数年後にアッシリヤがアラムとエフライムを攻撃して打ち破った。

しかし、このことがキリストの誕生といったいどういう関係があるのか?本当の救いはイエス・キリストだということである。確かにアハズはアッシリヤによってアラムとエフライムに勝利できたかもしれない。しかし、そのつけはその後でやってくることになる。何と今度はそのアッシリヤによって攻められることになるのだ。ゆえにアッシリヤは本当の救いではない。ただ一時的な危機を逃れるだけのものでしかなかった。本当の救いは処女から生まれるメシヤだけである。

Ⅲ.インマヌエル(18-25) 

なぜこのメシヤこそ本当の救いなのだろうか?なぜなら、キリストはアラムやエフライムではない、あるいはアッシリヤでもない私たちを永遠の滅びに追いやろうとするサタンの力、すべての悪の根源である罪から救ってくださるからである。キリストはそのために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられた。十字架と復活によって救いのわざを完成してくださった。だからここに本当の救いがある。十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられた方は、今も生きて私たちのためにとりなしてくださる。この方にあって、私たちはすべての不安と恐れ、問題と苦しみから解放され、真の平安を得ることができるのである。このインマヌエルの主は、私たちを罪から救う時だけでなく、私たちが祈る時も、また、私たちが福音を宣べ伝えるために出て行く時も、いつも、私たちとともにいてくださる。この方に信頼することこそ、私たちは救われ、勝利ある人生を歩むことができるのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたは、しるしを求めていますか?何にそのしるしを求めていますか?

・神ではないものに信頼して失敗した経験がありますか?あるいは信頼して守られたという経験がありますか?考えてみましょう。

・あなたは、どのようなことにおいて主がともにおられること求めていますか?罪のゆるしにおいて、それとも祈りにおいて、あるいは伝道において、あるいは、その他のことにおいてですか?どんなことにおいても主がともにおられることを信じて祈りましょう。

イザヤ7:1-9 レジュメ

「神の前に静まる」                               N010

はじめに

ウジヤ王が死んだ年に預言者としての召命を受けたイザヤは、本格的な預言活動を開始する。その最初は、ユダの王アハズに対するものであった。

Ⅰ.アハズ王の動揺(1-2)

ユダの王アハズの時代に、「エフライムにアラムがとどまった」という知らせが告げられた。するとアハズの心も、民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。ユダは日本の四国くらいしかない小さな国だ。アラムとエフライム(北イスラエル)が連合して攻めて来られたらひとたまりもない。そこでアハズはどうしたかというと、北の超大国アッシリヤに助けを求めた。人間の考えることはいつもこうである。何か問題が起こると、その場しのぎの解決や対策を講じるのである。しかし、それはコンビニでインスタント食品を買うようなもので、ほんとうの解決をもたらすものではない。むしろ、そのことが後にユダをもっと苦しめることになる。「昨日の友が今日の敵」というようなことになるのだ。そのつけはそれから約30年後に、大きく膨らんで返ってくることになる。

Ⅱ.静かにしていなさい(3-4a)

そのとき、イザヤに主のことばがあった。「あなたとあなたの子シェアル・ヤシュブとは出かけて行って、布さらしの大路のそばにある上の池の水道の端でアハズに会い、そこで彼に言え。」と。「シェアル・ヤシュブ」とは「残りの者は帰る」という意味。それはユダに対するしるしであった。そのシェアル・ヤシュブを連れてアハズに会うように言われたのだ。その内容は、「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。」ということだった。この中心は、「静かにしていなさい」ということである。心が激しく動揺する時どのような態度を取ることが信仰的な態度なのかというと、「静かにしていること」である。しかし、そのような時に「静かにしている」ということはなかなかできない。騒ぎに巻き込まれ、あの手、この手と動いてしまうのだ。「静まる」とは、「身を沈める」という意味である。水とか、何かの中に身を沈めることである。その何かというのが神である。困難な状況に置かれたり、そうしたことに巻き込まれてしまうことがある。しかし、そうした中に身を置くのではなく、神の中に身を置かなければならない。それが「静まる」ということだ。

Ⅲ.神はわれらの力(4b-9) 

なぜ神の前に静ならなければならないのか?第一に、神は全能者であるからだ。人の目にどれだけ大きな問題でも、神の目には小さなものでしかない。アハズが恐れていたアラムとエフライムも、神の目には煙る燃えさしでしかなかった。私たちが問題に直面する時のほんとうの問題は、その問題を見てしまうことである。そこに身を置いてしまうのだ。そして、その問題に圧倒されて絶望してしまう。しかし、問題にではなく神に身を置くと、その問題が小さく見えてくる。大切なのは、この方の目を通して問題に立ち向かっていくことだ。

第二の理由は、この全能なる神は今に至るまで働いておられるからである。心を弱らせていたアハズに対して、主は、アラムとエフライムの策略は起こらないし、ありえない、と言われた。私たちは何かの問題が起こると、それを悪い方に考えてしまう習性がある。しかし、そのようなことは起こらないし、ありえない。むしろ、六十五年のうちに、エフライムは粉砕される。実際に、この時から六十五年後の前699年に、エフライム(北イスラエル)はアッシリヤの王オスナパルによって粉砕され、多くの外国人が移住してきたことで「民でなくなった」。サマリヤ人となったのである。この預言が成就したのだ。神が語られたことは必ず実現する。神は、私たちの理解を越えたところで働いておられるのだ。ゆえに、私たちはこの全能の神を信じ、この神の前に静まらなければならない。

アハズの子ヒゼキヤは、アハズとは違い神に信頼した。前701年にアッシリヤの王セナケリブがエルサレムを包囲した時、彼は主の前に静まって祈った。すると主はヒゼキヤの祈りに答え、その晩、主の使いによってアッシリヤ軍十八万八千人を打ち殺した。セナケリブは慌てて国に帰ると、そこで息子に刺し殺されてしまった。これが神のなさることである。神に信頼し、神の前に静まるとき、神はその信仰に応えてくださる。「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」(詩篇46:1)

神の前に静まろう。私たちの人生にも林の木々が揺れるように動揺することが起こるが、そのようなときに私たちに求められていることは、この主の前に静まることなのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!)

・あなたは今、何を恐れていますか?それをどのように解決しようとしていますか?

・あなたは神が全能者であり、あなたのために働いておられることを信じていますか?あなたにとって主の前に静まるとは、どういうことですか?

イザヤ6:1-13  レジュメ

「イザヤの召命」                                 N09

はじめに

ここに、イザヤが預言者として召されたことが書かれてある。彼は既に1章から5章にかけて預言してきたが、ここから彼の本格的な働きが始まる。

Ⅰ.私は、もうだめだ(1-5) 

イザヤが預言者として召されたのはウジヤ王が死んだ年(B.C.740年頃)であった。ウジヤ王は軍事的に優れた手腕を発揮し、ユダで52年間という長きにわたって治めた。Ⅱ歴代誌26章15節を見ると、「その名は遠くにまで鳴り響いた」とある。そのウジヤ王が死んだ年にイザヤは預言者として召されたのである。その時彼は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。あれほど優れていたウジヤ王が死んだのとは裏腹に、高くあげられた主の王座を見たのである。それはセラフィムが「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」と叫ぶほどであった。

その時イザヤは、「ああ、私は、もうだめだ。私のくちびるは汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。」と叫ばずにはいられなかった。あまりの聖さに、立っていることができなかったのである。これまで彼はイスラエルの民に向かって「ああ、汚れた者たち」と語ってきたがこの聖なる主を見たとき、汚れているのは彼らだけでなく自分自身もそうであることに気づかされたのだ。神のことばを語るには全く汚れた者であり、資格などないことを告白したのである。しかし、この経験こそ、彼が預言者として召されていくために必要なことであった。人と比較しているうちはなかなか自分の汚れには気づかない。このように絶対的に聖い神の前に立たせられて初めて自分がどれだけ汚れているに気づかされる。そしてその聖さに触れることによって砕かれ、真の預言者として用いられていくのである。

Ⅱ.私を遣わしてください(6-8)

イザヤが主の聖さに触れ打ちのめされていた時、祭壇の上から燃えさかる炭を持ってきたセラフィムが、それをイザヤの口に触れてこう言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」どういうことだろうか?神の一方的な恵みによって彼の不義が聖められたということである。それは彼の業によったのではない。外からやって来たのだ。救いは神の一方的な恵みによって与えられる。その恵みによって彼は聖められたのである。

そのとき彼は、「だれを遣わそう。だれがわれわれのために行くのたろう」と言っていられる主の声を聞いたので、「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と言った。だれが主のために遣わされて行くのか?それは決して完全な人ではない。神の一方的な恵みに触れた人である。なぜなら、これは恵みの業であるからだ。イザヤは決して聖く、正しい人ではなく、また、そうした能力を備えてはいなかった。ただ神の恵みによってその罪が贖わたので、「ここに、私がおります。私を遣わしてください」と答えることができたのである。クリスチャンの奉仕はどれだけしたか、できるかではない。神がキリストにおいて何をしてくださったのかである。その恵みの大きさの何ものでもない。その恵みを受けたからこそ、主の働きに立ち上がることができるのである。

Ⅲ.神に導かれて(9-13) 

イザヤが「ここに私がおります。私を遣わしてください」と応えると、主は「行って、この民に言え。」と言われた。その内容は、聞いた人たちがもっとかたくなになっていやされることがないようということであった。聞いて信じるためならわかるが、聞いて信じないために行けというのでは意味がない。けれども主はそのように命じられた。それは、神の忍耐である。神はそのような人でも悔い改めることができるように、最後の最後まで忍耐をもって語られる。

では預言をすることにどんな意味があるのか?預言をしても無駄ではないか?そうではない。イザヤはここで「いつまでですか?」と尋ねている。それはいつまでも続くことではない。神のさばきが行われるまでのことである。これは具体的にはバビロン捕囚のことを指しているがそれだけではなく、世の終わりのことも指している。そこにはなお、十分の一の人たちが残される。その人たちは「聖なるすえ」である。それまでである。残りの者がいる。世の終わりまで、主が来られる日まで信仰を堅く守り、神様の前に従う民が必ずいるのだ。その時までである。私たちの希望はここにある。たとえ目の前が真っ暗でも神様はそこにも残りの民を備えてくださり、その人たちを通して驚くべきみわざが成し遂げられるのだ。私たちがその残りの者である。この終わりの時に主への信仰を堅く守り、このすばらしい神の恵みを宣べ伝える者でありたい。私たちはそのために召されたのだから。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたは聖い神の御前に立っていますか?あなたはイザヤのように「もうだめだ」と砕かれるような経験をしていますか?

・あなたは、神の一方的な恵み(救い)を経験しましたか?主が「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言われる時、どのように応答しますか?

イザヤ5:8-30 レジュメ

「主が忌みきらわれること」                            N08

はじめに

神は、甘いぶどうがなるのを期待して苦労しながらぶどうの苗を植えたが、出来たのは酸っぱいぶどうであった。きょうのところには、その酸っぱいぶどうがどのようなものであったのかが詳しく述べられている。イザヤはこれを「ああ」という言葉で表現した。これは「忌まわしいもの」とか「わざわいなるかな」という意味である。

Ⅰ.天にあるものを求めて(8-17) 

最初の「ああ」は、彼らの貪欲に対する嘆きである。神はイスラエルに土地の売買を禁じられた。それは本来神のものであって、神から与えられたものだということを覚えるためである。にもかかわらず彼らは神の掟を破り、土地と家を買い、富を蓄えた。それは彼らが神ではなくこの地上のものを求めていたからである。「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」(コロサイ3:5)そうした彼らの貪欲を神は忌みきらわれ、どんなに広い土地を耕しても少ししか収穫できないようにした。人間がどれだけ頑張っても、神が許されなければ何も手にすることはできないのである。

もう一つの「ああ」は、享楽に対する神の嘆きである。彼らは朝から酒を飲み、享楽にふけっていた。彼らは神が注がれた恵みを覚えるような生活ではなく、刺激的で、感覚的なものを求めていた。それゆえ神は彼らを捕らえ移された。その「無知」と「渇き」で干からびるようにさせたのである。彼らのように感覚的なものだけを求めると霊的に干からびることになる。時間がかかってもみことばを学び、それに従う習慣を身に着けることで、霊的に養われることを求めていかなければならない。

Ⅱ.主のみことばを大切に(18-24)

三つ目の「ああ」は、神への侮辱である。彼らは神に向かって公然と「神がいるならさばいてみろ」と言った。これは神への冒涜であり、挑戦である。終わりの日には、このようにあざける者が増えてくる。(Ⅱペテロ3:3-4)四つ目の「ああ」は、価値観の逆転である。聖書の価値観を悪とし、人間の価値観を善としている。アメリカでは大統領選の予備選が行われているが、そこで同性愛や妊娠中絶の問題が出てくる。こうしたことは悪から出ていることなのに、それを善とし、聖書の価値観を歪めるような動きが絶えない。しかも、そのような悪を正当化するために、それを理論武装する人たちがいる。医学的、科学的にどうのこうのと論じてそれを正当化するのだ。自分を知恵ある者と思い込んでいる。そのような人は救いようがない。そのような人よりも、愚かの人のほうが、まだ望みがある。(箴言26:12)これが五番目のことである。最後の「ああ」は、酒飲みをあおる人たちである。また、お酒で正しい判断を失った裁判官たちである。彼らはわいろで正義を曲げていた。何と忌まわしいこと。

いったい何が問題だったのだろうか?それは、彼らが万軍の主のみおしえをないがしろにし、イスラエルの聖なる方のみことばを侮ったことだ。自分の知恵を誇ったり、自分の考えを正当化したりするのではなく、主のみおしえを聞くこと、そこから義の道が始まるのである。

Ⅲ.神にちび導かれて(25-30) 

このような忌まわしい者たちには、神のさばきが臨む。山々は震え、彼らのしかばねは、あくたのようになる。そして、主が遠い国に合図を送ると、その国がすみやかにやって来て、獅子のようにイスラエルに襲いかかる。そう、バビロンだ。バビロンがやって来て彼らに襲いかかるので、彼らは悲惨な状態になる。それは彼らがこの地上の瞬間的なものを求めたからであり、へりくだって主のみおしえに聞こうとしなかったからだ。

ところで、イザヤは神のさばきで終わっている。これまでイザヤ書を学んでくる中で彼は、このような神のさばきの後で必ず回復の希望が語っていたのに、ここでは語られていない。いったいなぜか?イザヤが言いたかったことは、この神のさばきだったから。けれども本当の預言とは自分が語りたいことを語るのではなく、神が語ろうとしていることを語ることであであるる。彼は6章に入ってそのことに気づかされる。ほんとうにわざわいなのはユダの人たちではなくむしろ自分自身であることに気がつくのである。それが彼の転換点であった。それによって彼はもっとスケール大きな預言者として召されていくことになる。私たちの信仰生活も同じだ。私たちが何をしたいかではなく、主が願っておられることを行うこと、それが信仰の歩みである。主の御手に引っ張られるように導かれて進む者でありたい。そのためにも、私たちはいつも素直な心でみことばを聞き、それに応答していきながら、主のしもべとしてふさわしく整えられていきたいものである。

 

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたは天にあるものを求めていますか?あなたが今関心を持っていることは何ですか?あなたが天にあるものを求めていくために妨げているものは何ですか?

・あなたの信仰は、刺激的で感覚的なものですか?それとも主のみおしえに聞き従うものですか?

・主が忌みきらわれる六つのもの中で、あなたの中に見られるものがありますか?あるとしたらそれは何ですか?

イザヤ5:1-7 レジュメ

「ぶどう畑の歌」                            N07

はじめに

ここでイザヤは、イスラエルの霊的な状況をぶどう畑のたとえを用いて語る。「さあ、わが愛する者のために私は歌おう。そのぶどう畑についての愛の歌を。」と。

Ⅰ.神のご期待(1-2a) 

ぶどう畑の主人は、そこを一生懸命に耕して、良いぶどうの苗を植えた。しかもそこにやぐらを立て、酒ぶねまで掘って・・。そこには並々ならぬ労苦が伴ったはずだ。いったいなぜそこまで手をかけてくださったのだろうか?収穫を期待していたからである。甘くて美味しいぶどうがなるのをずっと楽しみにしていたのだ。

エペソ1:3~6を見ると、神はキリストにあって、天にある霊的祝福をもって私たちを祝福してくださった、とある。何と世界の基の置かれる前から救われるようにと選んでおられた。なぜ?神の恵みの栄光がほめたたられるためである。神は私たちにも期待しておられる。自分自身を見たら本当にちっぽけな者にすぎないが、そんな神の期待に応えていく者でありたい。

Ⅱ.神の失望(2b-4)

ところで、そんな神の期待とは裏腹に、酸っぱいぶどうが出来てしまった。このぶどう畑の主人は、どれほど残念だったことか・・。いったいなぜ酸っぱいぶどうが出来てしまったのだろうか?7節には、「まことに、万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植え付けたもの。主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血。正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び。」とある。この「公正と流血」、「正義と叫び」という言葉は相反する反対語ではない。ヘブル語では非常に音が似ている言葉である。つまり、見かけは神様の期待にそっくりでも、中味は全く違うものであったのだ。実際はそうでないのに、あたかもそうであるかのように見せかけていたことが問題だったのである。ぶどう畑の主人が期待していたのは見せかけだけの甘いぶどうではなく、実際に甘いぶどうであった。それがぶどう畑に期待されていたことであり、存在している意義があったのである。

.まことのぶどうの木(5-6 

ではどうしたらよいのか?どうしたら甘いぶどうの実を結ぶことが出来るのか?マタイの福音書21章のところで、主イエスはこのたとえをユダヤ人の指導者たちに語られた。彼らは主人が遣わした息子を殺して、財産を自分のものにしてしまった・・・と。そうすると、そのぶどう園の主人はいったいどうするか?「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を治める農夫たちに貸すに違いありません。・・だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。」(21:41-43)彼らは神の御子キリストを受け入れなかったので、神の国は彼らから取り去られたのである。神の期待にそえるような甘いぶどうの実を結ぶためには、神の御子イエス・キリストを信じ、そのいのちの交わりの中で生きる者でなければならない。主イエスは、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」と言われた。(ヨハネ15:5)主イエスとの生きた交わりこそ、私たちが多くの実を結ぶために必要なことなのである。

 

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・神があなたに期待しておられることはどんなことですか?神の期待に応えるために必要なことは何ですか?

・あなたは、どのような実を結んでいますか?甘い実ですか?それとも酸っぱい実ですか?甘い実を結ぶために、あなたにとって必要なことは何だと思いますか?

イザヤ3:16-4:6 レジュメ

「聖めてくださる神」                     N06

はじめに

イスラエルが鼻で息をする人間にたよった結果、主は彼らがたよりとしていたものを取り除かれた。その結果、エルサレムは混乱し、荒廃するようになった。しかし、それで終わりではない。神はそのようなイスラエルから汚れを取り除き、彼らを聖めてくださる。

Ⅰ.内面を美しく(3:16-3:23) 

シオンの娘たちは高ぶり、首を伸ばし、色目を使って歩き、足に鈴を鳴らしながら歩いていたので、主はシオンの娘たちの頭をかさぶただらけにし、その額をむきだしにされる、と言われた。いったい何が問題だったのか?高ぶっていたことである。彼らの関心は自分たちのことだけであって、神に向いてはいなかった。それがそうした装飾品や虚栄心に現れていたのである。「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのない、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」(Iペテロ3:3-4)心の中のオシャレこそ、私たちが求めていかなければならないものなのである。

Ⅱ.高ぶりは砕かれる(3:24-4:1)

シオンの娘たちは、見た目の美しさや華やかさに心が奪われ神に信頼することをしなかったので、神はシオンの娘たちの虚偽をあばかれる。そして「その門はみな、悲しみ嘆き、シオンはさびれ果てて地に座す」ようになる。シオンに、荒廃と嘆きがもたらされるのである。

.聖と呼ばれるようになる(4:2-6 

しかし、それだけでは終わらない。神はそのようにエルサレムから汚れを取り除き、聖めてくださる。その日、主の若枝は、麗しく、栄光に輝き、イスラエルののがれた者の威光と飾りになるのである。そして、シオンに残れた者は、聖と呼ばれるようになる。これは義と認められるということであり、神の御国を受け継ぐ者とされるという約束だ。主イエスは、「ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:20)と言われた。それは私たちにとって最も重要なことであり、喜ばしいことである。やがて来られる主の若枝なるキリストは、そのようにしてエルサレムを回復してくださるのだ。それだけではない。そのように残された者のために主は、おおいとなり、仮庵となってくださる。昼は暑さを避ける陰となり、あらしと雨を防ぐ避け所と隠れ家となってくださるのだ。どのような嵐があっても、主は避け所となって完全に守ってくださる。「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。・・主はご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。・・それはあなたが避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。」(詩篇90:1,4,5,9)

これが主の約束である。私たちの人生にも思いがけない困難に直面することがあるが、主が避け所、隠れ家になってくださるという約束を信じて、主の道を歩み続けていく者でありたい。

 

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたが飾りとしているものは何ですか?髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものですか?それとも柔和で穏やかな霊という心の中の隠れた人柄ですか?

・あなたは、主があなたの避け所と隠れ家であると信じていますか?あなたが今直面している試練や苦しみは何ですか?主の約束を信じるとはあなたにとってどのようなことですか?

イザヤ3:1-15 レジュメ 

「取り除かれる神」                      N05

はじめに

前章でイザヤは、「鼻で息をする人間をたよりにするな」と警告した。そのような人間に依存することには何の値うちもないことを示すために神は、彼らからささえとたよりを取り除かれる。

Ⅰ.取り除かれる神(1-3) 

神が取り除かれるものは何だろうか。まず神は彼らから、すべての頼みのパンと頼みの水を除かれる。これは私たちの生活に欠かせないものである。このような生活に必要な物を除かれる。しかし、それだけではない。さらに勇士と戦士、さばきつかさと預言者、占い師と長老、五十人隊の長と高官、技官と賢い細工人、巧みにまじないをかける者を除かれる。これは軍事的指導者、政治的指導者、宗教的指導者、そして技術者たちのことである。このような人たちは、人々が安心して生活していくために必要な人たちであるが、このような人たちも除かれるのである。それは彼らが神に頼らないで、人間に頼ろうとしたからだ。ゆえに神は彼らから、すべてのささえとたよりを取り除かれるのである。

Ⅱ.信頼の対象を間違えた結果(4-7)

その結果どのようなことになるか?彼らからこのようなささえやたよりが除かれた結果、ユダに悲劇的なことが起こる。彼らを治める指導者が変えられ、経験のない未熟な指導者が立てられる。気まぐれで自分のことしか関心がない無情な者たちの統治によって、国は混乱に陥るのである。そして、何が起こってもだれも責任を取ろうともしない。神よりも人や世の中に頼った結果、国全体が悲惨で混沌とする。

.義人は幸いである(8-15 

ではどうしたらいいのか?このような状況に陥ったのは、彼らが主にそむいたからである。彼らの舌と行いとが主にそむき、主のご威光に逆らったからである。ゆえに解決は主に立ち返ること以外にはない。ここにその約束が示されている。「義人は幸いだと言え。彼らは、その行いの実を食べる。」(10)それでもなお、主なる神に従う人は幸いである。なぜなら、彼らは神のあわれみを受けるからだ。神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになられる。忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下される。ゆえに神に背いていた罪を認めて悔い改め、イエス・キリストを救い主として、また主として信じて受け入れ、神のみこころに従って歩もうとする人には、神の恵みが、永遠のいのちが与えられるのである。

私たちの本当の問題は、問題が起こるときそれを自分自身で対処してしまうことである。自分の力で解決しようとするのだ。しかし神は、私たちが自分の力で問題を解決しようとするのではなく、神に信頼することを願っておられる。状況がどんなに悪くても、神はその状況を一変させることができる。イエス・キリストを死者の中からよみがえらせた力によって、問題の中に沈んでいる私たちを引き上げ、助けてくださるのである。

 

 

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたが頼りとしているものは何ですか?それはあなたの心を神よりもとらえていませんか?

・あなたは、自分に問題があるときそれにどのように対処していますか?自分の力で解決しようとはしていませんか?神に信頼することを妨げているものは何ですか?

イザヤ2:1-22 レジュメ  

「鼻で息をする人間をたよりにするな」             N04

はじめに

イザヤ書には、イスラエルの神への反逆とそれに対する神のさばき、そして回復の約束というパターンが何度も繰り返して出てくる。きょうの箇所は回復の希望から語られている。

Ⅰ.主の光を歩もう(1-5) 

「終わりの日」とは、キリストが再臨した後にもたらされる千年王国のこと。その時、主の家の山は、山々の頂きに堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。なぜ?そこにキリストが立たれるからである。キリストが再臨してシオンに立たれ、そこでご自分の道を、主のみことばを教えてくださる。ゆえに、多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。」と。私たちも主の山に上らなければならない。主の光に歩まなければならない。私たちにとっての最優先事項は、主のみおしえを聞いて、その小道を歩むことなのである。

Ⅱ.主だけが高められる(6-21)

この主の招きに対してイスラエルはどのように応答したか?彼らはペリシテのように占いに走り、金銀を求め、馬や戦車にたよった。それゆえに神は、彼らをさばかれる。主は彼らに激しいさばきを行われるので、彼らは岩間に隠れ、ちりの中に身を隠すようになる。こうして高慢な者が低くされ、主おひとりだけが高められるのである。なぜこの世において神の栄光が見えづらくなっているのか?神にではなく占いに、富に、人間に、偶像にたよっているからである。こうしたことはみな人間の高慢から出ていることである。このような高慢を神は砕かれる。そういう時がやって来るのである。

.鼻で息をする人間をたよりにするな(22 

ではどうしたらいいのか?イザヤの結論はこうである。「鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか。」人間は本当にはかない。少しでも息を止めればすぐに死んでしまう。そのような人間をたよりにしてはならない。これは戦いである。私たちは人のことばを聞いて安心するところがあるからだ。特に日本人はそのような傾向が強い。神様のことばよりも人のことばを信頼してしまう。人に期待してしまうのである。そして他の人からどう思われるかがすごく気になり、悪く言われると極端に落ち込んでしまうのである。しかし、大切なのは人が何を言っているかではなく、神のみことばは何と言っているかだ。私たちは人にたよることを止めて、神様だけをたよりにしなければならない。

かつて神様はモーセに、「わたしは、『わたしはある』という者である。」(出エジプト3:14)と言われた。主は自存の神である。永遠から永遠まで他の何にも依存することなく存在し、万物を統べ治めておられる方である。この方だけが真にたよることができる方なのである。

 

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたは主のみおしえを求めて主の山に上っていますか?主のみことばを聞くことよりも、この世のことを優先して走り回ってはいませんか?

・「高慢な者は低くされ」とあります。あなたにとっての高慢はどのような点ですか?謙遜な心で兄弟姉妹を自分よりもすぐれた者とみなしていますか?

・あなたは神だけにたよっていますか?それとも、鼻で息をする人間にたよってはいませんか?神だけにたよるためにあなたが克服しなければならないことは何ですか?