きょうは「イエスと出会った人」というタイトルでお話をしたいと思います。私たちはこれまで、ステパノの殉教をきっかけとして始まったキリスト教への迫害と、そのことで展開していったピリポのサマリヤでの伝道について学びました。ところが9章に入ってからルカは、サウロの回心の話を取り上げます。このサウロの回心はキリスト教の歴史にとってきわめて重大な出来事です。それは、この使徒の働きの中にこのことが三度も繰り返して記されていることからもわかります。(22:3-16、26:9-18)
いったいどうなぜこの出来事がそれほどまでに重要なのでしょうか。第一に、これまでキリスト教を迫害していたサウロが回心しキリスト教に入信したことは、キリスト教そのものが真実なものであり、力があり、栄光に富んだものであるのかを示すのに十分な証拠になったという点です。第二に、この使徒の働きは1章8節のみことばにしたがって展開しているわけですが、それは彼らがエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てまで、キリストの証人となっていくということでした。そして、このサウロの回心こそ、福音が地の果てにまでもたらされていくための始まりであったことです。そして第三に、私たちは先週までエチオピア人の宦官の救いについて学んできましたが、このサウロの回心はちょうどそれと対照的に描かれている点です。すなわち、あのエチオピア人の宦官は、自ら神を求め、遠く離れたエルサレムまで礼拝にやってきた、いわば神に対して非常に熱心な求道者で、聖書を読み、その解釈のためにはピリポを馬車の中に招くようなことまでした素直な入信者でしたが、それに引き替えこのサウロは、キリストを信じようとはこれっぽっちも思っていなかった人です。まったくの敵意と偏見しか持たず、クリスチャンに対しては話し合いをするどころか殺すことしか考えていなかった人なのです。そういう人でも回心させられた。この二つの回心の仕方には全くの違いがありますが、そのいずれも神の方法なのであって、神はいろいろな方法で導かれる方であることがわかります。そのことを示そうとしていたのではないかということです。
では、このサウロはどのようにキリストに捕らえられていったのでしょうか。きょうは、そのことについて三つのことをお話したいと思います。まず第一に、サウロがキリストに出会う前の姿です。彼は熱心にクリスチャンを迫害していました。第二ことは、そんなサウロがキリストに捕らえられていった過程です。そして第三のことは、そのように捕らえられていく中で彼が経験した三日間の沈黙についてです。
Ⅰ.クリスチャンを迫害していたサウロ
まず第一に、クリスチャンを迫害していたサウロについてです。1-2節をご覧ください。
「さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺意に燃えて、大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。」
リビングバイブルによると、「さてサウロは、クリスチャンを全滅させてやろうと、闘志満々、エルサレムの大祭司のところへやって来ました」となっています。本気で伝道する人をね本気でぶち壊しにかかったということなのでしょう。どのようにぶち壊しにかかったのかというと、1節の「なおも」という言葉に表現されていると思います。サウロは、ステパノの殉教にも立ち会い、その後も教会を荒らし回っては、クリスチャンの家々に押し入り、男でも女でも引きずり出して、次々に牢に投げ入れていました。(8:3)しかし、クリスチャンに対する迫害の彼の熱意はそれで収まる程度のものではありませんでした。「なおも」主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えていたのです。その熱心さは、エルサレムから遠く約200キロメートルも離れていたダマスコまで手を伸ばしたほどです。エルサレムやユダヤにいるクリスチャンだけでなく、遠くに散らされて行ったクリスチャンまでも追いかけて迫害しようという執拗さです。さらに彼の熱心さは、大祭司のところへ行って、ダマスコの諸会堂あてに手紙を書いてくれるように頼んだことにもうかがえます。それは、このことが単に自分の一人の個人的な反対運動ではなく、正式な教会の戒規として、外地にいるユダヤ人クリスチャンを処罰したいがためでした。
いったいどうして彼は、それほどまでに主の弟子たちに対して敵対していたのでしょうか。それは、キリスト教を迫害することが、真の神に対して忠実を尽くす行為であると確信していたからです。彼は、徹底した律法学者であり、神と律法に対する忠実さにおいては、だれにも引けをとらないほどの自信があった人ですが、その彼の考えによると、十字架にかけられたような者はのろわれた者であるということでした。というのは、旧約聖書には、「木にかけられる者はすべてのろわれた者である」と書かれてあったからです。(申命21:23)それがよみがえっただの、神であるだのと言うことは考えられないことであり、神を冒涜すること以外のなにものでもなく、断じて許し難いことだったのです。そういうことは決して許しておいてはならないといった思いが、そうした狂気じみた行動へと走らせていたのです。サウロの間違った知識と間違った熱心は、彼の人生を間違った道へと導いていったのです。
皆さん、熱心であることが必ず正しいこととは限りません。大切なことは、その熱心が正しい知識に基づいていることです。私たちはあまりにも熱心なあまりに、回りが見えないことがあります。そのために、その熱心さが思わぬ破壊的な結果をもたらしてしまうことがあるのです。ですから大切なことは、真理を知ることです。その上で進むべき道を悟りながら、その道を進んでいくことです。では、真理とは何でしょうか。イエスは次のように言われました。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)
イエスが道であり、真理です。いのちです。だれでも、イエスを通してでなければ神のもとに行くことはできません。神のもとに到達するための唯一の道は、イエスなのです。多くの人がこの道を見いだすことができずに彷徨っています。しかし、そんな目が見えず、耳がふさがれている弱い私たちに真理を示すために、イエスはこの世に来てくださいました。ですから、このイエスに出会うなら、真理を知り、進むべき道がわかり、なすべき使命をはっきりと見えるようになるのです。
Ⅱ.イエスに出会ったサウロ
第二に、そのサウロがイエスに出会った過程を見たいと思います。3-7節をご覧ください。
「ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか』という声を聞いた。彼が、『主よ。あなたはどなたですか』と言うと、お答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。』同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。」
サウロとはアラム語の名前で、一般には、ギリシャ人がわかるように、パウロと言われています。そのサウロが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、そこで不思議な経験をします。天からの光を受けて地に倒れ、そこで「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いたのです。この点からの光は、太陽の光ではありません。26:13のところでルカは、「正午ごろ・・・・私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と同行者たちとの周りを照らしたのです。」とあることからもわかります。それは太陽よりももっと明るい光で、同行している人には見えず、サウロひとりにだけ見えた超自然的な光でした。また、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声も、7節を見ると、この声は同行者にも聞こえましたが、だれも見えないので、ものを言わずに立っていたとありますから、これもまた、サウロだけに呼びかけた超自然的なことばであったと言えるでしょう。ある人たちは、この時サウロが見た光や声は、彼が暑い砂漠を旅する中で疲れ、日射病か何かにかかったために見たり、聞いたりした幻覚、幻聴ではなかったかと言う人がいますが、そうではありません。これはパウロ以外の何人かの人たちも目撃していたことからもわかるように、実際にあった出来事だったのです。
ところで、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という言葉は、大変奇妙な表現です。サウロが迫害していたのは、クリスチャンや、その教会であって、主イエスに対してしたことではなかったからです。しかし、「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ25:40)とイエス様が言われたように、クリスチャンに手をつけるということは、即キリストに手をつけるということだったのです。ですから、主イエスははサウロに対して、「なぜわたしを迫害するのか」と言われたのです。
するとサウロはすかさず尋ねます。「主よ。あなたはどなたですか」と。これまで主に対して忠実に、また熱心に奉仕してきたと思っていたサウロにとって、そのいわれもない言葉にびっくりしたのでしょう。「主よ。あなたはどなたなのですか」と尋ねたのです。すると主はこのように言われました。5-6節です。
「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」
この「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」の「私」と「あなた」という言葉は、原語ではとても強調されていることばです。すなわち、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」ということです。それはどういうことかというと、「わたし」と「あなた」という1対1の人格的な関係を表しているということです。つまり、イエス様はサウロとそうした1対1の人格的な関係の中で、彼の自己認識というものを変えようとしておられたのです。私たちは、自分を変えよう、変えようと思っていても、なかなか変えられるものではありません。そんな自分が変えられるのはどういう時かというと、自分とは違う他の人格と向き合う時なのです。他の人格と向き合うとき、初めて自分の姿が見えてくるのです。たとえば、よく人は思春期・青春期になって恋をすると、自分でも不思議なくらい、またはた目で見ていてもおかしいくらいに変わることがあります。それはどうしてかというと、そうした恋愛の中で他の人格と向き合っているからなのです。そうすることによって自分が見えてくる。その中で「こうしよう」という気持ちが起こってくるからです。この時も同じように、イエス様はサウロを「わたし」と「あなた」という1対1の人格的な関係の中に入れることによって、サウロがそれまで見ることのできなかった自分の姿を見せようとされたのです。
ところで、主イエスはここで、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と言われました。いったいこれはどういう意味なのでしょうか。第一にそれは、十字架で死んだイエスが、今も生きておられるということです。あの十字架で死んだイエスが、復活しているということです。エルサレムで弟子たちが言っていたことはほんとうだったということであります。
第二にそれは、このイエスがただ生きておられるというだけでなく、栄光の主であられるということです。これまで彼は、木にかけられた者は、のろわれた者であるという旧約聖書のみことばから、このイエスを主とも、キリストとも主張していたクリスチャンを迫害することこそ正しいことであり、神への奉仕であると信じていたのに、そのイエスが何と神からの祝福を受け、栄光のうちに生きておられるということは考えられないことであり、それまで自分のやってきたことが間違いであったということです。
第三にそれは単に間違いであったいうだけでなく、神に対する大きな罪であったということです。たとえ知らないでしたこととはいえ、クリスチャンを迫害したことは、神であり、主でもあられるイエスを迫害することでもありましたから、それこそ神に対する最大の罪、最大の冒涜でありました。
そして第四のことは、そうした大きな罪人である者に対しても、主イエスは深いあわれみと赦しをもたらしてくださったということです。サウロがこれまでやってきたことは主に対する反逆であったとしたら、どうしても赦されることのない悪と罪の窮みですが、そんな彼に対して主イエスは、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と語りかけてくださいました。長々とした説教ではなく、ただ一言「あなたが迫害している」「迫害してきたイエスである」・・と。それは、そのような彼でも赦されるに値する者であるという、神からの愛のメッセージだったのです。
「あわれみ」とは、受ける資格のない者が受ける親切のことです。そういう意味で彼は、神からあわれみを受けるはずのない者でしたが、それでも主イエスは、彼を赦そうとしておられたのです。ですから彼は、次のように告白しました。
「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、みことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです」(Iテモテ1:15)
罪人のかしらなような者でも愛され、赦されるとしたら、それはただ神のあわれみでしかありません。サウロはそのあわれみを受けたのです。それは彼だけでなく、主イエスを信じるすべての人への約束でもあります。どんな人でも、罪を悔い改め、主イエスを信じるなら、主はすべての罪を赦してくださるのです。
サウロは、この復活の主イエスと出会った瞬間に、これまで抱いたいた彼の信念といったものが、こっぱみじんに砕かれ、彼の人生は完全にひっくり返りました。「こういうことはあり得ない」「こうでなければならない」と信じ切っていた人が、「実はそうではなかった」と、自分の知識の誤りや認識の足りなさ、視野の狭さといったものに気づかせられるということは、決して小さなショックではありません。特に知的に正直で良心的に生きてきた人には、それが2日も3日も考え込まされるほど、愕然とした驚きでありましょう。それはまた全生活の革命を引き起こすほどのものかもしれません。しかしそれは、私たちが神の人へと変えられていくためにどうしても必要な変革でもあるのです。そしてそれは、主イエスと出会うことによってのみもたらされていくのです。
韓国の梨花女子大学名誉教授で、元韓国文化部の初代大臣であり、韓国で最も成功した10人のひとりに選ばれたイ・オリョンさんは、2007年に主イエスを受け入れ、洗礼を受けた人です。彼はその輝かしい経歴の中で、どうしてイエスを信じるようになったのかについて訪ねられたとき、次のように答えました。
「私はトマスです。目で見なければ信じない知識人です。しかし、トマスも水に溺れればじたばたもがき、大きな絶望に陥ればヨブのように叫ぶのです」
彼は、自分の娘さんの病気を通して、自分にも限界があることを知り、そして主に叫んだ結果、主がその祈りに答えてくださり、娘をいやしてくださいました。その出来事を通して、完全に主の御前にへりくだることを学んだのです。
そして彼は、「うさぎと亀」の童話を例に挙げてこう言いました。
「洗礼を受ける前はウサギでした。ただ自分を信じてしっかりしなければならないという思いで生きてきました。ところがそれは誤りで、実は私は亀なのです。これまで誤った人生を生きて来て、どれほど多くの不足があったことか。傲慢を捨てたことが最も大きな変化です。」
彼はウサギから亀になりました。これまで抱いていた信念が、砕かれるという経験は大きな痛みが伴うものだったと思いますが、しかし、そのような経験を通して自分ではなく、神により頼むことを学ぶことかできたのです。彼は、主イエスに出会うことで、自我が砕かれ、神に信頼する者へと変えられたのです。
イエス・キリストとの出会いは、今までのサウロの人生を根底から揺さぶりました。あらゆる経験、知識、信仰観、世界観などのすべてをひっくり返しました。私たちの人生もまた、真であられる主イエスに出会うときに変えられていくのです。真理であられるイエスに出会った瞬間に、人生のまことの価値を発見することができるようになるのです。私たちの信仰生活とは、日々、このイエスと出会うことなのです。
Ⅲ.ダマスコでの三日間の経験
最後に、イエスに出会ったサウロが、どのように変えられたのかを見て終わりたいと思います。たいと思います。8-9節をご覧ください。
「サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへつれて行った。彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。」
ダマスコの近くで光を見たサウロは、イエスが現れて「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と言われると、目が見えなくなりました。目が開いていても、何も見えなかったのです。それはイエス・キリストと出会った彼の中に、ものすごい衝撃が押し寄せてきたからです。その衝撃のあまりの強さに、サウロは何も見ることも、飲み食いすることもできませんでした。そして、このような現象は三日間続きました。聖書で「3」は完全数を表しています。イエス・キリストとの出会いは、サウロに三日間、死のような過程を通らせました。それはイエス・キリストが十字架で死なれ、葬られ、三日間よみにいたようにです。しかし、イエス様は三日目によみがえられました。ちょうどそれと同じように、サウロは、パウロになる前に、三日間、完全に低められる経験をしたのです。死ぬという経験です。それは私たちがキリストにある人となるためにも必要なことです。私たちはこの世の人からキリストにある神の人となるために、この世に対して完全に死ななければならないのです。そうしてこそ、イエス・キリストとの真実な出会いを経験することかできるからです。
皆さんにとってのダマスコとは何でしょうか。サウロは神を喜ばせる人生を生きるために、自分の人生をささげた人でした。しかし、かつては間違った知識と価値観によって、間違った方向へと導かれていました。それがダマスコにおいて矯正されたのです。イエスがキリストであることがわかったのです。皆さんにはサウロのような間違った先入観はないでしょうか。皆さんが知っているイエスとはどのような方ですか。皆さんの人生において心を占めているものは何ですか。イエス・キリストを信じ、教会に通っていても、実際の生活の中でイエス・キリスト以外のものを追い求めていることはないでしょうか。もしそのようなことがあるとしたら、それこそ熱心にダマスコに向かっていたサウロと同じではないでしょうか。このサウロがパウロになるために、三日間のダマスコでの経験が必要であったように、私たちも歩みを止め、イエスの御声に耳を傾けなければならないのです。そこでイエスに出会わなければなりません。そこでサウロのように悔い改め、主に人生を明け渡さなければならないのです。そのときサウロがパウロに返られたように、私たちも神の器へと変えられていくのです。そして、今まで迫害していたイエスのために、いのちまでもささげるようになります。ですから、今日、イエスの御前に進み出て行きましょう。イエスのもとに出る者に、主は真理を示してくださり、栄光から栄光へと主と同じ姿へと変えてくださるのです。