ヘブル12章4~11節 「神の訓練」

きょうは、ヘブル人への手紙12章4~11節のみことばから、「神の訓練」というタイトルでお話します。このヘブル人への手紙の著者は、私たちの信仰生活は長距離競争のようなもので、そこにはいろいろなことが起こってきますが、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで、忍耐をもってゴールを目指し、最後まで走り続けようではないかと勧めました。イエス様をちゃんと見てれば大丈夫です。なぜなら、イエス様は罪人たちの反抗を忍ばれ、十字架の死という究極的な苦しみを味わわれた方だからです。私たちもいろいろな苦しみを経験することがありますが、そこまでの苦しみを経験したことはありません。まあ、ちょっとしたはずかしめを受けることはあっても、殴られたり、殺されたりといったことはありません。しかし、イエス様は痛められ、苦しめられ、そして最後には十字架に付けられて死なれました。これほどの苦難を受けた方はいないでしょう。しかし、それほどの苦しみを受けた方だからこそ、どんな苦しみの中にある人をも理解し、慰めることができるのです。このイエスを見るなら、あなたは心に元気をいただき、立ち上がることができるのです。

 

しかし、この手紙を受け取った読者たちには、ここで一つの疑問が生じました。それは、イエス様を信じることで、なぜこんなに苦しい思いをしなければならないのかということです。苦しみに会ったとき彼らの信仰は弱り始めていました。神が私を愛しておられるなら、こんな苦しみに会わせるはずがない、神は私を見捨てられたに違いないと、生き消沈していたのです。そこでこの手紙の著者は、彼らがそのような苦しみを経験しているのはなぜなのか、すなわち、それは彼らが神の子どもであり、神が彼らを愛しておられるからであることを説明し励ますのです。いったい神の懲らしめ、神の訓練とはどのようなものなのでしょうか。

 

Ⅰ.子として扱っておられる(4-9)

 

まず、第一のことは、神は私たちを子どもとして扱っておられるということです。4節から9節までをご覧ください。まず4節から6節までのところです。「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』」

 

いったいなぜ私たちは苦しみに会うのでしょうか。それは、神が私たちを愛しておられるからです。そして、この上もない関心を持っておられるからです。ですから、もし私たちが苦しみに会うとしたら、それは、私たちは神の子として愛され、受け入れられているという証拠なのです。というのは、主は愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからです。これは箴言3章11,12節の引用ですが、彼らがずっと学んできた聖書の中にちゃんと記されてあったのに、彼らはその神のことばを忘れていたのです。それで、自分がこんな苦しいのはあんなことをしたからだ、こんなことをしたからだ、だからこういうことが起こっているんだと思っていたのです。違います。あなたがそんな苦しみに会うのはあなたのこれまでの行いに対して神が怒っておられるからではなく、神があなたをご自分の子として扱っておられるからであり、あなたをこよなく愛しておられるからなのです。なぜなら、主は愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからです。

 

それは親が子どもをしつけることと同じです。7,8節をご覧ください。子どもを懲らしめることをしない父親がいるでしょうか。もしいるとしたら、それは私生児であって、ほんとうの子ではないということです。私生児というのはあまり聞かないことばですが、法律上の婚姻関係にない男女の間に生まれた子どもで、父に認知されていない子どものことを言うそうです。ですから、ほんとうの子どもではないので本来受けるはずの懲らしめを受けることができません。そして小さい時にそのようなしつけを受けられないと、その子どもの心は歪み、勝手気ままになり、やがて破壊的な行動に発展することさえあるのです。

 

聖書には、「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」(ローマ3:23)とありますが、人はみな生まれながら罪を持っているので、何が良いことで正しいことなのかがわかりません。ですからだれからも教えられていないのに悪いことをするのです。それは人が生まれながらに悪であり、何が正しいことなのかを知らないので、自己中心的になっているからなのです。ですから、何が良いことで正しいことなのか、何が悪いことなのかを教えてあげなければなりません。子どもが悪いことをすればそれが悪いことであるということを理解させなければならないのです。そして、悪いことを繰り返さないように、根気よく、しつけなければならないのです。・・・しなさいとか、・・・しなきゃだめだよ、というのは、口うるさいかもしれませんが、いくら口うるさいと言われても、わかるまで何度も何度も言って教えてあげなければなりません。もしことばで教えてもわからないときは、あるいは命の危険を感じるような時には、たたいてでも教えてあげなければなりません。ただし、その場合でも感情的にならないように、また、子どもに恐怖心を与えないように十分注意しなければなりません。

 

私たちは、言葉で言っても聞かない時、あるいは、命の危険がある時にはたたいてでもしつけることにしましたが、どちらかというと家内は言うことを聞かない時には、言うことを聞くまで何度も繰り返して言い聞かせていたように思います。でも車が来ているのに平気で横切ろうとしたり、命の危険を感じるようなときには、スパンクをしてでも教えてわからせました。普通はやらないので、やる時はすごいですよ。見ている側で涙がでるほどでした。娘のおしりをたたくってどんなに苦しいことかと思いますが、どうしてもしつけたい時にはたたいて教えることもあるのです。でもそれは子どもを虐待することとは違います。虐待は暴力であり、子どもに恐怖心を与えることですが、子どもを懲らしめことは、子どもを愛し、子どもに正しいことを教えるために行うものです。ですから、子どもはそれが自分のためにやっているということがわかるので、その時は、「いちいちうるさいなあ。」とか、「本当に面倒くさい。」、「何かあるとすぐにガミガミ言うんだから。」と思うかもしれませんが、後になると、「ああ私のためにやってくれたんだ」ということがわかり、心から親を尊敬するようになるのです。しかし、たとえむちを加えるようなことがあっても、小学校に入るまででした。あとは言葉だけで十分なんですね。

 

いずれにせよ、あなたに苦しみに会うのはあなたが神に見捨てられているからでも、過去のことで罰を受けているからでもありません。あなたが苦しみを受けているとしたら、それは神があなたを愛し、あなたを子として扱っておられるからなのです。あなたが立派なクリスチャンとして成長するために、あえて懲らしめを与えておられるのです。であるならば、私たちはたとえ困難や苦しみにぶつかることがあったとしても、この神の愛を確信して、ゴールに向かって走り続けていきたいと思うのです。

 

Ⅱ.ご自分の聖さにあずからせるために(10)

 

次に10節をご覧ください。ここには、神が私たちを懲らしめる理由が書かれてあります。それは、私たちをご自分の聖さにあずからせるためであるということです。

「なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分の良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分のきよさにあずからせようとして、懲らしめるのです。」

 

人間の父親は不完全なので、自分が良いと思うまま懲らしめるのですが、そこには間違いもあります。けれども、私たちの霊の父である神様は、完全な方であり、間違いのない方なので、本当の意味で、私たちにとって、益となるために懲らしめるのです。それは私たちをご自分の聖さにあずからせるためであるということです。私たちのクリスチャンライフの目標は、キリストのようになるということです。キリストに似た者になること、キリストのご性質に変えていただくということです。いったいどうしたらそのようになるのでしょうか。それは苦しみを通してです。苦しみを通して私たちの品性を整えてくださるのです。だからパウロはこう言っているのです。ローマ5章3~5節です。

「そればかりでなく、患難さえも喜んでいます。それは患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。」

 

パウロは、キリストによって神の子とされたということ、神との平和を持っているということを喜びましたが、それだけではく、患難さえも喜んでいると言いました。なぜなら、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っていたからです。どうやってキリストのような品性、愛、聖さ、心の広さを持つことができるのでしょうか。患難によってそのような品性、そのような人へと整えられていくのです。

 

アブラハムの孫で、イサクの子であったヤコブは神と格闘して、もものつがいがはずされてしまいました。それは彼の力が砕かれたことを意味します。彼のプライド、自信、能力、自己主張、自慢、肉の性質のすべてが砕かれたのです。それで彼は自分の力ではやっていけないことを悟り、神の力に全面的により頼む者に変えられたのです。人間的にずるがしこい者から神によって勝利する者、イスラエルへと変えられたのです。

 

またモーセは、人々から羨望のまなざしを向けられていた栄光の人生を歩んでいましたが、だれにも知られない孤独の荒野の人生に導かれることによって、へりくだること、従順を学びました。このように患難や苦しみを通して、私たちの品性は磨かれ、整えられ、神の聖さにあずかるようになるのです。

 

福島第一の半谷さんという姉妹は、入信の当初から厳しい主の訓練を受けました。田舎の檀家総代の長男の嫁として嫁いだため、キリスト教徒になることが許されず、即離縁して出て行くようにとお姑さんから言い渡され、それ以来、半年間大家族の中で口をきいてもらえなかったと言います。けれども、そのことが彼女の信仰を筋金入りにする素晴らしい恵みの機会となったのです。

 

世界的に有名なリバイバリストであったD.L.ムーディーの母親は、夫が五人の子どもを残して亡くなりましたが、少しも落胆したり、失望したりすることなく、苦しい生活の中にあっても、子どもたちに信仰による教育を与えました。彼女は、子どもたちを孤児院に入れるようにという勧めを断り、次のように言いました。「私の両腕が生きて私についている限り、私の子どもを孤児院や親戚に送ることはできません。母親ほど、子どもを思い、子どものために祈ってやれる人はこの世のどこにもいないのですから。」やがて彼女の子どもたちの中から、アメリカとイギリスをゆさぶった偉大な主のしもべ、ムーディーが誕生したのです。

 

ですから、苦しいからとあきらめないでください。いったいその苦しみは何のためなのかを覚えていただきたいのです。そしてそれは神があなたをご自身の聖さにあずからせようとしてあなたに与えておられる賜物なのです。それがわかったら、あなたはむしろ喜んでそれを受け止めることができるのではないでしょうか。

 

トルストイの「靴屋のマルチン」は、おじいさんが奥さんを亡くし、さらに一人息子も病気で失い、生きる力を亡くしているところから始まります。ところが、聖書を読むように示されて読み始めると、不思議な生きる力が内から沸き上がるのを体験するようになるのです。

聖書の語る希望は、災いや困難から守られた無菌状態での希望ではありません。かえって、試練の中でどうして立っていられるのだろうかと思うような、天来の力に満ちた希望なのです。泥水の中に身を置いてなおキリスト者は、いぶし銀のような信仰からくる希望の花を咲かせることができるのです。

 

Ⅲ.平安な義の実を結ばせる(11)

 

最後に、このように神の懲らしめを受けた人々はどうなるのかを見て終わりたいと思います。11節にはこうあります。「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」

 

これはスポーツでも、勉学でも、ビジネスでも、どの世界でも同じですが、その過程、プロセスにも痛みが伴います。スポーツのトレーニングで、筋肉に負荷をかけない限りは、筋力はついてきません。筋肉を傷めることで、筋肉が強くなっていくのです。同じように、信仰も負荷をかけることによって強くなっていきます。その負荷こそ懲らしめ、苦難なのです。それはそのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に、平安な義の実を結ばせるのです。

 

ある人々は、苦しみを避けたいと考えます。苦しみは自分の穏やかな信仰生活を破壊するかのように思えるからです。だから、できるならあまり問題や煩わしいことに関わりたくないと思うのです。しかしながら、苦しみは信仰を破壊するどころか、かえって強くします。苦しみは神との交わりから私たちを遠ざけるのではなく、むしろ神との交わりを強固なものとし、神なしには生きられないということを体験させてくれるのです。こうして、私たちが神の御心にかなった信仰生活を送れるようにしてくれるのです。

 

余り賢くない親は、子供を育てる時、子供の前に置かれている障害物を取り去り、なるべく楽なコースを歩めるようにしてやることが良いことだと考え、いろいろ手を貸し、子供を助けようとしますが、それは決して良いことではありません。それによってひ弱で、自分のことしか考えられないようなエゴイストになってしまうからです。よく「かわいい子には旅をさせろ」ということわざがありますが、子供が可愛いと思うなら、甘やかして育てるのではなく、世間の厳しさを教えて育てた方がしっかり育つのです。ディズニーの「ライオンキング」を思い出します。「百獣の王ライオンは、我が子を谷底に落とし、這い上がってきた子供だけを育てる」のです。自分の子どもがかわいいと思うなら、むしろそこに適当な障害物を置いてやり、それを自分で乗り越えて行けるように仕向けなければならないのです。苦しみを経験した人でなければ、苦しんでいる人の気持ちを本当の意味で理解することはできません。苦しんだことがある人は、苦しんでいる人に対する思いやりを持つことができ、あわれみ深い人になることができるのです。

 

神が与えてくださる苦しみもそれと同じでそれをまともに受け止める人は、神の御心にかなった人になることができるわけです。わざわざ誰かに障害物を置いてもらわなくても、最初からそこに障害物があるということは、そのことを自然に学ぶことができるわけですから、それほど感謝なことはないのです。それゆえ、詩篇の記者はこう言ったのです。

 

「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びまた。」(詩篇119:71)

 

苦しみに会ったことは、私にとって不幸なことでした、ではありません。幸いなことでした。なぜなら、あなたのことばを学んだからです。神がどのような方であるかを学んだ。神がいかにあわれみ深く、恵み深いかを学びました。神がどれほど私を愛しておられるのを学びました。私たちは神のことをもっと知りたいと思ってもなかなか知ることができませんが、苦しみを通してそれがわかった。それは幸せではないでしょうか。

 

そして、これによって訓練された人々に、平安の義の実を結ばせるのです。平安の義の実とは何でしょうか。これは直訳では、「義という平安の実」となります。それは神の御心を意味します。それは平安をはじめとする御霊の実を意味すると言ってもいいでしょう。つまり、神が与えてくださる苦難や試練を嫌がらずに受け止める時、御霊の実を豊かに結ぶ神の御心にかなった人、イエス様のような人になることができるということです。

 

であれば、どんな苦難の中にあっても、どんな試練が襲いかかろうとも、何度倒れても立ち上がり、信仰のレースを、忍耐をもって最後までゴールを目指して走り続けようではありませんか。それができるようにと、主イエスはいつもあなたのすぐそばにいて、あなたを助けておられるのです。

申命記24章

 

 申命記24章です。まず1節から5節までをご覧ください。

 

 1.結婚、離婚、再婚について(1-5

 

「人が妻をめとり夫となり、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなり、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、彼女がその家を出て、行って、ほかの人の妻となり、次の夫が彼女をきらい、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、あるいはまた、彼女を妻としてめとったあとの夫が死んだ場合、彼女を出した最初の夫は、その女を再び自分の妻としてめとることはできない。彼女は汚されているからである。これは、主の前に忌みきらうべきことである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもたらしてはならない。」

 

ここには、人が妻をめとり、その妻に何か恥ずべき事を発見して、気にいらなくなり、離婚した場合、どうしたら良いかが教えられています。まずここには「妻に何か恥ずべき事を発見したため」とありますが、この恥ずべき事とはいったいどんな事でしょうか。多くの学者は、これは姦淫のことではないかと考えていますが、これは決して姦淫ではないことは明らかです。なぜなら、姦淫を行った者は、離婚ではなく死をもって償わなければならなかったからです。ですから、それ以外の何かで、夫が気にいらない事があった場合ということなのでしょう。そのような場合は、夫は離婚上を書いて彼女を家から去らせることができました。

 

あれっ、ちょっと待ってくださいよ。妻が気に入らなくなった場合、勝手に離婚しても良かったのですか?このことについてイエス様はこう言っています。マタイの福音書193節から9節です。ここではパリサイ人がイエス様のところにやって来て、「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」と尋ねます。それに対してイエス様はこう言われました。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりはではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」(マタイ19:4-6そして、「だれでも、不貞のためではなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。」(マタイ19:9と言われたのです。つまり、妻を離別することは、神のみこころではないということです。それならばなぜここで、妻が気に入らなくなったら、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせなさいとあるのでしょうか。それはイエス様も言われたように、人々の心がかたくななので、その妻を離別することを許したのです。つまり、離別することは神のみこころではなく、罪なのですが、自己中心的な人間はそういうことをするので、そういうことをする場合は、そのようにしなさいと言われたのであって、初めからそういうわけではなかったのです。

 

しかし、ここで問題になっているのは離婚しても良いかどうかということよりも、そのように離別された妻が、ほかの人の妻となり、次の夫も彼女をきらい、離婚状を書いてその女を去らせた場合、あるいはまた、その夫が何らかの理由で死んだ場合、最初の夫は、その女を再び自分の妻としてめとることができるかということです。できません。彼女は汚されているからです。それは主の忌みきらうことであります。そのようなことをして主の相続地を汚してはならないのです。

 

これはどういうことでしょうか。ここで、彼女は汚れていると言われていますが、彼女は好きで汚れたのではありません。それはすべて男の身勝手な思いによってそうさせられたのであって、彼女には何の罪もないのです。ですから、ここで問題になっているのは彼女が汚れているかどうかということではなく、最初の夫の身勝手な行動が戒められているのです。嫌になったから別れたいとか、やっぱりあなたがいいから戻って来てという不誠実な態度を、主は忌み嫌われるということなのです。ですから、この女性がほかの男性と再婚することは禁じられていないのです。そのように一方的に夫から離婚させられ、家から去らせられても、再婚は許されていました。女の権限が全くなかった古代社会で、離婚と再婚が許されていたことは、妻により大きな傷を与えないための神の方法だったのです。

 

このことは、男と女の関係だけのことではなく、キリストと私たちの間にも当てはまることです。私たちは神の恵みにより、キリスト・イエスを信じることで神の子とされました。それはある意味でキリストとの婚姻関係に入ったことを意味しています。しかし、現実の生活は厳しくて、このまま信仰を続けていくことは困難なのでもう信仰を捨てよう、そして、もう少し落ち着いたら、人生を精一杯満喫して、もういいです、もう何の未練もないです、という時に再び信仰生活を始めようというのであれば、それはこの最初の夫がしていることと同じことです。もちろん、信仰から離れていた者が再び戻ってくるということは神のあわれみによって行なわれるかもしれませんが、しかし初めからそのようなことを考えて信仰から離れるということがあるとしたら、それは汚れることであり、再び戻ることはできないということを覚えておかなければなりません。

 

ところで5節を見ると、ここには、新しく結婚して1年間は、その夫を戦場に送ったり、他の社会的な義務を負わせてはならない、と命じられています。なぜでしょうか。なぜなら、もし、彼が戦争に出て死亡した場合、子孫もなく、妻を未亡人にしてしまうからです。夫は、自分の家のために自由の身になって、めとった妻を喜ばせなければなりません。このことからも、神はあわれみ深い方であり、結婚を通して私たちに喜びを与えてくださる方であるかがわかります。

 

2.貧しい者、弱い者たちに対する配慮(6-16

 

次に6節から15節までをご覧ください。6節には、「ひき臼、あるいは、その上石を質に取ってはならない。いのちそのものを質に取ることになるからである。」とあります。ひき臼は、家族のための日ごとのパンを作るのに、必要不可欠な道具でした。毎朝、女たちがひき臼を回して穀粒ををひき、その日のパンのための粉にしました。従って、ひき臼、あるいは上石を質に取られてしまうなら、家族が食べることができなくなり、いのちそのものが取られることになってしまいます。それで、ひき臼を質に取ることが禁じられているのです。朝ごとにひきうすの音が聞こえるのは、平和と幸せのしるしだったのです。

 

7節には、「あなたの同族イスラエル人のうちのひとりをさらって行き、これを奴隷として扱い、あるいは売りとばす者が見つかったなら、その人さらいは死ななければならない。あなたがたのうちからこの悪を除き去りなさい。」とあります。人をさらい、奴隷として外国に売り飛ばすといったことの禁止です。このようなことは主が忌みきらわれることであり、主の相続の地においてはあってはならないものなのです。

 

また、ツァラートの患部には気を付けて、レビ記にあったように、祭司が教えるとおりにしなければなりませんでした。祭司はそれをよく調べ、それがツァラートであると判断したら、隔離してもう一度調べなければなりませんでした。そして、きよめられた者だけが宿営に戻ってくることができました。なぜ、そのように慎重にしなければならなかったのでしょうか。なぜなら、9節にあるように、それが神からの罰であったかもしれないからです。モーセはここでイスラエル人に、ミリヤムのことを思い起こさせていますが、それはミリヤムがモーセを非難したために、主の前に連れて来られ、その罪のためにツァラートなりました。彼女は七日間、宿営の外にとどまっていなければなりませんでした。そのように、それが神からの刑罰であるかもしれないのです。

 

10節から13節には、担保を取ることに関する規定が記されてあります。すでにひき臼や上石を担保として取ることについては6節で禁止されていましたが、それ以外の担保を取って金を貸す場合のことです。10,11節には、担保を取るために、その家に入ってはならないと言われています。外に立っていなければなりませんでした。どうしてでしょうか。お金を貸す者がその家に入っていけば、その人の家に何があるかと注意深く見て回り、担保物件として取ってしまう危険があったからです。担保物件の設定は、あくまでもお金を借りる者が決めなければなりませんでした。ここにも、貧しい者への神のあわれみが示されています。

 

また、12節には、もしその人が貧しい人であるなら、その担保を取ったままで寝てはならないと命じられています。日没のころには、その担保を必ず返さなければなりませんでした。なぜなら、その上着は夕方になって寝るとき、彼の身体を寒さから守る唯一の物であったからです。ですから、彼がそれを着て寝ることができれば、彼はあなたを祝福するだろうし、また、それは神の前に喜ばれることなので、結局のところ、あなた自身が祝福されることになるというのです。そのことがここでは「義」となるとまで言われています。それは神の前に義なる行為として認められるということです。神によって贖われた私たちにふさわしい態度は、この神にならってあわれみ深くあることであり、貧しい人たちを顧みることなのです。

 

14節は、貧しい雇い人を働かせる場合の規定です。貧しい雇い人を働かせる場合は、日没前までに、賃金を払わなければなりませんでした。この定めは、それが同胞イスラエル人であっても、在留異国人であっても、同じように適用されました。彼らは貧しいことで、その日の収入で、その日を食べていかなければならないため、賃金を先送りされては、生きていくことができなかったからです。ですから、賃金を先送りすることは、彼らをしいたげることであり、罪なのです。このことを見ても、神が貧しい人たちのことをどれほど顧みておられる方であり、あわれみ深い方であるかがわかります。

 

16節には、各個人が自分の罪の結果として死刑になる以外に、親が子どもの罪のために殺されたり、子どもが親の罪のために死刑にされるようなことがあってはならないと教えられています。家族が罪を犯すと、多かれ少なかれ、その親や子どもが影響を受けることになりますが、あくまでもそれはその罪を犯した本人の問題であり、家族がその責任を受けるということがあってはならないのです。

 

3.在留異国人やみなしごに対して(17-22

 

最後に17節から22節を見て終わりたいと思います。17節には、「在留異国人や、みなしごの権利を侵してはならない。やもめの着物を質に取ってはならない。思い起こしなさい。あなたがエジプトで奴隷であったことを。そしてあなたの神、主が、そこからあなたを贖い出されたことを。だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。」とあります。在留異国人やみなしごの権利を侵してはいけません。なぜなら、彼らもかつてはエジプトで奴隷だったからです。そのような彼らを、神はあわれみをもって救い出してくださいました。であれば、今度は彼らがそのような不遇な人たちに対してあわれみ深くなければなりません。

 

19節から21節には、「あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。あなたがオリーブの実を打ち落とすときは、後になってまた枝を打ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。ぶどう畑のぶどうを収穫するときは、後になってまたそれを摘み取ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。」とあります。

 

レビ記19:9や、23:22には、「畑の隅々まで刈ってはならない。収穫の落穂を集めてはならない。」と述べられていました。農作物を収穫する時に、完全に収穫するのではなく、わざわざ一部を残しておかなければならなかったのです。それは、在留異国人や、みなしご、やもめたちが、残っている未収穫分を食べて生きることができるためです。ここにも在留異国人やみなしご、やもめに対する配慮が語られています。そのようにすることによって、主があなたのすべての手のわざを祝福してくださるためです。

 

今日の社会では、文字通り適用することは難しいかもしれませんが、しかし、その精神は継承され、実践されなければならない大切な信仰の基準です。不遇な隣人たちに対してどのように思いやり、彼らの必要に対してどのように支援できるかを、より具体的に実践する必要があります。それは必ずしも経済的な支援に限らず、霊的、精神的な支援も含みます。今日の社会では、どれほど多くの人たちが生活に困窮していることでしょう。

 

先日さくらチャペルで行われたキッズの集会の時、ふたりのお母さんとヨハネの福音書9章から聖書の学びの時を持ちました。生まれつき目が見えない盲人に対して、弟子たちが、「この人がこのように生まれたのはこの人が罪を犯したからですか、それとも、この人の両親が罪を犯したからですか。」と尋ねると、イエス様は、「この人が罪を犯したからではなく、この人の両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」(ヨハネ9:3と言われました。すると、このふたりのお母さんは、それぞれ自分の子どものことで悩みを打ち明けられたのです。はた目では何の問題もないかのようでも、みんな何らかの問題を抱えておられるんだなぁと思ったとき、そのような問題に取り組むことは、こうした在留異国人やみなしご、やもめたちのために労することでもあるということを思わされました。

 

ジョージ・ミューラーは1805917日、ドイツ領プロセインで生まれ、英国に長く暮らしました。彼はA.H.フランケの生涯を読んで深く感銘を受け、30歳の時、英国ブリストルで孤児院を始めました。彼が初めて孤児院を始めた時、準備したものはもらいものの皿3枚とフォーク4つ、そして野菜をおろすおろしがね1枚だけでした。それから62年間、750万ドル以上がその孤児院に送られてきましたが、彼は一度も人に頼んだり、訴えたりしたことはありませんでした。

英国の地に足を踏み入れてから、彼はその日誌にこう書き記しています。「私の残りの人生すべてを生きておられる神にささげる。」彼は聖書のみことばに基づいた原理にそって生きました。そして彼の人生は死ぬまで一貫していました。彼はだれにも助けを求めたり、それをほのめかしたりしませんでした。

晩年、彼は42か国にわたりほぼ20万マイルを回り、300万人のたましいに福音を伝えました。このように神に仕えた後、18983月10日の早朝、93歳でこの世を去りましたが、彼の生涯は、ただ神に祈り、神が導かれた孤児院の子どもたちにあわれみを示すということでした。それは彼のヒューマニズムから出たことではなく、この神の教えから示されてのことだったのです。

 

イエス様は、「あなたも行って、同じようにしなさい。」(ルカ10:37と言われました。私たちに示されていることは違うかもしれませんが、原則は同じです。すなわち、在留異国人やみなしご、やもめたちをあわれむことです。天の父があわれみ深いように、私たちもあわれみ深い者でありたいと思います。それがエジプトから救い出された者としての、罪の奴隷の中から贖われた者にとって、ふさわしいあり方なのです。

ヘブル12章1~3節 「イエスから目を離さないで」

きょうは、ヘブル人への手紙12章1~3節から、「イエスから目を離さないで」というタイトルでお話します。このヘブル人への手紙の著者は、11章で信仰に生きた人たちを例に取り上げ、「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を、忍耐を持って走り続けようではありませんか。」と勧めました。では、どのようにして走り続けたらいいのでしょうか。聖書にはしばしば私たちの信仰生活が競技やスポーツにたとえて説明されていますが、ここでも信仰生活を競技にたとえ、そのために必要な三つのことを教えています。

 

Ⅰ.いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てる(1)

 

まず、第一のことは、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てるということです。1節に、「私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。」と勧められています。ここでは競争とありますが、どちらかというと短距離走よりも長距離走をイメージしてください。長距離走、あるいはマラソンを走るのに、荷物を背負って走る人はいません。できるだけ身を軽くして走ります。靴にしても、ウエア―にしても、できるだけ軽くして走るわけです。それと同じように、信仰のレースをする人も、レースの障害になるようなものを取り除かなければなりません。

 

では、信仰の競争において障害となるものは何でしょうか。ここには、いっさいの重荷とまとわりつく罪とあります。いっさいの重荷とまとわりつく罪とは、具体的にはどんなものを指すのでしょうか。

この「捨てる」という言葉の原語は「アポティセミー」という言葉ですが、これはローマ人への手紙13章12節でも使われています。「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着ようではありませんか。」この「やみのわざを打ち捨てて」の「打ち捨てて」が「アポティセミー」です。ではこのやみのわざとは具体的にどのようなものかというのが、次の13節にこうあります。「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。」です。ですから、信仰のアスリートとして、走り続けたいと思うなら、ここにあるようなやみのわざを捨てなければなりません。

 

また、この言葉はエペソ人への手紙4章22節でも使われていて、そこには、このようにあります。

「その教えとは、あなたがたの以前の生活については言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、」

この「脱ぎ捨てるべきこと」の「脱ぎ捨てる」が「アポティセミー」です。信仰のアスリートとして勝利するためには、余分なもの、邪魔なもの、重荷になるもの、障害になるものは、脱ぎ捨てなければなりません。それは私たちが以前身に着けていた、人を欺く情欲といったものです。

 

また、同じエペソ人への手紙4章25節にも使われていて、そこには、「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。」とあります。ここでは捨てるべきものとして挙げられているのは、偽りです。隣人に対して偽りではなく、真実を語らなければなりません。

 

また、コロサイ人への手紙3章8節もこの言葉が使われていて、そこには、「しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。」とあります。ここでは、怒り、憤り、そしり、また、口から出る恥ずべきことばを捨ててしまいなさい、とあります。

 

また、ヤコブ1章21節には、「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」 とあります。みことばがなかなかすなおに受け止められませんという人は、もしかしたらここに原因があるのかもしれません。それは、捨て去っていないことです。私たちはすべての汚れやあふれる悪を捨て去らなければなりません。それらのものを捨て去って、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなければならないのです。

 

次にⅠペテロ2章1、2節を開いてください。ここには、「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」とあります。

ここではすべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てるようにと言われています。私は信仰を持って何年も経つのになかなか成長していないという方がおられます。謙遜に言う場合もありますが、本当にそのような方もおられます。いったいどこに原因があるのでしょうか。捨てていないことです。ここには、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、とあります。そのようなものを捨てなければなりません。そして、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めるなら、それによって成長し、救いを得ることができます。それを捨てなければ、それらを身にまとっているなら、いつになっても成長することはできません。

 

また、思い煩うこと、心配することも大きな重荷です。なぜなら、思い煩いは霊的な力を削いでしまうからです。人は自分の将来に目を向けて、起こり得るすべてのことを想像しますが、想像することのほとんどは、否定的なことなのです。私たちは、未来の不確かなことや、過去の出来事の結果 として起こるのではないかと案ずる事柄で、自分を引き裂いてしまうのです。

 

ある精神科医の調査によると、人が思い煩うことの40パーセントは絶対に起こり得ないことであり、30パーセントはどうすることもできない過去の出来事、12パーセントは人から受けた批判(それもほとんど事実無根の話ばかり)、10パーセントは自分の健康のこと(心配すればするほど健康状態が悪くなるのだが)、8パーセントは実際に直面する可能性のある問題だそうです。何というエネルギーの無駄づかいでしょうか。だからイエス様はこう言われたのです。

 

「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」(マタイ6:34)。

 

明日のことは神に委ねて、その日その日を精一杯に生きることが必要なのです。こうした思い煩いや心配が、私たちの信仰のレースを重くし、前に進むことを妨げてしまうのです。

 

ところで、「重荷」と訳されていることばの原語の意味は、重要なものとか、突出しているもので、それが転じて重荷だとか、邪魔もの、やっかいなもの、足手まといのものと訳されるようになりました。非常に興味深いことです。私たちにとって、重要なもの、目立つもの、突き出てるものが、時として不必要な重荷となって、信仰のレースの足手まといになることがあるということです。これは大切なんです、これがないとダメなんですというものがあるとしたら、もしかしたらそれが重荷となってあなたの信仰のレースを妨げていることもあるのです。

 

ある婦人が携挙の夢を見ました。他の人はみんなスーと空中に挙げられていくのに、自分だけなかなか天に引き挙げられていかないので、「あれっ、どうしたのかなぁ、ちょっと体重が増えたからかなぁ」と思ってよく見たら、足首にロープが巻き付けられていて、そのロープの先を見ると、自分の家財道具がいっぱい縛り付けられていたというのです。それがゆえに、なかなか上に挙がっていかなかったんですね。その夢を見た方ははっとさせられたと言います。

 

私たちにもそのような重荷があるのではないでしょうか。そうしたものが障害になって、なかなか前へ進めないことがあるのです。物を持つこと自体は罪ではありません。しかし、その物が場合によってはあなたの足を引っ張ることにもなりかねないのです。物を持つことは、お金を持つこと、お金を貯めることは、必ずしも悪いことではありませんが、それに執着したり、そのこだわりがあると、霊的に成長するための障害物になることがあるということを覚えておかなければなりません。そういえば、イエス様は種まきのたとえの中で、いばらの中に蒔かれた種は、いばらが成長を塞いだで実を結ぶことができなかったと言われました。いばらとは何でしょう。この世の心づかいや富の惑わしです。そういったものがあると実を結ぶことができないのです。

 

旧約聖書の聖徒たちも、さまざまな重荷を抱えました。その時彼らはチャレンジを受けました。それを捨てるべきか、それとも持ち続けるべきか。11章を見る限り、彼らはその重荷を捨て去ることができたことがわかります。

 

また、ここにはいっさいの重荷だけでなく、まとわりつく罪を捨てて、とあります。この罪ということばの原語は「ハマルティア」です。ハマルティアは、アーチェリーで的を外すということばから来ています。ですから、的はずれが直訳です。皆さんは今、的に向かって信仰のレースをまっすぐに走っているでしょうか。それとも、的からはずれているでしょうか。勝手に自分で的を設定して、これがゴールだと、これがクリスチャンとしての私の目指すべきところだと突っ走ってはいないでしょうか。それは自分が設定したゴールであって、そのゴールに向かって走っているのは的はずれです。そうすると、遅々としてなかなか信仰の歩みが進まない、霊的に成長しないということも起こってきます。ですから、私たちにとって的が外れていることがないかどうかを、聖霊様によって示していただかなければなりません。聖書には、みこころに反することは罪だと言われています。信仰から出ていないこともそうです。なすべき正しいことをしないのも罪だとも言われています。ですから、だれの目にも罪だというのがあれば、あなた個人にとって罪だというものもあります。そのような罪も捨て去らなければなりません。

 

詳訳聖書では、この「まとわりつく罪」を、「たやすく、巧妙に、悪賢くまといつく、私たちを巻き込む罪」と訳しています。私たちの多くは罪を犯そうと思って犯すわけではなく、知らず知らずのうちに、無意識のうちに、気が付いたら道を踏み外していたということが多いのです。それほど巧妙に、罪の誘惑が仕掛けられているのです。ですから、私たちは常にそのことを意識して、聖霊によって私たちの内側を探っていただき、もし私たちの中に罪があるなら悔い改めて、正しい道へと導いていただかなければなりません。

 

ダビデは詩篇の中でこう歌っています。「 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」(詩篇139:23-24)

 

この祈りを、私たちの祈りとしたいものです。そして、私たちにまとわりつく罪があるならば、それを捨てて、神が定めてくださった信仰の走路に立ち返り、その道を走り続けなければなりません。幸いなことに、私たちには、こうした重荷や罪といったものよりもはるかに大きな力を持っておられる神がともにいて助けてくださるので、それらのものをかなぐり捨てることができるのです。

 

 

Ⅱ.イエスから目を離さないで(2)

 

第二のことは、イエス様から目を離さないということです。2節をご覧ください。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをもろともせずに十字架を忍び、神の御座に着座されました。」

 

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離すなとありますが、それが勝利の秘訣です。マラソンランナーはじっとゴールを見ています。後ろばかり見ていたら遅れをとってしまいます。また、回りのランナーばかり見ていたら、焦ってペースを乱し、遅れをとってしまうことになります。もしあなたが優秀なランナーならただゴールを目指して一心不乱に走っていきます。そのゴールとはイエス・キリストです。そのイエスはただのゴールではなくスタートでもあります。イエス様は信仰の創始者であり完成者なのです。イエス様は私たちに救いを与えてくださった方であり、それを完成してくださる方です。

 

新改訳聖書には、この「創始者」ということばに※が付いていますが、下の欄外を見ると「指導者」とあります。ですから、イエス様は単に私たちに信仰を与えてくださったというだけでなく、その完成に向かって共に歩み、指導してくださる方であります。まさにイエス様は信仰のリーダーであり、信仰の先駆者であり、信仰の指導者なのです。常にイエス・キリストが私たちのリーダーであるということです。このイエスが目標です。私たちよりも先にこの信仰のレースを走ってくださいました。先ほど1節に、信仰の先輩者たちも私たちを応援する力強い応援団であるということを見ましたが、何よりの励みはイエス・キリストが私たちを応援してくださることです。完成に向けて指導してくださるということです。イエス様がいなければ、私たちはこの信仰のレースを走り抜くことはできません。

ピリピ人への手紙1章6節にはこうあります。「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださるということを私は堅く信じているのです。」

イエスが信仰の創始者であるならば完成者でもあります。始められたことを中途半端で投げ出される方ではありません。イエス様がイニシアチブをとってこの世に来てくださり、イエス様が先に私たちを愛してくださって、イエス様が先に信仰のレースを走り抜いてくださいました。全部イエス様が先なんです。初穂となって最初に死の中からよみがえられました。そのあとに続くのが私たちです。ですから、イエス様が始められたレースを、続いて走っているわけです。ですから、そのイエスが最後までその信仰のレースを完了させてくださる、ゴールを切らせてくださると約束しておられるのです。

 

そのイエスから目を離さないでいなければなりません。この「離さない」ということばは、他のものから目をそらして、あるものにしっかりと目を留めること。凝視することです。他のものからきっぱりと目を離して、イエスだけを凝視するということです。これは大切なことです。なぜなら、私たちは同時に二つのものを見ることができないからです。人は、神にも仕え、富にも仕えることはできません。二つのものを見ようとすれば遅れをとってしまうからです。コースから外れてしまうのです。そういうことがないように、イエス様が模範となってくださいました。ですから、このイエスを見続けるならコースから外れることがなく、最後まで信仰のレースを走りつづけることができるのです。

 

ところで、イエスさまはなぜ、このような苦しい信仰のレースを走り抜かれたのでしょうか。その理由が次のところに書かれてあります。「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」

 

ここには苦しみだけでなく、喜びもあったことがわかります。苦しみの中にも喜びがあります。ゴールのないマラソンを走るような人はいないと思います。それはただむなしいだけです。何のためにこんなに苦しい思いをしなければならないのか、何のために生きなければならないのか、それがわからなければ苦しいだけですが、ゴールがわかり、その先にどのようなものが待っているかがわかっているなら、どんなに苦しくとも、その喜びを胸に、それを先に見て、前に進むことができます。

 

それでは、イエス様の喜びとは何だったのでしょうか。それはその後にご自身が復活するということ、そして、その十字架と復活を通して成し遂げられた救いの御業を信じる者に永遠のいのちがもたらされるということでした。それをちょっと垣間見ることができたのが、イエス様と一緒に十字架に付けられた強盗の一人が、イエス様を信じた瞬間でした。彼は十字架の苦しみの中でイエスをののしったもう一人の強盗のことばをいさめると、イエス様に向かってこう言いました。

「イエスさま。あなたの御国の暗いにおつきになるときには、私を思い出してください。」(ルカ23:42)

するとイエスさまは彼に、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)と言われました。

イエスさまは十字架の苦しみの中にありながらも、パラダイスを見ることができました。その中にこの強盗のひとりもいる。また、それに続く何十、何万という人々が救われて、永遠のいのちがもたらされるということを知っていたので、その苦しみを耐え忍ぶことができたのです。

 

時々、私は考えることがあります。いったい何のために伝道するのだろうか。何のために教会を開拓するのだろうか。それは教会を通して神の福音が宣べ伝えられ、そこで多くの人々が救われ、主を知るようになるためです。想像してみてください。あの町でも、この町でも、主を信じて救われる人たちが波のようにやって来て、主をほめたたえるようになるのです。それは私たちの時代ではないかもしれない。ずっとずっと後の時代かもしれない。しかし、その時彼らはこういうでしょう。「ああ、ここに教会が出来て本当に良かった。こうして主の救いにあずかり、主を礼拝することができるのは本当に感謝なことだ・・・と。」それはふって沸くようなものではなく、多くの労苦がささげられますが、やがてそのような喜びがもたらされるということを思うなら、そうした労苦も乗り越えることができます。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」(詩篇126:5)

 

イエスさまがはずかしめをもろともせず十字架を忍ぶことができたのは、この喜びのゆえであったのです。自分が復活することも喜びでしたが、それだけでなく、ここにいる私たち一人ひとりが永遠の滅びから救われて永遠のいのちをいただき、共にパラダイスに入ることが、イエスさまにとっての何よりの喜びだったのです。私たちの姿が見えたんです。十字架につけられながら、今ここにいる皆さんの姿がイエスさまには見えたのです。私たちも見るべきです。私たちが携挙されて空中で主と出会うのを。そうすれば、どんなに苦しくても、そこには言葉には言い尽くせない喜びが待っているのです。そして、私たちの目の前にどんな苦しみがあっても、それを耐え忍び、信仰のレースを走り抜くことができるのです。

 

Ⅲ.イエスのことを考えなさい(3)

 

ですから、イエスさまのことを考えましょう。3節にはこうあります。「あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」

 

罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方とは、イエスさまのことです。イエスさまは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方です。このイエスさまのことを考えなければなりません。なぜなら、それによって、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。皆さん、いったいなぜ私たちは元気を失い、疲れ果ててしまうのでしょうか。それはこのイエスから目を離してしまうからです。自分のことを見たり、自分のことばかり考えて、自分にばかりフォーカスを当てるとどうなるでしょうか。落ち込みます。または反対にうぬぼれてしまいます。他人のことばかり考えたると、回りのことばかり考えるとどうなるでしょうか。ねたんだり、腹が立ったりします。サタンことばかり考えるとどうなるでしょうか。恐怖や敗北感に襲われます。罪について考えることは大切なことですが、罪のことばかり考えるとどうなるでしょうか。罪責感にさいなまれてしまいます。ですから、私たちはそのようなものを見るのではなく、イエスさまを見なければなりません。イエスのことを考えなければならないのです。

 

この「考える」ということばは、繰り返して考えるとか、深く考えるという意味です。皆さんはイエスさまのことを聞いたことがあります。聖書も読んだことがあります。メッセージも聞いたことがあります。私たちはそのようにして自分のキリスト像を持っているわけですが、正しいキリスト像を持つためには、たまに聞くだけでなく、毎日聞かなければなりません。毎日、毎日、何度も繰り返して聞かなければなりません。特に、あなたが困難の中にあるとき、試練に直面しているときは、イエスさまのことを考えてください。深く思い巡らしてください。そしてイエスさまがどのようなお方なのかをよくとらえてください。そうすれば、あなたは元気を失い、疲れ果ててしまうことなく、鷲のように翼をかって上ることができます。

 

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。このイエスのことをよく考えてください。それすれば、あなたはこのイエスさまから励ましと力をいただき、あなたの前に置かれている信仰のレースを最後まで走り抜くことができるのです。

 

最後にこれをご覧ください。これは、1984年ロサンゼルスオリンピック女子マラソン競技で、37位ながらも見事完走を果たしたスイスのガブリエラ・アンデルセン選手です。彼女は陸上競技場に姿を表すと、熱中症で今にも倒れ込みそうになりましたが、ゴールを目指して走り続けました。手助けをすると失格になってしまうため、医師らが並走し状態を確認しながら、本人の意思を確認すると、脚も手も思うように動かない状態の中、それでも本人はゴールを目指すことを選択したのです。

彼女がスタジアムに入ってから5分以上が経過しましたが、スタジアムの観客の声援に後押しされるかのように、彼女は最後の気力を振り絞り2時間48分42秒で完走を果たしたのです。

レース後、アンデルセン選手はこう言いました。「普通のマラソン大会なら途中で棄権していたでしょう。でも歴史的な大会だったので、どうしてもゴールしたかったのです。」

 

私たちの信仰生活は一度しかない歴史的なレースです。神様は、私たち一人ひとりに、人生のコースを定めておられます。そして、走るべき道のりを最後までりっぱに走り抜いた人に、勝利の栄冠を用意してくださいます。そのレースは決してたやすいものではありませんが、それでも私たちは走り続けることができるのです。なぜなら、信仰の創始者であり、完成者であるイエスさまがおられますから。イエスさまがすでにその道を走り抜かれ、神の右の座に着座されましたから、私たちはこのイエスさまの足跡に従って進んでいくことができるのです。また、観客の大声援も後押ししてくれます。みんなスタンディングオベーションで励ましてくれています。だから、私たちは走り続けることができるのです。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。これが信仰のレースを走り抜く最も大きな力なのです。

申命記23章

 きょうは、申命記23章から学びます。まず1節と2節をご覧ください。

 

 1.主の集会に加わることができない者(1-8

 

「こうがんのつぶれた者、陰茎を切り取られた者は、主の集会に加わってはならない。不倫の子は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、主の集会に加わることはできない。」

 

「こうがんがつぶれた者」とか、「陰茎を切り取られた者」とは、男性の性器をとった者のこと、つまり、去勢した男性のことです。そのような者は、主の集会に加わることができませんでした。また、不倫の子も集会に加わることができませんでした。その十代目の子孫であってもです。なぜ主の集会に加わることができなかったのでしょうか。なぜなら、主は完全な方であり、欠けたところが何一つない方だからです。そして、なによりも、神は、イスラエルの子孫からキリストをお送りになられました。キリストは、「女の子孫」とも呼ばれていますが、この子孫とは、「種」、つまり精子とも訳すことができる言葉で、生殖器官に欠陥があったり、不倫などの汚れを持っているとすれば、そのような中から救い主がお生まれになるということはふさわしくなかったのです。ですから、そうした者が主の集会に加わることができませんでした。

 

しかし、このような箇所を見ると、いかにも神は排他的であり、人を差別しているかのように感じます。人にはいろいろな事情があるし、それぞれの置かれた背景はみな違います。中には自分が望まなかったのにそのようにして生まれてきた人もいるでしょう。それなのに、どうして主はそうした人たちが主の集会に加わることができないと命じたのでしょうか。しかし、ここではそのようなことを言っているのではなく、あくまでも主は完全な方であり、律法も聖なるものであるということを示しているのであって、そのような主の集会に加えられる者も完全でなければならないということを示しているのです。ですから、そういう意味では私たちはみなこうがんがつぶれた者であり、不倫の子でしかないのです。というのは、聖書には「義人はいない。ひとりもいない。」とあるからです。そのような者が神の集会に加えられることがあるとしたら、それは神のあわれみでしかありません。

 

「肉においては無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求を全うされるためなのです。」(ローマ8:3-4

 

つまり、神は肉においては無力な者を、ご自分の御子によって、ご自分の御子を信じる者を義としてくだり、ご自身の集会に加わることができるようにしてくださったのです。すなわち、救いは神の一方的な恵みによるということです。ですから、ここで神は決して人を差別しておられるのではなく、ご自分の聖さ、完全さをお示しになることによって、不完全な私たちがどのようにしてご自分に近づくことができるのかを示しておられるのです。

 

次に3節から6節までをご覧ください。ここには、アモン人とモアブ人は主の集会に加わることができない、とあります。なぜでしょうか。なぜなら、彼らはイスラエルがヨルダン川の東側を北上しているときに、イスラエルにパンと水を与えることを拒んだからです。また、モアブの王バラクは、ベオルの子バラムを雇いイスラエルを呪わせようとしたからです。勿論、神はそんなバラムの呪いを聞こうとはされませんでした。その呪いを祝福に変えてくださいました。神はイスラエルを愛しておられるからです。その神が愛してやまないイスラエルに敵対したり、呪ったりするなどもってのほかであって、そのような者が主の集会に加わることはふさわしいことではなく、そんな彼らのためには決して平安も、しあわせも残されてはいないのです。かつて主はアブラハムに、「あなたを祝福する者は祝福され、あなたをのろう者はのろわれる。」(創世記12:3と言われましたが、モアブ人たちにそのとおりのことが起こったのです。

 

ところで、このあとに登場するモアブ人ルツは、イスラエルの集会に加えられただけでなく、救い主の系図の中にも出てくる敬虔で、美しい女性です。もしモアブ人を主の集会に加えてはならないというのであれば、ルツがそのように救い主の系図に加えられていることはおかしいことになりますが、そのように彼女が救い主の系図にも出てきているということはモアブ人だから一概にだめだということではなく、イスラエルに敵対する人たちを加えてはならないということなのです。たとえモアブ人であってもルツのようにイスラエルの神を求める者であれば、イスラエルの中に加えていただくことができたのです。

 

次に7節と8節をご覧ください。ここには、「エドム人を忌み嫌ってはならない。」とあります。なぜなら、彼らは「あなたの親類だから」です。また、「エジプト人を忌みきらってはならない。」とあります。なぜなら、イスラエルはエジプトで在留異国人だったからです。

 

エドム人は、ヤコブの兄でした。兄弟であるのだから、親類なのだから、忌みきらってはいけないのです。しかし、エジプト人を忌みきらってはならない、というのは不思議な命令です。というのは、イスラエルはかつてエジプトの奴隷としてしいたげられていたからです。そのエジプトを忌みきらってはいけないというのは、彼らがそこで「在留異国人」だったからでしょう。つまり、イスラエルは、自分にされた仕打ちを仕返しするのではなく、彼らは今、自分たちのところで在留異国人になっているのだから、優しくしてあげなければならないということなのです。イエス様は、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44と言われましたが、ゆるしの原則、また敵を愛する原則がここに見られます。だったら、なぜアモン人やモアブ人にもそのようにしないのかと不思議に思いますが、恐らく、彼らはイスラエルを呪うようなことをしたからでしょう。

 

2.陣営をきよく保つこと(9-14

 

次に9節から14節までをご覧ください。「あなたが敵に対して出陣しているときには、すべての汚れたことから身を守らなければならない。もし、あなたのうちに、夜、精を漏らして、身を汚した者があれば、その者は陣営の外に出なければならない。陣営の中にはいって来てはならない。夕暮れ近くになったら、水を浴び、日没後、陣営の中に戻ることができる。また、陣営の外に一つの場所を設け、そこへ出て行って用をたすようにしなければならない。武器とともに小さなくわを持ち、外でかがむときは、それで穴を掘り、用をたしてから、排泄物をおおわなければならない。あなたの神、主が、あなたを救い出し、敵をあなたに渡すために、あなたの陣営の中を歩まれるからである。あなたの陣営はきよい。主が、あなたの中で、醜いものを見て、あなたから離れ去ることのないようにしなければならない。」

 

ここには、イスラエルの陣営をきよく保つことが命じられています。すなわち、彼らが戦いのために出陣している時には、すべての汚れたことから身を守らなければなりませんでした。たとえば、彼らの中で、夜、射精して身を汚した者がいれば、その者を陣営の外に行かせなければなりませんでした。その者は、日が暮れるころ、水を浴び、身をきよめてからでないと、陣営の中に戻ることができませんでした。 また、お便所は陣営の外に設けなければなりませんでした。そこに小さな穴を掘り、そこで用を足したら、土をかけてそれを覆わなければならなかったのです。なぜなら、神が、彼らの陣営を歩まれるからです。主がその中で汚れたものを見て、彼らから離れることがないようにしなければならなかったのです。これはどういうことかというと、その戦いは主の戦いであるということです。神がともにおられるなら、敵がどのような者であっても勝利することができますが、神がともにおられないなら、人間的にどんな戦術を施しても勝利することはできません。彼らにとって最大の勝利の秘訣は、勝利者であられる主がともにおられるかどうかということだったのです。そのために、彼らから汚れを取り除かなければならなかったのです。

 

 それは私たちも同じです。私たちにとって最大の勝利の秘訣は、主がともにおられるかどうかであって、私たちの力とは全く関係ありません。その主が私たちとともに歩いてくださるために、いつも汚れを取り除き、自分自身をきよく保たなければなりません。それはまさに御霊なる主の働きによるものですから、私たちはいつも自分自身を主に明け渡し、心を尽くし、思いを尽くして、力を尽くして、私たちの神である主を愛する者でありたいと思います。

 

3.神のあわれみを示すこと(15-16

 

次に15節と16節をご覧ください。「主人のもとからあなたのところに逃げて来た奴隷を、その主人に引き渡してはならない。あなたがたのうちに、あなたの町囲みのうちのどこでも彼の好むままに選んだ場所に、あなたとともに住まわせなければならない。彼をしいたげてはならない。」

 

当時、逃げてきた奴隷はその主人に引き渡すことが慣例となっていましたが、主はそれに反し、そのように逃げて来た奴隷を、その主人に引き渡してしならず、その奴隷を、彼らの町囲みのうちのどこでも望む場所に住まわせてやり、決して虐待してはならないと命じられました。なぜでしょうか。それは、イスラエルもかつては奴隷であったからです。彼らもその苦しみを知っています。だから、彼らは自分たちが奴隷の時に受けた苦しみを彼らに与えるのではなく、逆に助けることによって慰めてやらなければならなかったのです。これはその苦しみを経験した者でなければわからないことです。主はそんな彼らをあわれみ、その中から救い出してくださいました。ですから、彼らもまた奴隷して苦しんでいる人をあわれみ、そこから助けてやらなければならないのです。

 

17節と18節をご覧ください。神殿娼婦とか神殿男娼というのは、異教の宮で売春をしていた女性、男性のことです。異教の宮ではこのようなことが平気で行われていました。しかし、主は聖なる方であって、その神殿に汚れたものを入れることを忌みきらわれます。こうしたものを取り除かなければなりませんでした。そればかりでなく、そのようなことによって得たお金を、主の宮に持って行って、捧げてはならないと命じられました。それは主が忌みきらわれることです。なぜなら、その手段が汚れているからです。神を礼拝するという目的のためであるならどんな手段であっても構わないというわけにはいきません。たとえ目的が良くてもその手段が悪ければ、主を喜ばせることにはならないのです。

 

次に19節と20節をご覧ください。ここには、お金や物を貸したときの利子を取ることについて教えられています。そして、外国人からは利子をとってもいいが、同胞から取ってはならないと命じられています。なぜでしょうか。なぜなら、彼らが入って行って、所有しようとしている地で、彼らの神、主が、彼らの手のすべてを祝福されるからです。これは、すばらしい約束ではないでしょうか。神の国とその義とを第一に求めるなら、それに加えて、すべてのものは与えられるのです。

 

このことについては、既にレビ記2535節から38節までのところで学んだとおりです。「もし、あなたの兄弟が貧しくなり、あなたのもとで暮らしが立たなくなったなら、あなたは彼を在住異国人として扶養し、あなたのもとで彼が生活できるようにしなさい。彼から利息も利得も取らないようにしなさい。あなたの神を恐れなさい。そうすればあなたの兄弟があなたのもとで生活できるようになる。あなたは彼に金を貸して利息を取ってはならない。また食物を与えて利得を得てはならない。わたしはあなたがたの神、である。わたしはあなたがたにカナンの地を与え、あなたがたの神となるためにあなたがたをエジプトの地から連れ出したのである。」とあります。

 

もし、あなたの兄弟が貧しくなり、あなたのもとで暮らしが立たなくなったなら、彼を在留異国人として扶養しなければなりませんでした。在留異国人として扱うというのは、異邦人として扱うということではなく、土地を持たない寄留者のように、旅人のようにもてなすということです。生活が成り立たなくなった人が奴隷としてではなく旅人のように、寄留者のように扱うというのは、まさに神のあわれみなのです。なぜそのように扱わなければならないのかというと、それは、主がエジプトからイスラエル人を連れ出してくださったからです。主がイスラエルを奴隷の中から解放してくださったのに再び奴隷になるようなことがあるとしたら、それこそ、神の恵みに泥を塗るようなことです。彼らに求められていたことは、神を敬うことでした。神の命令に従うことだったのです。そうすれば、主が彼らを祝福してくださるからです。

 

5.主に誓願をするとき(21-23

 

次に21節から23節までをご覧ください。「あなたの神、主に誓願をするとき、それを遅れずに果たさなければならない。あなたの神、主は、必ずあなたにそれを求め、あなたの罪とされるからである。もし誓願をやめるなら、罪にはならない。あなたのくちびるから出たことを守り、あなたの口で約束して、自分から進んであなたの神、主に誓願したとおりに行なわなければならない。」

 

もし主に誓願をするなら、それを果たさなければなりません。誓願をしてもそれを果たさないとしたら、それは罪とされるからです。約束は破るためにあるのではなく、誠実に果たすためにあるのです。最初から果たせないような誓約はしないことです。それでも私たちが誓約をするのは、誓約をしてでも自分の祈りを主に聞いてほしいという願いがあるからです。ですから、もし誓約をするなら、それを果たさなければなりません。

 

士師記の登場するエフタは、アモン人との戦いにおいて、もし主が敵に勝利させてくださるなら、敵に勝利して無事に家に帰ったとき、戸口から自分を迎えに出てくる、その者を主のものといたします、と誓ったら、何とそれは自分の娘でした。彼は非常に悩み、苦しみましたが、それが主への誓いであり、どんなことがあっても守らなければならないと信じ、そのようしました。ヘブル書11章にはこのエフタが信仰の勇者として紹介されていますが、何ゆえに彼が信仰の勇者として数えられているのかというと、このように主への誓いを誠実に果たしたという点で、彼は称賛されているのです。

 

イエス様は、「決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足代だからです。」(マタイ5:34-35と言われましたが、それはここに書かれてあることを否定しているのではなく、むしろ補強しているのです。誓うというのは、簡単に言うと、「自分で言ったことは実行する」ということです。「私は、これこれのことをします。」と言っておきながら、それを行なわなければ、それは偽りの罪になります。ですから、行なわないなら、行ないません、と正直にはっきりと言ったほうが良いのであって、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」と言いなさい、と言われたのです。

 

6.隣人のぶどう畑について(24-25

 

最後に24節と25節を見て終わります。「隣人のぶどう畑にはいったとき、あなたは思う存分、満ち足りるまでぶどうを食べてもよいが、あなたのかごに入れてはならない。隣人の麦畑の中にはいったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑でかまを使ってはならない。」

 

これはどういうことかというと、だれかが食べるものがなく困っており、ひもじい思いになっているとき、隣人のぶどう畑、もしくは麦畑に入って食べても良いということです。しかし、かごに入れてはいけません。かまを使ってはいけません。それはお持ち帰りということであって、盗むことになるからです。お腹がすいてどうしようもないときに隣人の畑に入って食べることは許されていたのです。たとえば、マルコ2章を見ると、イエスの弟子たちが麦畑を通って行ったとき、道々穂を摘み始めたとあります。お腹がすいたからです。そのような時に麦畑に入り、麦の穂を摘むことは問題ではありませんでした。そこで食べることはできたのです。でもかまを使ってはいけません。かごに入れてはいけません。

 

ここには神のあわれみというか、神の惜しみなさが示されています。神はお腹を空かせて苦しんでいる人が、ぶどう畑や麦畑に入って食べることをいちいち禁止してはいないのです。盗むのは禁じられていますが、そのように飢えで苦しんでいる人に対しては、むしろあわれんでやらなければならないのです。

 

イエス様は、「与えなさい。そうすれば与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」(ルカ6:38と言われました。日本人はとかく、義理人情の世界で、受け取ったものをお返しする習慣の中に生きています。ですから、自分から与えるということが、苦手なのです。ただで何かを与えるとなると、ただほど怖いものはないと言って警戒されたり、それじゃいくらいくらと言うと、あまりいい顔をしません。自分が価値を見出したものにはいくらお金を出しても惜しいとも思わないのですが、そうでないことに自分から与えるということはあまりしません。それはこの神がいかにあわれみ深い方であるかを知らないからです。私たちの神は与える方であり、その愛はご自身のひとり子をこの世に与えることによって表してくださいました。神はご自身の愛を惜しみなく注いでくださいました。神はそのような方なのです。であれば、その神を信じ、その神の民とされた私たちもまた喜んで与える者でなければなりません。それは神がいかにあわれみ深く、ご自分を与える方であるかを知ることによって生まれてくる性質なのです。この神によって贖われ、神の民とされた私たちも、隣人をあわれみ、惜しみなく与える者でありたいと願います。

申命記22章

 きょうは、申命記22章から学びます。まず1節から4節までをご覧ください。

 

 1.知らぬふりをしてはならない(1-4

 

「あなたの同族の者の牛または羊が迷っているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。あなたの同族の者のところへそれを必ず連れ戻さなければならない。もし同族の者が近くの者でなく、あなたはその人を知らないなら、それを自分の家に連れて来て、同族の者が捜している間、あなたのところに置いて、それを彼に返しなさい。彼のろばについても同じようにしなければならない。彼の着物についても同じようにしなければならない。すべてあなたの同族の者がなくしたものを、あなたが見つけたなら、同じようにしなければならない。知らぬふりをしていることはできない。あなたの同族の者のろば、または牛が道で倒れているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。必ず、その者を助けて、それを起こさなければならない。」

 

ここには、同族の者の牛または羊が迷っているのを見て、知らぬふりをしてはならない、と教えられています。そのような牛や羊を見たら、その所有者のところに連れ戻さなければなりません。その所有者が近くの者でなく、それがだれのものであるかがわからない時には、それを自分の家に連れて来て、その人が捜している間、自分のところに置いて、保護しておかなければなりません。そして、所有者が見つかったら、彼に返してやらなければなりません。それは牛や羊だけでなく、ろばであっても、着物であっても同じです。つまり、隣人が自分の物を見失った時、見てみぬふりをしてはならず、その人のためになることをするように努めなければならないのです。

 

これは私たち日本人にはとても大切な教えです。というのは、日本人はどちらかというと自分のことばかり考えて、他の人のことを顧みることが苦手だからです。自分さえよければ良いという風潮の中にあって他の人が困っているのを見たら率先して助けてやることが、神の民にとってとても重要なことだからです。

 

先月、中国の教会を訪問したとき、どこでも盛大なもてなしをしていただきました。中には貧しい農家の方もおられましたが、出された食事はものすごく豪華なものでした。私が王さんに、「これは普通ですか」と尋ねると、中国では他の人のために自分を犠牲にして尽くしたいという思いがあるのでみんな同じようにしますと言いました。日本では自分の都合が悪いとできないとかとよく言いますが、中国では自分の都合が悪ければそれをキャンセルしてでもその人のために尽くすというのです。それは神の愛を受けた者にとって当然のことでしょう。神は私たち罪人をご覧になり、見て見ぬふりをせず、その救いのために御子をこの世に遣わしてくださいました。ここに神の愛が豊かに示されたのです。その愛を受けた私たちは、今度は同じように迷っている人のために尽くすのは当然ではないでしょうか。イエス様は、「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」(ルカ6:31)と言われました。自分にしてもらいたいと望むとおりに、人にもそのようにすることが神のみこころであり、救われた私たちに求められていることなのです。

 

Ⅱ.混ぜ物をしてはならない(5-12

 

次に5節から12節までをご覧ください。

「女は男の衣装を身に着けてはならない。また男は女の着物を着てはならない。すべてこのようなことをする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる。たまたまあなたが道で、木の上、または地面に鳥の巣を見つけ、それにひなか卵がはいっていて、母鳥がひなまたは卵を抱いているなら、その母鳥を子といっしょに取ってはならない。必ず母鳥を去らせて、子を取らなければならない。それは、あなたがしあわせになり、長く生きるためである。新しい家を建てるときは、屋上に手すりをつけなさい。万一、だれかがそこから落ちても、あなたの家は血の罪を負うことがないために。ぶどう畑に二種類の種を蒔いてはならない。あなたが蒔いた種、ぶどう畑の収穫が、みな汚れたものとならないために。牛とろばとを組にして耕してはならない。羊毛と亜麻糸とを混ぜて織った着物を着てはならない。身にまとう着物の四隅に、ふさを作らなければならない。」

 

どういうことでしょうか。女は男の衣装を身に着けてはならない。また男は女の着物を着てはならない。すべてこのようなことをする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる。創世記1章には、神が人を造られた経緯が記されてありますが、神が人を造られた時、男と女とに造られました。それは男と女は違うように造られたという意味です。人間としては同等であり、同質ですが、それぞれ与えられた役割に違いがあるということです。人は神のかたちに造られ、神の栄光を現すために造られましたが、人がひとりでいるのは良くないと、神はアダムの助け手としてエバを造られました。そのようにして二人が互いに助け合って神の栄光を現すためです。ですから、男と女は同等、同質ですが、根本的な違いがあるのであって、その違いを認めつつも、それを混同してはならないのです。

 

それは男と女だけのことではありません。その後のところにはぶどう畑に二種類の種を蒔いてはいけないことや、牛とろばを組みにして耕してはならないとか、羊毛と亜麻糸を混ぜて織った着物を着てはならない、とあることからもわかります。これらを一言で言えば、「神が与えられた区別や種類を尊重しなさい。」ということです。創世記を読むと、神は区別をされる神であることが分かります。「神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。」(創世1:4とあります。「こうして神は、大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された。するとそのようになった。」(創世記1:7それぞれに区別があることによって、神の創造の秩序を見ることができ、秩序があるところに神の栄光が現われるのです。神は混乱の神ではなく、平和の神だからです。

 

ですから、ここでモーセが禁じているのも、そうした神の創造の秩序が基になっているのです。つまり、この創造の秩序を重んじ、男は男として与えられた秩序に従って歩み、女は女として与えられた秩序に従って歩まなければならないということです。パウロは、「すべてのおとこのかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。」(Ⅰコリント11:3と言っていますが、この秩序はとても大事です。男と女は一つであり、同等であり同質ですが、男が女のかしらになるように造られました。したがって、女が男のように見えたり、男が女のように見えたりするのは、神が忌みきらわれることなのです。最近では、男が女っぽくなってきたり、女が男みたいになることがもてはやされていますが、そのようなことはこうした区別することをないがしろにすることであり、神が忌みきらわれることなのです。

 

6節から8節までの勧めはユニークです。木の上に鳥の巣を見つけ、そこにひなか卵が入っていてそれを取ろうとする時には、母鳥がいないときにとるようにしなさいとあります。なぜでしょうか。もし母鳥が見たら悲しむことになるからです。そのような残酷なことをせず、ちょっとした配慮をすることは、たとえそれが動物であったとしても大切なことなのです。

同じように、新しい家を建てるときは、屋上に手すりをつけるようにとあります。万一、だれかがそこから落ちても、あなたの家は血の罪を負うことがないためにです。中東の家は屋上が平らの家屋になっているので、屋上にあがることがたくさんあるのですが、その時に手すりをつけなさいと落ちてしまう危険があります。そういうことがないように、ちゃんと手すりをつけなさいということですが、それが周りの人々に対する配慮でもあり、そうしたことを怠ってはならないのです。

 

また、ぶどう畑に二種類の種を蒔いてはならない、とあります。あなたが蒔いた種、ぶどう畑の収穫が、みな汚れたものとならないためにです。牛とろばとを組にして耕してはならないし、羊毛と亜麻糸とを混ぜて織った着物を着てはなりません。牛とろばを組にして耕してはならないというのは、同じくびきをかけてはならない、ということです。パウロはここから、「不信者とつり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。」(Ⅱコリント6:14と言っています。私たちはこのような原則を守り、神のみこころにかなった者、聖なる者となることを求めていかなければなりません。

 

また、 身にまとう着物の四隅には、ふさを作らなければならない、とあります。民数記15章を見ると、これは、主の命令を思い起こし、それを行うためであり、神の聖なるものとなるためでした。すべての民が着る着物のすその四隅にあるふさを互いに見ながら、自分たちが神の民であることを思い起こし、神の恵みを思い起こすことができることはどんなに幸なことでしょう。これは現代でいう聖餐式を行う目的でもありますが、私たち常に神の民であることを思いお越し、神が私たちに成してくださった恵みを思い起こすものでありたいと思います。

 

Ⅲ.姦淫の罪に対する処置(13-30

 

次に13節から終わりまでをご覧ください。まず13節から19節までの箇所です。

「もし、人が妻をめとり、彼女のところにはいり、彼女をきらい、口実を構え、悪口を言いふらし、「私はこの女をめとって、近づいたが、処女のしるしを見なかった。」と言う場合、その女の父と母は、その女の処女のしるしを取り、門のところにいる町の長老たちのもとにそれを持って行きなさい。その女の父は長老たちに、「私は娘をこの人に、妻として与えましたが、この人は娘をきらいました。ご覧ください。彼は口実を構えて、『あなたの娘に処女のしるしを見なかった。』と言いました。しかし、これが私の娘の処女のしるしです。」と言い、町の長老たちの前にその着物をひろげなさい。その町の長老たちは、この男を捕えて、むち打ちにし、銀百シェケルの罰金を科し、これをその女の父に与えなければならない。彼がイスラエルのひとりの処女の悪口を言いふらしたからである。彼女はその男の妻としてとどまり、その男は一生、その女を離縁することはできない。」

 

人が妻をめとり、彼女のところに入るとは、結婚して男女が性的関係に入ることです。ところが、結婚した後に彼女をきらうようになり、いろいろと口実を設けて男が女の悪口を言いふらした場合、どうしたら良いかが教えられています。男がその欲望から結婚しても、それがつまらないため離縁しようとしたケースは、聖書の他の箇所にもあります。たとえば、ダビデの息子アムノンは、ダビデの別の妻の娘であり、タマルのことが欲しくて、彼女を力づくで恥ずかしめ寝てしまいましたが、その後で、彼女を熱烈に恋したその恋よりも憎しみの方が大きかったとあります。アムノンは、「さあ、出て行け。」と言いましたが、タマルは、「それはなりません。私を追い出すことなど、あなたが私にしたあのことより、なおいっそう悪いことです。」(Ⅱサムエル13:16)」と言いましたが、彼は力づくで彼女を追い出しました。このような時、男は往往にして自分を正当化するために女の悪口を言いふらしてしまうことがあります。ここではそれが、この女と結婚したが、彼女に処女のしるしを見なかったというものです。つまり、離縁するために正当な理由付けを見つけようとするのです。もし彼女が本当に処女ではなかったら、死刑に処せられます。ですから、主は、そのような状況から彼女を守るために、彼女の両親が、その寝床のシーツを持ってきて、処女であるしるしを持って来て、それを町の長老たちの前にその着物を広げて証明するのです。そしてそれがこの男の嘘だということがわかったら男から罰金を取り、一生、その女と離縁することができないように定めました。

 

しかし、そのことが真実であり、その女に処女のしるしが見つからなかったとしたらどうしたかというと、その女を父の家の入口のところに連れ出し、その女の町の人々は石で彼女を打たなければなりませんでした。彼女は死ななければなりません。その女は父の家で淫行をして、イスラエルの中で恥辱になる事をしたからです。そのようにして、彼らのうちから悪を除き去らなければなりませんでした。これは婚前交渉も罪であるということです。夫のある女と寝ることも罪ですが、結婚する前に寝ることも罪です。それは神のみこころにかなわないことであり、それが判明した時には女と寝ていた男もその女も、ふたりとも死ななければなりませんでした。

 

23節と24節をご覧ください。「ある人と婚約中の処女の女がおり、他の男が町で彼女を見かけて、これといっしょに寝た場合は、あなたがたは、そのふたりをその町の門のところに連れ出し、石で彼らを打たなければならない。彼らは死ななければならない。これはその女が町の中におりながら叫ばなかったからであり、その男は隣人の妻をはずかしめたからである。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。」

ユダヤ人の中では、婚約は結婚と同じように拘束力があったので、この時に罪を犯したら、それは姦淫の罪と同じように罰せられました。

 

「もし男が、野で、婚約中の女を見かけ、その女をつかまえて、これといっしょに寝た場合は、女と寝たその男だけが死ななければならない。その女には何もしてはならない。その女には死刑に当たる罪はない。この場合は、ある人が隣人に襲いかかりいのちを奪ったのと同じである。この男が野で彼女を見かけ、婚約中のその女が叫んだが、救う者がいなかったからである。」

これは強姦された時のケースです。その場合は、男だけが死ななければなりませんでした。女には死刑にあたる罪はありません。それは、ある人が隣人に襲いかかり、いのちを奪ったのと同じだからです。その女がどんなに叫んでもだれも助けてくれる人がいなかったとしたら、彼女にはどうすることもできないからです。不品行を犯すことは神にとっては重大な罪ですが、しかし、どうしようもないことまでも理不尽にさばくことは決してなさいません。

 

「もしある男が、まだ婚約していない処女の女を見かけ、捕えてこれといっしょに寝て、ふたりが見つけられた場合、女と寝たその男は、この女の父に銀五十シェケルを渡さなければならない。彼女は彼の妻となる。彼は彼女をはずかしめたのであるから、彼は一生、この女を離縁することはできない。」

 もし、まだ婚約していない女を見つけ、これとネタ場合、男はその責任を取って女を妻としなければなりませんでした。そうした肉体関係を持ってしまった責任を結婚することによって果たすことになるからです。また、「だれも自分の父の妻をめとり、自分の父の恥をさらしてはならない。」これは、自分の母ではない父の妻がいて、その母をめとることによって父をはずかしめてはならないということです。

 

このように、イスラエルが約束の地に入りそこに定住するようになるといろいろな問題が起こることが予想されますが、ここではそうした問題一つ一つにどのように対処しなければならないかを教えています。そして、ここに貫かれていることは「聖」であるということです。こうしたことは異教社会では当たり前のように行われていたことかもしれませんが、神に贖い出され、神の民とされた者にとってそうしたものに妥協することなく、神のみ教えに従って歩まなければならないということです。この世と妥協してはなりません。彼らから出て行き、彼らと分離しなければなりません。そうすれば、神は私たちを受け入れてくださり、神の民として生きることができます。それこそ、どこにいても、勝利ある人生を生きる力となるのです。

また、このような聖なる者となるのは私たちの行いによるのではなく、神の子イエス・キリストの贖いによるということを忘れてはなりません。ヨハネの福音書8章には、姦淫の現場で捕らえられた女何と言われるかとの律法学者とパリサイ人たちの問いに、イエス様はこう言われました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7)すると、年長者たちから初めて、ひとりひとり出て行きました。するとイエスはその女に言いました。「婦人よ。あのひとたちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はいなかったのですか。」「わたしもあなたを罪に定めなさい。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(同8:10-11

私たちはだれひとり罪に定められることはありません。イエス・キリストが私たちのすべての罪を贖ってくださいました。イエス様はその罪の罰のすべてを受けてくださいました。そのうち傷のゆえに、私たちは許されたのです。このイエス様の赦しがなければ、私たちはここに立ち続けることはできません。しかし、イエス様が私たちのために死んでくださったので、私たちは今もここにいることができるのです。このイエスの愛によって、私たちは神のものとなり、その歩みを続けていくことができるのです。ですから、このことをいつも思い起こし、こんな罪深い者が赦されたことを感謝して、ますます聖なる者としての歩みを続けさせていただきたいと思うのです。

ヘブル11章33~40節 「天国を待ち望む信仰」

きょうは、ヘブル人への手紙11章33~40節から、「天国を待ち望む信仰」というタイトルでお話します。ヘブル人への手紙11章には、信仰によって生きた人たちについて語られておりますが、きょうの箇所には、それらの人々に共通の特質が語られています。それは、こうした人たちは皆、天国を待ち望んでいたということです。

 

Ⅰ.信仰によって勝利した人々(33~35a)

 

まず33節から35節前半までをご覧ください。「彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。女たちは、死んだ者をよみがえらせていただきました。」

 

「彼らは」とは、直接的には32節に出て来た6人の人たちのことを指していますが、それと同時にこのヘブル書11章全体に出てきた信仰の偉人たちのことを指しています。彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。

 

彼らが敵に勝利し、命の危険から守られたのは、信仰によってのことでした。信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得たというのは、イスラエルがエジプトを出て約束の地を占領したことを語っています。彼らは、ヘシュボンの王シホンやバシャンの王オグとの戦いに勝利し、約束の地に入ると、カナンを支配していた王たちを滅ぼして、ついにその地を占領することができました(申命記2:24-3:11)。

 

また、「獅子の口をふさぎ」というのは、ダニエルが経験したことを指しているものと思われます。ダニエルは、イスラエルがバビロンによって滅ぼされると、バビロンへ強制連行されましたが、その後バビロンがメディヤ・ペルシャの連合軍によって滅ぼされると、メディヤ・ペルシャの王であったダリヨス王に認められ、三人の大臣のうちの一人に選ばれました。しかし、彼には神の霊が宿っていたので、ほかの大臣たちよりもはるかにすぐれていたため、ほかの大臣たちからねたまれると、彼らの策略によってライオンの穴の中に投げ込まれてしまいました。

 

しかし、ダニエルが仕えていた神は、ライオンの口をふさぎ、彼を救い出してくださいました。ダリヨス王はダニエルのことが心配で、心配で、食事ものどを通らず、一睡もしないまま夜を過ごしましたが、夜が明けるのを待ち構えていたかのように翌朝すぐにライオンの穴に行き、こう呼びかけました。「生ける神のしもべダニエル。あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか。」(ダニエル6:20)すると、ダニエルは王に答えました。「王さま。永遠に生きられますように。私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も加えませんでした。」(ダニエル6:21-22)

それでダニエルは穴から出され、逆に彼を訴えた者たちが獅子の穴の中に投げ込まれたのです。そればかりか、ダニエルを通して現された神の御業を見たダリヨス王は、ダニエルの神を賛美し、ひれ伏したのです。

 

その次に出てくる「火の勢いを消し」というのは、そのダニエルの三人の友人シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴが経験したことを指しているのでしょう。彼らもまたバビロン捕囚の際にダニエルと一緒にバビロンに連れて行かれた少年たちでしたが、バビロンの王ネブカデネザネルが、金の像を造り、これを拝まない者はだれであっても燃える炉の中に投げ込まれると脅しても、決してそれに屈しませんでした。彼らがネブカデネザル王の前に連れて来られた時、王が「もし拝まないなら、あなたがたはただちに炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう。」(ダニエル3:15)と言っても、彼らは、「もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」(ダニエル3:17-18)とはっきりと答えました。

それを聞いたネブカデネザル王は、怒りを爆発させ、だったら炉の温度を七倍にして、彼らを炉の中に投げ込めと命じると、あまりの熱さに彼らを縛って炉まで連れて行った軍人たちが焼け死んでしまいました。しかし、三人の若者はどうであったかというと、焼け死にするところか、何の害も受けず炎の中を歩いていたのです。しかもよく見ると、炉の中に投げ込んだのは三人であったはずなのに、その中にはもう一人いて、その人は神の子のような方でした。つまり、それは受肉前のイエス様です。ネブカデネザル王は急いで彼らを炉から出すと、彼らが何一つ害を受けていなかったのを見て驚き、彼らの信じている神こそ本当の神であると宣言したのです。(ダニエル3:28)。

 

その次にある「剣の刃をのがれ」とは、アハブの王妃イゼベルがエリヤの命をねらって彼を殺そうとしたことから逃れたことや(Ⅰ列王記19:2-18)、イスラエルの王であったヨラムがエリシャを殺そうとしましたことから逃れたこと(Ⅱ列王記6:31-32)を指しているものと思われます。彼らは神のことばを大胆に宣べ伝えたことで、王たちの反感を買い、何度も命の危険にさらされましたが、主はそんな彼らの命を守ってくださいました。

 

次に「弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました」とは、前回のところでも見ましたが、ギデオンをはじめとする士師たちや、預言者たちのことを指しているものと思われます。彼らは最初から勇士だったわけではなく、最初は主の命令に尻込みばかりしているような弱い者でした。しかし、主のあわれみによって強くされ、信仰によって勇士となり、他国に勝利することができました。

 

また、預言者エレミヤも、主から召しを受けた時、「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」(エレミヤ1:6)と言うような弱い者でしたが、「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんなところへでも行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。」(エレミヤ1:7-8)。と言われる主の御声を聞いて強められ、ついには自分の命をかけて大胆に神のことばを告げました。36節には、「また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるめに会い」とありますが、その一人がエレミヤだったのです。最初、彼は「まだ若い」とか、「どのように語っていいのかわからない」と言うような弱い者でしたが、信仰によって強められ、数々の困難を乗り越えて、自分に与えられた務めを果たすことができたのです。

 

そして、35節の前半には、「女たちは、死んだ者をよみがえらせていただきました。」とあります。これはツァレファテの貧しい未亡人やシュネムの金持ちの婦人のことを指しています。ツァレファテのやもめは、預言者エリヤによって死んだ息子をよみがえらせてもらいました(Ⅰ列王17:17-24)。また、シュネムの女は、預言者エリシャによって死んだ息子をよみがえらせてもらいました(Ⅱ列王4:17-37)。それは女たちの信仰によってということよりも、エリヤやエリシャの信仰によってということです。それは彼らが偉大な預言者であったからというよりも、彼らが信仰によって生きていたので、主が彼らを通してそのような御業を行ってくださったということです。

 

それは彼らだけではありません。私たちも信仰によって生きるなら、死んだ人をもよみがえらせるような偉大な神の御業を行うことができるのです。

 

Ⅱ.約束されたものを得なかった人々(35b-39)

 

しかし、このように信仰によって生きた人たちの中には、信仰によって勝利した人たちもいましたが、苦難の生涯を送った人たちもいました。35節後半から39節をご覧ください。

「またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました。また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるために会い、また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩きまわり、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、この世は彼らにあさわしい所ではありませんでした。荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました。この人々はみな、その信仰によってあかしされました。約束されたものは得ませんでした。」

 

35節前半までのところには、信仰によって敵に勝利し、約束のものを得た人たちや、命の危険から救い出された人たちのことが紹介されてありましたが、ここには逆に、信仰によって、様々な苦難を受けた人たちのことが紹介されています。この人々はみな、その信仰によってあかしされた人々です。どのようなあかしかというと、信仰によって、約束のものを得た人々がいれば、信仰によって、苦難を受けた人たちもいたというあかしです。どちらも信仰によって生きた人たちでしたが、結果は必ずしも同じではありませんでした。それはどうしてかというと、私たちの信仰はこの地上の祝福だけを追い求めるものではなく、天にある祝福、永遠のいのちを求めるものだからです。これが、私たちの信仰にとっての究極的な約束なのです。そして、イエスさまがこの地上に来られたのも、私たちにこの神の国をもたらすためでした。イエス様はこう言われました。「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10)このいのちとは永遠のいのちのことです。イエスさまが来られたのは、私たちがこのいのちを得て、それを豊かに持つためだったのです。

パウロは、ローマ1章16節でこう言いました。「私は福音を恥じとも思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」福音は、信じるすべての人を救い、変えることができる神の力です。パウロのようにキリストを迫害していた人さえも救い、キリストを宣べ伝える者に変えてくれました。私たちに生きる力を与えるのは、お金や知識ではなく、福音を信じる信仰なのです。イエスさまはこの永遠のいのちをもたらすために来られたのであって、この地上での祝福をもたらすためではありませんでした。ですから、ある人たちは信仰によって、国々を征服し、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消すことができましたが、ある人たちはその信仰によって、様々な苦難を受け、約束されたものを得ることができませんでした。この世は彼らにとってふさわしいところではなかったのです。しかし、その信仰によって彼らはあかしされました。何を?彼らは信仰によって生きたということです。彼らはこの地上では報いらしいものは何一つ受けませんでしたが、代わりに、さらにすぐれた天の報いを受けたのです。

 

詩篇90篇10節にはこうあります。「私たちの齢は七十年、健やかであっても八十年、しかも、その誇りとするところは労苦と災いです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。」考えてみると、私たちのこの地上での生涯は点のようなもので、それは短いのです。それは早く過ぎ去ります。昨日まではあんなに若かったのに、あっというまに年をとってしまいます。しかし、死後のいのちは永遠なのです。線ように長く、どこまでも続きます。その永遠の世界をどこで、どのように過ごすのかは、この地上での、今の信仰の決断にかかっているのです。それゆえこの詩篇の記者であるモーセはこう祈っているのです。「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」(詩篇90:10)私たちもこのモーセの祈りを、自分の祈りとしたいと思うのです。

 

さて、35節後半には、「またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました。」とあります。これは、この前に紹介されていたエリヤやエリシャによって行なわれたよみがえりと比較しての、さらにすぐれたよみがえりです。そのよみがえりとは、死者の中からの復活のことです。エリシャとエリヤが行なったのは「蘇生」と呼ばれるもので、一度死んだ者が息を吹き返すだけのことで、やがて再び死んでしまうものでした。しかし、ここで言われているよみがえりとは、死者の復活のことです。御霊のからだによみがえることです。キリストが死者の中からよみがえられたときに持っていたあの復活のからだによみがえることなのです。

 

この復活のからだを得るためには、この世においては救いを得るどころか、拷問を受けることさえあります。ここには、釈放されることを願わずに、拷問を受けた、とありますが、旧約聖書の時代には、そういう信仰者たちもたくさんいました。あのシャデラク・メシャク・アベデ・ネゴでさえ、死の危険から奇跡的に救い出されましたが、もしかすると、そのまま焼き殺されていたかもしれません。だから彼らは、「もしそうでなくても」と言ったのです。もし神が自分たちをネブカデネザル王の手から救い出さしてくれないということがあっても、それでも金の像を拝むことはしないと、断固としてそれを拒みました。それは、彼らがこのさらにすぐれたよみがえりを信じ、それを見つめて生きたいたからです。

 

「また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるために会い、また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩きまわり、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、この世は彼らにあさわしい所ではありませんでした。」

 

これが誰のことを指しているのかははっきりわかりません。けれども、昔も今も、信仰によって生きようと願うなら、だれでもこのような迫害を受けます。なぜなら、そのように聖書に約束されているからです。

「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(Ⅱテモテ3:12)

ですから、もしあなたが信仰のゆえに苦難を受けることがあったとしたら、それはキリストの弟子とされていることの証であり、永遠のいのちという勲章を受けていることでもあるということを覚えて感謝しましょう。

 

1世紀に生きたユダヤ人の歴史家ヨセフスによると、紀元前2世紀頃ユダヤを治めていたのはシリヤでしたが、そのシリヤの王であったアンティオコス・エビファネスは、彼の政策にギリシャ思想を取り入れようと、ユダヤ人を激しく迫害しました。彼は、律法に基づく犠牲のささげものや割礼を禁じ、代わりにエルサレムの神殿にギリシャのゼウス像を配置し、これを拝まなかったら、その者には激しい拷問を加えるとし、それによって大勢のユダヤ人が死んでいきました。

その中に年老いた律法学者でエレアザルという人がいましたが、彼はどんなにアンティオコス・エピファネスによって脅迫されても、神の律法に背くことはできないと、喜んで殉教の死を遂げました。それは終わりの日に復活し、すばらしい御国に行くことができると信じていたからです。

 

これまで信仰によって生きた人たちの中には、そのような人たちがたくさんいました。それは、彼らだけに限らず、この手紙の読者たちにしても然り、先日お話しした中国のクリスチャンたちにしても然り、そして、私たち日本でも同じようにして死んで行った人たちがたくさんいました。豊臣秀吉の時代に起こった26人聖人殉教は有名な話です。それはいつの時代でも、どこででも起こり得る事なのです。

 

この世は彼らにとって、ふさわしいところではありませんでした。彼らは信仰のゆえに苦難を受け、この地上では報いらしいものは何一つ得られませんでした。しかし、彼らは、さらにすぐれたもの、天における報いを得るために、喜んで苦難を受けたのです。

 

Ⅲ.さらにすぐれたものを得るために(40)

 

それは私たちにとっても同じです。この世は、私たちにとってふさわしいところではありません。しかし、私たちには、さらにすぐれた世界が用意されているのです。ですから、そこでの報いを得るために、私たちはしっかりとそれに備えるものでありたいと思うのです。

 

それでは、そのためにどうしたらいいのでしょうか。この手紙の著者はこう勧めるのです。ヘブル12章1です。ご一緒に読みましょう。

「こういうわけですから、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」

 

皆さんの中に、心が元気を失い、疲れ果ててしまったという人がいますか。もしそういう方がおられましたら、ぜひ彼らのことを思い出してください。彼らのことを思い出すなら、あなたに励ましを受けます。というのはここに、こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り囲んでいるのですから、とあるからです。これはこの11章で紹介されてきた信仰によって生きた人たちのことです。また、イエス・キリストにあって天に召された信仰の先輩者たちも含まれています。あるいは、ついこの間まで一緒に信仰に歩んでいた家族や信仰の友も含まれています。それらの人々が雲のように私たちを取り巻いているのです。彼らはイエス・キリストにあって天に召されましたが今も生きています。そして、私たちのことを、あなたのことを見て、応援しているのです。

 

私たちは今、この地上で信仰の競争をしています。レースをしています。そこでは様々な患難があるでしょう。辛いこともあります。つまずいて倒れて、立ち上がれないような時もあります。疲れ果ててしまい、もうこれ以上は前に進めないという時もあるでしょう。でもそのような時に、ぜひ彼らのことを思い出してください。不平不満を言う前に、あきらめてしまう前に、ぜひ彼らのことを思い出していただきたいのです。彼らのことを思い起こすなら励ましを受けます。彼らは忍耐をもって走り抜きました。その彼らがあなたを見ているのです。彼らはただ傍観しているのではありません。天国から見下ろして見物しているのではないのです。彼らは私たちと同じように信仰のレースを走り抜き、その途上にはいろいろなことがありました。辛いことも、苦しいこともありました。でも彼らは最後まで走り抜いたのです。約束のものをこの地上では手に入れることはできませんでしたが、忍耐をもって走り抜きました。ですから彼らは、私たちの苦しみも、辛さも、悲しみも全部わかっているのです。すでに通っているのですから・・。その彼らが雲のように私たちを取り巻いて応援しているのです。ですから、私たちは彼らのことを思い出すことによって励ましを受けるのです。

 

私はもう溺れそうです、死にそうです、という人がいますか。そういう人はどうぞヨナのことを思い出してください。ヨナは魚に呑み込まれて三日三晩、その中で苦しみました。今私の直面している試練は炎のごとく私を焼き尽くそうとしていますという人がいますか。そういう人はシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴのことを思い起こしてください。彼らは涼し気な顔をして炎の中でイエス・キリストと一緒に歩きました。語り合いました。私は今巨人と戦おうとしていますという方は、ぜひダビデのことを思い起こしてください。どのような時でも、私たちは常に、どんな試練に置かれようとも、どんな困難に直面しようとも、どんな苦しみの中にあっても、この旧約の聖徒たち、ヘブル人の手紙の11章に出てくるような信仰の殿堂入りを果たしたような人たちが、私たちのことを見ていて、応援しているということを思い出すなら、あなたもまた奮い立つことができるからです。そのようにして、私たちも私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

ヘブル11章32節 「信仰によって生きた人々」

きょうは、「信仰によって生きた人々」とタイトルでお話しします。このヘブル人への手紙11章には、信仰によって生きた人々のことが取り上げられていますが、きょうのところにはこのシリーズの締めくくりとして六人の名前を挙げられています。その六人とはギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、そしてサムエルです。実際にはその後に預言者たちについても言及されていますから、もっと多くの人々が挙げられていることになりますが、とりあえず名前として取り上げられているのはこの六人です。いったいなぜ彼らの名前が挙げられているのでしょうか。

 

時代的な順序で言うならバラク、ギデオン、エフタ、サムソン、サムエル、ダビデという順序になりますが、ここにはそれとは違った順序で取り上げられています。おそらく、この手紙の著者は、時代的な順序を念頭に置いて名前を挙げたのではなく、信仰に生きた人たちにもいろいろなタイプの人たちがいて、そういういろいろなタイプを取り上げたかったのではないかと思います。

 

それでは、これらの人たちがどのように信仰に歩んだのかを見ていきたいと思います。

 

Ⅰ.ギデオン-臆病者でも

 

まず、最初に出てくるのはギデオンです。皆さん、ギデオンという人についてご存知でしょうか。聖書を無料で学校や病院に贈呈している団体がありますが、その団体の名前は「国際ギデオン協会」と言って、この人から取られました。信仰の勇士であったギデオンのように勇ましく主に仕えようという思いが伝わってきす。しかし、聖書をよく見ると、彼は最初から勇士であったわけではありません。ギデオンについては旧約聖書の士師記6章に記されてありますが、4節には、彼はミデヤン人の襲撃を恐れ、酒ぶねの中で、隠れるようにして小麦を打っていた、とあります。そんな彼に、ある日、主の使いが現われてこう告げるのです。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」(士師6:4)これは、あなたは勇士なのだから、立ち上がってこれを迎え討ちなさいという意味です。しかし、彼はそれを素直に受け入れることができず、「主よ、もしあなたが私たちと一緒におられるなら、いったいどうしてこのようなことが起こるのでしょう。あなたは私たちとともにはおられません。あなたは私たちを捨てて、私たちをミデヤンの手に渡されたのです。」(同6:13)と答えました。

そんな彼に主は、「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。あたしがあなたを遣わすのではないか。」(同6:14)と告げるのですが、彼は尻込みして、なかなか従うことができませんでした。そして、だったらしるしを見せてくださいと、しるしを求めたのです。

 

最初は、彼が持って来た供えものを、主の使いが手にしていた杖の先を伸ばして触れると、たちまち岩から火が燃え上がって焼き尽くすというものでした(士師6:19-21)。

それでも確信がなかった彼は、次に、打ち場に刈り取った一頭分の羊の毛の上にだけ露が落ちて濡れるようにし、土全体はかわいた状態になっていたら、そのことで、主が自分を遣わしておられることがわかりますと言うと、主はそのようにしてくださいました(士師6:36-38)。

けれども、それでも確信がなかった彼は、もう一回だけ言わせてくださいと、今度は逆に土全体に露が降りるようにして、羊の毛だけはかわいた状態にしてくださいと言うと、主はそのようにしてくださいました(6:39-40)。

 

このようにして彼は、主の勇士に変えられ、わずか三百人で、ミデヤン人とアマレク人の連合軍十三万五千人を打ち破ることができました。初めは臆病で疑い深かった彼を、幼い子の手を引いて引き上げてくれる両親のように引き上げてくださり、信仰の勇者となることができたのです。

 

皆さんの中にギデオンのような臆病な人がいますか。しかし、そんな人でも変えられます。信仰の勇士になることができるのです。もしあなたが、確かに主は生きておられると確信しそのみことばに従うなら、信仰によって勇士となり多くの敵を打ち破ることができるようになるのです。

 

Ⅱ.バラク-優柔不断な人でも

 

次に出てくるのはバラクです。バラクについての言及は士師記4章にありますが、ちょっと優柔不断な人でした。当時、イスラエルはカナンの王ヤビンという人の支配下にあって苦しめられていました。その将軍はシセラという人でしたが、彼は圧倒的な戦力を誇り、イスラエルは彼の前に何も成す術がありませんでした。

 

ところが、ある時、当時イスラエルを治めていた女預言者デボラに、タボル山に進軍して、このシセラの大軍と戦うように、わたしは彼らをあなたの手に渡す(士師4:6-7)とう主のことばありました。それで彼女はそれをバラクに告げるのです。

 

するとバラクはどうしたかというと、女預言者デボラに、「もしあなたが私といっしょに行ってくださるなら、行きましょう。しかし、もしあなたが私といっしょに行ってくださらないなら、行きません。」(士師4:8)と答えるのです。何とも、もじもじした男です。行くのか、行かないのかはっきりしない、まさに優柔不断な男だったのです。

 

するとデボラは、「私は必ずあなたといっしょに行きます。けれども、あなたが行こうとしている道では、あなたは光栄を得ることはできません。主はシセラをひとりの女の手に渡されるからです。」(士師4:9)と告げました。私はあなたといっしょには行くけれど、主は別の方法でシセラと倒すというのです。それはひとりの女の手によってだというのです。それで彼は、ゼブルンとナフタリから1万人を引き連れて、タボル山に進軍したのです。

 

これはちょっと不思議です。確かにデボラは彼といっしょに行くと約束しましたが、そこで栄光を受けるのはバラクではなく「ひとりの女」だというのに、彼は進軍したからです。この「ひとりの女」とは、この後でシセラのこめかみに鉄のくいを刺し通したヤエルという人です。彼女はバラクとの戦いで追い詰められたシセラが彼女の家に水を求めて立ち寄ったとき、熟睡していた彼のところに近づいて、彼のこめかみに鉄のくいを刺し通したのです。それで彼女は栄光を受けたのです。栄光を受けたのはバラクではなくこの女性でした。にもかかわらずバラクは進軍したのです。なぜでしょうか。

 

それは彼が信仰によってそのように決断したからです。普通だったらこのようなことを言われたら、「だったら、や~めた。骨折り損のくたびれもうけだわ」と言って止めるところですが、彼はそうではありませんでした。それでも彼は出て行ったのです。それは彼が自分の栄誉ではなく、主とその民イスラエルの勝利をひたすら求めていたからなのです。ここではその信仰が称賛されているのです。本来ならこんな優柔不断な男のことなどどうでもいいことですが、それでも彼のことが取り上げられているのは、こ

うした彼の信仰が評価されていたからなのです。皆さん、どんなに優柔不断な人でも、信仰によって生きるなら主はその人を大きく評価してくださるのです。

 

Ⅲ.サムソン-破天荒な人でも

 

次に取り上げられているのはサムソンです。サムソンについては皆さんもよくご存じかと思います。彼はロバのあご骨で千人のペリシテ人を打ち殺したが、最後はそのペリシテ人に捕らえられて目をえぐられ、足には青銅の足かせをかけられ牢の中で臼をひかせられるという苦しみを味わいました。しかし、その牢の中で悔い改めると再び聖霊が激しく彼に下り、ペリシテ人の神ダゴンの神殿の柱を引き抜いて、そこにいた三千人のペリシテ人を打ち殺しました。その数は生きていた時に殺した敵の数よりも、多かったと言われています。

 

しかし、ここに信仰の勇者としてこのサムソンのことが取り上げられていることには、全く違和感がないわけではありません。というのは、彼の生活にはかなりいかがわしいところがあったからです。彼はナジル人として、生まれた時から神のために聖別された者であったのに、異教徒であったペリシテ人と結婚したり、売春婦であったデリラという女性と夜を過ごすなど、破天荒な生活をしていたからです。そんな彼でもここに信仰の勇者として取り上げられているのは、神の民イスラエルの敵であったペリシテを打ち倒すという神の御心の実現に向かって、生涯をかけて戦い抜いたからです。

 

かつてはヤクザの世界に身を置いていた人が神の福音を聞き、悔い改めてイエス様を信じた人たちの話を聞いたことがあります。彼らは、イエス様を信じる前はいわゆる全うな道から外れ、破天荒な生き方をしていた人たちでしたが、しかし、イエス様がその罪を赦してくださったことを知ると罪を悔い改め、「親分はイエス様」と言って、自分のいのちをかけて主を証するようになりました。彼らは反社会的勢力として一般の社会からつまはじきにされてもおかしくないような人たちでしたが、イエス様を信じたことで全く新しい人に変えられ、神の御心の実現のために生涯をかけて戦う者へとなりました。

 

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

 

このような人たちの姿をみるとき、たとえどのような背景がある人でも信仰の勇者として用いられることがわかります。考えてみると、サムソンのことについて書かれてある箇所をみると、その随所に、「主の霊が激しく彼の上に降って」(士師14:6、19)とありますが、どんな人でも主の霊が臨むとき、その人は神の器として聖霊の力を受け、神の御心の実現のために大きく用いられるのです。

 

Ⅳ.エフタ-軽率な人でも

 

次に取り上げられているのはエフタです。エフタについては士師記11章に記されてありますが、彼はギルアデという父親と遊女との間に生まれた子どもです。そのため正妻の子どもたちによって家から追い出され、ごろつきどもと略奪をしていました。そんな彼がイスラエルの檜舞台に登場したのは、当時イスラエルにアモン人が攻撃しかけてきたときでした。そのとき、イスラエルの長老たちは、あのエフタなら何とかしてくれるかもしれないと、彼のもとに人をやって、自分たちを助けてくれるようにと頼むのです。過去のことでイスラエルを恨んでいたエフタはすぐには応じようとしませんでしたが、長老たちの切なる要請に応じて、アモン人と戦うことになりました。その時、エフタは主に誓ってこう言いました。「もしあなたが確かにアモン人を私の手に与えてくださるなら、私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出てくる、その者を主のものといたします。」(11:30-31)こうして彼は出陣し、アモン人の大軍を打ち破って家に帰ってみると、何とその時最初に彼を出迎えたのは、彼のたった一人の娘でした。まさか彼の一人娘が出てくるなどとは夢にも思わなかったでしょう。それで彼は相当悩んだことと思いますが、それでも彼は、その誓いのとおりに自分の一人娘を主にささげたのです。彼は最初の誓いを最後まで貫いたのです。

 

ここで彼が自分の一人娘を主にささげたということが、いけにえとしてささげたということなのか、それとも主の働きのために結婚をせずに一生を過ごさせたということなのかについては見解が分かれるところですが、いずれにせよ、彼がここで信仰の勇者として取り上げられているのは、彼が主に誓ったことを最後まで誠実に履行したからなのです。もちろん、彼がイスラエルを導いてアモン人の大軍から民を救ったということも信仰の勇者として数えられていることの一因ではありますが、それ以上に、一度、神に対して誓った約束を最後までやり遂げたところに、彼の信仰の真骨頂が見られるのです。

 

時として私たちも軽率に主の前に誓うものの、自分の都合が悪くなるとそれを簡単に破ってしまうことがあります。誓約を守るということ、約束を果たすということはそれほど大変なことなのです。たとえば、結婚式の誓いにしても、常に相手を愛し、敬い、助けて変わることなく、その健やかなる時も、病める時も、富める時も、貧しき時もいのちの日の限り堅く節操を守ることを誓いますかと問われ、「はい、誓います。」と誓ったものの、実際に結婚してみると、「こんなはずじゃなかった。」と、いとも簡単に誓いから解かれようとします。そんなことなら初めから誓約などしない方がいいのに、それでも私たちが誓うのは、そこまでしても大切にしたいという思いがあるからです。

 

それは結婚だけではなく、私たちの信仰生活も同じです。ある意味で私たちの信仰生活はイエス様との結婚と同じです。イエス様が花婿であり、私たちはその花嫁です。聖書には教会がキリスト花嫁として描かれています。ですから、イエス様を信じた時どんなことがあってもあなたを愛し、あなたに従いますと誓ったはずなのに、私たちは自分に都合が悪くなると、いとも簡単にそこから解かれようとします。それは私たちに共通する弱さでもあるのです。

 

けれども、このエフタは違いました。彼は神に誓ったその誓いを、最後まで誠実に果たしました。その信仰が称賛されているのです。

 

Ⅴ.ダビデ-罪を犯しても

 

次に登場するのはダビデです。ダビデについてはもう説明がいらないくらい有名な人物です。彼はイスラエルの王であり、信仰の王でもありました。彼はいつも主に信頼し、その小さな体であるにもかかわらず、ペリシテの巨人ゴリヤテを石投げ一つで倒しました。そんな信仰の王であったダビデですが、実のところ、彼にも弱さがなかったわけではありません。彼の生涯における最大の汚点は、王の権力を笠に着た姦淫の罪と、それをもみ消そうとして犯した殺人の罪でした。どんなに偉そうに見える人にも弱さがないわけではありません。どんなに完全に見えるような人にも欠点はあるのです。しかし、ダビデの偉大さは、そのような弱さや欠点、罪や汚れがあっても、へりくだって神の御前に悔い改めたことです。彼は預言者ナタンによってその罪を指摘された時、自分の権力を笠に着て、それをごまかそうとしませんでした。彼は王の権力によって預言者ナタンの直言を退け、彼を処刑にすることさえできないわけではありませんでしたが、そのことばを受け入れ、神の御前に罪を悔い改めました。これは、そのときダビデが歌った詩です。

「神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。どうか、私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。」(詩篇51:1-2)

 

皆さん、このとき彼はイスラエルの王ですよ。王ともあろう者が自分の罪を認め、それを告白し、悔い改めるということは、王のメンツにかかわることでしたが、彼は王としてのメンツも何もかも捨てて、神の御前にへりくだったのです。それが彼の本当の意味での偉大さだったのです。

 

Ⅵ.サムソン-人はうわべを見る

 

最後に登場するのはサムエルです。彼は最後の士師として、また、祭司として、預言者として偉大な神の働きをしました。聖書を見る限り、彼は非の打ちどころがないほど完璧な人物として描かれていますが、そんなサムエルでも弱点がなかったわけではありません。彼の弱さはどんなところであったかというと、うわべで人を判断するという点でした。それは彼がサウルに代わるイスラエルの王を立てるとき、エッサイの家に生きましたが、長男のエリアブを見たとき、「確かに、主の前で油注がれる者だ」と思い、そうしようとしましたが、主は、そうではないと仰せられました。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Ⅰサムエル16:7)と仰せられたのです。それでエッサイはその弟アビナダブ、シャマと進ませましたが、彼らも主が選んでいる器ではありませんでした。主が選んでおられたのは七人兄弟の一番末の弟でダビデでした。彼はまだ小さく羊の世話をしていましたが、彼が連れて来られたとき、主は、彼に油を注げと言われたので、サムエルはダビデに油を注いで王としたのです。

 

このようにサムエルとて弱点はありましたが、それにもかかわらず、ここに信仰の勇者として彼が名を連ねているのは、そのような中にあってもイスラエルの民を終始信仰によって指導し、エルサレムの神殿がペリシテ人によって破壊され、イスラエルの中心であった神の箱が奪われても、弱り果てたイスラエルの心を奮起させようと必死に取り組んだからです。神の箱がペリシテ人のものになっても、神はなおもイスラエルの民とともにおられることを示し、それを取り戻した時にはそれを人里離れた遠いところに置き、イスラエルの民の心が神の箱にではなく、神ご自身に向けられるように指導しました。

 

このように、サムエルはイスラエルの民の心がいつも主に向けられるように指導しました。預言者として、神の命令に背き自分勝手な道を進もうとするイスラエルに神のことばを語り、主に従うようにと励ますことは大変だったと思いますが、それでも彼は忍耐して、その働きを全うしました。それは、彼が信仰によって歩んでいたからです。その信仰が評価されたのです。

 

このように、彼らは生きていた時代や背景も違い、また、性格もいろいろでしたが、どの時代、どのようなタイプの人であっても、共通していたのは、信仰によって生きていたということです。それはここに名を連ねている人もいれば、いない人もいます。そうした多くの人たちが含まれているのです。それが良い時であれ、悪い時であれ、彼らはひたすら神に信頼し、信仰によって生きたのです。

 

それは私たちにも求められていることです。私たちの置かれているこの時代は良い時か、悪い時か、良い時もあれば、悪い時もあるかもしれません。しかし、それがどんな時であっても、私たちもまた信仰によって生きていこうではありませんか。ですから、聖書は私たちにこう告げるのです。ヘブル人への手紙12章1節です。

「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。」

 

信仰の旅は、決してひとりぼっちではありません。あなただけがこの信仰の戦いをしているのではないのです。神に誠実を尽くした偉大な聖人たちや無名な信仰者たちが手本となって、私たちを励ましてくれています。彼らが今、天の御国にいることも私たちの励ましです。ですから、私たちも信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで、神に従った人たちに背中を押されながら、信仰の歩みを続けていくことができるのです。

ヘブル11章30~31節 「いのちがけの信仰」

きょうは、「いのちがけの信仰」というテーマでお話します。このヘブル人への手紙11章には、信仰に生きた人たちのことが語られています。これまでアベルとエノク、ノアの信仰について、そして次にアブラハムとその子イサク、そしてその子ヤコブ、ヨセフの信仰が取り上げられました。そして前回はユダヤ人にとって最も偉大な存在であるといっても過言ではないでしょうモーセの信仰について語られました。きょうは、エジプトを脱出したイスラエルが約束の地に入るにあたって直面したエリコの城壁の陥落と、そのエリコに住んでいた遊女ラハブの信仰から学びたいと思います。

 

Ⅰ.みことばに従った人々(30)

 

まず30節をご覧ください。「信仰によって、人々が七日の間エリコの城の周囲を回ると、その城壁はくずれ落ちました。」

 

これはヨシュア記6章に出てくる内容です。エジプトを出たイスラエルは四十年にわたる荒野の旅をするわけですが、その後、モーセの次の指導者ヨシュアに率いられてヨルダン川を渡り、約束の地に入ります。そこで彼らが最初にしなければならなかったことは、エリコの町を攻略することでした。このエリコという町はあの取税人ザアカイが住んでいた町として有名ですが、世界最古の町として知られています。現在はヨルダン川西岸にあるパレスチナ自治区にありますが、かつてこの町にはかなり強固な城壁が巡らされていました。考古学者の発掘によると、この町の城壁は高さが7m~9m、厚さが2m~4mもあったと言われています。そんな城壁が彼らの行く手にはそびえ立っていたのです。そして、彼らが約束の地に入って行くためには、その壁を突破していかなければなりませんでした。いったい彼らはどのようにして突破したのでしょうか。

 

ヨシュア記を見ると、それは常識では考えられない方法、アンビリーバボーな方法でした。それは、一日に1回七日間、七日目には七回城壁の回りを回り、ときの声を上げるというものでした。すると城壁はくずれ落ちました。すなわち、彼らは武力によってではなく、信仰によって攻略したのです。彼らが神のことばに従って行動したので、神が御業を成されたのです。もし、彼らが神のことばに従わなかったらどうだったでしょうか。城壁はずっとそこにそびえ立ったままで、約束の地に入って行くことはできなかったでしょう。しかし、彼らは神のことばを額面通りに受け入れ、それに従って行動したので、壁は崩れ落ちたのです。これが信仰の働きです。たとえそれが自分の理性を越えたことであっても、あるいは今まで全く経験したことがないことであっても、神が示されたことであればそれに従うこと、それが信仰なのです。信仰によって、神のことばに従うなら、どんなに強固な城壁でも崩れるのです。

 

あなたにはどのような城壁がありますか。自分の息子や娘のとの間に越えられない壁があるでしょうか。自分の親、兄弟との間に、あるいは、職場の同僚、上司との間に、友人、知人との間に人間的には超えることが不可能だと思えるような壁がありますか。しかし、それがどんな壁であっても、神は崩すことがおできになるのです。それは、あなたがだれかと相談したからではなく、あるいは、そのためにあなたが一生懸命に努力したからでもなく、ただ神のことばに従うなら、神がそれを崩してくださるのです。それはあなたが思い描いたような方法やタイミングではないかもしれません。けれども、神様は完全であって、その神の完全な時と方法によって最善に導いてくださるのです。ですから、私たちは神の最善を信じて、忍耐して祈り続けなければなりません。そうすれば、ちょうど良い時に神が働いてくださるのです。このようなことを、これまで私たちは何度か経験したことがあるのではないでしょうか。たとえば、これまでいくらイエス様のことを語ってもかたくなに受け入れようとしなかった人が急に心を開かれて信じるように導かれたとか、自分の力ではどうすることもできない問題が、不思議に解決したということが・・・。

 

ローマ人への手紙9章16節にはこうあります。「したがって、事は人間の願いや努力によるの ではなく、あわれんでくださる神によるのです。」

別に、人間の努力が必要ないと言っているのではありません。努力することに何の意味もないと言っているのでもないのです。けれども、私たちの人生には、自分の力ではどうすることもできないことがあるのです。しかし、神はおできになります。神にはどんなこともできるからです。その神に働いていたたくために私たちは自分を神に明け渡し、神が命じられたことに従わなければなりません。自分の思いや考えではなく、神のみことばに従わなければなりません。そうすれば必ず壁は崩れ、神の約束の実現に向かって大きく前進することができるのです。

 

Ⅱ.一致した信仰(30)

 

第二のことは、一致した信仰です。ここには、「信仰によって、人々が七日間エリコの城の周囲を回ると、その城壁は崩れ落ちました。」とあります。だれか特別な人の信仰によってではなく、人々が七日間エリコの城壁の周囲を回ることによって、人々の一致した信仰によって城壁は崩れたのです。

確かにそこにはヨシュアという強力なリーダーシップがあったのは事実ですが、ヨシュアのリーダーシップだけではなく、そのリーダーに従い、神のことばに従ったイスラエルの人々の一致した信仰があったので、エリコの町の城壁はくずれたのです。もしその中のだれかが、「そんなことしたって無駄だよ。崩れるはずがない。そんなの馬鹿げてる!」「くだらない。俺はそんなことをしている暇なんてない!」と言ったとしたらどうだったでしょうか。壁は依然としてそこにそびえ立っていたことでしょう。イスラエルの人々の一致した信仰がこのような神の御業を引き出したと言っても過言ではありません。

 

エペソ4章13節にはこうあります。「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」

神が私たちクリスチャンに求めておられることは信仰の一致と神の御子に関する知識の一致に達することです。人それぞれ考えが違います。しかし、その違いを信仰によって乗り越えなければなりません。自分がどう思うかではなく、神は何と言っておられるのかを聞かなければなりません。そして、神のみこころにおいて一致しなければならないのです。そうすることによって、私たちは完全におとなになって、キリストの御丈にまで達することができるからです。

 

ですから、あなたが霊的に成長したいと思うなら、成長してキリストのようになりたいと願うなら、キリストのからだである教会につながっていなければなりません。なぜなら、私たちはキリストのからだである教会の一員として召されているからです。いいえ、私は結構です、私は自分で聖書を読み、自分で祈り、自分で礼拝するので教会に行く必要はありません、ということがあったら、そういう人は真の意味でキリストの御丈にまで達することはできません。私たちがいくら自分で聖書を勉強しても、いくら信仰書を読んでも、どんなにセミナーに参加しても、私たちがキリストのからだである教会の一員として召されている以上、その中で養われ、育まれていかなければ、健全に成長していくことはできないからです。イエス様は、ふたりでも、三人でも、わたしの名によって集まるところに私もいると言われましたが、どんな小さな教会でも、キリストによって召された神の教会を通して、神はご自身の栄光を現してくださるのです。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところなのです。

 

ですから、霊的に完全なおとなになりたいと思うなら、神の教会につながって、そこでキリストの満ち満ちた身たけにまで達することを求めなければなりません。そこで信仰において一致するということが不可欠なのです。

 

ピリピ1章27節にはこうあります。「ただ一つ。キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、また離れているにしても、私はあなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており、」

 

福音のために心を一つにして共に奮闘しましょう。たとえそれが自分の思いや考えとは違っても、あるいは、自分がこれまで経験したことと違っていたとしても、クリスチャンは心を一つにすることが求められているのです。それがキリストの福音にふさわしい生活なのです。一人でぐるぐる回っていてもダメです。キリストのからだの一員として心を一つにして祈り、福音の前進のために助け合い、支え合って、ともに奮闘しなければなりません。その時、壁は崩れるのです。

 

日本にプロテスタントの宣教師が来て宣教を開始して160年が経ちますが、未だに1パーセントの壁を越えられないのはどうしてなのでしょうか?その要因はいろいろありますが、その中でも最も大きな要因はここにあるのではないかと思います。すなわち、キリストの福音のためにともに奮闘することです。それぞれが自分の考えがあるでしょう。けれども、キリストとその福音のために自分を捨てる覚悟がなければなりません。福音が全地に満ちるために自分の思いではなくイエス様の思いを持ち、イエス様の心を心として、イエス様のことばに従ってともに奮闘しなければなりません。それはこのヨシュアの時代のようにエリコの町を行進しなければならないということではないのです。それはその当時の、その状況の中で、神が示されたことであって、現代においても同じようにぐるぐると回れということではありません。回るか回らないかということではなく、神のことばに従って、福音のために心を一つにしなさいということなのです。

 

あなたも、この信仰の行進に招かれています。あなたも福音のために、心を一つにして、主の御名の栄光のために共に立ち上がろうではありませんか。それは信仰がなければでません。主よ、あなたが仰せになられることなら何でもします。どうか、この私を用いてくださいと、主の前に祈り求めるものでありたいと思います。

 

Ⅲ.いのちがけの信仰(31)

 

最後に、31節をご覧ください。ここには、遊女ラハブの信仰について語られています。

「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。」

 

イスラエルがこのエリコの町を占領し、そこに住んでいた人々を皆殺しにした時、遊女ラハブは助かりました。なぜでしょうか。それは彼女が、「偵察に来た人たちを穏やかに受け入れた」からです。これはヨシュア記2章にある出来事です。ヨシュアはこのエリコを攻略するにあたり、エリコの町を偵察するために二人の斥候を遣わしたのですが、彼らが向かったのがこのラハブの家でした。そのことがエリコの王の耳に入ると、エリコの王はこの二人を連れ出すためにラハブの家に人を送りました。その時ラハブはどうしたかというと、ふたりの斥候をかくまい、追って来た人に、「その人たちは確かにやって来ましたが、その人たちは、暗くなって、門が閉じられるころ、出て行きました。さあ、後を追ってごらんなさい。もしかすると、追いつけるかもしれません。」と言って、助けてあげたのです。

 

このとき、彼女には二つの選択肢がありました。彼らを受け入れる道と、拒む道です。もし彼女が自分たち家族の目先のことを考えたなら、拒んだ方が安全だったでしょう。けれども彼女はもう一つの道を選びました。それはかなり危険な道でもありました。もしそれが発覚したら、それこそ彼女と彼女の家族はエリコの町の敵として糾弾され、裁かれなければならなかったでしょう。場合によっては死刑にならないとも限りません。それでも彼女は、後者の道を選択しました。どうしてでしょうか。それは、彼女がイスラエルの神こそ唯一まことの神であることを知っていたからです。それを知った以上、この神に従い、この神を信じている人々と行動を共にすることが正しいことであると判断したからです。ヘブル書ではそれを「信仰によって」と表現しています。信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れたのです。その時のことを、ヨシュア記には次のようにあります。

 

「主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちはあなたがたのことで恐怖に襲われており、この地の住民もみな、あなたがたのことで震えおののいていることを、私は知っています。あなたがたがエジプトから出て来られたとき、主があなたがたの前で、葦の海の水をからされたこと、また、あなたがたがヨルダン川の向こう側にいたエモリ人のふたりの王シホンとオグにされたこと、彼らを聖絶したことを、私たちは聞いているからです。私たちは、それを聞いたとき、あなたがたのために、心がしなえて、もうだれにも、勇気がなくなってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです。」(ヨシュア2:9-11)

 

そして彼女はさらにこう言いました。「どうか、私があなたがたに真実を尽くしたように、あなたがたもまた私の父の家に真実を尽くすと、今、主にかけて私に誓ってください。そして、私に確かな証拠を下さい。私の父、母、兄弟、姉妹、また、すべて彼らに属する者を生かし、私たちのいのちを死から救い出してください。」(ヨシュア2:12)

このようにして、彼女は彼らを逃してやりました。彼女は自分のいのちがけで彼らをかくまい、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れたのです。ここでは、その信仰が称賛されているのです。

 

それにしても、このヘブル人への手紙11章には信仰に生きた人たちの名前が記されていますが、その中に彼女の名前が出ているのは不思議なことです。というのは、彼女はエリコの町に住んでいた異邦人で、しかも遊女だったからです。そのような女性が信仰の殿堂入りを果たすということなど考えられないことだからです。ここには17人の人たちの名前が出てきますが、そのうち15人が男性で、女性はたった2人しかいません。しかもそのうちの一人は、あの信仰の父と言われているアブラハムの妻サラです。アブラハムが信仰の父ならば、サラは信仰の母と言っても過言ではないでしょう。そういう女性ならわかりますが、ラハブはそれとは全く比べものにならない立場の女性です。そういう人がこの中に紹介されているというのは本当に首をかしげたくなります。しかも、このヘブル人の手紙はだれに書かれたのかというとユダヤ人クリスチャンに対して書かれました。当時迫害の中にあったユダヤ人クリスチャンがその信仰に堅く立ち続けるようにと励ますために書かれたのです。そしてユダヤ人の社会においては女性が称賛されることはまずありません。ですから、ここに異邦人の、しかも女性が称賛されていることは驚くべきことなのです。しかし、どのような身分、立場であっても、神のことばを聞いて生けるまことの神を信じ、いのちがけで主に仕えるなら、だれでも信仰の殿堂入りを果たすことができるということがわかります。彼女はこの信仰によって称賛されたのです。

 

このラハブの信仰でも際立っている言葉は、ヨシュア記2章21節のことばではないかと思います。それは、「おことばどおりにいたしましょう。」という言葉です。ふたりの斥候が、イスラエルが城壁を破壊してエリコの町に入って来たときには、それがラハブの家であることがわかるように、彼らを吊り降ろした窓に赤いひもを結び付けておくように、そして家族の者は全部、家の中にいるように、もし戸口から外に出るものがあれば、その者はこの誓いから外れる、また、このことをだれかにしゃべってもならないと言うと、彼女は、「おことばどおりにいたしましょう。」と答えたのです。

 

この言葉は、かつてイエス様の母マリヤも発した言葉です。御使いガブリエルがやって来て彼女に救い主の母になると告げられたとき、「どうしてそのようなことがこの身になるでしょう」と戸惑っていると、御使いが、「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」(ルカ1:35)と告げました。するし彼女はこう言うのです。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1:38)このようにしてマリヤは、救い主の母となったのです。

 

ここに登場しているラハブも同じです。彼女もふたりの斥候から告げられると、「おことばどおりにいたしましょう。」と言ってすべてを主にゆだねました。いいえ、そればかりではなく、この信仰によって彼女は救い主の系図の中に加えられたのです。その後、彼女はユダ族のサルモンという人と結婚しボアズを出産します。このボアズはルツと結婚し、あの有名なダビデ王の祖父オベデを生みます。そしてこの子孫から救い主イエスが誕生するのです。すなわち、ラハブが救い主の系図の中に加えられているということです。あり得ないことです。異邦人の、しかも女性で、売春婦であった人が救い主の系図に入っているなんて考えられないことです。しかし、救い主の系図の中に彼女の名前がちゃっかりと記録されているのです。マタイの福音書1章を見るとわかります。ここには四人の女性の名前が記されてありますが、大半は異邦人の女性です。タマル、ルツ、ラハブです。そしてもう一人がイエスの母マリヤですね。たとえ異邦人であっても、ラハブのようないのちがけの信仰があるなら、私たちも救いの中に招き入れられるだけでなく、偉大な信仰の勇者としてその名が神の記憶の中に刻み込まれるのです。

 

私は先週まで中国を訪問しましたが、ラハブのようにいのちがけで主に従っているクリスチャンとお会いし、本当に驚きとともに励まされて帰ってきました。この老姉妹はC先生といって、Oさんの教会の創設者の奥様で、家の教会の指導者のひとりです。現在87歳になられアルツハイマーで入院しておられるので、病院を訪問してお話しを伺いました。C先生が神学校を卒業した1950年頃でしたが、その頃は毛沢東による文化大革命が始まろうとしていた頃でした。神学校を卒業して南の島に赴任したその日にご主人は捕らえられ投獄されました。「さぞお辛かったことでしょう。その時どんなお気持ちでしたか。」とお尋ねすると、C先生はこう言われました。「イエスの弟子にとって苦しみを受けることは当たり前のことです。神学校で学んだ一つのことは、キリストの弟子は苦しみを受けるということです。その苦しみを呑み込むことでイエス様の弟子に加えられると思うと、むしろそれは光栄なことでした。」と言われました。ご主人が何度も捕らえられる中、家族を支えるために羊の世話からいろいろな仕事をしなければなりませんでしたが、イエス様の十字架の苦しみに比べたら、それはたやすいことだと思いました。ものすごい信仰です。

やがてC先生御夫妻はK市に移り、そこで家の教会を始めます。最初は6畳と台所、それに2階を足したような小さな家で始めましたがそこに入りきれなくなると、近くのマンションに移り礼拝を始めました。それがこの写真です。そこも入り切れなくなると政府と交渉してK市の北部のお墓の跡地に教会を建てる許可を受けました。それがこの会堂です。このように中国の家の教会が会堂を持つことは非常に珍しいことで、ほとんどは政府の圧力によって閉鎖に追い込まれますが、この教会は神様の奇跡的なご介入によって今も立ち続けています。しかし、もっとすごいのは、そこに脈々と流れ続けているキリストのいのちです。

 

これは私たちが中国に到着した日に空港からまっすぐ向かった家の教会です。私たちが来るということで、この家のご夫妻が美味しい中華料理を作ってもてなしてくださいました。この方は農家の方でそんなに裕福ではないように見えますが、私たちのために自分たちにできる最高のおもてなしをしてくださいました。

夜の集会はここでやるのかと思ったらそうではなく歩いて3分くらいの別の場所でやるということで移動しましたが、私たちは外国人ということもあり、教会が海外の教会とつながりがあることが判明すると危害が加えられる恐れがあるということで、万が一のことを考えて小さな車に乗せられて移動しました。

そこは石作りの倉庫のようなところで150人くらい入れるくらいのスペースがありました。この集会はこの家の御夫妻が30年前から5人で始められてずっと続けられてきた集会でした。これまでどれほどの危険を乗り越えてこられたかわかりませんが、そのようなことは微塵も感じさせないほどの喜びが満ち溢れていました。集会の合間にこのようにお茶をついでくれでもてなしてくださいました。

集会は7時から始まって9時まで続き、最初に祈りと賛美を30分くらいした後で、5人の人が使徒の働き8章26節から39節のみことばから教えられたことを証し、最後に長老がまとめるというものでした。そして 主の祈りをして解散しましたが、そこには生ける主が臨在しているかのようでした。

この家の集会では火曜日の夜の他に日曜日の午後、木曜日の夜にも集会が行われていて、その他は総教会で行われている日曜日の礼拝と水曜日の祈祷会、土曜日の夜の福音集会に参加しているため、週に5回は集会に参加しているとのことでした。ほとんどイエス様を中心とした生活をしているとのことでした。

 

木曜日の夜は、街の中で持たれている家の教会の集会に参加しました。それはマンションで行われていましたが、どうやって狭いマンションで集会が持てるのかと不思議に思っていましたが、実際に行ってみてわかりました。中が広いのです。日本のマンションと比べたら倍くらいの広さがありありました。50人くらいが座れるスペースです。また建物もしっかりしていて音が隣に漏れることもないようでした。これがこのマンションの持ち主です。そして、こんな感じで集会が持たれていました。内容は火曜日に訪れた集会とほとんど同じです。この日はヘブル11章23節から28節までのみことばからの説明や証が続きましたが、この箇所は、私が中国に来る前に説教した箇所でもあったのでよく覚えていましたが、私よりもずっとよく聖書をよく読んでいるなぁと感心しました。

 

そして、土曜日の夜は福音集会といって、新しい人たちのための集会がありました。それもすべて役員を中心とした信徒たちによって導かれた集会でした。祈りと賛美の後で4人の方々が福音について15分くらいずついろいろな角度から説明したり、証をしたりしました。集会の最後に今晩イエス様を信じたい人は最後の賛美歌を歌っている時に立ってくださいと促されると、40人くらいの人が立ち上がりました。これが毎週土曜日に行われているのです。単純に計算しても月に百人くらい、一年で五百人くらいの人たちが救われることになります。

 

これは日曜日の礼拝の様子です。礼拝堂に八百人くらいの座席がありますがそこは一杯で、その他のスペースに椅子が並べられ、モニターで礼拝していました。おそらく千五百人くらいの人が集っていたのではないかと思います。

 

いったいどうしてこのようなことが起こっているのでしょうか。勿論、これらのことはすべて神の御業なのです。しかし、いのちをかけて主に従ったC先生御夫妻の信仰に主が働かれ、御力を現してくだったからです。

 

しかし、それは中国だけのことでありません。私たちも信仰によって神のことばにいのちかけで従うなら、同じような事が起こると信じます。それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできるからです。しかし、そのためには私たちを完全に神に明け渡さなければなりません。私たちがどう思うかではなく、神がどのように思われるか、その神のみこころを知り、みこころに従わなければなりません。そうすれば、堅く閉ざされたエリコの城壁が崩れ落ちたように、この日本を覆っている霊的な壁は必ず崩れ落ちるのです。そして、ラハブが救い主の系図の中に記録されたように神のすばらしい祝福の中へと招き入れられるのです。

 

あなたはラハブのような覚悟がありますか。もし見つかれば自分のいのちの保証はないという危険の中でもいのちがけで主に従っていくという覚悟ができているでしょうか。神が喜ばれることは私たちが何をするかではなく、死に至るまで忠実であるということです。いのちがけで主に従いましょう。そして、主がなしてくださる御業を待ち望もうではありませんか。信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。

申命記21章

 

 きょうは、申命記21章から学びます。まず1節から9節までをご覧ください。

 

 1.だれが殺したのかわからないとき(1-9

 

「あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられる地で、刺し殺されて野に倒れている人が見つかり、だれが殺したのかわからないときは、あなたの長老たちとさばきつかさたちは出て行って、刺し殺された者の回りの町々への距離を測りなさい。そして、刺し殺された者に最も近い町がわかれば、その町の長老たちは、まだ使役されず、まだくびきを負って引いたことのない群れのうちの雌の子牛を取り、その町の長老たちは、その雌の子牛を、まだ耕されたことも種を蒔かれたこともない、いつも水の流れている谷へ連れて下り、その谷で雌の子牛の首を折りなさい。そこでレビ族の祭司たちが進み出なさい。彼らは、あなたの神、主が、ご自身に仕えさせ、また主の御名によって祝福を宣言するために選ばれた者であり、どんな争いも、どんな暴行事件も、彼らの判決によるからである。刺し殺された者に最も近い、その町の長老たちはみな、谷で首を折られた雌の子牛の上で手を洗い、証言して言いなさい。「私たちの手は、この血を流さず、私たちの目はそれを見なかった。主よ。あなたが贖い出された御民イスラエルをお赦しください。罪のない者の血を流す罪を、御民イスラエルのうちに負わせないでください。」彼らは血の罪を赦される。あなたは、罪のない者の血を流す罪をあなたがたのうちから除き去らなければならない。主が正しいと見られることをあなたは行なわなければならないからである。」

 

1)罪に対する責任(1-5

ここには、イスラエルの民が約束の地に入ったとき、そこで殺人事件が起こるも、だれが殺したのかわからないときどうしたらよいかにいて教えられています。その場合、その死体から一番近い町が、一時的な責任を負わなければなりませんでした。その長老たちは、まだくびきを負ったことがない雌の子牛を連れて来て、その雌の子牛を、まだ耕されたことも種を蒔かれたこともない、いつも水が流れている谷へ連れて行き、そこで首を折らなければなりませんでした。いったいなぜそのようなことが必要だったのでしょうか。

それは、一人の犯した罪に対して、その個人だけでなく、イスラエル全体がその責任を負わなければならなかったからです。罪を犯した人は勿論のこと、他の人にも、その罪に対する責任がないとは言えません。その罪に対する責任を痛感することが必要なのです。これが罪の処理における最初のステップです。

 

今年は戦後71年を迎えますが、この71年はいったいどのような時だったのでしょうか。それはちょうどイスラエルがバビロンに捕らえられて70年を過ごしたような、捕らわれの時だったのではないかと思うのです。勿論、主イエスによって罪から救われ罪の束縛から解放していただきましたが、戦時中にクリスチャンが犯した罪に対しては本当の意味で悔い改めがなされてこなかったのではないかと思います。それはあくまでもその時代に生きていたクリスチャンの責任であり、彼らが悔い改めなければならないことではありますが、それは彼らだけのことではなく、私たちの責任でもあるのです。

それは、たとえばネヘミヤ記1章に出てくる彼の祈りを見てもわかります。彼はエルサレムの惨状を耳にしたとき神の前にひれ伏してこう祈りました。

「どうぞ、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。私は今、あなたのしもべイスラエル人のために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエル人の罪を告白しています。まことに、私も父の家も罪を犯しました。・・」(ネヘミヤ1:6-11

ネヘミヤはイスラエルの罪を自分の罪として告白して悔い改めました。それは先祖たちが勝手に犯した罪であって自分とは関係ないこととして考えていたのではなく、自分のこととして受け止めて悔い改めたのです。

この箇所で教えられていることも同じで、それはだれが犯したのかわからなくても、それを自分の罪として、自分たち全体の問題として受け止めなければならないということなのです。

 

そればかりではありません。6節から9節までをご覧ください。ここには、その罪の贖いのために

まだ使役されず、まだくびきを負って引いたことのない群れのうち雌の子牛を取って、まだ多賀谷貸されたことも種を蒔かれたこともない、きれいな水の流れている谷へ連れて行き、そこでほふるようにと教えられています。何のためでしょうか。その罪を贖うためです。だれが殺したのかわからない罪であってもそれを自分のこととして受け止め、贖罪がなされなければなりませんでした。そのとき彼らは、自分たちがその血を流さなかったことを証言し、罪の赦しを祈りました。そのようにすることによって罪が赦されたのです。

 

これはやがて完全な神の御子イエス・キリストの贖いを示すものでした。イエス様が私たちの罪の身代わりとして十字架で死んでくださったので、その流された血によって私たちのすべての罪を赦してくださったのです。ですから、罪が赦されるためには神の小羊であられるイエス・キリストを信じなければなりません。あなたがイエス様を信じるなら、あなたのすべての罪は赦され、雪のように白くされるのです。そのようにしてイスラエルから罪を除き去らなければなりませんでした。そのようにして私たちも、私たちの群れから罪や汚れを除き去らなければならないのです。

 

Ⅱ.健全な家庭生活(10-21

 

次に10節から21節までをご覧ください。10節から14節には次のようにあります。

「あなたが敵との戦いに出て、あなたの神、主が、その敵をあなたの手に渡し、あなたがそれを捕虜として捕えて行くとき、その捕虜の中に、姿の美しい女性を見、その女を恋い慕い、妻にめとろうとするなら、その女をあなたの家に連れて行きなさい。女は髪をそり、爪を切り、捕虜の着物を脱ぎ、あなたの家にいて、自分の父と母のため、一か月の間、泣き悲しまなければならない。その後、あなたは彼女のところにはいり、彼女の夫となることができる。彼女はあなたの妻となる。もしあなたが彼女を好まなくなったなら、彼女を自由の身にしなさい。決して金で売ってはならない。あなたは、すでに彼女を意のままにしたのであるから、彼女を奴隷として扱ってはならない。」

 

ここには、イスラエルの兵士が戦争中捕虜の中に美しい女性を見つけ、その女性と結婚したいと思うなら、その女を自分の家に連れて行き、そこで女は髪をそり、爪を切って、自分の父と母のために、一か月の間、泣き悲しまなければならないとあります。その後で、彼は彼女のところに入り、彼女と結婚することができました。どうしてでしょうか。それは、たとえ捕虜であってもその女性の人格を尊重し、彼女の悲しみや憂いを大切に取り扱わなければならなかったからです。また、そのようにすることによって、イスラエルの道徳的純潔を守らなければならなかったからです。兵士が心から願うなら、そのような手続きを踏まなければなりませんでした。この1か月の間、女性が感情的な問題を解決し、同時に兵士が、この結婚をより真剣に考える機会としたのです。それが健全な家庭の基礎となるからです。

 

ですから、結婚して嫌になったからと言って簡単に離婚することは許されませんでした。もし離婚したい時には、彼女を自由の身にしなければなりませんでした。決して金で売ってはならないし、彼女を奴隷として扱ってはいけませんでした。なぜなら、彼女はすでに彼によってはずかしめられたからです。それほど彼は結婚について慎重に祈り求める必要があったのです。

 

そればかりではありません。次に15節から17節をご覧ください。

「ある人がふたりの妻を持ち、ひとりは愛され、ひとりはきらわれており、愛されている者も、きらわれている者も、その人に男の子を産み、長子はきらわれている妻の子である場合、その人が自分の息子たちに財産を譲る日に、長子である、そのきらわれている者の子をさしおいて、愛されている者の子を長子として扱うことはできない。きらわれている妻の子を長子として認め、自分の全財産の中から、二倍の分け前を彼に与えなければならない。彼は、その人の力の初めであるから、長子の権利は、彼のものである」

 

聖書は一貫して一夫一婦制を原則としています。一夫多妻制にはいろいろな問題が生じます。ある妻は夫からの愛情を十分に受け、一方の妻はそうでなければ、そこには憎しみが生じます。そればかりではなく、その憎まれている妻から長男が生まれれば、問題は一層複雑になります。というのは、当時、長子は二倍の遺産を受け継ぐことになっていたからです。けれども、父親というのは、自分が愛した妻から生まれた長男に、より多くの愛情を注ぎたくなるものです。この問題は、遺産相続の時に、より一層露骨に現われます。しかし、この問題に対して神は、感情にとらわれず、憎まれている妻が生んだ長子であっても原則を守るようにと、みことばをもって明らかにしてくださいました。私たちの家庭生活においても、私たちの感情ではなく、神のみことばに従うことが優先されなければならないのです。

 

Ⅲ.厳しい警告(18-23

 

次に18節から21節までをご覧ください。

「かたくなで、逆らう子がおり、父の言うことも、母の言うことも聞かず、父母に懲らしめられても、父母に従わないときは、その父と母は、彼を捕え、町の門にいる町の長老たちのところへその子を連れて行き、町の長老たちに、「私たちのこの息子は、かたくなで、逆らいます。私たちの言うことを聞きません。放蕩して、大酒飲みです。」と言いなさい。町の人はみな、彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。イスラエルがみな、聞いて恐れるために。」

 

ここには、かたくなで、両親に逆らう子に対してどのように対処すべきかが教えられています。その場合は、両親は彼を捕まえて、町の長老たちの所へ連れて行き、「私たちの息子は放蕩して、大酒のみです。」と言わなければなりませんでした。両親が扱うことができないことを認め、特別な対処を求めたのです。するとその息子は、町の長老たちから裁きを受けました。そして、町人たちはみな、彼に向かって石を投げ、死刑にしたのです。

 

何と恐ろしいことでしょうか。両親に逆らったくらいで石投げにされるというのではたまったものではありません。いったいこれはどういうことなのでしょうか。それは、このように一つの家庭で起こっていることはその家庭の問題だけでなく、イスラエルの共同体全体の問題として扱われたからです。彼が両親に逆らう息子であることが証明されたなら、彼は死ななければなりませんでした。それは神に対する罪でもあったからです。なぜなら、聖書には、「あなたの父と母を敬え」(申命記5:16)とあるからです。父母に対する反逆は殺人の罪と同じくらい怖い罪なのです。

 

今日、この神の命令をないがしろにされています。子供は親の言うことなど聞こうともしません。子供が親に従うのではなく、親が子供に従うというような逆転した状態になっています。やりたい放題で、歯止めが利かなくなっています。その結果、社会全体がおかくなっています。そのようなことはふさわしいことではありません。子どもを愛することと、子供に好きなようにされるのは全く違います。親は神のみこころを知り、子どもを訓練し、愛して、しつけなければなりません。そのようにしてイスラエルの中から悪を除き去らなければならないのです。それは、イスラエルがみな、聞いて恐れるためです。このような断固とした対応が、イスラエル全体の聖さを保つことになるのです。

 

最後に22節、23節を見て終わりたいと思います。

「もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。」

 

ここでは、死刑にされた人のその死体に取り扱いについて語られています。死刑になった者の死体は、しばらくの間、木の上につるして置かなければなりませんでした。それは、その死体を見ることによって罪を畏れるようにするためです。聖書は、私たちに、罪と罪の本質について生々しい結果を見せてくれています。私たちは自ら犯した罪が、どのくらい醜いものであるのか、覚えなければなりません。罪が人をどれほど悲惨にさせるのか、私たちはいくらでも見ることができます。これらすべてのものは、私たちに対する厳しい神の警告でもあります。私たちは、罪を軽々しく考えてはならないのです。

 

ところで、パウロはこのみことばを引用して、イエス様が、この神ののろいを受けてくださったことを語っています。

「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである。』と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:13

いったいなぜキリストは神にのろわれたものとなって十字架で死なれたのでしょうか。それは、私たちのためでした。私たちは神にそむき、父母にそむき、自分勝手に生きるものでした。その結果、木につるされなければならなかったのです。それを見れば私たちがいかに醜いものであり、汚れた者であったかがわかります。しかし、イエス様はその汚れてのすべてを身代わりに受けて死んでくださいました。神ののろいとなってくださったのです。私たちは、このキリストにあって罪の贖い、永遠のいのちを受けることができました。であれば、私たちは律法によって義と認められようとする愚かなことがあってはなりません。御霊で始まった私たちの救いを、肉によって完成させるようなことがあってはならないのです。

 

このような真理をどのように理解し、受け止めているかが大切です。私たちも時として御霊で始められた救いを肉によって完成してようとしていることがあるのではないでしょうか。ペテロは、異邦人コルネリオをなかなか受け入れることができませんでした。しかし、夢を通して、「神が聖めたものをけがれていると言ってはならない。」日と示され、やっと受け入れることができました。それはペンテコステから約10年が経過してのことです。私たちに求められていることは、御霊によって始められた救いのわざを、御霊によって完成していくこと、すなわち、福音の正しい理解に立って、その中を生きることなのです。

ヘブル11章23~28節 「信仰によって選択する」

きょうは、信仰によって選択する、というテーマでお話します。私たちは、日々の生活の中でいろいろなことを選択しながら生きています。それは、毎日起こる小さなことから、人生における重大な決断に至るまで様々です。そして、「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ6:7)とあるように、どのように選択するかによって、その結果がきまりますから、どのような選択をするのかということは極めて重要なことなのです。

 

きょうの箇所に出てくるモーセは、まさに信仰によって選択した人と言えるでしょう。いったい彼は、どのように選択したのでしようか。きょうは、このモーセの選択からご一緒に学びたいと思います。

 

Ⅰ.信仰によって見る(23)

 

まず23節をご覧ください。「信仰によって、モーセは生まれてから、両親によって三か月間隠されていました。彼らはその子の美しいのを見たからです。彼らは王の命令をも恐れませんでした。」

 

ここにはモーセの信仰ではなく、モーセの両親の信仰について記されてあります。モーセの両親については出エジプト記6章20節に言及されていますが、父親の名前はアムラムで、母はヨケベテです。彼女はアロンとモーセを産みましたが、モーセが生まれた時、大変な時を迎えていました。イスラエル人は多産で、おびただしくふえ、すこぶる強くなって、エジプト全土に満ちたとき、エジプトの王パロはこのことを恐れ、これ以上イスラエル人が増えないようにと、イスラエル人に赤ちゃんが生まれたら、それが男の子であれば皆殺しにするようにと命じられていたからです。そのような時にモーセが生まれました。さあ、どうしたらいいでしょう。モーセの両親は、モーセが殺されないようにと、三か月間隠しておきました。どうしてでしょうか。それは、「彼らはその子の美しいのを見たからです。」生まれたての赤ちゃんはだれの目にもかわいいものです。特に、お腹を痛めて産んだ母親にとってはかけがえのない宝物で、いのちそのものと言えるでしょう。よく自分の子どもは目の中に入れても痛くないと言われますが、それほどかわいいものです。しかし、生まれたての赤ちゃんをよく見ると、そんなにかわいくもないのです。顔はしわだらけで、毛もじゃらで、お世辞にも美しいとは言えません。それなのに、モーセの両親はその子の美しいのを見たのです。これはどういう意味でしょうか。それは客観的に見てどうかということではなく、彼らが信仰によって見ていたからということなのです。ここで注意しなければならないのは、モーセの両親は、信仰によって、モーセの美しさを見た、ということです。

 

このことは使徒7章20節にも言及されていて、それはステパノの説教ですが、そこでステパノはこう言っています。「このようなときに、モーセが生まれたのです。彼は神の目にかなった、かわいらしい子で、三か月間、父の家で育てられましたが、」ここでステパノはただかわいいと言っているのではありません。神の目にかなったかわいい子と言っているのです。つまり、それは神の目にかなった美しさであったということです。人間の客観的な目から見たらどうかなぁ、と思えるような子でも、神の目から見たら、かわいい子であったということなのです。これが信仰によって見るということです。このような目が私たちにも求められているのではないでしょうか。

 

あなたの目に、あなたの子どもはどのように写っているでしょうか。小さいうちはかわいかったのに、大きくなったら全然かわいくないという親の声を聞くことがありますが、どんなに大きくなっても神の目にかなった美しい子として見ていく目が必要なのです。うちの子はきかんぼうで、落ち着きがなくて、駄々ばかりこねて、かんしゃく持ちなんですと、見ているとしたら、それは不信仰だと言わざるを得ません。もし、あたなに信仰があるならば、神の目で子どもを見ていかなければなりません。表面的に見たらほんとうにかたくなで、問題児のように見える子でも、神の目から見たらそうではないからです。神の目から見たらほんとうに美しい子どもなのです。そのように信仰によって我が子を見ていかなければならないのです。

 

それは自分の子どもに限らず、だれであっても同じです。あなたがあなたの隣人を見るとき、あるいは、あなたの接するすべての人間関係の中で、このような目を持ってみることが必要なのであります。相手に多少欠点があっても、このような目で見ていくなら、そこにさながら天国のような麗しい関係がもたらされることでしょう。

 

それは、その後モーセがどのようになったかを見ればわかります。モーセは守られました。そして、やがてイスラエルをエジプトから救い出すためのリーダーとして用いられていくのです。同じように、あなたが信仰によって子どもを見るなら、やがて神に用いられる、偉大な神の人になるでしょう。そのままでは滅びてしまうかもしれません。けれども、信仰によって見ていくなら、決して滅びることなく必ず神に守られる人になるのです。

 

Ⅱ.はかない罪の楽しみよりも、永遠の楽しみを(24-26)

 

次に24~26節までをご覧ください。

「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」

 

本来であれば、ヘブル人の赤ちゃんは皆殺されなければなりませんでしたが、神の奇跡的な御業とご計画によって彼は助け出されただけでなく、何とパロの娘に拾われ、エジプトの王宮で王子として育てられました。ですから、モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにもわざにも力がありました。しかし、彼が成人した時、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。これはどういうことでしょうか?これは、「養母を拒んだ」ということではありません。「パロの娘の子」というのは一つの肩書であり、タイトルなのであって、つまり、モーセはエジプトのパロの後継者、エジプトの王子としての地位や名誉を捨ててということです。今日で言えば、皇太子が天皇陛下になることを拒むようなものです。まして当時エジプトは世界最強の国でした。世界最強のトップとしての地位や名誉を捨てたということは、この世の栄光を拒んだと言っても過言ではないでしょう。この世の富、この世の地位、この世の名誉といったものを拒み、神の民とともに苦しむことを選び取ったのです。その道とは信仰の道のことであり、苦難の道のことです。というのは、主に従うところには必ず苦しみが伴うからです。イエス様はこう言われました。

「あなたがたは、世にあっては患難があります。」(ヨハネ16:33)

また、Ⅱテモテ3章12節のところで、パウロもこのように言っています。

「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」

ですから、神の民として生きる道には苦しみが伴いますが、モーセはこの道を選び取ました。なぜでしょうか。

 

26節には、その理由が記されてあります。「彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったからです。」とあります

モーセは、たとえそれが世界のすべてを手に入れるような栄光であったとしてもそんなものは、はかないと思ったからです。むしろ、キリストによって受ける報いはそれとは比較にならないほどの大きな富だと思いました。ここではこの世のはかない富とキリストによって受ける報いが天秤にかけられています。そして、キリストによってもたらされる天国での報いは、パロの娘の子として受けるこの世の罪の楽しみよりもはるかに重いと判断したのです。この「はかんない」という言葉は、Ⅱコリント4章18節では「一時的」と訳されています。この世の富は一時的なもので、はかないものなのです。エジプトの栄光は人間の目で見たらものすごく魅力的に見えますが、それは一時的で、はかないものにすぎません。永遠に続くものではないのです。今が楽しくて、永遠に苦しむのか、今は苦しくても、永遠を楽しむのか、その選択を間違えてはなりません。

 

イエスさまはこのように言われました。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者はまれです。」(マタイ7:13-14)

 

オランダにコーリー・テンブームという世界的に有名な婦人がいました。彼女は第二次世界大戦のとき、彼女の家族がユダヤ人をかくまったという 理由でドイツの収容所に入れられ、家族は拷問に耐え切れず収容所で死にましたが、彼女は九死に一生を得て国に帰ると、そこで神学を学び、献身して世界中を周って神の愛を語るようになりましたが、彼女はこのように言っています。

「私は33年間、イエス様のことを64か国で語り告げてきましたが、その間たった一度も、イエス様に助けを求めて後悔したという人と会ったことがありません。」

これはものすごいことではないでしょうか。それこそ確かなものなのです。

 

エクアドルのアウカ族に伝道した宣教師のジム・エリオットは、1956年にアウカ族の槍によっていのちを奪われました。28歳の時です。それゆえ、彼はジャングルの殉教者とも言われていますが、彼が22歳の時に書いた日記にこういうことばが残されていました。

「失ってはならないものを得るために、持ち続けることができないものを捨てる人は賢いな人である。」

私たちも賢い人にさせていただきたいですね。モーセのように失ってはならないもののために、自分の手の中にあるものを喜んで手放す者でありたいと思います。

 

Ⅲ.信仰によって前進する(27)

 

次に27節をご覧ください。ここには、「信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。」とあります。これは、モーセがエジプト人を打ち殺した後にそのことがエジプトの王にばれたのではないかと恐れ、ミデヤンの地に逃れたことを語っています。出エジプト記を見る限りは、彼がエジプトを出たのはエジプトの王パロが彼のいのちをねらっていたので、そのことを恐れて出て行ったとあるのに対して、ここでは、モーセは、王の怒りを恐れないで出て行ったとあるので、矛盾しているように感じます。しかし、これは決して矛盾しているわけではありません。確かにモーセはエジプトの王が自分のいのちをねらっているのを知って恐れました。しかし、モーセがエジプトの地からミデヤンの地へ行ったのは、ただ恐れから逃げて行ったのではありません。そのことをここでは何と言っているかというと、「信仰によって」と言われています。それは信仰によってのことだったのです。彼は信仰によって、エジプトを立ち去ったのです。なぜそのように言えるのかというと、その後のところにこうあるからです。「目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。」現代訳聖書では、こう説明しています。「まるで目に見えない神がすぐそばにいてくださるかのように前進した。」モーセは、ただ恐れてエジプトから出て行ったのではなく、まるで目に見えない神がすぐそばにいてくださるかのようにして前進して行ったのです。

 

皆さん、私たちが信仰によって進路を選択する場合、恐れが全くないわけではありません。ほんとうにこの選択は正しかったのだろうか、この先いったいどうなってしまうのだろうか・・そう考えると不安になってしまいます。しかし、信仰によって神を仰ぎ決断するなら、もう恐れや不安はありません。なぜなら、神が最善に導いてくださるからです。問題は何を選択するかということではなく、どのようにして選択したかということです。もし信仰によって選択したのであれば、たとえ火の中、水の中、そこに主がともにいてくださるのですから、何も恐れる必要がないのです。

 

最初は自分の弱さを知って尻込みしたモーセでしたが、神から強められ偉大な指導者としてイスラエルを導くために、再びこのエジプトに戻って来ることになりました。いったいだれがそのような神のご計画を考えることができたでしょうか。これが神の御業なのです。だから、これから先どうなるだろうかと心配したり、このように進んで大丈夫だろうかと恐れたりする必要はありません。最も重要なことは、どのようにして決断したかということです。信仰によって決断したのなら、主が最後まで導いてくださいます。それが結婚や就職といった人生を大きく左右するような選択であればあるほど私たちは本当に悩むものですが、そのベースにあることは信仰によって選択するということです。

 

ここには、モーセが「王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。」とあります。私たちが何かを選択するときに問題となるのは、他の人にどう思われるか、何と言われるかということを恐れてしまうことです。しかし、人を恐れるとわなにかかると聖書にあります。しかし、主を恐れるものは守られるのです。モーセは、エジプトの王がどんなに怒っても、王宮の人たちからどのように思われようとも、そのようなことを恐れないで主に従いました。それが信仰によってということです。

 

もしかしたらそのことで他の人の怒りをかってしまうかもしれません。あるいは、変な人だと思われるかもしれない。そして、その人との関係も失うことになってしまうかもしれません。でも恐れないでください。信仰によって選択し、主に従って行くなら、主はあなたの人生にも、あなたが想像することができないような偉大な御業をなしてくださるのです。

 

Ⅳ.信仰によって、キリストを受け入れる(28)

 

第四のことは、信仰によって、キリストを救い主として信じ受け入れるということです。28節をご覧ください。

「信仰によって、初子を滅ぼす者が彼らに触れることのないように、彼は過越と血の注ぎとを行いました。」

これは、過越しの出来事を指しています。イスラエルがエジプトを出る時、神はイスラエルの民をエジプトから救い出するため、指導者であったモーセをエジプトの王の所に遣わし、イスラエルの民を行かせるように言うのですが、エジプトの王はどこまでもかたくなで、なかなか行かせようとしませんでした。それで神は十の災いのうち最後の災いとして、エジプト中の初子を殺すと仰せられたのです。ただし、イスラエルの民は傷のない小羊をほふり、その血を自分の家の入口の二本の柱とかもいとに塗っておくように、そうすれば主のさばきはその家を過ぎ越し、その中にいる人たちは助かったのでした。こうして彼らはエジプトを出ることができたのです。

 

これはどんなことを表していたかというと、神の小羊であるイエス・キリストの十字架の血を心に塗ること、すなわち、キリストを救い主として信じて心に受け入れることです。あなたがキリストを信じて受け入れるなら、神のさばきはあなたを過ぎ越して、滅ぼす者の手から救われるのです。キリストはこう言われました。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5:24)

 

ユダヤ人哲学者のマルチン・ブーマーは、「人生には出会いで決まる」と言いました。人生には大切な出会いがたくさんありますが、その中で最も大切な出会いは、イエス・キリストとの出会いです。なぜなら、それによってあなたの永遠が決まるからです。あなたがイエスを主と告白するなら、

あなたが信仰によってイエスをあなたの人生の主として受け入れるなら、あなたも永遠のいのちを受けるのです。

 

Ⅴ.信仰によってバプテスマを受ける(29)

 

最後に、29節をご覧ください。ここには、「信仰によって、彼らは、かわいた陸地を行くのと同様に紅海を渡りました。エジプト人は、同じようにしようとしましたが、のみこまれてしまいました。」とあります。これは何のことかというと、イスラエルがエジプトを出た後、追って来たエジプト軍から逃れようと、紅海を渡った出来事です。紅海が真っ二つに分かれ、その乾いた陸地を通って救われました。しかし、エジプト人も同じようにしましたが、彼らはその上に水がおおい、おぼれて死んでしまいました。

 

この出来事はいったいどんなことを表していたのでしょうか。Ⅰコリント10章2節には、「そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、」(Ⅰコリント10:2)をご覧ください。パウロはここで、それはモーセにつくバプテスマを受けたと言っています。ですから、あの紅海での出来事は、モーセにつくバプテスマのことだったのです。

 

バプテスマということばは「浸る」という意味のことばですが、浸るということで一つになること、一体化することを表しています。ですから、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けるというのは、イエス・キリストと一つとなること、一体化することを表しています。きょうこの後でM姉のバプテスマ式が行われますが、それは何を表しているのかというと、イエス様と一つになることです。イエス様が十字架で死んだように自我に死に、イエス様が三日目に死からよみがえられたように、キリストの復活のいのちに生きることです。このようにしてキリストと一つにされ、まことの神の民として、約束の地を目指して進んでいかなければならないのです。

 

ですから、ここでイスラエルの民が紅海を渡って行ったというのは、そこで古いものを、自分の古い罪の性質を水の中に捨てて、そこから出て、神が導いてくださるところの新しい地に向かって進んで行ったということなのです。イエス・キリストとともに十字架につけられ、自分の罪はすべて葬られ古い自分はそこで死に、水から出てくる時には新しいいのちに、キリストとともに復活するのです。その信仰を表明するのがバプテスマ式です。イスラエルがエジプトを出て、古い性質を紅海に捨て、新しい地に向かって行ったように、私たちも古い性質をバプテスマのうちに捨て去り、イエス様とともに新しい性質を来て、そこから新しい地を目指し、新しい地に入る者として歩み出していきたいと思います。

 

きょうはMさんのバプテスマ式が行われますが、これはMさんだけのことではありません。私たちにも問われていることです。あなたは紅海で古い性質を捨て、神の民としての新しい性質を着ているでしょうか。あなたがバプテスマを受けたとき、あなたの古い自分を捨てて、キリストにある新しい性質を着たでしょうか。私たちはきょうそのことをもう一度自分自身に問いたいと思うのです。そして、捨てたはずの自分が、まだ自分の中心にあるなら、このバプテスマ式において、それを捨て去り、イエス・キリストと一つにされ、イエスのいのちによって新しい地に向かっての新たな一歩を歩み出していただきたいものです。これは信仰によらなければできないことです。

 

モーセは信仰によってそれを選び取ました。人間的に見たら、そこには大きな賭けがあるように見えます。ほかの人が進んでいく道を行く方が、ずっとやさしいことです。「赤信号、みんなで渡ればこわくない」とあるように、みんなが行く道を行った方がずっとやさしいのです。でも、そこにはいのちがありません。車が突っ込んできたら死んでしまうでしょう。ですから、より確かな道は、信仰によって、神が示してくださる道を行くことです。そこには大きな勇気と決断が必要ですが、信仰があれば、あなたにもできます。信仰によって生きたモーセとともに、いつも主がともにいて導いてくださったように、そうした人の人生にはいつも主がともにいて導いてくださるのです。