ヘブル7章1~10節「こんなに偉大な祭司」

きょうはヘブル書7章から、「こんなに偉大な祭司」というテーマでお話します。もちろん、この祭司とはイエス・キリストのことです。ですから、イエス・キリストはどんなに偉大な祭司なのかということについてお話したいと思うのです。

「祭司」という言葉は私たち日本人にはあまり馴染みのない言葉ですが、

ユダヤ人にとってはだれでもよく知っている言葉でした。そして、とても重要な立場にある存在だったのです。なぜなら、祭司こそ自分たちが神に近づき、神の前に出るためにどうしても必要な存在だったからです。それは神と人との仲介者です。それが祭司でした。そしてここでは、イエス・キリストこそその祭司であることが語られているのです。

 

実は、このテーマについて5章で取り上げられていました。5章6節には詩篇の言葉を引用して、イエス・キリストについて、「あなたは、とこしえに、メルキデゼクの位に等しい祭司である。」と語られましたが、しかし、彼らの耳が鈍くなっていたので、説き明かすことができませんでした。彼らというのはユダヤ人クリスチャンのことです。ユダヤ教からキリスト教に回心したクリスチャンたちのことです。彼らはいろいろな事情でキリストを捨てて、かつての律法中心の生活に戻ろうとしていたので、著者は最後までこの信仰にとどまっているようにと励ますためにこの手紙を書いていたのですが、どうもその耳が鈍くなっていたのです。心が閉ざされていたわけです。

そこでこのヘブル書の著者は、ちょっとその前に・・・と、「キリストの成熟」ということについて語りました。それが5章11節から6章の終わりまでの箇所です。私たちがイエス・キリストを信じるだけで救われたということはすごい恵みです。今までは死んだらどうなるのか、毎日生きていてもその意味がわからない、だから生きる喜びや力なども沸いてこなかったのに、イエス様を信じたことで罪が赦され、神の子とされ、死んでも生きる永遠のいのちが与えられました。そればかりか、神の聖霊が心に宿ったことで、神との交じりが与えられました。それで確かに人生にはいろいろな問題はありますが、しかし、その中にあっても平安と希望を持って生きることができるようになったのです。前回の箇所には、それは「錨の役を果たし」とありましたね。これは希望の錨です。どんな嵐があってもびくともしない希望の錨です。こんなにすばらしい救いは世界中どこをさがしてもありません。これはほんとうにすばらしい恵みです。しかし、この恵みをもっと深く味わうためには、いつまでもキリストについての初歩の教えに留まっているのではなく、それをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか、と励ましてきたのです。

 

そして、ここからまた祭司の話に戻ります。これが10章まで続くのです。イエス・キリストがどんなに偉大な方であるのかということが、祭司の話を通して説明しようとしているのです。きょうはここからキリストがどんなに偉大な祭司であるのかということを、三つのポイントでお話したいと思います。

 

Ⅰ.義と平和の王(1-2)

 

第一に、キリストは義と平和の王です。1節と2節をご覧ください。

「このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。またアブラハムは彼に、すべての戦利品の十分の一を分けました。まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。」

 

ここに「メルキゼデク」という人物が出てきます。この人物については5章にも出ていましたが、キリストのひな型として描かれています。メルキデゼクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、イエス・キリストもそのような方であるということです。どのような点でキリストはメルキゼデクのようだったのでしょうか。

 

ここには、「このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが」とあります。サレムとはエルサレムのことです。意味は2節に出てきますが「平和」という意味です。「エル」は神という意味ですから、エルサレムというのは平和の神という意味になります。しかし、彼はただエルサレムの王というだけでなく、すぐれた高い祭司でした。

 

旧約聖書には、王であり、かつ祭司であったというのはこのメルキゼデク以外にはいません。ダビデ王は王であり、預言者でもありましたが祭司ではありませんでした。アロンは逆に祭司でしたが、王ではありませんでした。王であり、また祭司であったのはこのメルキゼデクだけなのです。

 

そればかりではありません。ここには、「アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えました」とも紹介されています。彼はアブラハムの時代に生きていた祭司で、アブラハムが王たちを打ち破って帰って来たとき出迎え、彼を祝福しました。これは創世記14章に書かれてある出来事ですが、アブラハムがカルデヤのウルから神が示してくださったカナンの地に来てから、神が彼を祝福してくださったので、彼は多くの家畜、財産を持つようになりました。するとそこに一つの問題が生じるのです。家畜があまりにも多くなってしまったので場所が狭くなり、甥のロトのしもべたちとの間にいさかいが生じるようになったのです。仕方なく彼らは別々の所に住むようになりました。甥のロトが選んだのはヨルダンの低地でとても潤った土地でした。ソドムという町です。ところが、ある時四人の王たちの連合軍が襲って来て、その町を略奪したのです。そこにはロトとその家族、財産も含まれていました。

それを聞いたアブラハムはどうしたかというと、318人のしもべを引き連れて敵を追跡して打ち破り、ロトとその財産、またロトの家族を取り戻しました。アブラハムが王たちを打ち破ったというのはその出来事のことです。その時アブラハムを出迎え、彼を祝福したのがこのメルキゼデクなでした。

彼らついては、それ以後全く出てきません。ダビデが詩篇の中で、「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」と、やはりキリストがメルキゼデクの位に等しい大祭司であると言及されている以外は、他には出てこないのです。颯(はやて)のように現れて、颯(はやて)のように去って行く月光仮面のような存在です。ところで、皆さんは「颯」という言葉の意味をご存知でしたか。颯というのは風が立つと書きますが、風が吹いてくる音を表しているそうです。そのきびきびとした様子から「颯爽」という言葉が出たようですけれども、いづれにしても、このメルキゼテクはサッと現れてサッと去って行く風のような存在であったわけです。なぜそのような人のことがこんなに大きく取り上げられているのでしょうか。それは神のメシヤが彼のような方であったからです。どういう点で彼のような存在なのでしょうか。

 

2節をご覧ください。ここには、「まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。」まず彼の名前を見てくださいというのです。彼の名前は「メルキゼデク」ですが、その意味は「義の王」です。メルキゼデクという名前は、「メルク」と言葉と「ツァデク」という言葉が合わさった名前ですが、「メルク」は王という意味で、「ツァデク」は義という意味です。ですからメルキゼデクという名前は、正義の王という意味になります。それから、先ほども申し上げたように、彼はサレムの王でした。サレムとはエルサレムのこと、意味は「平和」でしたね。その王でもありましたから、平和の王でもあったわけです。つまり、メルキゼデクは私たちに義(救い)を与える王であり、平和を与える王であるということです。これが私たちの主イエス・キリストです。

 

ゼカリヤ9章9節にこうあります。「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」

 

これはやがて来られるメシヤについての預言ですが、やがてあなたのところに来られる王はどのような方でしょうか。この方は正しい方で、救いを与える方です。また、この方は柔和な方、へりくだった方、平和の方で、ろばに乗って来られる方です。しかも、雌ろばの子のろばにです。力強く、颯爽と走り、敵と戦うために用いられる馬ではなく、雌ろばの子のろばといったらもっともか弱い動物の代表でしょう。私たちの救い主はそのようなろばに乗ってこられる方なのです。そして、この預言のとおりに、イエス様が十字架にかかるために最後にエルサレムに入場した時には、ろばに乗って入られました。群集は、「ホザナ、祝福あれ、主の名によって来られる方に‼」と大歓声で迎えましたが、その数日後には、「十字架につけろ、十字架につけろ」という罵声に変わるんですね。人の心はいつもころころ変わるから心というそうですが、しかし、あなたのところにやって来られる救い主は違います。あなたのところに来られる王はあなたに救いを与える方であり、あなたにほんとうの平安を与えてくださる方です。

 

キリストを知るまではほんとうの平安がありませんでした。いつも不安で、何かに怯えているような者でした。楽しいことがあれば喜べても、次の瞬間にはすぐに吹っ飛んでしまうような、吹けば飛ぶような、表面的な喜びでした。どんなに美味しいものを食べても、どんなにいい仕事をしていても、何をしても、心の深い部分で得られるような平安ではありませんでした。しかし、キリストが来られ、私たちの罪、私たちの咎の身代わりとして十字架で死なれ、三日目によみがえってくださったことによって、彼を信じるすべての人に神の救いが、神の平安が与えられたのです。

 

ローマ人への手紙5章1節にはこうあります。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」

イエス・キリストを信じて罪赦された人は、神との平和を持っています。持つかもしれないとか、たぶん持つでしょうと言っているのではないのです。神との平和を持っているのです。イエス・キリストによってこの救いと平和が与えられるのです。それは、環境の変化によって崩れるようなこの世の平安ではなく、何事が起ころうとも微動だにしない超自然的な心の平安です。

 

クリスチャン作家の三浦綾子さんは、直腸ガンの手術を受ける前日のもようを綴っておられます。心臓病もあるので、ひょっとすると術中に召されるかもしれないと思い、遺書を書くことになりました。ところがその時、人知を超えた不思議な平安に包まれ、死の恐れから全く解放されたそうです。イエス・キリストによって与えられる平安はこういう平安です。

 

イエスさまを信じたけど、まだ平安があって・・・・という方はおられますか?心配しないでください。私たちがこの地上にいる限り決して問題が絶えることはないので、そうした問題の渦の中に巻き込まれることがありますが、それでも私たちはこの神との平安が与えられているのです。そして今は祈りによってこれを体験することができます。どんなに心騒ぐことがあっても、心静めて祈るとき、あなたの心に住んでおられる聖霊によって、この神の愛と平安があなたの心を満たしてくださるのです。

ピリピ4章6節と7節にこうあります。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」

 

何とすばらしい約束でしょう。クリスチャンでも悩むことがありますが、問題で心騒ぐこともありますが、それでも祈りによって神の平安を持ち続けることができるのです。キリストは私たちと神との架け橋となってくださいました。ですから、いつでも、どんな時でも、この主を信頼して祈り神の救いと、神の平和を受けようではありませんか。

 

Ⅱ.永遠の祭司(3)

 

第二に、キリストは永遠の祭司です。3節をご覧ください。

「父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。」

 

これはどういうことでしょうか。ここにはメルキゼデクのもう一つの不思議が記されてあります。それは父もなく、母もなく、系図もないという点です。人間であれば父がいたでしょう。母もいたはずです。まあ、いたけど捨てられたということはあったかもしれませんが、ここには父もなく、母もなく、系図もないとあるのは、彼が一般の祭司とは決定的に違う祭司であったということなのです。

一般の祭司なら父がないとか、母がない、系図がないということはあり得ないことでした。なぜなら、律法によれば、祭司はレビ族から出ることが決まっていたからです。他の部族の者が祭司になることはできませんでした。それがはっきりと記されていたのが系図です。その系図がないということは、彼は一般の祭司とは別の次元の祭司だったということなのです。ではどういう次元の祭司だったのでしょうか。すぐれて高い神の祭司です。律法を超えていたのです。彼はアブラハムの時代の人物であり、律法はそれから600年も後に与えられたものですから、そもそも彼の時代には神の律法がありませんでした。そうした律法とは別の、律法よりもはるかにすぐれた祭司がこのメルキゼデクだったのです。

 

そればかりではありません。ここには、「その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司として留まっているのです。」とあります。どういうことでしょうか。メルキゼデクも実在した人であった以上、誕生もし、死にもしたでしょう。それなのに、ここにはそうした記録が全く記されていないのです。それは彼が誕生しなかったとか、死ななかったということではなく、そういうことについて書く必要がなかったということです。なぜなら、彼は神の御子イエス・キリストのひな型として描かれていたからです。つまり、キリストは永遠に、いつまでも、祭司としてとどまっておられる方であるということです。

祭司は普通、死ぬとその働きは終わり次の祭司に引き継がれますが、キリストは死んで終わりませんでした。キリストは死んで三日目によみがえり、天に昇られ、神の右の座に着座されました。そして、今も生きて、私たちのためにとりなしていてくださるのです。キリストは永遠に生きておられる神の祭司なのです。

 

ローマ8章34節には、「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」とあります。

私たちはイエスさまを信じてからもいろいろなことがありますね。家庭の中で、職場の人間関係、この社会の人たちとの関係、教会での人間関係もそうです。突然、小石が飛んできて車のフロントガラスが割れるとか、考えられないことまで起こります。いろいろな問題の中で自分の無力さを感じたり、弱さを感じることもあるでしょう。心が萎えてしまうこともあります。しかし、どんな患難や苦難があっても、何もキリストにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。なぜなら、私たちのために死んでくださった方、いや、よみがえられた主イエスが、天で私たちのために今もとりなしていてくださるからです。私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。だから私たちはこの方によっていつも希望を持って歩むことができるのです。

 

皆さんが辛く、苦しいと感じるとき、どうか思い出してください。皆さんは決して一人ではないということを。イエス様が皆さんとともにいてくださいます。皆さんが倒れないようにととりなしていてくださいます。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、恵みの御座に、イエス・キリストのもとに近づこうではありませんか。

 

Ⅲ.偉大な祭司(4-10)

 

第三に、キリストは偉大な祭司です。4節から10節までをご覧ください。4節には、「その人がどんなに偉大であるかを、よく考えてごらんなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えたのです。」とあります。メルキゼデクが偉大な人物であったということは、アブラハムが彼に一番良い戦利品の十分の一を与えたことからわかります。アブラハムといったらユダヤ人の始祖です。彼によってユダヤ民族が始まりました。ですから、ユダヤ人にとってアブラハムは民族の父であり、信仰の父でもあるわけです。そのアブラハムがメルキゼデクに十分の一をささげたということは、しかも自分の持っていた戦利品の中から一番良いものをささげたということは、それだけメルキゼデクと言う人物が偉大な者であったということです。

 

ところで、ここには十分の一とか、レビ族といった言葉が出てきますが、これは何のことかというと、イスラエルの民が約束の地に入ったとき、それぞれ12の部族に領地が与えられましたが、レビ族には与えられませんでした。なせなら、彼らの仕事は神に仕え、イスラエルの人々のために祈ることだったからです。そのために12部族のうち1つの部族がその働きに専念したのです。どれだけの人がいたでしょう。かなり大勢の人たちがこの仕事に当たっていたことでしょう。それで、レビ族は領地を持たず、農作物などの収入もなかったので、そのレビ族を支えるために他のイスラエル11の部族がそれぞれ収入の十分の一をささげ物として持って来てささげ、彼らの生活を支えたのです。それほどイスラエルは神に仕えるということを極めて重大な働きと考え、この神を中心に生きていたのです。

しかし、きょうの箇所を見ると、そのイスラエルの始祖であったアブラハムがメルキゼデクに十分の一をささげたとあります。そしてレビ族はそのアブラハムの孫の子どもたちですから、アブラハムがささげたということは彼ら自身もささげたということになるのです。なぜなら、その時点ではまだ彼らは生まれてはいませんでしたが、すでにアブラハムの腰の中にいたからです。ですから、イスラエルの民から十分の一を受ける立場のレビ族でさえもささげたということは、いったいこのメルキゼデクはどんな人物なのか・・・となるわけです。少なくともレビ系の祭司よりも優れていたことがわかります。

 

そればかりではありません。6節と7節を見てください。ここには、レビ系の系図にないはずのメルキゼデクが、神の約束を受けたアブラハムを祝福したのです。いうまでもなく、下位の者が上位の者から祝福されるのです。ということは、ここでアブラハムがメルキゼデクから祝福されたということは、アブラハムよりもメルキゼデクの方が上位の者であったということを意味しているのです。

 

皆さん、祝福するというのは、その祝福がそこにあることを宣言するわけです。よく手紙などに、「あなたのご健康を祈っています」と書いてありながらも、実際には一度も祈ったことがないというのとは全く違います。祝福するというのは、その祝福がそこにあるということの宣言なのです。この礼拝の最後にも祝祷がありますが、それもただの形式ではありません。そこに神の祝福があるという宣言なのであって、とても重いことなのです。私たちは神の祝福がなければ生きることができません。神の祝福があるからこそ、まともに生きることができるのです。私たちは自分の力で頑張って生きているようですが、実際には自分の力というのは微々たるもので、すべては神の祝福によって支えられているのです。私たちがこうやって毎週、週の初めに礼拝のために教会に集まって来るのはその神に近づき、神からの祝福を頂くためです。私たちを罪から救ってくださった主の尊い恵みを覚え、その神に感謝して、その神を礼拝して、その神が私たちを祝福して下さるようにと祈るために集まっているのです。だから神の祝福がなかったら何も始まらないのです。

 

もうすぐさくら市での開拓がはじまりますが、そこでも神の祝福がなかったら何も始まりません。3/12には教会の案内が約4万枚さくら市を中心に新聞折り込みされます。オープニングのコンサートやさまざまなイベントも用意されています。でも、神の祝福がなかったら何の意味もありません。ですから、今度の開所式と献堂式で一番重要なことは何かというと、この神の祝福を求めて祈ることです。どれだけ立派な式をやるかとか、どれだけいいものを提供するかとか、どんなに親切にもてなすかとかといったことではなく、そこに神の祝福があるように、神がさくら市での働きを祝福して多くの人たちを救いに導き、その人たちを通してさらに福音が広がっていき、やがてその地域全体に神の福音が満たされ、神の祝福が満ち溢れるようにと祈るためにするのです。このことをぜひ忘れないで、その奉仕に臨みたいと思うのです。足りないところも多々あるでしょう。うまくいかないことも多いかと思いますが、この神の祝福の祈りの中に、ぜひあなたにも加わっていただきたいのです。

当日は米沢から千田次郎先生が来て記念メッセージをしてくださいます。そこで先生がどんなメッセージをしてくださるかはわかりませんが、私にとって感謝なことは先生がわざわざ来てくださって、神の祝福を祈ってくださるということです。それが一番重要なことだからです。

ちなみに、千田先生は私がまだ20代の時からずっと私たちのために祈って支えてくださっている先生です。この教会の開所式の時にも来てくださいました。その時、私はどれほど慰められ、励まされたかと思うのです。私からみたら先生はメルキゼデクのような人です。そんな先生が来て祈ってくださるということは、どんなに幸いなことでしょうか。ぜひこの中に皆さんも加わって、この神の祝福を共に祈ろうではありませんか。

 

アブラハムはメルキゼデクに十分の一をささげ、このメルキゼデクによって祝福されました。レビ系の祭司のトップといってもいいでしょうアブラハムよりもはるかにすぐれた祭司、それがメルキゼデクでした。そして、これはイエス・キリストのひな型だということを申し上げましたが、ですから、イエス・キリストは旧約聖書の中に出てくるレビ系の祭司よりもはるかにすぐれた方なのです。

 

キリストはあなたのためにこの世に来られ、ご自分の命を犠牲にして、永遠の贖いを成し遂げてくださいました。そして、今も生きてあなたのためにとりなしをしておられます。あなたの祝福を祈っておられます。あなたにどんなことがあろうとも、あなたが倒れることがないようにいつも支えていてくだいます。こんなにすばらしい救い主が他にあるでしょうか。いません。あなたの救い主は、あなたのためにご自分の命さえも捨ててあなたを愛してくださったイエス・キリストだけなのです。この方がいつもあなたとともにいて、あなたを助け、あなたを励まし、あなたを守ってくださいます。このイエスから目を離さないで、しっかりととどまっていましょう。キリストはこんなに偉大な祭司なのです。

ヘブル6章13~20節 「神の約束は変わらない」

今日は、「神の約束は変わらない」というテーマでお話しします。きょうの箇所は6章13節からの箇所です。この手紙の著者は5章10節までのところまで話を進めてくる中で、11節から急に話を変えます。彼らの心がかたくなだったので、このまま話を進めていっても解き明かすことが困難だと判断した著者は、「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目ざして進もうではないか」と勧めるのです。そのテーマのまとめがきょうの箇所で、7章から再びメルキゼデクの話に戻るのです。このところで著者がいいたかったことは何かというと、神の約束は変わらないということです。

 

皆さんは、皆さんの人生の中に「確かなもの」を持っておられるでしょうか。「私の夫や妻は誠実で真面目な人だから大丈夫だわ。絶対に信頼できる」どうでしょうか。「私の会社は何かあったときに、絶対に自分を守ってくれる」どうでしょう。確かにそのようなものはあなたを守ってくれるかもしれませんが、絶対かどうかはわかりません。「それなら何も信じないわ。信じられるのは自分だけ」どうでしょう。それが一番危なかったりして・・・。私たちほどいい加減な者はないからです。すぐに心変わりしてしまうような不確かな者であることは、だれよりも自分自身が一番よく知っているはずです。たとえば、あのペテロでさえ、「今夜、鶏が泣く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」とイエス様から言われたとき、「何を、ご冗談を。主よ、たとい、あなたと一緒に死ななければならないとしても、私は、決してあなたを知らないと申しません」と言ったのに、何と彼はその日のうちに三度も立て続けに、イエスを否んでしまいました。私たちが住んでいるこの世の中は、まことに不確かなものなのです。

 

では、この不確かな世の中にあって、本当に信頼できる確かなものはあるのでしょうか。あります。それが聖書であり、この世を造られた創造主なる神であり、神が約束してくださった救い主イエス・キリストです。聖書には、「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(ヘブル13:8)とありますが、神はいつまでも変わらない方です。イエス・キリストは、きのうもきょうもいつまでも、同じなのです。この天地が滅びようとも、神のみことばは決して変わることはありません。どんなに時代が変わっても、どんなに人の心が変わっても、決して変わらないもの、それが神なのです。この神こそ私たちが信頼することができる唯一の方です。私たちはここに希望を置いて、日々平安で確かな生活を送りたいと思います。きょうはそのことについて三つのことをお話したいと思います。

 

Ⅰ.約束のものを得たアブラハム(13-15)

 

まず13節から15節までをご覧ください。

「神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、こう言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。」

 

ここに「アブラハム」という人物が出てきます。クリスチャンならだれでもわかるくらい有名な人ですが、なぜアブラハムなのでしょうか?

それは、この箇所のすぐ前の11節と12節のところで、こう言われていたからです。

「そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心を示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。」

その信仰と忍耐によって約束のものを相続した一人の模範がアブラハムだったのです。彼は信仰と忍耐によって、最後まで神に信頼しました。その結果、神が約束したものを相続することができたのです。いったい彼はどのようにして神の約束のものを得たのでしょうか。

 

アブラハムはイスラエル民族の始祖です。イスラエル民族が始まった最初の人物ですね。イスラエルという民族がどのようにして始まったかご存知でしたか。実はこのアブラハムから始まりました。当時、彼はカルデヤのウルという所、今のイラクですけれども、そこに住んでいました。その時、神様からこう告げられたのです。

「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12章1~3節)

 

これは簡単に言うと14節にある内容です。つまり、神はアブラハムを祝福し、彼の子孫を大いにふやすという約束です。

アブラハムがこの約束を受けた時、彼は75歳の時でした。しかし、彼にはなかなか子供が生まれませんでした。それで彼は神様にこう申し上げるのです。

「自分たちには子供が生まれそうもないので、あのダマスコのエリエゼルという忠実で信仰深いしもべがいますから、彼を跡継ぎにしましょう。」すると主は、「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」(創世記15:4)と言われました。そして彼を外に連れ出して、天の夜空を見させこう言いました。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる。」(同15:5)

それでアブラハムはまだ子供がいませんでしたが、主が言われたことを信じ、主はそのアブラハムの信仰を受け入れてくださいました。

 

しかし、それから10年経ってもアブラハムにはまだ子供が与えられていませんでした。あれから10年ということは、アブラハムはもう86歳になっていたということです。妻のサラも76歳になっていました。皆さん、どうですか。86歳と76歳ですよ。頑張って子供を産みましょうという歳ではありませんね。常識的に考えたら無理です。それでアブラハムはどうしたかとうと、サラの提案によって、彼女にはエジプトから連れて来ハガルという女奴隷がいたので、彼女によって子供を作り、その子供を跡継ぎにしようと考えたのです。なかなかのグッドアイデアです。常識的には無理なんだから、それに代わる方法はないかと考えた結果、そうだ、この手でいこう!となったのです。これが人間の考えることです。しかし、その結果はどうだったでしょうか。

 

サラの提案はすぐに受け入れられ早速実行に移され、アブラハムとハガルとの間に男の子が生まれました。「イシュマエル」です。このイシュマエルは今のアラブ民族の始祖です。中東におけるイスラエル民族とアラブ民族との戦いは今に始まったことではなく、実はこの時から始まっていたのです。これは神のご計画を人間の考えで達成しようとしたアブラハムの肉が招いた結果でした。皆さん、私たちの問題の原因はいつもここにあります。神の御思いよりも自分の思いが優先してしまうことです。結局、イシュマエルが生まれると女奴隷ハガルが主人サラを見下げるようになってしまったので、そこに大きな争いが引き起こされてしまいました。しかし、こうしたアブラハムの失敗にもかかわらず、神の約束とご計画が変わることはありませんでした。アブラハムが100歳、サラが90歳の時に、彼らに約束の子イサクが生まれたのです。それは実に神がアブラハムに約束した時から25年目が経っていました。それで、15節に戻ってください。

 

「こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。」

 

アブラハムはどのようにして約束のものを得たのでしょうか。ここには、「こうして」とあります。つまり、神の約束を聞き、それを信じ、そこに希望を持ち、忍耐して、最後までそれを待ち望んだことによってです。

 

このことをパウロはローマ人への手紙の中でこう言っています。4章19~21節です。

「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱まりませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」

アブラハムは百歳になって、人間的には不可能で、どうしようもない状況になっても、あきらめませんでした。彼の信仰は弱まるどころか、ますます強くなって、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じたのです。「こうして」です。

 

この著者はいったいなぜこんなことを語っているのでしょうか。それはこの手紙の受取人である当時のユダヤ人クリスチャンが、イエスをメシアと信じたことでユダヤ人社会かに締め出され、相当の苦しみを受ける中で、中にはかつての生活に、キリストなしの律法の世界に藻道路とする人たちがいたからですつるしかし、そこには救いはありません。救いはイエス・キリストにあるのです。このイエスにしっかりと留まっていなければなりません。その最後まで忍耐してこの信仰にととまったのがアブラハムだったからです。

 

皆さん、歳をとると、歳とともに、このような信仰を持つことは難しくなることがあります。若いうちには「まだなんとか・・」という希望があっても、歳をとると、体力の衰えとともに、「ちょっと無理だ」とか、「大変だわ」と言って、あきらめてしまうのです。でもアブラハムは違いました。彼は百歳になって、もう自分のからだが死んだも同然であり、妻のサラも同様であることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。むしろ、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があると堅く信じたのです。皆さん、私たちもそうなりましょう。私たちが何歳になっても神の約束に信頼し、最後まで信仰と忍耐をもってこの希望を告白しようではありませんか。

 

Ⅱ.神の約束は変わらない(16-18)

 

次に16節から18節までをご覧ください。

「確かに、人間は自分よりすぐれた者をさして誓います。そして、確証のための誓いというものは、人間のすべての反論をやめさせます。そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。それは、変えることのできない二つの事がらによって、・・神は、これらの事がらのゆえに、偽ることができません。・・前に置かれている望みを捕えるためにのがれて来た私たちが、力強い励ましを受けるためです。」

 

ここで語られているのは「誓い」についてです。よく私たちは「誓い」をしますね。たとえば、高校野球でも「選手宣誓」をします。「宣誓、私たちはスポーツマンシップにのっとり、正々堂々と戦うことを誓います。」結婚式でもその中心は何かといったら、この「誓約」です。「・・兄弟、あなたは今、この方と結婚し、夫婦になろうとしています。あなたは、この結婚が神の御旨によるものであることを確信し、神の教えに従って、夫としての分を果たし、常に妻を愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、その健やかなる時も、病める時も、留める時も、貧しき時も、いのちのち日の限り、堅く節操を守ることを誓いますか。」

すると新郎新婦が「はい、誓います」と答え、牧師が「この男女が夫婦であることを宣言します」と宣言するわけです。

 

しかも誓う時は自分よりもすぐれた者をさして誓います。たとえば、高校野球の時は大会会長の前で誓いますし、結婚式ではもちろん神の前で誓うわけです。でもいったいなぜわざわざ誓うのですか。約束しただけではだめなんですか?約束しただけでもいいんです。そもそも誓いというのは約束なんですから・・・。それならば、なぜわざわざ誓うのですか?それは、ここに書いてあるように確証のためです。今約束したことは本当です。今、約束したことは絶対に破りません。そういう意味で誓うのです。本来、約束は破るためにするのではなく、守るためにするものです。「はい」は「はい」であり、「いいえ」は「いいえ」であって、それ以外のなにものでもありません。しかし、それだけでは不十分なのです。その約束が本当なのかどうかを確かなものとするために誓いをするのです。その約束は確かです。誓ってそうします。皆さん、そう言われたらどうですか?「嘘つけ」なんて誰も言えません。誓いというのはそれだけ重いのです。一旦誓ったら、だれもとやかく言うことはできません。

 

なぜこんな話をしているのかというと、神の約束がどれほど確かなものであるかを示すためです。神は人間と違うわけですから、神は本来、誓いなどいりません。神は真実な方ですから、「はい」は「はい」であり、「いいえ」は「いいえ」なのです。「はい」が「いいえ」になることは絶対にありません。それは約束を破ることになりますから。神は決して約束を破ることはありません。だから常に「はい」は「はい」であり、「いいえ」は「いいえ」なのです。

 

ところが13節を見ると、「神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分を指して誓い、」とあります。ここで神が誓っておられるのです。神は真実な方ですから約束だけで十分であって誓う必要なんて全くないのに、ここで誓われたのです。なぜでしょうか。それは、その約束が絶対に変わらないことを示すためです。17節、「そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。」ご自分の計画が絶対に変わらないということを、この約束と誓いという二つの事柄をもって保証されたのであります。

 

ということはどういうことでしょうか。ということは、神の約束は絶対に変わらないということです。神のご計画はどんなことがあっても必ず実現するのです。このことが本当によく分かると、聖書の中に約束されている神の約束は確かに自分のものとなるのだということが分かります。信仰によって神の約束の御言葉を自分のものとして体験することがどんなに大きな祝福であるかがわかるのです。それはアブラハムだけでなく、今日の私たちにも全く同じことが言えるわけです。

 

多くの人は、目に見えるものこそ確かなものだと思っています。しかし、目に見えるものはやがて過ぎ去ってしまいます。

「人はみな草のようで、その栄は、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」(Ⅰペテロ1:24-25)

このことが本当に分かると、変わりやすく不確かなこの世のものに捕われず、確かな永遠の神の御言葉に根を下ろして生きるようになると思います。

 

クリスチャンでない方にとっては、クリスチャンほど哀れな人たちはいないと思われるかもしれません。だって天国だとかつかみどころのないものを当てにしながら生きているからです。人間の知恵や常識からすれば、確かにつかみどころがないかもしれません。しかし、そのつかみどころがないものを、神が保証してくださっているのです。ですから、これ以上確かなものはないのです。ノンクリスチャンは自分の考えに自信をもっていかもしれません。しかし、そうした自信といったものがどれだけ確かなものであるかは、この震災が物語っているのではないでしょうか。あれからもうすぐ5年が経とうとしていますが、私たちはこのことから教訓を受けなければなりません。人間がどんなに知恵や知識をもってしても、そうしたものは大震災の時には何の役にも立たないということを。本当に必要なのは、私たちを守り、助けてくれるのは、神の約束の御言葉であって、それ以上に確かなものはないのです。

 

Ⅲ.神に錨を下ろして(19-20)

 

ですから、結論は、神に錨を下ろしてということです。19節と20節をご覧ください。

「この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側にはいるのです。イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。」

 

ここには、この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たしとあります。錨というのは、船が港や沖合いに停泊する時、流れに流されないようにするためのものです。普通、鋼鉄の綱に付けられ、海底に下ろされますが、海底があまりにも深い場合には、海底まで届かなくても、動くことのない深海に沈めておきます。そうすると、どんなに海面が荒れて、波打っても、船は錨によって、しっかりと固定されているので、びくともとません。流されたり、ひっくり返ったりしないのです。イエス・キリストに対する希望はこの錨のようなもので、この方に錨を下ろすならば、決して揺れ動くことはありません。それは私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たすのです。どんなに世相が変わり、人の心が変わっても、神の中に信仰の錨を下ろしていれば、動くことのない平安な日々を歩むことができるのです。あなたの錨はどこに下ろされていますか。イエス・キリストに置かれていますか。もしイエスの上に置かれているなら安心です。なぜなら、イエス・キリストは岩なる方なので、この方につながっているなら、この方にとどまっているなら、あなたのたましいには、いつも安らぎがあるからです。この方は真実な方なので、その約束を最後まで守ってくださいます。

 

その約束とは何でしょうか。その約束とは、幕の内側に入るということです。これは天の至聖所のことです。神が臨在しておられるところ、天の御国のことです。必ずそこに入れていただけます。そのためにイエス様は私たちの先駆けとして、そこに入ってくださいました。天の聖所に入り、永遠にメルキデゼクの位に等しい大祭司となられたのです。

 

ですから、私たちの信仰が確かで不動なものであるのは、神の保証としての約束の御言葉とその誓いがあるからということと同時に、このようにイエス・キリストが私たちの先駆けとしてすでに天国に入っておられ、大祭司として私たちを助けようとしておられるからだということがわかります。それゆえ、神の臨在の中で歩む者には、恐れも悩みも思い煩いもありません。いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝することができるのです。そこに、いつまでも変わらないイエス様がともにおられるからです。イエス・キリストは、昨日もきょうもいつまでも同じです。このイエス様が共にいてくださるなら、どんなことがあっても、あなたは揺るがされることはないのです。

 

ダビデはこのように言いました。

「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、わたしはゆるぐことはない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せになりません。あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:8-11)

 

おそらくこれは、ダビデがサウルから逃れているときの心境だったと思います。鳥が身の危険を感じたら山々に飛んでいくように、自分の身に命の危険を感じた彼は、遠くに逃げていけば良いのです。でもそのようにしなかった。なぜでしょう。なぜなら、彼は主ご自身に身を避けたからです。いつも自分の前に主を置きました。なぜなら、主が彼の右におられるなら、揺るぐことがないからです。主が彼とともにおられるなら、彼のたましいは喜び、楽しみ、安らぎます。主こそ彼の岩、彼の救い、彼のやぐらでした。彼のたましいは黙って、ただ神を待ち望んだのです。それゆえ彼は喜びに満ち、彼の右には、楽しみがとこしえにありました。これが私たちの信仰です。あなたの錨はどこにおろしているでしょうか。

 

昔からクリスチャンは迫害の時、自分たちがクリスチャンであることのしるしとして、魚の模様や錨の模様を描きました。ことにローマ帝国下で迫害に耐えてきたクリスチャンは、ローマにある地下墳墓で集会を持っていました。これはカタコンベと言って、今日でも残っています。地下に二層にも三層にもなっていて、所々に有力者たちが葬られたのではないかと思われる広場のような所があります。広場といってもせいぜい一坪か二坪の小さな所ですが、そういうところの壁に魚や錨が描かれているのです。いったいなぜそんな絵が描かれているのでしょうか。

魚はギリシャ語でイクスースと言いますが、これは、「神の子、救い主イエス・キリスト」というギリシャ語の頭文字を綴った単語です。それがイクスースになるからです。では錨はなぜかというと、そこに十字架があることからもわかるように、イエス・キリストに錨を下ろしているという彼らの信仰が表われているからです。

 

あなたの錨はどこに下ろされていますか。もしそれがイエス・キリストに、いつまでも変わらない神の約束に下ろしているなら、あなたのたましいも安全で、どんなことがあっても揺るがされることはないのです。神の約束はどんなことがあっても変わらないからです。

ヘブル6章1~12節 「成熟を目ざして進もうⅡ」

今日のテーマは「成熟を目ざして進もうⅡ」です。実際には先週の午後にもこのテーマに関する学びがありましたので、3回目の学びとなります。このヘブル書の著者は、キリストこそ偉大な大祭司であり、メルキデゼクの位に等しい大祭司であるということをお話してきましたが、途中で話すのを止めてしまいました。なぜなら、彼らにはそのことについて聞く力がなかったからです。耳が鈍くなっていたので、話しても理解することが困難になっていたのです。耳が鈍くなっていると言っても、耳が聞こえづらくなったということではありません。心の耳がふさがっていたということです。だから、どんなに霊的な事柄を話しても理解することは困難だったのです。彼らに必要だったのは、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらうことでした。

 

そこで少しテーマを変えて、霊的にもっと敏感になりましょう、心を開いて神のことばを素直に聞きましょう、と言ったのです。生まれたばかりの乳飲み子のように純粋なみことばの乳を慕い求めることは大切なことですが、いつまでも乳ばかりではなく、少しずつ堅い食べ物も食べられるようにしなければなりません。そうすれば、義の教えに通じることができます。経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人になることができるのです。

 

聖書を見ると、私たちの心には三つの段階があることがわかります。第一に「幼心」です。パウロはコリントの教会への手紙の中でこのように言っています。

「さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。」(Ⅰコリント3:1-2)

ここには、「キリストにある幼子」とありますね。ですから、私たちの中には幼子があるのです。これは救われたばかりの人のことです。聖書のことがあまりよくわからないけど、これからイエス様のような人になろうという人ですね。

 

それから第二に「大人」です。Ⅰコリント14:20には、「兄弟たち。物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい。」とあります。

 

そして第三に「親心」です。Ⅱコリント12:14にあります。「今、私はあなたがたのところに行こうとして、三度目の用意ができています。しかし、あなたがたに負担はかけません。私が求めているのは、あなた方の持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。子は親のためにたくわえる必要はなく、親が子のためにたくわえるべきです。」

 

私たちの中にはいつもこのような親心、大人心、子供心があって、このような心がいつも交錯しながら親心へと成長していくのです。こうした親心となった成長したクリスチャンが増えていくとき、教会は成長したキリストのからだとなっていくのです。

 

すでに結婚している若い婦人の方が、このことに目覚め、実家に帰った時のことです。それまでは羽を伸ばし、好きなことをして、実家を休み場のようにしか考えていなかったことに気付かされたのです。そして悔い改めの親心で自分の両親に接してみようと決心しました。

「お母さん、仕事なかなか大変でしょう」と、母親の心に耳を傾けたとき、お母さんの心は大きく開かれ、それまでしゃべってくれたことのないようなことまで、どんどん打ち明けてくれるようになりました。そして近くの教会の集会に誘うと、快く応じてくれたというのです。

 

だれでも人と対話をするとき、まず自分の話を聞いてほしい、わかってほしいと思うでしょう。これは幼心の衝動です。自分のことを聞いてほしいと思うことが悪いというわけではありません。しかし、そのとき「まず相手の話を聞いてあげよう」という親心があれば、相手に励ましや慰めが流れて行くことは確かです。

 

あるとき、他の教会で行われた修養会に招かれてお話したことがあります。そのとき、その教会のピアニストに「どんな心で奉仕されているんですか」と尋ねると、その方がこう答えられました。「そうですね。司会者がやりやすいように、会衆が歌いやすいように、全体に心を砕いて奏楽しています。」よく訓練された教会だなぁと、とても感心させられました。特に音楽の奉仕は目立ちやすいものです。芸術家は自分を音楽によって表現すると聞いたことがありますが、しかし、それが時々教会に問題を引き起こすことがあります。なぜなら、教会でいちばん大切なことは自分を表現することではなく、自分を罪から救ってくださった神をほめたたえ、神の栄光を現すことだからです。ですから、そうした幼心から親心に成長していくことによって教会の徳を高めることができるようになり、神の栄光を現すことができるようになるのです。

 

また、こうした親心が主に向かうとき、それは「主の御心を尋ね求める」という姿勢になります。これまではいつも、「主よ、こうしてください。」「ああしてください」と、自分たちの必要が満たされるようにというだけの祈りだったのが、「主よ、あなたの御心は何ですか。」「あなたが私に願っておられるみとはどんなことですか」と、神の御心を求める教会へと変えられていくのです。

 

ではそうした親心が成長し、クリスチャンとして成熟した者になるためにはどうしたらいいのでしょうか。きょうはこのことについて学びたいと思います。

 

Ⅰ.成熟を目ざして進もう(1-3)

 

まず1節から3節までをご覧ください。

「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです。」

 

ここは「ですから、私たちは、キリストにつていての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。」とあります。「ですから」というのは、この前で語られてきたことを受けてのことです。この前ではどんなことが語られてきたかというと、大祭司であられる私たちの主イエスについては、話すべきことがたくさんありますが、今のあなたがたは耳が鈍くなっているので、説き明かすことは困難です、ということでした。どんなにすばらしい神の教えも、それを聞く人の心がふさがっていると、聞いても理解することができないからです。「ですから」です。ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか、というのです。たとえば、死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう、というのです。

 

これはどういうことかというと、ここでヘブル書の著者は、キリストについての初歩の教えとして六つのことを挙げているのです。

まず死んだ行いからの回心と神に対する信仰です。これは悔い改めと神に対する信仰についての教えです。現代訳では「死から命への方向転換、神信仰」と訳されています。死から命への方向転換ですから、これはまさに悔い改めて神を信じることについての教えです。

次はきよめの洗いについての教えと手を置く儀式です。ユダヤ教にはきよめの洗いの儀式がたくさんありました。その中にはイエスの御名による水のバプテスマも含まれています。また手を置く儀式ですが、これは按手のことを指しています。手を置いて祈り、祝福し、また任命したりしました。

そしてもう一つのことは死者の復活ととこしえのさばきなどの基礎的なことです。これはクリスチャンが死んでも生きるということ、この死者の復活の教えととこしえのさばきなど、終わりの日に関する教えのことです。

 

これらのことを見てもわかるように、これらのことは私たちクリスチャンにとってどれもとても重要な教えです。ヨハネ20章31節には聖書が書かれた目的が記されてありますが、それは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである、とあります。ですからねこれらのことはまさに、聖書が書かれて目的そのものであるわけです。これらのことは私たちの信仰の中心的な事柄であり、どんなに強調してもしすぎることがない重要な教えなのです。

 

それなのに、そうしたキリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか、というのです。なぜてじょうか。神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです。すなわち、それが神の御心であるからです。神の御心は、私たちが救われた状態にずっと留まっているだけでなく、これらことを土台にしてさらに信仰の成熟を目ざして進むことなのです。

 

レビ記11章45節には次のようにあります。

「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるから、あなたがたは聖なるものとなりなさい。わたしが聖であるから。」

主がイスラエルをエジプトから救い出されたのは何のためだったのでしょうか。それは彼らの神となるためでした。神は聖なる方なので、彼らも聖でなければならない。「聖」というのは、選び別けられるという意味ですが、神のものになるということです。つまり、神のようになることです。彼らはそのためにエジプトから連れ出されたのはそのためでした。同じように私たちが救われたのも、それが救われて良かったという私たちのためだけではなく、私たちを救ってくださった神のようになるためだったのです。

 

Ⅱペテロ3章18節にはこうあります。「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。」これは、「恵みと知識において成長し続けなさい」という意味です。(現在命令形は継続を表しているから)イエス様を信じて救われた人は、ああ良かった!これでもう天国に行けるから安心だわと、そこに留まっているだけでなく、その主であり救い主の恵みと知識において成長していかなければなりません。それを求めていかなければならないのです。

 

「成長しなさいと言われても無理ですよ。どこまで行ったってきりがないじゃないですか」確かに、クリスチャンの成長にはきりがありませんが、しかし、一つの目標が定められているのです。それは何かというと、イエス様のようになることです。イエス様のようになるということがクリスチャンの目標であり、成熟したクリスチャンの姿なのです。

 

エペソ4章12節から13節にはこうあります。

「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致に達し、完全に大人になって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」

ここには、「キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」とあります。すなわち、イエス様のようになることが私たちクリスチャンの目標なのです。それは私たちの努力によってではなくキリストの恵み、聖霊の恵みによって成し遂げられていくものですが、同時に、私たちにもそのための訓練が求められているのです。それはⅠテモテ4:7に、「敬虔のために自分を鍛錬しなさい」とあることからもわかります。「敬虔」とは、信仰とか、霊的なことのためという意味です。そのためには訓練が必要なのです。何もしないで体の健康を保つことができないように、霊的な健康のためにも訓練が必要なのです。そのための時間と労力をかける必要があるのです。それがイエス・キリストの恵みと知識において成長するということです。

 

Ⅱ.成長がなければ後退(4-8)

 

で第二のことは4節から8節までに書いてあることですが、もし成熟を目ざして進むことをしなかったらどうなってしまうのかということです。クリスチャンが成熟を目ざして進まなかったら霊的に成長することができないだけではありません。それだけでなく、信仰そのものからも離れてしまう危険があるのです。すなわち、成長なければ後退してしまうというのです。まず4節から6節までをご覧ください。

「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」

 

ここは難解な聖書箇所です。ここには、一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、堕落してしまうならとありますから、これはクリスチャンになり、すばらしい霊的体験をした人が堕落して信仰を捨ててしまうなら、ということでしょう。そういう人はどうなってしまうのでしょうか。ここには、「そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。」とあります。つまり、そういう人は救われることはないということです。

 

いったいこれはどういうことでしょう?というのは、聖書には、私たちがイエス様を信じれば、御霊によって新しく生まれ変わり、永遠のいのちを得ることが約束されています。たとえば、ヨハネの福音書6章47には、こう約束されてあります。

「まことに、まことに、あなたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。」

また、イエス様は言われました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)イエス様を信じる人は死んでも生きるのです。

何とすばらしい約束でしょうか。そして、そのように約束された主は、次のようにも約束されました。

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」(ヨハネ10:28)

ここには、イエス様は永遠のいのちを与えるというだけでなく、だれもイエス様の手から彼らを奪い去るようなことはないと、言われたのです。もう嫌になったからと、神が途中で見捨てるようなことはなさいません。もう何度言ってもわからないんだからと、あきらめてしまうことはないのです。その救いは最後までちゃんと保証されているのです。1年保証とか、3年保証とか、最長10年保証とかありますが、そうじゃない。神の救いの保証は永遠です。永遠の保証です。ですから、皆さん安心してください。「ああ、よかった」永遠に保障されているんですから。どんなことがあっても見放されたり、見捨てられたりすることはありません。神は最後まで私たちを守ってくださいます。それが私たちの救いです。それなのに、ここには、一度堕落してしまうと、そういう人をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできないとあるのです。あたかも、一度堕落してしまったら、もう二度と赦されることがないような、一度ひどい罪を犯してしまったら、神の救いは無効にされもう立ち戻ることはできないというふうにも読めます。いったいこれはどういうことなのでしょうか。

 

まず、最初に申し上げておきたいことは、これは一度救いに導かれたクリスチャンが罪を犯してしまったらもう二度と赦されないということではないということです。また、堕落して信仰から離れてしまったらもう悔い改める余地がないということではないのです。なぜなら、Ⅰヨハネ1:9にはこうあるからです。

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。それが私たちの神です。ここには、「すべての悪から」とありますから、どんな悪からも、です。神が私たちを赦してくださるのは私たちが正しいからではなく、また、私たちがいい人だからでもなく、ただ私たちを愛してくださったからです。それを何というかというと、「一方的な愛」と言います。神が一方的に愛してくださいました。だから、私たちが悔い改めるなら、神は無条件で赦してくださるのです。

 

あの放蕩息子の話を覚えているでしょう。父親の財産の半分をもらって遠い国に旅立った弟息子は、そこで贅沢三昧の暮らしをして、とうとうお金を使い果たしたあげく、食べるにも困り果ててしまいました。それで彼はある人のところに身を寄せたところ、彼はそこで豚の世話をするようになりました。お腹がすいてお腹がすいて、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思った彼は、はっと我に返るのです。父のところにいた時には、パンの有り余っている雇人が大ぜいいたではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。そうだ。父のところに、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯ししまた。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇人のひとりにしてください。」

するとどうでしょう。彼が自分の乳のもとに行ったとき、家まではまだ遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけしました。そして、言いました。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」

すねと父親は、しもべたちに言って、一番良い着物を持って来て、着させ、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせ、肥えた子牛を引いてほふりなさい。食べて祝おうではないか、と言ったのです。

この父親は息子に何一つ言いませんでした。むしろ、息子が返ってきたことを喜び、温かく迎え入れました。なぜですか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったからです。この父親は息子が返ってきただけで喜びました。これが私たちの神です。私たちの神は、私たちが悔い改めて神のもとに帰ってくることを望んでおられます。そうするだけで、心から喜こんでくださいます。私たちに要求なさることは他に何一つないのです。

 

それはイエス様の弟子であったペテロのことを考えてもわかります。彼はイエスの弟子たちの代表と言っても過言ではありません。しかし、そのペテロが何とイエス様を裏切ってしまいました。彼は、ここに書いてあるように、天からの賜物を味わい、すばらしい神のみことばを味わったにもかかわらず、イエス様が十字架に架けられる直前、三度も主を否み、主を見捨てて逃げてしまいました。けれども彼はイエスが復活された後に悔い改めることができ、そして初代教会においては、第一の指導者となることができました。彼は、ある意味で堕落しましたが、もう一度悔い改めることができました。だからここで言っていることは、イエス様を信じた人が大きな罪を犯してしまったらもう二度と赦されることはないとか、堕落して信仰から離れてしまったら、もう悔い改める余地がないということではないのです。ではここで言われていることはどういうことなのでしょうか?

 

このことを正しく理解するためには、これが誰に対して書かれた手紙なのかをもう一度思い出していただきたいのです。これはヘブル人への手紙とあるように、ユダヤ人クリスチャンに書かれた手紙でした。彼らはユダヤ人でありながらもイエスがメシヤ、神の子、救い主と信じた人たちです。ユダヤ人は旧約聖書を信じていましたから、そのユダヤ人がイエスをメシヤと信じることは簡単なことではありませんでした。あのパウロでさえ信じることができなくて、逆にそういう人たちを迫害していたくらいですから、それは並大抵のことではありませんでした。しかも当時はユダヤ人社会でしたから、そうした中でキリスト教に回心するということはユダヤ人社会から締め出され、食糧の調達さえもままならない状態でした。

そうした情況の中で、中にはその苦しみに耐えきれずユダヤ教に逆戻りする人たちもいのです。ユダヤ教に逆戻りするということはどういうことかというと、イエスはキリスト、救い主であるという信仰を捨てるということです。ですからここに、「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば」とあるのです。

また2章3節から4節には、「私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。」と書かれてあるのです。

 

つまり、これは、イエス様を愛しているはずなのに罪を犯してしまったとか、信じているはずなのに信仰から離れてしまったという程度のことではなく、救い主そのものを信じないという背教を意味していたのです。イエス様は、「人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。」(マタイ12:31)と言われましたが、御霊に逆らう冒涜こそ、この救い主を信じないこと、救い主を受け入れないこと、キリストの十字架をないがしろにすることなのです。人はどんな罪でも赦されますが、イエス様を信じない罪だけは赦されないのです。そして、もし一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、堕落するなら、すなわち、キリストを救い主として信じながらも、その後で信仰を捨てるなら、そこには神の救いはもはや残されていないのです。神は決して私たちを途中で見捨てたり、見離したりはしませんが、私たちの方で捨ててしまうことがある。それが赦されないことなのです。

 

イスカリオテ・ユダの問題はここにありました。彼はイエスさまとともに生活をし、主の恵みのみことばを聞き、その不思議なわざを見て、後に来る世の力も知らされていたのに、銀貨30枚でイエス様を引き渡しました。それでも悔い改めてイエスを救い主として信じたなら彼は赦されたのに、彼はそうしませんでした。彼は、悔い改めず、外に出て首をくくって滅びました。それがペテロとユダの大きな違いです。確かにペテロも大きな罪を犯しましたが、それでも彼の心は開かれていたので悔い改めイエスさまのもとに戻ることができましたが、ユダの心は開かれていなかったので、かたくなだったので、ふさがれていたので、悔い改めることができませんでした。その違いです。

 

そしてここではそのことを私たちにも警告しています。確かに私たちも罪を犯すことがあります。時には弱くなって信仰から離れてしまうこともありますが、問題は、あなたの心はどうかということです。悔い改めようという心もない、神のみことばよりも自分の思いを優先したい、イエスがキリスト救い主であるかどうかなんて関係ないといった心なら、そこには救いは残されていないのです。霊的に成熟するどころか逆に後退してしまい、ついには信仰を失ってしまうことになるのです。

 

イエスはこう言われます。「わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3章20節)とどうぞイエスの声を聞いて戸を開けてください。もしあなたが戸を開けるなら、イエス様は、あなたのところに入ってあなたとともに食事をしてくださいます。食事をするというのは親しい交わりを表しています。イエス様があなたの心の中に来てくださるのです。すべてはあなたが心の戸を開けるかどうかにかかっているのです。イエス様は今もあなたの心の戸をたたいていらっしゃいます。あなたはその声を聞いてどのように応答されますか。どうかあなたもキリストにある神の救いを受け入れてください。

 

7節と8節をご覧ください。ここには、その神の祝福とのろいがたとえで語られています。

「土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。」

 

あなたは有用な作物を生じていますか、それとも、いばらやあざみを生えさせているでしょうか。もしあなたが、あなたの上にしばしば降る雨をいっぱい吸い込むなら、すなわち、神の恵みと希望に支えられて生きるなら、有用な作物を生じますが、その希望を拒み、神の恵みをないがしろにするなら、無用な作物を生じさせ、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまうことになります。イエスさまは、「わたしがぶどうの木で、あなたがたは枝です」と言われましたが、私たちはぶどうの木であるイエス様につながっていることによってのみ多くの実を結ぶことができます。枝だけで実を結ぶことはできません。

 

Ⅲ.あきらめないで、最後まで(9-12)

 

第三のことは、あきらめないで、最後までということです。ところで、この手紙の著者は、次のように言って、読者たちを励ましています。9節と10節です。

「だが、愛する人たち。私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。神は正しい方であって、あなたがたの行いを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も使えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」

 

ここで、この手紙の著者はこの手紙の読者のすべてが霊的赤ん坊であるのではないことを、「あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。」という言葉で表しています。現代訳では、「あなたがたが救いにふさわしい良い実を結んでいる。」と訳しています。

 

その良い実とは何でしょうか。それは具体的に言うなら「愛の業」です。彼らがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛」のことです。神は正しい方であって、彼らの行いを、特に、聖徒たちに示したあの愛をお忘れになられません。それこそ、主イエスが弟子たちに教えられた新しい戒めの実践だからです。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:34-35)

 

これは非常に重要なことです。これが出来なくなると、どこかに未成熟な特徴が表われてくるからです。確かに、クリスチャン同士であっても、愛によって仕え合うということは、それほどやさしいことではありません。自分と気の合う人とならやさしいことですが、すべての人がそうであるわけではありません。そうでない人に仕えるということは、生まれながらの私たちでは到底できることではないのです。「なぜあんな人に仕えなければならないのか」「あんな人に仕えなければならないくらいなら、クリスチャンを辞めた方がましだ」という思いすら湧いてこないとも限りません。それが悪魔の働き掛けなのです。生まれながらの私たちの性質は、なるべく苦労しない道、安易な道を求めます。しかし、神は私たちが霊的に大きく成長し、クリスチャンとして成熟するように、必ずそこに困難な問題を置かれるのです。だからそれを避けてはいけません。悪魔は私たちにいろいろな知恵を与えて、それを避けようとさせますが、でもその手に乗ってはいけないのです。神は愛する子をむち打たれるということを思い出してください。神が私たちにそのような問題を置かれるのはむしろ私たちを愛しておられるからであって、私たちがクリスチャンとして霊的に成熟することを求めておられるからなのです。どんな訓練でも、それを受けている時は、嬉しいよりはむしろ辛く、苦しいのですが、後でわかることは、そうした訓練を受けた人は、必ず神の御心にかなった生活ができるようになるということです。そのことがわかると、信仰生活に必要な訓練として、喜んで困難にぶつかっていくことができるようになります。

 

この手紙の読者は、そういう愛の実を結んでいました。植物でも若木のうちは実を結ぶことはできません。「桃、栗三年、柿八年」言われますが、桃や栗のように比較的早く実を結ぶ木でも三年はかかるものです。柿になると、なんと八年もたたないと実を成らせることはできません。これは別に年月のことを言っているのではありません。木でも実が成るようになるには若木ではだめだということです。人間でも大人にならないと子供を産むことはできません。それは霊的赤ん坊も同様で、霊的に成熟していなと実を結ぶことはできないのです。しかし、この手紙の読者は、この愛の実を結んでいました。神はそれを決して見過ごしにはならず、ずっと心に留めておられました。神がご覧になっていてくださるだけで、もう十分ではないでしょうか。だれが見ていても、だれが評価してくれなくても、神がご覧になり、神が評価してくださっているというだけで、私たちは満足です。

 

大切なのは、それを一回だけすればよいということではなく、ずっと続けることです。それが最後に書かれてあることです。11節と12節をご覧ください。

「そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。」

 

「切望する」というのは、強く願うということです。ここで著者は何を切望しているのでしょうか。それは、彼らが同じ熱心さを示して、最後まで、この希望について十分な確信を持ち続けてくれることです。信仰生活において大切なことは、救われたことだけで満足し、そこに安住するのではなく、それを最後まで持ち続けることです。すなわち、熱心に信仰生活に励むことです。そうでないと後退してしまうからです。

 

私たちは、前進しなくても、そこに留まっていたら、少なくても後退はしないだろうと思っているかもしれませんが、そうではありません。前進しなければ後退があるだけで、バッグスライドしてしまいます。ですから、私たちは常に前進していかなければならないのです。しかし、それは歯を食いしばってするものと違って、前進していけばいくほど信仰の醍醐味を味わうことができますし、そのすばらしさは天国のすばらしさに一歩も二歩も近づくことができるすばらしさです。天国のすばらしさがもっとよく分かってきます。ですから、私たちも約束を相続したあの熱心なクリスチャンに見習って、熱心に信仰生活に励みましょう。今からでも決して遅くはありません。成熟を目ざして共に進もうではありませんか。

ヘブル5章11~14節 「成熟を目ざして進もうⅠ」

ハレルヤ!きょうも、神のみことばから共に恵みを分かち合いたいと思います。きょうのみことばは、ヘブル人への手紙5章11節から14節までのみことばです。

このへブル書の著者は、前回のまでのところで、キリストがいかに偉大な大祭司であられるかを語ってきました。それはメルキデゼクの位に等しい大祭司であるということでした。メルキデゼクについては7章で詳しく学ぶのでここではあまり触れませんが、大祭司アロンとは比較にならないほど偉大な大祭司であることが語られました。そのキリストが、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そして、その敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは神の御子であられる方なのに、そのお受けになられた多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされました。それゆえに結論は何かというと、彼に従うすべての人に対して、とこしえの救いを与える者となられたということでした。ハレルヤ!何とすばらしいことでしょう。何とすばらしい救い主を私たちは持っているのでしょう。辛いとき、困った時、あなたはどこに救いを求めますか。キリストはあなたの救い主です。あなたをとこしえに救うことがおできになるのです。本当に感謝ですね。

 

ところで、きょうの箇所を見ると、話の内容がガラッと変わります。11節、「この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。」

 

どういうことでしょうか。これを聞いていた読者の中に何のことを言っているのかさっぱりわからなかった人たちがいたのです。私たちもよくあるでしょう。牧師さんが一生懸命お説教していても、何を言っていることがさっぱりわからないということが・・。ただ言葉だけが頭の中を駆け巡っているだけということがあるのです。ピンとこない。安心してください。それは皆さんだけではありせん。当時の人たちも同じでした。言っていることがわかりませんでした。当時の人たちは旧約聖書のことについてはある程度知っていましたが、そういう人たちでさえわからなかったというのですから、私たちがわかなくないのも自然なことです。だから、聖書の話を聞いてもわからないとがっかりしないでください。忍耐して聞き続けていくうちに必ずわかるようになりますから。そもそも聖書が難しいというのはその内容が難しいということもありますが、それよりもそれがどういうことなのかを体験するのが難しいのです。

 

きょうはそのために必要なことを三つお話したいと思います。きょうはそのパートⅠです。このテーマは6章12節まで続きますから、これを二回に分けて学びたいと思います。そしてきょうは午後から「信仰生活ステッ・アップ」という学びもありますから、このテーマについては全部で3回に分けて学びたいと思います。

 

Ⅰ.耳が鈍くなっている(11)

 

まず11節をご覧ください。ここには、「この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。」とあります。

 

「この方について」とは、まことの大祭司であられるイエス・キリストについてということです。「この方について」この手紙の著者は話すべきことがたくさんありますが、それを説き明かすこと、説明することは困難だと言っていす。なぜなら、彼らの耳が鈍くなっていたからです。耳が鈍くなっているとはどういうことでしょうか。年をとればおのずと耳が聞こえづらくなるものですが、ここで言っていることはそうした耳が聞こえづらくなったということではなく、霊的な面での鈍くなっているとうことです。若い時にはみことばを聞いて素直に信じることができたのに、だんだん年をとるうちに聞けなくなっているというのです。若い時は耳が柔らかく、音楽でも、英語の発音でも、微妙な音の違いを聞き分けることができたのに、年をとるにつれていつしか耳が硬くなって、聞き分けることが困難になる、つまり、鈍くなるということがあるのです。

 

私はよく娘に、「お父さん、ピアノの音だけど、調律してもらった方がいいと思うよ。ずいぶん狂ってる。」と言われることがあります。「へぇ、どこが狂ってるの?ちゃんと出てるじゃない。」と言うのですが、どうも違うらしいのです。私にはその微妙な音を聞き分けることができません。

 

私の家では小さい時からこどもには英語で話しました。とは言っても家内だけですが・・。私もこどもにはできるだけ英語で話せるようになってほしいと思って始めは英語で話していたのですが、ある時アメリカから家内の両親が来日して、二番目の娘の英語の発音を聞いてびっくりしました。娘の発音が私の発音にそっくりだったからです。それはまずいと、それ以来私は家の中では英語を話すことは止めました。私にとっては正しく発音しているつもりなのですが、家内が聞くと全然違うらしいのです。しかし、小さな子供の耳ってすごいんですね。それをちゃんと聞き分けることができます。耳が柔らかいからです。微妙な音の違いを聞き分けることができるのです。

 

ところで、この「耳が鈍くなっている」という言葉ですが、これは「怠慢な」とか、「鈍い」という意味の「ノースロイ」という言葉が使われていて、意味は「心がふさがっている」という意味です。ですから、現代訳では、「あなたがたの心がふさがってしまっている」と訳されているのです。つまり、この「あなたがたの耳が鈍くなっているというのは、歳をとって耳が硬くなっているということではなく、折角イエス様を信じて救われたのに、そのすばらしいイエス様を求めるよりも他のことで心が一杯になっていることです。

イエス様は種まきのたとえを話されました。ある人が種を巻きました。蒔いていると、ある種は道ばたに、また別の種は土の薄い岩地に、また別の種はいばらの中に、もう一つの種は良い地に落ちました。それぞれの場所に落ちた種はどうなったでしょうか。道ばたに落ちた種は、鳥が来て食べてしまいました。土の薄い岩地に落ちた種はどうでしょう。土が深くなかったので、すぐに芽を出しましたが、日が上ると、焼けて枯れてしまいました。根が張っていなかったからです。ではいばらの中に落ちた種はどうなったでしょうか。いばらの中に落ちた種は芽を出し、順調に生長していきましたが、あるところまで生長していくといばらが伸びてふさいでしまったので、それ以上は伸びることができませんでした。しかし、良い地に落ちた種は生長し、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだのです。

 

耳が鈍いというのは、ここで言われている良い地以外の地に蒔かれた種のことです。種は同じでも、それがどこに蒔かれるかによってその結果が全く違ってくるのです。良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、そういう人はほんとうに多くの実び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。しかし、御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って生きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。また、岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れますが、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまうのです。また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいや富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結びません。つまり、確かにみことばを聞きますが、どのような心で聞くかが重要なのです。折角、みことばを聞いても自分には関係ない話だと思うなら、折角聞いたみことばも鳥が来て食べてしまうことになるでしょう。また、最初はいい話だなぁと思って聞いていても、それがどういうことなのかを悟ろうとしないと、生活の中に迫害や困難がやってくると、枯れてしまうことになります。また、これはすばらしい話だと信じても、この世の心づかいや富の惑わしがみことばをふさぐと、実を結ぶことができません。実を結ぶ種は良い地に蒔かれた種です。良い地に蒔かれるとは、みことばを聞くとそれを受け入れ、悟り、このみことばに生きるのです。

 

ここが肝心です。どの畑も確かにみことばを聞くのです。しかし、その聞き方によって結果が違うということです。みことばを聞いても悟らないと、実を結ぶことはできません。神の御国のすばらしさを味わうことができないのです。

 

イエス様はおもしろい話をされました。それは、天の御国は、畑に隠された宝のようなものだという話です。その宝を見つけた人はどうするでしょうか。皆さんだったらどうしますか。その人は大喜びで家に帰り、持ち物全部を売り払ってその畑を買います。なぜなら、その宝にはそれほどの価値があることを知っているからです。まあ、俗的な言い方になるかもしれませんが、皆さんの隣の土地が売りに出されていて、そこに数億円もする金塊が埋まっていることがわかったら、そこがたとえかなり高額な土地であっても、何とかしてその土地を買い求めるでしょう。それは何倍もの価値があるからです。神の国にはそれほどの価値があるのです。あなたは聖書にそれほどの価値を見出しているでしょうか。イエス・キリストにあるすばらしいいのちにその価値を見出しておられるでしょうか。もしかすると他のサークル活動の一部であるかのようにとらえてはいないでしょうか。あなたがどのように受け入れるかによってその結果が決まります。どうか鈍くならないでください。この霊的世界のすばらしさにしっかりと目を留めていただきたいのです。そして、良い地に蒔かれた種のように、何倍もの実を結んでいただきたいのです。

 

新聖歌428番には、「キリストには代えられ」という賛美歌があります。

「キリストには変えられません。世の宝もまた富も この御方でわたしに代わって死んだゆえです。世の楽しみを去れ 世の誉れを行け

キリストには変えられません。世の何物も」

作詞家のRHEA F.MILLER は、どんな気持ちでこれを書いたのでしょう。きっと、キリストに優る恵みはないという思いで書いたかもしれません。その恵みの数々を活の中で味わっていたのだと思います。

 

それは私たちも同じです。確かなことは、あなたも神のみことばを聞いたということです。確かに聞いたのです。しかし、そのみことばにどのように応答するかはあなたの信仰の決断にかかっているのです。どうか鈍くならないでください。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。とパウロは言いました。私たちもそう告白しましょう。私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。主よ、私の心はあなたに向かっています。あなたの仰せになられることをみな行いたいと願います。主よ、あなたのうちに私をかくまってくださいと、柔らかな心で日々主に心を向ける者でありたいと願わされます。

 

Ⅱ.乳ばかり飲んでいる(12-13)

 

次に12節と13節をご覧ください。霊的幼子の第二の特長は、乳ばかり飲んでいるということです。

「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。」

 

ここでのキーワードは乳です。聖書には、神のみことばを乳飲み子のようにして飲むように勧められています。たとえば、Ⅰペテロ2:2には、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」とあります。救われたばかりのクリスチャンには、この純粋な、みことばの乳を慕い求めることは大切なことです。それによって成長し、救いを得ることができるからです。救われたばかりのクリスチャンがみことばの乳を飲まなかったらどうなってしまうでしょうか。栄養失調になって病気になってしまいます。ひどい場合は死に至ることもあります。それだけ、生まれたばかりの乳飲み子にとってみことばの乳を慕い求めることは重要なことなのです。また、お乳ばかりでなく手厚い世話も必要です。毎日おむつを交換したり、お風呂にいれて体を洗ってあげます。風邪などひかないようにお部屋もできるだけ適切な温度を保ちます。赤ちゃんが成長していくためにはこうしたお世話がどうしても必要なのです。

 

しかし、どうでしょう。もし20年経っても同じ状態だったとしたら、それは悲劇ではないでしょうか。もちろん身体に障害があってそのような生活を余儀なくされているというケースもありますが、一般的な成人は牛乳も飲みますが、バランスのとれた食事をとり、栄養の管理に努めます。もしそうしなかったとしたら、それは成人とは言えません。幼子なのです。

それは霊的にも同じで、クリスチャンも生まれたばかりの時にはミルクを飲んでたくさん栄養を受けますが、大人になるにつれてミルクばかりではなく堅い食べ物も食べて、健康な身体を維持するように努めます。

 

パウロは、コリントにいるクリスチャンに対して、彼らは霊的赤ん坊だと言いました。

「さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。」(Ⅰコリント3:1-2)

 

なぜパウロはそのように言ったのでしょうか。なぜなら、彼らの間にねたみや争いがあったからです。なぜねたみや争いがあったのかというと、彼らが肉に属していたからです。ねたみや争いがあるとしたら、それは肉に属している証拠でした。それは、ノンクリスチャンと少しも変わりません。そういう人はもう何年も信仰に歩んでいても、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があったのです。キリストを信じて何年経つてもねたみや争いがあるというのはどうしてでしょうか。それは御霊に属しているからではなく、肉に属しているからです。それは知識の問題ではなく信仰の問題です。ここではそれを、「義の教えに通じていないと」と言っています。義の教えに通じていないのです。確かにイエス・キリストが救い主であることを知り、この方を自分の人生の主として受け入れたにもかかわらず、その神に自分を明け渡すことができないのです。まだ自分が中心で、神のことばに生きることができません。それが肉に属すると言われている人のことです。だから、ねたみや争いが生じるのです。いつまでも肉に属しているかのような歩みをするのです。

 

それはねたみや争いに限らず、たとえば、なかなか神に信頼することができないというのも同じです。いつも不安で、思い煩いから解放されないとか、すぐに人を傷つけるようなことを言ってしまったり、やったりしてしまう。私たちは不完全な者ですから、キリストを信じてもすぐにそのようなことをしてしまう弱さがありますが、ここで言う弱さとは本質的に違います。肉に属しているのか、それとも御霊に属しているのかということです。自分の思い通りにいかないとすぐに不平不満をぶちまけてしまうこともあります。みことばに生きることができないのです。そういう人は義の教えに通じてはいないのです。

 

この義の教えに通じていないというのは、現代訳を見ると、「神の御心についてのすばらしい教えを味わうことができない」と訳しています。神の御心についてのすばらしい教えを味わうことができないのです。聖書の中には神のすばらしい約束がたくさんあります。それなのに、そのすばらしい教えを体験することができないというのです。義の教えに通じていないからです。自分はもう何でもわかっていると誤解しているため、学ぶ必要はないし、どんなに聞いても、「あっ、それは前に聞いたことがある」とか、「あ、私はちゃんとやっている」というレベルに留まるため、それ以上、神の恵みを味わうことができないのです。

 

その体験というのは、いつも信仰によります。この書の11章には、信仰によって生きた人たちの証が紹介されていますが、その特徴は何かというと、信仰によって生きたということです。信仰について聞いたのではありません。信仰を体験したのです。

「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」(ヘブル11:7)

まだ全く雨が降らなかった時代、ノアは神から箱舟を作るようにと言われたとき、彼はそのことばに従って箱舟を作りました。神からそのように警告を受けたからです。だから、彼は神を畏れかしこんで、自分と家族のために箱舟を作り、その中に入って救われたのです。周りの人たちから見たらバカじゃないかと思われたでしょう。当時は天気予報があったかどうかわかりませんが、雨が降る気配は全くありませんでした。降ったとしてもそんなに大きな船を作っていったい何になるというのでしょう。でもノアは箱舟を作りました。なぜでしょうか。暇だったから・・。違います。ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、それを信じたからです。

 

皆さん、信仰とはこれです。信仰とは望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(11:1)見えるものを信じることはだれにでもできます。大切なことは、まだ見ていないものを信じることです。信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものだからです。ノアはまだ見ていませんでしたが、神の言われたことばを信じたのです。それが信仰です。

 

ですから、信仰とは知識ではなくて体験なのです。もちろん、知識も大切ですが、そこに留まっているだけではだめなのです。神の御心を知ったら、それを行わなければなりません。それが信仰です。そこで私たちは神の御心についての教えを味わうことができるのです。そこにはワクワクするような神の不思議と恵みが溢れているのです。それを体験することができるのです。

 

もうすぐさくら市でも開拓がはじまりますが、ワクワクしますね。なぜなら、そこで神がどのようなことをしてくださるのかがとても楽しみだからです。いったいそこでどんなことが起こるのかわかりません。でも神様は必ずすばらしいことをしてくださいます。なぜなら、わたしたちはそう信じているからです。そう信じているから一歩踏み出したわけです。その信仰に主が答えてくださらないわけがありません。私たちはそこで必ず神の御業を味わうことができるのです。

 

かつて福島で教会堂建設に携わったときのことですが、教会堂を建てたくても土地が高くて広い土地を確保するのは困難でした。どうしようかと祈りながら、当時、まだ娘が小学校と幼稚園に通っていた時でしたが、毎朝市内の学校に送って行った後で、すぐ近くにあった信夫山の小高い丘に登り祈りました。「主よ。助けてください。ご存知のように、私たちには何もありません。でも小さな会堂は一杯になりもっと広い場所が必要です。主よ。どうか道を開いてください。」と祈っていたら、創世記26章のみことばが与えられたのです。

「イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い地を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」(創世記26:22)

「レホボテ」とは「広々とした所」という意味です。イサクは何度も井戸を掘りましたが、掘るたびにその地の住人と争いが起こったため、別の所に移動しなければなりませんでした。しかし、彼が三度目に掘った井戸は争いがなかったので、その名を「レホボテ」と呼んだのです。彼らがその地で増え広がるようにと、神は彼らに広い土地を与えてくださったのです。

私はこの箇所を呼んたとき、これは私たちに対する主の約束だと信じました。そして「レホボテ」「レホボテ」と叫びながらその場を何度も飛び跳ねたのを覚えています。それは人間的には全く考えられない事でした。けれども、神にとって不可能なことは一つもありません。そして神はその約束のとおりに、私たちに広い土地を与えてくださったのです。私にとって最もすばらしい経験は、この神の御心についての教えを味わうことができたことです。もし私たちが信仰をもって受け止めるなら、私たちはいつでもこのすばらしい神の御心を体験することができるのです。そして、神がどのような方なのかを体験を通してはっきりと知ることができるのです。

 

もうすぐさくら市での働きも始まりますが、これは何かというと、私たちがこのすばらしい神の恵みを体験し、神の御名の栄光をほめたたえる機会であるということです。水を汲む者は知っていた。イエス様が最初の奇跡としてカナの婚礼で水をぶどう酒に変えた時の奇跡です。だれがその恵みを体験したのでしょうか。水を汲む者は知っていたのです。ただ神のみことばに従って、神の御心を行う人は、このすばらしい神の御業を体験することができるのです。

 

Ⅲ.良い物と悪い物とを見分けることができない(14)

 

霊的幼子の第三の特長は、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練されていないということです。14節をご覧ください。

「しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」

 

霊的に成熟している人のもう一つの特長は、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練されているということです。神のみことばは、ある意味で「堅い書物」だと言えるでしょう。一度読んでみて、「ああ、そういうことか」とすぐに理解できるほど易しい書物ではありません。特に、このヘブル人への手紙のように旧約聖書の背景をよく理解していない人にとってはチンプンカンプンかもしれません。そして、このような箇所を学ぶには忍耐も求められます。しかし、よく祈り、深く瞑想し、何度も何度も口のなかで噛みながら、咀嚼するなら、必ず理解できるようになり、霊的に成熟した者となることができるのです。そして、そのようにして霊的に養われますと、いつの間にか、「経験によって良い物と悪い物を見分ける感覚」が訓練されるのです。何が神のみこころで、何がそうでないのかを、識別できるようになるのです。ここにはイエス・キリストが偉大な大祭司であり、とこしえの救いを与える方であるということが、感動をもって伝わってくるのです。そのような成熟した者になることができたら、どんなに感謝なことでしょう。そのためにも私たちは、いつも成熟を目指して進まなければなりません。自分はもうわかっているから大丈夫だと思うことが問題です。そういう人こそ、耳が鈍くなっているからです。義の教えに通じていません。

 

たとえば、このようなみことばがあります。皆さんもよく知っているみことばです。それは、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16-18)です。

 

どうですか?これは易しい言葉です。だれでも理解できるでしょう。でも、いざこのみことばを実行しようと思ったらどうでしょうか。「いつも喜んでいなさい」とか、「絶えず祈りなさい。」「すべてのことについて感謝しなさい」と言われても、うれしい時には喜び、感謝できる事があれば感謝することができても、いつも、どんなことも喜び、感謝できるかというと、なかなかできるものではありません。そう思うと、自分がいかに霊的成熟を遂げていない者であるかがわかります。それなのに自分は成熟していると思っていることが問題なのです。だから私たちは主にこう申し上げましょう。

 

「信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコ9:24)

 

これは悪霊にとりつかれていた息子をいやしてもらおうとイエス様のところにやって来た父親が、イエス様に向かって発した言葉です。彼はイエス様を信じているつもりだったのに、信じていたからこそイエス様のもとにやって来たのに、「もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」と言ったのです。彼の信仰とその言葉にはある種のギャップがありました。イエス様は彼を助けることができると信じていたはずなのに、「もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで助けてください。」と言ってしまいました。これは私たちの信仰に似ているのではないでしょうか。ついつい本音が出てしまったのです。口では信じていると言っていても、心の中では「無理だろうな」「できるはずがない」と思っているのです。経験によって良い物と悪い物とを見分ける訓練がされていないのです。すなわち、神の御心についてのすばらしい教えを本当の意味で味わっていないのです。なのに、私はもうわかっていると思いこんでいるのです。

 

わかっているようでわかっていない。私たちはそんな弱い者なのです。だから、今からでも遅くはありません。私は神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるほど幼い者なのだと認めて、謙虚に学び初めてください。

きょうはこの後で信仰生活ステップ・アップという学び会もあります。いきいきした信仰生活のために必要な3つのことを学ぼうと思っています。これにもぜひ出席してください。通り一遍等にこれらのことをするというのではなく、霊的成長に必要なこととして、もう一度誠心誠意これらのことから始めてみてはいかがでしょうか。霊的成長に近道はありません。コツコツと毎日やっていれば必ず成長し、成熟したクリスチャンになっていくでしょう。そのとき、すばらしい神の御心に関するすばらしい教えを本当の意味で味わい知ることができるのです。

ヘブル5章5~10節 「とこしえに救いを与える方」

きょうは、イエス・キリストこそとこしえの救いを与えることができる方であるということをお話したいと思います。まず5節と6節をご覧ください。

 

Ⅰ.神によって立てられたイエス(5-6)

 

5節には、「同様に、キリストも大祭司となる栄誉を自分で得られたのではなく、彼に、『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。』と言われた方が、それをお与えになったのです。」とあります。「同様に」というのは、その前のところで語られてきたことを受けてのことあります。その前のところ、すなわち、5章1節から4節までのところには、大祭司はどのようにして選ばれるのかについて3つのことが語られていました。すなわち、第一に、大祭司は人々の中から選ばれなければならないということでした。なぜでしょうか。なぜなら、大祭司は人々に代わって神にとりなしをする人ですから、その人々の気持ちを十分理解できる人でなければその務めを十分果たすことはできないわけです。

 

それから大祭司のもう一つの条件は何だったかというと、人々の弱さを十分身にまとっていなければならないということでした。自分自身も弱さを身にまとっているからこそ、人の痛みを十分理解し、そのために心から祈ることができるわけです。私は新年早々胆嚢摘出手術で一週間入院しましたが、中にはとても喜んでくださる方がおられまして、その喜びというのは「ざまあみろ」とか、「あっすっきりした」といった気持からでなく、どうも私は人からは強い人間に見られているようで、そんな私が一週間も入院したものですから、これで牧師も人の痛みが少しはわかったに違いないといった安堵心からのようでした。しかし、幸い、あれから大分自分の体をいたわるようになったためか、以前よりもぐっと調子がよくなった感じがします。こんなに調子がよくなるなら、もっと早く手術を受けていればよかったなぁと思っているほどです。

それから大祭司のもう一つの条件は何だったかというと、大祭司は自分でなりたくてもなれるわけではなく、神に召されて受けるのですということです。同様に、キリストも大祭司となる栄誉を自分で得られたのではなく、神によって召され、神よってそのように立てられたからこそその立場に着いておられるということです。

 

それは、『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。』という言葉からもわかります。これはいったい、だれが、だれに言った言葉なのでしょうか?これは旧約聖書の詩篇2篇7節の言葉からの引用です。このヘブル人への手紙の中には、この聖句が何回も何回も引用されています。それはイエスさまが、父なる神から、「あなたは、わたしの子」と呼ばれている、つまりイエスさまが神の独り子であることの宣言なのです。イエスさまは、旧約聖書の昔から神とともにおられたひとり子の神であり、人類を罪から救うために神によって遣わされたメシヤ、救い主であることとの証言なのです。イエス様はその辺のちょっとした偉大な人を超えた神のメシヤ、救い主なのです。そのことを表しているのがこの聖句です。

 

ここには、「きょう、わたしがあなたを生んだ。」ことばがありますが、エホバの証人の方はこの言葉が大好きで、「ほら、みろ。キリストは神によって生まれたと書いてあるではないか。神であるなら生まれるはずがないじゃないか、キリストはその神によって生まれた子にすぎないのだ」と言われるのですが、ここではそういうことを言っているのではありません。この「生んだ」という言葉は、神様がイエス様を「オギャー」と産んだということではなく、第一のものになるとか、初穂になるという意味なのです。つまり、イエスさまが死者の中からよみがえられたことによって、イエスが神の御子であられることが公に示されたのです。もしイエスが死んで復活しなかったらどうでしょうか。それは私たちと何ら変わらない人間の一人にすぎないということになります。確かに偉大なことを教え、すばらしい奇跡を行ったかもしれませんが、所詮、それまでのことです。しかし、キリストは死者の中からよみがえられたので、彼が神の子であることがはっきりと証明されたのです。つまり、これはキリストが神の子、メシヤ、救い主であることの照明でもあるのです。イエスは神の子であり、全く罪のない方であり、私たちの罪を完全に贖い、私たちを神のみもとに導くことができる方なのです。

 

それゆえに、このイエスについて別の箇所でこう言われているのです。6節、

『あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。』」

 

「メルキデゼクの位に等しい祭司」であることについては7章のところに詳しく出てくるのでそこで取り上げたいと思いますが、ここではただ一つのことだけを申し上げたいのです。このメルキデゼクという人物はエルサレムの王であり、祭司でもあった人で、アブラハムの時代にいた人物であるということです。大祭司というのはアロンの時代に初めてその職に任じられたわけですから、それよりもずっと先の時代の人であったということです。つまり、このメルキデゼクという人はアロンよりもすぐれた大祭司であり、ちょっと不思議な大祭司であったということです。そして、ここでは神の子イエスがメルキデゼクの位に等しい大祭司であると言われているのです。ここには、彼は「とこしえに」祭司であると言われていることから、キリストはそのような類な大祭司であるということがわかります。つまり、キリストは、私の罪も、あなたの罪も、完全にあがなうことがおできになられる方であって、そのために神によって立てられた方なのです。

 

このような方がいたら、あなたも助けを求めたいと思いませんか。人間は一見強そうでも、ちょっとしたことですぐに右往左往するような弱い者でしかありません。きょうは何でもなくても明日はどうなるかさえわからない不確かな者なのです。しかし、人間を超えた確かな神、メルキデゼクの位に等しい大祭司に支えられながら生きれらるということはどんなに幸いなことでしょう。私たちにはこのような支えが必要なのです。あなたは、それをどのように持っておられるでしょうか。

 

Ⅱ.涙をもって祈られたイエス(7)

 

次に7節をご覧ください。「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」

 

どういうことでしょうか。大祭司であるためのもう一つの条件は、人々を思いやることができるということでした。まさに、ここにはそうした大祭司イエスの姿が描かれているのです。4章15節にも、「私たちの弱さに同情することがおできになられるのです。どのようにおできになられるのでしょうか。ここには、「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことができる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」とあります。

 

確かにイエス様の生涯をみると、それは祈りの生涯でした。しかしその中でも、死を目前にしたゲッセマネでの祈りは、私たちの想像をはるかに超える激しい祈りでした。イエスは十字架の死を前にして、「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)と三度も祈られました。それはこけまでひと時も離れたことがなかった父と離れることの苦しみを表していたからです。ルカは「汗が血のしずくのように地におちた。」と記録しています(同22:44)。それほど激しい祈りの葛藤でした。

しかし、それはゲッセマネの園での祈りだけではありません。というのは、ここに「キリストは人としてこの世におられたとき」とあるからです。この原文を直訳すると、「キリストは、ご自分の肉の日々において」となります。つまり、これはイエス様の地上生活の中のある特定の日のことを指しているのではなく、イエス様がこの地上で生活をしておられた間中のことなのです。ですから、イエス様はゲッセマネの園での祈りだけでなく、いつも涙を流して叫び続けておられたのです。あなたのために涙をもって祈っておられるのです。

 

一体どこのだれがこの私のために、あなたのために、涙を流して祈ってくれたでしょうか。イエス様以外にはおられません。主イエス様以外に、あなたのために涙を流して祈ってくれる方はいないのです。しかも、イエス様はいつもそのように祈っていてくださいます。この地上におられた時だけでなく、天におられる今も、父なる神に私たちのためにとりなしていてくださるのです。なんという大きな恵みでしょうか。

 

旧約聖書にサムエルという預言者が登場しますが、彼はイスラエルが神制から王制に移行していく際に大きな貢献を果たした人物です。なぜ彼がそれほどの貢献を果たすことができたのでしょうか。その背後に母ハンナの涙の祈りがあったからです。ハンナは夫のエルカナに愛されていましたが、残念ながら、なかなか子どもが与えられませんでした。その当時、妻の最大の役目は跡継ぎを産むことでしたから、それが彼女にとってどれほど屈辱的なことだったかわかりません。しかも、夫のエルカナには、ペニンナというもう一人の妻がいて、彼女には何人かの子供が与えられていたので、そのことでペニンナからも辛く当たられ、ハンナの苦しみは更に増すばかりでした。とうとうハンナは、食事もできないほどに悲しみに暮れるようになりました。

そんなある日、ハンナは、夫エルカナと共に神殿に上り、そこで、子どもを授かることを願って熱心に祈りました。彼女は主に祈って、激しく泣いたとあります。

ハンナが主の前であまりにも長く祈っていたので、祭司のエリはそれを見て心配になりました。くちびるが動くだけで、その声が聞こえなかったからです。それで、もしかしたら酔っぱらっているのではないかと思ったのです。

「いいえ、祭司様。私は酔っぱらってなんていません。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、酒も飲んではおりません。私はただ主の前に心を注いで祈っていたのです。」

そのようにして与えられたのがサムエルです。そうした母の涙の祈りはサムエルが生まれた時だけではありませんでした。彼が成長し、やがて主のために用いられるようになってもずっと続きました。そうしたサムエルの働きの背後には、こうした母の涙の祈りがあったのです。

 

それはサムエルだけではありません。このキリスト教の歴史を振り返ると、偉大な働き人の背後にはいつもそうした涙の祈りがあったことがわかります。

たとえば、皆さんもよくご存知のアウグスティヌスもそうでした。アウグスティヌスは4世紀最大の教父といわれ、その思想と信仰は今でもローマ・カトリック教会でも、プロテスタントでも支持されています。そして最後はヒッポの監督にまでなりました。しかし、彼の若い時はそうではありませんでした。

アウグスティヌスは若い時に神から離れて享楽的な生活に浸り、熱心なキリスト教徒のお母さんモニカを悩ませました。また彼は当時の新興宗教であったマニ教にもはまるのです。どうしたらいいかわからず悩んだ母モニカは、彼が悔い改めて神のもとに帰るようにと祈りました。そしてある日、教会で祈っていたとき、その教会の神父がその様子を見て、こう言いました。

「子供は必ずあなたのところに帰ってきますよ、涙の子は滅びないと言いますから」

その言葉に慰められた母モニカは勇気を得て、いよいよ熱心に祈りました。しかし、その祈りが応えられたのはアウグスティヌスが32歳のときでした。彼がイタリアのミラノの庭園で木陰に身を寄せていたとき、隣の家の庭で遊んでいた子供たちの清らかな声が聞こえてきました。「取りて読め、取りて読め」。これを聞いたとき、彼は急いで部屋に入り聖書を手にして開いたところが、ローマ書13章12~14節の箇所でした。そこにはこうありました。

「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」

彼の心は震え、やがて静まり、そしてやがてほのかな光と平安が彼の心に差し込んできたのです。そしてキリスト教に入る決心をしたのです。これがアウグスティヌスの劇的回心のときでした。そして「神よ。わが魂は、あなたのもとで安らぎを得るまで揺れ動いています。」という後世に残る有名な言葉を残したのです。

そして34歳の復活祭の日に、アンブロシウスによって洗礼を受けたのでした。これをいちばん喜んだのは言うまでもなく母モニカでした。「涙の子は滅びない」という言葉が現実になったのです。しかし母モニカはそれから9日目に天に召されました。まさしく母モニカの一生は、アウグスティヌスの回心のために捧げられた生涯でした。

すばらしいですね。涙の子は滅びません。涙の祈りは答えられるのです。そして、私たちの主イエスは、私たちのためにいつも涙を流して祈っているのです。

 

ノアという賛美グループの曲に、「聞こえてくる」という賛美があります。  「聞こえてくる」 あきらめない。いつまでも イエス様の励まし 聞こえてくる 試練の中でも 喜びがある 苦しみの中でも 光がある ああ主の御手の中で 砕かれてゆく  ああ、主の愛につつまれ 輝く

 

私たちにはイエス様の涙の祈りがあります。イエス様はいつもあなたのために祈っています。あなたはそのように祈られているのです。よく「私なんで・・」という人がいますが、それは事実ではありません。そんなあなたでも祈られているのです。そのことをどうか忘れないでほしいと思います。そして、たとえ試練があっても、たとえ苦しみがあっても、あきらめずに進んでいこうではありませんか。

 

Ⅲ.完全な者とされたイエス(8-10)

 

ところで、涙をもって祈られたイエス様の祈りはどうなったでしょうか。7節を見ると、「その敬虔のゆえに聞き入れられました。」とあります。イエス様が神の子であられるのなら、イエス様の祈りが答えられるというのは当たり前のことではないでしょうか。いいえ、そうではありません。それは、この地上に生きる人間がいかに神の御心にかなった歩みをするのが難しいかを見ればわかります。しかし、イエス様の祈りは、その敬虔のゆえに聞き入れられました。現代訳には、「父である神を畏れかしこむ態度によって」と訳されています。父である神を畏れる態度とは、もう少し別の言葉で言うと、こういうことです。8節から10節をご覧ください。

 

「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。」

 

キリストは本来、神の御子であられる方ですから、従順を学びというのは不思議なことです。こういう記述からエホバの証人の方は、「ほら、見てください。キリストは神の子ですが、神ではないということですよ。」と訳の分からないことを言うわけです。しかし、ここではそういうことを言っているのではありません。キリストが神に従うことを学ばれたのは、キリストが本来そのような性質を持っておられなかったからというのでのではなく、本来持っておられたにもかかわらず、なのです。それが神の「御子であられるのに」という言葉で表現されていることなのです。それなのに、ここでもう一度従順を学ばれたのは、それによってご自分の完全さを実証されるためであり、それゆえに、ご自分に従って来る人々に対して、とこしえの救い、永遠の救いを与える者となられるためだったのです。だから、このことはむしろキリストが本来そのような方であることを、むしろ強調している箇所でもあるのです。そのような方であるにもかかわらず、それをかなぐり捨てて、神に従われました。そのことを、ピリピ2章6~11節にはこう言われています。

 

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」

 

それは、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。イエスこそキリスト、救い主です。イエスは自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

 

皆さん、イエス・キリストこそ完全な救い主であられ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与えることがおできになるお方なのです。キリストはあなたも完全に救うことができるのです。この方以外にはだれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。それゆえ、私たちはこの完全な大祭司であられるイエスの御名に拠り頼み、どこまでもイエスに従う者となろうではありませんか。

 

あなたは何に信頼しているでしょうか。どこに救いを求めておられるでしょう。あなたを助け、あなたにとこしえの救いを与えてくださる方は、あなたの罪を贖ってくださった救い主イエスです。このイエスから目を離さないようにしましょう。

 

先ほども申しげたように、私は先週まで一週間入院して胆石の治療にあたっていましたが、それは自分が想像していたよりも少し大変な手術でした。何が大変だったかというと、手術の前には浣腸して腸にあるものを全部出すのですが、それが看護ステーションの隣にある処置室でなされるのです。便の状態を確認しなければならないからとのことですが、全く慣れていないこともあって屈辱的に感じました。そして、手術中は全く何もわかりませんでしたが、終わってから尿に管がついていてあまり身動きできないんですね。動きたくても体中に管が巻き付いていて気になって眠れないのです。するとだんだん麻酔は切れてきますし、気持ちは悪くなるし、ああ、こんなにひどいのかと一瞬思ったほどです。時々見舞いに来てくれる永岡姉のお顔が天使のように見えるほど、ありがたく、また安心しました。

でも、私はこの手術に臨むあたり一つみことばが得られました。それは詩篇62篇621,2節のみことばです。

 

「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。

神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。」

 

浣腸の時も、「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神

。神こそ、わが岩、わが救い。わがやぐら。私は決して揺るがされることはない。」と思う、不思議に平安が与えられるのでした。

 

皆さん、主こそあなたの救いです。あなたはっ決して揺るがされることはありません。この主に信頼して、この新しい年も前進させていただきましょう。

ヘブル5章1~4節 「聖なる祭司として生きる」

 新年おめでとうございます。この新しい一年も、皆さまの上に主の恵みと祝福を祈ります。この新年の礼拝に私たちに与えられているみことばは、ヘブル人への手紙5章1節からの4節までのみことばであります。このみことばから、聖なる祭司として生きるというタイトルでお話したいと思います。

 

 このヘブル書の手紙は4章14節から「大祭司」をテーマに話が展開されています。大祭司とは神と人との仲介者のことで、人々に代わって神にとりなしをする人のことです。私たちの主イエスはこの偉大な大祭司であるということが、10章の終わりまで続きます。いわばこのヘブル書の中心的な主題の一つでもあるわけです。なぜ大祭司なのか?それは、大祭司こそ旧約聖書において人々の罪を贖う働きをした人物だったからです。その大祭司と比較して、キリストはもっとすぐれた偉大な大祭司であるということを、ここで証明しようとしているのです。なぜかというと、この手紙はユダヤ教から回心したクリスチャンに宛てて書かれましたが、彼らはイエスをキリスト、救い主として信じることができたのは良かったけれども、そのことでかつてのユダヤ教の人たちから激しい迫害を受けたとき、「こんなはずじゃなかった」「こんなことなら信じなければよかった」と、以前の生活に戻ろうとする人たちがいたからです。そういう人たちに対して、イエス・キリストがいかに優れた方であるかを証明することで、この福音にしっかりととどまるようにと励まそうとしたのです。そして、前回の箇所では、このキリストがいかに偉大な大祭司であるかが述べられましたが、きょうの箇所には、その大祭司になるためにはどのような資格が必要なのか、その資格について駆られています。

 

 Ⅰ.人々の中から選ばれた者(1)

 

 まず1節をご覧ください。

「大祭司はみな、人々の中から選ばれ、神に仕える事がらについて人々に代わる者として、任命を受けたのです。それは、罪のために、ささげ物といけにえをささげるためです。」

 

 ここには、大祭司はみな、人々の中から選ばれ、とあります。大祭司であるための第一の条件は、人々の中から選ばれた者でなければならないということです。あたり前じゃないですか、他にどこから選ばれるというのでしょうか?しかし、このあたり前のことが重要なのです。すなわち、大祭司は人々の中から選ばれなければならないのであって、それ以外の者ではだめなのです。なぜでしょうか。それは、大祭司は人々に代わって神に仕える者、神にとりなす者ですから、人々の気持ちを十分理解することができなければならなかったからです。人でなければ人の気持ちを理解することはできません。人以外のもの、例えば今年は猿年だそうですが、どんなに去るが人間のような顔をしていても、猿では人人の気持ちを理解することはできません。人以外のものは人の気持ちを理解することはできないのです。ですから、大祭司は人々の中から選ばれなければならなかったのです。

 

それは最初の大祭司としてアロンが選ばれたことからもわかります。出エジプト記28章1節を見ると、イスラエルの最初の大祭司はモーセではなく、モーセの兄アロンでした。

「あなたは、イスラエル人の中から、あなたの兄弟アロンとその子、すなわち、アロンとその子のナダブとアビフ、エルアザルとイタマルを、あなたのそばに近づけ、祭司としてわたしに仕えさせなさい。」

 いったいなぜモーセではなかったのでしょうか。それはアロンがお兄さんだったからではありません。モーセよりもアロンの方が大祭司としてふさわしい人物だったからなのです。どのようにふさわしい人物だったかというと、アロンはイスラエルの人々の中で生まれ育ったので、イスラエルの人々の気持ちをよく理解することができました。しかし、モーセは違います。モーセはアロンと同じ両親の下で生まれましたが、モーセが生まれたときエジプトの王パロはイスラエルが多産なのを見て、いざ戦いになった時に、敵側について自分たちと戦うのではないかと恐れ、生まれたばかりの男の赤ちゃん殺すように命じていたので、本当は殺される運命にありました。しかし、モーセのお母さんはそんな惨いことなどできなとずっとかくしていたのですが隠し切れなくなったので、ある日パピルス製のかごに入れナイル川の岸の葦の茂みの中に置いたのです。するとどうでしょう。何とパロの娘が水浴びに来ていて見つけたので、彼はパロの娘に引き取られ、王女の息子として王宮で育てられたのです。

 

 ですから、モーセは確かにアロンと同じ両親の下に生まれましたが、イスラエルの民の生活からは離れて育ったので、彼らの気持ちをよく理解することができませんでした。彼らの気持ちを理解することができたのは彼らの中で生まれ育ち、彼らの気持ちを十分理解することができたアロンだったのです。だからアロンが大祭司として任命されたのです。モーセはイスラエルの偉大な指導者でしたが、大祭司になることはできませんでした。

 

それは、私たちの大祭司であられるイエス様も同じです。ヨハネの福音書1章14節には、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」とあります。ことばであるイエスさまが人として生まれてくださいました。なぜでしょうか。私たちと同じようになるためです。私たちの間に住み、私たちの悩みを知り、私たちの弱さを十分理解するためです。

 

ヘブル4章15節にはこうあります。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」

私たちの大祭司であられるイエス様は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。なぜなら、私たちと同じようになられたからです。私たちと同じように試みに会われました。私たちと同じように胎児としてお母さんのお腹の中に宿り、赤ちゃんとして生まれ、幼児としても、少年としても、青年としても、大人としても歩まれました。イエス様は私たちが通るすべてのライフステージを通られたのです。だから、私たちの弱さに同情することができるのです。それが人々の中から選ばれなければならないという意味です。イエスは、罪は犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じように試みにあわれたので、あなたのことを十分思いやることができるだけでなく、あなたに代わって神にとりなしをすることがおできになるのです。

 

 Ⅱ.人々を思いやることができる者(2-3)

 

 大祭司になるための第二の条件は、人々を思いやることができるということです。2節と3節をご覧ください。

「彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。そしてまた、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のためのささげ物をしなければなりません」

 

 大祭司は、自分自身も弱さをまとっています。決して完全なわけではありません。もう絶対に罪を犯さない者になったというわけではないのです。しかし、そのような弱さを身にまとっているからこそ、そうした弱さのゆえに、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。

 

 この無知で迷っている人々とは誰のことでしょうか。それはイエスを知らない人々のこと、つまり、ノンクリスチャンたちのことを指しています。なぜなら、ローマ1章21節に、「それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。」とあるからです。神を神としてあがめることをしないと、不平や不満で満たされるので、だんだん暗くなっていきます。感謝することができません。これが神を知らない人たちの特徴です。

 

それは、救われる前の私たちの姿でもあります。私たちもみな、かつては罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。15,16,17と、私の人生暗かった・・・のです。どうすりゃいいのかわからない、夢は夜開く・・でした。だからこそ、そうした人の気持ちをよく理解することができるのです。

 

ところで、この「思いやる」という言葉ですが、これは単に「相手の身になって思いやる」ということだけでなく、相手の怒りなどの激しい感情をやわらげるという意味で使われています。詳訳聖書といってもう少し詳しく訳された聖書があるのですが、それによると、「やさしく(忍耐深く)取り扱う」と訳されています。つまり大祭司は、まだイエスを知らない人たちの激しい怒りの感情をやわらげて、彼らを柔和に取り扱うことが求められているのです。ノンクリスチャンに対して激怒したり、ブチ切れてはいけません。むしろ、柔和で、穏やかな心で、やさしく、忍耐深くなければならないのです。それは自分自身も弱さをまとっているからです。自分自身も弱さをまとっているので、その弱さのゆえに、そのように無知で迷っている人々に対してもやさしく、忍耐強く接していかなければならないのです。

 

しかし、それは無知で迷っている人々に対してだけでなく、クリスチャンに対しても言えることです。ガラテヤ6章1~4節にはこうあります。

「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。」

 

 これはクリスチャンに宛てて言われていることです。兄弟たちよ、もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなければなりません。私たちは教会の中に肉的な人がいるとついついさばきたくなる傾向があります。しかしそうではなく、柔和な心でその人を正してあげなければなりません。なぜなら、自分自身にも弱さがあるからです。そのようにさばきたくなるのは、その人がある一つの事実を見失っているからなのです。すなわち、自分自身も弱さをまとっているということです。自分自身もその人と何ら変わらない弱い人間であるという自覚です。自分も同じような境遇に置かれていたら、きっと同じようなことをしたに違いないと思うと、そのように人をさばくことなんてできなくなるはずです。むしろ、柔和な心でその人を正してあげるようになるでしょう。

 

 実は、私は昨日から入院しておりまして、きょうは病院から外泊許可をいただいてここに立っています。以前から懸念されていた胆石の治療で、この正月の時期は一番時間的に余裕があると思い、明日、手術を受けることになっています。結婚して32年間一度も入院したことがなく、周囲からはいかにも元気そうに見られている私が入院することは、少し恥ずかしいこともあってあまり人には言いたくないと思っていたのですが、実際に入院してみてわかったことは、自分の本当に弱い人間なんだなぁということです。そういう弱さを抱えているということです。このように病気になって入院してみて、病気で苦しんでいる人たちの気持ちがよく理解できるようになったような気がします。それは霊的にも同じで、私たちは決して完全な者ではなく、自分自身も弱さを身にまとっているので、同じような弱さを持っている人々を思いやることができるのです。神の祭司としてその務めを果たしていくために、私たちいつもこのような謙虚な気持ちを忘れない者でありたいと思います。

 

  Ⅲ.神に召された者(4)

 

 大祭司であるための第三の条件は、神に召された者であるということです。4節をご覧ください。

「まただれでも、この名誉は自分で得るのではなく、アロンのように神に召されて受けるのです。」

 

イスラエルの最初の大祭司アロンは、自己推薦をして大祭司になったのではありません。また、自分でなりたくてなったのでもないのです。神がアロンを選び、彼を任命したのです。そうです、大祭司は神によって任命された人しかなることはできないのです。同様に、私たちが祭司として立てられたのも私たちがそうしたいからではなく、神によってそのように召されたからなのです。私たちが救われたのは、ただ神の恵みによるのです。教会に来ていれば自動的に救われるのかというとそうではなく、神が聖霊を通してその人に働いてくださり、その人が受け入れることができるようにと心を開かせてくださったので信じることができたのです。自分で信じようとがんばったから信じることができたわけではないのです。救いは神の一方的な恵みによるのです。それが私たちの救いないのです。イエスさまはこう言われました。

 

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15:16)

 

あなたがたがイエス様を選んだのではありません。イエス様があなたがたを選び、任命したのです。それはあなたがたが行って、実を結び、そのあなたがたの実が残るためです。私たちは、永遠の神のご計画によって救われるようにと、神によって召された者なのです。そのようにして神の祭司となったのです。

 

私はよく、「牧師として一番大切だと思うことは何ですか」と聞かれることがありますが、そのとき迷わず答えることは、それは「召し」であるということです。召しといっても食べる飯ではありません。そのように選ばれた者であるということ、そのように召された者であるということです。

それが牧師としての自分の働きを根底から支えているものです。そうでなかったら、どうやって続けることができるでしょうか。できません。自分もそうですが、多くの牧師が悩むことは、自分は牧師には向いていないのではないかということです。でも自分が牧師に向いているかどうなんて関係ないのです。大切なのは、そのように召されているかどうかであって、そのように召されているのであれば、召してくださった方に対して忠実に仕えて行くこと、それが求められているのではないでしょうか。

 

それは牧師に限らず、すべてのクリスチャンに言えることです。あなたがそうなりたいかなりたくないかと関係なく、主がそのようにて召してくださいました。であれば、その召してくださった方に対して忠実に仕えていくことが求められているのではないでしょうか。

 

さて、これまで大祭司の条件について見てきましたが、最後に、この大祭司とはいったいだれのことを指しているのかを考えていみたいと思います。Ⅰペテロ2章9節をご覧ください。ここには、「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」とあります。ここには、私たちクリスチャンはみな神の祭司であると言われています。それは、私たちを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、私たちが宣べ伝えるためです。私たちにはそのような務めがゆだねられているのです。私たちは神の祭司として人々のために祈り、とりなしていかなければなりません。まだ救われていない人たちを、神へのいけにえとしてささげていかなければならないのです。そのような者として、私たちは人々の中から選ばれ、無知な迷っている人々を十分に思いやり、神によってこの務めに任じられているという自覚をもって、この務めを全うさせていただきたいと願うものであります。この務めを全うする神の祭司である私たちの上に、神の助けと励ましが豊かにありますように。

ヘブル4章14~16節 「私たちの大祭司イエス」

 

 きょうは、ヘブル4章14節から16節までのみことばから、「私たちの大祭司イエス」というタイトルでお話したいと思います。

 

 「大祭司」というのは私たち日本人にはあまり馴染みのない言葉ですが、旧約聖書を信じていたユダヤ人たちにはよく知られていたことでした。それは、神と人を結びつける働きをする人のこと、仲介者のことです。旧約聖書でなぜ大祭司が存在していたのかというと、罪ある人間は、そのままでは神に近づくことができなかったからです。神は聖なる、聖なる、聖なる方なので、その神に近づこうものなら、たちまちのうちに滅ぼされてしまったわけです。それで神はそういうことがないように、ご自分に近づく方法をお定めになられました。それが大祭司を建てるということだったのです。大祭司が年に一度動物をほふり、その血を携えて幕屋と呼ばれる所に入って行き、だれも近づくことができない、契約の箱が置いてある至聖所に入り、その契約の箱に動物の血をふりかけてイスラエルの民の罪の贖いをしました。それによってイスラエルの民の罪は赦され、神の前に出ることができたのです。

 

 ここでは、神の御子イエスがこの大祭司であると言われています。ここから10章の終わりまでずっとこの大祭司の話が続きます。いわばこれはこのヘブル書の中心的な内容であると言えます。いったいなぜ大祭司の話が出てくるのでしょうか。旧約聖書の時には、大祭司はアロンという人の家系から選ばれましたが、ここにはアロンではない、もっと偉大な大祭司がいて、この方によって私たちは大胆に神のみもとに出て行くことができるということを証明しようとしているのです。それが私たちの主イエス・キリストです。

この手紙はユダヤ教からキリスト教に回心した人たちに宛てて書かれました。キリスト教に回心したのはよかったけれども、それによって度重なる迫害を受けて、中には元の教え、旧約聖書の律法に逆戻りしようという人たちもいました。そこでこの手紙の著者は、旧約聖書の大祭司であるアロンとまことの大祭司であるイエスとを比較することによって、イエスがどれほど偉大な大祭司であるのかを証明し、このイエスにしっかりとどまるようにと勧めるのです。いったいイエスはどのように偉大な大祭司なのでしょうか。

 

 Ⅰ.もろもろの天を通られた大祭司(14)

 

 まず14節をご覧ください。

「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」

 

 ここには、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、とあります。私たちの大祭司であられるイエスは、もろもろの天を通られた偉大な大祭司です。では、この「もろもろの天を通られた」とはどういう意味でしょうか。

 

ユダヤ人は、天には三つの層があると考えていました。すなわち、第一の天、第二の天、そして第三の天です。まず、第一の天というのは、私たちの肉眼で見ることができる天のことで、そこには雲あり、太陽の光が輝いています。また、鳥が飛び交っています。いわゆる大気圏と呼ばれてものです。

第二の天は、その大気圏を出た宇宙のことです。そこには太陽があり、月があり、多くの星々があります。旧約聖書に出てくるソロモン王は、壮大な神の宮を建てようとしていたとき、「天も、天の天も主をお入れできないのに、いったいだれが主のために宮を建てる力を持っているというのでしょうか。」(Ⅱ歴代誌2:6)と言いましたが、この「天の天」というのがこの第二の天のことでしょう。神が造られたすべての世界のことです。

 そして第三の天というのは、神が住んでおられる所、神の国のことです。Ⅱコリント12章2節のところでパウロは、「第三の天にまで引き上げられました」と言っていますが、それはこの神が住み給う所、天国のことでした。

 だから、ある人はもろもろの天を通られたというのは、こうした天を通られたという意味ではないかと考えているのです。

 

 しかし、ある人たちはこの天を文字通りの天のことではなく、自然界に対する超自然界のことを指しているのではないかと考えています。すなわち、悪魔の試みを含むあらゆる経験をされたということを意味ではないかというのです。それは、15節のところに、「罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」とあるからです。

 

 しかし、このもろもろの天を通られたということがどういうことであるにせよ、重要なことは、このもろもろの天を通ってどこへ行かれたのかということです。キリストはもろもろの天を通られ、神の御住まいであられる天に昇り、その右の座に着座されました。着座するというのは働きが完成したことを表しています。もう終わったのです。人類の罪に対する神の救いのみわざは、このイエスによって成し遂げられました。イエス様が私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死なれ、三日目によみがえれ、四十日間この地上でご自身のお姿を現されて後に、天にある神の御座に着座されたことによって完成したのです。ですからもろもろの天を通られたというのは、この救いのみわざを成し遂げて神の右の座に着かれたことを表しているのです。

 

ローマ8章34節には、このようにあります。

「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」

 

主イエスは、私たちの罪の贖いを成し遂げて神の右の座に着き、そこで私たちのためにとりなしていてくださるのです。「とりなす」とは「なかだちをする」とか、「仲介する」ということですが、たとえだれかがあなたを罪に定めようとする人がいたとしても、あなたが罪に定められることが絶対にありません。なぜなら、キリストが神の右の座にいて、とりなしてくださるからです。あなたの罪の贖いは、イエス様が十字架で死んで、三日目によみがえられたことで、完全に成し遂げられたのです。

 

 でも、この地上の大祭司、アロンの家系の大祭司はどうかというと、そうではありません。ユダヤ教では今でも年に一度、大贖罪日と呼ばれる日に大祭司が動物の血を携えて聖所の中に入って行き、そこでイスラエルの罪の贖いが繰り返して行われています。それはいつまで経っても終わることがありません。永遠に繰り返されているのです。

 

 しかし、イエスによる贖いは完了しました。なぜなら、イエスはやぎや子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたからです。もう罪の贖いは必要なくなりました。主イエスの十字架の血によって、私たちと神との間を隔てていた壁は取り除かれたのです。そして、大胆に、神の御座に地区づくことができるようになりました。これはすごい恵みです。

 

マタイの福音書27章51節を見ると、イエスさまが十字架にかかって死なれ、息を引き取られたとき、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けたとありますが、それは、神と人との関係を隔てていた罪の幕が取り除かれたということです。イエスさまの血によって、イエスさまが私たちの罪に身代わりとなって十字架で死んでくださったので、その隔ての壁が完全に取り除かれたのです。ですから、このイエスさまを信じる人はだれでも、いつでも、どこでも、自由に、大胆に、神のもとに行くことができるようになったのです。これがもろもろの天を通られたという意味です。

 

 ですから、このイエスを信じる者はだれでも救われるのです。あなたがキリストを信じるなら、あなたのすべての罪は赦されます。過去に犯した罪ばかりでなく、現在の罪も、未来の罪も、すべて赦されるのです。なぜなら、聖書には「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(Ⅰヨハネ1:7)とあるからです。これはものすごい恵みではないでしょうか。

 

 先日、大久保茂美姉のバプテスマ式を行いました。いろいろな事で不安を抱え夜も眠れない苦しみの中でイエス様に助けを求めて教会に来られました。そして、キリストの罪の赦しを信じたとき、心に平安が与えられたと言います。イエス様が平安を与えてくださいました。それは罪の赦しから来る平安です。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところへ来なさい。」と言われるイエス様の招きに応答して、イエス様の十字架の贖いを信じたことで、大久保さんのすべての罪がゆるされ、神にゆだねて祈ることができるようになったのです。何という恵みでしょうか。

 

 昔、アメリカにチャールズ・フィニー(Charles Grandison Finney、1792年1875年)という伝道者がいました。彼は「最初のアメリカ人リバイバリスト」と呼ばれた人ですが、彼がある町で伝道していたとき、人相の悪い男が彼のところにやって来て、「今晩、わしの店まで来てくれ」と言ったので行ってみると、その男は突然ピストルを取り出してこう言いました。「昨晩あんたが言ったことは本当か」「どんなことを言いましたか。」と言うと、「キリストの血がすべての罪から聖めるっていうことさ。」するとフィニーは、「それは私のことばではなく、神のおことばです。本当です。」と答えると、彼は自分の身の上話を始めました。

「実は、この酒場にある秘密のギャンブル場で、おれは多くの男から最後の1ドルまでもふんだくり、ある者は自殺に追いやった。こんな男でも、神は赦してくれるのか。」

「はい、すべての罪はキリストの血によってきよめられると書いてあります。」

「ちょっと待ってくれ。通りの向こうの大きな家に、わしの妻と子供たちがいるが、わしはこの16年間全く家族を顧みず、妻をののしり続けてきた。この前は幼い娘をストーブのそばに押し倒し、大やけどを負わせてしまったんだが、こんな男でも神は赦してくれるというのか。」

 するとフィニーは立ち上がり、その男の手を握ってこう言いました。

「これまで聞いたこともないような恐ろしい話を聞きましたが、聖書には、キリストの血がすべての罪を赦し、きよめると書いてあります。」

 するとその男は、「それを聞いて安心した」と言って自分の家に帰って行きました。

 彼は自分の部屋に幼い娘を呼び寄せて、ひざの上に乗せると、「パパはおまえを、心から愛しているよ」と言いました。何事が起ったのかと部屋の中をのぞいている奥さんの頬に、涙が伝わり落ちました。彼は妻を呼んで言いました。

「昨晩、今まで聞いたことのない、すばらしい話を聞いた。キリストの血は、すべての罪からきよめると・・・」

そして彼は酒場を閉め、その町に大きな恩恵をもたらす者になったのです。

 

皆さん、すばらしい知らせではないですか。キリストの血は、どんな罪でも赦し、聖め、私たちを神と和解させてくれます。キリストの愛はどんな人でもその人を内側から変え、神の平安で満たしてくださるのです。あなたもこの平安をほしいと思いませんか。イエスさまはもろもろの天を通って神の右の座に着かれました。あなたもこのイエスを信じるなら、罪の赦しと永遠のいのちを受けることができます。イエスは、もろもろの天を通られた偉大な大祭司なのです。

 

 Ⅱ.私たちの弱さに同情してくださる大祭司(15)

 

 次に15節をご覧ください。一緒に読みましょう。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」

 

 ここには、私たちの大祭司についてもう一つのことが言われています。それは、私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではない、ということです。私たちが苦しむとき、その苦しみを十分に理解し、同情することがおできになられます。それはもう他人事ではありません。自分の痛み、自分の苦しみ、自分の悲しみとして、共に負ってくださるのです。

 

聖書に「良きサマリヤ人」の話があります。彼は、旅の途中、強盗に襲われ死にそうになっていた人を見ると、かわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋につれて行き、介抱してやりました。次の日、彼はデナリ硬貨を二つ取り出し、宿屋の主人に渡して言いました。「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」

このサマリや人はなぜこのようなことができたのでしょうか。それは、この傷つき、苦しんでいた人の隣人になったからです。彼は傷つき、苦しんでいた人を見たとき、とても他人事には思えませんでした。それを自分のことのように感じたのです。だから彼はそのような行動をとることができたのです。

 

それはイエス様も同じです。イエス様は罪によって苦しみ、傷ついている私たちを見たとき、それを自分の苦しみとして理解することができました。なぜなら、イエス様は私たちと同じような肉体を持って来られ、私たちが経験するすべての苦しみ、いやそれ以上の十字架の苦しみに会われたからです。先週はクリスマスでしたが、クリスマスのすばらしいことは、ことばが人となってくださったということです。神は高いところにいて、そこから救おうとされたのではなく、私たちと同じ姿をとって生まれてくださいました。私たちが経験するすべての苦しみを経験されたのです。

 

先日のアンビリバボーで、理由もなくたった一人の息子を殺された市瀬朝一さんという方の、人生をかけた壮絶な敵討ちが紹介されました。その敵討ちとは息子を殺した犯人を殺すことではなく、同じように家族を殺された人たちを経済的に救うべく、犯罪被害者の保障に関する法律を作るということでした。その働きは、朝市さんが過労で失明するという壮絶な戦いでしたが、奥様に助けられながら運動を続け、ついに国を動かすことに成功し、息子さんが殺されてから12年後の1977年にその法案が成立したのです。それは朝市さんが亡くなってから三日後のことでした。いったいそれほどまでに朝市さんの心を動かしたものは何だったのでしょうか。それは、朝市さんが朝市さんと同じように愛する家族を失った人たちの悲しみに触れて、経済的に困窮している人たちの現実を知ったからでした。朝市さんは自分の息子が殺されたことで、同じような苦しみにある人たちのことを十分思いやることができたのです。

 

 確かに、私たちは痛みを経験してはじめて人の痛みを理解することができます。貧しさを経験してはじめて人の貧しさを理解し、同情することができます。しかし、私たちはひとりで、すべての痛みや苦しみを経験することはできません。したがって、すべての人を理解することは不可能なのです。しかし、私たちの大祭司は、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われました。ですから、私たちの弱さを十分すぎるほど理解することができ、また同情することができるのです。そればかりではありません。私たちの大祭司は、そうした弱さや試みから助け出すことができる方です。

 

 Ⅲ.おりにかなった助けを与えてくださる大祭司(16)

 

 第三のことは、だから、大胆に恵みの御座に近づこうということです。16節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。

「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

 

 旧約聖書の時代には、だれもが神に近づけるというわけではありませんでした。近づくことができなかたのです。神に近づこうものならば、たちまちにして滅ぼされてしまいました。神に近づくことが許されたのは神に選ばれた大祭司だけで、しかもそれは一年に一度だけのことでした。しかも大祭司にも罪があったので、彼が神の前に出る時にはまず自分自身と家族のためにいけにえをささげなければならないという、念入りさが求められました。

 

 けれども、今は違います。今は神の御子イエス・キリストが完全ないけにえとして十字架で死んでくださり、私たちのすべての罪を贖ってくださったので、大胆に神に近づくことができるようになりました。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づくことができるのです。

 

 この「大胆に」という言葉は、1955年版の口語訳聖書では「少しもはばかることなく」と訳されています。「はばかることなく」というのは「遠慮しないで」とか、「ためらわないで」ということです。遠慮しないで、ためらわないで、大胆に恵みの御座に近づこうではないかというのです。

 

 しかし、どうでしょうか。実際にははばかってしまいます。躊躇して、遠慮して、なかなか神のもとに行こうとしません。なぜでしょうか。その理由の一つは、こんな罪深い者が神のもとに近づくなんておこがましいと思っているからです。自分の罪がそんなに簡単に赦されるはずがないと思っているのです。それが悪魔、サタンの常套手段でもあります。悪魔は偽善者であり、告発者なので、絶えず私たちを訴えてきます。あなたはあんな罪、こんな罪を犯したではないか、その罪がそんなに簡単に赦されるとでも思っているのか、あなたのようなひどい人間が神様に愛される資格があるとでも思っているのか、あなたが神に祈る資格があるとでもいうのか・・。そうやって責めてくるわけです。告発者ですから。そうやって責められると、大抵の場合は、「そうだ、私の罪は大きくてそんなに簡単に赦されるはずがない」と思ってしまいます。そして、神に近づくことにブレーキをかけてしまうのです。

 

またこのような自分自身の弱さとは別に、それにつけ入るサタンの働きもあります。ちょっと前にテツ&トモという漫才コンビが歌う「なんでだろう」という歌がブームになりました。なんでブームになったのかというと、その歌に共感できる人が多いからです。確かに私たちの人生には、「なんでだろう」というようなことがよく起こるのです。その理由がわからなくて、神が信じられなくなってしまったというケースも少なくありません。要するに、そこには自分の力を超えた力が働いているのです。

 

しかし、そうした弱さや破れというものを感じながらも、なおイエスさまの恵み深さにすがりついていくことが、私たちの信仰なのです。何の闇もなく、破れもないところを行くのではなく、そうした弱さを抱えながらも、そうした愚かさを持ちながらも、そんな不十分な者として、とても信仰者だなんて思えないような者でありながらも、なおこのような者をあわれみ、恵み、おりにかなった助けを与えてくださるイエスさまにすがりつくこと、それが私たちの信仰なのです。

 

それはイエス・キリストがあの十字架で、私たちのあらゆる恐れ、あらゆる不幸、あらゆる悲しみの根源である罪と死に打ち勝ってくださったからです。そのようにして私たちと神とを結び付けてくださいました。私たちは、このような偉大な大祭司を持っているのです。それだから、私たちは自分の弱さの中に留まり続けるのではなく、そこから一歩踏み出して、神様に近づくことができるのです。苦しい時は「神様、助けてください」と叫び求めることができるのです。今も天で大祭司であられるイエス・キリストが、私たちの信仰を支え、導いておられるのです。あなたのために祈り続けておられるのです。

 

 あなたはどんなことで弱さを覚えておられますか。子どもたちのこと、夫婦のこと、人間関係のこと、仕事のこと、学校のこと、将来のこと、いろいろと思い煩うことがあると思いますが、どうかそれを自分の中にためておかないで、いつでも、どこでも、おりにかなった助けを受けるために、主イエスのもとに、その恵みの御座に近づいていこうではありませんか。

ヘブル4章1~13節 「神の安息は残されている」

 きょうは、ヘブル4章のみことばから、「神の安息は残されている」というタイトルでお話します。 

 現代は忙しさと不安の時代です。「忙しいですか」という言葉が挨拶になっているくらいです。もしも「いや、そんなに忙しくもないですよ」と答えようものなら、「この人は何をしているのだろう」という目で見られ、落ちこぼれではないかと思われかねません。しかし、「忙しい」という字は「心が亡びる」と書くように、それは滅びへの道を邁進しているとも限らないのです。もちろん、毎日忙しい生活を送りながらも充実した日々を送っている人もいますが、そうした忙しさの陰にあって、心のどこかで不安を隠すことができないというのも事実です。こんなに一生懸命に仕事をしているのにリストラにされたらどうしよう。その先どうやって生活していったらいいのか。家族はどうなってしまうのだろう。リストラに遭わなくても病気になって働けなくなるかもしれないし、そしたら自分はどうなってしまうのだろうか、といった不安もあります。要するに現代は先が見えない時代なのです。だからみんな不安を感じているのです。このような忙しさと不安の時代にあっても、身も心も休まるような安息が与えられるとしたらどんなに幸いなことでしょうか。きょうは、この安息について三つのことをお話したいと思います。 

 Ⅰ.聞いたみことばを、信仰によって、結びつける(1-3a) 

 まず1節から3節までをご覧ください。1節には、「こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。」とあります。 

 「こういうわけで」とは、どういうわけで、でしょうか。これは3章の後半で語られていたことを受けてのことです。そこには、荒野でのイスラエルの不信仰について語られていました。彼らは何度も何度も神のみわざを見て、神の恵みを体験したにもかかわらず、ちょっとでも自分たちの状況が悪くなると、すぐにモーセにつぶやきました。その結果、カデシュ・バルネアというところで決定的なことが起こりました。それは3節にあるように、神が彼らに、「決してわたしの安息に入らせない。」と言われたのです。それは、彼らが神を信じなかったからです。神は彼らに、「上って行って、占領せよ。」と命じられたのに、それに従いませんでした。その地を偵察するために12人の偵察隊を遣わすと、その内の10人が否定的な報告をもたらしました。それを聞いた彼らは、上って行くことはできないと結論してモーセにつぶやいたのです。それで神は怒られ、「彼らの先祖たちに誓った地を見ることはできない」と宣言されたのです。その結果、彼らは荒野で滅びてしまいました。約束の地に入ることができなかったのです。ただ最後まで従い通したヨシュアとカレブだけが入ることができました「そういうわけで」です。

そういうわけで、神の安息はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないことがないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか、というのです。どういうことでしょうか。ここでこの手紙の著者は、モーセの時代のイスラエルの不信仰を例に取り上げて、キリストによって成し遂げられた救いのみわざを信じないで真の安息に入れないというようなことがないように、この救いのみわざにしっかりとどまろうと勧めているのです。 

ご存知のように、この手紙はユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれました。彼らの中には激しい迫害のゆえにモーセの律法を中心としたかつての生活に逆戻りしようとする人たちがいました。しかし、モーセの時代でも不信仰によって神が約束してくださった安息に入ることができなかったのであれば、ましてやモーセよりも偉大なイエス・キリストによってもたらされた救いのみわざを信じなければ真の安息に入ることはできないのだから、万が一にもそういうことがないように、この救いのみわざにしっかりとどまろうと励ましているのです。すなわち、モーセの時代の神の安息の話から、キリストによってもたらされた真の安息の話へと話題を展開しているのです。皆さん、いったいどこに本当の安息があるのでしょうか。イエスはこう言われました。 

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

 本当の安息はイエス・キリストにあります。あなたがキリストのもとに行くなら、あなたはたましいにやすらぎを得ることができます。なぜなら、あなたの罪が赦されるからです。罪が赦されると神との平和が回復するので、あなたの心の深い部分に神の平安がもたらされるのです。これが真の安息です。私たちは肉体が疲れたら休まなければなりません。休まないで働き続けるとどうなりますか。必ずガタがきます。知らず知らずのうちに疲れが蓄積されて身体に変調をきたすようになるのです。だから疲れたら休まなければなりません。それは私たちの心も同じです。私たちの心にも休息が必要なのです。いったいどこで休息を得ることができるのでしょうか。心が疲れているとき、どんなにリポビタンDを飲んでも解決にはなりません。心が疲れたときはキリストのもとに行かなければなりません。キリストのもとに行くならたましいにやすらぎを得ることができます。それはこの地上の表面的で一時的なやすらぎとは違います。世の波風が吹き荒れても決して動じない天国の安息です。私たちはこの地上でその前味を味わう時がありますが、やがて天に行く時その完全な安息を味わうことでしょう。この安息があなたのためにまだ残されているのですから、万が一にもこれに入れないことがないように注意しなければなりません。 

 ではどうしたらこの安息に入ることができるのでしょうか。2節と3節前半をご覧ください。

「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。「信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。」 

「福音」とは「良い知らせ」のことです。モーセの時代の良き知らせとは何だったのでしょうか。それは、神の約束の地に入ることでした。彼らはそれまでずっとエジプトの奴隷でしたが、そこから解放されて乳と蜜の流れる地へ入れられるとの約束が与えられました。それが彼らにとっての良い知らせだったのです。それと同じように、私たちも良い知らせを聞きました。どんな知らせですか。神の御子イエス・キリストの十字架の贖いによって罪の奴隷から解放され、天の御国に入れていただけるという知らせです。私たちが何かをしたからでなく、またできるからというわけでもなく、何もできない私たちを神は愛して下さり、私たちのために御子イエス・キリストをこの世に遣わし、この方が私の罪のために死んでくださり三日目によみがえられたことによって、その名を信じる者に罪の赦しと永遠のいのちが与えられるという知らせです。これはグッド・ニュースではないでしょうか。 

けれども、どんなに良い知らせを聞いても、その聞いたことばを、信仰によって結びつけることがなければ全く無意味です。モーセの時代のイスラエルの人々はそうでした。彼らはエジプトから救われて神が約束した地に導いてくださるということばを聞いたのに、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。なぜ?それを聞いた人たちに、信仰によって、結び付けられなかったからです。 

皆さん、神のみことばを聞くことは大切なことですが、聞いても信じなければ意味がありません。イエスは種まきのたとえ話の中でこう教えられました。

「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。 蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。 しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。 また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。 別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。耳のある者は聞きなさい。」(マタイ13:3~9) 

 種とは、神のことばのことです。農夫が種を蒔いたら四つの地に落ちました。道ばた、岩地、いばら、良い地です。道ばたに落ちた種はどうなったでしょうか。鳥が来て食べてしまいました。それはみことばを聞くとすぐにサタンがやって来てみことばを奪って行くので、実を結ぶことができない人のことです。                                        岩地に落ちた種はどうなったでしょうか。岩地に落ちた種は、土が柔らかく温かかったのですぐに芽を出しましたが、日が上ると焼けて、すぐに枯れてしまいました。根がなかったからです。これは、みことばを聞くとすぐに喜んで受け入れますが、根を張っていないので、しばらくの間そうしているだけで、困難や迫害があるとすぐにつまずいてしまい、実を結ぶことができない人のことです。   いばらの中に蒔かれた種はどうなったでしょうか。いばらが伸びて、ふさいでしまうので、実を結ぶことができませんでした。これはみことばを聞いて成長しますが、この世の心遣いや富の惑わしといったものでみことばが塞がれるため実を結ぶことができない人のことです。いい線までは行くのですが、そうしたいばらによって首が絞められるため実を結ぶことができないのです。          しかし、良い地に蒔かれた種は、30倍、60倍、100倍の実を結びました。これは、神のみことばを聞いて、それを悟人のことです。すなわち、神のことばを聞いて、それを信仰によって、結び付ける人のことです。そういう人は何倍もの実を結ぶのです。 

三恵(さんね)という言葉があります。聞恵(もんえ)、思恵(しえ)、そして修恵(しゅえ)です。聞恵(もんえ)とは、見たり、聞いたりするだけの知恵(知識・情報)です。思恵(しえ)とは、その見たり、聞いたりしたことを心の中で思い巡らし、「ああ、わかった」と悟ることです。でも、まだ体で受け取るまでにはいっていません。そして、修恵(しゅえ)とは、見たこと、聞いたことを思い巡らして悟り、その学んだことを実際の生活の中に生かしていくことです。神の言葉を信仰によって結びつけるとは、神の言葉をただ聞くだけでなく、また、そのことを思い巡らすだけでもなく、それをしっかりと心に結び付け実際の生活に生かす。      信仰の実を結ぶ原則は実にシンプルです。すなわち、神のみことばを聞き、それを心に結び付けることです。みことばを聞いて信じるなら実を結びますが、聞いても信じなければ、実を結ぶことはできません。実に単純なことです。 

 あるひとりの少女が言いました。「あたし、天国に行くとき、あたしの聖書を持っていくわ」。「どうしてなの」と尋ねると、その少女はこう答えました。「もしイエスさまが、あたしにどうして天国なんかに来たかって言ったら、マタイの福音書11章を開いて、「だって、わたしのところに来なさいとおっしゃったではありませんか」と言うのよ。」                    なんと単純な信仰でしょう。信じた私たちは安息に入るのです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。」と言われる主のことばを信じて、単純に罪を悔い改め、イエスさまのもとに行こうではありませんか。 

 Ⅱ.神の安息はまだ残されている(3b~10) 

 次に、3節後半から10節までをご覧ください。

「みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と言われたのです。こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」

これはどういうことでしょうか。3節と4節の、「みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。というのは、神は七日目について、ある箇所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた」と言われました。」というのは、創世記2章2節のみことばからの引用です。神はこの天地万物を造られたとき六日間で造られ、七日目には、なさっていたすべてのわざを休まれました。この「休まれた」というのは、すべてが完成したとか、終わったという意味です。私たちは六日間働くと疲れて七日目に休みますが、神は私たちのように疲れることはありません。ですから、そういう意味で休まれたのではないのです。六日間ですべてのものを造られ、完成したという意味です。もう何も付け加えるものはありません。人が住むための最高の環境が備えられたので、「それは非常に良かった」と言われたのです。満足されたわけです。ところが、その満足が破壊される出来事が起こりました。それは人間の罪です。神が、食べてはならないと命じられていた木から取って食べてしまったので、その神との平和が断たれてしまったのです。断絶したのです。                                                        しかし、それでも神はあきらめませんでした。神はあわれみ深い方なので、その壊れた関係を修復し本来の関係に回復しようと、救い主をお遣わしになったのですが、それが主イエス・キリストです。イエス・キリストは私たちを罪から救うために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえってくださいました。それによって私たちの罪の贖いを完成してくださったのです。それでイエス・キリストを信じる者には、元々あった神との平和な関係、神の安息、永遠のいのちが与えられるようになりました。ですから、イエスは十字架の上でこのように叫ばれたのです。                                             「完了した」(ヨハネ19:30)                                            罪のための贖いは完了しました。これに付け加えるものは何もありません。イエスがあなたの罪のために十字架にかかって死んでくださったので、あなたが罪のために支払わなければならない代価はすべて完全に支払われました。あなたはこのイエスによって罪から解放されたのです。                                                     この罪の赦し、永遠のいのち、天の御国の安息に入るために、旧約聖書ではそのひな型を示し、神を信じるようにとずっと勧められてきましたが、その一つが神の約束の地カナンであり、神殿の至聖所であったわけです。                    それらはこのキリストによる神の安息、天国のひな型だったのです。 

 しかし、モーセの時代、イスラエルは不信仰だったので、この安息に入ることができませんでした。それが5節と6節に書かれてあることです。モーセの時代、彼らは不信仰だったので、神は、「決して彼らをわたしの安息に入らせない」と言われたのです。そして、「その安息に入る人々がまだ残っており」とも言われました。これはどういうことかというと、この安息がまだ残されているということです。もしモーセの時代に安息が終わっていたのであれば、「決して彼らをわたしの安息に入らせない」とか、「その安息に入る人々がまだ残っている」とは言わなかったでしょう。神の創造のわざは完成しましたが、罪によって失われた安息を回復することができるように、神は今もその働きを続けておられるということなのです。 

 それは7節を見てもわかります。ここにはモーセの時代よりもずっと後のダビデの時代のことが言及されています。神はダビデを通しても、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」と言われました。それは、ダビデの時代にも安息に入る人たちが残っていたということです。つまり、モーセの時代も、ダビデの時代にも、神はご自分の安息の中に人々を入れるように招き続けておられたということなのです。つまり、神の安息はまだ残されているということです。その安息こそキリストによってもたらされた神の国、永遠のいのちのことだったのです。 

神の創造のわざは終わっていますが、神の安息はまだ残されています。最初の人が罪を犯したことで神との関係が損なわれてしまいましたが、神はその壊れた関係を修復し、私たちがこの安息に入るようにと今に至るまでずっと働いておられるのです。この安息はあなたのために、神の民のためにまだ残っているのです。いったいどうしたらこの安息に入ることができるのでしょうか。 

 Ⅲ.神のみことばには力がある(11-13) 

ですから、最後に11節から13節までをご一緒に読みたいと思います。

「ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」 

 ですから、この手紙の著者はこう勧めるのです。「ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。」

ここには、「この安息に入るように力を尽くして努め・・・」とありますが、休息と努力とは全く反対のように思えます。しかし、真の安息とは、何もしないで手ぶらで遊んでいて与えられるものでありません。むしろ、すべてを造られ、すべてを支配しておられる神を知り、その神が遣わされた救い主を信じ、その中にしっかりととどまっていることによってこそ得られるものなのです。この手紙の受取人であったユダヤ人クリスチャンたちは、さまざまな教えの波にもて遊ばれて、中にはキリストの福音から離れて行く人たちもいました。それでは神の安息に入ることはできません。神の安息に入るためには、聞いたみことばにしっかりととどまっていなければならないのです。あのイスラエルの不従順のように、落伍する者がないように、力を尽くして努力しなければならないのです。 

それは私たちも同じです。私たちも聞いたみことばを受け入れて、それを心に結び付け、しっかりとそこにとどまっていなければなりません。私たちは時々、もっと努力をしなければ救われないのではないかと焦ることがあります。神のためにもっと奉仕をしなければならないのではないか、もっと献金をしなければならないのではないかといった思いにかられることがありますが、そうした人間の努力によっては救われることはありません。私たちが救われるのはただ神の恵みによるのであって、神がしてくださった十字架のみわざを信じることによってのみなのです。私たちが良いことをするのは救われるためではなく、救われたからです。神がこんな者をも愛して救ってくださったので、その恵みに応答したいからであって、そうでないとだんだんと疲れてくるのです。私たちはいつもいろいろな教えを聞きますが、そうした教えに押し流されないように、しっかりと神の恵みに、信仰にとどまっていなければなりません。 

その恵みにとどまらせるものは何でしょうか。この安息に入るために、信仰にとどまらせてくれるものは何でしょうか。それが神のみことばです。なぜなら、神のみことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができるからです。神は造られたすべてのものを完全にご存知であられ、心の奥底まで探り極められる方です。神はみことばによって私たちの心を探り、なにが良いことで完全なものであるかを示してくださるのです。 

この神のみことばがあなたを救います。このみことばが聖霊を通してあなたに働かれるとき、あなたは罪について、さばきについて、救いについて悟り、イエス・キリストを救い主として信じることができるようになるのです。なぜなら、聖霊によらなければ、だれもイエスを主と告白することはできないからです。 

「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Ⅰコリント1:18)

この十字架の神のことばは、私たちに永遠のいのち、神の安息へと導いてくれます。私たちの人生の良し悪しを最終的に決めるものは何ですか。それは私たちの将来がどうであるかということです。今がどんなに良くても将来が永遠の滅びであったとしたら、何の意味もありません。しかし、キリストの福音は、あなたに輝かしい将来を約束しています。それは永遠のいのちです。福音は私たちに現在の救いを与えるばかりではなく、永遠のいのちを与えてくれるのです。 

ある船頭さんがひとりの物知り博士を乗せて、夜、小さな船で海を渡っていました。しばらくして、その物知り博士が船頭に言いました。                                                         「きみ、きみは天文学のことを知っているかね?」                                      「いや先生、私はいっこうに天文学のことは知りません」船頭がそう答えると、                                                      「きみ、あのね、太陽系以外で一番近い星でも地球からは6兆マイルも離れているんだよ。きみ、天文学のことを知らなければ人生を半分知らないと言ってもいいよ」                                                   しばらくするとまた、その物知り博士は船頭に言いました。                                         「きみ、きみはいつでも海の上を渡っているけれども、この海のことを知っているかね?」                                船頭が「あまり専門的なことはしりません」と答えると、                                        「きみ、海のことを知らないようでは人生の半分は知らないんだよ、いまに人間はこの海の水からエネルギーを取るようになる」  などといろいろなことを偉そうに言っていました。                                         ところが、急に突風がやって来て、船の中に水が入り始めました。                                       そのとき船頭は、「先生、あなたは泳ぎを知っていますか?」と言うと、                                その物知り博士は、「いや、私は泳ぎを知らない」と答えました。するとその船頭が言いました。                             「先生、天文学を知っていても海洋学を知っていても、泳げなければオダブツですね。」

皆さん、私たちにどんなに知識があり、どんなに文化的な生活をしていても、私たちが永遠のいのちを持っていなければ、永遠の世界において生きるということを知っていなければ、ほんとうにオダブツなのですそのことを私たちに教えてくれるのが神のことばです。十字架のことばは滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です。

どうかこの神のことばを知ってください。神のことばを聞いて、幼子のように素直に信じてください。そうすれば、あなたはキリストにある永遠のいのちを得ることができるのです。神の安息はあなたのためにまだ残されているのです。この安息に入れるように、あなたもイエス・キリストを信じて救われてください。

ヘブル3章7~19節 「神の安息に入るために」

 きょうは、ヘブル3章7節から19節までのみことばから、「神の安息に入るために」というタイトルでお話したいと思います。 

 よく私たちの人生は旅のようなものであると言われます。旅にもいろいろあって、名所旧跡を訪ねる旅もあれば、道なき道をかき分けて行く冒険のような旅もあります。すでにだれかが作ってくれた道を行くのであれば、比較的安心して行くことができますが、原生林や荒野を旅する場合は、そんなに楽な旅ではありません。 

 それは、私たちの信仰の旅も同じです。聖書にはよく旧約時代のイスラエルの民がエジプトを出てから約束の地に入るまでのことを、私たちの信仰生活になぞらえて教えられていますが、それはまさに荒野の旅でもあり、そこには多くの戦いがありました。そして、その荒野の旅において彼らは、神が約束してくださった地に入ることができませんでした。いったいなぜ入ることができなかったのでしょうか。きょうはイスラエルの失敗から、どうしたら神の安息に入ることができるのかを学びたいと思います。 

Ⅰ.心をかたくなにしてはならない(7~11) 

 まず、第一のことは、心をかたくなにしてはならないということです。7節から11節までをご覧ください。「ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」

 「ですから」というのは、これまで語られてきた内容を受けてのことです。3章1節から6節までのところにはイエスのことを考えなさいと、勧められてありました。なぜなら、イエスこそ信仰の使徒であり、大祭司であられる方だからです。人は何を考えるかによってその行動が決まります。仕事のことばかり考えている人は仕事を中心とした生活になり、健康のことばかり考えている人は、自分の健康にいいと思うことをいろいろ試してみようとあちらこちらに奔走します。でもイエスのことを考える人は天国のことを考えます。目の前に様々な問題があっても主が必ず解決してくださると信じ、すべてをゆだねて祈るのです。だから、イエスのことを考えなければなりません。 

 そして、このイエスがどんなに偉大な方であるかを、モーセと比較して語られました。すなわち、モーセは神の家に仕える者でしたが、イエスはその神の家を建てた方であり、それを治めておられる方です。だから、私たちがこのイエスに最後までしっかりと確信と希望を持ち続けるならば、私たちが神の家となるのです。「ですから」です。「ですから」何でしょうか。 

 「ですから、聖霊がこう言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」 

 どういうことでしょうか?これは詩篇95篇8節からの引用です。この手紙の著者はイスラエルの先祖たちの不信仰を取り上げて、あの荒野での試みの日に、心をかたくなにして、神の御怒りを引き起こすようなことがあってはならないと警告しているのです。いったい「荒野での試みの日に」何があったのでしょうか。実は、詩篇95篇を見ると、この荒野の試みの日がどのようなものであったのかがもっと具体的に記されてあります。

「メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」(詩篇95:8)

ここにはメリバでのときのように、また荒野のマサの日のようにとあります。いったいメリバで何があったのでしょうか。マサで何が起こったのでしょうか。これは出エジプト記17章に書かれている内容です。少し長いですが読んでみたいと思います。1~7節までです。

「イスラエル人の全会衆は、主の命により、シンの荒野から旅立ち、旅を重ねて、レフィディムで宿営した。そこには民の飲む水がなかった。それで、民はモーセと争い、「私たちに飲む水を下さい。」と言った。モーセは彼らに、「あなたがたはなぜ私と争うのですか。なぜ主を試みるのですか。」と言った。民はその所で水に渇いた。それで民はモーセにつぶやいて言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」そこでモーセは主に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。もう少しで私を石で打ち殺そうとしています。」主はモーセに仰せられた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。それで、彼はその所をマサ、またはメリバと名づけた。それは、イスラエル人が争ったからであり、また彼らが、「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」と言って、主を試みたからである。」 

 これはイスラエルがエジプトを出て荒野に導かれたときに起こった出来事です。イスラエルは430年間エジプトの奴隷として仕えていましたが、その苦しみの中で彼らが主に助けを求めると、主はモーセというひとりの人物を立て、そこから救い出してくださいました。それは人間的には全く考えられないことでしたが、主は力強い御手をもって彼らをエジプトから連れ出されたのです。エジプトから出た彼らはどうなったでしょうか。彼らが導かれたのは荒野でした。荒野というと皆さんはどのような所を想像するでしょうか。それは荒れた野と書きますから、それが厳しい環境であることは間違いありません。その中でも水がないというのは重大な問題でした。それはイコール死を意味していたからです。そこで彼らはモーセと争いました。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」これにはモーセもどう答えたらよいかわかりませんでした。それでモーセは主に叫ぶのです。すると主は、民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れて、ナイルを打ったあの杖で、ホレブの岩を打つようにと命じられました。それでモーセがそのとおりにすると、岩から水がほとばしり出たので、彼らはそれを飲んだのです。いったい何が問題だったのでしょうか。彼らの心がかたくなだったことです。彼らはこれまで何度も主のみわざを体験したにもかかわらず、信じることができませんでした。少しでも状況が不利になるとすぐにつぶやいて、神と争ったのです。それで主は怒りをもって誓ったように、彼らを神の安息に入れない、言われたのです。 

 これは私たちも同じです。私たちも神の救いのみわざを経験し、何度も神の恵みを体験しても、イスラエルのように心をかたくなし、常に心が迷い、神の道を悟ることがないと、神の安息に入ることができないこともあるのです。 

聖書は、神のご性質についてこう言っています。

「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。」(詩篇103:8) 

 これが私たちの神です。主は、あわれみ深く、情け深い方です。私たちが何度も何度もつぶやき、主に対して不平不満を言っても、主は私たちを赦してくださいます。怒るのにおそく、あわれみ深い方なのです。しかし、いつまでも心をかたくなにして、常に心が迷い、神の道を悟らなければ、最終的には神の怒りが下るのです。ですから、そういうことがないように、イスラエルのように心をかたくなにしないで、心を柔らかくして、神のことばを素直に受け入れなければなりません。 

 私たちの人生には辛いこと、苦しいこと、また、なかなか受け入れられないことが起こりますが、それは私たちの信仰が試される時でもあります。そしてそのような時こそ、信仰が強められる時でもあるのです。それなのに、私たちはどちらかというとそのように受け止めることができず、すぐにつぶやいたり、疑ってみたり、不平不満を漏らしたりして、不信仰になってしまいますが、そうではなく、神の約束を信じなければならないのです。神を愛する人々、すなわち、神のご計画にしたがって召された人々のためには、神はすべてのことを働いて益としてくださると信じなければならないのです。 

 Ⅱ.日々互いに励まし合って(12-15) 

 次に12節から15節までをご覧ください。

「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。」

 ここでこの手紙の著者はイスラエルの不信仰を事例に、この手紙の受取人であるユダヤ人クリスチャンに警告を与えています。というのは、彼らの中にはイエス・キリストを信じて神の救い、永遠のいのちを受けたにもかかわらず、その信仰のゆえに迫害や困難に遭うと、古い契約、モーセの律法に戻ろうとする人たちがいたからです。だから、彼らのように不信仰の心になって生ける神から離れることがないようにと警告しているのです。12節の「悪い不信仰の心」というのは神を信じない心のことです。神を信じていると言っても、悪い不信仰の心になると、生ける神から離れてしまい、その身に滅びを招くことになります。モーセの言うことを信じなかった人たちは、みな荒野で滅びてしまいました。であれば、ましてやモーセよりもはるかに偉大な神の御子イエス・キリストを信じなかったどうなるでしょうか。イエスを信じなければ罪が残っているということなので、永遠のいのちを受けることができなくなってしまいます。だから、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れることがないように気をつけなければなりません。そして、「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなければなりません。 

 ところで、この手紙では「きょう」という言葉が繰り返し使われています。このように同じことばが繰り返して使われている時はそのことが強調されていることを表していると以前申し上げましたが、ここでもそうです。「きょう」が強調されているのです。なぜなら、私たちに明日があるかどうかはわからないからです。明日があるかどうかは誰にもわかりません。私たちが生きることができるのは、「きょう」だけであって、明日がどのようになるかはわかりません。しかも、今、この瞬間しかありません。次の瞬間にはどうなるかわからないのです。私たちが生きることかできるのは、今、この瞬間しかないのです。私たちは過去に生きることはできないし、未来に生きることもできません。明日があるかどうかはわからないのです。 私たちは自分で生きていると思っていますが、実は生かされているのです。そして神がよしとするときに、神の許に、天の御国に召されるのです。それがいつなのかはだれにもわかりません。もしかするとそれは明日かもしれません。だから「きょう」御声を聞くならば、心をかたくなにしないで、イエスを信じなければならないのです。 

 まだイエス様を信じていない方がおられるでしょうか。きょう初めて教会に来られたという方もおられるかもしれません。そういう方はどうか「きょう」イエスさまを信じてください。イエスさまはどんな悩みがあっても解決を与えてくださいます。イエスさまを信じれば、あなたの罪が赦され、あなたの心に神のいのちが与えられます。それは一時的なものではなく永遠のいのちです。これが神の恵みの福音なのです。 そして、もうすでにイエスを信じておられる方は、どうか、ここにあるように、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしてください。だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れることがないように気を付けてください。 

 そのためにはどうしたらいいのでしょうか。ここにはそのために必要なことが勧められています。それは「日々互いに励まし合って」という言葉です。日々、互いに励まし合って、だれも罪に惑わされないようにしなければなりません。聖書には至るところで「互いに」という言葉が使われています。互いに愛し合いなさい。互いに慰め合いなさい。互いに励まし合いなさい。互いに労り合いなさい。互いに赦し合いなさい。互いに受け入れ合いなさい。というようにです。なぜでしょうか。なぜなら、私たちの信仰はひとりで守ることはできないからです。イエス様を信じたからあとは自分で信仰を守っていくから大丈夫だということはありません。互いに励まし合う必要があるのです。それは生まれたばかりの赤ん坊を見てもわかります。赤ん坊は一人で生きることはできません。ミルクをあげたり、おむつを交換したり、何かあったら世話をしたりして守ってあげる人が必要です。そういうケアがあってこそ健全に育っていくことができるのです。それと同じように、私たちの信仰も互いに励まし合ってこそ健全に成長していくことができるのです。 

 ですから、神様が教会を与えてくださったということは本当に感謝なことなのです。教会がなかったらどうなるでしょうか。教会がなかったら自分で聖書を読み、自分で祈り、自分で信仰を守らなければなりません。確かに一人でも聖書を読み、堅く信仰に立って歩める人もいるかもしれませんが、ほとんどの人はこの世の影響を受けて、生ける神から離れてしまうことでしょう。教会はキリストのからだであり、私たちはその器官であると言われていますが、肝臓が肝臓だけで存在することができるでしょうか。腎臓が腎臓だけで生きることはできません。私たちはキリストのからだの各機関としてそれぞれしっかりと組み合わされ、結び合わされて、成長して、愛のうちに建てられるのです。

「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、供えられたあらゆる結び目によって、しっかり組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」(エペソ4:16) 

 確かに目に見える教会は完全ではありません。問題もあるでしょう。でも教会はキリストのからだであって、私たち一人一人がこのキリストにしっかりと結び合わされ、組み合わされて、成長して、愛のうちに建てられているのです。だから、平安があるのです。教会に来ると慰められ、励まされます。心が元気になります。なぜでしょうか?頭(かしら)がしっかりしているからです。教会のかしらは牧師ではありません。教会のかしらはイエスさまです。イエスさまがしっかりしているので守られ、養われるのです。だから、教会ってものすごいところなのです。どんなに小さな教会でも、教会にはキリストのいのちが溢れているのです。その教会で互いに励まし合ってこそ、私たちはしっかりと信仰に立ち続けることができるのであって、そうでなかったら、この世の流れに流されて、生ける神から離れ、罪に惑わされてしまうことになります。だからそういうことがないように、日々互いに励まし合い、最初の確信を終わりまでしっかりと保ち、キリストにあずかる者、つまり、共に神の安息に入る者とさせていただきたいと思います。 

Ⅲ.不従順にならないで(16-19) 

 第三のことは、だから不従順にならないでということです。16節から19節までをご覧ください。

「聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。」 

 ここで著者は再び、モーセの時代のイスラエルの話に戻っています。つまり、イスラエルはなぜ約束の地に入ることができなかったのかということです。ここにはそれを決定的にした原因が書かれてあります。それはカデシュ・バルネアでの出来事です。民数記13章と14章に記されてあります。彼らはエジプトを出て約1年数か月後に、もう約束の地までは目と鼻の先という所まで来ました。そのとき、12人の偵察隊を送り、その地がどんな地であるかを探らせるのです。そこに住んでいる人は強いか弱いか、あるいは多いか少ないか、その土地はどうか、それが良いか悪いか、彼らが住んでいる町はどうか、宿営か、それとも城壁の町かといったことを調べさせました。 

 ところが、偵察から帰って来た人のうち10人は、モーセとイスラエルの全会衆に否定的な報告をもたらしました。確かにそこは乳と蜜の流れる良い地だったが、とても上って行くことはできない。そこにはアナク人の子孫や、アマレク人など、とても大きくて、強そうな人ばかりいるので、行こうものなら滅ぼされてしまうだろう、と告げたのです。それを聞いたイスラエルの全会衆は大声をあげて泣きました。いったいなぜモーセは自分たちをこんなところに連れてきたのか。こんなことならエジプトで死んでいた方がましだった。できれば、荒野で死んでいればよかった・・・。

 それで主は怒られイスラエルを滅ぼそうとしましたが、モーセの必死のとりなしによって赦しを請うことができたものの、このように十度も主を試みたということで、彼らは約束の地に入ることはできない、と宣言されたのです。彼らがその地を巡った一日を一年として、四十年間荒野をさまようになると言われたのです。これが、彼らが神の安息に入れなかった決定的な原因でした。つまり、彼らは不信仰だったので、安息の地に入れなかったのです。 

 しかし、こうした不信仰の中でも主に信頼し、それとは違った応答をした人たちがいました。ヨシュアとカレブです。彼らは他の10人と全く同じものを見たにもかかわらず、その応答は正反対でした。彼らはこう言いました。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」(民数記13:30) そこはすばらしいところで、神が自分たちに与えてくださると約束してくださったところですから、神は絶対に与えてくださいます。ぜひとも上っていきましょう、と言ったのです。 

 皆さん、この違いは何でしょうか。信仰です。現状がどうであれ、ヨシュアとカレブは神の約束を信じていたのでそのように受け止めることができました。神の安息に入るには、信仰がなければならないのです。 

 私はかつて福島の教会で会堂建設に取り組んだことがあります。教会は土地代を献金して建物の建築費は銀行から融資を受けようと計画したのですが、銀行から受けられる融資の額は私たちが予定していた額よりも一千万円低い金額でした。教会には若者が多く、お金を持っている人などほとんどいなかったので、これが銀行で融資できる精一杯の金額ですと言われたのです。それで私たちは礼拝後にみんなで集まってどうしようかと話し合いました。銀行で貸してくれないというのだから当初予定していた建物の規模を小さくしようと話がまとまったとき、一人の女性が「はい」と手を上げたのです。その方はご主人の仕事の関係で北海道から引っ越してきたばかりの韓国人の姉妹で、私たちの教会には2~3回しか参加していませんでした。その方が手をあげてこう言われたのです。「日本人はいつでも小さく考えますが、それが神様のみこころだったら神様は与えてくださるのではないでしょうか。」一瞬、みんなの顔が凍り付いたのがわかりました。それは私も同じでした。ここ数年土地代をささげるためにどれほど大変だったかを知っていたので、さらに一千万円をささげることは人間的には困難であることをだれもが感じていたのです。でも、神のみこころなら与えられるというのは正しいことなので、一年後までに与えられるように祈りましょう、ということになりました。               それから2,3か月経った頃のことです。東北電力から電話があり、教会の前の車のタイヤを作る工場で電気を引きたいので鉄塔を立てるのですが電線がちょうど教会の土地の一部に引っかかるので許可をいただきたいと言って来たのです。その工場には地域の多くの方が働いていたので「だめです」なんて言えなかったので「いいですよ」というと、それじゃ線下保証金といって、そのために土地の評価が低くなってしまうので、その保証のためのお金を支払いますと、約六百万円が与えられたのです。そしてあの話し合いからちょうど一年後の1998年9月末にささげられた金額は999万円だったのです。私は信じられないというかうれしさと驚きとともに主に感謝しました。そして、ポケットに手を入れたらちょうど1万円があったのでそれをささげることができ、必要が完全に満たされたのです。       あの姉妹が言ったとおり、神は私たちの必要を満たしてくださったのです。あのときもし信じなかったら、今の会堂はなかったでしょう。それが私たちにとってどんなに難しいことでも、神にとって大きすぎることはありません。神様は全能者であって、どんなことでもおできになる方なのです。ただそれが神のみこころなのかどうかということが重要なことであり、それが神のみこころなら、信じなければならないのです。 

 皆さん、信仰とは何でしょうか。ヘブル11章1節にはこうあります。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」

 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものなのです。目に見えるものを信じることは信仰ではありません。目に見えないことでもそれが神の約束してくださったことなら、それは必ず与えられると信じること、それが信仰なのです。ヨシュアとカレブは神の約束のことばを信じました。だから、彼らは約束のものを受けることができたのです。しかし、信じなかった人たちは受けることができませんでした。神の安息に入ることができなかったのです。 

 ですから、どうか信じない者にならないで、信じる者になってください。キリストのことばを聞いて、それを信じて受け入れ、そのことばに従って生きる者でありますように。きょう、あなたも神のことばを聞きました。あとは信じるだけです。信じて従うだけなのです。私たちの人生は荒野かもしれません。しかし、それがどんな荒野であっても、最初の確信を終わりまでしっかりと保ちさえすれば、あなたもキリストにあずかる者となるのです。神の安息に入ることができるのです。だから、心をかたくなにして、御怒りを引き起こしたときのようになってはいけません。きょう、もし御声を聞くならば、そのことばを信じて、そのことばに従って歩み続けていきましょう。

ヘブル3章1~6節 「モーセよりもすぐれたキリスト」

 きょうは、「モーセよりもすぐれたキリスト」というタイトルでお話します。この手紙はユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれた手紙です。彼らはイエス・キリストを救い主として信じましたが、度重なる激しい迫害に耐えかねてかつての古い教えに戻ろうとしていたので、イエス・キリストが旧約聖書に出てくるどのような人よりも、どのようなものよりもすぐれた方であるということ証明し、励まそうとしたのです。そのためこの手紙の著者は、イエス・キリストをいろいろなものと比較しています。 

 まず1章では預言者たちと比較しました。神は、昔、預言者たちを通して、多くの部分に分け、いろいろな方法によって語られましたが、終わりの時には、御子によって語られました。神は御子によってご自分のすべてのものを現してくださったのです。神の御子イエスをみれば、神がどのような方であるかがわかります。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであって、そうした預言者たちとは全く比較にならない偉大な方なのです。 

 それから、1章後半から2章にかけては、御使いたちと比較しました。なぜなら、御使いはユダヤ人にとって特別な存在だったからです。けれども神は御使いに対して「わたしの子」と呼んだことは一度もありませんでした。ただ御子に対してだけをそのように呼ばれたのです。御使いは被造物であって、神に仕える者でしたが、御子は万物の創造者であられ、仕えられる方です。御使いは神の前にひれ伏し、伏し拝む者、すなわち、礼拝をささげる者ですが、御子は礼拝を受けられる方です。だからイエス・キリストは御使いよりもはるかにすぐれた方なのです。 

 そしてきょうのところではモーセと比較されています。なぜモーセなのでしょうか。モーセは偉大な預言者であり、ユダヤ人が最も尊敬していた人物だったからです。律法はこのモーセを通して与えられました。この偉大なモーセと比較して、イエスがどれほどすぐれた方であるのかを証明しているのです。 

 Ⅰ.イエスのことを考えなさい(1) 

 まず1節をご覧ください。

「そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」

 「そういうわけですから」とは、これまで語られてきたことを受けてということです。特に2章9節以降のところには、キリストはなぜ人となって来られたのかについて語られてきました。それはすべての人のためでした。神はすべての人を救うためにご自分の御子をこの世に遣わし、十字架におかけになって、罪の贖いを成し遂げてくださいました。すべての人はこの罪のために死ななければなりませんでした。一生涯死の恐怖につながれていたのです。そんな死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放するためにキリストは来られ、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼしてくださいました。そればかりでなく三日目によみがえられました。それゆえに、この方を信じる者はこの方が死からよみがえられたように、やがて死からよみがえるのです。もはや死は何の力もありません。それは栄光の御国への入り口になりました。こんなにすばらしい救いがあるでしょうか。私たちはこの神の御子イエス・キリストを救い主と信じたことによって、この救いを受ける者となったのです。ハレルヤ!「そういうわけですから」です。 

「そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」 

 人は何を考えるかによってその生活が決まります。ビジネスのことばかり考えている人は、いつもビジネスのことばかり口にします。どうしたら仕事がうまくいくか、どうしたらもっと利益をあげることができるかといったことを語り、そのための情報を集めるためにアンテナを高くあげて、あちらこちらに奔走するのです。だからあまり落ち着きがありません。恋愛に関心のある人はいつも恋愛のことばかり考えています。寝ても覚めても彼氏や彼女のことばかりです。健康に関心のある人は、健康のことばかり考えています。何を食べればダイエットに効果があるか、どうしたら腸の動きを活発にすることができるか、そういったことに敏感に反応するのです。ではクリスチャンは何を考えるのでしょうか?クリスチャンが考えるのはイエス・キリストのことです。なぜなら、クリスチャンは天の召しにあずかっている者だからです。これはどういうことかというと、天国に行くように召された者であるからということです。皆さん、クリスチャンは天国に行くように召された者なのです。だから天国のことを考えるのです。 

 これまではそんなこと考えたことがありませんでした。天国に行くのはずっと先のことだし、天国のことを考えるよりも、今をどう生きるかということを考えることの方がよっぽど大切だと思っていました。だからいつもこの地上のことばかり考えながら生きてきたのです。今をどう生きるかが最大の関心事だったのです。だから教会に誘われても、「そんなこと考えている暇なんてないよ。毎日忙しくて」と、目の前のことばかりに追われていたのです。どうしたら豊かになれるのか、どうしたら成功することができるのかということで一杯だったわけです。 

 しかし、イエスを信じた今は違います。確かにこの地上のことも大切です。でもイエスを信じてからは、それは一時的なものだということがわかりました。この地上では旅人であり、寄留者にすぎないことがわかったのです。それは永遠に続くものではありません。永遠に続くものは何でしょうか。いつまでも続くものは、信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。ですから、いつまでも神の愛とその御国です。私たちはやがてそこに帰るのです。だから私たちはこれを目標に、天の召しにあずかっている聖なる者、神の者として、神の栄光が現されるように生きるのです。 

 ですから、クリスチャンが求めなければならないことは、その信仰の中心であるイエスのことを深く心に留めることなのです。なぜあなたに喜びがないのでしょうか。自分のことにこだわっているからです。自分の思いに執着して、なかなかそれを手放すことができないでいるからです。あなたの目を神に向け、あなたのすべてを神にゆだねてください。そうすれば、自分自身から解放されて、キリストにある平安を持つことができます。それは聖書にこう書いてあるからです。 

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6~7) 

 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもって祈りと願いをもって、あなたがたの願い事を神に知っていただけばいいのです。自分を見るのではなくイエスを見なければなりません。イエスのことを考えるなら、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたの心と思いをキリスト・イエスにあって守っていただけるのです。なぜなら、イエスはあなたの告白する信仰の使徒であり、大祭司であられる方だからです。どういうことでしょうか? 

 「使徒」とは「遣わされた者」という意味です。イエスは父なる神によって遣わされた者でした。何のために遣わされたのかというと、父なる神のみこころを伝え、そのみわざを行い、私たちを罪から救うためです。「大祭司」とは逆に、人々の代表として神にとりなしをする人のことです。仲介者ですね。イエスは私たちの罪の身代わりとして十字架にかかって死なれ、墓に葬られ、最も深い所である「よみ」という所へ下られました。しかし三日目によみがえられて、神の御住まいである天に昇られて、神の右の座に着座されました。私たちの罪の贖いは完全に成し遂げられました。だから私たちはこの方に全く信頼し、すべてをゆだねることができるのです。私たちが見つめなければならないのはこのイエスです。イエスのことを考えなければならないのです。 

あなたは何を考えているでしょうか。仕事のことや学校のこと、家庭のこと、将来のこと、健康のことで頭が一杯になってはいないでしょうか。どうぞ、イエスのことを考えてください。 

Ⅱ.すべてのものを造られた神(2-4) 

 次に2節から4節までをご覧ください。ここには、そのイエスはどのような方なのかが語られています。

「モーセが神の家全体のために忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実なのです。家よりも、家を建てる者が大きな栄誉を持つのと同様に、イエスはモーセよりも大きな栄光を受けるのにふさわしいとされました。家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です。」

 

 ここでこの手紙の著者は、イエスがどれほど偉大な方であるかを証明するためにモーセと比較しています。なぜモーセなのでしょうか。それは先ほども述べたように、ユダヤ人にとってモーセほど偉大な人物はいなかったからです。祈祷会では民数記を学んできましたが、今週でその学びが終わります。それは神がモーセを立て、神の民であるイスラエルを約束の地まで導き入れるようにされた歴史です。彼の働きによって、旧約聖書の最初の五つの書が書き記されました。だから旧約聖書の最初の五つの書を「モーセ五書」と言うのです。彼はイスラエルのすべての土台を据えた人でした。したがって、モーセは旧約の預言者の中でも最も偉大な預言者であり、この地上には、彼ほど偉大な預言者はいませんでした。 

 そしてこのモーセの特徴は何かというと、神の家であるイスラエル全体のために忠実に仕えたということです。彼がすぐれていたのは何か目ざましいことを行なったからではなく、いつでも、どこでも忠実に、神が命じられたとおりのことを行ったということなのです。皆さん、忠実であるとはどういうことでしょうか。忠実であるとは、主が命じられたことを、そのとおりに行うことです。モーセはそのような人でした。 

 それに対してイエスはどうだったでしょうか。イエスも同様に、ご自分を立てた方に対して忠実でした。モーセ同様に、イエスも父なる神に対して忠実だったのです。イエスは、いつでも、どこでも、父なる神がお語りになった通りのことを語り、そのとおりに行われました。父から離れて勝手に行動したことは一度もありませんでした。ヨハネ6章38節にはこうあります。 

「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。」

イエスが来たのは自分の思いを行うためではなく、自分を遣わした方、すなわち、天の父なる神のみこころを行うためでした。そして、イエスはそれを完全に行われました。ですからモーセが神の家全体のために忠実であったように、イエスもご自分を立てた父なる神に対して忠実だったのです。 

では、イエスとモーセは同じレベルの人物であったということなのでしょうか。違います。イエスもモーセも神に対して忠実であったという点では同じですが、根本的に違う点があります。それが3節と4節に書かれてあります。

「家よりも、家を建てる者が大きな栄誉を持つのと同様に、イエスはモーセよりも大きな栄光を受けるのにふさわしいとされました。家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です。」 

 どういうことでしょうか。皆さん、家とその家を建てる者ではどちらが偉いのでしょうか。何億円もするような豪華な家を見ると、「すごい家だなぁ」と感動しますが、実はすごいのは、その家そのものよりもその家を建てた人なのです。 

 この夏アメリカに行ったとき、カリフォルニア州サンシメオンという街にあるハースト・キャッスルと呼ばれる豪邸を見に行きまた。これは1900年代前半に新聞産業で財を成したウィリアム・ランドルフ・ハーストという人が作った自分の家で、現在はカリフォルニア州の州立公園として管理されていますが、8,400㎡という広大な敷地に6,000㎡のお城と、3つのゲストハウス、それに屋外プール、屋内プール、遊技場、エアポートまでついているという豪華な家です。きょうはこの後でさくらチャペルの起工式がありますが、その土地は124㎡ですので、67倍もある大きな敷地です。それは敷地だけの面積で、実際に彼が所有していた土地はものすごい広さで、おそらく栃木県全部の面積に匹敵するほどの広さです。もっとすごいのは、その豪華絢爛な建物です。ダイニングルームやプライベートシアター、巨大なライブラリーやハースト夫妻の寝室など、建物の細かい彫刻や壁画、絵画、デコレーションなど120の部屋があり、そのすべてが贅沢でため息が出るほどです。それは山の上に建てられていて、そこから海が一望できるすばらしいロケーションになっています。しかし、それがどれほど豪華なお城であっても、もっとすごいのはその家を建てた人なのです。 

 ある中学生が友達を誘って教会に来ました。「何で来たの」と尋ねると、友達と偶像の話になり、「何で木や石で造ったものを拝むのか」という話になったそうです。「木や石で作ったというのは、作った人の方が偉いということじゃないの?それなのに、どうして作った人が作られた物を拝むのか、おかしいじゃないか」という話になり、「ホントだ。おかしい。」「何かおもしろい」「何だか感動した」「ぼくも教会に行ってみたい」と言って、教会に来たというのです。 

 皆さん、よく考えてみてください。どっちが偉いんですか。造った人ですか、造られた物ですか。もちろん、造った人です。モーセは神の民であるイスラエル全体のために忠実に仕え、彼らを約束の地へと導きましたが、その神の家であるイスラエルを造られたのはだれでしょうか。イエスさまです。イエスは創造主であられるのに対して、モーセは被造物の一つにすぎません。すべてを造られたのは神です。この神の方がはるかに偉大なのであって、その神こそ万物の創造者であられるイエス・キリストなのです。ですから、イエスはモーセとは比較にならないほど偉大な方なのです。 

 Ⅲ.神の御子イエス・キリスト(5-6) 

 なぜイエスはモーセよりも偉大な方であると言えるのでしょうか。もう一つの理由は、モーセは神のしもべであったのに対して、イエスは神の御子であられるからです。5,6節をご覧ください。

「モーセは、しもべとして神の家全体のために忠実でした。それは、後に語られる事をあかしするためでした。しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。」 

 ここではモーセとイエスのどちらが偉いのかということを、立場の違いをもって説明しています。すなわちモーセはしもべと呼ばれているのに対して、イエスは御子と呼ばれているということです。モーセは神のしもべとして神の家のために忠実に仕えましたが、イエスは神の御子として神の家を忠実に治めておられる方なのです。立場が全然違います。しもべは主人に仕える者ですが、御子はその家の所有者、オーナーなのです。イエスは神の御子として、神の家を治められる方なのです。モーセは後に語られる事をあかしするために立てられました。それは天にある神の幕屋のことですが、その天の幕屋を治めておられるのがイエスなのです。イエスこそモーセが指し示していた神の幕屋の実態であり、目的であられる方だったのです。それゆえ、イエスがどれほど偉大な方であるかがわかると思います。 

 ですから、結論は何かというと、6節後半のみことばです。ご一緒に読みましょう。「もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。」 どういうことですか?イエスはこのような方なので、最後までこの方に確信と希望を持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。すなわち、そこに神のいのち、救いがあるということです。 

 パピニというイタリアの詩人が、こんな言葉を書いています。「人間の生活に絶対必要なものが三つある。食物と健康と、それに希望である。」確かに、その通りだと思います。でも、今の世の中で、いったいどこに希望を見つけることができるのでしょうか。どこにも見つけることができません。しかし、イエス・キリストを信じる人には、すばらしい希望が与えられるのです。イエスはこう言われました。「わたしは、よみかえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)死んでも生きるいのちがある。これこそ真の希望ではないでしょうか。この希望はキリストを信じる者に与えられるのです。 

 先週はウイリアム・ウッド先生が来会してメッセージを語ってくださいましたが、そのウッド先生が書かれた著書「あなたを元気にする100のミニ・メッセージ」がカウンターにあります。その本の中にベレッタ・クラムリーというアメリカ人女性の体験談が紹介されています。彼女は旧約聖書のヨブを思わせる壮絶な試練を経験しました。長男のダニエルは、二歳の時に、白血病で亡くなりました。初めは、「どうしてですか」と神に抗議の祈りをしましたが、その大きな苦しみの中で、人間にとって最も大切なことは、「わたしはよみがえりであり、命です。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と言われたお方を知ることだと、確信させられました。                                                                            そしてその二年後に、今度は夫のヘンリーが癌だと分かりました。その時には二男のリヨンに続いて、長女のローリーが生まれていました。夫のヘンリーは海外宣教に使命を感じていたので、彼は、残りの日々を、海外宣教のために使おうと、決意しました。病気を押して夫婦は南米、ギリシャ、インド、日本、韓国、台湾へと宣教の旅に出ました。帰国して一週間後、夫のヘンリーは天に召されました。葬儀の午後のことを、ベレッタさんは、こう語っています。「突然、私の心に夫の幻が現れ、彼のよみがえった体は勝利を得て、もう二度と苦しまず、早く主のもとに急いで昇って行きたいように見えました。両腕を伸ばしたイエス様がヘンリーに呼び掛けて「良い忠実なしもべだ。よくやった」と言ってくださると確信しました。                                        三度目の試練は、突然でした。17歳になった二男リヨンと妹のローリーが乗っていた車が事故に遭ったのです。二人の死を告げる警察官の言葉にベレッタさんは、「突然高い崖から荒れている海に突き落とされたかのような気がしました」と言いました。しかし次の瞬間、聖霊に強く包まれ、優しく、平安な、天の父なる神の温かい臨在を感じたと言います。そして警察官に向かって、落ち着いた声でこう言いました。「うちの子供は天国の神様のところに行きましたのね。」ベレッタさんはその後、宣教師として台湾で奉仕し、多くの人々をキリストに導いておられるそうです。夫と長男を病気で失い、二男と長女を交通事故で失うという失意の中でも、彼女は死んでも生きるいのち、永遠のいのちの約束をしっかりと握りしめ、その希望を持って歩み続けておられるのです。

 皆さん、私たちの人生には実に多くのことが起こります。しかし、それがどのようなものであっても、キリストにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。なぜなら、キリストは神の御子であられ、すべてのものを創造された方であり、またそれを支配しておられる方だからです。また、キリストは死んで、よみがえられました。あなたのために救いのみわざを完全に成し遂げてくださいました。ですから、あなたが最後まで確信と希望を持ち続けるなら、あなたは神の家になるのです。 

「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。・・しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべての中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さ、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ8章35~38節) 

 このイエスに終わりまでしっかりととどまりましょう。いつもイエスのことを考えましょう。イエスがあなたの希望です。イエスはモーセよりもはるかにすぐれたお方なのです。