イザヤ44:21-28 レジュメ

「成し遂げられる神の計画」                                 N068

Ⅰ.わたしはあなたを忘れない(21-22) 

主はイスラエルに、「あなたはわたしに忘れられることはない」(21b)と言われた。これは驚くべき恵みである。というのは、イスラエルは主によって贖われた者であるにもかかわらず偶像を造り、それらを拝んでいた者たちだからである。そんな彼らに対して主は、「あなたは忘れられることはない」と言われた。たとえ彼らが神を裏切っても、神は彼らを裏切ることはない。たとえ彼らが神を忘れても、神は彼らを忘れない。「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」(22)贖うとは「代価を払って買い取る」という意味である。神が彼らを代価を払って買い取ってくださったので、どんなことがあっても彼らが忘れられることはない。同じように神は私たちをイエス・キリストの十字架の血によって贖ってくださった。イエスは十字架の上で「テテレスタイ」と叫ばれた。意味は「完了した」「完済した」である。あなたの罪の代価は支払われた。神があなたを贖ってくださった。だから、どんなことがあってもあなたが忘れられることはない。あなたに必要なことは、神に帰ることである。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべの悪から私たちをきよめてくださいます。」(Iヨハネ1:9)

Ⅱ.喜び歌え(23)

ここで主は、天に、地のどん底に、山々に、林とすべての木に、喜び叫ぶようにと命じておられる。なぜ?なぜなら、主がこれを成し遂げられたからである。「これ」とは救いの御業のこと。その救いの御業はイスラエルという民族を越え、すべての自然界にも影響を及ぼすほど偉大な御業なのである。あなたは自分が救われたということをどのように受け止めているか?それは驚くべき御業なのである。そのすばらしい救いの御業に対して、天や山々の木々の賛美に合わせ、心からの賛美をささげる者でありたい。

Ⅲ.成し遂げられる神の計画(24-28)

主は、「わたしは、わたしのしもべのことばを成就させ、わたしの使者たちの計画を成し遂げさせる。」(26)と言われた。そのことばとは何だろうか。また、その計画とはどんなものであろうか?それは「エルサレムに向かっては「人が住むようになる」と言い、ユダの町々に対しては「町々は再建され、その廃墟はわたしが復興させる」と言う。」ことだ。これはバビロンによって滅ぼされ廃墟となったエルサレムが再び再建され、人々がもう一度暮らせるようになるということである。果たせるかな、それが実現した。B.C.539年にペルシャの王クロスがバビロンを滅ぼすと、このクロスを通してユダヤ人はエルサレムへの帰還を果たした。それだけではない。「エルサレムに向かっては、「再建される。神殿は、その基が据えられる。」(28)とあるように、かつてバビロンによって破壊されたエルサレムの神殿が再建された。いったいどうやってこのようなことが実現できたのか。神がクロス王を立て、彼を用いることによってである。神はご自分の計画を成し遂げるためにクロス王を用いられた。そんなことを考えられる人は誰もいなかったであろう。しかし、神はこのことが起こる150年も前に、このことを預言者イザヤを通して語られた。そのことばの通りに、神は後にバビロンを滅ぼし、エルサレムの神殿を再建させた。神はご自分が語られたことを必ず成し遂げられる。私たちはこの神のみことばの約束に堅く立ち、それを待ち望まなければならない。テレビやインターネット、あるいは他の人たちの言葉に振り回されるのではなく、みことばを待ち望んで祈りに専念しなければならない。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたは神に忘れられることがない、ということを覚えていますか?あなたは神に帰っていますか?

・あなたは神の約束が実現しないと嘆いていませんか?神があなたに約束してくださったことは何ですか?その約束待ち望んで祈りましょう。

イザヤ44:9-20 レジュメ

「偶像はむなしい」                       N067

Ⅰ.なぜ偶像を造るのか(9-11) 

44章前半のところでイザヤは、まことの神とはどのような方なのかについて語った。この方以外に神はない。なのに、人は偶像を造り、それを拝む。いったい、人はなぜ何の役にも立たない偶像を造るのだろうか?「偶像」とは「切り刻んだもの」である。人は自分がイメージしたものを具現化する。その方がイメージしやすいからである。コロサイ3:5には、「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」とある。つまり偶像とは人間の欲望を具現化したものなのだ。ゆえに偶像礼拝に陥る危険性はクリスチャンにもある。出エジプト20:3には、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」とあるが、まことの神以外のものを神にしてしまうことがある。神よりも仕事を優先したり、家のこと、車のこと、健康のこと、勉強のこと、趣味のことを優先にするなら、それは偶像礼拝である。かつてマルチン・ルターは「人は常に神か、さもなくば偶像を持つ」と言った。人は常に神か、偶像を持つ者なのである。自分の欲望を具現化したものが偶像であるなら、我々はいつもこの偶像を造ってしまう危険性があることを覚えておかなければならない。

Ⅱ.偶像を拝むとどのようになるか(12-17)

人は偶像を拝むとどうなってしまうのだろうか?ここには彼らが神として拝んでいる偶像がどのようなものであり、それを拝むとどうなるかが記されてある。つまり、いくら彼らが「私を救ってください。あなたは私の神だから。」(17)と叫んでも、救ってくれなければ、助けてもくれない。ただむなしさだけが残る。それだけではない。詩篇115:8には、「これを造る者もみな、これと同じである。」とある。つまり、偶像を拝み、偶像に仕えると、偶像のようになってしまう。逆に、まことの神を拝み、まことの神に仕えるなら、神と同じようになる。栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。偶像礼拝の恐ろしさはここにある。あなたが何を拝むのかによって、あなたもそのようになる。ゆえにまことの神を信じ、神に仕えること、神を礼拝し、神と交わることはとても重要である。日曜日の礼拝はすばらしい恵みであり、祝福なのである。もちろん、日曜礼拝だけではない。日常的に神を礼拝すること、神と交わることが重要である。そのことによって私たちも神のように変えられるのだから。

Ⅲ.どうしたら偶像から解放されるか(18-20)

最後に、どうしたら偶像から解放されるかを見て終わりたい。18節には「彼らは知りもせず、悟りもしない。彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって悟ることもできない。」とある。彼らは、偶像に魅了されて、それが偶像だということを悟れないほど霊的に麻痺している。いったいどうしたら偶像から解放されることができるのか?神のみことばに照らし合わせて考えなければならない。自分の考えや自分の判断ではなく、日々神と交わり、神の力を受けなければならない。

Iサムエル5:1-5のところに、神の箱がペリシテに奪われ、ペリシテの神ダゴンの神殿に安置されたことが記されてある。その翌日、彼らが朝早くおきて見ると、何とダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。つまり、主の臨在があると偶像は自然に倒れるということである。それは自分の力では追い出すことはできないが、自分のダゴン神殿の中に神の臨在を運び入れるなら出て行く。もしあなたが神以外のものを神よりも優先すればあなたのダゴンはスッと立ち上がり、あなたの前に立ちはだかるが、日々神と交わり、神の臨在に満たされていれば、ダゴンは倒れる。神の救いに与った者としてむなしい偶像から生けるまことの神に立ち返らなければならない。そのために必要なことは、あなたが神を信じ、この神との交わりに生きること、神の臨在に満たされることなのである。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたは神以外のものを神よりも優先していることはないですか?あなたの偶像は何ですか?

・あなたは神のようになるために、神とどのように交わっていますか?

イザヤ44:1-8 レジュメ 

「わたしのほかに神はない」                N066

Ⅰ.あなたを形造り、あなたを助ける主(1-5) 

主はイスラエルに「恐れるな」(2)と言われた。なぜなら、主は彼らが母の胎内にいる時から彼らを選び、支えておられた方だからだ。そして神は彼らに、「わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。」(3)と言われた。これは神の御霊、聖霊のことである。神は終わりの日に、彼らに聖霊を注ぐと約束された。聖霊が注がれると力を受ける。ちょうど水が人のからだに命と潤いを与えるように、神の霊は私たちに霊的ないのちと力を与えてくれる。そして、彼らが聖霊に満たされると、「私は主のものです」と言うようになる。人が変わることは山を動かすよりも難しいと言われるが、神の霊が注がれるとき、そのように変えられる。それはまさに御霊なる主の働きなのである。

Ⅱ.わたしのほかに神はない(6)

ここで主なる神は、ご自分がどのような方であるかを示された。「イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう仰せられる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。」(6)エホバの証人は、これはエホバなる神のことだと信じているが、これはエホバも含めた三位一体の神ことである。というのは、ここでエホバなる神について使われていることが、イエスに対しても使われているからだ。たとえば、イエスがイスラエルの王であることについてはヨハネ1:49に、また、贖う方であることについてはマタイ20:28で、そして万軍の主であることについてはヨハネ12:41(イザヤ6:3)に、また、初めであり、終わりであることについては黙示録1:17-18に出てくる。しかも、「わたしのほかに神はない」の「神」は複数形で、三つ以上のものを指す「エロヒーム」という言葉が使われている。三位一体という言葉は聖書に出てこないが、その概念はいたるところに見られる。エホバなる神は同時にイエスご自身のことを指しているのであって、この三位一体の神こそまことの神であり、ほかに神はいないのである。

Ⅲ.未来のことを告げられる神(7-8)

ここで主は偶像に、ご自身のほかに神がいるというならその証拠を見せてみよ、とチャレンジしている。神は神としての証拠を見せることによってのみ、その正当性が認められる。その証拠として主が求められたのは、未来のこと、来るべきことを告げてみよ、ということであった。未来のことを告げることができる神こそ本当の神である。聖書が他に類のないユニークな書物であることのゆえんは、ここにある。聖書はこれから後に起ころうとすることを、あらかじめ具体的に告げている。それはこの聖書の神こそ本当の神だからである。この方以外に神はいない。かつてペテロをはじめとする初代教会のクリスチャンたちは、「この方以外には、だれによっても救いはありません。」(使徒4:12)と宣言した。私たちに求められているのはかつてのキリストの弟子たちのように、このように宣言して神の証人になることである。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたは何かで恐れていませんか。神はあなたが母の胎内にいる時から形造られ、守り、支えておられたということは、あなたにどんな確信を与えてくれますか。

・あなたの心は荒地のように渇いていませんか。神はあなたの心を聖霊で満たしてくださいます。あなたも神の霊、聖霊を求めてください。

・あなたは、聖書の神だけがまことの神であるという確信がありましたか。神以外のものに頼ろうとする思いはありませんか。

イザヤ43:14-28 レジュメ

「わたしは新しい事をする」                   N065

Ⅰ.救ってくださる神(14-17) 

主はイスラエルに、「あなたがたのために、わたしはバビロンに使いを送り、彼らの横木を突き落とし、カルデヤ人を喜び歌っている船から突き落とす。」(14)と言われた。これはイスラエルのためにバビロンを滅ぼし、彼らを解放してくださるという宣言である。かつてイスラエルをエジプトから救い出したように、バビロンからも救ってくださる。それはいつの時代も同じである。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(ヘブル13:5)主は今も罪に苦しんでいる人々を救ってくださる。罪の赦しは、いつもあなたに備えられているのである。

Ⅱ.新しい事をされる神(18-21)

ここで主はおもしろいことを言われた。「先の事どもを思い出すな。昔のことどもを考えるな。」先の事とか、昔の事とは、出エジプトに代表されるイスラエルの過去の歴史における神のさまざまな御業のことである。いったいなぜ主はこのように言われたのだろうか?それは、主は新しい事をされるからである。それはこれまで彼らが経験したこととは比べものにならないくらいスケールの大きなもっと偉大なことである。それはイスラエルをバビロンから解放するということであるが、同時に、やがて救い主をこの世に遣わして全人類を罪から救ってくださることである。最初の人アダムによってもたらされた罪ののろいを断ち切るために、神はそのひとり子をこの世に遣わしてくださった。そして、十字架につけてくださることによって、罪を処罰してくださった。イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださることによって、罪の赦しをもたらしてくださった。イスラエルがバビロンから救われたという出来事は、全人類がこの罪から救われるための型だったのである。私たちはイエス・キリストによって罪から救われる。これは新しいことである。かつてイスラエルがバビロンから解放され祖国エルサレムに帰還するとき、道のない荒野に道を造り、水のない荒地に川を設けて彼らを安全に帰還させたように、救い主イエス・キリストを信じる者の心に、主は道を造られる。川を設けてくださるのである。

Ⅲ.罪を赦し、思い出さない神(22-28)

そればかりではない。主はイスラエルの罪を赦し、もう二度と思い出さない、と言われる。「あなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」(25)神はただ罪を赦すのではない。もう思い出さないと言われる。これが人間の赦しと違う点である。人間の赦しは確かに赦すが、忘れることまで含まれていない。時間が経つとまた過去のことが思い出され、いつの間にか苦々しい思いが蒸し返してくる。しかし、神が赦しは、もうすべてを忘れてくださる。「ごめんなさい。赦してください。」言うとき、神はご自分の記憶から完全に消し去ってくださる。それはここに「わたし自身のために」とあるように、神自身のためである。それは私たちが何か良いことをしたからではない。ただ神が一方的にあわれんでくださり、私たちの罪を赦し完全に忘れてくださる。神が彼らを選んでくださったからだ。神が彼らを選び、彼らの神となってくださったので、どんなことがあっても彼らを見捨てるようなことはなさらない。たとえ彼らがうなじのこわい頑固者であっても・・・。これが私たちの神である。神はイエスによって私たちの罪を赦してくださった。もう二度と思い出すことはしない。そして、最後まで守ってくださる。こんなに大きな愛が他にあるだろうか。私たちはこの神の愛によって救われた。だから私たちは自分勝手に生きることを止め神の栄光のために生きよう。「わたしのために造ったこの民は、わたしの栄誉を宣べ伝えよう。」(21)これが救われた者にとってふさわしい応答なのである。

(自分に適用してみましょう!)

・神が新しい事をなさるお方だということは、あなたにどのような希望をもたらしてくれますか?

・これほどまでの神の愛に対して、あなたはどのように応答していますか?あなたはどのように神の栄誉を宣べ伝えていますか。

イザヤ43:1-13 レジュメ

「たとえ火の中、水の中」                    N064

Ⅰ.たとえ火の中、水の中(1-4) 

神に背き、その教えに聞き従わなかったイスラエルに対して、主は「恐れるな」と言われた。主が彼らを贖ったからである。贖うとは代価を払って買い取るということ。主は罪深い彼らを、代価を払って買い取ってくださった。その代価とはエジプトであり、クシュ(エチオピヤ)であり、セバである。主はイスラエルをバビロンから解放するために代わりにこれらの国々を身代金とされた。これは究極的には私たちの罪の贖いとなってくださった神の御子イエス・キリストのことを指している。神がイスラエルを救うためにエジプトやクシュを身代金としたように、全人類を罪から救うために、尊い御子イエス・キリストを身代金としてくださったのである。そのことによって私たちを罪から解放してくださった。神は、それほどに私たちを愛してくださった(ヨハネ3:16)。4節には、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」とある。「あなた」とはイスラエルのこと。神に背を向け、自分勝手な道を歩んでいた者である。神に愛される資格など全くない彼らに対して、主は「わたしの目には、あなたは高価で尊い」と言われた。重要なのは、神の目にとってあなたがどのような存在であるかということだ。これこそ絶対的な基準である。あなたが自分のことをどう思うかとか、他の人があなたをどう思うかといったことは関係ない。神があなたをどのように見ておられるかである。そして、神はあなたを高価で尊い者として見ておられる。私たちは本来、神に愛される資格など何もない。生まれながら地獄に行かなければならないような者であるにすぎないのに、主はそのような者を「愛している」と言われるのだ。神は愛すると決めてくださったので、どんなことがあってもとことん愛してくださる。たとえこの地球上にあなた1人しかいなくても、主はあなたのために来てくださって、十字架でその尊いいのちを投げ打ってくださる。そして、そのようにあなたを愛しておられる主は、あなたがどのようなところに置かれても、必ず守ってくださる。「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」(2)それゆえ、あなたは全く恐れる必要はないのである。

Ⅱ.神の栄光のために(5-7)

ここで再び主はイスラエルに「恐れるな」と語られた。彼らが恐れていたことは何だったのか?バビロンに捕らえられている中で自分たちが将来どのようになってしまうのかという恐れである。しかし恐れることはない。主が彼らとともにおられるからだ。主は彼らを東から来させ、西から集める。北に向かって「引き渡せ」と言い、南に向かって、「引き止めるな」と言う。主は彼らを地の果てから集めると約束された。アッシリヤやバビロンによって離散した民を再び集めてくださる。これは世の終わりの預言でもある。イエスは世の終わりに全世界に離散しているユダヤ人を、天の果てから果てまで、四方から集める(マタイ24:31)と言われた。果たせるかな、A.D.70年にローマ帝国によって全世界に散らされたユダヤ人がイスラエルに帰還し、1948年5月14日にはイスラエル共和国が建国された。人間的には考えられないことだが実現した。いったいなぜこのようなことが起こるのか?それは聖書に預言されていたからだ。その預言のとおりに、世界中に離散していたユダヤ人が集められたのである。だから将来のことは何も恐れることはない。

いったいなぜ主はこのようなことを行われるのだろうか?ここに「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」(7)とある。それは神の栄光のためである。イスラエルがいかに優れた民族であるのかを示すためではなく、神がいかに偉大な方であるかを示すためである。それは私たちも同じ。私たちがこの世に存在しているのは、私たちを愛し、私たちのためにいのちを捨ててくださったキリストの栄光を現すためである。そのとき私たちは自分の存在の目的を果たすことができ、それまで味わったことのないような充足感を得るのである。

Ⅲ.わたしの証人(8-13)

ここで主はイスラエルは「わたしの証人」と言われた(10)。なぜなら、彼らは神に選ばれたしもべだからである。神の証人は自分でなりたくてなれるものではない。選ばれた者だけがなることができる。彼らはそのために選ばれた。同じように、私たちも主イエスを証するために選ばれた。イエスは、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15:16)と言われた。この方こそ主であって、ほかに救い主はいない。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名としては、人に与えられていないからである。その主の御名を宣べ伝える証人としてあなたは選ばれたのだ。だから、決して口をつぐんではならない。この方があなたをどれほど愛しておられるか、また、そのためにどんなに大きなことをしてくださったのか、そして、この方を信じて歩む者を主がどのように守り、支えてくださるのかを、証ししていかなければならないのである。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたは神があなたをどれほど愛しておられるかを考えたことがありますか?あなたに対する神の愛をどのように理解していますか?

・あなたは将来に対する不安はありませんか?神はあなたとともにいるという約束は、あなたにどのような平安と力を与えてくれますか?

・あなたの生きる目的は何ですか?あなたはどのようにキリストの証人になりたいと考えていますか?

イザヤ42:10-25 レジュメ

「主に向かって新しい歌を歌え」             N063

Ⅰ.すべての者は主を賛美せよ(10-12) 

10節に、「主に向かって新しい歌を歌え」とある。主がすばらしい救いの御業を成されたので、その主に向かって賛美をささげるようにというのだ。それは「海に下る者、そこを渡るすべての者、島々とそこに住む者」(10b)のすべてである。おもしろいのは11節に、「荒野とその町々、ケダル人の住む村々よ。声を上げよ。セラに住む者は喜び歌え。」とあることだ。ケダル人とはアラブ人のことである。創世記25:1を見ると、彼らはイシュマエルの子孫であることがわかる。そしてその子孫がケダル人であり、イスラム教を開いたムハンマドである。詩篇120:5-7を見ると、彼らはダビデの時代にもユダヤ人と敵対関係にあった。ユダヤ人とアラブ人の対立は今に始まったことではなく、その歴史のはじめからずっと続いていたことであるが、未来においてはそうではない。未来においてはケダル人も一緒になって主を賛美するようになる。コーランの神アラーではなく、聖書の神主イエスを信じるようになり、共に主を賛美するようになる。ここにキリストの福音のすばらしさがある。福音は敵対関係にあった二つのものを新しいひとりの人に造り上げ、共に主をほめたたえるようにするのである。

Ⅱ.敵を打ち砕かれた主を賛美せよ(13-17)

いったいなぜ主を賛美するのか。それは主が敵を打ち破られたからである。「主は勇士のようにいで立ち、戦士のように激しく奮い立ち、ときの声をあげて叫び、敵に向かって威力を現す。」(13)確かに主は心優しく、へりくだっておられる方であるが、敵に対しては勇士のようにいで立ち、激しく奮い立ち、ときの声をあげて、威力を現す。そればかりではない。主は目の見えないようなイスラエルを捨てるようなことをされず、確かに道へと導いてくださる。それはイスラエル知らない、未だ経験したことのない道かもしれないが、主は母親が幼い我が子の手をとって導くように、私たちの手を取って優しく導いてくださる。であれば、このような主をどうして賛美せずにいられようか。人が造った偶像により頼むことは愚かなことだ。そのような者は必ず恥を見る。あなたのために戦ってくださる主、あなたの人生を確かな義の道に導いて下さる主を、あなたは賛美せずにはいられなくなる。

Ⅲ.罪から立ち返って主を賛美せよ(18-25)

ではどのように主を賛美したらいいのだろうか。主はイスラエルが神に心を留めず、神の御声を聞いても聞き従おうとしないイスラエルの民を見て、驚いておられる。「耳の聞こえない者たちよ、聞け。目の見えない者たちよ、目をこらして見よ。わたしのしもべほどの盲目の者が、だれかほかにいようか。わたしの送る使者のような耳の聞こえない者が、ほかにいようか。わたしに買い取られた者のような盲目の者、主のしもべのような盲目の者が、だれかほかにいようか。」(18-19)彼らは神に買い取られた神のしもべでありながら、神に心を留めることがなかった。それゆえ神はかすめ奪う者(バビロン)に彼らを渡した。その中で彼らが悔い改めて、神に立ち返り、神に赦しを求めるためにである。イスラエルがバビロンに捕らえられるようになったのは、神がそのようにしたからである。時に、私たちが受ける苦しみというのは、私たちの罪の結果もたらされるものである。だからその時には罪を悔い改め、神に立ち返らなければならない。神がさばかれたことを認め、その神に立ち返るなら、そこに希望がある。あなたを愛してやまない主が、あなたに「立ち返れ」と叫んでいるのにそこまでする必要はないと、なおもその状態に留まっていることはないだろうか。神の招きに耳を傾け、心を傾けて、神に立ち返り、主に向かって新しい歌を、その栄誉を心からほめたたえようではないか。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたは主に向かって新しい歌を歌っていますか?いくら祈っても神は沈黙されていると感じたことはありますか?そんな時でも失望せずに待つべき理由は何ですか?

・神があなたを見て残念に思われ、嘆かれるような部分があるとすればそれは何ですか?

・神の警告のメッセージを聞かずに失敗したことがありますか?間違いを顧みる時間を定期的に持っていますか。

イザヤ42:1-9 レジュメ  

「主のしもべ、イエス・キリスト」            N062

Ⅰ.神のしもべ、イエス・キリスト(1) 

1節に、「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。」とある。「わたしのしもべ」とはイエス・キリストのことである。マタイ12:18-21に、このみことばが引用されていることからわかる。イエスは神が選ばれし神のしもべであり、神のみこころにかなった救い主である。神はイエスの上にご自身の霊を注ぎ、国々に公義(神の国とその義)をもたらす。イエスが神の子であるなら、どうして神の霊に満たされる必要があったのか?それは、イエスが人となられたからである。神が人となるためには、神としての特権を捨てなければならなかった。そうでなければ、人になることはできなかったのである。もしイエスが全知全能であったなら、もはや人間ではなかったであろう。しかし、イエスは人として生まれてくださったので、私たちと同じ弱さや同じ苦しみを担われた。イエスは私たちと同じように疲れ、空腹を感じ、のどの渇きを覚えられた。それは彼が人となられたからである。しかし、イエスには神の霊が注がれていたので、神にしかできないことができた。この霊によってイエスは、神の国とその義を国々にもたらすことができたのである。

それは私たちも同じである。今日イエスを信じるクリスチャンにも同じ力が与えられる。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)この聖霊があなたの上に臨まれるとき、あなたも力を受けて、地の果てまで、キリストの証人になることができる。この力がなければただの人にすぎない。何もすることはできない。聖霊が注がれてこそ、あなたも偉大な神の働きをすることができるのである。

Ⅱ.心優しく、へりくだった神のしもべ(2-4)

いったい彼はどのようなしもべか?ここに「彼は叫ばず、声を上げず、ちまたにその声を聞かせない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない。」(2-3)とある。イエスの宣教活動は全く地味なものであった。自分自身をひけらかしたり、人々を集めて大きな伝道集会をしたわけでもない。彼はただ12人の名もない弟子たちを選び、彼らと共に生活をしながら神の国を宣べ伝えた。そこには力ある人や、裕福な人はいなかった。みな無学な普通の人であった。そのような人たちを通して御国の福音を宣べ伝えたのだ。

彼はいたんだ葦を折ることも、くすぶる燈心を消すこともなかった。葦とは風が吹けばすぐに折れてしまうような弱い植物である。まして傷ついていたんだ葦なら全く使いものにもならない。しかし、主はそんないたんだ葦さえも折ることをせず、優しく守り、支えてくれる。また、今にも消えそうで煙を出しているようなランプの芯さえも除き去ることをせず、もう一度新しくしてくださる。まことに主は、まことをもって公義をもたらされるのである。

Ⅲ.国々の光とする(5-9)

神のしもべに与えられた使命は、国々の民が主と契約を結び、彼らが救われるために光となることである。彼は目が見えない者の目を開き、牢獄に閉じこめられている者を解放する。彼は肉体的、政治的に捕らわれている人たちを解放するだけでなく霊的に捕らわれている人たちを、その罪と無知の牢獄から解放してくださる。

この預言のとおり、この預言から700年後に、神のしもべイエス・キリストが現れ、罪と無知の中に盲目となっていた人々を、その罪から救ってくださった。キリストは十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられることによって、罪というやみの中に捕らわれていた人たちを解放してくださったのである。この方以外にはだれによっても救いはない。私たちが救われるべき名としては、私たち人間には与えられていない。だから、この方に信頼し、この方にあなたのすべてをゆだねよう。たとえあなたが将来のことがわからなくても、この方はあなたの未来のことも含めてすべてのことを知っておられる。この方にすべてをゆだねることが最も懸命なことである。そのとき、神はあなたの人生にも奇しいみ業を行ってくださる。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたは、自分の無力さを感じることはありませんか?あなたは聖霊の油注ぎを求めていますか?

・2,3節に見られる主のしもべの姿を見て、あなたはどのような人になりたいと思いましたか?

・あなたは将来のことで不安になっていませんか?将来のこともすべて知っておられる主に、あなたのすべてをゆだねましょう。

イザヤ41:14-20 レジュメ 

「恐れるな。虫けらのヤコブ」               N061

Ⅰ.恐れるな。虫けらのヤコブ(14) 

主はイスラエルを「虫けらのヤコブ」と呼んだ。ヤコブとは「かかとをつかむ者」、「押しのける者」という意味である。イスラエルはまさに人を押しのけるようなずる賢く、何の価値もない、踏みつけられて終わるような存在であった。そんな虫けらのヤコブに対して主は「恐れるな」と言われた。周辺諸国に比べたら本当に少数で、弱々しい存在であっても、恐れることはない。なぜなら、主が彼らを助けてくださるからだ。「あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者」である。主が彼らを贖ってくださったので、主が彼らを助け、守ってくださるからである。

Ⅱ.新しいもろ刃の打穀機とする(15-16)

そんな虫けらのヤコブを、主は鋭いもろ刃の打穀機とすると言われた。その刃ですべての山々を踏みつけて粉々に砕く。また、丘をもみがらのようにする。ものすごい変容ぶりである。たとえ虫けらのような者でも上からの新しい恵みと力に満たされるなら、もろ刃の打穀機のようになることができる。人生には何と山の多いことか。目の前に山が塞がって前進できないことがある。しかし神は虫けらのヤコブを新しいもろ刃の打穀機のように変え、もろもろの山を、粉々に踏み砕くようにしてくださるのである。

Ⅲ.荒野に水が流れる(17-20) 

それだけではない。ここには「悩んでいる者は貧しい者が水を求めても水はなく、その舌は渇きで干からびるが、わたし、主は、彼らに答え、イスラエルの神は、彼らを見捨てない。」(17)とある。外敵から救ってくださるだけでなく、飢え渇きによる死からも救ってくださるというのだ。バビロンの捕囚となっていたイスラエルはあわれな身分であった。水を探し求めても得られず、舌が干からびるほどの渇きに苦しめられていた。しかし神は彼らに答え、その渇きを潤してくださった。主が彼らとともにおられ、彼らに答え、その渇きを完全にいやしてくださったのである。主は決して彼らを見捨てることはなさらない。

また、「わたしは、裸の丘に川を開き、平地に泉をわかせる。荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源とする。わたしは荒野の中に杉や、アカシヤ、ミルトス、オリーブの木を植え、荒地にもみの木、すずかけ、檜も共に植える。」(18-19)とある。これはバビロン捕囚によって荒れ果てたイスラエルを回復してくださるという預言である。やがてもたらされる世の終わりの千年王国において、主は文字通りイスラエルを回復してくださる。しかし驚くべきことに現在のイスラエルとみると、この預言が少しずつ成就していることがわかる。今から二千年前にローマ帝国によって離散の民となったユダヤ人は、1800年代後半から祖国エルサレムに帰還するようになり、1948年にはイスラエル共和国として国を再興した。こんなことは人間的に考えられないことである。しかし、神はみことばの約束のとおりに神の民であるユダヤ人をエルサレムに戻し、国を立ててくださった。そればかりではない。400年間も続いたオスマントルコ帝国の支配の下、アラブ人たちによって木が伐採されたためその地はまさに裸同然となったが、その地に彼らは多くの木々を植林し、緑地化に成功した。彼らがこの100年間に植林した木は2億2千万本にも上る。砂漠のように荒涼とした地に水が流れ、今では農業が盛んな国になった。そして全世界にフルーツや花などを出荷するまでになったのである。まさにこのイザヤ書の預言が成就しつつあるのを見ることができる。

そればかりではない。この新しい創造はイスラエルの土地だけでなく、荒れ果てた私たちのたましいも潤してくださる。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38)あなたもイエスのもとに行くなら、完全ないやしを得ることができる。荒野のように渇いた人生が、いつも主の恵みの泉を掘り起こす豊かな人生となるように、この方のもとに行き、絶えず恵みの水を飲み続けていく者でありたい。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたの中に、自分は虫けらのように価値のない存在でも鋭い、新しいもろ刃の打穀機のように変えられます。あなたの前にはどんな山が塞がっていますか。

・あなたのたましいは渇いていませんか。もし渇いているならイエスのもとに行って飲みましょう。あなたは神の聖霊に満たされることを求めて祈っていますか。

イザヤ41:1-13 レジュメ 

「恐れるな、たじろぐな」                N060

Ⅰ.ひとりの者(1-7) 

主はここで、諸国の民に向かって語られる。「近寄って、今、語れ。われわれは、こぞって、さばきの座に近づこう。」(1)と。これは法廷のシーンである。偶像を拝む諸国の民に対して、どちらが本物の神なのか、どちらが信じるに値する神なのかを論じ合おうではないかというのだ。まずまことに神について語られる。「だれが、ひとりの者を東から起こし、彼の行く先々で勝利を収められるのか。」(2)これは後に起こるメデイャとペルシャの連合軍の王クロスのことである。神はクロス王を起こしバビロンによって捕らえられたイスラエルを解放し、祖国エルサレムに帰還させるというのだ。「だれが、これを成し遂げたのか。わたし、主こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。」(4)このようなことはだれにもできない。ただ全能の神だけがなし得ることができる。それはやがて来られるメシヤ、救い主の型でもあった。神はクロス王を立てバビロンに捕らえられていたイスラエルを解放したように、ご自身のひとり子を立て、罪の中にあえいでいた人類を解放してくださった。人間に守ってもらうしかない無力な偶像とは訳が違う。この方こそまことの神であって、私たちが信じるに値する方なのである。

Ⅱ.わたしはあなたを選んだ(8-9)

いったいなぜ神はイスラエルを守り、助けてくださるのか?それは神がイスラエルを選び、ご自分のしもべとしてくださったからだ。しもべというと自由がなく、こき使われるというイメージがあるが、実はしもべであるということは、主人に守ってもらえる立場にあることを意味している。イスラエルは神に選ばれた神のしもべである。ゆえに神は、どんなことがあっても彼らを守ってくださる。エペソ1:3-5には、私たちクリスチャンも神に選ばれた存在であることがわかる。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくだった。神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされた。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらがしめ定めておられた。私たちは神に選ばれた神のしもべなのである。時々私たちは神に捨てられたのではないかと感じる時があるが、実はそうではなく、そのように感じる時でも神は私たちの苦しみを担っておられ、私たちを一歩一歩導いておられるのである。神は私たちを選んでご自分のしもべとしてくださったので、どんなことがあっても私たちを捨てるようなことはなさらない。

Ⅲ.恐れるな、たじろぐな(10-13) 

だから、恐れてはならない。たじろいてはならない。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(10)神があなたとともにいてくださる。この神は人が造った、人によってかたどられた神ではない。この神は全宇宙を造られた創造主なる神である。この方があなたとともにいてあなたを守り、支えてくださるのなら、何も恐れることはない。また、神はあなたの神である。ただの神ではない。あなたと個人的に関わってくださる神なのである。そして神は義の右の手であなたを守ってくださる。「義の右の手」とは勝利の手である。神は必ずあなたを守り、あなたに勝利をもたらしてくださる。もしあなたに対していきり立つ者があれば、そのような者は必ず恥を見、はずかしめを受けるようになる。あなたと争うような者は、何も無い者のようになる。なぜなら、あなたの神である主が、その義の右の手で、あなたを守ってくださるからだ。だから、たとえ死の陰の谷を歩くことがあっても、わざわいを恐れることはない。職を失うことがあっても、苦難が訪れ苦しみのただ中に置かれるようなことがあっても、家族に背を向けられても、友人に裏切られるようなことがあっても、何も恐れることはない。神があなたとともにいてくださるからだ。主がともにおられるなら、明日はこわくない。明日のことで心配することは全くないのだ。必要なのはただこれを信じる信仰である。この確信があるとき、あなたも勇気をもって前進していくことができる。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたが今、恐れていることはどんなことですか?その原因はどこにあると思いますか?その恐れを克復するために必要なことはどんなことでしょうか?

イザヤ40:27-31 レジュメ

「鷲のように翼をかって」                N059

Ⅰ.イスラエルの不満(27) 

イザヤは、主は天地を創造された偉大な神であるということを語ったが、ユダの民は「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごされている。」(27)とつぶやいた。いったいなぜ彼らはこのように不平不満をもらしたのだろうか?それはバビロンに捕らわれていた中で一向に改善しない現実を見て、自分たちが神から見捨てられているのではないかという思い(拒絶感)があったからである。神は自分のことに何の関心も持っていなければ、何の思いも寄せていないと思ったのだ。それは彼らの不信仰から出たことであった。40:1には「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とある。主は彼らを「わたしの民」と呼んでくださった。であれば彼らから隠れたり、見過ごしにされたりすることは絶対にない。神が私たちの人生に絶望と思われるような状況を起こされるのは、そうした状況の中で自分たちの弱さを認め、神だけが助けであることを待ち望むようにするためである。イスラエルがバビロンの捕囚となったのも決して無意味なことではなかった。その背後にあってすべてを支配しておられる神が、彼らの益のために導いてくださったことだった。ゆえに私たちは自分の置かれた状況を見て嘆いたり、つぶやいたりしてはならない。創造主なる神を見上げ、神が最善に導いてくださると信じて、神を待ち望まなければならない。神の創造の御手が及ばないところはない。

Ⅱ.主は永遠の神(28-29)

イザヤは、そのような不平不満をもらすイスラエルに対して、神がどのような方であるかを思い起こさせている。彼らの問題は、神がどのような方であるかを忘れていたことである。神の偉大さを知れば、自ずと問題も解決する。「あなたがたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。」(28)まず第一に、主は永遠の神である。主は永遠の昔から、永遠の先まで存在しておられる。神にははじまりも終わりもない。神にとっては常に「今」なのである。神は永遠に存在しておられるのでいつも私たちのことを覚え、助けることができる。第二に、主は地の果てまで創造された方である。すべてのものはこの方によって造られた。造られたものでこの方によらずにできたものは一つもない。この方は地の果てまで創造された全能の神なのである。その全能の力をもって私たちを助けてくださる。私たちが抱えている問題がたとえ天地がひっくり返るような大きな問題のように見えても、この方にとっては何でもないことなのである。第三に、神は疲れたり、たゆんだりすることがない。神の御力は無限であって、疲れた者、精力のない者にその無限の力を注いでくださる。第四に、その英知は測り知れない。主は正しい知恵と理解力によって、物事を正しく見分けることができる。どんな難しい状況でも完璧に理解しておられ、私たちが置かれている状況も正しく把握しておられる。この神を見るなら、私たちの不平や不満はすぐにどこかに吹っ飛んでしまうだろう。大切なのは、神はどのようなお方なのかを知り、そこに信仰を寄せることである。

Ⅲ.主を待ち望め(30-31) 

だから、主を待ち望まなければならない。「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(30-31)主を待ち望むとは、力をくださる方に完全に頼ることである。その力の源こそ神である。力の源であられる主に自分を結びつけるとき、新しい力を受けて歩むことができる。イエスは言われた。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)もしイエスのもとに行くなら、イエスにつながるなら、あなたは安らぎを得ることができる。イエスがあなたに無限の力を注いでくださるので、どんなストレスがあっても疲れることなく、たゆむことなく、鷲のように翼をかって上ることができる。鷲は雀のように羽をバタバタさせたりはしない。上昇気流に乗って一気に空高く舞い上がると、あとは悠々と飛ぶことができる。上昇気流に乗れば、自分の力以上の所まで上ることができる。それが主を待ち望む者の姿である。主を待ち望む者はバタバタしたり、焦ったりせず、また慌てたりせず、主がどのような方なのかを覚え、その主の力に信頼して、主にすべてをゆだねる。聖霊の上昇気流に乗って、聖霊の風を受けて、高く上っていく。そのような人は走ってもたゆまず、歩いても疲れることがない。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたの中に、自分は神から見捨てられているという思いはありませんか。あなたは神をどのような方だと聞いていましたか?

・あなたは疲れていませんか。たゆんでいませんか。もし疲れているとしたら、その原因はどこにあると思いますか?主を待ち望むために、あなたに必要なことは何ですか?