イザヤ書53章1~6節 「最高の愛」

きょうは、イザヤ書53章前半の箇所から、「最高の愛」というタイトルでお話したいと思います。今読んだ箇所は、イザヤ書52章13節から始まった第四のしもべの歌の一部です。ここには、主のしもべはなぜ苦難を受けなければならなかったのか、その理由が記されてあります。それは、私たちの罪のためであったということです。つまり、それは身代わりの死であったということです。

イエス・キリストが働きを始められてから今日まで、多くの人が十字架について誤解しています。イエスがメシヤであるならどうして十字架にかかって死ななければならなかったのか、というのです。それはユダヤ人にとってはつまずきであり、ギリシャ人にとっては愚かなことかもしれませんが、しかし、救いを受ける私たちには、神の力です。(Ⅰコリント1:18)それは最高の愛だったのです。

きょうは、この最高の愛について、いつものように三つのポイントでお話します。まず第一のことは、だれが主の御業を信じたかということです。だれも信じませんでした。第二にその理由です。なぜ彼らは信じなかったのか。なぜなら、彼らが想像していたメシヤとは全く違っていたからです。第三のことは、なぜメシヤはこれほどまでにさげすまれなければならなかったのか。それは私たちの罪の身代わりとなるためでした。

Ⅰ.だれが信じたか(1)

まず1節をご覧ください。「1私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。」

「私たちが聞いたこと」とは、神の救いに関する良い知らせのことです。このこのすばらしい救いの知らせを、いったいだれが信じたでしょうか。だれも信じませんでした。なぜでしょうか?イエスの姿が、彼らが想像していたメシヤ像とはあまりにもかけ離れていたからです。彼らが信じていたメシヤとは、イスラエルを政治的にも、軍事的にも復興してくれる方でした。ローマ帝国の支配から自分たちを解放してくれる政治的メシヤを待ち望んでいたのです。それなのに、イエスはそうではありませんでした。イエスは、そうした問題の根本的な原因である罪から救うために来られたのです。ですから、彼らはイエスをメシヤとして受け入れることができなかったのです。

この1節のみことばは、ヨハネ12:38とローマ10:16にも引用されていますが、ヨハネ12:38には、「イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。」とあるのです。なぜなら、この時からイエスは、ご自分が死なれることを語り始めたからです。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはそのままです。しかし、死ねば実を結びます。」死なれる、弱々しい者がメシヤであるはずがないと言って、イエスから離れて行ったのです。だれも信じようとはしませんでした。

それはどの時代も同じです。どんなに福音を語っても、人々は信じようとしません。人々が求めているのはいやし、力、栄光、祝福、成功、繁栄といったものだからです。そのような話には魚が餌に飛びつくように飛びつきます。この近くにもそんな新興宗教団体があります。私は行ったことがありませんが、家の工事をしてくれた人がその施設の外構工事か何かをしたらしくて行ったのですが、「まあ、たまげた」と言ってました。全部、金!どうしたらあんなふうになれるのか・・・と。最近は学校まで作って、教育しているということですが、そのような富、栄光、繁栄、成功、といったものには関心があっても、見るかぎりみすぼらしいように見えるものには見向きもしません。みんな去っていきます。

しかし、それでも私たちは語ることをやめてはならない。なぜなら、神の国はそのようなものだからです。救い主イエスが生まれた時もそうでした。この天地を創造された救い主が、何と馬小屋で生まれたのです。飼い葉桶に寝かせられました。一見、救い主とは全く関係ないと思われるようなところでお生まれになりました。それは、神の救いというのは、私たちが考えているようなものとは全く違うものだからです。また、私たち自身が信じる者に変えられたからです。

「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)

皆さん、信仰は聞くことから始まるのです。キリストについてのみことばを聞くことです。ですから、信じてほしいと願うなら、キリストについての良い知らせを聞かせなければなりません。聞かせなければ信じることはできないからです。「こんな人に聞かせたって無駄だ。聞く耳をもってないし・・・。」「聖書になんて全く興味はないし、信じるつもりなんてない」と思うかもしれませんが、それでも聞かせなければならないのです。これほどすばらしい知らせはないのですから。そうすれば、だれも信じないと思えるような中にあっても、神は必ず信じる人を起こしてくださるのです。

Ⅱ.さげすまれたしもべ(2-3)

では、いったいなぜ彼らは信じなかったのでしょうか。さきほども申し上げたように、それはイエスが彼らが想像していたメシヤ像とはあまりにもかけ離れていたからです。2節と3節をご覧ください。2節には、「2彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」とあります。

11:1にも「若枝」という言葉が出てきましたが、この「若枝」と11:1に出てくる「若枝」は違う言葉です。この「若枝」は「吸枝」(きゅうし)と呼ばれるもので、植物の根から最初に出る枝のことです。その枝は地面の下に根のように伸びます。この「吸枝」という言葉は「吸う」という言葉から派生した言葉で、赤ちゃんがおっぱいを吸うイメージです。ですから、「若枝のように芽ばえ」とは、赤ちゃんのように全く力がなく、他の何かに頼らなければ生きていくことができないような、弱々しい姿で生まれたという意味です。

また、ここには「砂漠の地から出る根のようだ」ともあります。皆さんは、「砂漠の地から出る根」を見たことがあるでしょうか?それはカラカラに干からびています。もう死んだような状態になっています。そんな砂漠から出た根のように主のしもべは育ったのです。

ですから、「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない」のです。「彼」とはもちろんイエス・キリストのことです。イエス・キリストには、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもありませんでした。私たちが慕うような見ばえもなかったのです。私たちの中にはどこか、髪が長く、すべすべした肌で、掘の深い青い目をしていて、かなりのイケメンであるのに加え、真っ白い衣には後光が差しているといったイメージがありますが、このイザヤ書の描写を見ると違うことがわかります。私たちがそのように想像するのは、中世の絵画やキリストの映画等を見ているからであって、実際には違うわけです。実際には、彼には見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもありませんでした。

福音書を見ると、ローマの兵隊がイエスを捕らえに来た時、だれがイエスなのかわからなかった、とあります。それで、わかるようにと、ユダがその人に口づけしました。その人がイエスであるという合図のためです。イエスは口づけしなければわからなかったほど他の人たちと全く変わらない、ごく普通の人だったのです。その内側には神の栄光の輝きがありました。麗しさと優しさに満ち溢れていましたが、見た目には見とれるような姿も、輝きも、私たちが慕うような見ばえもなかったのです。

3節をご覧ください。ここには、「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」とあります。

イエスはさげすまれるようなことは何一つしなかったのに、何一つ悪いことなどしなかったのに、のけ者にされ、悲しみの人で病を知っていました。人が顔をそむけるほどさげすまれ、だれも彼を尊びませんでした。それどころか、彼は自分を捨て、他の人の幸福のために心から仕えました。病人をいやし、悪霊を追い出し、疲れた人、苦しんでいる人を慰めました。イエスは食する暇も忘れ、寝る間も惜しんで、人々のために身を粉にして仕えたのです。なのに人々は彼をのけ者にし、「十字架につけろ」と叫び続んだのです。    彼は、悲しみの人で病を知っていました。「悲しみ」とは肉体的な痛みだけでなく、すべての種類の悲しみを表すもので、「死に至るほどの深刻な損傷」を指します。「病を知っていた」というのは、病に慣れていたとか、常に病を抱えて歩んでいたという意味です。人が顔をそむけるほどさげすまれ、だれも彼を尊びませんでした。

なぜでしょうか?なぜなら、イエスが彼らが望んでいるようなメシヤではなかったからです。彼らが求めていたのはあくまでもイスラエルをローマの支配から解放し、この地上に神の国をもたらしてくれるメシヤだったからです。しかし、彼はそうではなかった。何とも弱々しく、干からびたような状態で、見た目には何の輝きもなく、魅力もない、パッとしないメシヤだったからです。一言で言えば、それは「期待はずれ」だったのです。

しかし、主の御腕は、だれに現れたでしょうか?なんと、主の御腕はこのようなしもべに現れました。見た目にはパッとせず、何とも弱々しく、干からびたようなそんなしもべに現れたのです。

ですから、見た目で人の善し悪しを判断してはいけません。たとえ弱々しいから、たとえ干からびているようでも、のけ者にしてはいけないのです。私たちが見とれるような輝きがないから、私たちが慕うような見ばえがないからと言って、さげすんではならないのです。

Ⅲ.私たちの罪を負われたしもべ(4-6)    いったいなぜ主のしもべはそれほどまでにさげすまれたのでしょうか?4節をご覧ください。「4まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」

いったいなぜ彼はそのような病を負い、痛みをになったのでしょうか?私たちはてっきり、それは神に罰せられ、神に打たれ、神に苦しめられたからだと思っていましたが、それは間違っていました。このしもべの罪や咎に対する神の懲らしめだと思っていたのに、実はそうではなかったのです。それは、私たちのためでした。「彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」のです。

5節をご覧ください。ここには、「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」とあります。

しべが刺し通され、しもべが砕かれたのは、私たちの罪のためであり、私たちの咎のためだったのです。ここには、「刺し通す」とか「砕く」という言葉がありますが、これはまさに主のしもべであるイエス・キリストが受けた十字架の苦しみを表しています。

この預言はキリスト生まれる七百年も前に告げられたものですから、十字架を見て預言したわけではありません。しかし、さながら十字架のもとにたたずんで、十字架を見た人が語ったような描写です。ある人たちは、このしもべとはペルシャの王クロスのことではないかとか、イスラエル民族のことではないかと言う人がいますが、この描写を見たらそうではないということがはっきりとわかります。これはイエスさまが十字架で刺し通され、砕かれたということを見事に表しているからです。

けれども、その苦しみはいったい何のためだったのでしょうか。キリストはなぜ十字架で死ななければならなかったのでしょうか?それは「私たちのため」です。それは私たちの罪のため、私たちの咎のためだったのです。「私たちのため」というのは英語では「for us」ですが、この「for」という言葉は「代わりに」と訳すこともできます。ですから、「私たちのために」ということは「私たちの代わりに」ということでもあるのです。彼が刺し通され、砕かれたのは、彼がそれほどの苦しみを受けられたのは、私たちの身代わりのためだったのです。彼への懲らしめによって、私たちはいやされ、彼の打ち傷によって、私たちはいやされたのです。

6節には、「しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」とあります。神は全人類の罪を彼の上に置かれました。全人類の罪ですよ。私1人の罪だけではありません。全人類の罪のためです。私1人でもかなり重いのに、全世界の人の罪といったらどれほど重かったことでしょう。

現在、世界には約71億4500万人の人がいます。1分間に137人、1日で20万人、1年で7千万人、増えているそうです。私が中学校の時に勉強した時には確か43億人でしたから、その時よりもかなり増えていることがわかります。これだけの人の罪を負われたのです。いや、それは現在の人だけではなく、有史以来、この地上に生きたすべての人の罪も含まれます。最初の人アダムが造られた時から今日に至るまでのすべての人の罪です。そのすべての咎を負われたのです。

「この方こそ、私たちの罪のための-私たちの罪だけでなく、全世界のための-なだめの供え物です。」(Ⅰヨハネ2:2)

イエスは全世界のための、なだめの供え物となって、十字架で死んでくださったのです。それは私たちの罪のため、私たちの罪の身代わりのためでした。それは、この方にあって、私たちが神の義となるためです。Ⅱコリント5章21節も開いてください。ご一緒に読みましょう。

「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」

イスラエルでは、多くの人の罪が赦されるために、小羊が代わりに殺されました。その血が注がれることによって人々の罪が赦され、その肉が食されることによって、人々の肉体のいのちが保たれたのです。つまり小羊は救いの力、あがないの力を現す動物だったのです。そして、イエス・キリストはその神の小羊となって死なれたのです。

ご承知のように、イスラエルがエジプトの奴隷から解放される時、小羊が殺されて家の玄関のかもいにその血が塗られました。それによってイスラエルの人々は、神の滅びから守られてエジプトから出ることができました。実に出エジプトという出来事は、過ぎ越しの小羊の血によって実現したのです。イエスこそその過ぎ越しの小羊だったのです。その血によって罪の奴隷として捕らえられている人を、そこから解放してくださるのです。ですから、バプテスマのヨハネがイエスを見た時こう言ったのです。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。あの過ぎ越しの小羊のようにこの方がほふられることによって、全世界の罪が取り除かれる時が来た、とヨハネは言ったのです。このようにして身代わりという事実がなされたのです。福音書に出てくるイエスの十字架は私のためであり、またあなたのためであり、全世界の身代わりのためだったのです。

私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって歩んでいました。聖書ではこれを罪と言います。「罪」とはギリシャ語で「ハマルティヤ」と言いますが、それは「的外れ」という意味です。そんな私たちの罪を赦すために、神はその罪の刑罰のすべてをこのしもべに負わせ、このしもべが身代わりに受けることによって、私たちのすべての罪を赦そうとされたのです。

「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」

何と感謝なことでしょうか。この世の人たちは十字架は愚かなことだったとか、失敗だったとかと言いますが、それは神の私たちに対する最高の愛の現れだったのです。

皆さんは、「山本忠一」という人の名前を聞いたことがあるでしょうか。昭和の初期のことです。和歌山県南部(みなべ)という町に労祷学園(ろうとうがくえん)がありますが、枡崎外彦という牧師がこの学園を指導されていた時、彼はこの学校にやって来ました。やって来たというよりも、拾われて来たと言った方がいいかと思います。しかし、彼は知恵遅れの少年だったので、彼がこの学園に加えられた時、誰かが門柱にペンキで「アホ学校」と落書きしたことから、この学園は「アホ学園」と呼ばれるようになり、南部名物とまで言われるようになりました。彼は幼い頃、脳膜炎をわずらった孤児でした。大食いと寝小便のゆえに親族も愛想をつかし、捨てられ乞食をしている所を、枡崎牧師が世話をすることにして、連れ帰ってきたのです。  忠やん。と呼ばれるようになった知恵遅れの少年には、だれにも真似の出来ない特技がありました。飛んでいるハエを素手で取るのです。ハエを目にするや、忠やんの目は輝き、ハエを見つめながら、左手左足で調子をとりながら、右手の指先でバッと捕まえるのです。それは百発百中の神技でした。  その時、升崎牧師の下で、7人の若者が学んでいましたが、彼らが牧師につめよりました。 「忠やんが、労祷学園に出入りしないようにして下さい。」  「もし忠やんが学園に加わるのであれば、自分たちが出て行きます。」   升崎牧師は悩み苦しみましたが、  『もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、  その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を探しに出かけないでしょうか。』(マタイの福音書 18章12節)  才能のある7人と1人の知恵遅れの少年どちらを選ぶべきか?イエス様は、1人の世話を必要としている人を見捨てることはない。7人の青年達は去っていきました。  ところが、それからしばらくして、忠やんも外出したまま帰ってこなくなりました。八方手を尽くしましたが、消息はつかめませんでした。  忠やんがいなくなってから数年たった昭和14年のある日、1人の紳士が升崎牧師を訪ねて来ました。 「あなたは何年か前に山本忠一君をお世話して下さった牧師さんですか?」  「おお、あなたは忠やんの消息をごぞんじですか?元気にしてますか?」  「実はその忠一君は、立派な働きをして死にました。」  「これが彼の形見です。」  紳士はそう言って、船の舵輪を差し出しました。 紳士は話し始めました。  「ある日、海辺に1人で立っている忠やんを見つけ、あれこれ訪ねたが、何も判らない、行くとこもないようなので、私の船で働くか?と聞くと、うん。と言うので、船に乗せ、働いてもらっていました。  ある日、荷物を満載して紀州尾鷲港を出航しましたが、出航後間もなく海がしけ、新宮沖にさしかかるころには、思う方向に船を進めることも出来なくなり、ついに暗礁に船底をぶつけてしまいました。  船底に穴が開き、水が激しく浸水してきて、いくら排水しても間に合わなくなり、一同観念した時、船底から、『親方!親方!船を!船を!』と手を振り叫んでいる者がいます。  忠やんでした。忠やんは、自分の足を穴に突っ込み浸水を止めていたのです。  船員一同必死に排水と操船をし、陸に近づけ、助かったのです。 忠ちゃん助かったよ!  と彼のもとに行った時には、忠ちゃんの右太ももはもぎ取られ、出血多量ですでに息を引き取っていました。  この舵輪はその時の幸十丸のものです。」  升崎牧師は労祷学園で、オランダ堤防の決壊を救ったハンス少年の事を話した事がありました。  その話を聞いた時、忠やんは、  「俺はハンスだ!ハンスだ!」  と叫んでいました。 人から“アホ忠”、“アホ忠”と呼ばれ、“アホ忠”が自分の名前と思っていた山本忠一君でした。  彼は升崎牧師の愛と教えを受け、自分の身を持って、愛を実践したのです。   「人がその友のために命を捨てるという、これより大きな愛は誰も持っていません。」(ヨハネ福音書15:13)

これは忠一君が覚えた、たった一つの聖書の言葉です。山本君は普段自分をアホ忠と呼んでバカにし、なぐったり蹴ったりした船員たちの命を救うために、自分の命を犠牲にしました。    これは私たち人類を救うために十字架の上でご自身の命を犠牲にしてくださったキリストの愛です。このキリストの愛を受けていたので山本君は自分をばかにしていじめていた人たちをも許し、愛して、救うことができたのです。

キリストは、あなたの病を負い、あなたの痛みをになってくださいました。あなたのそむきの罪のために刺し通され、あなたの咎のために砕かれました。しかし、彼への懲らしめがあなたに平安をもたらし、彼の打ち傷のゆえに、あなたはいやされました。

ですから、もしあなたが病を負っているなら、どうか、この十字架につけられたイエス・キリストを見上げてください。あなたが人にも言えないような苦しみを抱えているなら、どうか、十字架のキリストを見てください。基督はあなたの病やあなたの苦しみの一切を代わりに受けて死んでくださったのですから。もちろん、クリスチャンでもこの世の人と同じように不治の病にかかることがあります。イエスを信じているからと言って、がんにかからないわけではありません。しかし、死ぬときにも、恨まず、死を受け入れることができます。すべてが願いどおりになるわけではありませんが、しかし、願い通りにならなくても感謝することができるのです。なぜ?神があなたを救ってくださったからです。キリストがあなたの罪の身代わりとなって十字架にかかって死んでくださり、その身代わりの死を信じて受け入れたので、あなたの罪のすべてが赦されたからです。これが、この世の人とクリスチャンが決定的に違う点なのです。そして、それは本当に大きな違いではないでしょうか。罪が赦され、永遠のいのちが与えられている。神が私とともにいてくださる。これは本当に何よりも大きな恵みです。私たちにはこの救いが与えられているのです。十字架につけられたイエスを信じることによって。ですから、私たちが求めなければならないのは、この十字架のイエス・キリストであって、この世の華やかさではありません。どうか、このイエスから目を離すことがありませんように。この方を信じることが、あなたのいやしと救いなのです。

イザヤ書52章13~15節 「驚くばかりの恵み」

きょうは、イザヤ書52章の後半部分から「驚くばかりの恵み」というタイトルでお話したいと思います。

まずはじめに、この箇所がどういう箇所なのかについてお話したいと思います。この箇所は、いわゆる第四の主のしもべの歌です。イザヤ書には主のしもべであるイエス・キリストについて言及されている箇所が四箇所あります。第一のしもべの歌は42章1~4節のところでした。そこでは主のしもべの召命(Calling)について語られていました。それから第二のしもべの歌は49章1~6節のところですが、そこには主のしもべの使命(Mission)、すなわち、主のしもべはいったい何のために来られたのかということが記されてありました。それから第三のしもべの歌は50章4~9節のところにありました。そこには主のしもべはその使命をどのように成し遂げられるのか、それは受難(Passion)を通してであるということが語られました。きょうの箇所は第四のしもべの歌です。これが53章の終わりまで続きます。ここには主のしもべはどうして苦しみを受けなければならなかったのか、その理由が記されてあります。つまり、それは代償の死であったということです。先週はクリスマス礼拝で、イエス・キリストの誕生についてお話しまたが、今週は死です。早いですね。イエス様の生涯は・・。私たちはこのイエスの十字架の死についての預言を三回に分けて学んでいきたいと思います。

第一回目のきょうは、主イエスの驚くばかりの恵みについて三つのことをお話します。すなわち、第一に主のしもべは非常に高められたということ、第二のことはその理由です。なぜ彼はそれほど高いところまで上げられたのでしょうか?それは彼が最も低いところに下られたからでです。第三のことは、そのような主のしもべに対して、私たちはどのように応答すべきなのでしょうか。それは、彼の前で口をつぐむということです。

Ⅰ.高められた主のしもべ(13)

まず13節をご覧ください。「見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。」

「わたしのしもべ」とは、もちろんイエス・キリストのことです。ここには、「彼は高められ、上げられ、非常に高くなる」とあります。なぜでしょうか?「わたしのしもべは栄える」からです。この「栄える」という言葉は、下の欄外にある説明を見てもわかるように「賢い」とか「思慮深い」という意味の言葉です。主のしもべは非常に賢く、思慮深いので、その結果、高められ、上げられ、非常に高くなるのです。どういうことてしょうか?彼は単なる思いつきや考えに基づいて行動したのではなく、神の永遠の知恵に基づいた深い計画によって行動したので、高められたということです。

ここには、「高められ」「上げられ」「非常に高くなる」と繰り返して表現されています。それは、彼が他の誰も到達できないほどの高さまで上げられたということを示しています。彼は神の深い知恵によって自分のいのちをささげられたので、神は他のだれも到達できないほどの高さまで上げられたのです。この主のしもべを見よと言うのです。それがどのくらいの高さなのか、パウロは次のように語っています。

ピリピ人への手紙2章6~11節を見てください。ここにも高く上げられたイエス・キリストの姿が描かれています。「6キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、7ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。10それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、11 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」

神はキリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それはイエスの御名によって、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるもののすべてが、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神をほめたたえるためなのです。キリストは、すべての名にまさる名が与えられ、他の何ものよりも高いところに、いや、ヘブル1章3節やⅠペテロ3章22節を見ると、神の右の座に着かれたとありますが、それほど高いところまで上げられたのです。神のしもべイエス・キリストはそのようなお方なのです。私たちはこの主イエスを見なければなりません。

このようなことを申し上げると、中にはこのしもべはイエス・キリストのことではないと言う人たちもいます。ユダヤ人たちは今でもそのように考えています。たとえば13世紀のユダヤ人聖書学者のR・メイル・ベン・シモンという人は、この主のしもべはイエスのことではないと主張しました。もしこれがナザレのイエスのことを預言していのなら、どうして「しもべ」などと呼ばれているのか・・・。もしイエスが神の子であり、神ご自身であり、神と一つであるなら、しもべなどと呼ばれるはずがないし、高く上げられる必要もないというのです。このような理由から、ユダヤ人は旧約聖書を神のことばとして信じていながらも、今日までずっと、かたくなに、この預言がイエス・キリストにおいて成就したことを拒否してきたのです。

しかし、ここでははっきりと、「わたしのしもべは栄える」とあります。「彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。」のです。それは他の何ものも及ばないほどの高さであり、神の右の座にまで上げられることを示しています。主のしもべであるイエス・キリストはそのような方なのです。私たちはこの方を見なければならないのです。

Ⅱ.低められた主のしもべ(14-15a)

いったいどうして彼はそれほどまでに高められたのでしょうか?14節から15節の最初の行までのところをお読みします。「14多くの者があなたを見て驚いたように、―その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた―15そのように、彼は多くの国々を驚かす。」

ここには、主のしもべが高く上げられるための十分な計画をもった行動が記されてあります。それは何かというと、受難です。ここには、「その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた」とあります。主のしもべはそれほどの苦しみを受けられたのです。

マルコの福音書15章16~24節までを開いてみましょう。

「16兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。17そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、18それから、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と叫んであいさつをし始めた。19また、葦の棒でイエスの頭をたたいたり、つばきをかけたり、ひざまずいて拝んだりしていた。20彼らはイエスを嘲弄したあげく、その紫の衣を脱がせて、もとの着物をイエスに着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。21そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。22そして、彼らはイエスをゴルゴタの場所(訳すと、「どくろ」の場所)へ連れて行った。23 そして彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとしたが、イエスはお飲みにならなかった。24それから、彼らは、イエスを十字架につけた。そして、だれが何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。」

これはまさに神のしもべイエス・キリストが受けられた苦難でした。その預言だったわけです。キリストは全く罪のないお方でしたが、その方がたたかれたり、殴られたり、裸にされてむち打たれたりしてボコボコにされました。また紫の衣を着せられ、頭にはいばら冠をかぶせられ、つばきをかけられたり、「ユダヤ人の王様ばんざい」などと叫ばれてバカにされました。そしてあげくの果てに十字架の上に釘付けにされたのです。その顔だちは、もはや人間のようではありませんでした。その姿はもう人間とは違っていたのです。

皆さんはメル・ギブソンの「パッション」という映画をご覧になられましたか?この映画にはあまりにも血まみれになられたイエスの姿が出てくるので、あまりにも凄惨すぎて見ていられない、という人もたくさんいました。それくらい凄惨なシーンが出てくるのです。しかし、それは決して誇大表現ではありません。ここに、その顔だちは、そこなわれて人のようではないとか、その姿も人の子らとは違っていたとあるように、主のしもべイエス・キリストは、そこまで苦しめられたのです。

それは多くの者があなたを見て驚いたようにです。これはどういうことでしょうか。実はこの「あなた」とは主のしもべのことではありません。これはイスラエルのことです。ここではイスラエルがバビロンで受けた苦難と、主のしもべが受けた苦難とが重なって描かれているのです。すなわち、イスラエルがバビロンに捕えられそこで激しい苦しみを受けたのを見て多くの人が驚いたように、主のしもべも激しい苦難を受けたということです。イスラエルが受けた苦しみと主のしもべが受けた苦しみはその原因も、程度も全く違いますが、もしその苦しみをたとえるとしたら、まさにそのようであったというわけです。いったいその苦しみは何のためだったのでしょうか。

15章の最初の行を見てください。ここには「そのように、彼は多くの国々を驚かす。」とあります。これはイエスがそのようにされたことで多くの人たちを驚かしたということではありません。この「驚く」という日本語の訳は間違っています。聖書のどこにもこの言葉を「驚かす」と訳しているところはありません。これは「ふりかかる」と訳さなければならないことばです。たとえば、イザヤ書63章3節にも同じ言葉が使われていますが、そこではちゃんと「ふりかかった」と訳しています。「それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。」

そして、この言葉が聖書の中で一番最初に出てくるのは出エジプト記29章21節ですが、そこでも「ふりかける」と訳されています。そこでは祭司の任職式のことが書かれてあるのですが、彼らが祭司として任職される時には注ぎの油と呼ばれる油を彼らに振りかけなければなりませんでした。

ですから、この言葉はもともと「ふりかける」という訳さなければならないのです。なぜこのように訳したのかはわかりませんが、おそらく前後の文脈との関係でそのように意訳したのだと思います。でもこれは「振りかける」と訳さなければなりません。問題は何を振りかけるのかということです。

「振りかける」という言葉を聞くと、私たちはピンときます。この文脈では、しもべが罪を負って十字架にかかって死なれるということが預言されているのですから、これはその時に流される血のことです。ヘブル人への手紙9章22節には、「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」とあります。イエス・キリストの血が多くの人に注ぎかけられることによって罪が赦されるのです。主のしもべであるイエス・キリストは、このようにして多くの人の罪が赦されるための御業を成し遂げてくださいました。だから彼は高められるのです。上げられ、非常に高くなるのです。先程のピリピ人への2章もそうでしたね。イエス・キリストは神の御姿であられる方なのに、神であるという考えに固執しないで、自分を無にして仕える者の姿をとり、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえに、神は彼を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになったのです。キリストが高くされたのは、彼が低くなられたからなのです。どこまでも低くなって、十字架にまで従われたからなのです。そのようにして多くの人に血の注ぎかけによる罪の清めの業を成し遂げられたからなのです。

先週はクリスマスでしたが、いつものように語られるクリスマスストーリーの中に、キリストは家畜小屋に生まれ、飼い葉桶に寝かせられたという話があります。この天地の造り主であられる神が、家畜小屋に生まれるなんて信じられないことです。バースハウスじゃないですよ。stableです。牛舎です。そんなところで生まれてくださいました。そこまで低くなられたのです。いったい何のためでしょう。それは罪に汚れた私たちを救うためでした。そのために、主のしもべはそこまで低くなってくださいました。

Ⅲ.賛美される主のしもべ(15)

ですから結論は何かというと、「口をつぐんで」ということです。15節の2行目からお読みします。「王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ。」

主のしもべは、多くの国々のために、ご自分の血を注ぎ、血を振りかけて、救いの御業を成し遂げられます。その主のしもべであるイエスを前にして、口をつぐみます。口をつぐむというのは黙すということです。新共同訳では「口を閉ざす」と訳しています。」NIVでも「shut」(閉じる)と訳しています。Kings will shut their mouths because of him. 主のしもべのゆえに、王たちは口を閉じるのです。口を閉じるほかないんです。ひれ伏す以外にないのです。その御業があまりにもすばらしいがゆえに。

いったい口をつぐむとはどういうことでしょうか?黙示録5章6~14節までを開いてください。 「6 さらに私は、御座―そこには、四つの生き物がいる―と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。7 小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。8 彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。 9彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、10私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」 11また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。12彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」13また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にありますように。」 14 また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。」

これは天における情景です。6節を見ると、ここに「ほふられたと見える小羊が立っているのを見た」とあります。これはイエス・キリストのことですね。イエス・キリストは、神の小羊としてほふられて十字架につけられました。その後、復活して天に昇られ、神の右の座につかれましたが、まだその手と足には釘の跡が残っていたのでしょう。「ほふられたと見える小羊」が立っていたと記されてあるのです。そのほふられたと見える小羊を前に、四つの生き物と二十四人の長老、これは贖われた聖徒たちと言ってもいいと思いますが、ひれ伏して賛美をささげました。

「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、10私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」(9-10)

彼らは口をつぐんではいませんが、小羊に向かって、大声で賛美をささげました。なぜなら、彼はその血により、あらゆる人々を贖い、王とし、祭司とし、この地上を治めるようにしてくださったからです。この十字架の御業を前にして、もう何の言葉もありません。あるのはただこの方への賛美だけです。これが口をつぐむということです。

このことが、私たちにも求められています。私たちはこの方を前にしてもう何の言葉ありません。あるのはただただこの方への賛美と感謝だけです。私のためにそこまでしてくださったほふられた小羊に対して、自分の全存在をもって賛美をささげる以外にないのです。「ほふられた小羊、あなたは、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、光栄と、賛美を受けるにふさわしい方です。」と賛美するしかないのです。それがやがて私たちが天ですることでもあります。

しかし、それは天においてばかりでなく、今、この地上においても同じことが言えます。私たちは今、この地上にいながらも、私たちのためにほふられ、十字架にかかってくださり、罪の贖いを成し遂げてくださったイエス・キリストの前に口をつぐみ、ただひれ伏して、賛美をささげることができるのです。ことばにできない思いを、賛美と感謝をもって現すことができるのです。

こんな私のために、こんなに醜い、罪深い私のために、全く罪のない方がその顔だちがそこなわれもはや人のようではないくらいに殴られ、つばきをかけられ、裸にされてむち打たれ、あげくの果てに十字架にまでかかって死んでくださったのです。何という恵みでしょうか。本当に驚くばかりの恵みです・・・と。

あの有名な賛美歌「アメージング・クレース」を書いたジョン・ニュートンは、この驚くばかりの恵みに触れて、この賛美歌を書きました。彼は奴隷船の船長としてアフリカからイングランドに黒人奴隷を輸送していたある日(1748年5月10日)、船が嵐に遭い浸水、転覆の危険に陥ったのです。今にも海に呑まれそうな船の中で、彼は必死に神に祈りました。敬虔なクリスチャンの母を持ちながら、彼が心の底から神に祈ったのはこの時が初めてだったといいます。しかし、神は彼の祈りに答えてくださり、船は運よく難を逃れました。  彼はこの日を精神的転機とし、それ以降、酒や賭け事、不謹慎な行いを控え、聖書や宗教的書物を読むようになり、やがて牧師になっていくわけですが、過去のあの出来事を思い返し、黒人奴隷の貿易という人間として最低のような自分を救ってくれた神の恵みは何と大きいものかと、この「アメージング・グレース」を書いたのです。それは彼があの遭難にあってから24年後の1772年のことでした。

私たちはジョン・ニュートンではありませんが、でも、私たちもこの主のしもべイエス・キリストの十字架の御業を前にして、口をつぐむ(閉じる)べきです。口を閉じて、だだこの方の前にひれ伏して、感謝と賛美をささげるべきなのです。不平不満を言うべきではありません。自分のことを責めたり、他の人のことを非難したりするのは止めるべきです。ただこの方の前に口を閉ざし、感謝と賛美をささげる以外にはありません。なぜなら、この方は私の罪も、また他の人の罪も全部背負って十字架で死んでくださったからです。自分がどんなに哀れで、かわいそうかといった自己憐憫はやめるべきです。あれがない、これがないといった不平不満、あの人が悪い、この人が悪いといった非難もやめるべきです。文句ばかり言って、自分が悲劇のヒロインであるかのようにふるまうことも必要ありません。ただ口をつぐむだけです。

もしあなたがイエス・キリストの十字架の足下にいたら、きっと何も言えなくなるでしょう。そういう賛美歌がありますね。「君もそこにいたのか」(新聖歌113番)です。 「きみもそこにいたのか 主が十字架に付くとき ああなんだか心が震える 震える 震える 君もそこにいたのか

きみも聞いていたのか 釘を打ち込む音を ああ何だか心が震える 震える 震える 君も聞いていたのか

きみも眺めてたのか 血潮が流れるのを ああ何だか心が震える 震える 震える 君も眺めていたのか

君も気がついたのか 突然日がかげるのを ああ何だか心が震える 震える 震える 君も気がついたのか    君も墓に行ったのか 主をば葬るために ああ何だか心が震える 震える 震える 君も墓に行ったのか。」

もしあなたが十字架の下にいたなら、ただ心が震えるだけです。それが自分のためであったとわかったなら、自分のことも、人のことも、何も言えなくなります。ただ黙ってひれ伏すしかありません。言葉に言い尽くせぬ感謝を、驚くべき恵みを、ただただ圧倒されながら、ひれ伏すしかないのです。「主よ。私は本当にわかっていませんでした。あなたの前に自分がどのような者であったのかを。あなたの前にはただの罪人でしかなかったことがわかりました。そんな私をあなたは赦してくださいました。」そう悔い改めた上で、その感謝と喜びを、全身全霊をもって言い表したいと思うようになるのです。すべてを知っておられる神の前に、自らの心を注ぎだして、心からの賛美をささげるようになるのです。それが本当の礼拝です。

15節の最後のところを見てください。ここには、「彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ。」とあります。「こんな話は聞いたこともなかった」「そんなしもべの姿なんて見たこともなかった」「もう何年も教会に来ているけども、全然わからなかった」「それがわかった」と言うようになるということです。

ヨハネ3章16節はとても有名なみことばで、聖書の中心的なみことばです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

神は愛です。神は罪のないひとり子を、自分のいのちよりも大切なたった一人のひとり子を、この私たちのために与えてくださいました。それほど私たちを愛してくださいました。その神の愛がわからなかった。確かに何回も聞いていました。知っていると思っていました。でも全然わからなかった。全然理解していませんでした。それが今やっとわかった。それは単なる口先だけの愛ではなくこの歴史の中で実証された愛であったということを。十字架でそのひとり子を与える愛だということがはっきりわかった、ということです。そういう人はみな口をつぐむようになります。ただ黙ってこの方の前に伏し拝み、ひれ伏すようになるのです。

皆さんはどうですか。私たちも何度も聞いていたことかもしれません。しかし、頭で分かっていても心でわかっていないこともあります。この方はあなたのために死んでくださいました。十字架で死んで、あなたの罪を贖ってくださったのです。ボコボコにされて、もはやその顔だちは人でないかと思われるくらいに苦難を受けられました。しかし、それはあなたのためであり、私のためだったのです。それほどまでに愛してくださいました。私たちはこの方の前に口をつぐんで、ただ黙って伏し拝みましょう。そして、私たちのために成し遂げられたその十字架の御業に感謝し、心からの賛美と礼拝をささげるものでありたいと思います。それが高く上げられた主のしもべにふさわしい応答なのです。

イザヤ書52章1~12節 「救いの良い知らせ」

きょうはイザヤ書52章から、「救いの良い知らせ」というタイトルでお話します。きょうのところにも神の慰めのことばが続きます。前の章では、「わたし、このわたしが、あなたを慰める。」(51:12)と力強く語られましたが、ここでも、主がその民を慰めてくださいます。主はあの手この手で彼らを慰め、主に贖われた者の受ける恵みがどれほど大きいものなのかを伝えようとしておられるのです。

Ⅰ.ただ恵みによって(1-6)     まず1節から6節までをご覧ください。1節には、「さめよ。さめよ。力をまとえ。シオン。あなたの美しい衣を着よ。聖なる都エルサレム。無割礼の汚れた者が、もう、あなたの中に入って来ることはない。」とあります。

「さめよ。さめよ。」というのは51:9と51:17にも出てきましたが、ここに再び出てきています。51:9では、イスラエルの民が神に対して「さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ。」と叫びましたが、51:17のところでは、神がイスラエルに向かって語られました。目をさまさなければならないのはあなたの方なんですよ・・と。今、自分たちがどのような状況に置かれているのかを目を覚ましてよく見なさい、と言われたのです。ここでも同じです。神はイスラエルに、「さめよ。さめよ。力をまとえシオン。あなたの美しい衣を着よ。」と言って、彼らに自分たちの姿をよく見るように、と語っています。

なぜでしょうか?なぜなら、あなたはもうすでに救われたからです。捕囚から解放され、失われたすべてのものが回復しました。もう無割礼の汚れた者が入ってくることはありません。これはバビロンのことを指して言われていますが、バビロンは完全に滅ぼされました。だからもう何の心配もいらないのです。

だから2節にはこうあるのです。「ちりを払い落として立ち上がり、もとの座に着け、エルサレム。あなたの首からかせをふりほどけ、捕囚のシオンの娘よ。」   「ちりを払い落として立ち上がり」とか、「あなたの首からかせをほどけ」というのは、いつまでも捕囚されているような格好をしていてはいけないということです。「ちり」と「かせ」は奴隷の姿を表しています。彼らはバビロンに捕らえられ、ちりと泥にまみえながら働かなければなりませんでした。また鉄や木でできたかせで手や足、首などがはめられて、からだを自由に動かすことができませんでした。しかし今は、そのような状態から解放されました。ですから、ちりを払い落とさなければなりません。かせをふりほどかなければならないのです。

それは私たちも同じです。私たちもかつては罪の泥やちりにまみえ、罪のかせをはめられていました。けれども、神の恵みによってイエス・キリストの十字架の贖いによって救われました。もう罪の奴隷ではありません。そこから解放されたのです。ですから、罪の奴隷であった時のちりを払い落とし、かせをふりほどかなければなりません。いつまでも罪の奴隷であるかのように歩んでいてはいけないのです。罪の奴隷であるかのようにいつまでもクヨクヨしたり、ちょっとしたことで悲しんだり、つぶやいたり、嘆いたりして、異邦人がむなしい心で歩んではならないのです。

このことをパウロも、エペソ人への手紙の中で言っています。「そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。」(エペソ4:1)あなたがたは心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を着るべきであって、人を欺く情欲によって滅びていく古い人を脱ぎ捨てるように、と勧めたのです。(同4:22~23)

そのためには自分がどのような者になったのかをちゃんと見なければなりません。目を覚まして、自分が置かれている状況をよく見なければならないのです。イエス・キリストを信じて全く新しい人にされたこと、永遠の滅びから解放されたことを見て、古いちりを払い落とし、首からかせをふりほどかなければならないのです。

3節をご覧ください。「まことに主はこう仰せられる。「あなたがたは、ただで売られた。だから、金を払わずに買い戻される。」    どういうことでしょうか?普通、物を売ったり買ったりする時には、そこにお金のやり取りが生じますが、ここには、イスラエルがバビロンから解放されるにあたってはそうしたお金のやり取りがないというのです。イスラエルはただで買い戻されるというのです。なぜなら、彼らはただで売られたからです。どういうことでしょうか?4節と5節をご覧ください。

「まことに神である主がこう仰せられる。「わたしの民は昔、エジプトに下って行ってそこに寄留した。またアッシリヤ人がゆえなく彼らを苦しめた。5 さあ、今、ここでわたしは何をしよう。―主の御告げ―わたしの民はただで奪い取られ、彼らを支配する者たちはわめいている。―主の御告げ―また、わたしの名は一日中絶えず侮られている。」(4,5)

ここには、かつてイスラエルがエジプトに下って行ってそこに寄留したこと、そして、アッシリヤ人が理由もなく彼らを苦しめたことが語られています。それは今も同じです。今もバビロンの捕囚の民として苦しめられています。イスラエルの歴史を見ると、彼らはずっと苦しめられてきたのです。  しかし、よく考えてみてください。このイスラエルは誰のものなのでしょうか?51:16のところで、主は「あなたはわたしの民だ」とイスラエルに言われたように、彼らは神のもの、神の民なのです。その神の民を彼らに売り渡した覚えなどありません。確かにイスラエルは自分の罪のために神から離れ、その罰を受けました。アッシリヤとかバビロンによって苦難を受ける結果となりました。しかし、それはあくまでも彼らを懲らしめるためであって、彼らを売り渡したわけではないのです。なのに彼らは何を誤解したのか、自分たちの所有物であるかのように勝手に危害を加えました。そんなことがいったい許されるのでしょうか。そのことで一番侮られているのは神ご自身です。主の御名が辱められているのです。

たとえば、モーセがイスラエルの民を行かせるようにとエジプトの王パロに言ったとき、パロは何と言いましたか?「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない。イスラエルを行かせたりはしない。」(出エジプト5:2)と言いました。  また、ヒゼキヤがイスラエルを救い出してくださると言って民を励ましたとき、アッシリヤの将軍ラブ・シャケは、「だれか自分の国をアッシリヤの王の手から救い出しただろうか。・・・主がエルサレムを私の手から救い出すとでもいうのか。」(イザヤ36:18-20)」と言いました。彼らはそう言ってイスラエルの神を侮ってきたのです。

それゆえ、主は彼らにこのようにされます。6節です。「それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るようになる。その日、『ここにわたしがいる』と告げる者がわたしであることを知るようになる。」     神の名が侮られているわけですから、そのまま見過ごすわけにはいきません。神はご自分の御名のゆえに立ち上がられ、彼らを救い出されるのです。そうして、イスラエルは主の名を知るようになるのです。ここで明らかなことは、このように神が動かれるのは私たちのためではないということです。それはあくまでも神ご自身の御名のためであり、神ご自身が侮られることがないためです。すなわち、彼らが救われたのは、神様の一方的な神の恵みによるものであったということです。

皆さん、いったい私たちはなぜ救われたのでしょうか。わかりません。私たちが優れていたからとか、頭がいいから、上品だから、いい人だから、真面目だから・・ではありません。私たちが救われたのは、ただ神が私たちを愛してくださったからです。ただ神がそのようにしたかったからなのです。私たちのゆえではありません。神の御名のためです。神の御名があがめられるために、神に栄光が帰せられるために、神がそのようにしてくださったのです。

エペソ人への手紙2章には、次のように書かれてあります。 「1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ 支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、 肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを 受けるべき子らでした。4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが 救われたのは、ただ恵みによるのです―6 キリスト・イエスにあって、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。 7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:1-9)

皆さん、私たちが救われたのは、ただ神の恵みによるのです。私たちは罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、空中の権威を持つ支配者として今も不従順らの子らの中にしたがって、歩んでいました。死んでいたのですから、ウンともツンとも言わないわけです。自分では何もすることができません。そんな者が救われるとはいったいどうしてなのでしょうか?それは、そのように死んでいた私たちを神が生かしてくださったからなのです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛されました。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ3:16)

神はそのために神のひとり子であられたイエス・キリストを私たちに賜りました。賜るというのはプレゼントとして与えてくださるということです。それは、神からの一方的なプレゼントだったのです。もうすぐクリスマスですが、クリスマスにはたくさんのプレゼントをします。その最大のプレゼントは、神が私私たちに与えてくださった御子イエス・キリストだったのです。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためでした。それは一方的な神の恵みによるものだったのです。

恵みによる救いを意味するこんな物語があります。ある人が深い穴に落ちてしまいました。とても深くて、自分では、はい上がることはできません。そこへ釈迦がやってきました。「ああ、あなたの業がそうさせたのですね。残念です」と悲しい顔をしながら去って行きました。次に孔子がやってきました。「ああ、私の教えを守っていればそんなことにならなかったのに」と悔しそうに去って行きました。その後、一人の人が来ました。だまって、ロープを降ろし、穴の中に降りて行きました。そして、彼を抱え、引きあげてくれました。その方こそ、イエス・キリストです。

皆さん、恵みとは何でしょうか。恵みとは、受けるに値しないものが受ける賜物(プレゼント)のことです。昔は「いさおし(手柄、功績)のない者に与えられる厚意」と言いました。恵みと相対するものが、報酬です。報酬とは自分が働いていただく賃金のことですね。これは、働いた者が得る当然の権利と言えるでしょう。しかし、救いは報酬ではありません。救いは神からの恵みなんです。もし、功績や行ないで救いが得られるとしたらどうなるでしょうか?天国では自慢大会になるでしょう。「私はこれだけのことをやったから救われたんです」。もう一人の人が来て、「あなたは、よくそれで救われましたね。私なんかこんなこともしたんですよ」と言うでしょう。でも、天国は謙遜なところです。「こんな罪深い者でも救われたんです。イエス様はすばらしい。アーメン」。もう一人の人が来て、「いやいや、私なんか箸にも棒にもかからない者でしたが、救われたんですよ。イエス様は素晴らしい。アーメン」。救いは恵みなので、だれも誇る人がいません。罪過と罪との中に死んでいた者たちの運命はどうだったでしょうか?生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。神のさばきを受けて、地獄に行くべき運命だったのです。滅びるのが当然でした。しかし、あわれみ豊かな神は、その大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。私たちが救われたのはただ恵みによるのです。これは、全人類が滅びの中にあるにもかかわらず、例外があったということです。それは、まるで死刑囚が特赦を受け、無罪放免になるようなものです。これはものすごいことであって、この上もない喜びなのです。

「それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るようになる。」神の救いは神の一方的な恵みによるのであって、私たちの行いによるのではないということをしっかりと覚え、私たちの信仰生活がこの恵みによって貫かれていくものでありたいと思います。

Ⅱ.幸いな良い知らせ(7-10)

次に、7節から10節までをご覧ください。7節をお読みします。「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる」とシオンに言う者の足は。」

これまでイザヤは、イスラエルがバビロンから救われるということを預言しました。しかもそれは「それゆえ」の救いでした。彼らが何かをしたからではなく、何もしなくても、いや何もできなくても、神が彼らを一方的に救ってくださいます。これが福音です。グッド・ニュース、良い知らせです。ここでは、その「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。」と言われています。

パウロはこの箇所を引用して、福音宣教のすばらしさについてこのように言いました。ローマ人への手紙10章の13節から15節までをお読みします。 「13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」    ここでは「美しい」ではなく「りっぱでしょう」と言われています。皆さん、足と言ったら汚いイメージがあります。誇りや泥にまみえて汚かったり、汗臭いということもあるでしょう。水虫もあります。あまりきれいなイメージはありません。ですから、イエス様の時代でも足を洗うというのは奴隷の仕事でした。しかも一番ランクの低い奴隷の仕事だったわけです。しかしその足が、ここでは「美しい」と言われているのです。「りっぱでしょう」と言われてるのです。なぜでしょうか?良い知らせを伝えるからです。良い知らせを伝える者の足は美しいのです。決して美しくないものでも美しくなります。福音を宣べ伝える人は一番美しい。カッコイイのです。英語でいうと「COOL!」です。見た目がどうのこうのというのは関係ありません。見た目は汚くても、福音を伝える人は美しいのです。

なぜなら、それは平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせるからです。喜びの知らせを持ってそれを告げ知らせるわけですから、喜びに満ち溢れるのです。想像してみてください。皆さんが何かすばらしい知らせを持っていて、それをだれかに告げ知らせる役であったとしたら、皆さんはどんなにうれしいでしょう。私はよく家内に、あなたはちっとも黙っていられない、と言われるのですが、こんなにすばらしい知らせを持っていたとしたら、どうやって黙ってなどいられるでしょうか。話すなと言われても無理でしょう。それは希望に満ちた解放のメッセージなので、感動と喜びに満ち溢れるからです。

そのメッセージの内容は何かというと、「あなたの神が王となる」です。今までは自分が神でした。あの裸の王様のように、自分が人生の王様であるかのように振る舞っていました。そしてその結果はどうであったかというと破壊的であり、実にむなしいものでした。自分ほど頼れるものはないと思っていたのに、自分ほどいい加減なものはないということがわかりました。しかしそこに別の王様が来られ、廃墟となった私たちの人生を立て直してくださいました。それがあなたの神です。あなたの神が王となってくださったので、あなたは破壊的な人生から救われ、平和と喜びに満たされた人生を歩むことができるようになったのです。ですから、その知らせを伝える者の足は美しいのです。りっぱなのです。

ある人が書いた本の中に、なぜ今の教会は強くないのかということ書かれてありました。それによると第一の理由は、主イエスを救い主として受け入れた人たちが、キリストの弟子になっていないということです。イエス様を信じたけれども、イエス様に従う生活をしていない。まだ自分が裸の王様のようになっているというのです。第二のことは、イエスを救い主として信じた人たちがキリストの使徒になっていないということです。キリストの教えをいっぱい受けてはいるけれども、人々に福音を伝えるために出て行っていないというのです。

なるほど、どんなにキリストを信じてもキリストに従わなければ何の変化も起こりません。キリストを信じてもまだ罪の中にいるかのように振る舞ってしまうことになります。また、福音の恵みを受けるだけでそれを外に出さなければ、つまり、それを宣べ伝えようとしなければそこに喜びは生まれてはこないのです。良い知らせを伝える者の足は美しいのです。私たちは美しい足になりましょう。良い知らせを伝える足となって、美しく、健康的な、そして魅力的な、カッコイイ者になりましょう。

8節には「見張り人」が出てきます。見張り人とは城壁の見張り台に立っている人のことです。そこに立って、敵が来たら警鐘を鳴らしたり、伝令が来たらそれをいち早く見つけて聞き、すぐに伝達しました。その見張り人たちが、声を張り上げ、共に喜び歌っているのです。なぜでしょうか?その後のところに理由が記されてあります。「彼らは、主がシオンに帰られるのを、まのあたりに見るからだ。」

良い知らせを伝える者がやって来て、主がシオンに帰られるのを、まのあたりにするからです。主がシオンに帰られるとどのようなことが起こるのでしょうか。廃墟となったエルサレムが立て直されることになります。これは本当に慰めではないでしょうか。人にはできないことを神はしてくださいます。神はバビロンに捕らえられていたイスラエルを解放してくださるだけでなく、廃墟となったエルサレムを立て直してくださいます。主がその民を慰め、エルサレムを贖ってくださるのです。これは良い知らせではないでしょうか。そしてそれはエルサレムだけでなく、すべての国々に対しても同じです。主はイエス・キリストによって私たちを罪から救い出し、天の都、天のエルサレムを贖ってくださいました。主はすべての国々の目の前に、聖なる御腕を現してくださいます。それによって、地の果てもみな、私たちの神の救いを見るようになるのです。これは、すでに教会が誕生したことによって、その霊的な側面は実現しました。エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、キリストの救いがもたらされました。地の果てのすべての者が、神の救いを見るようになったのです。

Ⅲ.去れよ。去れよ(11-12)

ですから結論は何かというと、去れよ。去れよ。そこを出よ。ということです。11節と12節にこうあります。ご一緒に読んでみましょう。「11 去れよ。去れよ。そこを出よ。汚れたものに触れてはならない。その中から出て、身をきよめよ。主の器をになう者たち。12 あなたがたは、あわてて出なくてもよい。逃げるようにして去らなくてもよい。主があなたがたの前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ。」

イスラエルは、神の一方的な恵みによって救われました。美しい衣を着せられたのです。また、その足には平和の福音の備えをはきました。良い知らせを伝えるために、平和の福音の備えをはいたのです。そんな彼らに求められていたことは何かというと、「去れよ。去れよ。そこを出よ。」ということでした。あなたはバビロンから救われて美しい衣を着せられました。バビロンから出たのだからちりを落とし、かせをふりほどかなければなりません。そして、そこを出て、汚れたものに触れてはならないのです。その中から出て、身をきよめなければなりません。

しかし、あわてる必要はありません。逃げるようにして去らなくてもいいのです。なぜなら、主があなたの前を進み、イスラエルの神が、あなたのしんがりとなられるからです。エジプトを出る時のように急ぐ必要はありません。もう追っ手が来ることはないからです。敵であるサタンがやって来てもう一度あなたをつかまえ、あなたを罪の滅びに至らせるようなことはありません。一度救われた人はその救いを失うようなことは決してないからです。あなたがどんなに主を忘れても、あなたがどんなに主から離れても、主はあなたを忘れることはありません。あなたをつかんで離すことはありません。

イエスは、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と約束してくださいました。主がいつもあなたとともにいて、あなたの前を進み、あなたのしんがりとなってくださいますから、慌てる必要はありません。ゆっくりと、しかし確実に、あなたはあなたを贖ってくださった主の恵みに感謝して、バビロンから去らなければなりません。いつまでも、罪の中にとどまっていてはいけません。美しい衣を着せられたのですから、良い知らせ、福音の備えをはいたのですから、バビロンから出て、身をきよめなければならないのです。過去のライフスタイルにしがみつくのはやめて、あなたを救ってくださった主に喜ばれる道を歩まなければなりません。

あなたのバビロンは何でしょうか。あなたがなかなか出られないで苦しんでいるものは何でしょうか。しかし、それがどんなものであっても、あなたは美しい衣を着ました。良い知らせを受けたのですから、あなたはそこから出なければなりません。ゆっくりと、しかし確実に、そこから出て、神に喜ばれる道を歩ませていただきましょう。罪から救われた者としていつまでも罪の中にとどまっているのを止めて、神にすべてをささげて歩む人生を、今から始めさせていただこうではありませんか。

イザヤ書51章12~23節 「このわたしが慰める」

きょうは51章後半の箇所から、「このわたしが慰める」というタイトルでお話します。ここには神の慰めのメッセージが続きます。神はどのようにイスラエルを慰めてくださるのでしょうか。1節には、「あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。」とありました。まずあなたの過去をよく見なさい、というのです。あなたがどこから出て、どのように救われたのかを見るなら、あなたは感謝と喜びに溢れるようになるでしょう。

そればかりではありません。今度は彼らの目を未来に向けます。5節、「私の義は近い。わたしの救いはすでに出ている。」とあります。神の救いが来ます。主イエスが再び来られる時がやってきます。その時には、主がすべてを正しくさばいてくださいますから、この約束に目を留めるように、というのです。

そして、現実へと目を向けさせます。「さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ。」(9節)けれども、主よ、現実を見てください、と言うあなたに、過去において偉大な御業をなされた主は、現実の問題にも必ず勝利をもたらしてくれると約束しているのです。ただ時があります。それは私たちの時とは違います。神のなさることは、すべて時にかなって美しい、とありますが、神はちょうど善い時に最善のことをしてくださいます。その主に頼り頼まなければなりません。

きょうのところでは、このようなことを前提に、私たちが慰めを受けるためにどうしても必要なことを取り上げています。それは「恐れ」です。主は私たちを恐れから解放してくださることによって慰めてくださるるのです。

Ⅰ.あなたはわたしの民だ(12-16)

まず第一に、12節から16節までを見ていきましょう。12節には、「わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。あなたは、何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは。」とあります。

ここでは「このわたし」が強調されています。真にあなたを慰めることができるのは「このわたし」であって、他にはいません。神だけがあなたを慰めることができるのです。なのに、なぜ死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れなければならないのでしょうか。

13節をご覧ください。「天を引き延べ、地の基を定め、あなたを造った主を、あなたは忘れ、一日中、絶えず、しいたげる者の憤りを恐れている。まるで滅びに定められているかのようだ。そのしいたげる者の憤りはどこにあるのか。」

私たちはすぐに忘れてしまいます。私たちの神がどのような方であるのかを。私たちの神は、天地万物を創造された創造主なる神です。また、あなたを造られた造り主です。この方が、どうしてあなたのことを忘れることがありましょうか。49章15節には「女が乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」とあります。絶対に忘れることはないのです。忘れているのは私たちの方なのです。あなたを創られた主は決して忘れることなくいつもあなたを覚え、助けてくださいます。なのに私たちはそのことを忘れては、あなたをしいたげる者たちの怒りや憤りを恐れてしまうのです。

それはまるで滅びに定められている者であるかのようです。私たちは、滅びに定められているんですか?いいえ、.違います。私たちは、永遠の滅びから救われた者です。十字架で死なれ、三日目によみがえられた救い主イエスを信じたことで、罪の赦しと永遠のいのちをいただきました。もう地獄に行くことは絶対にありません。私たちは、永遠の滅びから救われたのです。であるなら、いったい何を恐れる必要があるというのでしょうか。何も恐れることなどありません。イエスは言われました。「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)

そればかりではありません。14節を見てください。ここには、「捕らわれ人は、すぐ解き放たれ、死んで穴に下ることがなく、パンにも事欠かない。」とあります。

「捕らわれ人」とは、バビロンに捕らわれていたイスラエル人のことです。彼らはすぐにバビロンから解放されると、死んで穴に下る心配も、パンに事欠くこともありません。主が彼らの必要のすべてを満たしてくださるからです。同じように、罪に捕らわれていた人もイエスを信じ罪から解放されると、主がそのすべての必要を満たしてくださいますから、何も心配いらないのです。

「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。」(マタイ6:31)天の父がちゃんと養っていてくださいます。空の鳥を見なさい。野の花を見なさい。種まきもせず、刈り入れもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。だから、明日のための心配は無用です。明日のことは明日が心配します。労苦はその日その日に、十分あるのです。

皆さんが恐れているのは何でしょうかか?皆さんが心配しているのは何ですか?「また年金が減なった。これからどうしよう」とか、「体の調子が悪いな。このままだとどうなってしまうんだろう。」大丈夫です。天の父がちゃんと養っていてくださいますから。捕らわれ人は、すぐに解き放たれ、死んで穴に下ることがなく、パンにも事欠くことがないのです。あなたがこの約束に信頼するなら、何も心配する必要はないのです。

15節と16節を見てください。「15 わたしは、あなたの神、主であって、海をかき立て、波をとどろかせる。その名は万軍の主。16 わたしは、あなたのことばをあなたの口に置き、わたしの手の陰にあなたをかばい、天を引き延べ、地の基を定め、「あなたはわたしの民だ」とシオンに言う。」

これはすごいことですね。主がわたしたちを「あなたはわたしの民だ」と言ってくださるのです。その方は「海をかき立て、波をとどろかせる方」です。「天を引き述べ、地の基を定めた方です。その名は万軍の主です。その方があなたを、「あなたはわたしの民だ」と言われるのですから。私たちは本当にちりのような者で、フッと吹けばどこかに飛んでいくようなものなのに、そのような者を「あなたは私の民だ」と言ってくださるのです。

皆さんは、自分をこれまでどのように見ておられたでしょうか。私はイエス・キリストによって贖われ、神のものとなった「神の民」であるという自覚していましたか。自分がどういうものなのかを「アイデンテティー」と言いますが、このアイデンテティーを正しく持っているかどうかは、クリスチャンにとってとても大きなことです。なぜなら、もしあなたがこうしたアイデンテティーを持っていたれば、何も恐れる必要などないからです。

それはちようど大富豪の奥さんのようです。大富豪の奥さんは生活のことでいろいろ思い悩んだりするでしょうか。「ああ、明日どうやって生きていこう。」「食べるお金がない。着る着物もない。家のローンをどうやって払っていったらいいでしょう」そういう悩みはありません。必要のすべては備えられているからです。それと同じように、私たちこの天地を創られ創造主なる神のものです。聖書ではクリスチャン、教会のことを「キリストの花嫁」とありますね。そうなんです、私たちはキリストの花嫁です。キリストによって贖われ、神の民となりました。ですから、もう何も思い悩む必要がないのです。神はあなたを「あなたはわたしの民だ」と言ってくださいます。これは本当に慰めではないでしょうか。あなたがどのような立場に置かれているのかを忘れないでください。あなたは神によって贖われた神の民なのです。そのことを覚えるなら、あなたに深い平安が与えられます。

Ⅱ.さめよ。さめよ。エルサレム(17-20)

次に17節から20節までをご覧ください。17節です。「さめよ。さめよ。立ち上がれ。エルサレム。あなたは、主の手から、憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した。」

9節にも「さめよ。さめよ。」という言葉がありましたが、ここにも「さめよ。さめよ」という事がが出てきます。9節ではイスラエルが神に対して、「さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ。」と言われていましたが、ここでは逆です。神がイスラエルに向かって語っています。「さめよ。さめよ。立ち上がれ。エルサレム。」エルサレムよ。お前たちこそ目を覚ませ、というのです。なぜでしょうか。彼らは自分たちの置かれている状況をよく見ていなかったからです。

ある人がこんなことを言っています。「神の目を覚ます祈りは、私たちの目を覚ますものでなければならない。」これは含蓄のある言葉ではないでしょうか。「神の目を覚ます祈りは、私たちの目を覚ますものでなければならない。」神に目を覚ましてくださいと言うのなら、まず自分の目を覚まさなければならないというのです。目を覚まして、自分の置かれた現状がどうなのかをしっかりと見なければなりません。

では、彼らはどのような状況に置かれていたのでしょうか。「あなたは、主の手から、憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した」

「憤りの杯」とか、「よろめかす大杯」とは、神のさばき、神の懲らしめのことを指しています。具体的にはバビロン捕囚のことです。彼らは神に背を向け、自分勝手な道に向かって進んで行ったので、神は彼らを懲らしめるためにバビロンという国を起こしたのです。19節に「滅亡と破滅、ききんと剣」とありますが、これら二つのことが彼らを見舞ったのです。それはまさに酒に酔っぱらってふらついているかのようでした。

なのに18節を見てください。「彼女が産んだすべての子らのうち、だれも彼女を導く者がなく、彼女が育てたすべての子らのうち、だれも彼女の手を取る者がない。」のです。なぜなら、20節にあるように、彼らの子もまた網にかかった大かもしかのように気を失っていたからです。気を失って、すべての町かどに倒れ伏していました。

イスラエルはそのような状態だったのです。彼らは目を覚まして、この現実をしっかりと見なければなりませんでした。その現実を見て、悔い改め、神に立ち返らなければならなかったのです。それが「さめよ。さめよ。立ち上がれ。エルサレム。」ということだったのです。

皆さんはいかがですか。目を覚ましていらっしゃいますか。目を覚まして、自分の置かれている状況をちゃんと見ているでしょうか?自分たちに向けられている神の怒りの杯を見ているでしょうか。そして、それがどういうことなのかということを考えて、悔い改め、神に立ち返っているでしょうか。

ヘブル人への手紙12章5節から12節までを開いてください。ここには、神の懲らしめの目的が記されてあります。「5そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。6主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。8もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。9さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。10 ぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。11すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」

ここには、懲らしめの目的が書かれてあります。それは何かというと「訓練」のためです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。そのために懲らしめを与えるのです。もしあなたが本当に子どもを愛しているなら懲らしめを与えます。もしあなたがこどもに立派に成長してほしいと思うなら、ムチを控えることはしないでしょう。それと同じです。神は私たちを子として扱っておられるので、私たちを訓練するためにこうしたムチをあてられるのです。それは、平安な義の実を結ぶためです。何も神様は私たちのことが嫌いだからそうされるのではありません。私たちのことが嫌だからそうするのではないのです。そうではなく私たちを愛しておられるから、私たちが平安の義の実を結ぶために、あえてそのような苦難を与えておられるのです。

もちろん、彼らがバビロンの捕囚となったのは彼らの罪の結果でした。彼らがイスラエルの神を捨て、偶像に走ったからです。けれども、神はそんなイスラエルに「あなたはわたしのものだ」と言って、神の子として成長していけるように、いつも配慮をもって導いていてくださるのです。

これは韓国のクリスチャンの証です。だれも手を出さないほど傾いた工場を、ある人が買い取って、商品の開発をしたそうです。すると商品は飛ぶように売れ、彼はお金を稼ぐ楽しさに夢中になってしまいました。そして信仰生活がきちんと送れなくなってしまったのです。教会で大きな行事がある時は顔を出しても、会堂の後ろの方に座って、祝祷が終わる前に出て行きました。しかし、まさに事業を拡大していた最中に、通貨危機が襲って来たのです。融資は借金となり、商品を売る術もなくなってしまいました。  そうなってはじめて彼は、両手を上げて神の御前に出てひざまずき、祈り始めました。お金を失い、神を求めたのです。数日後、牧師に閉業礼拝をささげてほしいと頼みました。閉業礼拝が終わった後、彼は人々の前でこう告白しました。「私は無一文で始めて、無一文に戻りました。しかしこのことによって新しいいのちを得ることができました。万が一、事業がそのまま順調にいっていたら、私のたましいは永遠に神から離れていたことでしょう。きょうこの工場は閉めますが、信仰は新しくされました。どれほど感謝なことでしょうか。私の人生はここから始まります。」

すごいですね。このように言える人はそんなにいないと思います。彼は事業に失敗しましたが、このことによって神に出会い、人生の方向を正すことができたので感謝したのです。閉業の痛みよりも救いの喜びの方がもっと大きかったのでしょう。これは、人間の頭では理解することも、受け入れることもできないことです。まことに神に出会い、神の主権と驚くべき摂理を認める人たぢけができる告白なのです。目を覚ますというのはこういうことなのです。

Ⅲ.取り上げられた怒りの杯(21-23)    最後に21節から23節までを見て終わりたいと思います。21節と22節の前半の部分を読みます。「21 それゆえ、さあ、これを聞け。悩んでいる者、酔ってはいても、酒のせいではない者よ。22あなたの主、ご自分の民を弁護するあなたの神、主は、こう仰せられる。」    22節には、「あなたの主、ご自分の民を弁護するあなたの神」とあります。神は私たちを弁護してくださる方です。Ⅰヨハネ2章1節にも、こうあります。「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。」

イエス・キリストは、私たちを弁護してくださる方です。しかも腕の立つ弁護士です。なぜなら、この方は神であって完全な弁護をしてくださるからです。その弁護者なる神がこう言われる。22節と23節です。「あなたの主、ご自分の民を弁護するあなたの神、主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはあなたの手から、よろめかす杯を取り上げた。あなたはわたしの憤りの大杯をもう二度と飲むことはない。23わたしはこれを、あなたを悩ます者たちの手に渡す。彼らはかつてあなたに、『ひれ伏せ。われわれは乗り越えて行こう』と言ったので、あなたは背中を地面のようにし、また、歩道のようにして、彼らが乗り越えて行くのにまかせた。」

主はイスラエルに、彼らをよろめかす杯を彼らから取り上げ、もう二度と飲むことがないようにするということだけでなく、それを、彼らを悩ます者たちの手に渡す、と言われました。イスラエルを悩ます者たちとは誰のことでしょうか。それはバビロンのことです。彼らはかつてイスラエルに、「ひれ伏せ。われわれは乗り越えて行こう」(23)と言いましたが、今度はそれと同じことをバビロンに下すというのです。かつてイスラエルが抱えていた悩みを、今度は彼らが追うようになります。だから、彼らを恐れてはいけません。神を知らない人たちは、神の懲らしめによってひとたまりもありませんが、神に愛された者たちは、神の民とされた者たちのためには、神が弁護者となって守ってくださるので、何も恐れることはないのです。これは本当に慰めではないでしょうか。

今、あなたが恐れていることは何でしょうか。アメリカの牧師のウォーレン・W ・ワーズビーは、次のように言いました。「私たちの人生に恐れを起こすものは何ですか。すべての事例を調べて恐れの根本となる原因を探してみると、鮮明に浮かび上がる真理があります。恐れの根本的原因は不信仰です。恐れと信仰は絶対に友人になることはできません。ですから、恐れを克復する第一歩は信仰によって神を見上げることです。神を礼拝し、その方の偉大さと栄光を見上げてください。今もその方が御座におられることを覚えてください。」  この神を見上げることが恐れに打ち勝ち、この地にあって勝利ある人生を歩む秘訣なのです。

アメリカアトランタである一つの大きな事件が起こりました。それは強姦と殺人の罪で収監されていたブライアン・ニコラスという容疑者が、裁判に出廷するために収監されていた刑務所から裁判所に移送され、囚人服から一般服に着替えていた時、彼を看守していた刑務官から拳銃を奪い、そこにいた二人の看守を射殺しただけでなく、法廷の中に入っていき裁判官と書記官を殺害して逃走したのです。  そしてあるアパートの駐車場で、アリュリー・スミスという当時26歳の女性を人質にとって彼女の部屋に立てこもったのです。アシュリーは両手両足をテープで縛られ浴槽の中に閉じ込められました。彼女は自分も殺されるかもしれないという恐怖の中でも、なぜか平安がありました。自分がこのように人質になったのも何か神の目的があるのかもしれないと思ったからです。そして、リック・ウォーレンという牧師が書いた「人生を導く5つの目的」という本を読み、自分が以前麻薬中毒にありながらもイエスによって救われたことを証したのです。  すると彼の心が不思議に穏やかになりました。そのとき、ちょうど子どもをお迎えに行きたいんだけどいいかしら?と聞くと、すなり許してくれました。そして、彼女が警察に通報して事件は終息したわけですが、警察が部屋の中に突入したときに、彼は全く抵抗しなかったそうです。彼女が読んだ本と証によって、彼にも人生には目的があるということを悟ったからでしょう。  それにしても、いったい彼女のどこからそんな勇気が湧いてきたのでしょうか。アシュリーは神を見上げました。自分が読んでいたその本にあるように、私たちの人生には目的があるということを神の視点から見たからだと思います。彼女はその恐ろしい瞬間にも神を見上げ、神は最善を成される方てあると信じたのでした。

このように信仰によって恐れに打ち勝った人々は、冷静に落ち着きを取り戻し、その置かれた情況の中でしっかりと対処することができるようになります。恐れという縄で私たちを縛ろうとするサタンの働きを無力なものにし、霊的勝利を経験することができるのです。神の民であるあなたにもこのような勝利が約束されているのです。それは本当に慰めではないでしょうか。それは「このわたしが、あなたを」慰める」と言われる主を、信仰によって見上げることから生まれます。ですから、この神を見上げ、この偉大な神の栄光を礼拝しましょう。そのときあなたも恐れに勝利し、神の慰めを受けることができます。「このわたしが、あなたを慰める」ということばを信頼し、信じる者に働かれる神の力がどれほど偉大なものなのかを、私たちも体験させていただきましょう。

イザヤ書51章1~11節 「慰めてくださる主」

きょうは、イザヤ書51章のみことばから、「慰めてくださる主」というタイトルでお話したいと思います。私たちは日々いろいろなことで思い悩み、気落ちしますが、そのような時いったいどこに慰めを見いだすことができるのでしょうか。きょうのところには、「まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。」とあります。まことに、主は慰めてくださる方です。私たちはここに真の慰めを見いだすことができるのです。きょうは、この主の慰めについて三つのことをお話したいと思います。

Ⅰ.あなたの切り出された岩を見よ(1-3)

まず第一に、あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見なさい、ということです。1節から3節までをご覧ください。1節の冒頭には、「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。」とあります。「義を追い求める者」とはどのような者でしょうか?5節から8節までのところには、この「義」という言葉が何回も繰り返して出てきますが、このところをみると、「義」という言葉と「救い」という言葉が並記されています。たとえば、5節には「わたしの義は近い。」とあり、それに続いて「わたしの救いはすでに出ている。」とあります。また、6節にも「わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義はくじけないからだ。」とあります。また8節にも「わたしの義はとこしえに続き、わたしの救いは代々にわたるからだ。」とあります。つまり、義は救いであるということです。Ⅰコリント1章30節をみると、これはイエス・キリストそのものであることがわかります。そこには「キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」とあるからです。ですから、義を追い求める者とは究極的にはイエスを追い求める人のことであり、イエスを尋ね求める者のことなのです。ただこの時点ではまだキリストは来ていませんでしたから、その神の救いを追い求めていた者という意味で、イスラエルのことを指して言われています。

そのイスラエルに対して、「わたしに聞け」と言われています。「わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。2 あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。わたしが彼ひとりを呼び出し、わたしが彼を祝福し、彼の子孫をふやしたことを。3 まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。」

どういうことでしょうか?あなたがたの切り出された岩とか掘り出された穴とはイスラエルが出たところ、すなわち、彼らのルーツのことです。ですから、ここでは彼らがどこから出たのか、どのように出たのかをよく見なさい、と言われているのです。

具体的には2節にあるように、それはアブラハムとサラのことを指しています。イスラエルのルーツはだれでしょう。アブラハムとサラです。イスラエルは彼らは出ました。そのアブラハムとサラのことを考えてみよ、というのです。なぜでしょうか?なぜなら、彼らがアブラハムとサラのことを考えるなら、真の慰めと希望が与えられるからです。自分たちがどこから来て、どのようにして救われたのかを考えるなら、そこに現された神の恵みを見て感謝に溢れるようになります。何回も申し上げているように、このときイスラエルはバビロンに捕らえられ奴隷としての生活を強いられていました。そうした絶望的な状況にあっても自分たちがどのようなところから来たのかということを考えるなら、苦しみを乗り越え、希望を持って生きることができるようになるのです。

では、ここでアブラハムとサラについて考えみましょう。アブラハムとサラについて創世記11章のところから出てきますが、彼らは元々カルデヤのウルという町の出身であったことがわかります。このウルという町は現在のイラク南部の町で、当時はメソポタミヤ文明の中心地、高度な文明が栄えた大都市でしたが、月の神を拝んでいた偶像崇拝者でした。つまり彼らは全くの異邦人で、真の神からは遠く離れ、この世にあって何の望みもない人たちでした。そうした彼らが、神の一方的なあわれみによってその中から召し出されたのです。創世記12章1節には、「主はアブラムに仰せられた。あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」(創世記12:1)とあります。

これが、ウルにいた時なのかハランにいた時なのかははっきりわかりませんが、いずれにしても、彼らがまだ異教の地で偶像崇拝にどっぷりと浸かっていたときに、一方的な神の恵みによって救われたのです。そして、その約束に従って、地上のすべての民族は彼によって祝福されると言われました。つまり、彼らは最初から神の民として生まれたわけではないのです。全くの異邦人として、この世にあっては何の望みもないような者でしたが、神の一方的な恵みによって救い出されたのです。そのことを考えたら、どうでしょう。本当に感謝ではないでしょうか。

パウロはエペソのクリスチャンたちに、次のように書き送りました。「11ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、12そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。13しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。」(エペソ2:11~13)

この時エペソのクリスチャンたちは、まだ救われていなかった以前の生活に逆戻りして、異邦人がむなしい心で歩んでいるかのように歩んでいました。そのような生活から立ち返るにはどうしたらいいのでしょうか。そのめには彼らがどのようにして救われたのかを思い出す必要がありました。

私たちは苦しくなると、ついつい「昔は良かった」と言いますが、そのように言う前に、その昔がどのような昔だったのかを考えなければなりません。自分では昔、人生を謳歌しているつもりだったかもしれませんが、実際はというと、実に虚しかったはずです。神もなく、望みもなく、糸の切れた凧のようにさ迷っていました。神との関係がなければどんなに欲しいものを手に入れ、好き勝手なことをしていても虚しさだけが残ります。どんなに快楽を楽しんでいても、その都度何とも後味が悪く、虚しさと言いしれぬ不安につきまとわれていたはずです。死んだらすべてが終わりだという恐怖心もあったでしょう。でもあなたはそのような中から救われたのです。

私は高校3年生の時にイエス様に出会いましたが、その時の私はまさにそうでした。自分が進むべき道がわかりませんでした。大学進学の道がかなわず大手の会社に就職が決まると、毎日好き勝手な生活をしていました。自分の人生はどう せこんなものだろうとなげやりになり、何でも好きなことをやって生きようとしましたが、どんなに快楽を楽しんでも満足感はなく、かえって虚しさが残りました。地に足がついていないような生活でした。そんな時イエス様に出会いました。自分がどこから来て、どこにいるのか、そしてこれからどこに行くのかがはっきりわかりました。何のために生きているのかがわかったのです。すると心に喜びが溢れてきて、この主のために生きたいと願うようになりました。家はそういうことには全くの無関心で、私が教会に行って来るというと、「あんまり深入りしらんなよ」というような家でした。この世の慣習にどっぷりと浸かっているような家でしたが、そのような中から救い出されたのです。それはまさに奇跡であり、恵みです。そして、やがてそんなことを言っていた両親も信仰の告白に導かれ、洗礼を受けました。初心に返るということばがありますが、私はいつもいやなことや苦しいことがあるとき、いつもその時のことを思い出すようにしています。このことを思い出すとき私の心に感謝があふれ、うれしくなるからです。

中にはクリスチャンホームに生まれ育ち、気付いたら教会にいたとか、クリスチャンだったという人もおられるかと思いますが、それもまた恵みです。クリスチャンの両親が与えられたというのも、クリスチャンの信仰の財産を与えられたのも、すべて神が与えてくださったもので、神の恵みなのです。このことを思い出してほしいのです。

ところで、ここにはサラのことも書いてあります。「あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ」とあります。サラはどのようにしてイスラエルを産んだのでしょうか。イスラエルの先祖ヤコブの父はイサクですが、それはアブラハムが100歳の時、そしてサラが90歳の時に生まれたこどもです。その時サラは、もう自分には子を宿す力がないことを知っていましたが、約束してくださった方は真実な方だと信じました(ヘブル11:11)。たとえ置かれている情況がどんなに不利であっても、たとえ不可能に思える事でも、彼女は神には約束してくださつたことを成就する力があると信じました。その信仰によって、彼女はイスラエルを産んだのです。そして神はその約束にしたがって、彼の子孫をふやしてくださいました。つまりサラがイサクを産んだのは、神にはどんなことでもできるという信仰があったからです。たとえ不可能に見える状況であっても、その信仰によって彼らは生み出され、今や全世界に増え広がったのです。

このことを考えたらどうでしょうか。本当に慰められるのではないでしょうか。神は必ずイスラエルを顧みて下さるという確信が与えられ、喜びと感謝に溢れるようになります。3節に、「まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。」とあるようにです。

シオンとはエルサレムのことです。エルサレムはバビロンによって滅ぼされ、その跡形もなく廃墟と化しましたが、主はそんなシオンを慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにされます。今は廃墟と化し、荒野のような、砂漠のような荒れ果てた状態ですが、主はそんなシオンを慰めて、荒野をエデンのように、砂漠を主の園のようにしてくださるのです。

たとえあなたがたの目でそれがどんなに絶望的に見えても、神にとって不可能なことは一つもありません。約束してくださった方は真実な方ですから、たとえそれがどんなに不可能な状況であっても、その約束に従って御業を行ってくださるのです。それはあなたがたの父アブラハム、あなたがたを産んだサラのことを考えればよくわかることです。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見なければなりません。そうすればあなたがたは慰められ、希望をもって、立ち上がることができるのです。

Ⅱ.わたしに心を留めよ(4-8)

次に4節から8節までをご覧ください。4節には「わたしの民よ。わたしに心を留めよ。わたしの国民よ。わたしに耳を傾けよ。」とあります。

彼らが心を留め、彼らが耳を傾けなければならなかったことはどんなことだったのでしょうか?それはおしえは神から出るということです。そして、神が世界の光となって、道を示してくださるということです。

5節には、「わたしの義は近い。わたしの救いはすでに来ている。」とあります。この「義」とか「救い」というのはイエス・キリストのことでもあるとお話しましたが、このイエス・キリストが来られる時が近いのです。これはいつのことかというと今から二千年前にキリストが来臨されたことと同時に、世の終わりにおいてキリストが再びこの世界に来られる時のことです。6節から8節までを見ると、それはまさに世の終わりの情景です。

6節には「目を天に上げよ。また下の地を見よ。天は煙のように散りうせ、地は衣のように古びて、その上に住む者は、ぶよのように死ぬ。しかし、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義はくじけないからだ。」とあります。この天地がいつまでも続くことはありません。それはやがて終わりを迎えます。天は煙のように消え失せ、地は衣のように古びて、そこに生きている人間も、ぶよのように死んでしまうのです。そのようなものに人生のすべてをかけているとしたら、それほど虚しいことはありません。それによって慰められことはないからです。しかし神の救い、神の義に心を留めるなら慰めを受けます。なぜなら神の救いはとこしえに続き、神の義はくじけることがないからです。神は永遠に変わることがなく、その年は尽きることがないからです。

皆さんは何に心を留め、何に希望を置いているでしょうか。私たちが心を留めなければならないのは、神とその救いの御言葉だけです。なぜなら、それはとこしえに続き、代々にわたるからです。

イザヤ書40章6節から8節までのところを開いてください。ここには、「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。7 主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。8 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」とあります。  これが預言者のメッセージでした。すべての人は草なんです。その栄えはみな草の花ようです。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばはとこしえに変わることがない。そう叫びました。そこに希望があるからです。

Ⅰテサロニケ4章18節のところで、パウロは「このことばをもって互いに慰め合いなさい。」と勧めました。「このことば」とは何でしょうか?それは主が再び来られるというメッセージです。そのとき、キリストにある死者が最初によみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うようになります。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいるようになるのです。このことばをもって互いに慰め合いなさい。私たちが心を留め、耳を傾けるべきメッセージは、まさに「主が来られる」というメッセージです。そこに心を留めるなら、私たちは慰めを得ることができるのです。

イエスは言われました。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)主イエスは世の終わりまで、いつも私たちとともにおられます。どんなことがあっても私たちから離れることはありません。どんな大地震が起こっても、津波がすべてを奪っていくようなことがあっても、病気で余命いくばくかもないとしても、神は世の終わりまで、いつも、私たちとともにいてくださいます。これほど大きな慰めはないのではないでしょうか。

Ⅲ.神の時がある(9-11)

神の慰めを受けるために必要なもう一つのことは、神には神の時があるということを知ることです。9節から11節までをご覧ください。9節には、「さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ。さめよ。昔の日、いにしえの代のように。ラハブを切り刻み、竜を刺し殺したのは、あなたではないか。」とあります。

「さめよ。さめよ。」とは、料理が冷めるようにと言っているのではありません。「目を覚まして下さい」ということです。これは主への祈りであり、叫びです。目を覚まして、力をまとい、主の力強い御腕を、いかんなく発揮してくださいと叫んでいるのです。過去において、アブラハムとサラにすばらしい御業をなされたことはわかりました。将来においても、救いの御業をなしてくださるということもわかりました。でも現実を見てください。大変な情況にあります。バビロンに捕らわれ、奴隷としてこき使われて苦しんでいます。ですから、どうかこの情況から救ってください、というのです。彼らにとってはまるで神が居眠りしているかのように、何もしてくださらないと感じていたのでしょう。ですから「さめよ。さめよ」と言って、叫んでいるのです。

「いにしえの代」とは「昔」という意味です。「ラハブ」とはエジプトを表す象徴的な表現です。そして「竜」とは、その背後にいる悪魔、サタンのことです。10節を見ると、これは出エジプトの出来事のことですから、ラハブがエジプトのことを指しているのは明らかです。そのいにしえの代において世界超大国と言われていたエジプトを滅ぼし、奇跡を起こして、あの紅海を真っ二つに分け、イスラエルを乾いたところを通らせて救い出しました。すばらしい奇跡を先祖たちに見せてくださいました。その同じ奇跡を今、自分たちにも見せてください、というのです。

神が過去においてそんなに偉大な御業をなされたのであれば、その同じ神は今も生きておられるので、それと同じことを、いやそれ以上のもっと偉大なことがおできになられるのだから、そう願うのは当然のことです。しかし、彼らが覚えておかなければならなかったのは、神には神の時があるということです。神には彼らを救い出す力がありましたが、その神が動かれる時というのは、私たちの時とは違うのです。私たちはできるだけ早く解決してほしい、できるだけ早く必要を備えていただきたい、できるだけ早く安心したい、と願うものですが、神の時は違います。本当にギリギリのところで働かれるのです。それは、一つには私たちが不信仰に陥らないためです。あまりにも早く応えてしまうと、本当に愚かな私たちはそれを神がやってくださったということを忘れて、自分でやったかのように誇ってしまうからです。自分の手柄で、自分の信仰によって、自分の手腕でやったかのように思い込んでしまいます。    ですから、そんな私たちをあえて無力化して、私たちがもう自分では何もできませんというときに動かれるのです。そうすれば、それは神にしかできないことであるということがだれの目にも明らかになります。そして、すべての栄光を神に帰せられるようになります。

私たちは、このことを覚えておかなければなりません。私たちは自分の祈りが聞かれないとすぐにいらいらして、「神様まだですか。」「何をしてらっしゃるんですか。」「早くしてください。」「もう限界です。」「そんな居眠りしている場合じゃないですよ。」と催促します。

イエスの時代の弟子たちもそうでした。イエスが弟子たちに「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われたので、弟子たちが舟を漕ぎ出すと、突然、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水で一杯になってしまいました。このままでは舟は転覆してしまいそうです。恐怖のあまり、イエスに助けてもらおうと見てみると、イエスはとものほうで枕しておられました。これには弟子たちもいらついて、「先生。私たちがおぼれて死にそうなのに、何とも思われないのですか。」と言いました。イザヤの言葉で言えば、「さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ。」というところでしょうか。何とかしてください、と叫んだのです。するとイエスが起き上がって、風をしかりつけ、湖に向かって言われました。「黙れ、静まれ。」すると風はやみ、大なぎになりました。(マルコ4:35-39)

イエスは風をもしかりつけ、湖さえも従わせることがおできになられる方です。イエスにはそれだけの力があるのです。でもギリギリまでは動くことはされません。ともの方で枕しておられるのです。とは言っても、主はまどろむこともなく、眠ることもあない方ですから、私たちの祈りを知らないということではありませんが・・。必要な時にはすぐに動いてくださいます。主がギリギリまで動かれないのは何も私たちを困らせるためではありません。私たちを焦らせるためでもないのです。それは、私たちが神の御腕に全幅の信頼を置くように、そして、自分の力に頼らないで、主の御腕に頼るようにするためです。何もいじわるをしようとしてるのではないのです。愛がないから、関心がないから、力がないからではなく、神がどのような方であるのかを私たちに見せるために、あえてそのようになさるのです。大切なことは、この主に全幅の信頼を寄せることです。

私が福島にいたとき、教会で会堂建設に取り組みました。とてもいい場所に600坪の土地がありましたが、そこは市街化調整区域で建物を建てることができない土地で、建てるためには県からの開発許可を受けなければなりませんでした。それは福島県では宗教法人が一度も受けたことのない許可で、とても困難に思われました。しかし、神にとって不可能なことは一つもないし、神のみこころならば必ず与えられると信じて何度も県の担当者の所に行きました。時には家内が作ったケーキを持って行きましたが、ウンともツンとも言いませんでした。何度もあきらめかけましたが、主はそのたびにみことばをもって励ましてくださいました。  そのような時、教会で開いていた英会話クラスで学んでおられた方と話をしていたると、宅建という資格のある県の議員に話した方がいいと言われました。その議員の方は家の近くに住んでおられる方で何度か挨拶に来られたことがのある方でしたので私もよく知っていたので、早速その方に事情をお話しました。するとその方は、「大橋さん、ダメなものはだめだがんね。でも可能性があるなら話し手みてしょう」と言われました。勿論、だめなものはだめです。でもそこはだめじゃない所だったのです。ですから、そのことをお話すると、「わかりました。じゃ話してみますから」と言って話してくれたのです。すると不思議なように話が進み、1997年11月に念願の開発許可が下りたのです。それは福島県では前例のないことでした。それは私が初めて県の担当者のところを訪れてあしかけ4年半後のことでしたが、実は、それが最高のタイミングでもあったのです。というのは、私たちは土地代をみんなで献金し建物の建設費は銀行から借りる計画でしたが、その土地代がまだ満たされていなかったからです。それが満たされたのがちょうどこの月だったのです。この月に土地のための献金が満たされたので、開発許可が下りたときその代金を支払うことができたのです。ですから、それよりも早くても、遅くてもだめだったのです。その時が一番いい時でした。それまで「主よ。なぜですか。なぜ早く許可を与えてくださらないのですか」と祈っていましたが、実はそれが一番いい時だったのです。

神のなさることは、すべて時にかなって美しい、とあります。神は私たちにとって一番いい時に、一番いい方法で導いてくださいます。ですから、私たちは最善に導いてくださる主に御腕に信頼して祈らなければならないのです。

「さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ。」と叫びたい気持ちはわかります。しかし、それ以上に大切なのは、神にはどんなことでもおできになると信じ、その神の御腕にすべてをおゆだねすることです。そのとき、あなたは神の偉大な御業を見て慰めを受け、主をほめたたえるようになるでしょう。その人は11節にあるように、「主に贖われた者たちは帰ってくる。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きは逃げ去る。」ことを体験するのです。

どうか、一切を治めておられる主にすべてをゆだね、主がなさることを待ち望むことができますように。この主に心を留めて、この主から真の慰めをいただくことができるように。喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただくことができますように。それはどんな時にもこの主の御腕に拠り頼むことによってもたらされるものなのです。

イザヤ書50章1~11節 「神である主が私を助ける」

きょうからイザヤ書50章に入ります。きょうは50章全体から「神である主は私を助ける」というタイトルでお話します。ここには「神である主が、私を助ける」という言葉が、何回も繰り返して出てきます。神である主は私を、あなたを助けるということを信じていただきたいと思うのです。

Ⅰ.イスラエルの錯覚(1-3)

まず1節から3節までをご覧ください。「1 主はこう仰せられる。「あなたがたの母親の離婚状は、どこにあるか。わたしが彼女を追い出したというのなら。あるいは、その債権者はだれなのか。わたしがあなたを売ったというのなら。見よ。あなたがたは、自分の咎のために売られ、あなたがたのそむきの罪のために、あなたがたの母親は追い出されたのだ。2 なぜ、わたしが来たとき、だれもおらず、わたしが呼んだのに、だれも答えなかったのか。わたしの手が短くて贖うことができないのか。わたしには救い出す力がないと言うのか。見よ。わたしは、しかって海を干上がらせ、多くの川を荒野とする。その魚は水がなくて臭くなり、渇きのために死に絶える。3 わたしは天をやみでおおい、荒布をそのおおいとする。」

イスラエルは自分たちがバビロンの捕囚になったのを神のせいにして恨んでいました。ちょうど、夫が離婚を宣言し妻を追い出した時のように、また父親が借金のために子どもを借金取りに売り渡した時のように、神がイスラエルを見捨ててしまったと嘆いたいたわけです。

それに対して神は「そうじゃない」と言われます。もし神が彼らに離婚を宣言したというのなら、その離婚状はどこにあるのか、もし彼らを借金のかたに売り渡したというのなら、その債権者はだれなのかを告げよ、というのです。主はそのようなことは絶対になさいません。主は永遠の愛をもって彼らを愛してくださいました。ですから、どんなことがあっても彼らを見捨てるようなことはなさらないのです。たとえ人間が神を裏切ることがあっても、神は絶対に裏切ることはありません。私たちは真実でなくとも、神は常に真実な方だからです。

では、彼らが離別された女のように感じたり、借金取りに売られた奴隷のように感じていたのはどうしてでしょうか。1節後半にこうあります。「見よ。あなたがたは、自分の咎のために売られ、あなたがたのそむきの罪のために、あなたがたの母親は追い出されたのだ。」つまり、彼らがそのようになったのは、すべて彼ら自身に原因があったからなのです。彼らがそのようになったのは、全部彼ら自身が神にそむいたためだったのです。

2節をご覧ください。「なぜ、わたしが来たとき、だれもおらず、わたしが呼んだのに、だれも答えなかったのか。」主はこれまでに何度も何度も預言者たちを遣わして、彼らに警告してきました。にもかかわらず、彼らはだれも答えようとしませんでした。なぜでしょうか?それは主の御手が短くて救えなかったからではありません。主に力がたりなくて助け出せなかったのでもないのです。それは彼らに信仰がなかったからです。いくら警告しても彼らは神の言葉を聞こうとしませんでした。それが問題だったのです。

それは、これまでのイスラエルの歴史を見てもわかるでしょう。2節の後半から3節にかけてこうあります。「見よ。わたしは、しかって海を干上がらせ、多くの川を荒野とする。その魚は水がなくて臭くなり、渇きのために死に絶える。3 わたしは天をやみでおおい、荒布をそのおおいとする。」

「しかって海を干上がらせ」というのは、出エジプトの出来事を指しています。神は430年もの間エジプトに捕らえられていたイスラエルを救い出すために驚くべき御業を行われました。海をしかって干上がらせたのです。それは出エジプト記14章21節にあります。イスラエルを出させまいとエジプト軍が追って来た時、目の前には紅海が広がっていて絶体絶命のピンチでした。そのときモーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風を送られ、海を陸地とされたので、彼らは乾いたところを通って救われました。

また「多くの川を荒野とする」というのは、ヨシュア記3章16節、17節の出来事のことを指して言われているものと思います。イスラエルがヨルダン川を渡ってカナンに入っていこうとした時、主の契約の箱をかつぐ祭司たちの足が、ヨルダン川の水のところにとどまると、ヨルダン川の水は完全にせきとめられました。それで彼らはその乾いた地を通って、カナンの地に入って行くことができたのです。神は天と地と海を思いのままにできるお方です。なのに愚かなイスラエル人は、この力ある神を拒みました。それが問題だったのです。主の御手が短くて救えないのではありません。その耳が遠くて、聞こえないのではないのです。イスラエルの咎が、神との仕切りとなり、イスラエルの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしていたのです。それを彼らは神のせいだと思い込んでいました。

皆さんはどうでしょうか。何か難しい問題が起こったとき、それを神のせいにしたり、だれか他の人のせいにして恨んだりしているということはないでしょうか。しかし、それは本末転倒です。それは神のせいでも、人のせいでもなく、自分の罪、自分の過ちのせいなのです。それが本当の問題です。にもかかわらず、そうした自分の姿を棚に上げて人のせいにしたり、神のせいにしてるとしたら、本当の解決を見ることはできません。

ですから大切なのことは、そんな自分の姿を知ることです。本当の自分を知れば自分の目を向ける方向が180度転換して、劇的に変わっていくことになるでしょう。それまで心に何かひっかかりというか、すっきりとしないものがあって、そうした問題は結局は自分の内面にありながらも、情報の飛び交う現代では自分の目がどうしても移り変わる外の世界に向けられるため、そうした現実になかなか気づきにくいのです。しかし静まって聖書を読み、あるいは神からのメッセージを聞いて、そうした自分の心を神様にさぐっていただき、自分の中に誤りがあったなら悔い改め、神に立ち返ることで、本当の平安が与えられるのです。自分のあるがままの姿を見つめるということは自分の心の未熟さやあさましさや愚かさに向き合うことですから辛いことでもありますが、それが解決の第一歩につながっていくのです。

Ⅱ.神である主が、わたしを助ける(4-9)

次に4節から9節までに注目をしたいと思います。まず6節までを読みます。 「4 神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。5 神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、 6 打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。」

ここには「神である主は」という言葉が何回も出てきます。4節、5節、7節、9節に繰り返して語られています。実はこの4節から9節までの箇所は、いわゆる第三の「しもべの歌」と呼ばれている箇所で、主のしもべであるイエス・キリストのことが預言されている箇所なのです。これまですでに二回見てきました。第一のしもべの歌は42章1節から4節までのところでしたね。そこにはしもべの召命が記されてありました。神はそのしもべであられるイエス・キリストを、ご自身の救いをこの地にもたらすために召されるということでした。それから第二のしもべの歌は49章4節から6節までのところにありました。そこにはしもべの使命が記されてありました。主のしもべであるイエス・キリストはいったい何のためにこの世に来られたのかということでい。それは諸国の民の光として、地の果てにまで神の救いをもたらすためです。そして、ここに第三のしもべの歌が登場するわけですが、その第三のしもべの歌を記すにあたり、「神である主が」ということばが出てくるわけです。なぜでしょうか?

それは、ここに主のしもべの苦難が描かれているからです。いったい主はどのようにして救いをもたらされるのでしょうか。何と苦難を通してです。主のともべは苦難を通して神の民を贖ってくださるのです。ですから、そのしもべの困難な歩みに対して、全宇宙の創造者であり、主権者であられる神が、全面的に助けてくださるということを強調するために、ここに何度も「神である主が」とあるのです。そのようにしもべを助け、支え、導いてくださる方は誰なのか、それは「このわたし」、「神である主」というのです。

では、神である主は、しもべをどのように助けてくださるのでしょうか?4節をご覧ください。ここには「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。」とあります。弟子の舌とは何でしょうか?下の欄外の説明を見ると「教えを受けた者」とあります。弟子とは教えを受けた者です。その教えの中心が「舌」であり「耳」なのです。舌は語ること、耳は聞くことを表しています。もちろん聞くというのは単に聞くというだけでなく、聞き従うことも含まれています。

マタイの福音書11章28節には、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」とあります。何と慰めに満ちた言葉でしょうか。主イエスは、とげとげしい言葉や苦々しい言葉ではなく、真に慰めに満ちた言葉を語り、疲れた者をいやし、励ましを与えました。そればかりでなく、しもべであられたイエスは父なる神の御声に従い、十字架の死にまでも従われました。これは、先程のイスラエルの姿とは本当に対照的ではないでしょうか。イスラエルは、神が何度も預言者を遣わして語ってもそれを聞こうとしませんでした。しかし主のしもべであられるイエスはそうではありませんでした。彼は朝早く、まだ暗いうちに起きて主と交わり、そこで語られた主のことばを聞いて従われました。

5節と6節を見てください。ここにはその逆境の時、苦難の時のことが語られています。「神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。」

これはイエスが受けた苦難の預言です。イエスは顔につばきをかけられ、こぶしでなぐられ、あるいは平手で打たれ、またムチで打たれ、あげくの果てに十字架につけられました。またつばきをかけられ、十字架につけられた時には「おい、神殿を三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りてこい。」と言ってあざけられました。ここに「ひげを抜く」という表現がありますが、これは侮辱的な行為です。確かにひげを抜かれること自体痛いことですが、それ以上に心が痛みます。そのようなことを彼らは主のしもべであるイエスにしました。それでもここに「私の顔を隠さなかった」とあるように、イエスはどんなに肉体的な苦しみと精神的侮辱を受けても、そこから隠れようとしませんでした。それがしもべに与えられた使命だったからです。その使命の実現に向かって進んで行ったのです。

いったいなぜそのようなことができたのでしょうか。なぜイエスはそのような苦難の中でも神のみこころに従うことができたのでしょうか。7節から9節までをご一緒に読みたいと思います。「7しかし、神である主は、私を助ける。それゆえ、私は、侮辱されなかった。それゆえ、私は顔を火打石のようにし、恥を見てはならないと知った。8 私を義とする方が近くにおられる。だれが私と争うのか。さあ、さばきの座に共に立とう。どんな者が、私を訴えるのか。私のところに出て来い。9 見よ。神である主が、私を助ける。だれが私を罪に定めるのか。見よ。彼らはみな、衣のように古び、しみが彼らを食い尽くす。」

それは、神である主が私を助けてくださるという確信があったからです。ここに何度も繰り返して、「神である主は、私を助ける」とあります。8節では表現が少し違いますが、同じことが言われています。「私を義とする方が近くにおられる」  主のしもべは、神である主が、私を助けられるという確信があったので、また神が彼を正しいと認め、弁護してくださると信じていたので、どんなに激しい苦難にあってもその苦難を正面から受け止め、自分に与えられた使命に向かって進んで行くことができたのです。

それは、この主のしもべの働きによって贖いを受けた私たちも同じではないでしょうか。神である主が、私を助けてくださるので、私を義として下さる方が近くにおられるので、どのような困難の中にあっても恐れたり、あきらめたり、投げ出したりすることなく、神に感謝することができるのです。

パウロはローマ人への手紙の中で次のように言っています。8章33節から39節までのところを開いてみましょう。「33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしてくださるのです。35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。」

これがパウロの確信でした。神が私を義と認めてくださった。私のために十字架で死んでくださり、三日目によみがえられた方が、神の右の座にいて、私のためにとりなしていてくださる。であれば、いったいだれが私を罪に定めることができようか。だれが私をキリストにある神の愛から引き離すことができようか。だれもできない。どんなことがあっても神である主が助けてくださるという確信があったのです。ですから彼は、さまざまな困難の中にあっても神の使命に向かって進んで行くことができたのです。

それは私たちも同じです。私たちの人生にもさまざまな困難があります。しかしそれがどんな困難であっても、神である主が義と認めてくださったのです。この方がいつも私たちの近くにいて助けてくださいます。であれば、何を恐れる必要があるでしょうか。

ですから、たとえあなたの人生に何が起こったとしても、そのことで恐れたり、あきらめたり、投げ出したりしないでください。この確信を堅く保っていれば、いかなる問題も恐れることなく、いかなる侮辱や恥にも耐えることができるのです。

Ⅲ.神に拠り頼め(10-11)

ですから結論は何かというと、神に拠り頼めということです。イザヤはこの主のしもべの働きを述べた上で、この主のしもべにどのように応答するのか、ここでその決断を迫っています。10節と11節をご覧ください。「10 あなたがたのうち、だれが主を恐れ、そのしもべの声に聞き従うのか。暗やみの中を歩き、光を持たない者は、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め。11見よ。あなたがたはみな、火をともし、燃えさしを身に帯びている。あなたがたは自分たちの火のあかりを持ち、火をつけた燃えさしを持って歩くがよい。このことはわたしの手によって、あなたがたに起こり、あなたがたは、苦しみのうちに伏し倒れる。」

道は二つあります。一つは、主を恐れ、そのしもべにの声に聴き従う道でするそれは光のない暗黒の中を歩む時にも主にの御名に信頼し、神により頼む道です。そしてもう一つは、それとは反対にしもべの声には聴き従わないで、あくまでも自分の考えで、自分自身の火によって歩む道です。「自分たちの火」とはそのことを指しています。それはまさに「燃えさし」のようなものではないでしょうか。この「燃えさし」とはたいまつのように木切れなどの火のことです。暗やみの中をたいまつを持って歩くとどうなるでしょうか。足下がおぼつかないので、よく歩くことができません。その結果、「苦しみのうちに伏倒れ」てしまうことになります。これが自分の火によって歩く人の姿です。主に信頼し、主の光に照らされて歩む人は主が助けてくれますが、自分の火によって歩む人は、苦しみのうちに伏倒れてしまうことになります。あなたはどちらの火によって歩んでおられるでしょうか。

主イエスはこう言われました。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)

イエスが世の光です。イエスに従いましょう。イエスに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。イエスに従うとはイエスを信じ、イエスの御声に聴き従うことです。人の声ではなく、イエスの声です。その御声に聴き従わなければなりません。イエスに従うなら、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。

皆さんはロックフェラーという人をご存じでしょうか。彼は人類史上最高の富豪として、ビル・ゲイツの三倍もの富を築き上げたと言われている人です。彼は、百歳(九十八歳)まで生き、多くの子孫にも恵まれ、あらゆる幸いを手にした人です。けれども、それは彼には何の困難もなかったということではありません。彼は私たちが経験する何倍も大きい困難に直面しましたが、神である主に信頼してその危機を乗り越えました。  彼が最初に経験した試練は、1863年にやってきました。彼は石油の事業で莫大な富を築いた人ですが、彼が石油事業を始めたばかりの頃に、ひとりの友人から鉱山を買わないかと勧められました。彼は鉱山にもある程度の関心があったので、友人の言葉を信じ、多額のお金を投資して炭坑を買い取りましたが、何とその鉱山は廃鉱と同じで、何の使い道もない無益な鉱山だったのです。いくら掘っても、鉱山からは石のかたまりしか出てきませんでした。  彼は石油事業にも多くの投資をしていたので、お金を貸してくれる所が無く、賃金の支払いが出来なくなってしまいました。するとそこで働いていた人たちは暴徒化し、騒ぎ出しました。彼らはロックフェラーを炭坑の中に閉じ込めて、賃金の支払いを要求しました。いったいどうしたらいいのでしょう。彼はあまりにもつらくて、自殺することまで考えたほどです。しかし、彼は信じるものは一つしかないと思い、荒れ果てた廃鉱にひれ伏して祈りました。  「神様!私は今まで神様のみことばを信じてそのまま従ってきました。今まで良心に背くことをしたこともなく、完全な十分の一献金をささげてきました。なのになぜ、私はこのような試練を受けるのですか。今まで私の至らないところがあったのならお赦しください。もっと熱心に働くチャンスを与えてください。どうか、神様が生きておられることを現してください。」  ロックフェラーは初めて、涙を流しながら、主に叫んで祈りました。そのうちに、まるで眠ったかのように倒れた彼は、不思議な体験をしました。  夢を見ていたのか、彼は自分が道を歩いている姿を見ました。道のりは非常に険しかったので、あまりにも疲れ果てて、足を一歩も動かすことができなくなってしまいました。それからしばらくすると、彼は地の片隅に倒れてしまいました。  すると突然、大きな両手が近づいて彼を起こし、その険しい道を歩き続けるように助けてくれるのでした。そして彼がある地点に来ると、その大きな両手は離れていきました。  ふと気がついた彼は、周囲を見回しました。彼は相変わらず、冷たい坑道に倒れていました。その時です。彼の心に、こういう声が聞こえてきました。  「あなたは行くべき所に、もうすでに来ている。時が来ると実を刈り取るだろう。あなたは今いるこの所をもっと深く掘りなさい。」  ロックフェラーは、その御声を聞いて勇気が湧いてきました。彼は炭鉱の外に出て、労働者たちに最後の訴えをしました。それはもう少し掘って欲しいということでした。そうすればきっと石炭があるはずだ・・・と。  その言葉を聞いた労働者たちは、ロックフェラーがとうとうおかしくなって、変なものでも見たのではないかと思いました。しかし、彼が涙ぐんで必死に頼むので、じゃ、最後にもう一度だけ信じてみるかと、炭鉱をさらに深くほり始めました。  するとどうでしょう。彼らが坑道を掘り始めてから間もなく、急に石炭の変わりに「黒い水」が吹き出てきたのです。それは石油でした。ロックフェラーは鉱山ではなく油田を買っていたのです。  その後彼は石油事業を通して世界一の富豪になりましたが、以後石油以外の事業には一切目もくれなかったということです。

皆さん、神で主があなたを助けてくださいます。あなたがしもべの声に聞き従うなら、決してやみの中を歩くことはなく、いのちの光を持つのです。問題はあなたがそれを信じるかどうかということです。ロックフェラーは信じました。信じて歩みました。彼はお母さんが生前彼に行っていた三つのことを守りました。一つは、十分の一献金をささげること。二つ目のことは、教会に行ったら、一番前の席に座って礼拝をささげること。三つ目、教会に素直に従い、牧師を悲しませないこと、それが神が喜ばれることだと信じて、彼のお母さんが彼にそのように言って聞かせたそうです。その通りに彼は信仰に生きました。神である主を信じ、その主の御声に従いました。その結果、彼は神に助けられて、巨万の富を得ることができたのです。

皆さん、私たちにも困難はあるでしょう。しかし、それがどのような困難であっても、神である主が私を助けてくださると信じて、この主の御声に聞き従いましょう。主が必ずあなたをも助けてくださいます。それが主のしもべが歩まれた道であり、彼が十字架という苦難の中にあってもそれを乗り越えることができた大きな秘訣だったのです。

イザヤ書49章7~12節 「今は恵みの時、救いの日」

きょうはイザヤ書49章のみことばから、「今は恵みの時、救いの日」というタイトルでお話したいと思います。8節にこうあります。「主はこう仰せられる。『恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』」    イザヤは、バビロンに捕らえられていたイスラエルを解放するためにやがて油注がれた者、メシヤが遣わされることを預言しました。その預言のとおりに、イスラエルはバビロンに捕らえ移されてから70年後の紀元前538年に、ペルシャの王クロスによって解放されました。この解放こそ恵みであり、救いです。

そして、これはある事のひな型でもありました。それは、神が救い主イエス・キリストを通して罪の奴隷として捕らえられていた人たちをそこから解放することです。使徒パウロはこのことばを引用して、「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)と言いました。この解放こそが、まさに新約聖書で言うところの恵みであり、救いなのです。そしてその恵みの時はいつなのか。救いの日はいつなのか。「今でしょ」と聖書は言うのです。きょうはこの救いの恵みの大きさ、豊かさについてお話したいと思います。

Ⅰ.あわれみの神(7)

まず第一に、私たちを罪から救ってくださる方はどのような方なのかについて見ていきたいと思います。7節をご覧ください。「イスラエルを贖う、その聖なる方、主は、人にさげすまれている者、民に忌みきらわれている者、支配者たちの奴隷に向かってこう仰せられる。「王たちは見て立ち上がり、首長たちもひれ伏す。主が真実であり、イスラエルの聖なる方があなたを選んだからである。」

ここには、イスラエルの民を捕囚から救われる神とはどのような方なのかが語られています。それは「イスラエルを贖う、聖なる方」です。「贖う」とは「代価を払って買い取る」という意味です。身代金を払って解放すると言った方がわかりやすかもしれません。よく身代金目的の誘拐事件が起こりますが、誘拐された側は身代金を払って解放されるわけです。同じように、神の民であるイスラエルがバビロンの奴隷として捕らえられその苦しみの中に陥っていた時、神は、それ相当の代価を払って彼らを買い戻し、その苦しみの中から解放してくださいました。

また、ここには「聖なる方」とも言われています。「聖なる方」とは、この世と分離された方という意味です。この世は罪に汚れていまが、神は罪もしみも何一つ汚れのない聖なる方なのです。このように聖なる方であられる主は、罪によって堕落したイスラエルのために代価を払って贖ってくださる方なのです。

この方が、人にさげすまれている者、民に忌み嫌われている者、支配者たちの奴隷に向かってこう仰せられます。「王たち見て立ち上がり、首長たちもひれ伏す。主が真実であり、イスラエルの聖なる方があなたを選んだからである。」

「人にさげすまれている者」とか「民に忌み嫌われている者」、「支配者たちの奴隷」とはイスラエルのことです。今、イスラエルの救い主である主がバビロンに捕らえられ、さげすまれ、忌み嫌われ、支配者たちの奴隷となっているイスラエルを、その悲惨な状況から救ってくださいます。そして今、イスラエルを捕らえ奴隷にしている民(バビロン)が、後に彼らにひれ伏すようになるというのです。

いったいどうしてそのようなことが起こるのでしょうか?それはイスラエルの聖なる方主が立ち上がり、救ってくださるからです。イスラエルはバビロンに捕らえ移されて70年が経っていました。70年といったら相当の年月です。70歳の方が生まれてから今に至るまでの年月です。その間ずっと捕らえられ、不自由な生活を余儀なくされていたのです。ですから、イスラエルの民たちの中には本当の信仰をもっている人たちも少なくなっていました。バビロンのきらびやかな文明の中に溺れて、何が本当の神なのかさえわからなくなっていたのです。「本当に神がいるなら、どうしてわれわれはいつまでもこんな目に遭っていなければならないのか。」「『解放する、解放する』と言っても、あれからもう70年も経っているではないか。神なんか全くあてにならない。そのような思いに支配されていたのです。

しかしそのような彼らに、主はこのように仰せられました。「王たち見て立ち上がり、首長たちもひれ伏す。主が真実であり、イスラエルの聖なる方があなたを選んだからである。」  ここですばらしいと思うことは、彼らは神に選ばれた者であるということです。神に選ばれたのであれば、どんなことがあっても神が最後まで責任を取ってくださいます。必ず救ってくださるのです。

15節をご覧ください。来週のところですが、ここには「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」とあります。たとえ女たちが忘れても、神は決して忘れることはありません。おそらく人間の愛を表現する上で、母と子の結びつき以上に強いものはないかと思います。母親の愛は理論を超えた世界です。だから「親ばか」と言われるのです。そのくらい母親は子どものことを考えています。それは理論を超えているのです。  しかし、悲しいことにそんな母親でも自分の子供を捨ててしまうことがあります。あるいは、パチンコに夢中になって子どものことを忘れてしまい、車の中に置いて死なせてしまうこともあります。ですから母親の愛は絶対はありません。しかし神は違います。神は絶対にあなたを忘れることはありません。

16節には、「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」とあります。この「刻む」というのは刺青をすることです。忘れないようにちょっとペンで書くというレベルではないのです。刺青をすることです。考古学的には、古くはB.C.1300年頃からこうした習慣があったようです。古代エジプトのミイラに、既に刺青がされているものが発見されています。それは花婿、あるいは花嫁が、それぞれ自分のものであることのしるしのため、あるいは奴隷がその主人のものであることのしるしとして、腕や脚にしるしを付けたのです。ですから神の手のひらにあなたが刻まれているということは、永遠に忘れられることはないということなのです。

まして、ご自身のひとり子を十字架にまで付けてくださった神が、あなたを忘れることがあるでしょうか。その手のひらには刺青どころか釘の跡があるのです。その釘の跡は永遠に消えることはありません。それほどまでに愛してくださった主が、あなたを忘れるということは絶対にありません。時々、私たちは、だれも自分を顧みてくれないとか、だれからも愛されていない、全く孤独だ、と言うことがありますが、それはあなたがこの神を見ていないからです。もしあなたがこの神を見るなら、神がイエスを通して何をしてくださったのかを覚えるなら、決して落ち込むことはありません。感謝に満ち溢れるはずです。神はあなたのことをだれよりも愛し、だれよりも同情し、だれよりも寄り添って、世の終わりまで、いつもあなたと共にいてくださると約束してくださいました。大切なのは、この神のあわれみに心を留めることなのです。

Ⅱ.今は恵みの時、救いの日(8)

第二のことは、その救いの日はいつかということです。それは今です。8節をご覧ください。「主はこう仰せられる。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを見守り、あなたを民の契約とし、国を興し、荒れ果てたゆずりの地を継がせよう。」

イザヤの時代で言う「恵みの時」、「救いの日」とはいつのことでしょうか?それは、バビロン捕囚から解放される日です。主はその日が必ずやって来ると約束してくださいました。

パウロはこのことばを引用して、次のように言いました。Ⅱコリント6章1節と2節です。「1私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。2 神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」

パウロはこれをイエス・キリストによってすべての人がバビロン捕囚ならぬ、罪の束縛から解放される日として用いました。すなわち、「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(5:21)神は、このキリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねてくださいました。ですから、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(5:17)これが神の恵みの時、救いの日です。神はイエス・キリストによってこのことを成し遂げてくださいました。すでに神の祝福があなたの目の前にあります。ですから、それをむだに受けないようにしてください。今、それをつかみなさい、というのです。

私たちは誰でも、過去と現在と未来を持っています。過去がない人も、将来がやって来ない人もいません。しかし確かなことは、過去はもう過ぎ去っていること、また、未来はまだ来ていないということです。今だけが、私たちの目の前にあるということです。ある人はいつも過去に生きています。「ああ、昔はよかった。あの時あんなことをした。こんなことをした」と。でも、私たちは二度と過去に戻ることはできません。逆に、ある人は未来に生きています。「こういうふうになったら頑張るんだけどなぁ。今はできないんだけど、そのうちがんばるさ」と。しかし、そこには何の根拠もありません。ただ何となく未来に向かって望みを置いているだけです。過去も、未来も、神の御手の中にあるのであって、神が私たちにゆだねておられるのは「今」だけなのです。私たちは今しか生きることができないのです。

多くの人々は、豊かな人生を送りたいと願っています。しかし、その豊かな人生とはどんな人生なのでしょうか。それは、豊かな今があってその積み重ねによって造られていくものです。「今が恵みの時、今が救いの日」なのです。今、神があたなに備えておられる祝福を受け取らなければ、二度とそれをつかむことはできません。今、神が備えてくださった救い主イエス・キリストを信じること、それが神の恵みを無駄にしないことなのです。

これは一つの寓話です。ある時悪魔の手下どもの修行期間が終わりました。いよいよこれから悪魔の手下たちが地上に派遣されるという日に、悪魔の親分が子分たちに言いました。  「おまえたちをここから人間たちのところに遣わすのだけれど、いったいどんな作戦で行くつもりだ。」  すると悪魔の手下その一が言いました。「親分、私はこうしたいと思います。人間のところに行って、神なんかいない、と信じ込ませようと思います。」  すると悪魔の親分が言いました。「そんなことをしてもだめだ。人間はみんな神によって造られているから、本能的に神がいるということを知っている。だからそれを否定することは難しい。お前の作戦はだめだ。」  すると悪魔の手下その二が言いました。「親分、こういう方法はどうでしょうか。地獄なんかない。神のさばきもない。あるのは天国だけだ。みんな天国に行けるから大丈夫。心配することはない。さあ、自分の人生を悔いのないように好きに生きればいい。」  すると親分が言いました。「それもだめだ。人間は本能的に、悪いことをすれば地獄に行くのではないか、と恐れている。だからそれを否定することは難しい。」  すると悪魔その三が言いました。「じゃ親分、こういうのはどうでしょうか。神はいる。地獄もある。ただし、信じるのは今じゃなくてもいい。もう少し暇になってから、もう少し年を取ってから、もう少し勉強してから、そう人間に思い込ませたらどうでしょう。すると親分は言いました。「それはいい方法だ。」

そして、悪魔はその作戦で成功しています。多くの人はいつも「もう少し経ってから、もう少し暇になつてから、もう少し年を取ってから。今はまだいい」そう言ってチャンスを失っているのです。しかし、私たちの人生には必ず限りがあります。それがいつ終わるのかは誰にもわかりません。あるいは、いつ主イエスがご自分の民を迎えに再び来られるのか、その再臨の時がいつなのかは誰にもわかりません。しかし、その時が来てからでは遅いのです。うしろの戸が閉められてからでは手遅れなのです。

あのノアの洪水を思い出してください。ノアの時代に、洪水が来るから悔い改めて箱舟に入るようにとノアがいくら勧めても、人々は笑って取り合いませんでした。しかし、ある日、箱舟の戸が閉められました。うしろの戸が閉められたのです。すると雨が四十日四十夜降り続き、この地上は洪水に覆われ、箱舟に入らなかった人たちはみな滅びました。人々がどんなに救いを求めても戸は開きませんでした。やがてそういう時がやって来るのです。しかし、その時では遅いのです。

今が恵みの時であり、今が救いの日です。この救いのメッセージを聞いている今がチャンスの時なのです。この恵みの時、救いの日に、どうかあなたの心を開いてイエス・キリストの救いを信じ、主とともに歩む人生を歩み始めてください。

Ⅲ.生ける水の川が流れ出る(9-12)

最後に、そのように神の救いを受け入れた者はどうなるかを見て終わりたいと思います。9節から12節までをご覧ください。

「9 わたしは捕らわれ人には『出よ』と言い、やみの中にいる者には『姿を現せ』と言う。彼らは道すがら羊を飼い、裸の丘の至る所が、彼らの牧場となる。10 彼らは飢えず、渇かず、熱も太陽も彼らを打たない。彼らをあわれむ者が彼らを導き、水のわく所に連れて行くからだ。11わたしは、わたしの山々をすべて道とし、わたしの大路を高くする。12見よ。ある者は遠くから来る。また、ある者は北から西から、また、ある者はシニムの地から来る。」

これはバビロンに捕らえられていた人がそこから解放され、エルサレムに帰還するという約束です。9節の「捕らわれ人」とか「やみの中にいる者」とは、バビロンに捕えられていた時の状態を指します。そのような人に向かって「出よ」とか「姿を現せ」と言うと、彼らは道すがら羊を飼い、裸の丘の至る所が、彼らの牧場となります。これはどういうことかというと、バビロンに捕らわれていた人たちがそこから解放され、羊が草を食べるように、草を食べるようになるということです。裸の丘の至るところが、彼らの牧場となるのです。

そればかりではありません。バビロン捕囚からエルサレムへの帰還は険しい道のりであり、危険な旅ですが、主が彼らを守ってくださいます。彼らは飢えることがなく、渇くこともなく、熱も太陽も彼らを打つことはありません。そして、主が彼らを水のわく所に連れて行ってくださいます。これがバビロンから解放された者たちの姿です。これがイエス・キリストによって罪から解放された者の姿なのです。

主イエスは言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」(ヨハネ7:37-39)

私たちはまだ救いの完成の時は迎えておりませんが、この地上にあってもその前味を味わうことができます。救い主イエスを信じると、聖書が言っているとおりに、心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになるのです。イエスを信じることによって、この地上の生き地獄が、この地上のパラダイスになるのです。何とすばらしいことでしょうか。

アメリカにフレッド・スミスさんという方がおられます。彼はもう90歳の高齢です。しかも健康は優れません。週に四回、人工透析を受けています。彼はクリスチャンの雑誌「リーダーシップ・ジャーナル」の編集者の一人でもありますが、その彼がこのようにおっしゃっています。  「私は毎日が幸せです。それは、自分の力で変えることはできないものは、素直にそれを受け入れ、失ったものを見て悲しむのではなく、残されたものを楽しむことを学んだからです。振り返って見ると、信仰が成長するのはいつも逆境の時でした。誰でも落ち込むことがあります。しかしその時こそ、信仰の成長の大きなチャンスなのです。人生における苦しみは、神の罰ではありません。その時こそ、成長のチャンスの時なのです。そして信仰が成長すれば、他の人々を助けることができるようになります。

イエス・キリストはこう言われました。「私を信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」    神から受けた恵みは川のように流れ、周りの人々までをも潤します。しかし、湖はそうではありません。それはひたすら受けて、貯めるだけです。イエスは、「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」と言われました。私たちは神の恵みを受けて、回りの人たちにその祝福を流すために生かされています。それはイエスのもとに行き、イエスを信じることから始まります。その祝福が既に備えられているのです。どうかその恵みを、その救いを受け入れてください。確かに、今は恵みの時、今は救いの日なのです。

イザヤ書49章1~6節 「主のしもべの歌」

きょうは、イザヤ書49章のみことばから「主のしもべの歌」というタイトルでお話します。イザヤ書には主のしもべとしてのイエス・キリストについて預言されている箇所が四カ所ありますが、今日の箇所はその一つです。最初に出てくるのは42章1節~4節ですが、そこには主のしもべの召命について記されていますが、きょうのところには主のしもべの使命、主のしもべであるイエス・キリストは何のためにこの世に来られるのかということが書かれてあります。そして、50章4節~9節には、主のしもべの受難について、52章13節~53章12節には、主のしもべの身代わりの死と復活についての預言が書かれてあります。この四つはすべて主のしもべであるイエス・キリストの預言です。  きょうは、主のしもべであるイエス・キリストは何ためにこの世に来られたのか、その使命、目的についてご一緒に学びたいと思います。

Ⅰ.主のしもべは神の栄光を現す(1-3)

まず第一に、主のしもべは神の栄光を現します。1節から3節までをご覧ください。「島々よ。私に聞け。遠い国々の民よ。耳を傾けよ。主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた。主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私を隠し、私をとぎすました矢として、矢筒の中に私を隠した。そして、私に仰せられた。『あなたはわたしのしもべ、イスラエル。わたしはあなたうちに、わたしの栄光を現す。』」    1節に、「主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた。」とあります。この「私」とはだれのことかというと3節に「あなたはわたしのしもべ、イスラエル」とあるように、これは神のしもべであるイスラエルのことです。ところが、このイスラエルのことが「あなた」とか「私」という単数で書かれてあることから、これは単なるイスラエルのことではないことがわかります。そうです、これはイエス・キリストのことです。聖書にはこのようにイエス・キリストのことを「イスラエル」と表現している箇所がいくつかあります。たとえば、たとえば、ホセア書11章1節を見ると、そこには「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した。」とありますが、マタイの福音書2章15節を見ると、これがキリストによって成就したことがわかります。ユダヤ人の王としてキリストが生まれたということを聞いて恐れ惑ったヘロデ王は、2歳以下の男子をひとり残らず殺しました。それで主の使いが夢でヨセフに現れエジプトに逃げるようにと告げたのです。そこでヨセフはエジプトに逃げ、ヘロデが死ぬまでそこにいました。それはこのホセア書に書いてあることが成就するためであったと、聖書に書かれてあります。つまり、このイスラエルとはイエス・キリストのことを指していたのです。このように、聖書にはイエス・キリストのことをイスラエルと表現している箇所がいくつかあるのです。そのイエス・キリストを、主は生まれる前から召し、母の胎内にいる時から呼ばれました。

そのように主がイエス・キリストを召されたのはいったい何のためでしょうか?3節を見ると、ここに「あなたはわたしのしもべ、イスラエル。わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現す」とあります。主なる神は、キリストのうちに栄光を現すというのです。言い換えると、イエス・キリストを通して神の栄光を現すということです。ここに、神のしもべであるキリストが来られた目的が記されてあります。それは、神の栄光を現すということです。イエス・キリストがこの世に来られたのは、神の栄光を現すためだったのです。

これは、神のしもべである私たちすべてのクリスチャンの生きる目的でもあります。いったい私たちは何のために生きているのでしょうか。それは、神の栄光を現すためです。私たちが今ここに生きているのは自分の好きなことをするためではなく、神の栄光を現すためです。Ⅰコリント10章31節を開いてください。

「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」    パウロはここで、あなたがたは食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい、と言っています。これがあなたの人生の究極的な目的なのです。あなたが仕事をするのも、勉強するのも、楽しく家族で過ごすのも、人と会うのも、何かのプロジェクトに関わるのも、すべて神の栄光のためです。私たちは自分の好きな仕事をしたり、レジャーをしたり、趣味をするために生きているのではなく、神の栄光のために生かされているのです。別にこれらのことが悪いと言ってるのではありません。そうではなく、それらのことも含めて、私たちが食べるのも、飲むのも、何をするのも、神の栄光を現すためにすべきだということです。

この夏、モスクワで行われた世界陸上が終わりました。毎日暑い中で熱き戦いが繰り広げられましたが、その中で女子走り幅跳びの決勝を観ていたら、そこに ブリジッタ・バレット(Brigetta Barrett)という選手が跳躍に備えて休んでいる姿が映し出されていました。するとカメラはなぜかバレットの靴のかかとを捉えたのです。そこに何と書いてあったと思いますか?靴のかかとに「Jesus」と書いてありました。それを何秒間か映し出されていたのです。それは彼女の信仰でしょう。食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。別に彼女はそれが証になるとは思ってもいなかったでしょう。もしかしたらそれは彼女の祈りだったのかもしれません。しかし、そこに書いた「Jesus」という文字をそれを観ていた全世界の人々が観ることによって、大きな証になったことは間違いありません。その後で今度は彼女の手の爪も映し出されました。そこには十字架のマークがデザインされていました。あらまぁ、ネールもそのように証になったのです。私たちは食べるのも、飲むのも、何をするのも、神の栄光を現すためにしなければなりません。

それは何もいいことばかりではありません。いいことも悪いこともすべてです。すべてのことを通して、神の栄光を現すことができます。  たとえば、ヨハネの福音書13章31節を見ると、「ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。『今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。」とあります。ユダが出て行ったときとはいつのことでしょう。それはイエスを裏切る時でした。彼はイエス様を裏切るために主の晩餐の席から立って、部屋を出て行きました。それは人間的に見たら最悪の時です。しかし、そのような最悪の出来事を通しても神の栄光を現すことができるのです。たとえそのようなことであっても、それもまた神の救いの計画の一部であり、それによって神の御業が現されるからです。

私たちの人生にもよくこのようなことがあるのではないでしょうか。私たちの人生にも人から裏切られたり、また、見捨てられたりするようなことがあります。しかし、そのようなことであっても、それによって神の御業が現されるとしたら、それもまた神の栄光となるのです。たとえ自分が受け入れにくいような辛いことであっても、苦しいことであっても、そのことによって神の御業が現されるとしたら、それもまた神の栄光なのです。イエス様が十字架につけたられたという出来事は、その最たるものです。イエス様はユダヤ人のねたみと陰謀によって十字架につけられて死なれました。冷たく暗い墓の中で三日間を過ごさなければならなかったのです。しかし、神はこのキリストを三日目に死者の中からよみがえらせました。そのことによって神の栄光が現されたのです。

ですから、皆さん。皆さんの人生にもいいことばかりでなく、悪いと思えるようなこと、辛いことや苦しいこともあるでしょう。しかし、そうした出来事のすべても神の栄光のために用いられるのです。要するに、私たちは何のために生きているのかということをしっかりと覚えておくことです。私たちは神ために生きているのであって、私たちを通して神の栄光が現されるために生きているのだということを覚えているなら、たとえそれが苦しいことであっても、そこには神の平安があるのです。あなたのしあわせは川のようになると約束されてあるとおりです。

逆に自分のために生きている人はそうではありません。48章22節には、「悪者どもには平安がない」とあります。自分の夢をかなえるため、自分の成功のため、自分のためにどんなに人生を費やしても、そこには平安はありません。死んだらすべてが終わってしまいます。それは本当にむなしいものです。けれども、神の栄光のために生きる人生はそうではありません。それは永遠へとつながっていくものであり、平安と祝福が川のようにあなたの心を満たすのです。

Ⅱ.主のしもべにはむだな骨折りはない(4)    第二のことは、そのように神の栄光のために生きる主のしもべには、むだな骨折りはないということです。4節をご覧ください。「しかし、私は言った。「私はむだな骨折りをして、いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした。それでも、私の正しい訴えは、主とともにあり、私の報酬は、私の神とともにある。」

これはいったいどういうことでしょうか?イエス・キリストの十字架は骨折り損のくたびれもうけ(苦労するばかりで利益はさっぱりあがらず、疲れだけが残ること)だったと言うのでしょうか?いいえ、違います。確かに、イエス様のこの地上における生涯、特に最後の3年半の公生涯だけをみたなら、それはむなしいものであったかのように見えるかもしれません。しかし、そうではありません。その後のところには次のように記されてあります。

「それでも、私の正しい訴えは、主とともにあり、私の報酬は、私の神とともにある。」

人間的には骨折り損のくたびれもうけです。実にむなしい働きのようです。しかし、神はすべてのことをご存じであり、その報酬は神とともにあります。必ず報われるのです。この世の基準で成功したかどうかは関係ありません。大切なのは神の目で見たらどうであるかということです。そして、それが神のみこころにかなったものならば、たとえそこに弟子が1人しか残らないようであっても何の問題もありません。私の報酬は神とともにあるのです。これがイエス様の確信でした。

そしてそれは私たちの確信でもあるべきです。時として私たちは、主のために身を粉にして働いても何の結果も得られないとき、いったい何のためにやってきたのかとか、すべての働きが無駄だったのではないかと思うこともあります。これまでの働きにいったいどんな意味があったのかと思うようなことがあります。しかし、それが神の栄光のためにしたことであるなら、そこには必ず報いがあるのです。すべての人に見捨てられ、そこにたった1人しか残らなかったとしても、いやだれも残らなかったとしても、それが神のみこころならば、神が必ず報いてくださいます。イエス様の働きはそうだったでしょう。5つのパンと2匹の魚で男だけで五千人もの人たちの空腹を満たした時には大勢の群衆がみもとに集まっていたのに、イエス様が霊的な話をしたとたんに、十字架につけられて死ぬことを話したとたんに、弟子たちの多くが離れて行き、もはやイエス様とともに歩きませんでした。一番弟子と言われたペテロでさえイエスから離れて行きました。結局最後まで残った弟子はヨハネたった1人と最後までイエスに付き従って来た女たちだけでした。あとはみんな離れていきました。しかし、イエス様はそんなわずかな人のためにも自分のいのちを投げ打って仕えてくださり、十字架で死んでくださいました。たった1人のために。それがイエス様のなさったことです。そしてそれは決してムダではないのです。

皆さん、往々にして神の働きは骨折り損のくたびれもうけのようなものです。私たちの期待どおりにはいきません。たくさんの人に喜ばれ、たくさんの人が救われ、たくさんの人が最後までついて来ることはありません。あんなに頑張ったのに、あんなに労したのに、あんなに資金を費やしたのに、何の結果も得られなかったと思うことが多いのです。みんな離れ去って行き、たった1人しか残らなかった。だれも救われない。自分のミニストリーは失敗だった・・・。これでは骨折り損のくたびれもうけだ。そのように思えるのです。

しかし、そうではありません。神の働きはただいたずらに、むなしく、力を使い果たすようなことは絶対にありません。もしあなたが神の栄光のためにすべてをささげて生きるのなら、もしあなたが神の栄光のために身を粉にして仕えるのなら、そこには無駄なことは一つもありません。あなたの報酬は、あなたの神とともにあるのです。たとえこの地上で報われなかったとしても、やがて天で報われる時がやってきます。あなたの宝は、天に積まれているからです。

だからたとえ手応えがないからといってがっかりしたり、心配する必要はありません。毎日、毎日、集会を開いてもだれも来ない、だれも救われないとしても、心配しないでください。何年教会をやってもだれも救われない。いったいこれはどういうことか、ということがあっても、心配しないでください。大切なのは何人が救われたかということではなく、あなたが何のためにやったのかということです。それがもし神の栄光のためにやったのなら、必ず神が報いてくださいます。これが神のしもべに対する約束です。神の栄光のためにすべてをささげてきたのであれば、決して無駄なことは一つもありません。

福島県の西会津村に、かつて小さな教会がありました。その教会はパルマ(Palmer)という宣教師によって始められた教会で、今は恵泉キリスト教会の会津チャペルがその働きを継承しています。  パルマー先生は1961年までにロンドンの会計事務所で働いていましたが、戦後、宣教師たちが散り散りになった状況の中で、「すぐに来て、私たちを助けてください」という日本で働いていた宣教師からの手紙を受け取り、これは自分に対するマケドニヤの叫びだと確信し、その召しに応えました。その時47歳になっていた彼女は、外国への宣教師になるのは無理だろうなと思いましたが、いくつかの御言葉が与えられ、それが神からの召命であると確信して、会津若松にやって来たのです。当初8年間、会津クリスチャンフェローシップの一員として他の宣教師たちと仕えその後1年間英国に帰国しましたが、1年後独立した宣教師として主に献身し、1970年、56歳の時に再びこの西会津村にやってきたのです。パルマ宣教師は人々をキリストに導くためにはどんなことでもしましたが、その実は本当にわずかなものでした。そして1995年までの25年間に一度も英国に帰国することなくこの西会津村で仕え続けました。1995年81になられたパルマ先生はその働きを恵泉キリスト教会にゆだねて帰国されましたが、恵泉キリスト教会が会津に新しい教会を建てたとき、その最初の基金となったのがパルマ先生がささげた献金だったのです。

先生の働きは小さなもので、人の目には何もないかのように見えたかもしれませんが、主の報酬は豊かにありました。2005年にこの世を去られ天国に行かれましたが、そこでどれほどの報いを受けられたことでしょう。それは人の目にはむだな骨折りのように見えるかもしれませんが、いたずらに、むなしく、力を使い果たしたかのように見えるかもしれませんが、決してムダに終わることはありません。私の報酬は、私の神とともにあります。主のしもべには、このような報いがあるということを覚えておきたいと思います。

Ⅲ.地の果てまで神の救いをもたらす主のしもべ(5-6)

最後に、5節と6節を見ておわりたいと思います。「5今、主は仰せられる。―主はヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めるために、私が母の胎内にいる時、私をご自分のしもべとして造られた。私は主に尊ばれ、私の神は私の力となられた。主は仰せられる。「ただ、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない。わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」

ここに主のしもべのもう一つの使命が記されてあります。それは、ヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めることです。イエスが来られた第一の使命は、神の民であるイスラエルを神に立ち返らせることでした。イエス様は取税人のザアカイが悔い改めた時、「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10)と言われましたが、迷える羊を捜して救う羊飼いのように、神のもとから離れた迷える羊を捜して救うために来られたのです。

しかし、そればかりではありません。6節を見ると、「主は仰せられる。「ただ、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない。わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」とあります。ただイスラエルを神のもとに帰らせるだけではない。諸国の民の光とし、地の果てまで神の救いをもたらす者とするために遣わされたのです。この「諸国の民の光」とは「異邦の民の光」とも言えます。イスラエルたけでなく、諸国の民の光、異邦の民の光、世界の光、世の光として、地の果てまで救いをもたらすために遣わされたのです。これがイエスの使命でした。これが神のしもべであるイスラエルに与えられた使命でした。しかし、彼らはこのことに失敗したのです。彼らは不信仰に陥り、神を拒絶して、自分たちのメシヤを受け入れませんでした。それどころか、そのメシヤを十字架につけて殺したのです。そこで神はその使命を新しい神のしもべ、霊的イスラエルであるクリスチャンにこれをゆだねられたのです。クリスチャンには、神の救いを地の果てまでもたらしていく使命が与えられているのです。

Ⅱコリント5章18節から21節までのところでパウロはこう言っています。 「18これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。19すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。20こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」

「私たちはキリストの使節なのです」キリストの使節とは何でしょうか?それは、キリストを代表としてキリストと同じ働きを担っている者です。キリストのように私たちも神との和解の務めを負っています。失われた人を神のもとに集めるという使命を帯びているのです。神は敵対関係にあった罪人を、キリストによって、イエス・キリストを信じる信仰によって神と和解させるために私たちを遣わしておられるのです。私たちはこの務めを果たしていかなければなりません。地の果てまで神の救いをもたらす者にならなければならないのです。そうでないと、イスラエルのように神の祝福を失ってしまいます。イスラエルのように世界中に散らされ、さまざまな迫害と苦しみを通らされることになります。彼らが完全に滅ぼし尽くされなかったのが不思議なくらいです。それはただ神のあわれみによるものでした。しかし、私たちは自分たちがここにいるのは何ためなのかという使命を覚え、この使命に生きる者でなければなりません。

使徒の働き27章を見ると、パウロの忠告を聞かず、穏やかな南風を頼って航海を進めた百人隊長ユリアスとその一行は、ユーラクロンという暴風に襲われたことが記されてあります。何日も暗やみの中で食べることができず、救いの望みを失ったとき、パウロは神が与えてくださった平安を宣言しました。

「元気を出しなさい。神の御使いが来て、私たちのうちにいのちを失う者はだれもいないと告げられたので、私はそのみことばどおりになることを神によって確信しています。」

これは、私たちが告げなければならないことばです。まさにこの世はユーラクロンという暴風に襲われ、救いの望みを失った船です。その暴風から私たちを救ってくれるものは何でしょう。それは神とその救いのみことばだけです。そのみことばを宣言しなければなりません。そのために私たちはここにいるのです。イエスは言われました。

「14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:14-16)

あなたがたの光を人々の前で輝かせましょう。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしましょう。私たちはそのために遣わされているのです。私たちはそのために今、ここにいるのです。

イザヤ書48章12~22節 「しあわせは川のように」

きょうは「しあわせは川のように」というタイトルでお話します。18節に、「あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は波のようになるであろうに。」とあります。主は、私たちに益になることを教え、私たちの歩むべき道に導いてくださいます。その主の教えに聞くならば、その命令に耳を傾けさえするなら、あなたのしあわせは川のようにあなたに押し寄せるのです。きょうは、このことについて三つのポイントでお話をしたいと思います。

Ⅰ.わたしに聞け(12-16)

まず12節から16節までをご覧ください。12節、「わたしに聞け。ヤコブよ。わたしが呼び出したイスラエルよ。わたしがそれだ。わたしは初めであり、また、終わりである。」

ここで主はヤコブに、「わたしに聞け」と命じておられます。これからイスラエルに起こる新しいことについて注意深く聞くようにというのです。なぜなら、それはとても重要なことだからです。それがどれだけ重要なことであるかは、それが三度も繰り返して語られていることからもわかります。12節と14節、それに16節のところです。14節には「集まって聞け」、16節では「近づいて聞け」とあります。

では、その内容とはいったいどのようなものでしょうか?12節には、「わたしがそれだ。わたしは初めであり、また、終わりである。」とあります。この「わたしがそれだ」という言葉には※がついています。欄外にはその説明がありますが、それは「わたしは同じだ」または「わたしは変わらない」という意味であることがわかります。つまり、主こそ「それ」なんです。主こそ初めであり、終わりである方、また、主こそ地の基を定め、その右の手で天を引き延ばした方です。つまり、この方こそ永遠に変わることのない方であり、みことばをもってこの天地万物を創造され、その造られた物を支配しておられる方であるということです。この世の中にはそれらしきものがたくさん存在していますが、「わたしこそそれだ」というのです。

その証拠は何でしょうか?14節と15節をご覧ください。「14 あなたがた、みな集まって聞け。だれがこれらの事を告げたのか。主に愛される者が、主の喜ばれる事をバビロンにしむける。主の御腕はカルデヤ人に向かう。15 わたしが、このわたしが語り、そして彼を呼んだのだ。わたしは彼を来させ、彼の行うことを成功させる。」

その証拠とは、主がこれらの事を告げられた、ということです。「これらの事」とは、「主に愛される者が、主の喜ばれる事をバビロンにしむける」ということです。また、「主の御腕はカルデヤ人に向かう」ということであります。「主に愛される者」とはペルシャの王クロスのことです。異教徒であったクロス王が主に愛された者と呼ばれていることに違和感がないわけでもありませんが、彼がバビロンを滅ぼし、そこに捕らえられていたイスラエルを解放したという点でそのように呼ばれているのです。クロス王は神の御心を成し遂げる主の力の御腕だったのです。

そのような事をいったいだれが告げることができるでしょう。異教の偶像にはできません。それらは「口があっても語れず、目があっても見えず、耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない」(詩篇115:5,6)からです。そのようなことができるのはただ一人だけです。「わたしがそれだ」すなわち、この天地を創造され、歴史を支配しておられる神だけです。ただ神だけがこのことをあらかじめ告げ、その通りに実現されます。それはイザヤがこれを預言した150年後に実際に成就します。それは偶然に起こったことではなく、神が成された御業でした。このことをしっかり聞くように。注意深く聞くようにというのです。

16節の前半のところを見てください。ここでは「わたしに近づいて、これを聞け。」とあります。ただ聞くだけではありません。近づいて聞くようにと言われているのです。近づいて聞けとはどういうことでしょうか?それはよく聞けということです。集中してよく聞くようにということです。神はイスラエルがご自分のことばをよく聞くように、そして、これから起こることを注意深く見ることを望んでおられるのです。それは今に始まったことではありません。昔からそうでした。神は彼らがよく聞くようにとこれまでも常に預言者を通して語ってこられました。しかし、当のイスラエルは全く聞きませんでした。聞く耳を持たなかったのです。聞いてはいても集中していませんでした。右の耳から聞いてもすぐ左の耳から出ていたのです。みことばが彼らの心に留っているということはありませんでした。

このようなことが私たちにもあるのではないでしょうか。主は今も色々な方法によって語っておられますが、それを自分の人生の中に語られていることとして受け止めることはあまりありません。単にイスラエルの歴史に起こったことして、あるいは遠い昔にあったこと、あるいは、一つの神話のように受け止めるだけで、自分の実際の生活の中に語っておられる生ける神のことばとして聞くことはほとんどありません。私たちは、神の御言葉を聞くことにもっと集中しなければなりません。神に近づいて、これを聞かなければならないのです。

ところで、16節の後半の言葉に注目してください。ここには「今、神である主は私を、その御霊とともに遣わされた。」とあります。ここで急に「私」という言葉が出てきます。「神である主が私を遣わされた」・・と。いったいこの「私」とはだれのことなのでしょうか?この文脈から考えるとこれはバビロンからイスラエルを解放するために遣わされたクロス王のことです。そして、このクロス王については45章1節で「油注がれた者」と呼ばれていました。そうです、彼はイエス・キリストのひな型であったわけです。ですから、この「私」とはイエス・キリストのことであると言ってもいいでしょう。そのメシヤ、救い主であるキリストを神である主が遣わされました。この主は「アドナイ」ということばですが、ここにも※がついていて、下の欄外の説明を見ると、これは太字の主であることがわかります。すなわち、「ヤーウェー」のことです。この神である主とはヤーウェー」なるね型、父なる神のことです。その神である主が、私を遣わされました。どのように?「御霊とともに」です。もう皆さんお気づきになられましたね。ここには三位一体の神が全部出ているのです。聖書に三位一体という言葉はありませんが、その概念は聖書の至る所に見ることができるのです。「神である主」「私(イエス・キリスト)」、そして、「御霊」です。

マタイの福音書3章16節、17節を見ると、イエス様がバプテスマを受けて、水から上がられた時、神の御霊が鳩のように下って、ご自分の上に来られるのをご覧になった、とあります。そして、天からこう告げる声が聞こえました。「これは、私の愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

ここでクロス王のことが「主に愛される者」(14)と呼ばれていますが、イエスも主に愛される者でした。クロス王はイスラエルをバビロンから解放しましたが、イエスも罪の中に捕らわれていた全人類を解放するために遣わされたメシヤ、救い主なのです。あなたはこれを聞かなければなりません。

Ⅱ.あなたのしあわせは川のように(17-19)

次に17節から19節までのところに書かれてあります。「17 あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。18 あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の砂のようになるであろうに。19 あなたの子孫は砂のように、あなたの身から出る者は、真砂のようになるであろうに。その名はわたしの前から断たれることも、滅ぼされることもないであろうに。」

ここには、もしあなたが神のことばを聞くならどうなるかが記されてあります。 すなわち、もしあなたが神の命令に耳を傾けさえするなら、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようになるということです。あなたの子孫は砂のように、あなたの身から出る物は、真砂のようになるのです。

この「しあわせは川のように」の「しあわせ」は、ヘブル語で「シャローム」という言葉が使われています。「シャローム」とはしあわせという意味だけでなく、「平和」とか「平安」という意味があります。勿論、しあわせという意味も含んでいる言葉ですが、これは全く欠けのない、完全に満たされた状態のことを指している言葉です。病気がないから健康ですし、戦いがないので平和なのです。そういう理想的な状態、それが「シャローム」です。そういう平和が川のように押し寄せてくるのです。

英語の賛美に「Peace like a river」という歌があります。 「Ive got peace like a river. Ive got peace like a liver. Ive got peace like a liver in my soul.」  川のような平和を得たという歌です。川のようにです。すごいですね。この川のようにという表現は、とぎれることがない状態のことを表しています。とぎれることなく、次から次へと波が押し寄せてくるように、私たちのたましいに神のシャロームが押し寄せてくるのです。    そのためには一つだけ条件があります。それは、あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば・・です。注意深くこれを聞いて、これに従うなら・・です。そうすれば、しあわせは川のように、あなたの子孫は海の砂のようになるのです。

「信仰の父」と称されるアブラハムは、主から「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ生きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」(創世記12:1-2)と言われました。そしてアブラハムがそのことばの通りに、自分の生まれ故郷を出て、神が示す地に出かけて行った時、神は彼を大いに祝福されました。アブラハムはユダヤ教からも、キリスト教からも、イスラム教からも「信仰の父」と敬われていますが、今やそれは全世界の半分以上の人たちにあたるのです。それほどの人たちから敬われているのは、彼が神のことばに従ったからです。

あなたはどうですか?神の命令に聞いて、それに素直に従っているでしょうか?そんなの聞いても何の益にもならないし、大したことなどない、と思ってはいないでしょうか。あなたに最も良いことを教え、歩むべき道を導かれる神を賛美し、その教えに聞き従う者でありたいと思います。

Ⅲ.バビロンからのがれよ(20-22)

ですから、結論は何かというと、「バビロンからのがれよ」ということです。20節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。「バビロンから出よ。カルデヤからのがれよ。喜びの歌声をあげて、これを告げ知らせよ。地の果てにまで響き渡らせよ。「主が、そのしもべヤコブを贖われた」と言え。」

「バビロン」とか「カルデヤ」というのは同じ場所を指しています。ここではバビロンに捕らえられていたイスラエルに、そこから出るように、のがれるようにと言われているのです。というのは、それを聞いてもまだそこにとどまろうとする人たちがいたからです。せっかく神がクロス王を立ててバビロンを滅ぼし、そこから彼らを解放してくださったというのに、まだそこにとどまっていようとする人たちがいたのです。

信じられないようなことかもしれませんが、これが現実です。せっかく神がイエス・キリストによって私たちを罪から救ってくださったというのに、そこから出ようとしない人たち、のがれようとしない人たちがいるのです。あなたの罪は赦されました。あなたのために神がその救いの御業を成し遂げてくださいました。神はあなたのために御子イエス・キリストをこの世に送り、あなたの罪のために十字架にかかって死んでくださいました。あなたの罪は贖われました。あなたがこのイエスを救い主として信じるなら、あなたのすべての罪は赦されるのです。これはグッド・ニュースではないでしょうか。これが福音です。なのにこの福音を信じないで、そのまま罪の奴隷でいることを望む人たちがいます。「別にいいんです。私は」「このままで十分ですから。」「このまま罪の奴隷として縛られて、最後は死んで地獄の墜ちても構いません」そういう人たちが結構いるのです。それは本当に残念なことです。

21節をご覧ください。「主がかわいた地を通らせたときも、彼らは渇かなかった。主は彼らのために岩から水を流れ出させ、岩を裂いて水をほとばしり出させた。」これは出エジプトの出来事を指しています。バビロンからの解放は、第二の出エジプトして描かれているわけです。その出エジプトにおいて、エジプトから出たのは良かったものの、すぐさまエジプトの軍隊が追って来た時、目の前には紅海が立ちはだかって、彼らは前に進んでいくことができませんでした。しかし、神はそこに乾いた道を作って通らせました。また、水のない砂漠で渇き、死ぬのではないかという時にも、主は彼らのために岩から水を流れ出させ、岩を裂いて水をほとばしり出させてくださいました。つまり、あの出エジプトの時に彼らを救い出された主は、このバビロンからの救出においても必ず救い出してくださるというのです。それは究極的には、来るべき天の御国のひな形です。つまり、バビロンに捕らわれていた者を救い出される主は、罪の中に苦しんでいる人たちをそこから救い出し、必ず天の御国へと導いてくださるというのです。

しかし、それがどんなにすばらしい約束でも、それを信じなければ意味がありません。バビロンから出よ、カルデヤからのがれよと言われても、いいえ、私はこの世にずっととどまってサタンの支配の下で、罪の奴隷のままで、平々凡々と、人生おもしろおかしく生きていた方がいいんです、神なんか信じるよりも、自分がやりたいように、自由に生きていきたいんです、というなら、どんなにすばらしい約束も全く無意味なものになってしまいます。そういう人に主は何と言われるでしょう。そういう人には22節に「悪者どもには平安がない」とあるように、平安はありません。信じるか信じないかはあなたの自由ですが、でも信じない人には平安はないのです。

今年4月にMTC総会があり、続いて世界宣教聖会がありましたが、そこで今年も滝元明先生がメッセージをしてくださいましたが、そこで先生が、オズワルド・スミスという牧師が書いてあった本の話をしてくださいました。  名前は忘れましたけれども、カナダのある街にリバイバルが起きた時に、街中の人たちが教会に来るようになったそうです。そして、街中の人たちがこぞって集会に来ました。人々が救われて、罪を悔い改めて、夫婦仲が回復して、泥棒がいなくなって、素晴らしい街になったそうです。   しかし、その中にリバイバルを喜ばない人がいました。みなさん、リバイバルを喜ばない人がいるのです。だれだと思いますか。酒屋の主人です。なぜ喜ばなかったかと言うと、今までは酒屋に来て飲んで楽しんでいた人たちが、酒屋に来なくなって、飲まなくなってしまってので、商売あがったりになったからです。 そこで酒屋の主人は怒って、「ひとつあの集会を妨害しないといかん!」ということで、彼は何をしたかというと、ならず者の所に行って「あの集会を妨害してくれ」と頼んだそうです。雇われたヤクザたちが集会に入り込み、「よーし。妨害してやろう!」と機会を狙ってるうちに、話を聞いていた彼らは怖くなってしまったそうです。   「俺たちはこのままだったら地獄に行ってしまう。大変だ。俺は悔い改める。イエス様を信じます!」ということで、悔い改めてイエス様を信じたそうです。素晴らしいことです。   そういうようなリバイバルが日本に来ると素晴らしいと思いますけれど、この酒屋の主人は、自分が遣わしたヤクザたちがイエス様を信じたということで酌に触って、今度は彼自身が妨害に入ったそうです。  彼は席の真ん中に座って、妨害するために機会を狙っていました。すると説教者がお祈りして、「今日はどこからメッセージを語ったら良いですか。教えてください」と祈った時に、イザヤ書の38章の1節の御言葉から語れ、と主は言われたそうです。その御言葉はどういう御言葉かというと、ヒゼキヤに言われた言葉ですが、イザヤ書 38章1節のみことばでした。   「そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「主はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。』」    この神様がおっしゃったことは、「あなたの家を整理しなさい。あなたは死ぬ。」文語体には「必ず死ぬ」とあります。   これは、王様であったヒゼキヤ王にイザヤという預言者が語った言葉ですが、神が説教者に与えて、「あなたは今日この言葉を語りなさい。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。』」   しかし説教者は「いや~、そういう説教はなかなかしにくい。」と言ったそうですが、「語れ」と言われたそうです。それで説教者は立ち上がって、「みなさん、今晩の聖書のテキストをお読みします。『あなたの家を整理しなさい。あなたは必ず死ぬ。』そう語った途端に、酒屋の親父が立ち上がって叫び出しました。「何を言っている!キリストなんか嘘だ!神なんかいらん!」と叫び出し、集会は全てぶち壊されたそうです。みんなその男に集中したそうです。  その途端、この男の声がぴたっと止まりました。止まった途端に口から血が吹き出て倒れて死んだそうです。みなさん、誰が介入したと思いますか?   時々、私たちは神様を恐れず、悪いことやっても神は愛ですから赦してくださると考えますけれども、神に反抗し続けたら死ぬのですという話を、オズワード・スミス先生が語ったのでした。

信じるか信じないかはあなたの自由ですが、信じない者、神の命令に耳を傾けない者には、このような結果になるのです。平安は、あなたの力で買うことはできません。お金がどんなにあっても、どんなに能力があっても、平安はあなたの力で勝ち取ることはできないのです。平安を得るためにはただ神に聞かなければなりません。「わたしに聞け」と言われる神に聞かなければならないのです。神に聞くなら、神は必ずあなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導いてくださいます。

その道とは何でしょうか。そうです、それはイエス・キリストです。イエスは言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)イエスは、「私は道である」と言われました。「真理である」「いのちである」と言われました。「わたしを通してでなければ、だれ一人父のみもとに行くことはできません。」イエスを通してでなければ、本当の平安はありません。イエスを信じなければ平安はないのです。それがほしいと願うなら、どうかもう虚しい努力は止めて、イエスを信じていただきたいと思います。そして、喜びの歌声をあげて、それを地の果てまで響きわたらせましょう。イエスはあなたが信じるに値するお方なのです。

イザヤ書48章1~11節 「練られる神」

きょうは、「練られる神」というタイトルでお話します。この箇所にはバビロンに捕らえられていたイスラエルが解放される預言が記されてあります。イザヤはそれが起こる150年も前にそのことを預言していたわけです。それにしても、イスラエルがバビロンに滅ぼされ捕囚の民として連れて行かれるようになったのはどうしてでしょうか。それは彼らがかたくなだったからです。彼らは神の民であるにもかかわらず神に背き、自分勝手な道に歩みました。そして、こともあろうに偶像を造りそれを拝んでいたのです。それで神はバビロンによって彼らを懲らしめたのです。神がイスラエルを懲らしめたのは彼らが嫌だからでも、憎かったからでもありません。むしろ神は彼らを愛していたので、彼らを練られたのです。きょうは、神がどのようにイスラエルを練られたのかをご一緒に見ていきましょう。

Ⅰ.形式的な信仰のイスラエル(1-5)

まず1節から5節までをご覧ください。1節には、「これを聞け。ヤコブの家よ。あなたはイスラエルの名で呼ばれ、ユダの源から出て、主の御名によって誓い、イスラエルの神を呼び求めるが、誠実をもってせず、また正義をもってしない。」とあります。

ここに「ヤコブの家」とか「イスラエルの名」、「ユダの源」とありますが、これはみな同じ人たちを指しています。ヤコブとはずる賢い者とか、かかとをつかむ者という意味です。それはヤコブの肉的な性質を表しています。そんなヤコブが神と格闘して砕かれ、イスラエルと呼ばれました。意味は「神に支配された者」です。そんなイスラエルが「ユダの源から出て」と言われています。ユダとはヤコブの四男で「賛美する者」という意味があります。このユダ部族からダビデ王が生まれ、このダビデの子孫からやがてメシヤ、救い主が生まれます。それがイエス・キリストです。ですから、ここで彼らのことが「ヤコブの家よ。」とか、「イスラエルの名で呼ばれ」、「ユダの源から出て」と言われているのは、彼らが正統なユダヤ人であるということを表しているのです。少なくとも彼らはそのように自負していました。表向きは、自分たちがユダの源から出た、主の御名を呼び求める、主に選ばれた民であると思っていたのです。  しかし肝心なところが抜けていました。それは何かというと、誠実さや正義に欠けていたことです。彼らは「主の御名によって誓い、イスラエルの神を呼び求めるが、誠実をもってせず、また正義をもってし」ませんでした。「誠実」とは、変わることなく、神に信頼する心のことであり、「正義」とは、神の道にかなった正しい歩みのことです。つまり、彼らは他の神々ではない、主の御名によって誓い、イスラエルの神を呼び求める者たちであったのに、その信仰には中身が伴っていなかったのです。口先だけの信仰だったのです。

いったい彼らはどのようになってしまったのでしょうか。3節から5節までのところをご覧ください。 「3先に起こった事は、前からわたしが告げていた。それらはわたしの口から出、わたしはそれらを聞かせた。にわかに、わたしは行い、それは成就した。4 あなたがかたくなであり、首筋は鉄の腱、額は青銅だと知っているので、5 わたしは、かねてからあなたに告げ、まだ起こらないうちに、聞かせたのだ。『私の偶像がこれをした』とか、『私の彫像や鋳た像がこれを命じた』とか、あなたが言わないためだ。」

「先に起こった事」とは何でしょうか?それはイスラエルの歴史に起こった一連の神様の御業のことです。特にここでは出エジプトの出来事を指しています。それは前から神が告げておられたことでした。そしてそれがある日突然、にわかに起こりました。以前から主が告げておられたように成就したのです。なぜそのように告げておられたのかというと、そうでないと彼らは、「私の偶像がこれをした」とか、「私の彫像や鋳た像がこれを命じた」などと言いかねないからです。彼らはそれほどかたくなでした。彼らはイスラエルの神を信じているといいながら、このように偶像も信じていたのです。真の神を信じているといいながら、同時に偶像も持ち合わせていたのです。そんなことがあるのでしょうか。あるのです。神を信じていると言いながらも、同時に自分の能力に頼っていたり、自分の知識、経験、財力を信じていれば、それは同時に偶像を拝んでいることになります。まさに彼らはそうだったのです。

たとえば、彼らは、主の圧倒的な力によってエジプトから救い出されましたが、その後導かれて荒野でいったい何をしたでしょう。モーセが十戒を受けるためにシナイ山の上って行くと、彼がなかなか山から下りて来ないことにしびれをきたし、自分たちをエジプトから連れ上ったモーセはどうなったかわからないからと、アロンに頼んで、「私たちに先立って行く神を、造ってください。」(出エジプト32:1)金の子牛を造りました。彼らは神によって贖われた神の民であるにもかかわらず、同時に金の子牛を造って礼拝したのです。それは彼らだけのことではありません。ややもすると私たちクリスチャンも同じ過ちを犯す危険性があります。真の神を信じているといいながら、同時に自分の神を造るということが起こるのです。

イスラエルは、そのような罪によってバビロンに滅ぼされ捕囚の民としてバビロンに連れて行かれましたが、今度はそこでバビロンの偶像を拝むようになりました。ですから神は、彼らをそこから解放すると前もって告げられたのです。そうでなかったら、それは偶像のおかげだとか、たまたまそうなったんだと言いかねないからです。彼らはそれほどまでにかたくなだったからです。そんな彼らのかたくなさを4節ではこのように表現されています。「首筋は鉄の腱、額は青銅だと知っているので、」すごいですね。首筋は鉄の腱です。顔は青銅にように堅いのです。これはイスラエルのかたくなさ、頑固さがどれほどのものであったのかを表したものです。いくら神の預言が成就しても、それを神が成し遂げられたことに疑いを持ち、偶像がしたと勘違いするほどでした。

彼らはそれほどまでにかたくなでした。彼らはイスラエルの名で呼ばれ、ユダの源から出て、主の御名によって誓い、イスラエルの神を呼び求めていたのに、中身がありませんでした。誠実をもってせず、また正義をもってしなかったのです。

これは私たちクリスチャンに対する警告でもあります。イエス様を信じて救われて、もうこの世の人たちのような偶像を礼拝したりはしていないかもしれませんが、けれども、心がそこから離れている場合があります。救われたということに甘んじて、いつの間にか形だけの信仰生活に陥っていることがあるのです。この世の楽しみという偶像に、自分の肉の欲といった偶像に、自分で造った神に引かれていく危険があるのです。

マタイの福音書7章を開いてください。23節には、「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡をたくさん行ったではありませんか。」という人たちに対して、主は、「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」(マタイ7:23)と言われます。なぜでしょう。主に向かって、「主よ、主よ。」と言う者がみな天の御国に入るわけではないからです。ただキリストのことばを聞いて、それを行う者だけが天の御国に入ることができるのです。それゆえイエス様はこう言われました。

「24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。26 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」(マタイ7:24-27)と言われました。

どんな嵐が襲ってきてもびくともしない岩の上に家を建てる人とは、主のことばを聞いてそれを行う人です。神は、私たちがどれだけのことをやったのかを見られるのではありません。神が見られるのは、私たちが神の前にどれだけ誠実であったかです。そして、神のみこころに歩んだのかどうかということなのです。ミカ書6章8節をご一緒に読みましょう。

「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」

神の前に誠実に歩むというのは、何一つ過ちのない完璧な人生を歩むということではありません。たとえ人生に過ちがあっても、神の恵みの中で悔い改め、神の恵みに支えられ、神に従う生き方を守っていくことです。人の目から見れば、失敗した人生はあくまでも失敗である、と思われるものでしょう。しかし、神の目から見ればそうではありません。だから過去を振り返って私の人生など価値がない、と思うことがあっても、示されることがあればそのたびに悔改め、へりくだって神とともに歩むことです。神の前に誠実に歩み、また、神のみこころに歩むことを求めることを、私たちの願いとさせていただきましょう。

Ⅱ.新しい創造(6-8)

次に6節から8節までをご覧ください。「6あなたは聞いた。さあ、これらすべてを見よ。あなたがたは告げ知らせないのか。わたしは今から、新しい事、あなたの知らない秘め事をあなたに聞かせよう。7 それは今、創造された。ずっと前からではない。きょうまで、あなたはこれを聞いたこともない。『ああ、私は知っていた』とあなたが言わないためだ。8 あなたは聞いたこともなく、知っていたこともない。ずっと前から、あなたの耳は開かれていなかった。わたしは、あなたがきっと裏切ること、母の胎内にいる時から、そむく者と呼ばれていることを、知っていたからだ。」

イスラエルはこれらすべてを見ました。これらすべてとは、これまでのイスラエルの歴史において、神が語られたことがことごとく成就したことです。彼らはそれを見てきました。ですから、彼らにとって必要なことは、それを告げ知らせることでした。

そして神は彼らに「新しいこと」、彼らが知らない秘め事を告げられると言われました。それは何でしょうか?7節を見ると、それは今、創造された、とあります。新しい創造です。それは直接的にはバビロンからイスラエルを救い出されるという一連の神の救いの御業のことで。彼らはいくら神のことばを聞いても悟らない不信仰で頑固な者でしたが、主はそんな彼らを滅ぼされないで救おうとされました。そして神はそれをペルシャの王クロスという異教徒を用いて成し遂げようとされたのです。それは神が創造された新しい方法でした。

しかし、これは究極的には全人類を罪から救われる神の救いの御業のことです。それは今、創造された、新しい創造です。神は私たちを罪から救うために全く考えられない方法を用いられました。それが十字架です。神は罪のないひとり子をが私たちと同じような人間の姿で生まれさせ、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死なれ、三日目によみがえらせました。このような方法をいったい誰が考えることができたでしょう。このような方法は神以外には思いつかない方法です。人間の誰も想像することができない神の知恵です。

パウロは、この神の知恵についてコリント第一の手紙1章18節から25節のところでこのように言っています。  「18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。 23しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、24しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。25なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」

皆さん、十字架のことばは、滅びる人にとっては愚かであっても、救いを受ける私たちにとっては、神の力です。これはこの世の知恵で理解できることではありません。十字架のことばばが救いだなんて、いったい誰が考えることができたでしょう。この世の人にとって十字架は愚かでしょうが、召された私たちにとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。私たちの知恵によっては全く考えられない方法で、神は私たちを救おうとされたのです。それが唯一、私たちが罪から救われるために神の計画だったのです。

南アフリカにグースという動物がいます。名前はグースですが、なかなかすばやい動物です。この動物は鹿を少し小さくしたような動物ですが、普通の家畜が生きていけないような環境でも、どんどん広がっていく、生命力の強い動物です。  しかし、ある時、このグースが大量に死んでしまいました。その原因を調べたところ、彼らがいつも食べている、ある特殊な草が、胃の中で異常にタンニンという物質を発生させていたのです。  実は、彼らがいつも食べている植物にはおもしろい特性がありまして、動物が来て、食べ始めて二分くらい過ぎると、強力なタンニンという物質を作り出すのです。もうそれ以上、食べられないように植物自身が自分を守っているんですね。ですから、グースは二分くらい食べたら、次の草の所へ行き、また二分くらい食べるとまた別の所に行きと、あちこちで二分くらいずつ食べるのです。ですから、広範囲にわたり、大量の植物が必要となるのです。  ところが、ある時、動物愛護団体がグースを密漁から守ろうと、彼らの生息地にぐるっと柵を作ってしまいました。それでグースの行動範囲が制限されてしまいました。彼らはあちこちで少しずつ食べることができなくなってしまったのです。それでどうしたかというと、仕方なく、このタンニンを発生している草を二分以上食べ続けることになったのです。そしてタンニンがグースの体の中にたまって死んでしまったのです。  人間はグースを守ろうと柵を作ったばかりに、結果的にグースを滅ぼしてしまうことになりました。もし柵を作らなければ、動物と植物は共存共栄していけたはずなのです。ここに人間の知恵の限界があります。良かれと思ってやったことすら、時には相手の命を脅かすことになってしまいます。

けれども、神の知恵は違います。神の知恵は完全です。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いのです。十字架のことばは滅びに至る人々には愚かでも、救いを受ける私たちには神の力です。神は私たちを救うために、私たちが全く想像もつかないような方法を考えられました。それが十字架と復活だったのです。これこそ新しい創造なのです。

ガラテヤ人への手紙6章14節と15節には、「14しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。15割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」とあります。    何ですか、「新しい創造」とは?それはこのことなんです。これは神が造られた新しい方法と言ってもいいのです。人間が想像もつかないような全く新しい方法。大どんでん返しのような救いの方法。それが十字架です。これこそ私たちにとって大事なことであって、割礼を受けているかいないかといったことはどうでもいいことなのです。神は私たちが救われるために主イエス・キリストの十字架と復活という方法を計画されました。私たちにとって大事なのは、この基準に従って生きていくことです。

皆さんはどうでしょうか。この基準に従って歩んでおられるでしょうか?イエス・キリストの十字架以外のものを誇りとしているということはないでしょうか?しかし、大事なのは新しい創造です。イエス・キリストの十字架を誇りとしましょう。そしてこの基準に従って歩んでいきましょう。それがクリスチャンなのです。

Ⅲ.練られる神(9-11)

最後に9節から11節までをご覧ください。イスラエルは母の胎内にいる時からそむく者であり、頑固な者でしたが、主は彼らを断ち滅ぼしませんでした。9節には「わたしは、わたしの名のために、怒りを遅らせ、わたしの栄誉のために、これを押さえて、あなたを断ち滅ぼさなかった。」とあります。生まれながらそむく者であれば、すぐにでも滅ぼしてしまった方がいいのではないか、と思われるかもしれませんが、しかし、神はそのようにはされませんでした。神はご自分の恵みによって与えてくださった契約に従って、変わることなく、恵みを与えてくださいます。なぜなら、神は誠実な方だからです。どんなにイスラエルが神に背いてもそのそむきに耐えられ、さばきを遅らせ、軽い懲らしめを通して気づかせようとされるのです。

10節をご覧ください。ここには、「見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。」とあります。主はイスラエルを聖めるために、「悩みの炉」を用いられました。「悩みの炉」とは何でしょうか?悩みの炉とは、文字通り、彼らが悩むことによって彼らのかたくなな思いを砕く炉のことです。ここではバビロンのことを指しています。神は彼らのかたくなな心を砕くためにバビロンを用い、バビロンでの捕囚の生活を通して、彼らが従順に神に従うようにされたのです。

申命記4章20節には、「鉄の炉エジプトから救い出された」とあります。悩みの炉ではなく、鉄の炉です。炉の種類は違いますが目的は同じです。400年にもわたるエジプトでの生活は、まさに鉄の炉で練られるようなものでした。しかし、彼らはその苦しみの中で神に叫び、神にすがりました。人はこのような苦しい経験や辛い経験をしないとなかなか神にすがろうとしないので、神はあえて彼らをエジプトの苦役に、鉄の炉の中に送られたのです。

今度は鉄の炉ではなく悩みの炉です。そうした悩みの中で彼らが神を呼び求め、神に従うようにされました。事実、この悩みの炉から救い出された後のイスラエルはどうなったでしょうか?クロス王によってエルサレムへの帰還を果たした彼らは、偶像を忌み嫌い、異教徒との結婚を徹底的に排除しました。それは神が最も忌み嫌われることだったからです。それはエズラ記やネヘミヤ記を読むとわかります。彼らはこの悩みの炉を通ったので、かたくなな心が砕かれ、従順に神に従う者に変えられたのです。

それは私たちも同じです。私たちもイスラエルのようにすぐに高ぶってしまうような、うなじのこわい民です。そんな私たちを聖めるために、神は私たちをこの悩みの炉の中に、鉄の炉の中に送られることがあります。しかし、それはあなたを滅ぼすためではなく懲らしめるためであって、それによってあなたを練り清めるためなのです。神は私たちを愛しておられるので、悩みの炉を用いて、私たちを練ってくださるのです。

ヘブル人の手紙に「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」(12:5-6)とあります。  神はあなたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとしたら、私生児であって、ほんとうの子ではありません。私たちは神のほんとうの子なので、神は私たちを訓練するために懲らしめてくださいます。であれば私たちは、こうした悩みの炉に置かれるときに、あるいは鉄の炉に置かれる時に、それを神からの愛のムチだと思って感謝し、神が用意してくださった信仰のトレーニングだと思って忍耐すべきです。何よりも、生まれた時から神にそむき続けてきた私たちは、本来であれば神にさばかれても致し方ない者であるにもかかわず、神のあわれみと恵みの契約のゆえに忍耐してさばきを遅らせ、神に立ち返るように待っておられるその神の寛容に感謝すべきです。それは私たちの想像をはるかに越えた神の忍耐であり、寛容であります。

詩篇の作者はこのように告白しました。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)私たちもこのように告白をさせていただきましょう。苦しみにあったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました!あなたにとっての苦しみは何ですか?あなたにとっての悩みの炉はなんですか?それは神があなたを訓練するための愛のムチです。そう信じて、その悩みの中で主を見上げ、砕かれ、悔い改めて、主のみこころに歩ませていただきましょう。苦しみにあったことは、あなたにとって幸せなのです。