イザヤ書31章1~9節 「この方以外に救いはない」

きょうは、イザヤ書31章から学びたいと思います。タイトルは「この方以外に救いはない」です。アッシリヤが攻めてくるという緊迫した状況の中でエジプトに頼ったイスラエル、南ユダを、主は「反逆の民」と呼びました。そんなことをしたらどうなるか。恥と侮辱がもたらされます。苦難と苦悩が襲います。そして破滅と破壊がもたらされるのです。解決の道はただ一つ。それは主により頼むことでした。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(30:15)のです。なのに彼らは、それを望みませんでした。そんなイスラエルに対して、主は再びこのエジプトにより頼むことの愚かさについて語ります。

Ⅰ.こころ尽くして主により頼め(1-3)

まず第一に、1節から3節までをご覧ください。「1 ああ。助けを求めてエジプトに下る者たち。彼らは馬にたより、多数の戦車と、非常に強い騎兵隊とに拠り頼み、イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めない。2 しかし主は、知恵ある方、わざわいをもたらし、みことばを取り消さない。主は、悪を行う者の家と、不法を行う者を助ける者とを攻めたてられる。3 エジプト人は人間であって神ではなく、彼らの馬も、肉であって霊ではない。主が御手を伸ばすと、助ける者はつまずき、助けられる者は倒れて、みな共に滅び果てる。」

「ああ」とは、災いを宣告する時のことばです。このイザヤ書には何回も繰り返されて出てきます。29章1節、15節、30章1節にも出てきました。神に従わないで自分の考えで、自分の判断で、自分勝手に生きようとしていたイスラエルを見て、主は「ああ」と嘆いておられるのです。しかし、それはただ災いを宣告しているだけではありません。忠告して、警告として、あらかじめ語っているのです。ひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われることを望んでおられる神は、常に救いの道を用意しておられます。ですから、このように災いが宣告されている時にはいつも神の救いの約束も備えられているということを見落としてはなりません。  では主が嘆いておられたことはどんなことでしょうか。それは、彼らがイスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めないで、エジプトを求めたことです。北からアッシリヤが攻めてきた時、エジプトに軍事同盟を求めました。助けを求めてエジプトに下りました。彼らはエジプトの軍事力を求め、それによって窮地を乗り切ろうとしたのです。目に見える力に頼ろうとしました。

私たちも何か困ったことがあるとき、すぐに目に見える力に頼ろうとします。目に見える人間の力、人間の能力、人間の技術力、頼りになりそうな人、何らかの専門家であったりその道のエキスパート、資格のある人、有名な人たち、そういう人たちに頼ろうとします。そういう傾向があります。ユダもまた同じようにエジプトに頼ろうとしました。多数の戦車、非常に強い騎兵隊、その軍事力に頼ろうとしたのです。それがあったら何とかなる・・と。聖書でエジプトというのはこの世を表しています。この世の象徴がエジプトなんです。かつてイスラエルはエジプトから解放されたのにこうした窮地に陥るとすぐにエジプトに逆戻りしたように、クリスチャンもこうした窮地になるとすぐにこの世にバックスライドする危険性があります。そのようなことがあってはなりません。

ピリピ人への手紙3章3節を開いてください。ここには、「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。」とあります。皆さん、クリスチャンとはどういう人のことをいうのでしょうか。クリスチャンとは、神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みとしない人たちのことです。この時イスラエルが頼りにしていたものは人間的なものでした。馬、多数の戦車、非常に強い騎兵隊といったものでした。人間の力、軍事力でした。人間のはかりごとだったのです。そういうものに目を留めていました。しかし、クリスチャンが頼みとするのはそういうものではありません。クリスチャンが頼みとしなければならないのはイエス・キリストです。そして御霊によって礼拝する。それが信仰者の道なのです。

箴言3章5節も開いてみましょう。これは有名な聖書のことばです。ここには「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。6 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」とあります。心を尽くして主に拠り頼まなければなりません。自分の悟りに頼ってはなりません。イスラエルは自分の悟りに頼りました。エジプトと同盟を結べば守られると思ったのです。しかし、そこには恥と侮辱が、苦悩と苦難が、破滅と破壊がもたらされました。自分の悟りに頼ってはならないのです。あなたの行く所どこにおいても主を認めなければなりません。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにしてくださいます。

百選錬磨のダビデは、自らの戦力、軍事力に頼ることをせず、むしろ主を誇りました。彼は詩篇20篇7節でこう歌っています。「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主を御名を誇ろう。」ダビデは、彼の神、主の御名を誇りました。心を尽くして主により頼んだのです。その結果、主は彼の道をまっすぐにしてくださいました。彼はイスラエルの王として確固たる王国を築き上げることが出来たのです。

それから約300年、このイザヤの時代に、イスラエルはそうではありませんでした。主に目を向けたのではなく、馬や戦車に目を向けました。彼らはこのダビデに習うべきでした。こういう時だったからこそ彼らは、イスラエルの聖なる方に目を向けるべきだったのです。

皆さん、こういう時にこそ私たちの信仰の真価が問われます。大変な時にその人がどこを見ているか、何を大切にしているかが浮き彫りになります。そういう意味では試練は信仰の試金石だと言えます。試練の時にその人が真っ先に主に向かうなら、その人の信仰は本物だと言えますが、しかし、試練の時にはその人が主ではなく主以外のもの求めるのなら、それがその人がほんとうに信じているものなのです。試練の時にどこを見るのか、何に頼ろうとするのかによってそれがわかるのです。ですから、主はあえてアッシリヤを彼らに送られたのです。その時に彼らがどこを見るか、何を頼るのかを浮き彫りにさせるためです。試練は私たちの信仰を試すために送られてきます。私たちがほんとうに何を信じているのか、何に頼るのか、どこを見ているのか、何を求めているのかを明らかにするために、あえて送られるのです。アッシリヤに囲まれた時だからこそ、こういう時だからこそ、私たちはイスラエルの聖なる方に目を向け、この方を求めなければならないのです。

2節をご覧ください。ここには、「しかし主は、知恵ある方、わざわいをもたらし、みことばを取り消さない。」とあります。なぜ主に目を向け、主を求めなければならないのでしょうか。なぜなら、主は知恵ある方であり、みことばを取り消さない方だからです。私たち人間は有限で未来のことを予測することさえできませんが、主は永遠なる方であり、時間の制約を受けることなく、すべてのことを見通され、すべてのことを瞬時に、的確に、正確に判断されます。主は知恵ある方なのです。

また、ここには「みことばを取り消さない」とあります。言われたことは必ず実行されます。有言実行ですね。だから力があるのです。人のことばはそうではありません。言っても実行されません。政治の世界でもマニフェストでどんなに「こうします」と言っても実行されることがありません。どんなにすばらしい政策を掲げても途中で頓挫してしまうのです。力がないからです。人のことばはいい加減で、無力です。エジプトも口では約束するというものの、実際のところはちょっとでも自分たちに不利になると、手のひらを返したかのような態度を取りました。言ったことを取り消してすぐに見捨ててしまうのです。けれども主はそのような方ではありません。みことばが取り消されることは決してありません。言われたことをは必ず実行します。これがほんとうの力ではないでしょうか。ヘブル4章12節には、「神のことばは生きていて、力があり」とあります。なぜ力があるのでしょうか。それが必ず成るからです。100%実現します。これがほんとうの力です。この力のある方に目を留め、耳を傾け、より頼んでいく以上の安全、安心はありません。これほど確かな保障はないのです。

3節には、このことが対比によって説明されています。「エジプト人は人間であって神ではなく、彼らの馬も、肉であって霊ではない。」あたりまえのことです。このあたりまえの対比を通して何が言いたいのかというと、人間は肉にすぎないということです。肉は必ず朽ちて滅んでいきます。けれども霊は違います。霊は滅びません。神は霊です。ですから、朽ちることも、滅びることもありません。また肉はコロコロ変わります。頼りになると思っていたのに突然できませんと言われ、裏切られることもあります。親友だと思っていたのに、見捨てられてしまうこともあるのです。しかし、神はそうではありません。この方はいつまでも変わることがないのです。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも同じです。」(ヘブル13:8)とあります。イエス・キリストはいつまでも変わることがありません。「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」(Ⅱテモテ2:13)たとえ私たちが不真実であっても、彼は、イエス・キリストは、神は常に信じであられ、約束されたことを必ず守られるのです。私たちが恐れなければならないのはこの方です。アッシリヤではありません。エジプトでもありません。この方です。イエス様はマタイの福音書10章28節で、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」と言われました。からだを殺しても、たましいを殺せない人を恐れてはなりません。そんなものよりも、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなければなりません。  しかし、私たちは時として、こうしたものを恐れてしまいます。人を恐れてしまうことがあります。しかし、人間は肉であって霊ではありません。やがて朽ちて、滅んでしまうようなものなのです。そんなものを恐れてはなりません。それよりもたましいも肉も滅ぼすことのできる神を恐れなければならないのです。

あなたが恐れているものは何ですか?あなたにとってのアッシリヤは何でしょうか?たとえそれがどんなに強大なものであっても恐れてはなりません。そして、エジプトのような肉に頼ってはなりません。エジプトは人間であって神ではなく、彼らの馬も、肉であって霊ではないからです。あなたが恐れなければならないのは神なのです。

Ⅱ.エルサレムを守られる主(4-5)

次に4節と5節をご覧ください。「まことに主は、私にこう仰せられる。「獅子、あるいは若獅子が獲物に向かってほえるとき、牧者がみなそのところに集められても、それは、彼らの声に脅かされず、彼らの騒ぎにも動じない。そのように、万軍の主は下って来て、シオンの山とその丘を攻める。5 万軍の主は飛びかける鳥のように、エルサレムを守り、これを守って救い出し、これを助けて解放する。」

「獅子」とか「若獅子」とはアッシリヤのことです。ですから、「獅子、あるいは若獅子が獲物に向かってほえるとき」というのは、アッシリヤが南ユダに向かって攻めるときという意味です。そして「牧者」とはエジプトのことです。ここではエジプトが牧者にたとえられているわけです。なぜ牧者にたとえられているのかというと、牧者が羊を飼っているときライオンとか狼といった獣が襲ってくる場合、大声をあげて追い払っていたからです。まさにアッシリヤが南ユダを攻めていたときはそのような状態でした。そのユダを助けようと牧者であるエジプトが大声をあげて追い払おうとしましたが、獅子、あるいは若獅子であるアッシリヤはそんな声には全く動じませんでした。びくともしないのです。

ところが、その次のところにこのようにあります。「そのように、万軍の主は下って来て、シオンの山とその丘を攻める。5 万軍の主は飛びかける鳥のように、エルサレムを守り、これを守って救い出し、これを助けて解放する。」どういうことでしょうか?シオンの山を、エルサレムを攻撃していたのはアッシリヤなのに、ここでは「そのように、万軍の主は下って来て、シオンの山とその丘を攻める」というのです。

こういうことです。ここでは「獅子」や「若獅子」はアッシリヤのことを指して言われていますが、実はその背後にあってアッシリヤをあやつっていたのは主であったということです。主はアッシリヤを、ユダを懲らしめる道具として用いていたのです。ところがアッシリヤは高ぶってユダを滅ぼそうとしました。自分たちに与えられた立場をわきまえず、それを越えて、徹底的に滅ぼそうとしたのです。しかし、それは神のみこころではありませんでした。あくまでも主は、ユダを懲らしめるために彼らを用いただけで、その目的はユダが悔い改めて、主に立ち返ることだったのに、その神の御心からそれて、あたかも自分たちが王であるかのように高ぶったので、主はアッシリヤをさばかれ、その誇らしげな高ぶりを罰せられました。それが5節に書かれてあることです。

「万軍の主は飛びかける鳥のように、エルサレムを守り、これを守って救い出し、これを助けて解放する。」

エルサレムを滅ぼそうとアッシリヤがエルサレムを包囲したとき、朝起きて外を見ると18万5千人のアッシリヤ兵が倒れていました。当時のユダの王ヒゼキヤの祈りに、へりくだってささげたその祈りに主が答えてくださり、前の晩に主の使いがアッシリヤの陣営に出て行き、一晩でそれだけの兵隊を倒したのです。そのことをここでは「飛びかける鳥のように、エルサレムを守り」とあります。まさに主は飛びかける鳥のように出て行き、エルサレムを守られたのです。

これは前701年にアッシリヤの手から守られただけのことではありません。世の終わりにも同じようなことが起こります。世の終わりには、この人類の最終戦争が起こります。こをハルマゲドンの戦いと言います。世界中の軍隊がメギドの丘、ハルマゲドンに集結し、主とその軍隊に戦いを挑むわけですが、その時にも主は飛びかける鳥のようにエルサレムを守られます。再臨のキリストは天から降りて来られるとエルサレムに着座され、ご自身に敵対する者を御口の剣によって滅ぼしてしまわれます。まさに鳥のように、エルサレムを守って救い出し、これを助けて解放してくださるのです。

そしてそれは前701年にアッシリヤの手からエルサレムを守られ、また、世の終わりにおいて再臨の主がご自身に敵対する者の手からエルサレムを守られるだけでなく、どの時代にも繰り返して起こることでもあります。主はいつの時代でも飛びかける鳥のように、エルサレムを守り、これを守って救い出し、これを助けて解放してくださるのです。

たとえば、1917年にこのようなことが実際にありました。1917年といったら第一次世界大戦のまっただ中です。この時にエルサレム(イスラエル)を支配していたのはオスマントルコ帝国でした。オスマントルコというイスラム国です。イスラエルはその一部であったわけです。そしてこの第一次世界大戦の時、イギリスがこのオスマントルコと戦っていました。イギリスがオスマントルコに勝利することによって、イスラエルはイギリスの委任統治となりました。その時イギリスを率いていたのがエドモンド・アレンビーという将軍です。彼は敬虔なクリスチャンで、その枕元にはいつも聖書を置いて寝ていたというくらいですから、聖書の舞台でもあり、歴史的な建造物がたくさんあるこのこの町に爆弾を落としたり、ミサイルを打ち込んで破壊したくありませんでした。何とか無傷で開放したかったのです。  そこで彼のとった方法は、飛行機を飛ばして空からビラをまくという方法でした。そのビラにはこう書いてありました。「降伏か死か」そして、その下に彼のサインが書かれてあったのですが、オスマントルコはイスラム帝国でアラビヤ語を使っていたのでアラビヤ語でサインしたわけです。「エドモンド・アレンビー」をアラビヤ語で表すと「アラー・ネビー」となるのだそうです。アラーはイスラム教の神、ネビーは預言者という意味です。ですから、アラー・ネビーというのは「アラーの預言者」となるわけです。「降伏か死か」(アラーの預言者)それを見たとイスラム教の住民たちは非常に恐れました。まして飛行機などあまり見たことがない時代です。空から飛行機が飛んできてアラビヤ語のメッセージが書いてあって、しかもそれがアラーの預言者からであるというので、彼らは怯えきってエルサレムから退居したのです。それでエルサレムは無傷で英国の支配下に入ったわけです。まさに飛びかける鳥のようにやって来て、エルサレムを守られ、救い出され、解放しました。それによって十字軍以来初のキリスト教国による統治となったわけです。そしてその後1948年には国として独立を果たすわけです。イスラエル共和国となりました。

ですから神はいつの時代にもこのエルサレムの上に特別に御目を注いでくださり、これを守り、守って救い出し、これを助けて解放してくださいます。それは国としてのイスラエル、エルサレムだけでなく、神の民となったクリスチャンに対しても同じです。私たちは霊的イスラエルです。エルサレムそのものです。その私たちを主はいつも御目を注いで守ってくださいます。助けて解放してくださる。だから私たちはこの方に信頼し、ヒゼキヤのようにへりくだって祈り、この方の助けを待ち望まなければならないのです。

Ⅲ.この方以外に救いはない(6-9)

最後に6節から9節までをご覧ください。「6 イスラエルの子らよ。あなたがたが反逆を深めているその方にもとに帰れ。7 その日、イスラエルの子らは、おのおの自分のために自分の手で造って罪を犯した銀の偽りの神々や金の偽りの神々を退けるからだ。8 アッシリヤは人間のものでない剣に倒れ、人間のものでない剣が彼らを食い尽くす。アッシリヤは剣の前から逃げ、若い男たちは苦役につく。9 岩も恐れのために過ぎ去り、首長たちも旗を捨てておののき逃げる。―シオンに日を持ち、エルサレムにかまどを持つ主の御告げ―」

ここには、イスラエルに対して、この方のもとに帰るようにと勧められています。この方は、親鳥が自分の身を惜しまずにひなを守るように、ユダを愛され、その愛によって守られる方です。その方のもとに帰らなければなりません。悔い改めて、正しい道に方向転換しなければなりません。悔い改めて、偶像を捨て、神のもとへ立ち返った結果、ユダはアッシリヤから解放されるという感激を味わいます。アッシリヤは人間のものではない剣に倒れ、人間のものではない剣が彼らを食い尽くしました。人間のものでない剣とは何でしょうか。それは主の使いのことです。彼らは人間のものではない剣に倒れたのです。

皆さん、救いは人間によるものではありません。あなたを究極的なさばきから救うことができるのは人間ではないのです。地獄の滅びからあなたを救うことができるのはイエス・キリストだけです。使徒の働き4章12節には次のようにあります。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」

皆さん、この方以外にはだれによっても救いはありません。自分で自分を救うことも、だれかに救ってもらうこともできません。救うことができるのはイエス・キリストだけなのです。100%神であり、100%人であられたイエス・キリストだけがあなたを救うことができるのです。アッシリヤの手からイスラエルを救ったのはエジプトではありませんでした。アッシリヤの手からイスラエルを救ったのは主の使いでした。これは受肉前のキリストのことです。このキリストが彼らを救い出し、彼らを助けて解放したように、あなたを救い、あなたを助けて解放してくださるのです。

ですから、この方に立ち返ってください。あなたが今見ているものは何ですか。何に頼ろうとしているでしょうか。アッシリヤに囲まれ八方塞がりでも、上が空いています。どうぞ上を見上げてください。イスラエルの聖なる方に目を向け、この方を求めてください。その時神様は不思議をなさいます。人間のものでない剣で敵を打ち破り、あなたを守り、あなたを救いだし、あなたを助けて解放してくださいます。その方のもとに帰りましょう。その方により頼みましょう。この方があなたの道をまっすぐにしてくださるからです。

イザヤ書30章27~33節 「天国か地獄か」

きょうはイザヤ書30章の最後の部分から、「天国か地獄か」というタイトルでお話ししたいと思います。突然「天国か地獄か」と聞いてドキッとされた方もおられるかもしれません。きょうのところは、30章全体のまとめになります。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたは力を得る。」(15)と言われたのに、イスラエルはそれを望みませんでした。彼らはあくまでも馬に乗って逃げようとした。エジプトに信頼しようとしたのです。その結果は恥と侮辱です。苦難と苦悩です。破滅と破壊がもたらされます。しかし、主はそんなイスラエルをあわれまれました。そのように主に反逆を続ける彼らに対して、「それゆえ、主は恵もうと待っておられ、あわれもうと立ち上がられます。」(18)普通なら捨てられてもおかしくないのに、主はそんな彼らをあわれもうとされました。そして、主を待ち望む者にはものすごい幸いが注がれるということを、私たちは見てまいりました。きょうのところには、その結果が記されてあります。

Ⅰ.主の御名が遠くから来る(27-28)

まず第一に27節と28節をご覧ください。「見よ。主の御名が遠くから来る。その怒りは燃え、その燃え上がることはものすごく、くちびるは憤りで満ち、舌は焼き尽くす火のようだ。28 その息は、ほとばしって、首に達するあふれる流れのようだ。破滅のふるいで国々をふるい、迷い出させる手綱を、国々の民のあごにかける。」    これはイスラエル(ユダ)を苦しめていたアッシリヤをさばくために、主が来られるということです。主の御名が遠くから来るという表現は、聖書にはここにしか使われていない表現です。主の御名が来るというのは、全世界の主権者であり、神の民の救い主、贖い主が来られるということです。それが遠くからやって来るというのは、おそらく、今までユダを見捨てられていたような状態であった神がやって来られるということを表しているものではないかと思われます。彼らにとって神は、まさに遠くにおられるような方でした。そこには深い断絶がありました。神に頼らず人間に、エジプトに頼っていた彼らは「反逆の子ら」と呼ばれていました。(1節)彼らは罪に罪を増し加えるばかりだったのです。しかし、そんな彼らが主のことばに応答し、立ち返って静かにしたことで、主は彼らに答えてくださいました。落ち着いて、主に信頼した結果、彼らは力を得ることになったのです。それまで遠く離れていたかのように見えた神がやって来て彼らを助け、彼らの敵であったアッシリヤをさばくために来てくださるのです。これはイザヤの時代で言えばアッシリヤに対するさばきのことですが、同時に世の終わりの預言でもあって、イエス・キリストはご自分の敵である悪魔をさばくために再び来られることを預言しているのです。その時主はどのようにさばかれるのでしょうか。

「その怒りは燃え、その燃え上がることはものすごく、くちびるは憤りで満ち、舌は焼き尽くす火のようだ。28 その息は、ほとばしって、首に達するあふれる流れのようだ。破滅のふるいで国々をふるい、迷い出させる手綱を、国々の民のあごにかける。」

ユダの敵であったアッシリヤに対する主の怒りは、ものすごいものでした。ここには「その怒りは燃え」とか、「その燃え上がることはものすごく」とあります。その怒りは燃え上がる炎のようでした。神はアッシリヤを、ユダを懲らしめる道具として用いられましたが、それが懲らしめという目的を越えてユダに迫り、彼らをほしいままに侵略することをお許しにはなりませんでした。「その息は、ほとばしって、首に達するあふれる流れのようだ。」かつてイザヤはこのアッシリヤの襲来を洪水にたとえましたが(8:7-8,28:18)、ここでは主の息がそれ以上の規模と激しさで彼らを襲うというのです。また、「破滅のふるいで国々をふるい、迷い出させる手綱を、国々の民のあごにかける。」とあります。少々わかりずらい文章ですが、こういうことです。「破滅のふるい」とは「偽りのふるい」のことです。神はこの偽りのふるいで国々をふるい分け、その正体を明らかにされます。そして善と悪を正しくより分けられます。そして、向こう見ずの暴れ馬をギュと手綱で締めて制御するように、主はアッシリヤを扱われるのです。そのようにして神はご自分の民イスラエルがこれ以上苦しむことがないようにと、その偉大な力と権威をもって臨んでくださいます。それは今も、後も、同じです。世の終わりにも主に戦いを挑むこの世の軍隊がハルマゲドンに集結しますが、主はその口から出る剣によって完全に敵を打ち破られます。(黙示録19:11-21)いつの時代においても主は、ご自身の民を苦しめる敵を打ち破るために来てくださいます。そして主はあなたのところにも来てくださるのです。

ここには、「見よ。主の御名が遠くから来る。」とあります。あなたはこの主が来られるのを見なければなりません。主はあなたを助けるために来てくださいます。神が愛をもって選ばれたあなたのためにこのような計画を持っておられることを、あなたにもぜひ知っていただきたいと思うのです。

Ⅱ.喜びと楽しみを与えてくださる神(29)

次に29節をご覧ください。ここには「あなたがたは、祭りを祝う夜のように歌い、主の山、イスラエルの岩に行くために、笛に合わせて進む者のように心楽しむ。」とあります。主はあなたのところに来てあなたの敵を打ち破られるだけでなく、あなたの喜びを回復してくださいます。あなたは祭りを祝う夜のように歌い、主の山、イスラエルの岩に行くために、笛に合わせて進む者のように心楽しむのです。

これは、かつてイスラエルがエジプトから解放された時のようになるということです。イスラエルがエジプトを出たときもそうでした。彼らは紅海を目の前にしてエジプトが追ってくるという危機的な状況の中で、圧倒的な主の御業によって救われました。主は紅海を真っ二つに分け、そこにかわいた道を作り、その道を通らせることによって彼らを救い出されたのです。追ってきたエジプト軍は、主が海の水を彼らの上に返されたので、彼らはその水に投げ込まれて滅びました。その偉大な主の御業を見たモーセとイスラエルは、主に向かって心からの賛美しました。「主に向かって私は歌おう。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれたゆえに。主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神。綿ははこの方をほめたたえる。」(出エジプト15:1-2)また、モーセの姉、女預言者ミリヤムはタンバリンと踊りで主をほめたたえました。

この方があなたの主であるということを、あなたの神であるということを、知っていただきたいと思います。主は、あなたにも喜びを回復してくださいます。主は罪というエジプトからあなたを解放するためにイエス・キリストをこの世にお遣わしになられることによって、あなたにこの喜びをもたらしてくださったのです。これがクリスマスの出来事でした。

「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの待ちで、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:10-11)

クリスマスはまさに「すばらしい喜びの知らせ」です。肉によっては無力になったため、律法にはできないことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためです。(ローマ8:3-4)どういうことかというと、自分の力によっては、自分の努力によってはだれもこの罪から救われないのを、神がしてくださったということです。イエス・キリストによって。キリストが十字架にかかって死んでくださることによって、私たちの罪をその身に負ってくださったので、この方を信じる者はみな、だれでも、天国に行けるようにしてくださったのです。この方を通してでなければ、だれも天国に行くことはできません。イエス・キリストは次のように言われました。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

キリストを通してでなければ、だれひとり天国に行くことはできません。神はひとり子イエス・キリストをこの世にお遣わしになり、この方を信じることによって罪から救われる道を用意してくださったのです。これが道です。人生にはいろいろな道があって、どの道を行ったらいいか本当に迷いますが、これが道なのです。この道を行くなら、あなたは救われます。そして、かつてイスラエルがアッシリヤから救われた時に経験した喜びを、またエジプトから救われた時の喜びを、なたも持つことができるのです。

新聖歌266番には「つみとがをゆるされ」という賛美がありますが、この賛美はその喜びが歌われた歌です。「つみとがをゆるされ、神の子となりたる、わが魂の喜び、比べうるものなし。ひもすがら証しせん、夜もすがら主をほめん、み救いは妙なり、み救いはくすしと。」  この賛美はファニー・クロスビーというクリスチャンによって書かれた歌です。神様の救いは信じられないほどすばらしく、私はひもすがら、つまり一日中救いのすばらしさをを証し、主なるイエス様をほめたたえる、と言うのです。この中には彼女の喜びが溢れています。

この歌を書いたファニー・クロスビーは、実は生涯盲目で人生を送った女性でした。彼女は1820年にニューヨークで生まれましたが、生後6週間のときに医者のミスによって失明してしまいました。またその医者も人の批判に耐え切れず夜逃げして、行方不明となりました。さらに彼女は1歳になる前に父親を亡くしてしまいます。しかし彼女は、祖母や母親の愛と信仰によって育てられ、8歳のときにこのような詩を書きます。

「私は目が見えなくても何という幸いな身の上でしょう/私はこの世では/不平を言わないことにきめました/ほかの人たちが知らない/沢山の恵みを私は味わいます/目が見えないからといって/どうして嘆くことができましょう」

彼女はイエス・キリストの十字架の愛を伝えるために宣教師となりたいと願いましたが、それは叶いませんでした。叶いませんでしたが、自分の歌を通して百万人の人をイエス様のもとに導きたいと祈りました。彼女は作詞によって得る収入の殆どを貧しい人々に与え、天に召されるまでニューヨークのスラム街に近い貧しい家に住んでいました。  また彼女を盲人にしてしまった医者が、心を痛めていたことを知り、自伝に次のように書きました。「もし今、私が彼に合うことが出来たら、伝えたいのです。私の目を見えなくしたことで自分を責めないで下さい。あなたにとっては失敗だったかもしれませんが、神には失敗はありません。私が肉体的に暗やみの中で生涯を暮らすことは神のご計画だったと信じています。見えないことを通して多くのものを見ることができ、神への讃美を歌い、他の人々を励ませる者にしていただいたのですから。私は世界中で一番幸せな者だと思います。今しばらくは肉眼で見ることはできませんが、でも天のみ国に帰ったその時、私はこの目で最初に救い主イエス様を見ることができるのです。神様はすべてを働かせて私たちに益として下さいます。この神の愛に満たされて、私は讃美しつつこの世の旅路を歩んで行きたいと思います。」  彼女は生涯盲目のままでした。でも詩の才能を与えられ、神様の恵みに深く感謝して、十字架に現された神の愛を歌い続けました。彼女の心はいつも信仰による喜びが湧いていたので、その顔は輝いていました。人々が彼女のそばに行くと、その喜びが「伝染した」と言ったそうです。  この「つみとがをゆるされ」の2番の歌詞の中で、彼女はこう歌いました。「今、私の目の前は喜びの光景でいっぱいになります」と。なぜ彼女はそんなことを歌うことができたのでしょうか?どうして盲目の彼女に喜びの光景が見えたのでしょうか?それは彼女が肉眼では見えなくても、心の目で、信仰の目ではっきりと主を見ていたからです。

その喜びはあなたにも差し出されています。私たち人間はみな、この世に生きている限り多くの困難や苦しみがあります。その苦しみに対して不平を言って、不満の中で生きる人生もあるでしょう。困難があるのが当たり前だとあきらめ、希望なく生きる人生もあるでしょう。しかしファニー・クロスビーのように、困難の中に希望を見出し、喜びにあふれる生涯を送ることもできるのです。それはイエス・キリストを救い主として信じて受け入れる時から始まるのです。あなたもイエス・キリストによってこの喜びと希望を持つことができるということを知ってほしいと思います。

Ⅲ.アッシリヤはおののく(30-33)    最後に30節から33節をご覧ください。「しかし、主は威厳のある御声を聞かせ、激しい怒りと、焼き尽くす火の炎と、大雨と、あらしと、雹の石をもって、御腕の下るのを示される。31 主の御声を聞いてアッシリヤはおののく。主が杖でこれを打たれるからだ。32 主がこれに下す懲らしめのむちのしなうごとに、タンバリンと立琴が鳴らされる。主は武器を振り動かして、これと戦う。33 すでにトフェテも整えられ、特に王のために備えられているからだ。それは深く、広くされてあり、そこには火とたきぎとが多く積んである。主の息は硫黄の流れのように、それを燃やす。」

アッシリヤに対する主のさばきはユダにとっては喜びの回復の時ですが、アッシリヤにとってはそうではありません。彼らにとっては恐怖と嘆きの時です。アッシリヤに対する主の怒りは「威厳のある御声、激しい怒り、焼き尽くす火の炎、大雨、あらし、雹の石」となります。この神の怒りにアッシリヤは全く気力を失うようになるのです。神は定められた杖とむちでアッシリヤを打たれ、エルサレムを包囲していたアッシリヤの軍隊を壊滅させます。これは37章36節にありますが、主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、18万5千人を打ち殺した出来事のことです。それは、前701年に起こりました。エルサレムを包囲したアッシリヤの陣営にある晩主の使いが出て行き、一晩で18万5千人ものアッシリヤ兵を打ち殺したのです。

そして33節を見てください。ここには「すでにトフェテも整えられ」とあります。そうしたアッシリヤはトフェテに送られるのです。「トフェテ」というのは地獄のことです。下の欄外の説明には「焼き場」とありますね。火葬場のことです。火葬場のように熱い火でやかれるのです。しかもその火は消えることがありません。それは深く、広くされてあり、そこには火とたきぎが多く積んであるからです。それは永遠に燃え続けます。永遠に燃え続ける火で焼かれるのです。それが「トフェテ」です。これはギリシャ語では「ゲヘナ」と言いますが、ここから「地獄」ということばが来ました。ここには地獄がどういう所なのかがはっきりと描かれています。それは永遠に燃え続ける火で焼かれる所です。多くの人が死んだら終わりだと考えていますが、実際は違います。死んだらその体は朽ちて滅びますが、たましいは天国か地獄に行くのです。天国はさきほども見たように喜びに見た溢れたところです。もはや悲しみ、叫び、苦しみもありません。なぜなら、以前のものが、過ぎ去ったからです。この地上のものを引きずることはありません。全く悲しみや叫びや苦しみがない所、それが天国です。もっと詳しくおしりになりたい方は、黙示録21章と22章を後でご覧になってください。そこに天国のことがよく描かれています。しかし、地獄は違います。地獄は決して消えることのない火が燃えていている所です。そこで永遠に苦しみ続けるのです。 こんなに苦しむならいっそのこと灰になって消えてしまいたいと願っても、その願いすら叶いません。永遠に火の中で苦しむのです。それが地獄です。アッシリヤはその中に投げ込まれるのです。

このアッシリヤとは反キリストのことを指しています。反キリストとその背後にいるサタンのことです。そして、そのサタンとともに神に反逆する人たちのことです。そのような人たちはみなトフェテに投げ込まれるのです。地獄に行くのです。

このように言いますと、中には「神が愛なら、どうして人を地獄に落とすようなことをするのか?」という人がいます。しかし、それは間違いです。聖書によると、地獄は人間のために用意されたものではなく、このサタンと悪霊たちのために用意された所なのです。マタイの福音書25章41節を開いてください。ここには「それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。」とあります。この永遠の火は、悪魔とその使いたちのために用意された所なのです。神はこんな所に人間を送りたいなどみじんも思っていません。むしろ、ひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われることを望んでおられるのです。そのために神はご自分のひとり子さえも与えてくださいました。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

自分のいのちよりも大事なひとり子イエス・キリストを与えるほどに、神はこの世を愛されました。あなたを愛してくださったのです。それはだれも滅んでほしくないからです。だれも地獄に堕ちてほしくないのです。ひとりも滅びることなく、すべての人が救われてほしいと願っておられたからなのです。ですから、神が人間を無理矢理に地獄に落とすようなことはしないのです。

それならば、なぜ人は地獄に行ってしまうのでしょうか?それはその人が行きたいと願っているからです。別に天国なんかに行かなくてもいい、どうせ死んだら終わりなんだから。天国も、地獄もない、あるのは中国だ、などと言って信じようとしないのです。そういう人が地獄に行ってしまうのです。どんなに神は愛でも、無理矢理天国に入れることはできません。そんなことをすれば神様は私たちと自由な愛の関係を結ぶことができないからです。それは愛でも何でもありません。神は私たちと自由な愛の交わりを求めているからです。

ですから、神様が人を地獄に落としたいのではないのです。そのように決めているのは人間の側であって、残念ながらその数は私たちが思っているものよりも多いのです。

しかし、イエス様を信じる人は、絶対に地獄に行くことはありません。だれも地獄に落とされることはないのです。イエス様を信じる人はみな天国に行きます。イエス様はそのために天国に行かれました。場所を備えに行かれたのです。ヨハネの福音書14章1節から3節までのところに次のように書かれてあります。

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。 2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」

イエス様は場所を備えに行かれました。この場所はその辺の掘っ立て小屋とは違います。これはマンションです。マンションというと日本ではアパートみたいなところですが、アメリカでマンションといったものすごく豪華な家のことです。ブラジルでもそうだそうですが・・。そのような家に入れていただけるのです。そこには虫もさびもありません。ゴキブリが出てきたり、蜘蛛の巣が張ったりするということは全くありません。さびてペンキをしなければならないこともないのです。古くなって傷ついたり、汚れてしまうこともありません。もう建てて20年たったから建て直さなければならないということもないのです。また、盗人が穴を開けて盗むということもありません。天国は決して消えて無くなってしまうことがない永遠の住まいです。皆さん、ほんとうに価値あるものは朽ちることがないものです。天国こそ決して朽ちることのない所です。そこに入ることができるのです。

ですから今のうちに、チャンスがあるうちに、この天に宝をたくわえてほしいと思います。イエス・キリストを救い主と信じて受け入れ、神の子となって、この御国を受け継ぐ者になっていただきたいのです。そして、永遠の御国で喜び楽しみながら、主をほめたたえる恵みの中に入っていただきたいのです。あなたはどちらを選択しますか。天国ですか。それとも地獄ですか。

「立ち返って静かにすれば、あなたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたは力を得る。」

あなたが主に立ち返り、落ち着いて、主に信頼して歩めますように。エジプトに、この世に頼るのではなく、ただ主に頼り、主に従って歩めますように。そして栄光の御国、天国に共に行くことができるますように。そのための備えを今、整えてください。

イザヤ書30章15~26節 「主を待ち望む者の幸い」

きょうは、イザヤ書30章15節から26節までのところから学びたいと思います。タイトルは「主を待ち望む者の幸いです。18節の終わりのところに、「幸いなことよ。主を待ち望むすべの者は。」とあります。主を待ち望む者がどのような幸いを得るのかを、ご一緒に見ていきたいと思います。

Ⅰ.驚くべき神の恵み(15-18)

まず第一に15節から18節までのところを見ていきたいと思います。15節をご覧ください。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。しかし、あなたがたは、これを望まなかった。」

イザヤはこの30章前半のところで、神によらないではかりごとをめぐらすイスラエルの民、これは南ユダのことですが、反逆の子と呼びました。彼らは神の指示をあおごうとしないで、エジプトに下って行こうとしました。彼らはパロの保護に身を避け、エジプトの陰に隠れようとしたわけです。しかし、その結果は恥と侮辱でした。苦悩と苦難でした。非常に危険でリスクの伴うものだったのです。いったいどうしたらいいのでしょうか。主に立ち返ることです。主に立ち返って静かにすればあなたがたは救われ、落ち着いて、主に信頼すれば、力を得るのです。立ち返って静かにするとは、英語でIn repentance and restです。repentanceは悔い改めること、 restとは休息することです。悔い改めて神に立ち返る、悔い改めて正しい方向に向きをかえるなら、そして、神のもとで休息するなら、あなたは救われるのです。落ち着いて、主に信頼すれば、あなたは力を得るのです。アッシリヤという強大な敵が差し迫っていても、神に立ち返って静かにすれば、あなたは救われるのです。

しかし、彼らはこれを望みませんでした。15節の後半をご覧ください。「これ」とは何でしょうか。「これ」とは神に信頼することです。神に信頼することを望みませんでした。あくまでも自分たちの考えで、自分たちの力で解決しようとしたのです。エジプトと同盟を結び、エジプトの保護のもとに頼ろうとしました。彼らは次のようにいいました。16節です。「いや、私たちは馬に乗って逃げよう。」皆さん、神のことばを聞いても逃げる人がいます。逃げて、逃げて、あくまでも自分の考えを押し通そうとするのです。そういう人がいます。そういう人はどうなるでしょうか。16節の後半から17節にかけて、次のように言われています。「それなら、あなたがたは逃げてみよ。「私たちは早馬に乗って。」それなら、あなたがたの追ってはなお速い。17 ひとりのおどしによって千人が逃げ、五人のおどしによってあなたがたが逃げ、ついに、山の頂の旗ざお、丘の上の旗ぐらいしか残るまい。」

何も残らなくなります。主はもっと早い馬に乗って追いかけるので、最後には旗ざおくらいしか残らなのです。逃げてばかりの人生には何も残りません。それは何の解決にもなりません。解決の道はただ一つ。それは主に立ち返ることです。落ち着いて、信頼することなのです。そうすれば、あなたがたは救われるのです。しかし、なかなか信じないで逃げ回るイスラエルに対して、神様はアッと驚くようなことを言われました。18節をご一緒に読みましょう。「それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。」

「それゆえ」とは何ゆえでしょうか。主が「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」と言われたにもかかわらず、これを望まなかったので、それゆえにということです。もう何も残っていません。旗ざおくらいしか残っていないので。そんなみじめで、さびしい彼らに対して、「それゆえ」と言っておられるのです。「それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。」彼らが従順に神のことばを聞いて従っているからではありません。従わないで、嫌だ、望まないと言って逃げ回っているのにもかかわらず、恵もうとして待っておられるのです。あわれもうと立ち上がられるのです。皆さん、これが恵みです。恵みとは全く受けるに値しない者が受ける過分の親切です。そのような者に一方的に注がれる賜物なのです。しかもここには「それゆえ」ということばが2回使われているのです。「それゆえ、主はあなたがたを恵もうと待っておられ、それゆえ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。」です。神のことばを平気で無視するような人に対して、主は「それゆえ」と言って恵もうとしておられるのです。それが私たちの神です。

ルカの福音書に出てくる放蕩息子は、お父さんからもらった財産を使い果たし、最後には豚の世話をするまでになり、食べるものにも事欠くようになった時、「父のもとに帰ろう。」という気持ちになりました。父のもとに帰って、使用人のひとりとして使ってもらおう。そして「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。」と詫びようと思いました。こうして彼は立ち上がって、父のもとに行きました。しかし、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見付けるとかわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけしたのです。そして一番いい着物を着せ、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせて言いました。「肥えた子牛をひいて着てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなったのが見つかったのだから。」(ルカ15:23-24)

このお父さんこそ私たちの信じる天の神だと、イエス様は言われました。自分勝手に家を出て行き、やりたい放題のことをした結果がこの様です。食べるにも困り果て、臭いヨレヨレのあかだらけの着物を着て帰った来た息子の姿には、かつての面影などなかったでしょう。全く愚かです。自業自得です。しかし、そんな息子の姿を見た父親は家を飛び出して出て行き、彼を抱き抱えて口づけすると、最上の着物を着せて、再び自分の子供として迎え入れたのです。

皆さん、神は高いところにいて、ふんずり返っているような方ではありません。上から目線で、祝福が欲しければ自分で取りに来なさいというような方ではないのです。自分の罪で苦しんでいるのを見て「自業自得だ」と、遠くから、冷ややかな目で見ているような方ではないのです。そのような姿を遠くで見付けると、走り寄って、抱き抱え、口づけして、受け入れてくださる方なのです。いくら言っても同じ過ちを繰り返す愚かな者をを、あわれもうとして立ち上がられる方なのです。

私たち日本人は特に、悪いことをすると罰が当たるとか、たたりがあると教えられてきてますから、神がこのような方であることに驚きを感じ得ません。そして、神に率直に、ありのままの姿で出て行くことができず、「もっと立派になったら教会に行きます」と言うのです。しかし、主はあなたを恵もうとして待っておられ、あなたをあわれもうとして立ち上がられます。あなたが主に立ち返るなら、あなたはいつでもこの恵みを受け取ることができるのです。神はそれを待っておられます。ですから、自分のちっぽけな考えに固執しないで、自分の限られた能力に頼ったりしないで、この方を待ち望まなければならないのです。ここには「幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。」とあります。もしあなたがこの神を待ち望むなら幸いを得るのです。

Ⅱ.主を待ち望む者の幸い(19-24)

その幸いはどのようなものなのでしょうか?19節から24節までをご覧ください。まず19節です。ここには「ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み、それを聞かれるとすぐ、あなたに答えてくださる。」とあります。

シオンに住む民も、エルサレムに住む者も、同じ人のことを指しています。もうあなたは泣くことがありません。この中に泣いておられる方がいらっしゃいますか?人生に絶望し、気が狂わんばかりに泣き叫んでいる方がおられるでしょうか?もうあなたは泣くことはありません。主は必ずあなたに恵みを与えてくださいます。あなたの祈りを聞かれ、その祈りに必ず答えてくださいます。それが何年先のことであっても、いますぐに答えられなくても、主は必ずあなたの祈りに答えてくださるのです。

サムエル記第一1章10節、11節を開いてください。「10 ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。11 そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますならば、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」 ハンナの心は痛んでいました。嘆き悲しんでいました。なぜなら、彼女は不妊の女だったからです。当時は後継ぎを産めない女は価値がないと、社会的にも蔑視されていました。生きる価値がないと思っていました。もうひとりの妻からの嫌がらせもありました。そのような状況の中で彼女の心はひどく痛み、主に祈って、激しく泣いたのです。そして、もし神様がはしためを顧みて男の子を授けてくださるなら、その子の一生を主にささげますと誓いました。これはナジル人の誓願と言いますが、このようにしてささげられた子の頭にはかみそりを当てませんでした。  するとどうなったでしょうか。17節、18節です。「17 エリは答えて言った。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」18 彼女は、「はしためが、あなたのご好意にあずかることができますように」と言った。それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。」エリというのは祭司です。彼はハンナが心を注いで祈っている姿を見て最初は酔っているのかなと思いましたがそうではなく、心を注いで祈っていたことを知り、「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださる。」と宣言しました。ハンナは、自分の祈りがかなえられると確信しました。すると彼女の顔は、もはや以前のようではありませんでした。希望と確信に変えられたのです。そのようにして与えられたのがサムエルでした。彼はイスラエルの歴史上最も偉大な預言者となっていきます。主は、彼女の祈りが答えられるのをずっと待っておられました。それはただ彼女が自分の息子がほしい、後継ぎがほしいというちっほけな祈りではなく、イスラエル全体に祝福をもたらすような器を与えてくださいと祈ったからでした。それこそ神様が与えたいと願っておられたものなのです。

「14 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。15 私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」(Iヨハネ5:14-15)

皆さん、これこそ私たちの確信です。何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださいます。私たちの思いをはるかに越えてすばらしいことをされます。あなたを恵もうと、すばらしい計画を立てておられるのです。もうあなたは泣くことはありません。

ニューヨーク・リハビリテーションセンターの壁に、南北戦争の時に負傷したある無名の戦士の祈りが貼ってあるそうです。それは「病者の祈り」です。

「大事をなそうとして 力を与えてほしいと神に求めたのに 慎み深く従順であるようにと 弱さを授かった

より偉大なことができるように 健康を求めたのに よりよきことができるようにと 病弱を与えられた

幸せになろうとして 富を求めたのに 賢明であるようにと 貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして 権力を求めたのに 神の前にひざまづくようにと 弱さを授かった

人生を享楽しようと あらゆるものを求めたのに あらゆることを喜べるようにと 生命を授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが 願いはすべて聞き届けられた 神の意にそわぬ者であるにもかかわらず 心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた

私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ」

求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすへて聞き届けられた。かなえられた。神の意にそぐわないものでも、心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられたと知ったとき、彼はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたと告白することができたのです。皆さん、主は必ずあなたを恵み、あなたに答えてくださいます。あなたはもう泣くことはないのです。

そればかりではありません。20節、21節をご覧ください。「20たとい主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜っても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。21 あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。」

ここには、たとえあなたが物質的には乏しくても、現実的には不自由な状況であっても、あなたには祝福が与えられると約束されています。それはあなたが神のみ声を聞くことができるという祝福です。神のことばを聞くことが、キリスト教信仰の最高の祝福です。皆さん、キリスト教信仰において最も大きな祝福は何でしょうか。それは立派な会堂を持っていることではありません。華やかな活動をすることでもないのです。キリスト教の信仰において最も大きな恵みは、神のことばを聞いて、そのことばによって生かされることなのです。神の言葉によって生かされていくとき、私たちのたましいが満たされるのです。しかし、それがないとどんなに物質的に恵まれていても虚しさを感じます。イエス様は「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と言われました。(マタイ5:4)皆さん、私たちはこの神のことばによって生かされているのです。そして、私たちが主を待ち望むなら、神はご自身のみ声を聞かせてくださるのです。

「あなたの教師はもう隠れることがなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう」とはこのことです。この「教師」は複数形です。ですからこの教師とは預言者を指しているのではないかと考えられますが、この教師というのは神ご自身だといってもいいでしょう。なぜなら、預言者たちは神の言葉を語るからです。ですから、この教師とは神のことであり、また、イエス・キリスト、聖霊の三位一体の神のことです。この神が、あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから、「これが道だ。これに歩め」ということばを聞くようになるのです。主のみ声を聞きながら歩める人生は何と幸いでしょうか。主のみ声を聞いて従う人生には間違いがありません。皆さんもそうでしょうが、私もこれまで何回か人生の岐路に立たされたことがありますが、そのような時、ほんとうに祈り込むように、神に叫びながら、自分が進むべき道を求めたことがありますが、その度に主は「これが道だ。これに歩め」と言って導いてくださいました。何と感謝なことでしょうか。

ところで、これは牧者が羊を導くときの様子を表していると言われています。いわゆる牧羊語です。主は羊飼いとして、その羊が迷うことがないようにうしろから御声をかけて導いてくださるのです。ダビデはそんな羊飼いなる主を、次のように告白しました。

「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」

主があなたを導いてくださいます。主があなたに御声をかけてくださいます。それゆえにあなたは何も畏れることはありません。主があなたを緑の牧場に、水野ほとりに伴ってくださるからです。

ですから22節にはこのようにあるのです。「あなたは、銀をかぶせた刻んだ像と、金をかぶせた鋳物の像を汚し、汚れた物としてそれをまき散らし、これに「出て行け」と言うであろう。」

「銀をかぶせた刻んだ像」とか、「金をかぶせた鋳物の像」とは偶像のことです。あなたがイエス・キリストと出会うと、これまで頼りにしていたものがちりあくたのように感じます。もう必要なくなるわけです。これがないと生きていけないと思っていたもの、それはアルコールであったり、薬、お金、車、あるいはブランド品であったかもしれません。これまで頼っていた人であるかもしれません。そういうものが必要なくなるのです。本物を持つと偽物は必要なくなるのです。それらはちりあくたです。もういらないので「出て行け」と言うようになるのです。

使徒パウロは何と言いましたか?使徒パウロは、ユダヤ人として家柄も学歴もそして宗教人としてもエリートでしたが、そうしたものを「ちりあくたと思っています」(ピリピ3:11)と言いました。それは彼がキリストのすばらしさを知ったからです。キリストとの出会いは、一度経験すると、価値観がまったく変わってしまうほどの、それまで価値あると思っていたものがまるでちりあくたのように思えるほどの満足を受けるのです。あなたはこのイエス・キリストを知っているでしょうか。イエスを知り、このイエスに心が満たされていれば、他のものはちりあくたと思えるほどに、全く必要なくなるのです。

そればかりではありません。23、24節をご覧ください。ここには「23 主は、あなたが畑に蒔く種に雨を降らせ、その土地の産する食物は豊かで滋養がある。その日、あなたの家畜の群れは、広々とした牧場で草をはみ、24 畑を耕す牛やろばは、シャベルや熊手でふるい分けられた味の良いまぐさを食べる。」とあります。

ここには、その祝福が物質的な面にも及ぶということが言及されています。「キリスト教というものは精神的なもので、ご利益宗教ではありませんから、そうしたものは全くありません・・。」とうのではなく、私たちが主を待ち望み、主を第一にして行くとき、種を蒔く時に雨を降らせて、その産物を豊かに実らせ、家畜産業も祝福されて、最良の家畜が育つのです。神の祝福は物質面にも及ぶのです。主を待ち望む人にはほんとうに良いもの、栄養になるもの、力になるもの、ためになるもの、益になるものが祝福として与えられるのです。何という幸いでしょうか。

Ⅲ.究極のいやし(25-26)

しかし、25節と26を見ると、そればかりではないことがわかります。ここには、「25 大いなる虐殺の日、やぐらの倒れる日に、すべての高い山、すべてのそびえる丘の上にも、水の流れる運河ができる。26 主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日に、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍になって、七つの日の光のようになる。」とあります。これはどういうことかというと、究極的ないやしが与えられるということです。

「大いなる虐殺の日」とは、イザヤの時代で言えば、アッシリヤの脅威からの解放のことです。アッシリヤがエルサレムを包囲したとき、主の使いが出て行って一晩で十八万五千人の軍隊を滅ぼされました。その時のことを表しています。しかし、これは世の終わりの預言でもあります。この世の終わりにもそれと同じような状況が、しかももっと大きなスケールで臨みます。それは世の終わりの時の患難時代です。その日、キリストに立ち向かう世界中の軍隊がエルサレムに集結して戦いを挑みます。これをハルマゲドンの戦いといいます。世界中の軍隊が主に戦いを挑むわけです。しかし、主は御口からでる剣で彼らを滅ぼされます。そして、千年にわたる平和な時代をこの地上に樹立されるのです。これが千年王国です。その日、すべての高い山、すべてのそびえる丘の上にも、水の流れる運がができる。つまり、豊かな水が流れるようになるということです。そして主は究極的ないやしを与えられるのです。主はその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされるのです。もちろん、肉体のいやしは当然のことですが、そればかりでなく、神に反逆したことによって傷ついた心を十分にいやし、慰めてくださるのです。

黙示録21章4節をご覧ください。ここには「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」とあります。これは新しいエルサレム、天国のことです。天国では神ご自身が彼らとともにいて、彼らの目の涙をすっかりかぬぐい取ってくださいます。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません。以前のものが、過ぎ去ったからです。キリストは死からよみがって、その死を滅ぼされました。キリストを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてキリストを信じる者は、死ぬことがありません。その人には永遠のいのちが与えられるからです。これこそ究極のいやしです。その日、主は彼を信じるすべての者の傷を包み、その打たれた傷をいやされるのです。

そこには太陽も、月もありません。なぜなら、神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらないからです。それでもそこは日の光の七倍のように光るのです。そして、都の中央にはいのちの木があり、その木の葉が彼らをいやします。(黙示録22:1-2)イザヤは、これを預言していたのです。

主を待ち望む者はこのような幸いが与えられるということを、あなたにも知ってほしいと思います。そして、この主を待ち望んでほしいのです。主はあなたを恵もうと待っておられます。あなたをあわれもうとして立ち上がってくださるのです。主に立ち返って静かにすれば、あなたは救われます。落ち着いて、信頼すれば、あなたは力を得るのです。神の約束を信じて、あなたも主に信頼してください。そうすれば、あなたもこの幸いを受けることができるのです。あなたはもう泣くことはありません。主は必ずあなたを恵み、あなたに答えてくださいます。あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから、「これが道だ。これに歩め」ということばを聞くようになるでしょう。その主のみ声を聞きながら歩んで行くようになります。それはもうこの世のすべてが「ちりあくた」だと思えるような経験です。それほどすばらしい恵みです。そして最後は天国です。そこで完全ないやしを受けるでしょう。そのような祝福が約束されているのです。立ち返って静かにすれば、あなたは救われ、愛知着いて、信頼すれば、あなたは力を得る。あなたもこの救いを体験してください。これは主を待ち望むすべての人に約束されているのです。

イザヤ書30章1~15節 「反逆の子ら」

きょうは、イザヤ書30章1節から14節までのみことばから学びたいと思います。タイトルは「反逆の子ら」です。1節を見ると、「ああ。反逆の子ら」とあります。これは南ユダの民のことです。当時、南ユダ王国はアッシリヤに攻め込まれていましたが、そうした窮地の中で彼らは神ではなくエジプトに助けを求めました。そうした彼らの姿をここで「反逆の子ら」と呼んでいるのです。彼らは人にではなく神に、自分たちの考えではなく神のはかりごとを求めなければならなかったのにそうではありませんでした。  きょうは、この反逆の子らイスラエルの姿から、私たちクリスチャンはどうあるべきなのか、私たちが持つべきでない態度とはどのようなものなのかを学びたいと思います。

Ⅰ.何しないラハブ(1-7)

まず第一に、1節から7節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。「1ああ、反逆の子ら。―主の御告げ―彼らははかりごとをめぐらすが、わたしによらず、同盟を結ぶが、わたしの霊によらず、罪に罪を増し加えるばかりだ。2彼らはエジプトに下って行こうとするが、わたしの指示をあおごうとしない。パロの保護のもとに身を避け、エジプトの陰に隠れようとする。」

ここに、「彼らははかりごとをめぐらすが、わたしによらず、同盟を結ぶが、わたしの霊によらず、罪に罪を増し加えるばかりだ。」とあります。これはイザヤの時代、北からアッシリヤがやって来て南ユダ王国を滅ぼそうとしていた時のことです。アッシリヤはすでに北イスラエルをのみ込み、破竹の勢いで南ユダ王国までやって迫っていました。そしてエルサレムを包囲しようとしていたのです。いったいどうしたらいいものか。どのようにしてこれに対抗したらいいのか。彼らはいろいろとはかりごとをめぐし、エジプトに助けを求めました。エジプトなら何とかしてくれるに違いない。アッシリヤがどんなに力があっても、エジプトにはかなわないだろう。そのエジプトと組めば何とかなると思ったのです。それでエジプトと同盟を結ぼうとしました。しかし、それは神のみこころではありませんでした。神を抜きにしたはかりごとでした。神の霊によらない、自分たちの考えだけで進めたことだったのです。ですから、彼らは反逆の子らと言われているのです。この「はかりごと」と訳されていることばは、英語の聖書では「plans」(NIV)と訳されています。計画です。彼らはいろいろな計画、計略を立てますがそのどれもが神によるものではなく、神抜きに立てられたものだったのです。

皆さん、人がはかりごとをめぐらすこと、計画を立てることは自体は悪いことではありません。神がこの天地万物を造られた時もちゃんと計画を立てて造られました。神は最初の人間を造られた時もその前に人間に必要なすべてのものを用意してから造られました。お膳立てされたわけです。神は計画的な方です。ですから神のかたちに造られた人間も計画的な存在なのです。はかりごとをめぐらすことは人間らしいことだと言えます。動物はそうではありません。動物はただ本能だけで動きます。思いついたら動くのです。この中にも動物的な人がいらっしゃいますか。はい、私もそうです。こう思ったらすぐに動いてしまう。それは動物的です。あまり考えない。しかし、人間は違います。人間は神のかたちに造られ、神のように、はかりごとを立てて行動します。ですから、はかりごとを立てること自体は悪いことではないのです。いろいろと計画を立てて実行することは大切なことです。いろいろな人に相談をするのもいいでしょう。セカンド・オピニヨンを聞いて総合的に判断しようとすることも大切なことなのです。問題は、それが神によらないことです。神を抜きにして、自分であれこれとはかりごとをめぐらすことが問われているのです。彼らははかりごとをめぐらしましたが、「わたしによらず」だったのです。それは「罪に罪を増し加えるばかり」なのです。

私たちはまず神に求めるべきです。神によってはかりごとをめぐらすべきなのです。私たちは自分たちがはかりごとをめぐらす前に、神には計画があることを認めなければなりません。私たちが生まれる前から、神は私たちに対して計画をもっておられることを認め、その計画に、むしろ私たちが参画していくようにすべきなのです。しかし、残念ながら神を抜きにしてはかりごとをめぐらすのです。神ではなくこの世に解決を求めてしまいます。たとえば、心理学に基づいたカウンセリングなどはその一つでしょう。あたかも聖書に基づいているかのようにみせかけたアプローチをとっても、それはこの世の知恵、この世の考えに基づいたものなのです。それは人の考え、人のはかりごとにすぎません。それは罪に罪を増し加えることになるのです。

それからここには「同盟を結ぶがわたしの霊によらず」とあります。これはエジプトと同盟を結ぶことを指しています。それは、「はかりごとをめぐらすこと」と同じ事です。彼らは同盟を結びますが、わたしの霊、神の霊によるものではありません。それはあくまでも自分たちの考えに基づいたものです。

この「同盟」と訳されたことばは、文字通りには「毛布」とか「ブランケット」のことです。同じことばが28章20節で使われていました。そこには、「寝床は、身を伸ばすには短すぎ、毛布も、身をくるむには狭すぎるようになる。」とあります。この「毛布」と訳されたことばが「同盟」です。アッシリヤが攻めてくるがどうするか?どのように対処したらよいものか。エジプトと同盟を結べばいい。しかし、それは短すぎる。足りない。不十分だ。というのです。毛布というのはおおってくれるもの、カバーしてくれるものです。彼らは自分たちをカバーしてくれるものがエジプトだと思いました。おおいとなる存在、守ってくれる存在、保護してくれる存在を神の霊、聖霊ではなく、エジプトに求めたのです。これも罪です。神の御霊によらないで、神以外のものにおおってもらおうとすることは罪なのです。

スヌーピーで有名な「ピーナッツ」という漫画をご存じですか。その漫画に登場するライナス(Linus)という少年は、いつも毛布を持っています。毛布がないと安心できません。彼は世の中に「安心毛布(セキュリティ・ブランケット)」という言葉を広めました。その毛布を持っていると安心します。彼にとって毛布はなくてはならないものです。ないとイライラしてしまう。パニクッテしまいます。これをブランケット症候群と言います。これがないと安心できない。それが彼に安心をもたらすのです。南ユダはそれをエジプトに求めました。2節にあるように、彼らはエジプトに下って行こうとしましたが、神の指示をあおごうとしませんでした。エジプトの王パロの保護のもとに身を避け、エジプトの陰に隠れようとしたのです。しかし、これもまた罪でした。

あなたを常にカバーしてくれるものは何ですか?あなたを常に保護し、常に守ってくれると思っているものは何でしょうか?あなたに安心感を与え、これがないとイライしてしまう。これがないとバニクッテしまうというものは何でしょうか?ある人は携帯電話かもしれません。携帯がないと落ちつかない。携帯依存症です。いつでも、どこでも携帯の画面を見ている。携帯を持っていると安心しますが、持っていないと不安になります。朝、妻にかけることばで一番多いのは「あなた携帯持った?」です。それは私たちの場合ですが・・・。スマホがないと生きていけない。スマホがない人生なんてあり得ないという人がいます。これも立派な依存症です。スマホ依存症です。スマホ症候群。それは安全毛布と同じです。安全携帯、安全スマホです。ある人はテレビがないと生きていけないという人がいるかもしれません。コンピューターがないとだめです・・・とか。そうしたものに依存してしまう。それはエジプトと同盟を結ぶことと同じです。毛布は持つが、わたしの霊にはよらない。皆さん、私たちの中には神の霊、聖霊が住んでおられます。イエスを信じる者の心の中には神の霊が住んでおられるのです。私たちのからだは神から受けた聖霊の宮なのです。なのにその聖霊によらないで毛布に頼ろうとしてしまう。神の霊によらないで、携帯に、スマホに、テレビに、コンピューターに、人に安心感を求めてしまう。そこに自分をカバーするものを求めようとする。それはエジプトと同盟を結ぶことと同じなのです。

ゼカリヤ4章6節を開いてください。ここには、「すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は仰せられる。」とあります。ユダは権力に頼ろうとしました。能力に頼ろうとしました。でも神の霊に頼ろうとはしませんでした。どんなにはかりごとをめぐらしてもそれが神によらず、神の霊によるものでなければ、それは罪なのです。罪に罪を増し加えるばかりなのです。

あなたはどうでしょうか?あなたにはどんなアッシリヤの脅威が迫っているでしょうか?ある人にとってそれは経済的な問題であるかもしれません。また他の人には仕事上の問題かもしれません。またある人には人間関係のトラブルがあるかもしれません。そうした問題にどのように対処しているでしょうか。もしあなたがユダのように神なしに、自分の考えで、自分の計画で事に当たろうとすれば、あるいは、いろいろな人に相談して、いろいろな人の力を借りようと権力や能力に頼り、神の霊に求めなかったら、そこには平安はありません。神によらず、神の霊によらなければ、罪に罪を増し加えるだけなのです。

3節から5節までのところを見てください。ここには、そのように神に頼らないでエジプトに頼ってしまった結果が語られています。「3 しかし、パロの保護にたよることは、あなたがたの恥をもたらし、エジプトの陰に身を隠すことは、侮辱をもたらす。4 その首長たちがツォアンにいても、その使者たちがハネスに着いても、5 彼らはみな、自分たちの役に立たない民のため、はずかしめられる。その民は彼らの助けとならず、役にも立たない。かえって、恥となり、そしりとなる。」

パロの保護にたよることは、彼らに恥をもたらし、エジプトの陰に身を隠すことは、侮辱をもたらします。アダムとエバはどうでしたか。食べてはならないと命じておいた木から取って食べたとき、彼らは自分たちが裸であることを知りました。恥がともないました。神の知恵ではなく、自分たちで善悪を知ることができると思っても、結果は恥だったのです。世の知恵に頼ると、私たちは初めに考えていた安らぎではなく、恥が、侮辱が伴うのです。

4節の「その首長たち」とか、「その使者たち」というのは、エジプトと同盟を結ぶために南ユダ王国から遣わされた使者たちのことです。今日でいうと外務大臣のような人たちのことでしょうか。「ツォアン」とか「ハネス」というのはエジプトの都市のことです。彼らがそこに着いても、何の役にも立ちません。かえって、恥となり、そしりとなります。神によらず、神の霊によらないで、自分の知恵、自分の考え、自分の論理で動こうとすると必ず失敗することになるのです。

それだけではありません。6節をご覧ください。ここには「6 ネゲブの獣に対する宣告。「苦難と苦悩の地を通り、雌獅子や雄獅子、まむしや飛びかける燃える蛇のいる所を通り、彼らはその財宝をろばの背に載せ、宝物をらくだのこぶに載せて、役にも立たない民のところに運ぶ。」とあります。

「ネゲブ」とは地名です。ユダの南にあった荒野をネゲブと言いました。通常、ユダからエジプトに下る時にはこのネゲブを通りません。そこには獣が出たり、山賊が出たりしたので危険が伴ったからです。ですから通常は海岸沿いのペリシテの地域を通りました。その方が安全で、ずっと早く行くことができました。けれども、そちらを通ればエジプトに下って行ったことがバレてしまいます。できれば内密にエジプトと同盟を結びたかった彼らは、あえて危険な道を通って行きました。それがネゲブです。しかし、そこには危険が伴いました。雌獅子、雄獅子が襲ってきます。また、まむしや飛びかける燃える蛇もいました。これは翼竜のことです。翼のある大きなトカゲのことだと思われます。そうしたものが襲いかかるのです。ですから、そのようなところを通るのは大変なのです。苦難と苦悩が伴います。エジプトに頼ることには、そうした苦難や苦悩が絶えないのです。

かといって、彼らがエジプトと同盟を結べば自分たちの身を守ることができたでしょうか。7節をご覧ください。ここには「7 そのエジプトの助けはむなしく、うつろ。だから、わたしはこれを『何もしないラハブ』と呼んでいる。」とあります。「ラハブ」とはエジプトの地名です。意味は「騒ぎ立てる」「威張り散らす」「怒鳴り散らす」です。エジプトは怒鳴り散らすおやじのように、騒ぎ立てるおやじのように、いかにも強そうなので頼りになるかなぁと思ったら「何もしない」というのです。それがこの世です。エジプトはこの世の象徴なのです。「何もしないラハブ」、ここの別訳は「病気で休んでいるラハブ」です。寝たきりで何もできない状態であるということです。口では怒鳴ったり、威張ったりして、いかにも強そうでも、実際には何の役にも立ちません。病気で寝ている状態なのです。それがこの世です。それが私たちが頼りたがっているものなのです。でもそれは何の役にも立ちません。私たちはまず神に尋ねなければなりません。神が願っておられることは何か。何が良いことで神に受け入れられることなのか。神がなそうとしておられることは何なのかを求め、その通りに歩んでいかなければならないのです。真に助けになるのは、全能なる神だけです。この方に尋ねなければならないのです。

Ⅱ.主の小道を歩もう(8-11)

次に8節から11節までをご覧ください。「8 今、行って、これを彼らの前で板に書き、書物にこれを書きしるし、後の日のためとせよ。世々限りなく。9 彼らは反逆の民、うそつきの子ら、主のおしえを聞こうとしない子らだから。10 彼らは予見者に「見るな」と言い、先見者にはこう言う。「私たちに正しいことを預言するな。私たちの気に入ることを語り、偽りの証言をせよ。11 道から離れ、小道からそれ、私たちの前からイスラエルの聖なる方を消せ。」

神はイザヤにご自分のみことばを書物に書き記すように、記録するように言われました。後の日に、それが神から出たことであり、彼らの苦難や苦悩は、彼らが神のことばに従わなかった結果もたらされたものであるということを彼らがはっきりと理解するためです。神は前もって警告を発し、そのことばの通りになるということを示すために、ご自分のみことばをきちんと書き記すようにと言われたのです。それは神のことばである聖書と言ってもいいでしょう。聖書の言葉は世々限りなく続くものであり、必ず実現するのです。イエス様は次のように言われました。

「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせないかぎり、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」(マタイ5:18)

皆さん、神のことばは決してすたれることはありません。全部が成就します。この永遠に変わらない神のことば、聖書こそ唯一信頼に値するものであり、私たちが唯一頼るべきものなです。

なのに反逆の民である彼らは、このみことばをどのように受け止めたでしょうか?9節をご覧ください。ここには「彼らは反逆の民、うそつきの子ら、主のおしえを聞こうとしない子らだから。」とあります。「彼ら」とは南ユダの人たちのことです。彼らは神のことばを聞こうとしませんでした。神のことばなんでどうでもいい。聞いてなんていられない。そんなものよりももっと現実的で、効率的な方策があるではないかと、一切聞こうとしませんでした。そういう彼らを聖書は何と言ってるかというと、「反逆の民」、「うそつきの子ら」と言っています。

それだけではありません。10節と11節を見ると、彼らは予見者には「見るな」と言い、先見者には「私たちに正しいことを預言するな。私たちの気に入ることを語り、偽りの預言をせよ。」と言っていました。「予見者」とか「先見者」とは、イザヤを始めとした神のことばを取り次いでいた人たちのことです。彼らは神のことばを預かって語っていました。そういう人たちのことを予見者とか、先見者、あるいは預言者と呼んでいました。そういう人たちに向かって彼らは、「見るな」とか「それを自分に語るな」と言っていたのです。なぜでしょうか?それはイザヤを始めとしたそうした予見者、先見者が正しいことを言っているのを知っていたからです。しかし、それは自分たちの都合に合わない。気に入らなかったわけです。だから自分たちが気に入るようなことを語ってもらいたかったのです。あえて「偽りの預言をせよ」と言いました。これはひどいですね。聖書をねじ曲げて、自分たちに都合がいいように語れというのですから・・・。

11節を見てください。そういう人たちは結局のところ、次のように言うことになるのです。「道から離れ、小道からそれ、私たちの前からイスラエルの聖なる方を消せ。」何ということでしょうか。すごいですね。ここまで来ると・・。イスラエルの聖なる方を消せ、というのですから。この「道」とか、「小道」とは主のみことば、主の道のことです。イザヤ書2章3節にこうあります。「多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。」すなわち、これは主の道、主のみおしえのことなのです。そこからそれてしまう。神のことばを退けてしまうのです。それは神ご自身を退けてしまうことにほかなりません。神のみことばを拒否することは、神ご自身を拒否することなのです。「私はクリスチャンです。でもみことばは聞きたくありません。」ということはあり得ないのです。その人は実のところ神を退けているのです。口では神を信じるとは言っても、神のことばを退けるなら、それは実質、神を退けていることと同じです。ですから彼らは「反逆の民」とか「うそつきの子ら」と呼ばれているのです。神を信じているというのはうそで、クリスチャンであるというのもうそだということになります。ただそのふりをしているだけなのです。

イエス様は、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ。主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」(マタイ7:21-23)と言われました。恐ろしいことです。主よ、主よと、主の御名を呼んだのだからクリスチャンに違いない。主の名によって悪霊を追い出し、奇跡をたくさん行ったのに、「わたしはあなたを全然知らない」というのです。何が問題なのでしょうか。みことばを聞いてもそれを行なっていなかったことです。道からそれていたのです。そのようにしてイスラエルの聖なる方を消していたのです。自分でもわかりませんでした。自分ではクリスチャンだと思っていたのに、実際のところは神を退けていたわけです。自分に都合のいい神を造っていました。それをイエス・キリストと呼んでいたにすぎなかったのです。

皆さん、人は自分にとって都合のいい話を聞きたいものです。嫌なことを聞きたくありません。自分のひどい現実に向き合うのは嫌です。できればいいことを言ってもらいたい。なめらかなことば、受け入れやすいことを話してほしいと願います。しかし、そこには何の変化ももたらされません。

トーマス・ワトソンというピューリタンの説教家は、次のように言いました。「悪魔は人々を平安のゆりかごに乗せて揺さぶります。人々が地獄の絶壁に立っていても、悪魔は平安を叫びます。しかし神は罪を悔い改めさせ、たましいを低くし、その後に平安を語られます。多くの人々が語っている平安は嵐の前ですか、それとも後ですか。まことの平安は苦しみの後に来るということを忘れないでください。神は傷ついた心に最高の平安を与えてくださいます。」

箴言27章5節には、「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。」とあります。あからさまに責められるのは嫌です。私たちの中には間違いを指摘する人から避けようとする傾向がありますが、しかし、あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさるのです。私たちは、そうした愛のむちを感謝して受け取れるようになりたいものです。

神のことばは生きていて、力があります。それは両刃の剣のように鋭く、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。そこには心にグサッと刺さるような痛いことばもあれば、「わたしは涙であなたを潤す」というような優しいことばもあります。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしがあなたを休ませてあげます」といった慰めのことばもあります。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる」といった励ましのことばもあります。しかし、どれもみな同じ神のことばなのです。この神のことばを神のことばとして受け入れそれに従うことがその道を歩むということです。そこに祝福があります。私たちは主のことばを退けたり割り引いたりすることなくそのまま受け入れ、それに従うものでありたいと思います。

Ⅲ.立ち返って静かにせよ(12-15)

最後に、12節から15節までを見て終わりたいと思います。14節までお読みします。「12 それゆえ、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「あなたがたはわたしの言うことをないがしろにし、しいたげと悪巧みに拠り頼み、これにたよった。13 それゆえ、このあなたがたの不義は、そそり立つ城壁に広がって、今にもそれを倒す裂け目のようになる。それは、にわかに、急に、破滅をもたらす。14 その破滅は、陶器師のつぼが容赦なく打ち砕かれるときのような破滅。その破片で、炉から火を集め、水ためから水を汲むほどのかけらさえ見いだされない。」

ここには、主の教えを聞こうとしない反逆の子らがどうなるのか、その結果が記されてあります。「わたしの言うこと」とは聖書のことです。聖書の言うことをないがしろにし、しいたげと悪巧みとに拠り頼むとどうなってしまうのか。「それゆえ、このあなたがたの不義は、そそり立つ城壁に広がって、今にもそれを倒す裂け目のようになる。」みことばをないがしろにし、自分の生活から神を除外する。そして、自分のライフスタイルを続けようとすると、必ず自己崩壊につながっていきます。破滅をもたらすことになります。それはちょうど城壁の裂け目のようにです。ほんのわずかな亀裂でも城壁に裂け目があったらどうなるでしょうか。そそり立つ城壁全体を崩してしまうことになります。ほんのわずかなひび割れで、ほんのわずかな不義で城壁が崩れ、自分も崩れてしまいます。守りを失って、その城壁が自分の方に倒れて来て、自分の首をしめてしまうことになるのです。自分を破滅に導く、墓穴を掘るようなことになっていくのです。神のことばを退ける人は必ず墓穴を掘ります。先程は恥を見るとか、侮辱を受けるということを言いましたが、それだけでは済みません。破滅に至ることになるのです。

それはにわかにやって来ます。急にもたらされます。しばらくは自分は守られて大丈夫だと思っています。エジプトと手を組めば安心だと思っています。自分の考えでうまくいってると思っているわけです。しっかりと城壁に囲まれていて何の問題もない・・と。神のことばを聞かなくても私はこんなに頑張ってるし、こんなによくやってる。何も不自由していない。満たされている。安全である。平安であると、言い張るわけです。しかしいつの日か、そのわずかな割れ目から大崩壊が始まるのです。にわかに、急に、です。破滅をもたらします。ちょっとしたことで破滅するんですね。ちょっとした亀裂、侮ってはなりません。

その破滅は、陶器師のつぼが容赦なく打ち砕かれるときのような破滅です。陶器師のつぼが容赦なく打ち砕かれるときのような破滅とは、どのような破滅なのでしょうか。グチャグチャです。その破片で、炉から火を集め、水ためから水を組むほどのかけらさえ見いだされません。そのかけらで、まだ道具に使われそうなものが残ればいいのですが、まだ役に立つかもしれませんが、あまりにも粉々に砕かれるので、他の目的のために再利用することができないくらいになるのです。それほど粉々に破滅されます。もう人生がやり直せないほどに、これまでの人生が一つも役に立たないほどに砕かれるのです。

これは警告です。反逆の子らにこの警告がなされています。皆さん、いかがですか。彼らははかりごとをめぐらしますが、神にはよりません。たくさんの計画を持っています。やりたいことがいっぱいあります。窮地になれば私にはこんな計画があります。こんな打開策があります。こうすればうまくいく。これに頼れば何とかなる。十分蓄えがあるから大丈夫。この知恵で、これまでの経験を生かせば何とでもなる。それは明らかに罪です。その結果は恥をかくだけです。侮辱を被ります。遠回りして、苦労して、さまざまな危険にさらされても何の役にも立たないというリスクを背負った人生です。そして、そのまま歩むなら最後は小さな裂け目からすべてが崩壊してしまいます。粉々になります。今までの人生はいったい何だったのかと思うほど、粉々に砕かれてしまうことになるのです。これまで蓄えたものも役に立ちません。得た資格も役に立ちません。あんなに健康に留意してビタミン剤をいっぱい飲んで、ジムに通って、運動して、健康なからだを手にしていたのに、それもあるとき、何の役にも立たないときがやってきます。

それではいったいどうしたらいいのでしょうか。いったいどこに救いがあるのでしょうか。15節をご覧ください。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」ここにあなたの救いがあります。主に立ち返って静かにすれば、あなたは救われます。あなたが主に信頼すれば、力を得るのです。あなたにはアッシリヤのような強大な敵が迫っているかもしれません。回りが敵に囲まれてもう逃げ場がないような状況かもしれません。経済のことや健康のこと、あるいは人間関係のことや仕事のことでいったいどうしたらいいものかと悩んでいるかもしれません。しかし、立ち返って静かにすれば、あなたは救われます。これまでの生き方を悔い改めてまことの神に方向転換をすれば救われます。落ち着いて、この方に信頼すれば、力を得るのです。エジプトに逆戻りしてはいけません。エジプトとはこの世を象徴しています。この世を信頼してはいけないのです。あなたはこの世から救われたのです。せっかくこの世から救われたのにそこに逆戻りするようなことをしていけません。そうではなく、神に信頼しなければならないのです。そうすれば救われます。力を得ます。  南ユダは悔い改めて、神に立ち返ることで救われました。アッシリヤが彼らを取り囲みましたが、主の使いが出て行って一晩に十八万五千人のアッシリヤの軍隊を滅ぼされました。そうしてユダは救われたのです。それはあなたも同じです。主に立ち返って静かにすればあなたは救われます。落ち着いて、主に信頼すれば、あなたは力を得るのです。このことを忘れないでいただきたいと思います。どうか反逆の子にならないで、神に従う子、神に信頼する子になってください。そこに神の確かな救いと力があるからです。

イザヤ書29章1~24節 「アリエルのうめき」

きょうは、イザヤ書29章から学びたいと思います。タイトルは「アリエルのうめき」です。1節を見ると「ああ。アリエル、アリエル。」とあります。アリエルとはエルサレムのことです。そのエルサレムを、主はここで嘆いておられます。そこにはうめきと嘆きが起こります。なぜでしょうか。きょうはそのことについて三つのポイントでお話したいと思います。

Ⅰ.しいたげられるアリエル(1-8)

まず1節から8節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。「ああ。アリエル、アリエル。ダビデが陣を敷いた都よ。年に年を加え、祭りを巡って来させよ。わたしはアリエルをしいたげるので、そこにはうめきと嘆きが起こり、そこはわたしにとっては祭壇の炉のようになる。」

アリエルとは先程申し上げたようにエルサレムのことを指しています。意味は「神のライオン」とか、「祭壇の炉」という意味があります。なぜ神様はここでエルサレムを「アリエル」と呼んでいるのでしょうか。なぜなら第一に、この町がライオンのように勇ましく、壮健であったからです。1節には、「ダビデが陣を強いた都よ。年に年を加え、祭りを巡って来させよ。」とあります。この町は、ダビデの陣が敷かれた町です。ダビデによって都と定められました。ダビデは神の箱をこの町に運び入れたとき、力いっぱい踊ったとあります。(Ⅱサムエル6:14)それはまさに獅子のような、ライオンのような勇ましい姿であったことでしょう。しかし、それだけではありません。第二に、アリエルはしいたげられるので、祭壇の炉のようになるからです。祭壇の炉とは、いけにえをささげる炉のことです。そこで彼らは火のような試練を受けるわけです。なぜでしょうか?それは彼らの心が、神様から遠く離れていたからです。そのことについては後で触れたいと思いますが、ここでは彼らがどのようにしいたげられるのかを見ていきたいと思います。3節と4節です。

「わたしは、あなたの回りに陣を敷き、あなたを前哨部隊で囲み、あなたに対して塁を築く。あなたは倒れて、地の中から語りかけるが、あなたの言うことは、ちりで打ち消される。あなたが地の中から出す声は、死人の霊の声のようになり、あなたの言うことは、ちりの中からのささやきのようになる。」

これはアッシリヤがエルサレムを包囲した時のことです。B.C.701年に起こりました。アッシリヤの王セナケリブはエルサレムを包囲し、エルサレムはまさに風前のともしびのようになりました。彼らは地面に倒れうめき苦しみます。ほとんど死んだ人のようになりました。彼らは死者がよみで不平を言うように、かすかなうめき声を出しているかのようになるのです。

けれども、そんなアリエル、エルサレムでしたが、神の奇跡的なご介入によって救われます。何と神の使いが出て行き、一晩で185,000人のアッシリヤ兵を打ち破りました。そのことが5節に記されてあります。「しかし、あなたの敵の群れも、細かいほこりのようになり、横暴な者の群れは、吹き飛ぶもみがらのようになる。しかも、それはにわかに、急に起こる。」それは急に起こりました。たった一夜にして起こったのです。

6節から8節までをご覧ください。「万軍の主は、雷と地震と大きな音をもって、つむじ風と暴風と焼き尽くす炎をもって、あなたを訪れる。アリエルに戦いをいどむすべての民の群れ、これを攻めて、これを取り囲み、これをしいたげる者たちはみな、夢のようになり、夜の幻のようになる。飢えた者が、夢の中で食べ、目がさめると、その腹はからであるように、渇いている者が、夢の中で飲み、目がさめると、なんとも疲れて、のどが干からびているように、シオンの山に戦いをいどむすべての民の群れも、そのようになる。」

万軍の主は、雷と地震と大きな音をもって、つむじ風と暴風と焼き尽くす炎をもって、あなたを訪れます。あなたに戦いを挑むすべての民、あなたを攻めて、あなたを取り囲み、あなたを虐げる者たちをみな、そのようにされるのです。アリエルのことを「あなた」と言いましたが、そう言っても間違いではないではないでしょう。私たちは神を信じ、神の民とさせていただいたわけですから、神のイスラエルです。神のライオン、祭壇の炉のようになったのです。そのアリエルを神は完全に守ってくださいます。アリエルを侵略しようなんてとんでもない話です。それはまさに夢物語です。どんなに敵が襲って来ようとも、神はのどが干からびたのどのようにされるのです。エルサレムが異邦人によって滅ぼし尽くされるということは絶対にありません。なぜなら、エルサレムはダビデが陣を敷いた都だからです。ダビデの子イエス・キリストの都だからなのです。神の都を征服するなど、それこそ夢物語であります。全く非現実的なことなのです。そのような者たちはみな、夢見る者たちのように、干からびたのどのようになるのです。

それは、アッシリヤだけのことではありません。今日に至るまで、エルサレムは何度も何度も侵略を受けてきました。ダビデによってエルサレムが都として定められたのは1004年のことですが、それから今日に至るまで記録によると何と86回も征服を受けてきたのです。このアッシリヤの時は征服されそうになっても神の奇跡的なご介入によって免れました。しかし、アッシリヤの次に台頭してきたバビロンによってエルサレムは陥落します。バビロンの王ネブカデネザルによってソロモンによって建てられた神殿は完全に破壊され、こに住んでいたユダヤ人はバビロンへと捕らえ移されました。いわゆるバビロン捕囚です。B.C.586年のことでした。しかし、神はご自身の約束にしたがってユダヤ人をその縄目から解き放ちました。ペルシャの王クロスによって彼らをエルサレムへと帰還させたのです。しかし、その後も異邦人によるエルサレムの支配は続き、ローマ時代を迎えました。その時にイエス様が生まれたのです。人々はイエスがそのローマの圧政から救い出してくれるものと期待しましたが、イエスがもたらした支配はローマからの解放ではなく、そうしたもろもろの問題の根本的な原因である罪からの解放でした。やがてA.D.70年に、ローマの将軍ティトスによってエルサレムは破壊されそこに住んでいたユダヤ人は、全世界へ離散させられました。それから長い間イスラム帝国の支配が続き、1516年から1917年にはオスマントルコ帝国、これもイスラム帝国ですが、その支配の時です。もうエルサレムは異邦人に侵略されてしまったかと思っていたころ、1800年代ですが、全世界に住んでいたユダヤ人がエルサレムに帰還するようになりました。そして1948年にはイスラエルは国として再興したのです。それがイスラエル共和国であります。それはイザヤ書11章11~12節で主が約束してくださったことの成就でもありました。

「その日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りを買い取られる。残っている者をアッシリヤ、エジプト、パテロス、クシュ、エラム、シヌアル、ハマテ、海の島々から買い取られる。主は、国々のために旗を揚げ、イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる。」

エルサレムの覇権を巡ってはその後も近隣アラブ諸国との対立が続きましたが、1967年に第三次中東戦争でイスラエルが勝利したことで、そうしたアラブ諸国の支配から、異邦人の支配から解放され、国際都市となりました。これはたった六日間の戦争だったので、六日戦争と呼ばれています。イスラエルは今や花を咲かせ、豊かな実を実らせています。なぜでしょうか。そこはダビデによって定められた神の都だからです。その神の都を征服するなど、それこそ夢物語なのです。そのような者たちはみな、夢見る者たちのように、干からびたのどのようになります。神の都であるエルサレムに、神の都とされたあなたに、だれも危害を加えることはできないのです。

Ⅱ.深い眠りの霊(9-16)

それにしてもなぜ神の都であったアリエルにこのようなうめきが起こったのでしょうか。それは彼らの心が神から離れていたからです。そのことについて次に見ていきましょう。9節から16節までのところです。まず9節と10節をお読みします。

「のろくなれ。驚け。目を堅くつぶって見えなくなれ。彼らは酔うが、ぶどう酒によるのではない。ふらつくが、強い酒によるのではない。主が、あなたがたの上に深い眠りの霊を注ぎ、あなたがたの目、預言者たちを閉じ、あなたがたの頭、先見者たちをおおわれたから。」

ここに彼らの問題が何であったかが記されてあります。それは、彼らの目が閉じられ、あたまがおおわれていたことです。28章の前半のところにはエフライム、北イスラエルですね、そのエフライムの問題が記されてありました。それは彼らが酒に酔っていたことでした。彼らは酒のために混乱し、ふらついていました。そんな彼らを見て南ユダ王国、エルサレム、アリエルの人たちは物笑いの種にしていましたが、そんな彼ら自身にも問題がありました。彼ら自身も酔ったような状態であったわけです。それはぶどう酒によるものではありませんでした。強い酒によったのではありません。彼らには深い眠りの霊が注がれていて、主からの言葉を理解することができなかったのです。このことを聞いて皆さんの中にはパッと目を覚ました人もおられるかもしれません。11節と12節を見てください。

「そこで、あなたがたにとっては、すべての幻が、封じられた書物のことばのようになった。これを、読み書きのできる人に渡して、「どうぞ、これを読んでください」と言っても、「これは、封じられているから読めない」と言い、また、その書物を、読み書きのできない人に渡して、「どうぞ、これを読んでください」と言っても、「私は、読み書きができない」と答えよう。」

彼らにとってすべての幻が封じられた書物のことばのようになりました。聖書がわからないのです。それを読み書きできる人に渡しても、「読めない」、「理解できない」と言うのです。じゃ、読み書きできない人はどうかと思って渡しても、やっぱり「できない」と言います。どんなに教育を受けていようと、あるいは全く教育を受けていまいと関係なく、聖書に書かれてあることがわからないのです。なぜでしょうか。この書物はそれほど難しいからでしょうか。そうではありません。理解したいと思っていないからです。悟りたいと思っていません。それが問題です。理解したいと思っていない人にどんなに聖書を渡してもそれは退屈きわまりない、無味乾燥な、どこを読んでもわからないミステリアスな書物でしかありません。ただ聖書を学びたい、もっと深く知りたいと願う人にとってのみ、理解が与えられるのです。どんなに無学な者であっても、みことばを知って、変えられたいと願う人には、読めるのです。主イエスは言われました。

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7-8)

求める者には与えられ、捜す者は見いだし、たたく者には開かれるのです。現在、我が国の識字率は99%です。ほとんどの人が読めます。だれでも聖書が読めるのです。これは恵みではないでしょうか。かつてはそうではありませんでした。読みたくても読めないという時代があったのです。今でも世界では7億7600万人の成人が読み書きができないと言われています。なのに私たちは読み書きができるのです。いや、読み書きができるだけでなく自分の聖書を持っています。マイ聖書、しかも1冊だけでなく何冊も・・。中にはいろいろな訳で、いろいろな言語で書かれた聖書を持っている人もいます。だれにも反対されないで読むことが出来るのです。なのに読めない。本棚にきれいに飾ったままになっている。それは、学びたいと思っていないから、知りたいと切に願っていないからです。こんな無学な者でも聖書がわかるようにしてくださった神の恵みに感謝して、へりくだってこれを学び、これに聞き従う心を持ちたいと思います。

13節、14節を見てください。ここには、そのように聖書を読みたくないという人の本当の原因が書かれてあります。「そこで主は仰せられた。「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。 それゆえ、見よ、わたしはこの民に再び不思議なこと、驚き怪しむべきことをする。この民の知恵ある者の知恵は滅び、悟りある者の悟りは隠される。」

このことばはイエス様によっても引用されていることばです。マタイの福音書15章8~9節、マルコの福音書7章6~7節に引用されています。手を洗わないでパンを食べた弟子たちに対して清めのしきたりを守らないで神の命令をおろそかにしているという律法学者たちの責めに対して、主はこの箇所を引用して、「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。」と言われたのです。

皆さん、口先では神をあがめていても、その心が神から遠く離れていることがあります。ワーシップサービスではなくリップサービスになっていることがあるのです。心が伴っていない。心ここにあらずです。賛美しながら、今晩の夕食は何にしようかとか、祈っていても仕事のことや学校のことを考えています。ああ疲れたな。家に帰ったらおもしろいテレビがやってるのに・・。賛美しながらそのメロディーや雰囲気に呑み込まれ、その歌詞に思いを寄せることをしません。ただみんなに合わせて歌っているだけということはないでしょうか。それはただのリップサービスであってワーシップサービスではありません。くちびるで主をあがめていても、その心が離れているのです。彼らは人の教えを教えとしているだけなのです。

これがか問題です。人間の教えを教えとしているだけです。神のことばである聖書を聖書として教えていないのです。ある週はこの箇所、次の週はあの箇所と、いろいろな箇所から自分の主義主張を教えてしまう。これではその心が神から離れてしまうのも当然です。これは牧師や教師である私たちが本当に反省しなければならないことです。聖書を聖書として教えていく。たとえ難しい箇所であっても意味のない無駄なことはないと信じて、神のことばを学び、そこから教えていく。そして、そのみことばに従って歩んでいかなければなりません。

先日、エホバの証人の方がが久しぶりに家に来られました。「こんにちは。私たちは良い知らせを伝えるためにこうやって回っています。牧師さんですか。最近は地震とか、いろいろな災害がありますが、これから先はどうなると思われますか。」私も満面の笑みを浮かべて答えました。「これからのことですか。ええ、聖書に書いてあるとおりになります。」すると、「そうですか。やがて死もなく、悲しみ、叫びもない、目の涙がぬぐい去られる時が来ることをご存じですか。」と言われるので、「ええ、その時が来るのを信じています。ところで、それはいつですか。」と言うと、「いつというのは神様しかわからないことです。」「ええ、イエスが再び来られること、世の終わりについてはそれがいつなのかわかりませんが、目の涙がぬぐわれる時がいつなのかは聖書にはっきり書いてありますよ。黙示録21章にある新しい天と新しい地がもたらされる時です。千年王国の終わってサタンがその牢から解き放たれることが20章にあります。そのサタンに勝利して最終的に白い御座において神のさばきが行われますが、そのさばきにおいて小羊の書に名が書き記されてある人は、この新しい天と新しい地を受け継ぎます。そのように聖書に書いてあります。」  するとその方は、「牧師さんは聖書の記述を時間通りに解釈しているのですか。福音書に記されてあることは時間通りの出来事なのですか。」と話を変えられました。「いいえ、福音書に書かれてあることは時間的にどうかということではなく、何のために書かれたのかということを理解することが大切だと思います。たとえば、マタイの福音書はユダヤ人のために、ユダヤ人が旧約聖書の預言がイエスによって成就したことを知り、このイエスこそキリスト、メシヤ、救い主であることを知るために書かれました。あるいはルカの福音書は異邦人がよく理解できるように、ルカが綿密に調べて書いたのであって、それは異邦人である私たちが福音をよく理解するためでした。」  すると今度はバッグから「ものみの塔」という雑誌を取り出して、「伝道者の書3章11節に何が書いてあるかわかりますか」と言われました。「はい。神のなさることは時にかなって美しい」とあります。「神は人に永遠の思いを与えられたとあります」と答えると、永遠のいのちについてその雑誌から説明されました。回りくどくてポイントがずれていたので、「ところで、永遠のいのちとは何ですか」と聞くと、「それは人生の喜びです」とか「楽しみです」といった訳のわからないことを言われたので、「これは創世記1章26,27節にある神のかたちのことです。神は私たちに永遠を慕う思いを与えられました。これが霊とかたましいと呼ばれているものです。私たちの霊が神とつながっている状態が永遠のいのちです。しかし最初の人アダムが罪を犯したので、このいのちを失ってしまいました。しかし、あわれみ豊かなエホバは、そのひとり子イエスをこの世に遣わし、十字架によってその罪を赦し、救いの御業を成就してくださいました。ですから、だれでもこのイエスを主として、救い主として信じるなら救われるのです。永遠のいのちをいただけるのです。」  するとこの方は驚いて、こんなに聖書を学んでる牧師さんがいるとは思わなかったとか言って、「ところで、牧師の仕事は何ですか」と言うので、それに対しても、「エペソ4章に何と書いてありますか。聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのみからだなる教会を建て上げるために牧師が立てられているとあります。」と言うと、「今、皆さんでこの辺を歩いているので時間がありませんので、もっと聖書を学びたいのてあれば、後でまた来たいと思います」と言われました。でもそれは聖書の学びではないですよ。本当に聖書から学びたければ聖書だけで十分です。聖書から論じましょう。そうだったらいくらでも時間を割きますよ。といって別れました。

聖書を教えているようで、実際は聖書ではないのです。人間の教えを教えているのです。それではいくら熱心であっても、その心は神から遠く離れてしまいます。人間の教えではなく聖書は何を言っているのか。聖書に何と書かれているのかを知り、それに従うことが求められているのです。そうすれば、主が不思議を行われます。私たちが心に浮かばないこと、目で見たこともないこと、耳で聞いたこともないことを行われるのです。それは知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを隠されるためです。神のことばを神のことばとして聞き、従っていくとき、そこに神のすばらしい御業が現れるのであります。

15節と16節をご覧ください。ここには「ああ。主に自分のはかりごとを深く隠す者たち。彼らはやみの中で事を行い、そして言う。「だれが、私たちを見ていよう。だれが、私たちを知っていよう」と。ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている。陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。造られた者が、それを造った者に、「彼は私を造らなかった」と言い、陶器が陶器師に、「彼はわからずやだ」と言えようか。」とあります。

アッシリヤの侵略に対して、彼らはエジプトと同盟を結んで対処しようとしていました。それはイザヤの警告を無視した人間的な解決でした。彼らはそうした自分たちのはかりごと隠し、やみの中で事を行っていました。「だれも見ていない。」「だれも知らない」と。しかし、神はすべてのことをご存じです。だれも見ていなくても、神は見ておられます。詩篇139篇1~8節には、次のようにあります。

「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。 あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。 私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。」

主はどこにでもおられます。何でも知っておられるのです。神様の目にすべては裸同然なのです。ですから、神には隠し事などできません。なのに、主は見ていないと、自分のはかりごとを隠すとしたら、それは物をさかさに見ているのと同じです。神様をただの人間のように見ていることに他なりません。それはまるで陶器が陶器師に向かって「彼は私を造らなかった」、「彼はわからずやだ」と言ってるようなものなのです。主客が転倒しているわけです。主客転倒です。

賀川豊彦は、「神が造られたこの世界によって神を見せてくれという人は、赤ん坊が母の胎内にあって母を見せてくれというのに等しい」と言いました。神なんていないと、神の存在を認めない人は、お母さんの胎内で母を見せてくれ、見るまでは信じないと叫んでいるようなものだというのです。非常におかしい。滑稽です。しかし、そのようなものなのです。神は私たちのすべての道を知っておられ、完全な御手をもって導いておられます。その神を信じ、神のみことばに従うこと。それが私たちにも求められているのです。口先だけで敬うのではなく、心から神を敬うこと、神を求めること、神に従うこと、神を愛することが求められているのです。それが信仰の本質なのです。

Ⅲ.つぶやく者もおしえを学ぶ(17-24)

最後に、そんなアリエルの回復について見て終わりたいと思います。17節から終わりまでをご覧ください。17節から21節までをお読みします。「もうしばらくすれば、確かに、レバノンは果樹園に変わり、果樹園は森とみなされるようになる。その日、耳の聞こえない者が書物のことばを聞き、目の見えない者の目が暗黒とやみから物を見る。へりくだる者は主によっていよいよ喜び、貧しい人はイスラエルの聖なる方によって楽しむ。横暴な者はいなくなり、あざける者は滅びてしまい、悪をしようとうかがう者はみな、断ち滅ぼされるからだ。彼らは、うわさ話で他人を罪に陥れ、城門でさばきをする者のあげあしを取り、正しい人を、むなしい理由でくつがえす。」

これはアリエル、エルサレム、イスラエルの回復の預言です。ここには「もうしばらくすれば、確かに、レバノンは果樹園に変わり、果樹園は森とみなされるようになる。」とあります。「もうしばらくすると」というのは、次の節にあります「その日」のことです。それは世の終わりのことを指します。世の終わりの時に、レバノンは果樹園に変わるのです。かつてレバノンは地雷が埋め尽くされていましたが、今では立派な果樹園に変えられました。あまり知られていませんが、このレバノンでは人口の40%がクリスチャンです。やがてレバノンが回復するという預言が少しずつ実現しています。世の終わりの時には、これが完全なかたちで現れることでしょう。

それはレバノンだけのことではありません。これまで耳が聞こえなかった人たち、目が見えなかった人たちが、こぞって神のことばを聞くようになり、理解するようになります。これまで「ああ、眠い。聖書はほんとうに退屈な本だ。何が書いてあるのかちっともわからない。読みたくない。」そう思っていた人たちが喜んでこの書物のことばを聞くようになり、何を言っているのかわからなかった人がはっきり見えるようになるのです。わかるようになります。聖書って本当におもしろい。もっと学びたい。知りたいと思うようになる。主はそのようにへりくだった人たち、貧しい人たちに喜びと楽しみを与えてくださるのです。横暴な者はいなくなります。悪をしようとうかがう者もみな、断ち滅ぼされます。うわさ話で他人を罪に陥れようとしていた人たちや、人のあげあしを取ろうとしていた人たちも、くつがえされます。なぜなら、主イエスが戻って来られるからです。その日、主はすべてをあきらかにされ、すべての不条理を正されるのです。

「それゆえ、アブラハムを贖われた主は、ヤコブの家について、こう仰せられる。「今からは、ヤコブは恥を見ることがない。今からは、顔色を失うことがない。 彼が自分の子らを見、自分たちの中で、わたしの手のわざを見るとき、彼らはわたしの名を聖とし、ヤコブの聖なる方を聖とし、イスラエルの神を恐れるからだ。 心の迷っている者は悟りを得、つぶやく者もおしえを学ぶ。」(22-24)

その日、彼らはヤコブの聖なる方を聖とし、イスラエルの神を恐れます。心の迷っている者は悟りを得、つぶやく者もおしえを学ぶのです。どうしてよいかわからない。道に迷ってしまう。判断がつかないで、おろおろとうろたえとしまう。 欲に迷う。お金に迷う。心を惑わして、正常な判断がつかない。そういう人が悟りを得て、もう誘惑にたやすく負けることがなくなります。またつぶやく者もおしえを学びます。日々の試練に遭って、「なぜですか」、「なぜこんなひどいことが起こるんですか」といった苦々しい思いを持っていた人が、主の教えを学ぶようになるのです。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)と言えるようになるのです。試練が恵みに変えられるのです。何と感謝なことでしょうか。

神はあなたを必ずそのようにしてくださいます。なぜなら、あなたは神のアリエル、神の都エルサレムだからです。そこは神によって定められた神の都だからです。神があなたとともにおられ、あなたをすべてのわざわいから守り、とこしえの喜びで満たしてくださいます。アブラハムを贖われた主はあなたをも贖われ、この神の都に置いてくださいました。もうしばらくすると、あなたはレバノンの果樹園のように変えられます。そう信じて、へりくだって神のことばを聞き従いましょう。貧しくなって、神のことばを求めましょう。そうすれば主はあなたにも悟りが与えてくださいます。あなたの心は迷っていませんか。目の前のことでつぶやいていませんか。どうぞ神のみおしえを聞いてください。そして、それを悟ってください。そこにある神の深いご計画に目を留めていただきたいのです。主のおしえを学ぶ。それが私たちの祝福の原点なのです。

イザヤ書28章14~29節 「これを信じる者はあわてることがない」

きょうは、イザヤ書28章14節から終わりまでのみことばから学びたいと思います。14節には、「それゆえ、あざける者たち-エルサレムについてこの民を物笑いにする者たちよ。主のことばを聞け。」とあります。「あざける者たち」とは28章7節に出てきた酔いどれの祭司や預言者たちのことです。彼らはイザヤの語ることばを聞いて、「だれに知識を教えようとしているのか。だれに啓示を悟らせようとしているのか。」(9節)と言って反発しました。全く幼稚な教えである・・と。自分たちを知識人だと思っていた彼らは聖書を額面通り受け止め、額面通り教えていたイザヤの話は幼稚な話だと全く興味も示さず、愚かしいものだと見下げていたわけです。もう聖書なんて一通り読んでわかっている。何度も同じことを聞いた。だからもう学ぶ必要なんてない。もう私は聞く必要がない。もう聞きたくない。だから彼らは聞こうとしなかったわけです。そんなイザヤをあざけっていた者たちに対してここで語られているわけです。

Ⅰ.これを信じる者はあわてることがない(15-16)

まず第一に、15節と16節をご覧ください。15節には、「あなたがたは、こう言ったからだ。「私たちは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる。たとい、にわか水があふれ、越えて来ても、それは私たちには届かない。私たちは、まやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきたのだから。」とあります。

この「死」とか「よみ」というのは、エジプトのことを指しています。当時、アッシリヤの脅威がエルサレムに迫っていました。既に北イスラエルはアッシリヤにのみ込まれ、その勢いが南ユダにも迫っていたのです。そのアッシリヤの脅威に対してどのように対抗していったらいいのか。彼らは、ただ神に信頼せよというイザヤの警告を無視し、隣国エジプトと同盟を結んだのです。そうすれば、たといにわか水があふれても大丈夫。それは自分たちには届かない。いざという時にはエジプトが守ってくれるから安心だと思ったのです。しかし、それは死と契約を結ぶようなものです。よみと同盟を結ぶようなものなのです。何の役にも立ちません。ここではアッシリヤのことが「にわか水」と表現されています。それは大洪水のようににわかに襲ってくるのです。ですから、どんなにエジプトと同盟を結んでも何の役にも立ちません。神のことばをないがしろにしていた彼らは、神様をあてにしなくても自分たちでやっていけると思っていましたが、それはまやかしであり、偽りにすきませんでした。やがて彼らはアッシリヤの脅威に脅かされることになります。神のみことばに聞こうとしない人の人生はこの通りです。自分は聖書を知っているから大丈夫だ。もう何回も聞いている。もう学ぶ必要はない。そのような人はまやかしを避け所とし、偽りに身を隠すことになるのです。ですから、聖書は何と言っているかというと、ペテロ第一の手紙2章1節、2節に次のようにあります。

「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」    生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋に、みことばの乳を慕い求めなければなりません。それによって成長し、救いを得るためです。生まれたばかりの乳飲み子は、おそらく何にも考えていないでしょう。ただお腹が空いて、母乳を求めているだけですが、そのように私たちも、純粋に、みことばの乳を慕い求めなければなりません。

では、そのみことばはいったい何と言っているのでしょうか。16節を見てください。ここには、「だから、神である主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。」とあります。

これはメシヤ預言です。なぜこれがイエス・キリストのことを預言している内容なのかわかるのかというと、これが新約聖書に引用されているからです。この16節の数字の脇に1)とあるのはそのことを表しています。下の欄外の脚注を見ると、その1)の説明として、これがローマ人への手紙9章33節と10章11節、そしてIペテロ2章6節に引用されていることがわかります。ローマ人への手紙の中にはこの箇所が二回も引用されていますから、パウロがこのみことばをどれほど重要視していたかがわかります。その引用箇所をちょっと見たいと思います。まずローマ人への手紙9章33節ですが、ここには、「それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」とあります。若干言い回しが異なっていますが、これはヘブル語で書かれてあったイザヤ書のみことばをギリシャ語に翻訳したからです。その翻訳されたものを今度は日本語に翻訳するわけですから、若干言い回しも変わってくるわけです。しかし、大筋にはもちろん変わっていません。それでおもしろいのはイザヤ書で「これを」というところを「彼」と読み替えられていることです。この彼というのはもちろんイエス・キリストのことです。このローマ人への手紙の流れを読んでくると、それはイエス・キリストのことであることは一目瞭然です。パウロはこの「堅く据えられた礎の、尊いかしら石」こそイエス・キリストのことであると理解したのです。

それはローマ10章11節も同じです。ここにも、「聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」とあります。この「聖書」とはもちろんイザヤ書28章16節のことです。ここでも「彼」と読み替えていますね。この「彼」とはもちろんイエス・キリストのことです。その前の9節のところに、「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」とあるからです。いったいどうしたら救われるのでしょうか。どうしたらクリスチャンになれるのでしょうか。簡単です。もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるのです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるからです。ただイエスを主と信じるだけでいいのです。イエスは私のために十字架にかかって死んでくださいました。そして、三日目によみがえってくださったと、心に信じて口で告白するだけです。そうすれば、あなたも救われるのです。なぜなら、イエスこそあの堅く据えられた礎の、尊いかしら石だからです。

それでローマ人への手紙9章33節には、イザヤ書28章16節にはないことばがあります。それは、この石が「つまずきの石、妨げの岩」であるということです。これはどういうことかと言いますと、実はこれはイザヤ書8章14節からの借用なのです。読み替えているわけです。イザヤ8章14節には、「そうすれば、この方が聖所となられる。しかし、イスラエルにの二つの家には妨げの石とつまずきの岩、エルサレムの住民にはわなとなり、落とし穴となる。」とあります。パウロはあえてイザヤ章28章16節とイザヤ書8章14節のみことばと組み合わせてローマ9章33節に引用しているわけです。これと全く同じ方法でペテロも引用しています。Iペテロ2章6節から8節をご覧ください。

「なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」のであって、「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。」

ここでペテロはイザヤ書28章16節のみことばにイザヤ書8章14節のみことばを組み合わせているだけでなく、さらに詩篇118篇22節のみことばも加えて解説しています。これはどういうことかというと、確かにイエスはあの旧約聖書のイザヤ書で言われているところの選ばれた石、尊い礎石であって、彼に信頼する者は失望させられることはないが、必ずしも皆が皆、信じるわけではないということを言っているわけです。信じる人もいれば、信じない人もいます。信じる人にとってはこれ以上信頼に足るものはない方ですが、信じない人にとっては逆につまずきの石、妨げの岩でしかないのです。そう言いたかったのです。

残念なことですが、皆が信じるわけではありません。神に選ばれたイスラエルの民でさえそうでした。このイザヤ書28章のみことばは、そのイスラエルの霊的指導者たちに対するさばきのことばですが、彼らはイザヤのメッセージをどのように受け止めたかというと、イザヤの語ることばをバカにし、幼稚だと言って、受け入れませんでした。イザヤの働きをないがしろにしていたわけです。それはいつの時代でも同じです。今から2,700年前のイザヤの時代も、今から2,000年前のパウロやペテの時代も、そして2,012年の現代でも、人間の本質は変わりません。信じない人は信じませんし、信じる人は信じます。そして信じる人は本当に救われるわけです。救いというのは非常にシンプルなものです。ただイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださった信じるだけでいいのです。しかし、これがなかなかできないのです。難しく考えてしまいます。あれもしなくちゃいけない。これもしなければならないと、いろいろと複雑に考えますが、聖書が私たちに教えていることは、私たちが救われるためにしなければならないことはそんなに多くはないということです。ただイエスを救い主と信じればいいのです。

ヨハネの福音書6章28節、29節をご覧ください。ここには、「すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。」イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」とあります。「彼ら」とは、イエスの時代のユダヤ人たちのことです。彼らはイエスのところに来て、「私たちは神のわざを行うために何をすべきでしょうか」と尋ねました。おもしろいことにこの「神のわざ」ということばは複数形で書かれてあります。神の業々です。何でこんなことをわざわざ言うのかというと、ここにとても重要なことが秘められているからです。すなわち、彼らは救われるためには、天国に行くためには、たくさんのわざをしなければならないと考えていたのです。これが人間の考えることです。救われるためにはいろいろなことをしなければならないと考えます。あれもしなければならない。これもしなければならない。そうしないと救われないと思うのです。たとえちょっとくらい悪いことをしても、それを帳消しにするようなすばらしいことや多くの良いことをしなければ救ってもらえないのではないかと思っているわけです。それが人間の性(さが)というものです。  しかし、イエスは何と言われたでしょうか。イエスは29節のところで次のように言われました。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」「神が遣わして者」とはイエス・キリストのことです。そのイエスを信じることが神のわざだと言われました。この「神のわざ」は単数形です。人は「神のわざ」はいろいろあると思っています。あれもこれもしなければならない。いろいろな犠牲を払わなければならないと思っていますが、救われるためにしなければならないことはたった一つしかありません。しかもそれは何かの努力をしなければならないということではないのです。ただイエスを信じればいいのです。それが神のわざだというのです。

私たちは自分自身を救うことはできません。全く無力な存在にすぎないのです。ですから私たちにできることは、自分よりも力のある、自分を救うことのできる方にただただすがるのみなのです。それがイエス・キリストです。でも多くの人はそんな救い主を必要とせずに、自分の力で、自分の働きで、自分を救おうとします。たたりだとか、呪いといったことからも自分の努力で身を守ることかできるんだと考えるわけです。ちゃんとお守りを買えば、ちゃんと神社にお参りに行けば、ちゃんと仏壇に手を合わせれば、ちゃんと神棚にお水を上げれば、と思うわけです。もしそのようなことで自分を救うことができるのではあればイエス・キリストは必要なかったわけですし、キリストはこの世に来ることもいらなかったわけです。イエス・キリストがこの世に来なければならなかったのは、それは私たちが全く無力な者だからです。もちろん、だからといって神は私たちを見捨てるような方ではありません。自分で自分の首を絞めてしまうような、自らに呪いを招くようなことをした私たちを自業自得だと言わないで、神はこんな私たちをあわれんで、そこから救うために救い主を送ってくださいました。それがイエス・キリストというお方であります。イエス・キリストでなければ私たちを救うことはできません。イエス・キリストは唯一の私たちの希望です

でも他にも救い主を名乗るような、救いを説くような偉大な人がいたじゃないですか。仏教のお釈迦さんはどうですか。儒教の孔子はどうでしょう。偉大な哲学者ソクラテスはどうですか。イスラム教の創始者ムハンマドはどうでしょう。創価学会を開いた日蓮聖人はどうでしょうか。彼らはイエス・キリストと同じでしょうか。違います。完全無欠で、罪を一つも犯さなかったかというとそうではありません。彼らは立派な人間、人格者だったかもしれませんが、だからといって全く罪がなかったわけではありませんでした。彼らもまた私たちと同じように罪がありました。また、死んでよみがえったでしょうか。いいえ、彼らは死んで墓に葬られたままです。イエス・キリストだけが唯一罪のない生涯を送られ、イエス・キリストだけが唯一死にも打ち勝ち、よみがえられました。イエス・キリストこそまことの救い主なのです。そのことをイザヤは何と表現しているでしょうか。彼は、「これは、試みを経た石」だと言いました。皆さん、これは何度も何度も検査して、証明済みの石なのです。どのような欠陥もなく、重圧に耐えるなどのテストを通った石だという意味です。だからこそ堅く据えられた礎の石であり、尊い石なのです。表向きは良く見えてもちょっとやそっとの試みによってすぐに倒れてしまうような石であったら不安定で家全体を支えることなどできません。イエス・キリストは全く傷も汚れもない方です。ただこの方にすがるだけで、あなたは救われるのです。ほんとうに単純明快なメッセージです。それをあなたはどう受け止めますか。そんな荒唐無稽な話だれが信じられるか・・。死人がよみがえる。そんなバカな・・。しかし、これが救いのメッセージなのです。あなたがこのイエスを信じるなら、神がこのイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるのです。これが私たちが救われるために必要なたった一つの救いの道として、神が私たちに与えてくださった道なのです。

いや他にも道があるんじゃないですか。エジプトと同盟を結べば何とかなるんじゃないですかキリスト、キリストって言ったらみんなから嫌われちゃいますよ。もっとこの世の力に頼ったらいいんじゃないですか。エジプトなんというのはどうでしょう。歴史と伝統があります。あのピラミッドを見てください。現代の建築様式を用いてもあれだけのものは作れません。そう考えるわけです。エジプトというのはこの世の象徴であります。この世の力を借りて、この世の専門家を動員して、この問題に、あの問題に対処すれば何とかなるんじゃないか。あの人に頼れば、この人に相談すれば、この力で、あの力で何とかなるんじゃないかと、イエス・キリスト以外のものに頼ろうとするのです。そうするとどうなるのでしょうか。聖書は、そのような人は必ず失望すると言っています。イエス・キリストに信頼する者は失望することはありません。しかし、彼に信頼しなければ、失望することになるのです。

ここには「これを信じる者は、あわてることはない」とあります。イエスを信じる者はあわてることがないんです。いちいちパニくりません。堂々としていられます。もう百人力、いや千人力、消臭力です。イエス・キリストがついているんだから何も怖いことはありません。何も恐れることはないのです。一番頼りになる方が一番そばにおられるわけですから、どんなことが起こってもどうっていうことはないのです。今月の支払いどうしよう。大丈夫です。イエス・キリストは宇宙一のお金持ちですから、すべてのものを持っておられる方ですから何の心配もいりません。病気になったらどうしましょう。大丈夫です。イエス・キリストは最高の医者ですから心配いりません。家庭は崩壊しそうだ、あの人との関係がギクシャクして苦しい。最高のカウンセラーであるイエス様に相談すればいいのです。すぐに相談の乗ってくださいます。そしてすぐに力になってもらえます。地獄から救ってくれたイエス・キリストがあなたのすぐそばにいてくださるのです。彼に信頼する者は、失望することは絶対にありません。しかし、彼以外に信頼するものがあれば、その彼以外のものは、必ずあなたを裏切ります。失望させます。がっかりさせます。その結果、あなたは傷つくことりなります。イエスは絶対にあなたを裏切りません。ですから、あれもこれもと複雑に考えないでください。イエス・キリストにすがっていただきたいのです。彼に信頼する者は、失望させられることはありません。これを信じる者は、あわてることがないのです。

Ⅱ.比類なき神のみわざ(17-22)

第二に、そのように神の警告を無視したユダに対する神のさばきのことばです。まず17節から19節をご覧ください。ここには、「わたしは公正を、測りなわとし、正義をおもりとする。雹は、まやかしの避け所を一掃し、水は隠れ家を押し流す。あなたがたの死との契約は解消され、よみとの同盟は成り立たない。にわか水があふれ、越えて来ると、あなたがたはそれに踏みにじられる。それは押し寄せるたびに、あなたを捕らえる。それは朝ごとに押し寄せる。昼も夜も。この啓示を悟らせることは全く恐ろしい。」とあります。

ここには死と同盟を結ぶことが全く虚しいものであり、全く役に立たないということが語られています。雹とか水というのはアッシリヤの猛攻を指しています。神に頼らないで自分たちの力で対処しようとしたユダに対して、神はアッシリヤというスパンク棒を用いて彼らを懲らしめられます。それがにわか水となってあふれ、越えて来ると、彼らは踏みにじられることになるのです。まさにこれを信じる者は、あわてることがないが、信じない者はあわてることになります。失望することになってしまうのです。

そればかりではありません。20節にも次のようにあります。「寝床は、身を伸ばすには短すぎ、毛布も、身をくるむには狭すぎるようになる。」

身を伸ばすには短すぎる寝床とか、身をくるむには狭すぎる毛布とは、エジプトのことです。身を伸ばそうとしても足がベッドからはみ出しているように、身をくるもうとしても毛布が小さすぎてちゃんと身をくるむことができないように、エジプトの助けは彼らに真の安心感を与えるには足りないのです。民がよりどころとしていたもの、ゆっくりと体を休め、体を温めるはずのものが、いざというときに何の役にも立ちません。この世と同盟を結んでも完全な安心はありません。私は生命保険に入っているから大丈夫です。銀行にこれだけ貯金があるから安心です。不動産があるから、株があるから何とかなります。私には健康があるから大丈夫です。健康だけが取り柄です。私にはこの資格、あの資格があるから何とか食べていけます。この仕事があるから、力があるからと、この世の安心という毛布で身をくるもうとするのですが、そうしたものは狭すぎるのです。ベッドから足が飛び出してしまいます。寒いときには暖めてくれるだろうと思っていても、いざという時には何の役にも立ちません。私たちの人生には、自分ではどうしようもないという時があります。それは死です。死という敵がやって来るとき、あなたがよりどころにしているこの世のものが、本当にあなたを守ってくれるものではないことに気がつくでしょう。そうしたものはあなたを本当に暖めてくれるものではないのです。それらのものは、短すぎます。狭すぎるのです。

その一方で、彼に信頼するなら守られます。イエスを信じ、イエスを主と告白するなら、あなたはいこいを得るのです。「ここにいこいがある。」「ここにいこいがある」からです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがを休ませてあげます。」(マタイ11:28)と、主は言われます。イエスのところにほんとうの安らぎがあります。イエスのところに行くなら、完全な守りと保護を受けるのです。21節をご覧ください。ここには、「実に、主はペラツィムの山でのように起き上がり、ギブオンの谷でのように奮い立ち、そのみわざを行われる。そのみわざは異なっている。また、その働きをされる。その働きは比類がない。」とあります。「ペラツィムの山でのように起き上がり、ギブオンの谷でのように奮い立ち」とは、かつてダビデがペリシテの攻撃を受けたとき、主がダビデを助け、ペラツィムの山でペリシテ打ち破った時の出来事です。(I歴代誌14:11-16)神は、水が破れ出るように、ペリシテを破られました。そのように主は、比類なき働きをされるのです。それはいつの時代も同じです。イザヤの時代もアッシリヤの王セナケリブがエルサレムを包囲していました。B.C.701年のことです。その強大な力に彼らは何のなす術もありませんでしたが、そのような中でも主に信頼するなら、主は助けてくださるのです。具体的にはこの後の37章のところに出てきますが、その晩、主の使いがアッシリヤの陣営に出て行って、18万5千人を打ち破られました。イザヤが、ヒゼキヤが何かをしたからではありません。彼らがただ神にすがり、神に祈り求めた結果、神が働いてくださったからです。その結果、アッシリヤの王セナケリブは立ち去りました。主に信頼するなら、主が守ってくださいます。それは短かすぎる寝床のようではありません。あるいは、狭くて暖められないような毛布でもないのです。完全な守りと保護を受けるのです。

それはダビデの時代やイザヤの時代だけのことではありません。いつの時代でも同じです。ここには、「私は万軍の神、主から、全世界に下る決定的な全滅について聞いているからだ。」とあります。これは何のことを言っているのかというと、イザヤの時代で言えばアッシリヤのセナケリブのことです。彼らがエルサレムを包囲しましたが、主はイザヤとヒゼキヤの祈りに答えて彼らを全滅させました。しかし、これはイザヤの時代のことだけではありません。世の終わりにもたらされるであろう出来事をも預言しているのです。やがて世の終わりにエルサレムが包囲される時がやってきます。エルサレムの覇権を求めて北から南から、西から東から、世界中からメギドの丘に集結します。そこで神に戦いを挑むわけです。そうです、ハルマゲドンの戦いです。そのときキリストが天から降りて来てエルサレムに着座されるわけですが、主は一息で彼らを吹き飛ばしてしまわれます。完全に勝利されるわけです。その預言です。ダビデの時代にはペリシテからの攻撃に勝利された主は、イザヤの時代にアッシリヤの攻撃に勝利されました。そしてこの世の終わりには、すべての悪の勢力からの攻撃に対して、圧倒的な勝利を治められるのです。主はいつの時代でも勝利者であられ、ゆえに彼に信頼する者を完全に守られるのです。ベッドが短いということはありません。毛布が小さいこともないのです。その比類なきみわざを行ってくださいます。

ですから、あざけり続けてはいけません。これまであざけり、神なんて信じても何にもならないと思っていた人は悔い改めなければなりません。悔い改めて、主こそ神であり、へりくだってこの神の救いを信じなければなりません。また、神のことばを聞いても、もうたくさんだと、何回も聞いて知っていると、神にことばに耳を閉ざしていた人は、幼子のような純粋な思いでみことばの乳を慕い求めていかなければならないのです。

Ⅲ.その奇しいはかりごと(23-29)

最後に、23節から29節までをご覧ください。ここには農作業のたとえが書かれてあります。イザヤは、「あなたがたは、私の声に耳を傾けて聞け。私の言うことを、注意して聞け。」と言って、この農作業のたとえを語りました。いったいこれはどういう意味なのでしょうか。この農作業のたとえは、これまでイザヤが語ってきたことのまとめになるところです。これまでイザヤは何について語ってきたのかというと、神に信頼することです。自分は何でも知っている、自分たちの考えで、自分たちの力で何とかなると人間的にならないで、いつでも、ただ神に信頼しなければならないことを語ってきました。ですから、この農作業のたとえは、そのまとめであると言えます。それでこのたとえではどんなことが語られているのでしょうか。まず24節から25節です。ここには、「農夫は、種を蒔くために、いつも耕して、その土地を起こし、まぐわでならしてばかりいるだろうか。その地面をならしたら、ういきょうを蒔き、クミンの種を蒔き、小麦をうねに、大麦を定まった場所に、裸麦をその境に植えるではないか。」とあります。 農夫は土地を耕したら、次にその土地に種を植えるわけですが、その植え方は穀物の種類によって違います。「ういきょう」とか「クミン」というのは香辛料になる植物です。そうした植物の種は手で蒔きますが、小麦、大麦、裸麦といった穀物はその種類に従って植える場所が違います。小麦はうねに、大麦は定まった場所に、裸麦はその境に植えるのです。つまり、農夫は種を蒔いたり植えたりするのを適当にはしないで、その穀物の種類に従って適した方法で、一番最適な場所に蒔いたり、植えたりするということです。

27節と28節には、今度は収穫の時の様子が描かれています。収穫する時はどうでしょうか。ういきょうは脱穀機で打たれず、クミンの上では脱穀車の車輪は回しません。ういきょうは杖で、クミンは棒で打たれるからです。というのは、ういきょうとかクミンの実は軽いため、脱穀機を遣うとつぶれてしまうからです。ですからつぶれないように棒で打って脱穀するわけです。しかし、堅い穀物の実は脱穀車と馬のかかとを利用して脱穀します。そうでないと、使い物になる穀物を得ることはできなません。

いったいこれはどういうことなのでしょうか。農作業にも作物によっていろいろな手順や法則があります。種を蒔く場所やタイミングが違えば、収穫する時も、そのやり方も違います。それと同じように、神が国家、または個人を扱う時にもいろいろなやり方や方法があるわけで、みな違うのです。しかし、最終的に神様は正義を樹立されます。私たちの歴史の背後には神が働いておられ、その計画にしたがって粛々と進めておられるのです。ですから、たとえ私たちの思いや考えでは愚かなことのように見えることでも、神はその状況、状況に応じて最善のことをされながら導いてくださるのです。それをイザヤは何と言ってるかというと29節で次のように言っています。

「これもまた、万軍の主のもとから出ることで、そのはかりごとは奇しく、そのおもんぱかりはすばらしい。」

皆さん、主のはかりごとは奇しく、そのおもんぱかりはすばらしいのです。主はユダに対して最善の計画をもっておられたように、今の時代の、私たちに対しても、それぞれ状況は違っても、最善のことをしてくださるのです。ですから、私たちに必要なことは、私たちが理解できてもできなくても、この神に信頼し、この神にすべてをゆだねることです。人間的にはエジプトに信頼した方が安心であるかのようにみえる時でも、神は何と言っておられるのか、何が神のみこころなのかを知って、その神の御手にゆだねることが、いつの時代でも、だれに対しても共通の祝福の秘訣なのです。あなたはどうですか。死と契約を結んだり、よみと同盟を結んだりしていませんか。そうしたものはいざというときに全く頼りになりません。全く役に立たないのです。ただ神がシオンに据えた一つの礎の石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石こそ、決して揺らぐことのない確かな人生の土台です。救いです。これを信じる者は、あわてることはありません。この確かな礎の石こそ、イエス・キリストなのです。この方に信頼する者は、決して失望させられることはありません。あなたもこの方を信じ、この方をあなたの人生の礎の石としてください。そうすれば、あなたの人生にどんなことがあっても、主はあなたを守り、あなたにとって最善のことをしてくださいます。この方はあなたにとって全く信頼に足る、比類のないお方なのです。

イザヤ書28章1~13節 「ここにいこいにがある」

きょうは、イザヤ書28章の前半の部分からお話したいと思います。タイトルは「ここにいこいがある」です。イザヤは24章から27章にかけて、世の終わりに全世界に起こる神の救いの計画について語ってきましたが、ここから再びイスラエルとユダ、特にユダとエルサレムに話が戻ります。ここでイザヤは、これまで彼が語ってこなかった彼らの問題について語ります。それは、誇り、プライドに関することです。

Ⅰ.エフライムの酔いどれ(1-6)

まず1節から6節までをご覧ください。まず1節と2節を読みします。「ああ。エフライムの酔いどれの誇りとする冠、その美しい飾りのしぼんでゆく花。これは、酔いつぶれた者たちの肥えた谷の頂にある。見よ。主は強い、強いものを持っておられる。それは、刺し通して荒れ狂う雹のあらしのようだ。激しい勢いで押し流す豪雨のようだ。主はこれを力いっぱい地に投げつける。」

ここに「エフライム」とあります。この「エフライム」とはイスラエル12部族の一つですが、北イスラエルのことを指しています。イスラエルはもともと統一国家でしたが、前931年に今の朝鮮半島のように北と南に分かれました。北に10の部族、南にユダとベニヤミンの2部族が属していましたが、北イスラエルの最大部族、最強部族がエフライムでしたので、北イスラエルのことを指してエフライムと言いました。一方南ユダ王国のことは、「ユダ」と言いました。ここではその北イスラエルに対する宣告です。「ああ。エフライムの酔いどれの誇りとする冠、その美しい飾りのしぼんでゆく花。これは、酔いつぶれた者たちの肥えた谷の頂にある。」

「ああ。」とは、「災いなるかな」とも訳される言葉ですが、主はこの北イスラエルを嘆いておられます。なぜでしょうか?それは彼らに誇り、プライドがあったからです。ここに「酔いどれの誇りとする冠」とあります。これは酒宴に明け暮れて酔っぱらっていた彼らの姿を描いています。アッシリヤが攻めてきているという危機的な状況にあっても、彼らは大丈夫だ、自分たちは豊かだから心配することはないと言って、神の警告に耳を傾けませんでした。事実、このエフライムの土地は豊かで、農業が盛んでした。ここには「花」とか「肥えた谷」とあるのはそのことを表しています。エフライムは花の生産が盛んで、酪農も活発に行われていました。シャロンの花などもこのエフライムで生産されました。経済的に豊かだったのです。それゆえに彼らは高ぶり、酔いどれのようになってしまいました。自分たちは豊かになったから大丈夫だ。アッシリヤが攻めて来たって問題ない。何が攻めて来ても大丈夫。何の脅威も感じないと、鈍感な心になってしまったのです。主はこれを「酔いどれ」と呼んでおられます。酒を飲んで酔っぱらい、物事を正しく判断することができないように、そうした彼らのプライドが、自己過信が、彼らの心を酔いどれのように狂わせていたのです。

ヨハネの手紙第一2章16節をご覧ください。ここには「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」とあります。肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは御父から出たものではありません。それらはこの世から出たものです。特にエフライムにおいては、この暮らし向きの自慢がネックになっていました。それは御父から出たものではありません。この肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢を、自分たちの頼りにしていました。それらのものをまるで神のように頼りとしていたので、聞くべきことが聞けない状態になっていました。酔いどれになっていたのです。酔っぱらっている時には状況がわかりません。酔いどれの状態では現実が見えないのです。大丈夫、大丈夫、全然問題はない。おもしろおかしくヘラヘラ笑って日々過ごすわけですが、そのプライドは必ず打ち砕かれます。3節と4節に「エフライムの酔いどれの誇りとする冠は、足の下に踏みにじられ、肥えた谷の頂きにあって、これを美しく飾る花もしぼみ、夏前の初なりのいちじくの実のようになる。」とありますが、粉々に砕かれるのです。

それはこの時代も同じです。神はこの時代にも警告を発しておられます。私たちはそれに耳を貸さなければなりません。エフライムと同じ鉄を踏んではならないのです。私たちの中にも彼らと同じような自慢があるかもしれません。自分たちは大丈夫だと。何の脅威も感じない。テポドンが飛んできても怖くない。神様の言葉なんて聞かなくても十分楽しくやっていける・・・。それはエフライムと同じです。酔いどれの状態です。自分の状態が見えなくなっているのです。そのようなプライドは必ず砕かれます。私たちは神の声に耳を傾け、それに従順に従わなければならないのです。

5節と6節をご覧ください。しかし、そのようなエフライムにも、主は慰めを与えておられます。残りの者を用意しておられるという約束です。「その日、万軍の主は、民の残りの者にとって、美しい冠、栄えの飾り輪となり、さばきの座に着く者にとって、さばきの霊となり、攻撃して来る者を追い返す者にとって、力となられる。」

「その日」とは、世の終わりの患難時代とその後に続く千年王国のことを指しています。その日、万軍の主は、残りの者にとって、美しい冠、栄えの飾りの輪となります。エフライムの大多数の人たちは「酔いどれの誇り」として、神のさばきによって滅んでいきますが、神はその中にも残りの者を用意してくださり、彼らによって、美しい冠、栄えの飾り輪になるのです。6節はわかりずらい文章ですが、この残りの者たちは、主がさばきの霊となり、力となってくださるので、主の御声を聞いて物事を正しく判断できるようになるということです。酔いどれとは違います。酔いどれはわかりません。何が良いことで神に受け入れられることなのか、今、自分がどういう時代に生きているのか、どういう状況にいるのかを悟りません。酔っぱらっているからです。しかし、残りの者たちは違います。彼らは神のさばきの霊によって、また神の力によって、正しく判断することができるのです。私たちは残りの民です。自分の状態に自慢したり、過信することなく、ただひたすら主のみこころを求め、それを正しく判断するために、いつも目をさまし、神のことばに耳を傾ける者でありたいと願わされます。

Ⅱ.戒めに戒め、規則に規則(7-10)

次に、7節から9節までを見ていきましょう。まず7節と8節をご覧ください。ここには、「しかし、これらの者もまた、ぶどう酒のためによろめき、強い酒のためにふらつき、祭司も預言者も、強い酒のためによろめき、ぶどう酒のために混乱し、強い酒のためにふらつき、幻を見ながらよろめき、さばきを下すときよろける。どの食卓も吐いた汚物でいっぱいで、余す所もない。」    どういうことでしょうか?「しかし、これらの者もまた」とは、南ユダ王国の指導者たちのことです。エフライムだけではなく、南のユダも酔いどれの状態でした。祭司や預言者といった人たちは霊的リーダーでありながら、酔っぱらっているような状態だったのです。おそらく、彼らは祝い酒に酔っていたのでしょう。アラムとエフライムの連合軍が攻めてくるということを聞いて、彼らはアハズ王に、ただちにアッシリヤに援助を求めるように進言しました。そうすれば、南ユダは守られることでしょう・・・と。けれども、それは神のみこころではありませんでした。彼らはただ神にのみ信頼し、神の救いを待ち望むべきだったのに、人間的なものに頼ってしまいました。彼らの判断は間違っていたのです。なぜでしょう?酔っぱらっていたからです。確かに、そのことによってアッシリヤとの間に密約が交わされ、南ユダはアラムとエフライムの同盟軍から守られることになりましたが、その結果、今度はそのアッシリヤによって苦しめられることになるのです。昨日の友が今日の敵になるわけです。人間の社会はいつもそうです。人はみな自分に都合がいいように動くからです。そんなことも知らないで、ユダの霊的、宗教的指導者であった祭司や預言者は祝いの酒に酔っていました。そこに真の預言者であったイザヤが現れて、神のことばを告げました。彼らにとってイザヤの存在は、まさに目の上のたんこぶでした。イザヤは彼らに、「これらの者もまた、ぶどう酒のためによろめき、強い酒のためにふらつき、祭司も預言者も、強い酒のためによろめき、ぶどう酒のために混乱し、強い酒のためにふらつき、幻を見ながらよろめき、さばきを下すときよろける。」と告げました。

彼らは物事を霊的に判断し、正しくさばかなければならないという立場にあったのに、なんとそんな彼らまでも酔っぱらっていたのです。祭司や預言者までも強い酒のためによろめき、ぶどう酒のために混乱していました。強い酒のために、幻を見ながらよろめき、さばきを下す時によろけていたのです。牧師が酔っぱらって説教しているようなものです。

旧約聖書を見ると、律法では、祭司とか預言者といった霊的リーダーは酒を飲むことがで禁じられていました。レビ記10章9節を見ると、「会見の天幕に入って行くときには、あなたがたが死なないように、あなたも、あなたとともにいるあなたがたの子らも、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。これはあなたがたが代々守るべき永遠のおきてである。」とあります。祭司やレビ人など神に仕える者は、ぶどう酒や強い酒を飲んではいけなかったのです。なぜでしょうか?常に正しい判断、冷静な判断をするためです。アルコールが入ると正しい判断ができなくなります。なぜ飲酒運転をしてはいけないのでしょうか?アルコールが入ると正しい運転ができなくなるからです。そのことによって命に関わる大事故を引き起こしてしまう危険性があります。それは霊的にも同じことが言えます。アルコールが入ると判断を鈍らせてしまうのです。テモテ第一の手紙3章3節には、監督の資質が記されてありますが、その一つは酒飲みではないということです。「酒飲みではなく、暴力をふるわず、穏和で、争わず・・・」です。なぜ酒飲みではだめなのでしょうか?判断が鈍るからです。霊的リーダーであればなおさらのこと、ありとあらゆる局面で民の運命を預かっている者として、正しい判断が求められるわけですから、酔っぱらっていては正しい判断ができません。その結果、破壊と大きな悲劇をもたらすことになってしまいます。だから酒を飲んではいけないのです。

しかし、これは何も教会のリーダーだけに限ったことではありません。人の上に立つすべての人に求められていることです。家庭のリーダーであれば、家族を霊的にしっかりと守り、導いていくために酔っぱらっていてはいけません。職場で重要な立場にある都費が酔っぱらうと、破壊と悲劇をもたらします。いや、お酒はコミュニケーションの一つだ・・・と。酒がないと本音で話せないとか、酒を飲まないと人と向き合えないとか、憂さ晴らしができないという人がいますが、そういう人は既にお酒に飲まれているのです。そうでしょ。クリスチャンはお酒を飲まなくても本音で話せます。十分楽しいし、十分満たされています。ルンルンです。そうでしょう?酒を飲んで憂さ晴らししなくても、ストレス解消できるのです。聖書は禁欲主義を押しつけるものではありません。しかし、それ以上の祝福を約束しているのです。酒に酔わなくても、それ以上の喜びをもたらしてくれます。なのに酒を飲まなければ人生はつまらない。祭司や預言者といった霊的リーダーまでもが、ぶどう酒のためによろめき、強い酒のためにふらついていたのです。8節には、「どの食卓も吐いた汚物でいっぱいで、余す所もない。」状態でした。コンビニの駐車場みたいになってるわけです。

それだけではありません。彼らは次のように言っているのです。9節と10節です。「彼はだれに知識を教えようとしているのか。だれに啓示を悟らせようとしているのか。乳離れした子にか。乳房を離さない子にか。彼は言っている。『戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し』と。」

どういうことでしょうか?この「彼」とはイザヤのことです。イザヤの鋭い指摘に、酔いどれていた連中が激しく反発しているのです。「我々をいったいどなたと心得る。赤ん坊や幼子に教えるように語るなんて・・。我々が神の啓示を知らないとでも思っているのか。口を開けば、やれ戒めだの、それ規則だとばかりに、なんだかんだうるさいな。」と酔いがまわった口調でイザヤの教えはあまりにも単純で、幼稚だ、まるで子供に語っているようだと非難しているのです。

この「戒めに戒め、戒めに戒め。規則に規則、規則に規則」というのは、新共同訳ではヘブル語をそのまま表記しています。「ツァウ・ラ・ツァウ、ツァウ・ラ・ツァウ」です。「規則に規則」は「カウ・ラ・カウ、カウ・ラ・カウ」です。同じことばが並んでいます。実に単純明快です。それは幼子にもわかります。それでイザヤの教え方はレベルが低いとバカにしているわけです。実に幼稚でくだらない・・・と。これは実に興味深いことですね。この祭司や預言者たちは幻を見ながら酔っぱらい、さばきを下しながら酔い潰れていたのに、もっと高尚なことを語れと言っていたのですから。

テモテ第二の手紙4章1節から5節までを開いてください。そこには次のようにあります。「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」

世の終わりが近くなると、イザヤの時代の祭司や預言者たちのような人が現れます。健全な教えに耳を貸そうとしません。みな自分に都合のいいことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、教師たちを自分たちのために寄せ集めようとするのです。そして真理から耳を背け、空想話にそれて行くような時代になるのです。ただ単純に聖書に書いてあることを聞くというのは幼稚だと言うのです。もっと自分たちに都合のいいような話、欲望を満たしてくれるような話、自己実現をもたらしてくれるような、そういう話を聞きたい。どうしたら成功した輝いた人生を送ることができるのか、そういう話が聞きたいのです。世の終わりにはそういう人たちでいっぱいになります。だから教会にも行きません。聖書の話はあまりにも単純すぎる。退屈だ。もっと刺激的で、感動的な話が聞きたい。1分間の深いいい話です。30分の退屈な話はいいのです。3分でいい。グットくる、深い話が聞きたいのです。しかし、聖書はそのまま読んでいくのに値するものです。なぜなら、聖書は聖霊によって書かれてものだからです。ちょいとそこらの人が書いたのとは違います。聖霊なる神によって書かれたものなのです。その聖霊によって私たちの欠けが示され、戒めを受け、思いが変えられ、よって行動が変えられるのです。

アメリカ第16代大統領のアブラハム・リンカーンは、「聖書は、神が人間に賜った最もすばらしい賜物である。人間の幸福にとって望ましいものはすべて聖書の中に含まれている」と言いました。それはこの聖書の著者が人間ではなく、この生けるまことの神だからなのです。どんなにつまらないようで退屈な話のようでも、これこそが真理であり、私たちにいのちをもたらしてくれるものなのです。

イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。だれもわたしを通してでなければ、だれ一人父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)と言われました。イエス様が道であり、真理であり、いのちなのです。もしあなたがいのちをいただきたければ、イエスのもとに行かなければなりません。もしあなたが父なる神のもとに行きたければ、イエスを信じなければなりません。それを提供してくれるのが聖書なのです。

パウロは、高尚な知恵を求めて彼のことを見下げていたコリントの教会に対して、次のように言いました。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。」(Ⅰコリント1:18-20)

皆さん、真理は単純なのです。そんなに複雑ではありません。十字架のことばは滅びに至人たちには愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です。十字架のことばである聖書そのものを読んでいかなければなりません。そこから教えられていく。それで十分です。これが私たちに必要とされていることなのです。    私たちは自分の生活に何らかの危機が迫ると、神のことばよりも何らかの解決策を求めます。すぐに専門家に相談するとか、だれかの助けを借りようとするとかして、何らかの手立てを講じるわけです。そのこと自体は問題ではありませんが、その前にしなければならないことがあります。神に聞くことです。自分の力や知恵に頼もうとしないで、神に聞かなければなりません。神は何と言っておられるのか?その神の御声を聞かなければならないのです。そうでないと、虚しい結果に終わってしまいます。ですから、「戒めに戒め、規則に規則」で十分です。神のことばに聞くなら、あなたは必ず変えられます。そこに神の力が働くからです。

Ⅲ.ここにいこいがある(11-13)

最後に11節から13節までを見ていきましょう。「まことに主は、もつれた舌で、外国のことばで、この民に語られる。主は、彼らに「ここにいこいがある。疲れた者をいこわせよ。ここに休みがある」と仰せられたのに、彼らは聞こうとはしなかった。主は彼らに告げられる。「戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し。」これは、彼らが歩くとき、うしろざまに倒れ、手足を折られ、わなにかかって捕らえられるためである。」

おもしろいですね。イザヤを批判するユダの霊的リーダーたちに対して、主は彼らのことばを引用してさばきを発しておられるのです。「もつれた舌」とか、「外国のことば」とは、彼らが理解できない言葉です。意味不明の言葉です。その言葉で語られました。これはいったいどういうことでしょうか?第一義的に、これはアッシリヤのことを指していると思われます。何を言っているのかわからない、意味不明の言葉を語る者をもってさばきを行うということです。申命記28章49節に、次のようなことばがあります。「主は、遠く地の果てから、鷲が飛びかかるように、一つの国民にあなたを襲わせる。その話すことばがあなたにはわからない国民である。」これは、主がモーセを通して語られた言葉です。主は、遠く地の果てから、鷲が飛びかかるように、一つの国民にあなたを襲わせるのです。その国民は、彼らにとってその話していることばがわからない国民です。それはアッシリヤであり、バビロンであり、ローマです。そうした国に襲われようになるわけです。それがもつれた舌、外国の言葉で語られるということです。神は彼らに「ここにいこいがある。疲れた者をいこわせよ。ここに休みがある」と語られたにもかかわらず、それを聞こうとしなかったので、神はそうした国々にによってさばこうとされたのです。

ところが、このことばがコリント人への第一の手紙14章に引用されているのです。14章21節です。開いてみたいと思います。「律法にこう書いてあります。「『わたしは、異なった舌により、異国の人のくちびるによってこの民に語るが、彼らはなおわたしの言うことを聞き入れない』と主は言われる。」ここで引用されているわけです。これはどのような文脈で語られているのかというと、異言という御霊の賜物についての説明の中で用いられているのです。異言というのは御霊の賜物の一つですが、人が理解できない言葉です。4節には「異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます」とあります。異言は個人的なものです。自分の徳を高めます。預言は教会の徳を高めます。教会全体を建て上げるために用いられますが、異言は違います。異言は自分の徳を高めるのです。魂が疲れているとき異言で祈ったらいやされます。異言で賛美したら解放されるのです。異言は自分の言葉ではなく霊の言葉です。霊で祈り、霊で賛美します。時々、私たちはどのように祈ったらいいかわからない時があります。祈りたいんだけども言葉が出て来ない。祈りたいんだけれども言葉がみつからない。そういう時に、この異言の賜物が発揮されます。どんなに疲れていても勝手にくちびるが動きます。勝手に神を賛美するのです。ここにいこいがあります。知性においても祈りますが、霊においても祈るのです。通常私たちは知性において祈り、知性において賛美しますが、異言の賜物が与えられると、霊においても祈れるのです。ですから、どんなに疲れていてもいこうことができるのです。

ところが、これは霊の言葉なので一般には理解できません。ですから、23節にあるように、もし教会全体が一か所に集まって、みなが異言を話すとしたら、初心の者とか信者でない者とかが入って来たとき、彼らはあなたがたを、気が狂っていると思ってしまいます。ですから異言を話すとしたら、ふたりか、多くても三人で順番に話すべきで、一人は説き明かしをしなければなりません。もしだれも説き明かす者がいなければ、教会では黙っていなければならないのです。気が狂っていると思われて、そうした人たちの妨げ、つまずきになってしまうからです。では、いったい異言は何ために与えられているのでしょうか。22節を見てください。ここには、「それで、異言は信者のためのしるしではなく、不信者のためのしるしです。けれども、預言は不信者でなく、信者のためのしるしです。」とあります。それは信者のためのしるしではなく、不信者のためのしるしです。ちょっと待ってください。23節には「初心者とか信者でない者とかが入って来たとき、彼らはあなたがたを、気が来るっていると思ってしまうから、教会全体が一箇所に集まっている時には異言を話さないようにと言われていたのに、ここではその「不信者のためのしるし」だというのです。いったいこれはどういうことでしょうか?

そこで、このことを理解するために文脈をよく見なければなりません。これはどういう文脈の中で言われているのかというと、21節でイザヤ書のことばが引用されている中で語られているのです。つまりこの「不信者」というのは「初心の者」とか、「信者でない者」のことではなく、イザヤ書で語られているところの「わたしの言うことを聞き入れない」人たちのことです。つまり、神のことを信じていない人たち、聖霊の賜物も信じていない人たちのことです。イザヤ書の中で言えば、酔っぱらった祭司や預言者たちのことです。そういう人たちにはもつれた舌で語られる必要がありました。外国の言葉で語られる必要があったのです。それによって彼らがショックを起こし、目が開かれるようになるためです。ですから、この不信者というのは初心者とか、信者でない者ではなく、神を信じていてもそのことばを信じない人たち、聞こうとしない人たちのことだったのです。

そういう人たちにはいこいはありません。そういう人たちはいつも人間的になります。そこに生きて働いておられる神が認められないのです。まことの救い、まことのいのち、まことのいやし、まことのやすらぎはここにあります。イエス・キリストにあります。主はそのように語っておられます。それを信じなければならないのです。

マタイの福音書11章28節から30節をご覧ください。ここには、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」とあります。これは日本の教会で案内板に最も多く掲げられているみことばです。「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」あなたは信じますか。イエス様のところに行くなら、本当のやすらぎがあります。イエス様のところに行き、イエスのくびきを負い、イエス様から学ぶなら、あなたはいこいが得られるのです。たとえあなたが異言の賜物が与えられていなくてもイエス様のもとに行くなら、 いこいが与えられるのです。問題は、あなたが神の言葉に聞くかどうかです。神のことばを信じて従うかどうかなのです。イエス様のもとで、イエス様のくびきを負い、イエスから学ぶなら、あなたには安らぎが来ます。なのにプライドのために受け入れられなかったり、自分の思いが強すぎて、神のみことばに聞こうとしなければ、やずらぎは来ません。私たちに必要なのは、「戒めに戒め、規則に規則」です。単純にみことばに聞くことです。神に信頼することです。そうすれば、やすらぎが来る。いこいがあります。十字架のことば、救いのことば、神のみことばに信頼を寄せ、主イエスから学ぶ者でありたいと思います。

イザヤ書27章1~13節 「麗しいぶどう畑の歌」

きょうは、イザヤ書27章から学びたいと思います。タイトルは「麗しいぶどう畑の歌」です。24章から世の終わりに世界レベルでどんなことが起こるのかについて語ってきたイザヤは、25章と26章で残りの者たちの歌について語りました。きょうの27章は、その続きです。ここでは残りの者たちの歌ではなく、逆に神がイスラエルのために歌う歌が記録されています。それが「麗しいぶどう畑の歌です。きょうは、この麗しいぶどう畑であるイスラエルの回復について三つのポイントでお話したいと思います。

Ⅰ.麗しいぶどう畑(1-6)

まず1節から6節までを見ていきたいと思います。1節です。ここには、「その日、主は、鋭い大きな強い剣で、逃げ惑う蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいる竜を殺される。」とあります。

これは26章20節と21節のカテゴリーに入れるべき内容です。26章20節では神の民であるイスラエル、その残りの者に、「憤りが過ぎるまで、ほんのしばらく、身を隠せ。」と語られました。神の怒りとさばきが下るからです。キリストは今から二千年前に来られた時は救い主として来られましたが、世の終わりに再びこられる時にはさばき主として来られます。主の救いを信じない人たちをことごとくさばかれ、もう、その罪をおおうことはしない、そういう時がやって来るのです。しかし、神の民であるクリスチャンはそうではありません。そうした激しい神のさばきの中にあっても、神の救いと守りがあるのです。その流れの中で、このことばが語られているわけです。

その日、主は、鋭い大きな強い剣で、逃げまどう蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいる竜を殺されます。逃げまどう蛇レビヤタンとか、曲がりくねる蛇レビヤタン、海にいる竜とはいったい何でしょうか?「海にいる竜」とはヘブル語で「タニーム」という言葉ですが、旧約聖書にはいろいろな言葉で訳されています。この言葉が最初に出てくるのは創世記1章21節です。ここでは「海の巨獣」と訳されています。すなわちこの「タニーム」というのは巨大な生き物、恐竜のことなのです。そして「レビヤタン」とはその一種です。詩篇74篇13節と14節には、この「海の巨獣」と「レビヤタン」という固有名詞が並記されて出ています。またヨブ記41章には、このレビヤタンがどのようなものなのかについての説明があります。すなわち、釣り針で釣り上げられるものではなく、やすでその頭に十分に突くことなどできない巨大な生き物で、それを見ただけで投げ倒されてしまうほど恐ろしい生き物であるということです。

もちろん、ここでは象徴的に使われています。何の象徴かというと、神に敵対する悪の勢力です。イザヤの時代背景で言えば、それはアッシリヤのことであり、またバビロンのことであり、エジプトのことです。すなわち、神の民であったイスラエルを脅かしていた勢力です。これが未来預言、終末との関係で言うと、悪魔、サタンのことであり、反キリストのことになるのです。黙示録12章9節を開いてください。ここには、「こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされ、彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。」とあります。この「巨大な竜」は悪魔とか、サタンとか呼ばれていて、古い蛇とも言われています。また、13章1節には、「また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。」とあります。これは反キリストのことです。反キリストは一匹の獣と言われているように獣のような存在で、神に汚しごとを言って三年半の間ひどいことをするわけです。その額には象徴的な数字が刻印されています。それは666です。これは悪魔の数字、反キリストの数字です。ここには「海から一匹の獣が上ってきた」とあるので、多くの学者はこれはヨーロッパから出てくると考えています。この海とは地中海のことを指しているからです。しかし、これだけでそのように断定するのは危険だと思います。ただこの獣と言われているのが反キリストのことであるのは間違いありません。やがて世の終わりには、こうした悪魔、サタン、反キリストといった神に敵対する勢力が猛威をふるいますが、主は鋭い剣でこれらを殺されます。このような勝利が約束されているのです。

次に2節から6節までを見てください。ここには、世の終わりにイスラエルがどのように回復されるのかという預言が記されてあります。「その日、麗しいぶどう畑、これについて歌え。わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている。わたしはもう怒らない。もしも、いばらとおどろが、わたしと戦えば、わたしはそれを踏みつぶし、それをみな焼き払う。しかし、もし、わたしのとりでにたよりたければ、わたしと和を結ぶがよい。和をわたしと結ぶがよい。時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす。」

2節の「麗しいぶどう畑」とはイスラエルのことです。前にもイスラエルをぶどう畑と呼んでいる記述がありました。5章です。神様はこのぶどう畑に良いぶどうの苗を植えたのに実ったのは酸いぶどうでした。甘いぶどうではありません。酸っぱいぶどうです。腐って食べられないような毒ぶどうです。そういうぶどうがなりました。そこで神はそのぶどう畑をどうしたかというと、その垣根を取り除き、石垣をくずして、踏みつけるままにすると言われました。もう荒れ放題です。そのようにして滅びるままにすると言われたのです。

しかし、ここでは違います。ここでは「麗しいぶどう畑」とあります。イスラエルが良い実を結び、神がそれを喜んでおられるのです。3節と4節には、「わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている。わたしはもう怒らない。もしも、いばらとおどろが、わたしと戦えば、わたしはそれを踏みつぶし、それをみな焼き払う。」とあります。もうさばかれるとはありません。もしイスラエルに敵対する者があれば、神が守ってくださいます。いばらとおどろとはのろいとさばきの象徴ですが、そのようなものが来れば、神が踏みつぶし、焼き払ってくださいます。神の怒りはイエス様が十字架で負ってくださったので、私たちは救われているのです。私たちは神の怒りの対象ではありません。決してさばかれることはありません。もう神の怒りを恐れる必要はないのです。私たちには神の完全な守りがあるのです。

ですから、大切なのは5節にあるように、神と和解することです。ここには「わたしと和を結ぶがよい。和をわたしと結ぶがよい。」とあります。これまでは他の国と和平条約を結んだり、貢ぎ物を納めたりして自分たちを守ってきましたが、そうした人間的なものは全く役に立ちません。人間の努力は何の解決ももたらさないのです。まことの解決はイエス・キリストだけです。イエス・キリストによってのみ神と和解して、神との平和を持つことができるのです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒4:12)

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

イエス様だけが道であり、真理であり、いのちです。この方によってでなければ、だれひとり父のみもとに行くことはできません。イエス・キリストによってのみ罪の赦しが与えられ、神との平和がもたらされるのです。もし神との和解がなかったら平安がありません。常に罪責感に悩まされ不安になります。死んだら天国に行けないかもしれない。地獄に行ったらどうしよう・・・と悩むのです。本当に天国に行けるかどうかわからず、死ぬのが怖くなります。しかし、イエス・キリストを信じて神と和解した人は、すべての罪が赦されます。もう罪に悩むことはありません。私たちの罪はイエス様が十字架で負ってくださったので、このイエスによって大胆に神のみもとに行くことができるのです。私たちはもはや神の怒りの対象ではありません。神の愛の対象になったのです。「アバ、父」「おとうちゃん」と言って父の胸の中に飛び込んで行くことができるのです。神が私たちの味方になってくださったので、私たちは何も恐れる必要はないのです。なぜなら、だれも私たちに敵対することができないからです。これこそグッド・ニュースではないでしょうか。だから神は、「わたしと和を結ぶがよい」と言っているのです。あなたは何と和を結ぼうとしていますか?何によって自分を守ろうとしていますか?ほんとうの解決は神にあります。神と和を結んでください。神と和を結ぶことによって、だれによってもそこなわれることがないように、神が見守ってくださるのです。

そればかりではありません。6節を見ると、神はそのような人を豊かに祝福してくださるとがわかります。ここには、「時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす。」とあります。皆さん、時が来れば、実を結ぶのです。そのためにはまず根を張らなければなりません。地中深く根を張っていくのです。そうすると芽を出し、花を咲かせ、実を結ぶようになります。ここではただ実を結ぶようになるというのではなく、世界の面に実を満たすとあります。その実を世界中に満たすようになるわけです。

まさにイスラエルはそうでした。1948年に独立してイスラエル共和国となるまでは、そこは全くの不毛地帯でした。何もない砂漠だったのです。しかし、1900年代初頭から世界中に散らばっていたユダヤ人が祖国の土地に帰り根を張ると、多くの花を咲かせ、世界の面を実で満たしていきました。今日イスラエルは農業の最先進国です。そこではハイテク農法が行われ、わずかな水で効果的に養分を与える技術を開発し、多くの収穫を得ています。農作物の自給率は何と93%です。日本の50倍の生産力です。そして多くの農作物を世界中に輸出するまでになりました。1948年に建国以来、わずか20年で輸出するまでになったことに、世界中が驚きました。ここには花とか実とありますが、これは文字通りの花や実(フルーツ)のことでもあります。花の輸出量は世界第四位、フルーツの輸出量は世界第三位です。主にスイーティーとかシャロンフルーツといった種なし柿ですが、ヨーロッパを中心に世界中に輸出しているのです。それほど祝福されているのです。なぜでしょう。神と和を結んだからです。神が彼らを守っていてくださるからです。世の終わりにはそれがもっと顕著になってくるでしょう。

しかし、ここで注意しなければならないのは、そのためには忍耐が必要であるということです。ここには「時が来れば」とあります。実を結ぶには時が必要なのです。即席ではできません。じっと待たなければなりません。ヤコブの手紙5章7節と8節に、「こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。」とあります。待たなければならないのです。農家の方はそのことがよくわかっています。私はそういう経験がないのでよく失敗します。待つことができません。待つことが苦手なのです。カップラーメンでも3分がとても長く感じられます。すぐに食べたくなります。まだ花が咲いていないのに実をもぎ取ろうとして失敗するのです。しかし、収穫には時間がかかります。種を蒔いて、芽が出て、花が咲いて、しっかりと実を結ぶまで待たなければなりません。

「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」(ピリピ1:6)

私たちは自分の姿を見て、イエス様を信じてもちっとも変わらないじゃないかとか、どうしていつまでも同じ生活をしていなければならないんだと思うことがありますが、しかし、あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださいます。まずは種を蒔いて、それから根です。しっかりと根を張りましょう。そうすれば芽が出てきます。それが花となって、実になるのです。下に根を張り、上に実を結ぶのです。ものには順序があります。時間がかかります。しかし、時がくれば必ず実を結ぶのです。そのことを覚えて耐え忍び、みことばの糧を与え続けましょう。そうすれば必ず実を結ぶようになるのです。

Ⅱ.神の懲らしめがある(7-11)

それだけではありません。7節から11節を見ると、神の懲らしめがあることがわかります。7節をご覧ください。ここには「主は、イスラエルを打った者を打つように、イスラエルを打たれただろうか。あるいは、イスラエルを殺した者を殺すように、イスラエルを殺されただろうか。」とあります。

これは、異邦の国々に対する神のさばきと、イスラエルを懲らしめる時の神のさばきの違いを述べています。アッシリヤやバビロンがイスラエルを打ちましたが、それは神がアッシリヤやバビロンを打ったのとは訳が違います。アッシリヤやバビロンには完全な滅びが宣告されましたが、イスラエルはそうではありません。イスラエルが完全に滅ぼされることはないのです。そこに残りの民を残してくださり、その民によってやがて回復できるようにと、神の救いとあわれみが注がれていました。イスラエルが永遠に滅ぼされることはありません。なぜでしょうか?神の契約の民だからです。確かに罪の結果を刈り取らなければなりまん。しかし、それは彼らを滅ぼすことが目的なのではなく、彼らを救うことが目的なのです。そのように懲らしめることによって彼らが悔い改め、救われることを神は望んでおられるのです。

主はラオデキヤの教会に次のように言われました。「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」(黙示録3:19)主は愛する者をしかったり、懲らしめたりするのです。もし叱ったり、懲らしめたりすることがないとしたらどうでしょう。ヘブル人への手紙によると、もしそういうことがあるとしたら、それはほんとうの子ではなく、私生児なのです。主は愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのです。

作家の大江健三郎さんは造詣の深い小説を書くことで有名ですが、彼のそうした小説はいったいどこから生まれてきたのでしょうか?それは彼の脳性マヒの息子のおかげだと言われています。人々は、一人では何もできない子どもを指して、彼は人生のお荷物だと言いました。しかし、大江健三郎さんはこう言いました。「もし私にこの面倒をみなければならない子どもがいなかったら、私は今このような作家になることはできなかったでしょう。私はこの子の世話をしながら、人の心の深い痛みが何であるかを理解し、見ることができるようになりました。」彼の痛みであった息子が彼の洞察力を深めるための祝福になったのです。神は愛する者を叱ったり、懲らしめたりするのです。短絡的に祝福だの呪いだのと語らないでください。神の目線で、信仰の目線で見るならば、今まで見ることができなかった、たくさんの価値を見ることができるのです。

その具体的な懲らしめとはどんなものだったのでしょうか?8節に、「あなたは彼らを追い立て、追い出し、彼らと争い、東風の日、激しい風で彼らを追放された。」とあります。この東風とはアッシリヤとかバビロンを指します。アッシリヤによる侵略やバビロン捕囚のことです。あるいは、ローマによって全世界に散らされたことも指しています。彼らはまことの神ではなく偶像に頼ったので、神は彼らを約束の地から追放されました。それは彼らにとって激しい苦難の経験でした。しかし、それは彼らを絶滅させるさばきではなく、むしろ彼らを懲らしめて、罪を正しく悔い改めるように導き、主に立ち返らせるためだったのです。主の救い、主の贖いを得させるためだったのです。

その結果が9節です。「それゆえ、次のことによってヤコブの不義は赦される。祭壇のすべての石を粉々にされた石灰のようにし、アシェラ像と香の台をもう立てなくすること、これが、自分の罪を除いて得られる報酬のすべてだ。」  祭壇のすべての石を粉々にされた石灰のようにするとか、アシェラ像と香の台をもう立てないようにするとは、根底から悔い改めるということです。これまでこうした偶像によって全く生産性のない人生を歩んでいました。何の実も結ばなかったわけです。それを根底から悔い改め、根底からやり直すなら、神はその人の不義を取り除いてくださいます。その罪は赦され、全く新しい人生を始めることができるようにしてくださるのです。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られるのです。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなります。キリストにある新しい人生を始めていくことができるのです。これまでいろいろな偶像に支配されていた人もやり直すことができます。イスラエルが神のあわれみによってその不義が赦されたように、あなたの人生も同じようにしてくださるのです。あなたもイスラエルになれるのです。イスラエルとは神に支配された人という意味ですから・・。罪を悔い改めてイエス・キリストを信じるなら、イスラエルになれるのです。罪によって荒廃した心が、神の霊、聖霊に満たされるのです。そのために神は懲らしめを用いられるのです。

10節と11節は、アッシリヤ、あるいはバビロンによって打たれ、荒廃したイスラエルの様子が描かれています。「城壁のある町は、ひとり寂しく、ほおっておかれる牧場のようになり、荒野のように見捨てられる。」ようになります。「子牛はそこで草をはみ、そこに伏して、木の枝を食い尽くす。」のです。「その大枝が枯れると、それは折られ、女たちが来てこれを燃やす。これは悟りのない民だからだ。それゆえ、これを造った方は、これをあわれまず、これを形造った方は、これに恵みを与えない。    Ⅲ.神はイスラエルを回復させてくださる(12-13)

しかし、これはあくまでもイスラエルを懲らしめたるためです。こうした懲らしめによって彼らが神に立ち返るとき、神は彼らを回復させてくださいます。それが12節と13節に書かれてあることです。「その日、主はユーフラテス川からエジプト川までの穀物の穂を打ち落とされる。イスラエルの子らよ。あなたがたは、ひとりひとり拾い上げられる。その日、大きな角笛が鳴り渡り、アッシリヤの地に失われていた者や、エジプトの地に散らされていた者たちが来て、エルサレムの聖なる山で、主を礼拝する。」

ユーフラテス川からエジプト川までというのは、アッシリヤからエジプトまでを指します。それはダビデがユダを治めていた時の領土であり、理想的な国境線を指し示す表現です。かつて神はアブラハムに、このエジプトの川からユーフラテス川までを、その子孫に与えると約束されました。(創世記15:18)その領土を回復し、一人も見落とすことなく、すべてのイスラエルを集められます。畑に落ちた穂を拾い集めるように、神は諸国に散ったご自身の民をひとりひとり拾い上げられ、エルサレムに連れてくるのです。

そればかりではありません。その日、大きな角笛が鳴り渡り、アッシリヤの地に失われていた者や、エジプトの地に散らされていた者たちが来て、エルサレムの聖なる山で、主を礼拝するようになります。これはその地に散らされていたユダヤ人のことを指していますが、同時にそれは、アッシリヤとエジプトの地で失われていた人たちのことを指しています。すなわち、イスラエルだけでなく、そうした異邦人の中にも主に立ち返る人が起こされ、イスラエルと共に主をほめたたえるようになるということです。19章24節25節をご覧ください。ここには、「その日、イスラエルはエジプトとアッシリヤと並んで、第三のものとなり、大地の真ん中で祝福を受ける。万軍の主は祝福して言われる。「わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように。」とあります。このみことばが成就するのです。わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように。そうした人たちもイスラエルと和睦して、神の祝福を受けるようになるのです。何とスケールの大きな神の祝福でありましょう。    私たちにはそのような回復の希望が約束されているのです。今はそのかけらも見えないような現実の中で、しばしの間うめき、苦しむこともありますが、やがて神の民であるクリスチャンには、このような回復と祝福がもたらされるのです。私たちにとってこの世での生活も大切ですが、これから先の永遠のことはもっと重要です。その永遠において私たちが受けるのは、こうした祝福です。ですから私たちは、究極的な望みを神の国に置かなければなりません。その望みがあるからこそ、今、力強く生きることができるのです。時が来れば、実を結ぶようになるという約束に信頼し、しっかりと根を張っていきましょう。やがて芽が出て、花が咲きますから。下に根を張り、上に実を結ぶ。それが私たちの信仰なのです。

イザヤ書26章7~21節 「義人の道」

きょうは、イザヤ書26章後半部分からお話したいと思います。タイトルは「義人の道」です。1節を見ると、「その日、ユダの国でこの歌が歌われる」とあります。「その日」とは、イザヤ書におけるキーワードの一つですが、世の終わりの千年王国のことです。その千年王国で歌われる歌が、ここに記されてあるわけです。前回はその最初の部分から、誠実を守る正しい民に、神の救いが城壁であり、塁である都に入らせていただけるということを見ました。神の救いが城壁なので、そこはシャローム、シャロームです。そこには全き平安があるわけです。 そして、きょうのところでは、世の終わりの神のさばきにおいて、正しい者に対する主の守りがどのようなものなのかが歌われています。きょうは「義人の道」について三つのポイントでお話したいと思います。

Ⅰ.義人の道は平です(7-11)

まず第一に、7節から11節を見ていきたいと思います。7節には、「義人の道は平らです。あなたは義人の道筋をならして平らにされます。」とあります。義人の道は平ですとは、義人の道はまっすぐであるということです。でこぼこそしいません。まつすぐです。それは義人の道には何の障害や困難もないということではなく、そうした障害や困難があっても主がその道をならして平にしてくださるので、つまずき倒れたり迷ったりすることないということです。

星野富弘さんの詩の中に「鈴の鳴る道」という詩があります。車椅子ででこぼこ道を通るのは大変でうんざりしていましたが、ある時、車椅子に鈴をぶらさげていたら、そのでこぼこ道で揺れるたびにチリン、チリンと鳴って、それが心を和ませました。そしたら、それまで嫌気がさしていた“でこぼこ道”が楽しくなった!と言います。主が義人の道をならして平にされるというのは、こういうことです。私たちの道はある意味でこのようなでこぼこな道かもしれませんが、主が平にして目的地まで導いてくださいます。そう信じて、この道を迂回せずに歩いていきたいものです。

ところで、義人とはどういう人のことを言うのでしょうか?8節と9節には次のようにあります。「主よ。まことにあなたのさばきの道で、私たちはあなたを待ち望み、私たちのたましいは、あなたの御名、あなたの呼び名を慕います。私のたましいは、夜あなたを慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます。あなたのさばきが地に行われるとき、世界の住民は義を学んだからです。」

「義人」という言葉を聞くと、私たちは何一つ悪いことをしたことのない正しい人というイメージがありますが、聖書が言っている義人とはそういう人のことではありません。聖書が言っている義人とは、イエス・キリストを信じて救われた人のことです。なぜなら、義人はいない。ひとりもいないからです。すべての人が迷い出て、すべての人がみな、無益な者となりました。ですから、善を行う人は、ひとりもいないのです。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神は恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23)

そして、ここには義人の性質が記されてあります。それは主を慕い求める人です。「主よ。まことにあなたのさばきの道で、私たちはあなたを待ち望み、私たちのたましいは、あなたの御名、あなたの呼び名を慕います。」9節には、「わたしのたましいは、夜あなたを慕います。」とあります。つまり、「義人」とは自分自身が正しい人ではなく、どのような状態であっても神を慕い求める人のことなのです。

ここには「夜あなたを慕います。」とあります。「夜」は、反省の時であり、孤独の時です。あるいは暗やみと悩みの時です。そんな夜でも神を慕うというのは、いつでも神を慕い求めるということです。「まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます。」とあります。これは「早くに」ということです。「朝早くから求めます」ということです。朝早くから夜遅くまで求めます。つまり、いつでも求めることです。それが義人の姿です。皆さんはどうでしょうか?

イエス様は、「義に飢え渇いている人は幸いです。その人は満ち足りるからです。」(マタイ5:6)と言われました。私たちはまず始めにみことばによって自分の罪が示されたので、その罪を悔い改め、神の救いをいただきました。そこで罪の赦しを経験したのです。しかし、それで終わりではありません。そのように信仰によって義と認められた人は、今度は実際に義となる日、救いが完成する日を待ち望みます。それがイエス・キリストの再臨です。キリストが再臨されるとき私たちは復活のからだ、栄光のからだによみがえります。救いが完成します。その日を切に祈り求めなければならないのです。そういう人が満ち足りるようになるのです。

しかし、悪者はそうではありません。10節と11節をご覧ください。ここには、「悪者はあわれみを示されても、義を学びません。正直の地で不正をし、主のご威光を見ようともしません。主よ。あなたの御手が上げられても、彼らは認めません。どうか彼らが、この民へのあなたの熱心を認めて恥じますように。まことに火が、あなたに逆らう者をなめ尽くしますように。」とあります。彼らはあわれみを示されても、義を学ばないのです。彼らは罪を犯すから悪者なのではありません。神のあわれみを示されても義を学ばないので悪者なのです。

皆さん、神様はあわれみ深い方です。神様は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせて下さいます。悪者を直ちにさばいて滅ぼすようなことはしません。正しい人にも正しくない人にも恵みを与えて養ってくださるのです。しかし、そのように恵んでくださるのは何のためなのでしょうか。それはひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われるようになるためです。いつかそれには限界があることを覚えておかなければなりません。うしろの戸が閉ざされる時がやってきます。こうした神の慈愛をないがしろにして、神の忍耐を軽んじるなら、そのような人には神の怒りが下されるということを覚悟しなければなりません。それが世の終わりの患難時代に注がれる神のさはぎです。具体的には黙示録6章から19章に記されてある内容です。

最近、日本人の高ぶりということがよく言われます。第二次世界大戦に負けた日本は飢えの辛さは経験しましたが、そこから神のさばきもあわれみも学びませんでした。高度経済成長の波の中で物質的な豊かさを追い求めるも、たましいの豊かさを求めませんでした。その後も幾度も神は警告を発しておられますが、一向に神を見向きもしません。悪者はあわれみを示されてもそこから学ぼうとしないのです。そのような人には神の怒りが注がれるのです。

Ⅱ.義人の道には繁栄があります(12-15)

第二に、義人の道には繁栄があるということです。12節をご覧ください。ここには、「主よ。あなたは、私たちのために平和を備えておられます。私たちのなすすべてのわざも、あなたが私たちのためにしてくださったのですから。」とあります。

すばらしい賛美であり、すばらしい告白です。私たちには平和が備えられています。この平和については先週見てきました。この平和はただの平和ではありません。シャローム、シャロームです。全き平安です。そのような平和が備えられているのです。しかもそれは私たちの熱心によって勝ち取るものではありません。この平和は神の熱心によって、神が私たちのために備えてくださった平和です。平和の君であられるイエス様が、私たちのために成し遂げてくださいました。十字架の上で・・・。イエス様が十字架の上で死んでくださり、罪の処罰をしてくださったのです。イエス様は十字架の上で「完了した」と言われました。私たちがんばったからではなく、イエス様が罪の赦しのために必要な一切のことをしてくださったので、私たちはこの平和を受けることができるのです。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。」(エペソ2:8)

それはだれをも誇らせないためです。神が私たちに与えてくださった平和は、すべて神の贈り物、神の恵みによるものなのです。

ですから、イザヤはこう言っているのです。13節です。「私たちの神、主よ。あなた以外の多くの君主が、私たちを治めましたが、私たちは、ただあなたによってのみ、私たちは、ただあなたによってのみ、御名を唱えます。」    これまでユダヤ人はいろいろな君主たちによって支配されてきました。まずバビロンです。ユダはバビロンによって滅ぼされ、捕らえ移されました。そして、七十年の間捕らわれの身となっていたのです。しかし、神はペルシャの王クロスを立て、彼らを解放し、エルサレムへと帰還させました。しかし、バビロンに代わる別の君主が彼らを支配しました。それがペルシャであり、ギリシャであり、ローマです。このローマの時代にユダヤ人は国を追われ、世界中に散り散りになりました。イスラエルがイスラエル共和国として建国したのはつい最近のことなのです。1900年もの間、彼らは世界中をさまよっていたのです。そして、神の約束のとおり、神は世界中に散らされていたユダヤ人をパレスチナに集めてくださいました。それがイスラエル共和国です。1948年のことです。それは本当につい最近のことなのです。それまで多くの支配者によって、長い間支配されていましたが、世の終わりには、彼らを支配する人はだれもいません。ただ主だけが彼らを治めるのだというのです。

私たちはどうでしょうか?私たちも地上の国々の統治の中に生きています。いや、国の統治だけでなく、この世の支配、社会的な支配、慣習など、いろいろな支配の中に生きています。そのようなさまざまな支配の中に生きていますが、神のみが私たちを治めると告白したいものです。

パウロは、ローマ人への手紙6章16節から19節のところで次のように言っています。「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」

私たちは、かつては罪の奴隷として、罪の支配の中にありましたが、今は違います。今は罪から解放されて義の奴隷となりました。ですから神の義によって、神にだけ支配されて生きるものでなければならないのです。

ですから、イザヤは14節で次のように言っているのです。「死人は生き返りません。死者の霊はよみがえりません。それゆえ、あなたは彼らを罰して滅ぼし、彼らについてのすべての記憶を消し去られました。」どういうことでしょうか? 「死人は生き返りません。死者の霊はよみがえりません。」とは、終末における不信者の復活はないと解釈する方がおられますが、そういうことではありません。こうした多くの君主たちの勢力が、神に滅ぼされて全く再起不能にされるということです。コロサイ人への手紙1章13節をご覧ください。ここには「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」とあります。神は、私たちを縛っていたあらゆる罪の支配から救い出して、御子の支配の中に移してくださいました。もうそうした支配の中にはいないということです。これらのすべての記憶を消し去られましたとありますが、そうした記憶が全くないほどに完全に解放してくださったのです。何という平和でしょうか。まさに「シャローム、シャローム」です。完全な平和です。

それだけではありません。15節、「主よ。あなたはこの国民を増し加え、増し加えて、この国民に栄光を現し、この国のすべての境を広げられました。」どういうことですか?終末の時代には、神の民にとって脅威であったこれらの異教の国々は、全く記憶が消し去られるほど影もなくなりますが、逆に、神の民はどうなるかというと、栄えに栄えるというのです。主は、ご自身の民を増し加え、増し加えて、栄光を現し、すべての境を広げられるのです。

これは世の終わりの神の民の姿ですが、すべての圧政から救い出された私たちクリスチャンの姿でもあります。ですから、私たちは主イエスの救いにあずかった者として、同じ告白をすることができるのです。「主が、この私も増し加えてくださる。すべての境を広げてくださる。」そう告白していいのです。「いや、それは私の性分ではないから」とか、「私には大した能力はないから」と言って、小さくまとまってはいけないのです。私は本当に小さな者にすぎないが、神が私を救ってくださった。神が増し加えてくださる。この私を通して神の栄光を最大限に現すことかできるように。どうか、この私を最大限に広げてください。大きくしてください。私の中に凝り固まったものがあれば、どうかあなたが広げてください、と祈らなければなりません。

心理学者によると、私たちはいつも自分に語りかけながら生きていると言われています。私たちは他の人と会話をするとき、1分間に150個から200個の単語を使うそうです。ところが、私たちが自分と会話する時にはそんな程度ではありません。私たちが自分と会話する時には1分間に1,300個の単語を使うのです。どうやって調べたのかはわかりませんが・・・。  それで、いったいどんなことを自分と会話しているかというと、驚くべき事に、自分自身を卑下する会話を多くしているのです。自分を肯定するような会話よりも否定的な会話、自分を卑下するような会話をしているのです。皆さんも自分が一人で散歩している時のことを考えてみてください。大抵は「何であのときあんなことを言ってしまったんだろう」「何で優しくできないんだろう」というように、過去のことを思い出しては自分を責め、自分を卑下しながら会話しています。そうすると、さらに落ち込んで病気になってしまうのです。ですから元気になりたければ教会に来るのがいいのです。そうすれば考える余裕がありませんから・・・。一人で散歩していると落ち込みます。「何であんなことを・・」「なんでこんなことを」

けれども、そんな私たちを主イエスが暗やみの圧政から救い出してくださいました。私たちは罪の奴隷ではなく、義の奴隷になりました。私たちは、イエス・キリストによって新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。イエス・キリストにある新しい自分を見なければなりません。それは、やがて終わりのときにもたらしいくださる栄光の姿です。私たちはやがて神の子としてご自身の栄光を現す者になりました。そのようなキリストにある自分の姿を見ていかなければならないのです。キリストにある自分として、神のみことばに満ち溢れ、神のみことばによって永遠のいのちを受けた神の子どもらしい健全な思いを抱かなければならないのです。

歴代誌I4章9節に「ヤベツ」という人物が登場します。「ヤベツ」という名前の意味は「痛み、悲しみ、苦しみ、」を表わしています。母親が彼の名前を「ヤベツ、悲しみ」と名づけたのは、悲しみのうちにこの子を産んだからでした。おそらく、ヤベツが生まれた時には、父親が亡くなっていたのでしょう。ヤベツの母親は、まだ、夫を亡くした悲しみの中にあったのかもしれません。夫を亡くし経済的にも、精神的にも大変な苦しみ、悲しみの中で、子どもを産み、育てなければならなかったのかもしれません。ともかく、彼は逆境の中に生まれました。生まれながらにして彼は、家庭的に重いハンディキャップを背負わされたのです。ヤベツは心の中に大きな傷を負い、思春期には、自分の名前を呼ばれる度に、悩んだかもしれません。「悲しみ君、苦しみ君」と呼ばれたはずですから、ばかにされないはずがありません。しかし、そんな彼が兄弟たちよりも重んじられたのです。なぜでしょう。それは10節にあるように彼が神様に祈り、そしてその祈りに神様が答えられたからです。ただそれだけの理由です。ヤベツはこう祈ったのです。

「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」(I歴代誌4:10)

この祈りに神が答えてくださいました。神は彼の願ったことをかなえられたので、彼は祝福されたのです。私たちもこのように祈るべきではないでしょうか。私たちはかつて罪の中にあった悲しみ君であり、苦しみさんでした。しかし、今はそこから解放されてキリストにある者とされたのです。それゆえに神にこう祈ることが許されているのです。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。」「主よ。あなたはこの国民を増し加え、増し加えて、この国民に栄光を現し、この国のすべての境を広げられました。」と。

Ⅲ.義人の道には守りがあります(16-21)

第三のことは、義人の道には守りがあるということです。16節から18節までをご覧ください。ここには、ここには、「主よ。苦難の時に、彼らはあなたを求め、あなたが彼らを懲らしめられたので、彼らは祈ってつぶやきました。子を産む時が近づいて、そのひどい痛みに、苦しみ叫ぶ妊婦のように。主よ。私たちは御前にそのようでした。私たちはみごもり、産みの苦しみをしましたが、それはあたかも、風を産んだようなものでした。私たちは救いを地にもたらさず、世界の住民はもう生まれません。」とあります。

イザヤはこれまでイスラエルの栄光について語ってきたのに、ここから急に「苦難」について語っています。いったいこの苦しみとは何の苦しみなのでしょうか?これは大患難の苦しみです。イザヤはここで、大患難の苦しみを思い出して、「主よ。苦難の時に、彼らはあなたを求め、あなたが彼らを懲らしめられたので、彼らは祈ってつぶやきました。」と言っているのです。この「つぶやきました」とは不平不満を述べているのではありません。これは、彼らの心を祈りで注ぎだしたという意味です。あまりにもひどく苦しめられたのでひそやかな言葉でしか表すことができなかったのです。

その苦難の目的は何だったのでしょうか?ここには「あなたが彼せを懲らしめられので」とあります。大患難の目的は不信者のさばきとともに、イスラエルを懲らしめることでした。エレミヤはこれを「ヤコブの苦難」(エレミヤ30:7)と呼んでいます。「ああ。その日は大いなる日、比べるものもない日だ。それはヤコブにも苦難の時だ。しかし彼はそれから救われる。」と。それはヤコブにとっては苦難の時ですが、それによって彼らは主を仰ぎ見るようになるのです。すなわち、この懲らしめは彼らにとっては救いのためであったわけです。

私たちは順境の時には祈ろうとしませんが、逆境の時や苦難の時には真剣に、切実に祈るようになります。苦難は私たちを祈りへと向かわせるのです。英語にPain produces prayer.という言葉があります。痛みが祈りを生み出すのです。現代では痛みがあるとすぐに薬に頼ろうとするのであまり痛みがありません。クリスチャンですら痛みから逃れ、苦しみのない世界が当たり前であるかのように思うようになりました。  ボンヘッファーという神学者は、このように言っています。「苦痛はわれわれの大部分と無関係なものになってきた。できるだけ苦痛のないことがわれわれの生活の無意識のモットーの一つとなった。」(現代キリスト教思想書6,p325)   しかし、神は安楽な生活を通してよりも、苦しみを通して多くのことを学ばせられるのです。苦しみがあるからこそ私たちは祈り、その祈りによって成長していくことができるのです。ですから、詩篇の作者はこう言いました。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)

神の民であるイスラエルはどうだったでしょうか?彼らは、神の懲らしめの苦難の中から救いを求めて祈りました。先程も申し上げたように、この「祈ってつぶやく」というのは不平不満ではなく、ハンナのようにくちびるは動いていても声にならないような祈りを意味しています。その苦しみは妊婦にたとえられています。17節には「子を産む時が近づいて、そのひどい痛みに、苦しむ妊婦のように。」とあります。それはひどい痛みと苦しみなのです。それなのに、18節を見てください。「それはあたかも、風を産んだようなものでした。」どういうことでしょうか?「風」とは、むなしさとか、何もないということを表しています。つまり、それほど苦しんだのに、何も生み出すことができなかった。自分の力では何もできません。自分を救い出すことも、まして人々に主の救いをもたらすことなどできないのです。何も生み出すことができません。ではそこには何の希望もないのでしょうか?いいえ、あります。19節をご覧ください。

「あなたの死人は生き返り、私のなきがらはよみがえります。さめよ、喜び歌え。ちりに住む者よ。あなたの露は光の露。地は死者の霊を生き返らせます。」

ここには、イスラエルがよみがえることが語られています。神はイスラエルの死んだ者たちを生き返らせ、再び回復させてくださいます。終末の時代を生きる者たちの希望が、もう墓を越えて復活へと広がっているわけです。イスラエルに究極的な勝利である救いが臨むのです。いったいどうやってそのようなことが起こるのでしょうか?いのちを与えてくださる神の力がこれを可能にします。私たちには子を産み出す力もありませんが、神は死者たちを生き返らせることがおできになるのです。神がイスラエルの上に降らせる露は、いのちをもたらす露であり、死者たちを生き返らせることができるのです。

その方法とは何でしょうか?20節と21節をご覧ください。「さあ、わが民よ。あなたの部屋に入り、うしろの戸を閉じよ。憤りの過ぎるまで、ほんのしばらく、身を隠せ。見よ。主はご自分の住まいから出て来て、地に住む者の罪を罰せられるからだ。地はその上に流された血を現し、その上で殺された者たちを、もう、おおうことをしない。」

「わが民」とはユダヤ人のことです。ユダヤ人のある者たちは、世の終わりの7年間の患難時代に、自分たちが突き刺した方を見て、悔い改めます。そのようにして主の救いの中に入れられていくわけです。彼らは主を信じて受け入れるようになりますが、それでも激しい苦難を通らなければなりません。しかし、通り抜けることができるように、神は隠れ部屋を備えてくださり、彼らをかくまってくださいます。残りの者と言われる人たちが、神によって守られるのです。それが「あなたの部屋にはいり、うしろの戸を閉じよ。憤りが過ぎるまで、ほんのしばらく、身を隠せ。」ということです。ちょうど、イスラエルがエジプトから出てきた過越の時のように、神の民は贖いの主の血が塗られた家に入り、戸を閉じ、身を隠すようにと命じられたのです。その間にさばきの主が出て来て、不信者の罪を罰せられます。あらゆる罪が明らかにされ、さばきによって正当な罰が与えられますが、神の民は、守られ、滅びから免れるのです。すなわち、神の民が救われるのは彼らの行為によるのではなく、過越の小羊がほふられ、その血の贖いによるのです。彼らにはもはや産み出す力は残っていません。ただ神の一方的な恵みにより、小羊の血によってのみ、神のさばきを免れて救われることができるのです。ここに私たちの希望があります。苦難の中にあっても、私たちは神のさばきに会うことがないように守られるのです。ですから、これはユダヤ人のことだけでなく。クリスチャンのことでもあるのです。クリスチャンは、最後の患難時代に隠されます。どこに隠されるのかというと空中にです。雲の上にです。これを空中軽挙と言います。テサロニケ第一の手紙4章15節から18節にこうあります。

「私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」

まず既に死んだ人たちです。その人たちが墓から一気に引き上げられます。次に生き残っている人たちです。パウロはそのときまで自分が生き残っていると信じていましたので、ここで「生き残っている私たちが」と言っています。その人たちがたちまち彼らと一緒に一挙に引き上げられるのです。そのようにして、私たちはいつまでも主とともにいるようになるのです。その時地上ではどんなことが起こっているでしょうか?神のさばきです。恐ろしい神のさばきが行われています。しかし、クリスチャンは神の怒りの対象ではありません。神の怒りに定められていないのです。なぜなら、すべての怒りはイエス・キリストが身代わりに受けてくださったからです。ですから、テサロニケ第一の手紙5章9節にはこのように約束されているのです。

「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」

私たちはこの神の怒りに会うことがないように定められているのです。これは希望であり、慰めです。あなたにはこの希望がありますか?イエス・キリストによって完成した救いの御業を受け入れておられますか?それともまだ自分の力に頼っているでしょうか。私たちはみごもって子を産んでも風を産んだようなもので、何の力もないのです。救いはイエス・キリストにあります。この方を信じて救いを受けてください。そして、さまざまな困難に直面しても、この方が助けてくださることを期待して祈りましょう。挫折と苦痛が絶えない状況にあっても、神とつながる望みの綱を決して放さないでください。義人の道には必ず救いがあるからです。

イザヤ書26章1~6節 「全き平安」

きょうは、イザヤ書26章の前半部分から「全き平安」というタイトルでお話します。3節に「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。」とあります。平安とか安心はだれものが求めているものです。平安こそ私たちが幸福だと感じる基礎だからです。平安や安心のない幸福はありえません。「私は幸せですけれど、不安でたまりません」というのはありません。幸せな人はみな平安に満たされています。いったいどうしたらこの平安を持つことができるのでしょうか?きょうはこのことについて三つのポイントでお話したいと思います。

Ⅰ.私たちには強い町がある(1-2)

まず第一に、私たちには強い町があるということです。1節と2節をご覧ください。「その日、ユダの国でこの歌が歌われる。私たちには強い町がある。神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる。城門をあけて、誠実を守る正しい民を入らせよ。」

「その日」とはイザヤ書におけるキーワードの一つですが、世の終わりのことを指します。世の終わりにもたらされる千年王国と、その後に続く新天新地のことです。その時に歌われる歌がこれです。「その日、ユダでこの歌が歌われます。私たちには強い町がある。神はその城壁と塁とで私たちを救ってくださる。」

「強い町」とは新しいエルサレムのことです。イエス様は、「わたしは場所を備えに行く」(ヨハネ14:2)と言われました。その場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます、と言われましたが、それがこの「強い町」です。それが新しいエルサレムです。黙示録21章1節、2節には、この待ちについて次のようにあります。「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私たちはまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下ってくるのを見た。」とイエス様はこの町を備えて、再びこの地上に戻って来られるのです。

ここには、この町は「強い町」とあります。口語訳では「堅固な町」と訳されています。「われわれは堅固な町を持つ」と。なぜにこの町は堅固なのでしょうか?それは神がその城壁と塁で救ってくださるからです。神の救いが城壁であり、とりでです。エルサレムの城が石垣で築かれているように、神の救いで築かれている城の中に私たちは招き入れられるのです。それは敵が指一本ふれることができないような堅固な城壁です。そのような町に入れていただけるわけです。

いったいどのような人がその中に入れられるのでしょうか?ここには、「城門をあけて、誠実を守る正しい民を入らせよ。」とあります。「誠実」とは「忠実」とも訳される言葉です。誠実な人、忠実な人がそこに入ることができます。黙示録3章8節に、「わたしは、あなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」とあります。これはフィラデルフィヤの教会に書き送られた言葉です。主が私たちに求めておられることは、私たちがどれだけ偉大なことをしたかではなく、どれだけ忠実であったかということです。忠実とは英語で「Faithful」と言います。Faith(信仰)でfull(いっぱい)のことです。神が私たちにゆだねている働きはみな違います。ペテロにはペテロの働きがあったように、また、ヤコブにはヤコブの働きがあったように、そしてパウロにはパウロの働きがあったように、私たちにも私たちの働きがあります。それを信仰によって忠実に果たしていくことが求められているのです。

Ⅱ.全き平安のうちに守られる(3-4)

第二のことは、その町に入る人の祝福についてです。3節をご覧ください。「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。」

神は、志の堅固な者を、全き平安のうちに守られます。「全き平安」と訳されている言葉は、ヘブル語の「シャローム」というという言葉が二回繰り返されています。「シャローム、シャローム」です。「シャローム」という言葉は、もう訳さなくてもわかるくらいよく使われている言葉ですが、「平安があるように」という意味のことばです。それが二回繰り返されているので「全き平安」と訳されているわけです。英語ではこれを「Perfect peace」と訳しています。(NIV:New International Version)「完全な平安」です。神は、志の堅固な者に、完全な平安を与えてくださいます。

完全な平安、全き平安とはどのような平安でしょうか?それは何の欠けもない平安です。何物にも脅かされない平安です。私たちの世界では安心だと思っていても、それがいつ崩れてしまうかわかりません。今は幸せでも、いつ不幸がやってくるのかわからないという不安があるのです。ですから、「私は幸せですけれども、不安でたまりません」ということがあるわけです。「幸せで、幸せで恐いのです」ということがあります。それはいつ不幸が襲って来るかわからないからです。しかし、神が与えてくださる平安は、そのような心配のない完全な平安なのです。

イエス様は、このように言われました。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)イエス様が与える平安は、世が与えるのとは違います。イエス様が与える平安は、神の平安です。シャローム、シャロームです。それは今は幸せでも、明日はどうなるかわからないという平安ではなく、どんなことがあっても奪われることのない完全な平安なのです。

カトリックの有名な言語学者にダフードという方がいましたが、この方はシャロームを「ビクトリー(Victory)」と訳しました。勝利ある人生こそシャロームだというのです。人生には敗北を経験したり、涙するようなことがいろいろありますが、その中で与えられる平安こそシャロームであり、勝利ある人生なのです。そのような平安で守ってくださるのです。

世界はこのような平和を求めています。いったいどうしたらこのような平和を得ることができるのでしょうか?ここには、「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。」とあります。「志の堅固な者」とはどのような人のことを言うのでしょうか?それは、自分の思いがしっかりと主に向けられている人のことです。神に焦点が定まっている人、神に集中している人です。他のものに心が向いていると平安がありません。  ペテロは、イエス様が湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思って恐ろしくなり、イエス様に「主よ。もしあなたでしたなら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」(マタイ14:28)と言いました。主が「来なさい」と言われたので、ペテロは舟から出て、湖の上を歩いてイエス様の方に行きました。けれども、風を見て怖くなり、沈みかけてしまいました。  風を見ると怖くなるのです。回りを見れば怖くなります。私たちはただイエス様だけを見ていなければなりません。ただイエス様だけを見て、その心と思いが一つになることによってのみ、この平安を受けることができるのです。なぜなら、「シャローム」は、元々、神が持っているご性質だからです。私たちの神観というのは、何か良いことをすれば御利益があり、悪いことをすれば罰が当たるというものですが、聖書の神はそのような方ではありません。聖書の神はシャロームです。慈愛に満ち溢れた方です。そしてこの方のもとに来る人をその慈愛で、愛と平和で満たしてくださるのです。

イザヤ書9章には、やがて来られるメシヤがこのような方であることが紹介されていました。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」(9:6)この方は平和の君です。ですからこの方に心が向けられ、この方と心と思い一つとなることによって平和がもたらされるのです、

パウロはローマ人への手紙5章1節の中で次のように言っています。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」

ですから、私たちが神が与えてくださる完全な平安を得るためには、私たちがまず神との平和を持たなければなりません。皆さん、何が原因であなたがたの中に戦いや争いがあるのでしょうか?それは、あなたがたの中で戦う欲望です。ヤコブは次のように言っています。「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。」(ヤコブ4:1)元々の原因は私たちの内側にあります。私たちのからだの中にある欲望が原因で、それが心の中で繰り広げられていくうちに平安がなくなり、やがてそれが外側に表れてくるのです。それが他の人との関係に及ぶと争いになり、国家間の争いになると戦争になります。でも最初は個々人の心の問題なのです。臭い臭いは元から断たないとだめなように、私たちの間にある戦いや争いも元から直していかなければなりません。それが罪です。神から離れていることです。神にその心と思いが向いているのではなく、自分に向けられていることが問題です。聖書はそれを罪と言っています。その罪が解決されなければならないのです。

マザー・テレサは、次のようなことを言いました。「あなたが世界平和のためにできることは、家に帰って家族を愛することです。」世界平和というと大きなことなとても一個人にはできないように思えますが、実は個々人から始めていくことができるのです。まずあなたの中に平和がなければなりません。イエス・キリストを信じて、神との平和を持たなければならないのです。そこから始めていかなければなりません。イエス様がこの世に来られたのはそのためでした。イエス様は私たちの罪を赦すために私たちの身代わりとなって十字架にかかって死んでくださいました。それはイエスを信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。ですから、このイエスを信じるなら、あなたが罪に問われることはないのです。これが神の救いの御業でした。だれでもこのイエスを救い主と信じるなら、あなたのすべての罪は赦され、すべての悪からきよめていただけます。そのとき、この神平安が堰(せき)を切るようにして、私たちの中に流れるくるのです。

Ⅲ.いつまでも主に信頼せよ(4-6)

第三のことは、いつまでも主に信頼せよということです。4節をご覧ください。ここには、「いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主はとこしえの岩だから。」とあります。本当の平安はイエスを信じ、神との平和を持つことによって与えられます。しかし、それでも平安がないとしたら、いったいどこに問題があるのでしょうか?それは、本当の意味で主に信頼していないことです。いったいどうしたら私たちは全き平安を持つことかできるのでしょうか?主イエスを信じ、主イエスにすべてをゆだねることによってです。ピリピ人への手紙4章6節と7節を開いてください。ご一緒に読んでみましょう。

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6-7)

皆さん、どうすれば人のすべての考えにまさる神の平安が与えられるのでしょうか?ここには、「何も思い煩わないで、あらゆる場合に感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたの願い事を神に知っていただきなさい。」とあります。何も思い煩ってはいけないのです。これは神の命令です。何も思い煩うなと命じられているから、私たちは思い煩わないのです。これは意志の問題です。何も思い煩わないで、あらゆる場合に感謝をもって祈る。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくださるのです。「それは私の置かれている状況がわからないから言えるんですよ」とか、「実際に大変なんです」と言うのを聞きます。大変でしょう。もし私もそのような状況に置かれたら否定的になるに違いありません。しかし、聖書は何と言っているかというと、「何も思い煩うな」と言うのです。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に感謝をもって祈れ」と。問題はあなたの置かれている状況がどうであるかということではなく、どのような状況であってもあなたが神に信頼して祈るかどうかということです。というのは、信仰というのは私たちの全存在における意志の問題だからです。志がどうであるかなのです。感情ではありません。感情も大切な要素ですが、感情は信仰の結果もたらされるものです。ちょうど種を蒔けば芽が出て花が咲くように、信仰の種を蒔けば感情の花が咲くのであって、その逆ではありません。感情をあてにしないで信じることです。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。「牧師さん、それは私の置かれている状況がわからないから言えるんですよ」とか、「実際に大変なんです」と言うのを聞くことがあります。大変でしょう。もし私も同じような状況に置かれたら、きっと否定的になるに違いありません。しかし、聖書は何と言っているかというと、「何も思い煩うな」と言うのです。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に感謝をもって祈れ」と。ですから、私たちはどのような状況であれ祈るのです。

しかし、人はいつも志が堅固であるとは限りません。何も思い煩わないで、すべてを神にゆだねなければならないということがわかっていても、なかなかゆだねることができなくて苦しむのです。いったいどうしたらすべてを主にゆだねることができるのでしょうか。それが「祈り」です。祈りの中で私たちは、もうだめだと思っていたようなことが、「神によってこうなっいく。ああにもなっていく」ということが信じることができるようになっていくのです。

あとは信頼すればいいのです。任せればいい。これはヘブル語で「バハタ」という言葉ですが、大の字になって横になるということです。日本語にはいい言葉がありますね。「まな板の上の鯉」になるということです。どんなことがあっても、煮られようが、切られようが、殺されようが、この方に私の生涯をお任せします」ということです。そういう人に、神はシャロームを与えてくださるのです。

私たちの人生には失望とか、とてもではないが信仰など持てないという時がありますが、そういう時にこそ、信仰を発揮してキラリと光る者でなければならないのです。しかし、ともすればそのような時に、私たちは神様から離れていくのです。起こっている出来事を見て、「ああ、もうだめだ」と船が沈没するかのように沈んでしまうのです。いくら牧師が「大丈夫ですよ」と言っても、「だめでしょう!」と言うのです。だめじゃないのに、「だめだ。だめだ」と思い込んでしまうのです。それは神が喜ばれることではありません。どこかで不信仰の悪循環を断ち切らなければ、どんどん深みにのめりこんで行くのです。ですからそういう時に大切なことは、神様なんかいないのではないかと思われるような時でも、「神様、あなたにすべてをおゆだねします。」と祈ることです。大の字になって、「主よ。私の人生をあなたに託して行きますから、どうかよろしくお願いします。」と言うことなのです。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

イエスの弟子たちは、イエス様が十字架で死なれた後で、部屋に鍵をかけ息をひそめるようにして隠れていました。自分たちも捕らえられて、牢に入れられて、処刑されるのではないかと恐れていたからです。そんな彼らのもとに復活されたイエス様が現れて「平安があるように」と言われました。「神のシャロームがあなたがたを囲んでいるのだから何も心配しなくてもいい。」と言われたのです。すると「弟子たちは、主を見て喜んだ。」(ヨハネ20:20)とあります。主を見て、それまで彼らを縛っていた恐れから解放されたのです。全き平安で満たされたのです。するともう彼らの中に恐れはなくなりました。自分たちはどうなってもいい。この復活の主がともにいてくださるのだ。この方がともにおられるならば何の不安も、恐れもない。この方が最善に導いてくださると信じることができたのです。そして、ライオンの餌食にされようが、逆さ十字架につけられようが、喜んで死んでいきました。これが全き平安です。あなたもこの平安を持つことかできます。あなたもイエス・キリストを信じて神との平安を受け、この神にすべてをゆだねて祈るなら、神は人のすべての考えにまさる神の平安で、あなたの心と思いを守ってくださるのです。神は志の堅固な者を全き平安のうちに守られます。あなたもこの方に信頼して、このシャローム、シャロームを持ってください。