イザヤ60:1-22 レジュメ

「起きよ。光を放て」  イザヤ書60:122

Ⅰ.起きよ。光を放て(1-3) 

 ここには、世の終わりにもたらされる栄光がいかに輝いたものであるかが記されている。「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」(1)終末の時代に神の都シオンは主の栄光の輝きによって、諸国を輝かすようにと命じられている。なぜなら、「見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国をおおっている。」(2)からだ。終末の時代には、神の民に対する圧迫も激しくなり、肉体的にも、精神的にも、暗やみが世界を支配するようになる。だから、神の民は、起きて、光を放たなければならない。主イエスも、「あなたがたは、世界の光です。・・・あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:14-16)と言われた。神の民であるクリスチャンは霊的に暗黒のような世界の中で、光のような存在として生きなければならない。自分自身に光がなくても、光であられるイエス・キリストを信じた私たちは「光の子ども」となったのだから。その光を輝かさなければならないのである。

Ⅱ.目を上げて、あたりを見よ(4-9)

神の民が主の栄光の光を放つとき、いったいどんなことが起こるのだろうか。4節には、「目を上げて、あたりを見よ。彼らは集まって、あなたのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来、娘たちはわきに抱かれて来る。」とある。かつて「子を産まない不妊の女」(54:1)と言われたイスラエルの多くの子孫が、遠くから、近くから、彼らのもとに集まってくるというのだ。ただ集まってくるのではない。地中海沿岸から来る者は海の富を携え、砂漠から来る者は、らくだを携えてやって来る。また、「ケダルの羊の群れもみな、あなたのところに集まり・・いけにえとして、わたしの祭壇にささげられる。」(7)ケダルというのはイシュマエルの息子で、イスラエルに敵対する人たちのことである。そうした人までも神の都シオンにやって来て、いけにえをささげるようになるのである。これは本当に麗しい神の恵みのみわざだ。世の終わりには、どんなに敵対していた人でも、どんなに呪われていた人でも、主は必ず救いの手を差し伸べ、神の民の一員に加えてくださる。「そのとき、あなたはこれを見て、晴れやかになり、心は震えて、喜ぶようになる。」(5)そんな心躍るような喜びに満たされるのである。

Ⅲ.主があなたの永遠の光となる(10-22)

そればかりではない。10節には、「外国人もあなたの城壁を建て直し、その王たちもあなたに仕える。」とある。かつてエルサレムの神殿はアッシリヤやバビロンなど、異教の王や外国の軍隊によって攻撃され、破壊され、略奪されてきた。それはイザヤの時代の後にも起こる。エルサレムはローマによって滅ぼされ、神殿は完全に破壊されてしまった。しかし、世の終わりには、こうした外国人によってそれが再び建て直される。彼らを苦しめた者たちの子らは、身をかがめてやって来て、彼らの足下にひれ伏し、「あなたを、主の町、イスラエルの聖なる方のシオン、と呼ぶ。」(14)ようになる。神のあわれみのゆえに、異邦人に苦しめられたエルサレムが、その栄光を回復する。神のあわれみの心が、神の都シオンを暗やみと絶望の深い淵から救ってくださるのである。そして、この約束は後に教会に引き継がれることになる。神の民であるクリスチャンはこの地上で様々な苦難や逆境に置かれるが、そうした苦難を乗り越えて、やがて神が栄光を回復してくださるのである。

私たちは皆、立場は違うが、いろいろな形で苦しみを経験している。ある人は病気で、またある人は仕事で行き詰まり、またある人は自然災害によって立ち直ることが難しいと「絶望」に陥ることがある。しかし、そのような中にあってもこの救いの神を見上げて、ここに希望を置くなら、神が必ずあなたを助けてくださる。この永遠の希望の約束を通して、私たちに立ち上がる力を与えてくださるのである。

ここには「時が来れば、わたし、主がすみやかにそれをする。」(22)とある。時が来れば、それはすみやかに起こる。それはすぐそこまで来ている。いつ起こっても不思議ではない。私たちはここに希望を起きたい。やがてもたらされる栄光の輝きを胸に、私たちに与えられた希望の光を、この地上にあって放つ者でありたい。

イザヤ59:1-21 レジュメ

イザヤ書59:1~21   「救いは主の御手に」                           No.93

Ⅰ.神との仕切り(1-8) 

 イスラエルは自分たちの罪のせいでバビロンの捕囚となったのに、それを神のせいにして恨んでいた。神は自分たちを見捨ててしまったと嘆いていたのだ。しかし、絶対にそんなことはない。主は永遠の愛をもって彼らを愛してくださった。だから神は、どんなことがあっても彼らを見捨てるようなことはなさらない。

ではいったい何が問題だったのだろうか。それは彼らの咎であり、彼らのそむきの罪のせいであった。「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(1-2)彼らがそのようになったのは、彼ら自身に問題があったのである。

私たちはしばしば間違いを犯すと、それに対して神が怒られ、自分から遠ざかれたのではないかと考えるが、そうではない。神が遠ざかれるのではなく、私たちの方が遠ざかるのだ。人は罪を犯すと神から隠れようとする。その罪が神との間の仕切りとなり、御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしているのである。

その罪の結果、人はどのように汚れてしまったか?「実に、あなたがたの手で血で汚れ、指は咎で汚れ、あなたがたのくちびるは偽りを語り、舌は不正をつぶやく。正しい訴えをする者はなく、真実をもって弁護する者もなく、むなしいことにたより、うそを言い、害毒をはらみ、悪意を産む。彼らはまむしの卵をかえし、くもの巣を織る。その卵を食べる者は死に、卵をつぶすと、毒蛇が飛び出す。そのくもの巣は着物にはならず、自分の作ったもので身をおおうこともできない。彼らのわざは不義のわざ、彼らの手のなすことは、ただ暴虐。彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速い。彼らの思いは不義の思い。破壊と破滅が彼らの大路にある。彼らは平和の道を知らず、その道筋には公義がない。彼らは自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも、平和を知らない。」(3-8)その手は血で汚れ、指は咎で汚れ、くちびるは偽りを語り、その足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速くなった。つまり、すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となってしまったのである。いったいどうしたらこの罪を解決することができるのだろうか。

Ⅱ.罪の告白(9-15)

そのためには、自分がそのような汚れた者であることを認め、その罪を悔い改めなければならない。「それゆえ、公義は私たちから遠ざかり、義は私たちに追いつかない。私たちは光を待ち望んだが、見よ、やみ。輝きを待ち望んだが、暗やみの中を歩む。」(9)ここから主語が「彼ら」から「私たち」に変わっている。つまり、神に指摘された罪を認めて告白しているのである。これまで彼らは嫌というほど、罪に汚れた自分の姿というものを見せられたが、そのことに同意して、自分たちはそのような者だと認めているのだ。罪の解決は、まず認めることから始まる。自分がいかに汚れた者であるかを示されたなら、「その通りです」と認めることから始まるのである。いつまでも言い訳ばかりして、「そんなの関係ねぇ」みたいなことを言っていると、いつまでも罪を解決することはできない。

Ⅲ.主の救い(16-21)

そのとき、主が立ち上がってくださる。「主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。」(16)これは、人間の側にはこの罪から救うことのできる人は誰もいないということである。誰もいないからこそ、主が立ち上がってくださる。主はご自分の御腕によって救いをもたらしてくださる。これが救いである。そして神は、今から二千年前にイエス・キリストをこの世に遣わされ、その救いの御業を成し遂げてくださった。イエス様は、私たちと神との間の敗れ口に立つかのようにして十字架に架かって死んでくださった。神はそのひとり子イエス・キリストを通して義を確立してくださったのである。私たちが罪から救われる道は、このイエスを救い主として信じる以外にはない。私たちは自分の力で救われることはできない。ただ神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いのゆえに、価なしに義と認められるのである。

あなたは、このイエスを自分の罪からの救い主として信じているだろうか。もうすぐイエスが再臨される。二千年前にはしもべとして、私たちに仕えるために来られたが、二度目は違う。主が再び来られる時には、栄光の王として、キング・オブ・キングスとして来られる。このイエスの救いにあずかる者は幸いである。あなたも自分の罪を認め、神に救いを求めていただきたい。救いは主の御手にあるのだから。

イザヤ58:1-14 レジュメ

「神に喜ばれる信仰」                No.92

イザヤ書58:1~14

Ⅰ.見せかけの信仰(1-5) 

 主はイザヤに、「せいいっぱい大声で叫べ。角笛のように、声をあげよ。」(1)と言われた。なぜだろうか。イスラエルにそむきの罪があったからである。その罪を彼らに告げなければならなかった。イスラエルは日ごとに神を求め、神の道を知ることを望んでいたのに、実際には神から遠く離れていた。確かに彼らは断食という宗教的な行為には熱心だったが、中身が伴っていなかった。断食の日に自分の好むことをし、労働者をみな、圧迫していた。彼らが断食するのは、争いとけんかをするためであり、不法にこぶしを打ち付けるためであった。そのような断食は神に認められるものではない。それはただの見せかけの、偽善的なものでしかない。どんなに熱心に断食しても、それが本来の目的にかなったものでなければ虚しく、すべてが空回りする。

Ⅱ.本物の信仰とは(6-7)

では、神が好まれる断食とはどのようなものなのだろうか。「わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くちびるのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。」(6-7)すなわち、困難の中にいる人、抑圧された人たちに助けの手を差し伸べ、貧しさにあえぐ人には必要なものを与えることである。なぜなら、分け与えることこそ神の本性であり、その愛によって私たちも救われたからである。神の愛によって救われた私たちは、この愛を分け与える者でなければならない。

Ⅲ.そのとき(8-14)

そのとき、どのような祝福がもたらされるのだろうか。8節には、そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。」とある。「すみやかにいやされる」とは、「すみやかに回復する」とも訳される。偽善によって腐り果てたたましいが、みことばを聞き、それに従うことによって、すぐに新しい回復が始まる。それは暁の光のようだ。たとえあなたの心が暗やみのように暗くても、真昼のように明るく輝いたものとなる。

そればかりではない。「あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。」とある。昼は雲の柱、夜は火の柱のように、主があなたの前を進み、あなたの道を導いてくださるだけでなく、あなたのしんがりとなって守ってくださる。

また、「そのとき、あなたが叫ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる」と仰せられる。」(9)「神様!」と呼ぶと、即答してくださるというのだ。今まではそうではなかった。いくら呼んでも答えてくださらなかった。なぜなら、彼らの祈りは形式的なもので、自己満足の祈りにすぎなかったからである。しかし、今は違う。あなたが叫ぶと、主はすぐに答えてくださる。

また、11節には、「主は絶えず、あなたを導いて、焼け付く土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水の枯れない源のようになる。」とある。どんな状況でも、泉のように内側からいのちの水が流れ出るようになる。まさに「楽園」のようになるのだ。

何という祝福であろう。神のみこころに従って神が望む断食をするなら、神が私たちをこのように祝福してくださる。そんな幸いな人生を歩ませていただきたい。それはあなたが好むような断食ではなく、神が好む断食を求め、あなたの心が神と一つになって歩むことによってもたらされるのである。

イザヤ57:15-21 レジュメ

「神の自己紹介」                                          No.91

 

Ⅰ.その名を聖ととなえられる方(15-16) 

 ここには神がどのような方かが語られている。第一に、神はいと高く、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方である。57章前半には、まことの神から離れ偶像に走って行ったイスラエルの姿が描かれていたが、ここにはそうした偶像とは対照的に、まことの神とはどのような方なのかが示されている。すなわち、神はいと高きところにおられ、永遠に生きておられる方であり、その名を聖ととなえられる方である。これはどういうことかというと、神はずっと高いところにおられる方であり、私たちが近づきたくても近づくことなどできない存在であるということだ。よく「雲の上の方」という表現があるが、まさに神は雲の上の方である。

ところが、このように高く、聖なる方が、同時に、心砕かれ、へりくだった人とともに住み、へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かしてくださる。これは全く驚くべきことである。「心砕かれる」とは粉々にされ、ちりのようになるということである。これは、完全に悔い改めた人の姿である。また、「へりくだる」とは単に謙遜になるということではなく、苦難を受け入れて低くされることを表している。つまり、めった打ちにされるということである。神はいと高く、聖なる方であられるが、その神が、心がズタズタに切り裂かれ、自分の主張などは微塵もないほどに打ちのめされ、最も惨めだと自覚できる人とともにあり、そういう人の霊を生かしてくださるのである。

人はすぐに「自分はあれができる、これができる。あれを持っている、これを持っている。」と自分を誇りたくなる。しかし、神はそのような人の心には住まわれない。ただ心砕かれて、へりくだった人とともにあり、へりくだった人の霊を生かしてくださるのである。

Ⅱ.罪をいやしてくださる方(17-18)

第二に、神は罪をいやしてくださる方である。イスラエルの苦しみは、彼らのむさぼりの罪のためであった。「彼のむさぼりの罪のために、わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。」(17)しかし、それで彼らが悔い改めたかというとそうではなく、彼らはなおもそむいて、自分の思う道に向かって行った。それで神はどうされたかというと、「わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、慰めを報いよう。」(18)普通だったら捨てられてもおかしくないのに、神は彼らを捨てるどころか、彼らの罪を赦し、彼らの傷をいやされ、その悲しむ者たちに、慰めを報いようというのだ。神はいつまでも怒っておられる方ではない。自分勝手な道に向かって行ったイスラエルを一時的に懲らしめることはされたが、いつまでもそのような状態に置かれることはなさらない。ちょうど我が子が悪いことをすれば一時的に懲らしめても、やがて許し、両手いっぱいに抱きしめて、まっすぐに歩んでいけるようにありとあらゆる助けを与えてくれる父親のようである。神はいつまでも私たちを罪に定めようとはなさらない。むしろその罪を赦し、その傷をいやしてくださる方なのである。

Ⅲ.平安を与えてくださる方(19-21)

第三に、神は平安を与えてくださる方である。「わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう」と主は仰せられる。」(19)「くちぴるの実」とは、賛美と感謝の歌を表している。彼らは罪の結果、神の怒りによってうめく者であったが、神はそうした者をいやし(救い)、感謝と賛美をささげることができるようにしてくださる。そればかりか、遠くにいる者にも近くにいる者にも平安を与えてくださる。「平安」とはあらゆる面で欠けのない状態、完全に満たされた状態のことである。現代は、まさに大きな恐怖と不安に襲われている時代である。こうした不安な時代にあっても、決してゆり動かされることのない平安を与えてくださる。

「しかし悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水が海草と泥を吐き出すからである。「悪者どもには平安がない」と私の神は仰せられる。」(20-21)

あなたはどちらを選択しますか。イエスさまを信じ、心砕かれて、へりくだって歩みますか。それとも、こうした神の御声をないがしろにし、あくまでも自分の道に向かって行きますか。そこには荒れ狂う海しかない。神の前に心砕かれて、へりくだって歩むことができますように。神はあなたの罪をいやし、あなたの心を生かし、あなたに平安を与えてくださるのである。

イザヤ57:1-14 レジュメ

「道を整えよ」                       No.90

Ⅰ.義人は取り去られる(1-2) 

 56章9節からのところには、イスラエルの盲目な霊的指導者たちの姿が描かれていたが、ここには、そうした中にあっても神に信頼して生きる義人の姿が描かれている。「まことに、義人はわざわいから取り去られて、平安に入り、まっすぐに歩む人は、自分の寝床で休むことができる。」「平安に入る」とは死ぬことを、また、「寝床で休む」とは墓に葬られることを意味している。イザヤは、イスラエルに下る神のさばきが近いことを知り、その前に死ぬことがかえって幸いであると告げている。これは、世の終わりに起こることの預言でもある。世の終わりには、この地に対する神の怒りが下るが、イエス・キリストを信じて救われた者は、そうした御怒りに会うことはない(Ⅰテサロニケ5:8)。イエス・キリストが再臨されるその時、たちまち雲の中に引き上げられ、空中で主と会うようになる。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになる。肉体的に死ぬことは悲しいことだが、しかし、イエス・キリストにあって死ぬ者は幸いである。義人にはこのような希望が約束されている。われわれはややもすると、神を信じていない人が思いのままに生き神を信じているクリスチャンが苦しめられているのを見て落胆することがあるが、本当の真価はやがてもたらされる。この神の約束に信頼して、忍耐しつつ、神の義を待ち望む者でありたい。

Ⅱ.はかない偶像(3-13)

ここには、神の民であるイスラエルが神から離れ、偶像に走って行く姿が描かれている。彼らは偶像礼拝に染まり、性的不道徳に陥った。しかし、それらは彼らの益にはならなかった。「あなたが叫ぶとき、あなたが集めた者どもに、あなたを救わせてみよ。風が、それらをみな運び去り、息がそれらを連れ去ってしまう。しかし、わたしに身を寄せる者は、地を受け継ぎ、わたしの聖なる山を所有することができる。」(12-13)彼らが神として仕えた偶像はむなしく、全く無力なものにすぎなかった。そんなものに頼ったところで、いったいどんな益があるというのだろう。何の益もない。しかし、真の神に身を寄せる者は、地を受け継ぎ、聖なる山を所有することができる。

コロサイ3章5節には、「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」とある。われわれはかつてのイスラエルのように偶像を拝むということはないかもしれないが、神よりも快楽をむさぼってしまうことがある。けれども、こうした快楽は一時的なものであって、決してわれわれの心を満たしてくれるものではない。たとえそれによってストレスから解放されて楽しんでいるかのように思えても、何もかも忘れて、まるで自分が救われているかのように思えても、実際にはすぐに奪い去られてしまうはかないものなのである。風が、息が、それらをみな運び去ってしまう。しかし、主に身を寄せる者は幸いである。そういう人は、神の祝福を受けるようになるからである。

Ⅲ.道を整えよ(14)

だから結論は何かというと、あなたの道を整えよ、ということである。「主は仰せられる。『盛り上げよ。土を盛り上げて、道を整えよ。わたしの民の道から、つまずきを取り除け。』」これは40章3-4節で語られていたことである。「荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。」

そのとおりに、バプテスマのヨハネが現れて、悔い改めのバプテスマを説いた。バプテスマのヨハネは、イエスのために道を整えるという使命を帯びて人々のもとに遣わされた。イエスが来やすいように、私たちの心の中にある障害物を取り除くように・・・と。イエスは私たちの心に神の愛を届け、さらに私たちの心を通って私たちの周りにいる人々にも愛を届けるために来られた。しかし、もし私たちの心の中に怒りの炎があったらどうだろう。もし他人に対する無関心の壁があったどうだろう。もし他人を見下す偏見の岩があったらどうだろう。残念ながら、私たちの心の中に来ることはできない。イエスに通っていただくためには、私たちの心の道に置かれた障害物を取り除かなければならない。当時のイスラエルの人々にとっての障害物とは偶像礼拝だったが、私たちの心の中にもさまざまな障害物が横たわっている。イエスに通っていただくために、そうした障害物の一つひとつを取り除き、その道を整えなければならない。

あなたの心の中にある障害物は何か?それが何であれ、日々の生活の中で、私たちの心の中にある障害物を見つけ、一つひとつそれを取り除くこと、それがヨハネが言っていた「悔い改める」ということなのだと思う。せっかくやって来られるイエスを、自らが拒絶することがないように注意し、しっかりと道を整える者でありたい。

イザヤ56:1-12 レジュメ

「近づいている救い」                                      No.89

Ⅰ.公正を守り、正義を行え(1-2)

 

 これまで主のしもべの苦難を通して救いがもたらされるという預言が語られてきた。その救いに対して、われわれはどのようにそれを待ち望まなければならないのだろうか。第一のことは、公正を守り、正義を行え、ということである。どうせすぐに救われるのだから何をしても構わないというのではなく、だからこそ公正を守り、正義を行えというのだ。パウロはローマ13:11-12で、「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。」といい、「やみのわざをうち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。」と勧めている。

その具体的なことの一つが、安息日を守るということである。これはユダヤ人にとっては義を行うことの最優先事項であった。それこそが彼らが神の民であることの特別なしるしであったからだ。なのに彼らはこの安息日を守らなかった。それで神は彼らをバビロンへと連れて行かれたのである(Ⅱ歴代誌36:21)。

このことは、われわれクリスチャンにとってはどのようなことなのだろうか。というのは、われわれはこうした律法から解放され、むしろこのようなものには縛られないで、神の恵みに生きるべきだからである。この安息日の規定が目指していたことは、週に1日は主の日として聖別し、この日には一切の仕事を休み、主を覚えて礼拝するということである。それが日曜日に行われている主日礼拝の目指していることだ。毎日の忙しさにかまけて主を忘れることがないように、週に一日を聖別して礼拝をささげ、主に感謝し賛美をささげて、主との交わりをかかさないようにすることである。そのことによってわれわれは主のものであることを確認し、主のもとにすべての重荷をおろして安らぎを得、肉体的にも、精神的にも、霊的にも力を受けて、健康的に生きることができるのである。

 

Ⅱ.すべての民の祈りの家(3-8)

 

第二のことは、あなたのからだを神から受けた聖霊の宮としなさい、ということである。3節にすばらしい約束がある。それは「主に連なる外国人は言ってはならない。「主はきっと、私をその民から切り離される」と。宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と。なぜなら、そうした外国人や宦官たちにもユダヤ人同様、絶えることのない永遠の名が与えられるからだ(5)。主は彼らを聖なる山シオンに連れて行き、祈りの家で彼らを楽しませてくださる。というのは、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」(7)イエスこそ神殿そのものである。イエスによってすべての人が神と出会い、神を礼拝し、神のすべての祝福にあずかることができる。いや、そればかりではない。このイエスを信じるすべてのクリスチャンは、神から受けた聖霊の宮、すなわち、神殿なのである。われわれは神の神殿となっていつでも神と出会い、神を礼拝し、その恩恵にあずかることができるのである。

問題は、その神殿を何のために用いているかである。かつてイエスは神殿で物の売り買いをし、まるで強盗の巣のようにしていたユダヤ人たちに激怒され、宮きよめを行った。同じように、われわれが神から受けた聖霊の宮である自分自身のからだを自分の満足のために使っても神の栄光のために使うことがなかったら、イエスは宮きよめされる。われわれにもたらされた祝福の大きさを覚えつつ、いつも感謝をもって、心から主を礼拝する者でありたい。

 

Ⅲ.神を侮ってはならない(9-12)

 

第三のことは、神を侮ってはならないということである。9節には、「野のすべての獣、林の中のすべての獣よ。食べに来い。」とある。見張り人であるはずの者の目が見えず、番犬であるはずの犬が吠えないからだ。彼らは悟ることも、知ることも知らない者たちで、自分勝手な道に向かっている。

しかし、そのような者たちに対して、神が黙っておられることはない。野のすべての獣に命じて、林のすべての獣に命じて、食べに来るようにと言う。神が今、あえてそのようになさらないのは忍耐しておられるからである。忍耐して、悔い改める機会を与えておられのだ。にもかかわらず、それをよいことにいつまでも悔い改めないとしたら、神のさばきがやって来るのは当然であろう。

だから、目に見える現象を見て、「まだ大丈夫だ。これくらい何とかなる。」と高をくくってはならない。「だれにも迷惑をかけるわけじゃないのだから、何をしても勝手だ。」と開き直ってはいけない。「明日もきょうと同じだろう」と、神を侮ってはならない。神の救いが来るのは近く、神の義が現れるのも近い。この神のことばに信頼して公正を守り、正義を行う者でありたい。それこそ、近づいている救いに対して求められる応答なのである。

イザヤ55:6-13 レジュメ

「主を求めよ、お会いできる間に」                               No.88

Ⅰ.豊かに赦してくださるから(6-7) 

 主のしもべの救いのみわざに対する応答としての招きが語られている。「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」(6)主のしもべによって成し遂げられた救いを受けたいと願うなら、いつも近くにおられるわけでもない。その期間は限られている。だから、お会いできる間に、近くにおられるうちに求めなければならない。そうすれば、主はあわれんでくださる。豊かに赦してくださるのである。私たちは、取り返しのつかない過ちを犯したら、それで人生が終わりだと考えるがそうではない。たとえ赦されたとしても、そう簡単に赦されるはずがないと思うがそうではない。神は豊かに赦してくださる。神にとって赦されない罪など一つもない。神を信じないということ以外には・・・。救い主イエスを信じるなら、どんな罪でも赦していただける。なぜなら、イエスはあなたのすべての罪を背負い十字架で死んでくださったからだ。だから、あなたがイエスを自分の人生の救い主として信じるなら、その瞬間に、あなたの過去、現在、未来のすべての罪が赦されるのである。

Ⅱ.私たちよりも高い神の道、神の思い(8-9)

いったいなぜそのようなことができるのだろうか?なぜなら、神の道、神の思いは私たちとは異なるからだ。天が地よりもはるかに高いように、神の道は、私たちの道よりも高く、神の思いは、私たちの思いよりも高い。そこには大きなギャップがある。私たちは有限であり、限られた知識しか持っていないが、神は全知全能であり、過去も、現在も、未来もすべて知っておられる。その神が、私たちの人生に完全な計画を持っておられるのだ。

であれば、この神を信じ、この神にすべてをゆだねることが最善である。私たちは自分のことは自分が一番よく知っていると思っているが、実はそうではない。あなたのことを一番よく知っておられるのは神である。なぜなら、神があなたを造られたからだ。あなたの将来がどのようになるのかも含めて、神はあなたのすべてを知っておられるのである。だから、この神にあなたのすべてをゆだね、あなたの思いではなく神の思いに焦点を合わせ、あなたの道ではなく、神の道に歩まなければならない。

Ⅲ.神のことばはむなしく帰ってこない(10~13)

その結果が、雨や雪にたとえられている。「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」(10-11)神のことばが語られるとすべてが変わる。これまで砂漠のように荒涼としていた心が緑となり、美しい花を咲かせるようになる。その結果、「あなたがたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。山と丘とは、あなたがたの前で喜びの歓声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。いばらの代わりにもみの木が、おどろの代わりにミルトスが生える。」(12-13)「もみの木」や「ミルトス」は常緑樹で、祝福の象徴である。のろいの象徴であるいばらやおどろの代わりに、もみの木やミルトスが生えるのである。イエス・キリストを信じることによってのろいが祝福に変えられる。過去の過ちも、過去の罪も、イエスを信じることによってすべてが益に変えられる。なんとすばらしい約束であろうか。この約束が私たちにも与えられている。あなたもこの祝福の人生を歩むことができる。

しかし、それはいつまでもということではない。主とお会いできる間に、主が近くにおられるうちに求めなければならない。今晩、あなたがどうなるかなどだれにもわからない。明日まで大丈夫であるとは限らない。だから、お会いできる間に、近くにおられるうちに、呼び求めなければならない。主を呼び求める者は、だれでも救われる。主があなたをあわれみ、豊かに赦してくださるからである。

イザヤ55:1-5 レジュメ

イザヤ書55:1~5  「ただで恵みを受けよ」                  No.87

Ⅰ.渇いている者は出て来い(1) 

 主のしもべは十字架と復活によって救いの御業を成し遂げてくださった。ここでは、その御業に対する応答が求められている。その応答とは何か?「渇いている者はみな、水を求めて出て来い。」(1)という招きに応答して出て行くことである。ここでは水だけではない。穀物も、ぶどう酒も、乳も、金を払わないでただで受けよ、と言われている。それは霊的にも物質的にも私たちにいのちと喜びをもたらしてくれるものである。「来る」ことがなければ何も始まらない。神が私たちに向かって開口一番おっしゃられることは、「来なさい」ということである。それはただ遠くから見つめることではない。神について研究することでもない。もし、あなたが疲れているなら、重荷を負っているなら、主のもとに来なければならない。そうすれば、主があなたを休ませてくださる。あなたが本当の祝福にあずかりたいのならば、どんな用事があろうと、どんなことをしていても、ひとまずそれを脇に置いて、主のもとに来なければならないのである。

Ⅱ.良い物を食べよ(2)

それなのに、「なぜ、あなたがたは、食料にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。」(2)「食料にもならない物」とか「腹を満たさない物」とは、神ご自身以外のものである。主のもとに出て行くのではなく、この世のもので満たされようと追い求めている。けれども、この世のものは決して私たちのお腹を満たすことはできない。だから、良い物を食べなければならない。「良い物」とは救いのみことばのことである。人はパンだけで生きているのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによって生きている。これこそ私たちを真に満たしてくれるものである。私たちはこの救いのみことばに信頼し、自分の置かれた絶望的な状況を乗り越えなければならない。そうすれば、あなたは脂肪で元気づくことになる。「脂肪」とは「最上のもの」という意味である。あなたが神とそのみことばに信頼するなら、神はあなたをすべての良いもので満ち溢れさせてくださる。

Ⅲ.あなたがたは生きる(3~5)

そればかりではない。ここには、「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。」(3a)とある。もし神のもとに出て、神のみことばに聞き従うなら、あなたは生きることになる。これは肉体的に生きるということではない。永遠のいのちが与えられるということである。もしあなたが神を信じるなら、永遠に生きることになる。たとえ肉体的に死んでも、その霊は永遠に生きる。しかし、クリスチャンでない人はそうではない。死んだらまた死ぬ。死が二回ある。肉体的な死と、霊的な死である。霊的な死とは第二の死とも言われ(黙示録20:14)、永遠に燃える火の池の中に投げ込まれることを指している。しかし、クリスチャンは一度しか死ぬことはない。そしてたとえ肉体的に死んでも永遠のいのちが与えられ、天国で主とともにいつまでも生きることになる(黙示録21:27)のである。

その保証は何か。それはダビデと結ばれた愛の契約である。「わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。」(3b)それはダビデの行いによるものではなく、神の一方的な恵みの契約である。ただへりくだって神の前に出、神が与えてくださる恵みをうけることによってもたらされる救いである。それがダビデ契約であり、その子孫からお生まれになられたイエス・キリストによって実現した。これほど確かな保証がどこにあろうか。それは私たちの行いとは全く関係なく、一方的に神の恵みによって与えられるものだからである。

あなたは、このように価なしに味わうことができる神の恵みを、信仰をもって受け入れておられるだろうか。それともまだ食料にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労しているだろうか。もしあなたが神のもとに出て、神に聞き従うなら、あなたは生きる。あなたも神からの救いの招きに応答して、神がただで与えてくださる祝福を受けていただきたい。

イザヤ54:11-17 レジュメ

「義によって堅く立つ」                                                                                          No.87

Ⅰ.あなたの城壁のすべてを宝石にする(11~12)

ここでも主のしもべに対する回復の預言ととも に、主のしもべが受け継ぐ分がどのようものであのかが語られている。まず第一のことは、 主はご自身のしもベの城壁をすべて宝石にしてくださる。「苦しめられ、 もてあそばれて、慰められなかった女よ。見よ。わたしはあなたの石をアンチモニーでおおい、サファイヤであなたの基を定め、あなたの塔をルビーに、あなたの門を紅玉にし、あなたの境をすべての宝石にする。」(11~12)

これは、バビロンによって滅ぼされ、 捕囚の民として連れて行かれたイスラエルに対する回復の預言である。主は、彼らをバビロンから解放するというだけではなく、彼らの城壁を宝石のようにすると 約束さ れた。 まるで美しく着飾った花嫁のように、頭の上から足の先まできれいに着飾るようにしてくださる。それはまさに黙示録 21 章にある 天国そのものである。ヨハネは、 聖なる都、新しいエルサレムが、神のみもとを出て、天から 下ってくるのを見たが、それは夫のために飾られた花嫁のようであった。(黙示録 21: 2)その輝きは高価な宝石に似ており、透き 通った碧玉のようで、あっ た。( 同 21: 11) 天国はまさに宝石のように輝いていると こ ろである。 神の民は、この天の御国を相続するよう になる。もしかすると、今はしばらくの間苦しめられ、もてあそばれて、慰められていないように感じ る かもしれないが、それは一時のことである 。やがて神は必ずあなたを慰めてくださり御国を相続せてくださるのである 。

Ⅱ.豊かな平安がある(13)

第二のことは、そこには豊かな平安がある。「あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、あなたの子どもたちには、豊かな平安がある。」(13)これもすらしい約束である。あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、豊かな平安を得るよう になる。今はそうではいかもしれない。今は真理がねじ曲げられ、主の教えが受けられていないかもしれない。進化論が絶対的な真理であるかのように教えられていて、テストに出るとその通り答えなければ不正解となる。このような教えからは決して平安を得ることはできない。しかし、あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、豊かな平安を得るようになる。それは自動的にもたらされるわけではない。それは主の教えを受けることによってもたらされるものである。なぜ子どもたちは親に反抗したり、わがままに、いつも身勝手なことをするのだろうか。なぜ子どもたちはいつもイライラしているのだろうか。それは、主の教えを受けていなからである。。主の教えを受けるなら、あなたの子どもたちにはみな、豊かな平安がある 。 やがてそのような時がやって来る。それもまた大きな慰めである 。

Ⅲ.義によって堅く立つ(14~17)

第三のことは、義によって堅く立つということである。「あなたは義によって堅く立ち、しいたげから遠ざかれ、恐れることはない。恐れから遠ざかれ。それが近づくことはない。」(14)義とは救いのことであり、神との関係を持つことを意味している。もしあなたが救われ、神と正しい関係にあるなら、あなたは何も恐れることはない。恐れが遠ざかるからである。

私たちは日々さまざまな恐れの中に生きている 。お金を失うのではないかと か、健康を失 ったらどうしよ う、 仕事や家庭を失 ったりはしないだろうか・・・・またこうした恐れのほかにも、いつ巨大地震が襲ってくる かどうかわからない、いつ大津波に襲われる か、いつ台風の被害に遭うか、といった驚異にさ ら されている。しかし、たとえこうした脅威の中にあっても 、 あなたは何も 恐れること はない。なぜなら、あなたは義によって堅く立っている からである 。あなたの罪は赦された。 あなたがイ エス・キリ ストを信じ たその瞬間にあなたのすべての罪は赦さ れ、神との正し い関係に入れられた。 それゆえ 、神がいつもあなたととも におら れる 。神があなたの味方であるなら 、だれがあなたに敵対することができよう か。だれもあなたをキリストにある神の愛から引き 離すこと はでき ない。 神があなたとと もにおら れるので、あなたはこれらすべての中にあっても 圧倒的な勝利者となることができる。それゆえにあなたは何も恐れることはない 。

あなたはこの神の義を受けておられるだろうか。もしあなたがこの義を受けたいと願うのなら、神の救いである イエス・キリスト を信じなければならない。あなたは自分の力でこの義を獲得することはできない。自分で自分を救うことはできない。あなたの身代わりと なって十字架で死んでくださり、三日目によみがえられた救い主イエス・キリストを信じることによってのみ、あなたは救われること ができる。このイ エスを信じて、あなたも 神が約束してくださったすべての祝福を受け継ぐ人になっていただきたい。こ の義はすべての人に用意されているのだから。

イザヤ54:1-10 レジュメ

「あなたの天幕を広げよ」                  No.85

Ⅰ.あなたの天幕の場所を広げよ(1~3) 

 苦難のしもべの預言に続いて、その苦難のしもべによってもたらされる「回復の約束」が語られる。神に捨てられたようであったイスラエルが回復し、大いなる喜びと期待に胸を膨らませて祖国に戻り、国を再建するようになる。「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ。」(1-2)それゆえ、彼らは自分たちの天幕の場所を広げなければならない。彼らの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にしなければならない。(2)右と左にふえ広がり、彼らの子孫が、国々を所有して、荒れ果てた町々を人の住む所とするからだ。(3)

これは、民族としてのイスラエルだけに約束されていることではない。救い主イエス・キリストを信じ神の義とされた者たち、すなわち、霊的イスラエルであるキリストの教会にも約束されていることである。やがて神は、イエス・キリストを信じて救われる者たちをふやしてくださる。それゆえ、私たちは天幕の場所を広げ、鉄のくいを強固にしなければならない。そうなってからでは遅い。必ずそのようになるのだから、それに備えて準備しておかなければならないのである。

Ⅱ.あなたは恥をみない(4~6)

4節には、「恐れるな。あなたは恥をみない。」とある。彼らは自分たちの若かったころの恥を忘れ、やもめの時代のそしりを、もう思い出すことはない。なぜなら、主が彼らを贖われたからである。ここには主のことを「あなたの夫」(5)と言われている。「あなたの夫はあなたを造った者」と。その名は万軍の主であられる方が、彼らを贖ってくださる。だから、彼らは恐れることはないのである。彼らはかつて夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼ばれていたが、今はそうではない。今は若い時の妻のように、変わらぬ愛をもって見て下さる。神との婚姻関係を破り勝手に背を向けたイスラエルを、夫である神は、「若い時の妻をどうして見捨てられようか」(6)と言って、受け入れてくださるのである。私たちは不真実でも、神は常に真実である。神はご自身を否むことがないからだ。神はどんなことがあっても、最後まで見捨てるようなことはなさらない。

Ⅲ.永遠に変わらない愛(7~10)

それだけではない。ここには、「わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める。怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ」(7-8)とある。神の愛はこれからも変わることがない。神は永遠の愛をもってあわれんでくださるのである。。神が無限であるように、神のあわれみも尽きることはない。その計り知れないあわれみの中に、私たちも置かれているのである。

神の愛は、私たちがしばしば耳にする「もしも」の愛ではない。もしも、あなたに才能があるなら、もしも、あなたにお金があるなら、もしも、あなたが健康なら、もしも、あなたが言うことを聞くなら愛するという、条件付きの愛ではない。神の愛は「にもかかわらず」の愛である。たとえ、あなたが罪を犯しても、たとえ、あなたが失敗しても、たとえ、あなたの性格が悪くても、たとえ、あなたに能力がなくても、たとえ、あなたの容姿がひどくても、そのようなこととは全く関係なく、無条件で愛してくださる。それが十字架で血を流して死んでくださったキリストの愛である。この十字架のキリストの血潮のゆえに、あなたは無条件の愛されている。まさに雑草のような者に注がれる神の豊かな恵みである。あなたはこのような愛で愛されている。だから、どんな困難や絶望的な状況にあっても落ち込むことなく、いつまでも変わらない希望を喜び歌うことができるのである。「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。」(10)ここに慰めを得る人は幸いである。

あなたが今悩んでおられることは何か。仕事のこと、学校のこと、家庭のことで苦しんでいるかもしれない。しかし、あなたはイエス・キリストを信じ、バプテスマを受けたことで、この神との契約の中に入れられた。たとい山々が動いても、丘が移るようなことがあっても、神の変わらぬ愛はあなたから移ることはない。ここに希望をもって、神の慰めを受ける者でありたい。