「取り去られたしもべ」 N084
Ⅰ.取り去られたしもべ(7~9)
第四のしもべの歌の後半部分。7節に、「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。」とある。なぜだろうか?イエスが口を開いたら、全世界の救いのみわざが成し遂げられなかったからである。それゆえに、キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされなかったが、ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にその身をお任せになられた。(Iペテロ2:22~23)キリストは私たちのために黙って、十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。いったいだれがそんなことを考えることができただろう。イエスが私たちのそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれるなどということを、だれも考えることができなかった。
この箇所は、使徒8:32に引用されている。そこにはエチオピア人の王室に仕える高官が礼拝のためにエルサレムに上り、その帰る途中、馬車に乗りながらこの箇所を読んでいた。いったいこれはどういうことだろうかと思いめぐらしていたとき、神が伝道者ピリポを遣わし、「今、あなたの読んでいることがわかりますか」と尋ねさせた。「わかりません」と言うと、ピリポはその箇所からイエスのことを伝えた。するとこのエチオピア人の高官はうれしくなり、その場に馬車を止め、バプテスマを受けた。彼らが水から上がると、主の霊がピリポを連れ去られたのでみえなくなったが、彼は喜びながら帰って行った。これはイエスのことを預言していた。そして、イエスを信じる人には同じ喜びがもたらされる。
Ⅱ.主のみこころが成し遂げられるために(10~11a)
10節に、「彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。」とある。なぜそれが主のみこころと言えるのか?なぜなら、もし彼が自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができるからである。イエスの死は死だけで終わるものではない。やがてそれによってもたらされた多くの実を見るようになる。その時に彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。それはちょうど母親の出産のようだ。陣痛の苦しみは中途半端ではないが、やがてそこから新しいいのちが生まれて来るのを見ると、それまでの苦しみのすべてが吹っ飛んでしまうほどの喜びに変わる。「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをもろともせずに十字架を忍び、神の御座の前に着座されました。」(ヘブル12:2)イエスはこの喜びを見ていたのである。それはイエスにとって易しいことではなかった。永遠の昔から父なる神と一瞬たりとも離れたことがなかった彼が、その神から離れ、神との交わりを失うことは、耐え難い苦しみであった。しかし、イエスはご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをもろともせずに十字架を忍ぶことができたのである。「まことに、まことにあなたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(ヨハネ12:24)
あなたが見ているものは何か?目の前の艱難を見て落ち込んではいないだろうか。あなたが見なければならないのは、その先にある喜びである。もし死ねば、実を結ぶ。あなたがその先にある喜びに目を留めるなら、神のみこころは成し遂げられるのである。
Ⅲ.とりなしておられるしもべ(11b~12)
それだけではない。ここには、「彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」(12)とある。あなたの罪を贖い、あなたのために死んでくださった主は死んで終わりではなかった。その死からよみがえって天に上り、神の右の座に着いて、あなたのためにとりなしておられる。イエスを救い主として信じる者は、いつでも罪の赦しと永遠のいのちをはじめ、いやしや奇跡といった神の力を受けることができる。この地上にあっても、偉大な勝利者として歩むことができる。このキリストの贖いの広さ、高さ、深さ、豊かさは絶大である。あなたの罪のために十字架にかかって死なれた主は、今も生きて、あなたのために祈っているということを覚えてほしい。この方があなたのために働いてくださるということを忘れないでいただきたい。主のしもべイエスを通してなされた救いのみわざ、十字架の贖いを、あなたも信じて受け入れ、自分のものとしてほしいものである。