イザヤ53:7~12 レジュメ

「取り去られたしもべ」                N084

Ⅰ.取り去られたしもべ(7~9) 

 第四のしもべの歌の後半部分。7節に、「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。」とある。なぜだろうか?イエスが口を開いたら、全世界の救いのみわざが成し遂げられなかったからである。それゆえに、キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされなかったが、ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にその身をお任せになられた。(Iペテロ2:22~23)キリストは私たちのために黙って、十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。いったいだれがそんなことを考えることができただろう。イエスが私たちのそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれるなどということを、だれも考えることができなかった。

この箇所は、使徒8:32に引用されている。そこにはエチオピア人の王室に仕える高官が礼拝のためにエルサレムに上り、その帰る途中、馬車に乗りながらこの箇所を読んでいた。いったいこれはどういうことだろうかと思いめぐらしていたとき、神が伝道者ピリポを遣わし、「今、あなたの読んでいることがわかりますか」と尋ねさせた。「わかりません」と言うと、ピリポはその箇所からイエスのことを伝えた。するとこのエチオピア人の高官はうれしくなり、その場に馬車を止め、バプテスマを受けた。彼らが水から上がると、主の霊がピリポを連れ去られたのでみえなくなったが、彼は喜びながら帰って行った。これはイエスのことを預言していた。そして、イエスを信じる人には同じ喜びがもたらされる。

Ⅱ.主のみこころが成し遂げられるために(10~11a)

10節に、「彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。」とある。なぜそれが主のみこころと言えるのか?なぜなら、もし彼が自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができるからである。イエスの死は死だけで終わるものではない。やがてそれによってもたらされた多くの実を見るようになる。その時に彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。それはちょうど母親の出産のようだ。陣痛の苦しみは中途半端ではないが、やがてそこから新しいいのちが生まれて来るのを見ると、それまでの苦しみのすべてが吹っ飛んでしまうほどの喜びに変わる。「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをもろともせずに十字架を忍び、神の御座の前に着座されました。」(ヘブル12:2)イエスはこの喜びを見ていたのである。それはイエスにとって易しいことではなかった。永遠の昔から父なる神と一瞬たりとも離れたことがなかった彼が、その神から離れ、神との交わりを失うことは、耐え難い苦しみであった。しかし、イエスはご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをもろともせずに十字架を忍ぶことができたのである。「まことに、まことにあなたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(ヨハネ12:24)

あなたが見ているものは何か?目の前の艱難を見て落ち込んではいないだろうか。あなたが見なければならないのは、その先にある喜びである。もし死ねば、実を結ぶ。あなたがその先にある喜びに目を留めるなら、神のみこころは成し遂げられるのである。

Ⅲ.とりなしておられるしもべ(11b~12)

それだけではない。ここには、「彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」(12)とある。あなたの罪を贖い、あなたのために死んでくださった主は死んで終わりではなかった。その死からよみがえって天に上り、神の右の座に着いて、あなたのためにとりなしておられる。イエスを救い主として信じる者は、いつでも罪の赦しと永遠のいのちをはじめ、いやしや奇跡といった神の力を受けることができる。この地上にあっても、偉大な勝利者として歩むことができる。このキリストの贖いの広さ、高さ、深さ、豊かさは絶大である。あなたの罪のために十字架にかかって死なれた主は、今も生きて、あなたのために祈っているということを覚えてほしい。この方があなたのために働いてくださるということを忘れないでいただきたい。主のしもべイエスを通してなされた救いのみわざ、十字架の贖いを、あなたも信じて受け入れ、自分のものとしてほしいものである。

イザヤ53:1~6 レジュメ   

「最高の愛」                      N083

Ⅰ.だれが信じたか(1) 

 52:13から続く第四のしもべの歌の一部である。ここには、主のしもべはなぜ苦難を受けなければならなかったのか、その理由が語られている。それは、私たちの罪のためであった。それは身代わりの死だったのである。「私たちの聞いたことを、だれが信じたのか。主の御腕は、だれに現れたのか。」(1)「私たちが聞いたこと」とは、神の救いに関する良い知らせのこと。このすばらしい救いの知らせをいっただれが信じたのだろうか?この箇所は、ヨハネ12:38とローマ10:16にも引用されている。そこには、この預言がイエスによって成就したにもかかわらずだれも信じなかった、とある。なぜだろうか?彼らが想像していたメシヤ像とあまりにも違っていたからである。彼らが信じていたメシヤは、イスラエルを軍事的、政治的に復興してくれる人であった。ローマの支配から自分たちを解放してくれるメシヤを待ち望んでいたのである。自分たちを罪から救ってくれる霊的メシヤなんてどうでもよかった。彼らの関心はこの地上のことだけであり、自分たちに物質的な繁栄をもたらしてくれるメシを待ち望んでいたのである。

それはどの時代も同じである。どんなに福音を伝えても、だれも信じない。われわれが聞いたことを、われわれが体験したことを、われわれが受けた良い知らせを、だれも信じようとしない。しかし、だからといって語ることを止めてはならない。なぜなら、そのような中にあっても、われわれが信じる者に変えられたのだから。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)信仰は聞くことから始まる。だから、信じてほしいと願うなら、何とかして、このキリストについての良い知らせを聞かせなければならない。そうすれば、だれも信じないと思えるような中にあっても、神は信じる人を起こしてくだるのである。

Ⅱ.さげすまれたしもべ(2~3)

では、主の御腕はいったいだれに現れたのか。2節には、「彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。」とある。「若枝」とは「吸枝」(きゅうし)のことである。吸枝とは植物の根から最初に出る枝で、地面の下に根のように伸びる。これは「吸う」という言葉から派生した言葉で、赤ちゃんのようにおっぱいを吸うイメージだ。だから「若枝のように芽ばえ」とは、赤ちゃんのように全く力がなく、何かに頼らなければ生きていけないような弱々しい姿で生まれたということである。そればかりではない。主は砂漠の地から出る根のように育った。砂漠の地から出る根を見たことがあるだろうか。それはカラカラに干からびていて、死んだような状態だ。まさに主のしもべはそのようにして育った。だから、彼には見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(3)のである。

しかし、主の御腕は、このようなしもべに現れた。だから、見た目で善し悪しを判断してはならない。たとえ弱々しいから、たとえ干からびたようだからといって、のけ者にしてはならない。私たちが見とれるような輝きがないからといって、さげすんではならないのである。

Ⅲ.私たちの罪を負われたしもべ(4~6)

いったいなぜ彼は、そのようにさげすまれたのであろうか?なぜ病を負い、痛みをになったのか?それは私たちのためであった。「彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。」(4)それまでは、彼がそのようになったのは神に打たれたからだと思っていたが、その理解は間違っていた。このしもべの過ちに対する神の懲らしめだと思っていたのに、そうではなかった。それは私たちのためだったのである。「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(5)

ここに「刺し通す」とか、「砕く」とあるが、まさにキリストが受けた十字架の苦しみを表している。これはキリストが生まれる七百年も前に預言されたものだから、十字架を見て預言したわけではない。けれども、さながら十字架のもとにたたずんで、十字架を見た人が語ったような描写である。その十字架の痛み、苦しみは、いったい何のためだったのか?それは「私たちのそむきの罪のため」であり、「私たちの咎のため」であった。これは「私たちの代わりに」ということである。それは私たちの身代わりの死だったのである。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。イスラエルでは、多くの人の罪が赦されるために、小羊が身代わりに殺された。その血が注がれることによって罪が赦され、その肉が食されることによって、人々の肉体のいのちが保たれた。つまり、イエスはその神の小羊となって死なれたのである。

あなたは今、何で苦しんでいるだろうか?何を悩んでいるだろう。もしあなたが何かで苦しんでいるのなら、十字架のキリストを見上げてほしい。それはあなたのためであった。あなたが苦しまなくてもいいように、あなたの代わりにキリストが死んでくださったのである。あなたにとって必要なことは、あなたの代わりに死んでくださった神の小羊なるキリストを信じることである。そうすれば、あなたはすべての悩み、すべての痛み、すべての苦しみからいやされる。その苦しみのすべてを、キリストが代わりに受けてくださったからである。

イザヤ52:13-15 レジュメ  

「驚くばかりの恵み」                    N082

Ⅰ.高められた主のしもべ(13) 

 ここから53章の終わりまで、いわゆる第四のしもべの歌が続く。50:4~9までのところには、いったいどのようにして主のしもべは自分に与えられた使命を果たすのかが記されてあった。何とそれは受難を通してであった。ここでは、その苦しみはいったい何のためであったのかが語られる。すなわち、それは私たちの罪の代償の死であったということである。

まず13節には「見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。」とある。神の知恵と永遠の計画によって歩まれる主のしもべは栄え、他の何ものにも比べられないほど高くあげられる。ピリピ2:9~10には、「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」とある。主のしもべであるイエス・キリストは、それほどまでに高められる。私たちはこの方を見なければならない。

Ⅱ.低められた主のしもべ(14~15a)

いったいなぜ彼はそれほどまでに高められたのだろうか。それは、彼が何よりも低くなられたからである。14節には、「多くの者があなたを見て驚いたように、―その顔立ちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた―」とある。「あなた」とはイスラエルのことを指している。多くの人がイスラエルがバビロンに捕らえられ、そこで苦難を受けたのを見てショックを受けて驚いたように、主のしもべは激しい苦難を受けるということである。しかし、それはイスラエルのそれとは比べものにならないほどであった。その顔立ちは、そこなわれてもはや人のようではなかった。その姿も人の子らとは違っていたのである。それほどに彼は痛めつけられた。マルコ15:16~24を見ると、その時イエスがどのような苦しみを受けられたかが記されてある。彼は紫の衣を着せられ、いばらの冠をかぶせられ、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と叫ばれ、あざけられた。葦の棒で頭をたたかれたり、つばきをかけられたり、あげくの果てに十字架に釘付けされた。

15節に、「そのように、彼は多くの国々を驚かす」とあるが、この「驚かす」という言葉は「振りかける」という意味の言葉である。何を振りかけたのか。勿論、「血」である。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」(ヘブル9:22)イエスは私たちの罪を赦すために十字架にかかり、血を注いでくださった。そこまで低くなられたのである。それは私たちの罪を贖い、私たちを罪から救うためであった。それゆえに神は彼を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになったのである。

Ⅲ.賛美される主のしもべ(15b)

それゆえに、私たちは口をつぐまなければならない。ここには「王たちは彼の前で口をつぐむ。」とある。このような圧倒的な恵みの前に、もう何の言葉もない。あるのはただこの方に対する感謝と賛美だけである。

黙示録5章には、ほふられた小羊を前に、四つの生き物と二十四人の長老たちは、ひれ伏して、このように賛美した。「あなたは巻物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。・・・ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」(5:9~13)

このことが私たちにも求められている。私たちはこの方を前にしてもう何の言葉もない。口をつぐむしかない。あるのはただこの方に対する感謝と賛美だけである。私のためにそこまでしてくださった主に、自分の全存在をもって賛美をささげるしかないのだ。

黒人奴隷を輸送して莫大な富を得ていたジョン・ニュートンは、ある日、奴隷を輸送していた船が嵐に遭い浸水、転覆の危機に陥り、今にも海に呑まれそうな船の中で必死に祈ったその祈りが聞かれた時、人間として最低の自分を救ってくれた神の恵みに対して「アメージング・グレース」と叫んだ。もう他に何のことばもなかった。ただ口を閉じるしかなかったのだ。

それは私たちも同じである。私たちはこの主のしもべであるイエス・キリストの十字架の御業を前にして口を閉じ、ただこの方の前にひれ伏して、感謝と賛美をささげるべきである。不平不満を言うべきではない。自分のことばかり語るのを止めなければならない。他の人のことを語ることもそうである。他の人のことを責めて、他の人を非難することも止めなければならない。なぜなら、イエスは私の罪も、また他の人の罪も全部背負って十字架で死んでくださったからである。

私たちは口をつむぎ、ただ黙って主の前にひれ伏し、圧倒的な主の恵みに対して、自分の心を注ぎだして賛美をささげなければならないのである。これが本当の礼拝である。それこそ私たちのために十字架にまでかかって低くなられ、今は何よりも高くあげられた主のしもべにふさわしい応答なのである。

イザヤ52:1-12 レジュメ

「救いの良い知らせ」                    N081

Ⅰ.ただ恵みによって(1-6) 

 ここでも主は、「さめよ。さめよ。力をまとえ。シオン。」(1)と語られる。なぜか?なぜなら、彼らはすでに救われたからである。バビロン捕囚から解放され、失われたすべてのものが回復した。もう無割礼の者が入ってくることはない。彼らにとって必要なことは美しい衣を着ることであった。ちりを払い落として立ち上がり、首からかせをふりほどかなければならなかったのである。いったい彼らはどのようにして救われたのだろうか。ここにはおもしろいことが言われている。「あなたがたはただ売られる。だから、金を払わずに買い戻される。」(3)どういうことだろうか。彼らはただで売られたので、ただで買い戻されるということである。確かに彼らはバビロンに連れて行かれたが、バビロンに売られたわけではなかった。バビロンが勝手に連れて行っただけのことである。それによって神の名が侮られることになってしまった。それで神はイスラエルを買い戻すことにしたのである。つまり、イスラエルが救われたのは彼らが何かをしたからではなく、神がそのようにすると思われたからであった。それは神の一方的に恵みによるものであったのである。

それは私たちの救いも同じである。私たちが救われたのはただ神の恵みによる。私たちは罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順らの子らの中に働いている霊にしたがって歩んでいた。そのままではただ滅びるだけのものであったが、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きなあわれみのゆえに、罪過の中に死んでいた私たちをキリストとともに生かしてくださった。私たちはただ神の恵みによって救われたのである。

にもかかわず、私たちはいつの間にか逆戻りしていることがある。恵みによって救われたにもかかわらず、自分の行いによって救われたかのように自分を誇ることがある。「私はこれだけのことをやったんですよ」とか、「あなたよく救われましたね。私はこんなにも良いことをしたんですよ。」と言って誇ってしまうのである。しかし、天国は謙遜なところである。幼子のようになせなければだれも神の国に入ることはできない。それほど謙遜なところなのだ。私たちは行いではなく、キリストの恵みによってのみ救われるということを、もう一度深く覚えておきたい。これが福音であり、これが聖書のメッセージなのである。

Ⅱ.幸いな良い知らせ(17-10)

いったいこの救いはどのようにしてもたらされたのだろうか。ここには「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。」(7)と言われている。普通、足といったら汚いイメージがある。しかし、そんな汚い足でも、美しくなる。なぜなら、良い知らせを伝えるからである。良い知らせを伝える者の足は美しい。見た目がどうであるかは全く関係ない。見た目は汚くても、福音を伝える人は美しい。なぜなら、それは平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせる足だからである。

ある人が書いた本の中に、なぜ今の教会は強くないのかということが書かれてあった。その第一の理由は、主イエスを救い主として信じても主イエスに従っていないからである。つまり、キリストの弟子になっていないというのだ。第二のことは、主イエスを信じた人たちが主イエスのことを伝えていないからである。つまり、キリストの使徒になっていないからである。

なるほど、どんなにそれがすばらしい知らせであってもそこに生きることなしに何の変化も生まれない。福音の恵みを受けるだけでそれを外に出さなければ、何の喜びも生まれてこない。良い知らせを伝える者の足は美しい。私たちはこの良い知らせを伝える美しい足になりたいものである。

Ⅲ.去れよ、去れよ(11-12)

だから結論は何かというと、「去れよ。去れよ。そこを出よ」(11)ということである。イスラエルは一方的に主の恵みによって救われた。美しい衣を着せられた。その足には平和の福音の備えをはいた。そんな彼らに求められていたことは、そこを去って、汚れたものに触れないようにするということであった。そことはどこか?バビロンである。もうすでに救われたのに、まだバビロンにとどまろうとする人たちがいた。ずっと慣れ親しんだ過去の生活から離れられないでいる人たちがいたのである。しかし、彼らはもうすでに救われた。だからちりを払い落とし、かせをふりほどき、その中から出て、身をきよめなければならなかった。古い生活にしがみつくことを止め、彼らを救ってくださった主の道に歩まなければならなかったのである。

あなたのバビロンは何か。あなたがなかなか捨てられないでいるものは何だろうか。それがどんなに魅力的に見えるものであっても、あなたはそこから出なければならない。それがあなたを救ってくださった神の恵みに対するふさわしい応答だからである。

イザヤ51:12-23 レジュメ  

「このわたしが慰める」                    N080

Ⅰ.あなたはわたしの民だ(12-16) 

 神の慰めが続く。主は、「わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。」(12)と言われた。「このわたし」とはどのわたしか?それは、「天を引き述べ、地の基を定め、あなたを造った主」(13)である。つまり、この天地万物を造られた全能者が彼らを慰めるというのだ。にもかかわらずイスラエルはこの主を忘れ、彼らをしいたげる者たちを恐れていた。それはまるで滅びに定められていたかのようである。しかし、彼らは神によって贖われた者たち、永遠の滅びから救われた者たちである。であれば、どうして死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れる必要があるだろう。彼らは滅びから救われただけでなく、パンに事欠くこともない。主がその必要を満たしてくださるからだ。主は、「あなたは私の民だ」(16)と言ってくださる。主がついているなら何も恐れることはない。私たちにとって必要なことは、私たちはこの方によって救われたということ、そして、最高の立場に置かれているということを覚えることである。

Ⅱ.さめよ。さめよ。エルサレム(17-20)

9節ではイスラエルが神に対して「さめよ。さめよ。」と言ったが、ここでは神がイスラエルに対して「さめよ。さめよ。」と言っている。彼らが今、どのような状況にあるのかを、目を覚ましてしっかりと見なさい、というのだ。彼らは主の手から、憤りの杯を飲んでいた。これはバビロン捕囚のことである。「滅亡と破滅、ききんと剣」が彼らを襲っていた。彼らを慰める者はだれもいなかった。その状況をよく見ろ、というのである。いったいなぜそのようになってしまったのだろうか?それは彼らが罪を犯し、神から離れてしまったからだ。彼らが神から離れ、自分勝手に歩んだので、神が怒られたのである。けれども、それは彼らを滅ぼすためではなかった。その現状に彼らが気づき、彼らが神に立ち返るためであった。つまり、神は彼らを愛しておられたので、彼らにむちを加えられたのである。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての者に、むちを加えられる。それは彼らをご自分の聖さにあずからせるため、そして、それによって平安の義の実を結ばせるためなのである(ヘブル12:5-12)。

ある人がこんなことを言っている。「神の目を覚ます祈りは、私たちの目を覚ますものでなければならない。」神に「目を覚ましてくだい」と言うのなら、自分の目も覚まして、自分の置かれた状況がどうなのかをしっかりと見なければならない。そしてもし神から離れているならば、神に立ち返らなければならない。神はそのために懲らしめを与えておられるからである。

Ⅲ.取り上げられた怒りの杯(21-23)

ここで主はご自分のことを、「ご自分の民を弁護してくださる神」(22)と言っている。神は私たちを弁護してくださる方である。神が弁護人ならば、私たちは何も心配はいらない。なぜなら、完全な神が最高の弁護をしてくださるからである。その弁護者なる神がこう言われる。「見よ。わたしはあなたの手から、よろめかす杯を取り上げた。あなたはわたしの憤りの大杯をもう二度と飲むことはない。わたしはこれを、あなたを悩ます者たちの手に渡す。」(23)何という慰めであろうか。神はイスラエルからご自分の怒りの杯を取り上げ、彼らを悩ます者たち、つまりバビロンに移されるというのである。

神を知らない人たちは、神の懲らしめによってひとたまりもないが、神の民とされた者たちのためには、神が弁護人となって守ってくださるので、何も恐れることはない。これが本当の慰めである。

アメリカの牧師で、聖書注解者のウォーレン・ウィアスビーは、「私たちの人生に恐れを引き起こすその根本的な原因を探してみると、鮮明に浮かび上がる真理がある。それは不信仰である。恐れと信仰は友人になることはできない。だから、恐れを克復する第一歩は、信仰によって神を見上げることである。」と言っている。

もしあなたに恐れがあるなら、どうか神を見上げてほしい。その方の偉大さと栄光に目を留め、その方があなたの味方であることを思い出してほしい。そうすればあなたはすべての恐れに打ち勝ち、この世にあって勝利ある人生を歩むことができる。ここに真の慰めがあるからだ。

イザヤ51:1-11 レジュメ

「慰めてくださる主」                   N079

Ⅰ.あなたの切り出された岩を見よ(1-3) 

バビロン捕囚よって絶望的な情況にあったイスラエルに対して、主は「あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。」と言われた。「切り出された岩」とか「掘り出された穴」とは何だろうか?それは彼らが出たところ、彼らの起源(ルーツ)のことである。それは具体的にはアブラハムとサラのことを指している。いったいなぜ苦しい時に自分のルーツを見なければならないのだろうか。それは、自分たちがどのようにして救われたのかを思い出せば、そのことによって感謝と喜びが与えられるからである。

たとえばアブラハムの場合はどうだったか?彼は元々アブラムという名前で、カルデヤのウルという町の出身であった。つまり、彼は全くの異邦人であったわけである。真の神からは遠く離れ、月の神を拝む偶像礼拝者であった。この世にあっては何の望みもない虚しい人生を歩んでいた。しかし、神はそんなアブラハムを一方的に召し出された。「あなたは、あなたの産まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」(創世記12:1)つまり、彼が救われたのは、神の一方的な恵みによるものだったのである。

ではサラの場合はどうだろうか。彼女は90歳になった時、もう自分には子を宿す力がないことを知っていたが、約束してくださった方は真実な方だと信じた(ヘブル11:11)。たとえどんなに情況が不利なようでも、たとえ絶望的に見えても、神にとって不可能なことは一つもないと信じたのである。これがイスラエルだ。

このときシオンはバビロンによって滅ぼされ、跡形もなく廃墟と化していた。イスラエルはバビロンの捕囚の民として苦しみの中に置かれていた。しかしそんな彼らでもこのルーツを見れば慰められる。自分たちがただ恵みによって救われ、神の圧倒的な力によって導かれたことを思い出すなら慰められ、希望をもって立ち上がることができるのである。

Ⅱ.わたしに心を留めよ(4-8)

ここで主は、「わたしに心を留めよ」と言われた。いったいなぜ主に心を留めなければならないのだろうか?なぜなら、主に心を留めることによって、慰めを得ることができるからである。ここには、「わたしの義は近い。わたしの救いはすでに出ている。」(5)とある。この「義」とか「救い」とはイエス・キリストのことでもある。つまり、キリストの来臨が近いということを意味している。キリストが来臨されるとき、救いが完成する。確かに今はキリストを信じて救われている。死んでいた霊がよみがえり、不滅の霊をいただいた。しかし、私たちの救いはそれだけではない。やがてキリストが再臨されるとき肉体も救われる。朽ちないからだ、御霊のからだ、栄光のからだに変えられる。これが救いの完成の時である。パウロは、「このことばをもって互いに慰め合いなさい。」(Ⅰテサロニケ4:18)と言っているが、これこそ私たちにとっての真の希望である。

いったいなぜこのことが慰めになるのだろうか?6節には次のようにある。「目を天に上げよ。また下の地を見よ。天は煙のように散り失せ、地も衣のように古びて、その上に住む者は、ぶよのように死ぬ。しかし、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義はくじけないからだ。」

この天地は滅び去るが、神とその言葉はとこしえに絶えることがない。どんなに華やかなものでもそれがふってわいたかのようにすぐに消えてしまうものなら、はかないものである。そんなものによって慰められることは決してない。けれども、神の救いはとこしえに続き、神の義はくじけることはない。そのような確かなものに拠り頼んで歩めることは何と幸いなことだろう。だから主は、「わたしに心を留めよ。」と言われたのである。主に心を留める者は幸いである。その人は主から慰めを受けることができる。

Ⅲ.神の時がある(9-11)

しかし、神の慰めを受けるために、もう一つ考えなければならないことがある。それは、神には神の時があるということだ。「さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ。」(9)「さめよ」とは「目を覚ませ」ということである。目を覚まして、力をまとい、主の力強い御腕を、いかんなく発揮してくたださい、という叫びである。いったいなぜこのように叫んでいるのであろうか?それは、彼らにとってはまるで神が居眠りしているかのように感じていたからである。

人は祈ってもなかなか応えられないとすぐにこのように感じてしまう。けれども、覚えておかなければならないのは、神には神の時があるということだ。私たちはできるだけ早く聞いてほしいと願うものだが、神には神の時がある。そして、本当にギリギリまで動いてくださらないことが多い。あまりにも早く応えてしまうとそれを神がしてくださったというよりも、あたかも自分の力でやったかのように思い込んでしまうことがないためである。だからあえて私たちを無力化して、私たちが自分ではもうどうしようもないという時に働かれるのである。そうすれば、それが神によってなされたことであることがだれの目にも明らかになり、すべての栄光が神に帰せられる。主がギリギリまで動かないのは、何も私たちを困らせるためではなく、また、焦らせるためでもなく、私たちが神の御腕に全幅の信頼を置くためなのである。

だから、神には神の時があるということを覚え、一切を支配しておられる神にすべてをゆだね、神の時を待ち望む者でありたい。そういう人は、喜び歌いながらシオンに入り、その顔にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きは逃げ去る(11)のである。

イザヤ50:1-11 レジュメ

「神である主が私を助ける」                    N078

Ⅰ.イスラエルの錯覚(1-3) 

イスラエルは、自分たちがバビロンの捕囚になったのを神のせいにして恨んでいた。ちょうど夫が離婚を宣言し、妻を追い出したように、また父親が借金のために子どもを借金取りに売り渡したように、神が自分たちを見捨ててしまったと考えていたのである。それに対して主は、「あなたがたの母の離婚状は、どこにあるのか」「その債権者は誰なのか」と言われた。つまり、主が離別したというのなら、その証拠を見せなさい、主が彼らを奴隷の子として売ったというのなら、誰に売ったのかを告げてみよ、というのだ。主はそのようなことは絶対になさらない。なぜなら、主は真実な方だから。主は永遠の愛をもって彼らを愛してくださった。だから、どんなことがあっても彼らを見捨てることはなさらない。

では問題はどこにあったのか。「見よ。あなたがたは、自分の咎のために売られ、あなたがたのそむきの罪のために、あなたがたの母親は追い出されたのだ。」(1)問題は彼らの罪にあった。彼らは、主がいくら預言者を遣わして警告を与えても、それに答えようとしなかった。信仰がなかったからである。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのでもない。イスラエルの咎が神との仕切りとなり、イスラエルの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしていたのだ。

何か難しい問題が起こったとき、それをだれか他の人のせいにしたり、神のせいにして恨んだりしていることはないだろうか。それは神のせいでも、他の人のせいでもない。それは自分の罪のせいである。大切なのはその罪を認め、悔い改めて、神に立ち返ることである。それが解決の第一歩となる。

Ⅱ.神である主が、私を助ける(4-9)

ここに第三のしもべの歌が記されてある。いったい神はどのように救ってくださるのか。それはしもべの苦難を通してである。「神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばをかけられても、私の顔を隠さなかった。」(5-6)これが主のしもべの姿である。いったい彼はどのようにして苦難の中にも耐えることができのだろうか。それは、「神である主が、私を助ける。」(7,9)という確信があったからである。それゆえに、どんなに激しい苦難にあってもその苦難を正面から受け止め、自分に与えられた使命に向かって進んで行くことが出来たのである。

それは神のしもべである私たちも同じだ。私たちの人生にもさまざまな困難な出来事が起こる。しかし、神である主が私を助けてくださるという確信があれば、いかなる困難も恐れることなく、あらゆる侮辱や恥にも耐えることができる。

Ⅲ.神により頼め(10-11)

だから結論は、神により頼めということ。「あなたがたのうち、だれが主を恐れ、そのしもべの声に聴き従うのか。暗やみの中を歩き、光を持たない者は、主の御名に信頼し、自分の神により頼め。」(10)私たちには、このしもべを遣わされた真の神、主に対してどのような態度を取らなければならないのかという決断が迫られる。道は二つ。一つは、主を恐れ、そのしもべの声に従う道である。それは光のない暗やみの中を歩む時にも主の御名に信頼し、神により頼む道である。もう一つは、それとは反対に、しもべの声に聞き従わないで、自分の考えや自分の力によって歩む道である。主に信頼して歩む道は、たとえその道が真っ暗闇であったとしても、主が助けてくださるので必ず勝利が与えられるが、自分の光はそうではない。やがて苦しみのうちに伏倒れてしまうことになる。

イエスは言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)主のしもべイエスが世の光である。彼に信頼する者は、決して失望させられることはない。この方を信じて、この方に聞き従うこと、それが私たちの人生の勝利なのである。たとえ道は険しく、苦しくとも、神である主は、あなたを助ける、との御声を聞いて、神の愛に気づき、神の助けを確信しながら歩んでいきたい。

(自分に適用してみましょう!)

・何か難しい問題が起こる時、あなたはどのような態度を取っていますか。

・困難の中で、「神である主は、私を助ける」という確信を保っていますか。

イザヤ49:7-12 レジュメ

「今は恵みの時、救いの日」                  N077

Ⅰ.あわれみの神(7) 

イザヤは、バビロンに捕虜として連れて行かれ、彼らの奴隷として、何の希望も見い出せずに過ごしていたイスラエルに、神の慰めの言葉を語った。「王たちは見て立ち上がり、首長たちもひれ伏す。主が真実であり、イスラエルの聖なる方があなたを選んだからである。」(7)今、バビロンに捕らえられ奴隷となっているイスラエルをその悲惨な状態から救ってくださるばかりか、後にバビロンは彼らにひれ伏すようになるというのである。

いったいどうやってそのようなことが起こるのか。彼らはバビロンに捕虜として連れて来られてから、もう70年が経とうとしていた。そんなことは全く不可能である。これまでだって「解放する、解放する」と言っても、何の兆しも見えなかった。神なんか全くあてにならない、と彼らは思っていた。「主は私を見捨てた。主は私を忘れた」と思っていたのだ。

しかし、そうではない。イスラエルを贖う方、その聖なる方であられる主は、決して彼らを見捨てたり、忘れたりすることはない。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」(15)この主が彼らを慰め、その悩める者をあわれんでくださる。主が彼らをその中から解放してくださるのである。

Ⅱ.今は恵みの時、救いの日(8)

いったいそれはいつのことか。「主はこう仰せられる。『恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』」(8)「恵みの時、救いの日」とは、バビロンから解放される日のことである。パウロはこれをイエス・キリストによって罪から解放される日として引用し、次のように言った。「私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。神は言われます。『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:1-2)神はイエス・キリストによって罪を赦してくださり、この世とご自分と和解させてくださった。神の祝福はあなたの目の前に備えられている。それをむだに受けることがないように、今、それをつかみなさい、というのだ。

私たちは誰でも、過去と現在と未来を持っている。過去がない人も、未来がない人もいない。しかし確かなことは、過去は過ぎ去っていて、未来はまだ来ていないということ。あるのは今だけである。私たちは「今」しか生きることができない。今、神が備えておられる救いを受け取らなければ、もう二度とそれをつかむチャンスはやって来ない。神が備えてくださった救いを受け入れること、それが神の恵みを無駄にしないことなのである。

Ⅲ.生ける水の川が流れ出る(9-12)

この神の恵みを受け取るとどうなるのか?「わたしは捕らわれ人には『出よ』と言い、やみの中にいる者には『姿を現せ』と言う。彼らは道すがら羊を飼い、裸の丘の至る所が、彼らの牧場となる。彼らは飢えず、渇かず、熱も太陽も彼らを打たない。彼らをあわれむ者が彼らを導き、水のわく所に連れて行くからだ。」(9-10)

これはバビロンから解放された者たちの姿である。バビロンから出て約束の地カナンに向かって進むことには大きな危険もあるが、主が彼らを完全に守り、水のある所に連れて行ってくださる。

主イエスは、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38)と言われた。これは罪から解放された者の姿でもある。罪から解放され、神の恵みに生きる者は、確かに困難はあっても、その人の心の奥底から生きる水の川が流れ出るようになる。神から受けた恵みは川のように流れて、周りの人々を潤す。そんな人生を送れたらどんなに幸いなことか。そんな人生をご一緒に始めていきたい。確かに、今は恵みの時、今は救いの日なのである。

(自分に適用してみましょう!)

・今、あなたを縛っているものは何ですか。神はあなたを解放してくださると信じていますか?

イザヤ49:1-6 レジュメ

「主のしもべの歌」                      N076

Ⅰ.主のしもべは神の栄光を現す(1-3) 

イザヤ書には「主のしもべの歌」と呼ばれている箇所が4箇所あるが、この箇所はその一つである。ここには主のしもべの使命が記されてある。いったい主のしもべは何のために来られたのか。第一にそれは、神の栄光を現すためである。3節に「あなたはわたしのしもべ、イスラエル。わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現す。」とある。イエス・キリストは神の栄光を現すために来られた。これは神のしもべである私たちすべてのクリスチャンにも言えることである。私たちは神の栄光を現すために生きている。パウロは、「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」(Iコリント10:31)と言った。私たちが食べるのも、飲むのも、仕事をするのも、勉強するのも、あるいは家族で楽しく過ごすのも、神の栄光のためである。私たちはそのために生かされているということを覚えておきたい。

Ⅱ.主のしもべにはむだな骨折りはない(4)

第二に、主のしもべにはむだな骨折りはない。4節に「私はむだな骨折りをして、いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした。」とある。いったいこれはどういうことか?イエス・キリストの十字架はむだな骨折りだったというのか?そういうことではない。確かにイエスのこの地上での3年半の生涯をみたら、それはむなしい働きであったかのように見える。イエスの働きの初期の頃に集まっていた大ぜいの群衆は、イエスが十字架につけられた頃には皆イエスから離れて行った。それだけ見たらまさに「骨折り損のくたびれもうけ」である。しかし、聖書には次のように語られている。「それでも、私の正しい訴えは、主とともにあり、私の報酬は、私の神とともにある。」それでも、私の報酬は神とともにある。必ず報われる。この世の基準で成功したかどうかは関係ない。大切なのは神の目でどうであるかだ。それが神のみこころにかなったものであるならばたとえそこに弟子が1人しかいないようであっても、私の報酬は神とともにある。これはどんなに大きな慰めであろう。

私たちも時として、主のために身を粉にして働いても何の報酬もないかのような時がある。いったい何のためにやったのか、すべてはムダだったのではないかと思えることがある。しかし、そうではない。それが神の栄光のためにしたことであるなら、そこに必ず神の報いがある。

Ⅲ.地の果てにまで神の救いをもたらす主のしもべ(5-6)

第三に、主のしもべは神の救いを地の果てにまでもたらす。ここに主のしもべのもう一つの使命が記されてある。それはヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めることである。そればかりではない。主のしもべは諸国の光となって、地の果てまで神の救いをもたらす者となる。それは、神のしもべである私たちクリスチャンに与えられている使命でもある。私たちはキリストのように神との和解の務めを負っている。失われた人を神のもとに集めるという使命を帯びているのである。私たちは地の果てまで、神の救いをもたらす者でなければならない。神は、私たちにそのようなしもべとなることを期待しているのである。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたは何のために生きていると思っていましたか?あなたはどのようにして神の栄光を現すことができますか?

・あなたは主のために働いても何の報いもないと思っていませんでしたか?目先の報いではなく、主が与えてくださる報いに期待しましょう。

・あなたのエルサレムはどこですか。またあなたのユダヤ、サマリヤはどこですか。そのような人たちにどのように神の救いをもたらすことができるでしょうか?

イザヤ48:12-22 レジュメ  

「しあわせは川のように」                      N075

Ⅰ.わたしに聞け(12-16) 

主はイスラエルに「わたしに聞け」(12)と命じている。これからイスラエルに起こる新しい事について注意深く聞くようにというのだ。その内容とは何か?「わたしがそれだ。」ということである。「それ」とは主こそ初めであり、終わりであるということ、つまり、この天地を創造され、その造られた世界を支配しておられる方であるということだ。その証拠は、クロス王によってバビロンを滅ぼすということをあらかじめ告げられたことである。そのような方は他にはいない。偶像にはそのようなことはできない。ただ主だけができることである。神は実にそのことを150年も前にイザヤを通して告げられた。それは偶然に起こったことではなく、神が成された御業だったのである。それゆえに、イスラエルは近づいて、これを聞かなければならない。集中して耳を傾けなければならない。それが単にイスラエルの歴史に起こった出来事としてではなく、自分の人生の中で実際に生きて働くものとして期待して聞かなければならないのである。

Ⅱ.あなたのしあわせは川のように(17-19)

そのようにして主のことばを聞く時、どのようなことが起こるだろうか?「あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようにあるであろうに。あなたの子孫は砂のように、あなたの身から出る者は、真砂のようになるであろうに。その名はわたしの前から断たれることも、滅ぼされることもないであろうに。」(18-19)「しあわせ」という言葉は、ヘブル語の「シャローム」である。あなたが神の命令に耳を傾けさえすれば、平和が川のように押し寄せてくる。この箇所から「Ive got a peace like a liver」という英語の賛美が生まれた。ヨハネは主イエスのことを、「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」(ヨハネ1:16)と表現したが、まさに神の恵みが、神の祝福が、次から次に押し寄せてくるようになる。

Ⅲ.バビロンからのがれよ(20-22)

それゆえに、主はイスラエルにこう仰せられる。「バビロンから出よ。カルデヤからのがれよ。」(20)不思議なことに、せっかく主がクロス王によってバビロンを滅ぼしイスラエルをその束縛から解放したというのに、まだその中にとどまろうとする人たちがいた。信じられないことかもしれないが、これが現実である。せっかく神がイエス・キリストによって罪の贖いをしてくださったのに、まだ罪の中にとどまっていようとする人たちがいるのである。イエス・キリストがあなたのために十字架にかかって死んでくださり、あなたの罪の重荷を全部引き受けてくださったのに、それを信じないで、まだサタンの支配の下、罪の奴隷として生きることを望んでいる人たちが結構いるのだ。そのような人には平安はない。信じるか信じないかはその人の自由であるが、信じない人には平安はない。なぜなら、平安は自分の力によって勝ち取ることはできないからである。平安を得るためにはただ神に聞かなければならない。神に聞くなら、神は必ずあなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導いてくださる。

その道こそイエス・キリストである。イエスはこう言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)イエスが道である。イエスを通してでなければ本当の平安はない。それがほしいと願うなら、もう虚しい努力は止めてイエスを信じていただきたい。そして、喜びの歌声をあげて、それを地の果てまで響き渡らせよう。イエスはあなたが信じるに値する方なのである。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたは神のみことばを聞くことにどれだけ集中していますか?神のみことばがあなたの人生に実際に生きて働くことを、あなたはどれだけ期待していますか?

・あなたの心に神の平安が川のように押し寄せていますか?もしそうでないとしたら、その原因はどこにあると思いますか?あなたは神の命令に耳を傾けているでしょうか。

・あなたはまだこの世にとどまっていたいという思いはありませんか。あなたが出なければならないバビロンとは何ですか?