イザヤ48:1-11 レジュメ

「練られる神」                                   N074

Ⅰ.わたしに聞け(1-5) 

主はイスラエルに「わたしに聞け」と命じている。これからイスラエルに起こる新しい事について注意深く聞くようにというのだ。その内容とは何か?「わたしがそれだ。」ということである。イスラエルは、主の御名によって誓い、イスラエルの神を呼び求めるが、誠実をもってせず、また正義をもってしない。彼らは自分たちこそ神に選ばれた民であり、主の御名によって祈っていたつもりだったが、肝心なところが抜けていた。そこに誠実と正義がなかった。「誠実」とは、変わりなく神に信頼する心であり、「正義」とは、神の道にかなった正しい歩みのことである。彼らはイスラエルの神を呼び求めていたのに、その信仰は口先だけの、形だけのものであった。

それはイスラエルだけのことではない。クリスチャンに対する警告でもある。クリスチャンはこの世の人たちのように偶像礼拝をしていないかもしれないが、その心が神から離れていることがある。救われたということに甘んじて、いつの間にか形だけの信仰生活に陥ってしまうことがある。世の楽しみという偶像に、自分の肉欲という偶像に、自分で造った神に引かれていく危険がある。しかし神が求めておられるのは、ただ公義を行い、神の前に誠実に歩むことである。神の前に誠実に歩むとは、何一つ過ちのない完璧な人生を歩むということではない。たとえ人生に過ちがあったとしても、神の恵みの中で悔い改め、神の恵みに支えられながら、神に従って生きることである。だから、神に示されることがあればそのたびに悔い改め、へりくだって神とともに歩むことが大切なのである。

Ⅱ.新しい創造(6-8)

主はイスラエルに「新しい事」を聞かせると言われた。それは彼らがこれまで聞いたことのないことだ。もしずっと前から聞いて、知っていたとしたら、「ああ、私は知っていた」と言うだろう。彼らは強情で、かたくなな民なので、そうやっていつも主に反逆してきた。だから主は、これまで彼らが聞いたことのない新しい事を告げよう、と言われたのである。その新しい事とは何だろうか。直接的には、神が異教徒のクロス王を立ててバビロンを滅ぼし、そこからイスラエルを解放するということだ。しかし、これは究極的には全人類を罪から救われる神の御業のことである。神は私たちを罪から救うために私たちが全く考えられない方法を用いられた。何と全く罪のない神のひとり子が私たちと同じ人間の姿で生まれ、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死なれ、三日目によみがえられるということである。いったいだれがこのようなことを考えることができたであろう。このような方法は神にしか考えられない方法である。まさに「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」とある通りだ。パウロはこの十字架のことを「新しい創造」(ガラテヤ6:15)と言った。これこそ私たちにとって大事なことである。割礼を受けているかいないかといったことはどうでもいいことなのである。私たちはこの基準に従って歩むべきであって、それ以外のものを誇りとしてはいけない。

Ⅲ.練られる神(9-11)

このように神は、イスラエルがどんなにかたくなで、強情であっても、彼らを滅ぼさなかった。本来であればすぐにでも滅ぼされても致し方ないのに、神はそうされなかった。神は恵みの契約に従って、いつまでも変わることなく、彼らに恵みを与えてくださった。イスラエルがどんなに神にそむいても彼らを滅ぼすことをせず、そのそむきに耐え、さばきを遅らせ、軽い懲らしめを与えて、彼らに気付かせようとされた。それが「悩みの炉」である。悩みの炉とは彼らが悩むことによって、彼らのかたくなな思いを砕く炉のことである。ここではバビロン捕囚のことを指している。申命記4:20には「鉄の炉」という言葉がある。エジプトに捕らえられていたことを「鉄の炉」と表現した。このように神は、悩みの炉とか鉄の炉によって彼らを砕き、従順な心を持つようにされた。

私たちもイスラエルのようにすぐに高ぶっては神に背いてしまうようなうなじのこわい民である。そんな私たちを清めるために、時として神はこのような悩みの炉の中に送られることがある。しかし、それは私たちを滅ぼすためではなく、私たちを練りきよめるための神の手段にすぎない。神は私たちを愛しておられるので、この悩みの炉を用いて、私たちを練ってくださる。詩篇の作者は、「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)と告白した。私たちもそのように告白しよう。苦しみに会ったことは私にとって幸せです。それで私たちはあなたのおきてを学びました・・・と。あなたにとっての悩みの炉とは何だろうか。その悩みの中で悔い改め、神のみこころに歩ませていただこうではないか。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたの信仰は形式的になっていませんか。主のみこころを行うことを求め、誠実を愛し、へりくだって神とともに歩んでいますか。

・あなたが今、受けている悩みや苦しみは何ですか。あなたはそこから何を学んでいますか。

イザヤ47:8-15 レジュメ

「高ぶる者は退けられる」                               N073

Ⅰ.私だけは特別だ(8-9) 

バビロンは高ぶったがゆえに滅ぼされた。神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになられる。バビロンは高ぶったので退けられた。いったい彼らはどのように高ぶったのか。第一に、彼らは「私だけは特別だ」と言って誇った。これは直訳すると「私だけで、ほかにはいない」である。これは神のセリフでもあった。神は「わたしが神である。ほかにはいない。」(46:9)と宣言されたが、ここでバビロンは同じセリフを使っている。つまり、彼らは自分こそ神だと宣言したのである。しかし、このように言えるのは神以外にはいない。神だけが自存の神である。神は他の何にも依存することなく、自分だけで存在することができる。だから神は神中心でいいが、私たちはそうではない。私たちは太陽や水、食料など、自分以外のものに頼らなければ生きていけない存在である。だから私たちはそのようなことは言えないし、言ってはならない。なのに、バビロンは高慢にも「私だけは特別だ」、「私だけで、ほかにはいない」と豪語した。それが問題だった。そのような者には突然、災難が見舞うことになることを覚えておかなければならない。

Ⅱ.私を見る者はない(10-11)

バビロンのもう一つの問題は、「私を見る者はない」と言って自分の悪に拠り頼んだことである。彼らがそんなにも高慢になったのはなぜか。それは神への恐れがなかったからである。神への恐れがないのに知恵と知識だけは増えていった。それが彼らを惑わしたのである。人はだれも見ていないと思うので悪を行う。だれも見ていないと思うのでごまかしたり、盗んだり、さまざまな悪行をしたりするのである。もしだれかが見ていると思ったらそのようなことはしないだろう。バビロンは神への恐れが全くなかったのでやりたい放題であった。

Ⅲ.あなたを救う者はひとりもいない(12-15)

バビロンは神を恐れず自分たちの知恵や知識によって自分たちを救おうとした。「若い時からの使い古しの呪文」や「多くの呪術」、「助言」、「天を観測する者」、「星を見る者」、「新月ごとにあなたに起こる事を告げる者」等である。そのようなものはあるいは役立つかもしれないが、彼らを救い出すことはできない。「見よ。彼らは刈り株のようになり、火が彼らを焼き尽くす。彼らは自分のいのちを炎の手から救い出すこともできない。」(14)

ではどうすればいいのか。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(伝道者の書12:13-14)神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになられる。私たちが神の恵みを受ける唯一の道は、ただへりくだることなのである。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたは「自分だけは特別だ」という思いはないでしょうか。あなたには若い時からの使い古しの呪文や多くの呪術、人からの助言に頼り、神を恐れていないということはないでしょうか。あなたが頼っているものは何ですか。

イザヤ47:1-7 レジュメ

「バビロンの滅亡」                                            N072

Ⅰ.わたしは復讐する(1-4) 

主はバビロンに、「おとめバビロンの娘よ。下って、ちりの上にすわれ。」(1a)と言われた。なぜなら、「もうあなたは、優しい上品な女と呼ばれないからだ。」(1b)彼らはひき臼を取って粉をひく女奴隷になる。難攻不落と言われバビロンが滅びるという預言である。いったい何が問題だったのか。主はこう言われる。「わたしは復讐する。だれひとり容赦しない。」(3)神は復讐する神である。神はその人の行いに応じて正しくさばかれる。神がバビロンをこのようにされるのは、彼らの悪のゆえである。神の民であるイスラエルを苦しめ、自らが神であるかのように高ぶった。それが問題であった。それはバビロンだけの問題ではない。もし私たちが神に対して罪を犯すなら、そのことも神は正しくさばかれる。神はえこひいきすることはないからである。

しかし、クリスチャンは何も恐れる必要はない。なぜなら、私たちが御子イエス・キリストを信じた瞬間に、神のさばきの対象ではなくなったからである。キリストが十字架にかかってくださり、私たちの罪、咎のすべてを受けてくださったので、私たちの罪は完全に赦され、罪がない者とみなされたのだ。だから、神は復讐すると言っても、だれひとり容赦しないと言っても、びくともする必要はない。あなたの罪はもう赦されたのである。

Ⅱ.あくまでも道具にすぎない(5-6)

ここでもバビロンに、「黙ってすわり、やみに入れ」と言われる。バビロンはもう、「王国の女王と呼ばれることはないからだ。」(5)いったい何が問題だったのか。「わたしは、わたしの民を怒って、わたしのゆずりの民を汚し、彼らをあなたの手に渡したが、あなたは彼らをあわれまず、老人にも、ひどい重いくびきを負わせた。」(6)つまり、イスラエルは神に背いたので、そんな彼らを懲らしめるために彼らをバビロンの手に渡したのに、バビロンは彼らをあわれむことをせず、イスラエルに重いくびきを負わせた。彼らは神に背いたイスラエルを懲らしめるための単なる道具にすぎなかったのに、その立場を逸脱して、傲慢にも、行きすぎたことをしてしまった。それが問題だったのである。

それはバビロンだけの問題ではない。私たちの中にもバビロンのような傾向がある。自分の感情にまかせてついつい言い過ぎてしまったり、度が過ぎたりすることがある。あわれみに欠けることがある。私たちは自分が単なる道具にすぎない者であることをわきまえ、その道具としての役割に徹する者でなければならない。

Ⅲ.高慢は滅びに先立つ(7)

バビロンのもう一つの問題は、自分たちがいつまでも続くと考えたことである。これは完全な高慢である。もし終わりことを思うことがあったとしたら、少しは思いとどまることができたかもしれない。しかし、彼らはそんなことは微塵も考えず、高慢になってやりたい放題だった。あわれみに欠け、行きすぎても、やりすぎても全くお構いなしで、快楽にふけり、安逸をむさぼった。そのような高慢を神はさばかれたのである。聖書に、「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」(箴言18:2)また、「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」(ヤコブ4:6)とある。高ぶると祝福を失う。私たちの人生の中で、身を低くすることは大切なことである。身を低くして、へりくだったら必ず祝福される。そのような信仰の歩みを共にしていこう。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたは神の怒りの対象ですか。それとも罪ゆるされて、神の愛の対象となっていますか。

・あなたは、自分の立場を忘れて行きすぎていること、やりすぎていること、度が過ぎたことはしていませんか。どのような時にそのような傾向がありますか。

・あなたの中に高慢な思いはないですか。自分の終わりのことを思い、自分のなすべきことをただ淡々と、へりくだってしていますか。

イザヤ46:1-13 レジュメ  

「運んでくださる神」                                            N071

Ⅰ.わたしは背負う(1-8) 

1節に、「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた獣の重荷となる。」とある。ベルとはバビロンの偶像の神の名前、ネボは、その息子である。やがてバビロンは滅ぼされ、彼らが信じていた偶像はお荷物となる。古代中近東世界では、戦争は、それぞれの国の神々の戦いであると考えられていた。そして、戦いに敗れた時には、その偶像を担いで逃げなければならなかった。つまり、バビロンの神、偶像の神はお荷物になる神であり、重荷となる神である。

しかし、イスラエルの神、主はそうではない。3節と4節には、「胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救いだそう。」とある。人を救うことができず、獣の背中に運ばれていく偶像とは対照的に、イスラエルの神、主は、人を胎内にいる時からになってこられ、生まれる前から運んでこられた。この「になう」という言葉は、1節の「荷物となり」という言葉と全く同じ言葉である。真の神はお荷物のような私たちをにない、運んでくださる。そして、私たちがにないきれない重荷を代わりに背負ってくださった。これは究極的にはイエスが十字架にかかって死んでくださったことを表している。イエスがあなたの代わりに死んでくださったので、イエスがあなたの重荷のすべてを負ってくださったので、あなたはもう罪に悩むことはない。あなたは赦され、いやされた。

そればかりではない。主はこれからも同じようする、と言われた。あなたが年をとっても、あなたがしらがになっても、主はあなたともにいて守ってくださる。まさに偶像の神は運ばれる神だが、イスラエルの神はあなたを運んでくださる神なのである。

Ⅱ.わたしははかり事を行う(9-11)

9節に、「遠い大昔のことを思い出せ。」とある。遠い大昔の事とは何か?それはイスラエルの一連の過去の歴史のことであるが、特にイスラエルがエジプトから救い出された時の出来事を指している。なぜその時のことを思い出す必要があるのか?なぜなら、その時のことを思い出すなら、希望を持つことができるからだ。彼らはバビロンに捕らえられていたが、たとえバビロンに捕らえられていても、エジプトから救い出された主は同じようにバビロンからも救い出してくださる。そういう希望が与えられる。

主は、ご自分のはかりごとを必ず成就し、ご自分が望まれることをすべて成し遂げられる。そのはかりごととは何か?それはイスラエルをバビロンから救い出すということであり、また、全人類を罪から救い出すということである。いったいどのようにしてそれを成し遂げられるのであろうか?主は東から猛禽を、遠い地から、主の計画を実行する者を呼ぶ。それがペルシャのクロス王である。主はこのことが起こる150年も前に預言してくださった。主は、ご自分が計画したことをことごとく行われる。

そして神はあなたの人生にも計画をもっておられる。その計画がどのようなものであるかはわからないが、大切なことは、私たちの未来をも握っておられる方に私たちの人生をゆだねることが最も幸いなことであるということだ。

Ⅲ.わたしは勝利を近づける(12-13)

ここで主は、強情な者、正義から遠ざかっている者たちに、勝利を近づけると言われた。これは驚くべきことである。イスラエルは神にそむく者、反逆する者、強情な者であるにもかかわらず、神は勝利を近づけられる。それが遠くなることはない。たとえ彼らがどんなに神に反逆していようとも、神の救いが遅れることはない。考えてみたら、私たちは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であった。死んでいたのだから、自分から何かをすることはできない。そんな死人同然のような私たちのところに近づいてくださったのは主の方からである。イニシアチブは常に神にある。私たちは罪深い者で、自分で自分を救うことができない無力な存在にすぎないが、そのような者のところに神の方から近づいてくださった。そしてバビロンから救ってくださったように、私たちを罪のバビロンから救ってくださった。わたしの救いは遅れることはない。神の救いはいつもあなたの前に差し出されている。あなたがその救いを受け取るなら、あなたも罪のバビロンから救われ、勝利ある人生を歩むことができる。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたは年をとって、心細くなっていませんか?主はこれからもあなたを運んでくださると信じていますか?

・あなたは、自分が救われた時のことを思い出していますか?主はこれからも同じようにあなたを救ってくださると信じていますか?

イザヤ45:14-25 レジュメ  

「わたしを仰ぎ見て救われよ」                              N070

Ⅰ.ご自身を隠す神(14-17) 

15節に、「イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自身を隠す神。」とある。これは、イスラエルの神は人知をはるかに越えた計り知れないことをされる方であるということ。異教徒のクロス王を用いてバビロンからイスラエルを救うといったことをだれが考えることができであろうか。そのようにだれも考えられないことを神はされる。それゆえ、偶像を作って拝む者は恥を見、はずかしめを受けるが、イスラエルの神に信頼する者は救われる。複雑に絡み合った目先の状況だけを見たら時に挫折することもあるかもしれないが、私たちの背後でいつも神が働いておられることを知り、この方に信頼しよう。

Ⅱ.正義の神、救い主(18-21)

隠れたところで働かれる神は天地を創造された方である。神は、そこに人が住めるようにしてくださった。神はこの地を何の形もない、むなしいものとして造られたのではなく、そこにちゃんと人が住めるように造ってくださった。

それだけではない。19節には、「わたしは隠れた所、よみの場所で語らなかった。」とある。ご自身を隠す神は、その計画を隠したりせずに、明確なことばをもって語ってくださる。

しかも、神はそれを預言として語ってくださった。これから先に起こることを、いったいだれが告げることができるだろう。だれもできない。これから先に起こることを予め、具体的に、正確に語ることができるのは主だけである。それはこの主こそ真の神であるからだ。

Ⅲ.わたしを仰ぎ見て救われよ(22-25)

それゆえに、結論はこうだ。「地の果てのすべの者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」これは19世紀にイギリスで活躍したチャールズ・ハッドン・スポルジョンが回心に導かれたみことばである。彼は救いを熱望して教会を行き巡っていた時、小さなメゾジスト教会に導かれた。大雪で牧師が礼拝に来れなかったのか、その日は靴屋の仕立て屋のような風貌の男が、講壇に上って説教した。その時に開かれたみことばがこれであった。「地の果てのすべての人よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。」彼はこう言った。

「愛する友よ。これは本当に短い聖句です。「見よ」と書いてあります。それは努力のいることではありません。足をあげることでも、手をあげることでもありません。ただ見るだけです。たた見ることを学ぶために大学に行く人はいません。また、そのために千年も費やす必要はないのです。だれでも見ることができます。小さな子どもでもできます。これが、この聖句が言わんとしていることです。そしてこのみことばは、「わたしを仰ぎ見よ」と言っています。ああ、多くの人は自分自身を見ています。自分自身を見ても無益なことです。あなたは決してあなた自身の中に平安を見いだすことはできません。イエス・キリストは「わたしを見よ」と言われました。ある人々は聖霊が働かれるまで待つべきだと言います。しかし、今、あなたがなすべきことはそれではありません。今、あなたが成すべきことはこのキリストを見ることです。ここに「わたしを仰ぎ見て」とあります。このキリストを見てください。」

そのときスポルジョンはキリストを見た。するとその時、雲は消え、暗黒は消え去った。その時彼は太陽を見た。彼は立ち上がり、その熱狂的な人々たちと共にキリストのすばらしい血潮と、彼のみを見上げた。彼は、どうしたらみじめな罪人が救われるのかがはっきりとわかった。それはイエス・キリストを見ることである。イエスを見るとは、イエスを信じることである。このイエスを見る者は救われる。十字架につけられたイエスを信じる者は、みな救われるのである。救われるために必要なことは、ただイエスを見ること、信じることであって、それ以外の何も必要ない。それだけで救われる。これが福音だ。

スポルジョンは、ずっとみじめに生きていた。むなしく生きていた。どんなに人生がんばっても、どんなにおもしろ、おかしく生きたとしても、いつか死んで終わるだけなら、その人生はむなしい。しかし、死んでも終わらないいのちがあるなら、もはや死は恐怖ではない。そこにあるのは永遠のいのちだ。スポルジョンはこのいのちを得たのである。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたは背後で働いておられる神が見えなくて嘆いていることはありませんか?神はあなたの考えを越えたところで働いておられることを覚え、あなたの状況のすべてゆだねましょう。

・あなたはキリストを見ています?それとも他のものを見ていませんか?あなたがキリストを見ないのはなぜでしょうか?考えてみましょう。

イザヤ44:21-28 レジュメ

「成し遂げられる神の計画」                                 N068

Ⅰ.わたしはあなたを忘れない(21-22) 

主はイスラエルに、「あなたはわたしに忘れられることはない」(21b)と言われた。これは驚くべき恵みである。というのは、イスラエルは主によって贖われた者であるにもかかわらず偶像を造り、それらを拝んでいた者たちだからである。そんな彼らに対して主は、「あなたは忘れられることはない」と言われた。たとえ彼らが神を裏切っても、神は彼らを裏切ることはない。たとえ彼らが神を忘れても、神は彼らを忘れない。「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」(22)贖うとは「代価を払って買い取る」という意味である。神が彼らを代価を払って買い取ってくださったので、どんなことがあっても彼らが忘れられることはない。同じように神は私たちをイエス・キリストの十字架の血によって贖ってくださった。イエスは十字架の上で「テテレスタイ」と叫ばれた。意味は「完了した」「完済した」である。あなたの罪の代価は支払われた。神があなたを贖ってくださった。だから、どんなことがあってもあなたが忘れられることはない。あなたに必要なことは、神に帰ることである。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべの悪から私たちをきよめてくださいます。」(Iヨハネ1:9)

Ⅱ.喜び歌え(23)

ここで主は、天に、地のどん底に、山々に、林とすべての木に、喜び叫ぶようにと命じておられる。なぜ?なぜなら、主がこれを成し遂げられたからである。「これ」とは救いの御業のこと。その救いの御業はイスラエルという民族を越え、すべての自然界にも影響を及ぼすほど偉大な御業なのである。あなたは自分が救われたということをどのように受け止めているか?それは驚くべき御業なのである。そのすばらしい救いの御業に対して、天や山々の木々の賛美に合わせ、心からの賛美をささげる者でありたい。

Ⅲ.成し遂げられる神の計画(24-28)

主は、「わたしは、わたしのしもべのことばを成就させ、わたしの使者たちの計画を成し遂げさせる。」(26)と言われた。そのことばとは何だろうか。また、その計画とはどんなものであろうか?それは「エルサレムに向かっては「人が住むようになる」と言い、ユダの町々に対しては「町々は再建され、その廃墟はわたしが復興させる」と言う。」ことだ。これはバビロンによって滅ぼされ廃墟となったエルサレムが再び再建され、人々がもう一度暮らせるようになるということである。果たせるかな、それが実現した。B.C.539年にペルシャの王クロスがバビロンを滅ぼすと、このクロスを通してユダヤ人はエルサレムへの帰還を果たした。それだけではない。「エルサレムに向かっては、「再建される。神殿は、その基が据えられる。」(28)とあるように、かつてバビロンによって破壊されたエルサレムの神殿が再建された。いったいどうやってこのようなことが実現できたのか。神がクロス王を立て、彼を用いることによってである。神はご自分の計画を成し遂げるためにクロス王を用いられた。そんなことを考えられる人は誰もいなかったであろう。しかし、神はこのことが起こる150年も前に、このことを預言者イザヤを通して語られた。そのことばの通りに、神は後にバビロンを滅ぼし、エルサレムの神殿を再建させた。神はご自分が語られたことを必ず成し遂げられる。私たちはこの神のみことばの約束に堅く立ち、それを待ち望まなければならない。テレビやインターネット、あるいは他の人たちの言葉に振り回されるのではなく、みことばを待ち望んで祈りに専念しなければならない。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたは神に忘れられることがない、ということを覚えていますか?あなたは神に帰っていますか?

・あなたは神の約束が実現しないと嘆いていませんか?神があなたに約束してくださったことは何ですか?その約束待ち望んで祈りましょう。

イザヤ44:9-20 レジュメ

「偶像はむなしい」                       N067

Ⅰ.なぜ偶像を造るのか(9-11) 

44章前半のところでイザヤは、まことの神とはどのような方なのかについて語った。この方以外に神はない。なのに、人は偶像を造り、それを拝む。いったい、人はなぜ何の役にも立たない偶像を造るのだろうか?「偶像」とは「切り刻んだもの」である。人は自分がイメージしたものを具現化する。その方がイメージしやすいからである。コロサイ3:5には、「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」とある。つまり偶像とは人間の欲望を具現化したものなのだ。ゆえに偶像礼拝に陥る危険性はクリスチャンにもある。出エジプト20:3には、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」とあるが、まことの神以外のものを神にしてしまうことがある。神よりも仕事を優先したり、家のこと、車のこと、健康のこと、勉強のこと、趣味のことを優先にするなら、それは偶像礼拝である。かつてマルチン・ルターは「人は常に神か、さもなくば偶像を持つ」と言った。人は常に神か、偶像を持つ者なのである。自分の欲望を具現化したものが偶像であるなら、我々はいつもこの偶像を造ってしまう危険性があることを覚えておかなければならない。

Ⅱ.偶像を拝むとどのようになるか(12-17)

人は偶像を拝むとどうなってしまうのだろうか?ここには彼らが神として拝んでいる偶像がどのようなものであり、それを拝むとどうなるかが記されてある。つまり、いくら彼らが「私を救ってください。あなたは私の神だから。」(17)と叫んでも、救ってくれなければ、助けてもくれない。ただむなしさだけが残る。それだけではない。詩篇115:8には、「これを造る者もみな、これと同じである。」とある。つまり、偶像を拝み、偶像に仕えると、偶像のようになってしまう。逆に、まことの神を拝み、まことの神に仕えるなら、神と同じようになる。栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。偶像礼拝の恐ろしさはここにある。あなたが何を拝むのかによって、あなたもそのようになる。ゆえにまことの神を信じ、神に仕えること、神を礼拝し、神と交わることはとても重要である。日曜日の礼拝はすばらしい恵みであり、祝福なのである。もちろん、日曜礼拝だけではない。日常的に神を礼拝すること、神と交わることが重要である。そのことによって私たちも神のように変えられるのだから。

Ⅲ.どうしたら偶像から解放されるか(18-20)

最後に、どうしたら偶像から解放されるかを見て終わりたい。18節には「彼らは知りもせず、悟りもしない。彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって悟ることもできない。」とある。彼らは、偶像に魅了されて、それが偶像だということを悟れないほど霊的に麻痺している。いったいどうしたら偶像から解放されることができるのか?神のみことばに照らし合わせて考えなければならない。自分の考えや自分の判断ではなく、日々神と交わり、神の力を受けなければならない。

Iサムエル5:1-5のところに、神の箱がペリシテに奪われ、ペリシテの神ダゴンの神殿に安置されたことが記されてある。その翌日、彼らが朝早くおきて見ると、何とダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。つまり、主の臨在があると偶像は自然に倒れるということである。それは自分の力では追い出すことはできないが、自分のダゴン神殿の中に神の臨在を運び入れるなら出て行く。もしあなたが神以外のものを神よりも優先すればあなたのダゴンはスッと立ち上がり、あなたの前に立ちはだかるが、日々神と交わり、神の臨在に満たされていれば、ダゴンは倒れる。神の救いに与った者としてむなしい偶像から生けるまことの神に立ち返らなければならない。そのために必要なことは、あなたが神を信じ、この神との交わりに生きること、神の臨在に満たされることなのである。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたは神以外のものを神よりも優先していることはないですか?あなたの偶像は何ですか?

・あなたは神のようになるために、神とどのように交わっていますか?

イザヤ44:1-8 レジュメ 

「わたしのほかに神はない」                N066

Ⅰ.あなたを形造り、あなたを助ける主(1-5) 

主はイスラエルに「恐れるな」(2)と言われた。なぜなら、主は彼らが母の胎内にいる時から彼らを選び、支えておられた方だからだ。そして神は彼らに、「わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。」(3)と言われた。これは神の御霊、聖霊のことである。神は終わりの日に、彼らに聖霊を注ぐと約束された。聖霊が注がれると力を受ける。ちょうど水が人のからだに命と潤いを与えるように、神の霊は私たちに霊的ないのちと力を与えてくれる。そして、彼らが聖霊に満たされると、「私は主のものです」と言うようになる。人が変わることは山を動かすよりも難しいと言われるが、神の霊が注がれるとき、そのように変えられる。それはまさに御霊なる主の働きなのである。

Ⅱ.わたしのほかに神はない(6)

ここで主なる神は、ご自分がどのような方であるかを示された。「イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう仰せられる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。」(6)エホバの証人は、これはエホバなる神のことだと信じているが、これはエホバも含めた三位一体の神ことである。というのは、ここでエホバなる神について使われていることが、イエスに対しても使われているからだ。たとえば、イエスがイスラエルの王であることについてはヨハネ1:49に、また、贖う方であることについてはマタイ20:28で、そして万軍の主であることについてはヨハネ12:41(イザヤ6:3)に、また、初めであり、終わりであることについては黙示録1:17-18に出てくる。しかも、「わたしのほかに神はない」の「神」は複数形で、三つ以上のものを指す「エロヒーム」という言葉が使われている。三位一体という言葉は聖書に出てこないが、その概念はいたるところに見られる。エホバなる神は同時にイエスご自身のことを指しているのであって、この三位一体の神こそまことの神であり、ほかに神はいないのである。

Ⅲ.未来のことを告げられる神(7-8)

ここで主は偶像に、ご自身のほかに神がいるというならその証拠を見せてみよ、とチャレンジしている。神は神としての証拠を見せることによってのみ、その正当性が認められる。その証拠として主が求められたのは、未来のこと、来るべきことを告げてみよ、ということであった。未来のことを告げることができる神こそ本当の神である。聖書が他に類のないユニークな書物であることのゆえんは、ここにある。聖書はこれから後に起ころうとすることを、あらかじめ具体的に告げている。それはこの聖書の神こそ本当の神だからである。この方以外に神はいない。かつてペテロをはじめとする初代教会のクリスチャンたちは、「この方以外には、だれによっても救いはありません。」(使徒4:12)と宣言した。私たちに求められているのはかつてのキリストの弟子たちのように、このように宣言して神の証人になることである。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたは何かで恐れていませんか。神はあなたが母の胎内にいる時から形造られ、守り、支えておられたということは、あなたにどんな確信を与えてくれますか。

・あなたの心は荒地のように渇いていませんか。神はあなたの心を聖霊で満たしてくださいます。あなたも神の霊、聖霊を求めてください。

・あなたは、聖書の神だけがまことの神であるという確信がありましたか。神以外のものに頼ろうとする思いはありませんか。

イザヤ43:14-28 レジュメ

「わたしは新しい事をする」                   N065

Ⅰ.救ってくださる神(14-17) 

主はイスラエルに、「あなたがたのために、わたしはバビロンに使いを送り、彼らの横木を突き落とし、カルデヤ人を喜び歌っている船から突き落とす。」(14)と言われた。これはイスラエルのためにバビロンを滅ぼし、彼らを解放してくださるという宣言である。かつてイスラエルをエジプトから救い出したように、バビロンからも救ってくださる。それはいつの時代も同じである。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(ヘブル13:5)主は今も罪に苦しんでいる人々を救ってくださる。罪の赦しは、いつもあなたに備えられているのである。

Ⅱ.新しい事をされる神(18-21)

ここで主はおもしろいことを言われた。「先の事どもを思い出すな。昔のことどもを考えるな。」先の事とか、昔の事とは、出エジプトに代表されるイスラエルの過去の歴史における神のさまざまな御業のことである。いったいなぜ主はこのように言われたのだろうか?それは、主は新しい事をされるからである。それはこれまで彼らが経験したこととは比べものにならないくらいスケールの大きなもっと偉大なことである。それはイスラエルをバビロンから解放するということであるが、同時に、やがて救い主をこの世に遣わして全人類を罪から救ってくださることである。最初の人アダムによってもたらされた罪ののろいを断ち切るために、神はそのひとり子をこの世に遣わしてくださった。そして、十字架につけてくださることによって、罪を処罰してくださった。イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださることによって、罪の赦しをもたらしてくださった。イスラエルがバビロンから救われたという出来事は、全人類がこの罪から救われるための型だったのである。私たちはイエス・キリストによって罪から救われる。これは新しいことである。かつてイスラエルがバビロンから解放され祖国エルサレムに帰還するとき、道のない荒野に道を造り、水のない荒地に川を設けて彼らを安全に帰還させたように、救い主イエス・キリストを信じる者の心に、主は道を造られる。川を設けてくださるのである。

Ⅲ.罪を赦し、思い出さない神(22-28)

そればかりではない。主はイスラエルの罪を赦し、もう二度と思い出さない、と言われる。「あなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」(25)神はただ罪を赦すのではない。もう思い出さないと言われる。これが人間の赦しと違う点である。人間の赦しは確かに赦すが、忘れることまで含まれていない。時間が経つとまた過去のことが思い出され、いつの間にか苦々しい思いが蒸し返してくる。しかし、神が赦しは、もうすべてを忘れてくださる。「ごめんなさい。赦してください。」言うとき、神はご自分の記憶から完全に消し去ってくださる。それはここに「わたし自身のために」とあるように、神自身のためである。それは私たちが何か良いことをしたからではない。ただ神が一方的にあわれんでくださり、私たちの罪を赦し完全に忘れてくださる。神が彼らを選んでくださったからだ。神が彼らを選び、彼らの神となってくださったので、どんなことがあっても彼らを見捨てるようなことはなさらない。たとえ彼らがうなじのこわい頑固者であっても・・・。これが私たちの神である。神はイエスによって私たちの罪を赦してくださった。もう二度と思い出すことはしない。そして、最後まで守ってくださる。こんなに大きな愛が他にあるだろうか。私たちはこの神の愛によって救われた。だから私たちは自分勝手に生きることを止め神の栄光のために生きよう。「わたしのために造ったこの民は、わたしの栄誉を宣べ伝えよう。」(21)これが救われた者にとってふさわしい応答なのである。

(自分に適用してみましょう!)

・神が新しい事をなさるお方だということは、あなたにどのような希望をもたらしてくれますか?

・これほどまでの神の愛に対して、あなたはどのように応答していますか?あなたはどのように神の栄誉を宣べ伝えていますか。

イザヤ43:1-13 レジュメ

「たとえ火の中、水の中」                    N064

Ⅰ.たとえ火の中、水の中(1-4) 

神に背き、その教えに聞き従わなかったイスラエルに対して、主は「恐れるな」と言われた。主が彼らを贖ったからである。贖うとは代価を払って買い取るということ。主は罪深い彼らを、代価を払って買い取ってくださった。その代価とはエジプトであり、クシュ(エチオピヤ)であり、セバである。主はイスラエルをバビロンから解放するために代わりにこれらの国々を身代金とされた。これは究極的には私たちの罪の贖いとなってくださった神の御子イエス・キリストのことを指している。神がイスラエルを救うためにエジプトやクシュを身代金としたように、全人類を罪から救うために、尊い御子イエス・キリストを身代金としてくださったのである。そのことによって私たちを罪から解放してくださった。神は、それほどに私たちを愛してくださった(ヨハネ3:16)。4節には、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」とある。「あなた」とはイスラエルのこと。神に背を向け、自分勝手な道を歩んでいた者である。神に愛される資格など全くない彼らに対して、主は「わたしの目には、あなたは高価で尊い」と言われた。重要なのは、神の目にとってあなたがどのような存在であるかということだ。これこそ絶対的な基準である。あなたが自分のことをどう思うかとか、他の人があなたをどう思うかといったことは関係ない。神があなたをどのように見ておられるかである。そして、神はあなたを高価で尊い者として見ておられる。私たちは本来、神に愛される資格など何もない。生まれながら地獄に行かなければならないような者であるにすぎないのに、主はそのような者を「愛している」と言われるのだ。神は愛すると決めてくださったので、どんなことがあってもとことん愛してくださる。たとえこの地球上にあなた1人しかいなくても、主はあなたのために来てくださって、十字架でその尊いいのちを投げ打ってくださる。そして、そのようにあなたを愛しておられる主は、あなたがどのようなところに置かれても、必ず守ってくださる。「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」(2)それゆえ、あなたは全く恐れる必要はないのである。

Ⅱ.神の栄光のために(5-7)

ここで再び主はイスラエルに「恐れるな」と語られた。彼らが恐れていたことは何だったのか?バビロンに捕らえられている中で自分たちが将来どのようになってしまうのかという恐れである。しかし恐れることはない。主が彼らとともにおられるからだ。主は彼らを東から来させ、西から集める。北に向かって「引き渡せ」と言い、南に向かって、「引き止めるな」と言う。主は彼らを地の果てから集めると約束された。アッシリヤやバビロンによって離散した民を再び集めてくださる。これは世の終わりの預言でもある。イエスは世の終わりに全世界に離散しているユダヤ人を、天の果てから果てまで、四方から集める(マタイ24:31)と言われた。果たせるかな、A.D.70年にローマ帝国によって全世界に散らされたユダヤ人がイスラエルに帰還し、1948年5月14日にはイスラエル共和国が建国された。人間的には考えられないことだが実現した。いったいなぜこのようなことが起こるのか?それは聖書に預言されていたからだ。その預言のとおりに、世界中に離散していたユダヤ人が集められたのである。だから将来のことは何も恐れることはない。

いったいなぜ主はこのようなことを行われるのだろうか?ここに「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」(7)とある。それは神の栄光のためである。イスラエルがいかに優れた民族であるのかを示すためではなく、神がいかに偉大な方であるかを示すためである。それは私たちも同じ。私たちがこの世に存在しているのは、私たちを愛し、私たちのためにいのちを捨ててくださったキリストの栄光を現すためである。そのとき私たちは自分の存在の目的を果たすことができ、それまで味わったことのないような充足感を得るのである。

Ⅲ.わたしの証人(8-13)

ここで主はイスラエルは「わたしの証人」と言われた(10)。なぜなら、彼らは神に選ばれたしもべだからである。神の証人は自分でなりたくてなれるものではない。選ばれた者だけがなることができる。彼らはそのために選ばれた。同じように、私たちも主イエスを証するために選ばれた。イエスは、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15:16)と言われた。この方こそ主であって、ほかに救い主はいない。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名としては、人に与えられていないからである。その主の御名を宣べ伝える証人としてあなたは選ばれたのだ。だから、決して口をつぐんではならない。この方があなたをどれほど愛しておられるか、また、そのためにどんなに大きなことをしてくださったのか、そして、この方を信じて歩む者を主がどのように守り、支えてくださるのかを、証ししていかなければならないのである。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたは神があなたをどれほど愛しておられるかを考えたことがありますか?あなたに対する神の愛をどのように理解していますか?

・あなたは将来に対する不安はありませんか?神はあなたとともにいるという約束は、あなたにどのような平安と力を与えてくれますか?

・あなたの生きる目的は何ですか?あなたはどのようにキリストの証人になりたいと考えていますか?