イザヤ37:30-38 レジュメ 

「完全な勝利」                             N053

Ⅰ.あなたへのしるし(30-32) 

アッシリヤの王セナケリブの言葉を聞いたヒゼキヤは、主の宮に上り、主の御前にひれ伏して祈った。すると主は、イザヤを通して「あなたの祈ったことを、わたしは聞いた」(21)と言われた。そして、アッシリヤの王はさばかれ、もと来た道に引き返す、というのだ。そのしるしは何であろうか。それは「ことしは、落ち穂から生えたものを食べ、二年目も、またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。」(30)ということである。アッシリヤによって土地が荒らされ、荒廃するため、すぐには収穫は望めないが、徐々に回復していき、やがて安定した生活ができるようになるというのだ。神は少しずつではあるが、しかし確実に回復させてくださる。それゆえ、現状が苦しくてもつぶやいたりせず、神の約束を信じ、忍耐しながらその時を待たなければならない。

そのために必要なことは、下に根を張ることである。「ユダの家ののがれて残った者は、下に根を張り、上に実を結ぶ。」(31)下にしっかりと根を張ってこそ、上に実を結ぶことができる。確かに、やればすぐに成果が現れるというものではない。しかし、だからといって手をこまねいているのではなく、見えない大地の下深くに、下へ下へと根を伸ばしていかなければならない。実は目に見ることができるが、根は外からは見えない。ややもすると私たちは、たちどころに成果が現れるものを求めがちだが、大地にしっかりと根を張るというプロセスなしには実を結ぶことはできないということを覚えておきたい。

 Ⅱ.彼はこの町に侵入しない(33-35)

「それゆえ、アッシリヤの王について、主はこう仰せられる。彼はこの町に侵入しない。また、ここに矢を放たず、これに盾をもって迫らず、塁を築いてこれを攻めることもない。」(33)何と力強い約束であろうか。ここで主はアッシリヤの王について、はっきりと語られた。この町に侵入することはない・・・と。一本の矢も放つ事もなく、エルサレムをまともに攻撃することはないと。なぜ、そのようなことになるのだろうか。ここには「わたしのために、わたしのしもべダビデのために。」(35)とある。主は、そのしもべダビデに、彼から出る世継ぎの子を、彼のあとに起こし、彼の王国を確立させると約束された(Ⅱサムエル7:12)。「世継ぎの子」とはイエス・キリストのことである。イエス・キリストによってもたらされる神の国のことである。もしユダが滅ぼされることになったら、この約束が反故にされてしまう。しかし、主は約束されたことを必ず成し遂げられる。主が語られたことは一つもたがわずみな実現する。主は真実なお方であられるからだ。その約束のゆえに、主はエルサレムを守り、これを救われると言われたのである。

Ⅲ.完全な勝利(33-35) 

その結果、どうなったか?「主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。」(37)いったい何が起こったのだろうか?人々が翌朝早く起きて見ると、アッシリヤの陣営にいた十八万五千人の兵士が打ち殺されていた。ユダヤ人の歴史家ヨセフスによると、これは疫病であったと記録している。それが何であったのかを議論することは全く意味がない。大切なことは、主はヒゼキヤの祈りに答えてくださり、勝利を与えてくださったということである。これは万軍の主の熱心による勝利であった。

このときのヒゼキヤの感極まった心境を歌にしたと言われているのが詩篇46篇の歌である。「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさがまして山々が揺れ動いても。」(1-2)神は我らの避け所であり、力である。苦しむときそこにある助けである。私たちもアッシリヤ包囲されるような事態に遭遇することがあるかもしれない。しかし、どのような事態になっても、神は私たちの避け所であり、助けである。そして、完全な勝利をもたらしてくださる。問題はあなたがこのことを信じて、本気で祈り求めるかどうかなのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!)

・あなたは下に根を葉っていますか?あなたにとって下に根を張るというどういうことですか?

・ヒゼキヤの祈りに答えてくださった主は、必ずあなたの祈りにも答えてくださいます。あなたはそのことを

信じていますか?あなたにとって主を避け所にするとはどういうことですか?

イザヤ37:14-29 レジュメ     

「ヒゼキヤの祈り」                            N052

Ⅰ.まず主の前に(14) 

執拗に南ユダに迫るアッシリヤの王セナケリブから手紙を受け取ったヒゼキヤは、それを読み、主の宮に行って、それを主の前に広げた。彼はまな板の鯉のように自分を主の前にさらけ出して祈った。これは信仰者の模範的な姿である。自分が傷つくような文書を受け取ったとき、あるいは容赦ない言葉を浴びせられるとき、私たちはいったいどうしたらいいのだろうか?それをまず主の前に持って行き、主の前に広げなければならない。すぐに弁護士のところへ行って相談するとか、消費者ローンのところへ、専門のカウンセラーに相談するというのではなく、それをまず主のところに持って行き、主に相談しなければならないのである。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6-7)クリスチャンには祈れるという特権が与えられているのに、なかなか祈ろうとしないのはどうしてなのだろうか?神を信頼していないからである。神よりも自分を信じているので、神よりも他のものを信じているので、なかなか神に祈ろうとしないのである。しかし、困難に直面した時に私たちがすべきことは、まず主のところへ行き、それを主の前に広げること、つまり、祈ることなのである。

 Ⅱ.ヒゼキヤの祈り(15-20)

ではヒゼキヤはどのように祈っただろうか?彼はまず神を神として認め、その神をほめたたえた。「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。」(16)ケルビムとは天使の最高位にある天使のことである。しかし、イスラエルの神はそんなケルビムのはるか上に座しておられる方であり、この方は天地を造られた全能者であると告白した。これが祈りにおいて私たちが真っ先にすべきことである。あなたが窮地に置かれた時、あなたが真っ先にすべきことは、主を認め、主を賛美することである。まず主の偉大さに目を留め、その偉大さをほめたたえなければならない。そうすれば、いつの間にか自分を覆っていた問題がいかにちっぽけなものであったかに気づくようになるであろう。あんなに悩んでいた問題が、実は問題でもなかったということに気づかされるのである。

それからヒゼキヤは、「主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください。」(17)と祈った。主はすべてをご存じであられるのに、なぜこのように祈る必要があるのだろうか?それは、主は私たちと交わりを持ちたいと願っておられるからである。祈りとは神との交わりである。たわいもないことであっても主に祈るなら、主は喜んでそれを聞いてくださる。

しかし、ヒゼキヤの祈りの究極的な目的は何であったかというと、次のことであった。「私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、他のすべての王国は、あなただけが主であることを知りましょう。」(20)そう、ヒゼキヤは祈りの中で主の御名があがめられることを求めた。これが祈りの目的である。主イエスも十字架を前に、ゲッセマネの園で「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と祈られた(マタイ26:39)。たとえ十字架にかけられて死ぬようなことになっても、たとえ自分の願いがかなえられなくても、ただ神のみこころのとおりにしてくださいと祈ること、これが祈りの目的なのである。

Ⅲ.ヒゼキヤの祈りの答え(21-29) 

ヒゼキヤの祈りに対して、主はどのようにお答えになられたであろうか?主はイザヤを通して次のように言われた。「あなたは聞かなかったのか。昔から、それをわたしがなし、大昔から、それをわたしが計画し、今、それを果たしたことを。」(26)「あなたがすわるのも、出て行くのも、入るのも、わたしは知っている。あなたがわたしに向かっていきりたつのも。」(28)どういうことか?すべてのことは主がご計画され、主が成されたということである。すべてのことに主の御手が働いていた。アッシリヤはそれらすべてのことを自分たちの力によって成し遂げたと自分たちの業績を誇ったが、そうではない。彼らはただ神の道具として用いられたにすぎなかった。すべては主の御手の中にあったのだ。このように神の主権を知ることは重要なことである。すべてのことの中に主の御手があることがわかるとき、安心することができる。たとえ苦しいこと、辛いこと、嫌なこと、理不尽に思えることがあっても、そこにも神の御手が働いていることを知るなら、その状況さえも受け入れることができる。このことはヒゼキヤにとってどれほど大きな慰めであったことか。私たちも何かで悩み、苦しむことがあったら、ヒゼキヤのように主のもとに行き、主に祈ろう。そうすれば、主がその祈りに答えてくださる。あなたの悲痛を祝福へと変えてくださるのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!)

・あなたは問題に直面するとき、どこに助けを求めていますか?あなたが祈ろうとしないのはどうしてですか?

・ヒゼキヤの祈りから何を学びましたか?あなたは神に栄光が帰せられることを求めて祈っていますか?あなたの祈りに必要なことはどんなことですか?

イザヤ37:1-13 レジュメ 

「困難に直面する時」                           N051

Ⅰ.主の宮に入ったヒゼキヤ(1) 

南ユダ王国に迫った国家的レベルの危機に対して、ヒゼキヤ王はどのように対処したか?まず彼は自分の衣を裂き、荒布を身にまとって、主の宮に入った。衣を裂くとか、荒布を身にまとうとは、悲しみと悔い改めを表現する当時の風習である。ヒゼキヤはこれまで主に頼ることをせず自分の考えでエジプトと同盟を結び、アッシリヤに金銀を差し出すことによって難局を乗り越えようとした結果、アッシリヤに取り囲まれることになってしまった。そのことを悔い改め、荒布をまとって主の御前の出たのである。私たちもヒゼキヤのように危機的な状況に直面することがある。そのような時私たちがしなければならないことは、主の宮に入り、主の御前に心を注いで祈ることである。そうすれば私たちは、いつでもどこからでも祝福を受けられる。その鍵は、どこにへたり込んでいても、自在に引き上げることがおできるになる方に向かって祈り求めるか否かにある。

 Ⅱ.祈りをささげてください(2-4)

それだけではない。ヒゼキヤは宮内長官エルヤキム、書記シェブナ、年長の祭司たちを預言者イザヤのところに遣わしてこう言った。「きょうは、苦難と、懲らしめと、侮辱の日です。子どもが産まれようとするのに、それを産み出す力がないのです。おそらく、あなたの神、主は、ラブ・シャケのことばを聞かれたことでしょう。彼の主君、アッシリヤの王が、生ける神をそしるために彼を遣わしたのです。あなたの神、主は、その聞かれたことばを責められますが、あなたはまだいる残りの者のため、祈りをささげてください。」(3-4)

彼は自分が祈っただけでなく、自分のカウンセラーとしていつも指導を仰いでいたイザヤに、祈りの応援を求めた。「子どもが生まれようとしているのに、それを産み出す力がない。」と。祈りは内容も大切だが、その態度が重要である。彼は自分をさらけ出して祈った。私たちはこのように自分をさらけ出すことが苦手である。人の前である程度社会性をもった人間であるように思われたいためか、自分の感情を抑圧する傾向がある。そのため、ありきたりの、形式的な祈りで終わってしまうことが多い。時にはヒゼキヤのように、自分をさらけ出して祈ることも必要である。そのように自分をさらけ出せる人は、「どうか、私のために祈ってください。」と言える。苦難に会う時自分で祈ることも大切だが、このように祈ってもらうことも大切である。ヒゼキヤは「自分には産み出す力がない」と認めていたからこそ、そのように言うことができた。そのように認めることができる人だけ「祈ってください」とお願いすることができる。私たちも互いのために祈ろう。そうすれば、その一つ一つの祈りが水滴のように集まって、やがて逆らうすべてのものを寄せ付けないほどの大海になるからだ。

Ⅲ.あのことばを恐れるな(5-13) 

その結果、ヒゼキヤはイザヤを通して主のことばをいただいた。それはあのラブ・シャケのことばを恐れるなということであった。それはヒゼキヤやユダの住民をバカにしたというよりも、彼らが信頼していたイスラエルの神、主を冒涜することであった。それゆえに主は彼らに立ち向かってくださる。ヒゼキヤは何も恐れる必要はない。このことばはヒゼキヤにとってどれほどの慰めと励ましを与えてくれたことか。というのは、この恐れこそ私たちにとっての最大の敵であるからだ。私たちが恐れるとき、私たちは力を失う。立ち上がることができなくなり、まるで風船から空気が抜けてしまうように萎えてしまう。それがひどくなると生きていくことさえできなくなる。そんなヒゼキヤに対して主は「恐れるな」と語って励ましてくれたのである。

そればかりではない。主は具体的にご自身がどのように働かれるのかを示してくださった。それは、主はラブ・シャケの中に一つの霊を入れ、彼はあるうわさを聞いて、自分の国に引き上げるようになるということであった。果たせるかな、それが実際に起こった。ラブ・シャケはクシュの王ティルハカが戦うために出てくるという噂を聞いて、一時エルサレムを退いた。そして結局、アッシリヤの王セナケリブは自分の国に帰って行き、そこで二人の息子に殺されてしまうことになる。(Ⅱ列王記19章)主が言われたとおりになった。ヒゼキヤはイザヤを通して主のことばを聞いたとき、目の前にあった問題を完全に解決することができたのである。私たちもヒゼキヤのように自分の衣を裂き、荒布を身にまとい、神の御前にひれ伏して祈るなら、神は私たちにもみことばを与え、今の問題から解放し、その危機的な状況から完全に救い出してくださるのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!)

・あなたは問題に直面するとき、それをどのように解決しようとしていますか。主の宮に入っていくことを妨げているものは何ですか?

・あなたは自分の問題について他の兄弟姉妹に祈ってもらおうとしていますか?それを妨げているものがあるとしたら、それは何ですか?

・あなたは神のことばによって問題から解放されたという経験がありますか?

イザヤ36:1-22 レジュメ

「敵の攻撃を受ける時」                          N050

Ⅰ.恐れない(1-10) 

ここから39章までこのイザヤ書前半の締めくくりとして、イザヤの時代に実際に起こった歴史的な事実が取り上げられている。アッシリヤの王セナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々を攻めて、これを取った。そして彼の片腕であった将軍ラブ・シャケに大軍をつけて、ヒゼキヤのところへ送った。降伏を迫るためである。ラプ・シャケはこう叫んだ。「いったい、おまえたちは何に拠り頼んでいるのか。」(4)エジプトに信頼したって無駄である。彼らの毛布は短すぎて、何の役にも立たない。では、「われわれの神、主に拠り頼む」というのか。そんな主など、ヒゼキヤがその高きところと祭壇を取り除いてしまったではないか。それなのに「この祭壇に向かって拝め」というのはおかしいだろう。そう言ってユダを混乱させようとしたのだ。(7)しかし、これは明らかにラプ・シャケの誤解である。ヒゼキヤは主の祭壇を取り除いたりはしなかった。彼が取り除いたのは偶像の祭壇であって、異教の神々であった。ヒゼキヤはそうした偶像を取り除き、まことの神だけに礼拝をささげるようにと命じたのを、何を勘違いしたのか、ラブ・シャケはそのように思い込んでいたのだ。それはラブ・シャケの背後に悪の力、サタンの力が働いていたからである。神の敵である悪魔がイスラエルを滅ぼそうと混乱させ、してもいないことを、言ってもいないことを、あたかもやっているかのように平気でうそぶいていたのである。これがサタンの仕業である。

そればかりではない。ラブ・シャケは圧倒的な軍事力の差を見せつけ、神に信頼したって無駄であること、そんな神を拝んでも何にもならないと言い切った。(8-9)さらに10節を見ると、こうして彼らがユダを滅ぼすために上ってきたのは、主のみこころによると言っている。主の名を使ってまでうそぶくのである。これが悪魔の常套手段である。何と巧みな策略であろう。

こうした敵の巧みな攻撃に対してヒゼキヤに遣わされた三人の高官たちは、間違った対処をしてしまった。彼らはラブ・シャケにヘブル語で話さないでアラム語で話してくださいと頼んだ。ユダの民がこれを聞いて意気消沈することを恐れたからである。その結果、逆にラプ・シャケに弱みを握られ、ラブ・シャケはヒゼキヤのしもべたちの頼みを一蹴し、もっと大きな声で、だれにでもわかるヘブル語で叫び続けることになってしまった。このように敵に取り囲まれるとき敵であるサタンを甘くみてはいけないが、過度に恐れる必要もない。たとえ敵が、あたなの弱みにつけこんで攻撃してきても、その脅かしにおびえたり、恐れたりせずに、主の御名によって大胆に立ち向かっていかなければならない。

 Ⅱ.信仰に高く立って(13-17)

大声で叫ぶラブ・シャケのことばに、エルサレムの住民の中には少なからず動揺した人もいたであろう。そんな彼らにラブ・シャケがたたみかけるかのように語ったことばは、さらに彼らの心を引きつける内容であった。彼は、もしアッシリヤの王と和を結ぶなら、おまえたちはみな、自分のぶどうと自分のいちじくを食べ、自分の井戸から水を飲むことができると言った。(16)彼らに甘いことばをかけ、巧みに誘導したのだ。かつて主イエスが四十日四十夜断食した後で荒野に導かれた時もそうだった。敵である悪魔はイエスに、「あなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい。」(マタイ4:3)と言って、イエスを誘惑した。サタンはいつもあなたが苦しい時に甘いことばを持ちかけ、あなたをたぶらかそうとする。しかし、そのような時こそ信仰に堅く立たなければならないのである。

Ⅲ.ただ黙って、主を待ち望む(18-22) 

敵である悪魔は、さらにたたみかけるようにユダの民に叫び続ける。ヒゼキヤが、主が自分たちを救い出してくれると言っているがそんなことは絶対にないと、理路整然に訴えた。見てみなさい。これまでどの国の神々が、アッシリヤの王の手から救い出すことができただろう。どの神もできなかった。それはイスラエルの神も然りである。決してできない。

しかし、その時人々はどのように応答したか?彼らは黙って、一言も答えなかった。「彼に答えるな」というのが、王の命令だったからである。(21)これはとても賢い対応であった。私たちはよく沈黙すべき時に沈黙することができず失敗したり、不利益を被ってしまうことがある。敵の攻撃に対していちいち耳を傾ける必要はない。一番いい方法は沈黙することである。ただ黙って一言も答えず、全く相手にしないのがいい。相手にするから問題になる。(エバのように)相手にしなければ、敵はあなたから離れていくことになる。あなたがすべきことは、ただ黙って神を待ち望むこと(詩篇62:1-2,8)である。救いは神から来る。神こそ、わが岩、わが救い、わがやぐらである。神に信頼し、神に心を注ぎだして祈れば、決してゆるがされることはない。これが敵の攻撃を受ける時に私たちが取るべき最善の策なのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!)

・あなたは今、敵のどのような攻撃を受けていますか?その攻撃にあなたはどのように対処していますか?恐れていませんか?あなたが今、しなければならないことはどんなことですか?

・敵の甘いことばで信仰がゆらいでいませんか?あなたが接している友人は信仰を強めてくれる人ですか?それとも逆に信仰を失わせる人ですか?

・沈黙すべき時に沈黙することができずに、失敗したことがありますか?あなたは敵の予想外の攻撃に対してどのように対応しますか?

イザヤ35:1-10 レジュメ

「やがて来る神の国の祝福」                         N049

Ⅰ.荒野は楽しみ、荒地は喜ぶ(1-2) 

主イエスが再臨され千年王国を樹立される時、「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。」(1)アダムの罪によって呪われた地が贖われるからである。その時、荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるので、そこは潤される。このようなことは、神が荒れ果てた地に無限に水を注いでくださることによってのみ可能となる。決して人間の力によってできることではない。ただ神の恵みが洪水のように注がれることによってのみ可能になるのである。その時、これまでカラカラに乾いていた地が潤され、盛んに花を咲かせるようになる。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光を賜るので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見るのである。もしあなたの心が乾いているなら、それは神の聖霊に満たされていないからである。ただ聖霊だけが乾いたあなたの心を潤すことができる。その時、あなたの心もシャロンの野のように変えられるのである。

 Ⅱ.強くあれ、恐れるな(3-7)

主が再び来られる時、自然界が回復するだけでなく、人間も回復する。「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。」(5-6)これは、今から二千年前に主イエスが来られたとき、この地上でなされたことである。主イエスは、「おいでになられる方はあなたですか」とのバプテスマのヨハネの質問に対して、「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい」と言った。「目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァロートに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている」と。(ルカ7:22)つまり、こうしたことが来るべきメシヤのしるしであったわけである。主イエスがこのようなことをされたのは、ご自分が来るべきメシヤそのものであることを示すためであった。しかし、それはほんの一部分でしかなかった。主イエスが再臨される時には、それが完全な形でもたらされる。それがこの千年王国に起こることなのである。

だから、「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりせよ。心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ。恐れるな。見よ。あなたがたの神を。復讐が、神の救いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」(3-4)主イエスが再び来られるとき、私たちのからだをも贖ってくださる、救ってくださることを知っているからこそ、私たちはここに希望を置くことができる。そして、その希望は私たちに真の励ましと力を与えてくれる。さまざまな苦しみや圧迫によって弱った手を強め、よろめいたひざをしっかりさせてくれる。いろいろなことで思い煩い、パニックっている人たち、ひっくり返っている人たちに勇気と力を与えてくれるのである。主イエスが来られるというメッセージは、主イエスが来て、あなたがたを救ってくださるというメッセージは、真にあなたを強めてくれるのである。

Ⅲ.そこにある大路(8-10) 

神は荒野に大路を作られる。その道は「聖なる道」と呼ばれる。そこは汚れた者は入ることができない。ただ贖われた者だけが、罪が許された者だけが通ることができる。そこには獅子も猛獣もいない。千年の間底知れぬ所に入れられるので、そうした悪がはびこることはない。その道を行く者は喜び歌いながらシオンに入る。そこでとこしえの喜びをいただく。悲しみと嘆きとは逃げ去り、楽しみと喜びがついて来る。この大路こそ主イエス・キリストである。イエスは、「わたしが道であり、真理であり、いのちです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)と言われた。主イエスの血潮によって救われた人は、この大路を歩むことができる。決してそこから再び失われることはない。その人たちにあるのは永遠の喜びだけである。私たちの救いはまさにこのようなものなのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたの心は荒野のように乾いていませんか?あなたはその心をどのように満ちそうとしていましたか?ただ神だけが満たすことができるとしたら、あなたがしなければならないことはどんことだと思いますか?

・あなたは、どんなことで弱っていますか?よろめいていますか?心を騒がせていますか?主が来られてあなたを救ってくださるというメッセージは、あなたにどんな力を与えてくれますか?

・あなたは、神が用意してくださった大路を歩んでいますか?あなたが歩いている道はどんな道ですか?もし自分の知識や経験、考えといった道を歩んでいるとしたら、悔い改めて、主イエスを信じ、この大路を歩む者となりましょう。

イザヤ34:1-17  レジュメ

「確かな主のことば」                                      N048

Ⅰ.国々よ、聞け。(1-4)

すべての国々の、すべての人々に対する主のことばである。「主がすべての国に向かって怒り、すべての軍勢に向かつて憤り、彼らを聖絶し、彼らを虐殺されるままにされるからださ」(2)この地上における人類の最終戦争の預言である。そのとき、「彼らの殺された者は投げやられ、その死体は悪臭を放ち、山々は、その血によって溶ける。天の万象は朽ち果て、天は巻き物のように巻かれる。その万象は、枯れ落ちる。」(3-4)最初の人アダムによっててもたらされた罪によって、この地はのろわれたものとなってしまった。神はその罪を精算し新しいものに再創造されるために、この世をさばかれる。すべての国々の、すべての民は、このメッセージを聞かなければならない。この神のさばきから逃れるために、主イエスを信じなければならない。「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」(Iテサロニケ5:9)

Ⅱ.エドムに下る神のさばき(5-15)

エドムとは、エサウを先祖に持つ子孫のことである。彼らはエドムに住むようになったので、エドム人と呼ばれるようになった。彼はもともと双子の兄弟ヤコブの兄であつた。しかし、一杯のスープのために自分の長子の権利を弟ヤコブに売っしまった。それゆえ、「神はヤコブを愛し、エサウを憎まれた。」エドム人は神の敵となってしまった。イスラエルに敵対するようになったのである。そんなエドムに対して神は復讐されるのである。神に敵対してはならない。神に敵対すれば、神にさばかれることになる。しかし、神が私たちの味方であるなら、だれも私たちに敵対することはできない。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子といつしよにすべてのものを、私たちに恵んでくださる。だから大切なことは神に立ち返ること、神と和睦することである。エドムのように神にさばかれることがないように、このメッセージを聞かなければ上らない。

Ⅲ.確かな主のことば(16-17)

これまでイザヤが語ったことは必ず実現する。なぜなら、それは神のことばであるからだ。「これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、主の国がこれを命じ、主の御霊がこれらを集めたからである。」(16)だから、主の書物を調べて読まなければならない。つまびらかにたずねなければならない。ペテロは、「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」(Iペテロ1:23)と言っている。このみことばが永遠のいのちをもたらす。この種がその人の心に蒔かれると芽が出て、美しい花を咲かせ、実を結ばせてくれる。だから、主の書物を調べて読み、つまびらかにたずねて読みたい。いのちの花はそこから咲くのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!)

・あなたは、世の終わりについてどのように受け止めていましたか。この    みことばは、あなたの生活をどのように変えますか?

・あなたは、神の民であるクリスチャンに言葉や行動で傷を与えていませんか?神の民であるクリスチャンの成功を心から喜び、祝福していますか?

・あなたは、どのように聖書を読んでいますか。あなたにとつて聖書を調べて読むとはどういうことですか?そのためにあなたにできることはどんなことですか?

イザヤ33:17-24 レジュメ

「この方が私たちを救われる」                             N047

Ⅰ.麗しい王(17-19)

「あなたの日は、麗しい王を見、遠く広がった国を見る。」(17)「麗しい王」とはイエス・キリストのことである。キリストは世の終わりに再び来られ、千年王国を樹立する。その預言である。その時、あなたの日は麗しい王を見、遠く広がった国を見るようになる。そこにはもう恐ろしかった事どもはない。「数えた者」、「測った者」、「やぐらを数えた者」はもういない。主が彼らを滅ぼされたからである。これはイザヤの時代で言うとアッシリヤのことである。主が来られ、彼らを滅ぼされたので、彼らはどこかへ行ってしまつた。横柄な民はもう見ないのである。

Ⅱ.祝祭の都(20‐21)

「祝祭の都」とはエルサレムのことである。エルサレムでは主を祝うためのたくさんの祭りが行われていた。そこは安らかな住まいである。天幕が取り払われたり、鉄のくいが抜かれたり、その綱が切られたりすることはない。どんなに敵が強大でもこの祝祭の都が破壊されたりすることは絶対にない。そこに麗しい王が来られ、世界を治められるからである。逆に、そこに多くの川を、広々とした川を見るようになる。キリストが再臨してオリーブ山に立たれるとき、オリーブ山は真っ二つに裂け、エルサレムから湧き水が流れるようになるからである。それはチョロチョロと流れる小川ではない。怒濤のように、まるで洪水のように流れる川である。その川は盗れ、いくつもの川になって流れるようになる。

これは霊的にどういうことを言っているのかというと、イエスを信じる者の心に、このような川が流れるようになるということである。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言つているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水のり||が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37)

これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことである。この時にはまだイエスが栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかった。しかし、キリストが十字架にかかって死なれ、三日日によみがえられ、天に上って行かれた今、イエスが栄光を受けられるとき、御霊は大きな川のようになつて私たちの心に注がれる。もしあなたがイエスを信じ、このイエスにあなたの人生のすべてをささげると決心するとき、あなたの心の奥底にも、この生ける水の川が流れるようになるのである。

Ⅲ。この方が私たちを救われる(22‐24)

「まことに、主は私たちをさばく方、主は私たちの立法者、主は私たちの王、この方が私たちを救われる。」(22)私たちは人をさばくことはできない。また、正しいルールを定め、それを治めていくことも無理である。人はうわべを見るからだ。しかし、主は心を見られる。主はすべてを正しく判断され、完全に治められる。だから「そこに住む者は、だれも「私は病気だ」とは言わず、そこに住む民の罪は赦される。」(24)これが主が治められる国、千年王国である。その時には足が不自由であつたり、身体的なハンディキャップによつて不自由な生活を余儀なくされることはない。「私は病気だ」という人はおらず、罪責感、罪悪感で悩むこともない。平和に満ちた世界がもたらされる。それはイエス・キリストが治められるからだ。麗しい王であられるイエス・キリストが来られるとき、すべてを刷新される。ゆえに、私たちはこの麗しい王を待ち望む者でなければなせない。新しい年が、この主を待ち望み、主に従い、主を御名だけが崇められる年であるように。すべてのすべてであられるキリストがあがめられる年となるように。

まとめ(自分に適用してみましょう!)

・あなたを取り囲んでいる強大な敵は何ですか。あなたの日は何を見ていますか?目の前の問題ですか、それとも麗しい王でしょうか?

・あなたの心の奥底に、生ける水の川が流れていますか?イエスが栄光を受けられるためにあなたがしなければならない決心は何ですか?

イザヤ33:1-16 レジュメ  

「今、わたしは立ち上がる」                            N046

Ⅰ.主を恐れること(1-6) 

ユダを踏みにじり、ユダとの和平協定を破ってエルサレムを包囲したアッシリヤに対して、さばきのことばが語られる。人を裏切り、踏みにじる彼らは、踏みにじられ、裏切られることになる。それに対して、主にあわれみを求めて祈り、主を待ち望んだユダは、主からあわれみを受けることになる。アッシリヤがどんなに強大であっても主はそれ以上に力のある方だ。この天地を創造された全能者である。この方が正しくさばいてくださる。いつまでも踏みにじられたままではない。いつまでも裏切られたままでもない。私たちは苦難に会うとき、そして、その苦難が長く感じられるとき、神に対する信仰が弱くなってしまうことがある。しかし、このような時こそ、神のあわれみを求めて祈り他のものに頼もうとする不信仰と絶望感を捨てて、神の助けを待ち望まなければならない。なぜなら、主こそあなたの時代の確かなよりどころであるからだ。主こそ知恵、知識であり、救いの富である。不安と激動の時代にあっても、信頼できるのはこの主だけであって、この方を恐れることがあらゆる問題の鍵であり、豊かさの秘訣なのである。

 Ⅱ.主は立ち上がる(7-12)

賠償金を納めることで和平協定を結ぼうとしたユダは裏切られ、完全に滅ぼされようとしていた。「レバノンははずかしめを受けて、しなび、シャロンは荒地のようになり、バシャンもカルメルも葉を落とす。」(9)この世の力で、自分の知恵で何とかしようとした結果、ユダはしおれた葉のようになってしまった。そのとき、ユダの王ヒゼキヤは、ただ主のあわれみを求めて祈った。イザヤにも使いを送り、祈りを要請したのである。そのとき、主が答えてくださった。「今、わたしは立ち上がる」と主は言われる。「今、わたしは自分を高め、今、あがめられるようにしよう。」(10)ある晩に、主の使いがアッシリヤの陣営に出て行き、185,000人もの人を打ち殺したのである。その結果、アッシリヤの王セナケリブは自分の国に帰ったが、彼が偶像の宮で拝んでいたとき二人の息子に剣で殺されてしまった。これまで沈黙していたかのように思われた主が、立ち上がられた。ヒゼキヤの祈りに答えてくださったのである。主はいつまでも黙っておられる方ではない。あなたのために立ち上がられる。あなたの祈りに答えてくださる方なのである。

Ⅲ.神を敬うこと(13-16) 

「遠くの者よ。わたしのしたことを聞け。近くの者よ。わたしの力を知れ。」(13)近くの者とはユダの人たちのことである。彼らの中にはせっかくイザヤが神のことばを語ったのにそれを無視した人たちがいた。彼らはイザヤのメッセージを聞いて神にすがろうとするよりも、あくまでも自分たちの力で窮地を脱しようとした。ここではそのような人たちのことを「罪人たち」とか「神を敬わない者」と言われている。これは「不信者」とか「偽善者」のことである。神を信じていると言いながら、その神に従おうとしない人たちのことである。ただ物理的にシオンにいれば救われるということではない。たとえ神の民と呼ばれる人たちであっても、信仰を持たなければ滅んでしまう。「私たちのうち、だれが焼き尽くす火に耐えられよう。私たちのうち、だれがとこしえに燃える炉に耐えられよう。」(14)だれも耐えられない。それは深く、広く掘られているからだ。そこには火とたきぎとが多く積んであって、硫黄の流れのようにそれを燃やすので、その火は永遠に尽きることはない。これがゲヘナ、地獄である。その火に耐えられる人はだれもいないのである。神を信じない人、信じていると言いながら実のところはそうでない人たちは、この中に投げ入れられる。

けれども、神を信じ、神を敬う人が焼き尽くされることは絶対にない。なぜなら、イエス・キリストがその人の身代わりとなって十字架で死んでくださったからである。キリストがその人の代わりに神のさばきを受けてくださったので、この火で焼き尽くされることは決してない。それは恐怖とはなり得ないのである。そのような人は、正義を行い、まっすぐに語り、わいろを受け取らず、悪には加担しない。そのような人は高い所に住み、そりとりでは岩の上の要害となる。そのような人には日毎の糧が供給される。これが神を信じる人、クリスチャンの姿である。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・困難に直面するとき、あなたは何を求めていますか?神のあわれみを求めて祈っていますか?この世の力に頼ろうとしていません?

・あなたは正義を行っていますか?まっすぐに語っていますか?わいろを取ったりしていませんか?わいろを取ったりしていませんか?悪に無加担しているようなことはありませんか?

イザヤ32:1-20 レジュメ 

「義は平和をつくり出す」                             N045

Ⅰ.高貴な人は高貴なことをする(1-8) 

神ではなくエジプトに頼っていたユダに対してさばきを警告した神は、終わりの日に、親鳥がひなを守るようにユダを守られると約束された。ここでは、その終わりの日に起こることについて語られている。「見よ。ひとりの王が正義によって治め、首長たちは公義によってつかさどる。」(1)ひとりの王とはイエス・キリストのことである。終わりの日、そしてそれに続く千年王国では、キリストが正義によって世界を治める。彼はあらしの避け所のように人々を守られ、砂漠の川のようにいのちを与え、かわききった地にある大きな岩陰のように安息を与える。そこには完全な平和と完全な憩いがもたらされる。(2)それだけではない。「見る者は目を堅く閉ざさず、聞く者は耳を傾ける。気短な者の心も知識を悟り、どもりの舌も、はっきりと早口で語ることができる。」(3-4)これまで霊的に無感覚だった心が変化し、はっきりと見聞きできるようになる。また、これまで悟れなかった神のみことばを悟れるようになり、真理を明確に語れるようになる。「もはや、しれ者が高貴な人と呼ばれることがなく、ならず者が上流の人と言われることもない。」(5)「しれ者」とは「愚か者」のこと、「ならず者」とは、「悪いことをたくらむ者」のことである。彼らは神を恐れず、神の御心に逆らい、みだらなことをたくらみ、貧しい者をないがしろにするが、そういう人たちが高貴な人と呼ばれることはない。高く評価されることは絶対にない。高貴な人は高貴なことを計画し、高貴なことを、いつもする。(8)これがクリスチャンである。クリスチャンは自ら進んで神を礼拝し、飢えている人たち、貧しい人たちに愛の手を差し伸べる。私たちは高貴な人でなければならない。

 Ⅱ.エルサレムを守られる主(9-14)

ここに急に女性たちが出てくる。「のんきな女たち」と「うぬぼれている女たち」である(9)。「のんきな女たち」とは「安逸をむさぼっている女たち」のことである。彼らは神に頼るようにと何度も警告されても霊的に無感覚になっており、恥ずべき生活を悔い改めることをしなかった。また「うぬぼれた女たち」とは「自信過剰な女たち」のことである。彼らが信じていたのは自分自身であった。だから主に信頼するようにと何度も警告されても、「大丈夫。何の問題もない」と言って自分の考えで生きていた。そういう人たちには、突如として滅びが襲う。豊かな収穫を期待し、喜びに酔っていた女たちが、突如として胸を打って、嘆くようになるのである。

Ⅲ.義は平和をつくり出す(15-20) 

「しかし、ついには、上から霊が注がれ、荒野は果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。」(15)そればかりではない。神との和解を達成した平和な社会が現れる。「義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす」(17)からである。「義」とは神との関係である。神との関係が平和をつくり出す。神との関係が正しくないと平和はない。不安になってしまう。平和がほしければ、平穏でいたければ、神との関係を求めなければならないのである。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との関係を持っています。」(ローマ5:1)クリスチャンはイエス・キリストを信じる信仰によって義と認められた者であり、神との間に平和を持っている者である。ゆえに、クリスチャンにはこの平和が約束されている。「わたしの民は、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住む。」(18)神の民であるクリスチャンには、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場が与えられている。イエス・キリストはそのためにこの世に来てくださった。キリストは平和の君として来られた。あなたがキリストを信じるなら、あなたにもこの平和が与えられる。アドベントのこのとき、このイエス・キリストの救いを待ち望む者でありたい。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・高貴な人は高貴なことをします。あなたがしていることはどんなことですか。あなたが見ているもの、また計画していることはどんなことですか?

・問題がないからといって今の生活に安住していませんか?その安逸が霊的無感覚となり、主からの語りかけを逃していませんか?

・あなたの家庭は平和ですか?あなたの職場、学校はどうですか?もし平和でないとしたら、どこに問題がありますか?

イザヤ31:1-9 レジュメ  

「この方以外に救いはない」                            N044

Ⅰ.心を尽くして主により頼め(1-3) 

ここでもエジプトにより頼むことがいかに愚かなことであるかが語られている。北からアッシリヤが攻めて来てエルサレムを包囲したとき、彼らはイスラエルの聖なる方に目を向けず、エジプトの馬に、多数の戦車と、非常に強い騎兵隊とにより頼んだ。人はすぐに目に見えるものに頼ろうとする。目に見える力、能力、技術力に頼ろうする傾向がある。それはイスラエル(南ユダ)も同じだった。彼らはエジプトの軍事力に頼ろうとした。そういうものに目を留めていたのである。しかし、クリスチャンとは神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスの力を誇り、人間的なものを頼みとしない人たちである。(ピリピ3:3)心を尽くして主により頼まなければならない。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにしてくださる。

なぜ主に拠り頼まなければならないのだろうか。それは「主は、知恵ある方、わざわいをもたらし、みことばを取り消さない」(2)からである。神は全知全能である。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い。(Iコリント1:18-25)これほど確かな保障はない。世界中を敵に回しても、それ以上に力のあるこの方がついていれば鬼に金棒である。だから、この方を恐れ、この方に頼らなければならないのである。

 Ⅱ.エルサレムを守られる主(4-5)

たとえアッシリヤが攻めて来ても大丈夫。「万軍の主は飛びかける鳥のように、エルサレムを守り、これを守って救い出し、これを助けて解放する。」(6)この言葉通りに、主の使いがアッシリヤの陣営に出て行き、一晩で18万5千人を打ち倒した。まさに主は飛びかける鳥のように、エルサレムを守ってくださった。それは世の終わりに起こる預言でもある。やがて世界中の軍隊がメギドの丘、ハルマゲドンに集結し、主とその勢力に向かって対抗する。しかし、主は天からやって来てエルサレムに着座されると、御口の剣をもって敵を滅ぼされる。(黙示録19章)まさに飛びかける鳥のように、エルサレムを守られるのである。そしてそれはいつの時代も同じである。主はエルサレムであるご自身の民の上に特別に御目を注いでくださり、これを守り、守って救い出し、これを助けて解放してくださる。だから私たちはこの方を待ち望み、この方により頼まなければならないのである。

Ⅲ.この方以外に救いはない(6-9) 

それゆえ、主はイスラエルに仰せられる。「あなたがたが反逆を深めているその方のもとに帰れ。」(6)悔い改めて、正しい方向に転換するようにと言うのだ。そうすれば、親鳥がひな鳥を守られるように、主はその愛によって守られる。ここには「アッシリヤは人間のものでない剣に倒れ、人間のものでない剣が彼らを食い尽くす。」(8)とある。これは主の使いがアッシリヤの兵士18万5千人を打ち倒したことを指している。彼らが何かしたから救われたのではない。ただ主の使いが出て行き、彼らを打ち倒されたので彼らは救われたのだ。救いは人間の力によるものではない。私たちを究極的なさばきから救うことができるのはイエス・キリストだけである。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名の他に救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)私たちはこの方に目を向け、この方を求め、この方に拠り頼まなければならないのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたが恐れているものは何ですか?あなたにとってのアッシリヤは何ですか?その強大な敵(問題)に対して、あなたはどのように対処しようとしていますか?

・あなたが目を向けているのは何ですか?何を求めていますか?