イザヤ16:1-14 レジュメ

「涙であなたを潤す」                           N023

Ⅰ.子羊を送れ(1-5) 

前回に続き、モアブに対する宣告が語られている。主はモアブに、「子羊を、この国の支配者に送れ」(1)と言われた。この国の支配者とは南ユダ王国のことである。モアブは今アッシリヤからの攻撃を受け、国外に逃れようとしていた。そんなモアブに対して、主は、エルサレムに助けを求めるようにと言われたのだ。なぜ?彼らがアッシリヤの攻撃から逃れることのできる唯一の道は、イスラエルの神に助けを求める以外にはないからである。それはイスラエルにも同じことが言える。主はイスラエルに、「あなたの中に、モアブの散らされた者を宿らせ、荒らす者からのがれて来る者の隠れ家となれ」(3)と語られた。これはイザヤの時代のことだけでなく、世の終わりの患艱時代のことである。患難時代には逆にイスラエルが反キリストの迫害を逃れてさまようことになる。そんな彼らのためにモアブは隠れ家とならなければならないというのだ。

私たちの周りには、思いがけない事故や患艱によって散らされている人たちがいる。私たちは、そういう人たちの隠れ家にならなければならない。「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。」(詩篇91:1)主こそまことの隠れ家である。私たちはこの真の隠れ家なる主を、一人でも多くの人に提供していかなければならない。

 Ⅱ.涙であなたを潤す(6-16)

モアブは、主が設けてくださった逃れの道を拒んだ。彼らは、ふどうをはじめとする豊かな農作物を自慢し、高ぶった。それゆえ、モアブは、モアブ自身のために泣きわめく。彼らは打ちのめされて、ぶどうの実はしおれてしまう。そして、荒野をさまよい、涙を流して泣くようになる。

しかし、ここに不思議なことばが記されてある。「わたしはわたしの涙であなたを潤す」(9)主がモアブのために泣いておられるのだ。自分たちの経済を誇り、高ぶり、神に背いた彼らは滅ぼされて当然なのに、そんなモアブのために泣いておられるのである。なぜ主は彼らのために泣いておられるのか?それは、神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われることを望んでおられるからである。主がモアブをさばかれるのはそうしたいからではない。いくら言っても悔い改めないので、そうせざるを得ないのである。ここに「わたしのはらわたはモアブのために、わたしの内臓はキル・ヘレスのために立琴のようにわななく」(11)とあるが、まさに「断腸の思い」なのだ。

Ⅲ.神に聞き従う(13-14) 

ではどうしたらよいのか?神の声に聞き従うことである。ここに、「これが、以前から主がモアブに対して語っておられたみことばである。」(13)とある。これは突然の宣告なのではない。以前から、ずっと以前から警告されていたことなのだ。なのに、彼らはこれを聞こうとしなかった。聞く耳を立てなかったのである。

主は今もはっきりと語っている。問題は、あなたがそれを聞くかどうかである。世の終わりが来ることをあなたは聞いている。あなたはその準備をしているか。主が語られたことは全部が成就する。そのみことばを聞いて受け入れるかどうかにかかっているのである。モアブは受け入れなかったために滅びてしまった。あなたはそのようなことがないように、今、この時に、神のみことばを聞いてそれを素直に受け入れ、主に従って生きる人生を選択していただきたい。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたは、いと高き方の隠れ場に住んでいますか?あなたの隠れ場はどこですか?

・あなたが自慢しているものは何ですか?主はあなたのために涙を流しておられますか?それとも、あなたを喜んでおられますか?なぜそのように思いますか?

・あなたは以前からずっと神があなたに語っておられることに気付いていましたか?あなたはその声に従っていますか?

イザヤ15:1-9 レジュメ

「わたしの心は叫ぶ」                           N022

13章から、イスラエルを取り囲んでいた周辺諸国に対する神のさばきの宣告が語られている。今回はモアブに対する宣告である。

Ⅰ.一夜のうちに起こるさばき(1-4) 

主はモアブに対して語られた。「ああ、一夜のうちにアルは荒らされ、モアブは滅びうせた。ああ、一夜のうちにキル・モアブは荒らされ、滅びうせた。」(1)「アル」とか「キル・モアブ」とは、モアブの町々である。そうした町々が一夜のうちに滅びると、主は言われた。まさに想定外である。しかし、人生にはこのような想定外の出来事が起こる。主の再臨も同じだ。「主の日が盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として無滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦の産みの苦しみが臨むようなもので、それを逃れることは決してできません。」(Ⅰテサロニケ5:2-3)私たちは、主がいつ来られてもいいように、その備えてをしておかなければならない。

 Ⅱ.わたしの心は叫ぶ(5)

ここには、「わたしの心はモアブのために叫ぶ」とある。(5)モアブといったらイスラエルの敵である。そのモアブが滅ぼされることは、神にとって、また、イスラエルにとっても喜ばしいことではないのか?主はなぜここでモアブが滅びることに対して泣いておられるのだろうか?それは第一に、神は、ひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われることを望んでおられるからだ。確かに神は罪を罰する方である。しかし、喜んで罰するのではない。いくら言ってもなかなか悔い改めないので、致し方なく罰するのである。神の本心は、ひとりも滅びないで、すべての人が救われることなのである。

第二のことは、このモアブという民族の特殊性にある。モアブはアブラハムの甥ロトの息子である。(創世記19:37-38)ダビデの曾おばあちゃんは、モアブ人のルツであった。ということは、ダビデにはモアブ人の血も流れていたことになる。そして、その子孫に救い主キリストが誕生する。モアブ人はイスラエル人の敵ではあったが、ユダヤ人ととても関係の深い民族だったのだ。そのようなモアブに、主はあわれみの心を持っておられた。私たちの周りにもモアブのような人たちがたくさんいる。私たちの家族や友人、知人である。そのような人たちは神から特別に愛されている人たちでもある。そのような人たちが救われるようにと、主は涙して祈っておられるのである。

Ⅲ.のがれた者と残りの者とに獅子を向ける(6-9) 

第三のことは、神は忍耐して私たちが悔い改めるのを待っておられるが、そこには限りがあるということだ。そして、それでも悔い改めない人には、容赦ない神のさばきが臨むのである。ここには、「ああ、ニムリムの水は荒廃した地となり、草は枯れ、若草も尽き果て、緑もなくなった。」(6)とある。水源地であったニムリムの水が塞がれたので、その地域一帯の草は完全に枯れ、草一本も生えないほどに荒れ果てた。それだけではない。モアブののがれた者と、その土地の残りの者とに獅子が向けられる。徹底的なさばきが行われるのである。

これは神のあわれみと矛盾するものではない。神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられる。そして、じっと忍耐して待っておられる。がしかし、そこには限りがあることを覚えておかなければならない。それまでに悔い改めないと、神はモアブに対してなされたようなさばきをもたらされる。神はあわれみ深い方であられるゆえに、そうしたさばきを悲しんでおられる。だから私たちは、うしろの戸が閉じられる前に、この神の和解を受け入れ、悔い改めて神の救いを受け入れなければならないのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたは、主が突然来られても大丈夫なように、その備えができていますか?

・あなたの周りにいて、まだイエス様を信じていない家族、友人、知人はだれですか。主は彼らをあわれんでおられます。彼らの救いのために祈っていますか?

・あなたは神の救いを受け入れていますか?もしくまだイエス様を救い主として受け入れていなければ、今、頭を垂れ、キリストを救い主として受け入れる祈りをしましょう。

イザヤ14:24-32 レジュメ

「主に身を避けて」                             N021

Ⅰ.主の計ったとおりに成就する(24-27) 

アッシリヤに対する宣告である。主はアッシリヤを打ち破り、主の山で踏みつける、と言われた。(25)そして、アッシリヤに虐げられている民は、そのくびき、その重荷から解放される。このみのことばの通りに、アッシリヤはバビロンによって滅ぼされた。ここで主が誓って仰せになられたとおりになったのである。主が考えられたとおりに事は成り、主が計られたとおりに成就する。であれば、主のみこころに従って生きることが最善である。人類の歴史は、この宇宙に含まれている全てのものを造られた創造主なる神と私たち人間の歴史である。その歴史の中に私たち一人一人のストーリーも含まれている。私たちのすべての歴史が、この神の御手に握られているのである。だから、私たちにとって必要なことは、この神のことばを信じ、この方にすべてをゆだねて歩むことである。神のことばは必ず成るということを知るとき、私たちは神が真実な方であり、力ある方であることを確信し、この神にすべてをゆだねることができるのである。

 Ⅱ.喜ぶな、ペリシテの全土よ(28-31)

ここにはペリシテに対する宣告が記されてある。「おまえを打った杖」(29)とはイスラエルのことである。昔からペリシテ人はいつもイスラエルの敵であった。そのイスラエルがアッシリヤに滅ぼされたとき、彼らは手をたたいて喜んだ。しかし、喜ぶのはまだ早い。彼らの敵であったイスラエルが折られたからといって、喜んではならない。なぜなら、蛇の子孫からまむしが出、その子は飛びかける燃える蛇となるからである。これはアッシリヤのことを指している。イスラエルが折られてももっと残虐なアッシリヤが出て来て、彼らを苦しめることになるというのだ。果たせるかな、このみことばの通りにペリシテはB.C.701年にアッシリヤによって滅ぼされることになる。そして、B.C.332年にアレクサンドロス大王によって攻略されると、ペリシテ人は歴史から姿を消すことになった。

 

Ⅲ.主に身を避けて(32) 

ではどうしたらいいのか。主に身を避けることである。「主はシオンの礎を据えられた。主の民の悩む物たちは、これに身を避ける。」北の大国アッシリヤに対抗するために周辺諸国の弱小国が考えた対策は、互いに同盟を結んで戦うことであった。しかし、時の南ユダ王国の王であったヒゼキヤは、これをきっぱりと断った。彼は、「主はシオンの礎を据えられる。主の民の悩む者たちは、これに身を避ける」と言ったのである。主に身を避ける者は幸いである。なぜなら、主がその人を守ってくださるからだ。私たちは何か問題があるとすぐに目に見える物や人に頼ろうとするが、本当に頼りとしなければならないのは神ご自身である。聖書のちょうど真ん中の聖句は詩篇119篇8節である。そこにはこのように記されてある。「主に身を避けることは、人に信頼するよりもよい。」これが私たちの信仰生活の中心である。私たちの生活の中心は神であって、神に祈り、神を讃美し、神に身を避けることである。主に信頼を置くとき、そこに奇跡が生まれる。すべての祝福は、主に信頼することから生まれるのである。主に信頼することは、人に信頼するよりもよい。そのことを覚えて、私たちの思いや考えをはるかに越えて働いておられる神にすべてをゆだねて歩んでいこう。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたは、主のはかりごとは必ず成るという信仰がありますか。あなたは、このことを信じて、すべてを主にゆだねていますか。それとも、なかなか信じられずに不信仰に陥ってはいませんか。

・あなたは何に身を避けていますか。何を信頼していますか。主に身を避けることは、人に信頼するよりもよい、というみことばを、あなたはどのように受け入れていますか。

イザヤ14:1-23 レジュメ

「いこわせてくださる神」                     N020

Ⅰ.いこわせてくださる神(1-8)

1節に、「まことに、主はヤコブをあわれみ、再びイスラエルを選び、彼らを自分たちの土地にいこわせる。」とある。主は、かつてエジプトに捕らえられていたイスラエルを救い出してくださったように、バビロンに捕らえられていたイスラエルを解放し、いこわせてくださるというのだ。いったいなぜ主はこのようなことが行ってくださるのか?それは、主が彼らを選ばれたからである。彼らを選ばれたので、彼らをあわれみ、自分たちの土地にいこわせてくださるのである。そのために主は彼らの痛み、また激しい怒りを除き、過酷な労役を解いてくださる。かつてダビデは、「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」(詩篇23:1)と告白した。主はわたしたちをいこわせてくださる。敵である悪魔を打ち破り、その縄目から解放してくださるのである。

 Ⅱ.どうして天から落ちたのか(9-15)

バビロンの問題は何だったのか。12節から15節までの聖句は、悪の起源を考えるにあたりとても重要な箇所である。「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。 密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」「暁の子、明けの明星」とは、バビロンの王の背後で彼を動かしていた張本人、つまり悪魔のことです。悪魔は、もともと光輝く天使であった。天使たちの最高位に位置していた天使長だったのである。ラテン語ではこれを「ルシファー」と言う。天使長ルシファーは光輝く存在であったが、堕落した。堕落して天から落ちたのである。これが悪魔の起源である。

いったい何が問題だったのか。彼は心の中でこう言った。「私は天に上ろう。神々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。」つまり、ルシファーは高ぶったのである。神のようになろうとした。神のようになることは問題ではない。問題はその動機にある。自分が神のようになり、神からの指図を何も受けることなく、何でも自分で思う通りに判断し、自分勝手に行動しようとした。それが問題だったのである。神によって造られた人間にとって最も大切なことは、自分を造ってくださった神を敬い、神に信頼し、その御声に従うことである。なのにルシファーは自分の美しさ、自分の能力に酔いしれて、本来の目的を失ってしまった。それが問題だったのである。

キリストは神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることはできないとは考えず、自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられた。そればかりではなく、自分を卑しくし、死にまでも従い、実に十字架の死にまでも従われた。(ピリピ2:6-8)キリストは私たちの模範であり、私たちの目標である。罪から解放された私たちは自分中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりも優れた者と思わなければならない。自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなければならないのである。それがクリスチャンの求める姿なのである。

Ⅲ.勝利の神(16-23) 

そのような悪魔を、神は完全に滅ぼされる。どんなに王国を震撼させ、町々を絶滅し、世界を荒野のようにした者であっても、最終的には墓の外に投げ出される。神が完全に勝利してくださるからである。その勝利の源が小羊の血である。黙示録12章11節には、「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。」とある。小羊の血と神のあかしのことばのゆえに、完全に勝利できるのである。過去においても、現在でも、あるいは未来においても、私たちは罪だらけな者である。そんな者であってもキリストがその罪の一切を身に受け十字架で血を流してくださったので、それらすべてを洗い清めてくださった。私たちは、この小羊の血によって勝利を得ることができるのである。どんなにサタンである悪魔が罪を責め立てても、キリストにある神の愛から引き離されることはない。大切なこのことは、この神に信頼し、神の御前にへりくだって生きることだ。それが神の恵み、神のあわれみに応えるクリスチャンの歩みなのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたの中には「私は・・」といった自分中心の思いや虚栄はありません?あなたはどのように他の人に仕えることができるかを考えてみましょう。

・あなたは自分の罪のことで悩み、苦しんでいませんか。もし自分の中に罪があれば、その罪を悔い改め、キリストの十字架の血を受け入れ、赦していただきましょう。キリストにある神の愛の大きさに感謝しましょう。

イザヤ13:1-22 レジュメ

「バビロンは滅びる」                       N019

はじめに

ここから新しい段落が始まる。これまではイスラエルに対する神の言葉が語られていたが、ここからは、イスラエルの周辺諸国に対する神のさばきの宣告が語られていく。その最初に登場するのがバビロンである。なぜバビロンから始まるのか?それはバビロンが単なる一つの国ということ以上に、霊的に神に敵対する勢力の象徴であったからだ。黙示録18章2節に記されているあの「大バビロン」である。

Ⅰ.神はあらゆるものをざきの道具として用いられる(1-3) 

バビロンを滅ぼすために神が用いられた道具の一つは、クロス王率いるメディアとペルシャの連合軍であった。この連合軍を用いて当時難攻不落と言われていたバビロンを神は滅ぼされた。主は、かつて北イスラエルを懲らしめるためにアッシリヤを用いたように、今度は高慢なバビロンを滅ぼすためにペルシャの王クロスを用いられたのである。元々このクロスは異教徒の王である。にもかかわらず、神はバビロンをさばくために彼を用いられた。それだけではない。5節には「彼らは遠い国、天の果てからやって来る。彼らは全世界を滅ぼすための、主とその憤りの器だ。」とある。これはメディアやペルシャのことではない。これは黙示録17章、18章に登場する反キリスト、獣のことである。神は、ご自身の目的を遂行するために、あらゆるものを道具として用いられる。神はクリスチャンしか用いられないというのは大間違いである。異教徒だから、偶像崇拝者だから用いられないということはない。神は、ご自身の目的を果たすためにありとあらゆるものを用いられる。であれば、神はあなたや私をも用いてくださるということになる。たとえあなたがろばのように鈍感であっても、石のように堅い頭でも、神に用いられるのである。であれぱ、神に用いられる器となるために、へりくだって、神に従う心を持たなければならない。

Ⅱ.神は罪人を根絶やしにされる(6-16)

このような言葉を聞くと、あなたは驚かれるに違いない。愛の神がいったいどうして人を滅ぼすようなことをされるのか?優しくあわれみ深い神が、そんな恐ろしいことをするはずはない・・・と。しかし、神は愛であると同時に義なる方なので、いつまでも悪を放っておくようなことはなさらない。必ず正しくさばかれる日がやってくる。一時は栄華を誇っていたバビロンに対して神は、「泣きわめけ」(6)と言われた。神のさばき、神の破壊が来るからだ。その時すべての者は気力を失い、すべての者の心はしなえる。彼らはおじ惑い、子を産む女が身もだえするように、苦しみと、ひどい痛みが彼らを襲うようになる。神は人間を純金よりもまれにし、オフェルの金よりも少なくされるのである。(12)

しかし、主に信頼する者は決してさばきに会うことはない。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いてわたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5:24)とイエスは言われた。神の義であるイエス・キリストを信じた瞬間に、これまでのすべての罪が赦され、神の恐ろしいさばきに会うことがないようにしてくださるのである。イエスを信じる者には、決して揺り動かされることのない御国が与えられる。ここにこそあなたの絶対的な安心の保障があるのだ。

Ⅲ.主のほかに神はいない(17-22) 

ゆえに、結論は、この主を仰ぎ見て救われよ、ということである。ここにもう一つ不思議な記述がある。それは、バビロンを滅ぼすためにメディヤ人クロスを奮い立たせるということである。しかし、この時まだクロスは生まれていなかった。これが書かれたのはB.C.715の年ことだが、クロスがバビロンからイスラエルを解放したのはB.C.539年のことである。176年も先のことを、いったいどうやって預言することができたのか?しかも「クロス」という名前まで正確に預言している。それは、この主こそ神であるということの明確な証拠なのである。「遠い昔のことを思い出せ。わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる』と言う。」(イザヤ46:9-10)聖書のユニークさはここにある。神でなければ未来のことを正確に告げることはできない。その未来のことを正確に告げているのが聖書である。これが私たちの信じている神だ。

であれば、この神にすべてをゆだねなければならない。すべてはこの方の御手の中にある。だから、私たちはこの方にすべてをゆだねることができる。将来のことがよくわからなかったり、先が見えないことほど不安なことはない。しかし、神はその先のことをはっきりと告げてくださる。何もかもすべてわかっておられる方なのだから、この方にお任せすることが確かな平安を受けることにつながる。「わたしのほかに神はいない」と言われる方を信じ、この方を恐れかしこんで生きること。この方を拠り所として生きることが、神のさばきから逃れ平安をもって一生を生きるための源なのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたは、イエスを信じて神のさばきから逃れていますか?

・あなたにとっての安心の保障は何ですか?「わたしのほかに神はいない」と言われる神に対して、あなたはどのように応答しますか?

・あなたが今不安に感じていることは何ですか?何もかもすべてのことを知っておられる神に、あなたの人生をおゆだねしてください。

イザヤ12:1-6 レジュメ 

「救いの泉」                           N018

はじめに

ここには、再び集められたイスラエルが、主に感謝し、賛美している姿が描かれている。

Ⅰ.神は私の救い(1-2) 

「その日」とは、イスラエルがバビロンから解放されエルサレムに帰還した日のことであり、また、世の終わりの患難時代のことでもある。その日、彼らは主に感謝し、「見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。」(2)と言って、主を賛美するようになる。「神は私の救い」は、ヘブル語で「ヨシュア」(イェホーシュア)である。このギリシャ語が「イエス」だ。イエスが救いである。救いはイエスに信頼することから生まれる。イエスに信頼する者は、何も恐れることはない。「信頼する」とは、「ゴロンと横になること」である。自分のすべてを神に明け渡すこと、それが信頼である。F・B・マイヤーは、「信仰はバケツだ」と言った。信仰というバケツで救いの泉であるイエス・キリストから汲み取るので、何の恐れもいらないのである。

 Ⅱ.救いの泉(3)

3節に「あなたがたは喜びながら、救いの泉から水を汲む。」とある。主の救いを体験すると、そこに喜びが溢れるようになる。この救いの泉こそイエスである。イエス様は、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水が流れ出るようになる」(7:37-38)と言われた。「この水を飲む者は、だれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:13-14)イエスは、決して渇くことのない水を与えてくださる。だれでも渇いているなら、もう渇きたくないなら、いつも不平不満ばかり言っている人生から解放されたければ、イエスの所に行って飲まなければならない。イエスこそこの救いの泉なのである。

Ⅲ.そのみわざを語り告げよ(4-6) 

「その日、あなたがたは言う。「主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、国々の民の中に知らせよ。」(4)主に救われた人は、主の救いを体験した人は、それを国々の民の中に知らせるようになる。黙ってなどいられない。そのみわざがあまりにもすばらしいので、一人でも多くの人に伝えたいと思うようになるのである。その日が必ずやって来る。今はとても賛美する気にもならないという人も、その日が来ると賛美したくなる。主はあなたの救いとなられた。あなたは喜びながら、救いの泉から水を汲む。そのすばらしいみわざをほめ歌い、国々の民の中で語り継げよう。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたは主に信頼していますか?イスラエルのように主への感謝と賛美に満ち溢れていますか。あなたが恐れていること、心配していることは何ですか?

・あなたは渇いていますか?その渇きをどのようにいやしていますか?救いの泉であるイエスから汲んでいますか?

・あなたは救われた喜びを人々に知らせていますか?主はあなたにどんなすばらしいことをしてくださいましたか?

イザヤ11:10-16 レジュメ

「再び集められる主」                       N017

はじめに

きょうのところには、主が再臨されるときに起こる大きな出来事が預言されている。それは主がイスラエルを再び集められるということである。

Ⅰ.全世界の王キリスト(10) 

10節に、「その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く」とある。エッサイの根とはメシヤの称号で、イエス・キリストのことである。その日、イエス・キリストは国々の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝くようになる。パウロはローマ15:12でこの箇所を引用し、「異邦人はこの方に望みをかける」と言っている。ユダヤ人だけではない。異邦人も神のあわれみによって救われ、ユダヤ人と一つになりイエス・キリストの父なる神をほめたたえるようになる。やがて来られるメシヤは、ユダヤ人だけでなく異邦人も含めた全世界の王となられる。キリストは、ユダヤ人ばかりでなく全世界の民にとっての王であり、いこいの場所となるのである。

Ⅱ.再び集められる主(11-13)

ここにも「その日」という言葉が出てくる。「その日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りを買い取られる。」(11)かつてエジプトにいたイスラエルが救い出されたようなことが起こる。それはイザヤの時代ではバビロン捕囚からの解放のことであり、遠い未来の終末のことで言えば、全世界に散らされたユダヤ人が集められるということである。この預言のごとく1900年代に入ってから全世界に散らされていたユダヤ人がエルサレムに帰還し国を再建した。スラエル共和国である。1900年もの間流浪していた民が再び国を建てるということなど考えられない。しかし、これが実際に起こった。それは聖書の預言に書いてあったからだ。聖書に預言されていることは必ず成就する。世の終わりには、天の果てから果てまで、四方からその選びの民が集められる。イスラエル共和国の再建は、その預言の成就の始まりである。この世は確実にその成就に向かって動いている。もう夏は近い。主が再び来られる日がすぐそこまで来ている。主がいつ戻って来られても大丈夫のように備えておくことが求められている。

Ⅲ.大路が備えられる(13-16) 

ここには世の終わりに起こるもう一つの出来事が預言されている。それは北と南に分裂していたイスラエルが統一するということである。ソロモンの死後以降分裂していたイスラエルが一つになる。そしてイスラエルを脅かしていた敵がユダヤ人に従うようになる。今もイスラエルを脅かしている勢力がある。周辺のアラブ諸国である。これらの国もイスラエルに服し、協力するようになる。そして、ユダヤ人はもはや誰にも妨げられることなくエルサレムに戻ることができるようになるのである。かつてイスラエルがエジプトから上って来たような大路が備えられる。問題はその道を通るかどうかである。エジプトの奴隷であったイスラエルが主の力強い御手によって解放されたように、主は、再び、まことの救い主イエス・キリストによって、罪の滅びの穴から救い出してくださる。ご自身のもとに集められる。私たちがそこから解放されるには、この道を通らなければならない。主の招きに応じて、信仰の一歩を踏み出さなければならない。私たちの古い性質は、慣れ親しんだ罪の生活に留めようとするが、主が用意してくださった大路を歩まなければならないのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたにとってのいこいの場所はどこですか。あなたは何に望みを置いていますか。

・あなたは主が来られる備えが出来ていますか。あなたのともしびには油が入っていますか。

・あなたは主が備えてくださった大路を歩んでいますか。あなたを古い生活に留めようとしているものは何ですか。

イザヤ11:1-9 レジュメ 

「エッサイの根株から出る若枝」                         N016

はじめに

きょうのところには、やがて来られるメシヤがエッサイの根株から出ると記されてある。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」のである。

.エッサイの根株から出る若枝(11:1 

エッサイの根株とは、ダビデの家系を指している。というのは、エッサイとはダビデの父親のことだからである。しかし、なぜダビデとは言わないでエッサイと言ったのか?それはやがて来るメシヤはダビデの家系から生まれるみどりごでありながら、へりくだった状態で生まれることを示すためであった。エッサイは羊飼いで、身分が低かった。エッサイというのは侮辱的で、屈辱的な表現であったのだ。また、「根株」というのは切り株のことであるが、イスラエルはまさに根株のような状態であった。シーンと静まりかえった森の中で木々が切り倒されて根株しか残っていない絶望的な状態だった。そのようにシーンと静まりかえった中に、それを打ち破るかのようにして生まれたのがキリスト、メシヤであった。神は、すべて焼けこけて、もう命さえもないかのような切り株から新芽が生え、そこから若枝が出て実を結ぶようにしてくださった。だれもが絶望している時に、何の望みないと思われるような中に、神の救いが始まったのである。

.若枝であるメシヤの性質(2-5

では、その若枝として来られるメシヤはどのような方なのか?ここには「その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」とある。これは聖霊の七つの働きを表している。七は完全数でもある。やがて来られるメシヤは主の霊、聖霊によって、完全な主の働きをしてくださる。それと同じように、主の霊をいただいているクリスチャンも聖霊によって神のわざを行うことができる。それなのに、なぜ私たちは聖霊の力がないのか?求めていないからである。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば、見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」(ルカ11:9-10)天の父は、求める人たちに、聖霊を下さる。1回や2回ではなく、何回も求め続ける者でありたい。

.若枝であるメシヤの支配(6-9 

第三に、この若枝として来られるメシヤが支配する王国はどのようなものかを見てみたい。6節には「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し」とある。これはメシヤであられるキリストが再臨した後にもたらされる千年王国の光景だ。その時、狼は羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏すようになる。文字通りの平和な世界が樹立されるのである。なぜなら、キリストが再臨されるその時、人類にのろいをもたらした罪を完全に贖ってくださるからだ。アダムとエバが犯した罪の影響はこの人類ばかりでなく、自然界、動物界全体に及んでいった。その結果、弱肉強食といったことが起こったのである。しかし、その罪が贖われることでそうした敵意も完全に葬り去られ、文字通りの平和がもたられるのである。

しかし、その神の国は、キリストを救い主として信じ罪が赦されたクリスチャンの中に既に来ている。「神の国はいつ来るのか」というパリサイ人の質問に対して、主イエスは「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではない。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:21)と言われた。神の国は既に私たちのただ中にある。私たちはその救いの完成を待ち望んでいるのだ。「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」(ヘブル9:28)主がいつ来られても大丈夫のようにこの若枝であるメシヤを信じ、その到来を待ち望む者でありたい。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたは切り株のような状態ではありませんか?そのような絶望的な状態の中に、神は救い主を誕生させてくださったことを信じますか。

・あなたは聖霊に満たされていますか?聖霊に満たされることを求めていますか?あなたはどのようにして聖霊に満たされることを求めすか?

・あなたは主の来臨の備えができていますか?救い主イエスを信じて罪が赦されていますか?

イザヤ10:5-27 レジュメ

「主にたよれ」                                  N015

はじめに

きょうのところはイスラエルではなく、アッシリヤに向けて語られたことばである。アッシリヤはイスラエルを懲らしめるために神が用いた道具でしかなかったのに高ぶってしまった。そのアッシリヤに対して語られている。

.高ぶらないで(10:5-15 

その第一のことは、高ぶらないようにということである。アッシリヤは、神の怒りの杖、憤りのむちにすぎなかったのに、その度を超えてしまった。ただイスラエルを懲らしるだけでなく、滅ぼそうとした。彼らは自分たちが神の道具であるとは思わず、完全に自分たちのやり方に徹した。「斧は、それを使って切る人に向かって、高ぶることができようか。のこぎりは、それをひく人に向かっておごることができようか。」できない。それは棒が、それを振り上げる人を動かし、杖が、木でない人を持ち上げるようなものである。斧やのこぎりは、あくまでも道具でしかない。道具としての役割を考えそれに徹していかなければならなかった。カール・ヒルティーは、「人間の力の秘密は、神の道具であるという性質にある。なぜなら、すべての永続的な真実の力は神のものであって、人間のものではないからである。」と言った。私たちが用いられるのは、私たちが信心深いからではない。敬虔なクリスチャンだからでもない。頑張っているからでもない。聖いからでもない。他のクリスチャンよりも立派だからでもない。それはすべて神の恵みである。

イエスは、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」と言われた。イエスこそまことのぶどうの木であって、私たちはただの枝にすぎない。枝だけで実を結ぶことはできない。イエスにつながって初めて実を結ぶことができるということを覚え、慎ましく歩む者でなければならないのである。

.高ぶる者は罰せられる(16-19

不遜にも神に反逆して高ぶったアッシリヤに対して、主はどうされるか?「それゆえ、万軍の主、主は、その最もがんじょうな者たちのうちにやつれを送り、その栄光のもとで、火が燃えるように、それを燃やしてしまう。」(16節)このことばの通りに、アッシリヤの王セナケリブはユダに破れて敗走した。当時世界最強と言われた軍隊が、日本の四国ほどの面積しか持たないユダに敗れたのである。そして息子の代になるとこの国は弱体化してやせ衰え、最終的にはバビロンに敗れ完全に滅んでいくことになる。

.主にたよれ(20-34 

「その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家ののがれた者は、もう再び、自分を打つ者にたよらず、イスラエルの聖なる方、主にたよる。」(20節)「その日」とは世の終わりの日のことである。世の終わりの7年間の患難時代のことだ。その日になると、イスラエルの残りの者は、イスラエルの聖なる方、主にたよるようになる。まことの神であり、救い主である主に立ち返るようになるのである。だからアッシリヤを恐れてはならない。主の怒りが彼らを滅ぼしてしまうからだ。かつてイスラエルがエジプトを出て行く際、エジプトが執拗に追いかけて来たとき、モーセが紅海の上に杖をかざすと、海の水が真二つに分かれた。それで彼らはその乾いた道を通って救われた。それと同じように、主は私たちを奴隷の状態から、目の前の問題から救い出してくださる。

あなたが思い煩っていることは何か?怖がっていることは何か?あなたが勝手にあきらめていることは何か?その支払いがどれだけのものだというのか。その病がどれほどのものだというのか。それがどんなに大きなものであっても、地獄と等しいほど大きなものではない。主は私たちを地獄の滅びから救い出してくださった。でれば、それがどんな問題でも、必ず救い出してくださる。イスラエルの残りの者がイスラエルの聖なる方、主に、まことをもってたよったように、私たちにとってこの方にたよりながら生きていく者でありたい。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたの中には、自分がこれだけ頑張ったから・・という思いはありませんか?自分に与えられたものはすべて神の恵みによるものであると受け止め、神に感謝をささげていますか?

・あなたが不安になり、思い煩い、恐れていることは何ですか?主にたよるなら、主がその問題から救い出してくださるという信仰がありますかれ?そのような確信を持つにはどうしたらいいでしょうか?

イザヤ9:8-10:4 レジュメ 

「ヤコブに落ちた主のことば」                           N014

はじめに

これまでイザヤはユダに対して神のことばを語ってきたが、このところでは北イスラエルに対して語っている。その中心は、「なおも、御手は伸ばされている」ということである。北イスラエルにはこれまでも何人かの預言者がみことばを語ってきたが、彼らはそのことばを受け入れなかった。そういう彼らに、神の怒りの御手が伸ばされているのである。

.その敵たちをあおりたてる(9:8-12 

まず神は、その敵たちをあおりたてる。ここには「レツィンに仇する者たちをのし上がらせる」とある。これはアッシリヤのことである。そればかりではない。一緒になってユダを攻めたアラムからも攻撃されることになる。なぜ?それは彼らが神ではなく他のものに頼んだからだ。神以外のものに頼ると、結局のところ、それによって苦しめられてしまうことになる。これがイスラエルの生活のパターンであった。

.かしらも尾も、切り取られる(13-17

イスラエルは敵たちにあおられても主を求めなかった。そこで主は、イスラエルからかしらも尾も切り取られた。かしらとは長老や身分の高い者、尾とは偽りを教える預言者たちのことである。つまり、霊的・精神的指導者のことである。そういう指導者たちを切り取られるというのだ。たった一日のうちに、素早く。それは彼らが偽りを教えて民を惑わし、誤った道に導いていたからである。注意しないと、私たちも偽りを教える預言者になりかねない。キリストの福音ではなく別の福音を教えてしまうことがある。聞いている人に合わせて、そういう人たちに受け入れられる温かいことば、優しいことばだけを語ろうという誘惑に陥ることがある。こうした偽りを教える預言者は切り取られてしまう。それは預言者だけでなく教会も同じ。「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分に都合のよいことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(Ⅱテモテ4:3,4)神のことばを神のことばとして教え、語っていく。今の時代も、このことが求められている。

.互いにいたわり合わない(18-21 

それだけではない。ここには「だれも互いにいたわり合わない」(19)とある。人々はみな自分のことだけを考えて行動するようになるのである。その結果、右にかぶりついても、飢え、左に食いついても、満ち足りず、おのおの自分の腕の肉を食べるようになる。それほどに飢えるのである。ガラテヤ5:15には、霊的な意味での共食いについて語られている。肉の力で生きようとすると、かみ合ったり、食い合ったりするようになる。なぜなら、霊的にお腹が満たされていないから。だから、霊的に栄養失調になると、キリストにある仲間をさばいたり、引き落としたり、かんだりといったことが起こってくるのだ。霊的にいのちをいただき、霊的に満たされていることがどれほど重要であるかがわかる。

.助けと救いはキリストにあり(10:1-4 

 それだけではない。遠くからあらしが来るとき、どこにも逃げ場が無くなる。嵐とはアッシリヤのことである。そうした嵐が押し寄せてくるとき、いったいだれに助けを求めるのか?どこに自分の栄光を保つのか?どこにもない。助けと救いの道はただ一つ。十字架にかかって死なれたイエス・キリストである。「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」(ローマ5:9)神の怒りの御手がどんな伸ばされていても、イエス・キリストにある者はその怒りから救われるのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたが頼っているものは何ですか?神ですか?それとも神以外のものですか?

・あなたは神のことばを自分に都合がいいように、気ままな願いをもってみことばを聞いていることはありませんか。どのような心で神のことばを求めていますか?

・あなたは霊的に満たされていますか?霊的に飢えて主にある兄弟姉妹をさばいたり、批判したりしていませんか?

・あなたは、イエス・キリストを信じていますか?神の怒りがどんなに伸ばされていても、この怒りから救われる道にいますか?