イザヤ41:1-13 レジュメ 

「恐れるな、たじろぐな」                N060

Ⅰ.ひとりの者(1-7) 

主はここで、諸国の民に向かって語られる。「近寄って、今、語れ。われわれは、こぞって、さばきの座に近づこう。」(1)と。これは法廷のシーンである。偶像を拝む諸国の民に対して、どちらが本物の神なのか、どちらが信じるに値する神なのかを論じ合おうではないかというのだ。まずまことに神について語られる。「だれが、ひとりの者を東から起こし、彼の行く先々で勝利を収められるのか。」(2)これは後に起こるメデイャとペルシャの連合軍の王クロスのことである。神はクロス王を起こしバビロンによって捕らえられたイスラエルを解放し、祖国エルサレムに帰還させるというのだ。「だれが、これを成し遂げたのか。わたし、主こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。」(4)このようなことはだれにもできない。ただ全能の神だけがなし得ることができる。それはやがて来られるメシヤ、救い主の型でもあった。神はクロス王を立てバビロンに捕らえられていたイスラエルを解放したように、ご自身のひとり子を立て、罪の中にあえいでいた人類を解放してくださった。人間に守ってもらうしかない無力な偶像とは訳が違う。この方こそまことの神であって、私たちが信じるに値する方なのである。

Ⅱ.わたしはあなたを選んだ(8-9)

いったいなぜ神はイスラエルを守り、助けてくださるのか?それは神がイスラエルを選び、ご自分のしもべとしてくださったからだ。しもべというと自由がなく、こき使われるというイメージがあるが、実はしもべであるということは、主人に守ってもらえる立場にあることを意味している。イスラエルは神に選ばれた神のしもべである。ゆえに神は、どんなことがあっても彼らを守ってくださる。エペソ1:3-5には、私たちクリスチャンも神に選ばれた存在であることがわかる。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくだった。神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされた。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらがしめ定めておられた。私たちは神に選ばれた神のしもべなのである。時々私たちは神に捨てられたのではないかと感じる時があるが、実はそうではなく、そのように感じる時でも神は私たちの苦しみを担っておられ、私たちを一歩一歩導いておられるのである。神は私たちを選んでご自分のしもべとしてくださったので、どんなことがあっても私たちを捨てるようなことはなさらない。

Ⅲ.恐れるな、たじろぐな(10-13) 

だから、恐れてはならない。たじろいてはならない。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(10)神があなたとともにいてくださる。この神は人が造った、人によってかたどられた神ではない。この神は全宇宙を造られた創造主なる神である。この方があなたとともにいてあなたを守り、支えてくださるのなら、何も恐れることはない。また、神はあなたの神である。ただの神ではない。あなたと個人的に関わってくださる神なのである。そして神は義の右の手であなたを守ってくださる。「義の右の手」とは勝利の手である。神は必ずあなたを守り、あなたに勝利をもたらしてくださる。もしあなたに対していきり立つ者があれば、そのような者は必ず恥を見、はずかしめを受けるようになる。あなたと争うような者は、何も無い者のようになる。なぜなら、あなたの神である主が、その義の右の手で、あなたを守ってくださるからだ。だから、たとえ死の陰の谷を歩くことがあっても、わざわいを恐れることはない。職を失うことがあっても、苦難が訪れ苦しみのただ中に置かれるようなことがあっても、家族に背を向けられても、友人に裏切られるようなことがあっても、何も恐れることはない。神があなたとともにいてくださるからだ。主がともにおられるなら、明日はこわくない。明日のことで心配することは全くないのだ。必要なのはただこれを信じる信仰である。この確信があるとき、あなたも勇気をもって前進していくことができる。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたが今、恐れていることはどんなことですか?その原因はどこにあると思いますか?その恐れを克復するために必要なことはどんなことでしょうか?

イザヤ40:27-31 レジュメ

「鷲のように翼をかって」                N059

Ⅰ.イスラエルの不満(27) 

イザヤは、主は天地を創造された偉大な神であるということを語ったが、ユダの民は「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごされている。」(27)とつぶやいた。いったいなぜ彼らはこのように不平不満をもらしたのだろうか?それはバビロンに捕らわれていた中で一向に改善しない現実を見て、自分たちが神から見捨てられているのではないかという思い(拒絶感)があったからである。神は自分のことに何の関心も持っていなければ、何の思いも寄せていないと思ったのだ。それは彼らの不信仰から出たことであった。40:1には「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とある。主は彼らを「わたしの民」と呼んでくださった。であれば彼らから隠れたり、見過ごしにされたりすることは絶対にない。神が私たちの人生に絶望と思われるような状況を起こされるのは、そうした状況の中で自分たちの弱さを認め、神だけが助けであることを待ち望むようにするためである。イスラエルがバビロンの捕囚となったのも決して無意味なことではなかった。その背後にあってすべてを支配しておられる神が、彼らの益のために導いてくださったことだった。ゆえに私たちは自分の置かれた状況を見て嘆いたり、つぶやいたりしてはならない。創造主なる神を見上げ、神が最善に導いてくださると信じて、神を待ち望まなければならない。神の創造の御手が及ばないところはない。

Ⅱ.主は永遠の神(28-29)

イザヤは、そのような不平不満をもらすイスラエルに対して、神がどのような方であるかを思い起こさせている。彼らの問題は、神がどのような方であるかを忘れていたことである。神の偉大さを知れば、自ずと問題も解決する。「あなたがたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。」(28)まず第一に、主は永遠の神である。主は永遠の昔から、永遠の先まで存在しておられる。神にははじまりも終わりもない。神にとっては常に「今」なのである。神は永遠に存在しておられるのでいつも私たちのことを覚え、助けることができる。第二に、主は地の果てまで創造された方である。すべてのものはこの方によって造られた。造られたものでこの方によらずにできたものは一つもない。この方は地の果てまで創造された全能の神なのである。その全能の力をもって私たちを助けてくださる。私たちが抱えている問題がたとえ天地がひっくり返るような大きな問題のように見えても、この方にとっては何でもないことなのである。第三に、神は疲れたり、たゆんだりすることがない。神の御力は無限であって、疲れた者、精力のない者にその無限の力を注いでくださる。第四に、その英知は測り知れない。主は正しい知恵と理解力によって、物事を正しく見分けることができる。どんな難しい状況でも完璧に理解しておられ、私たちが置かれている状況も正しく把握しておられる。この神を見るなら、私たちの不平や不満はすぐにどこかに吹っ飛んでしまうだろう。大切なのは、神はどのようなお方なのかを知り、そこに信仰を寄せることである。

Ⅲ.主を待ち望め(30-31) 

だから、主を待ち望まなければならない。「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(30-31)主を待ち望むとは、力をくださる方に完全に頼ることである。その力の源こそ神である。力の源であられる主に自分を結びつけるとき、新しい力を受けて歩むことができる。イエスは言われた。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)もしイエスのもとに行くなら、イエスにつながるなら、あなたは安らぎを得ることができる。イエスがあなたに無限の力を注いでくださるので、どんなストレスがあっても疲れることなく、たゆむことなく、鷲のように翼をかって上ることができる。鷲は雀のように羽をバタバタさせたりはしない。上昇気流に乗って一気に空高く舞い上がると、あとは悠々と飛ぶことができる。上昇気流に乗れば、自分の力以上の所まで上ることができる。それが主を待ち望む者の姿である。主を待ち望む者はバタバタしたり、焦ったりせず、また慌てたりせず、主がどのような方なのかを覚え、その主の力に信頼して、主にすべてをゆだねる。聖霊の上昇気流に乗って、聖霊の風を受けて、高く上っていく。そのような人は走ってもたゆまず、歩いても疲れることがない。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたの中に、自分は神から見捨てられているという思いはありませんか。あなたは神をどのような方だと聞いていましたか?

・あなたは疲れていませんか。たゆんでいませんか。もし疲れているとしたら、その原因はどこにあると思いますか?主を待ち望むために、あなたに必要なことは何ですか?

イザヤ40:9-26 レジュメ  

「見よ、あなたがたの神を」               N058

Ⅰ.力ある神(10-11) 

40章からイスラエルに対する慰めのメッセージが語られている。いったい何が慰めなのか。神ご自身を見上げることである。神がどれほど力強く、あわれみ深い方なのかを知るなら、あなたは慰めを受ける。「見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。」(10)。そればかりではない。「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」(11)。主の御腕はすべてを統べ治める力強い御腕であると同時に、子羊を引き寄せ、そのふところに抱き寄せてくださる優しい御腕でもあるのだ。私たちの人生には失敗や失望があり、望みがなくなってしまう時があるが、そのような時でも「永遠の腕が下に」(申命記32:27)にあることはどんなに心強いことか。私たちの主はこのような方であることを覚えるとき、私たちは慰めを受ける。

Ⅱ.創造主なる神(12-17)

第二に、あなたの神は創造者なる神である。「だれが、手のひらで水を量り、手の幅で天を推し量り、地のちりを枡に盛り、山をてんびんで量り、丘をはかりで量ったのか。」(12)だれもこの地球にある水を量ることなどできない。ましてこの巨大な宇宙を量ることも、この地球にどれだけの土や砂があるのかを量ることなどできないのである。しかし神は、そうしたものを手のひらに乗せることができる。手の幅に収めることができる。なぜなら、この方は創造者なる神であるからだ。たとえあなたの抱えている問題が山のように大きくても、あるいは巨大な宇宙のように広がっているようでも、神の目から見たら本当にちっぽけなものにすぎない。そのすべての問題は神の御手の中にすっぽりと収まってしまう。神はそれほどパワフルな方である。それがあなたの神なのである。

Ⅲ.比類なき神(18-26) 

第三に、この方は比類なき神である。「あなたがたは、神をだれになぞらえ、神をどんな似姿に似せようとするのか。」(18)。愚かにも人間は、鋳物に金をかぶせ、銀の飾りを作って、いかにもそれが神々しい神であるかのようにする。樹齢何百年という太い杉の木にしめ縄をして、それが神だと本気で拝んだりしている。家内安全、無病息災、商売繁盛と書かれた紙の札が自分を守ってくれると思って大切に拝んでいるのだ。しかし、そんなものはただの紙きれであり、木であり、金属にすぎない。それはただ人間が作ったものにすぎないのだ。そんなものに天地を造られた真の神をなぞらえたり、比べたりすることはできない。この方は地の基を置かれ、天を薄絹のように引き延ばされた方だから。この方はだれとも比べることができない比類なきお方なのである。

それゆえにあなたは、「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見」(26)なければならない。あなたの人生にどれほど大きな危険や困難があっても、あなたを愛し、あなたを守っておられる方の御腕は限りなく太くて、大きい。この方は天地を造られた創造者なる神である。この神があなたとともにおられ、その義の右の手であなたを守ってくださる。それを知ることが真の慰めなのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!)

・目の前の問題のために右往左往していませんか。問題をどのように解決しようとしていましたか。

・偉大な神を見上げることを妨げているものは何ですか。

イザヤ40:1-8 レジュメ 

「慰めのメッセージ」                  N057

Ⅰ.慰めよ 慰めよ(1-2) 

イザヤ書はここから後半部分が始まる。前半はイスラエルに対する主のさばきが語られていたが、後半からは雰囲気がガラッと変わりイスラエルに対する慰めと希望が語られる。その慰めのメッセージとはどのようなものか?「その労苦は終わり、その咎は贖われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」(2)いうものである。「労苦」と訳された言葉は「戦い」とも訳される言葉である。戦いのような毎日だった生活が終わり、その咎が報われるときがやって来る。ここには「二倍のものを主から受ける」とある。これは「折り重ねる」という言葉から来ている。支払いが終わった借金の明細が半分に折られ顧客のドアにピンで留めることである。半分と半分がちょうど対応するように罪に対する償いが完全に支払われたことを意味している。これまであなたを責め立てていた債務証書は完全に無効にされた。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘付けにされたのである。キリストは十字架で死なれる時「テテレスタイ」と言われた。意味は「完了した」である。あなたの罪に対する負債は完済された。あなたはもう罪に悩む必要はない。ここにはその罪の赦しの豊かさが語られているのである。これはグッド・ニュースではないか。これが慰めのメッセージなのである。

Ⅱ.荒野で呼ばわる者の声(3-5)

罪赦された者は、主の道を整えなければならない。これは主が通られる道である。かつて王が旅する時にはその行く先々に先遣隊を遣わし、道を整えた。道幅が広げられ、すべての谷は埋められ、山や丘は削られて低くされ、平らにされた。あなたを罪から救ってくださった王の王、主の主であられるイエスが、エルサレムに来られる。あなたの道は整えられているだろうか。劣等感や自己憐憫、敗北感といった思いで谷底のように沈んではいないだろうか。あるいは、プライドや傲慢といった山や丘で高くなっていないだろうか。もしそうであるなら谷は埋められ、山は削られて平らにしなければならない。

ところで、この「荒野に呼ばわる者の声」は、新約聖書でも引用されている。それはバプテスマのヨハネのことだ。彼はイエスが生まれる半年前に現れ、悔い改めのバプテスマを説いた。その風貌とメッセージはまさに旧約聖書の預言者そのもので、人々は彼こそキリストではないかと思ったが、ヨハネは「私は、預言者イザヤが言ったように「主の道をまっすぐにせよ」と荒野で叫んでいる声です。」(ヨハネ1:23)と答えた。それがヨハネのミニストリーであった。そしてそれは私たちのミニストリーでもある。私たちはヨハネと同じように荒野で叫ぶ者の声でなければならない。声は自分を見せたり、何か派手なことをする必要はない。ただイエスのことを分かち合えばいいのだ。しかしイエスは、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」(マタイ11:11)と言われた。もしあなたが荒野の声になるなら、あなたも偉大な者になることができる。荒野の声となって再び来られるイエスのために心を整えるなら、あなたもイエスからすぐれた者と言っていただけるのである。

Ⅲ.神のことばは永遠に立つ(6-8) 

第三の慰めのメッセージは、「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。」(6)ということである。いったいなぜこれが慰めのメッセージなのか。なぜなら、この現実をしっかりと受け止め、それを額面通りに受け止めるなら、あなたはその先のものを求め、そこに希望を置いて生きるようになるからである。多くの人たちは草や花なのに、いつまでもゴージャスな花を咲かせようと躍起になっている。健康を保とうとあれやこれやと走り回り、疲れ果てている。もちろん、健康を管理することは大切なことである。美に関心を払わないで汚い格好で一日過ごせと言っているのではない。そういうことに気を配ることは大切なことであるが、そうしたことにあまりにも気がとらわれていると、祝福を失ってしまうことになる。「エントロピーの法則」という宇宙の法則がある。これは形あるものは崩れるというものであるが、世と世にあるものはすべて滅んでいく。だから、そのようなものにばかりとらわれていると、そのようなものに人生のすべてをかけているとしたら、虚しい結果に終わってしまうことになる。そうしたものによっては決して慰めを得ることはできないのだ。

しかし、ここに永遠に変わらないものがある。それは神と神のことばである。もしあなたが変わることがない神のことばに信頼して生きるなら、決して失望することはない。主イエスは言われた。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)あなたは絶対に見捨てられたり、見放されたりすることはない。主は約束をたがえることはないからだ。この神のことばに信頼して歩んで欲しい。そこに真の慰めがあるのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!)

・あなたはまだ自分の罪で悩んでいませんか。あなたの労苦は終わり、咎は償われたと信じていますか。

・あなたの心は再び来られる主イエスのために整えられていますか。あなたの心の道は谷にように低くなっていますか。それとも山や丘のように高くなっていますか。考えてみましょう。

・あなたは目に見えるものに躍起になってはいませんか。あなたの人生で大切にしているものは何ですか。

イザヤ39:1-8 レジュメ

「主のことばはありがたい」                        N056

Ⅰ.高慢になったヒゼキヤ(1-4) 

前半のクライマックスの部分である。ヒゼキヤが病気から回復すると、バビロンの王メロダク・バルアダンは使者を遣わし、手紙と贈り物をヒゼキヤに届けた。するとヒゼキヤはそれを喜び、宝庫、銀、金、香料、高価な油、またいっさいの武器庫に至まで、すべての物を彼らに見せた。ヒゼキヤが見せなかった物は一つもなかった。このことが原因で、やがて南ユダ王国はバビロンによって滅ぼされてしまうことになる。15年も寿命を延ばしてもらったヒゼキヤだったが、彼はその15年の間に、取り返してのつかない過ちを犯してしまった。いたいなぜ彼はこのような愚かなことをしてしまったのだろうか。それは、彼の心が高ぶったからである。彼は自分の富と力を誇りたかった。彼がほんとうに見せなければならなかったのは生きて働かれる主の御業だったのに、バビロンの王から贈られた贈り物を見て興奮し、自分の権力と、自分の栄華を誇示してしまったのである。

人は往々にしてこのような傾向がある。神の恵みに感謝するよりも、自分を誇示しがちなのである。病気がいやされたり、家庭が崩壊の危機から回復したりすると主の恵みに感謝するよりも、自分の手柄を誇ろうとする。ヒゼキヤはアッシリヤの王たちの脅迫によって信仰が弱くなるのではないかという危険があったが、本当の危険はそうした困難に勝利した後にもたらされる人からの称賛という甘い蜜であった。「ですから、立っていると思う物は、倒れないように気をつけなさい。」(Iコリント10:13)いつも慎み深く、謙遜でなければならない。

Ⅱ.すべてがバビロンへ(5-7)

このヒゼキヤの過ちよって、主はイザヤを通して語られた。「見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる。」(5)これは、この時から115年後のB.C.586年に起こるバビロン捕囚の預言である。バビロンの王ネブカデネザルによってエルサレムは陥落し、そこにあったすべてのものが略奪され、エルサレムの人たちはバビロンへと連行される。それはヒゼキヤが神ではなく自分の栄光を求めたからである。もし彼が神に信頼し、神に助けを求めたのであれば、エルサレムが滅ぼされることはなかった。しかし、彼は神ではなく自分のことしか考えなかったので、神はエルサレムにあったすべてのものをバビロンへ運び去ったのである。

Ⅲ.それでもあきらめないで(8) 

しかし、それですべてが終わりではない。ヒゼキヤはイザヤが語ったことばに対して、「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい。」と言った。彼はこの神のさばきを招くようになったのは自分のせいであることを認め、その高ぶりを捨ててへりくだった(Ⅱ歴代32:26)のである。それで主の怒りはヒゼキヤの時代には彼らの上に臨まなかった。ヒゼキヤはそうした失敗からも学び、それを悔い改めてへりくだった。それがこのヒゼキヤのことばに現れているのである。かつての彼はそうではなかった。彼が39歳の時死の宣告を受けた時は、「死にたくない。死にたくない」の一点張りだった。すべてがみこころのままにとは言えなかったのである。ところがこの時は、たとえそれが神のさばきの宣告であっても、「主のことばはありがたい。」と受け入れることができた。それは彼が失敗を通して学んだからである。すべてが神の恵みである・・・と。神のみこころがベストであり、それに従うことが最大の祝福なのだ・・・と。だから、このように言うことができたのである。

年を取ってからでも罪を犯すことがある。人生の晩年を迎えても過ちを犯し、神のさばきを招くことがある。けれども、大切なのはそこから学ぶことである。神は、私たちがもう一度信仰に立つことができるようにチャンスを与えてくださる。だからあきらめないで、主にすがっていただきたい。私たちは何歳になっても「工事中」である。しかし、主はそのような者を変えてくださり、やがて完全にし、堅くし、強くしてくださる。その神の約束に信頼し、何度でも立ち上がらせていただきたい。その結果が、「主のことばはありがたい。」なのである。生きることはキリスト。死ぬこともまた益なり。それは失敗から学んだ人の確信であり、ヒゼキヤの信仰だったのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!)

・大きな喜びの後に軽率な行動で苦しみを招いたことがありますか?

・ヒゼキヤは自分の失敗を通して、「すべてはき主の恵み」と受け止めることができるようになりました。あなたがなかなか受け入れられないで苦しんでいることは何ですか?あなたがすべてを神にゆだねるために必要なことは何ですか?

イザヤ38:9-22 レジュメ

「生と死を支えるもの」                         N055

Ⅰ.ヒゼキヤの嘆き(10-16) 

ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた時、涙を流して必死に祈った。その結果、主はヒゼキヤをあわれんでその病をいやしてくださった。その病気から回復したとき、彼はそのことを思い出して言った。「私は言った。私は生涯の半ばで、よみの門に入る。私は、私の残りの年を失ってしまった。」(10)まさに人生で一番脂がのった時に死の宣告を受けた彼は、自分のみじめさを嘆いたのである。いったいなぜ彼はこんなにも落ち込んだのか?それは、復活の希望がぼんやりしていたからである。確かに旧約の時代にも復活についての言及はあった(詩篇49:15,ダニエル12:2)が、あまりはっきりしていなかった。それがはっきりしたのはいつかというと、イエス・キリストが来られて十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられた時である。イエスが死ら復活したので、この方を信じる者はみな死んでも復活して永遠のいのちが与えられることがわかった(Ⅱコリント5:1)。このことを信じている私たちは、たとえ死に直面するようなことがあっても神に感謝することができる。たとえ心が騒ぐようなことがあっても揺るがされることなく、堅く信仰に立って、いつも主のみわざに励むことができる。結局のところ、私たちの生と死を支えるものは、この十字架と復活の信仰なのである。

 Ⅱ.ヒゼキヤの賛美(17-20)

このように十字架と復活の信仰を持っている者は、主への賛美と感謝に溢れている。「ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。」(17)と言うことができる。それが主の摂理と主権によって行われたことであり、それは神のすばらしさを学ぶレッスンだったと受け止めることができるのである。

9歳で集団赤痢にかかり、それが原因で脳性マヒになった水野源三さんは、生涯首から下が全く動かず、瞬きだけで自分の意志を伝えた。12歳の時に聖書に触れ、13歳で洗礼に導かれ、47歳で天国に召されるまで、瞬きだけで詩を書いた。その詩の中に「キリストを知るため」という詩がある。

「病に倒れたその時には 涙を流して悲しんだが  霊の病いやしたもうキリストを知るためだとわかり  喜びと感謝に変わりました

友にそむかれた時には  夜も眠れずに恨んだが  永遠に変わらない友なる  キリストを知るためだとわか

り喜びと感謝に変わりました  過ち犯したその時には  心を乱して悔やんだが すべてをば償いたもう

キリストを知るためだとわかり 喜びと感謝に変わりました」

すべてはキリストを知るためであったとわかるとき、私たちの心にも神への感謝と賛美が溢れる。あなたのためにひとり子イエス・キリストのいのちさえも惜しまずにささげてくださった神は、あなたのために働いてあなたを救ってくださる。その信仰があなたを支え、あなたを賛美と感謝の生涯へと導いてくれるのである。

Ⅲ.いやすのは神(21-22) 

主はヒゼキヤの信仰に答え、彼の病を癒してくださった。「イザヤは言った。ひとかたまりの干しいちじくを持って来させ、腫物の上に塗りつけなさい。そうすれば直ります。」(21)ヒゼキヤの病気をいやすために、主は干しいちじくを用いられた。主が全能者であられるならば、わざわざこのような方法を用いなくてもいやすことができはずなのに、主はあえていちじくを持って来させ、それを腫物の上に塗りつけるようにさせたのはどうしてか?それは、ヒゼキヤから信仰を引き出すためである。聖書を見ると、主はたびたびこのような方法を用いていやしておられる。どのような方法を用いるかは実にさまざまであるが、忘れてはならないことはどのような方法を用いるにせよ、いやされるのは神であるということだ。医学が人をいやすのではない。薬が人をいやすのでもない。いやされるのは主である。主はある時には医療を用いて、またある時はぶどう酒を用いていやされることがあるが、いやされるのは主ご自身なのであって、この方がいやしてくださると信じて祈ることが重要である。

まとめ(自分に適用してみましょう!)

・あなたは復活の希望を持っていますか?あなたはキリストの贖いによって救われていますか?

・あなたは今どんなことで苦しんでいますか?その苦しみをあなたはどのように受け止めていましたか?それがキリストを知るためであったと受け止め、感謝していますか?

・あなたは、主がどんな病も癒すことができると信じていますか?あなたはその主に何を求めますか?

イザヤ38:1-8 レジュメ

「祈りは壁を突き破る」                         N054

Ⅰ.あなたの家を整理せよ(1) 

エルサレムがアッシリヤに包囲されていたころ、ユダの王ヒゼキヤはもう一つ深刻な問題を抱えていた。病気で死にかけていたのである。そして、預言者イザヤを通して死の宣告を受けた。「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。」(1)ヒゼキヤにとってどんなにショックなことであったか。自分の肉体が試練を受けるということは、外側から来る試練よりも辛いものがある。しかし、神を信じる者にとって絶望はない。むしろそのような時こそ神の栄光が現される時でもある。本当の絶望とは試練に襲われることではなく祈れないこと。もし祈る信仰が残されているなら、そこにはまだ希望がある。

 Ⅱ.壁に向かって祈ったヒゼキヤ(2-3)

死の宣告を受けたヒゼキヤはどうしたであろうか?彼は顔を壁に向けて祈った。それは彼の置かれていた状況が八方塞がりのようだったからであり、神以外のものには目を向けないという信仰の決断からであった。彼は立ち上がり、神のもとに行き、神のあわれみを求めて泣きながら祈った。これこそ、困難に直面するときに私たちが取らなければならない態度である。私たちの人生にもヒゼキヤと同じような試練が襲ってくることがある。しかし、そのことで振り回されていたら、激しい絶望にうちひしがれ、立ち上がることができなくなってしまう。そういう時こそ神を見上げなければならない。顔を神に向け、神に信頼して、集中して祈らなければならない。ヒゼキヤは、「ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行ってきたことを。」(3)と祈った。自分がどんなに不完全な者で、すねに傷を持っているような者であっても、神はご自身が約束してくださったその契約のゆえにあわれんでくださる方であると信じて祈らなければならない。

日本人の宗教観にはどこか「こんなことをしたら罰があたる」とか、「あんなことをしたから呪われる」といったものがある。しかし、聖書の神はあわれみ深く、恵み深い方である。無限に私たちを愛し、私たちを絶対に退けることはなさらない。神は無限の恩寵者であって、だれが忘れても決して私たちを忘れることはしない方である。そう信じて祈らなければならない。

Ⅲ.わたしはあなたの祈りを聞いた(4-8) 

ヒゼキヤが涙をもって祈った結果、どうなったか?イザヤを通して神のことばが告げられた。「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう15年を加えよう。わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、この町を守る。これがあなたへのしるしです。・・・・見よ。わたしは、アハズの日時計におりた時計の影を、10度あとに戻す。」(5-8)神はヒゼキヤの祈りを聞かれ、その涙を見られ、彼の寿命を15年延ばすと言われた。そればかりではなく、彼が祈らなかったことまで、つまり、アッシリヤの手から彼とエルサレムを救い出すと語られた。そして、それが必ず成就するしるしまで与えてくださった。

何とすばらしいことか。神は涙をもって切に祈る祈りに必ず答えられる。このような祈りは神の心を動かす。そして、それまで八方塞がりだった壁に希望の扉を開くのである。だから、どんな試練が襲ってきてもあきらめたり、絶望してはいけない。そのようなときにあなたがすべきことは、ヒゼキヤのように祈ることである。神のあわれみにすがって祈ればいい。そうすれば主は答えてくださる。そのような祈りは絶望の壁を突き破るのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!)

・いまあなたが苦難の中にいるなら、あなたはどのように祈るべきでしょうか?

・あなたは神に対してどのようなイメージを持っていますか?神はあなたの父であると信じて、あわれんでくださると信じて、幼子のように、ありのままに、すべてをゆだねて祈りましょう。

イザヤ37:30-38 レジュメ 

「完全な勝利」                             N053

Ⅰ.あなたへのしるし(30-32) 

アッシリヤの王セナケリブの言葉を聞いたヒゼキヤは、主の宮に上り、主の御前にひれ伏して祈った。すると主は、イザヤを通して「あなたの祈ったことを、わたしは聞いた」(21)と言われた。そして、アッシリヤの王はさばかれ、もと来た道に引き返す、というのだ。そのしるしは何であろうか。それは「ことしは、落ち穂から生えたものを食べ、二年目も、またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。」(30)ということである。アッシリヤによって土地が荒らされ、荒廃するため、すぐには収穫は望めないが、徐々に回復していき、やがて安定した生活ができるようになるというのだ。神は少しずつではあるが、しかし確実に回復させてくださる。それゆえ、現状が苦しくてもつぶやいたりせず、神の約束を信じ、忍耐しながらその時を待たなければならない。

そのために必要なことは、下に根を張ることである。「ユダの家ののがれて残った者は、下に根を張り、上に実を結ぶ。」(31)下にしっかりと根を張ってこそ、上に実を結ぶことができる。確かに、やればすぐに成果が現れるというものではない。しかし、だからといって手をこまねいているのではなく、見えない大地の下深くに、下へ下へと根を伸ばしていかなければならない。実は目に見ることができるが、根は外からは見えない。ややもすると私たちは、たちどころに成果が現れるものを求めがちだが、大地にしっかりと根を張るというプロセスなしには実を結ぶことはできないということを覚えておきたい。

 Ⅱ.彼はこの町に侵入しない(33-35)

「それゆえ、アッシリヤの王について、主はこう仰せられる。彼はこの町に侵入しない。また、ここに矢を放たず、これに盾をもって迫らず、塁を築いてこれを攻めることもない。」(33)何と力強い約束であろうか。ここで主はアッシリヤの王について、はっきりと語られた。この町に侵入することはない・・・と。一本の矢も放つ事もなく、エルサレムをまともに攻撃することはないと。なぜ、そのようなことになるのだろうか。ここには「わたしのために、わたしのしもべダビデのために。」(35)とある。主は、そのしもべダビデに、彼から出る世継ぎの子を、彼のあとに起こし、彼の王国を確立させると約束された(Ⅱサムエル7:12)。「世継ぎの子」とはイエス・キリストのことである。イエス・キリストによってもたらされる神の国のことである。もしユダが滅ぼされることになったら、この約束が反故にされてしまう。しかし、主は約束されたことを必ず成し遂げられる。主が語られたことは一つもたがわずみな実現する。主は真実なお方であられるからだ。その約束のゆえに、主はエルサレムを守り、これを救われると言われたのである。

Ⅲ.完全な勝利(33-35) 

その結果、どうなったか?「主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。」(37)いったい何が起こったのだろうか?人々が翌朝早く起きて見ると、アッシリヤの陣営にいた十八万五千人の兵士が打ち殺されていた。ユダヤ人の歴史家ヨセフスによると、これは疫病であったと記録している。それが何であったのかを議論することは全く意味がない。大切なことは、主はヒゼキヤの祈りに答えてくださり、勝利を与えてくださったということである。これは万軍の主の熱心による勝利であった。

このときのヒゼキヤの感極まった心境を歌にしたと言われているのが詩篇46篇の歌である。「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさがまして山々が揺れ動いても。」(1-2)神は我らの避け所であり、力である。苦しむときそこにある助けである。私たちもアッシリヤ包囲されるような事態に遭遇することがあるかもしれない。しかし、どのような事態になっても、神は私たちの避け所であり、助けである。そして、完全な勝利をもたらしてくださる。問題はあなたがこのことを信じて、本気で祈り求めるかどうかなのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!)

・あなたは下に根を葉っていますか?あなたにとって下に根を張るというどういうことですか?

・ヒゼキヤの祈りに答えてくださった主は、必ずあなたの祈りにも答えてくださいます。あなたはそのことを

信じていますか?あなたにとって主を避け所にするとはどういうことですか?

イザヤ37:14-29 レジュメ     

「ヒゼキヤの祈り」                            N052

Ⅰ.まず主の前に(14) 

執拗に南ユダに迫るアッシリヤの王セナケリブから手紙を受け取ったヒゼキヤは、それを読み、主の宮に行って、それを主の前に広げた。彼はまな板の鯉のように自分を主の前にさらけ出して祈った。これは信仰者の模範的な姿である。自分が傷つくような文書を受け取ったとき、あるいは容赦ない言葉を浴びせられるとき、私たちはいったいどうしたらいいのだろうか?それをまず主の前に持って行き、主の前に広げなければならない。すぐに弁護士のところへ行って相談するとか、消費者ローンのところへ、専門のカウンセラーに相談するというのではなく、それをまず主のところに持って行き、主に相談しなければならないのである。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6-7)クリスチャンには祈れるという特権が与えられているのに、なかなか祈ろうとしないのはどうしてなのだろうか?神を信頼していないからである。神よりも自分を信じているので、神よりも他のものを信じているので、なかなか神に祈ろうとしないのである。しかし、困難に直面した時に私たちがすべきことは、まず主のところへ行き、それを主の前に広げること、つまり、祈ることなのである。

 Ⅱ.ヒゼキヤの祈り(15-20)

ではヒゼキヤはどのように祈っただろうか?彼はまず神を神として認め、その神をほめたたえた。「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。」(16)ケルビムとは天使の最高位にある天使のことである。しかし、イスラエルの神はそんなケルビムのはるか上に座しておられる方であり、この方は天地を造られた全能者であると告白した。これが祈りにおいて私たちが真っ先にすべきことである。あなたが窮地に置かれた時、あなたが真っ先にすべきことは、主を認め、主を賛美することである。まず主の偉大さに目を留め、その偉大さをほめたたえなければならない。そうすれば、いつの間にか自分を覆っていた問題がいかにちっぽけなものであったかに気づくようになるであろう。あんなに悩んでいた問題が、実は問題でもなかったということに気づかされるのである。

それからヒゼキヤは、「主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください。」(17)と祈った。主はすべてをご存じであられるのに、なぜこのように祈る必要があるのだろうか?それは、主は私たちと交わりを持ちたいと願っておられるからである。祈りとは神との交わりである。たわいもないことであっても主に祈るなら、主は喜んでそれを聞いてくださる。

しかし、ヒゼキヤの祈りの究極的な目的は何であったかというと、次のことであった。「私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、他のすべての王国は、あなただけが主であることを知りましょう。」(20)そう、ヒゼキヤは祈りの中で主の御名があがめられることを求めた。これが祈りの目的である。主イエスも十字架を前に、ゲッセマネの園で「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と祈られた(マタイ26:39)。たとえ十字架にかけられて死ぬようなことになっても、たとえ自分の願いがかなえられなくても、ただ神のみこころのとおりにしてくださいと祈ること、これが祈りの目的なのである。

Ⅲ.ヒゼキヤの祈りの答え(21-29) 

ヒゼキヤの祈りに対して、主はどのようにお答えになられたであろうか?主はイザヤを通して次のように言われた。「あなたは聞かなかったのか。昔から、それをわたしがなし、大昔から、それをわたしが計画し、今、それを果たしたことを。」(26)「あなたがすわるのも、出て行くのも、入るのも、わたしは知っている。あなたがわたしに向かっていきりたつのも。」(28)どういうことか?すべてのことは主がご計画され、主が成されたということである。すべてのことに主の御手が働いていた。アッシリヤはそれらすべてのことを自分たちの力によって成し遂げたと自分たちの業績を誇ったが、そうではない。彼らはただ神の道具として用いられたにすぎなかった。すべては主の御手の中にあったのだ。このように神の主権を知ることは重要なことである。すべてのことの中に主の御手があることがわかるとき、安心することができる。たとえ苦しいこと、辛いこと、嫌なこと、理不尽に思えることがあっても、そこにも神の御手が働いていることを知るなら、その状況さえも受け入れることができる。このことはヒゼキヤにとってどれほど大きな慰めであったことか。私たちも何かで悩み、苦しむことがあったら、ヒゼキヤのように主のもとに行き、主に祈ろう。そうすれば、主がその祈りに答えてくださる。あなたの悲痛を祝福へと変えてくださるのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!)

・あなたは問題に直面するとき、どこに助けを求めていますか?あなたが祈ろうとしないのはどうしてですか?

・ヒゼキヤの祈りから何を学びましたか?あなたは神に栄光が帰せられることを求めて祈っていますか?あなたの祈りに必要なことはどんなことですか?

イザヤ37:1-13 レジュメ 

「困難に直面する時」                           N051

Ⅰ.主の宮に入ったヒゼキヤ(1) 

南ユダ王国に迫った国家的レベルの危機に対して、ヒゼキヤ王はどのように対処したか?まず彼は自分の衣を裂き、荒布を身にまとって、主の宮に入った。衣を裂くとか、荒布を身にまとうとは、悲しみと悔い改めを表現する当時の風習である。ヒゼキヤはこれまで主に頼ることをせず自分の考えでエジプトと同盟を結び、アッシリヤに金銀を差し出すことによって難局を乗り越えようとした結果、アッシリヤに取り囲まれることになってしまった。そのことを悔い改め、荒布をまとって主の御前の出たのである。私たちもヒゼキヤのように危機的な状況に直面することがある。そのような時私たちがしなければならないことは、主の宮に入り、主の御前に心を注いで祈ることである。そうすれば私たちは、いつでもどこからでも祝福を受けられる。その鍵は、どこにへたり込んでいても、自在に引き上げることがおできるになる方に向かって祈り求めるか否かにある。

 Ⅱ.祈りをささげてください(2-4)

それだけではない。ヒゼキヤは宮内長官エルヤキム、書記シェブナ、年長の祭司たちを預言者イザヤのところに遣わしてこう言った。「きょうは、苦難と、懲らしめと、侮辱の日です。子どもが産まれようとするのに、それを産み出す力がないのです。おそらく、あなたの神、主は、ラブ・シャケのことばを聞かれたことでしょう。彼の主君、アッシリヤの王が、生ける神をそしるために彼を遣わしたのです。あなたの神、主は、その聞かれたことばを責められますが、あなたはまだいる残りの者のため、祈りをささげてください。」(3-4)

彼は自分が祈っただけでなく、自分のカウンセラーとしていつも指導を仰いでいたイザヤに、祈りの応援を求めた。「子どもが生まれようとしているのに、それを産み出す力がない。」と。祈りは内容も大切だが、その態度が重要である。彼は自分をさらけ出して祈った。私たちはこのように自分をさらけ出すことが苦手である。人の前である程度社会性をもった人間であるように思われたいためか、自分の感情を抑圧する傾向がある。そのため、ありきたりの、形式的な祈りで終わってしまうことが多い。時にはヒゼキヤのように、自分をさらけ出して祈ることも必要である。そのように自分をさらけ出せる人は、「どうか、私のために祈ってください。」と言える。苦難に会う時自分で祈ることも大切だが、このように祈ってもらうことも大切である。ヒゼキヤは「自分には産み出す力がない」と認めていたからこそ、そのように言うことができた。そのように認めることができる人だけ「祈ってください」とお願いすることができる。私たちも互いのために祈ろう。そうすれば、その一つ一つの祈りが水滴のように集まって、やがて逆らうすべてのものを寄せ付けないほどの大海になるからだ。

Ⅲ.あのことばを恐れるな(5-13) 

その結果、ヒゼキヤはイザヤを通して主のことばをいただいた。それはあのラブ・シャケのことばを恐れるなということであった。それはヒゼキヤやユダの住民をバカにしたというよりも、彼らが信頼していたイスラエルの神、主を冒涜することであった。それゆえに主は彼らに立ち向かってくださる。ヒゼキヤは何も恐れる必要はない。このことばはヒゼキヤにとってどれほどの慰めと励ましを与えてくれたことか。というのは、この恐れこそ私たちにとっての最大の敵であるからだ。私たちが恐れるとき、私たちは力を失う。立ち上がることができなくなり、まるで風船から空気が抜けてしまうように萎えてしまう。それがひどくなると生きていくことさえできなくなる。そんなヒゼキヤに対して主は「恐れるな」と語って励ましてくれたのである。

そればかりではない。主は具体的にご自身がどのように働かれるのかを示してくださった。それは、主はラブ・シャケの中に一つの霊を入れ、彼はあるうわさを聞いて、自分の国に引き上げるようになるということであった。果たせるかな、それが実際に起こった。ラブ・シャケはクシュの王ティルハカが戦うために出てくるという噂を聞いて、一時エルサレムを退いた。そして結局、アッシリヤの王セナケリブは自分の国に帰って行き、そこで二人の息子に殺されてしまうことになる。(Ⅱ列王記19章)主が言われたとおりになった。ヒゼキヤはイザヤを通して主のことばを聞いたとき、目の前にあった問題を完全に解決することができたのである。私たちもヒゼキヤのように自分の衣を裂き、荒布を身にまとい、神の御前にひれ伏して祈るなら、神は私たちにもみことばを与え、今の問題から解放し、その危機的な状況から完全に救い出してくださるのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!)

・あなたは問題に直面するとき、それをどのように解決しようとしていますか。主の宮に入っていくことを妨げているものは何ですか?

・あなたは自分の問題について他の兄弟姉妹に祈ってもらおうとしていますか?それを妨げているものがあるとしたら、それは何ですか?

・あなたは神のことばによって問題から解放されたという経験がありますか?