イザヤ書59章1~21節 「救いは主の御手の中に」

きょうは、「救いは主の御手の中に」というタイトルでお話します。イザヤは、58章でイスラエルの問題について触れました。それは、彼らの信仰は形だけで中身がなかったということです。行動が伴っていませんでした。この59章ではその根本的な問題を取り上げています。それは罪の問題です。彼らが自分の信仰を具体的な行動に移さなかったのは、根本的に罪があったからなのです。いったいどうしたらこの罪の問題を解決することができるのでしょうか。それはただ神の御手の中にあります。

Ⅰ.神との仕切り(1-8)

まず1節から8節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。 「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」

イスラエルは自分たちがバビロンに捕えられたのを神のせいにしていました。そして、神は自分たちを見捨ててしまったと嘆き、恨んでいたのです。しかし、神が彼らを見捨てたのではありません。彼らが神に背いたのです。彼らの咎が、彼らと神との仕切りとなり、彼らの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのです。彼らがそのようになったのは、すべて彼ら自身に原因があったのです。

私たちはしばしば、自分が罪を犯すと、神が怒られて、自分から遠ざかれたのではないかと考えますが、そうではありません。神が遠ざかれるのではなく、私たちの方が遠ざかるのです。私たちの咎が、神との間の仕切りとなり、御顔を隠させているのです。アダムのことを考えてみてください。アダムが罪を犯したとき、神は彼から遠ざかれたでしょうか。いいえ、神ではなく、アダムの方が遠ざかりました。食べてはならないと神が命じておられた木から取って食べたとき、彼は神の御顔を避けて、木と木の間に身を隠したのです。「アダム、あなたはどこにいるのか」と神が呼びかけても、彼は神の前に姿を見せようともしませんでした。神を恐れたからです。もともと人間は神によって造られ、神を愛し、神と交わるように造られたのに、その神から遠ざかってしまったのです。何が問題だったのでしょうか。罪です。アダムは罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができなくなってしまいました。主の御手が短くて救えないのではないのです。その耳が遠くて聞こえないのでもないのです。彼らの咎が、彼らと神との仕切りとなり、彼らの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのです。

その結果、人間はどうなってしまったでしょうか。3節から8節までをご覧ください。まず3節から6節までのところを読みます。 「実に、あなたがたの手で血で汚れ、指は咎で汚れ、あなたがたのくちびるは偽りを語り、舌は不正をつぶやく。正しい訴えをする者はなく、真実をもって弁護する者もなく、むなしいことにたより、うそを言い、害毒をはらみ、悪意を産む。 彼らはまむしの卵をかえし、くもの巣を織る。その卵を食べる者は死に、卵をつぶすと、毒蛇が飛び出す。そのくもの巣は着物にはならず、自分の作ったもので身をおおうこともできない。彼らのわざは不義のわざ、彼らの手のなすことは、ただ暴虐。」

ここには手と口の犯す罪にいつて書かれてあります。実に、手は血で汚れ、指は咎で汚れています。くちびるは偽りを語り、舌は不正をつぶやきます。正しい訴えをする者も、真実をもって弁護する者もなく、むなしいことにたより、うそを言います。人を陥れるような言動をし、事実、人を陥れるのです。それはまさにまむしの卵から毒蛇(まむし)をかえすようなものです。まさに毒舌ですね。また、「くもの巣を織る」とあるように、他の人をわなに陥れるようなことをするのです。

そして、7節と8節も読んでみましょう。 「彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速い。彼らの思いは不義の思い。破壊と破滅が彼らの大路にある。彼らは平和の道を知らず、その道筋には公義がない。彼らは自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも、平和を知らない。」

今度は彼らの足です。彼らの足はどうでしょうか。彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速いのです。彼らは平和の道を知らず、その道には公平がありません。彼らは自分たちの道を曲げ、そこを歩く者はだれも、平和を知らないのです。これが人間の姿です。

パウロはローマ人への手紙3章9~18節で、この箇所を引用してこう言っています。 「では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちの前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」

パウロは、すべての人が罪の下にあることを示すために、この箇所を引用してこう述べたのです。最初の人アダムが罪を犯したので、すべての人が罪の下に置かれるようになってしまいました。それはユダヤ人も例外ではありません。すべての人です。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益なものとなってしまいました。それは私たちも同じです。私たちはそんなひどい人間じゃないと思うかもしれませんが、しかし、それはコップの下に沈んでいる泥のようなものであり、その水をかき混ぜると水全体が濁るように、いつでもこれらのことを起こしえる者なのです。

このような罪の問題を、いったいどうやって解決しろというのでしょうか。あなたの意志で断ち切ることができますか。断食という方法で解決できるでしょうか。できません。私はよくダイエットを決行するのですが、ただの一度さえ成功したことがないのです。人間の意志は強そうでも、意外ともろいものです。そのような意志でいったいどうやってこの罪を断ちきることができるというのでしょうか。パウロは、この罪を断ち切れない自分のみじめさをこう告白しています。

「私は、ほんとうにみじめな人間で。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるでしょうか。」(ローマ7:24)

これは罪に立ち向かった人間の赤裸々な告白です。だれもこの死の、からだから救うことができる人はいません。だれもこの罪の問題を解決できる人はいないのです。いったいどうすればいいのでしょうか。

Ⅱ.罪の告白(9-15)

9節から15節までをご覧ください。9節をご覧ください。 「それゆえ、公義は私たちから遠ざかり、義は私たちに追いつかない。私たちは光を待ち望んだが、見よ、やみ。輝きを待ち望んだが、暗やみの中を歩む。」    ここから主語が「私たち」に変わっています。これまでは「彼ら」が主語でしたが、ここからは「私たち」です。なぜでしょうか。ここから、罪の告白が始まるからです。これまで彼らは自分の罪の姿を嫌というほど見せつけられましたが、そのことに同意して、自分たちがそのように汚れたものであると認めているのです。つまり、この罪の解決は、自分の罪を認めることから始まるということです。 その罪を認め、それを告白することから始まるのです。

ここに「私たちは光を待ち望んだが、見よ、やみ。輝きを待ち望んだが、暗やみの中を歩む。」とあります。これが人類の営みではなかったでしょうか。人類は自分たちの英知と不断の努力によってもっといい社会を築くことができると躍起になってきましたが、実際はどうだったかというと、全く逆の結果でした。文明が発達して、争いや戦争のない平和な世界になったでしょうか。なっていません。光を待ち望んだのに、かえって闇の中を歩むようになりました。かえって昔の方が平和だったと、多くの人が気づき始めています。文明の発達は必ずしも幸福な世界へと導くことはできませんでした。

10節を見てください。それはまさに盲人のようです。真昼でも、たそがれ時のようにつまずき、やみの中にいる死人のようです。これからどういう方向に進んでいったらよいのか分からない状態です。また、熊のようにほえ、鳩のようにうめいても、そこに公義も救いもありません。まるで現代の世界を描いているかのようですね。問題が山積しいますが、それをどう処理したらいいかわからないまま、また次の問題が出て来ています。真の解決に近づくどころか、それはますます遠ざかっていくのです。

それはなぜでしょう。12節をご覧ください。 「それは、私たちがあなたの御前で多くのそむきの罪を犯し、私たちの罪が、私たちに不利な証言をするからです。私たちのそむきの罪は、私たちとともにあり、私たちは自分の咎を知っている。」    すばらしい告白です。「それは、私たちがあなたの御前で多くのそむきの罪を犯し、私たちの咎が、私たちに不利な証言をするからです。」と正直に認めています。そして、「私たちのそむきの罪は、私たちとともにあり、私たちは自分の咎を知っている。」と告白しています。私たちの罪は、単なる行為としての罪ではなく、常に自分にまとわりついている性質としての罪だと告白しているのです。パウロのことばで言うなら、「ほんとうに私はみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出すことができるでしょうか」というのと同じです。本当に罪深い者であり、もうどうしようもない人間なのです、と告白しているのです。

13節と14節をご覧ください。 「私たちは、そむいて、主を否み、私たちの神に従うことをやめ、しいたげと反逆を語り、心に偽りのことばを抱いて、つぶやいている。こうして公正は退けられ、正義は遠く離れて立っている。真理は広場でつまずき、正直は中に入ることもできない。」

これは、先程3節から8節までのところで、「あなたがたはこうだ」と神が言われたことに対して、「そうです、その通りです」と、それをそっくりそのまま認めている形になっています。主語が「私たち」に変わっただけです。しかし、ここから本当の救いが始まります。15節の終わりのところには何とあるでしょうか。「主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。」とあります。主はそれを見て心を動かされたのです。すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができないのを見られて、心を痛められたのです。

Ⅲ.主の救い(16-21)

ではどこに救いがあるのでしょうか。ここに救いがあります。救いは主の御の中にあります。16節をご覧ください。ここには、「主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。」とあります。

どういうことでしょうか。これは、主はこの罪から救うことのできる人がいないのを見て、とりなす者がいないのを見て驚かれたという意味です。かつてイスラエルがエジプトを出て荒野に導かれた時、金の子牛を拝み、神の怒りを招いて滅ぼされそうになりましたが、その時モーセは神と民との間に立って、こう祈りました。

「今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら―。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」(出エジプト32:32)

モーセは神と民の間に、その破れ口に立って祈ったのです。しかし、今の時代、そのように破れ口に立ってとりなす人はいません。人間の側には、この罪から救うことのできる人は誰もいないということです。

だからこそ、主が立ち上がってくださったのです。だから主はご自身の御腕によって救いをもたらしてくださるのです。神は今から二千年前にイエス・キリストをこの世に遣わし、その救いの御業を成し遂げてくださいました。罪から救うことのできる人はひとりもいないので、イエスさまがこの世に来られ、神と人の破れ口に立つかのようにして十字架にかかって死んでくださいました。そして、「父よ。彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか自分でわからないのですから。」と言ってとりなしてくださったのです。ですから、ここは、救い主としてイエス・キリストが来られるということの預言なのです。「ご自分の義を、ご自分のささえとされた」とは、ご自分のひとり子、罪を知らない方を基として義を確立されたということです。

17節をご覧ください。ここには、「主は義をよろいのように着、救いのかぶとを頭にかぶり、復讐の衣を身にまとい、ねたみを外套として身をおおわれた。」とあります。

ここでは義や救いが身につけるものとして表現されています。それは私たちがこの義を身につけることによって、神の前に認められるようになるという意味です。これが信仰による義です。パウロはⅡコリント5章21節でこう言っています。

「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(Ⅱコリント5:21)

また、ローマ人への手紙3章23~24節でも、こう言っています。 「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

私たちはこの罪から自分を救うことなどできません。ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。ですから、神の救いであるイエスの衣を着なければなりません。一生懸命にいちじくの葉をつづり合わせて腰のおおい作るのではなく(創世記3:7)、神が用意してくださった皮の衣(同3:21)、義の衣を着なければならないのです。どんなにいちじくの葉を綴りあわせても、そんなのはすぐに枯れてしまうでしょう。そんなのはあなたを救うことなんてできません。あなたを救うことができるのは、神が用意してくださった皮の衣です。その皮の衣こそイエス・キリストであります。

あなたはこの義を身につけているでしょうか。神が用意してくださった皮の衣を着ておられるでしょうか。私たちが救われる唯一の道は、この義を着る以外にはありません。私たちはこの方にあってのみ、神の義と認めていただくことができるのです。

ところで、ここには「復讐の衣を身にまとい、ねたみを外套として身におおわれた」とあります。これはどういうことでしょうか。この「復讐」とか「ねたみ」とは、「しっと」という意味ではなく、「主の熱心」という意味です。神が、義と救いとさばきにおいて、熱心に働かれるということです。まさに救いは私たちの力ではなく、主の熱心によるのです。

18節と19節を見てください。 「主は彼らのしうちに応じて報い、その仇には憤りを報い、その敵には報復をし、島々にも報復をする。そうして、西のほうでは、主の御名が、日の上るほうでは、主の栄光が恐れられる。主は激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくっている。」

これはどういうことかというと、主は報復するために、激しい流れのように来られるということです。つまり、これは再臨の預言なのです。イザヤの時代にはまだメシヤ、救い主キリストが来ていなかったので、キリストの初臨と再臨が一つの山脈のように重なって見えているのです。しかし、実際にはそこには時間的なズレがあって、山と山の間のくぼみのようになっているのです。そして、私たちはまさにそのくぼみの中にいるわけです。もう救い主は来られました。しかし、主は再びやって来られます。その時に主は彼らのしうちに応じて報い、その仇には憤りを報い、その敵には報復をし、島々にも報復をされるのです。そして、西の方では、主の御名が、日の昇る方では、主の栄光が恐れられます。それはまるで激しい流れのようです。主は激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくるのです。私たちは今、それを待ち望んでいるのです。それは私たちにとっては救いの完成の時でもあるからです。

昨年、台風が次々に日本列島を襲い、各地に大きな被害をもたらしました。テレビでは京都の桂川の堤防が決壊し、川の水がものすごい勢いで観光地を呑み込んでいく映像を流していましたが、まさにそのような激しい流れのように、再び主がやって来られるのです。イエス様が最初に来られた時には主のしもべとして、ほんとうに見るべき麗しい姿もなく、私たちに仕えるために来られましたが、再び来られる時には、栄光の王として、キング・オブ・キングス(King of Kings)として、栄光のうちにやって来られるのです。このようなことを申し上げると、世の中の人は言います。「へ-え、イエス様がもう一回来るの?ウソだ!」と。また「聖書も教会もおもしくていいし、精神的にもいいこと言ってるんだけど、人が水の上を歩いただの、死んだ人が生き返ったとか、イエス様が再び来られるだの、そんなのはいただけないな。この時代に」という人もいます。けれども、そうではありせん。聖書には、私たちのいいなと思うところもあれば、どうかなぁと思うところもありますが、しかし私たちがどのように思おうが、キリストが再びおいでになられる時にはせき止められた堤防が決壊するような勢いでおいでになられるのです。

今は、「そんなのあるはずがない。あるなら、いつくるんだ」と全く信じられないようですが、それはちょうどノアの時代と同じです。ノアの時代もそのように言ってノアをバカにしていましたが、主はそのことばの通り洪水でこの地上を滅ぼされました。ただ箱舟に入ったノアとその家族だけが救われたのです。それと同じように、主のさばきの時、再び来られる日がやって来ます。それがまだ起こっていないのは、Ⅱペテロ3章にあるように、神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われるのを望んでおられるからなのです(Ⅱペテロ3:9)。しかし皆さん、その日は確実に近くなっています。ジワリジワリと水の量は増しています。やがてせきとめられた堤防が決壊するような形で、栄光の主がやって来られるのです。皆さんは、その時のための備えが出来ているでしょうか。イエス・キリストという救いの箱舟の中に入っておられるでしょうか。

最後に21節を見ておわります。 「これは、彼らと結ぶわたしの契約である」と主は仰せられる。「あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない」と主は仰せられる。」

これが神が私たちと結ぶ神の契約です。この契約のことばはいつまで経っても絶対に変更されることはありません。これが救いの道です。私たちが自分ではどうすることもできなかった、自分をがんじがらめに縛っていた罪の縄目から救われるために神が用意してくださった唯一の救いの方法なのです。救いはただ自分自身のために神に助けを呼び求める者に与えられます。自分の罪を正直に認め、神にあわれみを請う者に、とりなし手であられるイエス・キリストを通して与えられるものなのです。あなたはこの救いを受けておられるでしょうか。

最近、私はこの本を読みました。これはアメリカのNASAでも働いたこともある韓国の科学者キム・ヨンギルという人の証です。シントロピーというのはエントロピーの反対で、調和とか、秩序という意味です。彼の人生がどのようにエントロピー、すなわち無秩序と崩壊、混乱の人生から、シントロピー、調和と秩序ある人生に回復されたかということが証されています。結論から言うと、それはイエス・キリストを信じることによってです。この天地を造られたお方こそ、この世界と私たちの人生にシントロピーをもたらすことができるということです。それにしても彼は一流の科学者です。その彼がどうやってイエス様を信じることができたのでしょうか。この本によると、彼は神様についてもっと知りたいというチャレンジを受け、ヨハネの福音書から読み始めるのですが、早くも2章のところで躓きます。カナの婚礼で、イエス様が水をぶどう酒に変えたという奇跡です。水を運んでいる間に化学方程式がH2OからC2H5OHに一瞬にして変わるのです。科学を信奉していた彼にとって、到底受け入れることのできない出来事でした。元素を変化させる核融合反応は常温では起こりえないからです。奥さんは小さい頃からクリスチャンの家庭で育てられた敬虔なクリスチャンですが、その奥さんに、こんなナンセンスなことがあるのかと質問すると、奥さんの答えはいつも簡単です。「そうやって問い正さないで聖書の言葉をただ信じるのよ。そんな疑って問い詰めてばかりいたら神様も気分を害されるでしょ。だから、ただ信じなさい。」ですから、疑問はたくさんありましたが、その疑問を脇に置いておいて、最後まで読んでみようと決心し、読み続けると、今度は6章です。ガリラヤのテベリヤ湖の向こう岸の山に登られたイエス様は、ついてきた群衆が牧者のいない羊のようなのをみてあわれまれた。夕暮れ時だったので、イエス様は弟子たちに、彼らに夕食を食べさせるようにと命じられました。そんなの無理です。こんなへんぴな所で、店もないし、あったとしても、これだけの人たちにどうやって食べさせろと言うんですか、と言うと、そこに少年が差し出した大麦のパン五つと小さい魚二匹をとり、感謝をささげて五千人あまりの人々に分け与えられました。彼らが十分に食べた後も多くのパンと魚が残ったと、聖書は記しています。これは科学者にとって、水がぶどう酒に変わることよりももっと信じがたい出来事でした。なぜなら、エネルギーの総量が変化してしまい、科学の基本法則であるエネルギー保存の法則、つまり、熱力学第一の法則に反するからです。  それで彼は信じられなくなってしまうのです。そして、妻に、約束とおり教会には行くけど、聖書は到底信じられない、と言いました。 しかし、NASAの同僚のクリスチャンたちが彼のために断食をして祈ってくれたそうです。自分のために食事もしない人がいるなんて、こんな迷惑なことはないと思いながら、もう一度創世記から読み始めたのです。そして、そこに記されてあるイエス・キリストについての預言を確かめたのです。それは数百回以上記されてありました。これには驚きました。というのは、科学の世界では常に人間の知識と理性を土台に組み立てられているので、たった1秒後に何が起こるかを確信して、預言することすらできないからです。なのに聖書は、旧約時代の約千年にわたって記された預言が新約の時代にことごとく成就しているのです。それは、聖書の御言葉が人間の知識や知恵ではなく、神に啓示によって記されたことを証明していました。そうした聖書の黙想と科学的な知識の探求から、創造主は実在し、人の人生を治めておられるという結論に到達しました。そして、ハル・リンゼイという人が書いた「惑星地球の解放」という本を読んだとき、彼がこれまで抱いていた様々な疑問が解決して、これまで断片的に蓄えてきた聖書の知識が一気につながり始めました。まるであちこちに散らばっていたジクソーパズルのピースがあるべき位置に納まり、一つの絵が完成したかのようでした。

「神は、実に、そのひとり湖をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

この御言葉の中に、神が私たちを救われた理由、代価、方法、そして結果のすべてが記されていることがわかりました。神が私たちを救われたのは、神の愛のゆえなのだということが・・・。私たちを救うために、神はひとの子であられるイエス様のいのちを私たちの人間の罪の負債の代価として支払われました。このことを信じるなら、私たちは永遠の滅びから救われ、永遠のいのちが与えられるということがわかったのです。これが福音であり、恵みなのです。彼は長い霊的漂流生活を終え、創造主であり、救い主であるイエス・キリストを救い主として受け入れたのです。

「この方以外に救いはありません。世界中でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名としては、人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)

このイエス・キリストだけが救い主であり、このイエスを救い主として受け入れるとき、あなたも罪から救われ、これまで崩壊と混乱でしかなかったあなたの人生に、秩序と調和の回復が、シントロピーがもたらされるのです。

あなたはイエスを信じていますか。信じて救われていますか。救いはただ主の御手の中にあります。このイエスを信じて、あなたも人生のシントロピーを体験してください。

イザヤ書58章1~14節 「神に喜ばれる信仰」

きょうは、イザヤ書58章から「神に喜ばれる信仰」というタイトルでお話します。3節に、「なぜ、私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか。私たちが戒めたのに、どうしてそれを認めてくださらないのですか。」とあります。イスラエルは宗教的には熱心でしたが、その熱心は神に喜ばれるものではありませんでした。それは、いわば「霊的空回り状態」だったのです。私たちも注意しないと、同じような過ちに陥ってしまうことがあります。自分では熱心だと思っていてもその熱心が神のみこころからズレていると、イスラエルと同じように空回りしていることがあるのです。しかもそのことにさえも気付かないこともあります。  いったい神に喜ばれる信仰とはどのようなものなのでしょうか。きょうは、神に喜ばれる信仰について、3つのポイントお話したいと思います。

Ⅰ.見せかけの信仰(1-5)

まず第一に1~5節までをご覧ください。ここには、虚しい断食について記されてあります。1節と2節をお読みします。

「せいいっぱい大声で叫べ。角笛のように、声をあげよ。わたしの民に彼らのそむきの罪を告げ、ヤコブの家にその罪を告げよ。しかし、彼らは日ごとにわたしを求め、わたしの道を知ることを望んでいる。義を行い、神の定めを捨てたことのない国のように、彼らはわたしの正しいさばきをわたしに求め、神に近づくことを望んでいる。」    これは、主がイザヤに対して語っていることです。主はイザヤに、イスラエルに対してせいいっぱい大声で叫ぶように、また、角笛のように、声を上げるように、と言っています。なぜでしょうか?神の民であるイスラエルに、ヤコブの家であるイスラエルに、そむきの罪があったからです。それを彼らに告げなければなりませんでした。彼らは日ごとに神を求め、神を知ることを望んでいましたが、実際には、神から遠く離れていたのです。いったい何が問題だったのでしょうか。

3節から5節までところに、次のようにあります。 「なぜ、私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか。私たちが身を戒めたのに、どうしてそれを認めてくださらないのですか。」見よ。あなたがたは断食の日に自分の好むことをし、あなたがたの労働者をみな、圧迫する。見よ。あなたがたが断食をするのは、争いとけんかをするためであり、不法にこぶしを打ちつけるためだ。あなたがたは今、断食をしているが、あなたがたの声はいと高き所に届かない。わたしの好む断食、人が身を戒める日は、このようなものだろうか。葦のように頭を垂れ、荒布と灰を敷き広げることだけだろうか。これを、あなたがたは断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。」    確かに彼らは断食という行為そのものには熱心でしたが、そこに具体的な心が伴っていませんでした。神の義、神を求めているようでも、実際は自分の好むことを求めていたのです。たとえば3節後半に「断食の日」とありますが、これは「贖罪の日」と言って、イスラエルで年に一度行われていた罪が贖われる日のことです。レビ記16章に記されてありますが、この日には大祭司がいけにえの雄牛ややぎをほふり、その血を垂れ幕の内側、すなわち至聖所と呼ばれる所に携えて行き、罪の贖いをしました。その血を贖いのふたの上に、また回りに振りかけて自分自身とイスラエルのすべての民の罪を贖ったのです。そして、この日には断食することが定められていました(レビ16:29)。ところが彼らは年に一度どころじゃないのです。何回も、何回も断食しました。ゼカリヤ書8章19節には、「万軍の主はこう仰せられる。「第四の月の断食、第五の月の断食、第七の月の断食、第十の月の断食は、ユダの家にとっては、楽しみとなり、喜びとなり、うれしい礼祭となる。だから、真実と平和を愛せよ。」とあります。第四の月の断食、第五の月の断食、第七の月の断食、第十の月もです。なぜでしょうか?神のために悔い改めるためです。彼らは自分たちがバビロンの捕囚になったのは神に対して罪を犯したからだと、その罪を悲しみ、悔い改めるしるしとして断食をしたのです。

そればかりではありません。そうした宗教的な熱心さはどんどんエスカレートして、週に二度も断食するようになりました。月曜日と木曜日にです。律法学者やパリサイ人たちはそうでした。ルカの福音書18章12節に出てくる取税人とパリサイ人の祈りの中で、パリサイ人が「私は週に二度断食し・・・」と言っているのは、こうした背景があったからです。

しかし、どんなに身を戒めて断食しても、それが本来の目的にかなったものでなければ全く意味がありません。彼らは断食の日に自分の好むことをし、労働者を圧迫していました。彼らが断食するのは争いとけんかをするためであり、不法とこぶしを打ちつけるためでした。宗教的には熱心でも、具体的な生活においてその実を見ることができなかったのです。全く変化がありませんでした。救われていない人のように振る舞っていたのです。そのような断食をどんなにしても、主に喜ばれるはずがありません。断食の本来の目的は心砕かれて神の前にへりくだることなのですから・・。それがなかったらどんなに断食をしても、空回りに終わってしまいます。そればかりではない。そのような信仰は、いつしか偽善的なものに陥ってしまいます。「偽善」とは、演技とか、芝居、見せかけという意味です。そうした見せかけの信仰になってしまうのです。宗教的でも中身がない。

ここでルカの福音書14章を開いてみましょう。3節のところに、イエス様は律法の専門家やパリサイ人たちに「安息日に病気をいやすことは正しいことですか、それともよくないことですか」とあります。そこに水腫をわずらっている人がいたからです。水腫とは、体内に必要以上に水分が溜まってむくみを起こす病気のことですが、当時は神から呪われた病気だと考えられていました。  ところで、ある安息日にイエスが食事をしようとして、パイサイ派の指導者の家に入られた時、そこに律法の専門家たちがこの水腫をわずらっている人を連れて来たのです。イエスをわなに陥れるためです。もしイエス様が安息日にこの人をいやすようなことをしたら律法を破ったと訴えることができます。  けれども、イエス様はそんな彼らの心を見抜いて次のよう質問されました。「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それとも、よくないことですか」 彼らは黙っていました。答えることができなかったのです。もし安息日に病気を直しても良いと言えば安息日の規則を破ることになるし、直してはいけないと答えれば、隣人の苦しみを放っておいてもいいのかということになります。どっちに転んでもよくありません。だから黙っていたのです。するとイエスはその水腫をわずらっている人を抱き、いやして、帰されました。それからこう言われました。

「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」(同14:5)

すると彼らは答えることができませんでした。なぜなら、彼らは律法の本意を理解していなかったからです。安息日に病気をいやすことが正しいことなのか、正しくないことなのかといった字面にとらわれて、それが意味しているところの本来の目的からズレていたのです。では安息日律法の目的は何だったのでしょうか。それは神を愛し、人を愛することです。律法全体はこの二つにかかっていると、イエスは教えられました(マタイ22:34~40)。いや、そんなのおかしい。イエスが間違っていると言われますか?イエス様は律法の完成であり、律法そのものが求めていた実体そのものです。それゆえイエス様は安息日の主とも言われていますが、そのイエス様がそう言うのですから、このイエスが言われることこそ正しいことであり、これが安息日の律法が定められた本来の目的だったのです。なのに彼らはそのことを理解していませんでした。自分たちは律法に忠実だとずっと思い込んでいた。しかしこのことを理解しないでどんなに律法を守っていたとしても、それは神の望むことではなく、彼らが作り出した宗教でしかありません。それは宗教という洋服を来た生まれながらの自分でしかないのです。そうした宗教はいつしか形骸化していき、単なる見せかけの偽善的なものに陥ってしまう危険性があるのです。

これは私たちも注意しなければならないことです。私はクリスチャンです。クリスチャンとしての務めをちゃんと義務を果たしています。ちゃんと礼拝に行っているし、献金もしている。家でもちゃんと聖書を読んで祈っています。だから自分はちゃんとしたクリスチャンだ!自分は大丈夫だ!といいながら、まだ自分の好むことをし、自分の思いのままに生きていることがあるのです。たとえば、礼拝に来ても別のことを考えていたり、礼拝ではいかにも敬虔そうに振る舞っていても、教会から一歩外に出た瞬間に夫婦ゲンカを始めてみたり、人の悪口を言って平気で歩き回ったり、他の人を批判したりとか、そういったことがあるのです。聖書を頭ではわかっていても心ではわからない。知識では理解していても霊的には理解していない。したがって、なかなか生活が変わらないのです。表面的にはクリスチャンだといっても中身が伴わないのです。もちろん、私たちは不完全な者であり、弱さを抱えている者ですから、神のみこころにかなった歩みなどできません。しかし、できなくてもそうしたいと心から願い求めるのが本当に救われた者、神の民の姿ではないでしょうか。なのにそうでないと、いつしかそれが見せかけの、偽善的な信仰に陥ってしまうのです。この律法学者やパリサイ人たちの問題はここにありました。

ヤコブ書2章14~17節をお開きください。ここには、「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは死んだものです。」(ヤコブ2:14-17) とあります。

信仰も、もし行いがなかったら、それだけでは、死んだものです。それは行いがなければ救われないということではありません。本当の信仰にはこうした行いが伴っているものであり、そのように願っているということです。それがないとしたら、それはただの見せかけの信仰になってしまいます。

Ⅱ.本物の信仰とは(6-7)

では、神の好む断食とはどのようなものなのでしょうか。6節と7節をご覧ください。

「わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これを着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。」

ここには、神の好む断食とは、どのようなものなのかが教えられています。すなわち、悪のきずなを解き、くびきの縄目をほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことです。また、飢えた人に自分の食べ物を分け与え、家のない貧しい人々を家に迎え入れて、その人に暖かい寝床を用意し、裸の人に服を着せ、貧しい親戚の世話をすることです。すなわち困難に瀕している人、抑圧された人たちに助けの手を差し伸べ、貧しさにあえぐ人には必要なものを与えることです。これが神が喜ばれる断食です。

これは、先程読んだヤコブの手紙と一致しています。本当の信仰とは中身が伴ったものです。どういうことですか、中身が伴っているというのは・・・。自分の回りに苦しんでいる人がいたらそのなわめをほどき、実際的な助けを求めている人がいたら、その必要に応えてあげることです。ヤコブはこう言っています。

「自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。」(ヤコブ1:26-27)

神の御前にきよく汚れのない宗教とは、孤児ややもめたちが困っているのを見たらその人たちの世話をし、この世から自分をきよく守ることです。兄弟姉妹や隣人に無関心であったり、表面的に愛そうとすることではありません。宗教的なお勤めとそれにまつわるさまざまなおきてを守ることには熱心でも、自分の回りの人々の必要、教会の兄弟姉妹に無関心であったとしたら、それは本当の信仰ではないということになります。本当の信仰とは具体的に分け与えることなのです。なぜなら、分け与えることこそ神の愛の具体的な現れだからです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

神がイエスをこの世の与えられたのは、この世を愛しておられたからです。それは、御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。神は愛です。その愛は、大切なひとり子をこの世にお与えになることによって表されました。「愛は惜しみなく奪う」ということばがありますが、本当の愛は逆です。惜しみなく与えるのです。その愛によって救われた私たちは、これを分け与える者でなければなりません。

ゴールデンウィークはどこに行っても混雑しているので、私はどこにも行かないで家でDVDを観ていました。「シンドーラーのリスト」というDVDです。これは第二次世界大戦時のナチス党政権下のドイツによるユダヤ人の虐殺の中、ドイツ人実業家オスカー・シンドラーが1,100人以上ものユダヤ人を救ったという実話です。  1939年9月、ドイツ軍によってポーランドが占領され、この映画の舞台となったクラクフもドイツ軍の占領下に置かれました。ナチス党のドイツ人実業家オスカー・シンドラーがこの町にやってくると、戦争を利用してひと儲けしようともくろみました。潰れた工場を買い取ってほうろう容器工場の経営を始めたのです。  やがてナチスから残虐な少尉がクラクフの強制収容所の所長として送られて来ると、彼は次々とユダヤ人を虐殺し始めました。それを見たシンドラーは、それまで金儲けにしか関心がありませんでしたが、心境に変化が生じてきました。そして、彼はあるリストを作りました。それはユダヤ人の子供や大学生を熟練の金属工と称して工場で働かせることです。  やがてソビエトの侵攻によって、クラクフ強制収容所の施設の解体を余儀なくされると、そこにいた20,000人以上のユダヤ人がアウシュビッツ収容所に移送されることになりました。そこでシンドラーは立ち上がり、故郷のチェコスロバキヤに工場を再開させ、そこに移送予定のユダヤ人を「労働力」として連れて行くことにしたのです。そのユダヤ人のリストがシンドラーのリストです。それは命のリストと呼ばれ、1,100人以上に上りました。しかし、そのために彼はユダヤ人を贖うために多額のお金を少尉に支払わなければなりませんでした。ユダヤ1人当たりいくらいくらという値段で。彼は自分の持てる財産のすべてを使って、懸命にユダヤ人を救ったのでした。  やがて戦争が終わりユダヤ人が解放された時、彼はユダヤ人にこう言うのです。「申し訳ない。自分にもっとお金があったら・・・。もっと救うことができたのに・・。」  救われたユダヤ人たちは彼が必死で自分たちを救ってくれたことを感謝し、やがてイスラエルの栄誉の賞を彼に授けました。杉原千畝氏とともに。

皆さん、これが愛です。愛は惜しみなく自分を与えることです。愛は惜しみなく奪うという言葉がありますが、本当の愛は違います。本当の愛は奪うのではなく与えるのです。神がそのひとり子をこの世にお与えになったほどに愛されたように、私たちの最も大切なものを与えること、それが愛です。これが神が好まれる断食であり、見せかけでない本物の信仰なのです。

皆さんはどうでしょうか。神の栄光のために、隣人のために、自らを喜んで与えておられるでしょうか。なかなかできることではありません。本当にわがままで、自己中心的な私たちは、自分のことしか考えないからです。自分さえよければいいという思いがあります。しかし、神の好まれる断食とは何か、それはこのように喜んで分け与えることであることを覚え、そのように歩めるように愛の源であられる主に求めていきたいと思います。

Ⅲ.そのとき(8-14)

さあ、最後にこのように中身伴った信仰者として生きるとき、どんなことが起こるのかを見て終わりたいと思います。8節から終わりまでを見てください。ここには「そのとき」ということばが3回出てきます。8節、9節、14節です。まず8節をご一緒に読みましょう。

「そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。」

そのとき、暁のようにあなたの光がさして、あなたの傷はすみやかにいやされます。「すみやかにいやされる」とは、「すみやかに回復される」という意味です。偽善によって腐り果てた魂が、みことばを聞きそれ従う時、すみやかな回復が始まります。

ところでここには「あなたの光がさしいで」とありますが、これは不思議な表現です。イスラエルには、私たちには光などありません。私たちの信仰は腐っているわけですから・・。いったいこれはどういうことなのでしょうか。これは彼らが持っている光ということではなく、彼らが信じ、神から受け取った光のことです。この光は暗闇を照らす光であり、そこには新しい力、回復があるのです。イエス様はこう言われました。

「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持ちのです。」(ヨハネ8:12)

またヨブ記11章17節には、「あなたの一生は真昼のように輝き、暗くても、それは朝のようになる。」とあります。たとえあなたの心が暗やみのように暗くても、真昼のように明るく輝いたものとなるのです。この光にはそれほどの力があるのです。その光によってあなたの傷はすみやかにいやされるのです。このような光によって歩めるということは何と幸いなことでしょうか。

それだけではありません。その後のところにはこうあります。「あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。」これはどういうことかというと、神がいつもあなたとともにいて、あなたの人生を導いてくださるということです。かつてイスラエルがエジプトを出た後で荒野に導かれました。どこに進んだらいいかわからないとき、昼は雲の柱が、夜は火の柱をもって彼らを導かれました。そのように神は人生の荒野を進む私たちの道を照らし、導いてくださるのです。  ここにも「あなたの義」とありますが、これもあなたが作り出す義のことではなく、あなたが信じて、受け取った義のことです。

9節をご覧ください。ここに第二の「そのとき」が出てきます。「そのとき、あなたが呼ぶと、主は答え、「わたしはここにいる」と仰せられる。」 あなたが「神様!」と呼ぶと、神様はすぐに答えてくださいます。いくら呼んでも答えてくださらないのではなく、主は答え、「わたしはここにいる」と言われるのです。 いったいなぜ主は答えてくださらないのでしょうか。あなたの中に罪があるからです。くびきをのぞこうとしない、人のうしろ指を指してみたり、つまらないおしゃべりに終始してしまう。そのような罪があるので答えてくださらないのです。もし私たちが飢えた人に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、主はすぐに答えてくださいます。

11節と12節をご覧ください。ここも一緒に読みたいと思います。 「主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、あなたは古代の礎を築き直し、「破れを繕う者、市街を住めるように回復する者」と呼ばれよう。」    すごいですね。あなたがどのような土地にいても、主は絶えず、あなたを導いて、潤された園のようにしてくださいます。水のかれない源のようにしてくださるのです。どんな状況でも、内側から泉のようにいのちの水が溢れ出るようになるのです。また、彼らのある者たちは、バビロンによって破壊された神の都エルサレムの神殿も建て直し、「破れを繕う者」、「市街をすめるように回復する者」と呼ばれるようになる、ということです。主の祝福、主の守りを受けた者は、破壊者ではなく、回復する者と呼ばれるようになるのです。

そして14節には、「そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう」とあります。13節では再び安息日のことが語られていますが、これも同じ事です。この安息日の意味を理解して、自分たちを贖ってくださった主への感謝と喜びをささげ、心から主を礼拝するなら、主はあなたを喜びとし、ヤコブのゆずりの地で、あなたを養ってくださるというのです。

このような祝福がもたらされるのです。皆さんはどうでしょうか。神が望まれる断食、神が喜ばれる信仰を求めておられるでしょうか。表面的には信仰に熱心なようでも、実はその信仰がズレていることもあります。そうではなく、神に喜ばれる信仰を求めていきたいと思います。

先週、私は同盟の総会に行っておりましたが、そこで親しくさせていただいているある牧師のレクチャーを聞きました。それは今は絶版になっているそうですが、アメリカのピーター・スキャゼロという牧師が書いた「情緒的に健康な教会をめざして」という本についてでした。実は先生はこの本を翻訳されたわけですが、この本を翻訳する中でいろいろ考えさせられたというのです。私たちの中に信仰の成熟を妨げている心の傷があるということです。多くの場合、それはその人の生育歴と深く関わっているわけですが、そこに福音の光が当たらないと、つまり全人格的に福音の恵みによって取り扱いを受けないと、どんなに福音のメッセージをかたってもそれが単に知識だけのもので終わり、自分自身の中にみことばが深く入っていくことができないということです。つまり、信仰が表面的なものになってしまい、その人の生活が変わるところまではいかないのです。Ⅰテサロニケ5章23節には、「あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られるように。」とありますが、霊、たましい、からだといった全人格的なものにならないというのです。

その話の中で、先生が牧会しておられる教会のことを分かち合ってくださいました。その教会には病院の看護師として働いておられる型がいるのですが、この方は信仰をもって40年も経つな方で、忠実に信仰を守り、奉仕も熱心にされる方なのですが、どこか冷たいのです。たとえば、この牧師はアメリカでの生活が長いため日本の習慣がわからないことがあるんですが、そのようなことを見ると、「先生はアメリカでの生活が長いからわからないんですよね」と言われたり、あるいは、毎週金曜日に行われている早天祈祷会にいらっしゃったので、牧師うれしくて、「いや、よくいらっしゃいました。うれしいです。一緒に祈りましょう。」と言うと、「いや、ただどんな感じか観察に来ただけですから」と言われるのです。どこか人ごとなのです。神の懐の中になかなか飛び込んで来れない。いったいなぜだろうかとずっと悩んでいました。  ところが、このことについて学んでいたとき、気付かされました。もしかするとこの方の中に何か傷があって、それが邪魔をしてみことばが入っていけなくなっているのではないか・・・と。  それである時彼女を呼んでお話を聞いたのです。すると彼女はこんなことを言われました。 「先生。先生はよくお話の中で結婚とか家族の話をされますが、よくわからないんですよね。」  この方は結婚しないでずっと独身で来られたので、そのような話を聞く度にそれを受け入れることができなかったのです。しかし、彼女の方からそのように心を開いて打ち明けてくれたので、その気持ちをそっくりそのまま受け入れたとき、彼女が少しずつ変わり始めました。みことばを素直に受け入れることができるようになったのです。そして心から主に仕えることができるようになりました。  その教会にモンゴルから来ている若い青年がいるのですが、あるときこの青年がB型肝炎にかかりました。すると彼女は彼を我が子のように受け入れて、よく看病するようになりました。もちろん看護師としてずっと仕えてきたので当然といえば当然かもしれませんが、違うのはそれが表面的な関わりではなかったことです。彼の治療代を全部負担してまで看病してくれたのです。

いったいなぜ彼女はそこまで変わったのでしょうか。福音の恵みが単に頭だけでなく情緒的な面でも深く取り扱われたからです。その心の深いところに福音の光が照らされたからです。その結果、信仰が表面的なものではなく、本当に心からのものに変えられたのです。

それこそ神に喜ばれる信仰ではないでしょうか。私たちがこの福音の恵みを聞くときそれを人ごとのようにではなく自分のこととして、それを心で受け止める。それを自分の生活に実際に適用していくなら、神が必ずあなたを変えてくださいます。ヤコブは、「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ1:22)と言っていますが、皆さんどうでしょうか。ただ聞くだけの者になってはいなかったでしょうか。心に植え付けられたみことばを、すなおに受け入れましょう。そして、私たちが神に喜ばれる者になれるように、そのみことばを実行する者であれりたいと思います。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができるからです。

イザヤ書57章15~21節 「神の自己紹介」

きょうはイザヤ書57章15節からのみことばから、「神の自己紹介」というタイトルでお話したいと思います。聖書の中には「神はどのようなお方か」が、いろいろな言い方で表現されていますが、神ご自身から「私はこういう存在である」と語られているところはそんなに多くはありません。しかし、ここには神ご自身が自らについてどのような方なのかを、はっきりと語っておられます。

Ⅰ.その名を聖ととなえられる方(15)

まず第一に、神はいと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方です。15節ご覧ください。 「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」

57章前半には、イスラエルが走って行った偶像の姿が描かれていましたが、それは一言で言うと虚しいということでした。「風が、それらをみな運び去り、息がそれらを連れ去ってしまう」(13)ほどはかないもの、それが偶像です。しかし、まことの神は違います。まことの神は、いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方です。これはどういうことかというと、神は私たちとは全く次元の違うところにおられる方であるということです。全くかけ離れたところにおられる方なのです。私たちが近づきたくとも近づくことができないほど高いところにおられる方なのです。よく「雲の上の存在」ということばがありますが、まさに神は雲の上の存在なのです。その名を聖ととなえられる方なのです。  この「聖」というのは区別するという意味で、人間とは全く区別された方、この世界を超越した方であるということです。私たちは人間ですと、「あの人は非常に優秀だ」とか「偉い人だ」という言い方をしますが、そのように言うのは自分と比較して偉いということであり、努力さえすればそのようになり得る可能性があると思っているからです。しかし、神さまは違います。神様は比べようがありません。全く次元が違うからです。神はこの被造物とは全くかけ離れた存在であって、背伸びしても、逆立ちしても、何をしても、決して近づくことができない方なのです。それがここでいう「聖」という意味です。この地上の何をもってしても全く比べることができないのです。それほど高く、それほど聖い方なのです。

この言葉は、出エジプト記3章5節に出てきます。モーセがミデヤンの地で羊を飼っていたとき、神の山ホレブにやって来ました。そこで彼は不思議な光景を見ました。柴は燃えているのに、焼き尽きていなかったのです。この大いなる光景を見てみようとそこに近づいたとき、神がモーセにこう仰せられたのです。

「ここに近づいてはならない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」(出エジプト3:5)

モーセは羊飼いでしたから、その羊飼いが足から靴を脱ぐということは、すなわち死を意味することでした。羊飼いの靴とはサンダルのようなものですが、それを脱いだら荒野を歩くことはできません。ごつごつとした岩や荒れくれたトゲがあるので、靴があってもそういうところで羊を飼うことは大変なことだったのです。まして靴がなかったら羊と一緒に行くことができませんから、羊を飼うことなどできませんでした。羊を飼うことができなければ、羊飼いは生きることができません。ですから、彼にとって靴を脱ぐということは、すなわち、死を意味することでもあったのです。その靴を脱げ、と神は言われました。なぜでしょうか?なぜなら、モーセはこれまでと全く違った領域に来たからです。聖なる神の御前に来たのです。彼の立っている場所は聖なる地でした。だから、彼は靴を脱がなければならなかったのです。それはモーセにとっては死という、羊飼いにとってはいのちに等しい靴を捨てるということであったかもしれませんが、そうした犠牲なしに聖なる神に近づくことはできなかったのです。モーセが土足で、陸続きのままに行くことができるお方ではなかったというのが、ここに表されていたのです。靴を脱がなければならなかった。それほど聖なる方であるということです。

また、ダビデ王の時代にこんな事件がありました。神の臨在の象徴である契約の箱を神の都に迎え入れようとした時、本当はそのためにはある定められた聖めの儀式を行い、人々が肩に担いで、御神輿のようにして運ばなければならなかったのに、ある人々がこれを牛車に積んで、牛に引かせて都に運ぼうとしました。ところが牛車の車輪が道のくぼみに落ち込んで、牛車が傾き契約の箱が落ちそうになったのです。そこでウザという人が落としてはならないと思い、箱を手で押さえました。すると、彼は神に打たれて死んでしまったのです。彼は全くの善意でやったにもかかわらず、どんなに善意からであろうとも、罪人である人間がその手で神の箱を押さえたので、神が怒りを発せられたからです。神が聖であるということはこういうことなのです。神は私たちが近づくことも、ふれることもできない、死をもってでなければ近づくことができないお方なのです。それが「聖」という意味です。

ところが、このように高く、聖なる所に住んでおられる方が、同時に、心砕かれて、へりくだった人ともに住み、へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かしてくださるというのです。これは全く驚くべきことではないでしょうか。ここに「心砕かれて、へりくだった人とともに住む」とありますが、この「心砕かれる」という言葉は言語のヘブル語では「ちり」という言葉で、粉々にされた状態を言います。それは完全に悔い改めた姿のことです。また「へりくだる」とは単に謙遜になるということではなく、現在の災い、苦悩を受け入れて低くされることを表しています。つまり、めった打ちにされるという意味なのです。神は聖くて高い所に住んでおられる方で、私たちがどうやっても近づくことができない方ですが、その心がズタズタに切り裂かれて、自分の主張などは微塵にもないほどに打ちのめされて、最もみじめだと自分を自覚できる人、そういう人ともに住み、そういう人の霊を生かし、そういう人の心を生かしてくださるというのです。

イザヤがこのように言ったのは、自分の体験からでした。6章にはイザヤが預言者として召された時のことが書かれていますが、そこで彼は、聖なる神がみ座におられる幻を見ました。そして、御使いたちが、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」(同3節)と呼びかわしているのを聞きました。その神の聖さの前に出たとき彼は、「私は、もうだめだ。」(同6:5)と叫びました。この聖なる神の前に、自分がいかに汚れた者であり、醜い存在であるかを悟ったのです。この神の前には死ぬしかない存在であることがわかりました。本当にめった打ちにされたのです。自分は預言者であり、神の代弁者であり、神のメッセージを伝える者であると自負していた彼が、この聖なる神の前に立ったとき、自分はもう何者でもない、本当ににちりにすぎない存在だということがわかったのです。「月とスッポン」という言葉がありますが、自分は神のみこころにはかなわない汚れた者であり、神の目にとまったら、滅びるしかない存在にすぎないというのが、彼の実感だったのです。文字通りめった打ちにされて、粉々に砕かれました。もう自分の存在そのものさえもなくなってしまったかのような経験をしたのです。それが心砕かれて、へりくだるという意味です。

しかし、彼はそのような中から神を仰ぎました。自分は神に打たれ、もうだめかと思ったのですが、その時、今まで賛美していた御使いが賛美をやめ、神にいけにえをささげる祭壇のあかあかと燃えている火の中から、炭火を取りイザヤの口にふれて、「この火がお前の口にふれたのだから、お前の罪は赦された。」(同6:7)と言われたのです。イザヤは、自分はもうだめだと思いましたが、自分ではなく神の方から一方的に触れてくださり、聖めていただいたのです。ほんとうに神の前に自分のいい加減さ、自分のだめさ加減さを認めることは辛いことですが、そのように全く砕かれたとき、神がその罪をいやし、彼とともに住まわれ、彼を生かしてくださったのです。

人は何かというと、すぐに「私はあれができる。これができる。」「あれを持っている。これも持っている」と、他人に誇りたくなるものです。そういう人の心には、神はお住みにはなれません。私はクリスチャンになってもう何年になります、キリスト教の世界ならよく知っています、とすぐに自負しがちになりますが、そういう人の心にはお住みになれないのです。神がお住みになられるのは、砕かれて、へりくだった人の心です。そのような心を、神は決してさげすまれないのです。むしろへりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かしてくださるのです。

天地が創造されて以来、世界中で一番砕かれ、これ以上に砕かれた方はいないという人は誰でしょう。そうです、イエス・キリストです。彼は、謙遜といった言葉ではもう追いつかないほど砕かれました。だって神でありながら、人間となられたのですから・・・。無限の方なのに、有限となってくださいました。全く罪がなかったのに、十字架にかかって死んでくださいました。ですから、私たちはこのイエスさまを信じて、このイエスさまと一つになること以外に、砕かれる道はありません。私たちがどんなにへりくだってみたところで、真の謙虚さを自分のものにすることはできないのです。しかし、自分を捨てて、十字架にまで架けられて砕かれたイエスさまと一つにされるならば、私たちもこの方のようになることができるのではないでしょうか。イエス様はこう言われました。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11:28-29)

キリストのもとに行って荷を下ろし、代わりに、キリストのくびきを負って、キリストから学ぶ。そうすれば、たましいに安らぎが来ます。なぜなら、キリストは心優しく、へりくだっているからです。キリストだけがそのように言うことができます。このキリストから学ぶことによって、私たちもへりくだった者となることができる。そして、神はそのような者とともにいてくださるのです。

Ⅱ.罪をいやしてくださる方(16-18)

第二のことは、神は罪をいやしてくださる方であるということです。16節から18節までをご覧ください。 「わたしはいつまでも争わず、いつも怒ってはいない。わたしから出る霊と、わたしが造ったたましいが衰え果てるから。彼のむさぼりの罪のために、わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。しかし、彼はなおもそむいて、自分の思う道を行った。わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、慰めを報いよう。」

どういうことでしょうか。神はいつまでも争っておられる方ではありません。いつまでも怒っておられる方ではありません。神は一時的に、彼らのむさぼりの罪のために彼らを打ち、顔を隠して怒られましたが、それで彼らは悔い改めたかというとそうでなく、なおもそむいて、自分の思う道に走って行きましたが、それでも主は彼らをいやしてくださるというのです。彼らを導き、その悲しむ者たちとともに、慰めを報いるというのです。

これは第一義的には、バビロンによる神のさばきを表しています。彼らは神にそむいて自分勝手な道に歩んだので、神はバビロンという国をもって彼らを滅ぼし、70年の間捕囚としての生活をさせましたが、かと言って、いつまでも怒ってはおられませんでした。神様は彼らのそのような歩みを見ましたが、彼らの罪をいやし、慰めを与えてくださるのです。

何という慰めでしょうか。「だったら勝手にしなさい」と言って捨てられても不思議ではないのに、神はそのようにはされるどころか、彼らの悲惨で絶望的な状況の中にご介入してくださるのです。そして、罪によって受ける心の傷をいやしてくださいます。どのようにいやしてくださるのでしょうか。その罪を代わりに受けることによってです。53章に戻ってください。53章4~6節までのところです。

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」    主のしもべであられるイエス・キリストが、その罪、咎を代わりに負ってくださることによって、私たちが受ける痛みや苦しみをいやしてくださるというのです。本来なら、私たちが受けなければならない罪の刑罰を、受けなくてもいいように代わりに受けてくだったのです。神の子とされるということがどんなに大きな恵みであるかがわかるでしょう。私たちは本当に罪深い者で、罪を犯さずには生きていけないような愚かな者ですが、その罪を悔い改めて神の救いイエス・キリストを信じた瞬間に神の子とされ、これからどんなに罪を犯すことがあっても、一生、その関係は変わらないのです。これからも犯すであろう罪の一切を許してくださいました。イエスの救いというのはそのように大きなものなのです。だからこれは特権なのです。

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)

皆さん、これは特権です。ものすごい特権です。あなたが悔い改めてイエス・キリストを信じたその瞬間から、あなたの過去、現在、未来のすべての罪が赦されたのです。あなたが神の子となったことで、神はどんなことがあってもあなたを見離したり、捨てたりはなさいません。世の終わりまで、いつも、あなたとともにいてくださいます。

16節には、「わたしはいつまでも争わず、いつまでも怒ってはいない。」とありますが、この「争う」という言葉は「断罪する」という意味です。神はいつまでも私たちを罪に定めようなことはなさいません。むしろ、神は私たちのたましいが衰えることがないように、慰めてくださいます。ですから、神にそむいて、自分かってな道に向かって行くようなことがあっても、一時的に怒るようなことはあっても、いつまでも怒っておられることはないのです。アッシリヤやバビロンによって捕らえられ、苦しめられるという懲らしめを受けても、いつまでもそのような状態に置かれることはしないのです。それはちょうど我が子にムチを加えるようなものです。我が子が悪いことをしたら、親はその子に何らかの懲らしめを与えても、やがてその子を許し、両手いっぱいに抱きしめ、まっすぐに歩んでいけるようにありとあらゆる支援を惜しまないでしょう。

同じように神さまはいつまでもあなたを怒ってはおられません。いつまでも争ってはいないのです。あなたが悔い改めて神に立ち帰るなら、神は赦してくださるのです。

Ⅲ.平安を与えてくださる方(19-21)

第三のことは、神は私たちに平安を与えてくださる方であるということです。19節をご覧ください。 「わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう」と主は仰せられる。」

「くちびるの実」とは何でしょうか。これは感謝と賛美の歌のことです。彼らは罪の結果、神の怒りによってうめく者でしたが、そうした者がいやされ、感謝と賛美の歌をささげるようになるという預言です。そればかりではありません。遠くにいる者にも、近くの者にも、平安を与えてくださいます。近くの者とはエルサレムにいるユダヤ人のこと、遠くの者とは、離散しているユダヤ人たちのこと、あるいは、キリストを信じて神の民とされた私たちクリスチャンを指していると言ってもいいでしょう。そのように遠くにいる者にも、近くにいる者にも、神の平安が与えられるのです。「平安」とはシャロームという言葉ですが、それはあらゆる面で欠けのない状態、完全に満たされた状態のことを言います。神は遠くにいる者にも、近くにいる者にもこの平安、シャロームをもたらしてくださるのです。

イエスは、こう言われました。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)

イエスは平安を与えてくださいます。それはこの世が与えるものとは違います。この世が与える平安とはどのようなものでしょうか。リビングバイブルでは、「はかない平安」と訳しています。きょうはきれいに咲き誇っても、明日にはしぼんでいくような一時的で、はかない平安ではなく、確かな平安、どんな状況でも全く動揺することのない確かな平安を与えてくださるのです。

ある歴史家は、「人類がかくも大きな恐怖と不安に襲われた時代は、今までの全歴史においてなかった」と言っていますが、このような不安な時代にあって一番求められているのは、このような平安ではないでしょうか。そのような平安を、心砕かれて、へりくだった者、すなわち、イエスさまを信じる者に、神は与えてくださるのです。

しかし、悪者どもはそうではありません。20節、21節をご覧ください。 「しかし悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水と海草と泥を吐き出すからである。「悪者どもには平安がない」と私の神は仰せられる。」

「悪者ども」とは悪いことをしている人たちということよりも、神を信じない人たちのことです。イエスさまを信じないで、自分を信じ、自分の思う道を進もうとしている人たちです。そういう人はあれ狂う海のようです。常にイライラしています。決して満たされることがありません。言い知れぬむなしさと罪悪感で、常に不安を抱えています。水が海草と泥を吐き出すとあるように、彼らの口から出るのは泥です。口汚くののしり、いつも高圧的な態度で人を怒鳴りつけます。それが悪者の特徴です。心に平安がないので、常に人を攻撃していないと気が済まないのです。悪者どもには決して平安がありません。仕事に成功して、どんなにお金があっても、何一つ足りないものがないほど満たされた生活でも平安がありません。救い主イエスを信じないからです。まだ心に罪があるからです。罪が赦されない限り、平安はありません。それは荒れ狂う海のようで、静まることがないのです。泥を吐き出すしかありません。

皆さんはどうでしょうか。皆さんには平安がありますか。もしないなら、くちびるの実を創造した主に、賛美と感謝をささげることができる平安な心を与えてくださるように祈ってください。イエスさまのもとへ行き、心砕かれ、へりくだって歩んでください。そうすれば、あなたも平安を得ることができるのです。

イエスさまは言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11:28-29)

皆さんがどう進むかは、皆さんの選択にゆだねられています。イエスさまを信じ、心砕かれて、へりくだるなら、神があなたとともに住み、あなたの心を生かしてくださいます。でも、その声をないがしろにし、あくまでも自分の道に進んで行こうとするなら、そこには荒れ狂う海しかありません。どうか神の平安と慰めを受けることができますように。神の前に心砕かれて、へりくだって歩むことができますように。神はあなたの罪をいやし、あなたの心を生かし、あなたに平安を与えてくださるお方だからです。

イザヤ書57章1~14節 「道を整えよ」

きょうは、「道を整えよ」というタイトルでお話したいと思います。14節に、「主は仰せられる。「盛り上げよ。土を盛り上げて、道を整えよ。」とあります。道を整えよといっても、別に土木工事をしなさいということではありません。その後のところに「わたしの民の道から、つまずきを取り除け。」とありますが、私たちの心の中にあるつまずきを、でこぼこを取り除くようにということです。私たちの心の中にはどれほど多くのでこぼこがあるでしょう。神に対する無関心、自分だけよければいいといった自分勝手な石、誰かに対する怒り、他人を見下す偏見の岩、自分の欲望を満たしたいという思いなど、本当にさまざまなでこぼこがあるのではないでしょうか。そのような道からでこぼを取り除かなければなりません。あなたの心の中にはどんなでこぼこ(障害物)があるでしょうか。  きょうは、イスラエルの中にあったでこぼこ見ていきながら、私たちの心の中にあるつまずきを取り除いていきたいと思います。

Ⅰ.やがてもたらされる祝福(1-2)

まず最初に、1節と2節をご覧ください。 「義人が滅びても心に留める者はなく、誠実な人が取り去られても、心を向ける者もない。まことに、義人はわざわいから取り去られて、平安に入り、まっすぐに歩む人は、自分の寝床で休むことができる。」

どういうことでしょうか? 義人が滅んでも心に留める者はなく、誠実な人が取り去られても、心を向ける者もいない、そういう時代がやって来るという預言です。「義人」とは、神に従って生きている人のこと、「誠実な人」とは、あわれみとも訳される言葉ですが、神のあわれみと慈しみに生きる人のことです。ですから、新共同訳聖書ではここを、「神に従ったあの人は失われたが、だれひとり心にかけなかった。神の慈しみに生きる人々が取り去られても、気付く者はない。神に従ったあの人は、さいなまれて取り去られた。」と訳しています。義人や誠実な人が滅びるときそれを悲しみ、抗議する社会にはまだ希望がありますが、それでも何とも思わないという社会というのは、もはや救いようがありません。何も期待することができないからです。ある意味でそれは死んだ社会だと言えるでしょう。何をしてもウンともツンとも言わないのですから。このとき、神の民であると誇っていたイスラエルは、まさにそういう状態だったのです。

このときユダの王はマナセと言って、ひどい王様でした。父親のヒゼキヤはイスラエルから偶像を取り除き、へりくだって神に従いましたが、息子のマナセはそうではありませんでした。彼は父ヒゼキヤが取り除いた偶像を復活させ、忌み嫌うべきならわしをまねて、主の目の前に悪を行いました(Ⅱ列王記21:2,11)。そればかりか、こうしたマナセの政策に真っ向から反対し、非難した預言者たちを激しく弾圧しました。Ⅱ列王記21章16節を見ると、「罪のない者の血まで多量に流し、それがエルサレムの隅々にみちるほどであった」とあります。預言者たちだけでなく、それによって一般市民までもが殺されたのです。もしかしたら、イザヤもこのマナセによって殺されたのではないかと言われているほどです。本当にひどい王様でした。

しかし、それはマナセの時代だけではありません。この歴史を振り返ってみると、そうしたことがずっと繰り返して行われてきたのです。たとえば、A.D.70年にはローマ帝国にってユダヤ人は激しい迫害を受け全世界に散り散りになりまたし、第二次世界大戦下では600万人にも及ぶユダヤ人が虐殺されました。そうした歴史はずっと続いているのです。そして、それはユダヤ人ばかりではなく、神を信じて生きているクリスチャンにも同じように注がれています。これまで多くのクリスチャンが迫害され、殉教していきました。「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けるのです。」(Ⅱテモテ3:12)

しかし、ここに慰めがあります。たとえ人々が心に留められなくても、人々から心を向けられなくても、心に留めてくださる方がおられます。それが神です。1節の後半から2節にかけてこうあります。

「まことに、義人はわざわいから取り去られて、平安に入り、まっすぐに歩む人は、自分の寝床で休むことができる。」

56章9~12節には、イスラエルの愚かな指導者の姿が描かれていました。彼らは口のきけない犬、ほえることもできない犬でした。あえいで、横になり、眠りをむさぼってばかり・・・。貪欲で、自分の利得に走っているような者たちでした。

しかし、それとは対照的に、ここに描かれている人たちは神を信じ、神に従って生きた人たちです。神のあわれみと慈しみとに生きようとしました。そういう人たちは確かにこの世ではほとんど目立つこともなく、報いも受けないでこの世を去って行くようですが、将来的にはそうではないのです。「まことに、義人はわざわいから取り去られて、平安に入り、まっすぐに歩む人は、自分の寝床で休むことができる。」のです。これはどういうことでしょうか?「平安に入る」とか、「寝床で休む」というのは、死ぬこと、墓を意味しています。ですから、まことに義人はわざわいから取り去られて、平安に入るというのは、終末に起こるわざわいに会うことがないということです。

Ⅰテサロニケ5章9節を開いてください。ここには、「神は、私たちが御怒りに会うようにおさだめになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにおさだめになったからです。」とあります。

これはやがて来る神の御怒り、すなわち、イエス・キリストが再臨される前に起こる患難時代の預言です。そのとき、この地上には神にさばきによるさまざな災害が起こります。それはかつて見たこともないような災害で、だれも耐えることができないような苦しみが伴うものです。具体的には黙示録6章からのところに書かれている事柄です。6章17節には、こうあります。

「御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」

だれも耐えられません。それほど恐ろしい災害がやって来るのです。しかし、神は、私たちが御怒りに会うようにおさだめになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにおさだめになりました。主イエスを信じて神の民とされたクリスチャンはこうしたわざわいに会うことがなく、そこから取り去られるのです。これを「空中携挙」と言います。「携挙」という字は「携え挙げる」と書きます。やがてイエス・キリストが再臨される時、神を信じた人々が一挙に雲の中に引き上げられます。まず、イエスにあって眠った人たちです。次に、生き残っている人たちです。私は死を経験することなく天国に行きたいので、早くイエス様が再臨しなかなぁと首を長くして待っているのですが、たちまち彼らといっしょに雲の中に引き上げられ、空中で主と会うのです。そのようにして、私たちは、いつまでも、主とともにいることになります。神のさばきが、大艱難時代がやって来ますが、クリスチャンはこうした神のさばきに会うことがないのです。

何という幸いでしょう。私たちはこの地上では人々から全く心を向けられないかもしれません。ある意味で寂しい人生だったと思われるかもしれませんが、しかし、やがてこのような幸いを受けるのです。まことに、義人はわざわいから取り去られ、平安に入り、まっすぐ歩む人は、自分の寝床で休むことができる。

だから、イエス様を信じても何の報いもないとがっかりしないでください。イエス様を信じても何の得もないと思わないでほしいのです。ややもすると、イエス様を信じていない人が思いのままに生き、クリスチャンである自分たちが苦しめられていることに落胆することがありますが、人生は逆転の連続です。目の前に起こっている一つ一つのことに一喜一憂しないで、やがてもたらされる栄光に目を留めるものでありたいと思います。みことばの約束に信頼して、心を尽くして、主に拠り頼みながら生きる者でありたいと思います。

Ⅱ.はかない偶像(3-13)

次に3節から13節までをご覧ください。3節と4節にはこうあります。 「しかし、あなたがた、女卜者の子ら、姦夫と遊女のすえよ。ここに近寄れ。あなたがたは、だれをからかい、だれに向かって口を大きく開いて、舌を出すのか。あなたがたはそむきの子ら、偽りのすえではないか。」    ここに「そむきの子ら」とか「偽りのすえ」とあります。1節の「義人」と呼ばれている人や「誠実な人」と言われている人と、ちょうど対照的な人たちの姿が描かれています。

3節には「女卜者の子ら」とか、「姦夫と遊女のすえ」とありますが、これは、まことの神を捨て、偶像に走って行った人たちのことです。彼らは神を信じている人たちをからかい、あざわらいます。「神を信じましょう」と言うと、背筋がくすぐったいような感じになって嘲笑するのです。そればかりか、5節を見ると、 「樫の木の間やすべての生い茂る木の下で、身を焦がし、谷や、岩のはざまで子どもをほふっている」とあるように、性的な堕落にふけるのです。    「樫の木の間やすべての生い茂る木の下」は偶像礼拝が行われていた所です。彼らはそこで性的にみだらな行為をし、その結果、望まない妊娠をするわけですが、そのようにして生まれてきた子どもを偶像の前でほふってささげるのです。快楽を行って子どもを犠牲にする。それは今日始まったことではありません。昔からこのイスラエルでも行われていたことなのです。それはまさに神から離れ、罪に陥った人間の姿なのです。経済的祝福のために子どもを犠牲にする。もう一人は無理だから子どもを堕ろす。育てるお金も余裕もないと言って、平気で中絶するのです。そうやって世界中で多くの子どもたちが犠牲になっているのです。

6節から8節までをご覧ください。ここには、偶像に走って行った彼らの姿が描かれています。6節、「谷川のなめらかな石がおまえの分け前、そこいらの石が、おまえの受ける割り当て。それらに、おまえは、注ぎのぶどう酒を注ぎ、穀物のささげ物をささげているが、こんな物で、わたしが慰められようか。」慰められません。石にしかすぎない偶像にぶどう酒を注ぎ、穀物のささげものをささげても、神が慰めるられることはないのです。

7節には、「そびえる高い山の上に、あなたは寝床を設け、そこにも、上って行ってあなたはいけにえをささげた。」とあります。偶像は比較的に高い山に安置されていますが、そのような高い所に上って行っていけにえをささげても、何にもなりません。

8節です。「あなたは、とびらと柱のうしろに、あなたを象徴する像を置いた。」とあります。彼らがとびらと柱のうしろに置かなければならなかったのは、神の言葉です。 「聞きなさい。イスラエル。主はわたしたちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(申命記6:4)  彼らはこの言葉を門柱と門に刻まなければなりませんでした。なのにその代わりに偶像を置きました。その結果彼らは、偶像とみだらな行為を行うようになってしまったのです。

9節と10節をご覧ください。 「あなたは油を携えてモレクのところまで旅し、香料を増し加え、あなたの使者たちを遠くまで送り出し、よみにまでも下らせた。あなたは、長い旅に疲れても、「あきらめた」とは言わなかった。あなたは元気を回復し、弱らなかった。」と モレクとはモアブ人とアモン人が拝んでいた神のことです。彼らは生まれてきた子どもをモレクの偶像にささげるために、わざわざ油を携えてモレクが安置されている所まで旅をしました。長旅をすればかなりの疲れもあるでしょうが、彼らは「あきらめた」とは言いませんでした。元気を回復し、決して弱らなかったです。なぜでしょう。意外と罪の生活を送っていると元気です。もうこんな生活はうんざりだ、嫌だと思っていても、意固地になって止めようとしないからです。

そして、11節から13節をご覧ください。 「あなたは、だれにおじけ、だれを恐れて、まやかしを言うのか。あなたはわたしを思い出さず、心にも留めなかった。わたしが久しく、黙っていたので、わたしを恐れないのではないか。わたしは、あなたの義と、あなたのした事どもを告げよう。しかし、それはあなた益にはならない。あなたが叫ぶとき、あなたが集めたものどもに、あなたを救わせよ。風が、それらをみな運び去り、息がそれらを連れ去ってしまう。しかし、わたしに身を寄せる者は、地を受け継ぎ、わたしの聖なる山を所有することができる。」

神はイスラエルが悪を行う姿を見て、恵みのみことばをもって警告し続けてきました。しかし、イスラエルの人々の心は罪によって無感覚になり、神のみことばを聞くことができませんでした。彼らは神の警告に耳を貸しませんでした。彼らは神が黙っていると思い、その心はさらに悪くなり、神を恐れずに、さまざまな偶像に陥っていったのです。しかし、彼らが神として仕えた偶像は、実際にはむなしい、無力な存在にすぎませんでした。それは、「風が、それらをみな運び去り、息がそれらを連れ去ってしまう」ほどはかないものでした。それゆえ、神は彼らをさばくために、偶像のむなしさと、ご自分が生きておられることを現そうとされました。彼らが集めたものども、それは偶像のことですが、そうしたものは彼らを救うことはできません。むしろ、風が、あるいは息が、それらをみな運び去ってしまうのです。それほどはかないものなのです。そんなはかないものに頼ったところで、いったいどんな幸せがあるというのでしょう。何もありません。しかし、13節の終わりのところを見てください。「しかし」からのところをご一緒に読んでみましょう。

「しかし、わたしに身を寄せる者は、地を受け継ぎ、わたしの聖なる山を所有することができる。」(13)

「地を受け継ぐ」とは、神の祝福を受けるということです。また、「聖なる山を所有する」とは、聖なる山とはシオンのことですが、これを所有する、つまり、神の臨在がその人のものとなるということです。あなたは、神がくださる祝福を受けておられるでしょうか。もしそうでなければ、自らの生き方を深く顧みる必要があります。もしかすると、偶像崇拝にかかわるものが残っているかもしれません。コロサイ3章5節には、「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」とあります。神よりも快楽を愛したり、神よりも仕事を愛したり、神よりも娯楽を愛したりするならば、それはこの偶像礼拝をしていることと同じです。そうした思いがあれば、それは偶像礼拝に走ったイスラエルと同じ罪を犯していることになるのです。

悪魔は、こうしたむさぼりを通して私たちの信仰をゆさぶっています。かつて悪魔がイエス様を誘惑した時も、この世のすべての栄華を見せて、「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」と言って誘惑してきました。これがサタンの常套手段なのです。そのようなサタンの策略に心が奪われて、すっかり神にそむいてしまうのです。

けれども、どんなにむさぼってもそれは一時的な快楽にすぎません。それでストレスから解放されて、人生をエンジョイしているかのように見えても、またすぐに暗くなってしまいます。そうしたものはすぐに吹き飛ばされてしまうからです。風が、それらをみな運び去り、息がそれらを連れ去ってしまいます。そうしたものはほんとうにはかないものなのです。そんなものにいのちをかけているとしたら、そんなものに情熱を傾けているとしたら、何とむなしいことでしょうか。あなたがいのちをかけなければならないものは、あなたが本気になって取り組むべきものは、あなたを造られ、あなたのためにいのちをかけて救ってくださった神です。しかし、主に身を避ける者は幸いです。そういう人は地を受け継ぎ、聖なる山を所有することができるのです。

Ⅲ.道を整えよ(14)

ですから、結論は何かというと、「道を整えよ」ということです。14節をご一緒に読みしましょう。 「主は仰せられる。「盛り上げよ。土を盛り上げて、道を整えよ。わたしの民の道から、つまずきを取り除け。」    これは土を盛って「道」を作りなさいということです。おもしろいことに、この言葉は、今日の高速道路のように整備された舗装道路という言葉と同じ言葉です。舗装道路を作るためには土を盛らなければなりませんが、そのように土を盛って道を作り、平らにしなさいというのです。

このことはイザヤ書40章3~4節にも出てきました。「荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。」

そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪の赦しを得させるための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えました。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けました。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていました。彼はこう宣べ伝えて言いました。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちにバプテスマを授けたが、その方は聖霊でバプテスマをお授けになる。(マルコ1:1-8)

バプテスマのヨハネは、イエスのために道を整えるという使命を帯びて人々のもとに遣わされました。それは、もちろん土木工事をするために遣わされたということではありません。救い主イエスが来やすいように、イエスが通りやすいように、心の中に道を整えよ、ということです。

イエス様は私たちの心に神の愛を届け、さらに私たちの心を通って私たちの周りの人々にも愛を届けるために来られました。しかし、もしイエスがやって来たときに、私たちの心の中に誰かに対する怒りの炎が燃え上がっていたとしたらどうでしょうか。イエスは私たちの心に入ることができないでしょうし、私たちの心を通って周りの人々に神様の愛を届けることもできないでしょう。もし私たちの心が他人に対する無関心の壁で閉ざされていたらどうでしょうか。もし他人を見下す偏見の岩がごろごろしていたらどうでしょうか。やはり、イエスは私たちの心に入り、私たちの心を通っていくことはできないでしょう。

イエスに通っていただくためには、私たちの心の道に置かれた障害物を取り除かなければなりません。かつてのイスラエルは偶像という障害物がありました。神が彼らのところに来てくださるためには、その偶像という障害物を取り除かなければならなかったのです。しかし、それはイスラエルだけではありません。私たちも、私たちの心に障害物があるならば、私たちの心がでこぼこになっているとしたら、その障害物を取り除き、平らにしなければなりません。あなたの心にあるでこぼこは何でしょうか?    イエスが通られるために、それを妨げるようなものをすべて取り除かなければなりません。それらを一つ一つ取り除いて、わたしたちの心の中にイエスが通るための道を整えなけばならないのです。そして、せっかくやって来られた救い主を自分から拒絶してしまうことがないように注意したいものです。救い主イエスに身を寄せ、神の祝福に満ち溢れた生涯を送ることができますように。

イザヤ書56章1~12節 「近づいている救い」

きょうは、イザヤ書56章のみことばから「近づいている救い」というタイトルでお話したいと思います。このイザヤ書の56章には、主の救いを受けた人たちがどのように歩むべきかが語られています。主のしもべによって成された救いの御業、それに対する招きに応答して救われた人は、いったいどのように歩むべきなのでしょうか。それは一言で言うならば、主を待ち望んで生きるということです。

Ⅰ.公正を守り、正義を行え(1-2)

まず第一のことは、公正を守り、正義を行いなさいということです。1節と2節をご覧ください。1節にこうあります。「主はこう仰せられる。「公正を守り、正義を行え。わたしの救いが来るのは近く、わたしの義が現れるのも近いからだ。」

公正とは何でしょうか。公正とは、神のみことばに従って正しい歩みをすることです。また、正義とは、神との正しい関係を持つことです。神はイスラエルに、公正を守り、正義を行えと言われました。なぜでしょうか。なぜなら、神の救いが来るのは近く、神の義が現れるのも近いからです。再臨が近いからです。もし今晩イエス様がやって来られるとしたらどうでしょう。皆さんはそれにどのように備えられるでしょうか?おそらく家に帰って必死になって掃除をしてきれいにし、環境を整えて、身支度するのではないでしょうか。罪にまみえた生活も止めて、いつ主が来られてもいいように準備するのではないでしょうか。そのように、主がいつ来られてもいいように、主の救いを信じ、主の再臨に備えた生き方をするようにということです。

ローマ13章11~14節にこうあります。「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」

パウロは、主の再臨が近づいていると感じていました。救いが完成する時が近づいていると思っていたのです。ですから、やみのわざを打ち捨てて、昼間らしい、正しい生き方をするようにと勧めました。今は、このパウロの時代よりももっと主が再臨される時が近づいています。ですから、もっと自分を清く保ち、昼間らしい、正しい生き方をしなければならないのです。

それは具体的にはどのような生き方なのでしょうか?2節をご覧ください。「幸いなことよ。安息日を守ってこれを汚さず、どんな悪事にもその手を出さない、このように行う人、これを堅く保つ人の子は。」

公正を守り、正義を行うことの一例として、ここには安息日を守ることが語られています。なぜ安息日なのでしょうか。それはイスラエルがバビロンに捕らえ移されたその理由の一つが、この安息日を守っていなかったことにあったからです。安息日とは金曜日の日没から土曜日の日没までのことですが、この日は主の聖なる全き休みの日として、いかなる仕事をすることも許されていませんでした。もしこの日に仕事をすれば、だれでも必ず殺されなければならなかったのです。それは神とイスラエルの間の永遠の契約であり、イスラエルが神の民であることの特別なしるしだったのです。(出エジプト31:13~17)ところが彼らはこの安息日を守りませんでした。それで神は彼らをバビロンへと捕らえ移されたのです(Ⅱ歴代誌36:21)。ですから、エルサレムに帰還することを約束されていたユダヤ人にとって安息日を守ることは、義を行うことの最優先事項の一つであったわけです。

では、このことは私たちクリスチャンにとってはどのようなことなのでしょうか。コロサイ2章16~17節を開いてください。ここには、「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」

とあります。パウロは旧約聖書に精通していたユダヤ教の学者でしたが、そのパウロが、食べ物や飲み物、祭りや新月、安息日のことについて批評させてはならないと言っているのです。これはどういうことかというと、安息日を守るということについてその本質をしっかりと理解するようにということです。安息日の律法を守ればいいということではなく、その意味していることを守るようにということです。その本質とは何でしょうか。キリストです。安息日は影にすぎず、その本体はキリストにあるのです。この本体を見失うことがないようにと語っているのです。あまりにも安息日を守ることにこだわり、本来その意味していることを見失ってはならないのです。私たちがこだわらなければならないのは、私たちの主イエス・キリストそのものなのです。安息日にこだわっているのはちょうど影に対して語りかけるようなもので、本人が目の前にいるのにその本人に対してではなく影に対して一生懸命に語りかけるようなものなのです。それは偽りの教えであって、人々を信仰から遠ざける誤った教えです。そのような教えに惑わされてはなりません。もう本体であられるイエス・キリストが来られたからです。このイエス・キリストこそ安息日の主であって、律法そのものが目指していたものだったのです。ですから、いくら律法に熱心であってもそれがキリストからズレているなら、それは全くの的外れ、本末転倒になってしまいます。キリストこそ本体なのですから、キリストが願わんとすることを聞かなければなりません。ではこの安息日についてキリストが願っておられたことはどのようなことだったのでしょうか。

それは週に1日を主の日として聖別し、この日には一切の仕事を休み、主を覚えて礼拝するということです。それがこの日曜礼拝の目的です。皆さん、私たちはなぜ毎週日曜日に集まって礼拝をするのでしょうか。それは私たちの罪の贖うために十字架にかかって死なれ、三日目にふみがえられて救いの御業を完成してくださった主の恵みを覚え、この方を喜び、心からの感謝と賛美をささげるためです。自分ではどうすることもない罪の問題を、イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださることによって成し遂げてくださいました。この主の救いを覚え、心からの感謝と礼拝をささげるのです。これが日曜礼拝の目的です。決して安息日を守らなくても言いということではありません。安息日の規定が目指していた目的を理解して、それを行うことです。それは、主に感謝と賛美をささげるためにこの世の一切の事柄から離れ、主に集中することです。それを何というかというと「聖別する」と言います。聖別するというのは、この日を主の日、主のものとして取っておくということです。私たちにとっては毎日が主の日であり、毎日が主のものでありますが、そのことの表明として、週に一日を主にささげるのです。このような生活のスタイルを確立することが、この安息日の目指していたそれが安息日の規定が本来目指していたことなのです。

皆さんはいかがでしょうか。皆さんを罪から救ってくださった主に感謝し、週に一日を主にささげ、主に感謝と賛美をささげておられるでしょうか。「いや、仕事が忙しくて礼拝に行けません」「授業のレポートを提出しなければならないんです」「家族の用事があって」と、日々の忙しさに流されてはいないでしょうか。しかし、この安息日を守り、私たちは主のものであるということを確認しながら主のもとにすべての重荷をおろすことによって私たちは真の安らぎを受け、肉体的にも、精神的にも、霊的にも力が与えられて、健康的に、エネルギッシュに生きることができるのです。それは主が定めてくださった祝福の原則なのです。やみくもに働けばいいというものではありません。六日間はしっかり働き1日は主の日として主にささげ、主を礼拝する。これが祝福された人生のために神が定めてくださった法則なのです。

リビングライフの中にマーバ・ドーンという人の書いた著書の話がありました。アメリカ西部開拓時代に、ある馬車の群れが、中部のセントルイスを発ってオレゴンに向かいました。一行は敬虔なクリスチャンだったので、聖日には移動を止めて休みました。もちろん、休んで礼拝したわけです。しかし、だんだん冬が近づいたので、一部の人たちは吹雪が来る前に目的地に到着できないかもしれないという不安から、安息日にも休まずに走り続けることを提案しました。  意見が一致しないまま、彼らは二つのチームに分かれて旅を続けることにしました。安息日にしっかりと休むチームと安息日にも走り続けるチームとにです。結果はどうなっでしょうか。言うまでもなく、安息日に休んだチームの方が早く目的地のオレゴンに到着したのです。安息日に休んで十分に休息を取ったので活力が与えられ、残りの六日間を力強く走り続けることができたのです。マーバ・ドーンは話の結論でこのように語りました。 「神はご自分の戒めを尊重する者を尊重される。」

これは今の時代を生きるクリスチャンに求められていることです。主はこう仰せられます。「公正を守り、正義を行え。」「幸いなことよ。安息日を守ってこれを汚さず、どんな悪事にもその手を出さない、このように行う人、これを堅く保つ人の子は。」神はこのような人を祝福してくださいます。主の救いが近い今、私たちはますます主のことばに従い、主が喜ばれる道を歩みたいと思います。

Ⅱ.すべての民の祈りの家(3-8)

次に3~8節までに注目してください。3節には、「主に連なる外国人は言ってはならない。「主はきっと、私をその民から切り離される」と。宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と。」とあります。

「外国人」とはユダヤ人以外の異邦人のこと、「宦官」とは男性の生殖器を切り落とされた人たちのことです。異邦人は、自分たちはイスラエルの祝福の外にいる者であり、イスラエルの祝福にはあずかれないと思っていましたが、神の祝福はイスラエルだけでなく異邦人にも及ぶので、主につらなる外国人は、「主はきっと、私をその民から切り離される」と言ってはならないのです。また、宦官も生殖器を切り取られていますから子孫を残すことはできないと思っていました。申命記23章1節をみると、そのように生殖器を切り取られた者は「主の集会に加わってはならない」とあります。まさに枯れ木扱いです。人間として全く価値がないと思われていました。しかし、そんな宦官も「ああ、私は枯れ木だ」と言ってはならないのです。なぜなら、4節と5節にあるように、「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。」からです。これはどういうことかというと、イスラエルと同じ恵みが与えられるということです。なぜなら、やがて来られる救い主が隔ての壁を取り除いてくださるからです。

エペソ2章11~16節のところに次のようにあります。 「ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人を造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました」

異邦人(宦官)は、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあっては何の望みもない者たちでしたが、そんな者でもキリスト・イエスの中にあることによって、神に近い者となりました。なぜなら、キリストが十字架にかかって、ご自分の肉において、敵意を廃棄してくださったからです。敵意は十字架によって葬り去られたのです。

それは主に連なる外国人も同じです。6節と7節にあるように、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人もみな、安息日を守ってこれを汚さず、神の契約を堅く保つなら、主は彼らを、主の聖なる山に連れて行き、神の家で彼らを楽しませてくださいます。この「わたしの聖なる山」とか、「わたしの祈りの家」というのはエルサレムの神殿のことです。そこに連れて行って、楽しませてくださるというのです。これは神殿のことを知っている人にとっては本当に驚くべき預言です。というのは、外庭には異邦人を含む誰でも入ることができましたが、神殿(聖所)の中には外国人は入ることができなかったからです。しかし神の国においてはそうではありません。異邦人もユダヤ人と同じように聖所に入って祈ることができます。いや、神殿の内側である至聖所に入って、大胆に恵みの御座に近づくことができるのです。全焼のいけにえや他のいけにえをささげることができるのです。これまでは大祭司が年に一度しか入ることが許されていなかった主の御座に入って行くことができるのです。何という特権でしょうか。それは7節の最後のところにあるように、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」それはユダヤ人ばかりのものではありません。キリストを信じるすべての人にとっての祈りの家だからです。全世界の人が神を礼拝することができます。異邦人も、宦官も、これまで神から遠く離れていた人も、だれでもイエスを信じるなら、この神殿に入って、いつでも礼拝することができるのです。

というのは、イエス・キリストこそ真の神殿であられるからです。イエスは、「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」(ヨハネ2:19)と言われました。その神殿とは何のことを言っていたのかというと、イエスのからだのことでした。神殿とは神と人が出会う所です。その出会いを真に提供できるのは私たちの罪のために十字架で死なれ、三日目によみがえられたイエス・キリスト以外にはいません。イエスのからだという神殿において、すべての人が神と出会い、神を礼拝することができるのです。神の祝福にあずかることができるのです。

そればかりではありません。イエスを信じる者のからだは、神から受けた聖霊の宮であると言われています。(Ⅰコリント6:19)ということは、私たち自身が神殿となって、いつでも、どこでも、神を礼拝できるのです。わざわざエルサレムの神殿に行かなくても大丈夫です。立派なサンピエトロ寺院に行かなくてもいいんです。いつでも、どこでも、大胆に神のもとに出ていき、ひれ伏して礼拝をささげ、その恩恵に与ることができるのです。だれでも・・・。

ところで、この「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」ということばを引用して、イエスは宮きよめをされました。(マタイ21:13)「わたしの家は祈りの家と呼ばれる。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」と。そして、イエスは宮の中で売り買いしている者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒されたのです。いったいどうしてそのようなことをされたのでしょうか?本来、神殿は祈りの家でなければならないのに、そのようなところで宗教ビジネスが行われていたからです。すべての民が神を礼拝して、神を喜ぶ所なのに、それを強盗の巣にしていた。イエス様はそのことに対して激しく怒られたのです。

私たちはどうでしょうか。私たちのからだは神から受けた聖霊の宮であって、それは祈りの家でなければなりません。なのにそのからだを強盗の巣にしているということはないでしょうか?神の栄光のためではなく、自分の満足のために使ってはいないでしょうか。

8節をご覧ください。主はこう言われます。「わたしは、すでに集められた者たちに、さらに集めて加えよう。」すでに集められた者たちとはユダヤ人のことです。さらに集めて加えるとは、異邦人のことですね。この世の終わりの日には、ユダヤ人も異邦人も分け隔てなく主の祝福にあずかれるようになります。もうその日が来ています。異邦人であった私たちもイエスの血によって神に近い者とされました。神から受けた聖霊の宮となりました。この恵みを覚えて、私たちのからだがすべての民の祈りの家と呼ばれるようになりたいと思います。

Ⅲ.神を侮ってはならない(9-12)

第三のことは、神を侮ってはならないということです。9節から終わりまでのところです。9節には、「野のすべての獣、林の中のすべての獣よ。食べに来い。」とあります。

「獣」とは、神のさばきのために用いられる象徴です。たとえば、バビロンはそうです。バビロンは獣のように神の民であるイスラエルを食らいます。そうした野のすべての獣に対して、食べに来るようにというのです。どうしてでしょうか。10節をご覧ください。「見張り人はみな目が見えず、知ることがない。彼らはみな口のきけない犬、ほえることもできない。あえいで、横になり、眠りをむさぼる。」

見張り人とは、城壁の上に立って見張っている人たちのことです。もし敵がやって来たらそのことをいち早く伝えます。しかし、その見張り人であるはずの者がみな目が見えず、知ることがないのです。自分たちの民がどのような状態になつているのかを見張るべきはずの指導者たちが、今起ころうとしていることに全く気付いていないのです。

それはまさに口のきけない犬のようです。あえいで、横になり、眠りをむさぼっています。敵がやって来てもほえることをせず、フ~ンなんてつぶやいて眠りこけるわけです。番犬が番犬の役割を全くはたしません。彼らは、悟ることも知らない牧者で、みな、自分勝手な道に向かい、自分の利得に向かって行くのです。 そしてこのように言うわけです。12節です。「やって来い。ぶどう酒を持って来るから、強い酒を浴びるほど飲もう。あすもきょうと同じだろう。もっと、すばらしいかもしれない。」    どうせ明日もきょうと同じだ。いや、もっとすばらしいかもしれない。だから、いっしょに酒でも飲もう。強い酒を、浴びるほど・・・。つまり、彼らは自分たちに迫り来る神のさばきを全く気にしないのです。罪を犯したって心配いらいない。心配したとこで何にも変わらないんだから。人生楽しく行こうゼ!おもしろおかしく行こうじゃないか。あなたのやりたいようにするのが一番いい。そう言って全く態度を改めようとせず、進んでいる方向も変えようとしないのです。もしそのようにのんきに構えていることがあれば、野の獣がやって来て、あなたを食べに来るのです。イスラエルがバビロンに滅ぼされたように。だから、もし公義を守り、正義を行っていないと気付いたなら、熱心に悔い改めなければなりません。神があえて何もされないのは、それは忍耐しておられるからです。神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知ることを望んでおられます。神があえてさばきをなさらないのは、それは私が、あなたが悔い改める機会を与えておられるからなのです。  にもかかわず、それをよいことになおも罪を犯し続けているとしたら、神のさばきがやって来るのは当然のことです。

荘厳なエルサレムの神殿を見て、弟子たちは口々に言いました。「これだけ大きな石が積まれているんだから、この神殿が破壊されることは絶対にないだろう」すると、イエスは彼らに言われました。「この石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」(マタイ24:2)その預言のとおりに、エルサレム神殿はA.D.70年にローマ帝国によって粉々に破壊されました。

ですから、目に見える現象を見て「まだ大丈夫、これくらい何とかなる」と言って高をくくってはなりません。「だれにも迷惑かけるわけじゃないんだから、何をしたっていいじゃないか」と開き直ってはいけません。「明日もきょうと同じだろう」と、神を侮ってはいけないのです。神の救いが来るのは近く、神の義が現れるのも近いからです。私たちはもう一度自分の思いが神のみこころからかけ離れていないかどうかを点検し、もしそうであるなら謙虚に悔い改めて救い主イエス・キリストに立ち帰りたいと思います。そうすれば、主は赦してくださいます。あなたを新しいいのちの道へと導いてくださいます。あなたの罪がどんなに大きくても、それがたとえ紅のように紅くても、雪のように白くしてくださいます。これが福音、グッド・ニュースです。このような福音のいのちに生きる者でありたいと思います。これこそ、神の救いを待ち望んで生きるクリスチャンの生き方なのです。

イザヤ書55章6~13節 「主を求めよ。お会いできる間に」

きょうは55章6節からのみことばから、「主を求めよ、お会いできる間に」というタイトルでお話したいと思います。この55章には、神からの招きが語られています。53章のところで主のしもべによる救いの御業が語られ、54章では、その救いの御業によってすばらしい祝福、天の御国がもたらされると約束されました。その救いへと招かれているのです。1節には、「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。」と勧められています。

そして、きょうのところにも、「主を呼び求めよ。お会いできる間に」と語られています。どんなに神が近くにおられても、その神を個人的に呼び求めることがなければ、その祝福を受けることができません。主の御業に対する最もふさわしい応答は、主を求めることなのです。きょうは、このことについて三つのことをお話たいと思います。

Ⅰ.豊かに赦してくださるから(6-7)

まず第一のことは、なぜ主を求めなければならないのかについてです。なぜなら、主は赦してくださるからです。6節と7節をご覧ください。「主を求めよ。お会いできる間に、近くおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」

1節には、「渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のなす者も。」と驚くべき招きが語られていましたが、ここではさらに驚くべき招きが語られています。それは、主を求めるなら、たとえ悪者であっても、たとえ不法者であっても、赦してくださるということです。一般に「悪者」とか「不法者」というのは神から離れ、自分勝手な道を歩んでいるので、神から見離されても致し方ないように思いますが、神はそんな彼らの近くにおられ、あわれんでくださるのです。ですから、私たちはおのれの道を捨て、主を呼び求めなければなりません。

皆さんはいかがでしょうか。神の道ではなく己(おのれ)の道を歩んではいないでしょうか。神のはかりごと(計画)ではなく己のはかりごとにこだわってはいないでしょうか。イエス様を自分の救い主として信じても、まだ自分のやりたいようにやりたい、生きたいように生きたいという思いが強くないでしょうか。

イエス様はこう言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マルコ8:34)自分の考えをしっかりと持っていることは大切なことですが、それがあまりにも強くなりすぎると、神のことばが聞けなくなってしまいます。ですから、自分を捨てなければなりません。自分の道ではなく神の道を求め、自分のはかりごとではなく神のはかりごとに歩むまなければならないのです。人の目には愚かに見えても、神のことばを聞き、その通りに歩むなら、神が祝福してくださるからです。

主に立ち帰りましょう。そうすれば、主はあわれんでくださいます。私たちの神に帰りましょう。そうすれば、豊かに赦してくださるのです。豊かにです。私たちの神は豊かに赦してくださる方なのです。私たちは、取り返しのつかないことをしてまったらもうだめだと思いがちです。決して赦されることはないと考えますが、そうではありません。たとえ赦されることがあったとしても、そう簡単なことではないでしょう。難行苦行をして、お布施をたくさんしなければ赦されないと考えますが、違うのです。私たちの神は赦しの神なのです。豊かに赦してくださる方なのです。神にとって赦せない罪など一つもありません。一つの例外を除いては・・。何でしょうか。それは聖霊を冒涜することです。人はどんな罪でも赦していただけますが、聖霊を冒涜する罪だけは赦されません。(マルコ3:28-29)。なぜなら、せっかく聖霊が聖書のみことばを通して罪を示し、その罪からの救いがイエスであるということを語っても、それを拒絶して受け入れなければ、救われる道はないからです。そのような人は永遠に赦されることはありません。しかし、それ以外の罪はどんな罪でも赦されます。イエス・キリストが十字架で贖ってくださいました。このイエスが赦せない罪など一つもないのです。あなたがイエスを自分の救い主として受け入れ信じたその瞬間に、あなたの過去、現在、未来のすべての罪が赦されるのです。それがどれほど大きな罪であっても、あなたのすべての罪は赦されるのです。

Iヨハネ1章9節を開いてみましょう。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」  これが神の約束です。もし私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。これは驚くべき恵みではないでしょうか。人知をはるかに越えた赦し、これが神の赦しなのです。もしあなたが主を求めるなら、自分の思い、自分の考え、自分の価値観、自分の計画、自分のはかりごとを捨て、主に立ち帰るなら、主はあなたをあわんでくださいます。豊かに赦してくださるのです。

しかし、ここには一つだけ条件があります。それは「お会いできる間に」です。また「近くにおられるうちに」です。つまり、期限が限られているのです。いつまでもお会いできるとは限りません。いつまでも近くにおられるわけではないのです。やがてお会いしたくてもお会いできなくなる時がやって来ます。やがて遠くに行ってしまわれる時がやって来るのです。その時になってからでは遅いのです。ですからお会いできる間に、近くにおられるうちに求めなければなりません。あなたはいかがでしょうか。もしあなたがまだイエス様を信じていないのなら、信じるのを遅らせてはなりません。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)今が信じるチャンスです。私たちがどんなに悪者でも、どんなに不法者でも、主は今、あなたの近くにおられます。ですから、その間に主を求めなければなりません。そのうちに、主を呼び求めなければならないのです。

Ⅱ.私たちよりも高い神の道、神の思い(8-9)

次に8~9節を見てください。いったいなぜそのようなことが言えるのでしょうか?なぜなら、神の道、神の思いは私たちとは異なり、はるかに高いからです。 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。―主の御告げ― 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」

確かに違います。私たちが考える赦しと神の赦しは全然違います。もう次元が違うんです。天が地よりも高いように、神の思いと私たちの思い、神の道と私たちの道は全く異なります。自分の考えと神の考えを比べてほしいと思います。そうすれば、全然違うことがわかるでしょう。そこには大きなギャップ(差)があります。なぜなら、私たちは神ではないからです。神は全知全能であられ、すべてを知っておられますが、私たちは有限であり、限られた知識しか持っていません。未来のことなど知る由もないのです。でも神は違います。神は過去も、現在も、未来もすべてを知っておられます。私たちは自分の人生は自分が一番よく知っていると思っていますが、実際はそうではありません。あなたのことを一番よく知っておられるのは神様なのです。なぜなら、神があなたを造られたからです。ですから、神はあなたの将来がどうなるのかも知っておられるのです。神はあなたが見えないものも見ておられ、知らないことも知っておられます。神は完全であられ、完全な計画を持っておられるのです。

であれば、神を信じて、すべてを神にゆだねて生きることこそ最も賢い選択だと言えるのではないでしょうか。あなたは自分で何でもわかっていると思っているかもしれませんが、限られた知識でしかないのです。自分ではベストだと思っているかもしれませんが、神はそれとは別の、全く違う計画を持っておられるのです。

かつてペルシャの王のもとにとついだエステルは、いったいなぜ自分が異国の王妃などにならなければならないのかさっぱりわかりませんでしたが、モルデカイのことでユダヤ人が絶滅の危機に陥ったとき、自分がこの国に来たのは、もしかするとこの時のためであるかもしれない。」(エステル記4:14)と悟ったように、神は完全な計画をもっておられるのです。  天が地よりも高いように、神の道は、私たちの道よりも高く、神の思いは、私たちの思いよりも高いのです。

であれば、自分であれこれと思い煩うのをやめて、すべてをこの神にゆだねて祈るべきではないでしょうか。イエス様はゲッセマネの園で、「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)と祈られましたが、その祈りを私たちの祈りとしなければなりません。これがベストだからです。あなたの考えよりもはるかに高い神の偉大な計画が、あなたのために用意されているのです。この神の計画に信頼しなければなりません。神はあなたを愛して止まないので、あなたにとって最善の道を用意しておられます。なぜなら、神はあなたに一番大切なひとり子を与えてくださったからです。ですから、神の計画は最善であって、それ以下ではありません。その神の計画にすべてをゆだねなければなりません。イエスのように、みこころが天で行われるように、地でも行われますように。わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください、と祈らなければならないのです。

Ⅲ.神のことばはむなしく帰って来ない(10-13)

第三にその結果です。神を信じ、神にすべてをゆだねて生きるとき、どのようなことが起こるのでしょうか。それは神の祝福に満たされるということです。 10節と11節までをお読みします。 「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」

ここでは、神のことばが雨や雪にたとえられています。雨や雪が天から降るともとに戻らず、必ず地を潤して、そこに物を生えさせるように、神のことばも決してむなしく帰ってくることはありません。イスラエルには滅多に雨が降りません。イスラエルには雨期と乾期があって、雨期は冬ですが、その雨期が終わると植物は一気に芽を出します。これまで荒野だったところが緑となり、美しい花を咲かせます。同じように、神のことばが語られると、それを聞いた人々の心がどんなにカラカラに渇いていても豊かに潤され、きれいな花を咲かせるようになるのです。これまでしおれていたような人も、不毛の状態にあった人も、緑豊かな心へと変えられるのです。これがクリスチャンの人生です。神のことばがその人の心に蒔かれると、その心は生き生きしてきます。物の考え方、価値観が変わり、言うことややることも変えられます。性格も習慣もすっかり変わるのです。それは神のことばにそのような力があるからです。

ヘブル4章12節には、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」とあります。神のことばは生きていて、力があるので、人々にいのちを与えることができるのです。

1790年、イギリス政府が南洋群島の一つである、カイキというところにゴムの木の栽培のために人を100人ほど送ったことがあります。その船の名前は「バウンティ号」でした。  彼らがその島に到着すると、そこに熱帯植物のズースで作った酒を飲むようになりました。彼らの生活はしだいに堕落し、彼らの間での喧嘩がひどくなり、殺し合いが繰り返されました。そして最後にたった一人残ったのが、ジョン・アダムズという人でした。そこには西洋人はだれ一人いなくなり、多くの混血の子どもたちが生まれ育つようになりました。  それから30年が経った頃、そこを通りかかったアメリカの船が島に上陸すると、乗船していた人たちは、目の前の光景に驚かされました。そこには礼拝堂が建てられ、ジョン・アダムズという老人が牧師をしていたのです。彼はその島の王様で、父のような存在でもありました。彼を慕っていた青年たちはみな、黒人でも白人でもない混血児たちでした。この老人は、その島に何が起こったのかを目を輝かせながら説明してくれました。  仲間たちが、むなしい争いや殺し合いで死んでしまったある日、力が強かったがゆえに人を殺し、一人だけ生き残ったジョンは、破船した「バウンティ号」に戻ってみました。するとそこに一冊の聖書を見つけたのです。そしてその聖書を読んでいると、彼の目にいつの間にか涙があふれ、止まらなくなってしまいました。そして悔い改めが起こったのです。彼は神の人になりました。  その後聖霊の導きによって、子供たちを集めて時を教え、神のみことばである聖書を教えたのです。ジュウミンたちも彼を尊敬し、彼を王にし、彼に従いました。そしてその島は、まことのパラダイスになったのです。これは、ひとえに一冊の聖書の力によるものでした。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。そのみことばが語られると、それは決してむなしく帰ってくることはありません。必ず、神の望む事を成し遂げ、神が言い送った事を成功させるのです。

とは言っても、クリスチャンじゃない人に神のことばを語っても、ウンともツンとも言わないじゃないですか。一生懸命伝道しても、相手からいい反応が返ってきたりしません。信仰とか、霊的なことに全く関心を示してくれません。神とか、キリストといったことに何の興味もないのです。話しても無駄です。効果がありません。そう思うかもしれません。しかし、あきらめてはいけません。がっかりしないでください。神のことばは決してむなしく帰ってくることはないからです。必ず、ご自身の望む事を成し遂げ、言い送った事を成功させてくださいます。人を救うのは神の働きであって、私たちのテクニックとは全く関係がないからです。神のことばが語られると、そのみことばが生きて働いて、その人を神の人へと変えてくださるのです。

その祝福がどれほどすばらしいものなのかが12節と13節にありますので、ご一緒に読みたいと思います。 「まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。」

これが神のあなたに対する約束です。あなたの心に神のことばが蒔かれると、あなたは喜びをもって出て行くようになります。安らかに導かれて行きます。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らします。人間ばかりではありません。山や丘も、野の木々も、主を賛美するようになるのです。なぜなら、イエス様によって罪が贖われるからです。イエス様によって罪が贖われると、罪に汚染されていた人間だけでなく、そうした自然界も贖われるのです。

その様子が13節にあります。「いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。」「いばら」と「おどろ」は、のろいの象徴です。そのいばらとおどろが全部取り除かれてもみの木やミルトスになるのです。もみの木は皆さんもよくご存じだと思います。一年中緑で、生き生きしています。クリスマスツリーにもみの木が使われるのは、いのちの象徴である緑が絶えることなく、満ち溢れているからです。ミルトスの木はあまり見たことがないかと思います。ミルトスは、日本名ではギンバイカ(銀梅花)、英語ではマートルというそうですが、これも常緑樹で、春先になるとその名のとおり梅に似た白く輝く花を咲かせます。花言葉は「愛のささやき」です。この葉や実は強い香を放ち、入浴剤や鎮痛剤にも使われ、枝木は生垣にも使われるそうです。つまり、いつもいのちがみなぎっているということです。その祝福のシンボルがもみの木であり、ミルトスです。それが主の記念樹となり、絶えることのない永遠のしるしとなるのです。

荒廃しきったイスラエルが緑地化されて、絶えることのない緑で覆われるように、あなたが神を求め、神に立ち返るなら、主はあなたをあわれんでくださり、あなたの人生を祝福で満たしてくださいます。私たちは祝福される存在として、ここに置かれているのです。イエス・キリストを信じることによっていばらがもみの木に、おどろがミルトスに変えられます。のろいが祝福に変えられるのです。過去の過ちも、過去の失敗も、イエス様を信じることによってすべてが益に変えられるのです。なんとすばらしい約束でしょうか。これが良い知らせ、福音です。    今、あなたもイエスを信じるなら、この祝福があなたのものになるのです。今、聖霊の導きに素直に応答するなら、あなたもこの祝福の人生を歩むことができるのです。しかし、それはいつまでもということではありません。主とお会いできる間に、主が近くにおられるうちに、求めなければなりません。今晩、あなたがどのようになるかだれにもわかりません。来週まで、あなたがどのようになっているかなんてわからないのです。ですからお会いできる間に、どうか主を求めてください。近くにおられるうちに、主を呼び求めてください。そうすれば、主はあなたをあわれみ、豊かに赦してくださいます。そして、その人生と祝福してくださいます。既にイエス様を信じているという人も、改めて、イエスを主とするということがどういうことなのかを考えて、おのれの道を捨て、おのれのはかりごとを捨てて、主に立ち帰る者でありたいと思います。

イザヤ書55章1~5節 「ただで恵みを受けよ」

きょうはイザヤ書55章のみことばから、「ただで恵みを受けよ」というタイトルでお話します。1節を見ると、「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒を買え。」とあります。ここで神はただで恵みを受けるようにと招いておられます。

イザヤ書53章には、主のしもべによって成し遂げられた救いの御業が預言されていました。主は私たちにできないことをしてくださったのです。十字架にかかって死なれ、私たちの罪を赦してくださいました。その主の贖いを信じる者に、神はとてつもない回復を約束されました。それが54章にあることです。54章12節には、「あなたの城壁をすべて宝石にする」とありますが、主は天の御国を相続するようにしてくださったのです。

そして55章に入ります。ここには、そのようにして成し遂げられた祝福への招きが語られています。皆さんは、今までどれだけの招待を受けたことがあるでしょうか。その中で一番価値のある招待はどのようなものでしょうか。きょうのところで主は、「だれでも渇いているなら、わたしのところに来て飲みなさい」と招いておられます。ただで恵みを受けるようにというのです。これこそほんとうに価値ある招きではないでしょうか。きょうはこの神の招きについて、三つのポイントでお話をしたいと思います。

Ⅰ.渇いている者は出て来い(1)

まず1節をご覧ください。ここには「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。」とあります。水というと、日本ではただで飲めるというイメージがあってあまり価値のないもののように感じますが、そうではありません。調べてみると、この地球にはおよそ14億Km3の水があると言われていますが、そのうちの約97%は海水で、淡水はわずか3%しかありません。そしてこの淡水のうち私たちが生活に利用できる水はわずか0.8%しかないのです。ですから、水はとても貴重な資源なのです。ヨーロッパなどでは昔からレストランなどてで何かを注文する時、水が欲しかったら「ミネラル・ウォーター」といって注文しなければならないそうです。お金を払って買わなければならないのです。しかも水の方がぶどう酒よりも高いという所もあります。イスラエルやエジプト、中近東の砂漠地帯に行きますと水はもっと貴重で、たとえば最大の産油国であるサウジアラビアでは石油よりも水の方が高いと言われています。それほど水は貴重なものなのです。

それなのに、ここではその水をただで飲めと言われています。水だけではありません。穀物も、ぶどう酒も、乳もです。「さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。」もちろん、これは物質的な祝福だけのことではありません。物質的なものも含め、すべての良いものをを意味しています。「穀物」というのは、いのちの象徴でしょう。イエスは「わたしはいのちのパンです」と言われました。また、「ぶどう酒」は喜びを、「乳」は「みことばの乳」という言葉があるようにいのちを養い、成長させるうえで欠かせないものです。そのように物質的にも、霊的にも、私たちにいのちを与え、私たちの生活を支え、私たちに喜びをもたらすものを求めて、神のもとに出て来い、というのです。

「出て来い」という言葉は命令形で、非常に強いことばです。3節にも繰り返して出てきます。なぜこのように強く命じられているのでしょうか。なぜなら、来ることがなければ何も始まらないからです。来ることによって初めて受けることができます。ですから、神は私たちに向かって開口一番言われることは、来なさいということなのです。あなたがどんな用事があろうと、どんな状況であっても、あなたが神の祝福を受けたいと思うのであれば、そうしたものを脇に置いてでも来なければならないのです。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

ここでイエス様は、「わたしを遠くから見なさい」とか「わたしを研究しなさい」とは言いませんでした。「来なさい」と言われました。そうすれば、あなたがたを休ませてあげる・・と。ですから、もしあなたが恵みを受けたいのなら、イエスのもとに来なければなりません。

私が小さい頃、母がよく言ってたことがあります。それは「ただほど怖いものはない」ということです。ただなんてあり得ない。ただであげるというのは、何かたくらみがあるからだ。しかし、神はただで与えてくださるのです。これを何というかというと、「恵み」と言います。神の恵みです。しかもこれは神の一方的なあわれみによるものです。そこには私たち人間の側のどのような手のわざも加えることはできません。私が何かしたから、たとえば、私が奉仕したから、私が一生懸命に祈ったから、私が一生懸命に何かをしたから与えられるのではなく、ただ一方的な恵みによって与えられるものなのです。神の前には自分がどれだけやったかといったことは、全く関係ありません。ただ神の前に出て行くかどうかということだけなのです。神の前に出て行くことによってのみ受けることができるもの、それが神の恵みであり、神が私たちに与えてくださる救いなのです。神の目から見たら、私たち人間はみなナッシングです。何もない、何の価値もありません。しかし神は、そのように神の恵みに全くあずかる資格のない者や罪深い者に対して、「渇いているならわたしのもとに来て飲みなさい。穀物も、ぶどう酒も、乳も、金を払わないで買いなさい。ただであげよう」と言って招いておられるのです。

Ⅱ.良い物を食べよ(2)

次に2節をご覧ください。「なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。」

それなのに、なぜ食料にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのでしょうか。お金では買えない霊的祝福があります。それらはただで受けることができるのにそうしたものにはちっとも目もくれず、心の糧にもならない物のためにお金を払い、天国には持っていけない物や天国では何の役にも立たないもののために労するのでしょうか。もちろん、それはこの地上の生活を楽しんではならないということではありません。むしろ、私たちが投資すべきものは何なのか、その優先順序をよく考えてみなさいということです。もっと永遠に残るもののためにお金を使い、労し、時間を使うべきだということです。

このことについて、イエス様はこのように言われました。「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6:19-21)

一生懸命に汗水垂らして働いて、ようやくいただいたお給料で、たまったストレスを発散しようと、ブランドものを買ったり、高級な洋服を買ったりしても、そうしたものが私たちの心を満たすことはできません。買ったその瞬間から古くなってしまいます。エントロピーの法則といって、形あるものは滅びていくのです。中には一回も着ないのに虫に食われて穴が空いてしまったり、太って着れなくなってしまったということもあります。せっかくローンを組んで買った車が、きず物になったり、さびついてしまうこともあります。だから最近は車がその辺にぶつかっても気にしないことにしました。形あるものは壊れるのですから。ですから、自分の宝を地上にたくわえるのはやめて、天にたくわえるべきです。憂さを晴らそうと高いお酒を買う必要はありません。神に聞き従い、良い物を食べるなら、ストレスも解消でき、喜びに満ち溢れるようになるからです。

ここでは、「そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう」とあります。「脂肪」は現代では様々な病気の原因となっていてあまり歓迎されていませんが、聖書では芳ばしい香のする最上のものとして、神にささげられました。つまり、「脂肪」は最上のものを表しているわけです。神に聞き従い、良い物を食べるなら、あなたは最上のもので元気づくことができるのです。

では「良い物」とか「最上のもの」とは何でしょうか。ここではそれが「食料にもならない物」とか「腹を満たさない物」と対比されています。私たちの糧となり、私たちの腹を満たすものです。それは、神とその救いのみことばのことです。この時イスラエルはバビロンに捕らえられていましたが、そうした異教の生活の中に自分たちの心を満たすものを求めていたでしょうが、見つけられませんでした。そうした異教の社会の中には彼らを満たすものはありませんでした。一時的に満腹感を味わうことができても、次の瞬間はにはまたお腹が空いてしまうのです。真に人の心を満たすことができるのは、神とそのみことばだけです。イエス様はこう言われました。「人はパンだけで生きているのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」(マタイ4:4)これが良い物であり、イスラエルが置かれた絶望的な状況の中でそれを乗り越えていく力であったのです。

それは私たちも同じです。皆さんは何のためにお金を払い、何のために労しておられるでしょうか。食料にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労してはいないでしょうか。神に聞き従い、良い物を食べなければなりません。神の口から出る一つ一つのことばを食べて、そこに希望を置かなければならないのです。そうすれば、あなたは脂肪で元気づくことができます。イエス・キリストは、いのちの水になってくだるし、穀物(いのちのパン)にもなってもくださいます。またぶどう酒(喜び)にも、乳(成長の糧)にもなってくださいます。イエス・キリストは、あなたのすべてのすべてになってくださるのです。この方を食べるなら、すなわち、この方を求め、この方と交わりをもって生きるなら、あなたの一生は良いもので満たされるのです。

Ⅲ.あなたがたは生きる(3-5)

第三にその結果です。神に聞き、神のもとに出て行くなら、あなたがたは生きるということです。3節をご覧ください。ここには、「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。」とあります。

「私はちゃんと生きてますよ!」という方がおられるでしょうか。それは一時的なことで、あとどのくらい生きられるかわかりません。ここで言われているのは永遠のいのちのことです。死んでも生きるいのちです。イエス様は、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)と言われましたが、この死んでる生きるいのちのことなのです。 クリスチャンにはこのいのちが約束されています。ですから、クリスチャンは今死んでもまた生きます。クリスチャンでない人は違います。クリスチャンでない人は、今晩死んだらまた死にます。死が二回あるんです。肉体の死と、霊的な死です。霊的な死とは第二の死とも言われ、永遠に神から離れてしまうことを意味しています。黙示録20章14~15節に記されてあります。「それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この池に投げ込まれた。」これがいわゆる地獄のことです。しかし、クリスチャンは一度しか死ぬことがありません。そして肉体的に死んでも天国に入り、そこで永遠に神と生きるようにになります。これが永遠のいのちです。この地上でのいのちは70年か80年、長くても100年くらいです。どんなに頑張っても120年くらいでしょう。みんな必ず死にます。それは100パーセントです。そして死んだらどうなるのかというと、死んでも霊において生きるのです。人は死んだら終わりではないのです。死後も霊において生き続けるのです。永遠にです。死後の世界の方が圧倒的に長いのです。この地上でのいのちは点にすぎません。あっという間に過ぎ去りますが、死後の世界は永遠なのです。あなたはこの永遠の世界をあなたはどこで過ごされますか。神とともに天国で過ごされますか。それとも、神のいない燃える火の池である地獄でしょうか。「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたは生きる。」もしあなたが神のもとに行き、神に聞き従い、神の救いを受け入れるなら、あなたは生きるのです。

アメリカの企業家であったハワード・ヒューズは、映画、放送局、航空会社、ホテル、賭博場など、約50あまりの事業を手がける富豪で、若い頃はハリウッドのスターたちとも数多くのうわさがあった人です。                     しかし彼は、45歳になると対人恐怖症にかかかり、人を避け、一人で過ごすようになりました。病原菌を恐れ、自宅に無菌室を作り、食べ物に毒が入っていないかを心配して、チキンスープしか飲まずに生活しました。理容師が、かみそりやハサミで自分を殺しはしないかと恐れ、床屋にも行かず、手足のつめは切りませんでした。さらに彼は、仕事も電話とインターフォンを通してするようになりました。とうとう栄養失調にかかり、最後は飛行機で移動中に亡くなりましたが、死ぬ間際に、次のような言葉を残したと言います。「何もない。何もない。何もない!」つまり、「むなしい。むなしい。むなしい。!」と叫びながら死んだので す。                                            人が全世界を手に入れたとしても、まことのいのちを損じたら何の得があるでしょうか。私たちが常に感謝しなければならないのは、たとえこの世で楽しむことができなくても、一番尊い天国のいのちが約束されているからです。「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたは生きる。」とあるように、このいのちを受けたのです。

3節後半のところを見てください。ここには、「わたしはあなたがたにとこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。」とあります。これはどういうことでしょうか。ここでは、この約束がどれほど確かなものであるかを示すために、ダビデへの変わらない愛の契約が記されてあるのです。これはⅡサムエル記7章12~16節にあるものです。ダビデの子孫から救い主イエス・キリストが生まれ、彼によって王国が確立されるという預言です。それはいったいどのようにしてもたらされるのでしょうか。それは一方的な恵みによってです。かつてシナイ山でモーセに与えられた十戒はそうではありませんでした。それは神がこうしなさいということに対してそれを行うことによって与えられる救いでしたが、ダビデ契約は違います。ダビデ契約は恵みの契約です。ただ神のもとに出て、神が与えてくださる恵みを受けることによって救われるのです。私たちがへりくだってただ神の前に出、神の救いを受け入れるなら、だれでも救われます。それがダビデ契約であり、それがその子孫から生まれたイエス・キリストによって実現したのです。ですからこれは確かな救いなのです。私たちの行いとは全く関係なく、一方的な神の恵みによる救いだからです。

「そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」(Iヨハネ5:11,12)    そのいのちは御子のうちにあります。御子を持つ者、すなわち御子を信じる者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。それは神の約束のみことばによるのです。私たちの感情とは全く関係ありません。御子を持つ者はいのちを持つことができるのです。お金をはらわなくても、代価を払わなくても、ただで・・・。

このように何の代価も払わないでと言いますと、何だかそれはとても安っぽいように感じますが、実はそうではなく、そこにはものすごい代価が払われているのです。神のひとり子のいのちという代価です。私たちは自分の罪の代価を支払うことができなかったので、神が代わりに支払ってくださいました。それが御子イエス・キリストです。イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって死んでくださったので、この御子の代価のゆえに、私たちの罪は赦されたのです。

5節を見て終わります。「見よ。あなたの知らない国民をあなたが呼び寄せると、あなたを知らなかった国民が、あなたのところに走って来る。これは、あなたの神、主のため、また、あなたを輝かせたイスラエルの聖なる方のためである。」

「あなたを知らない国民」とは異邦人のことです。やがて異邦人までもあなたのところにやって来て、あなたの祝福にあやかりたいというようになるということです。この恵みはそれほど豊かな救いなのです。この大いなる祝福の中にあなたも招かれているのです。きょう、この招待状があなたにも送られました。あなたはどのように応じられますか。

マタイ22章には、天の御国は、王子のために結婚披露宴を設けた王にたとえることができるとあります。王は招待しておいた客を呼びに、しもべたちを遣わしましたが、彼らは来たがりませんでした。彼らは王が遣わしたしもべたのことを気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、ほかの者たちは、そのしもべたちをつかまえて恥をかかせ、殺してしまいました。  そしたら王は何と言ったでしようか。「宴会の用意は出来ているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者たちをみな宴会に招きなさい。」(9)それでしもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになったのです。

皆さんはどうか王である神の招待を拒むようなことはなさらないでください。神の前に出て、神がただで与えてくださる祝福を味わっていただきたいと思います。そうすれば、あなたは生きるのです。

イザヤ書54章11~17節 「義によって堅く立つ」

きょうは、イザヤ書54章後半の箇所からお話したいと思います。54章にはイスラエルの回復について語られています。主は子を産まない不妊の女のようであったイスラエルを回復し、右と左に増え広がるようにしてくださいます。だから、あなたの天幕の場所を広げるように、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばすようにというのです。きょうのところも、イスラエルの回復が続いて語られます。

Ⅰ.あなたの城壁をすべて宝石にする(11-12)

まず第一に、11節と12節をご覧ください。ここには、神はイスラエルを宝石のようにしてくださると約束しておられます。

「苦しめられ、もてあそばれて、慰められなかった女よ。見よ。わたしはあなたの石をアンチモニーでおおい、サファイヤであなたの基を定め、あなたの塔をルビーにし、あなたの門を紅玉にし、あなたの境をすべて宝石にする。」

「苦しめられ、もてあそばれて、慰められなかった女」とは、イスラエルのことです。彼らはバビロンによって苦しめられ、もて遊ばれた女のようでした。しかし、そんなイスラエルを主は、宝石のようにするというのです。「アンチモニー」とは黒色の鉱石です。黒色の塗料などに使われるとても美しい石です。エジプトの女性たちが使う化粧で最も特徴的なのは、目の周りを黒く塗るものですが、その塗料に使われているのがこのアンチモニーの粉だと言われていま。「サファイヤ」や「ルビー」はわかりますね。「紅玉」とはりんごではありません。「エメラルド」のことです。新共同訳ではここを、「エメラルドであなたの門を飾り」と訳しています。神は彼らをこのような宝石にするというのです。それはまるで美しく着飾った花嫁のようです。頭のてっぺんから足の先まできれいに着飾り、キラキラと輝いています。粉々に砕かれたはずの石を、神はこのように回復させてくださるのです。

ここで、黙示録21章1~2節をご覧ください。 「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。」 これは天国の光景です。天国は、まさに夫のために飾られた花嫁のようです。そうです、あのイザヤが見た預言は、この天国のことだったのです。つまり、これはバビロンに捕らえられていたイスラエルを解放して宝石のようにするというだけでなく、世の終わりにおいて、神の民であるクリスチャンもこのようにしてくださるという二重の預言だったのです。    この黙示録21章10節以降には、この聖なる都、新しいエルサレムがどのようなものなのかがもっと詳しく語られています。11節には、「その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。」とあります。また、18~21節には、「その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイヤ、第三は玉髄、第四は緑玉、第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。た、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。」とあります。天国は、このような宝石のように輝いている所です。クリスチャンはやがてこの天国を相続するようになるのです。

なんとすばらしいことでしょうか。今はしばらくの間、さまざまな問題に苦しみ、もてあそばれているような状態かもしれません。毎日辛いことばかりで、どこにも希望を見いだせないような状況かもしれません。しかし、神は必ずあなたを慰めてくださいます。やがて、どれも宝石のような天の御国へと導いてくださるのです。

Ⅱ.豊かな平安がある(13)

第二のことは、あなたの子どもたちには、豊かな平安があるということです。13節をご覧ください。

「あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、あなたの子どもたちには、豊かな平安がある。」

これもすばらしい約束です。私たちはだれでも自分ことはさておき、子どもたちには幸せになってほしいと願うものです。その子どもたちがみな、主の教えを受けるようになり、そこには豊かな平安があるというのです。今はそうではないかもしれません。学校では進化論が絶対的な真理であるかのように教えられ、真理がねじ曲げられています。「先生、私たちはいったい何のために生きているんでしょうか。」と質問すれば、「馬鹿!そんなこと考える暇があったらもっと一生懸命勉強しろ」と言われるでしょう。でも何のために勉強するのかがわからなければ、一生懸命勉強することなどできません。たとえしたとしても、そこには何の喜びも得られないでしょう。平安もありません。私たちは神の喜びと栄光のために生かされているということがわかった時に初めて、喜びと平安をもって勉強することができるのではないでしょうか。しかし、やがてそのような時がやってきます。あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、あなたの子どもたちには豊かな平安が得られるようになるのです。

皆さんのお子さんはどうでしょうか。皆さんのお子さんには豊かな平安があるでしょうか。もしないとしたら、どこがおかしいのかを点検しなければなりません。ここには「主の教えを受け」とあります。子どもたちが豊かな平安を得るためには、主の教えを受けなければなりません。それは自動的に得られるものではないのです。主の教えを受けることによってもたらされる恵みなのです。なぜ子どもたちは親に反抗するのでしょうか?なぜ子どもたちはいつもイライラしているのでしょうか?なぜわがままに、身勝手にしているのでしょうか?そういう時代だから・・・。違います。主の教えを受けていないからです。もし主の教えを受けるなら、あなたの子どもたちにはみな、豊かな平安があるのです。

エペソ人への手紙6章1~4節にはこうあります。 「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」

皆さん、どうしたら子どもたちはしあわせになり、地上で長生きすることができるのでしょうか?それは、主にあって両親に従うことによってです。そしてその両親に命じられていることは何かというと、子どもたちをおこらせてはいけないということです。かえって、主の教育と訓戒によって育てなければなりません。

振り返ってみると、私も随分子どもたちをおこらせたなぁと思います。穴があったら入りたいくらいです。子どもを育てるというのは本当に楽ではありません。なかなか自分の思うようにはいかないものです。しかし、そのような弱さを抱えながらも、主の教育と訓戒によって育てるならば、主が平安を与え、責任をもって育ててくださいます。もちろん、それはただ機械的に毎日聖書を読み、祈ればいいということではありません。ここに「主にあって」とありますが、それは主にある愛情と訓戒によってということでしょう。いずれにせよ、確かなことは、あなたの子どもたちはみな、主の教えを受けると、豊かな平安があるということです。「まだ小さくて聖書を読んでもチンプンカンプンです!」と思う方もおられるかもしれませんが、実は、そうした小さい時こそ大切な時期なのです。何も理解していないようでも、実はとってもよく吸収しています。ですから、わかってもわからなくても、あなたが子どもに豊かな平安を持ってほしいと願うなら、主の教えを受けるように求めなければなりません。もう子どもが大きくなってしまったから遅い!という方でもあきらめてはいけません。どんなに大きくなってもその子が主にあって歩み、成長するようにと祈るなら、きっとその祈りがかなえられるはずです。何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神は聞いてくださるからです。だから何歳になってもあきらめないで祈りましょう。やがてそうした親の姿を見て、あなたの子どもさんも必ず主の道に歩むようになるからです。

Ⅲ.義によって堅く立つ(14-17)

第三のことは、あなたは義によって堅く立つということです。14~17節までをご覧ください。14節をお読みします。 「あなたは義によって堅く立ち、しいたげから遠ざかれ。恐れることはない。恐れから遠ざかれ。それが近づくことはない。」

ここには、しいたげから遠ざかるように、恐れから遠ざかるようにと勧められています。なぜなら、あなたは義によって堅く立つからです。義とは救いのことです。私たちは義によって、救いによって、堅く立つことができます。救いとは神との関係を持つことです。最初の人アダムとエバは罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができなくなりました。「あなたは、どこにいるのか」と言われても、「はい、ここにいます」と答えることができず、主の御顔を恐れて、園の木の間に隠れてしまいました。つまり、神との関係が完全に断たれてしまったのです。これが霊的な死であり、地獄のことです。地獄とは神がいない世界のことで、そこには何の喜びも、希望もありません。絶えず何かにおびえ、何をしても不安になります。けれども、御子イエス・キリストを信じて罪が赦されると、死んでいたたましいに神の光が差し込み、息を吹き返します。神とのいのちの交流が再開するのです。神がともにおられるなら、いったい何を恐れることがあるでしよう。ダビデはこう告白しました。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」(詩篇23:4)神がともにおられるなら、たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても 恐れることはないのです。

ジョン・クゥアン著、「一生感謝」365日」の中に、「生まれてから死ぬまで感謝」というエッセイがあります。 「ごちそうを前にしても文句を言う人がいるかと思えば、乾いたパン一切れでも感謝する人がいる。健康なからだが与えられていても環境を恨む人がいれば、両手両足がないにもかかわらず感謝する人がいる。一つを失うことに怒りを抑えられない人がいれば、二つを失ってもかえって感謝する人がいる。失敗したからといのちを絶ったり絶望したりする人がいるかと思えば、過ぎ去ったすべてのことを感謝し、未来に向けて準備する人がいる。自分を非難したり害を加えたりする人と仲違いする人がいれば、敵を愛して感謝する人がいる。死を恐れる人がいれば、死をありがたく受け入れる人がいる。  私たちには感謝する理由がたくさんある。呼吸できることに感謝し、歩けることに感謝し、食べるとができ、寝ることができることに感謝し、夫と妻と子どもを感謝し、成功も失敗も感謝し、病気でも健康でも感謝する。実際、この地上に生まれてから死ぬ火まで、感謝するのみではないだろうか。」

こうした感謝というのは、まさに神がともにおられることから生まれるものです。なぜなら、死んだらすべてが終わりだという中にも、その死さえもありがたく受け入れることができるのは、死んでもともにいる神がおられるからではないでしょうか。ですから、神との関係を持っているということは、すべてにまさる喜びであり、祝福なのです。それが義であり、それが救いです。救いとは、神との正しい関係にあることであり、そのような人は何も恐れることはありません。恐れが遠ざかるからです。

皆さんはどうでしょうか。私たちは日々様々な恐れの中に生きています。お金を失うのではないか、健康を失ったらどうしよう、仕事や家族を失ったらどうしようか。そうした恐れがあります。また、こうした恐れのほかにも、自然の災害に遭わないだろうかといった不安があります。しかしこれらの中にあっても、もしあなたがイエス・キリストを信じているならあなたのすべての罪は赦され、神との正しい関係を持つことができるようになるのです。神があなたとともにいてくださいます。ですから、あなたは何も恐れることはないのです。神が私たちの味方であるなら、何も私たちをキリストの愛から引き離すことはできないのです。 これらすべての中にあっても、圧倒的な勝利者となることができるのです。

15~17節前半のところを見てください。 「見よ。攻め寄せる者があっても、それはわたしから出た者ではない。あなたを攻める者は、あなたによって倒される。見よ。炭火を吹きおこし武器を作り出す職人を創造したのはわたしである。それをこわしてしまう破壊者を創造したのもわたしである。あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。また、さばきの時、あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める。」

もしイスラエルを攻める者があったとしたら、どうなるでしょうか。もしイスラエルを攻める者があれば、そのような者は逆にイスラエルによって倒されることになります。たとえば、エステル記に登場するハマンはどうだったでしょうか。彼はユダヤ人を根絶やしにしようと高さ2.5メートルの柱を立て、それにモルデカイをかけて殺そうとしましたが、逆にハマンがそれにかけられて殺されました。アブラハムを祝福する者は祝福され、迫害する者は迫害されます。ですから、もしイスラエルに敵対する者があるとしたら、そういう者は逆にイスラエルによって倒されることになるのです。なぜなら、イスラエルは神によって贖われた神の民であり、神が彼らとともにおられるからです。どんなに彼らを攻める者があっても、彼らを倒すことは絶対にできません。

また、たとえ敵がどんな最新鋭の武器を持ちだしても、それらの武器を作り出したのは神様ですから、そうした武器も何の役にも立たなくなります。だれも神に敵対できることはできないからです。したがって、何が起こっても動揺することはありません。主権者は神であって、この方がすべてをコントロールしておられるので、神に信頼していれば何も恐れることはないのです。

17節の後半のところを見てください。 「これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。」

これが主のしもべたちの受け継ぐ分です。主のしもべたちには、このような祝福が約束されています。もしあなたが主のしもべであるなら、あなたにもこの祝福が約束されているのです。問題は、あなたはこの主のしもべになっているかということです。また、あなたは神の義を受けておられるかということです。

Ⅱコリント5章21節を開きましょう。 「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」  神が、そのひとり子であられるイエス・キリストを私たちの代わりに罪とされたのは、私たちが、この方にあって、神の義となるためでした。

ですから、もしあなたもこの神の義を受けたいと思うなら、あなたの罪の身代わりとして十字架にかかって死なれたイエス・キリストを、あなたの救い主として信じなければなりません。そうすれば、あなたもこの神の義を受けることができます。この義は無条件であなたにも提供されているのです。あなたがイエス様を信じて神の義を受けるなら、あなたもやがてここに約束されている栄光を受けるでしょう。あなたの城壁は宝石のようになり、あなたの子どもたちも豊かな平安を受け、あなたがどのような恐れの中にあっても決して動揺することなく、堅く立ち続けることができるのです。神がいつもあなたとともにいて、あなたを守ってくださるからです。これは何という恵みでしょうか。どうかあなたもこの恵みを受けてください。イエス・キリストを信じて神の義をいただき、この祝福を受け継ぐ人になってください。この救いはあなたにも差し出されているのです。

イザヤ書54章1~10節 「あなたの天幕を広げよ」

きょうはイザヤ書54章から、「あなたの天幕を広げよ」という題でお話したいと思います。前回私たちは、このイザヤ書のクライマックスとも言える部分を学びました。それは、神が選ばれたしもべは苦難のしもべであったということです。主は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれたのです。いったいそれは何のためだったのでしょうか?それは、私たちのためでした。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされたのです。そして、その結果、どうなったのか?それが、この54章にあります。それは一言で言えば「回復の約束」です。神に捨てられたようなイスラエルが回復し、大いなる期待と喜びをもって祖国に帰るのです。そして、イスラエルという国をもう一度再建してくださる。いったい神はどのようにしてイスラエルを回復してくださるのでしょうか。

Ⅰ.あなたの天幕の場所を広げよ(1-3)

まず最初に1節から3節までをご覧ください。1節をお読みします。「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもより多いからだ」と主は仰せられる。」

「子を産まない不妊の女」とは、イスラエルのことです。また、「産みの苦しみを知らない女」というのもイエスラエルのことです。彼らはバビロンによって滅ぼされ、子を産まない女のようでした。そんな彼らに対して、主は「喜び歌え」とか、「喜びの声をあげて叫べ」と言われました。なぜでしょうか?なぜなら、夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからです。これはどういうことでしょうか?「夫に捨てられた女」、これもイスラエルのことです。彼らはB.C.586年にバビロンによって滅ぼされ、捕囚の民となりました。それはまさに、夫に捨てられた女のようでした。しかし、後の日にはそうではありません。彼らは夫のある女の子どもよりも多くなるというのです。これまで何の問題もなく子どもを産み続けた普通の女よりも、はるかに多くの子孫を生み出すのです。

それはちょうど旧約聖書に出てくるハンナのようです。彼女は不妊の女で、子どもを産むことができませんでした。夫のエルカナにはペニンナというもうひとりの妻がいて、彼女は子宝に恵まれていてたくさんの子どもがいました。そのことでハンナは辛くて、苦しくて、もうどうしようもないので、もだえながら、主の宮で祈りました。すると主は彼女の祈りに応えてくださり、サムエルという男の子が生まれました。それだけではありません。その後、七人の息子や娘を産んだのです。彼女はこう言っています。「不妊の女が七人の子を産み、多くの子を持つ女が、しおれてしまいます。」(Iサムエル2:5)

これを他の言葉で言うなら、「とてつもない回復」というでしょう。かつてのイスラエルには考えられないほどの祝福がもたらされるのです。それは、今、住んでいるところが手狭(てぜま)になるほどです。そこで主はこう仰せられます。2節と3節ををご一緒に読みましょう。「2あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。3 あなたは右と左にふえ広がり、あなたの子孫は、国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住む所とするからだ。」

イスラエルはバビロンによってすべてを失いましたが、主はもう一度回復してくださいます。彼らは右と左にふえ広がり、彼らの子孫は、国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住む所とするようになるのです。ですから、あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばさなければなりません。綱を長くし、鉄のくいを広げなければならないのです。

今でも、中東にはベドウィンといって遊牧民がいますが、彼らは家族が多くなってテントが手狭になったら、その幕をつなぎ合わせてさらに大きく張り伸ばします。このように、イスラエルは子孫が増えて自分たちが住むところを広げてくださるのです。そして今、その成就の一部を現代のイスラエルに見ることができます。A.D.70年にローマによって滅ぼされ全世界に散り散りに散らされたイスラエルは、神の約束に従ってパレスチナに帰還するようになり、ついにイスラエル共和国という国を樹立しました。それは1948年5月のことでした。その後、イスラエルにはさらに多くの民が帰還し1980年には375万人が、そして昨年2013年には787万人と増え続けています。まさに聖書に約束されてある通りです。彼らは右と左に増え広がり、荒れ果てた町々を人の住む所とするようになります。だから、あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にしなければならないのです。

それはユダヤ人だけに約束されていることではありません。救い主イエス・キリストを信じて救われた者たち、すなわち神の民であるクリスチャンにも言われていることです。やがて神はイエス・キリストを信じて救われる人たちを爆発的に増やしてくださいます。今は子を産まない不妊の女のようであるかもしれませんが、やがて夫のある女の子どもよりも多くしてくださるのです。

MTCの奥山先生のお話によると、今、中国や台湾、シンガポール、マレーシヤなど、アジアの諸国では爆発的にクリスチャンが増えているそうです。特に中国では、急激な経済成長に伴ってモラルが著しく低下し、こうした現状を打開するには宗教の力がないと難しいと、宗教に対して寛大な政策をとっているのです。かつては「キリスト教徒の広がりは共産政権を脅かす」と厳しく取り締まっていたのに今ではそうではないため、国の公認教会に限らず地下教会でも爆発的に増えているのです。また、ロシアでも同じように爆発的に増えています。今では国の約7割がロシア正教徒だといいます。共産主義が崩れて以降、新しい国の立て直しをキリスト教に期待しているのです。これまでは南米やアフリカでクリスチャンが爆発的に増えていましたが、今はこうした国々でも同じようなことが起こっています。いずれ日本も必ずそうなるでしょう。それが神の約束なのですから。

ですから、私たちは天幕の場所を広げ、住まいの幕を惜しみなく張り延ばさなければなりません。綱を長くし、鉄のくいを強固にしなければなりません。そうなってからではなく、必ずそうなるのですから、その前に準備しておかなければならないのです。

ところで、このみことばは18世紀にインド宣教に行き、宣教の父と言われたウイリアム・ケアリを世界宣教に駆り立てたことばでもあります。彼はこの聖句から、次のように言いました。「神に大きなことを期待せよ。神のために大いなることを企画せよ」神が広げてくださるのですから、その神に大いなることを期待するように、と言ったのです。

また、救世軍の父ウイリアム・ブースの母親は、彼がまだ幼い頃からいつもこう言い聞かせて育てました。「世界があなたを待っている」と。あなたはこれからどんどん成長して、神の大きな働きのために用いられていく器になる、と言って育てたのです。彼女は、神の大いなる計画の中でウイリアムを用いてくださるということを確信して、常にそう言い聞かせてチャレンジしてきたんですね。

それは私たちも同じです。私たちも、神に対してもっと大きなことを期待すべきです。もっと大いなることを企てるべきです。神の栄光のために。私たちの栄誉のためではなく、神の栄誉のためにです。どうか、私たちの天幕の場所を広げようではありませんか。その住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にしようではありませんか。そして、神が成し遂げてくださる祝福をしっかりと受け止めていこうではありませんか。

Ⅱ.あなたは恥を見ない(4-6)

次に4節~6節までをご覧ください。4節には、「恐れるな。あなたは恥を見ない。恥じるな。あなたははずかしめを受けないから。あなたは自分が若かったころの恥を忘れ、やもめ時代のそしりを、もう思い出さない。」とあります。

「若かったころの恥」とか、「やもめの時代のそしり」とは、イスラエルがバビロンに捕えられていた時のことを指します。彼らは言葉を失い、文化も失い、自由にイスラエルの神を礼拝することもできませんでした。もちろん、神殿も失いました。それは彼らにとってまさに恥であり、そしりであり、侮辱でした。しかし、もう何も恐れることはありません。彼らはもう恥を見ることがないからです。

5節をご覧ください。「あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主。あなたの贖い主は、イスラエルの聖なる方で、全地の神と呼ばれている。」

ここで神は、ご自分のことを「あなたの夫」と言っています。「あなたの夫はあなたを造った者」であると。つまり、神とイスラエルが夫婦の関係にたとえられているのです。では「あなたの夫」はどのような方でしょうか。あなたの夫はあなたを造られた方です。その名は万軍の主。イスラエルの聖なる方であり、全地の神です。その方がイスラエル夫です。であるなら、いったい何を恐れる必要があるでしょうか。何も恐れる必要はありません。この方が責任をもって彼らを救われるからです。

そして、6節にはこうあります。「主は、あなたを、夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼んだが、若い時の妻をどうして見捨てられようか」とあなたの神は仰せられる。」

神とイスラエルとの関係は、初めから夫婦の関係でした。愛と真実に基づく契約関係にあったのです。にもかかわらず、イスラエルはその夫である神に背いて姦淫の罪を犯してしまいました。偶像を拝んだのです。それで神は彼らを一時的に捨てられたのです。ですから、彼らはここで夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼ばれているのです。バビロンに捕らえられていた時はまさにそのような状態でした。しかし、神はそんなイスラエルをお見捨てにはなりませんでした。「若い時の妻をどうして見捨てられようか」というのです。勝手に裏切って結婚関係を破ったイスラエルを、新婚の時の花嫁のように見ておられるのです。どんなことがあろうとも神の愛は変わりません。私たちは不真実でも、神は常に真実です。私たちと交わされた契約を最後まで忠実に守られるのです。

皆さん、聖書には教会はキリストの花嫁だとあります。花婿であるキリストがご自身の血をもって贖ってくださいました。ですから私たちはキリストという花婿と結ばれたわけです。私は男ですが花嫁です。ちょっと変な感じもしますが、まあそれはどうであれ、結婚のように強く結ばれた関係にあるのです。ということは、花婿であられるキリストは、どんなことがあっても私たちを見捨てるようなことはされません。最後まで守ってくださいます。

ただ、今はまだ正式に結ばれているというよりも、婚約関係にあるといった方がよいかもしれません。というのは、キリストはまだ再臨していないからです。キリストが再び来られるその時、私たちは正式にキリストと結ばれてキリストの花嫁となります。そのようにして、いつまでも主とともにいるようになるのです。それを黙示録では何と言ってるかというと「小羊との婚姻の時」(黙示録19:7)です。まさに結婚する時なのです。ということは、もしかすると婚約解消なんてあるんですか?ありません。なぜなら、そのための保証があるからです。聖霊様です。神様は、私たちがいつか必ずイエス様と結ばれるように、その保証として、ご自身の聖霊を与えてくださいました。ですから、それは必ずそうなるのです。その時私たちはいつまでも主とともにいるようになります。どんなことがあっても見捨てられることはない。これは本当に大きな慰めではないでしょうか。

Ⅲ.永遠に変わらない愛(7-10)

最後に7節から10節までをみて終わりたいと思います。まず7節と8節をご覧ください。「わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める。 怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ」とあなたを贖う主は仰せられる。」

主はほんのしばらく間、イスラエルを見捨てました。70年の間、バビロンに渡されたのです。しかし、それはほんのしばらくのことでした。離縁状を与えて完全に間されたのではありません。それはほんのしばらくのことでした。ですから、見捨てたというよりも一時的に懲らしめを与えられたといった方がいいでしょう。本来なら永遠に捨てられてもおかしくなかったのに、神はそのようにはなさいませんでした。ほんのしばらくの間、彼らを見捨てましたが、その大きなあわれみをもって、彼らを集めてくださったのです。

この「あわれみ」という言葉は、「内蔵」という言葉がもとになったもので、内蔵を揺り動かすほどに心を動かし、深く同情するという意味です。一方的に神を裏切ったイスラエルを、平気で神に背いたイスラエルを、ほんのしばらくの間見捨てることはしても、その大きなあわれみをもって、再び集めてくださるのです。「自分はあんなことをして、こんなこともした。何度も何度も神を悲しませた。こんな者が許されるはずがない。」いいえ、違います。神のあわれみは尽きることがありません。無尽蔵です。無限です。それは計り知れない大きなあわれみなのです。そして、あなたもそのあわれみの対象にあるのです。

8節を見てください。ここには「永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ」とあなたを贖う主は仰せられる。」

皆さん、主は永遠に変わらない愛をもってあわれんでくださいます。結婚式の中では誓約があります。「あなたは今、この男女と結婚し、夫婦になろうとしています。あなたはあなたはその健やかなる時も、病める時も富める時も、貧しき時も、常に助けて変わることなく愛し、敬い、慰め、助けることを誓いますか。」しかし、どれだけの誓いが果たされているでしょうか。しばらく前のことですが、日本では結婚した約四分の一のカップルが離婚していると言われています。二分四十八秒に一組の夫婦です。どちらか一方が契約を破ると、その時点で契約不履行となってしまいます。しかし、神はどんなに私たちが裏切っても、ご自分が結んだ契約を破棄されることはなさいません。最後の最後まで守られるのです。神の愛は永遠に変わることがないのです。私たちが神に従うか従わないかということと全く関係なく、神は一方的に愛してくださるのです。

それは、私たちがしばしば耳にする「もしも」の条件付きの愛ではありません。もしもお金があるなら、もしも健康なら、もしも才能があるなら、もしも自分の言うことを聞いてくれるなら、もしも料理が上手なら・・・といった条件は付いていません。それは「にもかかわらず」の愛なのです。つまり、無条件の愛です。それは、イエス様が十字架で示してくださった愛なのです。

ローマ人への手紙5章6~8節にこうあります。 「 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

キリストは私たちがまだ弱かったときに、いや、神に敵対していた罪人であったにもかかわらず、自ら進んで十字架にかかって死んでくださいました。正しい人のために死ぬ人はほとんどいません。情け深い人のために死ぬ人は、あるいはいるでしょう。しかし、罪人のために死ぬ人がいったいいるでしょうか。いません。しかし、キリストは私たちがまだ罪人であったにもかかわらず、そんな私たちのために死んでくださることによって、神の私たちに対する愛を明らかにされたのです。つまり、愛とは、人のために命を捨てるほどの、きびしさを持つものなのです。しかし果たして、私たちの愛はそれほど真実でしょうか。

作家の三浦綾子さんが、「道ありき」という小説の中で、ご主人の三浦光世さんと二人で道を歩いていて、もし熊が出たら、ご主人をおいて逃げ出すだろう、と言っています。三浦綾子さんは旭川生まれの、旭川育ちでしたから、小さい時から、熊の話をよく聞いて育ちました。ですから、熊にはとても敏感だったようですね。その熊が出たら、旦那さんなんておいて、一目散に逃げていくというのです。この旦那さんはとても誠実な方です。三浦綾子さんが脊椎カリエスという病気で12年間も入院していたときも、療養中の彼女を5年も待って、二つ年上の彼女と結婚してくれた人です。これが、病気が治ったからいいものを、直らなかったらずっと待っていたかもしれないのです。だから、旦那さんには、もちろん感謝の思いをこめて愛しているつもりなのですが、それはあくまで、つもりであって、いざとなれば何をするかわからないというのです。熊に出会っても、「光世さん、わたしが食われてあげるから、あなたは早く逃げてちょうだい」などとは決して言わないだろう。彼を熊の方に押しやり、自分一人、さっさと逃げてくるに違いない、というのです。いざとなれば、そんな残酷さ冷酷さをむき出しにするかもしれないのが、人間なのです。しかし、神の愛は違います。神は、ご自分の最も大切ないのちを捨ててまで愛してくれるのです。これがキリストの十字架の愛なのです。

昭和29年9月に津軽海峡で洞爺丸事件が起こりました。これは青函連絡船洞爺丸が台風15号によって転覆し、死者・行方不明者あわせて1155人に及ぶという、日本海難史上最大の惨事となった事件です。この洞爺丸が、函館の七重浜(ななえはま)に転覆した時、救命具が足りませんでした。この時、この洞爺丸に乗っていた二人の宣教師ディーン・リーパーさんとアルフレッド・ラッセル・ストーンは、自分の救命具を、二人の日本人青年男女に、それぞれゆずったのです。 「今の日本に、若いあなたたちこそ必要なのだ」 と、宣教師は言ったそうです。この二人の宣教師は、異郷の海でその最期を遂げました。この時リーパーさん33歳、ストーンさん52歳でした。リーパーさんは奥様と四人の子供さんを遺して亡くなられたそうです。

嵐の中で、自分の乗っている船が転覆した時、果たして、私たちは自分のつけている救命具を他の人にゆずるという、犠牲的な行為をすることができるでしょうか。みんなが必死の時です。一旦身につけた救命具を、わざわざひもといてやることは、誰も強いはしません。たとえやらなくても、誰も非難などはしません。誰も生きたいのです。他人のことなど思いやる余裕もない時なのです。そんな緊急の時に、この二人の宣教師は、見も知らぬ、行きずりの他国の若者に、自分のいのちを救うべき、救命具をゆずったのです。

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)。

キリストはあなたや私、そして世界中のすべての人々の罪を救うために、十字架にかかり身代わりとなって死んでくださいました。あなたや私がどのような人間であるかいったことと全く関係なく、です。あなたは無条件で愛されているのです。どうかこの尊い救い主を信じて永遠のいのちをご自分のものとしてください。そうすれば、あなたも慰めを受けます。どんなに困難で絶望的な状況にあっても落ち込むことがなく、いつまでも変わることのない希望を喜び歌うことができるのです。

9節と10節をご覧ください。9節です。「このことは、わたしにとっては、ノアの日のようだ。わたしは、ノアの洪水をもう地上に送らないと誓ったが、そのように、あなたを怒らず、あなたを責めないとわたしは誓う。」10たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」とあなたをあわれむ主は仰せられる。」

「このこと」とは、神がイスラエルを二度と怒ったり、責めたりしないという誓いのことです。それはノアの日のようです。神はノアの時代に洪水によってこの地を滅ぼされましたが、もう二度と洪水でさばくことはしないと約束されました(創世記8:21,9:11)。その約束のしるしが虹でした。その虹を見るとき、そのさばきを思い直されたのです。それと同じように、神は十字架をご覧になられる時、彼を信じるすべての人を決してさばかないと約束してくださいました。十字架はその契約のしるしです。あなたが、あなたの罪の身代わりに十字架につけられて死なれたイエスを仰ぎ見るなら、あなたがイエスを自分の救い主として信じるなら、神の怒りがあなたに臨むことは決してないのです。キリストがそのさばきのすべてを一身に受けてくだったのですから・・・。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(ヨハネ3:16~18)

最後に10節のことばをご一緒に読みたいと思います。「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」とあなたをあわれむ主は仰せられる。」

これはすばらしい約束ですね。たとい山々が移り、丘が動いても、神の変わらぬ愛はあなたから移らず、神の平和の契約は動くことはありません。この愛は「ヘセド」というヘブル語ですが、ギリシャ語では「アガペー」と言います。これは神が、ご自分の民に特別に与えてくださった慈しみのことです。私たちには、この愛が与えられているのです。であれば、いったい何を悩む必要があるでしょうか。

皆さんの中に健康のことで悩んでおられる方がおられますか。あるいは仕事のことや学校のこと、さまざまな人間関係で苦しんでおられますか。。「私なんかもうだめだ。神は私をお捨てになられたのではないか」という思いにさいなまれている方がおられるでしょうか。でも安心してください。あなたがイエス・キリストを救い主として信じた瞬間から、あなたは神の永遠に変わらないこの愛の契約の中に入れらました。その約束はどんなことがあっても破られることはないのです。たとえ山々が動いても、たとい丘が移るようなことがあっても、キリスト・イエスにある神の愛は、絶対にあなたから移ることはありません。ですから、たとえ目の前に本当にあり得ないと思うようなことが起こっても、あるいは、「私が会っている苦しみなどだれにも分からないだろう」と思うようなことがあっても、また、神を忘れてしまうようほどの苦しみにあったとしても、それでも神の愛はあなたから動かないということを、どうぞ忘れないでください。この神の愛が、あなたを回復してくださるのです。

イザヤ書53章7~12節 「成し遂げられた救いのみわざ」

 きょうはイザヤ書53章後半の箇所から、「成し遂げられた救いのみわざ」というタイトルでお話します。この箇所は52章13節から始まる第四のしもべの歌の最後の部分です。52章13~15節までのところには、主のしもべの受けた苦しみ、受難について語られました。そして、この53章前半のところでは、その受難の意味が語られます。それは、私たちのそむきの罪のため、私たちの咎のためであったということです。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされたのです。そして、この53章後半にはその結果が語られます。つまり、主のしもべは、その激しい苦しみのあとを見て、満足するということです。主のみこころは彼によって成し遂げられました。救いのみわざは、十字架と復活によって成し遂げられたのです。

 Ⅰ.取り去られたしもべ(7-9)

 それではまず、7節から9節までをご覧ください。7節には、「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」とあります。

 彼とは、もちろんイエス・キリストのことです。キリストは痛めつけられました。キリストは苦しめられましたが、口を開きませんでした。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、口を開きませんでした。なぜなら、もしイエス様が口を開いたら、一瞬にして全世界の人々が滅ぼされてしまうからです。イエス様にも言いたいことがあったでしょう。でも、彼は口を開きませんでした。Ⅰペテロ2章22~24節にはを開いてみましょう。ここには、こうあります。

「22キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。24そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」

 キリストは、ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして、十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷によって、私たちは、いやされたのです。キリストがそのように口を開かなかったのは、私たちのためだったのです。

 逆に、罪人はやたらと口を開きます。言わなくてもいいような言い訳じみたことを言うのです。「あのときは仕方がなかったんです。」「悪いのは私じゃありません。あの人です。あの人が悪いのです。」「あの人のせいでこうなったんです。」しかし、イエス様は黙っていました。口を開きませんでした。どんなに不利な証言をされても、正しくさばかれる方にお任せにならたのです。ユダヤの総督ピラトの前に立たされた時も、「あなたはユダヤ人の王ですか」と尋ねられた時、ただ「そのとおりです。」と答えただけで、あとは何もお答えになりませんでした(マタイ27:11~14)。それが神のみこころであるとを知っていたからです。どんなに言いたかったことでしょう。でも、そんなことをしたら全人類を救うという神のみこころが成し遂げられないので、じっと黙っておられたのです。

 8節をご覧ください。ここには、「しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。」とあります。

 「取り去られた」とは「断たれた」ということです。新共同訳聖書では、「命を取られた」と訳しています。また創造主訳聖書では、「殺された」と訳されています。彼は捕らえられ、さばきを受けて、殺されました。およそ33歳ぐらいの時に、まさに人生これからという時でした。そういう時に殺されました。なぜでしょうか?ここに「彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ」とあるように、それは私たちの罪のためでした。彼の時代の者で、いったいだれがそんなことを思うことができたでしょう。誰もできませんでした。

 ところで、この7節と8節のみことばは、使徒の働き8章32節に引用されています。ちょっと開いてみましょう。これは、エチオピアの王室に仕えていた高官が礼拝のためにエルサレムに上り、その帰る途中に、馬車に乗ってこの箇所を読んでいて、これはいったいどういう意味だろうと思い巡らしていた時に、伝道者ピリポが彼のところへ遣わされた時の事です。ピリポが馬車に近寄り、「今、あなたが読んでいることが、わかりますか」と言うと、「いいえ、わかりません。教えてくれる人がいなければどうしてわかるでしょうか。」と言うので、「これは、あのナザレのイエス様の預言だったんです。」と言って教えてあげたのです。するとエチオピアの高官は、イエス様が自分のために十字架にかかって死んでくださったということがわかり、心がうれしくなりました。そしてイエスさまを信じて、バプテスマを受けたのです。

 皆さん、水のあるところならどこでもバプテスマを受けられます。もし、あなたがイエスさまを信じるなら、あなたもバプテスマを受けることができます。イエスさまがあなたの罪のすべてを負って十字架で死んでくださったということがわかると、あなたは、うれしくてうれしくてしょうがなくなるでしょう。彼らが水から上がると、主の霊がピリポを連れ去られたので見えなくなりましたが、彼は喜びながら帰って行くことができました。イエス様を信じる人にはこのような喜びがあるのです。

 9節をご覧ください。ここには、「彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。」とあります。

 「彼の墓は悪者どもとともに設けられ」とは、十字架につけられた他の二人の囚人とともに死なれたことを指しています。また、「富む者とともに葬られた」とは、金持ちの墓に葬られたということです。イエス様のからだはアリマタヤのヨセフという議員の墓に葬られました。マタイ27章57節によると、彼は金持ちであったとあります。まさにイエス様は私たちのそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれた主のしもべ、メシヤ、救い主であられたのです。そのメシヤがあなたのために十字架で死んでくださいました。そのことがわかり、このイエスを主と信じて受け入れるなら、あなたにもこの喜びがもたらされるのです。

 Ⅱ.主のみこころが成し遂げられるために(10~11a)

次に10節から11節前半のところまでを見たいと思います。10節をご覧ください。「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」

 ここに、ものすごい真理があります。それは、そのようにしもべを砕いて、痛めることが主のみこころであったということです。なぜこれが主のみこころであったと言えるのでしょうか?なぜなら、もし彼が自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末永く、子孫を見ることができるようになるからです。どういうことでしょうか?多くの場合、苦労して働いても死んでしまえばそれまでです。しかし、主のしもべは苦難のわざの成果を見るようになります。11節にあるように、彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足するのです。十字架の贖いによってもたらされた多くの実を見て、満足する。

 ヘブル12章2節にはこうあります。「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の前に着座されました。」この「ご自分の前に置かれた喜び」というのがこれです。つまり、イエス様が十字架にかかることで、その贖いを信じた人々にもたらされる永遠のいのちを、末長く見るようになるということです。これがしもべにとっての喜びでした。その喜びのゆえに、イエス様ははずかしめをものともせずに十字架を忍ばれたのです。

 それは、母親の陣痛のようなものです。母親は出産の激しい痛みや苦しみがあっても我慢することができるのは、この喜びがあるからです。そこから新しいいのちが生まれる。この新しいいのちを見て満足するのです。この痛みは骨折り損ではなかった。この苦しみはくたびれもうけなどではなかった。かわいい赤ちゃんが生まれてくるのです。そんなに苦しい思いをしてまで子どもを産むのは、それ以上の価値が生まれるからなのです。それが得られるとき、それまで経験したすべての苦しみ、すべての痛み、すべての辛さが忘れ去られます。新しいいのちには、それだけの喜びがあるのです。その激しい苦しみのあとを見て、満足します。あなたが救われたなら、イエス様はどれほど喜ばれることでしょう。どんなに激しく苦しんでも、あなたが救われるのを見たら、イエス様はそれで満足されるのです。

 しかし、それはそんなに易しいことではありません。イエス様にとっても、それは苦しいことだったので、あのゲッセマネの園で夜を徹していのられました。

「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)

 イエス様は、この杯をわたしから取りのけてください、と祈られました。なぜなら、それは父なる神と断絶することを意味していたからです。人々の罪のためとはいえ神に打たれ、神との関係が断たれることは、イエス様にとって最も恐ろしいことでした。なぜなら、三位一体の神は、永遠の昔から一瞬たりとも離れたことがなかったからです。その神から離れ、神との関係を失うことが、イエス様にとって最も恐ろしいことだったのです。

 それは私たちにとっても同じです。あなたにとって一番恐ろしいことは何ですか?お金を失うことですか。健康を失うことですか。あるいは家族を失うことでしょうか。ペットを失うことですか。いいえ、神との関係を失うこと、それが私たちにとって最も恐ろしいことです。なぜなら、それは地獄を意味することだからです。しかし、イエス様を信じるなら神はあなたの罪を赦してくださり、いつまでもあなたとともにいてくださいます。これが永遠のいのちです。これがあるなら、私たちは何も恐れることはありません。神がともにいること、神の臨在こそ、私たちにとって最も大きな喜びであり、祝福なのです。

 その神との関係が断たれることは、イエスさまにとって本当に苦しいことでした。ですからイエス様は、その杯を取りのけてほしいと何度も祈られました。汗が血のしずくのように落ちるほど、苦しみ、もだえられました。しかし、最後にはその杯を飲み干されました。なぜなら、それが主のみこころだったからです。そして彼は末長く、子孫を見ることができる。それは喜びではないでしょうか。その喜びのゆえに、イエスははずかしめをもろともせず、十字架を忍ことができたのです。あなたはどうですか。その喜びのゆえに、喜んで目の前の十字架を負っているでしょうか。イエスはこのように言われました。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(ヨハネ12:24)

 死ねば、実を結ぶのです。やがてあなたも末長く、子孫を見ることができます。その時には、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足するようになるでしょう。問題はあなたがどこを見ているか、何を見ているかです。目の前に置かれた苦しみを見るのではなく、その先にある栄光を見ましょう。そうすれば、主のみこころはあなたによっても成し遂げられるのです。

 Ⅲ.とりなしておられるしもべ(11b~12)

 最後に11節後半から12節を見て終わりたいと思います。「わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。12それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」

 「わたしの正しいしもべ」とは、もちろんイエス様のことです。イエス様は、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎をにないました。「その知識」とは、イエス様を知る多識のことです。このイエス様が私たちの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれたという知識のことです。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされます。いったいこんなことをだれが想像することができたでしょうか。ただ神だけが、永遠の昔から定めておられた救いの計画でした。その知識によって多くの人を義としてくださるのです。

 それゆえ、神は、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとります。この「多くの人々」とか、「強者たち」とはだれのことを指しているのかというと、その知識によって義とされた人たち、すなわち、クリスチャンのことです。戦争に勝てば勝者が戦利品として奪い取るように、主のしもべは十字架と復活によってこの世界の暗やみを支配しているサタン、悪霊に勝利したので、そこに囚われていた人たちをその支配から解放してくださったのです。
ですから、ここには復活の預言も語られているのです。700年も前の預言者が、十字架と復活のことをこのように預言していたのです。すごいですね。いったいだれがこんなことを考えることができるでしょう。ただ神だけが告げることができることです。

 そればかりではありません。このしもべはそむいた人たちのためにとりなしをすね、とあります。あなたを贖い、あなたをご自分の所有としてそのまま放り投げておくのではなく、今も生きて、とりなしておられるのです。いつもあなたのために祈っていてくださるのです。

 ローマ8章34節には、こうあります。「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしてくださるのです。」

 また、ヘブル7章25節にも、こうあります。「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」
 
 イエス様は十字架で死んだだけではありません。死からよみがえられました。よみがえられて天に上り、神の右の座に着座されました。あなたのためにとりなしてくださるためです。彼は今も生きていて、あなたのために祈っておられます。その信仰が無くならないように、様々な困難にも勝利できるように・・と。その主の御手にすべてをゆだねて歩めることは、何と心強いことでしょうか。私たちは今、この地上にあって多くの戦いがあり、時に心が折れてしまいそうになることがありますが、こんな私たちのためにキリストは十字架にかかってくださり、三日目によみがえってくださいました。そして、今も私たちのために祈っていてくださることを覚えるとき、本当に心に励ましが与えられるのではないでしょうか。

ノアという音楽グループの曲に、「聞こえてくる」という賛美があります。
 「あきらめない。いつまでも  イエス様の励まし 聞こえてくる
 試練の中でも 喜びがある  苦しみの中でも 光がある
  ああ主の御手の中で 砕かれてゆく  ああ、主の愛につつまれ 輝く」

 私たちはイエスさまの励ましがあるからこそ、とえ試練の中でも、たとえ苦しみの中で、あきらめずに進むことができるのです。

 私が福島で牧会していたときに救われた姉妹が結婚して、今東京で牧師婦人として仕えておられますが、彼女は二番目の子どもさんが1,260グラムの未熟児で生まれ、言語中枢に問題があってずっと話すことができませんでした。いったいなぜこんなことになってしまったのかと思い巡らしていたとき、一つのみことばが与えられました。それは、ヨハネの福音書9章3節の「神のわざがこの人に現れるためです。」というみことばでした。それは彼女にとって大きな慰めでした。自分が何か悪い事をしたからこうなったのかと落ち込んでいたのに、そうではなくそれは神の栄光が現されるためだったと知ったとき、彼女は神の栄光が現されるようにと祈りました。
 すると、昨年の夏休みが明けて幼稚園に行くと、急にその子がしゃべり始まったのです。もう幼稚園は大騒ぎです。「ヨシュア君がしゃべってる!」と。園長先生は涙を流して喜んでくれました。そして、療育センターで見てもらったら、ことばの教室のない小学校に行っても大丈夫です!と診断されました。

 ハレルヤ!本当に主はいつくしみ深く、憐れみ深い方です。主は、私たちのために死んでくださっただけでなく、三日目によみがえられました。そして、今生きて天でとりなしをしておられるのです。そのような力強い御手の中で生きられるということは何と幸いなことでしょうか。

 しかし、ここには「多くの人のため」とはありますが、「あらゆる人のため」とはありません。どんなに主がすべての人の咎を負って死なれ、そこから復活して、救いのみわざを成し遂げても、その贖いを信じなければ全く意味がないのです。この主のしもべの受難は私のためだったということを受け入れ、この方を信じるとき、初めて「多くの人のため」の中に私たちも入れていただくことができ、神の偉大なみわざにあずかることができるのです。どうか主のしもべイエスを通してなされた救いのみわざ、十字架の贖いを、あなたも信じて受け入れてください。あなたもこの救いの恵みの豊かさを受けることができ