イザヤ24:14-23 レジュメ

「残りの者の歌」                           N033

Ⅰ.残りの者の歌(14-16a) 

イザヤは、この24章の前半部分で地がひっくり返るということを語った。それは、この地に住む人たちが神との契約を破ったからである。それで神は地を荒れすたらせ、その面をひっくり返し、その住人を散らされると言われた。しかし、そのような中にもわずかながら救われる人たちもいる。「残りの者」である。これはイザヤ書における重要なテーマの一つでもある。この残りの者が、声を張り上げて主をほめたたえる姿がここに描かれている。大患難時代には、それまで陽気にしていた人たちの心がしおれ、悲しむようになるが、それとは対照的にその患難を通って救われた人たちは喜び歌うようになるのである。

黙示録7章9節から17節にも、この残りの者たちの賛美が記されてある。彼らは御座と小羊との前に立ち、大声で叫んで言う。「救いは、御座にある私たちの神と、小羊にある。」彼らは御座の前にひれ伏し、神を拝して次のように言うのである。「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。」(黙示録7:12)

ベートーベンが「第九交響曲」を作曲した時、彼の耳は聞こえにくくなっていた。彼はそのような絶望の淵にあって、神の助けを求めて祈り、この曲を作った。それは彼が苦しみの中でその腕を天に差し出し、天での歓喜に溢れていたからだ。

やがて私たちもこの主を賛美する時がやってくる。それこそ私たちの希望である。今は辛いこと、苦しいこと、悲しいことがたくさんあるが、その中にあっても私たちが神を賛美することができるのは、私たちにはそのような希望があることを知っているからなのである。

 Ⅱ.止まらない神のさばき(16b-20)

残りの者たちの輝かしい賛美があったかと思ったら一転、イザヤは「私はだめだ。なんと私は不幸なことか。裏切る者には裏切り、裏切り者は、裏切り、裏切った。」と嘆いている。いったいなぜか?確かに患難時代にも救われる人がいる。しかし、手放しでは喜べない。なぜなら、そこに永遠の滅びに行く大勢の人たちがいるからだ。一部の人たちが救われることはすばらしいことだが、あまりにも多くの人たちが苦しみ、滅んでいくことに、イザヤは愕然としたのだ。彼らは神のさばきからどんなに逃げようとしても逃げることができず、隠れようとしても隠れることができない。天の窓が開かれ、地の基が震えるからだ。天の窓が開くとは、天から巨大な雹が降ってくるということである。それは1タラント(約35㎏)の雹で、家や畑など目に見えるあらゆるものを破壊し尽くす。また地が震えるとは、専門用語で「ポール・シフト」のことである。世の終わりにはかつてなかったほどの大きな地震が起こる。それによって地軸が動き、気候変動や地殻変動などが起こる。その結果、地は酔っぱらいのように、ふらふら、ふらついてしまうのである。そのそむきの罪が地の上に重くのしかかるからだ。

イザヤは、それを見て嘆いた。わずかな者が救われて神を賛美するようになることはすばらしいことだが、一方で、神のさばきによって滅んでいく人たちもいる。私たちはそういう人たちが救われるように祈らなければならない。救いの箱舟の中に入れられ、やがて神を賛美する人たちの中に加えられるように、このさばきのメッセージを語っていかなければならない。

Ⅲ.王座に着かれる主(21-23) 

このところでイザヤは、世の終わりのことを次のように預言した。「その日、主は天では天の大軍を、地では地上の王たちを罰せられる。彼らは囚人が地下牢に集められるように集められ、牢獄に閉じこめられ、それから何年かたって後、罰せられる。」(21-22)いったいこれはどういうことか。これは患難時代の最後に行われる人類最終戦争(ハルマゲドンの戦い)と、その後に現れる地上の千年王国、そして、その後の白い御座のさばきと新しい天と新しい地という、世の終わりの出来事がパノラマのように描かれている。イザヤ書24章が「イザヤの黙示録」と呼ばれているゆえんはここにある。しかし、このところで言いたかったことは何かというと、最終的に主が勝利されるということである。主が御座に着座される。なぜ主を賛美するのか。それは、主が究極的な勝利を与えてくださるからである。この方こそ私たちの希望である。私たちが主を賛美するのは、主が最終的に勝利してくださると信じているからなのだ。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたには、この残りの者たちのような賛美がありますか。あなたは自分の罪を悲しみ、心砕かれ、義に飢え渇いていますか。神との正しい関係を求めていますか。

・あなたはイエス様を信じないで滅んでいく人たちを見てどのように思っていますか。あなたは、その人たちの救いのために何ができますか。

・あなたが今見ているものは何ですか。目の前の問題ですか。それとも世の終わりにもたらされる究極的な勝利ですか。最終的に主が勝利してくださることを信じて心から主に賛美しましょう。

イザヤ24:1-13 レジュメ

「地をさばかれる神」                         N032

Ⅰ.ひっくり返る世(1-4) 

イザヤ書は、ここから新しい段落に入る。これまでイスラエルを取り囲む周辺諸国に対する神のさばきのことばが語られてきたが、ここからは全世界に向けて語られていく。そしてここには「見よ。主は地を荒れすたらせ、その面をくつがえして、その住民を散らされる。」(1節)とある。主はさばきによってこの世をひっくり返すというのだ。このことは、主イエスも弟子たちに語られたことである。主は、「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。」(マタイ24:21)と言われた。また黙示録6章12節にも、大きな地震が起こることが書いてある。そのときは、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになり、すべての山や島がその場所から移されるとある。世の終わりにはかつて経験したことがないような大地震が起こり、この世がひっくり返るような地殻変動が起こる。その結果、「地は嘆き悲しみ、衰える。世界はしおれ、衰える。天も地とともにしおれる。」(4節)とあるように、全世界がしおれてしまうことになる。

 Ⅱ.契約を破った人間(5-6)

いったいどこに原因があるのか。それは、人間が律法を犯し、定めを変え、とこしえの契約を破ったからである。(5節)「とこしえの契約」とは、あのノアとの契約にシナイ山で結ばれた契約を合わせたものである。その神との契約を人間が破ったので、のろいは地を食い尽くすようになったのだ。そののろいとは、地の住民は減り、わずかな者だけが残されるというものであった。「減る」とは「焼かれる」という意味である。世の終わりになると、神の火によるさばきが起こる。天の万象は焼けて崩れ落ちる。そのようにして地上の人口が減るのである。神を信じていない人は、「そんなこと起こるはずがない」とか、「世界は昔のままで、何も変わっていない」とあざけるかもしれない。しかし、そのような人が見落としていることがある。それは、世界が何も変わっていないのは神が忍耐しておられるからであるということだ。神はひとりも滅びることを望まず、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられる。だから、この火のさばきに会わないように、悔い改めて、神に立ち返らなければならない。

Ⅲ.喜びが消える(7-13) 

神がこの地をさばかれた結果、どうなってしまうのか。「都はこわされて荒地のようになり、すべての家は閉ざされて入れない。ちまたには、ぶどう酒はなく、悲しみの叫び。すべての喜びは薄れ、地の楽しみは取り去られる。」(10-11)喜びが消えて無くなるのである。大患難は何もかも変えてしまう。これまで大事にしてきた財産を奪い、これまで大切にしてきた家族も失ってしまう。そのような中で人々の喜びは取り去られ、悲しみが地を覆うようになるのだ。

だから、今が恵みの時、今が救いの日なのである。もしあなたが主イエスを信じるなら救われる。イエスが再び来られるそのとき、朽ちないからだ、永遠のからだ、完全なからだによみがえらされて、いつまでも主とともにいるようになるのである。この神のさばきに会わなくて済むのだ。確かにこの患難時代にもわずかながら救われる人もいる。でもそのような人はこの患難の中を通らなければならない。主イエスが再臨される前に信じた者だけが天に引き上げられるのである。これこそ本当の希望ではないか。そういう人にとってやがて来る神の審判は不安と恐れの時ではなく、喜びと希望、栄光に輝く時である。それは、今を生きる私たちにとっての希望と力にもなるのだ。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたの心はしおれていませんか。もししおれているようならどこに原因があるのかを思い出し、逆に世界をひっくり返すほどの聖霊の力をいただきましょう。

・いま主が再臨されてもあなたは大丈夫ですか。天に引き上げられるという確信がありますか。確かに今が恵みの時、今が救いの日です。この恵みの時にイエスを救い主として信じてください。

イザヤ23:1-18 レジュメ

「征服される神」                           N031

Ⅰ.経済大国ツロ(1-5) 

13章から始まったイスラエルを取り囲む周辺諸国に対する神のさばきの宣告の最後である。最後に語られたのは、フェニキヤ地方の主要都市であったツロである。ツロはバビロンやアッシリヤのような広大な土地を有していなかったが、地中海を舞台に世界中の国々との貿易をして栄え、巨万の富を築いていた。経済大国であった。そのツロに対する宣告である。4節には、「私は産みの苦しみをせず、子を産まず、若い男を育てず、若い女を養ったことがない。」とある。これはシドンに対して言われていることだが、ツロに対して言われていると考えてよい。ツロとシドンは同じフェニキヤの都市だから。彼らは何の苦労もせずに、ちょっと数字を動かすだけで、莫大の富を得ていた。それゆえに、彼らは神なんていなくても十分やっていけると高ぶってしまった。そのような国はやがて必ず滅びてしまうことになる。

日本もかつては国内総生産が世界第一位となった経済大国である。小さな島国で、何の資源も持たないこの国が、世界一のお金持ちになった。得意の技術力によって世界に進出し、それで得たお金で世界中の企業を買収した。それで日本はエコノミック・アニマルと称されたほどだ。その日本は、このツロ同様に高ぶったので、その結果、衰退の一途を辿ることになってしまった。私たちに求められていることは、へりくだって神を求めることである。

 Ⅱ.高ぶったツロ(6-14)

ここには、そんなツロの高ぶった姿が描かれている。かつて彼らは「海の女王」と呼ばれたほど尊ばれていた。彼らの商売は世界一と称賛されていた。その彼らの麗しい誇りは汚れ、卑しめられた。万軍の主がそれを計られたからである。12節には「もう二度とこおどりして喜ぶな。」とある。彼らはどこへ行っても喜びと平安を得ることができず、やがてアッシリヤによって廃墟と化してしまう。

エゼキエル書28章を見ると、このツロがいかに輝いていたかがわかる。彼らは美の極み、全き者の典型であった。その彼らが滅びの穴に投げ入れられたのは、彼らが高ぶったからだ。「私は神だ」と心の中で言った。しかし、彼らは人であって、神ではない。このツロの姿は、悪しき者、堕落した天使、悪魔の姿である。悪魔とは、天使の長であったルシファーが堕落したものである。ルシファーが堕落したのはなぜか。彼は自分の美しさのゆえに高ぶり、自分が神だと思い込んだからであった。神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。バビロンの王ネブカデネザルは、自分が頂点に立っていると思った瞬間に獣のようにされた。あなたがどれほど美しくても、どれだけ知恵があっても、どれだけ肉体的に力があっても、あなたは人なのであって、神ではない。そのことをわきまえ主の御前にへりくだらなければならない。

Ⅲ.征服されたツロ(15-18) 

そのようなツロは70年間忘れられる。しかし、その70年がたつと、主はツロを顧みられるので、再び遊女の報酬を得、地のすべての王国と地上で淫行を行う。これは、ツロが再び繁栄して国々と商売を再開するということである。商売を淫行にたとえてあるのは、商売自体が悪いということではなく、その利益のためには何でもするといった否定的な側面が表現されているからだ。

しかし、最後はどうなるか。ここには、「その儲け、遊女の報酬は、主にささげられる。」とある。その儲けは、主の前に住む者たちが、飽きるほど食べ、上等の着物を着るために用いられるようになる。つまり、その儲けが、何と主の栄光のために用いられていく。言い換えるなら、それらのものも主の栄光のためにのみ込まれていくということである。それぞれの国は、自分たちが諸国を滅ぼして征服していたと思い込んでいただろうが、実際には、主がそうした国々をのみ込んでいたのである。

これが福音である。福音にはそれほどの力がある。今はどこか肩身の狭い思いをしているようなところがあるが、その日になると、クリスチャンは圧倒的な勝利者となる。この世の中がどんなに暗くても、敵である悪魔がどんなに攻撃してきても、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべての中にあっても圧倒的な勝利者となるのである。私たちにはこの勝利が約束されている。だから、この恵みの中に入れていただいた者として、この恵みの中を歩む者でありたい。そして、この恵みの中にひとりでも多くの人が加えられるように祈りつつ、労していく者でありたい。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたの中に何かすぐれていると思えるものがありますか。それによって自分は神のように偉大な者だという思いはありませんか。どのようにへりくだっていますか。

・あなたは人生の中で敗北感を味わっていませんか。あなたの味わっている敗北感は何ですか。歴史における神の勝利のシナリオを見て、あなたは将来にどのような希望を告白すべきですか。

イザヤ22:15-25 レジュメ

「神のしもべとして」                        N030

Ⅰ.自分を高くする者は低くされる(15-19) 

前回に引き続き、エルサレムに対する警告である。ここに二人の人物が登場する。一人はシェブナであり、もう一つはエルヤキムである。まずシェブナに対して主は次のように仰せられた。「あなたは自分のために、ここに墓を掘ったが、ここはあなたに何のかかわりがあるのか。」(16)彼は自分の栄誉を残そうとした。この時ユダはアッシリヤに四方八方囲まれ危機的な状況にあったが、それでも彼は自分のためにゴージャスな墓を建てようとしていたのだ。それゆえに主は、シェブナをわしづかみにし、遠くに投げやると言われた。「だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を高くする者は高くされる。」(マタイ23:12)のである。

 Ⅱ.忠実な神のしもべ(20-23)

一方、エルヤキムはそうではなかった。エルヤキムに対して主は、シェブナに与えられていた権威と高い地位をゆだねると言われた。いったいどうしてだろうか。それはここに「わたしのしもべ」とあるように、神のしもべとして自分に与えられた立場を忠実に貫いたからである。エルヤキムは政府の要職にありながらも、神の御前にへりくだっていたのだ。

主イエスは「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなしもべになりなさい。」(マルコ10:44)と言われた。これが神の国の原則である。主イエスが来られたのも仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、多くの人たちのための贖いの代価として、自分のいのちを与えるためだった。

シェブナは自分の立場を利用して自らに栄光を帰そうとしたが、エルヤキムは逆に神のしもべとして、自分に与えられた役割を忠実に担った。だから彼は高くされ、用いられたのである。

ところで22節には、エルヤキムに与えられた栄誉がどれほどすばらしいものであったかがわかる。「わたしはまた、ダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。」これは、彼に最終的な決定権がゆだねられるということだ。黙示録3章7節をみると、これが主イエス・キリストがご自分を紹介する時に用いたことばであることがわかる。そう、エルヤキムはイエス・キリストのひな型(象徴)として描かれていたのだ。主はフィラデルフィヤの教会の前に、だれも閉じることのできない門を開いておくと言われた。これは御国の門のことである。それは彼らがたとえ少数であっても、主のことばを守り、主の名を否まなかったからである。教会の真価は外観や人数ではない。そこに主のみことばに従うという真実な信仰があるかどうかだ。主のみことばに忠実であること、それが信仰生活の基本であり、天の御国に通じる門である。

Ⅲ.神のみに信頼する(24-24) 

しかし、そんなエルヤキムであっても、彼の上にあらゆるものがかけられると、その釘は抜き取られ、折られて落ち、その上にかかっていたすべての荷が壊れてしまう。それは彼が神ではなく人であるからだ。けれども、私たちの主イエス・キリストはそのようではない。これはキリストの十字架を予見して語られていることだが、そこに一つだけ違いがある。それはエルヤキムの釘が壁にかけられていたことだ。それがどんなに確かな釘であっても壁にかけられたものである以上折れてしまうのは明白である。しかし、私たちの主イエスは十字架にかけられて死なれたが三日目によみがえられた。この方が死に繋がれていることなどあり得ないからだ。この方こそ死に打ち勝たれた勝利者である。この方に信頼するなら決して失望させられることはない。神のみが完全な方であり、その地位を確かにしてくださる。それが神のしもべの姿なのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたの中に自分の名を残したいという思いはありませんか。あるいは神よりも自分のことを求めてしまうといった思いはありませんか。

・あなたは自分に与えられた務めを、仕える者の心で謙遜に、誠実に行っていますか。主があなたの奉仕をご覧になられるとき、何と仰せになられますか。

イザヤ22:1-14 レジュメ

「必要なのは神」                           N029

Ⅰ.騒がしい町エルサレム(1-4) 

「幻の谷」に対する宣告である。「幻の谷」とはエルサレムのことである。彼らは屋根に上ってドンチャン騒ぎをしていた。状況は決してそのようなものではなかった。アッシリヤが攻めてくるなか、国が滅ぼされる危機にあった。彼らは自分たちの罪を悔い改めなければならなかったのに、全く逆の軽率な行動を取っていたのだ。それゆえに彼らは仲間同士で争い、結局、バビロンに捕らえ移されることになってしまった。それは彼らが神のことを考えずに、自分のことしか考えていなかったからである。彼らは本来、神の民として主の幻を受け止め、主の御前にひれ伏さなければならなかったのに、世の楽しみに心が奪われていた。たとえ神に選ばれた民であってもこの世の人のように生きるなら、そのような人には神のさばきが下る。「神にはえこひいきなどないからです。」(ローマ2:11)ユダヤ人であっても、ギリシャ人であっても、患難と苦悩とは悪を行うすべての人の上にあり、栄光と誉れと平和は、善を行うすべての人の上にある。

 Ⅱ.必要なのは神(5-11)

アッシリヤがやって来てエルサレムを包囲したとき、ユダはどのように対応したか。「こうしてユダのおおいは除かれ、その日、おまえは森の宮殿の武器に目を向けた。」(8節)彼らは主ではなく武器に目を向けた。そればかりできない。「おまえたちは、ダビデの町の破れの多いのを見て、下の池の水を集めた。」(9節)ユダの王ヒゼキヤは、アッシリヤが攻めて来たとき水源を断たれたら終わりだと、水路を作って水を確保した。「また、エルサレムの家を数え、その家をこわして城壁を補強し」(10節)とあるように、城壁を強固にした。確かに、敵の攻撃に備えあらゆる防御策を講じることは大切なことだが、彼らは最も大切なことをしなかった。それは、主に目を留めることである。彼らは武器や水や城壁を造られた方に目を留めず、昔からこれを計画された方に目を向けなかった。彼らにとって必要だったのはこの方に目を留め、へりくだって祈ることだったのだ。彼らは神に頼ったのではなく、あくまでも自分たちの知恵や方法、力に頼ったのである。

Ⅲ.神の呼びかけ(12-14) 

それゆえに、主は「泣け。悲しめ。頭を丸めて、荒布をまとえ」と言われる。主は彼らが悔い改め、神に立ち返るようにと呼びかけられる。なのに彼らは全く逆の態度を取った。「どうせ、あすは死ぬのだから」と、開き直って、「飲めよ、食らえよ」と最後まで自分たちの快楽を求めた。

これが神を信じない人たちの姿である。そういう人たちにとっては、この世がすべてだ。この世に生きている間に楽しめるものを楽しまなければならないと考えるのだ。けれども、クリスチャンには復活の希望、永遠のいのちの希望がある。この世だけでは終わらない。死んでも生きる。そう信じている。そしてそのような信仰は、私たちの日々の生活を決定づける。たとえこの世にあって毎日が死の連続であっても、いつかキリストにあってよみがえり、天の御国で大いなる報いをいただくことができるという希望があるのだ。人は死んだら灰になり、何も残らないのではない。そこに確かな希望がある。だからこそ私たちは、その希望につながる生き方を、今この世にあってするのだ。その生き方こそ、目には見えなくとも今も生きて私たちを守り、導いておられる神に目を留め、神のみこころにかなった歩みをすることなのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたは、神のみことばを聞いてそれが主のみこころと受け止め、へりくだって従っているでしょうか。それとも自分の思いを最優先にしてはいないでしょうか。

・あなたの生活に困難なことが起こるとき、あなたはそれをどのように解決しようとしていますか。自分の力で解決を図ってはいませんか。神の前にへりくだり、「神様助けてください」と祈り求めましょう。

・あなたの中には「飲めよ。食らえよ。どうせ、あすは死ぬのだから」といった思いはありませんか。あなたは永遠のいのちの希望を日々の生活の中でどのように告白していますか。

イザヤ21:1-17 レジュメ

「朝が来ない夜はない」                        N028

Ⅰ.神にはえこひいきがない(1-10) 

「海の荒野」とはバビロンのことである。バビロンに対するさばきについて既に13章と14章で語られたが、ここで再び語られている。難攻不落と言われたバビロンが、メディヤとペルシャの連合軍によって一夜にして滅んだ。それは見るにたえない、聞くにたえないものであった。神に敵対する者は、やがて必ず滅ぼされることになる。

ところでここには、イスラエルに対して「踏みにじられた私の民、内ち場の私の子らよ。私はイスラエルの神、万軍の主から聞いた事を、あなたがたに告げたのだ。」(10節)とある。このことはバビロンやイスラエルの周辺諸国に対してだけ言われていることではない。神の民であるイスラエル自身も聞かなければならないことなのである。自分たちは神に選ばれた聖なる民だから大丈夫だ。自分たちには関係がないと思ってはならない。彼らは周辺諸国と何ら変わらない者だということを自覚し、注意して神のメッセージを聞かなければならないのだ。

ローマ2章11節には、「神にはえこひいきなどはないからです。」とある。神の民だから何をしてもいいということではない。たとえ神の民であっても真理に従わないで不義に従うなら、その人には神の怒りと憤りが下る。また逆に、ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、善を行うすべての人の上に栄光と誉れと平和があるのである。

 Ⅱ.朝が来ない夜はない(11-12)

ドマに対する宣告である。ドマとはエドムのことであり、エサウの子孫にあたる。そのドマに対して主は、「セイルから、私に叫ぶ者がある。「夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りは言った。「朝が来、また夜も来る。尋ねたければ尋ねよ。もう一度、来るがよい。」と言われた。今は夜の何時か、というのである。夜とはアッシリヤの侵攻のことである。あの大帝国に呑み込まれてしまう。もうお先真っ暗だ。もう先がない。夜が来る。あといつになったら夜が明けるのかというのだ。朝が来ても、また必ず夜がやって来る。それはこの世の常だ。この夜とはアッシリヤの攻撃であり、バビロンの攻撃のことである。せっかく朝が来ても、また夜が来る。この世は間違いなく夜に向かって進んでいる。完全に真っ暗になる暗闇が近づいているのだ。

しかし、クリスチャンはそのような暗闇にあっても希望を持つことができる。それは主イエスの再臨である。やがてイエスが私たちを迎えに来るために戻って来られる。その時私たちは栄光のからだによみがえらされ、いつまでも主とともにいるようになる。目の涙もすっかりぬぐい取ってくださる。それこそクリスチャンの救いが完成する時である。ノンクリスチャンには荒唐無稽なことであろう。けれども、クリスチャンにとっては希望の朝だ。この夜がどんなに暗くても、必ず朝がやって来るという希望を持つことができるのである。

Ⅲ.主に身を避けて(13-17) 

だから、私たちは主に身を避けなければならない。ここには、アラビヤに対する宣告が記されてある。テマの地の住民に、デダンの人の隊商に水をやれというのだ。テマもデダンもアラビヤにあった町である。テマとデダンは、直線距離にして130㎞しか離れていなかった。なのに一方は難民となり、一方は難民の援助者になる。その違いはいったいどこにあるのか。「水」である。この二つの町はどちらも沙漠の中にあったが、テマには豊かな地下水が流れていた。それでその町はオアシスであったのだ。同じ沙漠にある町でも、テマには彼らの渇きをいやすための十分な水があったのだ。

主イエスは言われた。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:14)

キリストこそ真の隠れ家であり、この方に身を避けるなら、私たちの中に、生ける水の川が流れ出るようになる。この世がどんな暗くなっても、この方がその暗闇を照らしてくださる。朝が来ない夜はない。キリストこそこの時代を生きる希望であり、力なのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたの中に、自分はクリスチャンだから大丈夫だという思い込みはありませんか。あなたが悔い改めなければならないことは何ですか。

・あなたにとっての暗闇は何ですか。その暗闇の中をどのように歩んでいましたか。暗闇を照らす光であるキリストの再臨を待ち望みましょう。

イザヤ20:1-6 レジュメ

「裸の預言者」                            N027

Ⅰ.腰の荒布を解き、足のはきものを脱げ(1-4) 

アッシリヤの王サルゴンがペリシテの町アシュドテを取った年、主はイザヤに奇妙なことを命じられた。「行って、あなたの腰の荒布を解き、あなたの足のはきものを脱げ。」裸になれというのだ。いったいなぜ神はこんなことを命じられたのだろうか。これは、預言者の「象徴的行動」と呼ばれるものである。預言者はしばしば自分たちの語ったことばを人々に強く印象づけるために、このように目に見える形で表現した。それはエジプトとクシュがアッシリヤとの戦いに敗れ、裸にされ、はだしで連れて行かれることを表していた。

それにしても、三年間も裸で歩き回るのは普通ではない。常識では考えられない行為である。しかし神は、ご自分のみことばを伝えるために、時にはこのような方法も用いることがある。そのような時に私たちは、一見それが恥ずかしいようなことでも、それに従う勇気と信仰が求められるということを覚えておきたい。

 Ⅱ.裸の預言者(2)

それに対してイザヤはどのように応答しただろうか。2節に「それで、彼はそのようにし、裸になり、はだしで歩いた」とある。いくら神の命令とはいえ、また、神に仕える預言者であるとはいえ、公衆の面前で三年間も裸で歩き回るなんて考えられない。狂気の沙汰としか思えない。特に、貴族の出身の身で人々から尊敬と信頼を受けていた彼にとって、かなりの抵抗があったことだろう。なのに彼は神の命令に従い、裸になり、裸足で歩いた。これが信仰である。信仰とは神が命じられることを額面通り受け入れ、それを行うことである。たとえそれが恥ずかしいことであっても、人から見たら気が狂っていると思われるようなことであっても、主が語られたならばそれに従うことなのだ。

キリストは神でありながら私たち人間と同じ姿をとってこの世に生まれてくださった。裸で・・・。そして30年の間神の国の福音を宣べ伝え、病人をいやし、悪霊を追い出し、死人を生き返らせた。ここまではよかった。しかし、その後イエスがイスラエルをローマの圧政から救い出すために来たのではないことがわかると、群衆はこぞって叫んだ。「十字架につけろ」そしてキリストは着ていた衣服をはぎ取られ、むち打たれ、重い十字架を背負ってゴルゴタの道を歩まれた。そして、ついにはその両手両足を釘付けにされ、裸のままで、人々のさらしものになったのである。私たちは、病人をいやしたり、悪霊を追い出したり、死人を生き返らせたりして、人々の役に立ちことならば喜んで行いたいが、人々からさげすまれ、あざけられ、つばをかけられ、十字架にさらしものにされるようなことはしたくない。しかし、キリストに従うとは、キリストが行ったすばらしいしるしや奇跡を行うだけでなく、人々から誹謗中傷されたり、馬鹿にされるようなことであっても、それが神のみこころならば従うことでもあるのだ。

パウロは、「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です」(ピリピ1:21)と告白した。彼はただキリストがあがめられることだけを求めて生きていたのだ。自分はどうでもいい。自分がどんな目に遭っても、何をされても、裸にされても、ばかにされても、卑しめられても、はずかしめられても、変人だと思われようと、自分の身によってキリストのすばらしさが表されるのならそれでいいと思ったのである。それがキリストに従うということなのだ。

Ⅲ.まことの拠り所(5-6) 

ここには、イザヤが裸になったのはイスラエルに対するしるしのためであったことが記されてある。クシュを頼みとし、エジプトを栄えとしていたイスラエルが裸で連れて行かれる彼らを見て、自分たちがこれまで拠り所としていたものがどんなにはかないものであったのかをまざまざと見せつけられたのだ。

第二次世界大戦後、日本人の生活の価値基準は、何が善で何が悪であるかであった。その後今日まで、何が得で何が損であるかで測られてきた。しかし、最近は違う。何がホンモノであるかどうかで判断される時代になった。ホンモノとは、何があってもびくともしないもの、決して滅びることがない、永遠のものである。それはこの天地を造られたまことの神だけである。この方に信頼する者は失望させられることはない。この方こそまことの拠り所なのである。これが、イザヤが裸になってまでも伝えたかったメッセージだったのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたは、常識的に理解できないことを神が指示されるなら、どうしますか。あなたにとって裸になるとはどういうことですか。

・危機を抜け出すために、あなたはだれに助けを求めますか。今、神があなたに願っておられる従順は何ですか。

イザヤ19:1-25 レジュメ

「わたしの民エジプト」                        N026

Ⅰ.エジプトに対するさばき(1-15) 

エジプトに対するさばきの宣告である。エジプトは偶像で満ちていた。太陽の神、かえるの神、ブヨの神、アブの神など、さまざまな偶像を神として拝んでいた。それゆえに神はエジプトをさばかれる。まず内乱によって、そして、外国の侵略によって、そして、エジプトのいのちの象徴であったナイル川を干上がらせることによってエジプトにわざわいをもたらす。そればかりではない。エジプトは自分たちの知恵を誇り、それに頼っていた。しかし、それがどれほど立派な知恵であっても、神が計られたことを告げることはできない。なぜなら、神から出たことは神の霊によらなければわきまえ知ることができないからである。エジプトは自分たちの知恵に頼っていたので、結局、その知恵に振り回されたことになった。国全体がよろめいてしまったのである。この世の知恵には限界がある。神の知恵に拠り頼む者は幸いだ。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。

 Ⅱ.エジプトの救い(16-22)

エジプトに対する神の宣告はさばきの宣告だけではない。彼らの救いについても約束された。「エジプトの国の真ん中に、主のために、一つの祭壇が建てられ、その国境のそばには、主のために一つの石の柱が立てられ、それがエジプトの国で、万軍の主のしるしとなり、あかしとなる。」(19-20)

かつて偶像を拝み、自分の知恵、自分の力を誇っていたエジプトがイスラエルのようになると言われたのである。何ということであろう。考えられない神の恵みである。神はたとえご自身に敵対していた者であっても、悔い改めて神に立ち返るなら赦してくださるのだ。いや、神がエジプトをさばかれるのはエジプトを滅ぼすためでなく、その中で彼らが悔い改め、彼らをいやすためであったのだ。

Ⅲ.わたしの民エジプト(23-25) 

ここにはもっとすごいことが記されてある。何とそのエジプトに対して主は、「わたしの民エジプト」と呼んでおられるのだ。神の民とはイスラエルに対して使われることばである。そのことばをここではエジプトに対して用いているのである。「万軍の主は祝福して言われる。「わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように」(25)これほどすばらしい約束があるだろうか。過去にどんなに神から遠く離れていた者でも、神の恵みによって神の民としていただけるのである。

「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」(イザヤ45:22)

主こそ神である。この神の恵みは、あなたにも注がれている。あなたがこの神を仰ぎ見るなら、あなたも救われる。神の民とさせていただくことができるのだ。この救いは地の果てにまで差し出されている。イスラエルから見たらこの日本はまさに地の果てであろう。しかし、こんな偶像に満ちた国であっても、神の恵みから漏れることはない。ゆえに私たちは自分のことだけを考えてはならない。目を全世界に向けなければならない。神の救いは全世界に及んでいる。この神の約束を信じて、このすばらしい救いのみわざを全世界にもたらされていくために、通りよき管となることを求めていきたい。

まとめ(自分に適用してみましょう! 

・あなたには、自分の欲望を満たす偶像はありませんか。コロサイ3:5には「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」とあります。あなたの中にはどんなむさぼりがありますか。

・あなたが誇りとしているものは何ですか。この世の知恵ですか。それとも、十字架につけられたキリストですか。

・神はエジプトを「わたしの民」と呼ばれました。かつてどんなに神から離れていても、悔い改めて神に立ち返るなら、神はその罪を赦してくださいます。あなたも主なる神を仰ぎ見て救われてください。あなたが神を仰ぎ見ることを妨げているものがありますか。それは何ですか。

イザヤ18:1-7 レジュメ

「わたしは静まってながめよう」                     N025

Ⅰ.ただ神に信頼して(1-2) 

クシュに対する宣告である。クシュとはエチオピアのことである。クシュは、アッシリヤの攻撃に備えるためにイスラエル(南ユダ王国)と同盟を結ぼうとした。それはユダの王ヒゼキヤにとっても大きな誘惑であったにちがいない。しかし、イザヤを通して主が語られたことは、ただ主に頼れということであった。人は危機的状況に直面すると、すぐに目に見える何かに頼ろうとする。しかし、どんなに偉大な人でも、どんなに力強い国であっても、頼りにはならない。人はみな死んで滅びてしまうからだ。本当に頼りになるのは、この天地を創造された神だけである。ダビデは「私のたましいは黙って、ただ神を待ち臨む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩。わが救い、わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。」(詩篇62:1-2)と言った。この神に信頼するとき、何があっても決して揺るがされない平安が与えられるのである。

 Ⅱ.神には時がある(4-6)

なぜ神に信頼するなら揺るがされることがないのだろうか。なぜなら、神は絶対的な方だからである。主はイザヤを通して次のように語られた。「わたしは静まって、わたしの所からながめよう。」(4)クシュが秘密裏にユダと同盟を結ぼうとしていたとき、主は黙ってそれをながめておられた。まさに高見の見物である。全然慌てていない。慌てることなど必要ないのだ。なぜなら、主は圧倒的な力を持っておられるからである。国々が騒ぎ立ち、国民がむなしくつぶやいても、天の御座に着いておられる方は、笑い、あざけられる。

ということは、主はそれを静かにながめて、何もしないということなのだろうか。そうではない。主には時がある。その時を待たなければならない。ちょうどぶどうの木に実が成り始めるとき、実を結ばない枝は切り取られるように、その時が来たら神が働かれる。神は時が熟するのを待っておられる。エジプトにいたイスラエルを救われた時も、四百年の時が必要であった。エジプトでの苦役で苦しみ、神に捨てられたのではないかと思えたその時、神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こし行動を起こされたのである。時が熟するまでには長い時間がかかった。しかし、その時が満ちたとき、神はモーセを立て彼らをエジプトから救い出されたのである。私たちは、この神の時を忍耐して待たなければならない。

Ⅲ.シオンの山に贈り物が(7) 

そんなクシュにも、神の恵みが注がれている。「そのとき、万軍の主のために、背の高い、はだのなめらかな民、あちこちで恐れられている民、多くの川の流れる国、力の強い、踏みにじられる国から、万軍の主の名のある所、シオンの山に、贈り物が運ばれてくる。」(7)贈り物とは回心のことである。このクシュ(エチオピア)の多くの人々が、主に立ち返るようになるというのだ。

使徒8:26-38を見ると、エチオピア人の宦官が救われた話しがある。彼は礼拝するためにエルサレムに上って帰る途中、ピリポによって救いに導かれた。世の終わりには、これがもっと明らかな形で現れる。それはエチオピアだけではない。世界のすべての民が主を信じるようになるのである。シオンの山に贈り物が運ばれてくるのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・ピンチになったとき、あなたは何に頼っていますか。あなたが主に頼るために必要なことは何ですか。

・あなたの祈りがなかなか聞かれないとき、神に失望していませんか。あなたはどのように神の時を待ち望んでいますか。

・主のみこころは、すべての人が救われることです。そのためにあなたができることは何ですか。

イザヤ17:1-14 レジュメ

「救いの神を忘れないで」                        N024

Ⅰ.この世と調子を合わせてはならない(1-3a) 

ダマスコに対する宣告である。ダマスコはアラム(シリヤ)の首都である。このダマスコに対して何と言われているか?ダマスコは取り去られ、廃墟となるということ。これはまだ歴史においては実現していない。ということは、これからこの町は廃墟になるということだ。ここで注目すべきことは、「エフライムは要塞を失い、ダマスコは王国を失う」(3a)ということだ。いったいこれはどういうことだろう?神の民であったエフライム(北イスラエル)が、異教の国と同様に滅ぼされてしまうということである。なぜ?彼らと手を組んだからだ。ゆえに神の民であっても異教の国と同じ運命をたどることになってしまった。ローマ人への手紙12:2には、「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」とある。クリスチャンになってもこの世と調子を合わせこの世の中に埋没していくことがあるとすれば、エフライムと同じような結果を招くことになってしまうということを覚悟しておかなければならない。

 Ⅱ.アラムの残りの者(3b-6)

ダマスコは取り去られて廃墟となると宣告した後で、主はその中でも残りの者を残してくださると約束しておられる。3節後半に「アラムの残りの者は、イスラエル人の栄光のように扱われる」とある。私たちは、礼拝に来ている人が少ないと落胆してみたり、祈祷会にあまり集まっていないと気落ちしてしまう。しかし、この落胆は正しいものではない。主はそうしたわずかな人を残しておられ、その人たちを通してご自身のみわざを行ってくださるからだ。かつてエリヤは「私しか残りませんでした」と嘆いたとき、神様はエリヤ以外に七千人を残しておくと言われた。神様は必ず信仰を持って祈る人を残しておられるのだ。

Ⅲ.救いの神を忘れないで(7-11) 

では残りの民の特徴は何か?それは、神の救いの恵みを覚え、そこにしっかりととどまっている人である。10節に「あなたが救いの神を忘れて、あなたの力の岩を覚えていなかったからだ。」とある。アラムはもちろんのこと、イスラエルがアッシリヤによって滅ぼされわずかな者しか残らなくなったのは、彼らが救いの神を忘れてしまったからだ。力の岩である神を忘れたからである。非常に重要な警告である。決して犯してはならない過ちだ。あなたの救いの神を忘れてはならない。私たちにとって一番大きな危機は何かというと、この救いの神を忘れてしまうことである。それによって、私たちの霊的な運命が決まってしまうからだ。ことわざに「恵みは水に記し、恨みは石に刻む」という言葉がある。恵みはすぐに忘れても、恨みは絶対に忘れない。しかし、神の恵みを忘れてはいけない。

イエスは「わたしを覚えてこれを行いなさい」と言われた。聖餐式はイエスの恵みを覚えるものである。神がイエスを通してあなたに何をしてくださったのかをいつも覚えていなければならない。私たちは皆、らい病人のように腐り果てていく罪人にすぎなかった。この罪のゆえに、私たちの人生は本当に虚無的で悲劇的なものでしかなかった。しかし、そんな私たちのために神はご自分のひとり子を遣わし、十字架の上で死んでくださった。そして、私たちの罪を贖い、永遠に生きる者としてくださった。私たちはこの愛と恵みを惜しげもなく与えてくださった救いの神を忘れてはならないのだ。

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたの中にこの世が麗しく感じ、そこからなかなか出られないでいることはありませんか。あなたをこの世に引きずっているものは何ですか?

・あなたの中にクリスチャンが少ないという落胆はありませんか。神様は残りの者を残しておられ、そのわずかな者を通してご自身のわざを進めておられることを信じましょう。

・あなたは救いの神を覚えていますか?神の恵みを忘れないために、あなたはどのようにしていますか?