使徒の働き19章1~7節 「聖霊を受けたか」

 きょうは「聖霊を受けたか」というタイトルでお話したいと思います。1節には、「アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。」とあります。第二回伝道旅行の帰りにエペソに立ち寄ったパウロは、「神のみこころなら、またあなたがたのところに帰って来ます」(18:21)と言って別れましたが、そのみこころが成就して、今、再びエペソに戻ってくることができました。そのエペソに戻って来た時、どうも様子のおかしい一団と出会いました。彼らはクリスチャンであるはずなのに、そうでないかのような言動をしていたのです。そこでパウロは、「あなたがたは、信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねました。この聖霊を受けるということは、神との交わりが回復するということで、永遠のいのちに預かること、つまり、救われていることを意味しています。これはキリスト教の基本的な教えでとても重要なテーマですが、意外にこのことについてよく理解していないケースがあります。きょうは、この聖霊を受けることについて三つのポイントでお話したいと思います。

 第一のことは、聖霊を受けることの重要性についてです。第二のことは、イエスの御名によるバプテスマと聖霊のバプテスマの関係についてです。そして第三のことは、その結果です。主イエスの御名によってバプテスマを受けた彼らはどうなったでしょうか。彼らは聖霊に満たされ、喜びと賛美の生活へと変えられました。

 Ⅰ.信じたとき、聖霊を受けたか(1-3)

 まず第一に、聖霊を受けることの重要性を見ていきたいと思います。1~3節をご覧ください。

「アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えた。「では、どんなバプテスマを受けたのですか。」と言うと、「ヨハネのバプテスマです。」と答えた。」

 パウロは、念願叶ってエペソに戻って来ることができましたが、そこで彼は、幾人かの弟子に会ったとき、彼らに「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねました。この「弟子」という言葉は、主イエス・キリストの弟子という意味で、クリスチャンのことを指すことばです。そうしたクリスチャンに向かって、あなたは聖霊を受けていますか」と言うのは、ある意味で、とても失礼なことかと思います。というのは、Iコリント12:3には、「聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。」とあるように、だれであれ、イエス様を救い主として信じたのであれば、聖霊を受けていないということなどあり得ないからです。クリスチャンであるならば、みな聖霊を受けているはずなのです。なのになぜパウロはそのように尋ねたのでしょうか。おそらく、彼らを見ていたら、どうもキリスト教信仰とは相入れない異質なものを感じたからでしょう。その証拠に、パウロが「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねられたとき、彼らは「いいえ、聖霊が与えられることは、聞きもしませんでした」と答えています。聖霊が与えられることについて曖昧な理解しか持っていませんでした。クリスチャンなら、自分の罪を悔い改め、イエス・キリストが身代わりとなって十字架にかかって死んでくださり、三日目によみがえられたことを信じるなら、罪の赦しと永遠のいのちが与えられる。つまり、神の聖霊が与えられたことを知っているはずなのに、彼らはそのことを知らなかったし、聞きもしませんでした。つまり、彼らはイエス様を信じていましたが、その信仰は福音の正しい理解を欠いたものだったのです。

 では、彼らはどんなバプテスマを受けたのでしょうか。3節を見ると、彼らは、「ヨハネのバプテスマです」と答えています。「ヨハネのバプテスマ」とは何でしょうか。先々週のところにも出てきました。聖書に精通していたはずのアポロでしたが、彼はヨハネのバプテスマしか知りませんでした。(18:25)ですから彼の話を聞いていたプリスキラとアクラ夫妻は、彼を自分の家に招き、神の道をもっと正しく説明したのでした。そのアポロと同じようにヨハネのバプテスマしか知らなかったということは、アポロと同じように、福音の全体像を正しく理解していなかったのでしょう。旧約聖書に記されているメシヤこそイエス・キリストだと理解はしていたものの、このキリストを信じるということがどういうことなのかをよく理解していなかったのです。ヨハネは、後に来られるイエス・キリストを受け入れるための備えとして、悔い改めのバプテスマを授けていましたが、そのヨハネのバプテスマは受けていましたが、主イエスの御名によって授けられる聖霊のバプテスマのことはわかりませんでした。彼らは、聖霊によってもたらされる救いの恵みと喜びをいまだに知らなかったのです。

 それは7節を見てもわかります。ここには、「その人々は、みなで12人ほどであった」とありますが、この「12人」というのは「12人の男たち」という意味で、妻子がいない12人の男たちであったという意味です。別に結婚していない男たちが一緒にいたからといって問題ではありませんが、問題は、なぜ彼らは結婚していなかったのかということなのです。そしてそれはどうも禁欲的な生活をしていたからだったのです。バプテスマのヨハネは、らくだの毛衣をまとい、皮の帯をしめ、いなごと野蜜を食べて、禁欲的な生活をしていました。おそらく、彼らも悔い改めを強調して、厳格な禁欲的な生活をしていたのではないかと思われます。そういう点で、目立っていたのです。どうも様子がおかしかった。確かにクリスチャンであるはずなんだけれども、どこか違う。信じたときに聖霊を受けたのならば、その結果としての実、すなわち愛とか、喜びとか、平安とか、親切、善意、誠実、柔和、自制といった聖霊の実が見られ、生活も生き生きした面が見られるはずなのに、彼らにはどうもそういうものが見られなかった。そこでパウロは彼らに、「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねたのです。しかし、そのように聞かずにはいられないほど、彼らの言動にはキリスト教信仰とは異質なものが感じられたのです。ですから、ここでは、よくペンテコステ派の人たちやカリスマ派の人たちが強調しているような、救われた後の第二の経験としての聖霊のバプテスマや、そのしるしとしての異言について教えられているのではないのです。というのは、この12人の男たちは、イエス様を信じていても、聖霊のことについては知らなかったからです。

 こういうことは、私たちにもよく見られるのではないでしょうか。イエス様が神であって、このイエス様を信じれば天国に行ける、救われるということを知って信じても、このイエスを信じる人に神の聖霊がもたらされ、聖霊によって喜びと平安と、感謝が溢れるようになるということを知らない人が意外と多いのです。信じていてはいても、信じるということがどういうことなのかをはっきりと知らない人がいるのです。まだ信じていない人のように歩んでいる場合があるのです。それはこの12人の弟子たちと同じです。パウロはそういう人たちに対して、「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねたのです。

 皆さんは、どうでしょうか。皆さんは、聖霊を受けていますか。イエス様を信じていても、まだ肉に従って歩んではいないでしょうか。その結果、ガラテヤ書の中にあるように、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、酩酊、遊興、といった行いにはなっていないでしょうか。イエス様を信じていても、聖霊を受けること、また、聖霊によって歩んでいないと、信じていない人と同じような状態になってしまうのです。何が問題なのでしょうか。正しい福音の理解です。聖霊のバプテスマについての理解です。

 ヨハネ7:37,38を開いてみましょう。ここには、

「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

とあります。この「生ける水の川」とは何でしょうか。聖霊のことです。だれでもイエス様のもとに来て、飲むなら、すなわち、イエス様を信じるなら、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになるのです。この「心の奥底から」というのは、「腹の底から」という意味です。イエス様を信じるなら、表面的な喜び、表面的な平安ではない、腹の底からの、ほんとうの喜び、ほんとうの平安が与えられるのです。

 聖書の中に出てくるサマリヤの女性は、まさにそれを体験した人でした。彼女は何をしても心が満たされませんでした。人生の幸せを求めて5回も結婚しましたが、その心は満足を得ることはできなかったのです。しかし、ある日、サマリヤのスカルという所で、水をくみに来たとき、そこでイエス様に出会い、彼女は、本当の満足を受けました。

 イエス・キリストを救い主として信じて、受け入れるなら、この神の聖霊が与えられるのです。大切なのは、イエス様のところに来て、飲むことです。イエス様を信じることです。そうすれば、その人の心の奥底から生ける水の川である聖霊が溢れるようになるのです。

 Ⅱ.主イエスの御名によるバプテスマ(4-5)

 では次に、主イエスの御名によるバプテスマについて見ていきましょう。4,5節をご覧ください。

「そこで、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」と言った。これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。」

 「どんなバプテスマを受けたのですか」という問いに、「ヨハネのバプテスマです」と答えた12人の人たちに対してパウロは、ヨハネが授けたバプテスマとは、自分のあとに来られるイエスを信じるように、悔い改めのバプテスマを授けたのであって、聖霊を受けるためのバプテスマではなかったことを説明して、主イエスの御名によってバプテスマを授けました。

 では、この主イエスの御名によるバプテスマとは、どのようなバプテスマなのでしょうか。それは主イエスを救い主として信じるバプテスマです。つまり、自分の罪を悔い改めるだけでなく、十字架と復活によって成し遂げられた神の救いの御業を信じ、イエス・キリストを救い主として受け入れることです。ローマ6:3のところでパウロは、このことを「キリスト・イエスにつくバプテスマ」と言っています。開いてみましょう。ローマ6:3~8です。

「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」

 それはただ自分の罪を悔い改めるだけでなく、その罪の身代わりとしてキリストが十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたことによって、この方を信じる者に罪の赦しと永遠のいのちが与えられたということを受け入れることなのです。そのような人には聖霊のバプテスマが授けられます。それがイエスの御名によるバプテスマです。まさに水のバプテスマ、洗礼は、そのことを現しているのです。キリストが十字架にかかって死なれたように、私たちの古い人も十字架で死に、キリストが死からよみがえられたように、私たちもキリストのいのちにあって、新しい歩みをするようになったということです。ですから、それがどんな形であるにせよ、信じて、主イエスの御名によってバプテスマを受けたのなら救われているのであって、もう一度バプテスマを受ける必要はないのです。

 ある人たちはこのところから、一度信じてバプテスマを受けても、そのバプテスマが無効である場合、もう一度受けなければならないと主張する人たちがいます。アナバプテストと呼ばれる人たちです。アナというのはゴルフのホールのことではありません。「再び」という意味の言葉で、再洗礼派という人たちのことです。この人たちは、最初に受けたバプテスマが有効でない場合、もう一度バプテスマを受け直すべきだと考えています。たとえば、最初にバプテスマを受けたときには信仰があったのかなかったのかがはっきりしていなかった場合とか、その洗礼が浸礼といって、全身が水の中に浸からないものであれば無効だから、もう一度受け直すべきだと言うのです。しかし、そういう必要はありません。もしそれが父と子と聖霊の御名によってなされたバプテスマであるなら、それがどのようなやり方であったとしてもすべて有効なのであって、もう一度受け直す必要はないし、そのようにすべきではないのです。主イエスの御名によって受けた洗礼は、その人の自覚が十分であったとか、不十分であったとかにかかわらず、その生涯においてただ一度で十分なのです。なぜなら、バプテスマとは死からいのちに移されていることを現している礼典であって、それは一度しかないはずだからです。むしろそのようにするとは神の礼典をもて遊ぶことになり、神を侮ることになってしまうのです。そもそも、ここでパウロが彼らに主イエスの御名によってバプテスマを授けたのは、彼らが受けたバプテスマがキリスト教で言うバプテスマではなかったからであって、決してアナバプテマ、再洗礼ではありませんでした。それがほんとうのバプテスマであり、最初のバプテスマだったのです。

 私たちは、時として、信じてバプテスマ受けても、落ち込んだり、悩んだりしますと、あのときに受けたバプテスマが十分ではなかったのではないかと考えることがあります。信じて、バプテスマを受けたつもりだったが、実際のところはそんなに信じていなかったとか、あの時の信仰はあまりはっきりしたものではなかった思い、もう一度バプテスマを受ければ新しく生まれ変わるのではないかと思って受ける場合がありますが、その必要はないということです。なぜなら、それはバプテスマの問題ではなく、信仰の問題だからです。すなわち、私たちの信仰が自分の感情に振り回される信仰なのか、それとも、みことばに信頼し、みことばに従う信仰なのかということです。もし、私たちの信仰が感情に支配されたものであるならばいつも状況に振り回された不安定なものになってしまうでしょう。なぜなら、私たちの置かれている状況は、いつも変化するものだからです。であればバプテスマを受け直したからといって問題が解決するわけではないのです。どうしたらいいのでしょうか。みことばに信頼し、神のみこころにかなった歩みをしていこうと選択することです。

 ヴィクトル・フランクルは、ナチの強制収容所に入れられたユダヤ人の一人でした。彼が強制収容所に入れられたとき、看守たちは彼が身につけていたものをすべて剥ぎ取りました。彼の人としての尊厳を奪い、妻、家族、服、結婚指輪さえ奪い取ったのです。けれども、彼から奪い取ることができなかったものが一つだけありました。何だと思いますか。彼はその著書「夜と霧」の中で、こう書いています。

「人間の自由の中で最後に残されるものは、置かれた状況の中で、どう振る舞うかを選択する能力である」と。
 
 看守はフランクルから、どう振る舞うかを選択する自由だけは奪うことができなかったのです。

 自分の人生の状況をすべてコントロールすることはできません。明日何が起こるのか、いや、今日のことさえ分からないのが私たちです。そのように私たちは状況をコントロールすることはできませんが、その状況にどう対処するかをコントロールすることはできるのです。人生において本当の意味で問題となるのは、起こってしまった問題そのものよりも、むしろその問題を通して私たちの内側に何が起こったかということなのです。もし、私たちが起こってしまったことに振り回されて生きるなら、いつも揺れ動いて安定性のない生き方になってしまういますが、与えられたみことばに信頼し、神のみこころにかなった生き方を選択するなら、より豊かな実を結ぶ人生となるのです。

 Ⅲ.聖霊が彼らに臨まれ(6)

 最後に、彼らが主イエスの御名によってバプテスマを受けた結果、どのようになったかを見て終わりたいと思います。6節をご覧ください。

「パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。」

 彼らが、主イエスの御名によってバプテスマを受けると、聖霊が彼らに臨まれ、異言を語ったり、預言をしたりしました。これはどういうことでしょうか。この異言とか預言とは聖霊の賜物ですが、この二つは、ともに初代教会特有の聖霊の賜物でした。この二つの違いについてパウロは、コリントに書き送った手紙の中で次のように言いました。

「異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。」(Iコリント14:2,3)

 すなわち、この12人の弟子たちは、この時から、これまでの堅い殻に閉じこもった禁欲的な生活を捨てて、神に向かっては喜びをもって賛美し、人に向かっては熱心にみことばの勧めとあかしをするクリスチャンへと変えられたということです。孤立的分派主義が、積極的な礼拝と交わり、伝道の生活へと変わったのです。陰気な禁欲主義は、喜びに満ちた賛美の生活へと変わりました。そうして、それこそが、パウロの福音の結果だったのです。人は聖霊によって新しく生まれ変わるとき、ここで彼らが経験したような、生活へと変えられるのです。

 皆さんは、聖霊を受けましたか?主イエスを信じて、キリストをその人生と心の主として迎えておられますか?もしそうならば、皆さんの内なる人が新しく変えられました。このエペソの弟子たちのように、喜びをもって賛美し、熱心に証しする人へと変えられたのです。もしそうでないとしたら、どこかにその原因があるはずです。教会にはいつも二種類のクリスチャンが存在すると言われます。ひとつは名前と形式だけのクリスチャンで、もう一つは信仰と行動が一致したクリスチャンです。教会の中には神を形式的に礼拝する人と、霊とまことをもって礼拝する人がいるのです。この世に心ささげるを人と、神に心をささげる人がいます。聖書を信じ、その信仰通りに生きようと願っている人がいれば、そうでない人もいます。その違いは何でしょうか。新しく生まれ変わっているかどうかです。聖霊を受けているかどうかです。新生は外見や肉体的な変化ではない、内面の性質が全く新しくなることです。神のいのちに生きることです。私たちの存在の根本、本質に関わることなのです。ですから、「信じたとき、聖霊を受けましたか」という質問は、新生についての質問であり、新しい変化へのチャレンジのメッセージなのであり、私たちの人生において最も重要な質問なのです。あなたは聖霊を受けましたか。

 ムーディーというアメリカの有名な伝道者が、説教の途中で会衆に尋ねました。「このガラスのコップから空気を全部取り出すにはどうしたらいいでしょうか」するとある人が答えました。「そのコップにふたをして空気を抜けばいいんじゃないですか」するとムーディーは笑いながら言いました。「そんなことをしたら真空状態になり、コップが割れてしまいますよ。」そしてやかんを手に持ち、コップに水を注いでこう言いました。「ご覧ください。空気は少しも残っていません。コップを水で満たせば空気はすべて出て行きます。私たちの罪を取り除く方法も同じです。自分の意志で罪を追い払おうとすると必ず失敗します。しかし、聖霊によって満たされるなら、自然に罪が出て行くのです。」

 クリスチャンがこの世で罪に打ち勝ってきよさを保つ秘訣は、聖霊に満たされることです。聖霊に満たされるなら、罪に打ち勝つことができるのです。この聖霊によって、新しい力と活力、正しいことを行いたいとという願い、そしてそれを実行するための力が与えられます。聖霊が私たちの内に働かれると、私たちはいよいよキリストに似た者へと変えられていくのです。

 ニック・ブイチチという人の証しを読みました。彼は四肢欠損症という非常にまれな病気のため、腕と足がなく、あるのは左足に2本の指だけでした。彼はこの障害のためにさまざまな困難を味わい、幼い頃に自殺まで考えましたが、イエス様を信じたとき、彼のその傷ついた心は奇跡的にいやされ、神にある希望を持つことができました。そして彼は、自分がなぜそんな体で生まれてきたのかの意味を見いだしたのです。それは、神の栄光を現すためだということでした。それ以来彼は、「Life Without Limbs」という団体を作り、全世界で神様のすばらしさを証しする者に変えられたのです。彼はどこに行っても「神はあなたのためにすばらしいご計画を持っている」というシンプルなメッセージを伝え、希望を与える者になったのです。彼はこう言っています。

「これまで人々の言ううそを信じて生きてきたために、絶望の日々を送っていましたが、神を信じると、山の頂の神は谷底の神でもあるということがわかりました。この世に完璧な人などいません。人は誰でも失敗するものです。だからといって、私たちは失敗者ではありません。失敗する恐れ、完璧でないことへの恐れ、拒否されることへの恐れは、腕や脚がないことよりも悪い。心が傷ついてボロボロなのに、見た目で完璧であっても意味がありません。神にすがってください。そうすれば、神はあなたを離されることありません。あなたの将来のための神のご計画を信じると決めてください。真理であられる神に信頼しながら、一日一日を生きてください。そして、傷ついた心のいやしを神から受けてください。」

 神の力は、傷ついた心の灰を喜びの冠へと変えることができるのです。神のあわれみによって、私たちは平安に満たされるのです。それが聖霊によって歩む人の姿です。たとえ悲しみがあっても、その悲しみに押しつぶされない確かな平安があるのです。あなたは聖霊を受けましたか。聖霊によって、新しいいのちを受けているでしょうか。この聖霊とともに歩む新しい人生を、ともに歩ませていただこうではありませんか。

使徒の働き18章24~28節 「神の道をもっと正確に」

 きょうは「神の道をもっと正確に」というタイトルでお話したいと思います。26節に、「彼は会堂で大胆に話し始めた。それを聞いていたプリスキラとアクラは、彼を招き入れて、神の道をもっと正確に説明した」とあります。アポロの話を聞いていたプリスキラとアクラは、彼を自宅に招き、神の道をもっと正確に説明しました。するとアポロはそれを聞き入れ、やがてアカヤに渡ると、聖書によって、イエスがキリストであることを力強く証明し、そこにいたクリスチャンたちを大いに助けました。

 きょうはこのアポロに神の道をもっと正確に説明したプリスキラとアクラの働きから、三つのことを学びたいと思います。第一のことは、アポロの信仰の欠陥についてです。彼は、ヨハネのバプテスマしか知りませんでした。第二のことは、そんなアポロを建て上げたアクラとプリスキラの愛についてです。第三のことは、その結果です。正しい聖書の知識を身につけたアポロは、アカヤでイエスがキリストであることを力強く語ることによって、そこにいた信者たちを大いに助けることができました。

 Ⅰ.アポロの信仰の欠陥(24-25)

 まず第一に、アポロの信仰の欠陥から見ていきましょう。23節をご覧ください。

「そこにしばらくいてから、彼はまた出発し、ガラテヤの地方およびフルギヤを次々に巡って、すべての弟子たちを力づけた。」

 第二次伝道旅行から戻り、エルサレム教会であいさつをしてからアンテオケ教会に行ったパウロは、そこにしばらくいてから、また宣教の旅へと出かけて行きました。これが21章16節まで続くいわゆる第三次伝道旅行の始まりです。この伝道旅行はおおむね3年半ほどの期間であったと考えられていますが、そのほとんどの期間をエペソで過ごします。今回の旅の目的は、ここに書いてあるように「すべての弟子たちを力づけ」ることでした。そこで小アジヤ地方の諸教会およびフルギヤを巡って、すべての弟子たちを励まし、エペソへと向かって行ったのです。そのエペソに着いてからの出来事については19章1節からのところに続くのですが、そうやって彼がエペソに向かっていたとき、そのエペソで一つのエピソードが起こっていました。それがきょうのところです。24節と25節をご覧ください。

「さて、アレキサンドリヤの生まれで、雄弁なアポロというユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。この人は、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった。」

 このエペソの町に、アレキサンドリヤの生まれで、アポロという雄弁なユダヤ人がやって来ました。この人は聖書に通じており、主の道をよく教えられていて、霊に燃えて、イエスのことを正確に教えていました。この「雄弁」というのは単に弁が立つというだけでなく、十分な知識と教養、学識があったという意味です。そして聖書に通じていたというのも、単に聖書の知識があったというだけでなく、非常に聖書に精通していたということです。それでけではありません。彼は、伝道にも熱心で、霊に燃えて、イエスのことを大胆に語っていました。頭が切れて、弁も立つ。そして、物怖じせずに大胆に、かつ冷静沈着に語るという、まさに野球で言うならば走・攻・守の三拍子そろった選手のような人で、類い希な資質を持っていたのです。そんな彼ですから、おそらく多くの人が引きつけられていたことと思います。事実、後に彼がコリントに行って伝道すると、「私はアポロにつく」という人たちが出たほどですから、彼にはよっぽど魅力があったのです。

 しかし、そんな彼にも問題がなかったわけではありませんでした。そのように聖書に精通していたはずのアポロでしたが、ヨハネのバプテスマしか知らなかったのです。「ヨハネのバプテスマ」とは何でしょうか。ヨハネのバプテスマとは、ヨハネが授けていたバプテスマのことで、悔い改めのバプテスマを指します。それはルカの福音書3章に詳しく記されてありますが、ヨハネは、自分のあとに来る方は自分などはその方のくつのひもを解く値打ちもないほどもっと力のある方だから、その方の到来に備えて罪を悔い改め、バプテスマを受けるようにと叫んでいたのです。そのバプテスマとは、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマと言われていたものでした。アポロが知っていたのは、そのヨハネのバプテスマだったのです。しかし、それはイエス・キリストを救い主として信じ、主イエスの御名によって受けるバプテスマとは本質的に違うものでした。アポロは、旧約聖書で預言されていたメシヤこそイエス・キリストであり、この方がおいでになることと、そのために罪を悔い改めて心を整えておかなければならないことは知っていましたが、そのイエスが十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたことによって、信じる人に罪の赦しと永遠のいのちの祝福がもたらされるということ、つまり、聖霊のバプテスマについてはよく理解していなかったのです。もちろん、聖霊が降臨したあのペンテコステのできごとによってキリストの教会が誕生したことについてもよくわからなかったと思います。彼が知っていたのは、あのナザレ人イエスこそキリストであるというということでした。それは間違っていたわけではありませんが、十分な理解ではなかったのです。聖書に精通し、主の道をよく教えていた彼が、こういう信仰の基本的なことについて知らなかったということも不思議なことですが、今日のように聖書が完結していなかった当時は口頭で伝えられていましたから、すべてのことを正しく理解することは困難だったのでしょう。

 しかし、今はこうして聖書が完結して一人一人が読めるようになっていますから、もっと聖書を知りたいと思うならいくらでも知ることはできるのです。私たちは、十分な知識や教養があっても魂に対する情熱がなかったり、あるいは逆に、燃え上がるような情熱はあっても聖書の知識において弱いといった場合がありますが、主の働き人として用いられていくためには、正しい聖書の知識と情熱の両面が求められます。私は頭が悪いからなかなか理解できないという方がおられますが、聖書は決して理解できないものではありません。求めなさい。そうすれば与えられるのです。求めるなら、必ず聖書の正しい知識を身につけることができるのです。ですから、もし自分が十分に聖書を理解していなかったとしたら、それを克服するためのあらゆる努力をしていかなければなりません。では、アポロはどのようにしてその欠けを補っていったのでしょうか。

 Ⅱ.プリスキラとアクラの愛(26-27a)

 そのために用いられたのがアクラとプリスキラという夫婦です。26節と27節の前半の所までをご覧ください。

「彼は会堂で大胆に話し始めた。それを聞いていたプリスキラとアクラは、彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した。そして、アポロがアカヤへ渡りたいと思っていたので、兄弟たちは彼を励まし、そこの弟子たちに、彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。」

 アポロは、パウロのように、ユダヤ人の会堂に入って、大胆に話し始めました。その話は彼のもっていた学識と聖書の知識に基づいて、雄弁に行われていたものと思われます。それを聞いていた一般の聴衆は深い感銘を受けたことでしょう。しかし、それを聞いていたプリスキラとアクラ夫婦は、彼の説教に重大な欠陥があることに気づきました。そこで彼らはアポロを自宅に招き入れ、神の道をもっと正確に説明したのです。このプリスキラとアクラについては18章2,3節に出てきました。パウロがコリントで伝道していたとき、その町で天幕作りをしていた夫婦で、後にパウロがシリヤのアンテオケに帰ることになったとき彼に同行してエペソまでやってきて来ました。一刻も早くエルサレムの兄弟たちにマケドニヤの諸教会からの献金を届けようと出て行ったパウロとは違って、彼らはこのエペソにとどまって伝道を続けていたのです。
 
 ここで彼らの名前がアクラとプリスキラからプリスキラとアクラに変わっているのはユニークです。おそらく、パウロと出会ってからのキリスト教の伝道と奉仕において、夫のアクラよりも妻のプリスキラの方が熱心で積極的だったのでしょう。ここでアポロを自宅に招き入れ、聖書のことをもっと正確に説明したのも妻のプリスキラの方だったのではないかと思います。彼女は、「教会で語ることは、女にとってはふさわしくないことです」というパウロの教えのとおり(Iコリント14:35)、会堂では黙って聞いていましたが、私的には自宅に招き、アポロ先生の欠けを補うことにやぶさかではなかったのです。

 しかし、これほど有能なアポロの話の中に足りないことがあることに気づいただけでも大したものなのに、自宅に招いてそれを教えてあげるとは、なかなかできることではありません。おそらく、パウロと一緒に伝道し、パウロから主の道を教えられていたアクラとプリスキラには、パウロの教えとの間に微妙な違いがあることが、すぐに分かったのでしょう。彼らは自分たちの家にアポロを招き、彼に「神の道をもっと正確に説明した」のです。ここにはこうした彼らの建徳的な振る舞いが目に留まります。たとえば、若くて、あまり経験のない牧師、伝道者が教会に赴任してきたら、長い間信仰を守り、聖書をよく知っている信者さんなら、なかなか受け入れられることができないのではないでしょうか。聖書のことは勉強して多少は知ってるかもしれないが、信仰の経験や教会のあり方においては自分の方がずっと知っていると思いがちだからです。経験があってもそうなのですから、まして若い牧師、若い説教者には、とかく足りないものがあるものです。そのようなとき、公然であるにせよ、ひそかであるにせよ、批判することは易しいことですが、この時のプリスキラとアクラのようにそんな伝道者を自宅に招き、そこで、神の道をさらに正確に説明するというようなことはなかなかできることではありません。彼らは会堂でも自分の家でもアポロを批判したりはしませんでした。そしてアポロがさらに神に用いられる伝道者になるために、懇切丁寧に教えたのです。

 ここで注目すべきことは、彼らがそれを自分たちの家で行ったことです。もしこれを会衆の面前で行ったとしたらどうなったでしょうか。おそろく、この有能な若き伝道者をつぶすことになったではないでしょうか。彼らにはそうした気配り、配慮ができました。それは、結局のところ、彼らのアポロに対する愛以外の何ものでもなかったのです。彼らは、アポロのことを、我がことのように思いました。それは、彼らが主をこよなく愛していたからです。主をこよなく愛している人は、その教会を愛します。そして、その教会が建て上げられていくために、いつも心を配るのです。

 先日、フレッド谷崎牧師が来られてメッセージされましたが、その中で、イエス様にあって新しい人生のトレーニング基地はどこか?という話がありましが、それは教会ですと言われました。この地上における教会には完全はなく、そこにはいろいろな問題もありますが、しかし、そのような教会を通して、私たちの信仰がトレーニングを受けているのだ・・・と。イエス様を愛する人は、その御体である教会を愛し、大切にします。そして、教会が建て上げられていくために、いつも心を配るのです。逆に、主を愛さず、自分のことしか考えていない人は、冷たい批判者となって、労苦を共にしない傍観者となりがちなのです。ですから、プリスキラとアクラは、そういう配慮からアポロを自宅に招いて個人的に説明したのです。

 そのうえ、アポロがアカヤに渡りたいということを知ると、そんなアポロの願いを聞き入れ、アカヤ地方の教会、すなわちコリントの教会に、「彼を歓迎してくれるように」と紹介状まで書きました。ご存じのように、アクラとプリスキラは以前コリントに住んでいて、そこで天幕を作りながらパウロと一緒に伝道していましたから、コリントの教会のことをよく知っていたのです。そんなアクラとプリスキラの紹介状は、初めて行くアポロにとってはどんなに心強かったかわかりません。思慮深い敬虔なクリスチャン夫婦の愛は、こうして一人の若い伝道者を真に生かすことになったのです。

 Ⅲ.信者たちを大いに助けたアポロ(27b-28)

 では、そのように励ましを受けたアポロはどのようになったでしょうか。最後にその結果を見たいと思います。27節後半から28節までをご覧ください。

「彼はそこに着くと、すでに恵みによって信者になっていた人たちを大いに助けた。彼は聖書によって、イエスがキリストであることを証明して、力強く、公然とユダヤ人たちを論破したからである。」

 プリスキラとアクラ夫婦に導かれて信仰の確信を深め、紹介状までもらってアカヤに渡ったアポロは、コリント教会内外でめざましい働きをしました。彼は聖書によって、イエスがキリストであることを証明して、力強く、公然とユダヤ人たちを論破し、すでに恵みによってクリスチャンになっていた人たちを大いに助けたのです。そうした彼の活躍は、パウロがコリント人へ送った手紙を見ても明らかです。パウロはその中で、「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。」と言っています。(Ⅰコリント3:6)開拓したのはパウロですが、アポロは信仰的にクリスチャンを成長させるために役立ったと評価したわけです。もちろん、それらすべてのことが神によることでしたが・・・。

 そうした彼の立派さは、このコリントの教会の中に「私はアポロにつく」という人が現れると、今度はサッと身を引いてエペソに帰ったことにも見られます。そういうことで彼は有頂天になるような人ではなかったのです。むしろそうした事態になるとそこからわざと身を引き、後でどんなに要請されても再びコリントに行こうとはしませんでした。彼は、それほどまでに成長していたのです。アクラとプリスキラによってなされた愛の奉仕が、このようにして立派に成長して花開いたのです。

 振り返ってみたら、あの時プリスキラとアクラがアポロを自宅に招き入れ、神の道をもっと正確に教えてあげなかったら、このような彼の働きにはつながらなかったでしょう。あのときプリスキラとアクラがおこがましいように思われても、きちんと教えてあげたことが、このような大きな神の御業へとつながっていったのです。そんなことを誰が想像することができたでしょうか。ただ聖霊に示されてやったことが、後に芽を出し、大きく成長していったのです。

 カン・ジュンミンという人が書いた「舞台の裏に立つ英雄たち」という本の中にこんな話が紹介されています。
 1858年、シカゴのある教会の日曜学校の教師であったエズラ・キンボールという人は、地元に住む靴屋の店員に何とかして福音を伝えたいと思っていました。しばらく店の前でもじもじしていた彼は、ついに勇気を出して中に入りました。この靴屋の店員は、ドワイト・ ムーディーといって、後に大伝道者として知られるようになった人物です。そのムーディーの説教を聞いて新しい目が開かれたのがF・B・マイヤーという神学者です。彼も後に偉大な神学者となりました。
 そのF・B・マイヤーがムーディーの神学校で講演をしたときのことです。クラスの後ろの席で熱心に聞いていた人がいました。この人はウィルバー・チャップマンという青年で、後にYMCAの牧会者になった人です。このチャップマンがある時YMCAの幹部を募集することになったとき、それに申し込んだのが、プロ野球出身のビリー・サンデーというすばらしい青年でした。彼も後に有名な伝道者になりました。そしてあるリバイバル集会でサンデーの説教に感動した人々が集まって祈り会を作りました。彼らはモルデカル・ハムという人が導く宣教団で活動し、全米の各地でリバイバル集会を行いました。そのリバイバル集会でハムの説教を聞いたある青年が、伝道者になる決心をしたのです。その青年は誰ですか。そうです、ビリー・グラハムです。ビリー・グラハムは後に1年に200万人に説教する大伝道者になった人物なのです。あのエズラ・キンボールという人がシカゴの靴屋の店員であったムーディーに伝道したのがきっかけで、このような大きな神の御業へと発展していったのです。そんなことを誰が想像することができたでしょうか。こうした舞台の裏に立つ英雄たちの働きが、神の国を大きく建て上げていくのです。

 私たちも特別な人でないかもしれません。立派な功績を残したわけもありません。あのプリスキラとアクラのように、舞台の裏に立つ者たち、裏方さんかもしれません。けれども、彼らのような影響を及ぼすことができるのです。聖書をよく学び、正しく理解し、与えられた賜物に応じて忠実に仕えていくとき、やがてそれが神の国を建て上げていくために大いに用いられていくのです。それこそ私たちにとって最高の喜びなのではないでしょうか。

使徒の働き18章12~23節 「神のみこころなら」

 きょうは、この使徒18章12節からのところから、「神のみこころなら」というタイトルでお話したいと思います。一つのことばが私たちの人生において大きな励ましや力強い支えになることがあります。そして、そのような一つのことばを頼りにしながら、試練や苦しみの中を歩み続けていくという経験をさせられることがあるのです。1年半にわたるコリントでの生活において、パウロを支え続けた言葉とは何だったのでしょうか。それは、9節と10節で主が語られた「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」という言葉でした。その言葉に支えられてパウロは、このコリントでの宣教を続けることができたのです。

 きょうの箇所には、そんなみことばの確かさを証しする一つの出来事が記されてあります。ガリオが地方総督であったとき、ユダヤ人たちがこぞってパウロに反抗し、彼を法廷に引いて、行って訴えたのですが、ガリオはその訴えをユダヤ人だけの問題として取り扱うことをしなかったのです。ここにみことばの確かさがあります。主が語られた言葉は必ず実現するのです。主が語られたとおり、パウロに危害を加える者はいなかったのです。このような確かな主のみことばに励まされながら歩む人生はどんなに幸いなものでしょうか。きょうは、この神のみこころに生きたパウロの生涯について三つのことをお話したいと思います。第一のことは、神はご自分のみこころのとおりに導いておられる方であるということ。第二のことは、神のみこころに生きたパウロの姿についてです。そして第三のことは、神のみこころを判別する基準は、教会に仕える者としての自覚から生まれるということについてです。

 Ⅰ.みこころのとおりに導いておられる神(12-17)

 まず第一に、神はご自分のみこころのとおりに導いておられる方であるということについて見ていきたいと思います。12-17節をご覧ください。まず12節と13節です。

「ところが、ガリオがアカヤの地方総督であったとき、ユダヤ人たちはこぞってパウロに反抗し、彼を法廷に引いて行って、「この人は、律法にそむいて神を拝むことを、人々に説き勧めています。」と訴えた。」

 コリントにおけるパウロの伝道で、多くの人たちが信じてバプテスマを受けると、そのことでねたみに燃えたユダヤ人たちがパウロに反抗して、彼を法廷に引いて行き、時の総督ガイオに訴えました。「この人は、律法にそむいて神を拝むことを、人々に説き勧めています」と。この「律法」とは旧約聖書の律法のことではありません。ローマの法律のことです。旧約の律法であったのなら、ローマの総督に訴える意味がなかったからです。彼らは、パウロが伝えていた宗教はローマ法によって認められていない宗教だから、ローマ法によって禁ずべきだと訴えたのです。

 これまでパウロは何度かこのように訴えられたことがありましたが、今回の訴えはこれまでのものとは比較にならないほど重要な意味がありました。確かに彼はピリピやテサロニケでも訴えられたことがありましたが、ピリピで訴えられた時は長官たちにであり、テサロニケで訴えられた時は町の役人たちにすぎませんでした。しかし、今度は違います。今度はローマの総督です。かつてユダヤ教の祭司長や律法学者たちがイエス様を訴えたピラトと同じローマの総督なのです。ですから、そうした町の役人たちに訴えるのとは訳が違うのです。ローマの総督が下す判決というものは、その管轄の州において有効であったばかりでなく、ほかの州の総督が下す判決の前例ともなったのです。ですから非常に重いのです。もし彼がパウロに対して不利な判決でも下したとしたら、その後のキリスト教の歴史に大きな影響を及ぼしたことでしょう。それほど重く、大きな事件でした。

 そのような訴えに対して、ガリオはどのように対処したでしょうか。14~16節です。
「パウロが口を開こうとすると、ガリオはユダヤ人に向かってこう言った。「ユダヤ人の諸君。不正事件や悪質な犯罪のことであれば、私は当然、あなたがたの訴えを取り上げもしようが、あなたがたの、ことばや名称や律法に関する問題であるなら、自分たちで始末をつけるのがよかろう。私はそのようなことの裁判官にはなりたくない。」こうして、彼らを法廷から追い出した。」

 パウロが弁明しようと口を開こうとしたら、何とガリオの方から、この訴えを却下してしまいました。その理由は、今彼らが訴えていることは、ユダヤ教内部の宗教用語のことであり、信仰の内容に関するものだったからです。ローマ法に違反したことであるならば、その訴えを取り上げることもできるけれども、今訴えている問題はそういうことではなく、自分たちの宗教に関することなんだから、自分たちの間で解決すべきだというのです。これはまことに名裁判というべきです。総督ガリオは、自分たちの取り上げるべき問題と、そうでない問題とを明確に区別していました。彼は裁判官であったばかりでなく、政治家でもあったので、その限界をよく心得ていたのです。そして、政治が宗教の分野に介入することを避けました。

 彼がユダヤ人の訴えに対して、このように扱ったのは、別にキリスト教に対して好意を持っていたからではありません。そうしたことに関わりたくなかっただけです。あまりわからないことに首を突っ込んだとしても、正しい判断を下すことなど出来ないでしょうし、自分の分は、ローマの法律に基づいてきちんと裁判をすることだとわきまえでいたのです。また、18:2のところで、クラウデオ帝がすべてのユダヤ人をローマから退去させるように命じたとありますが、それはローマのユダヤ人社会にキリスト教が伝えられたことによって生じたあつれきと騒動が原因であったことを知っていたので、この問題をいいかげんにすれば、自分の首がとられるのではないかと思ったのでしょう。ですから、一番良いのはこのような事件には関わらないことだと思ったのです。しかし、別の視点で見るならば、こうしたガリオの判断もまた、その背後で神が導いておられたことだと言えるでしょう。というのは、ここでガリオが下した裁定は、キリスト教もまたユダヤ教同様、ローマ法の保護の下にあることができるという内容だったからです。これは、後にローマ皇帝ネロがキリスト教を迫害するまでの約12年間(ネロの迫害はA.D.64年。ガリオの統治はA.D.52年であった)、キリストの福音がローマ法と衝突しないで、ローマ帝国内に浸透していくための神の導きによるものだったのです。

 このように神は、時に、ご自分のみこころをなされるために、未信者の為政者を用いることもあるのです。かつてイエス様がお生まれになられた時もそうでした。預言者ミカによると、救い主はベツレヘムで生まれると預言されていましたが、その父ヨセフと母マリヤが住んでいたのはガリラヤのナザレでした。実に150キロも離れたところにいたのです。その救い主がベツレヘムで生まれるために、主はどのようなことをされたでしょうか。ローマ皇帝アウグストの人口調査の勅令を用いられました。それでヨセフとマリヤは、ベツレヘムに上って行ったのです。ヨセフが、ダビデの家系であり、血筋であったからです(ルカ2:4)そしてここでは、福音がローマ帝国一帯に広がるために、アカヤの地方総督ガリオの裁定を用いられました。それはまた、先に幻によってパウロに主が約束されたことを守るためでもありました。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。」

 皆さん、私たちの神はどこまでも約束を守られる方であり、歴史を支配し動かしておられる方です。未信者を用いてまで、ご自分のみこころを行われる方なのです。そして、この方のみこころに従って歩もうとする者を顧みてくださり、行き届いた配慮を示してくださる恵みの方なのです。であれば、私たちがどうしようもない大きな問題に圧倒されることがあっても、この方を見上げるなら、そこに大きな希望を抱くことができるのです。それは、この方がどんなに小さなことをも見逃さず、すべてのことを働かせて益としてくださるあわれみ深い方だからであって、そのことがわかるとき、私たちの悩みはすべて消え失せるからです。私たちが見なければならないのは、目の前のちっぽけな問題ではなく、この歴史を動かし、ご自分のみこころのとおりに導いておられる神なのです。

 Ⅱ.神のみこころなら(18-21)

 次に、18-21節までのところに注目してみましょう。まず18節です。
「パウロは、なお長らく滞在してから、兄弟たちに別れを告げて、シリヤへ向けて出帆した。プリスキラとアクラも同行した。パウロは一つの誓願を立てていたので、ケンクレヤで髪をそった。」

 1年6ヶ月という、コリントにおける異例の長い滞在の後、パウロはアクラとプリスキラ夫妻を伴ってシリヤに向かいました。このシリヤというのは、彼が送り出されたアンテオケ教会がある所です。約2年にわたる第2回目の伝道旅行を終えて、ひとまず帰ろうとしているのです。彼らは、船で、コリントの東側にあったケンクレヤという港から出帆したのですが、そのケンクレヤで、髪をそったことが記されてあります。パウロは一つの誓願を立てていたので、その誓願を終えたこの時、髪をそったのです。この誓願とは旧約聖書に定められていた「ナジル人の誓願」のことではないかと考えられています。このナジル人の誓願については、民数記6章2~5節のところに記されてありますが、このところによると、このナジル人の誓願とは、主のものとして身を聖別するための特別の誓いのことで、この期間はぶどう酒や強い酒を断たなければなりませんでした。また、この誓願を立てている間は、頭にかみそりを当ててはならなかったのです。髪を切ってはいけないということです。ですからパウロはある固い決意のもとに自らを聖別して一定の期間を過ごし、その願いの期間が満ちたので髪をそったのです。パウロが聖別してまで願っていたこととはいったい何だったのでしょうか。それが何だったのかはここには書いていないのではっきりはわかりませんが、恐らく彼のコリントでの伝道と何か関係があったのではないかと思います。コリントでは激しい迫害がありました。この先どうなるかもわからない中で、1年半も腰を据えて伝道したのです。そうした中で与えられたのが主の励ましと約束の言葉でした。「恐れはならない。わたしはあなたとともにいる。だれもあなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるから・・・」と。それはパウロにとってどれほど大きな慰めであり、励ましであったでしょうか。そうした中で彼は、コリントでの伝道が守られるように、特別の誓願を立てたのだと思います。そのコリントでの働きを終えた今、その期間が終わって髪を剃り、シリヤに向けて出帆しようと思ったのです。それほどの固い決意と期する思いをもってコリントでの宣教に励んだのでした。

 ところで、彼らがエペソに着くと、パウロはアクラとプリスキラをそこに残し、自分だけ会堂に入って、ユダヤ人たちと論じました。すると人々は、もっと長くとどまるようにと頼みましたが、彼は聞き入れませんでした。どうしてでしょうか。21節をご一緒に読んでみたいと思います。

「神のみこころなら、またあなたがたのところに帰って来ます。」と言って別れを告げ、エペソから船出した。」

 エペソといったらアジア州の首都です。かつてパウロが伝道することを切望していた町です。その時には、聖霊によってアジアでみことばを語ることを禁じられたので、急遽進路を変更してマケドニヤに渡ったという経緯がありました(16:6)。しかし、今、こうしてようやく念願叶ってやってきたこのエペソ、しかもこれまでになく人々の反応は好意的でかつ熱心でした。もっと長くとどまって、みことばを聞かせてほしいと懇願するほどでした。それなのに彼らに別れを告げて、船出したというのはどうしてだったのでしょうか。どうも水が合わなかったとか、早くエルサレムやアンテオケに帰りたかったということではなかったようです。というのは、その後でパウロはすぐに第三回目の伝道旅行を始めると、このエペソにやって来て3年にわたり、腰を据えて伝道しているからです。とすればむしろこのエペソでの滞在を一端切り上げてでもエルサレム、そしてアンテオケに戻らなければならなかった事情があったからと考えられます。ではその事情とは何だったのでしょうか。

 聖書はそれをこう言っています。「神のみこころなら、またあなたがたのところに帰って来ます」つまり、そこにとどまることは神のみこころではなかったということです。ここで彼が「神のみこころなら」と言っている言葉に注意したいと思います。というのは、私たちもよくこの言葉を使うからです。「どうですか、今度・・に来ませんか。大歓迎しますか・・」「神のみこころだったら・・・」「今度、是非、・・しましょう」「神のみこころだったら・・・」そう言うではありませんか。しかし、よく考えてみると、私たちがこの「神のみこころだったら」という言葉を使う時には、どちらかというと消極的な意味で使っているのではないでしょうか。自分の本心を信仰のオブラートに包んで装うかのようなことに使うことが多いのです。しかし、この言葉はそのような言い訳や責任を回避するような場合に使うような言葉ではないのです。むしろ、その事柄が求める重荷を引き受けていく信仰の決断、従っていく服従とともに使われることばなのです。いわば「神のみこころならばどんなことでもす。」というパウロの気持ちの表れです。このときパウロはそれほど悩んでいました。エペソにとどまるべきなのか、それともエルサレムに向かって行くべきなのか、二つの道を前にして相当悩んだのではないかと思うのです。そのような時に、彼の下した判断の基準は何だったのか。それはただ一つ「神のみこころなら」ということでした。そして彼に対する神のみこころは、カイザリヤに上陸してエルサレムに上り、教会にあいさつしてからアンテオケに下って行」くことでした。あれほど行きたいと思っていたエペソの町で、こんなに自分を歓迎してくれるなら、だれだってずっとそこにとどまって伝道したいと思うものです。彼もそうしたいと思ったに違いありません。しかし、今は違う。今主が願っておられることはエペソにとどまることではなく、エルサレムに向かうことだと示され、そのように決断したのです。なぜそこまでしてエルサレムに行かなければならなかったのかはわかりません。恐らく、それはエルサレムの貧しい聖徒たちを助けるための献金を持っていくためではなかったかと思います。エルサレム教会の貧しい兄弟たちを助ける献金はすでにアンテオケ教会が初めていたことでしたが、彼はそれを生涯の自分の務めとして行っていたのです。ですから、せっかくエペソでの伝道の道が開かれたにもかかわらず、それを振り切って、エルサレムに向かって行ったわけです。それが神のみこころと確信したからです。

 パウロは、自分の願いや人々の親切などによって心動かされるような人ではありませんでした。彼にとってはいつも「神のみこころ」が第一だったのです。神が願っていることは何かを求め、そこに生きたのです。ですから、どんなに自分に好意を持ってくれる人がいようとも関係ありませんでした。エルサレムに向かってまっしぐらです。もしエペソに戻ってくることが神のみこころならば、戻ってくるのです。どこに行くか、何をするかは、すべて神のみこころにかかっていました。彼がケンクレヤで髪をそったということもそうなのです。彼はコリントで誓願を立てていましたが、誓願もまた神に向かって立てられるものです。そのように彼は常に神を見つめて生きていたのです。
 それは私たち信仰者の姿でもあります。皆さんはどこを見つめて生きるのでしょうか。何を基準にして生きるのでしょうか。私たちは常に神を見つめて生き、神のみこころに従って生きる者でありたいと思います。

 Ⅲ.教会に仕える者として(22)

 ではその神のみこころを、どうしたら正しく判断することができるのでしょうか。最後に、どうしたら神のみこころを正しく判断することができるかについて触れておきたいと思います。私たちが神のみこころを判断する基準は、もちろん神のことばです。神のことばである聖書は何といっているかがその基準です。しかし、その神のことばとともに、私たちが覚えておかなければならない大切な原則があるというのです。それは、教会に仕える者としてどうあるべきなのかという視点です。22節をご覧ください。

「それからカイザリヤに上陸してエルサレムに上り、教会にあいさつしてからアンテオケに下って行った。」

 15章36節から始まった約4年間におよぶ第二次伝道旅行が終わりを迎えます。パウロはエペソを船出するとカイザリヤに上陸し、陸路エルサレムに向かいました。そして、教会にあいさつしてから、自分を宣教に送り出したアンテオケ教会へと下って行きました。エペソでの宣教を切り上げてでもこのエルサレムに行かなければならなかった理由については、先ほども申し上げたように、エルサレム教会の貧しい兄弟たちを助けるために献金を手渡すためでした。献金を届けるためならば他の人を遣わすこともできたでしょうが、彼が献金を届けたのには、それがただ単に献金を届けることだけでなく、あいさつをするためでもあったからです。ですからここに、「エルサレムに上り、教会にあいさつしてからアンテオケに下って行った」とあるのです。

 教会にあいさつをするとはどういうことなのでしょうか。「ああ、こんにちは。久しぶりですね。お元気でしたか。お会いできて本当にうれしゅうございます。」まぁ、このような会話も含まれるでしょうが、ここで言われている「あいさつ」というのはそうした言葉以上の愛の交わりであり、足かけ4年にも及んだパウロの第二次伝道旅行の成果をこのエルサレム教会に対して報告するということでもあったのです。これはパウロの母教会であり彼を宣教に使わしたアンテオケ教会でも成されたでしょうが、このエルサレム教会に対して宣教の報告を重んじていたというところに、パウロが教会に仕えていた姿を見ることができると思うのです。つまりパウロが行っていた宣教の旅は、決してパウロ一人の個人プレーによるものではなく、教会から送り出され、派遣され、教会を代表して行った教会のわざであったということです。そして、その使命を果たし終えて今、再びその教会に戻り、神が彼らとともにいて行われたすべてのことを報告するのです。これは極めて公的な働きだったのです。ここに私たちは、教会に仕える者としてのパウロの自覚を見ることができます。そしてここにこそ神のみこころを判断していく基準があると思うのです。つまり、自分が行きたいから行く、行きたくなければ行かない、人々が聞き入れるならとどまるが、そうでなかったら退くというようなことではなく、主に召された者として、絶えず教会に仕える者として神のみこころが何なのかを判断し、それに従って行くのです。

 私たちの信仰は、決して個人プレーではありません。神の家族である教会の交わりの中でどうあるべきなのかが求められているのです。パウロがエペソにとどまらなかった理由もそこにありました。個人的にはとどまってみことばを語りたかったでしょうが、神の国全体を考えたとき、それよりももっと重要なことがあることに気づいたのです。それは、献金を届けることでした。献金を届けることによって、聖徒たちを支える交わりの恵みにあずかりたいと思った。また、自分を宣教に送り、そのために祈り、支えてくれた教会の兄弟姉妹にその恵みを証し報告したいと思ったのです。なぜなら、彼の働きは彼だけのものではなく、教会のわざだったからです。

 先月行われたサッカーのワールドカップで、日本は一次予選を通過して決勝トーナメントまで駒を進めましたが、惜しくも1回戦で南米のパラグアイにPK戦の末敗れました。日本チーム3人目の駒野がけったボールはゴール左上のクロスバーを直撃し、外れてしまいました。試合後、駒野がピッチに崩れ落ちると、松井が肩を抱いて一緒に泣き、阿部も目を真っ赤にして駒野を支えました。出番がなかった稲本が笑顔をつくり、サポーターの元へ導きました。主力も控えもみんな一つになって彼を支えたのです。

 教会はまさにサッカーのチームのようです。Iコリント11:26,27には、

「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」

とあります。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。私たちはキリストの体であって、ひとりひとりは各器官だからです。それは、神のみこころを判断する時も同じなのです。家族全体の中で自分がどうあるべきなかを考える。それが大人の信仰であり、神が望んでおられる姿です。
 
 駒野選手は小さい時にお父さんを病気で亡くされ、女手一つで育ててくれたお母さんを「早くプロになって楽させてやりたい」と言っていたそうです。そしてプロになると、大学に通う弟のために安い給料の中から毎月仕送りしていたというではありませんか。この駒野選手の生き方の中に、クリスチャンとしての歩みの大切な原則が見られるのではないかと思うのです。それは、絶えず神の家族である教会という枠組みの中で、自分が何をすべきなのかを判断していくということです。なぜなら、そこに神のみこころがあるからです。ヤコブ4:13~15
には、

「聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」と言う人たち。あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」

 主が私たちに願っておられることは、私たちが神のみこころに生きることです。自分がしたいからするとか、他の人がそのように期待しているからするというのではなく、神のみこころだからそうする。そういう基準をもって進んでいきたいものです。

使徒の働き18章1~11節 「恐れないで語り続けなさい」

 きょうは「恐れないで語り続けなさい」というタイトルでお話したいと思います。アテネを去ったパウロが、次に向かった町はコリントでした。コリントはアテネから西に60キロほど離れた所にある町で、アカヤ州の首都でした。地図を見ていただくたとわかりますが、アドリヤ海とエ-ゲ海に挟まれたギリシャの先端にあるペロポネソス半島の付け根に位置する町で、海と陸の交通の要所でした。ですから、商業と貿易で大変栄えていました。しかし、そのように商業が発展し、繁栄するところには必ずといってよいほど道徳的な乱れが蔓延するものです。このコリントも例に漏れず極めて堕落していて、特に性的な不品行が横行していました。「コリント風にふるまう」ということばが、不品行を行うことを意味するほどでした。パウロは、この町で1年半も腰を据えて伝道したのです。彼が一つの町でこんなに長い間滞在することは、あまり例のないことです。いったいどうして彼はそんなにも長い間伝道を続けることができたのでしょうか。

 きょうはその理由を三つのポイントで学んでいきたいと思います。第一のことは、そこに信徒による愛の励ましがあったからです。第二に、そこに多くの救われた人がいたからです。第三に、何よりもそこに神の励ましがあったからです。

 I.愛の励まし(1~5)

 まず第一に、そこに愛の励ましがあったことを見ていきたいと思います。1~5節までをご覧ください。

「その後、パウロはアテネを去って、コリントへ行った。ここで、アクラというポント生まれのユダヤ人およびその妻プリスキラに出会った。クラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命令したため、近ごろイタリヤから来ていたのである。パウロはふたりのところに行き、自分も同業者であったので、その家に住んでいっしょに仕事をした。彼らの職業は天幕作りであった。
パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人とギリシヤ人を承服させようとした。
そして、シラスとテモテがマケドニヤから下って来ると、パウロはみことばを教えることに専念し、イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちにはっきりと宣言した。」

 コリントに行ったパウロは、そこで、アクラとプリスキラという夫妻の家に向かいました。彼らは、クラウデオ帝によるユダヤ人追放令によって近ごろイタリヤから来ていたのですが、パウロと同じ天幕作りをしていたことからそこに住んでいっしょに仕事をしながら伝道しようと思ったからです。ガマリエルの門下生で、バリバリの律法学者であったパウロが、アクラとプリスキラと同じ天幕作りをしていたというのは意外です。実は当時のユダヤ教の教師と呼ばれていたラビや多くの律法学者たちは、何らかの仕事をしながら奉仕していたと言われています。彼らはその働きに対して報酬を受けることは正しくないと考えていたからです。ですからパウロも律法学者でしたが、何かの仕事をしながら律法を教えていたのでしょう。彼の出身地のキリキヤ地方は昔からキリキウムと呼ばれる山羊の毛の織物で有名で、その生産地でもありましたから、こうした郷土の手工業を身につけていて、それを利用して天幕作りをしていたのでしょう。こうしたことは、すでにテサロニケでもしていました。Ⅱテサロニケ2:9には、

「兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。」

とあります。パウロは、テサロニケの人たちに負担をかけまいと、昼も夜も働きながら伝道しました。それは多くの労苦が伴うことでしたが、そうすることによって救われたばかりのテサロニケの人たちに勤勉であることの大切さと、福音を伝えていく者の姿勢を示そうとしたのです。しかしながら、Ⅰコリント9:11~12を見ると、一方でパウロは次のようにも言っています。

「もし私たちが、あなたがたに御霊のものを蒔いたのであれば、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか。もし、ほかの人々が、あなたがたに対する権利にあずかっているのなら、私たちはなおさらその権利を用いてよいはずではありませんか。それなのに、私たちはこの権利を用いませんでした。かえって、すべてのことについて耐え忍んでいます。それは、キリストの福音に少しの妨げも与えまいとしてなのです。」

 どういうことでしょうか。昼も夜も働きながら、神の福音を宣べ伝えると言っておきながら、ここでは、働き人がその報酬を得るのは当然であるとも言っています。御霊のものを蒔いたのなら、物質的なものを刈り取るのは決して行きすぎではない・・・と。働き人にはそういう権利があるというのです。なのにその権利を用いないなかったのはどうしてだったのでしょうか?それはキリストの福音に少しの妨げも与えないためです。実はこのコリント教会の中には、パウロが伝道を名目に人々からお金を奪い取っているとか、だまし取っていると陰口を言う人たちがいたのです。本来ならば、働き人がその報いを受けるのは当然ですが、そうした批判や中傷が他の信者たちへのつまずきになるならばよくないと、彼は、一切の報酬を受け取らず、自分で働きながら伝道したのです。ですから、働きながら伝道するというのは本来の姿ではありません。本来神の福音に仕える者はその報酬を受ける権利があるし、受けてもいいのです。しかし、もしそのようなことで一人でも信仰がつまずくことがあるとしたら、そういう誤解がないように受けないというのがパウロの気持ちだったのです。ですから5節を見てください。ここには、シラスとテモテがマケドニヤから下って来ると、パウロはみことばを教えることに専念しています。シラスとテモテがマケドニヤの諸教会からの献金を持ってきてくれたので、このコリントの人たちからお金を受け取らなくてもフルタイムでその働きに専念することができたのです。そのいきさつをパウロは、Ⅱコリント11:8~9の中で次のように言っています。

「私は他の諸教会から奪い取って、あなたがたに仕えるための給料を得たのです。
あなたがたのところにいて困窮していたときも、私はだれにも負担をかけませんでした。マケドニヤから来た兄弟たちが、私の欠乏を十分に補ってくれたのです。私は、万事につけあなたがたの重荷にならないようにしましたし、今後もそうするつもりです。」

 「他の教会から奪い取って」というのは皮肉です。コリント教会の中にそのように言ってパウロを非難する人がいたので、パウロはそれを逆手にとって皮肉っているのです。彼は決して他の人からお金を奪い取るようなことはしませんでした。そういうことがないように自分で働いたのです。だれにも負担をかけないようにと働きながら伝道したのです。しかし感謝なことにマケドニヤから来たシラスとテモテが、マケドニヤ地方の諸教会、ピリピ、テサロニケ、ベレヤの町の兄弟姉妹からの献金を持って来てくれたことで生活に必要なお金が満たされたので、みことばの宣教に専念したのです。

 それにしても、このような非難や中傷の中で主の働きを続けていくことがどんなに大変なことだったかと思います。なぜ自分がそんなことを言われなければならないのか。なぜ自分だけがこんなに苦しみに会わなければならないのかと、言いしれぬ悔しさで悩んだことでしょう。そのような彼を励まし、立ち上がらせてくれたものは何だったのでしょうか。それは、そんな自分を招き入れて一緒に住まわせ、仕事をしながら彼の働きを力強く支えてくれたアクラとプリスキラという夫婦の存在であり、遠く離れていても、物のやり取りを通してパウロの働きに参加し、福音を広めることに預かろうとしていたマケドニヤの諸教会の信仰と愛の励ましだったのです。

 このアクラとプリスキラ夫妻については、ここに当初ローマに滞在していたユダヤ人でしたが、クラウデオ帝のユダヤ人追放令によってローマを追われ、近ごろこのコリントにやって来たと紹介されていますが、おそらくその過程でクリスチャンになっていたのでしょう。同じ町で神の福音を熱心に伝えているパウロを見て、何とかして助けたいと思ったのです。そして自分たちと同じ天幕作りをしていたことがわかると自分たちの家に住まわせて、一緒に仕事をしながら彼の働きを支えたのです。これから先の生活のことで不安を感じていたパウロにとって、彼らの存在はどれほど大きな助けであったでしょう。このアクラとプリスキラについては、18節を見ると、その後、パウロがシリヤに向けて出帆した際に同行し、エペソでの宣教に協力したことがわかります。その後もエペソにとどまって良い働きを続けました。ローマ16:3~4では、このアクラとプリスキラ夫妻についてパウロは次のように言っています。

「キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。この人たちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。」

 彼らは自分のいのちの危険を冒してまで、パウロを守り助けてくれたました。何よりも折れかけていたパウロの心を支えたのです。最近、「しんぼう」という本を読みました。これは筋萎縮性側索硬化症(きんいしゅくせいそくさくこうかしょう)という病気で、死を見つめて生きた川口武久さんという方の人生を綴った実話です。タイトルが「しんぼう」とひらがなで書かれてあったので、おそらく「辛抱」ということかと思って読み進めていったら、それは「辛抱」ではなく「心棒」であることがわかりました。川口さんが「しんぼう」とつけたのは、ご自分を支えてくれた人々に対する感謝の気持ちからでした。人はみなその心が支えられて生きています。「人生」というのはそういうことでしょう。「人生」とは人を生かし、自分を生かすと書きますが、まさにアクラとプリスキラ夫妻の存在はそのような存在であり、パウロの心を支えた「しんぼう」だったのです。

 また、シラスとテモテを通して届けられたマケドニヤの諸教会からの献金もまたパウロを支えた「しんぼう」でした。それはパウロがピリピ4:16で「私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。」と言っているように、この献金に彼らの信仰と愛が表されていたからです。そのような姿を見ることは、伝道者にとってと゜れほど大きな喜びでしょう。マケドニヤの諸教会から贈り届けられた献金は、本当にパウロを慰めてくれました。一家をあげて主に仕え、教会に仕え、牧師に仕えるそうした信徒たちの存在は、本当に尊いものがあるのです。このように自分にできることとして宣教の働きに参与していこうとする信徒たちの存在が、教会を力強く建て上げていくのです。その一つの証しをここに見ることができるのではないでしょうか。

 Ⅱ.多くの救われる人々(6-7)

第二のことは、そこに多くの救われる人々がいたことです。6~8に注目してみましょう。

「しかし、彼らが反抗して暴言を吐いたので、パウロは着物を振り払って、「あなたがたの血は、あなたがたの頭上にふりかかれ。私には責任がない。今から私は異邦人のほうに行く。」と言った。そして、そこを去って、神を敬うテテオ・ユストという人の家に行った。その家は会堂の隣であった。会堂管理者クリスポは、一家をあげて主を信じた。また、多くのコリント人も聞いて信じ、バプテスマを受けた。」

 シラスとテモテがマケドニヤからの献金を携えてくると、パウロはみことばを教えることに専念し、イエスがキリストであること、すなわち、イエスが旧約聖書に記されてある救い主であることをはっきりと宣言しました。すると、多くのユダヤ人たちは、パウロに反抗して暴言を吐いたので、パウロは着物を振り払ってこう言いました。

「あなたがたの血は、あなたがたの頭上にふりかかれ。私には責任がない。今から私は異邦人のほうに行く。」

 これは主イエスによって遣わされた弟子たちが、伝道のために町々村々に行って伝道したとき、彼らを受け入れないときには、そこを立ち去るときに、足のちりを払い落とすように命じられましたが、それと同じ事ことです(マタイ10:14)。その人たちと絶縁するという意味です。みことばを語るように神から責任をゆだねられている者が、みことばを語る責任を果たしたことを表わしているわけです。その語られたみことばを受け入れるかどうかは、それを聞いた人たちの責任なのです。語る者の責任は解かれます。ですから、そのようなしぐさをした後でパウロは、「あなたがたの血は、あなたがたの頭上にふりかかれ」と言っているのです。これは旧約聖書の預言者エゼキエルが語った言葉の引用ですが、イスラエルの滅びはイスラエル自身が刈り取ったものであって、決して神の責任ではないという意味です。こうしてパウロは、その宣教の対象をユダヤ人から異邦人へと変えていくのです。それはまさに福音が全世界に広げられていくための神のご計画であったと言えるでしょう。

 ところが、そのように激しいユダヤ人たちの反抗の中にも、主を信じる人たちもいたことを聖書は記しています。7節と8節です。「今から私は異邦人のほうに行く」と言ったパウロは、その会堂を出てどこに行ったかと思うと、その隣のテテオ・ユストという人の家に行きました。おもしろいですね、パウロという人は。それほど豪語したのですから、もうコリントの町から出ていくのかと思いきや、その隣の家に移っただけでした。すると何と会堂管理者であったクリスホ゜という人が、一家をあげて信じたのです。また、多くのコリント人も信じて、バプテスマを受けました。

 多くの非難や反抗で苦しんでいたパウロにとって、こうした多くの救いの実がどんなに大きな慰めとなったことでしょう。まさにそれは砂漠の中のオアシスだったに違いありません。伝道者がその働きを続けていくためには次の二つのうちのどちらかがあればやっていけると言われています。一つはこのような多くの実で、もう一つは、安定した報酬です。どんなに経済的に苦しくても、救われる人がどんどん与えられたら、元気百倍、苦しくても乗り越えていけるものです。また、教勢が伸びず思うような成果を得られなくても経済的に安定していたら、何とかやってもいけるものです。しかし、そのどちらもなかったらやっていくことがなかなか困難です。日本の牧師さんの多くはそのような中でも働きを続けているのですから、まあ、それだけでもすばらしいと言えるでしょう。パウロはそうした経済的な苦しさや多くの人たちからの非難や中傷に悩まされる中でも、このように多くの救われる人たちを見ることがでたのですから、どんなに励まされたことかと思います。どんなに状況が厳しくてもそうした多くの救霊の実は、彼に喜びと希望を与えたに違いないのです。

 Ⅲ.神の励まし(9-11)

 しかし、何よりも大きな励ましは、そこに神の励ましがあったことです。9~11節をご覧ください。

「ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」と言われた。そこでパウロは、一年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。」

 このようにパウロがコリントで伝道を続けていた時、ある夜、主が幻によってパウロに言われました。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。」と。「恐れないで」と言うのには、この時パウロが何かに恐れていて、そのために祈っていたからでしょう。アクラとプリスキラという伝道の協力者が与えられ、マケドニヤの諸教会からは励ましの献金が届けられる。激しいユダヤ人たちの抵抗の中にも会堂管理者クリスポは一家をあげて主を信じたばかりでなく、多くのコリント人も信じて、バプテスマを受けました。これ以上の励ましはありません。いったいこのときパウロは何を恐れていたのでしょうか。

 東京恩寵教会名誉牧師の榊原康夫先生は、「使徒の働き」の注解書の中で、このときパウロが二つのことを恐れていたのではないかと言っています。
 一つは、ユダヤ人の激しい迫害です。精力的なパウロの伝道によって多くの人が主を信じてバプテスマを受けるようになると、そのことでねたんだユダヤ人たちが反抗し、激しく迫害しました。パウロはこうした迫害を恐れていたのです。ですから10節のところで主は、「だれもあなたを襲って、危害を加える者はいない」と語っておられるのです。パウロともあろう人間がそんな迫害におびえるなんて情けないと思う人がいるかもしれませんが、そういう人は本当の意味で迫害の恐ろしさを知らない人です。特にユダヤ人の迫害は中途半端なものではありませんでした。神を冒涜するということで、彼らは命がけで襲いかかってきたのです。それはユダヤ人して同じ神に仕えていたパウロだからこそよく知り得ていたことでもありました。彼はそうした人たちの迫害を恐れていたのです。

 パウロが恐れていたもう一つのことは、登り詰めた山頂からいつ転がり落ちるかという不安です。パウロは、マケドニヤの諸教会から献金が届けられると全生活を伝道にささげられるようになりましたが、そうなると今度は全面的に献身し教会が公にバックアップしてくれる仕事に、不安が生じるようになったというのです。いわゆる成功すればするほど、かえって落ち目になるのが恐ろしい、という心理です。皆さん、わかりますか。人は成功すればするほど、逆に、いつ落ちるかと逆に心配になるものです。人はたびたび、困難と苦労の中にいる時にはそこからはい上がろうと緊張し、必死になって頑張っているので、あまり怖さを感じません。先のことを考える余裕がないからです。しかし、ある程度成功し、心にゆとりが生じると、考えることというのは、意外と否定的なことなのです。ここから落ちたらどうしようとか、この先いったいどうなるのだろうかとか、そういったことを考えやすいのです。旧約聖書に出ているあの預言者エリヤはそうでした。彼は、カルメル山でバアルの預言者たちに圧勝した直後、どうしようもない不安と恐れに直面しました。イスラエルの王アハブの妻イゼベルの脅迫におびえて、自殺を願うほどに落ち込んだのです。えにしだの木の陰にすわり、「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」(Ⅰ列王19:4)と。鬱です。ちょっと前にあれほどの大成功をおさめた彼が、鬱的状況に陥ったのです。人は、成功して余裕ができ名声を博した時こそかえって、不安に陥りがちなのです。それは、伝道者も、教会も同じではないでしょうか。おそらくパウロは同じような不安と恐れにさいなまれていたに違いありません。そんなパウロがそうした恐れに打ち勝ち伝道を続けることができたのはどうしてでしょうか。そこに神の励ましがあったからです。力強い主の御声を聞いたのです。皆さん、私たちがどんなに恐れ不安に陥っても、その中で主の御声を聞くいて励ましを受けるなら、その不安や恐れに打ち勝つことができるのです。では、主はどのようにパウロを励ましたのでしょうか。

 まず第一に主は、ともにいてくださると約束してくださいました。10節です。主は、「わたしがあなたとともにいるのだ。」と言われました。このことばは、恐れの中にいたパウロにとってどんなに大きな励ましだったかわかりません。たとえどんなに厳しい迫害の渦中にあっても、苦しんでいるのは自分だけではない。主がともにいて、ともに苦しんでおられることを知ることは大きな勇気が出てきます。私たちが苦しみを耐えがたいと思うのは、自分ひとりだけが苦しんでいると思うからです。しかしクリスチャンにとっては、いつも主がともにいてくださいます。たとい苦しみのただ中においても、自分ひとりだけが放り出されているのではなく、そこに主もともにいてくださるのです。

 孤独に苦しんでおられる方がおられるでしょうか。主は、世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいますと約束してくださいました(マタイ28:20)。この麗しい主イエス様の御腕の中に飛び込みましょう。そのときに皆さんは、孤独のさなかにあって、主が最愛の友となってくださるということを発見するでしょう。62年と5ヶ月の間、連れ添った奥様を天に送られ、独りぼっちになってしまったある牧師が、この真実に目が開かれたとき、こう祈ったと言います。

「最愛のイエス様。また独りぼっちになってしまいました。しかし独りでありながら、独りではありません。あなたがともにいて下さるからです。あなたは絶えず私の友となってくださいました。ですから、主よ、私を慰めてください。憐れんで、力づけてください。この貧しい僕に、あなたが必要だと思われているすべてをお与えくださいますように。」

 皆さん、これは現実です。きれいごとやおとぎ話ではなく、主イエスは私たちの最愛の友なのです。主イエスは私たちを見捨てることも、見離すこともありません。常にどのような状況にあっても、主イエスは確かに私たちの友であることを実証されます。旧約のダビデも次のように告白しました。

「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたがわたしとともにおられますから。」(詩篇23:4)

 次に主は次のように言われました。「だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。」迫害の恐ろしさを経験していたパウロにとって、こうした具体的な約束は、どんなに大きな安心感をもたらしてくれたでしょうか。このように主は、私たちが抱く恐れに対して具体的な約束を与えて守ってくださるのです。

 そして、主はさらに「この町には、わたしの民がたくさんいる」とも約束してくださいました。大勢のコリントの人々が信じたのちにも、まだ多くの「わたしの民」がいるのです。わずかな人々に福音を語り、その人々が救われたからといって、それで満足してしまうのではなく、救われる人々は、主がまだまだ大勢備えておられるのです。であれば、私たちは語り続けていかなければなりません。そのようにまだ大勢の神の民がいるという約束は、神の福音を宣べ伝えている牧師、伝道者、教会にとって何よりの喜びであり、励ましです。孤独にさいなまれていたあのエリヤが立ち上がることができたのも、バアルにひざをかがめず、それに口づけしない人7千人を残しているという約束でした。そうした人たちがこの町にはまだたくさんいるのです。

 であれば、私たちはどうしたらいいのでしょうか。であれば私たちは、語り続けなければなりません。黙ってはいけないのです。恐れないで、語り続けなければならないのです。
 先週、愛喜恵が埼玉の施設にいた時にお世話になった北本の教会の青年会の方々が来られましたが、礼拝後、私の家に来てしばし雑談しておりましたら、その中の一人の姉妹が、「あの、一つだけお聞きしてもいいですか」というのです。何だろうと思って「いいですよ」と言うと、「先生は落ち込む時がないのですか」と言うのです。愛喜恵のお友達なのにちゃっかりその中に私が混ざり、あまりにも情熱的に、楽しくおしゃべりをしていたので、「この牧師は落ち込んだことがないのではないか」と思ったのでしょう。一瞬ドキッとしましたが、この方が何かに悩んでいて、その解決を祈っているんだなぁと察しながら、こう応えました。

「いいえ、私も落ち込むことがありますよ。それもどうしようもない深い悲しみに陥ることがあるんですよ。そういう時にはどうしたらいいかわかりますか。そういう時に一番いいのは淡々と続けることなんです。辛いから、苦しいから、少し休もうと思うと、そのことにばっかり目がいってなかなかそこから脱出できないけれど、そのような苦しみがあっても何でもないかのように続けていくこと。それが1週間続くか、1ヶ月続くか、1年、2年続くかわからないけれど、それを続けていく中で、神様は何らかの解決を与えてくださるから、それを信じて淡々と続けていくことが大切だと思います」

 するとその方は目を大きくして、「ああ聞いて良かった」と言われました。みんな同じように悩んでいることがわかって安心したんでしょう。でも止まってはいけない。その悩みや苦しみの中で淡々と続けていく。それが解決につながっていくのです。

 皆さんも時には悩み、悲しみ、疲れ果て、落ち込むようなことがあるかもしれません。やってもむだだと思えてしょうがない時もあるでしょう。しかし、そのような中でも主は、兄弟姉妹の励ましや救われる民を備えていて励ましてくださいます。また、何といっても神がみことばによって励ましていてくださるのです。ですから、恐れないで、語り続けなければなりません。私たちが覚えておかなければならないことは、「語り続けること」が私たちの役割であるということです。そして救いは主の御業であるということなのです。激しい迫害の中にあってもパウロがこの町で1年半もみことばを語り続けることができたのは、そのような励ましをしっかりと聞き取っていたからでした。私たちもこのような励ましに耳を傾けながら、恐れないで語り続ける物でありたいと思います。

使徒の働き17章22~34節 「知られない神」

 きょうは「知られない神」というタイトルでお話したいと思います。ベレヤからアテネにやって来たはパウロは、そこに偶像がいっぱいあるのを見て憤り、会堂ではユダヤ人をはじめ神を敬う人たちと、また広場では毎日そこに居合わせた人たちと論じて、イエスが救い主であることを宣べ伝えました。すると、耳新しいことを聞いたり、話したりして過ごしていたアテネの人たちは、その新しい教えがどんなものか知りたくて、パウロをアレオパゴスという評議場に連れて行き、そこで彼の教えを聞こうとしました。これが有名なパウロのアレオパゴスにおける説教です。これは純粋な異邦人に語られた伝道説教の一つの例として、とても参考になるものです。きょうはこのパウロの説教から「知られない神」というタイトルで、三つのことをお話したいと思います。

 第一のことは、神は知ることのできる方であるということ。第二のことは、その神とはどのような方かということ。そして第三のことは、だからこのまことの神を求め、まことの神を信じなさいということです。

 Ⅰ.知られない神に(22~23)

 まず第一に、パウロが語った説教の序論にあたる部分から見ていきましょう。22~23節をご覧ください。

「そこでパウロは、アレオパゴスの真中に立って言った。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。」

 「あなたの語ってるその新しい教えがどんなものであるか、知らせていただけませんか」というアテネの人たちのリクエストに答えて、パウロはアレオパゴスの真ん中に立って言いました。この「アレオパゴス」とは、「軍隊の神アレスの丘」に由来し、古来から裁判の行われてきた場所で、アテネの主要な行政機関を含む評議所でした。今の日本で言えば国会みたいなところです。そこで彼は演説を始めたのです。その内容は、「アテネの人たち。あなたがたはあらゆる点から見て、宗教心にあつい方々だと見ております。」というものでした。ついこの前、このアテネの町が偶像でいっぱいなのを見て激しく憤ったパウロです。そのパウロが人々に語る前では、その憤りをあらわにしてけんか腰になったり、頭から彼らを偶像礼拝者だと切り捨てるようなことをせず、落ち着いた口調で、敬意を払いながら、穏やかに語り出すのです。「アテネの皆さん。皆さんは何て宗教心にあつい方々なのでしょう・・・」と。このような語り方は、通常、彼がユダヤ人たちに語る時のやり方とは違います。ユダヤ人に語る時には、まず旧約聖書から説き起こし、そこで預言されている救い主メシヤこそ、あなたがたが十字架につけて殺したあのナザレ人イエス・キリストです。ですから、その罪を悔い改めて、イエスを救い主として信じ受け入れよ、という論法ですが、今回は違います。なぜなら、そこで聞いている人たちはギリシャの人々、すなわち、異邦人だからです。彼らは旧約聖書についての予備知識を持っていませんでしたから、頭から旧約聖書のメシヤがどうのこうの言ってもわからないのです。そこでパウロが注目したのは、彼らのあつい宗教心でした。あついと言っても別に燃えてるわけではありませんよ。その熱心な宗教心です。

 ここで言われている宗教心とは、いわば人間であるならだれしもが持っている普遍的な心の有り様です。それがどんな宗教であるかにかかわらず、だれもが持っている信仰心のことです。ある人にとってはそれが神という形をとらず、ある哲学や価値観であったり、お金であったり、権力であったりしますが、しかしいずれもそれを動かしているのは人間に与えられた宗教心なのです。創世記1章26,27節には、

「神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて、彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」

とあります。神が人を造られた時、「神のかたち」に造られました。「神のかたち」とは、人間に与えられている理性や道徳性、そして宗教性のことです。つまり人間の自分自身を超えた存在に向かう心のことです。「お祈りする心」と言ってもいいでしょう。人はみんなそういう心を持っているのです。ですから、自分の好きなことをして、好きなものを食べて、好きなように生きて、それで満足できるかというとそうではないのです。私たちの存在を超えたお方、私たちを造られた方に向かい、手を合わせ、祈る、交わる、ということを通して、真の満足を得ることができるわけです。フランスの数学者・物理学者・哲学者・文学者・宗教家であったパスカル(Blaise Pascal 1623~1662)は、「私の心は、あなたの中で休む時まで揺れ動いています。」と言いましたが、私たちの心は、この神に向かい、神に祈り、神との交わりを通して、真の平安を得ることができるのです。それは私たちがこの「神のかたち」に造られているからです。そしてパウロはまさにアテネの人々のそうした宗教心に訴えたのです。

 そのきっかけは「知られない神に」と刻まれた祭壇でした。23節、パウロはアテネの町を歩いていると、彼らがこの「知られない神に」と刻まれた祭壇を拝んでいるのを見ました。この「知られない神に」という祭壇とは、昔、この町を襲った疫病から免れるために作られた祭壇です。古代ギリシャの作家であるディオゲネス・ラエルティオス(Diogenes Laertius)の「哲学者の生活」(Live of Philosphers)という著書の中で次のように説明しています。

「BC600年ごろ、恐ろしい疫病がアテネを襲った。町の指導者たちは、彼らの祀る数多くの神々のうちのいずれかが怒ってその疫病を起こしたのだと信じた。神々にいけにえをささげられたが、何の効力もなかった。そのときエピメニデスが立ち上がり、その原因は恐らくアテネの人々が知られない神を怒らせたために違いないと主張した。彼は、アテネに羊の群れを解き放ち、その羊が横たわるすべての場所で、そこで知られない神にいけにえをささげるよう命じた。そうして「知られない神」のための祭壇が至る所に築かれ、その神にいけにえがささげられた。すると疫病は治まった。」

 パウロがアテネを訪れたとき、その祭壇の一つがまだ立っていたのでしょう。人々はそれを熱心に拝んでいたのです。ギリシャ人たちはどんな神であろうとも、それに関心を示さないとその神を怒らせてしまうと考えました。こうした思いは、私たち日本人もよく抱くのではないでしょうか。神様という存在がどういうものなのかはわからないが、とにかくその怒りから免れるために何でもいいから必死に拝もうというわけです。ですから当時このアテネには三千にも及ぶ宗教施設があったと言われていますが、プラスして、このような「知られない神に」の祭壇があったわけです。まさに神々のラッシュアワーです。これはもう宗教心と呼ぶより、アテネの人たちの宗教的不安の現れであったと言えるでしょう。彼らは何でもいいから、とにかく神の怒りから免れるために拝もうとしていたのです。

 それに対してパウロは何と言ったでしょうか。そのように「あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう」と言いました。神は知られない方なのではなく、知りうる方だと言うのです。どうしたら知ることができるのでしょうか。
詩篇19篇1節には、「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」とあります。神が造られたこの大自然には、作者である神の指のあとと性格がにじみ出ています。しかし、それだけではおぼろげに見ているにすぎません。確かにこの自然を見るとき、そこにこれを造られた偉大な方がおられるということを感じますが、その自然を見ただけではこの方がどのような方なのかをはっきりと知ることはできません。自然を通して神を知ることは、私が老眼をかけて見るようなものです。色とか、雰囲気とかはある程度はわかるのですが、度が強すぎるためボケてよく見えません。この「知られない神」がどのような方なのかをはっきりと知るには、神がご自分のことを啓示されたイエス・キリストを見なければなりません。また、イエスについて啓示された聖書を見なければならないのです。聖書こそ神がこ自身について啓示された唯一の書であり、神がどのようなお方なのかがはっきりと知ることができるために、神が人類に与えてくださった最高の贈り物なのです。では神とはどのような方なのでしょうか。

 Ⅱ.知られない神を知る(24~31)

 24~31節までに注目したいと思います。ここにはこの「知られない神」がどのような方なのかについて三つの点で説明されています。まず24~25節です。

「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。」

 まず第一に、まことの神は「世界とその中にあるすべてのものをお造りになられた創造主なる神」です。すなわち、天地の主であられるということです。ですから何かの助けがなければ存在できないようなものではなく、また、鼻で息をしなければ生きていけないような存在ではなく、すべての人にいのちと息と万物をお与えになられた方です。この方についてイザヤはこのように言いました。

「天を造り出し、これを引き延べ、地とその産物を押し広め、その上の民に息を与え、この上を歩む者に霊を授けた神なる主はこう仰せられる。「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約とし、国々の光とする。」(42:5,6)

 また、同じイザヤ44章24節には次のようにあります。「あなたを贖い、あなたを母の胎内にいる時から形造った方、主はこう仰せられる。「わたしは万物を造った主だ。わたしはひとりで天を張り延ばし、ただ、わたしだけで、地を押し広げた。」

 さらに、45章18節でも次のように言われています。「天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、すなわちこれを堅く立てられた方、これを形のないものに創造せず、人の住みかに、これを形造られた方、まことに、この主がこう仰せられる。「わたしが主である。ほかにはいない。」

 皆さん、まことの神は天地を造られ、これを引き延ばし、そこに住む者にいのちの息を与えられた方です。私たちの手を握り、私たちを守り、ご自身との契約の民としてくださる方なのです。この方が主です。ほかにはいません。まことの神は、この天地を創造され、それを堅く立て、人の住みかにし、これを形作られた方なのです。先週も紹介しましたが、ここに登場しているストア派の学者たちは汎神論といって、この世界、自然そのものが神であると唱えましたが、まことの神はそのような方ではないのです。まことの神は全世界を創造さた方であり、ほかのいかなるものにも依存することなく、神ご自身だけで存在することができる方なのです。したがって、天も、天の天もお入れすることのできない偉大な方です。ましてパルテノン神殿がどんなに荘厳であっても、この神をお入れすることなど決してできません。それほど偉大な方なのです。

 第二に、この創造主なる偉大な神は、私たち一人ひとりと関わりを持っておられます。26節をご覧ください。

「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。」

 どういうことでしょうか。「時代」は、世界地図の色分けと、国境の変化で決まります。世界の歴史のどの時代にどの国が勢力を伸ばし、どの時代にどの文化が世界を風靡したかという歴史の流れも、実は神が支配しておられるのです。エピクロス派は、神は人間世界には煩わされない方で、我々とは全く無関係な存在だと説きましたが、いえいえ、神はそのような方ではありません。この歴史の始めからずっと人類の歴史に関わりをもっておられ、ご自身のご計画にしたがって導いておられるのです。それは旧約聖書のイスラエルの歴史を見ればわかるでしょう。神はこの世界を創造されただけでなく、今も歴史を通して導いておられる方であって、この時代に生きる私たち一人一人のささやかな人生の歩みにも、心を寄せ、関わっていてくださるのです。それはまさに28節でパウロが言っているとおりです。

「私たちは神の中に生き、動き、また存在しているのです。」「私たちもまたその子孫である。」

 これはギリシャの詩からの引用です。「私たちは神の中に生き、動き、存在している」というのは、B.C.600年ごろのクレタの詩人エピメニデス(Epimenides)の詩「Cretica」から引用したもので、もう一つもB.C.300年ごろのシチリ島の詩人、アトラス(Atatus)の「パエノメア」(Phaenomena)からの引用したものです。パウロはこのような詩を引用しながら、神は、私たちひとりひとりから遠く離れておられる方ではなく、ごく近くに、いや、私たちののただ中におられることを伝えたかったのです。皆さん、神は私たちから遠く離れた存在ではありません。まことの神はこの天地を造られた偉大な方であり、天の天も、入れることができない方ですが、その方は同時に、私たちのただ中におられるのであって、私たちはその神の中に生き、動き、存在しているのです。

 であれば、どんな結論になるのでしょうか。パウロの結論はこうです。29~30節をご覧ください。

「そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」

 このように私たちは神によって造られた神の子、神の子孫であり、その神の中に生き、動き、存在しているのですから、その神を人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じもののように考えてはいけません。どこの世界に、迷子になった子どもが、近くにいる適当なおとなを父親と考える人がいるでしょうか。「いいや。この人を父親にでもしよう」なんて言いますか。そんなことしたら、父親にされた方も大変です。

 まだ娘が小さな頃に、室内プールに連れて行ったことがありました。途中、娘が「おしっこに行きたい」というので、「じゃ、早く行ってきて」と、私はプールサイドの椅子に座って待つことにしました。おしっこをしてプールに戻ってきた娘が何をするのか眺めていたら、この娘が突然、プールサイドから「お父さん」と言って中に飛び込んだのです。何を血迷ったのかと思い、急いで救助に向かったら、そのお父さんなる人物が私の身につけていた黒いスイミングキャップとゴーグルと全く同じものをつけていたのです。それで娘はお父さんだと思い込んでわけもわからないまま飛び込んだというわけです。それにしても、突然、「お父さん」と言って飛び込まれたその人も大変です。わけもわからないまま「いったい何が起こったのか」と思いながら、必死で救助しなければなりませんでした。

 ですから、大人ならだれでもいいというわけにはいきません。神のようなものなら何でもいいというわけにはいかないのです。このように天地を造られ、私たちを造られた方こそまことの神なのですから、この方を拝まなければならないのです。ではなぜギリシャの人たちはこの方を見いだすことができなかったのでしょうか。

 その第一の理由は、本気で求めていなかったことです。27節には「これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです」とあります。もし探り求めるなら、見いだすこともあるのです。イエス様はこのように言われました。

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」(マタイ7:7~11)

 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれるのです。皆さんは本気で求めていらっしゃいますか。本気で捜しておられるでしょうか。たたいておられますか。だれであっても求めるならば受け、捜す者は見いだし、たたく者には開かれるのです。

 「神に出会った科学者たち」という本がありますが、これは世界で超一流と言われている科学者たちが、どのように神を見いだしたかが紹介されたものです。その中にアインシュタインを超えた科学者と言われる原子物理学者、ランドール・J・フィスク博士の証しが紹介されています。
「私は長い間、真理を求めてきました。物理学を学んだのも、そこで真理に出会いたかったからです。神なんかいないという考えには、どうしても納得できませんでした。こんなにも美しい世界が、偶然の結果だとは信じられなかったからです。私自身が無意味な偶然以上の何者でもないという考えも、あり得ないと思いました。その当時、なぜだか分かりませんが、聖書を読んでイエス・キリストについて知りたいという飢え渇きが起こりました。論理的にも、歴史的にも、イエスの良い知らせは、ほぼ確実だと思われました。しかし、それだけでは、真理とは何かといことが分かるものではありません。ところが、Iコリント2:14の「生まれながらの人は、神のことがらを理解できず、御霊のことは御霊によってわきまえるもの」だとありました。
 聖書を読み進めていくと、それに応じて、私の心の中の何かが共鳴し、今読んでいることが本当だと告げるのです。私たちは、生まれながらの心と五感だけでは、神の真理の現実性を発見することはできません。神は私たちが自分の五感によって、神を発見してほしいとは望んでおられないのです。そうならばどうやって私たちは真理を発見することができるのでしょうか。神は私たちを愛しておられ、ご自分の真理を贈り物として与えようとしておられます。
 ある日、真理の現実性が、いかに力強く私を捕らえました。主をほめたたえ、礼拝するクリスチャンの集会に出たときのことです。私の魂の内側で、神の御霊が喜んでおられるのを感じました。私は突然、泣き出してしまいました。そのように深い、本当に美しい感動を味わったことがなかったからです。神が強く私に望んでくださったので、私はこの神を「私の天の父」と呼んでもよいのだと気づきました。神についての単なる知識にとどまらず、今や神が私の友として、分かるようになりました。宇宙において見ていた神の超越性は、今は私の身近なものとなりました。神の愛と臨在を深く味わっています。確かに神の偉大さは、その創造のみわざ、宇宙や自然界に見ることができます。しかし、その愛と臨在を見ないならば、最善のものを見失ってしまうということになります。私の今の願いは、もっと神を体験したいということです。
 あのダビデが詩篇の中で、「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主のうるわしさを見、その宮で思いにふけるそのために。」
 素粒子物理学の世界は、私に創造者なる神を想像させましたが、イエス・キリストは、私の個人的な神として、私の側に愛に満ちた方として、いて下さるのです。」

 これは神を求めた科学者が、どうやって神を見いだしたのかの一つの証しですが、確かに神を探り求めるなら、見いだすことができるのです。では、探り求めていてもなかなか見いだすことができないとしたら、その原因はいったいどこにあるのでしょうか。それは、捜す方向が間違っていることです。30節には、

「神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。」

とあります。この「無知」は、神の自己紹介が足りないことに起因して起こるものではありません。そうではなく、当然知るべき神を知らずにいる人間の側に問題があるのです。神はこれまでそういう無知な時代を見過ごしてこられましたが、今は、どこてでもすべての人に悔い改めを命じておられます。なぜでしょうか。なぜなら、神はお立てになったひとりの人を通して、十字架と復活という救いのみわざを成し遂げ、信じるすべての人を義と認めようとしておられるからです。31節です。世界中のどこにでも十字架を立ててくださり、罪を悔い改めて、神に立ち返るようにと招いておられるというわけです。これを見なさいというわけです。

 皆さんは、『幸福の黄色いハンカチ』(松竹)という邦画をご存知でしょうか?妻が流産してしまったことでヤケになり繁華街で酒を飲んだ際に、絡んできたチンピラとケンカになりその相手を死なせてしまったことで網走刑務所に入っていた勇作が、その刑期を終えて出所した時の話です。彼は郵便局で一枚のはがきを買って妻にこう書き送りました。
「もし、まだ一人暮らしで俺を待っててくれているなら、目印に黄色いハンカチをぶら下げておいてくれ。もしなければ俺は引き返し、もう二度と夕張には現れないから」
 そして、バスは妻の待つ夕張へと進んでいくわけですが、勇作はもう外を見れませんでした。そこで同乗していた鉄也と朱美が代わりに見るわけですが、その光景にバスの中は騒然となりました。彼らの目に飛び込んで来たのは風にたなびく何十枚もの黄色いハンカチだったからです。それはこの妻の夫に対する愛のメッセージでした。

 神はこの黄色いハンカチのように、全世界に十字架を立ててくださり、これを見なさいと言われました。これを見なさい。ひとり子イエス・キリストを十字架にかけてまでつけて私たちを愛しておられる神が、あなたを待っておられるのだ・・・と。もしかすると、あなたも必死で神を求めておられたかもしれません。なのにその神を見いだすことができないでいたとしたら、それはその求める心が問題なのではなく、求める方向が間違っていたのです。宗教心にあついだけではだめなのです。どんなに神を求める宗教心があっても、その心がねじれていて、自分の力で神を見いだそうとしてもできないのです。どちらかというと人間は、絶えず神以外のものを神とする方向に向かっています。ですから、まことの神を見いだそうとしても、自分を中心とした、自分に都合の良い神を求める方向に傾いてしまうのです。まことの神を知るには、ご自身について記されたこの聖書を通して、そこに現された神のご性質を知ること以外に道はありません。そして、その聖書は、

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

と言っているのです。私とはだれでしょうか。そうです。イエス・キリストです。この方以外に道はありません。この方以外に真理もありません。したがって、この方以外にいのち、救いはないのです。このイエス・キリスト以外に、私たちが救われるべき名としては、人間に与えられていないからです。(使徒4:12)大切なのはどれだけ信じているかという量や深さではなく、何を信じているかという内容であり、中身です。

 今や、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられます。そして、この方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。ですから、私たちはこの方を信じなければなりません。ご存知のように「罪」とは的外れという意味です。方向が間違っているということです。その方向を軌道修正し、まことの神に向かうこと。これが悔い改めです。神は、今や、どこででもすべての人にこの悔い改めを命じておられます。神に立ち返れ。神を信ぜよ。神を恐れて、その命令を守れ。これがすべてなのです。

 Ⅲ.まことの神を求めよ(32~34)

 ですから第三のことは、まことの神を求めなさいということです。では、このようなパウロの説教を聞いたアテネの人たちは、どのように反応したでしょうか。32~34節のところに、パウロの話を聞いていた人たちが示した三通りの反応が記されてありますが、この三つの態度は、いつの時代でも人間が示す反応です。

 その一つは、あざ笑うという態度です。死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑いました。そんなことあり得るはずがないと頭から否定し、そういう人たちのことを愚かな人だと蔑(さげす)みました。こういう人たちは処女が身ごもったとか、死人が生き返ったということを非科学的だと思い込み、事実を調べようともしません。そして「そんなことは非科学的だから信じれない」と言ってあざ笑うのです。しかし、そのような先入観を持っていて何も調べようとしない方が非科学的ではないでしょうか。

 もう一つの反応は「このことについては、いずれまた聞くことにしよう」という態度です。こういう人たちは一応敬意は表すものの、そうした人たちとは深いかかわりをなるべく持たないようにするのです。いわゆる傍観者的な態度です。争いを嫌う私たち日本人に多いタイプです。このような人たちは福音を聞くと、「いや、私はそのようには思わない」ときっぱりと否定せずに、いろいろな言い訳をして逃れようとします。「子供に手がかかって忙しいの」とか、「定年退職して暇になったら」とか、「何か問題があったら相談するわ」とかと言うのです。こういう態度はいつになっても「いずれまた」という言い訳の材料が残るわけですから、結局いつになっても信じることができません。

 しかし、そのような中にあっても福音を信じて受け入れ、信仰に入った人たちもいたことを聖書は記しています。34節をご覧ください。

「しかし、彼につき従って信仰にはいった人たちもいた。それは、アレオパゴスの裁判官デオヌシオ、ダマリスという女、その他の人々であった。」

 そのように多くの人たちがあざ笑ったり、傍観者的な反応を見せる中でも、数は少なくても、パウロの語った福音を信じ、従う人たちもいました。アレオパゴスの裁判官デオヌシオという人や、ダマリスという女の人たちです。このデオヌシオという人は裁判官でしたから、事実と確証を識別することを専門にしていた人です。それほどの人が信じたということは、この福音にはそれほどの説得力があっということです。裁判官デオニシオが説得されるほどの力が、イエスの復活という確証にあったのです。ですから、問題は、イエスの復活という確証を聞き、それを受け入れるだけの心の備えがあったかどうかです。つまり、悔い改めの心が備えられていたかどうかなのです。

 このデオヌシオは、3世紀の教父で「教会史」を書いたしたエウセビオスによると、その後アテネ教会の初代監督となり、殉教したと伝えられています。またこのアテネの教会はほかにも、2世紀にはプブリオス、クアドラトス、アリステデス、アテナゴラスなどいった偉大な指導者を輩出し、4世紀にも、あの有名な神学者バシレウスやグレゴリウスなどを輩出しました。このような事実をみると、確かに信じた人たちはわずかだったかもしれませんが、その与えた影響には計り知れないものがあったことがわかります。

 私たちを取り巻んでいる状況はまさにアテネです。アレオパゴスでしょう。どんなに福音を語ってもそれに見向きもしない人がほとんどです。神の超自然的な救いをあざ笑う人たちや、「いずれまた聞こう」という人ばかりのように見えます。世の終わりが近づけば近づくほど、そうした傾向はますます大きくなっていくことでしょう。しかし、そうした中にも神を捜し求め、信仰に入る人たちもいたのです。神は「知られない神」ではなく、「知ることができる神」です。神を捜し求める者には、見いだすことができる方なのです。問題は、求めているかどうかです。また、正しい方向に向いているかどうかなのです。神は、イエス・キリストを通して、その義を現してくださいました。イエス・キリストが十字架で死なれることによって私たちの罪を贖い、三日目によみがえられたことで、その確証をしてくださいました。イエス・キリストを通して現された神こそまことの神であり、まことの救いです。あとは私たちが開かれた心をもって、神を求めるかどうかなのです。どうかこのまことの神に対して心を開いてください。この神を求め、この神を信じてください。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)「今」がその時なのです。

使徒の働き17章16~21節 「その新しい教え」

 きょうは「その新しい教え」というタイトルでお話したいと思います。テサロニケからやって来たユダヤ人たちの激しい迫害によってベレヤからアテネにやって来たパウロは、その町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じ、会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと、また、広場ではそこに居合わせた人たちと論じましたが、その町は昔から芸術と文化、学問の町であったこともあり、彼の教えはなかなか受け入れられませんでした。そのような状況にもかかわらず、パウロはそこでイエスと復活とを大胆に宣べ伝えました。

 きょうはこのパウロのこのアテネでの宣教の姿を通して、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えていくことについて三つのことをお話したいと思います。まず第一のことは、パウロを宣教に駆り立てた怒り、憤りについてです。第二のことは、そのような憤りが宣教の情熱を生み出すことについて。ですから第三のことは、パウロが宣べ伝えたこの新しい教えに生きましょうということです。

 Ⅰ.聖なる憤り(16)

まず第一に16節をご覧ください。

「さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。」

 ベレヤを追われたパウロが、次にやって来た町はギリシャのアテネでした。アテネはベレヤから約320㎞ほど離れたところにありましたが、世界の芸術と文化、学問の中心地でした。今日世界を覆っている哲学や思想、文化や芸術は、すべてここから発していると言っても過言ではありません。アクロポリスの頂に建つパルテノン神殿をはじめとして、野外劇場や音楽堂、さまざまな彫刻は、それを見る人たちの目を釘付けにするほどの魅力があり、ソクラテス、プラトン、アリストテレスといった古代ギリシャの一流の哲学者や思想家たちは、だれもが知っているほどです。パウロの時代にはすでに最盛期をすぎていましたが、そうした面影は依然として残っていたのか、古代ギリシャを代表する美しい町の一つに数えられていました。パウロはベレヤにとどまったシラスとテモテを待っている間にこの美しい町を見学しようと思ったのでしょう。町の中を巡り歩いたようです。

 ところが、そのように見て回るうちにそこに偶像がいっぱいあるのを見て、心に憤りが沸いてきました。フィディアスやプラクシテレスなどが飾られたパルテノン神殿をはじめ、広場にもソロンやコノンといったアテネの名士たちの像が建立していたのです。それは確かに人間の技術や考案によって作られた最高の芸術作品であったかもしれませんが、しかしそれは、異教の祭りのためにささげられた偶像にほかなりませんでした。生けるまことの神ではなく、人間が手でこしらえた偶像の数々です。これほど生ける神を冒涜することはありません。このような現実の姿を目の当たりにしたパウロは、心のうちに憤りがわき上がってきたのです。この「憤りを感じる」という言葉は、他の訳では「怒りに燃える」とか「憤慨する」と訳されている言葉で、新約聖書の中には2回しか出てこない珍しい言葉です。もう一回はどこに出てくるかというと、Iコリント13:5の「怒らず」と訳されている言葉です。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。」の「怒らず」です。パウロは一方で「怒るな」(エペソ4:31,ガラテヤ5:20)と教えておきながら、もう一方では怒りに燃える、憤慨するというのはどういうことかと首をかしげたくなります。それはこういうことです。クリスチャンは基本的には怒ってはならないのです。怒りたいと思う時でも、愛は寛容であり、愛は親切ですから、ご聖霊の励ましと助けによってそうした肉に勝利し、御霊に喜ばれるように生きるようにと努めなければなりません。しかし、そんなクリスチャンでも怒る時がある。いや怒らなければならないとき時があるのです。それはどういう時でしょうか。それはここでパウロが経験したように、神の義が損なわれるような時です。神の御名があがめられるどころかないがしろにされているような時にです。そういう時に、クリスチャンはただ黙ってえへらえへらとやり過ごしていてはいけない。そういう時には怒らなければならないのです。ですから、このパウロの憤りは、いわば神の義から出た聖なる憤りだったのです。

 今日の私たちはどうでしょうか。臭い物にはふたをする的な、あまりにも物わかりのいい存在にはなってはいないでしょうか。ただ沈黙しているだけの、この世と調子を合わせて、なるべく波風が立たないようにと息を潜め、存在感のないとい、見て見ぬふりをしているような、そんな存在になってはいないでしょうか。イエス様は「あなたがた、地の塩です。」(マタイ5:13)と言われました。「もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩をつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」(同)私たちは地の塩なのです。地の塩になるようにがんばりなさいとか、地の塩になるでしょうといった希望的観測で語られたのではなく、「地の塩です」なのです。「塩」というのは味けをつけたり、腐敗を防止する役割がありますが、私たちをその塩だと言われたのです。世の中の他の人々から見たら、「何だってクリスチャンは味けのない、つまらない人たちなんだろう」と言われるかもしれませんが、でもイエス様は「あなたがたは地の塩だ」と言われたのです。ただイエス様についていくだけの取るに足りない小さな者ですが、イエス様がそのように言っておられるのですから、私たちはその塩の役割を果たしていく者でなければならないのです。神の御名が汚されるようなことに対してただ黙ってそれを見ているというのではなくて、パウロのように、心に憤りを抱くような者でなければならないのです。

 いったいパウロはどうしてそのような憤りを感じることができたのでしょうか。過去何百年もの間、多くの人々がこの町にやって来ては同じ光景を眺めたことでしょう。しかし、この時のパウロのように憤りを抱いた人が果たしてどれだけいたでしょうか。おそらくほとんどいなかったのではないかと思います。そうした人たちとこのパウロとでは何が違っていたのでしょうか。

 それは目のつけどころです。目が後ろについていたということではありませんよ。見方が違っていたということです。ほかの人たちとはこの目のつけどころが違っていたのです。他の人たちは、この文化の都にやって来ては、その壮大な建築物とそこに飾られた彫刻の数々の見事さに圧倒され、息もとまらんばかりに、「すごい。すごい」とただ驚嘆したでしょうが、パウロはそうではありませんでした。彼は、こうした文化の都にやって来てその数々の芸術作品を見ても、決して神の目から離れて見ることはしませんでした。いつでも神の目を通して見ていたのです。神がそれをどのようにご覧になっておらるのかという思いで見ていました。ですから、それがどんなにすばらしい芸術作品であっても、それは偶像にほかならないということ、また、そこでどんなに高い哲学が論じられていても、それは神抜きのただの議論にすぎないということを鋭く見抜くことができたのです。

 皆さんはいかがでしょうか。どんな目をもって物事を見ていらっしゃるでしょうか。神の目から見たその研ぎすまされた心の持ち主にしてはじめて、パウロのように聖なる憤りを持つことができるのです。日本にはよく歴史的な建造物や彫刻として仏像などを見ることがありますが、そうした偶像も仏教芸術として鑑賞し、この世の人々と同じ目の位置でしか見ることができないとしたら、ここでパウロが抱いたような聖なる憤りを持つことはできません。もちろん、そうした偶像の数々を見たからといってそれをやみくもに破壊するというのも問題です。そうした偶像が無くなり、この天地を造られた真の神の御名があがめられるように祈り、そのために知恵と忍耐をもって取り組んでいかなければなりません。そのためには絶えず神の目を通して物事を見ていくことが大切なのです。この世と調子を合わせるのではなく、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一心によって自分を変えなければなりません。ご聖霊の助けによって、いつも塩味の効いたクリスチャンとしての歩みを保っていかなければなりません。

 Ⅱ.イエスと復活とを宣べ伝える(17~18)

 第二のことは、そのような聖なる憤りは宣教の情熱を生み出すということです。17,18節をご覧ください。

「そこでパウロは、会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと論じ、広場では毎日そこに居合わせた人たちと論じた。エピクロス派とストア派の哲学者たちも幾人かいて、パウロと論じ合っていたが、その中のある者たちは、「このおしゃべりは、何を言うつもりなのか。」と言い、ほかの者たちは、「彼は外国の神々を伝えているらしい。」と言った。パウロがイエスと復活とを宣べ伝えたからである。」

 17節には、「そこでパウロは・・」とあります。町中が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じたのでパウロは、という意味です。そこでパウロはどうしたのでしょうか。彼は、会堂ではユダヤ人たちや神を敬う人たちと論じ、広場では毎日そこに居合わせた人たちと論じました。つまり、そのような聖なる憤りが、彼にみことばを語らせたということです。彼はそうした偶像に溢れている状況を見て、もういてもたってもいられなくなったのです。

 私たちがみことばを伝えたいと思うのは、それは神のみことばに教えられているところの救いがあまりにもすばらしいので、ひとりでも多くの人にこの恵みを伝えたいと思うからですが、他方、ここにあるように、あまりにも神からかけ離れた現実の姿を見て、じっとしてなどいられないというところにも、その動機が与えられのです。そこでパウロは、会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと論じ、広場では毎日そこに居合わせた人たちと論じました。

 するとそこにエピクロス派とストア派の哲学者たちも幾人かいて、パウロと論じ合っていました。エピクロス派というのは、紀元前300年ごろエピクロスという人がアテネで開いた学派で、快楽こそ人生の主要な目的であるという教えです。ですから英語で快楽主義のことを何というかというと、「エピキュリアン」(Epicurean)と言います。このエピキュリアンというのは本来、このエピクロスの教えを奉じる哲学者たちという意味ですが、その教えが快楽こそ人間の本性であると唱えたことから、これを信じる人たちを快楽主義者、エピキュリアンと呼ぶようになったのです。

 また、ここにはストア派と呼ばれる哲学者たち出てきます。このストア派という人たちは買い物ばかりしている人たちのことではありません。ストア派というのはやはり紀元前300年ごろのことですが、ゼノンというキプロス人によって唱えられた教えを信じていた人たちです。この人たちは汎神論といってすべてが神であるという考えから、世界=神なんだから人生の主要な目的はこの宇宙精神と一つになることだと唱えました。それは実際生活においては禁欲主義、厳粛主義となって現れました。よく「ストイック」という言葉を聞きますが、あのストイックというのは「ストイシズム」から出た言葉で、このストア派の影響によって生まれた一つの精神的態度のことです。なぜこの学派がストアと呼ばれるようになったかというと、この教えを始めたゼノンという人が柱廊で教えたことに由来しています。「柱廊」のことをストアと言ったので、柱廊で教えている人たちのことストア派と呼んだわけです。

 このエピクロス派やストア派の哲学者たちは、パウロと論じていてどう思ったでしょうか。「このおしゃべりは何を言うつもりか」とか、「彼は外国の神々を伝えているらしい」と言いました。この「おしゃべり」という言葉は「種をついばむ鳥」という意味ですが、そこから「広場のくず拾い」、「浮浪者」などを指すようになり、ついには、あちらこちらから知識を「受け売りする者」を意味するようになりました。28節にはパウロがギリシャ哲学を引いて説教していますから、そうしたパウロの態度を自分の知識をさらけ出す知識の受け売り人であるかのように見えたのでしょう。そして、そうした受け売りの知識はレベルが低いと見下し、聞く耳を持たなかったのです。

 それから他の人たちは、「彼は外国の神々を伝えているらしい」と言いました。それはパウロがイエスと復活とを宣べ伝えていたからです。彼らにとってはイエスが神であり、父なる神はこのイエスをよみがえらせたという説教を聞いたとき、新しい神々としか理解することができなかったのです。彼ら自身も多神教を信じていたので、そうした類の新しい宗教の一つにしか映らなかっのでしょう。

 何ということでしょう。これほどの知識を持ちながら、神が御子イエスをこの世に遣わし、私たちの身代わりになって十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたことによって、信じるすべての人に罪の赦しと永遠のいのちが与えられるというこの単純な福音のメッセージがわからなかったとは。彼らは超一流の知性の持っていた人たちですよ。そうした人たちがこんなに単純で、簡単なことが理解できなかったというのは不思議です。パウロは後に同じギリシャのコリントにあてて書いた手紙の中で次のように言っています。

「知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」(Ⅰコリント1:20~24)

 この世の知恵によっては神を知ることができません。神は宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定めてくださいました。十字架につけられたキリストは、そうしたこの世の知恵者たちにとっては愚かであり、つまずきでありましょうが、信じる人にとっては、キリストが神の知恵、神の力なのです。そして、私たちが伝えるべきメッセージは、この十字架のことばです。

 そしてパウロは、この知的な空気が漂うアテネの町で、時代の最先端の学問を担う哲学者たちに対して、いつものようにこの十字架のことばを語りました。イエスと復活とを宣べ伝えたのです。その具体的なメッセージについては次週改めて学びたいと思いますが、28節などを見ると確かにパウロはこの哲学者たちにも理解できるようにと当時の哲学者の言葉などを引用して語ってもいますが、その本質はイエスについてであり、十字架と復活についての言葉でした。彼はギリシャの哲学者たちには福音の言葉は幼稚な教えのように感じるだろうからと、もっと博学をさらけ出して言葉巧みに話そうとしたのではなく、福音のメッセージをストレートに語ったのです。時に語る者には、伝える方法に心奪われて、その内容までもすりあわせるようになり、現代人の理性には合わないのではないかと奇跡を否定したり、復活を否定したりするような誘惑が襲ってくることがあります。あるいは、現代人には受け入れにくいからと罪を語らないで、愛のメッセージだけを語りたいと思うような誘惑にかられることがありますが、そうではなく、聖書そのものを、福音をストレートに語っていかなければならないのです。

 そもそも人々が関心を持ちにくいからと聖書を語らず、耳あたりの良い人情話をしたり、主の教会であるよりも地域のコミュニティーであることを求め、福音を語るよりもイベントやプログラムで人を集めようとすることは、本末転倒なのです。そうやって人を受け入れやすく、わかりやすくと福音を薄め、広げ、延ばしにのばしても、結局のところ何の味もない、薄味の、歯ごたえのないつまらないものになってしまいます。主イエス・キリストの福音は、決して暇つぶしや余興として聞くような言葉ではないし、そのようにして聞けるような言葉でもないのです。人目を引くはでな服装や振る舞いをすることや見栄を張ることを「伊達や酔狂ではない」と言いますが、まさに伊達や酔狂で伝道などできないのです。なぜなら、この福音のメッセージそのものが命のこもったものだからです。私たちはそのような福音によって救われ、今この福音を宣べ伝えているのです。そういう自覚をしっかりと胸に刻みながら、この福音の言葉をまっすぐに宣べ伝えていくものでありたいと思うのです。

 Ⅲ.新しい教え(19~21)

 ですから第三のことは、この神の知恵を受け入れ、神の知恵を持って生きるようにということです。19~21節をご覧ください。

「そこで彼らは、パウロをアレオパゴスに連れて行ってこう言った。「あなたの語っているその新しい教えがどんなものであるか、知らせていただけませんか。
私たちにとっては珍しいことを聞かせてくださるので、それがいったいどんなものか、私たちは知りたいのです。」 アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。」

 そこで彼らはどうしたでしょうか。19節には、そこで彼らはパウロをアレオパゴスに連れて行き、彼の語っている新しい教えがどんなものか聞かせてほしいと言いました。アレオパゴスというのは、人々が集まって町の運営や様々な重要事項を話し合うための会議が開かれていた所ですが、そこに連れて行って、パウロの話を聞かせてほしいと言ったのです。しかしそれはこのアテネの人たちがパウロの語っていた言葉を信じようとしていたからではなく、新しいこと、何か物珍しいことへの関心からのことでした。というのは、彼らは何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日々を過ごしていたからです。そうやっては次々と新しい思想や宗教を取り入れては、それを消費し、捨て去って、また耳新しい別の教えや珍しいことに耳を傾ける。そうやって暇をつぶしては、様々な思想や哲学の話を余興として聞いて時を過ごしていたのです。実に虚しい日々です。しかし、意外とこのようにして日々を過ごしている人も少なくないのです。どんな人でも新しいものに対する好奇心と、古いものに対する執着心との両方の要素を持っていますが、進歩的な人と言われる人はどちらかというと新しいものに対する関心が非常に強く、新しいものがいつでもいいものだと考え、それを追い求める傾向があります。いわゆる流行を追い求めているのです。アテネの人たちがパウロの話を聞きたいと言ったのは、まさにそうした理由からでした。しかし、どんなにイエスとその復活を宣べ伝えても、その真意を理解するのではなく、ただ新しいものへの関心だけでは、聖書が提供している神の救いの恵みと神の国のすばらしさを体験することはできません。大切なのは、いつまでも変わることのない神の言葉を聞き、それを受け入れ、ここに生きることです。そうすれば、永遠に変わることのない神の深い愛を感じながら、日々感謝と賛美の人生を送ることができるのです。

 パウロが語ったイエスと復活の言葉は、確かにアテネの人たちにとっては新しい教えでしたが、それはいわゆるアテネに群がっていた人たちが求めていた「新奇さ」とは違います。彼らの求めていた新しさは、今日のジャーナリズムが提供しているような新しいニュース、つまり週刊誌の新しさであって、しばらくすると古くなっていってしまうようなものですが、しかし、福音の新しさはそういうものではありません。福音の新しさは、ほんとうの意味での新しい教えなのです。それはこの世の知恵や知識によっては到底知ることの出来ない神の啓示に関するものだからです。アテネの学問も芸術も文化も、すべてが一蹴されてしまうようなほんとうの意味での新しい教えなのです。しかし、どんなことがあっても色あせることのない永遠のいのちに関する教えなのです。草はしおれ、花は散ります。しかし、この主のことばはとこしえに変わることがてありません。どんなことがあっても裏切ることがないのです。

 皆さんは何を頼って生きていらっしゃいますか。ほんとうに頼りになるのはこの新しい教え、真理のみことばと、その中に記されてある真実な方ご自身です。

「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」(Ⅱテモテ2:13)

 常に真実であられるこのお方に信頼して、私たちも新しい歩みをさせていただこうではありませんか。

 これまで何度か紹介したことのあるマーガレット・F・パワーズさんが書いた「あしあと」という詩があります。

ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
 わたしと語り合ってくださると約束されました。
 それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
 ひとりのあしあとしかなかったのです。
 いちばんあなたを必要としたときに、
 あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
 わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
 ましてや、苦しみや試みの時に。
 あしあとがひとつだったとき、
 わたしはあなたを背負って歩いていた。」

 どんなことがあっても見捨てたりはしない神、永遠の腕が下に(申命記33:27)感じながら生きる人生は、どんなに励まされる人生でしょうか。ただの新しい教えではない神についてのほんとうの教えである福音を信じて、幸いな人生を歩んでいただきたいものです。

使徒の働き17章10~15節 「聖書を調べる」

 きょうは「聖書を調べる」というタイトルでお話したいと思います。テサロニケで伝道したパウロとシラスは、ユダヤ人たちのねたみによって迫害されたため、ただちにテサロニケを去って、ベレヤへと向かいました。きょうのところには、そのベレヤでパウロがみことばを語った時の様子が描かれています。ベレヤの人たちは、パウロが語ったみことばを非常に熱心に聞き、またただ聞いただけでなく、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べたために、多くの人たちが信仰に入りました。
 
 みことばを熱心に聞き、よく調べることは、私たちの信仰の土台であり、私たちが祝福された信仰生活を送っていくためにとても重要なことです。ローマ・カトリック教会では、聖書は私的解釈を施してはならないのだから、教会の正式な注釈なしには読めないと主張しますが、プロテスタントではそうではありません。プロテスタントでは、私たちクリスチャンには自分で聖書を調べる権利があると主張します。それは、ここにベレヤの人たちが「毎日聖書を調べた」とあるからです。聖書は読んでもわからない書物なのではなく、通常の手段を正当に用いるなら、学者だけでなくだれにでも十分に理解できるものです。通常の手段を正当に用いるならというのは、ある程度の手引きがあればという意味です。字引も使わずに外国語や古典文学を理解することができないように、聖書もまた、そうしたある程度の手段と手引きが必要です。そうした手段や手引きがあれば、だれにでも理解できるものであり、そのことばによって大きな恵みを受けることができるのです。

 きょうは、この聖書を調べることについて三つのことをお話したいと思います。まず第一のことはその必要性です。私たちはなぜ聖書を調べる必要があるのでしょうか。なぜなら、聖書を通して神のみこころを知ることができるからです。第二のことは、ではどのように調べたらいいのでしょうか。ここには、ベレヤの人たちは「良い人たちで」、「熱心にみことばを聞き」、「毎日聖書を調べた」とあります。第三のことはその結果です。聖書を調べることによってどんなことが起こるのでしょうか。多くの人たちが信仰に入るようになります。キリスト教信仰というのは、実に、この聖書に基づいた信仰だからです。

 Ⅰ.テサロニケからベレヤへ(10)

 まず第一に、聖書を調べることの必要性を見ていきたいと思います。10節をご覧ください。

「兄弟たちは、すぐさま、夜のうちにパウロとシラスをベレヤへ送り出した。ふたりはそこに着くと、ユダヤ人の会堂にはいって行った。」

 テサロニケで起こったユダヤ人たちによる激しい迫害を受けて、テサロニケのクリスチャンたちは、夜の闇に紛れてパウロとシラスを密かに町から脱出させ、ベレヤへと送り出しました。このベレヤという町は、テサロニケから西に約80㎞ほど離れたところにある町で、山岳地帯の裾野に位置するところにありました。ですから、追手から逃れ一時的に身を隠すにはちょうどよい町であったのかもしれません。テサロニケから2,3日かけてこのベレヤにやって来たパウロとシラスは、ここで何をしたでしょうか。ふたりはそこに着くと、ユダヤ人の会堂に入って行きました。彼らはベレヤに到着すると、休む暇もなく、会堂に行ってみことばを語りました。彼らは自分の身の安全をはかることや、一息ついて休むことよりも、いかにしてみことばを語ることができるかを最優先に考えました。ですから町に着くとすぐさまユダヤ教の会堂を探し出し、そこに入って行ったのです。会堂ではあのテサロニケの町でしたように、聖書に基づいて論じたことでしょう。そんなことをしたらまた迫害され、捕まって、逃げ出さなければならなくなるかもしれません。そういうことをパウロは、これまでも何度も経験してきたはずです。にもかかわらず彼は、みことばを語ることをやめませんでした。どうしてでしょうか。使徒20:32に次のようなみことばがあります。

「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」

 これは後でパウロがミレトという港にエペソの長老たちを集めて語った告別説教です。その中で彼は、大切なエペソの皆さんはじめ、これまで彼の伝道の働きによって救われた人たちを、神とその恵みのみことばにゆだねると言いました。なぜなら、みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものされた人々の中にあって御国を継がせることができるからです。だからパウロは、みことばを語ることをやめなかったのです。

 事実、この後でパウロとシラスはここでも迫害を受け、アテネに行くことになります。15節にそう記されてあります。ピリピ伝道から始まったこの第二次伝道旅行はパウロとシラスによってスタートしましたが、ルステラでテモテが加わり、トロアスではルカが加わりましたから、全員で4名の牧会チームになりました。しかし、17章1節をご覧いただくとわかりますが、ここには「彼ら」とありますように、これを書いていたルカはピリピにとどまったためテサロニケには行きませんでした。やがてテサロニケを追い出されたパウロとシラス、テモテはこのベレヤにやってきましたが、結局のところこの町からも追い出され、パウロだけがアテネへと向かって行くわけです。そうしますと、ピリピにはルカが、ベレヤにはテモテとシラスがいましたが、テサロニケには伝道者がだれもいなかったわけです。あるいは、これからパウロが伝道して建て上げられていくでありましょう数々の町の教会を牧会する伝道者を擁することは困難になります。いったいどうしたらいいのでしょうか。ですからパウロはここでこう言っているのです。「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます」と。みことばこそ、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるからです。

 皆さん、なぜ私たちはみことばを学ばなければならないのでしょうか。牧師が、伝道者が、教師が、いつ取り上げられるかわからないからです。そうなれば、自分でみことばを読まなければなりません。今日、テサロニケやベレヤのような迫害が、日本の教会に起こるようなことはないかもしれません。日本の教会から牧師や伝道師が奪われるということは考えられないことでしょう。しかし逆のケースが起こる可能性は大です。すなわち、信徒が引き離されるというケースです。会社の都合で日曜日の礼拝から引き離され、また有無を言わさず地方へ飛ばされるということが結構多いのではないでしょうか。いや就職や転勤といったことだけでなく、以外と私たちは地元から飛ばされるケースが多いのです。そんな時私たちは、いったいどうやってこの信仰にとどまっていることができるのでしょうか。みことばです。私たち一人一人が毎日聖書を読み、そこから神のみこころを学び取らなければなりません。それに失敗するならば、信仰生活そのものに失敗せざるをえなくなってしまうからです。

 イエス様は、ご自分を羊飼いに、私たち一人ひとりの信者を羊にたとえで教えてくださいました。ヨハネ10:2~4節です。

「しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。」

 羊飼いであられるキリストが羊である私たちの名前を知っておられるように、羊である私たちも、必ず、羊飼いであられるイエス・キリストの声を知っているはずなのです。知らなかったらどうなりますか?知らないと、そうでない人の声について行って、食べられてしまうことになります。ですから、羊はその声を聞き分けなければなりません。もちろん、羊にはその声を聞き分けるための力、つまり真理の御霊が与えられるので、知っているはずなのですが、微妙なことを言って惑わす霊も多いのです。(例:オレオレ詐欺)ですから、真理の声をはっきりと聞き分け、まことの羊飼いであられるキリストの声を聞くために、いつも羊飼いの声である聖書を読み、そこから羊飼いの心を学び取っていなければならないのです。聖霊は、必ず、自らが霊感された聖書の中にこそ、神とキリストのみ声を聞き取らせてくださるからです。

 Ⅱ.みことばへの熱心(11)

 ではどのようにして聖書を調べたらいいのでしょうか。11節をご覧ください。ここには、ベレヤの人たちがどのように聖書を調べたかが紹介されてあります。

「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」

 これは大変短い記述ですが、私たちの心の中にベレヤの信仰者たちの姿を強烈に印象づける内容です。ここにはベレヤの信仰者たちについて、三つの特質が描かれています。第一に、彼らはテサロニケにいる者たちよりも良い人たちであったこと。第二に、非常に熱心にみことばを聞いていたこと。そして第三に、はたしてそのとおりかと毎日聖書を調べていたという点です。

 まずベレヤのユダヤ人は、テサロニケにいた者たちよりも良い人たちでした。この「良い」という言葉は、口語訳では「素直」と訳されています。偏見を持たない、自由な精神の持ち主であったということです。自分の考え方を絶対視して、他の考え方を受け入れようとしない偏狭なユダヤ人とは正反対の心の態度、真理に対して開かれた心を持っていた人たちという意味です。このような柔らかい、素直な心でいることがどんなに難しいかは、長年生きてきた人ならだれもが経験しておられることでしょう。私たちは自分ではそうでないと思っていても、以外と自分とは違う考えを持っている人の話には心を閉ざしてしまうものです。もちろん、自分が確信している真理を持っていることは大切なことです。しかし、根本的なところにおいてはそれを変えなくても、細部や枝葉末節に至るまで、自分の考えこそ絶対なのだと考えることは、まことに危険であることを言わざるを得ません。ベレヤのユダヤ人たちに当てはめて考えると、彼らはこの世界の造り主にして、すべてを支配しておられる唯一の神がおられることと、その神が救い主を送ってくださることを確信していました。その救い主がだれかははっきりわかりませんでした。その救い主についてパウロから話を聞いたとき、テサロニケのユダヤ人たちは「そんなことありっこない」と言って拒絶しましたが、彼らは違いました。彼らはそのような偏見を持たないで、はたしてそうなのかと聖書を調べたのです。そうした偏見を持っていなかったからです。そういう意味で彼らは、テサロニケにいた人たちよりも良い人たちだったのです。

 ベレヤにいたユダヤ人たちの第二の特徴は、彼らは非常に熱心にみことばを聞いていたということです。この「熱心に」という言葉は、「乗り気になって」とか「心を傾けて」という意味です。同じ「聞く」でも、「傾聴」という言葉があります。ちゃらんぽらんな気持ちで、うわの空で聞くのと違い、その人が言わんとしていることはどういうことなのかを理解しようと、心を傾けて、よく聞くことです。一度に2人、3人から声をかけられたことがあります。「牧師さん、あのね・・・」「牧師、この前はどうも・・・」「牧師さん、ちたょっといいですか・・・」すると頭がクルクル回ってしまいます。どこに焦点を合わせてお聞きしたらいいかわからなくて失礼な態度をしてしまうことがあるのです。ある人がそんな私の姿を見ていて、「あれ、先生は別のことを考えているよ」とズバリ言い当てた方がいらっしゃいました。ドキッとしました。それ以来、「ああ、人のお話を聞くときには集中して、心を傾けて聞かなければならないなぁ」と思わされました。それほどに傾聴すること、熱心に聞くということは大変なことなのです。しかし、このベレヤの人たちは、非常に熱心にみことばを聞きました。パウロが語るみことばに対して、「今晩の晩ご飯のおかずはどうしようかなぁ」とか、「そう言えば、明日のテストの勉強はいつやるかな」とか、そういう気持ちではなく、一言も漏らさないで聞くぞといった、そんな気持ちで聞いていたのです。

 そんな彼らの態度は、次の行動に表れました。それは聞いたことがはたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べたということです。聖書を調べるなどというようなことは牧師とか神学者などの専門家がするようなことだと考えがちですが、このベレヤの人たちはパウロから説き明かされたみことばを聞いて、もう一度自分ではたしてそうなのかと調べたというのです。

 この当時は、今日のように印刷された小型の聖書を、だれもが持っていたという時代ではありませんでしたから「聖書を調べ」るとは言っても、なかなか容易なことではありませんでした。そうした困難を乗り越えて、はたしてほんとうにそうなのかと聖書を調べたわけですから、彼らの忍耐と真理に対する熱心さがどれほどのものであったかがわかります。

 時に説教者は、会衆の中に聖書に詳しい人がいると説教しずらいと言って嘆く人もいますが、それは間違いです。そういう聴衆がいるからこそ、説教が吟味され、一人ひとりの信仰がもっと深められていくのではないでしょうか。ですから、一人ひとりが聖書を読み、はたしてそうなのかと調べ、みことばによって整えられていくことはとても重要なことなのです。もし説教がちょうどグルメ番組のように、できあがった食事を、ただ「おいしい、おいしい」と言って食べるだけなら、そこには何の深みも生まれてこないでしょうが、しかし調理番組のように、そこにいろいろな材料があって、それに手を加え、味を加えて、一つの料理としてできあがっていくような、そんな道筋を明らかにしていくようなものだったら、きっとみんなが恵まれるだけでなく、その中から深い神のみこころを汲み上げていくことができるのではないかと思うのです。私が目指している説教は、そういうものです。ですから、一人ひとりが自分で聖書を読み、信仰が深められ、それが広げられていくように求めていかなければならないのです。

 「みことばの光」という聖書通読の小冊子がありますが、その「みことばの光」を通して、日々の聖書の学びと聖書通読を奨励している、聖書同盟の小山田格総主事は次のように言っています。
「神様は聖書を通してみこころを明らかにしておられるので、神を信じる者が日々聖書に親しむのは当然のことです。聖書は霊的なミルクです。赤ちゃんが毎日飲むなら、知らず知らずのうちに成長していきます。感情的なものを期待する人がいますが、聖書通読に毎日、感動を求めなくてもよいと思います。優しい箇所も、難解な箇所も、淡々と繰り返して読んでいく時、栄養が与えられて成長していくのです。
 聖書を読むには、とにかく続けていくことが大切です。恋人からの手紙を読むのに、一部だけを読んだり、途中でやめたりしませんよね。それと同じで、聖書は神様からのラブレターですから、途中でカットしたりせずに、通して読みます。そして何回も何回も読むのです。」
 
 聖書は霊のミルクだと言われますが、まさにそうですね。赤ちゃんはそのミルクを飲むことによって知らず知らずのうちに成長していくように、私たちも霊のミルクを飲むことによって知らず知らずのうちに成長していきます。いや、もう霊的に大人になったからミルクは卒業したという人は、固い食べ物も必要です。霊の糧であるみことばをより深く、よりわかりやすく人々に伝えるために、自分自身がよく学んでいるべきです。何もわからなくても、聖書だけはわかるという人になれたらいいですよね。そのためにはグルメ番組にならないように、感情的なものを期待するのではなく、難解な箇所も淡々と何回も読んでいくような訓練が必要です。

 北海道日高キリスト教会牧師の下川友也という牧師は、「みことば密より甘い」というご自身の書かれた本の中で、ご自分の聖書通読の経験を紹介していますが、この牧師は何と今から45年前、26歳の神学生の時代に老婦人が聖書通読をしている姿に刺激を受け、ご自分でも始めました。初めのころは年2,3回のペースで読んでいましたが、そのうち月1回のペースにスピードアップし、1996年ごろからなんと月2回のペースに加速しました。そして2009年9月現在で何と613回目に入ったと言っています。このペースでいけば、あと16年あまりで1,000回に到達する計算です。1回でも通読するのが大変なこの聖書を、1,000回も読むというのはなかなか大変なことです。そんなに暇なの?と言われる方もおられるかもしれませんが、そんなことはありません。暇だから読めるというものでもありませんし・・・。その下川先生が、聖書通読の良さをこのように語っておられます。

「聖書66巻は一様ではなく、読みやすいところ、読みにくいところさまざまです。食べ物の好き嫌いと似ていて、苦手なところを読もうとしない傾向があります。聖書通読はそのことを克服します。たとえば、出エジプト記後半の密林、レビ記、民数記の砂漠、大預言、小預言の謎、それらも避けないで通ります。逃げないで目を向けます。不思議なもので、そうすると、思いがけない神の恵みが現れてきます。」

 皆さん、聖書通読は恵みなんですね。義務感からはこのような気持ちは生まれて来ないでしょう。このみことばからきょうはどんなことが教えられるんだろう、どんな恵みが与えらるんだろうといったワクワクした思いが、こうしたみことばへと向かわせてくれるのです。

 「ジョージ・ミューラーの祈りの秘訣」という本がありますが、信仰に生きた人ジョージ・ミューラーの日誌を見ると、彼が自分に与えられた孤児たちの救護事業、孤児院の運営にどのようにあたったかがわかります。それはまさに聖書に親しみ、そこから日々具体的な知恵や力をいただいてのことだったのです。たとえば、1852年10月9日の日記にはこうあります。
「朝食前に読む聖書の箇所はルカの福音書7章であった。百人隊長の記事、ナインのやもめの息子が生き返った記事を読んでいた時、私は心を主に向けて次のように祈った。「主イエスよ。あなたは現在も同じ力を持っておられます。あなたはご自身の事業のために資金を備えることがおできになります。どうかそのようにてください」と。30分ほどあとに、230ポンド15シリングを受け取った。」

 「1854年7月12日 資金は再び30ポンドに減ってしまった。6月15日以来、150ポンドほどしか収入がなかったからである。その上、支出予定の費用が多額であった。けさ箴言を読んでいて、22章19節に「あなたが主に依り頼むことができるように」の箇所に来た。私は祈りのうちに主に申し上げた。「主よ、私はあなたにより頼んでおります。゛も今、私を助けていただけないでしょうか。私は聖書知識協会の働きのために資金を必要としています」と。その灯の最初の郵便で「現在必要な」ことに用いるようにと、ロンドン銀行の額面100ポンドの手形が送られてきた。」

 ジョージ・ミューラーは、聖書を注意深く一貫して読むようにと強く勧めていますが、このように熱心にみことばを求め、その中に書いてあることがはたしてそうなのかどうかと調べ、その中に書いてある神の約束を信じて生きる人に、神は特別の恵みを注いでくださるのです。どのような恵みでしょうか。

 Ⅲ.多くの者が信仰に入った(12~15)

ですから第三のことはその結果です。12節をご覧ください。

「そのため、彼らのうちの多くの者が信仰にはいった。その中にはギリシヤの貴婦人や男子も少なくなかった。ところが、テサロニケのユダヤ人たちは、パウロがベレヤでも神のことばを伝えていることを知り、ここにもやって来て、群衆を扇動して騒ぎを起こした。そこで兄弟たちは、ただちにパウロを送り出して海べまで行かせたが、シラスとテモテはベレヤに踏みとどまった。パウロを案内した人たちは、彼をアテネまで連れて行った。そしてシラスとテモテに一刻も早く来るように、という命令を受けて、帰って行った。」

 パウロが語るみことばを、非常に熱心に聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日調べたベレヤのユダヤ人の多くは、信仰に入りました。そればかりではありません。パウロがベレヤでもみことばを伝えていることを知ったテサロニケからやってきたユダヤ人たちによって群衆を巻き込んでの大騒動が起こると、このクリスチャンになったベレヤの兄弟たちは、そうした追手をうまくかわし、パウロをアテネへと送り出しました。いのちがけで伝道するパウロを、いのちがけで守ったというわけです。そのためにはなみなみならぬ苦労があったはずですが、そうしたことも覚悟で、彼らはパウロを守り、神の働きの一躍を担ったのでした。それは、彼らの中に信仰が生きて働いていたからでしよう。信仰によって一つに結び合わされた間柄でも、このように互いに親身になって祈り、仕えていった姿がみられます。これが信仰のすばらしさです。ベレヤの人たちの中にはこのような信仰が生まれていました。それは、彼らが柔軟な心でみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べたほどに、みことばに生きていたからです。そうしたベレヤのクリスチャンたちの信仰は、そこにとどまったシラスとテモテの指導によってその基礎が固められ、土台が据えられていったにちがいありません。使徒20:4には、このベレヤ教会のリーダーとなったであろう「ソパテノ」という人の名前が出てきますが、彼はパウロの第三回伝道旅行にパウロに同行して、その働きを支えました。それは彼らがパウロが去って行った後も、パウロが語ったみことばを受け取り、毎日熱心に聖書を調べ、神のことばに従って歩んでいたからです。ですからどんな迫害の中にあっても、口では言い尽くせない困難の中でも耐え続け、みことばにしっかりと根ざして、主の幹として固く建て上げられていったのです。すべてはこのベレヤの人たちの聖書に対する熱心さから始まったのでした。

 皆さん。豊かな人材、資金、計画が、教会を成長させるのではありません。立派な会堂があること、牧師がいることでもないのです。一人ひとりが神のみことばに結びつき、このみことばに養われること。それがすべてです。みことばを聞いて、そこからただ一人の羊飼いであられる方の御声を聞き分け、その声に従うこと。それがすべてなのです。そうすれば、主が豊かな牧草地へと導いてくださいます。主は良い牧者です。そして、この良い牧者は、羊のためにいのちを捨ててくださいました。それほどまでに真実なお方。そのお方に従うなら間違いはないのです。「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」(Ⅱテモテ2:13)そのためには、日ごとのみことばとの取り組みを欠かすことはできません。みことばは剣だと言われていますが、どんなに鋭い剣でも日ごとの手入れをしなかったらここ一番という時に錆び付いてしまい、役に立たなくなってしまいます。鞘(さや)から抜くことさえもできなくなってしまいます。ですから、そういうことがないように、いつもみことばの剣を手にして、真の羊飼いであらる主イエス・キリストの御声を聞き分ける。そのようなみことばへの熱い思いを絶えず燃やし続けていきたいものです。

使徒の働き17章1~9節 「イエスという別の王」

 きょうは「イエスという別の王」というタイトルでお話をしたいと思います。7節からとりました。ピリピを去ったパウロたちが、次に向かった町はテサロニケという町でした。この町は、マケドニヤ州の首都で、ユダヤ人の会堂もありましたが、彼らはその町で三週間くらいにわたり聖書からお話すると、ある人たちはよくわかって信仰に入りましたが、ある人たちはそうではありませんでした。そのある人たちというのは5節にありますように、ユダヤ人たちのことです。彼らはねたみにかられて町のならず者をかり集め、暴動を起こして町を騒がせ、ヤソンと兄弟たちの幾人かを役人たちのところへひっぱって行き、大声でこう言ったのです。6,7節です。

「世界中を騒がせて来た者たちが、ここにもはいり込んでいます。それをヤソンが家に迎え入れたのです。彼らはみな、イエスという別の王がいると言って、カイザルの詔勅にそむく行ないをしているのです。」

 彼らはヤソンと兄弟たちを、「世界中を騒がせて来た者たち」とか「イエスという別の王がいると言って、カイザルの詔勅にそむく行いをしている」と訴えたのです。しかし、これはある意味で事実なのです。クリスチャンというのはある意味で世界中を騒がせている者たちであり、イエスという別の王がいると言って、この世とは別のものに従って歩んでいる者たちです。では、どういう点でこの世を騒がせている者たちであり、どういう点でイエスという別の王に従って歩んでいる者たちなのでしょうか。

 きょうは、このことについて三つのポイントでお話したいと思います。まず第一のことは、テサロニケにおけるパウロの伝道です。それは、聖書に基づいて論じるというものでした。第二のことは、ヤソンと兄弟たちが訴えられた一つの理由についてです。彼らは「世界中を騒がせて来た者たち」と訴えましたが、いったいそれはどういう意味なのでしょうか。第三のことは、彼らが訴えられたもう一つの理由についてです。すなわち、イエスという別の王に従っているとはどういうことかについてです。

 Ⅰ.聖書から論じる(1-4)

 まず第一に、テサロニケにおけるパウロの伝道について見ていきたいと思います。1~4節までに注目していただきたいと思います。まず1,2節です。

「彼らはアムピポリスとアポロニヤを通って、テサロニケへ行った。そこには、ユダヤ人の会堂があった。パウロはいつもしているように、会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基づいて彼らと論じた。」

 ここには「彼らはアムポリスとアポロニヤを通って、テサロニケへ行った。」とあります。16章10節で突然、「私たちは」と書いたルカは、ここで再び「彼らは」に戻ります。「私たちは」という言い方は16章17節で終わっているので、ルカはピリピに残ったものと思われます。トロアスで一緒になり、そこから船に乗ってマケドニヤにやって来たルカは、ピリピでの伝道を終えるとパウロの体調が安定したのか、あるいはこのピリピで救われた人たちのケアが必要だったのかわかりませんがそのままピリピに留まり、パウロたちを次の伝道地へと見送ったのです。

 さて、こうしてパウロたちが次に向かった町はテサロニケという町でした。テサロニケは、ピリピから南西に約160㎞ほど離れたところにあって、マケドニヤ州の首都でしたが、首都だけあってか、ここにはユダヤ人も大ぜい住んでいたようです。ユダヤ人の会堂もありました。そこでパウロは「いつもしているように」会堂に入り、三つの安息日にわたって、聖書に基づいて彼らと論じました。この「論じる」ということばは、「並び立てる」という意味で、聖書に書かれてある文章をそこに並べ、その事実が聖書の真理に裏付けられたものであることを立証することを意味します。伝道とか、説教というのは、本来、このようなものでした。聖書的な説教というのは、おもしろい話や人の気に入るようなことを伝えたり、あるいはそれらしきことを臭わせて、それがイエスによっていかに満足されるのかを訴えることでもありません。まず聖書のことばを並べ、救い主とはいかなる者なのかを提示し、次に、それがイエスと一致することを示すことです。

 イエス様が復活後、エマオに向かって歩いていた二人の弟子に話をされたときもそうでした。ふたりが歩いているところにイエス様が近づいて行かれ、「歩きながらふたりで話し合っていることは、何のことですか」と尋ねると、「ナザレのイエスのことです」と、近ごろ起こった十字架と復活のことを告げると、イエス様、「キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」(ルカ24:26)と言われ、「それから、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされ」ました。イエスは、聖書に書かれてある通りの救い主であることを示されたのです。聖書に基づいて論じるとは、そういうことです。

 ではパウロは、どのように聖書から論じたのでしょうか。3節です。
「そして、キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないことを説明し、また論証して、「私があなたがたに伝えているこのイエスこそ、キリストなのです。」と言った。」

 ここでパウロは、イエスがキリスト、救い主であることを簡潔に三つのポイントで説明しました。第一に、聖書には来るべきメシヤは必ず苦しみを受け、死人の中からよみがえられなければならないということの説明です。第二に、論証です。イエスはその通りに苦難を受けて死なれ、三日目によみがえられたということ。そして第三に、結論です。だから私があなたに伝えているこのイエスこそ、キリスト、救い主なんですよ・・・と。

 実にシンプルです。これがパウロがユダヤ人に伝道した時の典型的なアプローチの仕方でした。旧約聖書の背景を持たない私たち日本人に伝えるときには、その背景などをもう少し説明する必要がありますが、しかし、基本的には同じです。説明して、論証して、結論づける、この三つ。すなわち、神のみことばを正しく説き明かすことです。そのような説き明かしがなされるとき、そこに必ず救われる人々が起こされてきます。4節をご覧ください。

「彼らのうちの幾人かはよくわかって、パウロとシラスに従った。またほかに、神を敬うギリシヤ人が大ぜいおり、貴婦人たちも少なくなかった。」

 パウロの説教は非常にじみで、単純なようでありましたが、そのような率直な福音のメッセージが、人々の心をとらえました。彼らのうちの幾人かはよくわかって、パウロとシラスに従いました。ユダヤ人たちの幾人かは信じたのです。しかし、それ以上に注目したいのは、神を敬うギリシャ人が大ぜい信じたことです。この「神を敬うギリシャ人」というのは、改宗した異邦人のことです。そこには貴婦人たちもたくさんいました。このような人たちはユダヤ人ではありませんでしたが、旧約聖書に記された神を信じていて、安息日ごとに会堂に集まって礼拝していました。そこでパウロの語る福音のメッセージを聞いた時、大ぜいの人たちが信じ、テサロニケ教会を形成した最初の人たちとなったのです。十字架のことばが語られるとき、そこには必ずそれを信じて救われる人々が起こされるのです。

「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Iコリント1:18)と言いました。「この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」と。(同1:21~24)神は、みことばの宣教という方法を通して、信じる人を救おうと定められたのです。

 私たちはこの朝、この聖書から論じるということの大切さをしっかりと心に留めておきたいと思うのです。私たちがキリストを宣べ伝えようとする時、知恵を用い、知識を傾け、熱心に議論して何とか相手の人を説得しようと試みることがありますが、最も大切なことは、何に基づいて論じようとしているかということです。私たちの知識や言葉の巧みさ、熱心さ、綿密さといったものによってててはなく、聖書に基づいて論じているかが最も中心的な事柄なのです。十字架のことば、滅びに至る人には愚かであっても、救いを受ける私たには神の力だからです。

 ある一人のご婦人の方が、どのようにしてイエス・キリストの十字架がわかったのかという体験談を話してくださいました。その方が何度か教会の礼拝に行っていたとき、牧師が説教で十字架の言葉を話してくれました。それは感動的な表現というよりも、ただ淡々としたストーリーでしたが、その話を聞いているうちに、なぜだか、自分でも説明ができないけれども、「ああ、このお方が、本当に、私の罪のために死なれたのだ」ということがわかったというのです。十字架の言葉を聞きながら、聖霊が働いてくださって、「この出来事と私は、深い関係があるのだ」ということがはっきりわかったのです。

 ある人はこういうでしょう。「教祖様が、十字架にはりつにされて殺されてしまったような宗教が、どうして人を救うことなんできるのか。」と。あるいは、「だいたいキリスト教というのは非科学的だ。処女から子供が生まれただの、死んだ人が生き返ったなんていうのはありっこない。そんなことを信じてるなんて、クリスチャンはよっぽどおめでたんいだね。」と。
 そうです、十字架のことばは、滅びる人々には愚かに見えるでしょうが、救いを受ける私たちには神の力です。大切なのは、聖書そのものを語ることです。そうすれば聖霊が働いて、そのことばによって救いへと導いてくださるのです。

 Ⅱ.世界中を騒がせて来た者たち(5-6)

 このようにパウロが語った福音のことばに対して、すべての人が信じたかというとそうではなく、そこには反対する人たちも大ぜいいました。5節をご覧ください。

「ところが、ねたみにかられたユダヤ人は、町のならず者をかり集め、暴動を起こして町を騒がせ、またヤソンの家を襲い、ふたりを人々の前に引き出そうとして捜した。」

 ユダヤ人の中の幾人かだけでなく、神を敬う大ぜいのギリシャ人が信仰に入るのを見たユダヤ人は、ねたみにかられ、町のならず者をかり集めて暴動を起こしました。そして、パウロとシラスが宿泊していたであろうヤソンの家を襲い、ふたりを人々の前に引きだそうとしましたが、見つからなかったので、ヤソンと新たに信者になったばかりの数人を引き連れて、市の当局者に告訴したのです。ねたみというのはほんとうに恐ろしいものです。あたかもそれが政治上の問題であるかのようにして反逆罪に問おうとしているのですから・・・。そしてそれが生まれながらの人間のだれもが持っている古い性質であることを思うとき、私たちもまたこの罪に陥らないように注意する必要があります。

 ところで、それが彼らのねたみからであれ、その告訴の理由がこじつけであっても、その中で彼らが言っている内容は、当時のクリスチャンたちへの評価を含んでいてとても興味深いものです。その一つは16節に記されてあることです。彼らはヤソンと兄弟たちを町の役人たちのところへひっぱって行くと、大声でこう言いました。

「世界中を騒がせて来た者たちが、ここにも入り込んでいます。」

 彼らは当時のクリスチャンたちを「世界中を騒がせてきた者たち」と見ていたのです。この「世界中を騒がせて来た者たち」という言い方は、文語訳では「天下を覆(くつがえ)したる彼(か)の者たち」となっています。「天下をひっくり返して来た者たち」という意味です。まるでクリスチャンが物騒な革命家でもあるかのように表現したのです。確かにそれは大げさな言い方ではありますが、しかし、ある意味で真理なのです。クリスチャンは今日のゲリラや時限爆弾をしかけるような過激派ではありませんが、福音のダイナマイトを至る所に仕掛けて歩く革命家なのです。そしてそれらが仕掛けられた所では、個人の人生でも、また家庭でも、その地域社会でも、革命が頻繁に起きているのです。福音が宣べ伝えられる所で何の変化も起こらないという方が、むしろおかしいくらいなのです。以前、アメリカで「イエス愛の革命」という革命が起こりました。かつてヒッパーだった人たちが次々にハッピーに変えられていったのです。そしてその灯がアメリカ全土に、いや全世界に飛び火したのです。イエス・キリストの福音を信じると、これまで体験したことのない平和を得ることができます。それは罪が赦されることによってもたらされるところの神との深い平和なのです。

 リビング・プレイズに、「平和 はじめて知った」という賛美があります。
「平和 はじめて知った イエスに出会ってから
 平和 それは湧き上がる 満たし いかす
 私たちの心を」

 イエス・キリストに出会うことによって、その人の心からキリストの臨在によるほんとうの平和がもたらされるのです。れはその人の人生ばかりか、その家庭、国、世界をもひっくり返すほどの力があるのです。
 
 ある方のお話を聞きました。この方は1953年3月と言いますから、ずいぶん前にイエス様を信じました。その頃はまだ17歳と若い時でしたが、日曜日の夕方、映画でも観ようかと町を散歩に出かけました。すると、5~6人の人たちが手にちょうちんをもってチラシを配ったりしていました。そのうちの一人がニコニコしながら近寄って来て、「良かったどうぞ来て下さい」とチラシを私てくれました。そこには「イエス・キリストの話をします。どうぞいらしてください」と書いてありました。どうしようかと思いましたが、ふと「行ってみようかしら」という思いがわき上がり、行ってみることにしたのです。好奇心旺盛な17歳の春です。「何のために生きているのか。なぜ人は苦労しなければならないのか。生き甲斐とは何か」などを真剣に考えていたときでもありました。
 行ってみると、そこは時計屋の2階で、牧師が一生懸命にお話していました。話の内容はよくわかりませんでしたが、そこに集まっていた人たちの目を見ると、みんなキラキラ輝いていたのです。「キリストを信じるとそうなるのだろうか」と、そんなことを思って、その日は帰りました。
 その女性はそのときの温かい雰囲気を忘れることができず、また教会を訪ねることにしました。そして「キリストこそ私の救い主」と告白して救われることができたのです。あれから55年が過ぎましたが、今でもご健在で、いろいろな所で、「私の人生はほんとうに喜びと幸せに包まれています」と証ししておられます。
 3月の、あの肌寒い中を、青年たちが伝道していなければ、彼女の人生には何の変化も起こらず、何の目的もないまま、だらだらと生きていたことでしょう。しかし、外灯で配られた1枚のチラシによって、彼女の人生がひっくり返ったのです。時計屋の2階で、ひっくり返ってしまったのです。

 イエスは、このような革命をもたらしてくださいます。それは愛の革命です。私たちはそんな革命をもたらしてくれる主イエスの福音を携えて、どこまでも宣べ伝えていく者でありたいと思います。そして、彼らが当時のクリスチャンたちを見て、「世界中を騒がせて来た者たち」と叫んだような、そんな存在にさせていただきたいと思うのです。

 Ⅲ.イエスという別の王(7-9)

 彼らがヤソンと数人のクリスチャンたちを町の役人に訴えたのは、それだけではありませんでした。もう一つの理由がありました。それは7節にあるように、「彼らはみな、イエスという別の王がいると言って、カイザルの詔勅にそむく行いをしている」ということでした。どういうことでしょうか。クリスチャンとは、この世の王をはるかにしのぐ別の王であられるイエスがいて、このイエスに忠誠を尽くしている民であるということです。ですから、このイエスを一国の王や会社の社長が持っているのと同じような支配権を持っておられる方として、従うのです。それはキリストが、私たちの生活と行動の最高の規範であられるということです。とは言っても、イエス様はこの世のものではありませんから、実際的には、クリスチャンであっても、人の立てたすべての権威に従うのです。それがこの世の主権者である王であっても、また、悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうするのです。それは、善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることが、神のみこころだからです(Iペテロ2:13~15)。問題は、そうしたこの世の為政者なり、カイザルの詔勅が、このイエスという王にそむくことを命じたり、イエスという別の王への服従を妨げるように干渉して来たときにどうするかです。その時には、ここに記されてあるように「イエスという別の王がいると言って」戦わなければなりません。

 かつてペテロとヨハネが午後3時の祈りの時間に宮に上って行った時、そこに生まれつき足のなえた人が運ばれて来た事がありました。この人は、宮に入る人たちから施しを求めるために「美しの門」という名の門に置かれていたのですが、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めました。するとペテロは、イエス・キリストの御名によって歩きなさい。」と命じて彼の右手を取って立たせると、たちまちのうちに足とくるぶしが強くなり、まっすぐに立ち上がり、歩き出しました。そして、歩いたり、はねたりしながら、神を賛美して、ふたりといっしょに宮に入って行きました。ここまでは良かったのですが、このことがきっかけで説教したペテロの言葉によって大ぜいの人々が信じると、ユダヤ人指導者は困り果て、ペテロとヨハネを捕らえて尋問しました。「何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか」と。するとペテロはそれがナザレ人イエスの名によるもので、この方以外にはだれによっても救いはないと大胆に語りました。すると返すことばもなかったユダヤ人たちは、どうすることも出来なかったので、これ以上民の間に広がらないように、今後はだれもこの名によって語ってはならないときびしく戒めたのです。するとペテロとヨハネは何と言ったでしょうか。彼らはこのように言いました。4章19~20節です。

「神に聞き従う拠り、あなたがたに聞き従うことの方が、神の前に正しいかどうか、判断して下さい。私たちは、自分の見た事、また聞いた事を、話さないわけにはいきません。」

 この原則は、現代のクリスチャンにも同じです。この世の王がイエスという別の王にそむくことを命じたり、このイエスに従うのを妨げたりするようなことをするときには、その時にはカイザルの命令にそむくようでも、イエスという別の王に従うことを選び取らなければなりません。なぜなら、上に立てられたそうした権威もまた神によって立てられているのであり、神から遣わされた神の僕に過ぎないからです。ですから、もしそうした権威者が、私たちに神とキリストにそむくようなことを強いる時には、その権威者が神からゆだねられた分を越えて、自ら神になろうとしているわけですから、その場合は、クリスチャンは、権力者をサタンの権力の下にあると判断して、神に従うことを選び取らなければならないのです。

 このことは、理屈の上では自明の真理ですが、実際に適用しようとすると、いろいろな難しい問題が絡んでいるのも事実です。どこまで為政者に従ったらいいのかを判断するのが、なかなか容易ではないからです。特に今日の日本のように、そうした為政者が、国民の選挙によって選ばれているとしたら、なおさらのことでしょう。しかし、そうした中にあって考えなければならないと思う事は、どうしてクリスチャンはそこまでしてこの別の王であるイエスに従うのかということです。

 答えは明らかです。それは、このイエスこそ救い主であられるからです。この御名のほかには、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。先ほど申し上げたように、救い主、メシヤは、苦しみを受けて死なれ、その死の中からよみがえられなければなりませんが、そのような方はこの長い歴史といえど、このイエス様以外にはだれもいませんでした。イエスは、苦しみを受けて死なれましたが、その苦しみは私のためでした。私の罪の身代わりとなって十字架で死なれ、私のためによみがえって下さいました。それこそ、イエスが私にとってカイザルとは別の次元の王であられる理由です。

 どの国の王が、私たち国民のために苦しんでくれたでしょうか。どの政府が、私たちのために死に至るまでの苦しみと恥を受けるほどの愛を、示してくれたでしょうか。どの内閣が、私たちの代わりに十字架についてくれたでしょうか。どの知事、総督が、私たちが生きるべき新しい命を、身をもって示してくれたでしょうか。だれもいません。ただ十字架につかれて死なれ、三日目によみがえってくださった主イエス・キリストだけであります。ですから私たちは、最後の票を献げるのは、このイエスのほかにはひとりもいないということを確認することが出来るのです。

 2世紀の中ごろ、スミルナという地域にあった教会の監督ポリュカルポスが、皇帝礼拝を拒否する無神論者のかしらとして捕らえられ、衆人たちが見ている中、ライオンが群がるスタジアムに連れて来られました。総督は、この老人ポリュカルポスに、ねんごろに背教を勧めて言いました。「あなたの年齢のことも、考えて見なさい。カイザルの守り神に違いなさい。無神論を滅ぼせと、ひとことでいいから言いなさい」と。
 するとポリュカルポスは、並み居る群衆を見渡し、彼らを指さして天を仰ぐと、「あの無神論者どもを滅ぼしたまえ」と言いました。
 総督はなおも、「キリストを呪い、カイザルの神によって誓え」と勧めると、ポリュカルポスは答えました。「私は、86年間キリストにお仕えしてきましたが、彼は何一つ悪いことをなさいませんでした。それなのに、どうして、私を救ってくださった主を冒涜することなどできましょうか。」こうして、彼は殉教の死を遂げたのです。

 それはポリュカルポスではありません。実は、この国でも昔、その多くは、キリシタンの時代でしたが、主イエス・キリストを心から愛し、ついには殉教の死を遂げた人々がいたのです。その数何と十数万人もいたと言われております。そうした人々は、激しい迫害の中にあっても互いに愛し合い、助け合い、励まし合って、主を一途に信じて従いました。主イエス・キリストを否むようにという誘惑を受けても断固としてそれを拒み、殉教の死を遂げていったのです。今、そうした殉教者スピリットを継承していくことこそ、日本のキリスト教界全体の復興につながるのではないかと、その祈念碑を建てようという動きがあります。微力ながら、私もそのために祈っている者の人ですが、しかし、問題は、なぜこうした人々は命を捨ててまでも主に従ったのかということです。それは、主がまず愛して下さったからです。このような罪に汚れた者のために、ご自分の命を捨ててまで、十字架にかかって下さり、よみがえって下さったからです。この神の愛と恵みをほんとうに知る時、私たちもまたこの王のために率先して死ぬ事を、本能的に選び取るはずなのです。

「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:6-8)

このキリストの十字架の愛にふれるとき、私たちもまた、この方に自分のいのちを献げても惜しくないと思うようになるのは当然なのです。どうかこの主イエスに心が開かれますように。そして、キリスト・イエスにある神の愛がゆたかに注がれますように。そのとき私たちは、どんなことがあってもこのまことの王であられる主イエスに従っていくことができるようになるのです。

使徒の働き16章19~34節 「主イエスを信じなさい」

 きょうは「主イエスを信じなさい」というテーマでお話したいと思います。ピリピの町で、占いの霊につかれた女奴隷に、パウロがイエス・キリストの御名によって出て行くようにと命じると、その霊は出て行きました。女は助け出されたのです。ところが、そのことでもうける望がなくなった主人たちは、パウロとシラスを訴えて、彼らを投獄してしまいました。しかし、投獄されたパウロとシラスが、真夜中に神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、突然、大地震が起こり、獄舎のとびらが開き、みなの鎖が解けてしまいました。その時に交わされた看守とパウロたちとのことばのやりとりは、とても興味のあるものです。それは、聖書の中でも最も有名な、キリスト教求道の問いと答えが記されてあるからです。それは、次のような言葉でした。29~32節をご覧ください。

「看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。」

 きょうは、この看守とパウロたちの言葉のやりとりを中心に、救われるためには何をしなければならないのかについて、三つのことをお話したいと思います。まず第一のことは、真夜中に牢獄でささげられた賛美と祈りです。クリスチャンは、どんなに状況が暗く、険しくとも、神に祈り、賛美できるという特権が与えられているのです。第二のことは、救われるためには何をしなければならないのか。そのためには、主イエスを信じなければなりません。そして第三のことは、全家族そろって神を信じることの幸いと喜びについてです。

 Ⅰ.真夜中の賛美と祈り(19-26)

 まず第一に、牢獄の中でささげられた賛美と祈りについて見ていきたいと思います。19~26節までご覧ください。

「彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕え、役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行った。」(19節)

 パウロが、占いの霊につかれていた女奴隷から、主イエスの御名によってその霊を追い出すと、もうけるのぞみがなくなった主人たちが、パウロとシラスを捕らえ、役人たちに訴えました。福音を伝えていると、形は違っても、必ずこのような抵抗に遭います。生まれながら罪人である人間は、結局のところ自分のことしか考えられないので、最終的には、自分の利益のことばかりに捕らわれているからです。こうした利己的な人間の自己中心を打ち砕いて、自分を愛するように他の人をも愛することができるまともな人間に造り変えるのが福音です。しかし、そのように利己主義に凝り固まっている人ほど、なかなか福音を好もうとしないのも事実です。ここに登場する主人たちもそうでした。彼らは、パウロたちが占いの霊につかれていた女奴隷から、占いの霊を追い出すと、この女が占うことができなくなってしまったことを知って、パウロたちに敵意を持つようになりました。何ということでしょう。ひとりの女が悪霊から解放されて助け出されたというのに、それを喜ぶどころか、そのことで文句を言うとは・・・。彼らにしてみたら、自分たちの商売道具をぶちこわされたと見たのです。ここでルカが使っている「もうける望みがなくなったのを見て」ということばには★印がついていますが、下の欄外注を見ますと、それは「もうける望みが去った」とか、「出て行った」という意味のことばであることがわかります。占いの霊がこの女から出て行くと、もうける望みも出て行ったというのです。この辺にはルカならではのシャレが見られます。彼はお医者でしたが、機転の効くシャレたお医者さんでした。しかし、彼らにはシャレにはなりませんでした。もうカンカンになって怒りパウロとシラスを長官たちに訴えたのです。「彼らは、ローマである自分たちが、採用も実行もしてはならない風習を宣伝している」ということで・・。群衆もふたりに反対して立ったので、長官はふたりをむちで打って牢に入れ、看守に厳重に番をするようにと命じました。

 このような全く理不尽なやり方に、パウロとシラスはどれほど悔しい思いがあったことでしょう。これから先のことを考えると、一抹の不安がなかったわけではありません。しかし、彼らはつぶやきませんでした。また自己弁護もしようとしませんでした。そのような背中の痛みと足かせによる不自由な状態の中で、彼らは何をしたでしょうか。25節をご覧ください。

「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。」

 何と彼らは神に祈り、賛美の歌を歌っていたのです。この後で大地震が起こり、獄舎のとびらが全部開くという奇跡が起こりますが、そうした奇跡以上に、このような状況の中で祈ったり賛美したりできるということこそ、まさに奇跡です。普通だったら聖霊の導きによってマケドニヤにやって来たのだからものすごい神の御業があるだろうという期待もあったでしょうが、そうでない現実に直面して、言いしれぬ悔しさや不平、文句を言ってもおかくしもなかったでしょう。しかし、彼らは文句や不平の代わりに賛美と感謝をささげたのです。どうして彼らは賛美と祈りをささげることができたのでしょうか。神を信頼していたからです。たとえどのような状況に置かれようとも、神がすべてを働かせて益としてくださると信じていたからです。おそらく彼らはこのように祈ったに違いありません。

「天のお父さま。私たちは今、このようなひどいめに遭っています。なぜ私たちがこのようなめに遭わなければならないのか、今はわかりません。これからどうなっていくのかもわかりません。しかし、あなたは完全なご計画を持っておられます。あなたが私たちをここに導いてくださった以上、そこには私たちの知らない何らかのあなたのご計画があると信じます。どうかあなたのみこころをなしてください。主の御名によって信じてお祈りいたします。アーメン。」

 このように、彼らの祈りが神への信頼と服従に基づいている限り、祈りは自然と賛美に変わっていくのです。この世の歌は調子のいいときには歌うことができるかもしれません。心がうれしくてルンルンしているような時には、「ふん、ふん、ふんふふ、ふふふふん・・・」のように鼻歌も出てくるでしょうが、いったん調子が悪くなりますと、もはや出てくることはありません。「なんで」「どうしてなの」といった嘆きばかりが出てきます。しかし、賛美は違います。賛美は人生の逆境においても歌うことができる歌なのです。いやそうした逆境の中でこそ歌える歌です。ゴスペル、黒人霊歌はそのよい例でしょう。人間のように扱われず、獣同然に扱われていた苦しみのどん底の中で、彼らは神に歌うことができたのです。それは魂の歌であり、人をその深いところから生かす歌なのです。人生の悲しみの中にあっても、あるいは、彼らを奴隷のようにこき使う使用人たちによっても、彼らの魂を鎖で結びつけておくことはできませんでした。彼らは歌によって神を賛美し、魂の自由を得ていたのです。それはこの牢に閉じこめられ、鎖につながれていたパウロとシラスも同じでした。どのような堅固な牢でも、キリストにあって抱いている彼らの喜びを閉じこめておくことはできませんでした。一筋の光も入らない暗やみの中にいても、彼らの心はやみに閉ざされることはありませんでした。彼らの祈りと賛美は、牢獄を天の礼拝の場に変えたのです。彼らの心に与えられていた光は、「真夜中」のやみを突き破って牢を照らしたのです。のろいと不平の声だけがこだましていたであろう獄舎に神を賛美する喜びの声が響いてきた時、他の囚人たちはそれに静かに聞き入っていました。環境や状況に支配されるのではなく、逆にそれを支配し、変えてしまう力、それがクリスチャンに与えられている特権です。クリスチャンには、そのような喜びが与えられ、それを深く味わうことができるのです。パウロはローマ8章35~39節
節のところで、次のように言っています。

「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」

 だれも私たちをキリストの愛から引き離すことはできません。何も私たちを絶望の淵に落とすことはできないのです。私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者になることができるからです。

 仙台の鈴木という牧師先生が昨年、9日間モンゴルに行った時の話をうかがいました。そこで神の恵みについてお話すると、16歳になった若い少年が、鈴木先生に「どうしたらいい父親になれるか」と質問したというのです。まだ16歳なのにどうしてこんな質問するのだろうと思っていたら、この少年は、生まれてすぐに父親を病気で亡くし、女手一つで育ててくれた母親も、つい2週間前に亡くなったばかりで、父親とはとういう存在なのかがわからなかったからでした。しかし、そんな天涯孤独な彼の中に、天の父の愛が注がれました。自分には地上には父親はいないけど、天のお父さんのことがわかるから、どうしたらいい父親になれるかがわかる、そう言ったというのです。

 皆さん、だれも、何も、私たちをキリストの愛から引き離すことはできません。たとえ牢獄の暗闇の中あっても、イエス・キリストを信じて生きる人には、いつでも神の愛が注がれているからです。私たちは魂の深いところに悲しみや苦しみを祈りと賛美に変える力が与えられているのです。そのことを覚えて、どんなときでも天を見上げて祈り賛美する者でありたいと思います。

 Ⅱ.主イエスを信じなさい(27-32)

第二に、救われるためにしなければならないことについて見ていきましょう。パウロとシラスが神に祈り賛美の歌を歌っていると、突然、大地震が起こり、獄舎の土台が揺れ動いたかと思ったら、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまいました。これを見た看守は、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとしました。当時のローマの法律では、囚人を逃してしまった場合、看守はその責任を取って、その囚人が負うべき刑を身代わりに負わなければならなかったからです。ですから、死刑を受けるくらいなら、自殺した方がいいと思ったのでしょう。剣を脱いで自殺しようとしたのです。

 それを見たパウロは大声で、「自害してはならない。私たちはみなここにいる」と叫びました。とびらが開いて、鎖が解けても、そこにいただれも逃げなかったというのは驚くべきことです。おそらくパウロとシラスの態度を見ていた他の囚人たちも、そこには何か不思議な力が働いていると思ったのでしょう。看守は、持っていた明かりで獄内を照らしてみると、鎖がはずれて逃亡できるはずの囚人たちが一人も逃げようとせず、みんなそこにいるのを見て驚き、震えながらパウロとシラスの前にひれ伏し、ふたりを外に出してこう言いました。

「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」

 この「先生がた」ということばは、直訳すると「主たちよ」ということばです。それはこの看守のパウロとシラスに対する最大の尊敬を表す呼びかけでした。看守にとって、パウロたちはもはや囚人ではなく、尊敬すべき「先生」たちでした。囚人たちの脱獄したいという思いをとどまらせることのできるこの二人の伝道者の中に、何か侵しがたい神的なものを感じていたのでしょう。救いへの真剣な求めは、それを語る者への尊敬と信頼から始まるということがわかります。
 
 ところで、このとき看守はパウロとシラスに、「救われるためには、何をしなければなりませんか」と尋ねました。このとき看守が考えていた救いとはいったいどんな救いだったのでしょうか。金魚すくい、どじょうすくい、とすくいにもいろいろありますが、このときこの看守が思っていたどんな救いだったのでしょうか。

 榊原康夫という先生は、その注解書の中で、この「救い」は人間のたましいが味わう最も激しい急転直下のどんでん返しの中で、日常生活の平凡な心には思いもよらないたましいの奥底を、一瞬、のぞき見ることがありますが、そうしたたましいの深みで味わう救いのこと、つまり、たましいの救いという宗教的な意味での救いであったと言っています(「使徒の働き」p171)。しかし、果たしてそうなのでしょうか。結果的にはそのたましいの救いへとつながっていくのですが、この時点ではまだそこまで考えられなかったのではないでしょうか。とにかくとびらが開いて、鎖がはずれてしまったという事態に対して、いったい自分はどうしたらいいのか、どうしたらその問題から救われるのかという域から出ていなかったのではないでしょうか。

 確かに人は予期せぬ出来事に遭遇するとき、そのようなたましいの深みにおいて救いを求めることがあります。たとえば、クリスチャン新聞福音版の5月号に、こんなことが記されてあります。
 何年も前のことですが、河原の中州でディキャンプをしていたグループが鉄砲水に流され、何人もの方が亡くなるという痛ましい事故がありました。川の上での短期間の集中豪雨は、キャンパーたちにとってはそれほど気にするような雨ではありませんでしたが、急峻(きゅうしゅん)な山に降った大量の雨は細く浅い穏やかな川の姿を一変させます。ちょっと水かさが増してきたかと思ったらあっという間に濁流が押し寄せて、中州にいた人たちを飲み込んでしまったのです。
こういう良きせぬ出来事に遭遇するとき人は、たましいの深いところにおいて救いを求めるものです。
 あるいは、ここ最近の世界的な不況で経済の危機に陥った方々も、同じような救いを求めることがあります。アメリカの大手自動車メーカーに勤め引退し、企業年金で悠々自適な生活を送っていた人が突然年金をカットされ路頭に迷うという報道がありました。その人は「つぶれる企業がいくらあってもまさか自分の会社がそのような事態になるとは考えてもみませんでした。そういう出来事に遭遇するとき、たましいの深いところで救いを求めることがあるのです。

 この看守が発した「救われるためには何をしなければなりませんか」の「救い」とは、こういう意味で発したものだったのではないかと思います。それに対してパウロとシラスは何と言ったでしょうか。31節をご覧ください。ご一緒に読みたいと思います。

「ふたりは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。

 ここでパウロとシラスが言ったことは、彼らが日頃から確信していたことです。
それは、主イエスを信じるなら、救われるということです。確かに、この看守が求めていたものは、たましいの深みにおける救いでしたが、それでもまだ漠然としたものでした。そうした看守にパウロとシラスが示したものは、そうした漠然とした救いではなく、主イエス・キリストを信じることによってもたらされるところのたましいの救いでした。そうした予期せぬ出来事からどのように救われるかということだけでなく、それらすべての不幸の原因である罪からの救いを示したのです。そして、その救いの道は「主イエスを信じる」ことでした。そうすれば、救われるのです。確かに現実の問題は複雑です。主イエス・キリストを信じたぐらいで、解決されそうには思えないでしょう。あの看守にも、きっと多くの問題があったに違いありません。だれにも言えない悩み、だれにも理解してもらえない苦しみがあったはずです。しかし、そうした個々の複雑きわまりない問題の根本的な解決は、主イエスを信じることにしかないのです。

 では主イエスを信じるとはどういうことなのでしょうか。中には主イエスを信じても問題が一向に解決しないと言われる方がおられます。主イエスを信じても何の役にも立たないというのです。ほんとうにそうなのでしょうか。そうではありません。主イエスを信じれば、救われるのです。その救いは私たちの罪からの救い、たましいの救いですが、同時にそれは、私たちが抱える具体的な一つ一つの問題の解決にも及ぶのです。もし、そうでないとしたら、その信仰自体に問題があるのです。では「主イエスを信じる」とはどういうことなのでしょうか。

 それは主イエスにすべてをゆだねることです。パウロが看守に「主イエスを信じなさい」と言った「主イエス」ということばは、「主イエスの上に」という表現で、イエス様の上に自分を乗せること、主にわが身のすべてをあずけてしまうことを意味しています。私たちがだれかを信用するときには、いつでも、ある種の冒険と決断を要します。だれかと結婚を約束したり、大きな商取引をしたりするときには、相手を信頼して自分を任せるという一面がありますが、そのように主イエスを信用して、すべてを任せればいいのです。この場合、信頼する相手の人が、どういう人であるかがとても重要になってきます。信頼するに足るすばらしい人だからこそわが身をゆだねることができわけですが、そうでなかったら大変なことになってしまいます。幸いイエス・キリストには、そのように信頼に価するだけの十分な値打ちがありまから、安心してすべてをゆだねることができるわけです。

 なのに、イエスを信じますと決断しても、イエスにすべてをゆだねていなかったとしたら、ほんとうの意味での救いを体験することはできません。どんなに畳の上でスキーを習っても、ほんとうに雪の斜面で身をスキーに任せて滑らなければ、スキーのおもしろさを味わうことはできないように、また、どんなに水泳の仕方を習っても、足を離して水に身を任せなければ、泳ぐことはできないように、私たちが救われるためには、イエス・キリストの上にわが身を任せなければならないのです。まずキリスト教を全部勉強して、キリスト教のよさがわかったらクリスチャンになってもいいと言われる方がおられますが、そういう気持ちではなかなかキリスト教の救いを体験することができません。救われるためには、主イエスを信じなければならないのです。主イエスを信じたら、救われます。信じたら、救いがわかるようになるのです。そして、その救いが目の前に置かれたさまざまな問題にも勝利していく力をもたらすのです。どんなに予期せぬ出来事が襲ってきても流されることなく、しっかりと立っていることができるのです。それは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。

 Ⅲ.家族そろって神を信じることの幸いと喜び(33-34)

最後に、このキリスト教信仰問答の中で、この看守がどうなったかを見て終わりたいと思います。33,34節をご覧ください。

 主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われますというパウロのことばに、看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗いました。そして、そのあとですぐに、彼とその家族の者が全部がバプテスマを受けました。それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜びました。パウロが言ったとおり、主イエスを信じたことで、彼と、彼の家族の者全部が救われたのです。

 パウロが語ったように、この看守が主イエスを信じたことで、彼も、彼の家族も救われたのです。ところで、このように見てみると、家族の中のだれかが信じると、その家の者全部が自動的に救われるかのような印象を受けますが、ここではそのようなことが言われているのでしょうか。そうではありません。もともとこの箇所の訳は曖昧だと言われています。ここには「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われます」とありますが、もともとはそのようにはなっていません。もともとの文は「主イエスを信じなさい。そうすれば救われます。あなたも、あなたの家族も」です。尾山令仁先生が訳された現代訳聖書ではそのように正しく訳しています。だれであろうと、信じれば救われるということです。しかし、信じなければ救われません。家族の中のだれかが救われれば、あと放っておいも自然に救われるということではないのです。ですから32節を見ると、この看守もその家族の者全部とともに主のことばを聞きました。そして、彼とその家の者全部がバプテスマを受けたのです。そうして、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだのでした。しかし、このように家族の中のだれかが救われることは、その救いの影響が家族全体にまで及んでいくものであることも表しています。

 このことは、私たちの信仰のあり方にチャレンジを与えてくれます。すなわち、私たちの信仰は、本来、一本釣りではなく、地引き網のように家族ごとに救われるといった宗教でもあるということです。ですから、私たちは自分の救いだけでなく、自分の家族全部がイエス様を信じて救われるように祈り求めていかなければなりません。

 私の母は、1991年に信仰に導かれその年の7月に受洗の恵みに預かりました。前から母にもイエス様を信じてほしいと思っていろいろと働きかけていたのですが、どうやって導いていったらよいのかわかりませんでした。しかも開拓したばかりの教会には若い人たちしかいなかったので、そこに誘うこともできないでいました。ところが、そのために祈っていたころ教会で行われた特別伝道集会に、ある兄弟のお母さんが来られたのです。同じくらいの年齢で同じような境遇で育った二人が溶け合うのに、そんなに時間はかかりませんでした。二人はすぐに親しくなって定期的に聖書を学ぶようになり、やがて信仰告白に導かれそろって受洗しました。それまでは、まさか母が教会に来たり、イエス様を信じるようになるとは思いませんでした。私が教会に行き始めた高校3年生の頃、教会に行こうと家を出た時、「どこに行くの?」というから「教会だよ」と言うと、「あんまり深入りしらんなよ」と言った母です。「大丈夫。深入りしないから」と言って安心させた私も、その頃は牧師になっていました。息子が牧師になったら本人も深入りしたというわけです。その母の口癖は、「私は小学校5年生までしか出てないから」でした。小学校5年生までしかいってない者が、聖書なんて読んでもわからないということなのでしょう。しかし、聖書は頭で理解するものではなく心で読むものです。聖霊によって理解できるようになるのです。2年半ほど前に召されるまでの17年間、ほんとうによく祈り、立派に仕えてくれました。その母が洗礼式のとき、私は涙が止まりませんでした。息子に導かれて信仰に入るにはどんなにか抵抗もあっただろうに、毛を刈られる羊のように黙って素直に従い信じる姿に、感動して胸が熱くなったからです。何の取り柄もないような母でしたが、素直に従う信仰を教えられたような気がします。

 その年の秋に、父親も信仰に導かれました。父親を導くのも悩みました。昔の人で、キリスト教にはほど遠い人だったからです。その割には大安、吉日などを気にしてはその類の本をいつも見ているという人でした。「いい、父ちゃん。イエス様はね」というと、すぐに眠り込んでしまうので話にならないのです。聞いてもわからないと思ったのでしょう。まず本など読んだことのない人です。いつも山に行って蛇とか狸とかを捕まえて食べていた人ですから、活字には全く関心を示しませんでした。そういう父を導くには、「聖書にこう書いてある」方式ではだめなのです。羽鳥明先生や本田弘慈先生タイプの情に訴えるお話がいいんじゃないかと思い、そうしたお話のテープを聴かせることにしました。当時、本田弘慈先生がマルコの福音書からお話しているテープがあったのでそれを持って行って一緒に聴いてみたら、これまたいいお話をされるのです。父も聞きながら「ん、いい話だ」と言うじゃありませんか。「いいよね。じゃ父ちゃんもイエス様信じる?」と言うと、「ん、ん」と濁すのです。あまりにもはっきりしないので、「信じるの?信じないの?どっちなの?」と催促することもありました。それがいい話でもさっぱり頭には入っていないんですね。でも信仰というのはおもしろいもので頭に入っているかどうかではなく、聖霊が働かれるかどうかで決まるのです。ある日もいつもと同じようにカセットテープレコーダーを持って家に行き一緒にマルコの福音書から本田弘慈先生のお話を聴いていたら、「ん、いい話だ」と言うじゃありませんか。またかと思いましたが、一応、「んだない。いいない。じゃ父ちゃんも信じっかい」と聴くと、「うん」と言のです。びっくりしました。信じるようにと祈っていても、ほんとうに信じると驚くものです。しかし、真実な神は私の乏しい祈りにも答えてくださり、父を救ってくださいましたのです。
 後で、どうして父がその時に信仰に導かれたのかがわかりました。その二日後に心筋梗塞で倒れ病院に運ぶと、翌朝、父は天に召されました。父が信仰に導かれるまで、神様がずっと待っていてくださったんだなぁと思いました。それは私だけでなく、母にとっても大きな慰めでした。私たちは親子で信仰に導かれたことを心から喜びました。

 主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われます。救われるために必要なのは、ただ主イエスを信じるだけなのです。救われるために必要なことは聖書を勉強することではありません。勉強することも大切なことですが、もっと大切なことは信じることです。人となられた神の子キリストが、私たちの罪を赦すために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえって、その救いの道を完成してくださいました。その救いを信じて、受け入れるかどうかなのです。

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。」(ヨハネ6:47)

 皆さんは、この主イエスを信じて救われていますか。もしまだ信じていない方がおられましたら、どうかこの朝、主イエス・キリストを信じてください。また、皆さんの家族の中でまだ救われていない方がおられますか。その方も神事なら救われるのです。そのために祈り求めていきましょう。そして、この看守のように全家族が救われたことを心から喜ぶものでありたいと思います。

使徒の働き16章11~18節 「心を開かれる主」

 きょうは、「心を開かれる主」というタイトルでお話したいと思います。きょうの聖書箇所は、「そこで、私たちはトロアスから船に乗り、サモトラケに直航して、翌日ネアポリスに着いた」(11節)ということばで始まっています。パウロとシラスは、ルステラでテモテを、トロアスでルカをその伝道旅行の仲間に加えると、神様がマケドニヤで伝道するように自分たちを招いておられると確信して、トロアスから船に乗り、サモトラケに直行し、その翌日ネアポリスに到着しました。それから十数キロメートル離れたピリピへと向かうと、そこで二人の女性に出会います。一人はテアテラ市の紫布の商人で、神を敬うルデヤという人で、もう一人は占いの霊につかれていた若い女奴隷です。この二人の女性から教えられることは、主に心を開くことの大切さです。ルデヤは主に心が開かれてパウロが語る事に心を留めるようになり、主を信じてバプテスマを受けました。そして、その喜びのゆえに彼らを自宅に招き、心からのもてなしをしました。一方の占いの霊につかれた女奴隷は、確かにいと福音を宣べ伝えていたパウロの伝道の働きを認めていたかのようでしたが、実際にはそうではありませんでした。そこには主イエスとの関わりや救いがなかったからです。

 きょうは、このところから主に心が開かれることについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、主に心が開かれたルデヤについてです。第二のことは、そのように心が開かれたルデヤがどのように変えられたについてです。そして第三のことは、パウロによって占いの霊を追い出された女奴隷の問題についてです。

 I.主に心を開かれたルデヤ(11-14)

 まず第一に、主に心を開かれたルデヤについて見ていきたいと思います。11~14節に注目していただきたいと思います。

「そこで、私たちはトロアスから船に乗り、サモトラケに直航して、翌日ネアポリスに着いた。それからピリピに行ったが、ここはマケドニヤのこの地方第一の町で、植民都市であった。私たちはこの町に幾日か滞在した。安息日に、私たちは町の門を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、集まった女たちに話した。テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。」

 聖霊に導かれ、海を渡ってマケドニヤの土を踏んだパウロ一行は、ピリピという町に向かいました。それは、この町がマケドニヤ地方の第一の町で、植民都市であったからです。パウロの伝道のやり方をみますと、いつもこのようなやり方をしていることがわかります。すなわち、最初は大きな町で伝道し、そこから次第に中小都市へ、そしてやがて町々、村々へと及んで行くやり方です。マケドニヤ州の首都はテサロニケでしたが、彼がまず最初にこのピリピを伝道地として選んだのは、この町が上陸したネアポリスから十数キロメートルしか離れていない非常に近いところにありこのマケドニヤ州最大の都市であったということ、そして何よりもこの町がローマの植民都市であったからです。

 植民都市というのは、小さなローマがそっくりそのまま移って来たような町という意味です。このピリピは、その昔、アレクサンダー大王の父、フィリップ2世が作った町で、その名にちなんで「ピリピ」と呼ばれるようになりましたが、
のちに紀元前41年に、ローマのオクタビアヌス、アウグストがピリピ戦争で勝利すると、これを植民都市としてローマの軍人たちを住まわせ、ローマ市民がローマで受けていたのと同じ特権が受けられるようにしたのです。まさしく小ローマです。ヨーロッパでの伝道を目指していたパウロにとっては、この小ローマとも言うべきピリピは、かっこうの伝道の町だったのです。

 パウロは、このピリピにやって来ると、その町に幾日か滞在しました。そしてある安息日に、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、集まった女たちに話をしました。なぜそんな所にわざわざ行ったのかというと、会堂がなかったからです。ユダヤ人の男が十人もいればユダヤ教の会堂が建てられると言われていましたが、この町はピリピ戦争の退役軍人で作られた植民都市でしたから、ローマ色が圧倒的に強かったのに対して、ユダヤ人の数は微々たるものだったので、会堂がなかったのです。このようなとき、ユダヤ人はどうしたかというと、町の外の川岸に、祈りの場を作っていました。この祈りの場というのは、時には囲いがありましたが、その多くは囲いもなく、川のほとりを祈り場にしているだけでした。神を敬っていた敬虔な人たちは、安息日になると、この祈り場にやって来ては礼拝をささげていたのです。パウロたちがその祈り場を捜して行ってみると、そこにはほとんど婦人たちしか集まっていませんでした。そこでパウロは、そこに腰をおろし、集まっていた婦人たちに話をしたのです。

 するとそこに、「テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという」女性がいました。「テアテラ」というのは、以前パウロが伝道しようとして果たせなかったアジア州にある町です。この町は昔から染物工業が盛んで、特に「紫布」は、王侯、貴族、ローマの軍人、ローマ市民にちょうほうされた高級品でした。ローマ軍人が多かったこのピリピにかっこうの市場があるということで、商売のためにテアテラからやって来たのでしょう。なかなかやり手というか、行動的な婦人です。

 けれども、このルデヤについてもっと特徴的な点をあげるとすれば、それは彼女が「神を敬う」女性であったということです。この「神を敬う人」とは、ユダヤ人ではなくてもユダヤ教の唯一の神を信じ、安息日には会堂に行って神を礼拝していた異邦人のことです。おそらく彼女は、テアテラにいた時にユダヤ教に帰依していたのでしょう。積極的に商売をするといった忙しい生活の中にあっても、その中心を占めていたのは神礼拝でした。この日も安息日でしたので仕事を休み、神を礼拝するために、この祈り場に来ていたのです。何人集まっていたかはわかりません。まだ会堂もない小さな集会です。しかし、そこに何人集まっていようと関係ありませんでした。彼女にとっての関心は、聖書に記されてあるように、安息日を覚えてこれを聖なる日をすることでした。そのような敬虔な思いでこの祈り場にやって来たのです。そして、そのような敬虔な思いが、パウロとの出会いへと導きました。。

 パウロが腰をおろし、そこに集まった人たちに説教すると、この敬虔なルデヤは、じっと耳を傾けて聞いていましたが、主は彼女の心を開き、パウロの語る事に心を留めるようにしてくださいました。これは非常に重要なことです。そこには何人かの人がいました。そこにいた人たちはみな旧約聖書の神を信じていたはずです。みんな祈っていました。そして、みんな同じ説教を聞いていたのです。しかし、その説教によって救われたのは、主が心を開いて、みことばに心を留めるようにされた人だけでした。みんな同じ話を聞いても、みんなが信じるかというとそうではありません。主によって心が開かれた人だけなのです。

 この「心を開く」ということばは、ルカの福音書24章31節のところで「彼らの目が開かれ、イエスだとわかった」とか、同じ ルカの福音書24章45節のところで「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いた」と記されてあることばと同じことばです。つまり、本当の意味で聖書を悟るためには、聖書を読み、説教を聞く人の心が開かれることがなければならないのです。というのは、聖書は、神がご自分のことを知らせるために与えられた神の霊感によって書かれた書だからです。ですから、この聖書がわかるためには、それを翻訳したり説教したりするといった外側からの働きかけと同時に、私たちの内なる心に神が働きかけてくださり、その心を開いてくださるということがなければ難しいのです。心が開かれることがなければそれはいつまでも封印された書であり、説教もつまらないただの講義にしかすぎないでしょう。しかし、聖霊によって心が開かれた人には、目から鱗、そこから日々新たに神の恵みを感じながら生きることができるようになるのです。復活の主イエスは、エマオに向かって歩いていたふたりの弟子たちの心を開いて聖書を悟らせたように、このピリピの町でもルデヤの心を開いて、パウロの話に心を留めるようにしてくださいました。それと同じように、今の私たちにも、心を開いてくださるのです。

 よく私たちは「礼拝において主に出会う」と言いますが、それは具体的にどういうことかというとそれは何よりも、説き明かされたみことばを通してその意味がわかるということです。そして、目が開かれてその中に記されているのは救い主イエスだとわかることなのです。たとえば、創世記の中に、石を枕にして寝ていたヤコブは眠りからさめると、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言った。」「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」(創世記28:16,17)と言ったことが記されてありすますが、このように、まさに「ここに主がおられる」ということがわかることです。あるいはエマオの途上で、あのふたりの弟子たちの目が開かれ、「イエスだとわかった」ように、私たちもこの封印された書の説き明かしを聞いて、「これはイエスである。イエスは私の救い主である」とはっきりわかることなのです。そのとき、私たちの心は、主の御手にふれられて開かれているのです。そういう主との出会い、主の御手のふれあいを求めながら、聖書を開き、説教を聞かなくてはなりません。

 イエス様は、そのような心について教えられたとき、種まきのたとえを話されました。種を蒔く人が種蒔きに出かけました。「蒔いているとき、道ばたに落ちた種がありました。すると鳥が来て食べてしまいました。別の種が土の薄い岩地に落ちました。すると土が深くなかったので、すぐに芽を出しましたが、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまいました。また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまいました。別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びました。(マタイ13:4~9)

 これはいったいどういう意味でしょうか。御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行ってしまいます。またみことばを聞いてすぐに喜んで受け入れても、自分のうちに根がないと、しばらくの間は大丈夫ですが、やがてみことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまうのです。土の薄い岩地だからです。またみことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐと、なかなか実を結ぶことができません。それらがいばらのように成長を塞いでしまうからです。しかし、良い地に蒔かれた種、すなわち、みことばを聞いてそれを悟る人は、ほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのです。(マタイ13:19~23)すなわち、聞き方に問題であるということです。

 説教者によってみことばが語られるとき、それに「応答」するような弾力性のある心には、主が必ず働いてくださいます。そして、その心を開いてくださるのです。逆に言うならば、どんな説教を聞いても、少しも感動しないというのは、その人の心が固く閉ざされているからなのです。そのような人はどこに問題があるのかを考えながら、そうしたかたくなな心が砕かれるように祈らなければなりません。そして、田んぼの土を耕すように心の畑を耕して、柔らかい心でみことばを聞かなければなりません。心に植え付けられたみことばをすなおに受け入れなければならないのです。そうすれば神が働き、そのみことばによってたましいを救ってくださるのです。

 Ⅱ.忠実な者(15)

 ところで、主によって心が開かれ、パウロが語ることに心を留めるようにされたルデヤはどうなったでしょうか。15節をご覧ください。

「そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、「私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください。」と言って頼み、強いてそうさせた。」

 主によって心が開かれ、パウロの語ることに心を留めたルデヤは、彼女も、またその家族もバプテスマを受けました。既にユダヤ教の唯一の神を敬い、そのユダヤ教に帰依していた彼女が、信じてバプテスマを受けるとはいったいどういうことなのでしょうか。それは、旧約聖書がずっと語り、彼らが待ち望んでいた救い主こそイエスであると信じることです。たとえ旧約聖書に記された全能の神を信じていても、そこに記されてあるメシヤこそイエスであると信じなければ、それはほんとうの意味で聖書に記されてある神を信じることではありません。なぜなら、イエス様ご自身が「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)とか、「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです」(同12:44)と言われたからです。だれでも、イエス様を通してでなければ救われません。神を信じるということは、このイエスを救い主として信じることなのです。この時パウロがどんな説教をしたかはわかりませんが、その中心はイエス・キリストだったはずです。あのユダヤ人が十字架につけて殺したイエスこそ、救い主であったということです。その十字架の死こそ、私たちの罪のための身代わりの死でした。おそらく、パウロの説教の中心は、この十字架につけられて死なれたキリストとはいったい誰だったのか?ということだったに違いありません。そして、ルデヤはその話に心開かれ、イエスを救い主として喜んで受け入れたのです。そして、彼女は自分だけでなく、自分の家族も信じるように配慮しました。ここには夫のことが出てきませんので、おそらく夫はもう死んでいなかったのかもしれません。その夫との間に生まれた子どもや、その家で働く人たちも、一緒に信じてバプテスマを受けました。

 信じてバプテスマを受けたルデヤはどうなったでしょうか。ここには「私を忠実な者だとお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください」と頼み、強いてそうさせた」とあります。彼女は、主の前に忠実な者として歩みたいと、パウロたちを強いて自分の家に招いたのです。パウロたちを自分の家に招くことが、どうして忠実な歩みだと言えるのでしょうか。それは、そのことがパウロとともに福音宣教にあずかることであり、パウロたちと同じように多くのの犠牲と苦しみを伴うことだったからです。

 パウロは初めからヨーロッパでの伝道を計画していたわけではありませんでした。ですから、そのための資金が十分あったかというとそうではありません。現に彼はコリントに行った時には天幕作りをしながら、その必要を満たしました。こうしたパウロたちの伝道にとって必要なものを、少しでも満たして助けたいと思うのは、この福音によって救われた人の自然な姿ではないでしょうか。彼女は、福音のすばらしさがわかりました。わかったからこそ、自分もまたその福音のために生きる者でありと願ったのです。自分をこのすばらしい救いに導いてくれたパウロを、もう全くの他人と考えることなどできませんでした。自分もパウロの宣教にあずかるために、パウロの犠牲と苦しみにあずからせてもらいたいと思ったのでしょう。それがこの「もてなし」という行為に表れたのです。

 これは、決して一時的な感激や感情にすぎなかったのではありません。パウロがのちにピリピ人への手紙の中で、「あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています。」(1:5)と言っているように、その後もずっと続けられた愛の行為でした。それはまさに信仰から出た愛と献身の表れだったのです。信仰とは、実にそのようなものです。決して一時的な感激で終わってしまうものではないのです。「最初の日」から「今日に至るまで」ずっと続けられてきたことの中に、このルデヤがどれほどの救われた喜びが溢れていたかがわかります。そして、ここが根拠地となってピリピでの伝道は進んでいき、やがてここに立派な教会が建て上げられていったのです。

 今日、教会はご婦人の方々ばかりで、男性が少ないという嘆きをよく聞きます。しかし、キリスト教会にとって、ご婦人というのは、実は、きわめて大きな力でした。ご婦人パワーです。これがキリスト教会を支えてきたのです。たとえば、ローマ人への手紙16章2節には、ケンケレヤの女性執事であったフィベを、「多くの人を助け、また私自身をも助けてくれた人です」と紹介していますし、4節では、アクラとプリスキラ夫妻のことを、「自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです」と紹介しています。ここではアクラとプリスキラとではありません。「プリスキラとアクラ」です。奥さんのプリスキラの方が先に名前が出てきています。それだけ熱心だったということでしょうか。また、13節では、ルポスの母を「私の母」とまで呼んでいます。おそらくルデヤは、こうしたパウロの働きを助けてくれた良き理解者、協力者、母、友となった人たちの最初の人だったのでしょう。実に美しい信仰に生きた女性でした。

 佐藤彰先生が書かれた「祈りから生まれるもの」という本の中に、あるご婦人のことが紹介されています。この方は由緒ある家に育ち、福島の古い家に嫁いで来ました。その家も由緒ある事業家の家で、お寺の檀家総代でもありました。田舎なので家族は二十人。その中で一人だけクリスチャンになったものですから、大変な反対がありました。姑に呼ばれて、「あなたは檀家総代の長男の嫁です。もしキリスト教信仰を続けるなら離縁するから出てゆきなさい」と、夜中の十二時まで説得されたそうです。そしてそれから半年の間は、家族から一言も口をきいてもらえなかったと言います。
 食事も別でした。もちろん教会にも行けません。祈りもできなかったそうです。トイレに入って聖書を読んでいると、偵察に来るのだそうです。そんな監視つきの生活にもかかわらず、このご婦人は決してあきらめませんでした。むしろ睡眠時間を三時間に削って、ゴミ一つ落とさないような完璧な家事をしたそうです。その結果、お姑さんの心が溶けたのです。「おまえが喜ぶのは、着物を買うことじゃなくて、教会に行くことだろう。教会に行ってもいいよ」と言ってくれました。
 やがてこの家もキリスト教の家になりました。インテリだったご主人も救われ、召される数時間前に奥さんの手を握りながら「僕はイエス様を信じているから心配するな。ありがとう」と言ったそうです。田舎の、固い岩地でも神様が壁を乗り越えさせてくださったのです。
 やがてこのご婦人が乳ガンになりました。リンパ腺まで取る大手術をしました。その後肺に転移し、抗ガン剤を用いて癌と闘いました。大手術のあと、月曜日から土曜日までを病院で療養し、日曜日には特急電車に1時間を揺られて教会にやって来て、礼拝に出席しました。退院するやいなや、再び礼拝の奏楽者として復帰し、ワープロや訪問などの奉仕にも勤しみました。さすがの牧師も気を使って、「姉妹、あまり奉仕しなくてもいいですから」と声を掛けると、「先生。私から奉仕を取らないでください」と嘆願されたそうです。それはこのご婦人の中に、イエス様によって救われた喜びが溢れていたからです。やがて小高という町と富岡という町にあった土地をささげ、そこには今、立派に教会堂が建っています。

 教会では、男であるかとか女であるかということが問題なのではありません。男でも女でも、主に「忠実な者」であることを願うなら、兄弟たちを助けて大いなる奉仕をするはずです。教会を建て、教会の土台としてふさわしい色どりを刻み付けるほどの貢献をすることができるのです。

 Ⅲ.主の愛にふれられて(16-18)
 
 ですから、第三のことは、この主イエスの愛にふれられてということです。16~18節までをご覧ください。

「私たちが祈り場に行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させている者であった。彼女はパウロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです。」と叫び続けた。幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け。」と言った。すると即座に、霊は出て行った。」

 パウロたちのピリピでの伝道はルデヤが救われた後も幾日か続きましたが、その中でもう一つの不思議なことが起こりました。パウロたちが祈り場に向かっていた時、占いの霊につかれた若い女奴隷と出会いましたが、この女奴隷はパウロたちのあとを着いて来ては、「あの人たちは、いと高き神のしもべで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです」と大声で叫び続けるので困り果て、イエス・キリストの御名によって、その女から霊を追い出してしまったというのです。いったいパウロはなぜこの女から占いの霊を追い出したのでしょうか。一見、この女がしたことは悪いことでもなかったように見えます。それは、彼女が叫んでいたことが、パウロたちがいと高き神のしもべたちで、救いの道を宣べ伝えていたという内容のものだったからです。特に、パウロのピリピでの伝道の様子を見ると、それは必ずしも華々しいものではありませんでした。そこは小ローマといわれていたローマの植民都市で、ユダヤ教の会堂もない町でした。聖書の話をしても誰も見向きもしてくれませんでした。そんな時、よく占いが当たると評判の占い師がこのように宣伝してくれたとしたら、どんなにありがたいことかと思います。仮に、大田原で町中の人気をはくしている占い師がいて、その人が「皆さん。この大橋さんはいい人ですよ。この人はまことの神のしもべで、救いの道を皆さんに伝えていらっしゃるんですよ。ちょっとせっかちなところもありますが、言ってることはまともです。間違いないです。ですからよく聞いてくださいな。」とかと言って紹介してくれたとしたら、みんな心を開いて聞いてくれるのではないかと思って喜ぶのではないかと思います。なのにパウロはこの女の叫び声に困り果てて、彼女から悪霊を追い出してしまいました。どうしてでしょうか。

 それは第一に、うるさかったからです。ここで悪霊が女奴隷に叫ばせた言葉の内容は決して間違ったものではありませんでしたが、しかし、その動機が間違っていました。なぜなら、悪霊はその内容がどういうことかということよりも、パウロたちの宣教の邪魔をしようと企んでいたからです。もしそれが正しいことならば、彼女自身が主イエスを信じ、主のみこころに従って生きようとしたはずです。しかし、彼女の中にそのような気持ちは全くありませんでした。それこそ、それが主の霊によって語られたことではなく、悪しき霊によるものであることの証拠です。現代の恐るべき過りの一つは、このように中味が正しければだれが語ろうと、どんな動機で語ろうと構わないと考えてしまうことです。しかし、真理というのはそれが正しいというだけでなく、それを語ろうとしている人がどのような動機で語ろうとしているかも問われるのです。その真理に自分自身も従おうという気持ちがなければ、それはほんとうの真理とは言えないのです。

 もう一つのことは、このように異教的占いに関わってきた彼女が言い広めるかぎり、この「いと高き神の救いの道」も異教的な神々として理解される恐れがあったからです。「いと高き神」というような呼び名は、実はローマやギリシャの神々にも使われていました。「救い」も、ギリシャやローマの宗教でも唱えられていたものです。ですから、このような占いの霊にとりつかれている人が語ることによって、その神自体が異教の神と誤解される危険性があったのです。

 このように考えると、この占いの霊につかれていた女奴隷が叫んでいたことは間違ってはいなかったように見えますが、大きな問題がありました。それは、彼女が叫んでいたことはことばだけであって、中身がなかったということです。そこにはキリストの救いはありませんでした。主に心が開かれていなかったのです。
この女奴隷が叫んだ「いと高き神」と、パウロが語る救い主イエス・キリストとの間には大きなズレがあったのです。

 それはルデヤの場合も同じでした。彼女も前から「神を敬う」女性で、パウロに出会う前から、旧約聖書の教える天地の造り主なる神を信じていたはずです。けれども、そうした神知識だけでは十分ではなかったのです。そこには救いはありませんでした。救われるためにはイエス・キリストによって心が開かれ、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストによって迷信の心を追い出していただかなければなりません。キリスト教信仰というのは、そのようにイエス・キリストと出会い、イエス・キリストとふれあうことによってのみ持てるものなのです。「私も神様を信じている」という人は結構多くいますが、そのようなただの神信仰、いと高き神信仰、唯一の神信仰と、キリスト教信仰というのは全然違うのです。どのように違いますか?キリスト教信仰というのは、聖書が言っているようにただ「イエス様が私たちのために十字架にかかって死なれ、私の代わりに罪を贖い、私のためによみがってくださるほどに、イエス様は私を愛してくださった」という、イエス様と私とのかかわり合いが生まれた時にだけ、成立するものなのです。ルデヤは信仰に入るや否やあんなに献身的に献げ、奉仕をしたいと願ったのは、実に、この主イエス・キリストが私のために呪われた者となってまで死んでくださった。キリストが私のために贖いの死を成し遂げてくださった。主イエス・キリストが私のためによみがえってくださり、永遠のいのちを実証してくださった。主が私の心に手を差し伸べ、主が私の心を開いてくださった。この主イエスへの人格的、個人的な感謝が溢れていたからだったのです。このお方のためならわが身もわが家もささげても惜しくない、という思いを抱いたからだったのです。

「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:7,8)

 まさにそのとおりです。私たちにしても、正しい神に対して、恐れおののきはしても、死ぬほどの愛を感じるということはありません。情け深い神のためなら、あるいは進んで死ぬ気にもなるかもしれません。しかし、私のために十字架にかかり、私の心に御手をふれるまでに愛してくださった主イエス・キリストのためになら、身もたましいも家もいっさいをささげて悔いはないのです。

 スウェーデンの作家ラーゲルクヴィストは、「バラバ」という小説を書いて、ノーベル賞をとりました。バラバについては、イエス様に代わって恩赦を受け釈放された囚人であったことが聖書に記されています。
 「クリスチャンたちは、キリストが全人類のために死んだと言っているが、それは違う。彼はおれのために死んだのだ。事実彼が死んだことにより命拾いしたのは、このおれだ」
 そして、それまで人を踏み台にして快楽を手にすることが人生だと思ってきた彼が、一番大事だったはずの自分の命をキリストのために投げ出して死んでいくのです。

 キリストの十字架の死に出会う時、「すべては自分のため」から、「すべてはキリストのため」に変えられるのです。ルデヤは、このキリストの愛に触れたのです。それは私たちも同じです。私たちが本当の意味で変えられるのは、イエス・キリストが私のためにしてくださったことがわかる時です。イエス様が十字架にかかってまで死んで、私を愛してくださったということがわかるとき、私たち自身も変えられ、「すべてはキリストのために」生きることができるようになるのです。どうか、この主イエス・キリストに対して心が開かれる者でありますように。そして神が私たちの心を開き、主の十字架の愛をもって救いの恵みを私たち一人一人に豊かに、そして確かに注いでくださいますように。そのとき、主のものとしての私たちの人生が、新しくこころから始まっていくのです。