レビ記19章19~37節

きょうは、レビ記19章の後半部分から学びたいと思います。まず19節から25節までをご覧ください。

1.  神のおきて(19-25) 

「あなたがたは、わたしのおきてを守らなければならない。あなたの家畜を種類の異なった家畜と交わらせてはならない。あなたの畑に二種類の種を蒔いてはならない。また、二種類の糸で織った布地の衣服を身につけてはならない。男が女と寝て交わり、その女が別の男に決まっている女奴隷であって、まだ全然贖われておらず、自由を与えられていない場合は考慮する。女が自由の身でないので、彼らは殺されない。その男は、への罪過のためのいけにえとして、罪過のためのいけにえの雄羊を会見の天幕の入口の所に持って来る。祭司は、彼の犯した罪のために、その罪過のためのいけにえの雄羊によっての前で彼の贖いをする。彼はその犯した罪を赦される。あなたがたが、かの地に入って、どんな果樹でも植えるとき、その実はまだ割礼のないものとみなされなければならない。三年の間、それはあなたがたにとって割礼のないものとなる。食べてはならない。四年目にはその実はすべて聖となり、への賛美のささげ物となる。五年目には、あなたがたははその実を食べることができる。それはあなたがたの収穫を増すためである。わたしはあなたがたの神、である。」

19節には、「あなたの家畜を種類の異なった家畜と交わらせてはならない。あなたの畑に二種類の種を蒔いてはならない。また、二種類の糸で織った布地の衣服を身につけてはならない。」とあります。つまり、種類の異なったものを交わらせてはならないということです。創世記1章11節には、「神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。」とあります。神はこの地上に植物を芽生えさせたとき、「種類にしたがって」、生じさせました(1:12,21,24,25)。この神の創造の秩序を乱してはならないということです。たとえば、ラバは雄のロバと雌のウマの交雑種の家畜ですが、そのように異なった種類の家畜を交わらせてはいけません。ただし、自然な結合の結果生まれた家畜はその限りではありません。(Ⅰ列王10:25)それらの家畜は利用されていたことがわかります。

また、この教えから考えると、行きすぎた遺伝子組み換え作業には問題あると言えます。というのは、遺伝子組換え作物(いでんしくみかえさくもつ)というのは、遺伝子組み換え技術を用いて作物の品種改良等を行うことによって、いわゆる種であるDNAまでも組み替えようという試みだからです。

また、18章22~23節に同性愛を禁じる戒めがありましたが、この点からも間違っていると言えます。それは、畑に二種類の種を蒔くことも同じです。二種類の種を蒔くとは、たとえば大豆とレンズ豆等を一つの畑に一緒に蒔くといったことですが、そうしたことが禁じられています。それは種を変えることになるからです。神は、その種類にしたがって、この地上に作物を生じさせました。その神の秩序を乱してはいけないのです。

それは二種類の糸で織った布地も同じです。いわゆる混紡が禁じられているのです。いったいどうしてでしょうか?ユダヤ人の学者によると、これは異教の祭司が偶像礼拝をする時に、このように二種類の糸で織った衣服を身にまとっていたからだと言います。たぶん、そういうことでしょう。つまり、こうした異教的なならわしや風習をまねてはいけないということが、その教えの根底にあるのです。

20節から22節をご覧ください。ここには、「男が女と寝て交わり、その女が別の男に決まっている女奴隷であって、まだ全然贖われておらず、自由を与えられていない場合は考慮する。女が自由の身でないので、彼らは殺されない。その男は、への罪過のためのいけにえとして、罪過のためのいけにえの雄羊を会見の天幕の入口の所に持って来る。祭司は、彼の犯した罪のために、その罪過のためのいけにえの雄羊によっての前で彼の贖いをする。彼はその犯した罪を赦される。」とあります。

どういうことでしょうか。ここでは、夫が決まっている女と寝て交わることは、神の秩序を乱すことになります。夫が決まっている女とは結婚が決まっている女、すなわち、婚約中にある女のことです。それは、「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(創世記2:24)と定められた神の秩序に反することだからです。しかし、ここではただ単に別の女と寝て交わることが禁じられているのではなく、その女が別の男と結婚が決まっている女奴隷の場合はどうかということです。この「女奴隷」とは、他の男と婚約はしているが、まだ正式に結婚していない女奴隷のことです。その身がまだ完全に自由の身となっていないケースです。そのような場合は、考慮します。「考慮する」という言葉は直訳では「尋問する」ということで、それが彼女の意志によってしたのかどうかが調べられるわけです。それが彼女の意志によってなされた場合ならふたりとも石打による死刑(申22:23~)、そうでなければ、まだ女が自由の身でなかったので、仕方がないこととして、罰せられませんでした。しかし、男の方は違います。罪過のためのいけにえをささげ、祭司に罪を贖ってもらわなければなりませんでした。そのいけにえとは何でしょうか。雄羊です。つまり、最も高価な家畜をささげなければならなかったのです。なぜなら、主人の所有物を犯したからです。女奴隷は主人の所有物なので何をしてもかまわないと思われていた当時の社会にあって、このように女奴隷も神様にあって保護されていたことがわかります。

次に、23節から25節までをご覧ください。ここには、「あなたがたが、かの地に入って、どんな果樹でも植えるとき、その実はまだ割礼のないものとみなされなければならない。三年の間、それはあなたがたにとって割礼のないものとなる。食べてはならない。四年目にはその実はすべて聖となり、への賛美のささげ物となる。五年目には、あなたがたははその実を食べることができる。それはあなたがたの収穫を増すためである。わたしはあなたがたの神、である。」とあります。

ここには、作物の実である果実を、いつ食べることができるかということが記されてあります。3年間は食べることができません。なぜなら、その実はまだ割礼が施されていないからです。果実の実に割礼を施すとはどういうことでしょうか?「割礼」とは、男性の性器を覆っている包皮を切り取る儀式です。それはイスラエルにとって神の民としての契約でもありました。その割礼がないというのは、まだ切り取られていないということです。つまり、切り取らなければならないということです。それは具体的にはどういうことかというと、果実の実を摘み取るとか、花を摘み取ることです。そのようにしてこそ木はよく育ち、多くの実を結ぶことができるからです。

これは人間にも言えることです。実がなったからといってすぐに食べてはいけません。3年間は待たなければならないのです。その間、よく教え、よく学んで、霊的に十分成長してから取らなければならないのです。それは霊的な面ばかりでなく、私たちの生活のあらゆる面で言えることです。社会においても、会社においても、家庭においても、すぐに実を取ろうとすると、よく成長することができないのです。最初はちょっとそっとしておくような期間を設け、神様に十分養っていただいてから、それから奉仕をしていく。それが聖い生き方には欠かせないことなのです。

じゃ3年経ったから食べよう、ということにはいきません。何だ、ずっと我慢してきたのに、まだ食べられないのかと不満が出るかもしれませんが、これが神のおきてです。三年たったら、四年目はその実をかみにささげなければなりません。それは聖となるからです。私たちのすべては神のものであり、神に贖われた者として、常に神を敬い、神にささげていくことから始めなければならないのです。自分の最初の時間、最初の給料など、最初のものは聖いのです。それは神のものとして、神にささげていくこと。それが祝福の原則なのです。

いよいよ五年目になります。随分待ちました。まだ何かあるんですか?ありません。あなたは食べることができます。それは、あなたがたの収穫を増すためです。食べることによって収穫を増す?どういうことでしょうか?これは霊的にも同じです。私たちは神から与えられた賜物を使うことによって、収穫がますます増すのです。食べなければ、ささげなければ、増えていくことはありません。

2.  異教的行為の禁止(26-31)

次に26節から31節までのところをみていきましょう。

「あなたがたは血のついたままで何も食べてはならない。まじないをしてはならない。卜占をしてはならない。あなたがたの頭のびんの毛をそり落としてはならない。ひげの両端をそこなってはならない。あなたがたは死者のため、自分のからだを傷をつけてはならない。また自分の身を入墨をしてはならない。わたしはである。あなたの娘を汚して、みだらなことをさせてはならない。地がみだらになり、地が破廉恥な行為で満ちることのないために。あなたがたは、わたしの安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない。わたしはである。あなたがたは霊媒や口寄せに心を移してはならない。彼らを求めて、彼らに汚されてはならない。わたしはあなたがたの神、である。」

血がついたままで何も食べてはならない、ということについては17章10節でも言われていたことです。なぜなら、いのちとして贖いをするのは血だからです。しかし、ここではそれがまじないや卜占といった異教の魔術的な行為との関係で禁じられています。異教の魔術的な行為に結びつけて、血と肉が混ぜて食べられることがあったからです。まじないは日本でもよく行われます。縁起をかついだり、おみくじをひいてみたり、一日の始まりや仕事の始まりを、そうしたものを基準にしたりすることは禁じられています。「卜占」とはあまり聞かないことばですが、占いのことです。日本でもいろいろな占いがありますね。テレビでは毎日のように「きょうの占い」と放映されています。星占い、手相とか、おみくじとか、本当にたくさんの占いがありますが、それらはすべて神を知らない異教的な風習であり、神の民がそのようなことをすることが禁じられています。

27節には、「あなたがたの頭のびんの毛をそり落としてはならない。ひげの両端をそこなってはならない。」とあります。へんな教えです。びんの毛、ひげは男性の特徴だからです。ですから、今でも正当派のユダヤ日とはこのおきてを守り、長いびんの毛になっている人が多いのです。あいさつをするときは、ひげを互いにつかみました(Ⅱサムエル20:9)。ひげをそったり、切ったりすることは恥ずかしいことであり、不名誉なことだと考えられていました(Ⅱサム10:4,イザヤ7:20)。こうした毛をそって神にささげるという異教的な習慣があったので、禁じられているのです。ですから、これも異教的な風習をまねてはいけないということであって、髪のスタイルやひげをそってはならないということではありません。

28節には、「あなたがたは死者のため、自分のからだを傷をつけてはならない。また自分の身を入墨をしてはならない。わたしはである。」とあります。

悲しみのしるしとして体に傷をつけるという風習があったようです。自分の息子、娘の死を前に悲しみをこらえきれない親の気持ちはわかります。それで命を絶つ人もいるくらいです。ですから、死者のために体を傷つけるという気持ちはわかりますが、そのようにしてはいけません。悲しみは悲しみとしてしっかりと受け止めつつ、死もいのちも支配しておられる全能の神にゆだねなければならないのです。

また、ここに自分の身に入れ墨をしてはならないとあります。なぜ人は入れ墨をするのでしょうか。それは古くはアルプスの氷河から発見された5300年前のアイスマンの体や、1993年に発掘された2500年前のアルタ王女のミイラにも見られます。それはあらゆる国のさまざまな人種に見られるしゆうかんです。入れ墨は容易には消えない特性を持っていることから、古代から現代に至まで身分・所属などを示す個体識別の手段として用いられてきました(ナチの親衛隊の血液型の入れ墨、アウシュビッツに収容された人々の腕に記された番号の入れ墨、漁師の身元判明のための入れ墨、戦国時代の雑兵の入れ墨、暴力団組織の構成員としての象徴としての入れ墨)。

アメリカでは1960年代に世界的に流行したヒッピーの文化に取り入れらね、それが最近ではファッションとして、アートとして取り入れられるようになっています。

しかし、こうした理由の他にも日常生活を助ける魔除けとしての入れ墨など、魔術や宗教的な意味でも行われていたのです。たとえば、たとえば、漁師たちは昔から伝承されていたさめから身を守る意味でドルフィンの入れ墨を入れたり、多くのアメリカの原住民たちは、自分の保護や防御のために動物たちの入れ墨を入れていました。その他、ヒーリングのお守りとして、それぞれの神々の入れ墨がなされるようになったのです。古くから異教的習慣として行われていたのです。

しかし、それがどんな理由であっても自分の身に入れ墨を入れたり、傷つけたりということは髪神のみこころではありません。なぜなら、それは神のものであって、神からいただいているからだをそのように傷つけることは、それを与えてくださった神を傷つけることになるからです。中には大切なのは心であって、心が正しければ外側は問題はない、と考える人もいますが、これが神のおきてであるということをわかっていながらすることはよくありません。しかし、既に入れ墨を入れているからといってそれでクリスチャンになりないということではありません。悔い改めて、神を信じるなら、そのような人であっても救われてクリスチャンになることができます。大切なのは、救われた人が神の民としてこれからどのように生きていくかということです。神に贖われた神の民として、私たちはこのような点においてもしっかりと区別していくことを求めていきたいものです。

次に29節をご覧ください。ここには、「あなたの娘を汚して、みだらなことをさせてはならない。地がみだらになり、地が破廉恥な行為で満ちることのないために。」とあります。娘を汚すとはどういうことでしょうか。当時は、自分の娘を神殿娼婦としてささげることがありました。たとえば、アシュタロテの神殿には多数の娼婦がいました(申23:17)。

30節には再び安息日を守ることが命じられています。異教的風習を排除する最良の方法は、まことの神を礼拝し、まことの神に仕えることです。神のみこころは何かを学び、その神に仕えることです。そうすれば、こうした異教的な風習からも解放されるでしょう。

31節には、「霊媒や口寄せに心を移してはならない」とあります。「霊媒」とはヘブル語で「オーブ」と言います。わきの下から出て来るような声で、あたかも死者の声を取り次ぐように話すことです。「口寄せ」とは、ヘブル語で「イッデオニー」です。未来のことを知ろうとする者のことです。つまり、こうした霊媒とか口寄せは、神が啓示されることではなく、神を介さずに、またキリストを介さずに、霊の世界と接触することです。そのようなことは汚れていることです。占いとか、オカルト、超能力といったものがそれです。そのようなことである程度、未来のことがわかるかもしれません。他人の真実についても見ることができます。しかし、そうしたことを見せているのは、教えているのは死者の霊でも、まして神の霊でもありません。それは悪霊によるのです。そのようなことを行っている人には聖さがありません。私たちはただキリストを通してのみ神に近づくことができるのであって、キリスト抜きにそうした世界に近づこうものなら、たちまちに滅ぼされてしまいます。キリストを通して語られた啓示の書、つまり聖書を通してこの世界を、また霊の世界を、未来のことを知ることが、私たちに許されているのであって、そうでないことは汚れているのです。

3.  老人や在留異国人への配慮(32-34)

次に32節から34節までをご覧ください。ここには老人と在留異国人に対してどうあるべきなのか、その配慮が記されてあります。

「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしはである。もしあなたがたの国に、あなたといっしょに在留異国人がいるなら、彼をしいたげてはならない。あなたがたといっしょの在留異国人は、あなたがたにとって、あなたがたの国で生まれたひとりのようにしなければならない。あなたは彼をあなた自身のように愛しなさい。あなたがたもかつてエジプトの地では在留異国人だったからである。わたしはあなたがたの神、である。」

最近、年老いた方々に対する不親切が、社会の中に広まっています。ご老人は力のない、役に立たない者のように扱われているのです。しかし、老人を敬い、神に接するかのように接しなければなりません。

また在留異国人をしいたげてはいけません。イスラエル人にとって、彼らもかつてはエジプトで在留異国人として過ごしていたので、その痛みや苦しみを知っていました。だからこそ、こうした在留異国人に対しては、特に親切でなければなりません。あなたの国で生まれたひとりのようにしなければなりません。

現在、在日外国人はどうでしょうか。彼らはまず選挙権がありません。基本的な人権が得られていないのです。もしこうした外国人に選挙権が与えられたら、国が転覆する恐れを抱く人もいるかもしれません。ですから、選挙権がどうのこうのということではなく、ではどうしたらこの国で生まれたひとりのように感じていただくことができるのかを、本気で考えなければなりません。外国人の犯罪が増えているので、こうした外国人への偏見や無関心も多く芽生えていますが、そうしたことがかえって在日外国人を苦しめていることでもあります。でも、私たちクリスチャンはそうであってはいけません。在日外国人に親切にし、彼らが喜んで生活できるように配慮しなければならないのです。それが神によって贖われ、神の民とさせていただいた者としての聖い歩みなのです。

4.  正しいはかり(35-36)

最後に、35節から37節までを見て終わりたいと思います。ここには、「あなたがたはさばきにおいても、ものさしにおいても、はかりにおいても、分量においても、不正をしてはならない。正しいてんびん、正しい重り石、正しいエパ、正しいヒンを使わなければならない。わたしは、あなたがたをエジプトの地から連れ出した。あなたがたの神、である。あなたがたは、わたしのすべてのおきてとすべての定めを守り、これらを行いなさい。わたしはである。」とあります。

「さばき」とははかりのことです。ますやものさし、はかり、分量において、不正をしてはならないということです。正しいてんびん、正しいおもり石、正しいはかり、ものさしを使わなければなりません。ごまかしはいけません。それが神によって贖われた者の、聖い歩みなのです。

レビ記19章1~18節

きょうは、レビ記19章から学びます。17章からレビ記の後半部分に入りましたが、その後半部分の最初で教えられていたことは、血を食べてはならないということでした。レビ記の後半部分は神に贖われた者の聖なる生き方が教えられているところです。その最初のところでこのように教えられているのは、それが神の民の生き方の土台になることだからです。すなわち、いのちとして贖いをするのが血です。その血をないがしろにしてはならないということです。もちろんこの血とは、私たちのために十字架で血を流してくださったイエス・キリストの血を表しています。その血をないがしろにすること、たとえば、善い行いをしなければ救われないとか、どんな罪を犯していても好く悪とかといった間違った考えに従うことによって、主の血をないがしろにしてはいけないのです。

そして18章では、異教的なならわしや風習でまねてはいけないということで、性についての正しいおしえが語られました。

きょうのところには再び十戒が出てきます。十戒については既に出エジプト記20章で学びましたが、ここではその具体的な適用が語られています。

1.  聖なる者となるため(1-2)

まず1,2節をご覧ください。ここには、「ついではモーセに告げて仰せられた。 「イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」とあります。ここには、これから十戒を与える目的が語られています。それは、「主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」ということです。主が私たちにこうした戒めを与えられるのは私たちを戒めで縛るためではありません。そうではなく、私たちが聖なる者になるため、つまり、聖なる神との交わりを保つためなのです。

そういう意味では、私たちは既に聖められているのです。御子イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったことにより、この主を信じ、主と一つにされたことによって、すべての罪が贖われ神の民とされました。私たちは自分の力によって聖くなることはできません。ただキリストにあってのみ聖くなることができるのであって、聖い生き方をしていくことができるのです。ですから、これから与えられる戒めも自分の肉によってではなく、ただ御霊によって導かれることによってのみ行うことができるわけです。このことを忘れてはいけません。

2.  神への畏敬(3-8)

それでは3節から8節までをご覧ください。ここには、神への畏敬が教えられています。

「おのおの、自分の母と父とを恐れなければならない。また、わたしの安息日を守らなければならない。わたしはあなたがたの神、である。あなたがたは偶像に心を移してはならない。また自分たちのために鋳物の神々を造ってはならない。わたしはあなたがたの神、である。あなたがたがに和解のいけにえをささげるときは、あなたがたが受け入れられるように、それをささげなければならない。それをささげる日と、その翌日に、それを食べなければならない。三日目までに残ったものは、火で焼かなければならない。もし三日目にそれを食べるようなことがあれば、それは汚れたものとなって、受け入れられない。それを食べる者は咎を負わなければならない。の聖なるものを汚したからである。その者はその民から断ち切られる。」

これをみてまず最初に「あれっ」と思うのは、神への恐れについて戒められているはずなのに、その第一にあるのは自分の父母への恐れであるということです。しかも、ここでは父母ではなく母父になっています。いったいこれはどういうことなのでしょうか。出エジプト記ではこの父母を敬わなければならないという教えは第五の戒めとして与えられていましたが、ここでは一番最初に出てきているのです。それは、父母が神の代理者であり、この父母を愛することが神の聖を現す具体的な方法となるからです。ですから、エペソ6章2節を見ると、この父母を敬うことが第一の戒めであると言われているのです。私たちが神を恐れることを学ぶのは、自分の親を通してであることを忘れてはなりません。そういう意味でこれが第一の戒めであり、最初の戒めとして語られているのです。

それにしてもここで「父と母を恐れなければならない」ではなく、「母と父を恐れなければならない」とあるのは不思議です。いったいなぜ母と父なのでしょうか?母の方が怖いから・・・ではありません。ユダヤ人の注解によると、一般的に父よりも母の方が軽んじられる傾向があったので、このように母を先に出すことによって父と母の両方の大切さのバランスを図ったのではないかと思われます。

神への畏敬(恐れ)という原理は、ここでは三つの命令によって示されています。それは、安息日を守らなければならないということ、それから、偶像に心を移してはならないということ、そして、自分たちのために鋳物の神々を造ってはならないということです。

まず安息日を守ることです。これも出エジプト記20章に出てきましたが、20章では第五の戒めとして語られていました。しかし、ここでは一番最初に出ています。それは安息日を覚えてこれを聖なる日とすることが、神を神とし、神によって贖われた事実を覚え、その神を礼拝することだからです。神を敬うことの本質が、この安息日を守るということに現われていると言ってもいいでしょう。ですから、イザヤ書56章には、正義と公正を守ることの具体的な現れが、この安息日を守るということだったのです。なのに、彼らはこれをないがしろにしました。その結果、偶像を拝み、偶像に仕えることになってしまったのです。それで神は怒られ、彼らをバビロンへと渡されました。もし彼らが安息日を守り、神を神として敬い、この神に仕えていたなら、そうした過ちに陥ることはなかったでしょう。でもそうではなかった。それが彼らの問題だったのです。神に贖われた者にとって大切な第一のことは、神を神として敬い、この神のみわざを覚えて礼拝することです。

次に言われていることは、偶像に心を移してはならないということです。心を移すとは、心を向けるということです。偶像に心を向けてはならない。また、偶像を造ってもなりません。まことの神を知らない異教社会においては必ずと言ってよいほどこの偶像との関わりがあります。それが昔からの伝統であるとか、ならわしであるのに、それを拒むということで、クリスチャンは愛がないとか、冷たい、配慮がないと批判されることがあるのです。

かつて私が住んでいた町内会でもこうした偶像との関わりが強く、町内会に祭事部というのがあって、各班から毎年推薦された人が神社の世話人をしていました。その世話人の仕事の一つに神社のお札をもって各家庭に配り歩くことがありました。教会の私たちの家にも来られ、「これお札ない。1,000円です。」なんて言うのです。これには参って、「実は私たちはクリスチャンでほんとうの神様を信じているのでお札はいらないのです」といって断るのですが、それでも変な顔をするのです。「付き合いが悪い人だなぁ」とか、「キリストさんって変な人だなぁ」といった感じで・・・。それで、ある時からこう言ってお断りすることにしました。「私たちはキリストを信じているのでそうしたお札は必要ありません。でも町内会の皆様のためにいつもお祈りしていますから、これは町内会のためにお役に立ててください」と言って1,000円差し出しました。お金を出すのが嫌なのではありません。偶像を拝むこと、偶像と関わりを持つことが嫌なのです。なぜなら、聖書にそのように書かれてあるからです。ですから、どんなに断っても偶像を拒めば愛がないとか、冷たい、配慮がないといった批判は出るでしょう。でも私たちはそこを曲げることはできません。なぜなら、私たちの神は主であって、私たちを罪から救い出してくださったからです。

そのことがその次に書かれてあります。「わたしはあながたの神、主である。」このことばは、ここに何回も繰り返して出てきます。おそらくこうした異教社会の中に起こるさまざまな批判の中にあってそれでも私たちがそのように生きるのは、主こそ神であり、私たちを贖ってくださった方であるということを思い起こさせるためであったからでしょう。

次に、主に和解のいけにえをささげる時の規定が記されてあります。これによると、主にいけにえをささげるときは、受け入れられるようにささげなければなりませんでした。具板的にいうと、それをささげる日と、その翌日に、それを食べなければなりませんでした。三日目まで残ったものは、火で焼かなければなりませんでした。なぜでしょうか?腐ってしまうからです。当時は冷蔵庫がありませんでしたから、三日目まで残しておけば腐ってしまいました。腐るというのは罪に蝕まれることの象徴的なことでしたから、そのようなことがあってはならなかったのです。私たちが罪にとどまること、私たちを汚し、神との交わりから、また他の兄弟たちとの交わりから断たれることを意味していたからです。和解のいけにえ、これは神と和解した者がささげるいけにえですが、この和解のいけにえは、主との正しい交わりにふさわしい方法でささげられなければならなかったのです。

3.  隣人への愛(9-18)

次に、隣人との関わりにおける戒めをみていきたいと思います。9節から18節までをご覧ください。まず9節と10節です。

「あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。またあなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑の落ちた実を集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、である。」

これは貧しい人たちへのあわれみです。土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはなりませんでした。また、収穫の落ち穂を集めてもなりませんでした。さらに、ぶどうの実を取り尽くしてはなりませんでしたし、ぶどう畑の落ちた実を集めてもいけませんでした。なぜなら、貧しい人と在留異国人のために、それらを残しておかなければならなかったからです。ルツ記2章2節のところで、ルツがナオミに「どうぞ、畑に行かせてください。・・落ち穂を拾い集めたいのです。」と言っていますが、これはこのレビ記の戒めがあってのことです。彼らのように貧しい人が食べていくことができるように、神があわれんでおられるのです。ある意味でこうした態度が貧しい人へのおもいやり、愛の具体的な形となってあらわれるのです。「もったいないから全部とっちゃう」とか「これらは全部自分たちのものだから、だれにも食べられないようにしよう」というようなせこい考えを持たないで、自分に与えられたものを喜んで分かち合うということを、このような形で表したのです。これはある意味で現代の福祉とか、社会保障のあり方とその目的は貧困者を救済するということです。私たちも畑の隅々を残すような者、収穫を集めないで分かち合えるような者になりたいと願います。いや、このような教えに従っていくなら、必ずそうなると信じます。これは私たちが神の祝福に生きる道でもあるからです。

盗んではならない。欺いてはならない。互いに偽ってはならない。というのは、出エジプト記では第八、第九の戒めとして出てきたことです。盗んではいけないというのはあたりまえのことですが、意外と私たちの多くは、この戒めを破っています。それは単に物を盗むというだけでなく、他人の所有権を侵すことだからです。たとえば、借りた物を返さないとか、税金の申告をごまかすとか、そういったこともこの教えに含まれているのです。また聖書では、地とそれに満ちているものは、主のもである(詩篇24:1)とありますから、それを主に返さないとしたら、実はそれも盗んでいることになるわけです。

いったいなぜ私たちはそうしたことを兵器で行ってしまうのでしょうか。それは、神が与えてくださったものを感謝せず、自分で自分の必要を満たそうとしているからです。神は私たちのために御子をさえも惜しみなく与えてくださいました。その恵みによって私たちは救われたのです。この恵みに感謝して神と人に仕えていこうとするなら、盗んだり、偽ったりということはなくなるはずです。

パウロはエペソ4章25~29節で、「25ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。26 怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。27 悪魔に機会を与えないようにしなさい。28 盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。29 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」と言っていますが、そうした行為というのは古い人の姿、まだ救われていない人、神のことを知らない人、キリストのことを聞いていない人の姿なのであることがわかります。しかし、キリストのことを聞き、神によって贖われた者ならば、それが悪いことであって、神のみこころでないことであるということがわかり、そこから解放されるはずです。仮に、そうした罪に陥ることがあっても、悔い改めて、そこから新しい人に、神にかたどり造り出された人に変えられるはずです。ですから、こうしたことはすべて救いの問題から発しているのです。

13節と14節には、「あなたの隣人をしいたげてはならない。かすめてはならない。日雇い人の賃金を朝まで、あなたのもとにとどめていてはならない。あなたは耳の聞こえない者を侮ってはならない。目の見えない者の前につまづく物を置いてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしはである。」とあります。

隣人をしいだけてはならないというのは、隣人を圧迫してはならないということです。たとえば、雇い主が、ある人にどんな賃金でも働く必要があるに違いないとみてとって、その必要を有利に利用し、正当な賃金以下で働かせたり、隣人に対して抵当をとっている人が、専門的な自分の権利を主張して畑や田んぼを手に入れようとして、あわれな負債者から不必要にお金を巻き上げようとする行為などがそうです。こうした隣人をしいたげる行為は、私たちの社会の中では無限の例を上げることができるでしょう。最近もある弁護士が来て話しをしていたら、こうしたことが弁護士の間でも日常茶飯事に行われていると嘆いていました。しかし、こうしたことは神の民にはふさわしくないことと禁じられています。

また、不当な労働賃金の遅延行為も同じです。ただ正当な賃金を払うというだけではだめで、それを即座に支払わなければなりません。そうでなければ日雇いの労働者は生活していくことができないからです。これはどちらかといえば富裕者の犯しやすい罪です。富裕者にとって少額の金の受け取りが少しくらい遅れたからといってあまり不便を感じないかもしれませんが、しかし貧しい人たちにとっては死活問題なのです。そのように賃金を送らせることによって彼らは、実際上、彼ら自身のものを彼らから盗んでいることになるのです。

それから耳の聞こえない人、目の見えない人に対して侮ってはならないと教えられています。これは弱さを抱えている人への配慮です。だれにでも弱さがあります。そうした人の弱さにつけこんで、その人をけがしたり、つまずかせたりすることは、神の民としてふさわしいことではありません。かえってそうした弱さに同情し、補っていかなければなりません。からかってみたり、言ってはならないようなことを言うことは、汚れたことなのです。

次に15節と16節をご覧ください。ここには、「不正な裁判をしてはならない。弱い者におもねり、また強い者にへつらってはならない。あなたの隣人を正しくさばかなければならない。人々の間を歩き回って、人を中傷してはならない。あなたの隣人の血を流そうとしてはならない。わたしはである。」とあります。

このことについては出23章2~-3節にも、「訴訟にあたっては、権力者にかたよって、不当な証言をしてはならない」とか、「貧しい人を特に重んじてもいけない。」とありました。公正な裁判が行われなければならないということです。それでここにも、「不正な裁判をしてはならない」とあります。たとえ弱い者であってもおもねることをしてはならず、強い者であってもへつらってはいけません。意外と私たちは弱い立場の人たちの訴えを受け入れ、強い立場の人たちからの訴えを毛嫌いする傾向があります。しかし、そうした偏見を抱いてはいけません。裁判においては真実でなければならないのです。

またここに、人々の間を歩き回って、人を中傷してはならないとあります。そんなことをする人がいるのでしょうか。います。特に最近は顔が見えないことをいいことに、インターネットで平気で他人を誹謗中傷して問題になっています。中にはそれで名誉毀損で訴えたり、訴えられたりということにまで発展するケースもあります。「中傷」という言葉はヘブル語で「ラキール」で、これはエゼキエ書26:12で「商品」(レクラー)という訳された言葉と同類語です。また、足を意味する「レゲル」という言葉とも同類語で、話を商品のように、あちこちと運び歩くことを言うのです。それは隣人の血を流そうとしていることと同じです。ある意味で、中傷や悪口は人の心に血を流す行為で、汚れたことです。人を中傷したかといって警察に捕まることはないし、法律でさばかれるということもありませんが、それは偶像礼拝や殺人よりも恐ろしいことなのです。なぜなら、それは悪口を言う者、言われる者、聞く者の3人を一度に殺すからです。(ベン・シラの知恵28:13-26)

次に17節と18節をご覧ください。ここには「心の中であなたの身内の者を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。
復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしはである。」とあります。

「心の中で身内の者を憎んではならない。」ここに、「身内の者」とありますが、なぜ身内の者とあるのでしょうか。よく考えてみると、こうした憎しみというのは身内をはじめ、日頃関わりを持っている人の間で抱きやすいものだからです。全然関係のない人を憎むというのはほとんどありません。家族、親族、教会、職場、学校関係、サークル、何かがきっかけとなって知り合った人たち、そうした人たちとの間でさまざまな軋轢が生じるのです。だから「身内」と言われているのです。そうした身内の者を憎んではいけません。

心の中で憎しみを持たないこと、これが聖い歩みをする上で、とても大切なことです。なぜなら、こうした憎しみがきっかけとなってさまざまな悪しき行為が生まれてくるからです。たとえば、人を馬鹿者と言う者は人を殺しているとイエス様は言われましたが、そのような心にあることが実際の行動に表れてくるのです。

しかし、こうした憎しみは私たちを疲弊させ、私たちの心を汚し、主にある喜びや平安、愛を奪ってしまいます。ですからパウロは、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」と言っているのです。喜びや祈り、感謝と憎しみは共存できません。いつも心に喜びや感謝があれば、こうした憎しみに囚われることがなくなります。

では、もし兄弟に憎しみを抱くことがあればどうしたらいいのでしょうか?ここにはただ単に私たちの隣人を憎んではならないというだけでなく、あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない、とあります。これはどういうことかというと、あなたの隣人が悪を行ったらどうしたらよいかということです。

ガラテヤ6章1節のところでパウロは、「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。」と言っています。このことばは、このレビ記の戒めが背景にあります。もしあなたの隣人が罪に陥ったならば、御霊の人であるあなたは、柔和な心でその人を正してあげなければなりません。ねんごろに戒めなければならないのです。そうすれば、私たちが彼のために罪を負うことはありません。逆に、そうしなければ、罪を負うことになるのです。つまり、私たちが何らかの方法で隣人の罪を阻もうと努力しなければ、そうした彼の悪事によって、私たちも共犯者となってしまうというのです。しかし、たとえその人の罪を責めるにしても、ねたんだり、憎んだり、言い争ったりするのではなく、柔和な心で戒めなければなりません。彼を自分自身のように愛さなければならないのです。

そして18節には、「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしはである。」とあります。復讐してはなりません。恨んではなりません。ユダヤ教のラビたちは、「お前がしたように私もする」これが復讐で、「わたしはお前がしたようにはしない」これが恨みだと言いました。

ところで、その後のことばは有名です。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」イエス様は、律法全体は、神を愛せよと、この隣人を愛せよ、の二つの戒めにまとめられると言われました(マタイ19:19,22:39,ローマ13:9,ガラテヤ5:14)。これが律法基本なのです。単に憎んではならないとか、復讐してはならない、恨んではならない、中傷してはならないということではなく、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよというのが、律法の原点にある戒めなのです。

レビ記18章

きょうは、レビ記18章から学びます。レビ記は17章から後半部分が始まりましたが、その中心は何かというと、聖なる歩みです。「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。」(11:44-45)動物のいけにえ、これは私たちの罪を贖ってくださるイエス・キリストの犠牲を表していますが、その血によって聖められた者は、聖い生き方をしなければなりません。その最初に命じられたことは血を食べてはならないということでした。なぜなら、肉のいのちは血の中にあり、いのちとして贖いをするのは血であるからです。その血を食べるということは神を侮ることであり、その血をないがしろにすることになります。ですから、血を食べてはならないということが強調されていたのです。それは、この血による贖いを重んじるということです。すなわち、私たちの罪を贖ってくださったイエス・キリストを中心に歩まなければならないということです。そして、きょうのところには性について教えられています。

1.  彼らの風習に従って歩んではならない(1-5)

まず1~5節までをご覧ください。

「ついで主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエルの人々に告げて言え。わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたは、あなたがたが住んでいたエジプトの地のならわしをまねてはならない。またわたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地のならわしをまねてもいけない。彼らの風習に従って歩んではならない。あなたがたは、わたしの定めを行ない、わたしのおきてを守り、それに従わなければならない。わたしは、あなたがたの神、主である。あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守りなさい。それを行なう人は、それによって生きる。わたしは主である。」

ここで主が繰り返して語っておられることは「ならわし」とか「風習」です。彼らがかつて住んでいたエジプトのならわし、またこれから入っていくカナンの地のならわしをまねてはいけないということでした。イスラエルはかつてエジプトにいたので、それらのならわしに慣れ親しんでいました。そうしたならわしをまねてはいけません。神の定めを行い、神のおきてを守り、それに従わなければなりません。なぜなら、神はあなたがたの神、主であられるからです。私たちは神のもの、神の民とされたからです。神はあなたを贖ってくださいました。滅びの中から救い出してくださったからです。

これは異教的な風習の中にいる私たちクリスチャンに対するチャレンジでもあります。私たちはクリスチャンになってもなかなか昔の慣習から抜け出せないことがあります。クリスチャンになっても「昔からずっとやっていることだから」「みんなやってることだから」別に悪いことだと思わないで平気でやっていることがあります。

先日、オバマ大統領が来日したとき日本の伝統に触れたいと明治神宮に行きました。そこで神主からお祓いを受け、絵馬に願い事を書いて奉納しました。神主が「だれかが持ち去ってしまうといけないから」とそれを取って別のところに安置しようとしたら、「私の祈りは聞かれるでしょうか」と神主に尋ねました。すると神主は「それは神様のみぞ知るところです」と答えました。私はそれを見ていて、ほんとうに残念に思いました。私たちがいのちをかけて守っている信仰をそうやって踏みにじる行為は決して許されることではありません。日本の伝統だから、日本の習慣だから、昔からずっとやっていることだから、みんなやってることだから、やってもいいというのは間違いです。私たちは神によって贖われたものであり、神の民です。その神が望んでおられることは何かを知り、それを行うことが求められているのです。昔からやっていることでも、みんなやっていることでも、それは神のみこころなのかどうかをよく見極めなければなりません。そして、神の定めを行い、そのおきてを守り、それに従わなければならないのです。もしそうでないことをしていたら、それを悔い改め、神のみこころに立ち返らなければなりません。

2.性の尊厳(6-18)

では、神のみこころは何でしょうか。神の定めているおきてとは、どのようなことなのでしょうか。6~18節までを見ていきましょう。まず6節から11節までをお読みします。

「あなたがたのうち、だれも、自分の肉親の女に近づいて、これを犯してはならない。わたしはである。父をはずかしめること、すなわちあなたの母を犯すことをしてはならない。彼女はあなたの母であるから、彼女を犯してはならない。あなたの父の妻を犯してはならない。それは、あなたの父をはずかしめることである。あなたの姉妹は、あなたの父の娘でも、母の娘でも、あるいは、家で生まれた女でも、外で生まれた女でも、犯してはならない。あなたの息子の娘、あるいはあなたの娘の娘を犯してはならない。それはあなた自身をはずかしめることだからである。あなたの父の妻があなたの父に産んだ娘は、あなたの姉妹であるから、あなたはその娘を犯してはならない。」

まず、自分の肉親の女に近づいて、これを犯してはならないということです(6)。すなわち、あなたの母親と寝てはいけないし、あなたの父の妻を犯してはいけません。なぜなら、それはあなたの父をはずかしめることになるからです。ここに「あなたの母」と「あなたの父の妻」とありますが、これは同じ人のこと、つまり母親のことを指しているのではないかと思われますが、そうではありません。当時は一夫多妻が許されていたので、父には母親の他に別の女性もいたのです。そのような女性を犯してはならないということです。

また、あなたの姉妹を犯してもいけません(9)。あなたの父の娘でも、母の娘でも、あるいは、家で生まれた女でも、家の外で生まれた女では犯してはいけないのです。これも一夫多妻の影響があったので、このような言い方がなされているのです。必ずしも同じ父母から生まれた姉妹ということだけでなく、別の父親、別の母親から生まれた姉妹までも含めて語られているのです。あなたの息子の娘、娘の娘とは孫のことですね。孫を犯してもいけないという戒めです。

このような戒めは、あまりにも当たり前のことで、なぜこのようなことが戒められているのか不思議に思われるかもしれませんが、もしこのようなことが日常茶飯事に行われていたらどうでしょうか。感覚が麻痺して、それがどんなに汚れたことなのかがわからなくなってしまいます。そしてこのようなことがエジプトやカナンで平気で行われていました。ですから主は、これらのことが罪であることをはっきり教える必要があったのです。

次に12節から18節までを読みます。

「あなたの父の姉妹を犯してはならない。彼女はあなたの父の肉親である。あなたの母の姉妹を犯してはならない。彼女はあなたの母の肉親であるから。あなたの父の兄弟をはずかしめてはならない。すなわち、その妻に近づいてはならない。彼女はあなたのおばである。あなたの嫁を犯してはならない。彼女はあなたの息子の妻である。彼女を犯してはならない。あなたの兄弟の妻を犯してはならない。それはあなたの兄弟をはずかしめることである。あなたは女とその娘を犯してはならない。またあなたはその女の息子の娘、あるいはその娘の娘をめとって、これを犯してはならない。彼女たちは肉親であり、このことは破廉恥な行為である。あなたは妻を苦しませるために、妻の存命中に、その姉妹に当たる女をめとり、その女を犯してはならない。」

次に、家族は家族でも、血縁的に少し離れた家族との性行為、ならびに結婚が禁止されています。「あなたの父の姉妹」(12)とはおばのことです。そのおばと通じてはならない、という戒めです。もちろん、母の姉妹のおばも同じです(13)。「父の兄弟の妻」(14)とは、義理のおばのことです。実のおばだけでなく、義理のおばにも近づいてはいけません。それは父の兄弟(おじ)をはずかしめることになるからです。また、息子の妻である「あなたの嫁」を犯してもいけません。さらに、「あなたの兄弟の妻」と通じてもいけません。それはあなたの兄弟をはずかしめることになるからです。バプテスマのヨハネは、ヘロデが兄弟ピリポの妻ヘロデヤを自分の妻としていたことを責めたのは、こうした律法の教えがあったからなのです(マルコ6:17-18)。そのためにヨハネは首をはねられて死んでしまいましたが、彼は自分の死も恐れずイスラエルに神の道を示して、悔い改めを迫ったのです。救い主イエス・キリストのために道を備えたのでした。

17節には、「あなたは女とその娘とを犯してはならない」とあります。また、「その女の息子の娘、あるいはその娘の娘」をめとって、これを犯してはならない、とあります。これは、子持ちの母親と結婚するとき、その娘と母親の二人と結ばれてはならないということです。また、「その女の息子の娘」、「娘の娘」というのは孫のことですが、これを犯してはならないということです。実際に血のつながりがなくても・・・。それは妻の姉妹に当たる女をめとることも同じです。要するに、そのようにすることであなたの妻を苦しませてはならないということです。

ここにさまざまな具体的な例が取り上げられていますが、これらを貫いている原則は何かというと、「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(創世記2:24)です。こうした行為が行われることによって、この一体性が破壊されるのです。そして、そこから様々な混乱と問題が起こってくるわけです。そういう意味では一夫多妻制自体が混乱の一つの要因であることもわかります。神に贖われ神の民とされた私たちは、神のみこころは何なのかをよく知り、そこに歩まなければなりません。

3.  その他の性行為について(19-23)

次に19節から23節までをご覧ください。

「あなたは、月のさわりで汚れている女に近づき、これを犯してはならない。また、あなたの隣人の妻と寝て交わり、彼女によって自分を汚してはならない。また、あなたの子どもをひとりでも、火の中を通らせて、モレクにささげてはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしはである。あなたは女と寝るように、男と寝てはならない。これは忌みきらうべきことである。動物と寝て、動物によって身を汚してはならない。これは道ならぬことである。」

ここには、近親相姦以外の、してはいけない性行為について教えられています。まず、「月のさわりで汚れている女に近づき、これを犯してはならない。」とあります。15章24節には、「もし男がその女と寝るなら、その女のさわりが彼に移り、その者は七日間汚れる」とありました。これは別に月のさわり自体が汚れているとか、問題であるということではなく、それが罪の象徴であったということです。だから、その女に近づいてこれを犯してはならないということです。

また20節には、「隣人の妻と寝て交わり、彼女によって自分を汚してはならない」とあります。いわゆる姦淫です。すなわち、結婚関係以外での性交渉のことが禁じられているのです。

「モレク」とは今週のメッセージに出てきましたが、アモン人とモアブ人が信じていた神です。このモレク礼拝では自分のこともをいけにえとしてささげるという行為が行われていました。モレクの偶像は鉄で出来ていて、それを火によって熱くし、真っ赤になったモレクの両腕に赤ん坊を乗せてささげたのです。何ともおぞましい行為ですが、これは望まない妊娠をした時に行った子どもを処理する方法、つまり、当時の堕胎だったのです。現代版の中絶です。彼らは「樫の木の間や、すべての生い茂る木の下で」、そうした淫行を行い、その結果出来たこどもを、このようにして堕胎したのです。残念なことに、イスラエルの民はこのならわしをまねて、自分のこどもをモレクにささげるというようなことをしました。アハズ王(Ⅱ列王16:3,17:17)やマナセ王(Ⅱ列王21:6)は自分の子どもをこのモレクにささげましたが、これは神が忌み嫌うべきならわしだったのです。。

また22節では同性愛も禁じられています。最近では、同性愛は遺伝性の病気であるとか、幼少の頃の性的虐待を受けたから仕方がないのだ、という意見がはびこっていますが、聖書では、きっきりとそれが罪であると教えられています。最近では聖書を信じているキリスト教の中でも大きな論争があり、意見が二分されていますが、ここにはっきりと罪であると言われていますから、それを支持したり、正当化するのは間違っていると言えます。

さらに23節には、動物と寝ることが禁じられています。どんなに動物がかわいいからといって、その動物と寝ることは間違っています。それは神の秩序をことごとく破壊することなのです。

4.  はき出されることがないため(24-30)

最後に、このように忌むべきことをする者たちに対して主がどのようにされるかを見て終わりたいと思います。24節から30節までをご覧ください。

「あなたがたは、これらのどれによっても、身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている国々は、これらのすべてのことによって汚れており、このように、その地も汚れており、それゆえ、わたしはその地の咎を罰するので、その地は、住民を吐き出すことになるからである。あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守らなければならない。この国に生まれた者も、あなたがたの間の在留異国人も、これらの忌みきらうべきことを、一つでも行うことがないためである。―あなたがたより先にいたこの地の人々は、これらすべて忌みきらうべきことを行ったので、その地は汚れた―あなたがたがこの地を汚すことによって、この地が、あなたがたより先にいた国民を吐き出したように、あなたがたを吐き出すことのないためである。これらの忌みきらうべきことの一つでも行う者はだれであろうと、それを行う者は、その民の間から断たれる。あなたがたは、わたしの戒めを守り、あなたがたの先に行われていた忌みきらうべき風習を決して行わないようにしなさい。それによって身を汚してはならない。わたしはあなたがたの神、である。」

このようなことを行って身を汚す者に対して、主は「吐き出す」とか、「断たれる」とあります。これは旧約聖書だけの教えではありません。新約聖書にも、そのまま受け継がれています。Ⅰコリント6:章9~10節には、「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけまんせん。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。」とあります。またガラテヤ5章19~21節には、「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」とあります。またエペソ5章3~6節にも、「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者―これが偶像礼拝者です、―こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。」とあります。

このような行いのために、神の怒りがくだると、はっきりと言われているのです。もちろん、イエス様を信じるならだれでも救われます。しかし、本当に救われたのなら、その救い主の喜ばれることを行っていきたいと願うのは当然のことではないでしょうか。もしそうでないとしたら、その人は本当の意味で救われていないか、救いについてよく理解していないかのどちらかです。これは性のことだけでなくその他のすべてのクリスチャン生活についても言えることですが、意外とこの「救い」についてよく理解していないことから多くの誤解が生じています。この性のこともそうでしょう。

で すから、私たちは神のみこころは何なのか、何がよいことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一身によって自分を変えなければなりません。もしそこから外れていることがわかったら悔い改めて神に立ち返らなければなりません。そうすれば、神は赦してくださいます。そうでないと、吐き出されてしまうこともあるのです。

Ⅰテサロニケ4章3~6節に、「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、このようなことで、兄弟たちを踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。」とあります。このようなことは神を知らない異邦人の行いです。神に贖われ、神のものとされた私たちは、神が聖なる方であられるので、聖であることを求めていかなければならないのです。

レビ記17章

このレビ記は、大きく分けると二つに分けられます。前半部分は1章から16章までのところで、ここには、神に近づくにはどうしたらいいかについて書かれてあります。そして、聖なる神に近づくためには、罪を贖ういけにえが求められました。いけにえをもってのみ近づくことができるのです。そのことについてのさまざまな規定が記されてありました。

そして後半部分はというと、この17章から始まります。17章から終わりまでのところに、今度に神に近づけられた者はどのように歩まなければならないのか、が語られます。つまり、「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。」という言葉の具体的な生き方が示されるわけです。

そしてきょうの部分は、その導入部分となります。イスラエルは神のものとされたわけですから、彼らはこの世の汚れから離れなければなりません。どのようにして、この世の汚れから離れることができるでしょうか。

1.  たった一つの唯一の道(1-9)

まず、1-7節までを見ていきましょう。「ついではモーセに告げて仰せられた。「アロンとその子ら、またすべてのイスラエル人に告げて言え。が命じて仰せられたことは次のとおりである。イスラエルの家の者のだれかが、牛か子羊かやぎを宿営の中でほふり、あるいは宿営の外でそれをほふって、の幕屋の前にへのささげ物としてささげるために、それを会見の天幕の入口の所に持って来ないなら、血はその人に帰せられる。その人は血を流した。その人はその民の間から断たれる。これは、イスラエル人が、野外でささげていたそのいけにえを持って来るようにするため、また会見の天幕の入口の祭司のところで、に持って来て、への和解のいけにえとして、それらをささげるためである。また、祭司が、その血を会見の天幕の入口にあるの祭壇に注ぎかけ、その脂肪をへのなだめのかおりとして焼いて煙にするため、また、彼らが慕って、淫行をしていたやぎの偶像に、彼らが二度といけにえをささげなくなるためである。これは彼らにとって、代々守るべき永遠のおきてとなる。」

これはどういうことでしょうか?私たちはこれまで神に近づくためには、牛や羊、またやぎといった動物をいけにえとしてささげなければならないということを見てきました。にもかかわらず、ここでは、そうした牛や羊ややぎを主の幕屋の前に、主へささげものとしてささげない場合、つまり、これらの家畜を祭壇に持ってくるのではなく、それ以外のところに持っていく場合、その人は罰せられる、と言われています。なぜこのように命じられているのでしょうか。5節、6節をご覧ください。それは、彼らがそうしたいけにえを主のもとに持って来るため、主への和解のいけにえとして、それらを主にささげるためです。また、祭司が、その血を会見の天幕の入口にある主の祭壇に注ぎかけ、その脂肪を主へのなだめのかおりとして焼いて煙にするためです。

いったい、そうしたいけにえを主のもとに持っていかないというようなケースがあったのでしょうか。ありました。彼らは自分勝手に動物をほふり、そして偶像礼拝をしていたのです。7節に、「彼らが慕って、淫行をしていたやぎの偶像に、彼らが二度といけにえをささげなくなるためである。」とあります。やぎの偶像と淫行をしていたというのは偶像礼拝のことです。彼らは主にいけにえをささげるためではなく、自分たちが偶像礼拝をするために勝手に動物をほふっていたのです。しかし、いけにえは主への和解のいけにえとして、主のもとに持って来なければなりませでした。主にささげなければならないのです。5節には、そのことが強調されています。「主に持って来て、主への和解のいけにえとして、主への祭壇に注ぎかけ、主へのなだめのかおりとして焼いて煙にするため・・・」と、何回も何回も、主ご自身にお会いするためにいけにえを持って来ることが強調されているのです。イスラエルは自分がよかれという方法によって神を礼拝するのではなく、神がお定めになった方法によってのみ、神に近づくことができるのであって、神を自分に合わせようとするのではなく、自分が神に合わせるようにしなければならないのです。

このようなことは、私たちにもあるのではないでしょうか。自分では神に従っているようでも、結局のところ、自分が神となっている場合があります。自分が神に会わせているのではなく、自分の考えの信仰、自分勝手な歩みになっている時があるのです。そうではなく、あくまでも私たちが神に合わせなければなりません。神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければならないのです(ローマ12:2)。それは、礼拝も同じです。私たちに与えられている礼拝も、一つしかありません。それは、イエス・キリストを通してささげられなければならないということです。イエス・キリストを通してしてなされた救いのみわざを認め、これを受け入れ、この方を礼拝することです。イエスさまは、「わたしは道です。真理です。命です。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)と言われました。祭壇はまさに、主が私たちの罪のために血を流され、死なれたところです。この方を通してでなければ、私たちは決して礼拝を行うことはできないし、したとしても、自分勝手な、独りよがりの礼拝になってしまいます。教会は、ただ一つの目的であるイエス・キリストとその救いのみわざを思い出し、この方を通して神を礼拝しなければならないのです。

それは、和解のいけにえだけではありません。8節と9節を見ると、和解のいけにえだけでなく、全焼のいけにえや、その他のいけにえをささげる場合も同じであることが語られています。それを主にささげるために会見の天幕の入口に持って行かないなら、その者は、その民から断ち切られます。つまり、簡単にいうと地獄に行くということです。主イエス以外に神に近づこうとするならば、どのような宗教的な行為を行ったとしても、その人は滅ぼされることになってしまうのです。私たちが救われ、神に近づく唯一の道は、主イエス・キリスト以外にはないのです。

2.  血を食べてはならない(10-13)

次に10節から16節までをご覧ください。10節には、「どんな血でも食べるなら、わたしはその血を食べる者から、わたしの顔を背け、その者をその民の間から断つ。」とあります。異邦人の中には動物の血を食べたり、飲んだりする習慣がありました。しかし、神の民であるイスラエル人はどんな血でも食べることが禁じられました。なぜでしょうか?11節を見てください。ここには、「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」とあります。つまり、その第一の理由は、肉のいのちは血の中にあるからです。血はいのちを表すものであり、いのちの源であるからです。

第二の理由は、血はいのちであって、人間のいのちを贖う手段として用いられるものだからです。ヘブル9:22には、「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」とあります。特に贖いに関しては、「祭壇の上で」なされるとき、神は動物の血を、人のいのちとして認められるのです。人はそのいのちを贖われなければならない罪人です。ですから、その罪を贖うために用いられる血を食べてはならないのです。つまり、血は、神との交わりのためにのみ用いられるものだからであって、祭壇に注がれ、神と民とを一つにするための贖いのために用いられるものだからなのです。3:17と7:26にも、脂肪とともに血を食べることの禁止が教えられていたのです。

この尊いいのちが犠牲となって私たちが神に受け入れられるようになるということは、いかに偉大なことであるかがわかると思います。ものすごく大きな代償が支払われて私たちの罪が贖われるのです。動物がほふられたとき、神はその動物を粗末に扱われていたのではなく、むしろ高価で尊いものと考えておられ、そのいのちがほふられることを何よりも悲しんでおられたのは神ご自身であられました。けれども、私たちをご自分のみもとに引き寄せるために、そのことを切に願っておられた主は、動物が血を流すことを選ばれたのです。しかし、神は動物ではなく、ご自身のひとり子のいのちを犠牲にされました。いのちはみな尊いのですが、御子のいのちほどに高価で貴いものはありません。けれども、この方を犠牲にすることによって、私たちの罪が完全に贖われるために、あえてそのようにされたのです。

「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(Iペテロ1:18-19)

それゆえに、神はイスラエル人に、だれでも血を食べてはならない、と命じられたのです。血を食べるということは、いのちを取るということに他なりません。また、血による贖いをないがしろにすることになるのです。ヘブル10:29-30には、御子の血をないがしろにすることについて、次のように警告されています。

「まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」、また、「主がその民をさばかれる」と言われる方を知っています。」

ですから、血を食べるということは主の血を踏みつけ、ないがしろにすることなのです。私たちが、ことさらに罪を犯し続けることによって、主の血をないがしろにすることがあります。また、自分の行いか功績かによって救われようとして、主の血をないがしろにすることがあるのです。その一方でイエス様は、ご自分の肉を食べ、ご自分を血を飲むようにと言われました。ヨハネ6:53-56です。

「イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。」

私たちが食べ、私たちが飲まなければならないのは、主の肉であり、主の血潮です。まさに聖餐式にあずかるというのは、このことを表しているのです。聖餐式とは主ご自身の血を飲み、肉を食べることであり、キリストのいのちにあずかることなのです。ですから、血を食べてはならないと言われたことの意味は、主のいのちにあって生きるべきであるということであり、主の血とからだに対して罪を犯してはならないということなのです。

彼らの中の在留異国人のだれかが、食べることのできる獣や鳥を捕らえるなら、その者はその血を注ぎだし、それを土でおおわなければなりませんでした。

3.自然に死んだものを食べるなら(14-16)

でも、自然に死んだものとか、野獣にひき殺されたものについてはどうでしょうか。生きた獣はいのちがあるので、その血はいのちであることが分かります。しかし、死んだ獣の場合はどうなるのでしょうか。血を注ぎ出しても、もともと死んでいる獣を食べるときは、その人は汚れます。罪に問われることはありませんが、汚れるのです。ですから、水を浴びなければなりません。その衣服を洗わず、その身に水を浴びなければ、その者は自分の咎を負わなければならないのです。血によってきよめられているのですが、水の洗いがなければ、罪ある者となってしまうのです。これはどういうことかというと、私たちは主の血潮によってきよめられた者ですが、みことばによる水の洗いがなければ、罪ある者となっしまうということです。つまり、主イエスの血によってきよめられた者でも、日々の歩みの中で汚れてしまうことがあれば、みことばを読み、それを心に蓄え、聖霊の促しに答えて悔い改めることがなければ、咎を負ってしまうことになるということです。Iヨハネ1:9には、

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

とあります。私たちの日々の歩みにおいては、この悔い改めを通して、聖霊の洗いを受けなければなりません。日々のきよめが必要なのです。イエス様の尊い血によって罪から救い出された私たちは、その血によって歩み続けること。それが求められているのです。これが、神が私たちのきよめのために求めておられる道なのです。

レビ記16章

きょうはレビ記16章全体から学びたいと思います。ここには、イスラエルの例祭の一つである「贖罪の日」の規定について記されてあります。例祭とは毎年恒例として行われているお祭りのことです。イスラエルには七つの例祭がありますが、その一つがこの「贖罪の日」です。これはヘブル語で「ヨム・キプール」と言います。「ヨム」とは「日」のこと、「キプール」とは「贖罪」という意味です。この贖罪の日は祭日ではありますが祝日ではありません。普通祭日というと何かをお祝いするというイメージがありますが、この贖罪の日はそれとは逆で、苦しみを体験する日です。29節には「身を戒めなければならない」とありますが、身を戒めるとは断食のこと。祭日に断食することなどありませんが、この贖罪の日には断食します。具体的には五つの自己否定をもって苦しみを体験すると言われています。(1.飲み食いをしない。2.風呂に入らない。風呂は体に心地よいことなので、そうした心地よい事を避けるという意味で。3.体に油を塗らない。4.革靴やサンダルを履かない。贅沢品を避けるという意味で。5.夫婦関係を持たない。そのため部屋のカーテンはオープンにし、寝室にはろうそくの明かりを灯した。)それは、私たちの罪をきよめるために、神が贖いをしてくださったから。そのことを覚えて身を戒めるのである。

1.  垂れ幕の内側の聖所に入って(1~2節)

それではまず第一に、1~10節までにあるいけにえの準備について見ていきたい。1節と2をご覧いただきたい。

「1 アロンのふたりの子の死後、すなわち、彼らがに近づいてそのために死んで後、はモーセに告げられた。
2 はモーセに仰せられた。「あなたの兄アロンに告げよ。かってな時に垂れ幕の内側の聖所に入って、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない、死ぬことのないためである。わたしが『贖いのふた』の上の雲の中に現れるからである。

アロンのふたりの子の死とは、レビ記10章で起こったアロンのふたりの子ナダブとアビブの死のことである。彼らは異なった火をささげたために神に打たれて死んだ。異なった火をささげたとはどういうことか?2節をみると、ここに「かってな時に垂れ幕の内側の聖所にはいって、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない。死ぬことのないためである。」とあることから、おそらく、この二人の息子は、大祭司である父親のアロンしかできないことを、自分たちの手でやろうとしたのではないかと考えられる。大祭司アロンにしかできないこととは、垂れ幕の内側の聖所に入ることである。それは至聖所のことで、ここには大祭司が年に一度、この贖罪の日にしか入ることができなかったのに、彼らはその至聖所に勝手に入って行った。いったいなぜ彼らはこんな勝手なことをしたのか?それは自分たちに栄光が帰されることを求めたからだである。10章3節には、「わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現し、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現す」とあるが、その栄光を自分によって現したいと思ったのであろう。おそらく、この二人は、主の前から火が出てきたことを見てこれはすばらしいと思い、自分たちもそれをまねて、火を出してみせようと思ったのだろう。自分によって、そうした偉大なことができると思ったのだ。彼らは自分たちに栄光が帰せられることを求めたのである。しかし、それは罪である。栄光は主のものであって、祭司はその主に仕える者にすぎない。したがって、祭司の務めは主の栄光を現わすことである。自分の栄光ではない。主に栄光が帰せられることを求めなければならない。なのに、彼らは自分たちの栄光を求めたので、神のさばきの火が彼らを焼き尽くしたのである。

これは主に仕える祭司が注意しなければならないことである。祭司は主の栄光が現されるために、命じられたとおりに仕えなければならない。この務めに慣れてくると、いつしか自分の栄光を求めようとする誘惑が生じる。しかし、祭司は自分の栄光などどうでもいいことであって、ただ神に栄光が帰せられることを求めていかなければならない。そのために必要なことは、かってな時に垂れ幕の内側に入り、「贖いのふた」の前に行ってはならないということ。そこに行くことができるのは大祭司だけであり、しかも年に一度贖罪の日だけに限られていた。そこで大祭司は主と会見する。どこで会うのかということが2節にある。「贖いのふた」の上の雲の中に現れる。このような特権は大祭司のみに許されている。しかもその大祭司でさえも、そのためにちゃんと備えていなければ死ぬこともある。

このようなことを申し上げると恐ろしい感じもするが、しかし私たちは恐れる必要はない。なぜなら、私たちはもうすでにこの至聖所の中にいるのだから。まことの大祭司であられるイエス・キリストが贖罪のみわざを成し遂げてくださったので、そのみわざを信じることによって、私たちは大胆にこのこの垂れ幕の内側の聖所に入ることができるようになった。このことがヘブル人への手紙9章11~12節に記されてある。

「11 しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、
12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」

この箇所を見ると、この幕屋というのは天国の模型であったことがわかる。実体は天国である。そしてこの贖罪の日になされることは大祭司が至聖所に入って、罪の贖いをすること。その大祭司とはイエス・キリストを現していた。キリストは偉大な大祭司として父なる神が座しておられるまことの至聖所に入り、罪の贖いをされた。しかもやぎや小羊といった動物の血によってではなく、ご自分の血を携えていかれた。やぎや小羊の血でさえも人々の罪をきよめることができるとするならば、神の子であられるキリストの流された血はどんなにか私たちの良心をきよめることができるだろう。完全にきよめることができる。私たちはこのキリストの血によってきよめられたので、大胆に至聖所の神の前に出ることができるようになった。それゆえ私たちはこのイスラエルの大祭司と同じ特権に与っている。いや、それ以上の特権に与っている。それ以上のというのは、イスラエルの大祭司は年に一度しか入ることが許されていなかったが、私たちはいつでも、どこでも、神の前に入っていくことが許されている。これはほんとうに大きな特権ではないだろうか。

2.  聖所に入るために(3~10)

次に、3~10節までを見ていただきたい。ここには、大祭司はどのようにして聖所に入らなければならなかったのかが記されてある。その準備についてである。

「3 アロンは次のようにして聖所に入らなければならない。罪のためのいけにえとして若い雄牛、また全焼のいけにえとして雄羊を携え、
4 聖なる亜麻布の長服を着、亜麻布のももひきをはき、亜麻布の飾り帯を締め、亜麻布のかぶり物をかぶらなければならない。これらが聖なる装束であって、彼はからだに水を浴び、それらを着ける。
5 彼はまた、イスラエル人の会衆から、罪のためのいけにえとして雄やぎ二頭、全焼のいけにえとして雄羊一頭を取らなければならない。
6 アロンは自分のための罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。
7 二頭のやぎを取り、それをの前、会見の天幕の入口の所に立たせる。
8 アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじはのため、一つのくじはアザゼルのためとする。
9 アロンは、のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。
10 アザゼルのためのくじが当たったやぎは、の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである。

彼はまず、自分と自分の家族のために贖いをしなければならなかった。そのために必要であったのが若い雄牛であり、また全焼のいけにえとしての雄羊であった。それをいけにえとして携えて行かなければならなかった。その後で、イスラエルのためのいけにえをささげる。なぜなら、彼はこれから至聖所に入って行かなければならなかったから。彼自身に罪があれば、滅ぼされてしまうことになる。民のために罪の贖いをするためには、まず自分自身が全き者として神の前に出なければならなかったのである。

このことはと゜んなことを表していたのかというと、キリストの罪なき姿である。偉大な大祭司であられたキリストが、神と人との仲介者であられる主が他の人々の罪の贖いをするためには、キリスト自身の中に罪があってはならなかった。もし罪があれば自分自身のために血を流さなければならないということになり、私たちに代わって罪を贖うことができないことになる。それゆえ、キリストは聖霊によって身ごもり、処女マリヤからお生まれになられた。それは、キリストはアダムが犯した罪の性質を受け継いでおられないということであり、初めから罪の性質を持っていなかったことを示している。キリストは私たちと同じような肉体を持ってお生まれになられ、あらゆる誘惑を受けられたが、けれども罪は犯されなかった。それゆえ彼は私たちの罪を贖うことがおできになられたのである。

次に大祭司は衣服を着替えた。いつもの栄光と美を現していたエポデを脱ぎ捨てた。その代わりに亜麻布を身にまとった。長服も、飾り帯も、かぶり物もすべて亜麻布であった。いったいなぜ衣服を着替えなければならなかったのか。それは、イエスが天におられた栄光をかなぐり捨てて、私たちと同じような肉体を取られて卑しくなられたことを意味していたから。ピリピ2章6~8節には、「6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。」とある。

そして次に、イスラエルの民のために罪の贖いをする。そのために必要なのは二頭のやぎ。一頭はいつものようにほふり、その血をアロンが至聖所に携えていく。しかしもう一頭は、生きたままにしておく。これはあとで荒野に放たれる。これは罪が赦されることだけを意味しているのではなく、荒野に放たれたやぎによって、罪が取り除かれたことを表すため。キリストが行われた贖罪は、私たちの罪を大目に見るということではなく、私たちの罪が全くないようにみなすということ。罪は覆われたのではなく、全く取り除かれ、どこかに追いやられ、吹き飛んで行ったということ。このアザゼルのやぎは、そのことを表していた。

3.  贖罪(11~19)

次に11~19節を見ていただきたい。ここには、実際に罪の贖いがどのように行われたのかが記されてある。11~14節にはこうある。

「11 アロンは自分の罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。彼は自分の罪のためのいけにえの雄牛をほふる。
12 の前の祭壇から、火皿いっぱいの炭火と、両手いっぱいの粉にしたかおりの高い香とを取り、垂れ幕の内側に持って入る。
13 その香をの前の火にくべ、香から出る雲があかしの箱の上の『贖いのふた』をおおうようにする。彼が死ぬことのないためである。
14 彼は雄牛の血を取り、指で『贖いのふた』の東側に振りかけ、また指で七たびその血を『贖いのふた』の前に振りかけなければならない。」

いけにえは、外庭の青銅の祭壇でほふられた。そこにあった炭火を火皿に入れ、かおりの高い香を取って聖所に入る。そしてその香を炭火に入れて焚き、煙にして垂れ幕の内側、すなわち、至聖所に入る。これは何を表しているかというと、彼自身の罪が祭壇で贖われたことを祈りをもって、神に伝える行為である。

それから彼は雄牛の血を取り、指で「贖いのふた」の東側に振りかけ、また指で七たびその血を「贖いのふた」の前に振りかける。これが「血によるきよめ」である。この「贖いのふた」はギリシャ語では「なだめの備え物」と訳されている。神の怒りのすべてがそこで完全になだめられる、ということ。この贖いのふたの前で血が振りかけられたというのは、私たちの罪に対する神の怒りが、この血にあって完全に贖われたということを意味している。

「15 アロンは民のための罪のためのいけにえのやぎをほふり、その血を垂れ幕の内側に持って入り、あの雄牛の血にしたようにこの血にして、それを『贖いのふた』の上と『贖いのふた』の前に振りかける。
16 彼はイスラエル人の汚れと、そのそむき、すなわちそのすべての罪のために、聖所の贖いをする。彼らの汚れの中に彼らとともにある会見の天幕にも、このようにしなければならない。
17 彼が贖いをするために聖所に入って、再び出て来るまで、だれも会見の天幕の中にいてはならない。彼は自分と、自分の家族、それにイスラエルの全集会のために贖いをする。
18 の前にある祭壇のところに出て行き、その贖いをする。彼はその雄牛の血と、そのやぎの血を取り、それを祭壇の回りにある角に塗る。
19 その残りの血を、その祭壇の上に指で七たび振りかける。彼はそれをきよめ、イスラエル人の汚れからそれを聖別する。」

アロンは、今度はイスラエルの民のためにも、同じように罪の贖いをする。彼は、罪のためのいけにえのやぎをほふり、その血を至聖所に持って行き、雄牛の血をしたようにこの血もする。すなわち、贖いのふたの上と前に振りかける。それだけでなく彼は、イスラエル人の汚れと、そのそむきの罪のために、聖所の贖いもする。残りの血は、外庭にある祭壇の角に塗り、祭壇の上にも振りかけられた。このようにして、イスラエルの罪の贖いが成し遂げられた。

このようにして大祭司アロンは自分の罪とイスラエルの民の罪の贖いをした。そして、これと同じように、私たちの大祭司であられるキリストも同じようにして罪を贖う。しかし、違うことは、こうした雄牛ややぎの血が彼らの罪を贖うことができたのならば、神の血によって成された贖いはどれだけ私たちの罪をきよめることができるかということである。完全にきよめることができるということだ。

先程もみたが、ヘブル人への手紙9章11~14節にはこのようにある。

「11 しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、
12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
13 もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、
14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離させ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」

ここでのポイントは、もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離させ、生ける神に仕える者とすることか、ということ。キリストの血は、私たちの罪を完全に贖い、その良心を完全にきよめることができるのである。

4.  アザゼルのやぎ(20~28)

さて、それではもう一匹のやぎについて見ていこう。すなわち、生きているアザゼルのやぎである。20~28節にこうある。

「20 彼は聖所と会見の天幕と祭壇との贖いをし終え、先の生きているやぎをささげる。
21 アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪があっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。
22 そのやぎは、かれらのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く、彼はそのやぎを荒野に放つ。
23 アロンは会見の天幕に入り、聖所に入ったときに着けていた亜麻布の装束を脱ぎ、それをそこに残しておく。
24 彼は聖なる所でそのからだに水を浴び、自分の衣服を着て外に出て、自分の全焼のいけにえと民の全焼のいけにえとをささげ、自分のため、民のために贖いをする。
25 罪のためのいけにえの脂肪は、祭壇の上で焼いて煙にしなければならない。
26 アザゼルのやぎを放った者は、その衣服を洗い、そのからだに水を浴びる。そうして後に、彼は宿営に入ることができる。
27 罪のためのいけにえの雄牛と、罪のためのいけにえのやぎで、その血が贖いのために聖所に持って行かれたものは、宿営の外に持ち出し、その皮と肉と汚物を火で焼かなければならない。
28 これを焼く者は、その衣服を洗わなければならない。そのからだに水を浴びる。こうして後に宿営に入ることができる。」

20節の「生きているやぎ」とはアザゼルのこと。アロンは生きているそのやぎの頭の上に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、それがどんな罪であっても、これを全部その上に告白して、係りの者の手でこれを荒野に放つ。そのやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。

これはいったいどういうことか?このヤギは英語で「スケープゴート」と言う。民衆の不平や憎悪を他にそらすための身代わりとして使われる言葉である。すべてのイスラエルの罪を背負って荒野に放たれることからそのように使われているのだと考えられる。けれどもヘブル語の「アザエル」というのは身代わりというよりも「出て行く」とか「追放される」、「取り除く」という意味がある。イスラエルのすべての罪を背負い、出ていくという意味。このやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へと出て行く。罪が遠くに追いやられたのである。もう戻ってくることはない。完全に追いやられる。つまり、主が贖罪の日に意図していたことはただ単に罪を覆い隠すということではなく、罪を取り除くこと。永遠の贖い(ヘブル9:12)のことである。キリストが成された贖いはこの永遠の贖いである。キリストがただ一度、血を流されたことによって、過去、現在、未来のすべての罪が贖われた。

「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」(詩篇103:12)

「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」(イザヤ43:25)

「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」(エレミヤ31:34)

私たちの過去の罪が赦されただけではない。私たちの一切の罪が赦された。あなたの罪は一切ない。取り除かれた。もちろん、私たちはまた罪を犯す。けれども、そのことによって神と私たちの関係は変わらない。ただ、神の赦しを、悔い改めをもって受け入れるにしか過ぎないのである。

それから大祭司は会見の天幕に入り、以前身につけていた大祭司の装束を身につけた。それはキリストが死の中にとどまっているのではなく、よみがえられたことを表している。よみがえられただけでなく、天に昇られた。その栄光の姿、神の栄光を再び受けられる。アザエルのやぎを放った者はその汚れを負ったため、宿営に入るには水の洗いをする。それはアザエルだけではない。罪のためのいけにえの雄牛ややぎの、その血が贖いのために聖所に持って行かれたものも、宿営の外で火で焼かなければならなかった。

5.  全き安息(29~34)

最後に29~34節を見て終わりたい。29節には、第七の月の十日には、「身を戒めなければならない」とある。これは普通、断食と解釈される。断食とは、罪を悔い改める、その嘆きを表している。なぜ身を戒めなければならないのか。なぜなら、この日に、彼らの罪がきよめられるために、贖いがなされたからである。であればうれしいはずなのになぜ嘆きなのか?それは、そのために彼らは自分たちがヤーウェなる神、イエス・キリストを突き刺したことを知るからです。(ゼカリヤ12:10)

そして、この日は全き安息の日となる。なぜ?なぜなら、キリストが一切の罪を取り除いてくださった、贖いの完成を示しているから。キリストは永遠の贖いを成し遂げてくださったので、もうこれ以上、私たちが救われるためにしなければならないことは何もない。すでに贖いは完成した。これ以上、なにもすることはない。私たちにできることは、そのような贖いを成し遂げてくださった主のみわざに感謝し、賛美すること。そして、喜んで主に仕えること。自分の義を達成するためにこれらのことを行うのではなく、すでに達成されたから行う。そして、大胆に恵みの御座に近づくことができるのである。ヘブル4章16節には、「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」とある。神様は私たちに、おりにかなった助けを与えようとしておられる。そのために、私たちは恵みの御座に近づかなければならない。私たちにはそれができる。なぜなら、まことの大祭司であられるイエスが、罪の贖いを成し遂げてくださったから。だから、「こんな自分なんて」とか、「全く罪に汚れた自分は」などと言って縮こまるのではなく、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づかなければならない。

レビ記15章

きょうはレビ記15章から学びたいと思います。私たちはこれまで、汚れたものときよいものとの区別について学んできました。それは食物の規定から始まり、出産によって出てくる血による汚れ、さらにツァラアトによる汚れと続きました。そしてこの15章には、男女の漏出物について教えられています。

 

1.  漏出物がある場合(1-12)

まず1節から12節までをご覧ください。2節には、「だれでも、隠しどころに漏出物がある場合、その漏出物は汚れている。」とあります。この隠しどころにある漏出物は何でしょうか?16節には「精を漏らした時には・・・」とありますから、これは精液の漏出とは区別されたものであることがわかります。

新共同訳聖書ではここを、「もし、尿道による炎症による漏出があるならば、その人は汚れている。漏出による汚れは以下のとおりである。尿道から膿が出ている場合と尿道にたまっている場合、以上が汚れである。」と訳して、性病の一種である淋病(りんびょう)の症状と似ていることから、この病気のことではないかと考えているようです。淋病とは「淋」という字からもわかるように、雨の林の中で木々の葉からポタポタと雨がしたたり落ちるイメージを表現していますが、それと同じように、尿道の強い炎症のために尿の勢いが低下し、排尿がポタポタと漏れていた症状を現しているのではないかというのです。創造訳聖書ではこれを「男性の性器から病的な漏出がある場合は・・」と訳し、病的な漏出のことだと考えています。

問題は「隠しどころ」です。これは男性の性器、生殖器のことを表していて、このあとに出てくる女性の生理のことも含めて、そうした「隠しどころ」から漏出したもののカテゴリーの一つとしてとらえたるのがいいと思います。

このような隠しどころから漏出を病む人はどうなるのでしょうか。すべて汚れます。そしてそれは、その病にかかっている人だけでなく、それに触れる人に伝染します。その例が12節まで続きます。まず5節には、「また、だれでもその床に触れる者は自分の衣服を洗い、水を浴びなければならない。その者は夕方まで汚れる。」とあります。その人が寝た床はすべて汚れているので、それに触れた人は自分の衣服を洗い、水を浴びなければなりませんでした。

次は6節です。その人がすわった物の上にすわる物も汚れました。その人も自分の衣服を洗い、水を浴びなければなりませんでした。

次は7節です。「また、漏出を病む人の隠しどころにさわる者」、すなわち、性器にさわる人も汚れます。新共同訳では「漏出にある人に直接触れた人」となっています。その人が寝た床、すわったところに触れただけで汚れるわけですから、その人にさわっただけで汚れるのはわかります。

8節には、その漏出を病む者が、きよい人につばをかけるなら、その人は汚れるとあります。果たしてつばをかけるというようなことがあるのでしょうか。もしかすると嫌がらせ言われ、それが嫌でつばをかるというようなことがあったのかもしれません。

9節には、漏出を病む人が乗った鞍はみな汚れるとあります。ですから、病人が乗ったろばの鞍は取り替えなければなりませんでした。

そして10節には、どんな物であれ、その者の下にあった物にさわる者はみな、汚れるとあります。それらの物を運ぶ者も汚れるので、その衣服を洗わなければなりませんでした。

11節には、漏出を病む者が、水で手を洗わずに、だれかにさわるなら、その人は汚れるとあります。隠しどころだけでなく、手で触れただけで汚れるのです。

また12節には、漏出を病む人がさわった土の器も汚れるとあります。その器はこわされなければなりませんでした。木の器は、水で洗います。

このように漏出物によって汚れることがないように、徹底的に教えられているのです。でもいったいなぜ、主はそこまで言われるのでしょうか。女の出産の汚れについてもそうでしたが、ツァラアトの時もそうでした。でもこの性器から出てくる漏出物などだれも読みたくないでしょう。なのに主はわざわざそのことによる汚れについて語っておられるのです。なぜでしょうか?それは、私たちがどれほど汚れたものであるのかを示すためです。主はそれをこの漏出物によって明らかにしておられるのです。

マタイの福音書15章18-20節にはこうあります。「しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。」

また、パウロはローマ人への手紙7:18で、「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。」と告白しています。またイザヤ書のみことばを引用してこのようにも行っています。ローマ3:10-18です。「それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」

また、エレミヤもこう言いました。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。(17:9)」

これが私たち人間の姿なのです。聖書はまさにそうした人間の赤裸々な姿を描いているのです。「聖書」というくらいですから、よっぽど聖いことが書かれてあるのかと思えば、こうした性器からの漏出物とか、生理のこと、あるいはカインがアベルを殺したとか、ノアの時代の人々がかなり乱れていたこと、バベルの塔の時代には高ぶって神に反抗していたことなど、本当にひどい人間の姿が描かれています。それは、人間とはこういうものだということをはっきりと示すためです。

2.漏出からきよくなるとき(13-15)

次に13~15節をご覧ください。ここには、漏出を病む者がその漏出からきよくなったらどうしたらいいかが記されてあります。その人は自分のきよめのために清めの機関として七日を経て、自分の衣服を洗い、自分のからだに湧き水を浴びなければなりませんでした湧き水を浴びるとは新鮮な水を浴びるということでしょう。そうするときよくなります。

そして八日目には、自分のために、山鳩二羽か家鳩のひな二羽を取り、それを主の前、会見の天幕の入口のところに来て、祭司に渡しました。祭司はそれを取り、一羽を罪のためのいけにえとし、他のもう一羽を全焼のためのいけにえとしてささげ、その漏出物のために、主の前で贖いをしました。

これはイエス・キリストの十字架の贖いと御霊のきよめを表しています。彼は自分のきよめのために七日を数え、自分の衣服を洗い、自分のからだに湧き水を浴びました。この湧き水、新鮮な水こそ御霊のことです。古きは過ぎ去ってすべては新しくなりました。イエス・キリストの十字架の血によって贖われた人は、御霊のきよめによって新しい人を着たのです。その人はきよいのです。全く新しい人になりました。

3.精の漏出があったならば(16-18)

次に16~18節までをご覧ください。ここには「もし人に、精の漏出があったときはどうしたらいいかが教えられています。精を漏らすというのは、精液を漏らすということです。その人は全身に水を浴びなければなりませんでした。また、精液のついた衣服と皮はすべて、水で洗わなければなりませんでした。男が女と寝て交わったなら、ふたり共水を浴びなければなりませんでした。

精液が漏れた時の規定は淋病のようなきびしいものではありませんが、それでも汚れるので、水であらわなければなりませんでした。おそらくこれは、隠しどころの漏出という点で、私たちが汚れた者であるということを教えようとしていたものと思われます。

4.女に漏出がある場合(19-24)

次に19~24節までをご覧ください。ここには、「女に漏出があって、その漏出物がからだの血であるならば、彼女は七日間、月のさわりの状態になる。だれでも彼女に触れる者は、夕方まで汚れる。」(19)

この女の漏出とは何のことでしょうか。新共同訳聖書には、「女性の生理が始まったならば、七日間は月経の期間であり、この期間に彼女に触れた人はすべて夕方まで汚れている。」とあります。つまり、女性の生理のことです。この期間は汚れます。これは生理そのものが汚れているということではなく、その生理が表している人間の汚れのことです。ですから、このところからその人に触れると汚れるということはないので安心してください。

そして、この漏出物は男性の漏出物と同じように、その汚れが移ると言われています。20節には、その女の月のさわりのときに使った寝床が汚れると言われています。また21節には、その女の床に触れる者も汚れます。その人は衣服洗い、水を浴びなければなりませんでした。また22節には、何であれ、その女のすわった物に触れる者はみな汚れるので、その衣服を洗い、水を浴びなければならないとあります。また24節には、もし男がその女と寝るなら、その女のさわりが彼に移り、彼も七日間汚れると言われています。

ということは、男性よりも女性の方が汚れているということなのでしょうか。そうではありません。神は私たちの心が汚れているということを教えるためにこの生理の話をされたにすぎないのであって、男性よりも女性の方が汚れているということではないのです。

ではこの生理の話の中で神が伝えたかった真意とは何だったのでしょうか。それは七日間汚れるということです。生理による出血は長く続きます。同じように、私たちが悪い思いを長く持ち続けると、それは人々に伝染していくのです。自分だけでなく他の人をも汚すことになります。「一生感謝」という本の2/26に、「あるユダヤ人の母の日課」という内容で次のようにありました。

教養のない平凡なユダヤ人母親がいた。ところがこの母親は、子どもを実に立派に育てた。その秘訣は何かと人々が聞いたところ、母親は、ただ三つのことだけを教えたと答えた。

1つ目、「どんな境遇であれ、すべてのことについて感謝すること。小さなことでも大きなことでも感謝する人になりなさい。困難に遭っても恨んだり不平を言ったりせず、ただ感謝しなさい。いつも感謝しなさい。」すなわち、感謝を習慣化させたのである。

2つ目は、「恨み事を言う人と付き合うな。」恨み事や不平は影響を受けるからだ。成功する人生を生きたいのなら、文句を言う人と付き合ってはいけないということだ。

3つ目は、「感謝する人親しくなりなさい。感謝する人といっしょにいなさい。」

このように、感謝にまつわる三つの教訓をもって故どもたちを立派に育てたのです。恨み事や不平、感謝は他の人に大きな影響を与えます。恨み事や不平は悪い影響を、感謝は逆に良い影響を与えるのです。

ですから、私たちが悪い思いを持ったなら、すぐにそれを主に告白し、悔い改めて、きよめてもらうようにしなければなりません。そうしないと、その影響が広がって他の人にも害を及ぼしてしまうことになるからです。ですから、この生理の話はそのように長い期間の汚れを示しているのです。

5.月のさわりではない血の漏出(25-33)

最後に、25~33節までを見て終わりたいと思います。ここには、月のさわりの間ではないのに、長い日数にわたって血の漏出がある場合、あるいは、月のさわりの間が過ぎても漏出がある場合について教えられています。生理の時は七日間だけ汚れ、他の人から隔離されて暮らさなければなりませんが、長い日数にわたって血の漏出があるというのは、そういう状態がずっと続くことを意味しています。七日間でも大変なのに、そうした状態がずっと続くというのは絶え難い苦しみではないかと思います。これは霊的にはどういうことを表しているかというと、ほんとうに汚れてしまっている人、自分自身を滅ぼそうとしている人に当てはまるでしょう。しかし、罪が増し加わるところには、恵みも満ち溢れます。ローマ人への手紙5章20節をご覧ください。ここには、「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」とあります。主のあわれみは尽きることはありません。罪が増し加わるところには、恵みもまた満ちあふれるのです。

ここで長血をわずらった女の話を見ていきましょう。マルコの福音書5章25~34節にあります。この女はこのレビ記の規定によって人々に決して触れてはいけない女でした。けれども彼女は、「イエスの着物にさわることができれば、きっと直る」と考え、群衆の中に紛れ込み、イエスの着物にさわりました。イエスはこのことに気付かれ、「だれがわたしにさわったのか」と言われました。それを聞いたこの女は恐ろしくなりました。律法では他の人を汚すことであり、イエスを汚すことになるからです。そこで彼女は、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実をあますところなく打ち明けました。するとイエス様は驚くべきことを言われました。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。」何と希望と慰めに満ちたことばでしょう。彼女がイエス様を汚したのではなく、イエス様が彼女をきよめられました。彼女はイエス様に触れることによって、救われたのです。

私たちも同じです。私たちのあふれでる悪い思い、汚れ、そうしたものがイエス様を汚すのではなく、逆にイエス様に触れることによってきよめられるのです。私たちが罪、汚れからきよめられるには、このイエス様に触れていただくことによってのみなのです。イエス様に触れていただくことによって、私たちのすべての汚れがきよめられ、きよい良心を保ち続けることができるのです。

28~30節には、きよめられ時の儀式について書かれています。それは隠しどころに漏出がある人が清められるときと同じ儀式です。八日目は新しい始まり。主が死からよみがえられたように、私たちも主のいのちによって新しい歩みをすることができるのです。

レビ記14章33~57節

きょうは、レビ記14章33節から終わりまでのところから学びたいと思います。14章前半のところには、どうしたらツァラアトの人がきよめられるのかについて教えられていましたが、ここには、どうしたら家がツァラアトからきよめられかについて教えられています。家がツァラアトからきよめられるというのは変です。ですから、ツァラアトは「らい病」と訳せないのです。これはらい病を含むあらゆる汚れを指している言葉だからです。ですから、衣服がツァラアトになる場合もあるし、このように家がツァラアトになる場合もあります。この場合のツァラアトとは、一種のカビのことです。

1.家にツァラアトの患部が生じたら(33-47)

まず33~36節までをご覧ください。もしその家の所有者が、祭司に、家にツァラアトの患部が現れたと言って、報告するときは、祭司はその患部を調べる前に、その家をあけるように命じなければなりませんでした。それは、この家にあるすべてのものが汚れることがないためです。つまり、家にある家具とかを外に出さなければならなかったのです。

次に、37~42節です。祭司がその患部を調べて、もしその患部がその家の壁に出ていて、それが緑がかっていたり、または赤みを帯びたくぼみがあって、その壁よりも低く見えたなら、祭司はその家から入口のところに出て来て、七日間その家を閉ざしておかなければなりませんでした。これは皮膚にツァラアトの患部のある人と同じように、その患部が広がるか広がらないかを調べるためです。

七日目に祭司が調べて、もしその患部が家の壁に広がっていたら、祭司はその患部の石を取り出し、町の外の汚れた場所に投げ捨てなければなりませんでした。このように石を取り出すのは、イスラエルの家が石で出来ていたからです。また、その家の内側の回りを削り落とし、その削り落とした土も、町の外の汚れた場所に捨てなければなりませんでした。そして別の石を取って、前の石の代わりに入れ、また別の石を取って、その家を塗り直しました。そこまで徹底します。これは13章に衣服にツァラアトの患部がついた時にはどうしたら良いかということを学びましたが、それと同じです。衣服の場合はその部分をちぎり取ったり、火で焼いたりしましたが、家の場合も、そのところをちぎり取るかのように石を取り出して捨て、そこに代わりに別の石を入れたのです。

43~45節をご覧ください。「もし彼が石を取り出し、家の壁を削り落とし、また塗り直して後に、再び患部が家にできたなら、祭司は、入って来て調べ、そして、もし患部が家に広がっているなら、それは家につく悪性のツァラアトであって、その家は汚れている。その家、すなわち、その石と材木と家の土全部を取りこわす。またそれを町の外の汚れた場所に運び出す。」

祭司が家にはいって行って、その患部が家の中に広がっているなら、それは家につく悪性のツアラアトであって、その家は汚れています。したがって、その家全部を取り壊さなければなりませんでした。

46節を見てください。その家が閉ざされている期間中にその家にはいる者は、夕方まで汚れました。その家で寝る者は、その衣服を洗わなければなりませんでしたし、その家で食事をする者も、その衣服を洗わなければなりませんでした。その家の持ち主は、隔離されている7日間生活しなければならないわけですから、その家の中で過ごさなければなりません。けれども、その中に入る人は、一日の間汚れ、また、衣服を洗わなければいけません。そのカビが移ってしまうかもしれないからでしょう。

 こうして家の中がきよめられなければいけないこと、祭司はその家に入って調べることについて述べられていますが、いったいこれはどんなことを教えているのでしょうか。エペソ3章17節を開いてください。

「キリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。」

 つまり、この家は、キリストが住まわれる私たちのからだを象徴していたのです。私たちのからだ、あるいは心の中に汚れがあるとき、そこに主はお住みになることができません。主は聖なる方であって、罪も、しみも、しわも、そのようなものが何一つない方です。ですから、そのような汚れがあるところに住むことはできないのです。とても居心地が悪いでしょう。というか、それ以前に水と油のように相いれることはありません。

 そこで、主は大祭司として、私たちの心の中を探られます。私たちの中に汚れた部分はないか、私たちがまだ主に明け渡していないことはないかを探られ、それをご自分にゆだねるようにと言われるのです。そうでなければ、きれいにすることができません。私たちは、主がお住みになることができる家を持っているでしょうか。主がお住みになることができないような、恥ずかしいものを私たちの心のうちに持っていないでしょうか。主に自分の心を探っていただく必要があります。そして、もしそのようなものがあれば、すべて取り除かなければならないのです。

 2.贖い(48-57)

 次に、その家がきよめられた時の教えです。49~53節をご覧ください。祭司が入って来て調べ、もしその家が塗り直されて後、その患部が家に広がっていないなら、祭司は、その家をきよいと宣言します。その患部が直ったからです。

 そこで祭司は、その家をきよめるために、小鳥二羽と杉の木と緋色の撚り糸とヒソプを取り、その小鳥のうちの一羽を土の器の中の湧き水の上でほふります。杉の木とヒソプと緋色の撚り糸と、生きている小鳥を取って、ほふられた小鳥の血の中と湧き水の中にそれらを浸し、その家に七たび振りかけます。祭司は小鳥の血と湧き水と生きた小鳥と杉の木とヒソプと緋色の撚り糸とによって、その家をきよめ、その生きている小鳥を町の外の野に放ちます。こうして、その家のための贖いをします。そのようにして、その家はきよめられるのです。

 これは前回学んだように、イエス・キリストの十字架の血による贖いと復活を表しています。イエス・キリストの十字架の血によって汚れが贖われ、きよめられます。そして、キリストが死からよみがえられたように、私たちもキリストの新しいいのちによみがえります。すなわち、キリストにつぎあわされ、キリストと一つにされることによって、私たちは汚れからきよめていただくことができるのです。私たちがきよめられるには、主イエスの十字架の血潮以外にはないのです。

 そして54~57節です。「以上は、ツァラアトのあらゆる患部、かいせん、衣服と家のツァラアト、はれもの、かさぶた、光る斑点についてのおしえである。これは、どんなときにそれが汚れているのか、またどんなときにそれがきよいのかを教えるためである。これが、ツァラアトについてのおしえである。」

これが、ツァラアトについての教えです。このように教えられている理由は、どんなときに汚れているのか、きよいのかを教えるためでした。私たちの肉体が滅びるとき、果たして私たちは神のおられる天国に入れていただくことができるでしょうか。その時私たちはツァラアトに冒された者のように汚れているでしょうか、それとも、きよめられた者となっているでしょうか。主イエスを信じ、その十字架の血によって罪が贖われた者はきよめられています。天の御国に受け入れられますが、イエスを信じない人はツァラアトに冒されているので、「汚れている。汚れている。」と叫ばなければなりません。そのような人は天国に入ることはできず、また、カビが消えない衣服や家のように燃やされ、打ち壊されます。けれども、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、私たちはきよめられた人は、栄光の御国に入れられるのです。

 私たちは、主が来られるその時まで、このキリストのうちにとどまり、きよさを全うしていきたいと思います。日々の歩みの中で犯した罪について、ツァラアトに冒された人と同じように主の前に出て行きましょう。また、心を探られることを恐れず、かえって主に調べてもらうように願いましょう。主は私たちの大祭司です。医者です。私たちを罪からきよめ、傷をいやすために来られたのです。

レビ記14章1~32節

レビ記14章1~32節

きょうは、レビ記14章1~32節から学びだいと思います。13章では、ツァラアトがあるかどうかをどのように調べるのかについて語られていましたが、この14章では、それをどのようにきよめることができるかについて教えられています。つまり、どのように罪をきよめてもらい、神との交わりの中へ、また教会の交わりの中へ加えてもらうことができるかということについてです。

1.ツァラアトからのきよめ(1-9)

それではまず、1~9節までをご覧ください。ツァラアトに冒された者がきよめられるためには、まず彼を祭司のところに連れて来なければなりませんでした。祭司は宿営の外に出て行き、彼を調べ、もしツァラアトの者のツァラアトの患部がいやされているなら、祭司はそのきよめられる者のために、二羽の生きているきよい小鳥と、杉の木と緋色の撚り糸とヒソプを取り寄せるように命じます(2-4)。

ツァラアトの人は宿営の中にいることができず、宿営の外に住まなければならなかったので(13:46)、祭司が宿営の外にいる彼の所に行かなければなりませんでした。それは私たちも同じです。私たちは自分で自分の罪をきよめることはできません。ですから、主の方から私たちのところに近づいてくださいました。

そして、きよめるために必要なものは、二羽の生きているきよい小鳥と、杉の木と緋色の撚り糸とヒソプです。それを土の器に入れた湧き水の上で、その小鳥のうちの一羽をほふりました。そして、生きているもう一羽の小鳥を、杉の木と緋色の撚り糸とヒソプといっしょに取り、湧き水の上でほふった小鳥の血の中に、浸しました。それを、ツァラアトからきよめられる者の上に七たび振りかけました。そして彼をきよいと宣言した後、生きている小鳥を野に放ちました。きよめられる者は、自分の衣服を洗い、その毛をみなそり落とし、水を浴びます。そうすると、彼はきよめられました。そして、宿営に入ることができたのです。しかし七日間は天幕の外にとどまりました。七日目になって、彼はすべての毛、その髪の毛と口ひげとまゆ毛をそり落とします。そのすべての毛をそり落とし、自分の衣服を洗い、そのからだに水を浴びました。そのようにしてきよめられたのです。

いったいこれはどんなことを表していたのでしょうか?これは、イエス・キリストの十字架と復活を象徴していました。まず土の器に入れられた湧き水のですが、これはキリストが葬られた墓を表しています。その水の中には杉の木がありました。これは、キリストの十字架の象徴です。キリストは木につけられて死なれましたが、その木を表しているのです。また、緋色の糸は、キリストが流された血潮を表しています。また、ヒソプは、罪を取り除くものの象徴です。ダビデは、「ヒソプをもってわたしの罪を除いてきよめてください。(詩篇51:7)」と言いました。ですから、この土の器に入れた湧き水は、キリストが十字架の上で死なれ、葬られたことを表していたのです。そして、その水の中から生きている小鳥を野に放つというのは、キリストが墓の中からよみがえられたことを表しています。このように、これはキリストの死と復活を表しているものですが、ここにはこのときの水を、きよめられるツァラアトに七たび振りかけなければなりませんでした。なぜかというと、このようにキリストの死と復活を象徴している水を振りかけることによって、キリストの死と復活に結びつけられることを表していたからです。

ローマ人への手紙6章3~11節には、キリスト・イエスにつくバプテスマについて記されてあります。すなわち、キリストの死にあずかるバプテスマを受けた私たちは、キリストとともに葬られたこと、またキリストが死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをすることができるのです。私たちがきよめられるのは、このイエス・キリストに結びつけられることによってであるということです。それがバプテスマの意味です。ここに七たび振りかけるとあるのは、その罪の赦しが完全であることを表しているのでしょう。

しかし、七日間はまだ天幕にとどまることができませんでした。天幕の外にとどまっていなければなりませんでした(8)。そして、自分の衣服を洗い、その毛をみなそり落とし、水を浴びます。そうして後に、彼は宿営に入ることができました。つまり、彼は全くきれいになって、全くきよめられて、天幕に入ることができたのです。パウロは、「聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」(テトス3:5)」と言っていますが、まさに神は、聖霊による新生と更新の洗いをもって救ってくださいました。聖霊によって洗いきよめられることによって、私たちは神の幕屋の中へ入っていくことができるようになったのです。

2.神へのささげもの(10-20)

次に10~20節までを見てください。そのようにツァラアトがきよめられた人は、神へのささげものをします。10節に、「八日目に彼は、傷のない雄の子羊二頭と傷のない一歳の雌の子羊一頭と、穀物のささげ物としての油を混ぜた小麦粉十分の三エパと、油一ログとを持って来る。」とあります。聖書では、8という数字は新しい始まりを表しています。その新しい歩みを始めるにあたり、まずは神へのいけにえをもって始めるわけです。これは礼拝をもって始めるといってもいいでしょう。私たちが週の初めの日に礼拝をもって始めるのはそのためです。自分を罪からきよめてくださった主に心からの賛美と感謝をささげることは、むしろ自然の行為だと言えるでしょう。

その礼拝において彼がささげるいけにえは、傷のないものでなければなりませんでした。傷のない雄の子羊二頭と傷のない一切の雌の子羊一頭です。傷がないいけにえは何を表していたのかというと、完全ないけにえです。神は完全ないけにえしか受け取られまん。傷のあるものは受け取らないのです。イエス・キリストは全く罪を犯したことのない完全ないけにえだったので、神は受け取られたのです。そのほかに、穀物のささげものとしての油を混ぜた小麦粉十分の三エパと、油一ログとを持って来なければなりませんでした。

11節と12節をご覧ください。最初にささげるいけにえは、罪過のためのいけにえです。罪過のためのいけにえとは、自分が罪を犯したことによってもたらされる神や人への損害に対する償いのいけにえです。それによって神や人との関係が修復されるのです。罪を犯すことによって、まず私たちがしなければならないことは、この関係の修復です。これは、祭壇へのささげもの、つまり神への礼拝に優先されるべきものです。

マタイ5章23~24節には、「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」とあります。供え物をする前にまず仲直りをする、つまり、罪過のいけにえはすべてにまさって先んじられるものなのです。なぜでしょうか。そうした障害物があると純粋な礼拝をささげることができないからです。

 そしてここには、それを奉献物として主に向かって揺り動かす、とあります。これは神に差し伸べているということです。これは神への賛美と感謝を表しています。私たちが賛美をささげるときにも、手を上げて賛美することがありますが、それと同じです。それは神への賛美と感謝を主に差し伸べているのです。

 その罪過のためのいけにえを、罪のためのいけにえや全焼のいけにえをほふる所でほふります。それは罪のためのいけにえ同様、祭司のものとなるからです。祭司が食べる分け前になるのです。これは主との交わりを表していて、そのきよさにあずかることを意味しています。

 14節をご覧ください。祭司は罪過のためのいけにえの血を取り、それをきよめられる者の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗りつけました。なぜこんなことをするのでしょうか。なぜなら、子羊の血によらなければ罪の赦しはないからです。使徒ヨハネはその手紙の中でこう言いました。「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(Ⅰヨハネ1:7)」もし私たちが父なる神との交わりを保ちたいなら、主イエスが流された血を塗らなければならないのです。

 ここではそれを、きよめられる者の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗りつけました。聖書で「右」は権威の象徴でした。そして、耳たぶとは聞くこと、親指はすること、つまり行いのことですね。そして親指は歩くこと、つまり歩みのことです。その上にイエスの血を注ぐということは、私たちのすへての罪の赦しをいただくということです。

 次に油が振りかけられます。15~18節をご覧ください。祭司は油一ログからいくらかを取って、自分の左手のひらに注ぎます。そして、右の指を左の手のひらにある油に浸し、その指で、油を七たび主の前に振りかけたのです。祭司は、その手のひらにある残りの油をきよめられる者の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指の上に塗りました。いったいこれは何を表しているのでしょうか?

 この油とは、もちろん聖霊のことです。罪がきよめられた者の上にこのように油を塗るのは、そのすべての歩みにおいて聖霊の注ぎと導きを求めなければならないことを表しています。耳たぶや手の親指、足の親指とは、そのすべての歩みのことです。すなわち、クリスチャンの生活とは、キリストの血によって罪赦されたことだけではなく、聖霊に導かれる生活であるということです。多くのクリスチャンは、罪からきよめられるところでストップしています。それがすべてであるかのように考えているからです。けれども、それはきよめられたクリスチャンの歩みのスタートであって、その完成を目指しての歩みが始まっただけなのです。そのクリスチャン生活はこの聖霊によって全うされるのです。そのすべての歩みにおいて聖霊に従い、聖霊に導かれていかなければならないのです。そして18節には、「残りの油をきよめられる者の頭に塗り」とあります。これは聖霊に満たされることを表しています。クリスチャンは単に聖霊の注ぎを受けて罪からきよめられただけでなく、聖霊に満たされて、キリストの証人として大胆に主を証しなければなりません。

 19節と20節を見てください。罪過のためのいけにえがささげたあとに、罪のためのいけにえをささげます。罪のためのいけにえは、私たちの罪の告白を表しています。神から罪の赦しをいただき、平安と喜びに満たされるための告白です。そして、全焼のいけにえをささげます。これは、「これから私は、イエスさまに従います。」という決心です。

 「祭司は祭壇の上で、全焼のいけにえと穀物のささげ物をささげ、祭司はその者のために贖いをする。その者はきよい。」

 穀物のささげものは、全焼のいけにえとともにささげられます。穀物のささげものは、キリストのいのちを表しています。「わたしはいのちのパンです。」と主は言われました。このささげものが全焼のいけにえとともにささげられるのは、全焼のいけにえがキリストの十字架にともにつけられている私たちを表し、穀物のささげものは、その中に復活の主が生きておられることを表しているからです。

 キリストによって罪からきよめられ、聖霊の油注ぎを受けて、主に自分自身のすべてをささげ生きるとき、そこにキリストのいのちが宿るのです。これがクリスチャンの歩みです。キリストのいのち溢れた歩みが始まります。単に罪の赦しというだけでなく、そこに聖霊の油注ぎがあり、神への献身があるとき、そこにキリストのいのちが豊かに溢れるのです。

3.貧しい人のためのいけにえ(21-32)

 次に21~32節までをご覧ください。ここには、生活が貧しくて、今ささげたいけにえをささげることができない人はどうしたらよいかについて教えられています。21~22節には、「その者が貧しくて、それを手に入れることができないなら、自分を贖う奉献物とするために、雄の子羊一頭を罪過のためのいけにえとして取り、また穀物のささげ物として油を混ぜた小麦粉十分の一エパと油一ログを取り、また、手に入れることのできる山鳩二羽か家鳩のひな二羽を取らなければならない。その一羽は罪のためのいけにえ、他の一羽は全焼のいけにえとする。」とあります。子羊のかわりに、山鳩二羽か家鳩のひな二羽もって来なければなりませんでした。また、穀物のささげものが、十分の三エパではなく、十分の一エパに減っています。鳩の一羽は、罪のためのいけにえ、もう一羽は、全焼のいけにえとしてささげます。あとは、さきほどのいけにえの捧げ方とすべて同じです。

 ということはどういうことかというと、たとえ貧しくても、罪からきよめられ、神との交わりに入れられるためには、いけにえ(礼拝)をささげなければならないということです。それは経済的な理由で妨げられることではありません。経済的な理由で、主を礼拝できないという言い訳はできません。礼拝はすべての人にとっての特権であり、同時に責任なのです。どのような理由でも、主はだれでもご自分に近づくことができるようにしてくださいました。これは恵みではないでしょうか。

レビ記13章29~59節

前回は13章1節から28節までのところから、人にツァラアトの患部が現れた時はどうしたらよいかを学びました。今回はその続きです。

1.  頭と、ひげの疾患(29-37)

 まず29節から37節までをご覧ください。男あるいは女で、頭か、ひげに疾患があるときは、祭司はその幹部を調べます。もしそれが皮膚よりも深く見え、そこに細い黄色の毛があるなら、祭司は彼を汚れていると宣言します。これはかいせんで、頭またはひげのツァラアトです。「かいせん」とは、菌によって頭皮が犯される病で、辞書には黄癬(おうせん)という、とあります。黄色いかさぶたを形成する皮膚病ではないか、と考えられています。このような症状が見られる時には、祭司がそれを調べ、もしそれが皮膚よりも深く見えず、そこに黒い毛がないなら、祭司はそのかいせんの患部を七日間隔離します。これは他の症状が見られた時と同じですね。少し様子をみるわけです。 七日目になって祭司が患部を調べ、もしそのかいせんが広がらず、またそこに黄色い毛もなく、かいせんが皮膚よりも深く見えていないなら、その人は毛をそり落とします。ただし、そのかいせんをそり落としてはなりません。祭司はそのかいせんの患部をさらに七日間隔離して、七日目に祭司がまたそのかいせんを調べます。もしかいせんが皮膚に広がっておらず、それが皮膚よりも深く見えていないなら、祭司は彼をきよいと宣言します。彼は自分の衣服を洗います。彼はきよいのです。
しかし、彼がきよいと宣言されて後にも、もしも、そのかいせんが皮膚に広がったなら、祭司は彼を調べ、もしそのかいせんが皮膚に広がっていれば、祭司は黄色の毛を捜す必要はありません。彼は汚れているのです。もし祭司が見て、そのかいせんがもとのままであり、黒い毛がそこに生えているなら、そのかいせんはいやされており、彼はきよい。祭司は彼をきよいと宣言します。

 これまでのツァラアトの症状と違うのは、7日目になって祭司が患部を調べ、症状が広がっていなくても、きよいと宣言しないで、頭をそって、さらに7日間隔離することです。さらに7日間隔離したあとで、きよいか汚れているかを見極めて宣言するのです。このように、頭の部分、あるいはひげの部分には、合計14日の隔離期間を設けています。

 これはいったいなぜでしょうか。頭もひげも、髪の毛で隠れているからです。そのため、そこにツァラアトがあるかどうかを見極めることが難しいのです。つまり、隠れたところにあるツァラアトを調べるのには、二倍の期間を要するということです。したがって、ここから教えられることは、私たちがなかなか見分けの付かない、隠れたところで罪が広がることがある、ということです。

 例えば、エペソ4章25節から32節までのところを見ると、「偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語る」こと(25)、「怒っても、罪を犯してはならない」こと(26)、「盗んではいけない」(28)とあります。こうしたことは明らかな罪なので捨てなければならないことがわかります。しかし、その後に出てくる事柄はどうでしょう。「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」(29)、「無慈悲、憤り、怒り、そしりなど、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。」(31)。こうした罪はなかなか見分けがつきまません。悪いことばを発したからといって警察に捕まるわけではありませんし、人の悪口やうわさ話をしたからといって偽証罪で訴えられるわけではありません。しかし、聖書ではそうしたことは暗やみのわざであり、キリストの贖いによって救われたクリスチャンにとってふさわしくない罪であるとはっきりと告げています。(Iテモテ5:13,ヤコブ4:11)ですから、私たちは隠れたところ、心の中のことは、もっと気をつけなければなりません。私たちの心を探り極める方は、こうした小さな罪さえも見逃すことはないからです。ですから私たちは、信仰によって歩んでいるのか、また私たちの奉仕はキリストの愛によって駆り立てられているのか、といったことをしっかりと調べなければならないのです。

 2.「汚れている、汚れている」(38-46)

 次に38節から46節までのところをご覧ください。ここには、男あるいは女で、そのからだの皮膚に光る斑点、すなわち白い光る斑点があるとき、祭司はこれを調べる、とあります。もしそのからだの皮膚にある光る斑点が、淡い白色であるなら、これは皮膚に出て来た湿疹で、彼はきよいのです。

 39節には「皮膚に出てきた湿疹」とありますが、これは、「尋常性白斑(じんじょうせいはくはん、:vitiligo vulgaris)」といって、皮膚色素をつくる部位の損失を不規則に引き起こす、慢性的な皮膚疾患のことではないかと考えられています。日本ではシロナマズとも呼ばれ、治りにくい皮膚病のひとつとされています。これは、ツァラアトとはことなる、単なる皮膚の変色であるから、問題ありません。きよい、と宣言されます。

 次に、男の人の頭の毛が抜けることについて言及されています。「男の頭の毛が抜けても、それはただのはげであって、彼はきよい。もし顔の生えぎわから頭の毛が抜けても、それは額のはげです。彼はきよい。もしその頭のはげか、額のはげに、赤みがかかった白の患部があるなら、それは頭のはげに、あるいは額のはげに出て来たツァラアトである。」(40-42)毛が抜けているだけでは、らい病であるとは限りません。特に、男の頭のはげは、自然の成り行きであって、汚れているわけではないのです。

 けれども、次の場合は違います。すなわち、もしその頭のはげ、あるいは額のはげにある患部のはれものが、からだの皮膚にあるツァラアトに見られるような赤みがかった白色である場合です。それはツァラアトであって、汚れているのです。たとえ隠れていなくても、「はげなんだから」と言って、かえって見過ごされてしまいがちですが、そうした当たり前にしているところに、以外と罪が入り込んでくるのです。

 では、そのような場合はどうしたらいいのでしょうか。44節から46節までのところにこうあります。「祭司は彼を確かに汚れていると宣言する。その患部が頭にあるからである。患部のあるそのツァラアトの者は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ばなければならない。その患部が彼にある間中、彼は汚れている。彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない。」

 ツァラアトの人は、人々が自分に近づいてくるとき、必死に、「汚れている!汚れている!」と叫ばなければなりませんでした。決して自分にさわってはいけないという信号を、人々に送らなければならなかったのです。そればかりではありません。さらに、彼は、イスラエルの民が住む宿営からも離れなければなりませんでした。なぜなら、前回学んだように、このツァラートは罪を表しているからです。宿営には聖所があり、そこには聖なる神がおられます。その中に汚れを持って行くことは、決してできなかったからです。

 このことから、罪とはどのようなものかがわかります。すなわち、罪とは神と人とを切り離し、また他のクリスチャンと切り離す、ものであるということです。罪がある者は、決して神のみもとに近づくことはできませんし、その神を信じている人たちの交わりの中に入ることもできません。パウロはコリント人への手紙第一5章5節で、「このような者をサタンに引き渡したのです。」と言っています。罪を犯して悔い改めない兄弟は、交わりから追い出して、サタンに引き渡すべきだ、というのです。なぜでしょう。それは、彼を教会の交わりから閉め出すことによって、彼の肉が滅ぼされても、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。つまり、彼が教会にとって邪魔だからではなく、彼が救われるためにです。罪を犯している兄弟が、その罪によってどれほど悲しむべきことになるのかを、知らせるためなのです。「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。」(ヤコブ5:16)とあるように、私たちは互いに自分の罪を言い表して、いやされるようにきよめられるように、祈らなければなりません。

 そして、何よりもそうした罪のために神に近づくことができない私たちのために、神の方から近づいてくださったことを覚えなければなりません。それが救い主イエス・キリストです。キリストは、罪に汚れた私たちを許し、すべての悪からきよめるために、私たちのところに来てくださいました。

 マルコの福音書1章40節を開いてください。ここには、ツァラアトに冒された人がイエス様のみもとに来て、「主よ。お心一つで、あなたは私をきよくすることができます。」と言ったことが記されてあります。すると主は、深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われました。「わたしの心だ。きよくなれ。」主は、汚れた私たちに触れてくださったのです。さらに、宿営の外まで離れてくださいました。それがエルサレムの外にあったゴルゴダです。そこで罪人としてさばかれ、十字架につけられて死んでくださったのです。私たちはツァラアトに冒されたような汚れた者ですが、イエス様はそのような者をきよめてくださいます。ですから、私たちにとって必要なことは、自分には罪がないというのではなく、互いに罪を言い表して、イエス様の血潮でその罪を洗い聖きよめていただくことなのです。

 3.  衣服にツァラアトの患部が生じたとき(47-59)

 最後に47節から59節までを見て終わりたいと思います。ここには、衣服にツァラアトの患部が生じたときはどうしたらよいかが教えられています。「衣服にツァラアトの患部が生じたときは、羊毛の衣服でも、亜麻布の衣服でも、亜麻または羊毛の織物でも、編物でも、皮でも、また皮で作ったどんなものでも、その患部が緑がかっていたり、赤みを帯びたりしているなら、衣服でも、皮でも、織物でも、編物でも、またどんな皮製品でも、それはツァラアトの患部である。それを祭司に見せる。祭司はその患部を調べる。そして、その患部のある物を七日間隔離する。七日目に彼はその患部のある物を調べる。それが衣服でも、織物でも、編物でも、皮でも、また皮が何に用いられていても、それらにその患部が広がっているときは、その患部は悪性のツァラアトで、それは汚れている。羊毛製であるにしても、亜麻製であるにしても、衣服、あるいは織物でも、編物でも、それがまたどんな皮製品でも、その患部のある物は焼く。これは悪性のツァラアトであるから、火で焼かなければならない。」(47-52)

 今までは、人に付いていたツァラアトについて語られていましたが、今度は、衣服についているツァラアトについての言及です。緑がかっていたり、赤みを帯びたりしている、というのは、カビのことです。衣服にカビが生えたら、それはツァラアトです。そのツァラアトが広がっていれば、それがどのような種類の衣類であっても、火で焼かなければなりませんでした。たとえそれが高級な衣類でもです。

 そして、「もし、祭司が調べて、その患部がその衣服に、あるいは織物、編物、またすべての皮製品に広がっていなければ、祭司は命じて、その患部のある物を洗わせ、さらに七日間それを隔離します。祭司は、その患部のある物が洗われて後に、調べ、もし患部が変わったように見えなければ、その患部が広がっていなくても、それは汚れています。それは火で焼かなければなりません。それが内側にあっても外側にあっても、それは腐食です。」(53-55)

 頭のらい病のときと同じように、さらに7日間隔離します。頭の場合は毛をそりましたが、衣服の場合は、その衣服を洗います。そして、たとえそのカビが広がっていなくても、変わっていなければ火で焼かなければなりませんでした。これは、人に付いたツァラアトよりも厳しい措置です。続く56節から59節にはこうあります。

「祭司が調べて、もしそれが洗われて後、その患部が薄れていたならば、彼はそれを衣服から、あるいは皮から、織物、編物から、ちぎり取る。もし再びその衣服に、あるいは織物、編物、またはどんな皮製品にも、それが現れたなら、それは再発である。その患部のある物は火で焼かなければならない。しかし、洗った衣服は、あるいは織物、編物、またはどんな皮製品でも、それらから、もしその患部が消えていたら、再びこれを洗う。それはきよい。」(56-58)

 きよい衣服というのは、その衣服を洗った後で患部(カビ)が完全に消えている場合だけでした。薄れているだけではダメです。また、再びそれが現れたらダメです。薄れている場合は、その部分だけをちぎり取らなければなりませんでしたし、再発した場合は、火で焼かなければなりませんでした。ただ洗って完全に消えていた場合だけがきよいとされたのです。

 いったいこれはどういう意味でしょうか?この衣服とは、私たちの行ないを表しています。たとえばエペソ4章22節~24節には、「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」とあります。ですから、患部のある衣服を身につけている人は古い人です。それは、イエス・キリストを自分の救い主として信じていない人のことです。真理に基づく義と聖とをもって神にかたどり造り出された人は、そうした古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身につけなければなりません。古いものは焼かれ、新しいものだけが残るからです。私たちに求められていることは、イエス・キリストという新しい衣服を着て、キリストに喜ばれる歩みをすることです。イエス・キリストの十字架の血潮によって私たちの罪が洗いきよめられたにもかかわらず、まだそれが薄くついているような衣服を着たり、再び過去の虚しい生き方に逆戻りしないように注意しなければなりません。そのためには、神のみこころは何か、何が良いことで完全であるのかをわきまえ知るために、自分自身を神にささげ尽くさなければなりません。この世と調子を合わせてはいけません。自分の考えに執着してもなりません。ただへりくだって神のみこころに歩むこと、それが新しい衣服を着た人の姿なのです。

レビ記11章1~23節

 レビ記は、この11章から新しい段落に入ります。1章から7章までは、会見の天幕における犠牲のささげものについて教えられていました。それはイエス・キリストを表すもので、私たちはイエス・キリストの犠牲によって神に近づくことができるということが教えられていました。また、8章から10章までのところには、その犠牲のいけにえをささげる祭司について語られていました。その祭司もまたイエス・キリストを表すもので、そのキリストの働きによって私たちは神に近づくことができるということでした。そして、この11章以降には、主がモーセとアロンに、きよいものと汚れたものについて区別することを命じられています。

1.食べてもよい動物(1~8)

 それではまず1~8節までをご覧ください。まず、最初に出てくる区別の規定は、イスラエル人が食べてよい動物と、そうではない動物についての規定です。
「1 それから、主はモーセとアロンに告げて仰せられた。
2 「イスラエル人に告げて言え。地上のすべての動物のうちで、あなたがたが食べてもよい生き物は次のとおりである。
3 動物のうちで、ひづめが分かれ、そのひづめが完全に割れているもの、また、反芻するものはすべて、食べてもよい。
4 しかし、反芻するもの、あるいはひづめが分かれているもののうちでも、次のものは、食べてはならない。すなわち、らくだ。これは反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。
5 それから、岩だぬき。これも反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。
6 また、野うさぎ。これも反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。
7 それに、豚。これは、ひづめが分かれており、ひづめが完全に割れたものであるが、反芻しないので、あなたがたには汚れたものである。
8 あなたがたは、それらの肉を食べてはならない。またそれらの死体に触れてもいけない。それらは、あなたがたには汚れたものである。」

 このところによると、食べてもよいきよい動物は、「ひづめが分かれ、そのひづめが完全に割れているもの、また、反芻するもの」(3)です。「ひづめ」(英語 : Hoof, 複数形 : Hooves)とは、哺乳動物が四肢端に持つ角質の器官で、爪の一種です。扁爪や鉤爪と比べると厚くて大きく、固い。指先を幅広く被って前に突き出しています。この爪を持つものは指も柔軟ではなく、先端の爪で体を支えるようになっていて、指の腹は地面に着かないものも多くあります。扁爪が指先の保護器官、鉤爪がひっかけるための器官であるのに対し、ひづめは歩行の補助器官として使われます。すなわち、土を蹴るのに使われる器官なのです。これを持つ群れでは、ひづめのみが地面について体を支え、残りの指やかかとは高く地面から離れます。その結果として地面を速く走ることに優れていますが、指を使った細かい操作などは苦手とされています。このひずめがあり、かつ反芻するものが、きよい動物です。

 反芻(はんすう、rumination)とは、ある種の哺乳類が行う食物の摂取方法で、まず食物(通常は植物)を口で咀嚼し、反芻胃に送って部分的に消化した後、再び口に戻して咀嚼する、という過程を繰り返すことで食物を消化します。一度飲み下した食物を口の中に戻し、かみなおして再び飲み込むことから、よく繰り返し考え、よく味わうことのたとえに用いられています。

 足にひずめがあり、かつ反芻するものは、きよい動物です。ひずめがない動物とは、足の裏がふくらんでいるもので、例えば、犬や猫は足の裏がふくらんでいますが、それは汚れているとされました。そして、反芻しない動物とは、肉食動物のことです。反芻するのは、草食動物だけです。しかし、反芻するもの、あるいはひづめが分かれているもののうちでも、次のものは、食べてはいけませんでした。すなわち、らくだです。これは反芻しますが、そのひづめが分かれていないので、汚れたものです。それから、岩だぬき。これも反芻しますが、そのひづめが分かれていないので、汚れたものでした。また、野うさぎ。これも反芻しますがそのひづめが分かれていないので、汚れたのでした。それに、豚です。これは、ひづめが分かれており、ひづめが完全に割れたものですが、反芻しないので、汚れたものとされました。福音書の中に、イエスさまが悪霊レギオンを豚の群れの中に移された話が出てきますが、彼らは不法なビジネスを行なっていたということが、ここから分かります。

 こうした汚れた動物は食べてはいけないし、その死体にも触れてもいけませんでした。しかし、これらの規定は2節にあるようにイスラエル人に対するものであり、私たちクリスチャンに対するものではありません。むしろ、イエスさまは、すべての食物はきよい、と言われました。また、神はペテロに、「神がきよいと言われたものを、きよくないから食べないと言ってはならない」と言われました。ですから、私たちはこの律法の規定に文字通り従わなければならないということではなく、この律法で言わんとしていることがどういうことなのかを、よく理解しなければなりません。そのことを理解するために、もう少し先を見てみましょう。

2.食べてよい水の中の生き物(9-12)

 次に9~12節までをご覧ください。
「9 水の中にいるすべてのもののうちで、次のものをあなたがたは食べてもよい。すなわち、海でも川でも、水の中にいるもので、ひれとうろこを持つものはすべて、食べてもよい。
10 しかし、海でも川でも、すべて水に群生するもの、またすべて水の中にいる生き物のうち、ひれやうろこのないものはすべて、あなたがたには忌むべきものである。
11 これらはさらにあなたがたには忌むべきものとなるから、それらの肉を少しでも食べてはならない。またそれらの死体を忌むべきものとしなければならない。
12 水の中にいるもので、ひれやうろこのないものはすべて、あなたがたには忌むべきものである。」

 ここには、水の中にいるすべての生き物で食べてよいものと、そうでないものとが区別されています。そして、食べて良いものは、ひれとうろこを持つもの、つまり、鯛やさんまや、普通の魚です。しかし、海でも川でも、すべて水の中にいる生き物のうちで、ひれやうろこのないものは食べてはなりませんでした。うろこやひれがないものと言ったら、かに、うなぎ、貝など、数多くの種類の生き物が該当します。そして、これらは「忌むべきもの」なのです。「忌むべきもの」という言い方は、汚れているよりもさらに強い表現です。イエス様は地引き網のたとえの中で、網にかかった魚のうちで良いものは器に入れ、悪いものは捨てると言われましたが(マタイ13:47-48)、それはこの規定が背景にあったからです。イスラエル人の漁師は、ひれとうろこのあるものを器に入れ、ひれとうろこのないものを捨てたのでした。

 ここで教えられていることも、こうした魚介類を食べてはならないということよりも、このことが指し示していることがどういうことなのをよく理解する必要があります。それを理解するために、もう少し先に話を進めていきたいと思います。

3.鳥のうちで食べてよいもの(13-23)

 次に、13~23節までをご覧ください。
「13 また、鳥のうちで次のものを忌むべきものとしなければならない。これらは忌むべきもので、食べてはならない。すなわち、はげわし、はげたか、黒はげたか、
14 とび、はやぶさの類、
15 烏の類全部、
16 だちょう、よたか、かもめ、たかの類、
17 ふくろう、う、みみずく、
18 白ふくろう、ペリカン、野がん、
19 こうのとり、さぎの類、やつがしら、こうもりなどである。
20 羽があって群生し四つ足で歩き回るものは、あなたがたには忌むべきものである。
21 しかし羽があって群生し四つ足で歩き回るもののうちで、その足のほかにはね足を持ち、それ
で地上を跳びはねるものは、食べてもよい。
22 それらのうち、あなたがたが食べてもよいものは次のとおりである。いなごの類、毛のないいな
ごの類、こおろぎの類、ばったの類である。
23 このほかの、羽があって群生し四つ足のあるものはみな、あなたがたには忌むべきものであ
る。」

 ここには、鳥のうちで忌むべきものはどのようなものかが教えられています。このリストを見ると、忌むべき鳥として上げられているのは、主に猛禽類です。猛禽類とは、他の動物を食べる鳥のことです。そのような鳥は忌むべきものであり、食べてはいけません。しかし、はね足があって、地上を飛びはねるものは、食べてもよいとされていました(20-22)。

 さて、このように地上の動物の中で食べてよいものと汚れているもの、また、水の中の生き物の中で食べてよいものと汚れたもの、空中を飛ぶものの中で食べてよいものと汚れているものの区別を見てきましたが、いったいどのような理由から区別されているのでしょうか。それは衛生的な理由からでありません。確かに、汚れているものとされている動物の中には、例えば、豚などは今でも寄生虫が付いているのでよく焼かなければなりませんが、だからといって、それが区別の理由や根拠になっているのではないのです。

 そこで、この3つに分類された動物について、汚れた動物の共通点を探してみたいと思います。まず第一に、地上の動物は肉食が汚れているとされています。そして、空の鳥では猛禽類(肉食)が、汚れています。なぜでしょうか?それは、その肉に血がついているからです。神が初めに天と地が初めに創造されたとき、人も含め、すべての地上の動物は草食でした。つまり、神は、どの動物も肉を食べないように創造されたのです。実は、イエスさまが再臨されてからの千年王国においても、熊やライオンが草を食べると預言されています(イザヤ11:6-7)。だから、これが理想の状態なのですが、ノアの時代に洪水があってから神は、人に動物を食べてもよい、と言われました。けれども、そこには一つの条件が付いていました。それは、「肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。」(創世9:4)ということでした。これは、律法において定められたことですが、たとえ動物を食べるときにも、いのちを尊重しなければならないということです。したがって、神は生き物のいのちをとても大切にされており、ご自分のかたちに造られた人のいのちは、何物にもまして尊いものとされていることが分かります。

 ですから、イスラエル人が肉食動物を食べないのは、神が人間や生き物を大切にされているように、自分たちも大切にすることの現われなのです。広い意味での暴力をふるわないということでもあります。私たちクリスチャンにとっては、神を畏れかしこんで、相手を自分よりも優れたものとみなし、慎み深く生きることであろうと思われます。高ぶったり、無慈悲になったり、そしったり、陰口を行ったりするとき、私たちは、相手の心を傷をつけ、いわば「血を流す」ようなことをしてしまうのです。けれども、私たちが生きているこの世では、そのような暴力が当たり前のようにまかり通っています。けれども、クリスチャンの間では、決してそのようなことはあってはなりません。そのような価値観から、相手を食い物にし、相手の心を突き刺すような価値観を、いっさい共有してはいけないのです。それを汚れたものとみなし、忌み嫌わなければなりません。
 
 そして、汚れた動物に共通しているもう一つのことは、地上に、あるいは水に、直接、接していることです。地上の動物で、ひづめが割れているものがきよいとされたのは、足が直接、地面に接していないものです。それに対して、足の裏のふくらみで歩くものは、地面に接しているので汚れているとされました。同様に、水の中の生き物でうろこやひれがないものは、直接水に接するので、汚れているとされました。あるいは、水底に接しているものもそうです。四つ足の這うものは、もちろん地面に接していますが、はね足のある者は、基本的に地の上ではねているだけで、這うことはないので、汚れてはいません。つまり、汚れているかどうかは、地に属しているかどうかで区別されていたのです。

 コロサイ人への手紙3章には、こうあります。「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。…ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。(3:1-2,5)」不品行、汚れ、情欲は地に属するものです。そうではなく、クリスチャンは天にあるものを求めなければなりません。
 
 また、ヤコブはこう言っています。「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。…しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。(ヤコブ3:14-17)」

 ねたみや敵対心は地に属しているが、純真、平和、寛容、温順は上からの知恵です。ですから、私たちは、何が汚れているかを見分け、そこから袂(たもと)を分つ決断を、常に行なっていかなければならないのです。パウロは、こう言っています。

「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」(Ⅱコリント6:14~18)

 あなたはどこに属していますか。この地上でしょうか、それとも天でしょうか?私たちは、神の一方的な恵みによってこの世から救い出された者です。ですから、この世に属するものではなく神に属するものとして、自らを聖別しなければなりません。彼らの中から出て行かなければならないのです。食べてよいきよい動物と汚れた動物の区別の規定が意味していたのは、まさにこのことだったのです。